アクセル・ホネット「公正と情愛の結びつきとの間で −− 道徳上の論争の焦点にたつ家族 −−」 藤野 寛 はじめに [0] 以下において、『ドイツ哲学誌』1995年第6号「家族と公正」特集にアクセル・ホネットが寄せた論考「公正と情愛の結びつきとの間で−−道徳上の論争の焦点にたつ家族」*の内容を要約的に紹介する。この雑誌の編集同人の一人であるホネットは、一時ハーバーマスの助手をつとめたことがあり、「フランクフルト学派第三世代」という言い方をすればそのリーダー的存在とみなすことができる。彼の家族論は、キャロル・ギリガン以降北米で展開を見ている「ケアーの倫理学」から強い理論上の刺激を得ていることは言うまでもないが、他方で、すでに1930年代にマックス・ホルクハイマーが組織した共同研究「権威と家族」以来の理論的伝統に根ざすものでもある。それ故、ホネットの論考の内容紹介に先立って、ホルクハイマーの問題関心の要点解説を付した。加えて、きわめて明快でかつ興味深いこの論考に対する紹介者自身の感想を、最後に添えた。 * Axel Honneth, Zwischen Gerechtigkeit und affektiver Bindung--Die Familie im Brennpunkt moralischer Kontroversen,in: Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie 6/1995, Schwerpunkt: Familie und Gerechtigkeit(Herta Nagl-Docekal), S.989--1004.  Honnethは"Desintegration−Bruchstuecke einer soziologischen Zeitdiagnose"(Frankfurt/M 1994)でも、第九章で「家族の構造転換」を主題として取り上げている。 〔1〕ホルクハイマーについて一言 [1.1] ホルクハイマーは市民社会の「冷たさ(Kaelte)」ということを繰り返し、ただし常についでのように口にした思想家だった。その時考えられていたことが「感情の希薄さ(Gefuehllosigkeit)」であったことはほとんど同語反復のように明らかである。冷たいのは「目的合理性(Zweckrationalitaet)」によって隅々まで支配し尽くされた、「すべてのコミュニケーションが取り引きである」ような(「契約関係であるような」と言いかえても差し支えないだろう)社会だった。 [1.2] では、ホルクハイマーは「暖かみ(Waerme)」をどこに見い出していたのだろうか。有力候補として「家族」が名乗りを挙げえたと考えることは見当違いではないはずである。けれども、家族を「愛」を唯一の原理とし「調和」の支配する安らぎの場、社会からの避難所とみなすオプティミズムはフロイト以降もはや成り立たない。イデオロギーの嫌疑を免れることはできないだろう。家族とは、葛藤の場であり、ヒステリー患者の工場であり、わけても「権威の学校」*に他ならない。ところで、ホルクハイマーにおいて「権威(Autoritaet)」は「自律(Autonomie)」と常に手に手をたずさえる概念である。「権威に弱い性格」は「自律した性格」に対置される。ホルクハイマーにあっては−−『権力の批判』でホネットが詳細に分析しているように、アドルノにおいてもまた−−家族は、自律しているように見えてそのじつ権威に弱い、適応・迎合(Anpassung)に長けた社会的成員の製造の場、自然支配をこととする社会関係が内的自然支配という形で人間の内側にまで浸食してくることを可能にする媒介機関である、という話しになってしまう。 * Max Horkheimer: Autoritaet und Familie(1936),in: Gesammelte Schriften Bd.3, Frankfurt/M 1988, S.399f. [1.3] ここから『権力の批判』のホネットは、ジェシカ・ベンジャミンらの研究を援用して、ホルクハイマー/アドルノの家族論が、「理性の自然支配」モデル、「主体/客体」モデルに依拠するあまり、家族における間主体性の側面に対していかにSensibilitaetを欠いた理論の展開に陥ってしまっているかを暴露してゆくのである。例えば、子供が父親の権威との戦いを通して自我を確立・強化してゆくというストーリーが、核家族においてはもはやスンナリ成り立たなくなる、というのは事実だとして、どうしてそこから「自我の弱体化−−文化産業によるエスの直接操作」という話に突き進んでしまうのか。例えば「母親のはたす役割りの重要性の高まり」という方向に話がすすんでも少しもおかしくないはずではないか、と。* * Axel Honneth: Kritik der Macht, Frankfurt/M 1986, S.106f. 邦訳:『権力の批判』法政大学出版局 叢書ウニベルシタス 369 (120 頁-- ) [1.4] もっとも、ホルクハイマーは「個人 − 家族 − 社会」という三項関係において、家族を社会のAgenturとして捉える視点のみならず、社会から個人を保護する機関として家族を捉える観点をも全く欠落させていたわけではない。特に、ナチズムのような強制的管理支配体制下では後者の機能の意義は相対的に増したはずである。実際、前者の視点からのみ考えると、家族解散(解体)、反権威主義的教育の方向に突っ走ってしまいそうなものだが、ホルクハイマーは、ほったらかしにされた子供が強い自我を形成するというものではないことを、きちんと押さえていた。* 家族は「反権威主義的要素も含む」**とさえ言うのである。