「補償理論[埋め合せ理論]」とは何か−−コメント、および自己訂正・補完−− 安彦一恵 はじめに [001] 藤野氏の論稿は、Ritter一派の「補償理論[埋め合せ理論]」を少なくとも哲学関係においては日本において最初に本格的に紹介したものである。拙稿「ランドスケープの倫理学(一)」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』第45号)において(本稿)筆者も簡単に触れたが、それは非テーマ的であり、かつMarquardに関して解釈上の基本的誤りを含むものであった。したがって氏の論稿は、この拙稿における解釈に対して訂正を迫るものでもある。私としても、その後−−氏からの指摘もあって−−気になっていたところであるので、この機会に訂正しておきたい。しかし同時に、拙稿はいわば〈解釈〉を後回しにして〈評価〉を先行させてしまったものでもあるが、ここで藤野氏の正しい紹介を得たとして、その上でなお〈評価〉しなければならないと我々は考える。 一 自己訂正 [101] 拙稿の問題の箇所は、80頁左側の「......Ritterと或る意味では近代の同じ事態を見つめながら、しかし「補償」という考え方を批判して次のように述べている。」と、それに続く引用文 近代における現実の脱魔術化は、美的なもののもつ代償としての魅惑の特殊近代的な形成によって補償される。あるいはこうも言えようが、近代における世界の人工化は、人の手が加わっていない景観というものの特殊近代的な発見と神格化や、エコロジカルな意識を含む自然感覚の発達によって補償される。またこうも言えようが、近代における物質化と現実変化のテンポの増加とによる伝統喪失は、歴史感覚の特殊近代的な成立によって、したがって例えば博物館と精神諸科学の誕生によって補償される。......哲学的人間学は[このような]新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する。(Apologie des Zufaelligen,Reclam1986,27ff.) 中の筆者補筆部分「[このような]」である。 [102] まず(今回は)正確を期すために、「......補償される。」に続く省略した部分を訳出したい。 これらすべてのこと、そしてこれ以外にも多くのことが在るが、それらは、次のことを示している。すなわち、人間の補償哲学は現在、人間的なものの補償理論において至る所で継続している、ということである。私はこう強調したかったのだが、このことは、哲学的人間学の近代(modern)および現在の形勢は、近代(neuzeitlich)哲学の弁神論的モティーフの一つである補償思想というかたちにおいて代表的に生じている、ということを確証する。/にもかかわらず、補償思想の元来の弁神論的意味は忘れ去られた。しかしそうではあるが、現在の人間学が弁神論的モティーフを受け入れているということは徹底してそうである。人間学は......それ自身として特殊近代の哲学であるというだけではない。 この後「それは同時に、新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する。......」と続くのだが、拙稿は、「それ」を「哲学的人間学」を受けるものとして解釈しつつ、上記の「このような」という補筆を加えて−−かつ、「その本来性において」という意味を込めて−−「哲学的人間学は[このような]新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する」としたのであるが、それは誤りであって、仮に補筆するとしても正しくは逆に、「このよう《に》*」とすべきである。つまり、「補償」が「反近代へ逃亡する歴史哲学」であるとした拙稿での解釈とは逆に、Marquardは、《「補償」の》「(哲学的)人間学」の《立場で》、「新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対」しているのである。拙稿では、近代のネガティヴな事態から「補償」《というかたちで》「反近代に逃亡」するものとして、Marquardは「補償」という考え方を批判していると解釈したのだが、そうではなくて彼は、「補償」《を含むものとして》近代を把握し、《そうした》近代からの「逃亡」を批判しているのである。