日本人の心の原風景 本田 邦夫 はじめに [001] 子供の頃に体験したことは、心に刻まれ、生涯の思い出になっている。故郷の山、父母の愛、竹馬の友との交わり、喜びと悲しみの体験などを、わたしたちは時々思いだし,懐かしく思う。そうしたものは「心の故郷」となって生き続けているのである。同様に、その風土に生きている人たちにも、祖先たちが体験し、育んだものが世代から世代へ伝えられ,民族の心の故郷となって残っているのであろう。時代は移り変わっても、わたしたちは祖先たちと似たような感じ方、考え方、生き方をしている。先だちの本をひもどいてみると、心の故郷に帰ったような安らぎをおぼえるのである。 [002] いったい祖先たちは、いつ、どのような体験をし、何を感じ、考え、生みだし、どのような生き方をしてきたのであろうか。祖先たちは何を大切にし、何を残してくれているのであろうか。今日、それらの遺産にはどのような価値があるのであろうか。 [003] ここに日本人の心の故郷と思われるものをいくつかとりあげ、わたしの心象風景とも重ねて、「日本人の心の原風景」としてスケッチをしてみたい。 一 受容の心 [101] はじめに、日本の自然についてみてみよう。自然は「怖い」というのが、わたしの実感である。がけくずれや山津波による災害の話は、しばしば祖母から聞かされていて、わたしの幼心に恐怖をあたえた。実際、親類の家ががけくずれで埋まり、いとこが亡くなった。中学のときの友人も洪水に流され、あっという間に亡くなった。ときどき襲う台風や地震の被害も大きい。このように、日本の自然は怖いのである。 [102] いっぽう、わたしは子供の頃から、日本は四季の変化に富み、緑の豊かな美しい国であるとか、その気候や水土は稲作に適し、豊かな実りをもたらす「瑞穂の国」であるとか、教えられてきた。じっさい、移ろいゆく四季のさまは年々歳々、日一日と肌身に感じられる。花鳥風月は親しい友となる。 [103] 日本人は、こうした自然の中で生活の仕方を工夫してきた。「文化」は、自然とのかかわり方の所産である。文化(culture)には「栽培」という意味がある。人間は自然に働きかけ、田畑を耕し、米や野菜などを栽培する。人間は 田畑を耕すだけではなく、心をも耕す。自然とかかわり、他の人々とつき合いながら心を養い、みがき、生き方を豊かにするのである。さて、祖先たちは自然とどのようにかかわってきたのであろうか。 [104] ここで、和辻哲郎の『風土−人間学的考察−』に学んでみよう。かれがいう「風土」とは、土地、気候、四季の変化などの自然環境と、そこに住んでいる人々の生き方,考え方,性格などである。かれによれば、日本はモンスーンの影響を受け、夏は暑く湿気が多い。それは、豊かな日光と水を恵み、草木を育て、人間の生を充たしてくれる。だが、暑さと湿気はしばしば大雨、暴風、洪水、干ばつなどをもたらし、生活をおびやかす。ひとは、こうした荒れる自然を受けいれ、耐えなければならない。が、しばらく耐え、待っていれば、やがて自然はおさまり、恵みをもたらしてくれる。こうした自然の中で、日本人は「受容的・忍従的」というあり方を形成したという。 [105] 他の地域ではどうであろうか。砂漠の多い西アジアでは、わずかのオアシスと水と草地を求めて遊牧がおこなわれていた。そこで人々は団結し、自然と戦うというあり方をとるようになった。ヨーロッパでは、湿気は少なく、砂漠もなく、牧草が茂り、自然は人々に従順である。ここでは人々は自然の法則を探求し、合理的な考え方や自然科学を発達させた。これと異なって日本人は、受容的・忍従的というあり方をとるようになったのである。 [106] ところで、「受容」は、自然を受けいれることであり、「忍従」は、苦しみにじっと耐えて従うことである。人間関係についていえば、他のひとの立場を自分の中に受けいれ、ともに喜び悲しみ、辛いことにも耐えていくというあり方である。忍従というあり方は、今はだんだん薄れているように思われるが、やはり、日本人の伝統的なあり方であるのだろう。 [107] しかしながら、日本人は受容的・忍従的であることに甘んじてきたわけではない。受容には「取りこむ」という意味もある。日本人は自然を受けいれながら、上手にみずからの側に取りこんでもいる。米作りもそうである。その他、四季の変化に合わせて生活の仕方を工夫するとか、その季節で一番おいしい野菜や果物を旬のものとして味わうとか、湿気を和らげる木造住宅を建てて住み心地をよくするとかである。生け花や造園にしても、自然の美を上手に取りいれたものである。人間関係においても、日本人は相手の気持ちを受けいれた上で、うまく折り合いをつけながら、信頼関係をつくり、ことを運び、なし遂げていくのである。その知恵はしたたかでさえある。 二 しめやかな情愛 [201] 人々の性格もまた自然の中で形成される。和辻によれば、四季の変化がリズミカルで鮮やかな日本では、人々は周囲の変化に敏感で気分も移り変わり、そのため疲れることも多い。しかし、その疲れを新しい刺激と気分の転換でいやす。人々の感情はゆたかに流れでて、普段はしめやかに続いているが、時には激しく突発的になる。それはひどく反抗的であるかのようである。だが反抗はしつこくはなく、あきらめるのも早い。日本人は戦いでは生に執着するが、その執着のまっただ中において無欲になり、あっさりと生への執着をたちきる。それは桜の花が華やかに咲きそろうが、しつこく咲き続けるのではなく、恬淡に散り去るのと似ている。和辻はこう考え、日本人の性格を「しめやかな激情」と「戦闘的恬淡」として説明している。 [202] 「しめやかさ」と「激情」、「戦闘的」と「恬淡」は、言葉の意味としては矛盾している。が、たがいに矛盾したものが複合しているのがひとの「性格」というものであり,この点からみると、かれの性格描写の仕方は含蓄をもっている。ただし、あきらめが早いという日本人の性格が桜の花が恬淡に散るのと似ているというのは、「人間学」というよりも、むしろ和辻の審美眼と詩的想像力にいろどられた一つの「美学」というべきであろう。 [203] 恋愛について、かれの想像力はさらにたくましい。日本人の恋愛は、まず激情を内に秘めた「しめやかな情愛」として現れ、男女の間のへだてなき結合がめざされる。しかし、恋愛は手段として肉欲を欠くことはできない。そこで、しめやかな情愛は「激情的」になり、肉体を通じて試みられる。だが、その恋がかなえられないとなれば、突如の「あきらめ」になり、恋愛は恬淡に肉体を否定する。それは「情死」にもっとも具体的に現れ、そこでいっそう高い品位を保っているという。 [204] たしかに、恋愛にはしめやかさも激情もある。そして、実らなければあきらめざるをえない。けれども、突如の「あきらめ」とか「情死」になるというのは、そういう例もあることはあるが、それは特別な「恋の美学」であっても、ちょっと極端な話ではないだろうか。 [205] つづいて和辻は、しめやかな情愛を夫婦、親子、兄弟の「間柄」にみる。それは「家」(うち)の「へだてなき間柄」である。カギをかけず、ふすまと障子で仕切られた家屋の構造は、家族の「へだてなき結合」と相互の「信頼」を表現しているという。 [206] このように和辻は、日本の風土に深い思いをよせている。その風土観は日本への愛着と想像力と直観的なひらめきの所産であり,日本人の心の原風景を見る上での示唆を与えてくれる。ただ日本人の性格分析については、いくつかの疑問が残る。日本人の中には、しめやかな激情、戦闘的恬淡という性格タイプのひともいるであろうし、また、そうした性格の一部分は、多かれ少なかれ、みなが思いあたる点もあるだろう。けれども、それが日本人一般の性格であるとか、日本人に特有なものであるとはいえないのではなかろうか。 [207] また、性格は、決定的・固定的なものではない。ひとは、親や周りに人々の影響を受け、みずから新しい経験をし、学び、たえず心を耕し、性格を形成する。同じように、その風土に生きている人々は、伝統的なものを継承し、新しい経験をしながら、性格を作りかえていくのである。 三 おのずから成ること [301] 自然という言葉は「ジネン」とも読む。それには、「おのずからそうなっているさま」「あるがまま」「おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性(たち)」という意味がある(岩波『広辞宛』)。ひとは、何かことがあった場合、「そう成っているのだ」「それはことの成りゆきだ」「そういう年に成ったのだ」などという。たとえば、結婚のときには、「今度結婚することに成りました」とか、就職のときには、「今度就職することに成りました」などと挨拶をする。 [302] わたしは昨年退職したが、辞令には「定年により退職と成る」と書いてあった。それまで何度かもらった辞令は「任命する」「命じる」「委嘱する」などであったが、今度はじめて「成る」であった。退職に成った解放感もあってのことであろう、この年齢まで何とか勤められて、おのずから「成ったのだ」と胸をなでおろした。そして、六十の手習いを始めるなど、これからの成りゆきに思いをはせている。 [303] わたしたちは、このような身の上の出来事から、世の中の動きや歴史の栄枯盛衰にいたるまで、おのずから成ったものとして受けとめる。 [304] ところで、ことの成りゆきがよいことであれば、それをあるがままに受けいれ、率直に喜べる。しかし、成りゆきには、不運な出来事、不条理な被害、心の苦しみなどもある。こうした苦しい成りゆきを、受けいれることは難しい。こうしたとき、ひとは苦しみに心を奪われ、悲嘆にくれる。あるいは、苦しみにさからい、苦しみから逃げようと焦る。そうしたところで、成りゆきはよくなるわけではない。むしろ悪くなるのである。 [305] こうした場合には、どのようにしたらよいのであろうか。ここで、心の苦悩への対応の仕方を考えてみよう。