(統一後のドイツで、若者−−ちょうど「六十八年世代」を親にもつ子供たちだった−−による外国人への暴力事件が続発するのを眼前にして、その「六八世代」の人達が、反権威主義的教育の是非について反省する作業に追い込まれる、ということがあった。) * Horkheimer, Autoritaet und Familie in der Gegenwart(1947/1949),in:GS 5, Frankfurt/M 1987, S.394 ** Horkheimer, Autoritaet und Familie, S.408 [1.5] けれども、その場合もホルクハイマーは、強制支配から個人を護る原理として「自律」を掲げうるのみで、手持ちの概念装置はそれ一つきりなのだ。「暖かみ(Waerme)」を可能にするものについて積極的に理論構築してゆくことはできない。理性を補う原理として感情について語ろうとする時も、ホルクハイマーの否定主義の立場が「共苦(Mitleid)」というようなnegativなそれについて語ることしか許さなかったのだ、ということか。 [1.6] こういう理論史的背景に立って考える時、ホネットの論文のタイトルが「公正と情愛の結びつきとの間で」であることは、いかにも象徴的だし、議論の方向性も既に予想できるような気がする。 〔2〕アクセル・ホネット    「公正と情愛の結びつきとの間で−−道徳上の焦点にたつ家族」  (1) 前史 [2.1.1] 近代(現代)の家族は、資本主義的な工業化の進展の動きの中で、プライベートなものの場所として確立されてきた。小家族(さらには核家族)の定着の過程である。 [2.1.2] この近代家族を構成する諸関係が抱え込むmoralischな問題として、次の三点が挙げられうる。 (一) 家族を構成する中核中の中核である夫と妻の関係に関して:  これを、社会的・政治的影響の一切から解き放ち切り離すべきか、またどの程度までそうすべきか。  この問いの背景には「結婚というものは、もっぱらお互いの愛情のみに基づくものであるべきで、それ以外の打算に依存すべきではない」という理想がある。 (二) 親の子供に対する関係について:  子供を働かせることによって親が経済上の支えを期待することは認められるか、禁じられるべきか。  「子供時代というのは外部から特別に保護されるべき独自の一時期をなす」という考え方が、理想として、近代家族において初めて生まれた。 (三) 家族全員(妻・夫・子供たち)に即して:  資産はどのようにして公正に分配されるべきか。  新しい家族観には富の分配・財産相続をめぐる「平等(Gleichheit)」の理念が結びついている。 [2.1.3] これが、十八世紀中盤以来、小家族という新しい機関をわずらわせてきた三つの問いである。 [2.1.4] その後の約二百年の展開が示しているのは、家族にまつわる(上記三つの理想に照らしての)社会的な弊害・問題というのは、いずれも、「家族が社会という枠組みから依然として不十分にしか身を振りほどいていない、切断・分離されきっていなかった」という事実に由来するものだった、ということである。夫婦関係を社会的影響から解き放つことにせよ、子供の労働の禁止にせよ、財産配分の法的規整にせよ、家族をプライベートなものの場として確保するためにこそ解決されなければならない問題だったのだ、という風に特徴づけることもできる。 [2.1.5] けれども、階層固有の時間のズレはあるにせよ、この間、上記の理想に呼応する状況が大体において達成されている、と言えるのではないか。つまり、肝腎なところでは社会的・経済的な強制によって規定される機関であったものが、変じて、今では、純粋に二人の関係だけから成り立つ構造ができあがっている。感情の結びつきが人と人とを結びつける力の唯一の源泉であるような関係構造としての家族 ! メンバー個々人の感情が、そしてそれだけが、キーとなるような生活の場としての家族 ! −−−−− [2.1.6] さて、そのようにして家族なるものが社会から身を振りほどき言わば自立してゆく過程の中で、家族にまつわる問題の所在もまた「外から内へ」と移動してきている。今日、家族がかかえる問題として議論の対象になっているのは、例えば、青少年の非行化ないし児童虐待であり、家事労働の不公平な分担であり、夫婦内での妻に対する(性的)暴力であり、いずれも、プライベートで親密な領域の内部における問題なのである。 [2.1.7] そして、問題の移動に呼応する形で、それらの問題の解決策として提案されるその提案の向きが、二百年前とはちょうど正反対になっている。即ち、(家族を社会的影響から切り離す方向ではなく)家族内部に法的拘束力の及ぶ範囲を広げるか、あるいは政治的公正が有効性を発揮する領域に家族を全面的に従属させることを通して、家族をもう一度しっかりと社会的公正の領域に統合しなおすことはできないか、という方向に問いかけが発せられているのである。家族をプライベートで内密な領域として確保・救出しようとするのではなく、逆に、国家や社会といった制度的なものに再度つなぎ止めようとすること。 [2.1.8] 具体的には、親の恣意や権威から子供を保護するための権利条約の制定を求める声とか、夫婦関係内部での女性への身体的暴行を刑罰の対象としようとする企てとか、また、より一般的に、家庭内部に公正で対等な関係のための条件を生み出すためには道徳的一般化可能性テストの妥当範囲を家族の内側にまで広げることが必要ではないか、という問いかけ、とか。  (2)現状分析 [2.2.1] 今や、もっぱらプライベートな生活のために別個に確保された領域というものが、家族に対して開かれた。 (一) 結婚というものをもっぱら愛情関係の内に繋留させること (二) 児童労働の禁止 (三) 財産分配の法による規整−−この三点を通して。 [2.2.2] もちろん、この達成に関して、市民層において速やかに実現され、(肉体)労働者層は長い闘争を必要とするという階層間格差はあった。とはいえ、二十世紀も初頭に入る頃には、大部分の層において、近代的なタイプの家族を形成するための条件は整っていたと言えるだろう。