柄谷−加藤論争について 安彦一恵 はじめに [001] 我々は昨年夏以降、主として、(まず)加藤典洋の主張を正しく理解することが大事であるという観点から、「歴史主体論争」をフォローしてきた。しかし、そこには決定的に欠けるところがあった。それは、『敗戦後論』第一稿で議論の手始めとして出てくるのであるが、その後論争が対高橋哲哉陣営に向けられたため(少なくとも私には)見えなくなっていた加藤の柄谷-浅田路線への対抗の理解である。我々は、加藤典洋の主張を、また「歴史主体論争」をも適切に理解するためには、竹田青嗣をも加えて、加藤-竹田路線vs.柄谷-浅田路線の対立を理解することがことが必要であると考えている。両路線の対立は何であって、その論争からいかなる論点を取り出すことができるのか。 一 浅田彰の加藤・竹田批判 [101] 時間的経過を辿っていきたい。80年代の或る時点まで、政治に関わる局面においては両者間に対立はなかった。両者は共に、「護憲派」「改憲派」、あるいは「55年体制」両派に対して(「反帝反スタ」「第三世界」という)「第三の道」の立場を採っていた。これが明瞭であったケースの一つに「反核運動」時の対応がある。1981年にヨーロッパで起こった反核運動を受けて日本の文学者たちも中野孝次などを中心として「反核アピール」を出した。これに対して「文学者」の多くがそれへの署名を拒否した。その理由は周知のこととしておくが、要するに(核を容認する立場に対する)反核−−しかし実はソ連(・旧西独)への加担−−の第二の立場に対して、「第三の道」が説かれた。その中心になったのは言うまでもなく吉本隆明である。その意味では両路線とも親吉本であった。これが、それからほぼ10年後の湾岸戦争時には、大きく変わり、吉本を軸として言うなら柄谷-浅田は反吉本のスタンスで「文学者の反戦署名」を呼びかけたのに対して、加藤-竹田は引き続いて吉本的立場で、この「署名」を拒否し、かつそれに対して批判を加えていった。柄谷-浅田の側からは当然反批判が行われた。 [102] 政治的に見るなら、この対立は、冷戦体制の崩壊という決定的な現実変化があったにもかかわらず吉本は相変わらず「第三の道」を説いているとする柄谷-浅田と、「反戦署名」なるものはかつての「反核声明」と同じであって、ここで柄谷-浅田は変質してしまったとする加藤-竹田との対立である。しかしながら、そこには政治的次元そのものでは必ずしも見えてこず、そういうものとして80年代初めには顕在化してこなかった「文学」(および「文学」の政治的含意)をめぐる見解の相違がむしろ大きな論点となっている。そして、この「文学」をめぐっては、80年代後半にすでに論争が開始されている。 [103] 「文学」の観点から見ていく場合、吉本の「自立の思想」が決定的な軸となる。吉本は、戦後知識人たちの「民主主義」への(再)転向を問題として、そこに外部から啓蒙的に現実に関わろうとする在り方を読み取り、それこそが現実の本当の変革を妨げるものだとして、そうした知識人に対して「大衆」を対置し、知識人の「インターナショナリズム」に対する大衆の「ナショナリズム」*に定位して、その「大衆」の「自立」として現実の根本的変革を志向した。 * 因みに、加藤が「ナショナリズム」と言うときも、肯定的な意味では−−通常のものとは異なった−−この吉本的意味のものであることに留意する必要がある。 [104] 88年の加藤典洋/高橋源一郎/竹田青嗣の鼎談「批評は今なぜ、むずかしいか」に対して浅田彰は、「むずかしい批評」=蓮實・柄谷を弁護し、加藤・竹田を批判する「むずかしい批評について」を書き、そこで、加藤-竹田路線を「共同体派」と規定した。これに反論を加えて加藤は「「外部」幻想のこと」において、柄谷-浅田路線を、「外来思想」に眩惑された「眩惑」派と規定する。竹田青嗣は 「浅田の一文が、ポスト・モダン派と「共同体」派という批評上の立場をはっきりと対立させた......」(「夢の外部」90) と述べているが、ここに互いに相手をそれぞれ「共同体派」だ、(ポストモダン思想に依拠して論を張る)「眩惑派」だ、と批判し合う対立関係が明瞭になる。それは吉本を基準にして形式的に言うなら反吉本派と親吉本派であるが、内容的(かつ、できるだけニュートラル)に言って、−−後で説明を加えるが−−<啓蒙派>と<文学派>の対立関係*である。 * これは多く、<「外部」派対「共同体」派>とも語られるが(例えば上野千鶴子「ポスト冷戦と「日本版歴史修正主義」」(『論座』1998年3月号 73)、それは柄谷-浅田側からみた場合の言い方であって、ニュートラルではない。 [105] 上記論稿において浅田は、柄谷・蓮實をむずかしい「外来思想」に「眩惑」されてしまっていると批判する加藤・竹田を、逆に(高橋の言うように)「明快だ」と反批判しつつ、加藤の「[川崎徹の]*「なんとなく、わかるでしょ?」っていいなと思った。」という発言(88)と、竹田の「本当に言い難いものを含んだむずかしさ[を]......自分の中にある自分の生の感覚と直接結び合ってるような言葉で味わい直してみるのが批評なんだ......。......裸眼で見れるような情景に移しかえて味わってみて、はじめて批評になる」(95)という主張を手掛りにして次のように切り返す。 「このような「生の感覚」に基づく前言語的な触れ合いが、かれ[竹田]の言う「エロス」を介した触れ合いということになるのだろう。....../......それ[かれらの言う批評]は、共同体の内部で取り交わされる挨拶、同じ共同体に属していることを暗黙のうちに確認し合う儀礼なのだ。......そのようなコミュニケーションは深く内面化されて、同類のイメージから「エロス」を味わう「眼」を形成する。「裸眼」と言われているものは、その実、こうして共同体によって形成されたものに他ならない。」(「むずかしい」156) そして、批評というものは本来そういうものではないとして、引き続いて次のように主張する。 「[批評とは、]まず何よりも、「裸眼」による認識がいかに深く共同体に規定されているかを認識すること、それによって共同体の外へ出ようとすることから始まるのではなかったか。」(156) * 以下、引用文中の[ ]内は、本稿筆者の加筆である。 [106] 浅田はこの加藤-竹田批判を詳しくは吉本批判として展開する。浅田は吉本の「自立の思想」を、上野千鶴子の吉本解釈を援用して検討を加えていく。 「上野千鶴子の解釈した「吉本隆明」によると、国家や家族や自己は幻想に基づいている。その各々に対応する共同幻想・対幻想・自己幻想は互いに独立であるが、共同幻想と自己幻想が逆立しつつも時として同調する(「御国」のために死のうとする軍国少年のように)のに対し、対幻想はどこまでもそれと拮抗しようとする(この女のために自分は死ねないと言う男のように)。......こうした対幻想を核とする家族、その家族の織り成す大衆こそ、「吉本隆明」が国家に対抗する拠点としたものだった。」(157f.) このように浅田はまず吉本の「自立の思想」を「幻想」論の次元で押える。 [107] そして次に、現実世界の変化はこうした自立の戦略を無効化したと説く。 「さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機が[今や]それ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ[共感の共同体]は[現実が変化した今では]むしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らないという保証はどこにもないのである。」(158) つまり今や、国家への対抗において、対幻想=「自立」に依拠すること*は見込がないのであって、むしろ逆にソフトなかたちで国家に取り込まれてしまうのである。 * 武者小路実篤の『桃色の室』を評価するというかたちで(『日本という身体』)、加藤にもこれが明らかである。 [108] 浅田によるなら、依然として自立路線を採る加藤-竹田は、その自立路線のゆえに「〈共感の共同体〉の内部でぬくぬくと自足している」(156)だけなのである。 二 加藤典洋の浅田・柄谷批判 [201] これに対して加藤は前掲論稿において反批判を加える。柄谷-浅田路線は「外部」を語ることによって「共同体」という「内部」を撃とうとする。このこと自身は正しいことである。しかし、と加藤は言う。 「「内部」とのダイナミズムなしに、どのようなものであれ、「外部」は語られうるだろうか。......従来の言説空間における「外部」(人間主義、国際主義、世界性)は、その「内部」の言説システムに内属する所以を、さらにその「外部」の視座からの批判によって明らかにされ、否定されたが、いまぼく達の前にあるのは、その「外部」、過去の「内−外」の二項性そのものの「外部」を中心に、新たに形成しつつある、それ自体閉ざされた、もう一つの言説空間なのである。」(174) 簡単に言って、「外部」の語り方がもっぱら「外来思想」の援用であるために、 「「外部」は、こうしていま一つの符蝶のようなものになりつつある」(174) のである。「外部」を語ることは、「「内部」とのダイナミズム」を失って、いまや「内部」=「共同体」に何等ダメージを与えない単なる「「言う」こと」(174)になってしまっているのである。 [202] 加藤はこれを、日本近代の言説の在り方を歴史的に辿るというかたちで次のようにも展開している。 「日本の知識人は、明治以来、浅田のように書いてきた。......彼らは......普遍的なことを「外」からの眼で語ったが、逆に「内」からの眼が、どうすればその「外」に達するかというみちすじを自ら辿ることを怠った。」(175) 戦前においては小林秀雄がこうした「インテリゲンチャ」を批判し、[戦後においてはその仕事を吉本が引き継いでいるのだが、]浅田はいわば先祖帰りをしてしまっている。大事なのはあくまで、「「外の認識」をどのように共同体内部の成員に届く「内の言葉」で語ることができるか、ということである」(178)。 [203] こう浅田を歴史的に位置づけつつ課題を再確認していおいて、加藤は論を展開する。 「それでは、この「共同体」の言説空間の中で、その「共同体」の言葉を使って、どうやればこの「共同性」に属さない、その「外部」の言説を成立させることができるか。」(178) と問う。そして、この問いを 「これは、......柄谷行人流の言葉で言えば、現代日本の言説空間において、どのように「超越論的」な批評が可能か、というのと同じことである。」(178) として再定式化しつつ、好便な手掛りとして柄谷の論稿「ポストモダンにおける「主体」の問題」の検討へと論を進める。 [204]  「柄谷は......この「超越論的な批判」という言葉を、「超越的な批判」と区別し、これは、「自分が暗黙に所属し前提しているものへの吟味」、「つまり、その外部からの批判ではなく、外部に立ちうるという考えそのものへの批判」なのだと述べている。」(178f.) と、「超越論的」な(柄谷の)主体と「超越的主体」とを区別する柄谷の議論を紹介する。ここ(だけ)からするなら、加藤は「超越論的」主体であって、奇妙なことに浅田は(柄谷の退ける)「超越的主体」の立場から「「超越論的」なぼく[加藤]の先の問いをその「共同体」への内属ゆえに否定している」(179)かのように見える。しかし加藤は、そうではないと語る。そして論を柄谷批判へと展開していく。 [205] 加藤によるなら、「超越論的」を「超越的」と区別する柄谷の議論は正当なものである。しかし、 「柄谷の議論は、ここまで[54ページ上段7行目まで]を前段とすると、以後の後段において、また別種の展開をとげる。後段の議論で彼がいうのは......右の「超越論的な主体」には、外部性をもつものともたないものがある、ということであり、外部性をもたない「超越論的な主体」は、結局のところ、ある種の共同性に帰着せざるをえない、ということであって、それが彼の結論」(179) である。浅田に好意的にその加藤批判を了解するならば、 「それは、「外部」をもつ「超越論的」なあり方からの「外部」を欠いた「超越論的な批評」への批判であるとして受けとめることもできる」(179f.) として、浅田の批判をいわばポテンツを高めて柄谷的な加藤批判というものを想定して、そこで逆に柄谷の「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」《の主張》*の批判へと展開する。 * 以下、この記号を付してある部分は、その間の語句を強調することを意味する。 [206] 加藤はまず、この「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」を要約する。 「[柄谷によるなら、]カント、フッサール、ハイデッガーらは、その「超越論的なあり方」によって、「他者」......