DIALOGICA 2.92 号 歴史主義について 安彦一恵 はじめに [001] 本号所収の「保守主義・伝統主義・歴史主義−−批評:西部邁『思想の英雄たち』−−」(以下、前稿と略記)において、我々は「歴史主義」についても検討を加えた。しかし、そこではテーマ上、西部の論述に合せて「歴史主義」をかなり限定されたかたちで問題とした。それは、言うとすれば「過去主義」とでも換言できるものである。しかしながら、「歴史主義」は「過去主義」に還元できない。それは、さらに広い含意をもつ。本稿は、この広い意味での「歴史主義」をテーマとして、検討を加えたい。前稿との関連で言うなら、本稿では以下、前稿で「歴史主義」としたものを「過去主義」と表現することになる。 一 歴史学の形成 [101] 「歴史主義」という言葉は実にさまざまな意味で用いられている。「歴史[発展]法則主義」とでも訳しうるポパーの用法(ただし彼はこれを"Historizismus"*と表記)は別としても、一つの価値語として肯定・否定両様の正反対の用法があるだけでなく、その価値表現として用いられる場合を含めて一般に、「現実」のさまざまな側面の言表のために用いられている。したがって、同じものが「歴史主義的」「非-/反-歴史主義的」の両方の性格づけを与えられることになったりもする。例えばヘーゲル哲学がそうである。一般にはヘーゲルは歴史主義者とみなされているが、マイネッケはこれに躊躇いを示している。これに対してクローチェは、まさしくヘーゲルを歴史主義の代表者とみなしている。これは、ヘーゲル理解の違いからくるというより、「歴史主義」概念の違いが原因だとみた方が妥当である。 * 英語では今日では(historismより)historicismの方が標準の表記であるが、これは通常はポパーの用法を指示するためのものではない。実際OED(第二版)でも、これに対応するドイツ語としてHistorismusが挙げられている。 [102] 「歴史主義」という言葉の登場は比較的新しく、ようやく19世紀になってからのことである(厳密には、19世紀の30年代から90年代にかけてのことである(茅野良男『歴史のみかた』紀伊國屋新書,1964,151。同「歴史主義」『哲学雑誌』743号,1960,21 をも参照))*。そしてそれは、これは少し先行するが18世紀における「歴史哲学」の出現や、19世紀の、特にドイツにおける新たな世界観の抬頭、そして20世紀初頭における「歴史科学の基礎づけ」の試みや、この19世紀ドイツの世界観への反省の試みと平行した現象である。ここからみるなら、我々はまず端的に「歴史主義」の核心として「文化主義」「特殊主義」とでも呼べるものを取り出すことができる。 * 柏原啓一によるなら、Werner,K.の1879年の著書が初出であるということだが(高橋/徳永編『歴史の哲学』北樹社,1980,16)、これは厳密には、「この言葉が最初に非難の意味を含めずに用いられたのは....1879年の....の書....であった」(マイネッケ『歴史主義の成立』上、筑摩書房,1976,4)と言うべきであろう。 [103] 「歴史主義」は、再広義にまず現実を「歴史」としてみることを共通に前提とする。これは当然のことであるが、しかし、「歴史」の意味の確定はそう簡単ではない。"natural history"という言い方もあるが−−これは「自然史」と訳すのは誤訳であって、「自然の研究」ぐらいの意味のものである。一般にhistoryは、語源的には「研究」ということを意味する。古代ギリシア語のhistoriaは「知ること」「探求すること」を意味する。(茅野前掲書,18 参照)−−「歴史」は対象的に人間事象に限定される。人間が関わる現実が「歴史」の対象なのである。過去(および同時代)の人間の出来事の記述が「歴史」なのである。しかしながら、古代ギリシアのヘロドトスやトゥキュディデス、古代中国の司馬遷であるなら、その歴史記述はこう規定するだけで十分なのだが、近代歴史学の性格づけとしては、なお欠ける要素がある。それがすなわち「文化」ということである。 [104] 人間事象であっても、ギリシアや、さらにはヘブライにおいても、また中世においても、基本的には、人間の事柄として完結するものではなく、人間を超えて「運命」や(神の)「摂理」に支配されるものとして了解されていた。広義に言うなら「自然」として了解されていたと言ってもいいであろう。「文化」とは、この人間事象が、「自然」から独立に、まさしく《人間の》+事象として了解されたものである。18世紀においてヴィコは、「自然の世界」から「人間の世界」を区別して、それを「人間が作った」ものと規定する。そしてヘルダーはこれを、同じく「自然」と区別して「文化」と呼んでいる。「歴史主義」は、広い意味では、このように現実を「文化」として対象とする考え方を意味する。 + 以下、《  》内は、その部分を強調することを意味する。 [105] この「文化」としての把握と同時に、人間事象は単なる出来事としてではなく、そうした出来事《の過程》として対象化され、その過程そのものが「歴史」と呼ばれることになる。これも同じく18世紀に入ってからのことであり(茅野前掲書,61)、「歴史」という言葉が、「歴史記述」だけでなく、その対象(としての現実過程)をも意味するに至るのも、この18世紀のことである(同,71)。このように現実を一つの過程として把握することも、広い意味での「歴史主義」の特徴の一つである。 [106] 近代の特徴は「信仰」からの「理性」の独立である。人間は近代において理性によって現実の認識をめざすようになる。しかしそれはまずは、自然の認識として始まった。まずは自然の認識だけが理性に基づく「学問scientia」であり、人間事象の認識は、「歴史historia」として、「記憶」に基づくだけの、「学問」の一段下に位置するものでしかなかった。それが体系的になるときは、基本的に古代・中世と同様に信仰によって規定されたものでしかなかった。人間事象について「人間本性」からの説明がなされるときでも、その「本性」による人間事象の展開の説明が結局、「摂理」「運命」等、信仰内容によって根拠づけられている。18世紀ですら、基本的にはそうである(同上,94)。 [107] 但し、18世紀になると、この「人間本性」について「進歩」ということが語られることになる。その限りで、永遠に同一である「自然」に対して、「歴史」は「進歩」によって区別されることにもなる。この歴史の進歩観は、近代固有のものである。ヘブライ起源の一見似た歴史観と同じものではない。ユダヤ−キリスト教的な歴史観では、なるほど歴史は終末に向かって進歩するが、それはいわば神のプログラムによってであって、進歩する人間本性の結果としてではない。そこでは人間本性は同一のままに留まっていると言ってもいい。(因みに、この「進歩」観については、歴史の方が先行する。ダーウィンによって「自然も進歩する」とみられようになるのは19世紀も後半に至ってである。)18世紀において「歴史」の見方、つまり歴史観は進歩史観というかたちをとるのであるが、それは、啓蒙主義やカントもそうであるが、19世紀に入ってヘーゲルの「歴史哲学」において頂点に達する。ここにおいては、表現的にはなおキリスト教的タームが用いられているが、歴史はまさしく「人間本性」(「精神」)の自己展開として、そういう意味で「文化」の展開として体系化されている。 [108] 19世紀に入ると、このような「歴史哲学」の克服として、他方では歴史学の「学問」化が進行する。それは一方では、例えばラムプレヒトのような、自然科学に遅れてであるがすでに学問化を開始していた人間諸科学を用いて、自然科学をモデルとして歴史現象を把握しようという傾向を結果した。しかし他方、歴史現象はやはり人間の現象であって決して自然科学的に純対象化的に把握し切れるものではない。ここに自然科学志向的な歴史学(「自然主義」)に対して、歴史現象固有の認識を求めて(より狭い意味で)「歴史主義」が登場してくることになる。特にドイツにおいては、19世紀の歴史学はこれが主流となっていく。ドイツ歴史学正統派のランケ学派も、歴史主義的である。あるいは、法学や経済学の「歴史学派」を挙げてもいいであろう。 [109] 「歴史主義」登場の要因としては、対象が人間事象、つまり「文化」であるということに加えて、その文化が個別的であるということがある。文化は自然とは異なって普遍的ではなく、諸文化にそれぞれ固有な性格をもつものとして、特殊的である。普遍主義に基づく自然主義ではどうしても文化は捉え切れないという反省のもとに、啓蒙主義に対するロマン主義の批判とも連動して、対象をその個別性において把握すべきであるというかたちで、「特殊主義」という性格をもってより狭い意味で歴史主義が説かれることにもなったのである。しかしながら、これに対しては「相対主義」に陥るという反批判が同時に登場してくることになる。今世紀初頭の「歴史科学の基礎づけ」においては、歴史主義擁護派の立場からは、この相対主義の克服が主要課題となる。トレルチやマイネッケの歴史主義論も、この課題を引き受けたものである。 [110] 「歴史主義」の提唱者・批判者たちはこう見たのであるが、より正確には、人間事象も(あるいはさらに自然事象も)《見方によって》普遍とも特殊ともみることができる。この点から特に新カント派は、歴史を、研究者の方からの「個性記述的」(ヴィンデルバント)「個別化的」(リッケルト)な《方法によって》対象となるものと規定する。新カント派は同時に、「文化」は対象的にそれ自体として「文化」として把握されるのではなく、「文化」がそもそも「文化」であるのは一定の「価値」の実現としてそうなのであるが、何が「価値」であるかは研究者の方からの一種の投影であると考える。従って、この〈投影〉の違いによって、同一の人間事象であっても異なったものとして現れることになる。この点からウェーバーは、(体系としての)「文化科学」の完結性を否定する。人間事象の(体系的)認識は常に新たになされることになるというのである。 [111] このことは同時に、歴史学の強い実践性の自覚をも含意する。歴史は純客観的にではなく、(研究)主体のなんらかの問題意識といったものと相関的に初めて対象となるからである。ここから、自ら歴史に関わる、あるいは関わっていることによって歴史が開示されるという一種弁証法的な関係が指適されることにもなる。ルカーチの『歴史と階級意識』などに、この関係性が先鋭に表われている。一般に今日では、歴史主義はこの一種の実践的主体主義と一体になっている。アイザック・スターンは《現代》の「歴史感覚」を「新しい歴史感覚」として区別しているが(『歴史哲学と価値の問題』岩波書店,1966,3ff.)、それは我々の言うこの実践的主体主義をメルクマールとしている。 [112] しかし同時にこのことは、対象を客観的に認識するという学問理念からみるなら一つの逸脱でもある。客観性を求めて歴史学においても実証主義は有力な傾向となっている。しかしながら、純実証主義的に歴史を認識しようとするなら、出来事の(単なる)記述に留まらざるをえない。したがって、すでにショーペンハウアーが「歴史の体系は存在しない」と説いているように、それでは歴史記述は単なる年代記でしかなくなる。ここに、客観的記述と体系性とのいわばトレード・オフ関係が問題とならざるをえなくなる。