拙稿において我々は、Marquardは−−《我々の言う》「〈極端〉な伝統主義者」として−−近代の(通常)ネガティヴ(に見られている)側面との和解を説き、そうした和解が果たせずに「補償」に逃げ込むことを批判していると理解したのだが、Ritterについては「補償」を含むものとして近代と和解したと我々も理解したのだから、MarquardがRitterの弟子であるというところからも、こう(正しく)解釈し直した方がすっきりする。 * 《 》は、その間の語句を強調することを意味する。 [103] しかしながら、Marquardは同時に自らを「懐疑家」として自己規定してもいる。「まさに一人の懐疑家−−私−−が弁神論、したがってとりわけて形而上学的な学問領域(Pensum)を指示しているのだ」と述べて、そして「このことは見掛け上逆説的であるにすぎない」と直ちに語って、拙稿ではごく簡単に要約したところを展開する。すなわち、引き続いて次のように説かれる。 形而上学は、最終解決できない問題をもつ認識論的部門である。そして弁神論は......とりわけてそうである。最終解決できない問題をもつということは、学問論的には腹立たしいことである。しかしそれは、人間的には通常のことである。懐疑家は......人間的な通常性に組して、この学問論的な腹立たしさを忘れる人のことである。懐疑家にとって形而上学−−最終解決しないこと−−は、敵ではなく、人間的なものである。......人間の問題のなかには、それを持たないことが反人間的であり、したがって処世術上の欠陥であるが、それを解決することが超人間的であり、したがって処世術上の欠陥であるものも存在する。この術上の誤りを犯さない懐疑家の術が、形而上学なのである。......問題に少しも解答を与えない者は、結局は問題に負けてしまう。それはよくない。問題にただ一つの解答を与える者は、問題を解決したと思って、容易に独断的となる。これもまたよくない。最もよいのは、実際に解決することなしに、多くの解答を与えることである。...... [104] さて拙稿は、ここに言われる「問題」を、敷衍して「近代の問題」、つまり近代がネガティヴなものをもつという問題として理解したのであるが、それが依然として正しい敷衍であるとして、「補償理論」がその問題への「回答」として提示する肯定的なものは、彼にとって、「ただ一つの[唯一の]」ではなくて、「多くの」うちの一つの「回答」であることになる*。拙稿での全体テーマである「風景」(意識)の問題において言うなら、したがって、その「補償理論」がまさしく「補償物」として挙げる「風景」−−Marquardのタームでは「美的なもののもつ代償としての魅惑」−−は、《単なる》一つの「補償」にすぎないということになる。 * 村上淳一氏は、−−我々の議論のコンテクストに適合的に翻訳して言うなら−−「補償理論」そのものが〈単なる一つの回答〉であると理解されている(『仮想の近代』(東京大学出版会,1992),169)が、我々はこの解釈は採用しない。 [105] これに対してRitterの場合、「美的感覚」はかつての「理論」に代わるものとして一つの真理といったもの(「全体」「神的なもの」を提示するもの)として説かれている。かつて近代以前においては世界はこの「理論」において「コスモス」として把握されていたが、近代においてはもはや「コスモス」ではなくなり、その代わりに「補償」として「美」が成立したというのがRitterの考えである。そして、ここで、やはり失われたものへのノスタルジーが在るというM.SeelのRitter解釈を援用するなら、Ritterにおいて、そうした「理論」に代わるものとして、或る意味で「美的感覚」もまた一つのコスモスの提示である。したがって、「美」が「補償物」であるとして、それは−−「風景としての《自然の》」として−−《失われたもの(「自然」)の》「取り返し」(Subjektivitaet,161)という意味をもつのである。* 我々は、《こうした意味での》「補償」は、−−Marquardの言う、いわばマイナス分をプラス分によって相殺するという意味での(単なる一つの「解答」でしかない)「補償」とは異なって−−やはり近代への反定立であって、《それを》Marquardはむしろ否定しているとして解釈したのである。 * Ritterは例えば、「美的感覚が「理論」の課題を引き受け、それなしでは必然的に滑落していく「全き自然」を風景として現在的に保持する」(161f.)と述べている。 二 補完 [201] 拙稿の誤りをそう弁明できるとして、問題は弁明そのものではなく、MarquardはやはりRitterとは違うのではないかということである。「補償物」を有するものとして「近代」を把握しようとし、かつそれでもなお問題として−−補償仕切れず−−残るものがある場合、多く、現実を−−悪とみて−−根本的に変革しようとする(主観的)試みの、その善への志向が結果として生み出したいわば人為的なものであると把握される。いわば、余計なことをするからかえって悪くなるのだという説明である。ハーバマスは「リッターの新保守主義的な弟子たち」は基本的にこのような説明を行うと理解する。そして、それに続けて−−ここからがここでは重要なのだが−−次のように語る。 ......。その点では彼らは老ヘーゲルによる批判を繰り返している。......だが、同じ批判を繰り返すといっても、やり方にはイロニーがこもっている。というのも、「現実を批判する連中は主観的にしか考えていない」という批判をしても、それは、「そうした批判者の主観性では、客観性へと形成されているはずの理性を把握できない」というような[(老)ヘーゲル自身の]批判ではもはやないのである。むしろ、現実のあり方を批判する者たちに対して、「そもそも現実は理性的な形態をとりうる」という期待にいまなお出発点を置いていることが間違っているとアイロニカルに非難されるのである。(以上、『近代の哲学的ディスクルス I 』(岩波書店,1990)120) ハーバマスはこのようなかたちで(老)ヘーゲルと、リッターの弟子(つまりMarquard(達))を区別するわけであるが、この区別を含めて、同じ「補償理論」といってもいくつかの形態が存在すると我々は理解する。 [202] しかしながら、事態はそう単純でない。Ritterは、1)論稿「風景」では、かつての「理論」に代わって「詩や芸術」が自然のうちにまさに「風景」(「美」)として「全体」を提示すると考える。また2)論稿「近代社会における精神諸科学の課題」においては、近代の−−市民社会としての−−非歴史性を「補償」するものとして、「歴史的・精神的世界を開示し、現前させる......機関」として−−近代以前には存在しなかった学問の新たなかたちのものとして−−「精神諸科学」を生み出したと考える。そしてこれらに対して、3)『ヘーゲルとフランス革命』では、主として2)に対するかたちで、近代の非歴史性という事態そのものが、「主観性」成立の条件として、まさしく近代固有の歴史性であると捉えられている。 [203] 3)の「主観性」は、1)と関連させて、そこにおいて「詩や芸術」が成立する場であるとも、2)と関連させて、そこにおいて「精神諸科学」が展開される場であるとも了解することができる。しかしそうではあっても、3)の真意は、まさしく非歴史性の事態、換言するなら「分裂」の事態そのものが、そのまま即「統一」である、その意味で、そうした「現実」が「理性的」であるということであろう。実際、 このようにヘーゲルは、この分裂を近代世界とこの世界の意識との形式であると考えている。このように、主観性の立場からも、悟性と悟性の主張する客観的実在という概念の立場からも、主観的にあくまでも信じられ主張される美および真と、物としての有限性とが、絶対に対立し、相互になんの関係もなく疎外されているわけであるが、ヘーゲルは積極的に近代世界の条件の下で、この両者の分裂を、それらが本来持っている統一が歴史的に保存される形式である、と考えている。(邦訳,57) と解釈されている。またMarquardも論稿「懐疑と同意」では、「補償理論」は「Joachim Ritterの哲学の最終の決定的な言葉」では「ない」と理解し(24)、そうした「補償理論」を超えた最終の決定的な主張の紹介として次のように語る。 ヘーゲルの哲学は−−Joachim Ritterはこう主張するのだが−−「分裂」の肯定化である(positivert)。(26)/このように近代世界のJoachim Ritterの哲学は非同一性の哲学、つまり肯定化された分裂の哲学となる。「分裂」は彼の哲学にとって、同時に解決である問題である。