心理療法の一つに「森田療法」というのがあるが、創始者の森田正馬は、苦しみに注意を集中し、とらわれ、それを直そうと「はからう」ことから、心身の病が起こるという。苦悩にとらわれれば、苦悩の色はより濃くなる。それを直そうとはからうほど、症状は悪くなる。ひとは、苦しむ心を自分の力でコントロールすることはできない。それは、自分の身体を自分の力で持ち上げることができないのと同じである。では何ができるのか。かれは「事実唯真」という。事実だけが真実であり、ひとは、苦しみや葛藤を、真実の事実として「あるがまま」に受けいれざるを得ないのである。(『神経質の本態と療法』)。 [306] しかし、受けいれるだけでは、まだポジティブとはいえない。そこで森田は「目的本位」のあり方を求める。勉強とか、仕事とか、自分の目的に向かって自分の身を「行動」に移していくのである。苦しければ苦しいままに、あるがままに、そのときその場で、自分に必要なことを、できることを為す。うまくできなくても、少しでもできたことを大切にする。工夫しながら続ける。すると不思議なもので、だんだん上手にできるようになる。おのずから生命の力が活発に成り、ポジティブな生き方に転じる。 [307] こうした「為す」(成す)プロセスをたどって、自然に流れが変わり、新しい成りゆきが生まれる。つまり、心の苦しみを受けいれ、同時に、目的に向かって、何かを為すことによって、おのずから健康な生活のリズムが生まれる。そのリズムに乗って、心は健康に成るのである。 [308] つぎに、歴史上の出来事についてみてみよう。丸山眞男は、日本人の原体験が語り伝えられている日本神話のドラマに注目し、日本人には、歴史はふだんに「つぎつぎになりゆくいきおい」によって成るという意識があると考えた(『歴史意識の<古層>』)。 [309] 『古事記』の冒頭に、つぎのように書かれている。宇宙の初めにあった混沌としたものから、天と地が分かれ、初めにムスヒ(産霊)の神などが成り、また男神のイザナギ、女神のイザナミが万物を生みだす神と成った。やがて二人が結婚して、日本の国土がつぎつぎに生まれた。 [310] このように日本では、出来事はつぎつぎに成りゆくものとみられていた。丸山によれば、歴史の根底にあって働いているものが「ムスヒ」(産霊)の力である。ムスヒの「産」は生むということ、「霊」は歴史に内在している力である。つまり、ムスヒは、歴史を生長・生成させる霊の力である。栄枯盛衰や新しい時代への変革の動きにも、ムスヒはおのずから、しつように現れて働き、歴史を生長・生成させる。だから、つぎつぎに成りゆくことは、「おのずから」成りゆくことである。 [311] 歴史の生長・生成が、丸山のいうようにムスヒの霊の力によるのかどうかは別にして、歴史には、おのずと成ったと思える節もある。歴史には、時の勢いというものもある。例をあげれば、平家の盛衰、維新の変革、戦後の民主化などは、時の勢いによって、成ったように思われる。 [312] 歴史には、予期できないことや人間の力が及ばないことがある。だが、わたしたちは、ある程度は現状をふまえ、未来への展望を考えることはできる。人々は、いつの時代でも、その時代を身に引き受け、新しい時代を切り開く努力を成してきた。とくに変革の時代には、人々はみずから進んで成す営みに参加した。わたしたちは、歴史の「成りゆき」を受けとめ、しっかり考え、同時に、主体的に「為す」(成す)ことによって、歴史の新しい次元を切り開いていくという望みを持つことができるのであろう。 四 きれいな心 [401] 『古事記』に、次のように語られている。男神のイザナギと女神のイザナミは結婚し、日本の国土をつぎつぎに生んだが、先にイザナミがなくなった。イザナギは妻が恋しくなり、会いたくてよみの国にいき、「現世に帰ってきてほしい」といった。イザナミは「帰りたいのでしばらく待ってほしい、その間、わたしの姿を見てはいけません」といった。しかし、イザナギは待ちきれなくて火をともしてみると、イザナミの体にウジがたかっていた。それで逃げて帰ろうとすると、イザナミは、「わたしに恥をかかせた」といって怒り、よみの国の女に追わせ、自分も追いかけてきた。イザナギはやっと逃げた。 [402] このように死体は汚れる。それが愛する妻であるとはいえ、目をおおいたくなる。それで死体は「ツミ・ケガレ」として忌み嫌われた。だから,ひとが亡くなった時に、家族は一定の日数、忌中として死者のためにつつしむ。死体のほかに、血や病気、汚いもの、醜いもの、むごいもの、生命の生成と高揚を妨げるものは、すべてツミ・ケガレとして忌み嫌らわれた。 [403] その他、田の畦をこわし、水路を埋め、汚いものをまき散らすなど,共同生活のルールを破ることもツミ・ケガレである。また心の持ち方という点では、心に曇りがある「クライ心」、自分の心を隠す「キタナイ心」がツミ・ケガレとされた。そうした心は、他の人々との融合と共同体の和を妨げるがゆえに忌み嫌われた。 [404] しかし、ツミ・ケガレについての罪の意識は、日本では深刻ではなかった。どちらかといえば、日本人は楽天的であった。夫を逃がしたイザナミが、「あなたがこんなことをなさるなら、あなたの国の人々を千人殺す」といったのにたいして、イザナギは、「そうであれば、わたしは一日千五百人生まれるようにしよう」といったが、この話もいかにも楽天的である。ツミ・ケガレも、外部から一時的に身にふりかかり、付着したものにすぎない。だから「みそぎ・はらい」を行えば、ツミ・ケガレは取りのぞけるのである。 [405] よみの国で危険な目にあい、やっとこの世に逃げて帰ったイザナギは、自分はきたない国にいって体がけがれたので、けがれた体をみそいで、清くしようといって、はだかになり、きれいな水で洗った。こうして、ケガレがとれて多くの神々が生まれ、おわりにアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトが生まれた。このように「みそぎ」は川のきれいな水で身を洗い清め,ケガレを水に流すことである。「はらい」は神に祈り、禍を取りのぞく儀式である。こうして、ツミ・ケガレは取りのぞかれ、キタナイ心は清められ、キレイになる。 [406] 『古事記』に「清き明き心」という言葉があり、『万葉集』の歌に「清し」「さやけし」という言葉がでてくる。「清し」とは、川の底までもきれいに見える清流の透明さである。川は、今では排水で汚れているが、以前には清流が流れていたのであろう。山は、聖なる山であり、そこから流れてくる水も清いのである。その清流に身をひたし、心身を清めるのである。「明き」とは、太陽の光が輝くような明るさの感覚である。「さやけし」とは、月の光のような清らかで美しいさまである。 [407] このように、自然も清く明るく、自然の子であるひとの心も清く明るく、きれいである。人々はこう考え、きれいな心で、情けこまやかに交わって生きることを善いこととしていた。 五 共に生きる心 [501] 日本人は心情の純粋さを重んじ、他のひとの立場や気持ちを察して交わる。自分の考えをはっきり語らず、イエス、ノ−もはっきりいわない。「和をもって貴しとなす、さからうことなきを宗とせよ」(聖徳太子)が、古来、モットーとされている。なぜであろうか。 [502] それは「米作り」と関係があるといわれる。米を作るには、田の代かき、田植え、水の確保と管理、収穫、祭りにいたるまで、村人たちの和と協力と、共同体の秩序が不可欠である。和が乱れれば米作りはできない。だから、和を乱す行いは、いろいろな仕方で規制された。そうしたことは、世間への「恥」とされ、世間の非難や嘲笑にさらされた。子供は「恥を知れ」「恥ずかしいことはするな」といって育てられ、世間にたいする恥の意識を身につけてきた。日本の文化は「恥の文化」ともいわれる(ベネデクト『菊と刀』)。 [503] また、村の和を乱すひとは「村八分」にされ、村の異分子としてのけ者にされた。そのようにならないためには、和を大切にし、共同体に順応していかなければならなかった。 [504] 村のリーダーには、私心を離れ、村人たちの心を察し、和を大切にするひとが選ばれた。そうでないと、米作りや村の行事や祭りはスムーズに進められないのである。こうしたことは今日の職場などにもある。仕事のやり手はすぐれたひとではある。でもそれ以上に、人々の気持ちを察し、時には私生活の相談にまでのってくれ、組織の和を大切にしてくれる人物であることがすぐれたリーダーの条件である。 [505] 人間くさい日本の神もまた和を大切にしていた。日本の神は「全知全能の神」でも「唯一神」でもない。日本では「神々」「八百万神」という。神々は、互いに相談をして、ことを運んだり、祭りを行ったりしていた。その後、仏教が伝わったが、人々は仏を神の一つとして受け入れ、神と仏は共存することになった。日本の家庭には仏壇と神棚が共にある。このことは、唯一神への信仰に生きるヨーロッパ人には理解できないらしいが、日本人には違和感はない。 [506] このように日本文化の根には「和の精神」がある。人々は互いに和合し、助け合い、ともに生活していた。こうした伝統のゆえであろう、日本人の感じ方や考え方はよく似ているとか、日本人には集団でまとまって行動する傾向が強いといわれる。ただ、「うち」(家と村)でのまとまりは強さは、「そと」にたいしては閉鎖的・排他的な傾向を助長していた。そとのひとは、「よそ者」であり、「よそ者扱い」にされた。また「旅の恥はかき捨て」というように、そとに出れば、恥ずかしいこともしていたようである。 [507] 今日でも以前の村的なものが、形をかえて他の集団にみられる。たとえば、「うちの学校」「うちの会社」などという言葉は、うちのメンバーには心を開き、うちでまとまる日本人のあり方を示しているといえよう。 [508] わたしは村で生まれ、育まれた。