それ以来、家族は、いわばautonomな(社会関係からは独立した)展開を示し始めた(家庭生活の伝統からの脱却)。そして、そこから、家族とそれを取り巻く社会的・経済的世界との関係をではなく、家庭生活そのものの内部を襲う新たな(これまでになかったタイプの)危険が生み出されてくることになる。  (ホネットは、このプロセスを「逆説的」と形容する。本当に「逆説」か。いかなる意味で逆説か。)  「新たな危険」 その一 [2.2.3] 家族が社会的労働の領域に直接結びつけられていた間は、内部の関係が感情の動きにのみ支配されるという余地は少なかった。ところが、結婚するか否かが社会的・経済的計算から独立し始めるにつれて、家庭を築くという決断が、パートナーが相手に対して抱く感情の動き(のみ)に規定される度合いがどんどん高まる。つまり、二人を結び付ける要因というのは「純粋に」ひたすら積極的な感情の存在のみ、ということになり、この関係の運命はひとえにこの感情が持続するか否かにかかってしまう。 [2.2.4] ところが、よく知られているように、お互いに対して向かってゆく感情というものは、「意思の力で自由に動かすことのできない(unverfuegbar)」もので、つまりは、二人の関係というのは、どんどん「不安定な、もろい(fragil)」ものになってしまう。つまり、伝統的な役割分担・役割期待から切り離されて、家族は、どんどん個人の感情や気分の流れ(気まぐれ)に左右されるものとなる。(愛のロマン主義!) [2.2.5] のみならず、結婚というものが、感情面での結びつきの表現以外の何物でもない、という話しになると、愛情と家族(という形式)との間に関連があるべきである、という考え方の解体を阻止できるものは何もなくなってしまう。「性愛」「結婚」「同居」「子育て」の結びつきは「感情」が前面に出てくる中で、ばらばらになってしまう。 −−−−− [2.2.6] 家族という関係の中で、感情という要因の比重が高まり、その他の要因が後景に退くことで、一方で、個人の自由の範囲が広まることは言うをまたない。しかし、他方で、このプロセスは「高められた荒廃(sublime Verwahrlosung)」を結果してくる。子供が両親の関係の不安定化に直接さらされその犠牲になる、とか、妻が夫の暴力の爆発の犠牲になる、とか。「小家族が自立してゆく過程の中で、家族関係の混乱・荒廃という新しいタイプの危険が生まれ始めている。」  「新たな危険」 その二 [2.2.7] 第二の展開は、性差に特有の役割り分担というものが徐々に解消されてきた、という点に関わる。特に、それは、女性が労働市場に組み込まれてゆくことを典型として(家族の外の)社会という場で起こっている。もちろん、近代家族の理念が成立したのは、性差に固有の特性に関する紋切り型的偏見が未だ強固な時代であったから、ロックからヘーゲルまで、男は外で働いてお金を稼いできて家長として君臨し対外的に公的役割りも担当するのに対して、女性は子育てと家事に心を配る、という伝統的見解に囚われていたけれど、市民層より下の階層の小家族においては、そういうクリシェー通りに事が運ぶものではないことは、早々と明らかになった。一方で、父親の仕事は不安定で大した力になどならず、他方、母親は家事に専念する余裕などもてはしない。伝統的な役割り分担のこの解体過程は、例えば、三十年代以来の「父親の権威失墜」をめぐる議論にも反映している。ましてや、先進工業国で女性の職場進出が進みだすと、伝統的な女性イメージはますます疑問にふされることになり、クリシェーは、家庭の外・社会における性別役割り分担のみならず、家庭の内側でのそれを正当化する力も失ってしまう。つまり、性差に特有の仕事の分担を正当化する伝統的な主張は、家庭の外での動向に促されて、既に説得力を失っているのだが、にもかかわらず、家庭の中では「男の習慣性(惰性・怠慢)」からくる力づくの抑圧のもとで、家の中で男の疲労回復を助けたり子供を育てたりする仕事は、相変わらず女に押しつけられるという状況が続いている。今や、社会ではなく、家族こそが、女性の個としての自律の実現を阻み、女性が、癒されるどころか、傷つけられる場の最たるものとなってしまっているのである。  (この状況描写は、しかし、ドイツや、さらに顕著にはフランスやアメリカにはあてはまるかもしれないが、日本では、どうか。)  「マトメ」 [2.2.8]  (1) 家庭生活が脱因襲化するにつれて、子供の傷つけられ易さは「とてつもなく(enorm)」増大した。子供たちは、大人がころころ変わる感情に合わせて下す決断や行為から自力では自分を守れず、その犠牲になってしまいかねない。  (2) 家庭生活が脱伝統化するにつれて、家庭内部での分業が、それこそ、女性の自律の実現を阻む主たる社会的制約をなすに至ってしまっている。  (3)思想史的回顧 [2.3.1] 家庭生活において女性に帰せられるべき役割りが元気回復と子育てのための仕事である、という点では、哲学者たちはおおむね見解の一致を見ていたわけだが、家族関係に正当性を与えるための立論においては、二つの対照的な、しかも共に大きな影響力を持ったモデルを取り出すことができる。即ち、契約関係に基づけるモデルと、感情の共同性に基づけるモデルと。 「I」カント [2.3.2] 結婚を、二人の自律主体の間で結ばれる契約の内にその最内奥の核が存在する関係として、最も首尾一貫した形で解釈したのが、カントだった。 [2.3.3] 自然な「性の共同態(結婚関係)」は、性を異にする二人の人格を結びつけてお互いの性的特性を生涯にわたって相互に所有し合うようその結びつきを調整する、そのような契約に基づいている時、法に適っている、と言える。 [2.3.4] カントがこういう理論構成をせざるをえなかった前提にあるのは、彼の「道徳的自律」の概念だった。つまり、カントは、お互いを(実際には男が女を)もっぱら性欲の対象(客体)として取り扱ってしまう、その危険を性関係の内に見い出していたわけだ。