それでもなお客観性を保ったまま体系性をもてるとするなら、それは、自らの「主体(観)性」が無自覚に留まっていることでしかない。19世紀は「歴史学の世紀」であったとも語られるが、それは、この「主体(観)性」の事実を深く反省することなく、いわば幸福に、あるいは反省がなされる場合でも、結局は両者の両立可能性があいまいなままに容認されるかたちで学が構想されていたからでもある。それがまた「近代」という時代でもあったのだが、20世紀の現代は、もはやここに留まることはできなかった。フランスのアナール派や、レヴィ=ストロースの構造主義、フーコーのアルケオロジー等は、いずれも「主体」と(対象としての)「歴史」との裂け目を意識して、それぞれ独自の方法意識をもって新たに現実へのアプローチを行なおうとしている。近年のニュー・ヒストリシズムなども、この場合は、この〈裂け目〉のうちにむしろ自由を享受しているようにも見えるが、この無自覚性の暴露という側面をもっている。 二 時間感覚 [201] 「歴史主義」は単に学問の方法に関するものに留まらない。マイネッケは「歴史における個体性と発展に対する感覚」、我々のタームで言うなら、「文化」の特殊性と、その「文化」の進歩「に対する《感覚》」を「歴史主義」と呼んでいるが、「感覚」という、学的意識に先行するいわば前-学的意識のレヴェルで「歴史主義」をテーマとしている。いわば一般的意識として「歴史意識」という形態が主題化されているのである。我々もむしろ、「歴史主義」はこのレヴェルでこそ問題とされなければならないと考える。しかしながら、マイネッケにおいても結局はそうであると言えるのだが、多くは、この「歴史意識」は自明のものとされている、あるいは「歴史」概念を前提に(単に)〈その《歴史の》意識〉くらいの了解がなされるに留まっている。我々が言う「歴史意識」とは、〈そもそもそのもとで現実が「歴史」として意識される意識形態〉のことである。 [202] 橋川文三は論稿「歴史意識の問題」(『橋川文三著作集4』筑摩書房,1985,5)において、このマイネッケの見解を展開して次のように述べている。「それ[歴史意識]は「歴史感覚というか、あるいは歴史経験というか、直接感じ方の問題として、現象の背後にある歴史的厚みを感じる実感」「その実感があるから、物事の歴史的発展が論理的にとらえられ・・・・・・専門化して歴史学にもなる」(加藤周一)という、そういう性質のものにほかならない。つまりそれは「歴史学」はもとより、「歴史的認識」....等々とよばれるすべてのものの根底にあって、それらと関連しながらも、基本的にはそれらと異なる一種の精神的能力のことである。それは、あたかも感性のアプリオリな諸形式が、人間認識の前提として与えられているのと同じように、意識に内在する、ある基本的な様式として考えられるものであろう。したがって、心理的実質に即していえば、それは「感覚」のある作用とも考えることができる。たとえば、マイネッケが、その著作の一つに Vom Geschichtlichen Sinn und vom Sinn der Geschichte と題した場合などは、そこにいわれる「歴史感覚(ジン)」は「歴史の意味(ジン)」を感覚しうる精神作用のことであり、そのまま「歴史意識」と同じ意味で用いられたものである。」 [203] 橋川のこの記述はしかし、表面的にはよく分かったようでいて実はほとんど何も述べていないに等しい。元になっている加藤の「現象の背後にある[ここは「現象の背後に或る」と読んでおく]歴史的厚みを感じる実感」にしても、その「厚みを感じる」とはいかなることなのかが少しも説明されていない。だから加藤は−−冗語的に−−「歴史的」という形容詞を付すのであろうが、それだけであるなら歴史を歴史によって規定するというトートロジーであるに過ぎぬ。「歴史意識」は「歴史」概念を用いずに規定されるのでなければならない。 [204] なるほど加藤−橋川は、「過去意識」の側面から、単なる(知的な)「時間意識」から区別される「時間《感覚》」を捉えてはいる。単なる「過去意識」とは区別された「過去《感覚》」を捉えてはいる。過去が単に知識として意識されるだけの次元を越えて、いわば過去が(「古い」として)感覚される次元を捉えている。これが「歴史意識」だと我々も言ってもいい。しかしながら彼らは、その「過去感覚」について、単に「歴史的」という形容を付して「過去意識」から区別するだけであって、その分析をなんら呈示していないのである。一体「過去」はどのようにして、単なる知識を越えて感覚(実感)されうるのか。 [205] これが、我々が答えなければならない問いであるのだが、前提として、そもそも「過去」とは何であるのかが分析されなければならない。ハイデガーは「博物館に保存されている家具」を例として(『存在と時間』(『世界の名著62』中央公論社)586ff.)、それが現在なお存在しているにもかかわらず「どのような権利でもってわれわれはその存在者を歴史的[つまり過去のもの]と名づけるのか」と問う。そして、まず、それが過去のものであるのは、一定の時間の経過を経ていることに因る「破損」や「虫食」のゆえにでも《なく》、また、もう使われなくなっているということによるのでも《ない》、とする。つまり、単に古くなったものが過去のものであるのでも、当初の用途に使用されていないものが過去のものであるのでもないのである。確かに、古くなっていることは過去のものであるための要件ではあろう。一定の時間を経過していないものについては過去のものとは言えないであろう。しかし我々は明らかに、他のものについては過去のものと呼べるほどの時間が経過しているものについても過去のものと呼ばないものをいくらでももっている。例えば、私の部屋の隅っこに放置されているタイプライターは(パソコン時代の今ではもう)過去のものであるが、私の家のガレージにある、それよりも前に製造された自転者はまだ過去のものではない。だが、後者は、逆に単にまだ(本来の目的のために)「使用」されているから過去のものでないのであろうか。タイプライターであってもまだ使用されていれば過去のものでなくなるのであるのか。「博物館の家具」であっても、(アンティーク家具として)使用することは可能であって、まだ使用されていれば過去のものでなくなるのであろうか。決してそうではない。「家具」は明らかに過去のものである。では、「家具」のうちの何が過去のものとなってしまったのか。 [206] ハイデガーはこれに対して、「それはほかでもない《世界》である」と解答する。「家具」自体の何らかの性質のうちに過去性の要因があるのではなく、その家具が属している「世界」のうちに、その家具が過去のものである要因があるのである。つまり、その家具がかつて属していた世界がもはや存在しないから、家具自身は存在していてもそれは過去のものであるのである。事物の過去性は、それが属していた世界の不在化、(世界そのものがなくなるわけではないので)換言して〈世界の変化〉に基づいているのである。(もちろん、その「家具」を単なる木片として見ているときは事態は異なってくるであろう。その場合、「過去の木片」とみなされたりはしないであろう。その意味で厳密には、「家具」は「家具」《として》見られていることを前提とする。) [207] ハイデガーはさらに、ここから「現存在の時間性」へと分析していくのであるが、我々はこれ以上はフォローできない。基本的には、その論に異議を感じているからである。しかしながら、以上の〈世界の変化〉に至るまでの分析は、卓越した分析として十分受容できる。確かに「過去」とは、一定の時間を経過していることではなく、〈変化する以前の世界に帰属していること〉なのである。ベルクソンのタームを使って言うなら、我々はなんとなく空間化的に時間の経過を考えていて、一定以上の時間の経過があったものが過去のものであるとしているが、これはしかし、実は首尾一貫してそうであるのではない。我々の例で言うなら、タイプライターを昔のものとする程の時間を経過していても、自転車については昔のものとはしていない。もっと古いものを挙げるなら、いまポケットに昭和30年代の10円玉が入っていたが、通常はこれを過去のものとしたりはしない。端的には自然物がそうである。太陽は出来てから約50億年を経過しているが、決して過去のものとはされていない。 [208] 上にベルクソンの名を挙げたが、彼はこの「空間化された時間」を「流れた時間」とも呼び、それから「流れる時間」を区別する。ベルクソンの場合、そしてフッサールにおいてもそうなのだが、物理的時間に対置される意識の時間は実は、この「流れ」の意識である。事物についても、それを流れにおいて知覚する意識のことである。ハイデガーの「博物館の家具」もこのような流れの意識において知覚することがもちろん可能である。しかし、ハイデガーがこの例で、そして我々がいま問題としているのは、そのような〈現在を流れにおいて意識する〉という時間意識のことではなく、〈事物を過去においてあったものとして意識する〉時間意識である。ベルクソン、フッサールにおいてもこれは「記憶」「想起」の意識として分析されてはいるが、その場合は、原初的にその事物を現在として意識しておくことを前提としている。これに対して我々が時間意識として問題としているのは、事物を、最初から過去のものとして知覚する意識のことである。平たく言って、事物について「これは古い」と認知する意識のことである。 [209] さて、世界が変わっていると認知されるから、もはや現在のではない世界に帰属していたものとして「古い」と認知されるのであるが、しかし、加藤−橋川が言っているのは単なる古さの意識ではなくて、さらに古さの《感覚》である。「博物館の家具」について、例えばパンフレットで17世紀のものであると知り、そしてそこで「世界史」の教科書などで知ったことを動員して、我々の20世紀とは異なった世界のものだと意識することによって古いものだと意識することが可能である。しかし、これではまだ、その世界に属する「家具」の古さの《感覚》は出てこない。 [210] 「古さ」の感覚であるならば、なるほど「破損」「虫食」によって与えられる。これらをみて我々は「古い」という感覚をもつことができる。しかし逆に、これらは、適当な処理をほどこすことによって新しいものであっても実現することが可能である。我々は、新しものであっても、そうした特殊な処理をほどこされたものについて「古い」と感覚することが可能である。これは、いわば誤った古さの感覚であって、ハイデガーはそうしたものが過去性を構成するわけではないことを分析したのである。しかしながら、この「破損」「虫食」の事態は、古さの感覚が何らかの《直観に基づく》ということを示してくれている。我々は直観なしには古さを感覚できないのであって、過去についていくら知識をもっていても例えば観念上の17世紀の或る事物について−−たとえ写真等のヴィジュアルな観念であっても*−−「古い」という感覚はもつことができない。「家具」も、それが「博物館」に現存していて、我々がそれをまさに直観するから「古い」という感覚をもちえるのである。 * 但し、厳密にはこう簡単には言えぬ。例えばセピア色にプリントした単色写真など特殊なものは、そこに写ったものを「古い」と感じさせる。