を見出したが、そこでの「他者」(無限なるもの)は「自己」(有限なるもの)から構成されたものにすぎず、そこに本来的な「他なるもの」の契機はない。つまり彼らの「超越論的主体」には外部性が欠けている。一方......。柄谷は......デカルト、スピノザは、「他者を自己から見出したのではなく、他者において自己を基礎づけようとした」という。この文脈におけるデカルト、スピノザ、レヴィナスの「他なるもの」とは......「有限」に対する「無限」である。「自己」から構成される「他者」は、一般性、共同性をつうじて「全体性」[レヴィナス]の観念を導くが、この「全体性」を否定しうるのが、「無限」(レヴィナス)であり、この他なる「無限」によって見出される「自己」が「単独性」である。」(181) つまり柄谷によるならそれは、例えばフッサール的な、「超越論的あり方」において「自己」から「他者」を「構成」する在り方に対する、例えば(柄谷的に)デカルト的な、「超越論的あり方」において−−「絶対的他者」としての、デカルトのタームで言うなら「神」としての−−「他者」において自己を基礎づけようとする在り方である。そして補って言うなら、後者は、《絶対的》他者として、つまり「構成」できぬものとして「外部」をもつのである。 [207] さて加藤は、この「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」を直接的に批判するのではない。この「あり方」を説く柄谷の後段の議論をそのものとしては認めつつ、加藤は次のように言う。 「あなた[柄谷]の前段の議論と後段の議論は、それぞれに面白く聴かせて[読ませて]もらった。しかしその二つの「つながり」がよくわからない。」(180) 加藤は柄谷の議論を前段と後段とに分けて理解するのだが、厳密には「53頁下段18行目から54頁下段10行目まで」(182)を「蝶番にあたる部分」であるとして、この「つながり」を辿ろうとする。しかし、 「この個所は、彼の議論においてここが最も重要な所であるにもかかわらず......最も説得力に乏しい。」(182) として、端的に言うなら、内在的に「つながり」を辿ることを放棄して、結局は「つなが」っていないと断定する。 [208] 加藤は、その「つながり」の欠如の原因を求めて、柄谷が「超越論的な批判」ということについて、そういうものを「言う」だけであって、自らそれを「行う」ことをしないところにそれがあるとする。そして、「つながり」をもたない二つの議論がなされているのは、本来「行う」ならば不可能であるものを単に「言う」だけだからであると語る。加藤自身の言葉で言うなら、 「この二つの議論は、それぞれに説得的だ。しかし人は、一つのことからしかはじめられないのではないだろうか。人は、二つのことを「言う」ことができる。しかし、「行う」時、人はその二つのうち「一つ」を自分に受けとっている」(181f.) というのである。柄谷の、そして浅田の「言う」だけの在り方に対して、加藤は、 「[彼らの]足場をもたない身軽さ、拘束をもたないゆえの「あれもこれも」の摂取の自由は、ぼくにどこか極めて日本的なシンクレティズム......の現代的表現とみえるのである。オーディオのような批評。これは現代の批評にとって一つの理想でありうる。しかし批評は、ここしばらくは、オーディオになれない悲哀を噛みしめて、書きつがれなければならないというのが、ぼくの観測である。」(181) として、自らは「行う」ことを宣言するのである。 三 竹田青嗣の柄谷・浅田批判 [301] 加藤は「つながり」がないと言うわけであるが、そこはなお検討する必要があると我々は考える。竹田青嗣は、上記「夢の外部」において、自らも柄谷批判を展開している。 [302] 彼はまず、加藤の論稿では必ずしも明瞭でなかった批判の真意を 「ひとが共同体の「外」に立つ(あるいは立たない)ことで何をなし、何をなさなかったか、そしてなぜそうだったのかを、問わない。[加藤によるなら]柄谷の議論にはそのような「実践的契機」が欠落しているのだが、柄谷(たち)がそれ[=問うこと]を「実行」しようとすれば、そのとき彼らは「自分が暗黙に所属し前提している」日本語という言説空間の「外」に、素朴には立てないという事態に直面するはずである・・・・・・。」(95) ということであるとして、−−柄谷の「前段の議論」の方を評価するかたちで、それを実行するなら−−いわば吉本路線で行くしかないことを確認する。 [303] しかし、この結論を導くためにも、「つながり」が最重要の論点となる。竹田は、柄谷の主張のポイントを、 「ここで注意すべきことは、超越論的であることは、私がこの世界に属すると同時に、この世界の外に立つことであるとしても、それを「自己意識」と混同してはならないということです。」(53)/「再びデカルトに戻っていえば、彼が疑いを開始するのは、彼の属する共同体または共同的システムの外に立つことによってです。つまり、他なるものに出会うことによってです。」(54) の箇所にあるとして引用し(99)、それを 「「自己意識」的な原理によってではなく、「他なるもの」の原理によって「外」に立つときにだけ、ひとは「この世界に属すると同時に」この世界のシステムの自明性を疑いうる「外」の立場に立つことになる。そう柄谷は言っている。」(99) として要約する。そして、このような「「外」の立場に立つ」ことの主張を、 「このような「外部」を構想することがカントやフッサールにとっては形而上学的な転倒を意味した。」(104) として、結局は形而上学的独断であると批判する。 [304] 柄谷の主張を支えるのは、「神」が「自己」を基礎づけると説いているとするデカルト解釈である。もしデカルトがそう説いているなら、カント・フッサールから見ればそれは「形而上学的な転倒」以外の何物でもないのだが、竹田は解釈として柄谷のデカルト論は誤りだとする。では、なぜ誤ったのか。 [305] 柄谷のデカルト解釈はレヴィナスのそれに依拠している。柄谷が引用している(56f.)ところを読むなら、なるほど<神が自己を基礎づける>とデカルトが語っているように見える。しかし竹田によるなら、 「柄谷はレヴィナスの思想を呼び水のようにしてこの考えを提出しているが、わたしの見るところ、じつはレヴィナスと柄谷の考えは似て非なるもの」(104) である。 [306] 柄谷が引いているレヴィナス『全体性と無限』中のデカルト『省察』からの引用部分 「神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにあることを、私は明白に理解する(・・・・・・)。なぜなら、私が疑うこと、私が欲することを私が理解するのは、すなわち、何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私のうちにあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能であるあるから」 の正しい解釈として竹田は、レヴィナス『困難な自由』中の 「デカルトにおいて、思惟する「自我」は無限についての観念を所有している。「無限」の他者性はその観念のなかで生気を失わない。一方デカルトによれば私が私自身にもとづいて説明することのできる有限な事物の他者性はそうではない。無限の観念は思惟される以上のものを思惟することに存する。/......自分が思惟する以上に思惟する思惟とは「欲望」でなくて何であろう。......」 を引用しつつ(106)、それに解釈を加えるというかたちで次のように言う。 「「私が疑」い、「私が欲」することでコギトが理解するのは、〈私〉のうちで「自分が思惟する以上に思惟する」、つまり「欲望」というつねに〈私〉を《超え出る》なにかが〈私〉につきまとい、内属している、ということにほかならない。そのようにレヴィナスは言うのである。」(106) つまりレヴィナスからしても、「絶対的他者」は、「コギト」(自己意識)ではないが〈私〉の内にあって「不完全性を超えでようと〈私〉をつき動かすなにか」(107)であって、換言すれば例えば柄谷の後段の議論がデカルトとの違いを言う当のハイデガーが「「気遣い」という言葉で呼んだ」(107)もののことである。敷衍して言うなら、柄谷の(現象学的な)「前段の議論」において出てくるはずのものなのである。 [307] それにもかかわらず更に「後段の議論」が出てくるのは、竹田によれば、 「柄谷の「外部」の議論は、〈決して誰もコギト(共同体)の「外」に出られない、にもかかわらずコギトの自明性を検証しそれを疑える原理がコギトの「内」にある〉という超越論のモチーフを、ロジカルな短絡によって「外の立場」へ移している」(108) からである。であるから加藤は「つながり」がないと言うのである。 [308] では、なぜ、「つながり」のない(「後段」の)議論への展開を行うのか。竹田によれば、そこには「一種のニヒリズム」(111)があるからである。「共同体」を疑うとは、それが「夢」でないかと疑うことであるが、その疑いにおいて「夢」ではないところを求めてもそれはつねに「夢」である可能性に付き纏われている。これは、「わたしたちが「夢」の内部にあるかぎり決してその不完全性を根本的には振り払うことができない」(111)ということでもあるが、柄谷はそのことだけに目を向け(=ニヒリズム)、そこで「いわば「夢」の外にだけ、人間の本来のありよう(実存)があると考える」(111)のである。 [309] 竹田によれば、このように考えてしまうことの背後には「ポスト・モダン思想が内に含む“構造論”的視線」(111)がある。(柄谷がゲーデル論で確認したように)「構造論的」に見ればおよそ「外部」は存在しない、絶対に「夢」を超えられない。柄谷は、そう追いつめることによって、《そこからの「反動」において》、「夢」を超えた「外部」を語るのである。* 「柄谷が「形式化」の問題で追いつめたのはそのような[外部の絶対的不可能性の]事態であり、おそらくそのパラドクスから“抜け出る”ために、その《反動》として、「外部」の論理、つまりつねに《無根拠に》、《絶対的に》システムを疑い続けるような立場が呼び寄せられることになったのである。」(112) * ただし、「批評季評 絶対的な現実性としての「戦争」」では、結論は同じであるが、この「構造論」との関係では批判の論理構制が別になっている。そこではこう語られている。「柄谷の「外部」や「他者」は、つねに“構造”主義的に「主体」、「内面」を拘束している制度性を“指摘”する「誰か」あるいは「なにものか」として提示されている」(292)。我々は解釈としては、こちらの方が適切であると考える。 [310] しかしながら、そのようにして「呼び寄せられ」た「外部」は、結局(柄谷の「前段」の議論で否定された)「超越的主体」がもつ「外部」ではないのか。竹田は、 「柄谷がつかんだ実存の立場は、柄谷が注意深くそうではないと自注するにもかかわらず、本質的に「自己意識」的なメタレベルを意味する」(112)/「柄谷のこのような絶対的「外部」の実存の論理は......カントの論理[と同じであって、それは、]人間の生活上の行為や実践の理由を、「自由」という絶対的理念《から》規定するものにほかならない。それはどのように見ても、サルトル的な自己意識の実存に帰結するほかない」(114) という言い方で、そうだと断定する。 [311] 竹田によるなら、「夢」ではないかと疑い、「夢の外部」を求めるにはそもそも「動機」があるはずである。 「自己意識のメタレベルを積み重ねてゆく欲望は、それ自体がエロス的欲望なのだが、その根底にはなんらかの欠如や不安(不全感)が横たわっている。この欠如や不全感に強く押されたとき[始めて]、わたしたちは自分の内属する世界を「夢」ではないかと《疑い》、「夢」の《外部に》本来的な〈世界〉を思い描く。」(113) というかたちで、竹田はその「動機」を確認する。 [312] そして竹田は、自らの体験を重ね合わせて、このような「疑い」が(彼から見れば)本来どう展開していくのかを語る。 「そういう自己意識の運動を相対化するものがあったとすれば、それは共同体の《内に》見出される「他者」以外にはありえなかったのである。そういった経緯の中で、わたしたちは......自己意識の“絶対”感情を無化され、“相対感情”のうちにとどまらざるを得ない自己というものを見出すことになったのだ。そしてこのときに、「夢」の《外側》にじつはどんな本来的立場や現実もあり得ないこと、世界および生とは、この「夢」の場所以外に全く拠りどころを持たないという痛みを伴った覚知が、すこしずつもたらされた。」(113) 竹田によるなら、人はそのそれぞれの「疑い」によって「共同体」に対して、それが「夢」だとして「夢の外部」を求めて「反抗」し、その或る意味での挫折のかたちで「夢の外部など存在しない」ということを知り、いわば「夢」=「共同体」に対する「相対的」疑い=反抗の立場へと成熟するのである。