もちろん、それでは、人格を単なる手段として取り扱うことを厳しく禁じる彼の考えと衝突することになる。 [2.3.5] この危険は、二人の人格が互いを「もの(Sache)」として獲得しつつ、しかし、そのことを通して自律した契約相手と捉えその人格性を再建する、そういう条件の下でのみシャットアウトされうる、とカントは言う。とにかく、相手の性欲の単なる客体になってしまうという危険から身を護るというdefensiv-negativな関心が土台にあり、そのためには、お互いに対して同等の権利を保障する契約こそ最善の方法だ、と見るのである。人間が自然にそなえる性欲の充足という点にからめて結婚の正当化をはかる、というのはキリスト教の伝統に属し、カントも、性的快楽そのものの内にではないにしろ、そこからくる人格「客体」化の傾きの内に存する道徳的な危険を取り除くことに、結婚の根拠を認めるのである。逆に言うと、結婚とは、人が道徳的尊厳を失うことなく性欲を充たすことのできる社会制度だ、ということになろう。 「II」ヘーゲル [2.3.6] この契約への還元主義的な見解にヘーゲルが真っ向から異論をぶつけたわけだが、彼の異論も同じくキリスト教の伝統の活性化という面を持つ。即ち、結婚を、性的快楽がはらむ危険からではなく、感情的関係の持つ道徳的実質から説き起こして正当化しようとするのである。 [2.3.7] それによれば、結婚とともに全く新しい何物かが生み出される−−二人のパートナーの互いへの愛が、二人の人間の間により高い一体性を成立させる、そのような合一を可能にする限りにおいて。(なんとロマンティックなことか。)『法哲学』においては、ヘーゲル自身、このモデルをカントの契約モデルに対抗する代案だとはっきり意図して提出している。 [2.3.8] ヘーゲルは、結婚を単なる契約関係に還元するやり方は、二人の関係の実質をなすものを捉えそこなわずにはすまない、と言う。なるほど、いかなる結婚も契約を結ぶという形式をふむことによって初めて打ち立てられるわけだが、この契約の締結は、現実に感情の共同性が築き上げられ遂行されることの内に「止揚(aufheben)」されるためにこそ存在するものだ、と言う。パートナー一人一人の願望や欲求が権利として主張されねばならないようでは、既にもう成功した結婚とは言えない。そう言えるのは、その願望や欲求がお互いに愛し合い手を差し延べ合うことを通して充足に至る場合にのみなのだ。だから、お互いに離ればなれのパートナーが、その目的に達するために、いかなる感情を形成することもなく相手に対する要求を掲げ合わねばならない、というような権利の関係をモデルにして結婚や家族を考えることは、誤りであるのみならず、醜悪ですらある。 [2.3.9] この考察には、ヘーゲルがイエナ期にあたためていた、様々な「承認」の形を区別するという考えが土台を与えている。つまり、契約関係においては、主体は互いに対等の権利の担い手として相手を認め合うのに対し、愛や家族というものは、互いに心を差し向け合うことを通して個々の欲求そのものが確認を得る、そういう承認のあり方として特徴づけられるのである。 [2.3.10] 要するに、家族というものは、互いのpositivな感情の合一こそがそれぞれの願望の充足を可能にするのであるが故に、決して単なる権利の関係を示すものではありえない。 [2.3.11] さて、問題は、愛における合一というものが、家族において、契約関係を単に補うものなのか、それとも、これに完全に取ってかわるものなのか、という点なのだが、ヘーゲルはこの点を曖昧なままにしている。上に、「aufheben」の語が用いられたが、ヘーゲルはここでも(しばしばそうであるように)どちらの解釈も許すような仕方でこの概念を用いている。 [2.3.12] で、問題をより具体的に把握できるようにするために、ヘーゲルの考えを強く解釈して、カントのモデルに対する完全な代案(Alternative)へとねり上げることが許されるだろう。すると二つの範型が成立する。権利モデルと感情モデル。 (1) 権利モデルにおいては、家族のメンバーの関係は、権利と義務という範型に従って構想される。社会の関係が一般にそうであるのと同じように、家族においても、一人一人の人格は一定の権利要求をなしえ、それは他のメンバーによって満たされねばならない。各自が他のメンバーの正当な権利要求に応じる義務を負うことになる。  ここでポイントとなるのは、権利・義務に関するメンバー間の左右対称性・互換性ではない。肝腎な点は、家族外で道徳的自律の原理のもとに確立されているのと同じ公正性が、独特の条件のもとでではあれ、家族においても支配するのでなければならない、というその考え方なのだ。このモデルでは、公正という普遍原理が、家族の中で独特の文脈にふさわしい仕方で適用されるのだ、とも言える。「家庭の中でもパートナーの道徳的自律を尊重し、また子供の場合、自律の貫徹がうまくゆくように手助けをしてやる、そういう行為、姿勢が公正なのだ。」権利をそなえる人格への尊敬という最低限の条件が感情を盾にとってふみにじられることは、家庭においてもあってはならない。 (2) 感情モデルは次のような直観から出発する。  家庭において、メンバーから、権利主張の性格をおびた要求が掲げられる時には、家族生活の(道徳的)実質は既に壊されてしまっているのだ、と。なぜなら、家族の成員の間の関係というのは、うまくいっている時には、権利と義務のやりとりの内にではなく、気づかいと思いの差しむけを互いに保障することの内に成り立つものなのだから。このモデルの要点は、(同じく、左右対称性・互換性にはなく)家庭内での道徳的姿勢の源泉は、権利と義務への合理的洞察なのではなく、思いやりと愛の感情あるのみ、とする観点である。このモデルを土台にする場合も「公正」について語ることは可能である。すなわち、公正なのは、ここでは、一人一人の家族の成員の欲求がそのあり様にふさわしい仕方で充足されるよう手助けする、そういう行為と姿勢なのだ。 −−−−− [2.3.13] この二つのモデルにおいて、家族の内部で公正とみなされうるものは何によってはかられるのか、というと、前者の場合、個々人の自律という一般原理であり、後者の場合、一人一人の成員のそれぞれに固有の欲求だ、ということになろう。 [2.3.14] この二つのモデルの相違、対照性が完成するのは、パートナーの欲求に公正に応じうるためには個々人の自律に制限を加えねばならないという可能性が、第二のモデルから、帰結する場合である。 (4)現状へのモデルの適用 [2.4.1] この両モデルが構想されてから二百年が経過し、それらが理想として掲げたところと家族の現状との間には、架橋不可能な溝が口を開いているかに見える。一方で、性というものをそれ自体道徳的に非難さるべき対象とみなす見解は、性の解放を経て今や力を失い、従ってお互いを性的に道具化する危険に対してわざわざ契約でもって対処する必要などもはや存在していまい。他方、家族の自律化こそが、権利保護の対策を講じなければならない状況を生み出してしまっている現実は、ヘーゲル的「契約モデル」批判からも我々を遠ざける−−−−−ように見える。 −−−−− [2.4.2] にもかかわらず、家族をめぐる道徳的問題を解明する上で引き合いに出してこられるのは、依然として、カント、ヘーゲルによるこの二つのモデルであり続けている。 [2.4.3] 一方で、カント・モデルの再活性化によって、家族の内部でも個々人の権利を強化することを通して公正な秩序を打ち立てようとする−−そのことで、家庭内の荒廃や、家事労働による女性へのハンディの押し付けへの対抗策としようとする試みがなされている。(性欲ゆえのものでは必ずしもないとしても、別の動機による女性、子供に対する人格性蹂躪ではあるわけだから。) [2.4.4] 他方、ヘーゲルの契約説批判(の精神)に依拠することで、家族は権利的ではない連帯の領域としてのみ唯一生き延びてゆくことが可能となる、とする観点に固執し続ける企てが存する。それによれば、家庭内部の様々な緊張関係が解消されうるとすれば、それはもっぱら、愛と心配りの感情をあらためて動員することを通してのみだ、とされる。 −−−−− [2.4.5] この両理論の現状に照らしての評価という点では、大勢としては、前者の試みの方こそ、性差に起因する家庭内での不平等を克服する上で有効性を持ち、後者の試みの方たるや、家庭というものをあらためて引き締め・強化せんとする保守派の目論見の片棒を担ぐことにしかならない、という捉え方が支配的だろう。カントモデルこそ、対等な関係のための条件を家庭内に整えることに貢献するもので、ヘーゲルモデルの方は、動揺著しい家族なるものを昔ながらの形で温存しようとすることにしかつながらない。愛情だの心配りだのといった態度・姿勢を引っぱり出すことは、従来の性的役割り分担・分業をそのまま存続させることにつながりかねない。そういうわけで、家族の危機という道徳的な問題を解決するためには、カントモデルを掲げて闘うことこそ正しいように見える−−と本当にそう言えるか? −−−−− [2.4.6] かくして、現状の家族が抱える問題を解決してゆこうとする上で、ではこの二つのモデルは有効か、有効だとすればどのように有効かという「応用(Anwendung)」の問題にいよいよ突入するわけだが。 [2.4.7] どちらか一方のモデルだけが独立で、しかも他方を排して適用可能であると考えることは誤りであろう。家族とは、もっぱら、メンバーが互いに権利主張をぶつけ合う公共的な場か、感情の結びつきだけがものをいう私秘的な場か、と二者択一を迫ることは不毛だろう。現状のパラドクス的なあり方自体がそれを許さない。いかなるパラドクスか? [2.4.8] 近代は、家族を公共的なもの(社会・経済生活)から切り離し、独立・自律した領域として確保しようとしてきたはずなのに、その結果として、家庭生活は、こわれやすくも不安定な「感情」なるものの手中に落ち、その寄せては返す波に翻弄されっぱなしで、その暴発の危険にとりわけ子供や女性がさらされるということになり、まさにそれ故にこそ、人権という公共的理念を家庭の中に持ち込むことによって家族成員一人一人の人格としての尊厳が保護される必要性が増大しているのである。 [2.4.9] 二つのモデルは「あれか/これか」の関係にあるわけではない。一方を成り立たせんがためにこそ他方が要請される、しかし、両者は両立・共存の関係にあるとは必ずしも言えず、それどころか摩擦を起こし続ける、そういう関係にあるのだろう。 qo「家族とは、両方の道徳的志向が休みなく衝突し続ける、そういう社会領野だ。」 [2.4.10] 家族のメンバーは、誰もがそれである権利主体として認められないことには人格としての尊厳が護られえないが、しかし、同時に、他の誰によっても取り替えのきかない唯一人の主体としてお互いに認められ、特別扱いの注意深さと心配りでもって個人としての幸福がはかられねばならない存在でもある。最初の方の「認められること(承認)」が消えると家族成員の自律が脅かされ、後者のそれがひからびると、家族を結び付ける絆は擦り切れてしまう。 −−−−− [2.4.11] では、家族内部で、この二つの道徳的志向の間に線引きをすることは可能か。それについて何が言えるか。 qo「家族の中で、愛によってお互いを認め合うあり方の独自性がものを言い始めるのは、いや、むしろ、言い終わるのはどこからか?」 [2.4.12] 最もわかりやすい例は、家族という共同体内部で、その成員が権利を具えた人格としての尊厳すら認められていないと見做さざるをえない場合で、権利モデルを適用し、普遍的公正(正義)の原理に訴えねばならなくなる。(大人の場合は自力で、子供の場合は法の共同体が代理する形で。)さらに一点つけ加えておくべきは、法が家族に対して有する機能として、成員一人一人に家族から足抜けする機会を常に保証する、ということがある。