しかしこれは、−−或る種の絵画の場合にも同様なことが言えるが−−写真家の主観がいわば作品(写真)に投影されているからである。写真家の「古さ」を感じさせてやろうという意図が(成功的に)働いて、その意図の枠組みのなかで対象(写真に写っているもの)を人々が知覚するからである。 [211] 直観(そのもの)が直ちに古さの感覚を含むというのではもちろんない。新しいものは直観の対象であっても普通は少しも「古い」という感覚をもたらさない。これは当然のことである。では、《どういう》直観の仕方が「古さ」の感覚をもたらすのか。我々は、例えば亡くなった父親からもらった家具であるなら、それを見ることによって古さを感覚することができる。たとえそれが新品同様であってもそうである。それは、生きていた父親との関係におけるその家具の記憶が私のうちに残っていて、それが想起されるからだと考えられる。父親の存在は私にとって大きいものであり、その現在・不在はまさしく〈世界の変化〉をもたらしている。残された家具が(想起を伴って)「古い」と感覚されるのは、この〈世界の変化〉が介在しているからである。いくら前のことであってもまだ生きている父親からもらった家具であるなら、「古い」という感覚は伴われないであろう。しかし、過去は些細なことに即しても可能である。私がいまこの辺り(の第一次稿)を書いているのは1月5日だが、本稿を書き始めたのは12月30日であって、年を越えているわけだが、一般に日数的にはわずか前のことであっても(同一年内の場合と比べて)年が改まると、少しだが過去性が感じられてくる。こういう年月というノミナルなものが関与してくる場合であっても世界は変化しているのであって、そこに古さの感覚が出てくるのだと言いうる。そうであるとして、いま眼前の事物がその直観において古さの感覚を伴うのは、その直観単独においてではなく、そこに同時に(変化以前の世界の)想起が重なってくることによってなのである。 [212] しかしながら、私がいま目の前に見ているが、過去に現在性において(つまり眼前に)知覚したことがなく、したがって想起を伴った直観をもちえないものの場合、つまり平たく言って〈初めて目にするもの〉の場合は、どうなるのか。その場合どのようにして古さの感覚をもちえるのか。ここに「歴史意識」解明の最大の鍵があると我々は考えるのだが、それは恐らく〈異〉の感覚に基づいてであろう。「博物館の家具」も、単に現在において眼前にあるから「古い」と感じられるのではなく、それが我々が普通使っている家具と《異なった》様式のものであるから、−−その異なった様式の廻りには異なった世界が存在する−−「古い」と感じられうるのである。しかし、同時代の家具であっても別の文化圏のものは様式上、我々のものと大きく異なっている場合がある。その場合も同様〈異〉の感覚が与えられる。そして、この場合は通常、古さの感覚が与えられない。これは、(フッサールのタームを借用・転用して言って)いわば(内的)時間化的統握が働いてい《ない》からである。〈異〉の感覚に《さらに》時間化的統握が働くから、物は「古い」と感覚されるのである。しかし、この時間化的統握は、〈異〉の感覚から独立に、それと平行して働くのではなく、いわばそれに触発されて働くのだと見た方が妥当である。だから、未開民族のものや、或る種の民芸品の場合は、逆に同時代のものであっても「古い」という感覚が与えられてしまったりするのである。この場合は時間化的統握が錯誤のかたちで働いているのだが、その錯誤が起こるのは〈異〉の感覚が触発しているからである。 [213] しかしながら、〈異〉の感覚が《必ず》(内的)時間化的統握を触発するわけではない。逆に、実際に過去の古いものであるために異なっている場合でも、同時代の(例えば「異人」の)別の文化のものとして、いわば非-時間化的に統握されるケースもある。かつては、むしろこの方が通常であったとも考えられる。我々の考えでは、(内的)時間化的統握は《近代の》時間意識に固有のものである。アーロン・グレーヴィチは中世の時間概念について「「時」についての《空間的》概念」と表現しているが(『中世文化のカテゴリー』岩波書店,1992,141)、中世(以前)においては、時間は−−近代的な時間概念と異なって−−空間的であって、過去は(現在における)別の場所といったものとして意識されていた。であるから、ダンテについてグレーヴィチが言うように「人類の全歴史が『神曲』の中では共時的に現存している。時は止まり、そのすべて、現在、過去、未来は同時性の内にある」(同,205)ことが可能になるのである*。そうした時間意識を我々はまるで実感できないであろうが、それは我々が近代人であるからである。しかしグレーヴィチによるなら、「現代の時間・空間のカテゴリーは、他の歴史的時代の人々によって知覚・体験された時間・空間との共通点をほんのわずかしか持っていない」のであって、「これらの人々の意識は世界をその共時的・通時的一体性において把握するがゆえに《超時間的》なのであ」り(同,44)、「この意識のシステムにおいては、過去、現在、未来はいわば一平面上に並んでいるのであり、ある意味でそれらは《同時的》である」(45)のである**。これと異なって近代の時間意識は、我々の言う時間化的統握を容易にするような直線的に前に進むという時間の意識である。こうした時間意識の形成には、要因として知識の増加があるのかもしれぬ。過去に関する近代知の圧倒的な蓄積が時間化的統握を一般化しているのかもしれぬ。しかし、また別の要素もあると考えられる。我々はそこにこそ、近代固有の時間意識としての「歴史意識」の本質があると考える。その要素とは、〈同化〉ということである。 * だから、これは「地獄」においてなのだが−−しかし、その地獄における時間のイメージは「ダンテの生きている現世の歴史」(同上,205)が影響を与えている−−「古代を代表する主人公たちが地獄で詩人[ダンテ]と同時代の人たちや詩人のすぐ一代前の人たちと対話する」(同,205)ことが可能となるのである。いわば同一空間内のさまざまな場所にそれそれぞれの時間(帯)が位置していて、それぞれの時間のなかに居る人達が場所を移動してくるというかたちで一堂に会しうるのである。これは、例えば浦島太郎の話でも同じであろう。漁村の人達から見て現在である時間帯の所に、そこから見れば過去である時間帯(その場所は龍宮城である)から浦島太郎が帰ってくるのである。浦島太郎の話は、あるいは、時間の流れはそれぞれの慣性系においてそれぞれ(互いに独立して)存在するとみる相対論的な時間イメージの方により近いかもしれない。しかし、いずれにしても近代的な単一・一方向の時間という時間イメージとは異なっている。 ** ギリシアにおける時間が「循環的」であったとするなら、これと違ってキリスト教中世では、終末に向かう「直線的」な時間が意識されていたのではないか、と恐らく反論されるであろう。しかし再びグレーヴィチによるなら、「キリスト教における「時」がいかに「ベクトル的」[直線的]であったにしても、循環的性格を脱することはできなかった....根本的な変化をこうむったのはその概念だけであった。....地上の歴史も、全体として考えると世界創造とその終末によって作られた枠の中にあり、一回りの循環が成されたことになる(人と世界は造物主のもとに立ち返り、「時」は永遠のもとに戻る)。」(同,156f.)この辺りの記述は難解だが、多分こういうことであろう。中世において時間は、「概念」として知的には直線として観念されえたとしても、実感としては、原初の「永遠」へと立ち《戻る》プロセスであった。しかもそのプロセスは、いわば何世代をも経て、その積み重ねの果てに初めて終点に至るというものではなく、その人その人において完結するものであった。「永遠」は、それ自身時間的に、地上の時間の終結の後に再来するというものではなく、まさしく永遠として非-時間的に、地上の時間的カテゴリーでいうなら常に存在していて、諸個人はこの〈永遠〉に繋がっていたからである。これは、「永遠」をも時間として考えるなら矛盾的であり、そこに、人は死後直ちに天国へ行くのか、終末まで待って、その終末時に復活させられて、そこで初めて天国に行くのか、という見方の相違も出てくるのだとも解しえる。しかしそれはあくまで、「永遠」を時間的なものとして考えところから出てくるものである。 三 歴史意識 [301] 古さの感覚は、〈異〉の一種の〈同化〉であると考えられる。少しく形而上学的に言って、古さの感覚は、〈異〉なるものを時間という《一つのもの》の一様態として、我々もまたその一様態であるところの〈一つのもの〉の一様態として統握されることの結果であると考えられる。加藤−橋川が「歴史的厚み」と表現しているのも、この一種の連続性の感覚のことである。少しく言葉に拘った言い方になるが、「厚み」は「積み重なり」によって出来てくるものであって、この「積み重なり」は単一の場において初めて可能である。そして、連続性が場の単一性*を保証しているのである**。マイネッケは「動的歴史主義の新しい思考方法」を言い表したものとしてゲーテ『詩と真実』から、「過去と現在とがひとつのものになっているという感じ」という言い回しを取り上げている(『歴史的感覚と歴史の意味』創文社,1972、5)。また、例えばドイツの歴史家ヘルマン・ハインペルは『自伝』で、「彼ははじめて古い紙の魔力を感じとった。古フランクの刻印、赤い印爾をみた。そして古き時代を享受したのである。しかしそれはまさに自分の時代であり、別の時代のなかにおける自分の時代、過去のなかの現在、異質なもののなかでの親しいもの、歴史、時、和解せる時間そのものであった。」(阿部謹也『歴史と叙述』人文書院,1985,56より引用)と語っている。これは、我々の言う〈同〉である。〈異〉なるものについて、それを〈異〉なるものとして意識しつつ、しかし、それを時間化的に(単一時間上の)過去のうちに措定し、そのことによってその過去と現在との連続性を《感覚》的に意識する意識の在り方が、「歴史意識」なのである。そしてマイネッケは、この「新しい思考方法」を、「歴史的思考での激変」として「疾風怒涛の時代」に始まったものとする(前掲書,5)。すなわち、「歴史意識」は18世紀後半起源のまさしく近代固有の意識なのである。 * これが可能であるためには、比喩的に空間(全体)を二次元平面で表わすとして時間が、いわば横(他所)に広がっていくというのではなく、縦(つまり同一地点上)に広がっていく必要があるが、それは換言すれば時間がまさしく時間的に前に伸びていくということでもある。喜安朗は『近代の深層を旅する』(平凡社,1996,221)で、これを「時間の大きな枠組みは、人間や社会のさまざまな軌跡を累積しつつ、先へ先へと伸延していくものだという観念」として、その(民衆レヴェルでの)成立を19世紀に見ている。 ** あるいは、そもそも事物・出来事が過去へと流れ去るという意識が、それ自体ですでに〈同〉の意識だとも言える。(おそらく)事実であるのは、消滅した事物・終った出来事は端的に無くなったのであり、過去に流れ去ったとする意識はこの〈無〉をなんとか〈有〉に繋ぎ止めようとするところに出てくるものだとも考えられる。〈無〉の〈有〉化だとするなら、つまり〈同《化》〉ということになる。因みに、これに対して近代以前の時間意識においては、〈永遠〉というものが在って、個体は〈生成−消滅〉のいわば場にあると同時に〈永遠〉の場にもあった。