つまり、「分裂」が近代世界についての最終の言葉なのである。(26f.)* * ヘーゲル哲学を「分裂」の哲学だとするRitterの議論を紹介した部分をMarquardは次の言葉で結んでいる。「「分裂(Entzweiung)」という表現は数多性を表わす語彙である「二(zwei)」を含んでいる。これは「懐疑(Zweifel)」という表現にも含まれているものである。このことは、懐疑家が−−権力の分割に対する感覚をもって−−肯定化された分裂の哲学の支持者でありうることの根拠を示している。」(27) しかしながらこれは、藤野氏の言い方では「ふざけ」に分類していいところであって、決してRitterの1),2)=MarquardとRitterの3)との相違を解消してしまうものではない。 [204] 3)から見るなら、真理は「補償物」そのもののなかにあるのではなく−−上記引用文中で「主観的にあくまでも信じられ主張される美および真」とは言われているが、それは現実=真理という場合のそれとはいわば次元を異にする−−、そうした「補償物」をまさしく「補償」でしかないものとしてしか含まないという近代の「分裂」のその事態が、そのまま(「分裂」が「主観性」として、その「主観性」の本来の形態である「哲学」の条件であるという意味で、いわば自己言及的にそれを把握する「哲学」において)真理なのである。我々の理解では、ヘーゲル解釈としてはこれが最も妥当なものである。ヘーゲルの場合、近代における「真理」の場(「境位」)はあくまで「哲学」であり、近代において最終的段階に達するその「哲学」において近代の「補償物」として把握される美や精神科学は、決して真理の場ではない。 [205] しかしRitterは同時に、1)2)としては−−2)の場合は(Marquard的に)そうではないとも解しうるが−−、「詩や芸術」「精神諸科学」を真理(の場)として説いており、そしてそのような真理をもってかつて「理論」において把握されていた「真理」に代わるものとしている。このことは、やはり近代に対して−−ここではヘーゲルと異なって−−何分か反定立的なのである。これに対してMarquardは、そうした真理を近代においてはもはや不在であるとし、その真理の不在である近代を、非歴史性という悪しきものを−−真理をもつとしてもいわば減価されたものとしてでしかない−−詩・芸術や精神科学という善きものでもって相殺している一つの世界として肯定するのである。そして彼は、真理を過去にあったとして過去への復帰を説く反動主義(復古主義)と、その真理を未来に展望する進歩主義を、共に批判するのである。 [206] 我々の歴史主義論*を更に展開して言うなら、両者はいわば〈大文字の歴史主義〉である。そして当のヘーゲルも歴史主義である。彼において真理の担い手は世界であるが、それは−−例えば古代哲学においてとは違って−−歴史としての世界である。但しヘーゲルの場合、−−彼はPantragismusとも言われるが−−我々の解釈では、そうした歴史主義を取りながら、もはや過去のようには、そして啓蒙主義(進歩主義)が言うようには未来にも歴史性として真理が実現されないといういわば諦念のうちに、そうした近代の「現実」を、なおそれとの和解として「真理だ」と語ろうとするものである。これに対して、「補償物」としての「精神科学」等のうちに歴史性の保存を−−減価された真理として−−志向するものは、いわば〈小文字の歴史主義〉である。我々の理解では、Marquardはこの〈小文字の歴史主義〉である。 * 「歴史主義について」(DIALOGICA no.3.(electronic journal = http://www.sue.shiga-u.ac.jp/WWW/dept/e_ph/dia/3.html),1997)参照。 [207] 〈大文字の歴史主義〉は換言すれば同一性の哲学である。(Marquardによれば「非同一性の哲学」であるとされるヘーゲルも、「非同一性の哲学」だと言っていいが、そう言うとしてもいわば「非同一性の同一性」の哲学である。)これに対して〈小文字の歴史主義〉は非同一性の哲学であると言ってもいい。そして、そのかぎりでMarquardは、藤野氏も言うようにポストモダン的であると言ってもいい。しかしそれは、氏の言うように「ヘーゲル的に徹底して理性の精神に忠実でありつつ、しかもポスト・モダンでもある」([2203])のでは《ない》と我々は考える。