要するに、主体たちが、身体的・精神的な危険に脅かされる不安なしに、愛を基礎とする共同体を実現する営みに着手しうる、そういう制度的空間が、権利モデルによって構成されるわけだ。 [2.4.13] では、家族内部でも、人が権利を具えた人格として認められるとは、どういうことか。個々人は、たとえ家族の一人としてですら、依然として普遍的な権利の担い手であり続ける、ということだ。「主体としてのすべての人間を道徳的自律性において、そして目的それ自体として尊重するという義務は、家族共同体の門を前にしても消え失せはしない。」 [2.4.14] そして、もし、家族のメンバーが権利主体として認められることを要求するにもかかわらず、その要求が通らない時、最後の保護手段として、国家によって裁可された法に訴えるという途が初めて開かれる。権利主体として認められることへの道徳的要求に対して法的措置でもって応じようとする度合いが高まりつつある現実の動向は、家族の内部においても保護を必要とするケースがいかに増えているかという点が、法共同体によっても充分に認識され始めているという流れを物語っているだろう。 [2.4.15] そのことを通して、公共性の領域が家族というプライベートな領域の中にずれ込んできているのだ、と言える。だから、国家の介入可能性と、プライベートな自由裁量との間の境界はどこにあるのか、という問いが立てられることになる。 [2.4.16] ただし、家族の内部での公共的領域と私的領域との間の境界線という問題と、上述の、権利モデルと感情モデルとの間の境界とは、ぴったり重なり合うわけではない。というのも、国家により裁可を受けた法が家族内で口出ししてくる領域は、公正(正義)という普遍的原理に訴えかける区域よりずっと狭いものだから。逆に言えば、家族の成員は、家族内部で自らの法的権利がないがしろにされた場合になってようやくではなく、自分も対等に扱われたいという道徳的欲求が無視され続ける時に、既に、その尊厳が傷つけられていると見做してよいのである。そういう場合には、既に、そのメンバーは家族的相互行為の成り立つ感情(情愛)の場を立ち去って、合理的に受け入れ可能な義務の次元に注意を促してよいのである。この舞台の転換とともに、道徳的ボキャブラリーも変わる。 −−−−− [2.4.17] ある家族成員が、特定の関心に基づく要求を掲げるにもかかわらず一貫して無視され続ける場合、彼(女)は相互性という性格をそなえる義務のレベルに訴えるわけだが、そのレベルというのは、原理的には、理性を具えた存在であればみんなが受け入れることができるような議論が応酬されるレベルである。ところが、そういう普遍主義的アピールが発せられる時には、家族というものに特有の相互行為というのは、既にもう捨て去られてしまっているのだ。家族においては、他の成員の欲求や関心に応じる義務というのは、普遍的原理の受け入れからではなく、共に分かち合われた感情から帰結するものなのだから。そして、そういう義務づけというのは、個々人に固有の欲求や能力に応じた特別扱い・優遇・贔屓(Bevorzugung)というものを要求してくるものなのだ。ある要求が掲げられ互いにそれに応ずる義務があることを説得しようとする場合、誰であれすべての主体が理性的にフォローすることの可能な論証によってそうするかわりに、当の相手にとって、もっぱら相手に向かう心の傾斜のおかげで了解し受け入れることも可能となるような、そういう相手の人柄に寄り添うような考察によるものであるわけだ。 [2.4.18] 問題はこうも表現できるのではないか。  家族というこの特異な社会単位の独自性というのはどこにあるのか。愛情を基礎にしてお互いを認め合い受け入れ合うというこの承認の形が家族の実質をなすのはどの程度までなのか。つまり、一方で権利モデルだけでいくと、何故あえて家族という関係に入るのかが−−一人でやるにはしんどい子育てという仕事を二人で分担しましょうという目的以外には−−見えてこなくなる。しかし、そうかと言って「愛情」を振り回して家族を治外法権の場にしてしまうと必ず犠牲者が出るし−−愛情が持続していても出るだろうしそれが弱まったり消えていたりしたら悲惨である−−出た場合、保護することができない。 −−−−− [2.4.19] とにかく、家族関係が友情と共有する性質、即ち、特定の相手に向かう心というものに基礎を持ちだからこそ互いを思いやったりいたわったりもするという性質を前面に打ち出すと、まるでヘーゲルモデルの方がカントモデルよりも優れているかのような印象を与えるが、しかしその結果、家族の成員が家族という感情の結びつきの場を立ち去る理由を常に正当にも有しているのである、という点まで忘れてしまうようなことがあってはならない。この点で、ヘーゲルは静態的で理想主義的な思いやりと愛の家庭イメージというものにあまりにも囚われすぎていたために、家庭内部の緊張関係というものを全く度外視してしまっているのだ。家庭の中にお互いへの思いやりさえあれば当事者みんなの関心を本当に充たすことになるのか否か、について疑念のきざすことなど、ヘーゲルには全くなかったのだ−−当時、既に、役割りの指定をめぐる過大な要求に対して反旗を翻す女性が散発的にではあれ現れ始めていたにもかかわらず。 qo「他ならぬ相手を思いやる行為こそが、相手の個人的関心を傷つけてしまうことが容易にありうるのだ。というのも、往々にして、そういう行為は、最高の善意に基づいて、しかし相手の欲求への誤った解釈に基づいて行われるものなのだから。」 [2.4.20] そういう解釈というのは、単なる紋切り型の考えによって導かれているため、相手の新しい欲求や関心が言葉に分節され表現されているにもかかわらずそれをきちんと受け止めることが不可能となっている。相手の欲求の内で伝統的な知覚図式にあてはまるものしか受け止め充たしてやろうとしない傾向というものを、自らの家族像の中に批判的に取り上げるということは、ヘーゲルにはなかったのである。 −−−−− [2.4.21] 家族を、感情に基づく実質を失わせることなく、つまり、単なる協力関係に落ちぶれはてさせることなく、しかし、必要な改良を実現し新たな危険にも対処してゆくためにはどうすれば良いのか? [2.4.22] 一方で、解決を求めている中心問題が、家事労働のはなはだしい不平等配分という点にあることは確かである。しかし、そこから、直ちに、家族とは公正という普遍原理に従って改組されるべき制度である、と単純に結論づけてはならない。それだと、家族に固有の感情的結びつきという徳性を一層弱めてしまうことにしかならないだろう。これが衰弱してきていることの結果は、家族の感情面での荒廃という傾向の広がりに、既に大きな責任を負っているのだ。この点で必要なのは、家事労働配分の改善を促し速めることにつながるような労働政策上の措置が講じられるよう、公共のディスカッションを強化することだろう。 [2.4.23] 他方でしかし、この感情面での荒廃の広がりという現実に直面して絶望のあまりノスタルジーに陥り、愛と思いやりという感情的結びつきに切り縮めてしまうような家族理念をもう一度反動的に呼び出してこようなどとは絶対しないことだ。現状における家族をめぐる課題の中心は、あくまでも、社会的平等の実現の面でかち取られた前進を感情の結びつきという次元にまで遡り移し入れ戻してゆくことなのだ。  (5)付言 [2.5.1] 公正の原理と感情的結びつきのそれとは、安定した両立関係に落ち着きうるものでは決してない。それは、緊張をはらんだ関係でしかありえず、しかもそのバランスの発見という課題に対しては、これとして差し出されうるような解答はなく、プロセスの中で発見されてゆくしかない。 [2.5.2] 「それぞれの家族は、自らに特有のケースにあって、正義という普遍原理に対してどこで限界線を引くべきかについて、可能な限り強制にならない仕方で、話し合い了解に達する努力を繰り返さなければならない。理性的に洞察されたことをあらためて感情的姿勢の中へと移し戻し入れてゆく個々人の能力がどの程度に及んでいるかは、家族成員が議論の応酬を通して一緒に探ってゆくしかない。家族の将来は、ディスカッションを通しての反省−−それによって公正と感情的結びつきとの間の適切なバランスが常に新たに見い出されてゆくのだが−−という能力を育んでゆくことにどこまで成功するかにかかっている。」 〔3〕感想 [3.1] この論文を読み要約の作業をする中で、私は約十年ぶりに「家族」について考えることになった。そして、かつてと比べて、その議論の内容もそれを受け止める自分もものすごく変わってしまったようでそのことに強い印象を受けた。その変化は「家族解体」という言い方に対する反応に関わる。かつて私は「家族は事実として解体しつつある」のみならず「家族は解体されるべきである」と考え感じていたとおもう。例えば qo「家族という集団自体の原理というものは、内部的には元来市民社会的なものではなくて、普通は共同体的なものですよね。ということは、市民社会的な個人とか、近代的な自我というものとは、どうしても矛盾する面を家族という集団は持ってくるわけです。その矛盾がどうしようもないところまできているのが、現在じゃないかと思うんです。それは現象としては、よく問題になっている家族の解体とか、独身主義とか、、、、、」* というような事実判断に1986年の私は心底うなずいていたのみならず、 qo「ぼく個人の考えを言うと、制度としてのモノガミーというものは、廃止すべきである。というのは、モノガミー一般を廃止すべきだとは言っていないんですけれども、制度としては廃止すべきである。つまり結婚しないことのほうを原則とすべきであって、どうしても結婚したいペアーだけが結婚する。結婚してもいい、そういうのがいいだろうと思うわけね」** という当為判断にも、それを「家族解体」への呼び掛けと理解した上で全面的な共感を抱いていたと思う。 * 見田宗介『現代社会批判< 市民社会の彼方へ >』作品社 1986 年、115 頁。 ** 同書 122頁。 [3.2] 同じ86年刊の別の本の中に qo「<近代>が終焉しつつある。<近代家族>もまた「終焉」しつつある。一部の人々は家族が「解体」しつつあると捉えて、自立を求める女たちが、家族の解体に手を貸していると非難する。だが、「解体」されつつあるのは、たんに<近代家族>にすぎない。言いかえれば、家族は「解体」ではなく「再編」されつつあると言える」* とか、あるいは qo「女たちは家族や生殖からの解放ではなく、抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族を求めている」** というような言葉を見い出して、「なるほど」と感じながらも、しかし、私自身は、結婚せず家族を持たない路線をそのまま突き進んだ。 * 上野千鶴子「近代家族の解体と再編−−核家族の孤立をどう抜け出すか」『女という快楽』勁草書房 1986 年、134 頁。 ** 上野千鶴子「女性にとっての性の解放」、同書 269頁。 [3.3] それが、今回、上記の見田宗介氏の言葉にぶつかって、私が感じたのはむしろ異和感だった。そして、解体をめざすものではないホネット−−「六八世代」の彼がかつては解体論者であったことを、私は憶測する−−の論文にはひたすらなる共感を抱いた。以下に、ホネットの論文に対する感想を、「家族解体」という言い方に対する私自身のこの感じ方の変化にこだわりつつ、少し記しておきたい。 [3.4] 家族解体論は、家族を、対等ならざる力関係が折り重なり入り組み合う一つの修羅場と捉えた。男と女、親と子、年寄りと働き盛り、長男とそれ以外...。左右対称の関係などほとんど一つもない。にもかかわらず、家族を愛といたわりが支配するハーモニーの場である、と言い張るイデオロギーが、この非対称の力関係を隠蔽し抑圧の構造を温存する。