村には、心の絆と共同体の温もりがあったが、古い因習も多く、息苦しいところもあった。だから村を出てほっとした。しかし勝手なもので、今は村の温もりが懐かしくて恋しい。もとの村に帰ることはあり得ないが、わたしは、心の底で村的なものを求めている。 六 祈りの心 [601] 里や山を歩くのが好きなわたしは、道端などにお地蔵さまや神さまが祭られているのをよくみかける。その場所で事故などがあったのか、何かのいわれがあるのか、時には花や食べ物が供えてある。少し人里はなれた森の中には、その土地の氏神を祭った神社がある。また、各地の神社に参拝し、祈願するひとは多い。車の中などには、事故が起こらないようにという祈りの心をこめてであろう、お守りが掛けてある。 [602] さて、神とは何であろうか。ひとはなぜ祭りや祈りを行うのであろうか。本居宣長によれば、神とは、「天地もろもろの神たち、それをまつる社の霊、人、鳥獣木草のたぐい、海山、その他何であれ、すぐれた力をもつものである。また、悪いもの、あやしいものも神である」(『古事記伝』)。 [603] このように自然万物が神であるが、昔の人々は、災厄や不幸を、神霊のたたりのせいにしていた。そこで、たたりをしずめ、加護を求めて、神々を祭り、お供えをし、祈った。また神の社をたてた。それに応えて神もしずまり、幸せをもたらしてくれると信じていた。 [604] こうした祭りや祈りには、人々の喜び、悲しみ、願いなどの心がこめられているように思われる。以下、いくつかの例をあげてみよう。 [605] 古来、祖先の霊は大切にされている。ひとが亡くなれば、霊は肉体からはなれて、しばらくは周囲にとどまる。ひとの死はケガレであり,それゆえ子孫は供養をし,喪に服し,亡くなったひとの冥福を祈る。そのうちに霊は「あの世」に行くが,時の流れの中で一人の霊の個性は消え、自然の生命の中に溶けこんで他の霊と合一し、神や仏になる。それは森の多い山に住みついて、あるいは海の彼方に行って子孫や土地の人たちを見守っている。そして正月や盆には子孫のところに帰り、子孫と交流する。また祖先の霊は「この世」に再び生まれ変わってくると、人々は信じていた。こうした信仰には今は亡き人への思慕や感謝の念がこめられていたのであろう。 [606] また、正月には、祖先の霊と新しい年の年神(穀物の霊)を迎えて、豊作を祈る。家族そろって新しい年を迎えた喜びを語り、一年の計を考える。盆には祖先の霊を迎えてともに語り,食事をし、霊を慰めて送る。さらに、その年の実りの豊かさを祈る「春の祭り」、虫を追い、稲の病気を防ぐ「夏の祭り」、収穫に感謝する「秋の祭り」、おとろえた土地の霊の力の修復を祈る「冬の祭り」など、祭りがとくに米づくりとかかわって行われているのは、日本の稲作社会を反映している。そこには、実りへの願いがこめられていた。 [607] 正月、盆、祭りなどの日は「ハレ」の日である。普段は日々の仕事と単調な生活の「ケ」の日が延々と続く。そのあとにハレの日がやってきて、楽しみ、そして疲れをいやす。互いに家を訪ねて交流を深める。親たちは貧しくとも、ハレの日だけは子供に肩身のせまい思いをさせないように努めた。食事は普段の日は、アワ・ヒエ・ムギなどを食べていたが、ハレの日にはコメの飯を食べた。また赤飯を作って祝った。普段は少ないおかずも、ハレの日には品数が多い。それで「おかず」というようになったという。 [608] 祭りの場から聞こえてくる鐘や太鼓の音は、ひとの心を高揚させる。人々はともに飲食し、歌い、踊り、喜ぶ。こうして楽しみを分かち合うことで、共同体のメンバーは結束をはかった。 [609] あるいは各地には、その土地の氏神を祭った神社と鎮守の森があるが、そこには神が住んでいて、村と村人を守ってくれていると、人々は信じていた。鎮守の森だけでなく、日本では、山々は聖なる山であり、人々は、そには神仏が宿っていると信じ、山を拝み、森林を守ってきた。森林は水を蓄え、浄化し、野鳥を保護し、また、炭酸ガスを吸収し、酸素を供給して、生態系を守ってくれている。森に神が住むとか、聖なる山という考え方は一つの信仰であるが、人々は、こうした信仰で生態系を守ってきたのである。こうしたことは、祖先たちが長い生活経験の中で生みだした知恵である。 七 救いを求める心 [701] 「苦しい時の神だのみ」という。苦しみ、悩みが深ければ、それだけ救いを求める心も切実になる。平安末期から鎌倉初期にかけて、人々は戦乱、飢饉、疫病などで苦しんでいた。そのとき法然は、「ナムアミダブツ」(南無阿弥陀仏)と、ひたすら念仏をとなえるだけで、ひとは区別なく救われると教えた(『一枚起請文』)。 [702] そうであれば、ナムアミダブツとは何であろうか。「ナム」は、帰依、帰命である。「アミダブツ」は、浄土にいて、わたしたちを救ってくださる仏さまである。それは、救いの力、無限の生命、真理、絶対の真実ともいわれる。法然は,こうしたアミダブツに帰依することによって救われるという。 [703] 法然の父は、争いにまきこまれて死んだ。死の前に父は息子に、自分を殺したひとをうらみ、復讐してはいけない、仏の道にはいり、ひとを救うことを考えなさいといって息たえた。法然は比叡山で仏の道を学び、修行し、知恵のすぐれた人物として尊敬されるようになった。でもかれは、悩みを断ち切れず、心は乱れ、どうしたらいいのだろかと悲しんでいた。そのとき、「一心にもっぱらアミダの名を念じよ」という善導の言葉に出合ってさとった。 [704] さて、仏教の教えには、自分の力で知恵を学び、修行にはげみ、戒を守り、善を保つ「聖道門」(自力の道)と、生きとし生けるものを救うアミダの願いに帰命する「浄土門」(他力の道)がある。この二つから、法然は仏のほんとうの道として浄土門を選んだ。次に、浄土門には正行と雑行がある。「正行」は、浄土の教典を読むこと、アミダの姿を心に思うこと、アミダを拝むこと、アミダの名を唱えること、アミダの徳をほめたたえることである。それ以外は「雑行」である。この中で法然は雑行をすてて正行を選び、さらに正行の中でアミダの名を唱える念仏を選び、他はそれを助けるためのものとした。 [705] 法念が、このように念仏だけをえらんだのは、つぎのようなわけがある。当時、恵まれた少数のひとは、救いを求め、寺を建て仏像をつくり、仏の知恵を学び、修行にはげでいた。しかし、多くのひとは貧しく、身分が低く忙しく、そのようなゆとりがなかった。それでは、恵まれたひとだけが救われ、多くのひとに救いの望みがたたれることになる。それは、人々を平等に救わんとするアミダの願いに反する。アミダは、少数の人たちしかできない困難な方法をすて、誰にでもできる容易な行為をとり、仏の願いとしたのである。法然はこう考え、誰にでも、いつ、どこででも唱えられる念仏を選び、すすめたのである(『選択本願念仏集』)。 [706] アミダの名を唱えるだけでほんとうに救われるのか。そうだと法然はいう。なぜなら、念仏には三つの心があるからである。一つは身で仏を礼拝し、口で念仏を唱え、心で仏を思う真実の心である。二つはアミダの願いを深く信じ、罪や悪をおかした身である自分が、仏の願いによって救われると信じる心である。三つは救われることを喜び求める心である(『和語燈録』)。 [707] こうした教えはわかり易く、実行しやすく、多くのひとが法然の教えに帰依した。親鸞はその一人である。 [708] わたしは幼い頃、祖母に手をひかれて、お寺参りにつれていってもらっていた。そこでお坊さんの話を聞き、祖母が唱える念仏も聞いた。家でも祖母は、仏壇の前でナムアミダブツと唱えていた。その真剣な姿と悲しい声の響きは、幼い心に刻みこまれた。祖母は五人の子供のうち、四人に先立たれている。その悲しみをいだいてお寺参りをし、念仏を唱えていたのだと思う。仏とまみえていたときのいちずな姿をかえりみれば、祖母はきっと救われていたのであろう。そして、若くしてなくなった子供たちも救われていたのであろう。 八 信じる心 [801] 古代の人たちは、ツミ・ケガレを清流でみそいで水に流し、おはらいをして取りのぞいた。また自然に親しみ、神を祭り、心をきれいにしてきた。古代人の心はまだ純朴で、根が明るかったのであろう。それともまだ心の闇というものを知らなかったのであろうか。心を見つめてみれば、その内側には、闇の部分や汚い部分が一杯ある。それは、みそいでもみそぎきれない、はらってもはらいきれないのである。 [802] 親鸞は心の闇の部分を知った。かれは、わたしの心にはうそ、いつわり、むさぼり、怒り、ねじけ、悪だくみがあり、それはヘビやサソリに似ている,何と悲しいことだろう,自分は欲が深く、名声と利益に迷っている,そういう自分が恥ずかしいといっている(『教行信証』『正像末和讃』)。 [803] このように悲嘆していたとき、親鸞は法然に出会い、善人も悪人も賢いひとも愚かなひとも、誰でもアミダの名を唱えれば区別なく救われるという教えにふれ、心の安らぎをおぼえた。かれは、そのときの感動を、わたしは法然の教えを信じるだけだ、法然にだまされて念仏して地獄に落ちても悔いはないと語っている。 [804] ところで、法然の教えは「他力」であるが、そこには、まだ自分の力で念仏を唱える「他力の中の自力」が残っていた。親鸞もはじめは自分の力で念仏を唱え、救われたいと思っていた。やがてそのことに気づいて、すべてをアミダにまかせる「絶対他力」(他力の中の他力)の境地にいたった。 [805] アミダは、一人でも苦しんでいるひとがいたら自分は仏にならないと願い、その願いをかなえて仏になった。だからアミダは世界のいたるところに、救いの力をまわし向けている。アミダはその願いから、とくに悩み、苦しんでいるひとを憐れみ、救いの力をさしのべている。ひとは、アミダを信じ、アミダの名を唱えさえすれば救われる。念仏もアミダの願いのまわし向けである。このように信じた親鸞は、アミダの恩の深さに思いいたった。