ヘーゲル的であると言えばむしろアドルノの方がそうである。アドルノは、いわば歴史の総体に理性の不在を見、その意味で、この点ではヘーゲルと異なって非-歴史主義であり、その限りで端的に非同一性の立場に立つが、歴史を超えた自然になお大文字の理性を見ている−−その意味で、むしろ《反》-歴史主義と言った方がいいかもしれない−−ように思われる。   [208] 〈小文字の歴史主義〉であるとしても、それはなお歴史主義であって、減価されたかたちでは歴史性になお真理を見ている。そして事実として、《進歩主義的な》〈大文字の歴史主義〉への対立として、過去(からの「由来」という歴史性)を重視するかぎりで、反動主義と親近性をもつ。(しかし、〈小文字の歴史主義〉であって、かつ進歩主義《的》な立場も考えられる。ドイツ的な自由主義は、歴史主義という軸で見るなら、おそらくそういうものであろう。)これに対して、歴史性のうちにそもそも真理を見ない立場もある。すなわち、非-歴史主義である。我々の理解では、アドルノがそうであるが、例えば功利主義も非-歴史主義である。Marquardが批判する「モダニズム」とは、この非-歴史主義ないしは反-歴史主義でもあるのであって、決して進歩主義だけではない。換言するなら、「モダニズム」には二つの相互に基本的に異なるヴァージョンがあるのである。但し、アドルノと功利主義とでは、前者が(なお)理性的であるのに対して、後者がいわば悟性的であるという違いがある。* * 拙稿「ベンサムの(もう一つの)科学主義」(『実践哲学研究』20号,1997)は、ベンサムの功利主義の核心を非-歴史主義として明らかにしたものである。 三 「補償理論[埋め合せ理論]」をどう評価かするか−−勝義のコメント−− [301] 藤野氏の論稿の(一)(二)は、全体としてはそれぞれRitter、Schnaedelbachの「埋め合せ理論」を忠実に要約・紹介するものであるが、一部、あきらかに氏自身のシンパシーを示している。Ritterに関しては[1602][1603]で、「否定の精神」を「ロマン主義への逃避・後退」として、また「安直の業、無責任の精神」として退け、そうした行き方に対して、それこそ現実の哲学である「ヘーゲルの精神」を体現したものとして「埋め合せ理論」を評価する。またMarquardに関しても[2303]-[2305],[2401]-[2404]で、同じく進歩主義を「歴史の一元化」であると断罪するMarquardの批判を受け容れて、「多元主義」を説くものとして「埋め合せ理論」を評価している。そしてこのことは、Ritter一派が何分か「(新)保守主義」であるかぎりで、藤野氏は−−「自分の左翼的条件反射に対して的確なジャブを浴びせられていると感じる」と述べつつ([2101])−−保守に肩入れしている(むしろ「ダウン」してしまってる)と見られることにもなっている*。 * 研究会での口答報告の際には、そのように見られたと氏自身語っていた。 [302] 「多元主義」は藤野氏の元々の立場(の一つ)である*。そうであるから、同じく「多元主義」を説くMarquardを(一部)肯定的に評価することになるのであるが、しかしながら、なぜRitter一派において「多元主義」は「保守主義」−−「保守主義」のタームを別のものを指示するのに使う我々からすれば、むしろ:〈過去主義〉−−と結びつくのか。それはRitter一派が、近代が、過去から未来への方向において、(世界を社会的世界と精神世界とに分けて厳密に言って、その社会的世界において)一元化−−例えば「《世界》資本主義」化として、市場のボーダーレス化として−−の傾向をもつのに対して、過去(「出自[来歴]」)が多元的であると見られるからである。「補償理論」は、この(社会における)「一元化」の悪を精神世界における多元性の善によって相殺できることをもって総体として近代を受け容れ、そのかぎりで(社会を含めて)時代総体を過去に戻そうというかたちの復古主義からは区別されるのであるが、しかし、その精神世界の多元性はあきらかに過去的なものである。論理的には、そこに《新しい》多元性を内容として持ち込むことも可能であるのだが、Ritter一派はそうしない。そこに「保守主義」が出てくるのである。