言うとすれば<「革命」から「改良」へ>である。これに対して<永続革命>という道があることを我々はもちろん知っている。しかし、柄谷の立場はこれとも違う。それは、いわば<一挙の革命>(「世界同時革命」?)である。<革命>は「絶対的な疑い」を動機とするものであるが、柄谷にとってはその革命が<一挙>として考えられている。しかしながら竹田によるなら、 「絶対的な疑い、そういうものは《現実の人間》にとっては背理である。それは[現実の人間においては]ただ極限化された理性の理論能力としてだけ想定されるものにすぎない......。」(113) そうした「絶対的な疑い」は、「動機」から来るものではない。「動機」が言えるとしても、<《実践的》動機>ではなく、<《理論的》動機>でしかない。であるから加藤は 「柄谷の議論には、その実践的契機が欠けている。」(182) と語るのであるが、それが換言すれば、柄谷は「言う」けれども「行わ」ないということである。 四 若干の補足と整理(一)−−柄谷の「超越論的主体」−− [401] しかしながら、こう見るだけでは柄谷に対して十分フェアではない。柄谷の議論のポイントに独自の(彼からすればレヴィナス的な)デカルト解釈があるのであるが、「絶対的外部」から「自己」を基礎づけたというそのデカルト的解釈として柄谷は、デカルト自身が経験した「現実的な外部性」(55)を重視する。 「デカルトは、彼の否定する懐疑主義者......のように懐疑したのではなく、そのような懐疑をさえ可能にしている「慣習」としての言説の外部に立ったのです。たとえば、デカルトは、亡命者として、フランスの外、オランダで考えました。......デカルトの可能性をぎりぎりまで追求したのが、スピノザです。いうまでもなく、スピノザは、キリスト教徒ではなく、またユダヤ教会からも破門された、徹底的に外部的な実存でした。」(55) と例えば語られている。 [402] 竹田青嗣は別稿「「疑い」の条件と根拠」では柄谷に対して少しく違った理解をしている。この「現実的な外部性」に即して、次のように語られている。 「柄谷の「超越論的」立場は、いわば異なった文化(共同体)の《外》に立つが、しかしそれはメタレベルの立場を意味しない。メタレベルの立場は「自由な意志」つまり自己意識によって外に立つこと[例えばサルトル]であるのに対して、「超越論的」な立場とは「他者の他者性」によって外に立つことだからである。/この議論によって彼は、おそらく「万人」とは違う「奇妙な立場」に立ってしまった人間が、「万人」の内属する場所に対して持つ「疑い」(批評)の、“権利問題”[カント]を問うているのである。」(87f.) デカルトやスピノザは、自らが「事実」としてもった「疑い」に即して、(カント的に超越論的に)その「疑い」の「権利」を問い、そこに「絶対的他者」を想定した、というのである。 [403] そうであれば問いのスタンスは「論理的」である。「論理的」であること自身は別に問題ではなく、カント(の認識論)の超越論的立場は「論理的」である。しかしながら、柄谷はカントと異なって、そこに経験《論》的なものを持ちこむ。上に挙げた「この現実的な外部性は重要です。」に続けて、 「事実、彼がフランスに戻り、影響力をもちはじめてからは、この外部性は失われていった」(55) と語るのは、その故である。現に(経験的)事実として「疑って」いることが重要なのだと語られている。このようにして「外部」性をもつ主体は、したがって経験的なものである。柄谷が 「デカルトのコギトは......カントのそれのように万人に妥当する「私」ではなく、キルケゴールのいうような単独者です。」(55) と語るのはこのゆえである。柄谷によれば、そうした主体は「超越論的主体」であり、彼自身言うように「超越論的還元」の主体だと言っていいが、フッサールとの対比で言うならその「還元」は、いわば「形相的還元」抜きの「超越論的還元」である。 [404] 柄谷はこの点から、西田幾多郎についても、 「彼がアカデミズムに受け入れられるにつれて、この外部性を失っていったのは明らかです。そのとき、主体の批判は、超越論的主体そのものの滅却、共同体に対して外部的であるような主体の滅却となり、かくして、共同体のイデオローグに転化したのです。」(59) と語っている。(同様の批判がハイデガーに対しても行われている(59f.)。)因みに、この、いわば日本主義者(となった)西田という理解は今日では十分問題であるし、柄谷も現時点では異なった理解をしていると思われるが、ここではそう語っている。しかし問題は、この西田論から明らかなように、「外部・内部」性を問うとき、経験的次元が重視されているということである。 [405]  「ディコンストラクションを可能にする「外部の視座」は、他のだれよりもデカルトによって明確にもたらされたのです。しかも、このディコンストラクションは、それ自体外部的で単独的な実存と切り離しえないのであって、それが安定した方法であるかのようにみなされたとき、[デカルト自身とは異なった]デカルト主義と同じ運命におちいることになるでしょう。」(60) と語られるとき、それはむしろ自身によって強調されている。しかしながら、この柄谷の(経験論的)「実存」主義は、竹田の指摘する「構造論」とは明らかに矛盾する。「構造論」とは、経験的事実(主体の問題としては心理的事実)への依拠を−−《いわゆる》「実存主義」だとして排して−−純論理的にいわば「仮説」を提示するものであるからである。そして、単に竹田が指摘するだけでなく、構造論は明らかに柄谷自身のものである。 [406] しかし、この(実存的)経験論と構造論は、複雑に絡み合っている。通常「構造論」は心理的事実に即して主体を「共同体」の「外部」に確保する主張に対して、そうした「主体」=「外部」は存在しないと説く。「ポスト・モダニズム」(ディコンストラクション)もそうした(近代的)主体の特権化を批判するものである。しかし柄谷は、 「モダニズムが「主体」という概念に代表されるとすれば、それ[ポスト・モダン]が「主体」への批判に集約されるのは当然です。しかし、それは、けっしてそのような批判をなす超越論的な主体を否定することにはならないはずです。」(59) と説く。この主張を、柄谷は否定するかもしれないが、(実存的)経験論が「根拠」づけている。自らの経験的事実として−−「現実的な外部」というかたちで−−「外部」が確保されている。しかし柄谷は同時に、再び(モダニズムのように)その「外部」を特権化しようとはしない。彼によれば例えばヘーゲルの「主体」はそのようなものであるが、彼はそうした主体は峻拒する(61)。いわゆる「実存主義」も(60f.)、人間主義的マルクス主義も(61)そうしたものだとされる。そして、「構造論」からすれば当然そうなるのである。しかし非常にわかりにくいところだが、柄谷は例えば 「構造主義が直接の標的としたのは、サルトルの実存主義でした。しかし、サルトルは、べつに心理的な主体を主体とみなしたのではなかった。実存的主体は、経験的な主体への批判において見いだされるのです。」(60) と語る。問題はここで言えば「経験的な主体への批判において見いだされる」「実存的主体」である。純粋に「構造論」から言えば実はそうしたものは存在しない、しかし、彼の(実存的)経験論からすれば事実として存在する、という格好になっているのである。通常、現象学においては、超越論的主体は明らかに経験的・心理的主体から区別されている。それを保証しているのは「明証」(直観)に支えられた「形相的還元」である。(因みに、これでは駄目だということでフッサールは他我構成=「間主観性」を語ってくるのだが、これは柄谷よって批判されている。)しかるに柄谷は「形相的還元」を採るのではなく−−さらにカントの論理的主観をも排して−−そこに、「単独者」(実存)を説くのであるが、その「根拠」は自らの−−デカルトの場合はデカルト自身の−−経験でしかありえない。すなわち、本来両立しない構造論と経験論の協同から「経験的な主体への批判において見いだされる」「実存的主体」が確保されているのである。* あるいは、こうも言えよう。自ら(「経験的な主体」)を「外部」に在ると説く「モダニズム」に対して、「構造論」はそうした「主体」もまた「内部」に在るにすぎないと批判する。そして、そう批判するときの(構造論を展開する)主体も、実は自己言及的に、それもまた「内部」に位置するのであるが、柄谷はこれを−−「経験的主体」との区別において−−「実存的主体」として「外部」にいると考えているのだ、と。しかしこれは、ありていに言えば「自分だけは別だ」ということである。そうであるなら、その区別の根拠はやはり経験的なものである。 * これは明らかに矛盾である。しかし、後([707])で見るように柄谷自身「矛盾」を認めている。そして、実はそこから−−「哲学」的議論の底に在る−−柄谷の主張の(皮肉なことに)なお「文学」的といっていいスタンスが明らかになる。(ここで急いで言うなら、(あるいはド・マン流の、と言っていい)「批評」だというスタンス取りは、このことを曖昧にするに過ぎない。) [407] 論稿「精神の場所」を見ると*、柄谷の「外部論」がどのようなものであるかがよく分かる。彼はまず「思惟」(コギト)との区別において「精神」を次のように規定する。 「デカルトがいう“精神”は、たんに思惟(私は考える)ではない。なぜなら、デカルトの考えでは、思惟は、共同体の“慣習”すなわち夢のなかにあるからだ。“精神”とは、そこから外部へ出ようとする“意志”なのである。」(60) そして、 「[哲学者が通常行うような]疑うことさえも精神ではない。実際に、われわれは夢のなかで、これは夢ではないかと疑うではないか。疑いは夢の一部分である。ウィトゲンシュタインは、疑うことは言語ゲームによって可能であり、言語ゲームの一部に属するといった。これは、哲学における懐疑=問題が、哲学の言語ゲーム(慣習)に付属するのではないかという[精神の]“疑い”である。」(60) として、いわゆる「疑い」からも、「精神」としての「外部へ出ようとする“意志”」を区別する。通常の理解ではデカルトは、意識−−デカルトの言う「コギト」は日本語で言う「思惟」ではなく、同じく日本語で言うなら「意識」のことである−−の内容が「夢」であって実際には存在しないとしても、そのように夢をみているにすぎないとしても、その夢をみるという作用もまた存在しないということはありえない、として、そうした作用を行っている「私」の存在は確実である、とするのであるが、柄谷はフッサール的に言っていわばノエシスではなくあくまでノエマの方から「疑い」を考える。自分が存在すると思っていること(内容)があくまで「夢」にすぎないのではないかと疑おうとする「意志」が彼が言う「精神」である。そして彼にとって、その「疑い」は、存在すると思えるのは単に共同体の「慣習」がそうさせているだけではないのか、という「疑い」である。であるから、いずれにしても、(経験的な)共同体の外に(経験的に)出るということが、そうした「疑い」を根拠づけている**のである。柄谷は実際明瞭に次のようにも述べている。 「夢をみているのではないかという疑いは、『方法叙説』においては、自分が共同体の“慣習”または“先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。彼はそれを、時間的・空間的な「旅」の経験から裏づけている。」(59) * 『探求I』第一論稿でも同趣旨の議論の展開がなされている。 ** なお、ここで言う<根拠づけ>は、先に(柄谷によるならデカルトにおいては)<神が自己を基礎づける>と紹介した([206]等)場合の<基礎づけ>とは別の意味である。「精神の場所」での言い方では後者は、「疑う主体は、外部性として単独に在るだけだ。そのように在る主体の明証性には、何の保証も根拠もない。神だけがそれを保証すると、デカルトは考える。」(64)というかたちで、タームとしては「保証」と言われるものである。それに対して前者は、例えば「そもそもデカルトの疑いは、諸共同体の“差異”からはじまっており」(65)というかたちで語られるものである。ここだけから見るなら、前者は厳密には<動機づけ>とした方がいいと思えるかもしれないが、しかしそれは、《彼の立論に対しては》<根拠>の位置を占めている。すなわちこういうことである。<神が自己の明証性の真理を保証する>というのは、それだけでは一つの形而上学である。柄谷からしても「神」とは、「デカルトは、諸共同体の外部に在って単独者として疑っていることが、何の根拠もないとしても、自分をそのように促している何かがあり、その何かが在るがゆえに、自分が疑っているのだといいたいのだ」(64)と述べられているが、その<疑いを促すもの>に与えられた仮の名称であり、さらにはその<疑いを促すもの>も、「疑っていること」という事態を<なにものかがそうさせている>といわば一種物象化的に表現したものである。