それゆえ、念仏は、アミダの恩にたいして「ありがとう」という感謝の気持ちの現れである。 [806] それまで、アミダの住む「浄土」は、西方の極楽や死後の世界にあると考えられていた。人々は、浄土を心に思いえがき、あこがれていた。だが親鸞においては、浄土は現実の世界にある。アミダを信じる心が定まり、信心を喜ぶひとは、生きているいま、浄土に生まれるのである。 [807] このように、アミダへの信心一筋に生きる親鸞には、それ以外のまじないも祈りも祭りもお守りも不要である。罪悪のままで救われるのだから、みそぎもはらいも必要がない。 九 真実を求める心 [901] 親鸞は、「善人でさえ救われる、まして悪人はそれ以上に救われる」といっている(唯円『歎異抄』)。善と悪については、人間の本性は善であるという「性善説」と,悪であるという「性悪説」がある。またわたしたちは、他のひとを善い、悪い、愚かだなどという。けれども親鸞は、善悪についての一般的な考え方を論じてはいない。他のひとの品定めなどをしてはいない。いったい自分はどうなのかが問題である。自分は罪、悪、愚かさからぬけられない。心には欲深い醜い恐ろしい部分がある。ひとは、他のひとを殺せといわれても普通は殺せない。しかしながら、殺したくなくても、ことと次第では、百人、千人も殺すこともある。こうした恐さを親鸞はひとごととしてではなく、自分自身のこととして語っている。 [902] ひとは、自分の罪悪、愚かさ、恐さなどに薄々気づいている。だが、こうした醜い部分にはふたをしておきたい。でも、醜い部分があるとすれば、それをそのまま知るほうがよいだろう。「真」という言葉には、「うそ・ごまかしがないこと」「ありのまま」という意味がある。自分の醜い部分を、あるがままに知ることが、真実の自分を知ることである。 [903] では、真実を知り、どうなるというのか。親鸞は一方では心が痛む、恥ずかしいといっている。だが、他方では、なんと喜ばしいことだろう、アミダのご恩の深いことを思えば、世間のひとにあざけられても、恥じるものではない、アミダの願いにはひとの心をきれいにし、喜びにみたし、ものごとを正しく見る知恵を与えるという不思議な働きがあるという。真実を知り、痛む心は喜びに転じ、醜い部分が洗われ、心はきれいになるのであろう。心の闇を知って、闇の中に光が差しこむのであろう。自分の愚かさを知り、小さい自分をこえたアミダの願いにふれるのだろう。親鸞においては、真実が知らされるのも、アミダの願いのまわし向けである。 [904] 晩年の親鸞は、このようなアミダの願いを「自然」であると考えた。それにたいして人間の心は「はからい」である。ひとは、あれが善くてこれが悪い、好きだ嫌いだと思う。自分の醜さを隠しておこうとはからう。アミダの心にふれても、ぐちをいい、怒り、むさぼり、疑う。そういう自分がイヤになって落ちこむ。にもかかわらず、まだ自分の力でやれるとはからい、無理に力んでいる。人々を救うアミダのちかいには、はからいは一切なくて、「自然」(ジネン)である。つまり、「おのずから」「しからしむ」(そのようにさせる)である。親鸞は、アミダは自然ということの意味を教えているのだとさとった。そして、あれこれとはからわないで、おのずからあるがままに、アミダのちかいに身をゆだねて生きた。 [905] さらに親鸞は、社会の底辺に生きる人々と手をたずさえ、共に語り合った。「一人で苦しんでいるときは二人と思え、二人で苦しんでいるときは三人と思え、その一人は親鸞である」と語ったと伝えられているが、その言葉には、苦しむひとへの共感の深さがある。それとともに、親鸞は、「どんなにいとおしい、ふびんだ、かわいそうだ、気の毒だと思っても、思うように助けてあげることはできない」という。わたしたちには、ひとを助けてあげたくても助けることができない悲しさがある。親鸞は、そのことをよく知っていて、ただ念仏を唱えるだけだとした。そして念仏を唱えながら、世の中が安心して暮らせるように、仏の教えがひろまるようにと願った。 十 古仏の心 [1001] 親鸞の「やさしさ」、道元の「きびしさ」という。「人間親鸞」、「古仏道元」ともいわれる。親鸞は人間の弱さ、力の限界、苦悩をよく知っていた。それだけに苦悩の中にいる人たちへの共感は深く、かれらと手をたずさえて歩きながら、救いの道を手探りした。 [1002] それと反対に、道元には、人間の強さへの確信があった。自分の力で仏の道を求めることへの自信があった。道元によれば、み仏たちも祖師たちも、元はみな凡夫であった。だからひとは自分は愚かであるからとか、弱いからとかいって卑下してはいけない。この世に生きているうちに仏の道を求めなければならないのである(懐奘『正法眼蔵随聞記』)。 [1003] そうであれば、どのようにして仏の道を求めるのか。道元は「只管打坐」をといた。それは,だだひたすら「座禅」にうちこみ、座禅以外のことにかかわらないことである。まずは、座って身体の姿勢をととのえる。つぎに静かに息長く呼吸をする。だんだんに身も心も落ち着いて楽になり、心の統一がかなえられる。道元は座禅のことを「修証一等」といっている。つまり、座禅という修業とさとりは一つのものである。さとりを求めて、座禅をするのではない。座禅の結果として、さとりが得られるのでもない。座禅は方法であるが、その行いそのものが同時に目的であり、さとりである。その境地が「身心脱落」であり、こうして身体も精神も迷いから解放される。 [1004] 只管打坐が行いそのもであるとすれば、それは、座禅だけではなくて、仕事や勉強や遊びや人づきあいについてもいえる。何事においても、心を集中し、「そのことになり切る」ということである。こうしたことは特別のことではなくて、普通のことを、そのとおりにさとることである。 [1005] 普通のことをさとることを、道元は、「人間はだれしも頭の下に、目は横につき、鼻は縦についているということを知って、ひとにだまされることがなくなった」と語っている。さらに、「世の中のことはすべて無常であり、たえず変化し、過ぎさっていく。生と死の真相をきわめることが大切だ」(無常迅速、生死事大)ともいう。死は足元にある。いつ死ぬか分からない。明日があると思ってはいけない。だから生きている、このいま、一瞬一瞬ひたすら座禅をおこない、仏になれというのである。生きているいま、ひたすら自分の務めを果たしていくことは、座禅の心にあい通じている。 [1006] ところで、座禅にせよ、自分の務めにせよ、ひとは自分の力で努力しなければならない。努力すればある程度のことはやれる。努力してみてはじめて自分の可能性もわかる。この点で自分の力で全力をつくせという、道元の「自力」の教えは正しい。 [1007] いっぽう、努力して失敗もあり、自分の力の限界もわかる。そして、自分の限界をさとったところで、思いもよらぬ力がでたり、助けが得られたりすることもある。生きるということは、多分、大きな力に助けられているということであろう。この点で親鸞の「絶対他力」も正しい。 [1008] 自力を強調した道元も「仏のいのち」といっている。それは別の言葉でいえば「仏の力」である。親鸞は「はからい」を人間の心としたが、道元も「心をもてはかることなかれ」といっている。つづけてかれは、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』)とのべている。ここで「仏のかたよりおこなわれて」というのは「他力」とも読める。 [1009] このようにみれば、自力と他力は対立したものではなく、その根には共通のものがある。自力でやっているうちに、いつの間にか自分でやっているということさえ忘れ、思わぬ「他力」の助けが及ぶのである。また他力にまかせきったところに、本来の「自力」も働いてくるのであろう。 十一 政治の道 [1101] 江戸時代になり、戦国の世が統一され、社会に秩序と平和がもたらされた。対立と争いの社会を統一するためには、強い権力が必要である。だが、権力による強制だけでは、政治の安定は得られない。政治の道には、道理にかなった政治の理念が求められる。そのことを人々が正当であると認めて、秩序と平和は永続する。江戸時代には、こうした要請にこたえて、儒学が栄えた。 [1102] 林羅山は、社会の秩序を重視し、「上下定分の理」をといた。かれにおいては、「理」とは道理であり、宇宙の根本原理である。理にかなうものが「善」であり、そむくものは「悪」である。宇宙に天と地があり、天は尊くて高く、地は卑しくて低い。このように、天地に上下の差別があるように、ひとにも上下の関係があり、上のひとは尊く、下のひとは卑しく、この差別がなければ国はおさまらないという(『春鑑抄』)。 [1103] このような考え方には、わたしたちは違和感をおぼえる。だがこの考えの背景には、秩序と平和を求めていた当時の人々の要求もある。かれの思想は、当時の支配者である武士に受けいれられ、武士の支配と、江戸時代の身分制度を正当化することになった。 [1104] また、羅山は人間に理をきわめ、理にかなったあり方を求めた。そのためには、心に「敬」(つつしみ)をもち、「礼儀」をわきまえ、欲望に負けてはいけない。かれはこう考え、とくに武士に理にかなったあり方を求めた。 [1105] 心に敬をもち、礼儀をわきまえることは、時代や身分にかかわらず、ひとが踏み行うべき道であろう。が、それが上から説かれ、強制されるのであれば、形式的になりかねない。また、人々の自然な心情や自発的な行動は抑えられることにもなる。実際、江戸時代にはそうした傾向もでてきた。そこで、形式よりも内面のあり方を重視する考え方がでてきた。 [1106] 山鹿素行は、その一人である。かれは「武士道」をとき、武士に、農工商の上に立つ指導者として、ふさわしい人物であることを求めた。かれによれば、農・工・商は仕事にいそがしくて、いつも道をつくすわけにはいかない。武士は土を耕さず、商売もしないで、生活している。