([312]で挙げるプーレの表現で言うなら、個体は前者としては「現にいま存在する」こと、後者としては「真に存在している」ことである。)したがって、そもそも〈有化〉=〈同化〉の必要は存在しなかった。あるいは、より厳密に言うなら、「この世」における〈無化〉は小さな出来事であって、それがあっても〈有〉は直ちに〈永遠〉に回収され、あえて「この世」におけるその〈有化〉を想定する必要はなかった。  しかしながら、〈過去へと流れ去る〉のではなくて〈有から無へと転じる〉のであるなら、〈持続する個体〉の説明がつかなくなるのではなかろうか。近代の時間意識では、比喩を使って言うなら、いわば(通常の回転するものではなく)前へ伸びていくベルト・コンヴェアーという時間(流)の上に物が乗っかていて、その伸びていく先端上にある物が〈現在〉に、先端から置いていかれた物が〈過去〉に在るとイメージされているが、ここでは自然に、〈過去〉の物は(先端からみて)後ろへ流れ去るとイメージされる。そして、〈持続〉は〈先端に在り続けること〉として、その〈長さ〉は〈先端から流れ去った地点までの距離〉としてイメージされる。これに対して、各物体別に時間があるとするのでもなければ、〈有から無への転化〉では(物体別に長さが異なる)〈持続〉の説明が不可能となるのではなかろうか。時間が流れ去るのでなければ、〈持続〉の長さ、それぞれの物体についてそれぞれに在る〈持続〉の長さが、相互の違いについてイメージできないからである。ここに例えばデカルトのような、〈絶えざる創造〉という無理な考え方(ここでは、各個体の〈持続〉はそれぞれの(再)創造の回数として説明されることになる)も出てくるのではなかろうか。−−これに対して我々は、時間をそれ自身〈物〉として考える−−ニュートンの絶対時間はいわば絶対的物差という端的な物である−−から結局〈流れ〉としてイメージせざるをえなくなると見ている。時間は、すでにライプニッツがそう見ているように、〈形式〉と考えればいいのではなかろうか。〈形式〉といっても別にカントのように「主観」の−−厳密に言うなら、結局「現象」という実在の形式となる(「空間」という)「外感」の形式ではなく「内感」の形式という意味での−−〈形式〉である必要はない。要するにノミナルでさえあればいい。こう見ても、出来事(端的には各個体の出現と消滅)間の順序関係さえ言えれば、どれが先に〈持続〉を開始し、また止めるのかの説明がつく。また、〈時計〉−−時間ではない−−という物を使うなら、各〈持続〉間の違いも比較可能である。(但し、このように客観的な時間流を否定するからといって、主観的な時間流をも否定するわけではない。我々も、記憶−想起(および予期)によって主観的な流れが意識されると見ている。)  しかしさらに、これではまだ〈寿命〉という現象の説明がつかないと反論されるかもしれない。特に生命体にはそれぞれの種に固有の〈持続〉期間=〈寿命〉というものがあるが、これは例えば遺伝的プログラムというかたちで長さ(時間)が(情報という一つの〈物〉として)《予め》セットされている(したがって、それはノミナルではありえない)と考えなければ説明がつかないとされるかもしれない。しかしながら、遺伝学の最近の知見に基づくなら、時間プログラムのセッティングなしでも〈寿命〉の説明は可能である。すなわち、〈寿命〉の(相対的)長さは、一定期間存続する細胞のコピー可能性の《回数》によって、しかも回数も、回数自身のプログラミングでなく、遺伝子の(突然)変異の起こりやすさによって、説明可能である。(各細胞が存在している間をいわば幅をもった現在とするなら、この見方は、デカルト流の〈絶えざる創造〉説とも整合化可能である。)また「体内時計」「生物時計」といわれているものについても我々は、時間情報といったものなしでも説明可能であると見ている。 [302] この「新しい思考方法」からみるなら、ハイデガーの「博物館の家具」の「破損」「虫食」に感じられる古さの感覚は、《そのもの》としては、この「歴史意識」における古さの感覚とやはり異なっていることが分かる。前者の場合は、いわば私の時間の流れとの同化が欠如しているのである。そこにおける古さの感覚は例えば、或る(初対面の)人の顔のしわから「この人は老人だ」と知覚されるときの古さであって、それは久しぶりに会った友人の顔をみて「老け《た》な」と知覚されるときの「老け」=古さとは異なっている。後者では、「私もまた老けた」という私の時間の流れとの同化が伴っている。まさしく《実感できる私の時間の流れ》との同化において、対象の時間の流れ=古くなったということが実感されるのである。もちろん初対面の人であっても、この〈同化〉を伴うことができる。むしろ、そうでなければ[212]で分析した初めて見た事物についての古さの感覚も説明できない。しかし論理的には、「破損」「虫食」《そのもの》における古さの感覚は、「老人だ」という知覚同様、一つの別のものとして区別されるべきである。端的には私が若い場合、この老人は「老人《種》」という別の類のものとして(だけ)知覚されるに留まることもありえるからである。 [303] この〈同化〉は、経験的に「感情移入」だと言っても構わない。(マイネッケも例えば「見知らぬ形成物への魂の移入」という言い方をしている(前掲書,61)。)若い人は老人に感情移入できないから、自分とは異なった「老人種」と知覚することになる、とも説明できる。しかしまた、若い人も知的に推論して、その老人における時間の経過=古くなっていることを理解可能である。そしてそれと同様、まさしく古いもの、例えば「博物館の家具」を、そういう知的推論において「古い」と理解することも可能である。しかしながら、これは(単なる「時間意識」ではあっても)「歴史意識」ではない。ここにおいても一種の時間化的統握がなされているのだが、それは言うとするなら《外的》時間化的統握である。上で「内的」という限定を付したのは、これと区別するためである。 [304] 〈同化〉の対象は特定の過去に限定されるときもある。近代のヨーロッパで特に好まれたのは「中世」である。18・9世紀を中心にして「中世主義」という流行があった。ネオ・ゴシックの建物が各地で作られたのもこのためであるが、中世の建築物の「保存」という運動もまさにこの世紀において起こってきた。過去のものを「保存」し、まさにそのことによって直観においてより容易に過去を〈同化〉できるからである。しかし建物はそのままでは崩壊していく。「保存」は何らかの手を加え続けないでは難しい。そこに、どのように手を加えるかということから、19世紀前半には「修復」の考えが主流を占めていく。「修復」とは「改修」に対して、できるだけ原型を保存しようとするものである。(因みに、その際エドワルド・フリーマンは、「中世人は近代人がもつような好古の精神を有したわけではなく、....近代において、中世後期の工人たちが行ったような「破壊的」な増改築の方法は受け入れられない」(藤田治彦『オィリアム・モリス』鹿島出版会,1996,106より引用)として、歴史意識の近代性を確認している。)しかしながらラスキンは、この「修復」に異を唱えた。『建築の七灯』(岩波文庫,1930)ではこう語られている。「それ[復舊]は建物の蒙り得る極端な全部的破壊....破壊されたる物の虚偽の描写を伴える破壊である。」それは、単に真の復旧(修復)といったものが物理的に不可能であるからではない。「私が嚮にその全体のものゝ生命として主張したところのもの、そが工人の手と眼によってのみ與へられるところの精神は、決して呼び戻すことは出来ない」からである。では、どういうかたちで「保存」するのか。建物についてラスキンが重視するのはその「表面」である。そして「表面」についてこう語られる。「その作品の仕上げ全部はその耗り去った半吋の中にあつたのである。....假にその[表面の]精確な模冩は可能であるとしても....その新作品は舊作品より如何程優るところがあるか?舊作品には、それでも、或る生命があった、それが甞つてあったものゝ、それが失つたものゝ或る不可思議な暗示があつた。雨や太陽の作用せる和らかな線に或る甘美さがあつた。」(以上、276)これは我々が別稿でカテゴライズした〈時間性の美学〉であるが、〈同化〉の観点から見るならそれは、(過去の或る特定の時代ではなく)時間そのものとの〈同化〉である。ジンメルはこれを、「古代の作品を手に取るとき、われわれは、それができあがって以来現在に到るまでの時の隔たりを、精神的に支配下に収める」と表現している。そしてそれは、同じくジンメルが「廃墟−−この、過去を現在化させる形式の高揚と充足の最たるもの」と言うように(以上、『ジンメル著作集7』白水社,1976,146)、これもまた近代の趣味である「廃墟の感傷」において端的に志向されるものである。* * ここからみるなら、ハイデガーが考察の対象とした「破損・虫食」は、「過去」の現前化とはならないとしても、「時間」の現前化だとは言えるかもしれぬ。そして人々は、過去のものを−−《過去の》ものとしてではなく《過去からの》ものとして−−むしろ「破損・虫食」があるからこそ貴重だとみるのかもしれぬ。なぜなら、それらにおいてこそ時間(という〈一つのもの〉)《そのもの》との〈同化〉が可能であるからである。 [305] しかしながら厳密に言うなら、「歴史意識」は〈古くからのもの〉に関してだけのものではない。〈(現在はもう存在しない)昔のもの〉に対しても、さらに〈現在の(新しい)もの〉に対しても可能である。なるほど、その変化への〈同化〉の容易さという点で〈古くからのもの〉は有利な位置をしめている。しかし、〈昔のもの〉〈現在のもの〉に対しても、かつ、それらが自らのうちに変化を含んでいなくても〈同化〉は可能であって、したがってそれらに対して「歴史意識」をもつことが可能である*。それら自体には変化が含まれないとしても、それらを含む一つの(変化)過程−−前者に関しては、その〈昔〉から現在へと続いている過程としての過程**、後者に関しては、〈現在〉から過去へと遡りうる過程としての過程−−のいわば一こまとして了解することによって、その過程性を私の(変化の)時間の流れと〈同化〉することが可能であるからである。 * 例えばヤスパースは、現在の出来事に即して、「歴史意識」を「画期的意識(epochales Bewusstsein)」、すなわち或る出来事をエポック・メーキングなもの=歴史の流れを創っていくものとして認知する意識(平たく言って、出来事をメリ・ハリをもって認知する意識)と規定している(『現代の精神的状況』理想社,1971,13ff.)。樺俊雄は『歴史と歴史主義』(理想社,1967,148f.)で、これを敷衍して次のように述べている。「歴史的意識についてまず第一に言われることは、それが何か時期を区劃して、自己の立つ時代を或る特定の時期と明確に意識することと関連するということである。....少なくとも歴史的意識が十分明確に把握されるためには何か時期を区劃して自己をそのなかの或る特定の時期に属すると考えるような意識が必要である。そのような意識をヤスパースに従って劃期的意識と呼ぶことにするならば、歴史的意識というものは劃期的意識のないところには明確には現われぬと言うことができるであろう。」因みにヤスパースは、このような意識の成立をフランス革命に見ている(同上,15ff.)