藤野氏としてもここで、「多元主義」の立場で、−−Ritter一派との相違において−−この《新しい》多元性を説くことも可能であろう。 * 藤野寛「多元文化主義・同化ユダヤ人問題・非同一的なもの」(『現代思想』1996年3月号)参照 [303] しかしまた、Ritter一派が(とくに弟子たちが)保守主義と見られるのは、「《新》保守主義」として、近代が(精神世界において)「補償」をもつことを理由として、一応悪とは見つつも社会の現状を肯定してしまうからでもある。因みに、いわゆる「(経済的)新自由主義」は、社会の現状を−−むしろ善と見て−−(補償の必要など説くことなく)端的に肯定するものだが、この〈肯定〉そのものの点ではRitter一派はこれと軌を一にしている。そして、ポストモダニストは、この社会の現状のうちにむしろ逆に−−例えば多様な商品と、その多様な消費というかたちの−−多元性を見、そういうものとして社会の現状を肯定するのであるが、見方は異なっていても〈肯定〉そのものの点では、Ritter一派はこれとも共通している。あるいはさらに、Marquardは社会の現状そのものに多元性を読み取るところまで行っているかもしれない*。 * 論稿「一様性と多様性」では、「技術的一様化」に対して「伝統的、歴史的、美的な多元化による補償」が対置されているが、この他に、「社会的一様化」に対して、「権力分割的、個人主義的多元化による補償」が説かれている。そこでは、まさしくポストモダン的に「他の人たちと別様であること」を保証するものとして近代の社会が肯定的に捉えられている。(Skepsis und Zustimmung,34ff.) [304] (三)で紹介されているSchnaedelbachの「埋め合せ理論」論は、こうした「(新)保守主義」を批判したものである。Ritter一派に対するSchnaedelbachの批判の、更にポイントだけをおさらいするなら、氏が[3211]でまとめられているように、その核心は−−Schnaedelbachは「文化」というタームを使うのだが−−Ritter一派がもっぱら「補償物」としてしかみない「文化」を「批判」の機関としても捉えるというところにある。Ritter一派が近代の現実に悪の存在を認めつつも、「文化」における「善」でもってそれを埋め合せることによって結局悪を承認してしまうのに対して、Schnaedelbachは「文化」のうちにその悪を批判し、それを改めていく機能をみているのである。 [305] そうであるとして次に、Marquardから見るなら、そうした現実批判こそが−−進歩主義として−−「一元化」であるということになるのであるが、藤野氏はそれをも承認するのか。換言して再び問うが、「多元主義」的な現実批判というのはありえないのか。Marquardは現実批判を、いわば近代がまだ十分一元化されていないとして、その一元化をさらに徹底させよと批判するものとして、そういうものとして「近代主義」であると捉えているように思われる。そして、そういう前進的な現実批判の「近代主義」と、いわば後退的な現実批判の「復古主義」との不毛な選択を超えて、近代を「埋め合せ」をもつものとして肯定するという立場を主張しているように思われる。藤野氏は、この〈主張〉の前提となっている〈選択の不毛性〉をも事実認識として承認するのか。 [306] しかしながら、そもそもRitter一派において、なぜ近代は−−「多元」な過去に対する−−「一元」として把握されるのか。例えばポストモダンな−−近代における多様性を肯定する−−「多元主義」の余地がどうして認められていないのであろうか。我々はここで、「一元性」が「非歴史性」と等置されていることに着目したい。本来、一元・多元と歴史性・非歴史性とは別個の範疇であると我々は見ている。そして、ポストモダンが肯定的に評価する近代の多様性とは、いわば「歴史性」の欠如した「多元性」であると見ている。であるからRitter一派は、近代の社会をネガティヴに悪として理解するのである。そこには(多元性はあるが)歴史性が欠けているからである。彼らは実は、歴史性の欠如こそを−−《表現として》は「多元性」の欠如とも語りつつ−−批判しているのである。 [307] 我々の理解では「歴史」とは、−−時間系列でその出来事が捉えられたかぎりでの−−神的なものとしての、(神学的言い方を避けるなら)全体的なものとしての世界のことである。