だから遊民になりかねない。武士が遊民にならないためには、ひたすら心をととのえ、自分の立場を考え、「士の職分」を知らなければならない。 [1107] それまで武士には、主君への忠誠、信義、武術、死の覚悟などが求められいた。素行も、主君への忠をつくし、剣術、弓術、馬術などの外形をととのえることをといている。だが、かれにおいて肝心なことは内面のあり方である。それは、他のひととの交わりにおいて信頼される人物であること、独りを慎むこと、一般の人々の模範となる人物であることなどである。こうした文道を内心において充実し、外形において武備がととのうようになれば、一般の人々は武士を尊敬し、その教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるという(『山鹿語録』)。 [1108] その他、かれは士の職分について子細にのべている。主なものをあげれば、みずからの内を省み、気を養って心を静かにすること。度量をもつこと。内に徳をやしない、自分の力をひけらかしたり、自慢したりしないこと。人々が困っているときには、自分の身が苦しむように思い、米を与え、ひとを救うこと。高貴なものをおそれ、恥じる心をもち、事を処理すること。心を清廉にし、わいろや財産に心をひかれないこと。自分の身を省み、劣っているところを考え、好き嫌いをよく知り、みずからをいましめて努力すること。見ること言うこと行うことを慎むことなどである。 [1109] 儒学は元来、学んで身を修め、仁徳をつみ、世の中を治める「修己治人」の教えである。素行の武士道には、為政者が人格をみがき、その徳によって治めるという考え方がある。かれの思想は、政治に携わるものの「政治倫理」、公務に携わるものの「公務員倫理」という性格をもっている。 十二 人間の道 [1201] ひととひととの間柄で一番身近なものは、親子の関係である。人間の愛の中で「親の愛」や「親心」は、一番純粋な愛であろう。愛は愛によって育まれるというが、親の親心が子の「子心」を養い育てるのである。中江藤樹は、こうした親子の愛情をもとにして「孝」の道をといた。かれがいう孝の道とは何であろうか。 [1202] 孝の道は、親に孝養をつくすことだけではなくて、宇宙の根源にある道である。孝は、天にあっては天の道となり、地にあっては地の道となり、ひとにあってはひとの道となる。それは「愛敬」ということである。「愛」はねんごろに親しむことであり、「敬」は上のひとをうやまい、下のひとを軽くみてあなどらないことである(『翁問答』)。 [1203] それゆえ愛敬の心は、さまざまな人間関係にあてはまる。具体的には、子が親を愛し敬うこと、下のひとが上のひとに二心なく忠をつくすこと、上のひとが下のひとに礼儀正しくふるまうこと、親が子を愛し育てること、弟が兄を尊敬すること、兄が弟に善いことをすすめること、妻が夫への節操を守ること、夫が妻に義務をはたすこと、友人と偽りのない心で交わることなどである。藤樹は、このような道を、心において守り、社会において実践していけば、人々は、互いに憎んだりせず、仲良くなり、家庭はととのい、社会と国は治まるという。 [1204] ところで、親子の愛情だが、親は、子供を一人前のひとになってほしいと思い、養い教え育てる。子育てについて、かれは、道徳教育を重視している。この場合、口で話して聞かせる導き方があるが、このことで徳が身につくと思うことは間違いである。大切なことは、親が身を立て、道を実践していることである。そうであれば、子供は親の行いをみて、おのずから感化され、変わっていくという。 [1205] つぎに、子の親への孝とは何であろうか。自分の身は親より受けていて、父母の恩は天より高く、海より深いのであり、そのことを忘れれば、欲に目がおおわれ、心は暗くなり、迷いの道にはいる。親の身を自分の身と思い、父母を大切にすれば、心は晴れ、明るくなる。親への孝について、藤樹は、親につくすこととともに、「親を安心させる」ことをあげている。つまり、自分が身を修め、道にかなった生き方をし、周りの人々と和合していくことである。そうすれば親も安心するというのである。 [1206] 藤樹自身は、仕えていた藩を脱藩し、武士の身分を捨て、母のもとに帰り、母に孝養をつくしながら、学問の道にはげんだ。こうして身につけたかれの人柄と教えは、「近江聖人」として慕われ、人々に感化を与えたことでも知られている。 [1207] ところで、親も人間であり、道を誤ることもある。そのときは、子は、親が誤りに気づくように、それとなく親を諌めなければならないと藤樹はいう。それでも親が気づいてくれないときは、その是非を明らかにし、親につくしながら何度も諌め、また親の友人に頼んで諌めてもらうのである。子が親を愛し敬う心をもって、まちがっていますから、おやめくださいといえば、親はそれを受けいれ、親子の間はさらに深い愛敬の絆で結ばれるであろう。 [1208] 伊藤仁斎は、人間の道の根本を孔子の精神に求めた。それは『論語』にのべられている。その言葉はもっとも正しく、後にいたるまで変化せず、世界の果てまで広げてまちがいがない(『論語古義』)。では、仁斎のいう孔子の精神とは何であろうか。 [1209] その根本は「仁」であり、それは、一語でいえば「愛」である。ひととひととの関係は、みな愛からはじまる。愛は心情から生まれる。それゆえ愛からでたものはすべてほんものであり、そうでないものはいつわりである。このように心につねに愛があり、愛が心に満ち、心と愛が完全に一つになっているのが仁である。この仁によって、心や行いが正しくなり、ことが成しとげられるのである。自分がよくひとを愛すれば、ひともまた自分を愛してくれる。愛の心は自然でおだやかで、心が広くゆったりしていて、ひとを包むことができるのである。だから、愛の心があれば、ひとは落ち着いてあわてない。楽しんでも心配がなく、安定している。だから何をしてもうまくいくのである(『童子問』)。 [1210] このように愛と心情を一つにするのは、古来、日本人のあり方である。ということは、仁斎は、孔子の仁を日本的な心情として理解している。こうした心情は、心の内で動いているだけではない。それは具体的には、身近な人々との親しい交わりとしてあらわれる。仁は足元にある。だから仁は遠いところではなく、近くで求めればよい。仁斎はこう考え、これを実現する根本を「忠信」と「誠」に求めた。「忠」はうそいつわりのない純な心であり、「信」はあることはある、ないことはない、できることはできる、できないことはできないとする心である。したがって「忠信」は自分をいつわらず、他のひとに二心なく、心の底からよかれとつくすことである。 [1211] それゆえ忠信の心は「誠」に通じる。しかし忠信は個人の心情であるが、誠はみなが納得できる真理、道理である。自分は純粋な心情でしてあげたつもりでも、それがみなに納得できるとは限らない。だから、仁斎は「誠をつくす」ことはむずかしいという。本当に心が純粋になりきって、しかも道理にかなった誠をつくすことができれば、その心は相手にも通じて、よい人間関係ができて、ことが成し遂げられるのであろう。 十三 もののあはれを知る心 [1301] 心は、知情意の三つに分けられる。「知」は知性や理性や道理であり、「意」は意志や意欲であり、「情」は感情である。おおよそ、知性や意志がポジティブに評価されるのにたいして、感情は、感情に走るとか、感情的になるとか、ネガティブに理解されがちである。 [1302] これまでみてきたように、儒学は、理性を重視し、是非善悪の区別を明らかにし、善を実践することをすすめている。こうしたあり方は、表を飾り、堅苦しくなり、自然な気持ちをゆがめがちである。 [1303] 本居宣長によれば、中国の心である儒学は、何ごとにもこせこせと気をつかい、あれこれ議論をして、ひとの心を悪がしこくし、ものごとをこじらせる。古代のわが国には、うるさい教えはなかったが、社会は乱れないで、国は治まっていた。このようにかれは、儒学を批判し、わが国の古来のあり方を評価した(『直昆霊』)。 [1304] また、わが国の道は、ひとが生まれたままの真心に立つ道である。それは、善くても悪くても、生まれたままの本来の心である(『玉勝間』)。 [1305] そうであれば、生まれたままの本来の心とはどういう心であろうか。心にあたる英語の'heart'に は、胸、気持ち、やさしい心、人情、愛情などの意味がある。これに類した言葉には'mind'(心、精神、頭)、'spirit'(精神、心、霊魂)、'soul'(魂、精神、心、生命)などがある。宣長のいう、生まれたままの心には、'heart'が一番 近いであろう。それは、頭というより、胸、気持ち、やさしい心である。つまり心情である。かれによれば、心は情であり、情の動きである。心あるひととは「もののあはれ」を知るひとである。 [1306] それでは、もののあはれとは何であろうか。「あはれ」とは、見るもの聞くもの触れることに心に感じて出る嘆息の声であり、「ああ」「はれ」ということである。たとえば美しい月や花をみて、ああみごとな花だ、はれよい月かなと感心することである。感ずべきこと出合って感ずべき情を知って感ずるのを「もののあはれを知る」といい、感ずることにふれて心が動かず、感ずることがないのを「もののあはれを知らず」といい、また心なき人という(『源氏物語玉の小櫛』)。 [1307] こうした心の動きが、美しい上品な言葉で、ねりあげられて表現され、文芸が生まれる。それは、読むひとの心に深い感動を呼びおこす。宣長によれば、生きとし生きるものにはみな情がある。情があればものにふれて思うことがある。それゆえ、歌がある。あるときは嬉しく、別のときは悲しく、また、はらだたしく、楽しくおもしろく、こいしく、いとおしく動く心がある。そのときどき、心に感じ、情が動くひとが、もののあわれを知るひとである。