。 ** 〈昔のもの〉がそれ自身のうちに、或る(過去の)時点から或る(過去の)時点への〈変化〉を−−いわば過去完了的に−−含んでいても、《その》〈変化〉はおそらく〈同化〉の対象となりえないであろう。〈同化〉の対象となりえるのは−−いわば現在完了的に−−現在へと至る〈変化〉であろう。また逆に、未来への〈変化〉であっても、それが《現在》から始まる、あるいは過去から始まって《現在》を通して未来へと繋がるということによって〈同化〉の対象となりうるであろう。 [306] しかしまたこのことは、私の方の〈変化〉を前提とする。私自身が〈変化〉を伴っていないのであるなら、対象の側が変化していても、それへと〈同化〉すべき私の側の関係項が欠如しているからである。ここに−−歴史学が「歴史意識」を前提とするものだとして−−、例えばバートランド・ラッセルが「若いときは数学、壮年期には哲学、老年になって歴史学」という趣旨のことを語ったことも対応している。老年という〈変化〉をより多く含んでいる者の方が「歴史意識」をもちやすいからである。平たくいって、したがって歴史学は、経験を積んだものに相応しい学問だとも言いうるであろう。 [307] 我々の理解では、「歴史意識」の核心は〈同化〉ということにある。対象を私と〈同じ〉とみるところにこそ「歴史意識」の本質がある。〈異〉の感覚を前提に、その〈異〉を同時に〈同〉と感覚するところに、私がその〈現在〉であるところの〈一つのもの〉(〈一つの流れ〉)の〈過去〉として〈異〉を措定することによって〈異〉を〈同化〉するというかたちで「歴史意識」が出てくるのである。論理的には、「異」の「同」の感覚が先であって、「歴史意識」はまさにこの感覚なのである。したがって、厳密にさらに言うなら、単に知的である場合も含めて一つの時間が過去から現在(を経て未来)へと流れているという「時間意識」そのものが、論理的には、〈同化〉に基づいて生じている。一つの時間の流れという「時間意識」が初めから(人間にアプリオリに)あって、そこに加藤−橋川の言う「《歴史的》厚み」が《さらに》感覚されるところに「歴史意識」が生じるというのではなく、一つの時間の流れという(特殊な)「時間意識」そのものが−−他の形態の「時間意識」と異なって−−「同」を含んで「歴史意識」なのであって、単に知的な場合は、そこからの「同」の感覚の捨象という派生形態なのである*。このことは、「その実感があるから、物事の歴史的発展が論理的にとらえられ・・・・・・専門化して歴史学にもなる」という加藤−橋川の言からも、そう見なければならないところである。 * しかしながら、終末へと一方向的に直線的に進む時間というキリスト教的時間も〈一つの時間〉であったのではなかろうか。その意味で中世にも「歴史」があったのではなかろうか。たしかに中世にも「歴史」はあった。しかし、それは《聖なる》時間としてであって、その意味では「自然」でもあった。また、聖なる時間と共に《俗なる》時間もあったが、それは「局地的」(グレーヴィチ前掲書,206)であって、いわば非-歴史であった。因みに、近代の問題としてさらに続けるなら、17(18)世紀以前においては、ニュートンの「絶対的時間」であっても、その基本性格は《聖なる》時間であった(実際彼は、空間と共に時間をいわば神の属性として説いている。空間についてだけだが『光学』では「神の感覚中枢」と呼ばれている)。ただし、神話的内容は取り除かれ、一方向的に直線的に持続する単一の(=絶対的)時間という性格だけが受け継がれている。この意味で、ニュートンにとって物理学とはいわば《聖なる》物理学であった。これに加えて《俗なる》時間もまたそのような直線的時間となるのは18(19)世紀以降である。ここには恐らく、先行していわば実用的時間として成立していた(商業を中心とする)都市的な社会的時間も反映しているであろう。 [308] 歴史主義の基礎づけを行ったディルタイも、その認識論的基礎づけにおいて結局この〈同〉ということに依拠している。彼は、人間存在を「生」と捉え、その「生」の客観化されたもの−−その全体が「歴史」である−−を「生」が認識できるとしているが、その「生」の「歴史性」として人間の〈同〉が、厳密に換言して、他者の客観化態と私との〈同〉が前提されている。もちろん直接には、ディルタイにおける〈同〉は「生」の(=人々の間の)〈同《型》性〉であって、〈同《化》〉のことではない。しかし突き詰めてみるなら、ディルタイは〈同化〉的に〈同型性〉を《想定》したのだと解することができる。 [309] ディルタイの言う「生」は、まず第一に、「自然」から区別された人間の現実を意味する(ボルノー『ディルタイ』未来社,1977,97参照)。我々のタームで言うなら「文化」である。同時に、その現実は単なる出来事ではなく、一つの過程としての現実、すなわち「歴史」である。厳密には、端的に言うなら「生」とは、この過程を主体化的に、つまり一つの主体としてこの過程を担うものとして把握したものである。したがってまた、「生」とは(曖昧には)「歴史」と同義である(同上,99参照)。このようなものとして「生」は端的に「存在」の対極に位置するものである(同上,75参照)。 [310] 「生」は第二に、ディルタイにおいては、例えばヘーゲルの場合とは異なって、「多様」なものであった。その客観化態はあくまで「客観的精神」であって、ヘーゲルにおけるようには決して「絶対的精神」ではなかった。この点ではヘーゲルはまだ18世紀的であって、「理性」が普遍的なものとして歴史の全過程をいわば単一的に貫いていた。これに対してディルタイは19世紀のロマン主義的精神の下で、そうした普遍的理性でもって現実を捉え切ることができるとするには余りに現実の「事実性」を感受していた。そうした理性による現実把握は抽象でしかないことを知っていた。彼が言う「歴史性」は(「存在」の)「普遍性」の反対者の含意をももっていた。−−我々はこの意味で、ディルタイの「生」概念のうちに、より狭い意味での「歴史主義」が表明されていると考える。 [311] しかしながら、なぜ〈同化〉なのか。これは経験的には、いわば人間の自然的素質として、決して意図的なものではない。しかし超越論的にみるなら、「近代」という(特定の)時代の関数でもある。現実に対する近代人固有のいわば〈くせ〉なのである。我々は別稿で、景観について美的景観(普通の語感でいうなら「風景」)として意識することは特殊近代的な現象であることを確認したが、〈同化〉したがって「歴史意識」についても、これと同じような事態が背景にあると考えている。例えばマルクヴァルトはこう言っている。別稿でも引用した箇所であるので一部を示すに留めるが、「近代における現実の脱魔術化は、美的なもののもつ代償としての魅惑の特殊近代的な形成によって補償される。....近代における物質化と現実変化のテンポの増加とによる伝統喪失は、《歴史感覚の特殊近代的な成立》によって....補償される。」(Marquard,O.,Apologie des Zufaelligen, Reclam,1986,27)と語られている。 [312] このマルクヴァルトの論は、残念ながら時間意識の観点からの論にはなっていない。しかし、「補償」という観点は受容すべき観点であると考える。では、時間意識の近代におけるどのような変化が「補償」として歴史意識を生み出したのか。我々はここに、−−時間意識の観点から言って−−個人の固有の時間の成立と、さらに全体の時間からのその疎外といったことを要因として挙げることができる。これは、普通の言葉で言って「孤独」の成立ということである。ジョルジュ・プーレは「17世紀は個人的存在がその孤立を発見した時代である」(『人間的時間の研究』筑摩書房,1969,15)と述べているが、近代において初めて「孤独」という事態が現出するのである。しかし厳密には、プーレはこう言っているが、この「孤《立》」は(ルネサンス期に人々が味わった)「よろこびの感情」を17世紀はまだもっていた。この「よろこびの感情」が別のものに「席をゆず」って、「現にいま存在するという意識と、真に存在しているということとのあいだに、一つの溝が掘られる」(18)、つまり「孤《独》」が成立するのは18世紀である。そして「歴史意識」は、この「孤独」の埋め合せとして成立するのである。〈同化〉とはあくまで〈同《化》〉であって、それは「分離」を前提とする。近代においてこの「分離」が現出するから(ある意味で逆に)〈同化〉が成立するのである*。これに対して中世(以前)においては、人間は初めから全体と一体(〈同〉)であった。例えば、ミハエル・バフチンの言う「グロテスク的肉体」についてグレーヴィチは、「肉体と世界の間のあらゆる境界の破壊、肉体・世界の間の移行の流動性」の意識、これがそうしたイメージを産出するのであるが、そのような「世界感覚は、人間が自然を自らの《我》の延長としてあつかう態度から生れ、個人と社会的グループとの間に生まれる相似た有機的一体性と切り離しがたく結びついている」と述べているが(前掲書,75f.)、これなども我々の見解の傍証となるであろう。 * 因みに上に挙げた「風景」も、別稿で述べたように、「分離」を前提にしてその「同化」というかたちで成立するものである。この「風景」成立との同型性を考えるなら、次の点も言えよう。近代の時間観念は〈一方向的に無限に進む時間〉というものであるが、それは、人々が「無限」に耐えうるようになったということを意味する。かつて時間は有限なものであったが、それは人々がいわば無底とも換言できる「無限」を直視することが出来なかったためとも考えられる。それに対して近代においては、人間の方の拡張に従って、その「無限」にも恐怖を感じることなく対面できるようになったのである。(因みにニュートンにおいても「世界の終末」が語られていて、時間の無限性はまだ貫徹されていない(ジェラルド・ウィットロウ『時間 その性質』法政大学出版会,1993,31f.)。また、周知のとおりパスカルはまだ、「無限」に不安を感ぜざるをえなかった。) [313] では、どういうかたちで〈埋め合せ〉(「補償」)となるのか。中世においては人は「永遠」(神)と一体であったとして、近代を通じて18世紀へと次第にこの一体性を失っていった。それは、一体性を失ったというより、より適切には「永遠」のリアリティが失われていったと言う方がいいものである。近代は「永遠」の喪失に苦しんだのである。しかし近代は同時に、次第に、この「永遠」の代替物を発明していった。そしてそれが「歴史」なのである。それは言うまでもなく、個人の歴史ではなく、一定の集団(「国民」や、さらに人類全体である場合を含む)の歴史である。人は、そういうものとしての歴史を意識することによって、意識として疑似的「永遠」と〈同化〉していったのである。であるから、よく言われるように19世紀において「歴史」は「信仰」であったのである(例えばクローチェは歴史を「教養人の最後の宗教」と呼んでいる。レーヴィット『ある反時代的考察』法政大学出版会,1992,273参照)。アイデンティティ論としてここで、そうした〈同化〉において近代人は自らのアイデンティティの確立を行っていると言ってもいいであろう。19世紀以降に限った場合、「近代」はまさしく「近代国家」(国民国家)の時期と重なるが、それは、この集団−−この場合は「国民」という集団−−との一体化を基盤とするものである。