世界を全体的なものとして把握する学が形而上学であるとすれば、形而上学的に把握された世界のことである。そして歴史主義とは、世界を−−一種「信仰」として−−そうしたものとして把握しようとするものである。近代以前においては世界は端的に「全体」であった。自然(的世界)で言うなら、自然は「聖」なる自然であった。それが近代(人の意識)においては「物」となった。(Ritterは、この「物」という悪を埋め合せるものとして「美」が成立したのであって、それは「聖」とは別の、まさしく「物化」を前提として成立する《新たな》現象であると説くのである。)この事態を、世界の歴史化(という全体化)によっていわば疑似神学的に克服しようとして成立してくるのが、それ自身特殊近代のイデオロギーとしての歴史主義であって、それは(もはや神の居なくなった)世界に−−自らが専ら世界を作っていることが明らかになってしまった現実において、その自ら=「人間」を疑似的に神化して一種「人間主義」として−−疑似的な神性を与えようとするものなのである*。したがってまた、世界をそのように全体化するものとして歴史主義は、過去的世界の(時間的)展開を全体化する〈過去主義〉だけでなく、世界の未来(へ)の展開を全体化するヴァージョンをも含むことになる。例えば歴史的進歩法則の存在を仮定するマルクス主義がそうであって、ポパーの場合はむしろこれを−−"Historizismus"として−−歴史主義の核心であるとする。 * 〈疑似的な神性〉を与える(言説)形式が「物語」であることは言うまでもないが、近代における歴史という「物語」はさらに、いわば「人間」を主語とした物語である。 [308] ヘーゲルは、過去を−−近代のこの見方を投影して−−歴史性として把握しつつも、あくまで現在(「近代」)に即して、《その》歴史性が不在となった近代の非歴史性を、その非歴史性そのものをなお近代固有の歴史性と把握しようとする。このヘーゲルにとっては近代世界の《総体》が歴史性なのであるが、Ritter一派は、過去の世界にやはり憧れつつ、そうした過去の歴史性が近代においても《精神世界において(のみ)》保持されているとみなす。これはヘーゲルから見れば後退であって、歴史主義であるとするならいわば〈小文字の歴史主義〉であるのだが、ヘーゲル以外にも近代は〈大文字の歴史主義〉の諸形態を有している。すなわち、「反動主義」と「進歩主義」である。特にMarquardには、〈小文字の歴史主義〉としてこの〈大文字の歴史主義〉を批判するところが顕著である。 [309] 藤野氏はMarquardの文体は「軽い」と言っているが([2101])、あるいは彼の思想はまさに〈軽さ〉の思想であって、そこから〈大文字の歴史主義〉の〈重さ〉を批判しているのかもしれない。彼の論稿の一つに「負担解除(Entlastung)」というタイトルのものがある。Marquardはこの「反動主義」「進歩主義」の、近代の現実から過剰に欠陥を読み取り、その克服という「負担」を過剰に背負い込もうとする傾向を批判している。彼が言う「懐疑家」の精神は、この「負担」の「解除」の精神でもある。拙稿でも言及した村上淳一氏は、こうした精神を「人文主義」*と捉えている(前掲書,170)。 * ここから言うなら、Marquardはエラスムスに、「反動主義」は(農民戦争以降の)ルター、「急進主義」はT.ミュンツァーに擬えることもできよう。 [310] ここからMarquardはやはり現状肯定主義だと見られることにもなるのだが、〈重さ〉の批判は同時に−−ポジティヴに評価するなら−−実は「(現実)逃避」の批判でもありえる。〈重さ〉のイデオロギーは、その機能において実は現実逃避でもあるのである。しかし我々の見方では、そのイデオロギー性は−−いわば(疑似)神学性として−−歴史主義にあるのであって、そうであるから〈小文字の歴史主義〉も何分か現実逃避である。実際Marquardは、「精神科学は、ただもう即物的でしかなくなり、ただもう進歩の歴史の場でしかなくなってしまった世界からの《亡命》を支援する」([2303]参照)としてそのことを認めている。しかしまた、〈大文字の歴史主義〉が−−例えばSchnaedelbachのような?−−「進歩主義」として、ここを突いてRitter一派を現実逃避だとして批判するとき、批判の在り方によっては、その批判は実は自己批判をも含意してしまっているのである。