(『石上私淑言』)。 [1308] よく男は、「男らしくなければいけない」とか、「メソメソしてはいけない」などといわれる。こうした男らしさは、かれによれば、自分をとりつくろい、かっこよくうわべを飾っていることである。戦いで死ぬときには、男も、父母が恋しいし、妻子の顔もみたい。それがひとの情というものである。 [1309] ひとが情を深く感じるのは恋においてである。恋には、辛いこと、悲しいこと、うらめしいこと、はらだたしいこと、おもしろいこと、嬉しいことなど、もののあはれの深い真髄があらわれるという。 [1310] しかしながら、宣長においては、たんに心情的であればよいということではない。かれは、感ずべき情を知って感じるとのべている。「知る」ということは知性の働きである。そこには、感情を知るという知性の働きがあり、自他の感情を一定の距離をおいてみつめるゆとりがある。このようにして、感情は純化され、もののあはれを知る心は豊になる。そうであってこそ、美意識はとぎすまされ、すぐれた文芸が生まれる。ひとの情も知られ、よい人間関係も生まれるのである。 [1311] たとえば、まわりに悲しんでいるひとがいるしよう。この場合、相手とともにたんに悲しむだけでは、ともに感情に走ることにもなる。そうではなくて、もののあはれを知るひとは、悲しんでいるひとの立場や情の動きをよく知り、悲しんでいるひとの心を自分の心に受けいれ、共に悲しむことができるのである。さらには、余裕をもって悲しむ人の話を聞いてあげる。こうした対話のなかで、心の交流が行われ、悲しんでいるひとの心はだんだんに晴れてくるのである。 十四 勤労の精神 [1401] 日本人は勤勉であるといわれる。狭くて資源の乏しい国土に生きていくためには、ひたすら働く以外にないのであろうか。 [1402] 二宮尊徳は、日本人の勤勉さの模範とされている。かれは14才で父に、16才で母に死別し、そのうえ田畑が洪水で流され、大変苦労をした。一時期、叔父の家で働いていたが、やがて独立して荒れ地を耕したりして、少しずつお金をたくわえ、土地を買い、家を再建した。それだけではない。当時、希望と勤労意欲を失っていた農民たちをはげまし、村の再建に全力をつくした。 [1403] このような生活経験の中で、かれは「天道」と「人道」ということをさとった。天道は自然の世界であり、ひとが耕せば収穫をもたらしてくれるが、手を加えなければ、枯れ、草がはえ、荒れ地になる。人道はひとが力をつくしていくことであり、欲を押さえ、勤めて成すことである。(福住正兄『二宮翁夜話』)。かれにおいては、天道と人道のバランスをとりながら、人道を実践していくことが課題になる。 [1404] では、人道を具体的にどのようにして実践していくのか。尊徳は、「分度」を定めることを根本とするのべている。分度とは自分の収入や力をきちんとつかみ、それに応じて衣食の生活の限度を定め、収益や返済の計画を立てることである。この分度を立て守れば、何の恐れも心配もないといって、かれは農民をはげました。農民たちは、生活のバランスを心がけ、仕事にはげみ、生産が増え、借金を返すことができた。 [1405] もう一つは「推譲」である。これは分度外の余分を譲ることである。つまり利益の幾分かは、次年度のためにたくわえ、子孫のためにゆずり、幾分かは他人を助けるための基金として提供する。尊徳自身も苦労して貯えた財産のすべてを売り払い、それを農村復興の基金として提供している。こうした基金は、自分が助けてもらったことのお礼に他の人たちに使ってもらいたいという無欲のお金である。こうした基金が有効に活かされて、農村が再建された。 [1406] 以上のような尊徳の教えは「報徳教」と呼ばれる。それは、わたしたちに恵みを与えている天地やひとの徳にたいして徳をもって報いる教えである。 [1407] かれにおいて肝心なことは、何のために働くのか、実行可能なプログラムをどのようして作るのか、どのように工夫改善していくのかである。けっきょくは、何のために生きるのかということである。そこには高い倫理性がある。かれは、農民の心理や人間関係にいたるまでよく気くばりをし、農民を信頼し、はげました。そこにかれの成功の秘訣があった。 [1408] 石田梅岩は商人の道をといた。かれは農家に生まれたが、少年の頃から商家に勤め、商売に従事していた。仕事のかたわら、かれは自分の心に深い関心をもち、心をつくして刻苦勉励につとめ、修養にはげんでいた。商家の主人の母親は、かれがすぐれた人物であることを見ぬき、陰ながらはげまし、援助している。かれのめざすところは「心を知る」ということであった。そのため、自分の欲やエゴを自分にきびしく点検し、その果てに純な心、正直な心にたち帰り、心は「天地万物の親」であることをさとった。その学問は「心学」とよばれる。 [1409] ひとの心が天地万物の親であれば、そのことゆえにひとは尊敬にあたいし、平等である。当時、商人は物を生産せず、売買によって利益を得ていたので低い身分とされ、みじめな思いをしていた。それにたいして梅岩は、物を売って利益を得るのが商人の道であり、その利益は武士の俸禄と同じである、商人の仕事は社会に役立っている、利益を欲のせいにするのは理由がない、商業は正しい行為であるとのべ、商人をはげました(『都鄙問答』)。 [1410] あわせて、かれは商人のモラルについて考えた。買うひとがあっての商売である、買うひとの心は自分の心と同じだから、商人は売る品物には念をいれ、大事にして売らなければならない、買う人は品物がよければうれしい、こうして商業の道は金をよい品物に変えることで、人々の心を満足させる、それは天地の道にふさわしいというのである。さらにかれは、倹約と正直をといた。「倹約」とは物を節約して余ったものを社会のために役立てること、物を大切に使って物の効用を活かすことである。物を大切にすることは自分を大切にすることである。物を活かすことは自分を活かす道である。「正直」とは自分の物は自分の物、ひとの物はひとの物として、貸したものは受けとり、借りたものは返すことである。つまり誰の所有なのか、どういう契約なのか、その道筋をきちんとし、それぞれの所有を尊重し、ひとを欺かず、約束を誠実にはたすことである。このことが広く行われれば、社会は和合し、ひとびとは「みな兄弟」のようになるという(『斉家論』)。かれは、自宅に講話の場をもうけ、身分や男女の区別なく受けいれ、無料で、平易な言葉で講話をつづけた。 [1411] 梅岩がといた「心学」は「経済倫理学」でもある。それは、近代の私法と経済活動の原理に通じている。 十五 独立自尊の精神 [1501] 江戸時代、日本が国をとざしてる間に、欧米の勢いが強くなり、日本にもせまってきた。その巨大な力を目の前にして、人々の危機意識も強くなった。まかりまちがえば欧米の植民地になりかねない。このとき、福沢諭吉は世界の情勢を見て、日本の将来を考えた。 [1502] 諭吉は、中津藩の下級武士の子として生まれた。父はすぐれた人物であったが、すべてが家柄によって決まるので、地位に恵まれまなかった。諭吉もたんに下級武士の子としてあつかわれた。父は息子の才能を伸ばすために僧にしたいと思った。後に諭吉は、封建社会でむなしく世を去った父の不幸と、父の自分への愛情を思い、一人で泣いた。かれは「封建制度は親のかたきでござる」とのべている。かれは、兄のすすめもあり、長崎や大阪にでて、オランダの学問を学んだ。大阪で諭吉は人々に話しかけてみた。こちらが強く出ると相手はていねいにこたえる。こちらがていねいにいうと相手は強くでる。これは人々が長い封建制度のもとで服従を強いられた悲しい性(さが)のなせるわざである、人々を教えみちびくことが大切だとかれは考えた。その後、アメリカ、ヨーロッパに行き、欧米の事情を自分の目でみて、学問を学び、新しい文明の日本を築いていく方向を手さぐりした。 [1503] それでは、文明日本を築いていくために、何をなすべきか。まずは、それまでの封建的な因習にしばられていた人々の頭の切りかえを促し、知的レベルを引き上げなければならない。ひとの能力は生まれながらにして平等であり、ひとがどうなるかは、学ぶか、学ばないかによって決まる。学ぶひとは知者となり、貴人となり、富者となる。反対に無学なものは下人となる。諭吉はこうのべて、人々に学問をすすめた(『学問のすすめ』)。 [1504] それでは、何を学べばよいのか。かれのいう学問とはむずかしい字を知り、古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作ることなどではなくて、普通日常の生活に役立つ実学である。産業をおこし、民力、国力を充実させることが当時の課題であった。そのために、かれは東洋に欠けている「有形において数理学」と「無形において独立心」の二つを重視しした。前者は、自然科学や技術であり、産業をおこし、民力、国力を充実させるために不可欠である。後者は人民独立の精神である。独立とは自分で自分の身を支配し、他のひとにたよらないで自ら理非を判断し、自分で働いて生計を立てていくことである。独立心がないひとは、国を思うことも深くなく、外国人に自分の権利も主張できない。またひとに頼り、ひとを恐れ、ひとにへつらい、恥を知らず、言葉も卑しく、ひとのいうとおりにする。それでは国の独立もありえない。ひとりひとりの独立の精神と一身の独立が土台になって国の独立が実現するのだと、かれは考えた。 [1505] 日本の近代化は、ほぼ、かれが考えた方向で進められた。それは一面では成功したのである。しかしながら、他面では急速な近代化の影に、さまざまな矛盾やひずみが生じ、その混迷の相もあらわれてきた。 十六 武士道とキリスト教 [1601] 高崎藩の下級武士の子として生まれた内村鑑三は、父から儒教と武士道をさずけられた。16才で札幌農学校に入学した。そのとき、「少年よ、大志をいだけ!」