であるから、近代に入って、この一体化を形成するために例えば「記念碑」を建てたり、「歴史的遺産」の保存がなされたりすることが始まるのである。あるいは、歴史学そのものがそのような機能を担っていたと言っていいであろう。例えばユルゲン・コッカが「歴史家の作品に対する世論の関心は増大したのみならず、その力点も変化した。....歴史の別の成果が強調されている。すなわち個人的ならびに集団的なアイデンティティを−−それが少なすぎると言い立てて−−基礎づけるという仕事がそれである。」(『歴史と啓蒙』未来社,1994,26)と語るとき、歴史学とアイデンティティの関係が主題化されている。 四 歴史主義の諸形態 [401] さて「歴史主義」とは、このような「歴史意識」に基づいて、最広義には意識のまさしくそのような在り方を主張するものである。しかしこのことは逆に、そのような意識が「意識」でしかない、厳密に換言して、歴史という「現実」をいわば反映したものではなくて、さまざまに意識されうる「現実」の《一つ》の意識であるにすぎない、という見方の存在を前提とする。「歴史意識」は端的には一つの虚偽意識であるという見方に対して、それを批判するかたちで説かれるものである*。しかしながら、そこにはさまざまな形態がある。極論するなら、単一の「歴史主義」など存在しないと言っても構わない。 * したがって当然、この「歴史主義」も特殊「近代」のイデオロギーだということになる。「近代」を鋭く批判するエリアーデは、このことを明確に述べている。(茅野前掲書,159f.、菅野盾樹「出来事と歴史」(高橋/徳永編前掲書,108ff.)参照) [402] カール・マンハイムは論稿『保守的思考』において、「自由主義」との対比において「保守主義」の特質を分析している。そしてその際、「主義」の相違を「体験(Erleben)」という基底から問題として、その「体験」のレヴェルで、両主義間の「時間体験(Zeiterlebnis)」の相違を明らかにしている。マンハイムは「もろもろの精神形象は孤立した個々ばらばらのものとして〈それ自体〉でとらえられるものではなく、より包括的な全体に補充すること(Ergaenzung)によってはじめてよく把握しうるものである」、換言するなら「なんらかのものが意味をもっているとするならば−−一切の精神的事物の〈存在〉はその有意味性にある−−それが意味するところのものはそれがひとつのある志望する方向の局面、契機として体験されるときにはじめてとらえることができる」(森博訳『保守主義』誠信書房,1958,54)として、その「有意味」化的、「補充」化的体験の相違を「時間体験」の相違として分析している。すなわち「〈進歩的〉思考にとっては、すべての個別的なものがおおむねその究極的意義をそれの前方に、それを越えて横たわっているものから、将来のユートピアまたは存在を越えて浮動する規範から受け取るのにたいし、保守主義的思考にあっては特殊的なものの意味性がその背後に横たわっているものから、過去または萌芽のかたちで、すでに形成されているものから導き出される」(同,55)として、我々の言い方で言って、現在の「諸精神形象」(=文化事象)を、「自由主義」は「規範」(「理念」)の観点から、その規範の実現が「ユートピア」として想定される未来との関連で、「保守主義」はそれら「形象」をそのまま受け入れるという観点から、それら形象がそこから形成されてきた過去との関連で、全体化的に(つまり歴史の一コマとして)体験する、と分析・区別する。 [403] 『イデオロギーとユートピア』では、対象を拡大して、「再洗礼派の熱狂的至福千年説」「自由主義−人道主義」「保守主義」「社会主義−共産主義」(および「ファシズム」)の四(ないし五)類型の区別がなされ、それらについてそれぞれに固有の「時間体験」が挙げられている。 [404] 「至福千年説」とは元々は「キリストを王とする千年間の輝かしい地上の王国が出現する」(『哲学事典』平凡社,1954,730)という考え方であるが、トマス・ミュンツアー等の近代の再洗礼派のもとでは、「抑圧された階層の行動への意欲」と結合して(高橋/徳永訳『世界の名著 68』中央公論社,1979,328。以下ページ数のみ表記)「《熱狂的》至福千年説」として、独自の「時間体験」をもつ。それは、或る面で「神秘主義」と似ている。神秘主義は時間(・空間)を超えたところでの神との直接結合の体験を求めるが、「至福千年説」はこの超越体験を時間の内の「絶対的な現在」(332)という「瞬間」に求めるものである。そこでは、出来事の時間的連続=歴史はいわば流れを断ち切られ、「非歴史的」なものとして「現在」だけが「神聖なもの」(354)とされる。マンハイムによるなら、こうした時間体験は新しいものとしてはバクーニン等の「[急進的]アナーキズム」にも示されている(362)。 [405] 『イデオロギーとユートピア』においても「自由主義−人道主義」「保守主義」は引き続いて、それぞれ未来志向、過去志向的に、現在を、前者は過去を引きづる悪しきもの、後者は−−他の諸傾向と対立するときは、過去を保存する良きものと主張しつつ−−「伝統」として過去から受け継がれてきたものとみなしつつ、時間の流れ=歴史を、前者は過去から現在を通って理念の実現態としての未来へと進歩するもの、後者はいわばそれ自身完結したものとして過去から現在へと自然に生成するものと体験する。 [406] 「社会主義−共産主義」はマンハイムによるなら、或る意味では「自由主義−人道主義」「保守主義」を総合したものである。すなわち、未来志向的という点で前者「自由主義−人道主義」と共通であり、後者「保守主義」とは、歴史の「被制約性」の認識を共有している(361)。「社会主義−共産主義」も「理念」の実現態として未来を考えるが、前者が(特にドイツでは「観念論」的に)「精神的に昇華された形で理念を体験」(360)し、現実に対して「理念」は「規制原理」として働くのみであって、内容的に抽象的に留まるのに対して、「社会主義−共産主義」では「理念」は具体的である。それは歴史を「制約されたもの」と見、その「制約」の内部で「理念」を体験するからである。この点で後者と共通なのだが、しかし後者が「過去」による「制約」と見るのに対して、「社会主義−共産主義」は「社会構造」が「制約」をもたらすと考える(361)。そして、この「社会構造」が「発展」を統御すると考える(361)(これに対して「自由主義−人道主義」の場合は、いわば主意主義的に進歩はあくまで規範(「当為」)としての理念の人間による実現として考えられている)。したがって「社会主義−共産主義」においては歴史は、過去(だけ)については保守主義もそうであったが、全過程について「分化」(分節化)されたものとして体験される(364)。 [407] さて歴史との関わりという点から見るなら、上の四者においては「保守主義」「社会主義−共産主義」「自由主義−人道主義」「熱狂的至福千年説」の順でその程度が高い。したがって前のものの方がより「歴史主義」的だということになる。四番目のもについてははっきりと「非歴史主義」だとされる(344)。マンハイムはそして、この「非歴史主義」の徹底されたものとして−−「無歴史主義」(251)−−「ファシズム」を位置づける。そこでは「歴史が現在という瞬間的状況のうちに解消され」(253)、その瞬間における「直観」に基づく(「直観主義」)「行動」のみが価値をもつ(「行動主義」)とされる。彼によるなら、この傾向はまた、サンディカリズムやボルシェヴィズムにも共有されている。 [408] マンハイムのこの類型化は、元々「政治思想」に焦点を合わせたものだが、その「政治思想」のいわば心理的基底を、かつ時間体験という本質的なものに即して明るみに出したものとして、優れたものである。しかしながら、その「政治思想」にしても、ドイツに即した分析ということもあって、特に功利主義系統の位置づけが困難なものとなっている。そして、このこととも原因を共有するのだが、ファシズムの位置づけについては−−イタリアのファシズムを念頭に置いているということを割り引くとしても−−大きく間違っている。それは、歴史主義の把握がまだ不十分であるからである。 [409] マンハイムは、〈歴史の認識〉ということと〈歴史との一体化〉ということとを−−厳密に換言するなら、〈現実〉とその過程性において一体化するところにそもそも〈現実〉が〈歴史〉として措定されるのであるから、〈現実の認識〉ということと〈現実との一体化〉ということとを−−区別出来ないでいる。この区別によって、〈現実との一体化〉という点では同じく低度であっても、マンハイムの言う(ドイツ的)自由主義が〈現実の認識〉の点でも低度であるのに対して、功利主義系の自由主義はその点では高度である、と特徴づけることができる。またファシズムについても、「直観主義」として〈現実の認識〉の点では低度であるとしても、〈現実との一体化〉の点では高度である、と我々として正しく特徴づけることができる。 [410] この区別から言うなら、「歴史主義」として我々が最も問題としているのは、〈現実との一体化〉である。単なる「時間意識」から「歴史意識」を区別する観点からは、この〈現実との一体化〉によって初めて「歴史」が措定されるからである。「歴史主義」は(現実認識としてではなく)〈現実との一体化〉としてこそ問題とされなければならないのである。しかしながら、事柄はなお複雑であって、この〈現実との一体化〉自体がさらに区別されなければならない。その観点として、(1) 現実のどの層への〈一体化〉か、(2) 現実のどの時間的局面との〈一体化〉か、(3) 現実とのどういう様態の〈一体化〉か、という三点がある。観点(1)からは、現実の具体(的個別)層との〈一体化〉と、抽象(的本質)層との〈一体化〉とを区別できる。(2)からは、現実の過去、現在、未来にそれぞれ有意点を置くもの、およびその差別をもたないものの間の区別が可能である。そして(3)から、〈観想的一体化〉−−これは〈現実の認識〉そのものとは、両立可能ではあるが、カテゴリーとして別である。換言するなら、〈現実〉を観想的に認識し、その〈現実〉に感応するというかたちでの〈一体化〉である−−と、〈実践的一体化〉−−現実に積極的に関わり、その変化にいわば自らの主体性を賭けて参加し、その現実変化のうちに自らを確認するというかたちでの〈一体化〉−−とが区別できる。我々は以下、〈観想的一体化〉を志向するものを〈観想的歴史主義〉、〈実践的一体化〉を志向するものを〈実践的歴史主義〉と呼ぶことにする。* * 橋川が「むしろ「歴史意識」の根底にあるものは、強い決断と実行の志向であることは、そのエスカトロギッシュな起源に関連して、しばしば説明されるところである。それは「今、此処」における主体的決断の内面に深くかかわりをもつ意識の形態である」(前掲書,6)と述べるとき、それは(〈観想的歴史主義〉をも含む)「歴史主義」そのものの説明としては妥当性を欠くが、我々が〈実践的歴史主義〉として下位区分したものをよく言い表している。この箇所を受けて野口武彦は『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫,1993)で、我々の言う〈実践的歴史主義〉こそが「歴史主義」の核心であるとしている。