そして、これがやっかいなのは、まさに機能上現実《逃避》であるところが逆に現実《関与》として(自己欺瞞的に)意識=錯覚されていることである。* 「[現実]否定の精神」の「強調」が「安直の業、無責任の精神」であるという批判([1602])は、したがって例えば歴史主義的ラディカリズムの非現実性(だけ)ではなく、その〈欺瞞性〉への批判としても語られるべきであろう。(これに対して、同じくラディカリズムであるアドルノは、私見では反-歴史主義であって、同じく−−美への−−現実逃避だとしても、この〈欺瞞性〉からは免れている。「モダニストだ」([3206])という正しいアドルノ理解は、さらに(歴史主義的「進歩主義」とは別の)もうひとつのヴァージョンとして理解さるべきであって、彼の「美的批判」を例えばハーバマス流に現実批判に繋げていく場合、それが−−Schnaedelbachのように−−歴史主義に回収されてしまわないことが肝要なのである。因みにベンヤミンもこの〈もうひとつのヴァージョン〉に属するものであって、彼は明確に歴史主義的進歩主義を退けている。) * 現実批判が現実逃避であるというのは−−それはあくまで《歴史主義的》現実批判についてだけ言えることであるが−−理解の困難を伴うかもしれない。現実批判が急進的であって現実性に乏しいというところから、それがいわば〈口先〉だけに留まると言っているのではない。そうではなくて、むしろ逆に〈口先〉だけに留まらないときも、まさにその世界への−−疑似神学的−−構えによって、世界を現実とは別のものに仮構(し、その仮構体との一体化という或る種の和解を無意識には志向)するからである。Marquardの「負担解除」の論そのものと関連づけるなら、人間というのは通常それほど「負担」に耐えうる存在ではなく、過剰に負担を背負い込むときそこに−−歴史主義として−−(欺瞞的に)負担解除するメカニズムを伴ってしまう、と言うこともできよう。 [311] この〈軽さ〉・〈重さ〉は、政治的な意味での保守・革新とは本来重なるものでない。しかるに、〈軽い〉ことをもって〈保守〉だとする批判が多く見られる。(そして、〈重い〉ことをもって−−実は内容的に〈過去主義〉的であっても−−〈革新〉的だと主張されるときさえある。)藤野氏も、〈軽さ〉の肯定が〈保守〉だという(誤った)印象を与えているのかもしれない。(〈小文字の歴史主義〉をも放棄して)〈軽さ〉の極致を行くポストモダニズムが保守であるか革新であるかよくわからないのも、この両範疇が無関係であることと、にもかかわらず混同されていることに原因する。* ** * 例の「自由主義史観」派のメンバーに「元左翼」が居る−−有名な藤岡信勝氏以外にも居るそうである−−というのは、この〈重さ〉の思想としては「進歩主義」は「反動主義」と同質であるからでもある。 ** 藤野氏が指摘される([2101])ようにニーチェが「軽やかさの標榜にもかかわらず......[である]」というのは、ニーチェにはヘーゲル的なところもあるからである。因みに、ここを強く見ればニーチェは〈大文字の歴史主義者〉と解釈することも可能であり、「軽さ」を強くみればポストモダニストである。 [312] 藤野氏が自分に対する「ジャブ」だと感じているのは、実は−−保守主義的言説といったものではなく−−この〈軽さ〉のことではなかろうか。氏の「多元主義」は、(例えばCh.Taylor的な)小数派エスニック・グループの文化の擁護を基本モティーフとする。これは、「進歩主義」の主張の一部で《も》ある。氏への「ジャブ」は、この多元主義的《進歩主義》の〈重さ〉に対する〈軽さ〉の「ジャブ」で実はあるのではなかろうか。であるならば、多元主義そのものが守るべきものであるなら−−保守性・革新性と本来無関係であるので−−「左翼」性を保持するために「ジャブだからダウンしない」、と言う必要はないのであって、《その意味では》「ダウン」してしまっていいのではなかろうか。* * 本稿は基本的にコメント(および自己訂正)であって、自己主張をするものでないが、ここで一点だけ、《実質的に》「保守・革新」を語りうるためには、〈重さ〉のヴェールをまず引き剥がしておく必要があるということだけは言っておきたい。 version 1.00 1998/02/12