と叫んだクラーク博士は去っていたが、博士が、その叫び声とともに残したキリスト教精神と感化力は、学生たちの心をとらえていた。内村は、はじめは気が進まないままに、「キリストを信じる者の誓い」に署名をし、後に洗礼をうけた。その後結婚したが、しばらくして離婚し、心の痛手を負いながら、再起の希望をもって、アメリカに渡った。 [1602] アメリカで、精神薄弱養護学校看護人のアルバイトをし、ほうきとぞうきんをもち、子供の大小便にいたるまで世話をした。かれは、自分の献身が心をきれいにし、自分を救ってくれると思っていた。子供たちも、内村をしたうようになった。でも、心はきれいにならない。かれは、自分の仕事の動機はエゴイズムであり、それは罪ではないかと思う。でもエゴイズムを払い切れずに、悩み、疲れていた。このとき、「君の内だけを見るからいけない、君の外を見なければならない。なぜ、十字架の上に君の罪をあがなったイエスを仰ぎみないのか」という、アマスト大学総長・シ−リ−の言葉にふれて、神の愛を知り、信仰の喜びを体験した。 [1603] 内村は、アメリカを理想の国としてあがめていた。だが、自分の目で見たアメリカには悪いことも多かった。反対にアメリカから日本を見て、日本の善さや美しさがわかったのである。そこで、愛する日本のために働くのが自分の使命であると決心して帰国した。 [1604] さて、内村は武士道を身につけていたが、それは、主君への忠誠を誓い、主君のために戦うあり方である。いっぽう、神への忠誠を誓い、神のために生きるのがキリスト教のあり方である。神は、一般に、やさしい「愛の神」であると理解されている。だが内村においては、神は「正義の神」でもある。神の愛にたよることは、ひとの精神を弱くする。ひとは神の義のために、悪や不正と戦わなければならない。生きることは戦いである。こうした考え方をもとに、かれは、筋の通らないことや社会悪と戦うというあり方を選んだ。 [1605] 第一高等学校講師の時、内村は教育勅語を礼拝することを拒む。唯一神を信仰しているかれは、同時に天皇を拝むことはできなかったのである。普通のひとなら、そこは適当にやるのだが、純粋で気性のはげしいかれは、自分をいつわれなかった。けっきょく退職になった。 [1606] かれは、つぎに新聞記者になり、足尾銅山鉱毒事件をきびしく批判した。さらに日露戦争に反対した。自分は日露戦争だけではなく、どの戦争にも反対である。なぜなら、戦争は人を殺すことだからである。人を殺すことは罪悪であり、個人のためにも国家のためにもならないと、かれは主張した。 [1607] また内村は、教会のない教会を考え、「無教会主義」をとなえた(『無教会論』)。大切なことは、神をひたすら信仰し、聖書を読み、信仰を語ることである。そうした場はどこでも教会である。こうしたかれの主張の背景には、外国の教会から独立して信仰をつらぬくねらいもあった。 [1608] 内村において愛すべき名は二つのJ's、すなわち'Jesus'(イエス)と'Japan' (日本)である。信仰は国のためであり、国を愛することはキリストのためである(『失望と希望−日本国の先途』)。かれの墓碑には、「われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため」と刻まれている。 [1609] このような内村の思想は、「武士道に接ぎ木されたキリスト教」であるといわれている。接ぎ木をし、花を開かせるためには入念な作業が必要である。武士道、キリスト教、日本という国には、共通点もあるだろうが、異質のものもあるだろう。内村の生涯は、それらを接ぎ木して育てることに悪戦苦闘したものであった。そこからかれは、「日本は世界のため」を一つの課題とするようになった。 十七 自己の探求 [1701] 夏目漱石は、偉大な作家として知られ、その作品は、初期の『坊ちゃん』や『猫』から晩年の『明暗』にいたるまで、多くのひとに親しまれている。天才には狂気なところがあるというが、漱石は、神経衰弱に苦しみ、孤独と不安にさいなまれている。心の揺れがはげしく、不機嫌なときには家族にあたりちらし、妻子はその巻きぞえをくうて困惑している。 [1702] こうしたことのゆえであろうか、作品の登場人物は、つまずき、もがき、孤独と不安に悩んでいる。けれども、かれらはあきらめない。懸命に自己が自己になる道をさがし求めている。かれらの感情の起伏、言葉のやりとり、生き方は真に迫り、読むひとの共感を誘うのである。 [1703] さて当時、文明開化の風潮のもとで、一部の人々は西洋かぶれをし、空さわぎをしていた。漱石は、こうした物まね的な文明のあり方を批判した。かれによれば、開花には「外発的開花」と「内発的開花」の二つがある。外発的開花は、外からの影響で一種の形式を取るものであり、日本の開花はそれである。内発的開花は、内から自然に発展して、ちょうど蕾が破れて花がひらくようなものである。ほんとうの開化は、このように内から自然にわきでるものでなければならない(『現代日本の開花』)。 [1704] そうであるためには、どのようにしたらよいのか。漱石によれば、自己を徹底的に見つめ、自己を確立することである。かれはこう考えて、「自己本位」ということを主張した(『わたしの個人主義』)。普通、自己本位といえば、自分中心のエゴイズムであるように思われる。だが、漱石のいう自己本位は、自分というものをよく知り、自分の考えをもち、自分の足で立って生きていくことである。それは、他人の考えをうのみにしたり、他人にしたがったりしないあり方である。漱石は、自己本位を、自分の個性を知り、発展させることという意味で「個人主義」ともよんでいる。それは、自分の個性をのばすとともに、他人の個性や自由も尊重するあり方である。 [1705] このようにみれば、わたしたちはおおよそ、漱石のいうような生き方をしているといえよう。わたしたちは、順調なペ−スで歩いているときもあるが、そうでないときもある。生きる道筋において、心の葛藤に苦しんだり、他のひととの対立を引き起こすこしたりする。 [1706] 『こころ』という作品がある。主人公の先生と友人のKは、ともに同じ下宿のお嬢さんが好きである。Kは、先生に自分の恋心をうち明ける。先生は、Kへの友情と自分の恋心の間で苦しむ。が、自分の心をまげて、お嬢さんへの愛をあきらめることはできない。ついに先生は先に、お嬢さんの母親に、お嬢さんと結婚させてほしいと申し込み、二人は結婚することになった。その後、Kは自殺した。先生は、Kの自殺は自分のエゴのゆえではないかと思い込み、罪の意識に苦しみ、仕事にもつけない。長い間、苦しみながら、やがて先生は自殺したのである。先生は良心的なひとであるだけに、苦しんだのであろう。先生のような苦しみは、自己を追求し、他の人の立場もたて、良心的に生きようとする人たち共通の苦しみでもあるのであろう。 [1707] 先生は自己を追求し、うち立てようとした。しかしながら、自己の底には自分中心のエゴがあり、自分のエゴは他のひとのエゴと対立する。そこに、自他の対立が生じ、ことと次第では、自己は危機に直面する。こうしたときには、どうしたらよいのだろう。『こころ』の先生は自殺した。漱石は、別の作品『行人』の主人公に、「死ぬか、気が狂うか、宗教にはいるか三つしかない、しかし自分は宗教にははいれそうにない、なれば、まあ気違いだなあ‥‥ボクは恐くてたまらない」と語らせている。 [1708] わたしたちは、エゴをこえることはできないのであろか。愛は、われとなんじを結ぶ絆であり、愛によってエゴをこえられるようにも思われる。漱石の作品でも、一貫して愛が追求されている。だが、愛の心や行為の中にもエゴがひそんでいる。漱石の作品の登場人物は、愛ゆえに、苦しみ、悩み、にくみ、自分がイヤになり、自分をのろうのである。 [1709] 『明暗』は晩年の作品である。ここにいたって漱石は、不安と孤独と苦しみの果てに、エゴをすてることをさとったともみられる。エゴをすて、自己をこえて天の英知に従って生きること、いわゆる「則天去私」ということをさとったともいわれている。漱石は、そのようにさとったのであろうか。『明暗』には、夫婦のすれ違いと葛藤が克明に描かれている。ものごとを対象化し、余裕をもってみれるのは、さとっているからであろう。しかしながら、『明暗』の重苦しさは、漱石の苦悩の表現であるともいえる。漱石は「則天去私」の境地にあこがれながらも、死に至るまで苦しんでいたようにも思われる。 十八 純粋経験 [1801] 哲学への関心は、ギリシャでは「驚くこと」から、デカルトにおいては「疑うこと」からはじまった。西田幾太郎 は、「人生への思いと悲哀」から哲学した。かれは高校中退、生家の仕事の破産、父との対立、東大で専科生として味わった差別待遇、子供や妻の死という人生の悲哀をなめている。「しみじみとこの人生をいとひけりけふこの頃の冬のひごと」、「妻も病み子等また病みてわが宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる」と、かれは人生の悲哀を歌っている。このような自己の悩みと人生の問題が西田哲学の背景にある。 [1802] もちろんそれだけではない。西田には、西洋文化を受けいれ、近代化を進めてきた日本の現状と将来についての深い関心があった。日本は、伝統的なものを残しながら、西洋の文化を受けいれていた。でも、両者はちぐはぐな形で混在し、統一に欠けていた。そこに、近代日本の弱さがあった。西田は、こうした現状をみすえて、日本の伝統と西洋哲学を根源において統一する哲学を形成することで、日本の課題に応えようとした。 [1803] 西田は、みずからの悩みの解決を求めて、さらに道を明らかにし、ほんものの知を求めることへの関心から、しばしば座禅をした。