そして、「疑っていること」という事態は、一つの当為的事態として「疑え」という命令に従うところに現出するものではなく、デカルト=柄谷自身のまさしく事実として、すなわち経験的事実として現出しているものである。そういう意味で、そうした経験的事実が立論を<根拠づけ>ているのである。 五 若干の補足と整理(二)−−竹田の「動機」−− [501] これに対して竹田の方は、まさに経験論的次元で、先ほどの箇所([402])にすぐ続けて 「いかなる「根拠」によって、君たちは「夢」を見ているのだ、と語ることができるだろうか。」(88) と問う。その「根拠」は(論理的根拠ではなく)心理的なものである。彼はそして、この心理的(という経験的)次元で「根拠」を問い、そこにさきほどと同様「動機」を語ってくるのだが、彼自身の境遇に即して、 「共同体に属する人間が、その体系あるいは他の共同体との関係に内在的な矛盾の意識を持っている場合だけ、この「疑い」は思想としての《条件と根拠》を持ちうる。」(88) と語られる場合の、その「矛盾の意識」が「在日」(朝鮮・韓国人)という意識であることを併せ考えるなら、そのことが十分納得できるであろう。* * これは、換言すれば竹田の思索が自分の固有性(「在日」)に定位したものだということである。これに対して、柄谷-浅田路線はむしろそのことを否定するものだと見ることができる。例えば高澤秀次によれば「すでに柄谷的なディスクールは、ポスト全共闘的なパラダイムを画定していたのである。/この決定的なパラダイム・チェンジ......を、いち早く察知したのは、おそらく自分の支えが被差別部落であることを受け入れ、しかもそれが文学にとって何の意味もないことを意識化しつつあった中上健次ではなかっただろうか」(「ポスト全共闘と柄谷行人」54.)ということであるが、中上健次は逆に、創作を自分の固有性(「被差別部落」)に定位させ《ない》という行き方を採っている。 [502] 竹田の場合はこれで一貫的なのだが、問題は柄谷においてなぜ経験的次元が拘泥されるのかということである。竹田はここ(論稿「「疑い」の条件と根拠」)では、柄谷にも経験的次元での「根拠」を想定し、それが「絶対的外部」という「仮説」(88)を想定せしめたと解釈し、かつ、そうした経験的次元関係的なものとしては、その「仮説」は普遍性をもちえないと批判する。ここでは、したがって、論稿は 「柄谷行人の「疑い」の立場は、まさしく彼の時代や場所に固有のものである。その意味で『探求II』は彼自身の“エチカ”であり、だれにとってもこのような「条件と根拠」を僭称することは無用であろう。」(88) という言葉で締めくくられることになる。 [503] しかしながら、いま柄谷自身と柄谷一派とを分けるとして、前者にはこの言葉が当てはまるとして、後者に対してはむしろ、「夢の外部」中の 「《絶対的に共同体の「外」に立とう》とする批評、この批評の本質は、いっさいがシステムのうちにあり、いっさいが“構造化”されているという新しい世界像に対する、《メタレベル的な対抗》にある。この立場は、共同体のシステムと絶対的に対立し、システムの構造をあばき、その物語を食い破ろうとする欲望(ポスト・モダン欲望)を支える。そのために新しい「外」の物語がつぎつぎに見出されることになるだろう。/「外」の強力な物語によって、自分の内属する共同体(夢)の外部に立ちうるというメタレベルの幻想。まさしくそれが日本に固有のモダニズムの欲望なのである。日本にとってモンダとは、つねにそのような「夢」の外部への憧憬として現われなかったろうか。」(116) という見方が、竹田(および加藤)からの柄谷-浅田路線観としては中核のものである。 [504] 「動機」をいうなら、ここにも「動機」はあると言える。それはしかし、「理論的」であることが一つの「実践」であるような動機である。そしてそれを換言すれば「啓蒙」ということなのである。それは更に「戦後啓蒙」と換言してもいい。すなわち、日本という「共同体」に反定立されたあのインターナショナリズムからの正統なのである。 [505] 坂本龍一との対談「「啓蒙」はすばらしい」において柄谷はカント的啓蒙を説く。 「もちろん人間は、企業なり国家なりどこかに所属しなければ生きられないし当然そうしていいわけですが、そこから離れる瞬間がなければならない。カントが言うコスモポリット(世界市民)というのはそういう意味ですね。」(154)/「僕は昔は[吉本と同じように]世界市民、コスモポリタンというのは抽象的であるとか言って否定してた[が、それは誤りである。確かに]人間はどこかに所属している。しかし、その場合パブリックに理性を使用する勇気があるかどうか。それをもつことがコスモポリタンだし、それが啓蒙ですね。」(155)* しかしそれは、例えば、 「浅田彰は......こう言った。大阪は朝鮮人と中国人が日本で一番多いところであり、すでに国際的都市である、東京の真似などする必要がない、と。」(156) という発言に即して言うなら、この「国際的都市」の事実に即して、しかし、自分《から》問うことなく、−−かつ、自分が「企業なり国家なりどこかに所属」していることを(単に)「当然」視しつつ−−自らとしては単に理論的に共同体・日本の「外部」に立とうとするものである。上に柄谷自身と柄谷一派とを区別したが、こういう在り方を説くとき柄谷は<柄谷一派>的である。《自らの》「在日」性に定位して思索する竹田から見れば、「在日」の重みが認識されていない。認識されているとしても、それは他人の重みであって、自らの重みではない。存在するのは、こうした「啓蒙」の立場と、自らの境位から思索するという「文学」の立場との対立である。 * 加藤-高橋論争の文脈で語られるアーレントの「注視者」も、言うまでもなくこの意味のものである。 六 湾岸戦争時の論争(一)−−論争の展開−− [601] 以下、小山鉄郎「文学者追跡 「文学者」の討論集会とは何か」に拠って紹介するが、湾岸戦争時に「文学者」の周辺で次のような動きがあった。 ・91年1月29日:或る会合の後、川村湊、中上健次、島田雅彦の3氏の間で、湾岸戦争に対して何か言おうということで話し合いになり、島田が「反戦の四原則」および、それに 「こうして列挙してみると、いかにも白々しく、偽善的に響くので、思わず苦笑いしてしまった。いずれもすでに世界の到るところで起きてしまっていることを自分は認めないと宣言しているだけのことで、「反対する」の四文字は空虚に空しく響く。だからといって、ニヒリストになってみても始まらない。」 というコメントを付けたものをまとめ、これを各メディアに送ろうということになる。 ・その後、ニューヨーク・タイムズに意見広告を出したらという意見なども出てきたが、柄谷の「まず日本のなかで議論を重ねるべきだ。この戦争の問題で討論集会をしたらどうか」という考えに従って、柄谷、島田等6人が発起人となって、「「文学者」の討論集会」が約150名の「文学者」に呼びかけられ、2月9日、約90名の参加で討論集会が行われた。討論の結果、下記の「声明1」に各人が個人として署名することになり、その後、これの説明のためのものとして下記の「声明2」が事務局によって作成された。 ・91年2月21日:柄谷、いとうせいこう、高橋源一郎等の文学者に経済学者の岩井克人を加えた計11名が記者会見。この11名を含む42名が署名した短い「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します。」という声明(「声明1」)と、11名に5名を加えた16名で構成する「文学者の討論集会事務局」名で 「戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の「戦争の放棄」の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。他国がそれを強いることも望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。/われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。」 という声明(「声明2」)が発表された。 [602] この「声明」に対して、吉本、竹田を含めて何人かが批判を行った。加藤-竹田路線とは別のところからも、例えば若森栄樹、笠井潔等から批判がなされた。加藤もいくつかの批判的発言を行い、そのまとめとして出てきたのが加藤の『敗戦後論』第一論稿である。柄谷等も反戦声明の延長で発言を継続する。 [603] 上の動きと相対的に別の「詩人」達の間で、「湾岸戦争反対」をめぐって一連の論争が行われた。その中核は、主として『現代詩手帖』上で行われた藤井貞和(反対声明派)vs.瀬尾育生(声明批判派)の論争である。湾岸戦争の事態に一早く「反戦詩」公表で対応した藤井に対して瀬尾は、例えば、 「藤井氏が作り出しているものは「正義」なのだ。しかもそれは......正義としてはきわめて特殊な正義であり......いずれの戦争に対しても、関与していないと信じている者が戦争放棄を主張するというトートロジーによって「正義」になっているような正義なのだ。/[藤井は]どうして「私は戦争はいやだ」とだけいわないのだろう。[そうではなく]戦争の悲惨を正義に接続しようとするかぎりこの巨大統覚的な文体は不可避となる。......真面目な顔で反戦を語りだすとき彼らは《虫》の顔を捨てて人間になっているのだが、その変容こそが彼らから力の通路を遮断し、そのとき......世界への核心的な通路が奪われるのだ。われわれは《虫》として語るべきであり、それが唯一われわれに世界との通路を与える。」(「跳躍について 藤井貞和へ」29f.) と語り、(戦後における「荒地」派の線で)現代において人がもはや「虫」でしかないという現実のなかで、詩人は実の篭らない「人間」などの立場で語るべきではなく、あくまで「虫」の立場で語るべきだと説く。そして、詩の「効用」に関するかつての鮎川、黒田の議論の紹介を介して、 「藤井氏の文章においては[実は]、戦争の悲惨と詩を書くことの現実的な関係はほんとうは問題になってすらいない」(31)/「[このように実は]「無力でもいいからxxxxを言い続けること。」このような言説の構造をささえるものはなにか。無力と知りつつxxxxを言い続ける者の真情が、だれかによって汲み取られること、このときはじめてこの行為が効果と接続されるのだ。だれにとってか。おそらく《あの方》[天皇]によって。」(35) として、現実に対して無力だとして、その無力さを知りつつ「真情」を語ることによって、そこにいわば真情の共同体−−それを象徴するのが天皇である−−こそが本当の目的として想定されていると批判する。* * 若森栄樹『日本の歌』をも参照。 [604] これに対して藤井は、 「瀬尾さんの言いたいことは......詩は無力な(孤立した)ものであることぐらい皆さん先刻ご承知のはずなのに、何となく反戦的な(悪い)特集へ曖昧に共存するかのように寄稿に応じているのは、彼らの「詩する」意志がまだまだだ、というところであろうか。」(「詩は無力であるか−−瀬尾育生へ」160) と、柄谷的に「内面」派として瀬尾を理解し、同様柄谷的に、 「瀬尾育生......。その他もろもろの吉本隆明依存症たち。」(161) と批判する。 [605] このように湾岸戦争をめぐって、大雑把に言って、「第三の道」は「第三」を貫徹しようという吉本的路線と、もはや「第三」はないとする(したがって「第二」に合流する傾向をも含む*)非-吉本路線の二つに分裂することになる。 * 浅田彰の「今年の言論活動」が「『赤旗』1月3日号のインタビューから始まった」(「編集後記」)というのは、それを象徴するものであろうか。 [606] この分裂に相当するものが西欧世界においても展開する。しかし西欧では、日本におけるような反戦声明vs.声明反対というかたちではなく、米軍中心の多国籍軍による対イラク戦に賛成か反対かというかたちをとる。賛成の立場に立った者として、ウォルツァー、リオタール、エンツェンスベルガー等が(ハーバマスは「限定的な対イラク戦」を主張)、反対の立場に立った者として、バリバールやブルデュー、ドゥルーズ、デリダ等がいる。(以上、岩崎稔「湾岸戦争と西欧知識人」、松葉祥一「リオタール批判序説」、中村隆一「「大国ドイツ」の熱い夏」、杉山光信「クウェート危機とフランスの知識人」等参照) [607] 西欧世界との対比で言うと日本での分裂の仕方はきわめて特殊であると言いうる。「第三」の立場から対イラク戦賛成というのが日本では皆無(わずかに笠井潔が例外か)であるというのが大きく異なる点である。