吉田松陰等、幕末の思想家にその典型がみられている。(但し、19世紀ドイツの歴史主義をもそこに入れており、この点で橋川同様の分析の不徹底を示している。)「あとがき」で紹介されている橋川との「橋川氏はものしずかにいった。きみは何のために安保デモに加わっているの。わたしはたぶん、歴史の現場に居合わせたいとか、それを見きわめたいとか答えたにちがいない。氏いわく、「きみ、それが歴史意識だよ。」」というやりとりも、この「歴史主義」を分かりやすく表わしている。 [411] この三種の区別項の組合わせてとして数多くの類型が設定可能である。しかしここでは、マンハイムの分析を基本として、さらに自由主義をドイツ系の(観念論的)自由主義と功利主義的自由主義とに区別し、ファシズムをも含めて六類型について、上の我々の類型マトリクス内でどういう位置を占めるかをまとめておきたい。まず「保守主義」であるが、これはそのうちに多様な形態を含むが、本流は、過去に有意点を置いて現実の具体層と観想的に〈一体化〉しようとするものであろう。このタイプの「歴史主義」を我々は端的に「過去主義」と呼びたい。「自由主義」のドイツ的ヴァージョンは、それ自身のうちに、この点では「保守主義」とよく似たかたちで現実の具体層との〈観想的一体化〉を志向するもの(教養主義・文化主義)や、現実の抽象層との観想的かつ実践的な〈一体化〉を志向するもの(例えばカント)をも含みうる。これに対して功利主義的「自由主義」はおよそ〈一体化〉の志向をもたず、端的に「歴史主義」の外部に位置する。「社会主義」は、(例えば社会工学的な「社会民主主義」において)非-歴史主義的ヴァージョンのものも含みうるが、多くは現在・未来に有意点を置いた現実との観想的かつ実践的な〈一体化〉を本質としてもつであろう。またファシズムは、イタリアに限定するとしても実際には、特に〈実践的一体化〉を志向するものだと考えられる。「至福千年説」は、そのオリジナルな宗教的ヴァージョンの場合は神による現実支配の歴史をも含めるとして、現実の抽象層との〈実践的一体化〉の志向を含んでいるとみるべきである。 [412] 次に、我々の前稿との関連であるが、先に述べたように、そこで言った「歴史主義」は「過去主義」を意味する。別稿「ランドスケープの倫理学(一)」「ベンヤミン『パサージュ論』の解釈について」の場合も同様である。そして前稿では、この意味での「歴史主義」に「現在主義」(モダニズム)を対置したが、それは、いま問題としている広い意味での「歴史主義」であるなら、現実との〈実践的一体化〉を志向するという歴史主義的ヴァージョンのものを含むことができる*。そしてそれは、「ファシズム」と親近的である。端的にはイタリアの「未来派」の場合は、実際にファシズムにコミットした者を含んでいる。 * 現在主義が(そのラディカルなヴァージョンである未来派において)この意味での歴史主義を含むことを、本稿では簡単にマリネッティ『未来派宣言』の次の部分で確認しておく。「《われわれは諸世紀の岬に立っている。》....時間と空間は昨日死んだ。われわれはすでに遍在する永遠の速度を創造したのだから、われわれはすでに絶対のなかで生きている。」(『ユリイカ』1985年12月号,45)因みにマリネッティも自らの未来主義の対立物を意味する語として「過去主義」を用いている(同,191)。  ここでマリネッティに即して、「実践的歴史主義」の過去主義批判と、非-「実践的歴史主義」のそれとの相違を直観的にだが示しておきたい。「彼ら[イタリアの未来派]は、ルーブルを燃やせヴェニスの運河を埋め立てよ、という宣言において、最も過激な過去への否認を表明する。その最も熱の入った理論家フィリッポ・マリネッティの1909年2月の宣言の基本は、博物館や図書館を壊し、「古ぼけた教授、考古学者、旧跡案内人、骨董屋のすえた匂いの懐疽」からこの国を解放するための反-懐古主義の企てであった。」(スティーヴン・カーン『時間の文化史』法政大学出版会,1993,82)これは「歴史主義」を伴っているのだが、これに対して、一見似た次の坂口安吾の言は歴史主義を含んでいない。「伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活事態が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要、必要に応じた欲求を失わないからである。」(『日本文化私観』) [413] ファシズムはしかし、ゲルマン民族を前面に出すナチズムや日本主義を説く日本のファシズムだけでなく、「地中海文明」との連続性を説くに至った限りにおけるイタリアのものを含めて、何らかの「過去主義」を含んでいると考えられる。この点ではファシズムは「保守主義」と親近的である。但し、「保守主義」の「過去主義」がより具体的な層との(観想的)〈一体化〉であるのに対して、「ファシズム」はより抽象的な層との〈一体化〉であるという違いがある。因みに我々のタームを用いて言うなら、福田和也が理解するファシズムは、この抽象が極限にまで進んだもの、その意味で〈虚〉(「非在」)としての歴史との〈一体化〉を志向するものである。 [414] 本稿で言う「保守主義」はあくまでマンハイムのものである。我々は前稿ではこれと区別して「理念的保守主義」というものを別範疇として立てた。これは、現実の具体層との〈観想的一体化〉を志向するものとはなお言えるが、それはマンハイムの言う「保守主義」とは違って、かなり薄い程度のものである。現実との間にかなり「距離」を取ったものであった。但し、〈実践的歴史主義〉を含まないという点で両者は共通である。 五 さまざまな「歴史主義」論 [501] 前稿では、「歴史主義」の対極に位置するものとしてニーチェを挙げた。その場合の「歴史主義」は本稿での表現では「過去主義」であって、実際ニーチェ自身「歴史主義」の語をこの「過去主義」の意味で用いている。ニーチェにおいて「歴史主義」という言葉が出てくる箇所は三箇所である。白水社の邦訳全集で言うと、一つは第I期第11巻566ページである。そこではこう語られる。「十九世紀。....歴史を用いて(これは新しいことだ!!!)証明がなされた。文化(民族!!!)と呼ばれる、大きな生産的な複合体に、人々は夢中になった。研究熱と尊敬感覚の巨大な部分が過去に向けられた。....今やその反動が来たのだ! 最終的には歴史は予期されたものとは違うものを証明した。....ダーウィン。他方で、残存影響および残存感情としての、懐疑的歴史主義。....」第二は、「....われわれはもはや彼ら[カントやヘーゲル]のようには道徳を信じはしないし、したがって、道徳の正当化を示すがための哲学を打ち立ててはならない。批判主義も歴史主義もこの点ではわれわれにとって魅力のないものとなった。」と語られる第II期第9巻216ページである。そして最後に、簡単に「衰退としてのペシミズム−−いかなる所に? 柔弱化として、世界市民的な肌ざわりとして、「すべてを理解すること」および歴史主義として。」と述べられる第II期第10巻103ページである。但し、第二のものは原語ではHistoricismusである。ニュアンスとしても、この第二の用法は他のものと異なっており、「過去主義」という意味合いは薄い。 [502] 「歴史主義」という用語は出てこない−−但し、「歴史主義的」とも訳しうる"historisch"という言葉は使われている−−が、最も主題的に「歴史主義」を批判しているのは『反時代的考察』第二篇として纏められた論稿『生に対する歴史の利害』であろう。この論稿は「ここ数十年来ドイツ人のあいだにはっきり認められるあの強力な歴史主義的な時代傾向」(白水社全集第I期第2巻116)−−それは簡単には「近代的教養」「歴史的感覚・歴史的教養」とも呼ばれる−−を「反時代的」に鋭く告発したものである。ここではより具体的に「歴史主義」が記述されている。例えば「歴史的感覚」に即して、「絶えず新しいもの、いっそう新しいものを求め探さざるをえなくなるのを身近に体験する人....。これとは正反対の感覚、つまり樹木が自分の根に抱く満足感、自分の存在はまったくの恣意や偶然のせいではなく、ある過去からそれを受け継ぐものとして花となり実となって成長してくるものと心得、したがって自分の存在の弁明どころか正当化すらできるという幸福感、これこそ現代人がとりわけ好んで本来の歴史感覚と呼んでいるものなのだ。」(同138)、また「教養」に即して、「戦争や外交行動や商業政策について何ひとつ理解しない若者が政治史の手ほどきを受けるにふさわしいとされる。だが、この若者が歴史を駆け抜けるのと同じように、われら近代人は芸術の展覧会場を駆け抜け、いろいろの音楽会に出かける。なるほど、これとあれとは響きが違うな、とか、これとあれとでは与える効果が違うな、くらいは感じる。だが、こうした異和や不審の感じをますます失い、何ものについても度外れの感歎はせず、遂にはどんなものも感受するようになる−−こういうものがおそらく歴史感覚・歴史教養と呼ばれるのだ。」(同174)と語られている。 [503] これらの引用箇所においてニーチェは、我々のタームで言って、過去の現実(の具体層)との〈観想的一体化〉を志向するものを「歴史主義」と呼び、そうした(静観的)観想主義に対して、まさしく現在主義的な生の実践主義を説く。そしてこれは、再び我々のタームで言って、現実の抽象層との〈実践的一体化〉を志向するものだと見ることも不可能ではない。これはファシズムと似た時間体験であり、ニーチェも或る意味では「歴史主義」だと解することも可能である。ディルタイを批判してニーチェに就くときのハイデガーも、ディルタイ批判において歴史主義そのものを批判したのではなく、「過去主義」を退けて実はこの〈或る意味での歴史主義〉(=〈実践的歴史主義〉)、ファシズムと似た構造の歴史主義を説いたのだと我々はみている。ニーチェに関しては但し、解釈上これは異論が可能であって、ポストモダニズム系のニーチェ解釈はこれとは異なっている。そこではニーチェは〈一体化〉(現実における自己確認)を志向し《ない》と見られている。 [504] ポストモダニズムとは全く傾向を異にするが例えばワルター・シュルツも、ニーチェは単に「生」の利益にならぬ限りで歴史を否定したのではなく、「歴史一般」を否定したと解する。「根本において、ニーチェの理想は、瞬間に安住する非歴史的な人間の理想であり、−−瞬間のうちにのみ幸福がある、とニーチェは言う−−そしてこの人間は行為するとき、良心がないだけではなく、同時に、そしてとりわけ、無知なのである。」(『変貌した世界の哲学3』二玄社,1979,175)しかしながら我々は、これは我々のタームで言って、〈観想的歴史主義〉を否定したことを確認しているだけであって、このニーチェ理解には〈実践的歴史主義〉の否定は少しも含意されていない。であるから、ファシズム的なニーチェ理解の余地があるのである。ニーチェ解釈のポイントは、ニーチェ自身から引用して「もし幸福が、もし幸福をすばやくつかまえることが、なんらかの意味で生きものを生につなぎとめ、たえず生へと駆り立てるものであるとするならば、ことによるとどんな哲学者も、冷笑家のシニズム学派の徒ほどの正しささえ持ちえないかもしれない。というのも、完全なシニズムの徒としての動物の幸福こそ、シニズムの正当さの生きた証明だから。....