「余は人生の研究者とならん、禅は音楽なり、禅は芸術なり、禅は運動なり、このほか心の慰めを求むべきなし、心、子供のごとく清く純一となりえば、天下の至楽これにすぎたるはなし」と、日記に書いている(明治36年1月1日)。かれはひたすら座禅し、純な心にかえり、自己の根源にあるものにふれた。 [1804] では、自己の根源にあるものは何であろうか。デカルトはすべてのものを疑い、そのあげくに、疑うことのできない「考える自己」を発見した。西田は座禅において自己を忘れ、「真の自己」にたどりついた。そこには、デカルト的な考える自己というものはなく、座禅という直接的具体的な経験の事実だけがあった。似たような経験は他にもある。たとえば美しい音楽に心を傾けているときである。そこには、ただ美しい音楽だけがあり、音楽を聞いている自分と聞かれている音楽の区別はない。音が出ているとか、音が何であるかとかの判断もない。あるのは事実そのままの経験だけである(『善の研究』)。 [1805] しかし、西田は、経験したことにとどまってはいない。デカルト的な考える自己を否定してもいない。むしろ深く考えぬいた。座禅の経験をもとに、自己とは何か、真実とは何かについて考えた。 [1806] そこで、かれは何を知ったのであろうか。それまでの哲学では、心(主観・知るわれ・見るもの)と、対象である物(客観・知られるもの・見られるもの)とがあり、どちらかが根本であると考えられていた。すなわち、心が先にあって物が知られるとか、物が先であり、心が後であると考えられていた。それにたいして、西田は、心と物が区別される以前の、両者が一つになっている、そのままの事実に注目した。そこには知るわれと知られるものの対立はない。見る主観もなければ見られる客観もない。知情意の分離もない。ただ、経験そのままの事実だけがある。西田はこれを「純粋経験」とよんだ。 [1807] このような純粋経験には、形も声もない。それは「無」である。だが、西田においては、心は、「形なきものの形」をみ、「声なきものの声」を求めてやまないのである。 [1808] こうした純粋経験は、「あるがまま」「はからいのない心」「さとり」などの伝統的なものにあい通じている。西田はこうしたものを座禅においてみずから追体験し、それを思索し、みずからの哲学を創造したのである。 十九 さんげの道 [1901] 自分の過ちをかえりみる「さんげ」(懺悔)は、古来、仏道の修行として行われていた。悪人の救いをといた親鸞の思想には、深いさんげの心がある。田辺元は、みずからのさんげの体験をもとにし、親鸞の『教行信証』をよりどころにして、さんげの道を明らかにした(『懺悔道としての哲学』)。 [1902] さんげとは、田辺によれば、自分の過ちや悪を悔いることである。過ちや悪は、心の根にある「根源悪」に由来している。それは、ひとが自分の限界を忘れ、自分の立場をこえて自己を主張することから起こる。ひとは、悪の根を自分の力でたち切ることはできない。しかし、過ちや悪をさんげすることはできるという。 [1903] たしかに、わたしたちは自分をかえりみて、自分が悪かった、二度と過ちをくりかえないようにしようと思う。だが、自分の過ちや悪を表にだしたくはない。表にでれば、そのときは仕方がなかったと言いわけをする。こんなわけであるから、心の底からさんげすることは難しい。 [1904] 田辺においては、まずさんげの道を求めることが出発点である。そうであれば、「絶対無」の助けが得られ、ひとは深いさんげに導かれる。絶対無とは、田辺においては世界の根源にあり、ひとを守っているものである。それは、さんげとの対応においては根源的な「救いの力」と理解してよい。 [1905] さりとて、助けが得られても、さんげすることは楽ではない。というのは、さんげには、自分の過ちについての悔いや責めの苦しみが伴うからである。だがひとは何であれ、よいものを得るには、求める努力をしなければならない。そこには、苦労や苦痛もある。さんげにおいては、自分がうちくだかれる苦痛がある。けれども、さんげし、悪を悔い改めるひとに、救いの力はみずからを愛としてまわし向け、ひとは、その愛に浴して深い喜びを体験し、生まれ変わる。こうして、さんげに伴う苦痛は喜びと感謝に転じる。 [1906] ところで、さんげを行うのは理性の働きである。理性は人間最高の能力であると考えられている。だがまた、田辺においては、さんげは理性そのものの批判でもあり、深いさんげにおいては、理性の能力もくだかれる。けれども、さんげが徹底すれば、いったんくだかれた理性は、根源的な救いの力に支えられてよみがえり、新しい理性を再建する。このようにさんげは、存在全体をよみがえらせるのである。 [1907] しかしながら、ひとは、根源悪を取り除くことはできない。だから、ひとたびよみがえっても、また再び、迷いの道にはいる。では、迷わないためには、どうしたらよいのか。そのため田辺は、普段にくりかえし、さんげすることを求める。普段のさんげの反復に対応し、その都度よみがえり、喜びが約束されるという。 [1908] このような喜びは、そのひと一人の喜びにとどまらない。それは自分をよみがえらせてくれた救いの力への感謝と協力の姿勢に転じ、自分の力を他者の救いにふり向ける実践の道に進む。この実践において、さらに自分の救いもたしかになるのである。 [1909] このことを田辺は、兄と弟との間柄にみる。兄は先に生まれ、先に進んでいる。救いの力は、兄を後から歩いてくる弟にまわし向け、みずからの知恵をさずけて弟を導かせる。父が兄を信じて弟に協力させるのも同じことである。そこで兄は弟に教える。つぎに、弟は教えられたことの恩にこたえて、後に生まれた弟や妹に教える。だが、教えることは教えられることでもある。こうして兄弟が教え、教えられ、助け合う。ここには先に進んでいる兄が弟を導くという秩序があり、同時に、兄弟がともに父母の子供として、教えて且つ教えられるという平等の関係がある。このことを田辺は「兄弟的教化の原理」といい、この原理をわたしたちの努力とさんげの中心にすえている。 [1910] このように「さんげの道」は、一人一人がさんげを行い、それを通じて兄と弟の絆にみられるような「兄弟性社会」の建設に進むという実践的な性格をもっている。 [1911] もう一つ、さんげの道に「内観法」がある。これは、吉本伊信が親鸞の思想をもとに創始したものであり、元来は修行や人格改善の道であったが、今日では心理療法としても用いられている(『内観法−四十年の歩み』)。吉本のいう内観とは、「心の内を観る」こと、つまり、自己をみつめ直すことであり、田辺のさんげに似ている。ただ内観法では、自己を見つめる見つめ方として、つぎのように具体的なテーマが設けられている。 [1912] カウンセラーは、内観を行うひとに、まず母にたいして自分が、(1)「お世話になったこと」、(2)「お返ししたこと」、(3)「ご迷惑かけたこと」を年代順に思いだし、調べることを求める。母のつぎに父,祖父母,兄弟,先生などにたいして同じテーマで調べる。また別に、(4)自分の「嘘と盗み」を調べるテーマが与えられることもある。1〜2時間ごとに、カウンセラーに思いだしたことの一部を報告する。期間は一週間,一日に15時間である。普通、内観の施設で行うが、自宅でメモ形式でもできる。 [1913] このような内観の方法には、どのような特色があるのだろうか。日常、わたしたちは自分を中心に考えている。内観では、自分の対極にある他のひとの側から自分を考える。だからはじめは、なかなか内観になじめない。内観の思考への切りかえができるのは、おおよそ3日目ぐらいからである。こうしたプロセスで、少しずつ他のひとの立場を発見し、相手からみられた自分の姿がみえてくるのである。それにともなって、相手への共感も深くなる。 [1914] たとえば、病気したとき、母が寝ないで看病してくれたことなどを思いだすが,そのときの母の心にまで入りこみ、母の苦労や愛に思いいたる。母にたいして年代順に内観するうちに、母の愛をくりかえし追体験し、このプロセスで心が温まり、身体までも温かくなる。 [1915] このように相手の身になって自分をみつめるあり方と、そこから生じる共感の心は、迷惑と嘘と盗みのテーマに取りくむ道筋で、いっそう深くなる。他のひとへの迷惑,誤り、嘘、盗みなどが浮き彫りにされ、身にせまる。そこで、自分が本当に悪かった,心からすまないと思う。すなわち、深いさんげの中に吸いこまれる。このときに心の転機がおとずれる。自分は、多くの人たちに守られ、助けられていることがわかり、生かされているという実感を強くする。 [1916] このときなぜ、心の転機がおとずれるのか。吉本伊信は、内観を「心の大掃除」とよんでいる。自分を見直す内観のプロセスで,多分、生命の洗濯が行われているのであろう。また、心の中の抑圧、ストレス、しこり、心理的な不安などもとかされるのであろう。心は晴れ晴れとなり,生まれ変わったような体験をし、心は喜びと感謝に充たされる。 [1917] このような内観は、今日、不登校、非行、心理的な悩みのなどの解決に活用されている。また、とくに心理的な悩みをもたないひとも、自分を見つめ直してみるために、内観を行っている。 おわりに [2001] これまで見てきたように祖先たちは多くの遺産を残してくれている。一見、古くさいと思われるものも、その時代を生きた人たちが生んだ知恵であり、吟味してみれば捨てがたい魅力がある。 [2002] 今日、科学技術が発達し、物は豊かに出まわり、暮らしは便利になった。次々に新しいものが現れ、古いものは捨てられる。情報化社会といわれ、情報や知識の量はふえ、視野はひろくなった。コンピュ−ターが普及し、やがてマルチ・メデイアの時代がやってくるという。一見、華やかであるが、先行き不安で、危機意識もある。 [2003] こういう時、先人たちが残してくれた「心の原風景」を掘り起こし、見直してみることは、わたしたちのあり方の反省を促し、導きにもなってくれると思うのである。