また逆に、イラク(アラブ)側に立って対イラク戦反対という立場が西欧では目立ったのに対して日本ではその意見が弱いというのも、大きく異なるところである。日本では参戦か非戦かということが軸であったのに対して、西欧ではイラクによるクゥエート占領という事態にどう対応するかということが軸であったと言ってもよい。ここに、戦後日本の−−悪く言えば現実棚上げ的に−−もっぱら理念でのみ考えるという習慣がなお続いているとも言いうる。加藤-竹田路線は、この在り方を問題として問うたのであるとも見ることができる。しかしながらこれもまた、加藤-浅田路線の在り方を批判するといういわばメタ的議論であって、湾岸の現実そのものにどう対応するかということを必ずしも問うていない。その在り方が逆に、(反対声明という)行動でなくて、もっぱらその際の在り方を「文学」として問うだけの「文学的内面」重視派だという反批判を呼ぶことにもなっている。 七 湾岸戦争時の論争(二)−−ロマン主義批判−− [701] ここに、この限りでは第三者的である竹田の次のような論評がなされることにもなる。 「ひとことで言うと、柄谷の「文学」批判の議論と「署名」や「アピール」への[反柄谷派の]批判の議論は、対立しているはずなのだが、その対立の核心はじつはよく見えない。その理由は、双方がよく似た論拠で相手を批判しているからである。」(「批評季評」289) 更に展開されたかたちでは: 「反戦の「署名」や「アピール」に対する笠井潔や加藤典洋などの批判は、現在“世界の歪み”に関してよるべき理念的根拠がまったくなくなったとき、絶対的な「平和」理念に依拠することの危険と欺瞞を指摘したものだ。......[署名・アピールは、]「現実性」に「個人の自由の夢」というロマンを対置するにすぎないからだ。/これに対する柄谷の......反批判は......。「文学」的内面はつねにあるがままの「現実」に対して「ロマン的現実」を対置する。そして共同体は、個人が自分を「ロマン的現実」の中に追い込んだときに、共同体への積極的な加担を強いることなく、いわば“個人が個人であるままに”やすやすと個人を共同体に“吸収”する。これが柄谷の「ロマン的内面批判」の要諦である。」(同上 290f.) 竹田によるなら、両派とも相手側を、「現実」を直視しない「ロマン」派だと批判しているのである。柄谷批判のコンテキストにおいてだが、竹田自身はこの事態を「奇妙」だとして次のように述べている。 「このような柄谷の議論が、「署名」や「アピール」批判と奇妙にすれ違っていることは明らかだろう。“批判派”もまた、絶対的な「平和」の理念こそがまさしく「あるがままの現実」を直視しないロマン主義にすぎないと言っているからだ。この奇妙なすれ違いが湾岸戦争をめぐって生じた批評の混乱の根をなしていると言ってよい。」(291) [702] 我々は、この「奇妙なすれ違い」がなぜ生じるのかを問い、そのことによって両路線の対立の−−単なる「反戦声明」署名・反対という表層を超えて−−深層を明らかにしたいと思う。 [703] 竹田は上の中立的論評の後、自ら(および加藤)の方はロマン派ではないとインプリシットには反論しつつ、柄谷がロマン派だということの論証・批判へと向かっている。ここではまずは共同体批判として論点が正確に同一化されているが、その要点は、すでに紹介したところと同じである。すなわち、こう説かれる。「共同体の「イデオロギー」をそこに生きる個人が内在的に批判すること」こそが本当の共同体批判である。それに対して柄谷のように「共同体という原理それ自体を「外部」から“否認”すること」は本当には批判とならない。なぜなら、それは「人間が現実を《批判しつづけうる条件と根拠》を無視」しているからである。そして、この「無視」ということが「ロマン主義に陥る」ことなのである。(以上、同上 292) [704] 柄谷では、「条件・根拠」の「無視」−−その「条件・根拠」が<「内部」にあること>によって出てくるものであるので、その「無視」がすなわち<「外部」にあること>になるのだが−−にもかかわらず共同体批判がなされているわけだが、したがって、その批判は「無根拠」ということになる。こう理解することは、《「外部性」が「無根拠」だとされている以上》、柄谷自身からもしてもその通りである。竹田はそれを 「これは具体的にはどういうことを意味するか。共同体内的な生活条件を否定してその“外”に出よ、とか「文学的内面」を自己否定せよという倫理的“定言命法”を打ち立てることだ。」(292) と換言する。これは、先に([310])見たように、すでに「「自由」という絶対的理念《から》規定するものにほかならい」とか、「サルトル的な自己意識の実存に帰結する」と批判されたのだが、ここでは「ロマン主義」だとして批判されるわけである。柄谷の方が相手側を「ロマン主義」だとして批判するときも同じであるが、その対極には完全に肯定的な意味で<「現実」の直視>が置かれている。そして、湾岸戦争時において、もう一つの対応として、この<現実の直視>の《一つの》かたちとして、多国籍軍に加担するという(いわゆる)「現実主義」が−−いわゆる「自由主義史観」にもこれが含まれる−−登場してきたが、「ロマン主義」だという批判には、それに有効に対抗できない、あるいはさらに、それよりも悪いという含意がインプリシットには込められている。したがって、「ロマン主義」だという批判は、まさに正反対からの批判となるのである。そして、<現実の直視>と「ロマン主義」ということをめぐって真の論点が形成されているのである。 [705] しかし、「ロマン主義」とは−−通常の意味よりかなり広義のものであるが−−曖昧な概念である。そこで、柄谷は明示的に、加藤-竹田の方も暗黙には、さらに、相手を(より明瞭に)「ロマン的イロニー」(の立場)として批判してもいる。笠井は浅田の「侵略があれば全滅してもよいという覚悟を語っているのだから平和憲法はラディカルだ」という「意味の発言」について、 「自分の信じていないこと、むしろ軽蔑さえしていることを信じているように振舞い、それによって批評力を担保しようとするロマン主義的イロニーの、まさに凡庸な現代版でしかないように思われる。」(「ダチュラ」の運命」217) と批判している。要するにポストモンダン的に(変わることなく、なお)浮遊しているだけだというのである。これを竹田流に言えば、そもそも「動機」がないのであるから、現実の批判の出てきようがないのである。批判がなされるとしたら、それは実は何でもいいのである。いとうせいこうの 「この戦争で、我々はアメリカにもイラクにも日本にもどの国の側にも立てないという無根拠が露呈した。その全ての立場が無くなった時に、戦争賛成か、絶対平和を選ぶか、全く無視するか、その三つしかない。しかし、どこにも根拠が無いなら無根拠のままで絶対平和を選ぼうと決意した。」(「小山」176) という発言は、それを裏付ける。「根拠が無い」のなら「戦争賛成」を選ぶことも可能であったはずであるが、そうしなかったのは、「動機」として言論界における<立場取り>といったことがあったからであろう。 [706] しかし柄谷(自身)は、自分をロマン的で《ない》と語る。 「[イロニーの他に]もう一つの姿勢があるとしたら、僕が使った言葉でいえば、ユーモアですね。....../このユーモアは、自分を一種の高みには置くので、非常にイロニーと似てるんですけど、一つ決定的に違うのは......。......僕の湾岸戦争における行動というのはほとんどユーモアですね。」(「現代文学をたたかう」11) では、イロニーではなくてユーモアだと言う、そのユーモアとは何か。柄谷は、 「ユーモアは真面目なんです。......ユーモアというのは、目的とか意味とかが全くなくなったときにとりうる精神的姿勢だ」(同 45) と語る。これだけではまだ不明であるが、「ヒューモアとしての唯物論」ではさらに次のように語られている。 「それ[ヒューモア]は、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。」(122) また、スピノザが「ヒューモア」の人であるとして、さらにこう説かれている。 「スピノザの考えでは、神は世界(自然)であり、そこではすべてが決定論的である。この世界を越えて在ると思われるものは、この世界のなかから派生した表象である。たとえば人格神は親子関係の心理的投射にすぎないし、自由意志や目的因は、たんに、われわれの知性が原因を充分に知りえないがゆえに成立する表象(想像物)にすぎない。」(122) [707] 柄谷は「超越論的であることはヒューモアである」(124)と語るが、ここからみるなら彼が言う「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」の主張がよく分かる。すなわちそれは、人は自分の限定−−そこから有限性が帰結する−−を例えば「自由主義国家」「共産主義国家」といった「理想」(125)をもって否定しようとするが、そうした「理想」=「外部」が実は「想像物」=「幻想」であり、存在しえないものであることが、夢が夢の外部から初めて夢であると分かるように「外部」から明らかになるということである。「外部」から「外部」が存在しないと分かるということは「矛盾」(133)であるが、その矛盾を言い立ててはならないのであって、子規で言えば、「自分が[内部の]自分自身を高み[外部]からみる「自己の二重化」」(119)という「精神的姿勢」において明らかなのである。 [708] 例えばヘーゲルのフモール規定では、フモールは現実を、スピノザ同様、決定されたものとみる。しかしながら、その事態を肯定的にみる。「現実的=理性的」というあの定式が意味するのはこのことである。柄谷においてもそうであるのか。留保付きではそう言ってもいいかもしれぬ。したがって、このスタンスは批判されるようにニヒリズムではない。ニヒリズムは現実の否定を志向してそれが実現されないところに出てくる一切は無益だとする態度であるが、フモールは現実を肯定するからである。 [709] しかし他方、留保付きと言ったのには理由がある。このユーモアの立場と、共同体=ナショナリズム批判の立場とが整合しないからである。柄谷には共同的なものへの(絶対的と言っていい)違和感がある。推量するなら−−丹念に調べれば分かるかもしれないが、いま手元にあるメモを基本としていわば「速報」的に書いている−−それは、共同体が同じ「幻想」を共有する者たちの空間であるからである。(逆に、「幻想」を共有しない空間が共同体の外部=言うところの「交通空間」である。)「幻想」とは(或る種の)「意味」のことであるが柄谷には『意味という病』というタイトルの評論集があった。ここから見るなら、柄谷にとって現実の肯定とは、いわば<意味抜きの現実>の肯定である。* そして、竹田の言う「動機」であるが、竹田自身認めるように「動機」が「意味」を創出するものである以上、柄谷はむしろ「動機」を排除する。ここにあるのは、もっぱら「理論的」でだけあるスタンスである。蓮實との共著『闘争のエチカ』ではこう語られている。** 「ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン、天使の詩』は、天使が人間の女に恋して人間になるという話です。物語としては、古いパターンですが、ただこの天使たちは、ベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、幾度も無力でしかなかった天使たちなのです。つまり、天使として描かれているけれども、彼らは、ある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、どんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することなく、ただ実践が何も生み出さないことを認識するためだけに生きているというようなタイプの認識者なのです。」(10) このように純粋な「認識者」をフモリストと呼ぶことは、拡張的な意味においては可能かもしれぬが−−ヘーゲルの用語法を含めてその標準的意味においては−−少なからず無理である。我々が上で留保を付けたのは、この意味においてである。 * <「共同体の外部」=「交通空間」>という言い方は、<「外部」が存在しない>という認識とは矛盾する。したがって、前者は一種の簡便な言い方であって、<共同体の「外部」に「交通空間」が在る>というふうに理解するのは正しくないであろう。<共同体と共同体の間>、<そこから共同体が成立してくる空間>といった趣旨の実体化的表現も見られるが、むしろ「交通空間」とは「共同体」的現実と別のものではなく、或る視点から見られた現実そのもののことであろう。それは換言すれば、「意味」の相を−−「幻想」だとして−−捨象した現実のことである。だから柄谷は、「“交通”という視点は......