いつの場合でも幸福をして幸福たらしめるものはただ一つ、それは忘れることができるということ、あるいは....ものごとを非歴史的に感じる能力だ。」(白水社全集第I期第2巻119f.)というかたちで説かれる「幸福」をどう解釈するかに懸かっている。我々のタームで言うと、明らかに(過去の現実との)〈観想的一体化〉を拒否したところに想定されるこの「動物の幸福」が、さらに〈実践的一体化〉をも退けているとみるかどうかに懸かっている。 [505] 今この問題はおくとして、[502]の「絶えず新しいもの、いっそう新しいものを求め探さざるをえなくなるのを身近に体験する人」と「これとは正反対の感覚[の人]」との対立として「モダニズム」と「過去主義」との対立を理解することが可能である。前稿でも言及したマンフレッド・タフーリは、歴史主義と反-歴史主義との対立をほぼこの意味で理解している。彼は、建築史上の歴史主義の代表傾向である「折衷主義」と、モダニズムの前衛である「アヴァンギャルド」とについて例えばこう語る。「歴史の探求と建築の探求との無差別的な同一化と歴史の道具化及びその非生産性とに反撃を加えようとして二○世紀の芸術アヴァンギャルドの行ったこととは、新しい歴史を構築するために歴史を遠ざけることであった。」(『建築のテオリア』朝日出版社,1985,77) [506] しかしながら彼は同時に、アヴァンギャルドのこの新しい歴史性を「タブラ・ラサの上に成り立った歴史性、過去の如何なるしがらみからも自律した歴史性」(同,77)と先鋭化しつつ、我々のタームで言えば〈実践的歴史主義〉という枠組みのなかで、過去主義を、それを批判的にみるときは〈観想的歴史主義〉に傾くものとして、モダニズムを、その〈観想的歴史主義〉を未来志向によって克服しようとするものと理解している。したがって、「折衷主義」が批判されるときは、或る意味で非-歴史主義的なものとして批判されているのである。こうした理解は、「ネオ・リバティ」の傾向−−これは一般的にはポストモダニズムの傾向であるが−−によって試みられた「歴史の回復」=「記憶の価値の回復」について、それは「建築を歴史化するというよりは、むしろ逆にそうした痕跡を絶やす方向にも作用しかねないような記憶をとりこもうとした....。回復されたのは歴史ではなく、情緒であり、ノスタルジー....であった。」(同,128ff.)と語られるとき、より明かとなる。タフーリは、「歴史主義」を〈観想的歴史主義〉として批判し、〈実践的歴史主義〉の復権を説いてるのである。この意味で彼は、イタリア未来派の或る側面を引き継いでいるとも言える。 [507] これに対して同じく建築史に即してドナルド・J・オールセンは、いわば「歴史主義」そのものの観点から、したがって、タフーリが退けた〈観想的歴史主義〉をも含むものとしての「歴史主義」の観点から、「歴史主義」をポジティヴに評価している。「歴史主義」がこう理解される以上、「反-歴史主義」はいかなる歴主義的含意も含まないものとなる。そこで彼が対立軸に置くのは、歴史主義そのものと反-歴史主義そのものとなる。ここから例えば次のように語られることになる。「フランソワーズ・ショエが歴史を、十九世紀の魂を求めて競い合う二つの力のひとつとみなし、他のひとつは、科学と工学ならびにベンサムやフーリエに支配された啓蒙主義の伝統との合成物であるとしたのは正しい。」(『芸術作品としての都市』芸立出版,1992,472) [508] このようなものとしての「歴史主義の論理に内在している信念」として彼は、次のジョン・ベルチャーの主張を引用している。「建築は、その物語を語らなければならない。....建築は、不明確ではあるが美しい思考と感情からなる散文である。ときにそれは人生における平凡な出来事を語る。さらに高揚すると、家庭の平和と幸福について語る。そのうえもっと威厳のある言葉で、人生のより崇高で偉大な目的を宣言する。建築は過去を物語り、現在を記録し、未来への理想をかかげる。」(同,452)但し、この引用文からも明らかなように、オールセンの「歴史主義」は少なからず〈観想的歴史主義〉に傾斜している。そこから、タフーリがいわば〈実践性〉から遠いとして批判した「折衷主義」についても逆に、彼が言う「歴史主義」をまさしく表わすものとして肯定的に評価されることになる。 [509] 少なからず偏向を含むのではあるがオールセンは歴史主義《そのもの》を説いているとみなしうる。この対極に、歴史主義《そのもの》を批判するかたちで例えばヴァレリーが位置する。カール・レーヴィットによるなら、歴史主義を批判する点で、ヴァレリーはニーチェよりさらに過激である。「歴史に注がれるヴァレリーの懐疑的な視線の結果は、きわめて徹底的な、歴史の拒否である。これに比べれば、ニーチェの『人生に対する歴史の利害得失に関する時代はずれの考察』などは無邪気なものである。」(中村志朗訳『ポール・ヴァレリー』未来社,1976,199)しかし我々は、厳密には「さらに過激」というよりは、「過激」というならニーチェは徹底して〈観想的歴史主義〉を批判し、その意味での歴史主義批判はやはりニーチェが最も「過激」であるのであって、ヴァレリーは歴史主義《総体》を批判する点でより徹底的であったとみなすべきだと考える。 [510] 「歴史について」として纏められた部分の冒頭においてこう語られている。「『歴史』は知性の化学が作製したもっとも危険な産物である。....この産物は夢想させる。民衆たちを酔わせ、彼らに贋の追憶を生みつけ、彼らの反射作用を過大にし、彼らの古傷を維持し、休息中の彼らに苦患を味わわせ、彼らを繁栄強大の妄執かあるいは迫害の妄執にみちびき、諸国の国民を手厳しい、驕慢な、我慢のならぬ、虚栄心の強いものにする。/『歴史』は、望みのものを正しいものとする。それは厳密には何ごとも教えない。なぜならそれはすべてを含み、すべてについての実例を教えるからだ。」(『全集12』筑摩書房,1968,30)さまざまのモティーフが含まれているが、批判の核心は、歴史が「虚構」であるということである。そして彼によるなら、「世界の現状では、『歴史』の誘惑に身をまかせる危険は、いつにもまして大である」(同,30)。それは、現代が「類例のないほどの規模の変化」(同)の時代であるからだ。人々は「変化」のなかでいわば見取図を失っいるために「歴史」として現実を「虚構」するのである。こうした「歴史主義」の現代にあってヴァレリーは「現在の徹底的な分析」(レーヴィット前掲書,228から引用。以下同様;ページ数のみ記す)を説く。 [511] ヴァレリーは「虚構」に「科学的・技術的文明」を対置する(208)。それは「再検査の可能な事実に基づいている」からである。しかし直ちにこう語られる。「それにしても問題は、漠然たる観念や虚構に基づかずに、高度に計測可能なかつ検証可能なものに基づく全体的秩序がおよそ存立しうるか、ということである。」そしてさらに「虚構」について、「社会は粗暴から秩序へと向かって発展する。・・・・・・そのためには虚構の力が必要である」(206)として、社会の秩序にとっての「虚構」の不可欠性(205)を言う。ここに成立する「計算された強制的秩序とそれに劣らず耐えがたい無秩序との間、伝承の墨守と伝承を破壊する前進との間のジレンマ」(208)にあってヴァレリーが説くのは、科学と歴史との間の「相対的均衡」(208)である。我々はこれを、前稿で挙げた〈理念的保守主義〉の一典型とみなすことができる。 [512] ここで前稿に関連させることによって本稿を締めくくりへと向かわせるなら、問題は、そうした「相対的均衡」がアイデンティティとして成立するかということである。成立しないから、アイデンティティ確立を求めて「歴史主義」が説かれるのではなかろうか。レーヴィットの解釈をさらに解釈するなら、ヴァレリーを基底的には一つの言ってみれば−−「私の地中海の経験」(235)の−−感覚の形而上学が支えている(邦訳前掲全集第11巻,257ff.参照)。しかしながら、こうしたものが一般性をもちえるであろうか。 [513] プレスナーは『ドイツロマン主義とナチズム』[邦訳タイトル](講談社学術文庫,1955,156ff.)で、我々のタームで言うこのアイデンティティの問題として19世紀末の「歴史主義」−−それはニーチェが言う「歴史主義」として、内容的には「過去主義」であるが−−を主題としている。プレスナーによれば、歴史主義は、「興隆してきた市民階層」の「間に合わせの歴史主義」である。「十九世紀末の三十年間の建築様式と美術工芸はこの国の市民たちの意識の見事な鏡をなしている。不自然なほど急速に経済が向上したため、不釣合に大きな階層の間でそれぞれの趣味に従って新たに家を整えることが可能になり、彼らの生活と意識がそのまま様式に反映したのである。すべての成金階層が伝統に身を隠そうとするにつれ、間に合わせの歴史趣味が生じた。」しかし、なぜ(没落階層ではなく)上昇階層がそうした「歴史趣味」にのめりこんだのか。それは単純な成金趣味とは少しく異なる。プレスナーはこうも分析している。「人間生活にいかなる安らぎも許さず、そこから人間を追い立ててゆく産業の進展、この進展の持つ革命的生活が人間の心に時のはかなさへの思いを呼びさまし、過ぎ去ったものへの後向きの憧憬を生み、歴史主義をも形成した。」これはさらに、マルクヴァルト同様に「補償」だとも説明されている。 [514] しかしそれには、具体的に「新帝国に欠落していた市民的政治的伝統の補償」という限定が付けられている。プレスナーは、「ビスマルク帝国」が「大ドイツ的な統一思想」に「逆らうかたちで」形成されたこと、そしてその国家が「軍人貴族や官僚貴族」によって排他的に担われたものであることに原因するものとして、それから疎外された「市民階層」の「補償」の必要性を説明している。したがって、この時期の特殊ドイツ的な事態に原因が求められているのであり、そこに同時期のイタリアは異なっているという分析が伴われることになる。我々の観点から好意的に一般化するなら、プレスナーはアイデンティティの−−その確立の失敗として「歴史主義」が出てくる−−問題を、市民的公共性の問題として語っていると解釈できる。これは例えばハンナ・アーレントや、近年では「憲法愛国主義」としてハーバマス−−かれの場合は、再びやってきた歴史主義への対抗としてでもある−−が採っている立場でもある。しかしながら、アイデンティティの問題は公共性の問題に局限されるのだろうか。そうではなくて、「公共性」に加えて更に何かが必要なのではなかろうか。あるいは「公共性」なるものはもはや不可能なのであって、そうであるから、ニーチェの言うように「病」であるとしても「歴史主義」が不可避となるのではなかろうか。そして、まだ牧歌的であったともいえる19世紀末と異なって20世紀においては、そうした「過去主義」的歴史主義はもはや不可能であって、そこに過激な歴史主義としてファシズム(そして原理主義)が絶えず待ち構えているのではなかろうか。あるいは事態はそう深刻ではないのであって、ポストモダンのキッチュな「《疑似》歴史主義」が「真正歴史主義」の毒を解毒してくれるのであろうか。そしてそれは、基本的に人々がもはやアイデンティティの確立なるものを求めてい《ない》から可能なのであるが、しかしながら果たしてその通りであるのか。 version 1.01 1997/02/04