その際、強い立場の方に立つ者の愛やいたわりは「無償の愛」とか「無償のいたわり」という面を持つがゆえにどうしても「施す」という性格を帯びずにはすむまい。施される愛やいたわりに対して感謝ではなく反抗で応じるなどということでもしようものなら、極めつけの忘恩の振る舞いとして弾劾されることになっただろう。この押し付けがましい愛に異を唱え押し返そうとすることは容易ではあるまい。 [3.5] その時、「愛・いたわり」の原理に対置されたのが−−今から思えば−−「公正・正義」の原理だったのだと思う。「なるほど、汝は父で私は子かもしれない。しかし、我々は共に同じ人間ではないか。だから、汝の意見であれ愛であれ、押し付けは差し控えていただきたい」というわけだ。我々がともに同じ人間であるのは「自律した人間として」という条件付きではあっただろう。だから子が二十歳になっていなくても一人前の人間であるかのように扱おうとし、またそういう反権威主義的な教育が目指されもしたのだろう。「妻」と「夫」の関係であれば、この「自律」ということを単なる理念・立て前にとどまらせず実質化するために、妻が経済的にも自立する途が追求されたわけだ。 [3.6] ホネットの論文から学びうると思うことは、家族をこの「正義・公正」の原理のみが支配する場たらしめようとすると、その試みは(単に「近代家族」のみならず)家族一般の解体に寄与することになってしまうだろう、という点だ。家族関係には、自律した人格同士が対等な条件のもとで公正という普遍的原理に従って結び合う契約関係というものにはつくされない面が含まれ、そればかりか、その面こそがこの関係の精髄をなすのだから。例えば、結婚する時、他の男(女)は皆眼中から消え相手のことしか考えられなくなり相手一人この世にいてくれればよい、というような排他的な、普遍性のかけらもない感情、感情の強度というものが一つの条件になってはいないか。相手の心の動き(欲求や関心)に対するSensibilitaetというのは、感情の強度と一体になることができるのであり、それは、たとえば「人類愛」(普遍的正義だ!)などというものが人と人の違いに対する鈍感さと感情の希薄さ(人類すべてに対して強烈な感情など抱いていたら身がもたないだろう)のおかげで辛ろうじて成り立つのであろうのと好対照をなす。あるいはまた、子は親と契約を結んでしかる後に産んでもらうわけではもちろんないし、老人が寝たきりになったり呆けたり、家族のだれかが重い障害を持つ身になるや、もう自律した人間同士の対等の関係とは言えないというわけで、契約は解除してあとはおかみ任せ、福祉行政任せにするなどという話にはならないはずなのだ。 [3.7] 要するに、家族解体論というのは、正義・公正そして自律という理念だけで理論武装して家族について考えようとした−−「愛」の方は全く無視したわけではないのだが、家族というような「形式」がなくても「愛」は成り立ちうるから、とさしあたり「家族」論から切り離した−−その結果の、必然的なれの果てだったのではないか。 −−−−− [3.8] 一つの実例で考えてみたい。  かつて、在宅生活を強いられる重度障害者にとって、身近に存在する最大の脅威は母の存在だった。「子供の将来を思いやるあまり」いつ何どき道連れ心中を企てかねない母の存在。のみならず、その障害者が家を出て自立生活を始めようとする場合にも、乗り越えなければならない最大の障壁は、我が子を「保護を必要とする弱く決して子供であることをやめない存在」としてしか感じ取ることのできない、慈愛のかたまりのような母の存在だった。日本の障害者解放運動史に一時代を画した「青い芝の会」の初代会長、横塚晃一氏による古典的著作のタイトルが「母よ殺すな」*であった事実はあまりにも象徴的だ。 [3.9] だから、重度障害者たちは、まずは、最強度の愛、盲目の愛、抑圧的な愛から身を振りほどくようにして、単身自立生活を始めたのだった。始めのうちは「正義・公正」の原理に従う学生たちの介護に支えられて。(「重度障害者も誰もと同様、人間らしい生活、自分のことは自分で決める生活をする権利がある!」) * 横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店 1984 年(増補版第二刷)。  異なった論点からではあるが、同書への言及が「<障害>の視点から見たろう文化」(『現代思想』1996年四月臨時増刊、総特集<ろう文化>46頁-)でなされている。 [3.10] けれども、その後、自立生活を始めた多くの障害者たちは、決して、この「正義・公正」原理に基づく介護体制に支えられた自立生活に自足し続けなかった、と思う。介護という行為にあっては、「これはなされるべきことである」という発想に基づいてのそれは、むしろ薄っぺらなもの、うさん臭いものですらあることが多い。自立障害者たちは、正義感や義務感に従って介護に来る介護者だけではあき足らず、もっと強い感覚的・感情的動機に発して介護に来る人間を求め始めるのだ。介護者が、他の人といるよりも充たされた時を過ごせるからこそ介護に来るという風であることを期待するようになるのだ。パートナーを見つけたり、子供をもうけたり、結婚したりというケースがそこここに生まれてゆく。家族がきずかれるのだ。 [3.11] 重度障害者たちが自立を実現したのは、学生たちの正義・公正の感覚に発する介護を通してだった。ここでは「正義・公正」が「あふれんばかりで盲目の愛」の押しつけを突破する上で大いに貢献した。しかし、人は、そこで充たされて留まりはしなかった。幸福であろうとして、例えば、一旦は否定の対象であった「愛」なるものにも向かい始めるのだ。 [3.12] 問題は、その両者の関係はいかにあるか、である。正義の原理に基づく介護者たちとの関係を、愛に基づくパートナーとの関係と、いかにして自立生活の内部で両立させてゆくのか。両立が実現されているケースでも、きっと、ものすごい綱渡りが行われているにちがいない。