「歴史の意味」を排除する」(『批評とポストモダン』184f.)とも語るのである。(因みに、逆に、歴史を有「意味」とみる見方は「歴史主義」と呼ばれるが(『隠喩としての建築』29)、「歴史主義」のこの用法は(ほぼ)完全に我々のもの(拙稿「歴史主義について」参照)と一致する。)『言葉と悲劇』251-3では、「思考の三つのタイプ」として、「故郷を甘美に思う」という「共同体の思考」、「あらゆる場所を故郷と感じられる」という「コスモポリタン」、「全世界を異郷と思うもの」が挙げられている。「交通という視点」とは換言すれば、この第三の「全世界を異郷と思うもの」のことである。これを柄谷は、「この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです」と説明する。ここからみても、「交通空間」という「外部」が(別の空間として)存在するのではないことが了解される。 ** 「彼は......ただ共同体の秩序によって生きているだけの人間に対して屈伏することは拒むのです。」(15)と「闘争」宣言をし、かつ「この闘争に、「理由」や「動機」はありません。」(16)と柄谷は語っている。後の引用文に続けて「たんに自分を殺そうとする敵が眼前にいるからにすぎません。」(16)と語られるとき、極めて表面的に理解するなら、「敵」が「共同体」であるので《それに対して》反共同体(の「闘争」)というスタンスを採っている−−悪く取れば言論界内部の争いがあるだけだ−−、その意味で(内発的な)「動機」などは存在しないということであるのかもしれないが、我々はここに(柄谷自身の)内発的なものとして共同体への違和感が存在すると考える。なるほど柄谷は、(吉本=竹田的な)内発性に依拠する「批評」の在り方を−−結局「共同体」的なものとして−−拒否し、それとの区別で「理論(セオリー)」という言い方もされてくるのであると考えられるが、その志向そのものはやはり内発的なものだと言うべきであろう。共同体に対する違和感は、単に「批評」に際して(知的に)それに定位したというものではないはずだ。したがって、「理論的」という在り方は、《同時に実践的である》「理論的」在り方なのである。「批評凾ヘ、方法や理論ではなく......。......もし日本で(少数の)批評家や作家が......ある優越性をもちえた(と私は思う)としたら、その理由はいうまでもなく批評凾ェ方法や理論ではなく、《生きられる》ほかないものだからである。」(『批評とポスト・モダン』20f.)と語られるとき、そう理解するしかないように思われる。但し、上に「速報的」云々と書いたが、テクストとしては(例えば)『畏怖する人間』『漱石論集成』等の検討を待ってでないと正確には語れない。  しかしながら、ここで、<検討>のポイントだけは述べておきたい。柄谷は上の著作の両方に収められた論稿「意識と自然」において、例えばこう説いている。「要するに、漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている。それはいいかえれば、他者(対象)としての私と対象化しえない「私」の二重構造である。他者としての私......を完全に捨象してしまったとすれば......どうなるか。それを示しているのが『夢十夜』だ。この「夢」は漱石の存在感覚だけを純粋に暗示する」(『畏怖』35)。四でみたデカルト論と重ね合せるなら、この引用文中の「対象としての私」は「経験的な主体」に、「対象化しえない「私」」は「経験的な主体への批判において見出される実存的主体」に対応する。しかし我々は、後者は、−−竹田が「疑い」について「ただ極限化された理性の理論能力としてだけ想定される」と言うときはそう見ているのだが−−(言論界でのスタンスを採るために)単に理論的に想定されているだけのものではなく、まさしく柄谷自身において−−したがって《その意味では》経験的なものとして−−体験されているものであると理解する。『畏怖』に収められた「著者から読者へ」(374)では、「一方で、私は、時代状況と何の関係もない「自己」の問題が実在すること、それは倫理以前のものであることを強く感じていた。なぜなら、倫理的であるには他者が存在しなければならないが、その他者が現実的に感じられなかったからである。私はこれを少年期から感じていた。」と述べている。そして、こうした柄谷自身の「感じ」=「存在感覚」が、共同体への「嫌悪」を結果しているのであるし、また、その共同体への「疑い」を「促」してもいるのである。  古井由吉論(「閉ざされたる熱狂」)での表現で言うなら、この「感覚」は「「頭の恐ろしさ」ではなく「心臓の恐ろしさ」[漱石]」(『畏怖』164)である。これを竹田は「頭の恐ろしさ」、つまり「理論的」なものだと言っていることになるのだが、それは解釈として正しくない。その誤解は、こうした「心臓の恐ろしさ」が「病理体験」の次元のものでのみあって、「健康」の次元に留まる竹田からすればおよそ体験できぬものであるところから、来たものであろう。しかしながら問題はあるのであって、それは、このような「病理体験」レヴェルから出てくるものが果たして(柄谷自身の)「倫理」(エチカ)となりえるだろうかということである。ここから出てくる反共同体を−−「文学」ではなく−−「倫理」として説くとき、体験から出てくる、その意味で真正の反共同体は、(言論界の)共同体的な言説への単なる反定立へといわば脱体験化されてしまっているのではなかろうか。あるいは、蓮實が理解するように柄谷は(蓮實が言う)「芸術家」であって(「蓮實」)、そういうものとして−−したがってエチカは美学であって−−、むしろ体験から語るという行き方を退けているのであろうか。これが<検討>すべきポイントである。 [710] そうであるとして、さて、このような「認識者」のエチカは、竹田が言うように彼だけの倫理でしかありえない。「反戦署名」においても、彼は彼だけの立場から(「単独者」)署名しているのである。しかしながら、(「署名」そのものはいいとして)なぜ「《反戦》署名」となるのか。それは、極論するなら、「文学的内面」批判を通して「共同体」を批判するためである。柄谷には「近代文学における「文学的内面」こそ「ナショナリズム」を作ったという理論的な主張」(竹田、「批評季評」289)がある。そして事実として、反核運動時と同様なお「内面」に固執して「反戦」にネガティヴな一派がいる。この「内面」派を、そして共同体を批判するために柄谷は「反戦署名」を提唱したのである。しかしそれなら、なお、「《参戦》署名」であってもよかったはずである。「内面」派はそれにも反対しているからである。実はこれは、いわば「内面」派分裂を狙ったものであると考えられる。「内面」派が反戦か参戦かというなら明らかに前者に傾いているところに狙いを定めて、それでは「反戦」を採って「内面」を放棄するか、なお「内面」を採って「反戦」の立場を曖昧にするか迫ったものである。加藤のその後の反応は、このように仕掛けられたことに反発したものであろう。 [711] 実際、柄谷にとって、日本が参戦するかどうかはどちらでもいいものであった。大事なのは、(「内面」に閉じこもらないで)何かを言うことであった。石川好との対談では 「......。大事なのは、それを外に表明することです。原理さえちゃんとしていれば、本当は、九十億ドル出そうが、難民救済のために自衛隊を派遣しようがかまわない。」(「湾岸戦争を満州事変にするな」118) と語られている。 [712] しかし同時に、湾岸戦争時は「日本は平和憲法を積極的な原理として表明しうるチャンスだったと思う」という発言に対する「土井たか子と同じなんですか」という石川の質問に「ちがいます。」と答え、続けて上の「......」の部分で、 「世界政治においては、動機がどうであろうと、理念や原理がつねに語られる。その場合、日本人が西洋に対してだけでなく、アジアに対しても提示しうる原理は、これ[平和憲法]以外にはない」(117f.) と語る。ここには、「認識者」であることをやめて−−あるいは、言うとして<治者>の視点に立って*−−、日本が今後あるべき道といったものとして平和理念の主張が説かれている。 * ここに、この時期、(表面的には)同じく「平和憲法」を説いた−−(生活者)吉本との基本的相違があると言いうる。吉本との対談で瀬尾は「[柄谷達の]そういう言い方と吉本さんの言われていることがいったいどう違いどう同じなのかということが、ぼくにとっては最も難しかった」(「湾岸戦争」12)と語っているが、少なくとも、この<治者>に対する「極東に位置する日本国の一個の民衆」(「わたしにとって中東問題とは」104)という自己規定において、相違は決定的である。 [713] 『〈戦前〉の思考を巡って』では、冷戦後の世界を−−アメリカの一元的支配ではなく−−多極化の趨勢にあり、そこで日米間の対立が今後避けられないとして、それに対処すべくアジアの結集を図るために、まさか再び「大東亜共栄圏」を言うわけにはいかないので、日本が現在、理念として唯一掲げることのできる「平和憲法」を前面に打ち出すべきであるという趣旨の主張が展開されている*。ここは、あるいは、日本が衰退に向かうことなく進むことができると《すれば》、こういう道しかない、と純理論的に認識を示しているだけかもしれないが、しかしここは、むしろ国民的知識人といったものとして語っているようにも感じられる。 * このことは、「従来の平和擁護論が、「平和がいかに大切か」ともいうべきひとびとの実感に訴える「平和」の“使用価値”を強調するものだったとするなら、この[柄谷派の]「ラディカルな平和」の提示は、現在の国際関係のエコノミーにおけるその“原理”としての有効性を“活用”しない手はない、とその“交換価値”を強調しているわけです。」(『世紀末の』50)というかたちで、加藤にも認識されている。 [714] しかしながら、柄谷本人と柄谷派の人々を区別するとして、後者は、相変わらず旧来の「戦後的啓蒙」のスタンスでただ理念を−−湾岸戦争時には「絶対平和主義」を−−語っているだけではなかろうか。そうであるとするなら、柄谷の場合は現実を直視しているとして、彼らは、今度は柄谷という「外来思想」をただ受け売りしているだけではなかろうか。そして、何でもいいがとにかく現実に対処することそれ自体が大事なのであるとするなら、それは、そうした対処を行っている主体を実は現実の上に置くというかたちで、ロマン的イロニーであると言うことも不可能ではない。 八 湾岸戦争時の論争(三)−−若干の補足と整理−− [801] 瀬尾・藤井論争をコメントして柄谷は次のように言う。 「......ベトナム戦争なら......なおそこに、米ソいずれでもない革命の可能性を「想像する」といったことが可能でした。今度は違う。おまけに、日本が実際に戦争に参加することが出てきたわけです。それは、もう、「想像力」の問題ではない。文学者の無力は、単なる無力であって、もはや逆転の契機はありません。これまでの[吉本的]思考に慣れてきた人たちでも、それがもう流通しないことに気づいていると思います。その場合に人がとる方法というのはたぶん二通りあるでしょう。一つは、危うくなった「主体」をいわば高次化する......ことです。......イロニーですね。すでに、[戦後の「荒地」派以来の、吉本にも繋がる]「詩人は無力だ」というのも、イロニーだったんですが、[かつては]まだそこには、逆転の可能性が残っていた。しかし、[いまや]本当にたんに無力になると、どうするか。現実あるいは自己を軽蔑することです。そうすることによって、高次の自己を確認する。......[例えば]ボードリヤール[のように。]....../もう一つの姿勢があるとしたら......ユーモアですね。/....../ドゥルーズ......。今度の湾岸戦争で、彼は、ほとんど公式的なまでに、正面から反戦を声明しましたね。あれがユーモアだったといっていいと思う。」(「現代文学をたたかう」10-12) 柄谷は瀬尾をこのようなイロニカーとして批判する。そしてこれは、間違いなく加藤-竹田路線批判をも含意している。要するに、この時点でなお「第三の道」を採ろうとすることは、「文学的内面」に固執したイロニーでしかないというのである。 [802] しかしながら、これはどういう批判であって、加藤-竹田路線としてはどう反論することになるのか。これは柄谷の基本テーゼなのだが、彼によるなら、近代は「文学的内面」の成立と一体である。そして「内面」(をもった主体)が、「国民国家」−−換言すれば「ナショナリズム」−−の主体を形成した。問題はまず、これとイロニー批判との関係である。 [803] [801]の引用文からも明らかなように、「イロニー」は二種類に分けて使われている。すなわち、そこでの言葉を使うと1)「逆転の可能性」を残し、現実否定へと繋がりうるイロニー(A)と、「現実を軽蔑」し、「高次の自己を確認」するだけのイロニー(B)である。まず、このことを確認する必要がある。そうするとして、竹田(の方)からすれば柄谷派はロマン主義として批判されると確認したが、いま「イロニカー」として問題とするとして、厳密には、それはこの「イロニカーB」としてである。そして、その「イロニカーB」として柄谷の方は逆に瀬尾と、そして加藤-竹田路線とを批判するわけである。 [804] つまるところ両路線は《共に》相手側を「イロニカーB」として批判するわけだが、そこに(竹田が言う)「奇妙」さがあるわけである。しかし、これは表層の事態であって、竹田によれば、そこには「よく見えない」「対立の核心」がある。我々はそれを、柄谷-浅田路線による批判の観点からは、柄谷が言うこれらの「イロニー」(A、B)、「内面」、「国民国家」=「共同体」の関係を問うことによって明らかにできると考える。 [805] まず、(柄谷が加藤-竹田路線がそこに陥るとする)「共同体」への一体化であるが、「内面」派は「イロニカーB」としてこれに陥るというのはその通りだとする。しかし柄谷派からするなら、「イロニカーB」は冷戦体制崩壊後の現実の変化によっていわば強いられたかたちで「A」がそれへと変質して出てくるものである。そうすると、この見方と、近代的「内面」=「イロニー」総体との関係はどうなるか。(かつて柄谷自身がそうであった)「内面」の「イロニーA」を意味あるものとして保持するとして、「共同体」と一体化する「イロニーB」的「内面」は、冷戦後に《のみ》固有の在り方だというのか。しかし、それでは、近代初頭(19世紀)の国民国家形成期と「内面」とは有意的に結びつかないことになる。あるいは、冷戦期《のみ》が特殊であって、その時期にのみ「内面」は「イロニーA」という形を取りえたというのか。しかし、それでは、この時期を近代において例外的な時期だとしてしまうことになる。それは柄谷派の真意ではないであろう。 [806] [107]に見た浅田の見方に従って、「共同体」への、いわばハードな一体化とソフトな一体化とを分けて、冷戦体制崩壊後、「内面」派が「イロニカーB」として陥るのはこの後者だと限定することが可能である。そうすると、現在のソフトな一体化とは別のハードな一体化が近代成立後支配していたとして、その主体は何か。「イロニーA」的「内面」なのか。そうであるとするなら、いかなる「共同体」をも否定する柄谷の、その柄谷もかつて取った「イロニーA」的「内面」は、冷戦期に即しても否定さるべきであったということになるが、そうなのか。そうだという方向で、柄谷はあるいは、かつては日本的共同体といわばインターナショナルな共同体とのいずれをも拒否しつつ、しかし何らかの理想的共同体を志向していたのだが、冷戦後その可能性がなくなって、そうした第三の可能性がなくなったにもかかわらず、なおそれを求めるなら日本的共同体に行かざるをえなくなったという時点で−−或る意味でかつての自己を、「第三」であってもやはり「共同体」志向的であったと批判しつつ−−「内面」総体の批判へと転回したのかもしれない。しかしながら我々は、「内面」=「イロニー」、「共同体」という基本概念は受け入れるとしても、簡単な三者間の等置図式では説明力が不足すると考える。 [807] 柄谷の近代論(風景論)に対してかつてカテゴリーが不足していると批判したことがあるが、我々はここでもそれを言わなければならない。基本から考え直していくとして、まず、時期区分的によくなされるロマン主義を前期・後期に分けるという見方を援用して、但し必ずしも時期区分的なカテゴリーとしてではなく我々も、ロマン主義を前期・後期に分けたい。そして前期ロマン主義の「イロニーA」として「内面」が《その原型において》成立すると規定する。 [808] では次に、国民国家=共同体はどう結びつくのか。ここで我々はさらに「イロニーA」について、それをいわば「純粋なもの」と「不純なもの」に区別する。竹田が柄谷の説としてまとめたところによると、「内面」は「ロマン的現実」を「現実」に対置するのであるが、我々の見方では、それは柄谷が言うようには(?)ただちに国民国家=(近代以前的な共同体に対する)いわば新共同体につながるものではない。(前期)ロマン主義は、イロニーとして旧共同体的現実を全否定するが、それは《同時に》(その「ロマン的現実」において)新共同体に加担するわけではない。加担するものもあるが、そして形成期においては新共同体=国民国家の主体はロマン主義的主体でのみあるのだが、それは、その「イロニー」が「不純」である場合《だけ》である。「内面」は−−旧共同体的現実に対しては等しく全否定的であるが−−、それ自身、(その「ロマン的現実」の構成分として)新共同体を含むものと、含まないものとに区別されるのである。 [809] この前者の(前期)ロマン主義者=「内面」を支えてとして国民国家が形成される。それは換言すれば近代国家である。しかし、国民国家はやがてその近代性に対する反発を誘発してくる。そこに成立してくるのが後期ロマン主義である。それは、新共同体的現実に対して旧共同体的現実を対置する。しかしそれは、対置の《仕方》としては同様ロマン主義的であり、イロニーとして(今度は)新現実を否定する。したがってまた、主張内容としては復古主義的であっても極めて近代的でもある。* * 我々は京都学派の「近代の超克」も、このようなものとして理解している。 [810] 以上のプロセスの内にはまだ「イロニーB」は登場していない。では「イロニーB」とは何か。柄谷派は、現実の方の変化によっていわば受け身的に「イロニーA」が「B」に変質すると見るのであるが、我々はイロニカーという主体(そのもの)の側のうちに、「B」の独自性を想定したい。主体のうちにどういう独自性があるのか。正確に言うのは困難なのだが、いずれの現実であっても、その現実を否定するのが「イロニー」一般であるとして、「現実」に対して「ロマン的現実」を−−そこに共同体を含むにせよ、含まないにせよ−−《その内実に即して》対置するのが「イロニーA」であるとすれば、《否定するということそのもの》を一種の「ロマン的現実」として対置するのが−−そこに共同体が内容として入りこむ場合もあるが、そうでない場合もある−−「イロニーB」である。この限りで「イロニーB」は、共同体が内容として入りこむ場合であっても、「共同体」を自らの「ロマン的現実」の内容として構成《しよう》としないかぎりにおいて、上の意味で純粋か不純かというなら「純粋」ではある。そこでは、「不純な」「イロニーA」が現実への反定立として積極的に「共同体」に一体化するのに対して、いわば、どうでもいいものとして「共同体」への一体化が行なわれるにすぎない。 [811] そうだとしてでは、加藤-竹田路線は(我々の図式から言って)どこに位置するのか。我々から見ても、それが「内面」派=「イロニカー」であるというのはその通りであると言っていい。彼らもまた現実を否定し、何らかの「ロマン的現実」を対置するからである。例えば、加藤が(瀬尾の方に加担して)、 「言葉が戦争という現実を前にして全く無力だとして、「だから」とばかり[参戦派のように]政治というリアリスティックな現実的思考に赴いても、また逆に「だからあえて」とばかり[反戦署名派のように]その「貧しい言葉」を引き受ける「決断」のほうに赴いても、そこに言葉(モラル)の生きる可能性は、すでに断念されている....../でも......言葉がその「無力」を前に“絶句”することは、無ではない、何ごとかでありうる。」(『世紀末の』107) と語り、そこに「モラル」を語るとき、そういうモラル的「内面」の世界が「ロマン的現実」として対置されている。 [812] そして、さらに、この「モラル」が「内面」に自足する「モラル」に留まる限りでは、そこに「イロニーB」がある。これを換言すれば、「政治」に対する「文学」に自足しているということである。加藤が、例えば、文学の政治性を主張する文学観を批判した太宰治を弁護するとき、さらには、その太宰の延長線上にある吉本に対して、その「自立思想」になお「政治性」が残っているとしていわば「文学性」の徹底を語るとき、「イロニカーB」だとみなすことが可能ではある。 [813] しかし加藤は、そうではないと間違いなく語るであろう。我々の図式で言うなら「純粋な」「イロニーA」だと主張するであろう。彼は「政治」をも語っているからである。だが問題は、その「政治」を《言う》だけに留まっていないかどうかということである。そして、柄谷からすれば、「イロニーA」だとしても、もはや「純粋な」イロニーAは不可能なので、「不純な」イロニーAたらざるをえない。問題は、「純粋なイロニーA」はもはやありえないのか、という現実認識にも関わる。 [814] この問題は、実は、柄谷の「ユーモア」のスタンスをさらに問うことへと繋がる。そもそも「フモール」は−−「イロニー」と異なりつつ−−「純粋」でありえるのか。「純粋」とは、「イロニー」の場合は、(現実を否定し、現実を超えた)「共同体」という「ロマン的現実」を仮構しないことである。フモールが、結局−−イロニーと異なって−−現実を肯定するのだとしたら、このようにして「純粋」であることは不可能なのではなかろうか。「現実」には、その一局面として(なお)「共同体」が含まれているからである。標準的意味では、「フモール」は、この「共同体」をも、それが「現実」であるかぎりで肯定的にみることになる。それが「幻想」であり、高み(「外部」)から「幻想」が「幻想」であることを知りつつ、「共同体」を肯定することになる。これが柄谷の「ユーモア」の場合どうなっているのか。 [815] 或る意味で柄谷は、なお共産主義=マルクス主義者である。しかしそれは、フォイエルバッハ流の人間主義的なマルクス主義の対極に位置するシュティルナー的なマルクス主義である(『終わりなき世界』200f.参照)。そしてそれは換言するなら、「共同性」の要素を完全に払拭した共産主義である。この共産主義の主張に対する対談者・岩井の「それは世界資本主義とどこが違うんですか」という質問に柄谷は「それは同じことですね」と回答する(203)。 「ある意味で言えば、マルクスは資本主義の発展が共産主義そのものなんだということを言っていたんじゃないかと思うんです」(207) とさえ語られている。しかし彼は、アナーキズムのいわば国家抜きの資本主義を(理想として)説こうとしているのではない。アナーキズムが自然発生的秩序のまさしく理想を同時に語るのに対して、世界資本主義の運動の無秩序性をも彼は認めている。このとき彼は、冷徹な認識者として世界を見つめている。柄谷は冷戦体制崩壊後の世界を「先進資本主義国」の世界支配が基本構造となるとみる。もはや、社会主義が対抗原理にならないだけでなく、「第三世界」も有効な対抗勢力とはならない。それもまた先進資本主義国の支配構造に組み込まれてしまっている。<対抗>があるとしたら、フセインやノリエガのような「非理性」の噴出としてでしかない。この「先進資本主義国」の世界支配は、換言するなら「多国籍資本」の支配であるが、しかし柄谷によるなら、そこから国家の枠組みが超えられているわけではない。資本はなお、その政治部門として国家を使用する。しかしまた、そうした多国籍資本の政治部門としてアメリカが一元的に世界を支配しているわけでもない。パックス・アメリカーナが存在するわけではない。存在するのは、いくつかの国家連合(アメリカ中心のNAFTA、EU、そして日本中心のアジア(?))間の支配権闘争を含んだ「先進資本主義国」の世界支配である。これは第二次大戦前と同じ構造だと言っていい。柄谷は、だから現在を「戦前」と規定するのである。(以上、『終りなき世界』『〈戦前〉の思考』参照) [816] 柄谷はしかし、この事態を認識者として眺観するだけではない。同時に、一種の現実主義者として、この事態への<対処>をも語っている。[713]にみたように(日本人として)アメリカの覇権に対抗すべくアジアの結集を(インプリシットには)説いてもいる。そして原理的次元では、資本の無秩序性に対して、いわば防波堤として国家に(なお)依存しなければならないことをも認めている。しかし、その国家は、もはや「《国民》国家」ではない。国民国家は本質的に(不純に)ロマン主義的なものである。それは、成立期で言うなら、例えば現実の身分的差別を否定して、国民という限りで−−したがて非国民を排除する−−平等な構成員から成る国家=国民国家の「ロマン的現実」が実現されていったものである。柄谷が想定する国家は、これとは異なって、例えばスピノザが説いている「いささかも共同体的な、民族的な、血縁的なつながりをもたない個々人の間の契約国家」(『終りなき世界』204)*である。「フモール」が国家の肯定を含むということを、柄谷の「ユーモア」にも認めるなら、内容をこの契約国家で埋めた<国家という枠組み>(のみ)の肯定であると言うこともできる。 * これは加藤-竹田の場合も同様とみなして構わないと考えるが、ここで言う「国家」とは「政治」とも換言できるものであって、決して「近代国家」のことではない。したがってまた、例えば坂本多加雄が(EU等にすでに「国家」を超える萌芽があるが、)なおしばらくは「国家」が必要である−−そして、それは「国民国家」でしかありえない−−と語る場合とは異なる。柄谷からすれば、そういう「近代国家」とEUとは基本的に同じものである。したがってまた、−−例えば西川長夫のように「国際主義」的に−−《そうしたかたちでの》(近代)国家の消滅に希望を見ているわけでもない。 [817] こう理解するなら、そのスタンスは意外と加藤のそれに近い。柄谷から見れば加藤は、言うとすれば−−「純粋なイロニーA」として−−なおアナーキズムの可能性に拘っている(その現実の不可能性から「内面」に留まるだけである)のであるが、加藤もまた、国家という枠組みは−−例えば「ぼくはもう「国」、「国家」を悪とは考えない」(『世紀末の』155)というかたちで−−容認しつつ、しかしそこから徹底して「国民性」を排除しようとしているからである。(「歴史主体論争」の文脈で言うなら、それが「公共性」である。)これはすでに前稿で加藤理解のポイントとして指摘したところである。テーマ的には彼の福沢論(「「痩我慢の説」考」)の検討が重要であろうが、それはまた別稿を期したい。(因みに、これは福沢《解釈》としては正しくない。彼が福沢を肯定しているからといって、そこから例えば司馬史観を介して「自由主義史観」へと繋げて行くのは、したがって、妥当でない。彼が支持しているのは、加藤流に誤解して想定した「《国民》国家」批判者としての福沢であるからである。) [818] このスタンスは、次のように述べるとき竹田においても明瞭である。 「......モラルとしては人間の欲望の「自己中心性」を認めること......。ぼくにはまさしくそのことが現在の批評や思想の言葉の出発点であると思えるのです。/......この原理を認めたとき、「社会」とか「国家」というものを、はじめて「共同体」ではなく、単なるルールによって成り立つ自由な個人の「集合体」とみなすことができる......。」(『世紀末の』147f.) 九 「歴史主体論争」の周辺で [901] 以上みてきたような対立が現在まで基本的に続いていると見て差し支えない。加藤-浅田路線から「歴史主体論争」に関わる積極的な発言はあまりない。わずかに、高橋哲哉と西谷修をゲストとして迎えて行われた「共同討議 責任と主体をめぐって」においてぐらいであろう。ここでなされた発言のいくつかを拾っておこう。 「高橋さんはそういう当事者の苦哀を感じとることなしに「講壇」の高みから語っているだけだ、というのが彼[加藤]の言いたいことでしょう。だけど、「内から出る」ことは「外へ出る」こととは違う、共同体的なものに深く身を浸しつつ反発の瞬間だけにとどまりたいというのでは、それ以上どうにも動きようがない、むしろ、ぼくはそこに、どちらにもつかない「私」を特権化するナルシシズムを感じざるをえないんです。」(18) 「ともあれ、日本の場合、共感の共同体がそういう形で再生産され続けているとすれば、まずそれを近代的な個人主義の論理で克服した上で、その近代主義をさらに批判しなければいけないという、非常に厄介な二重の責務を背負わされているということだと思うんですよ。(25)/さっき丸山真男と言ったけれども、アーレントというよりハーバーマスといえばいいわけで......、この人はなんと西欧中心的・ロゴス中心主義的な人かと思いながら支持せざるを得ない、......。」(26) [902] 共に浅田の発言であるが、柄谷も基本的に同じ趣旨の発言をしている。全体の批判は湾岸戦争時と同じである。この「共同討議」ではしかし、上の第二引用文に見られるような一種の現実主義が目立つ。取り敢えず、丸山的な近代主義で行くしかないという。これは、次のヴァイツゼッカーの評価の仕方(浅田)からも端的に読み取れる。 「歴史修正主義に関連して言えば、そもそもドイツがやってきた戦後処理というのは、いろいろ問題があるとはいえ、日本の戦後処理よりはるかに徹底している。......そうしなければ、ヨーロッパで経済活動をやっていけないんだから。たとえばヴァイツゼッカーが大統領だったときの有名な演説でも......。......実際あれこそまともな保守派の言説ですよ。さらに、シニカルな見方をすれば......それこそがドイツの資本の利害にかなっているわけです。」(21f.) 第一引用文と併せて理解するなら要するに、革命を求めてその不可能性からただ「内面」に留まるだけでは駄目であって−−政治的には「自由主義史観派」のような「まとも」で《ない》「保守」に吸収されてしまうだけであって−−いまやまず「まともな保守」の近代主義で(に後退して)冷戦後の変化にしっかり現実主義的に対応していかなければならない、と語られているとさえ言っていい。 「丸山真男が言いたいのは、近代主義・市民主義がいかに陳腐であろうと、日本では近代も市民も実現されていない以上、今なお新鮮である......。ぼくは、一九八四年頃......それを読んで共感を覚えた。」(26) と語るとき、柄谷もこれを裏書している。 [903] この「まともな保守」は別に「進歩」と換言しても構わないものである。しかし、湾岸戦争時の「反戦署名」は一見いわゆる「進歩派」のスタンスと同じであったように見えるが、柄谷-浅田の場合は一種の現実主義があるのである*。この点は看過すべきでない。したがって、「進歩派」左派のスタンスに立つ高橋の発言とは微妙にトーンが違っており、悪意にみれば、高橋の熱弁ははぐらかされてもいる。浅田によって 「絶対的な他者が重要なのではない、たんに相対的な他者とのいまここでの関係が絶対なんだ......。「ショアー」の問題にせよ、「慰安婦」の問題にせよ......どうしても死者や被害者を大文字の他者として立ててしまうバイアスがかかる。そうすると、それに対して加藤さんのような人が「鳥肌が立つ」と言ったりすることにもなる。......さらに言えば、絶対的な他者との不可能な関係に耐えるというようなことを倫理として主体に要請してしまったときに、その不可能性から主体というものが空無に帰してしまい、逆に言うと、そこにはいかなる経験的な内容を充填してもいいということになって、結果としてオケージョナリズムに陥ったりもするわけでしょう。」(36f.) と語られるときは、明らかにそうである。 * 「倫理」の問題として言うなら、ここには「責任倫理」があると言うこともできる。これは、いわば「誠実」を軸とした加藤-竹田的倫理とも、そして加藤-竹田が「進歩」派に見る「正義」の倫理(言説においていかに正しいことを言うかを軸とした倫理)とも異なる。倫理学プロパーの問題としては、この三種の倫理の相違を論じることも重要であろう。因みに、−−「正義」の倫理を否定して、その意味で「ノン・モラル」を説いているが−−「ある意味では[なお]無責任なノン・モラルの柔軟さが欠如している」という川村湊の加藤批判(「湾岸戦争の批評空間」303)は、テーマ的に加藤-竹田の倫理を問うたものである。柄谷も、そうした誠実の倫理を、「偽善」を嫌う「正直」の倫理として、まさしく「やまとごころ」の伝統的倫理だとして批判している(『終わりなき世界』130f.)。これに対して加藤-竹田は、「欺瞞」の倫理だとして反批判するわけだが、同じ「欺瞞」だとして、柄谷的倫理の「欺瞞」と、「進歩派」の倫理の「欺瞞」とは大きく異なる。後者が、いわば<言説>と(自らの)<生活>(の在り様)とを区別しつつ、<言説>において倫理的であることによって<生活>を棚上げにするものだとしたら、前者は、倫理学のタームで言うなら「動機主義」に対する「結果主義」に明確に定位して、その「結果」における「善」を−−それを説くことが「偽善」であろうとも、それを意識しつつ−−問うものである(『終りなき世界』130ff.参照)。この相違が指摘されていないところにも、「歴史主体論争」がまだ未展開である所以がある。  <正義の倫理>は、換言するなら「倫理的満足」を求める倫理のことである。唐突な関連づけだが、環境倫理で問題とされるいわゆるCVMについて栗山浩一氏は「生態系の価値評価と環境倫理」(『環境倫理と市場経済』東洋経済社 1997)で、次のように問題を指摘している。「彼ら[Desvousges等]は水鳥を守ることの価値をCVMによって評価したが、その際に(A)2000羽の保護、(B)2万羽の保護、(C)20万羽の保護、という3種類の保護政策を想定した。常識的に考えれば、2000羽しか保護されないよりは2万羽が保護される方が望ましく、20万羽が保護されるのはさらに望ましいだろう。したがって、CVMの支払意志額が環境価値を反映しているならば、政策(A)(B)(C)の支払意志額をそれぞれWTPa、WTPb、WTPcとするとWTPa<WTPa<WTPcとなるはずである。/ところが、彼らの評価結果では......支払意志額は、必ずしも評価対象の変化に対応していなかった......。/このような現象に対して、Kahneman & KnetschはCVMが評価したものは、環境の価値ではなく、「倫理的満足」にすぎないと主張した。つまり、保護対象が何であれ、ともかく環境保護にお金を払うだけで人々は満足しているのであ」る(184f.)。<正義の倫理>とは、このようなかたちで、<自らが正しくあること(を目的として、その目的の実現)に満足を覚える>という倫理のことである。これは、義務論的倫理でありながら、言うとすれば「愛の倫理」が「水鳥を保護すべし」という義務に同じく従って、しかし可能な限りで、対象の水鳥の数に応じて「支払額」を増やしていくものであるのに対して、要するに義務に従ったということで満足してしまうものである。そして、結局自分の<生活>を犠牲にまではしないということが一体になっているとき、そこに「欺瞞」があるのである。これに対して<誠実の倫理>は、同じく<生活>を犠牲にしようとはしないが、その<生活>を犠牲にしないという限りで結局「義務」にも十全に従えないのであるという認識のもとで、自らが「正義」であるという意識だけは「欺瞞」として峻拒するものである。<結果倫理>は、これを「正直」への自足といったものだとして批判し、いわば自らが同じく<生活>を犠牲にしない範囲で「支払う」ことは実は水鳥(全体)の保護に関しては無に等しいことを知りつつ、したがって自分が「正義」であるという意識などはもつことなく、その無に等しい「支払」の実行・主張が第三者に対してもつ効果を重視しようとするものであるとも言いうる。(柄谷はこの倫理で語っているのだともみなせるが、しかしそうであれば、[502]でみた彼の「エチカ」とはやはり齟齬がある。柄谷からすれば、むしろ<結果倫理>などはどうでもいいものであって、彼は「エチカ」の実行の単に一つの方途として<結果倫理>を説いているだけ−−それが加藤-竹田からすると「欺瞞」に見えるのだろう−−なのかもしれない。) おわりに [1001] 我々の理解では、政治的含意としては実は、現実主義的に国家の枠組みを受け容れ、かつそこから徹底的に国民国家性(共同性)を排除していくという点では、両路線は基本的に同じである。にもかかわらず、加藤-竹田は、柄谷-浅田路線では、そうした方向が上から(<啓蒙>として)主張されいて、それが「言う」だけに留まっていて、特に浅田の場合のように、その限りでかつてのポストモダン的浮遊の延長上にあると、対して後者は前者を、相変わらず物事をモラルで考え、−−かつての「革命」の可能性が消え去った今では−−そのモラルのゆえに何も出来なくなっている、それは「内面」の方が重要であるからだ、と批判し合っている。 [1002] ここには、或る意味でどうしようもない感受性の相違がある。この感受性が結局は規定的であるとするなら、対立はそれ自身「文学的」である。しかしここは「政治的」に、それぞれの言い分では共に反共同体であるというその主張を、本当の共同体派に対して対置してみてはどうであろうか。そうすれば、論争はまた違った姿を示してくるはずである。但し、そのためには、加藤-竹田の側は、柄谷-浅田派の現実認識に−−それを「踏み絵」にしていると批判する(『世紀末の』94)だけでなく−−別の現実認識*があるのなら、まずそれを対置することをしなければならない。また柄谷-浅田の側は、「内面」=「共同体」という余りに抽象的な図式を分節化し、「内面」への徹底=《反》共同体という相手側の主張を、その主張から帰結する、(柄谷-浅田が一見接近しているかに見える)「第二」の立場はなお「共同体」的であるという批判を、(一端)内在的に理解してみる必要があるであろう。「歴史主体論争」をさらに生産的に展開させるためにも、これは決定的に重要な課題である。 * 我々からしても、加藤-竹田は(もはや)アナーキズムを説いているのではなく、この点では現実主義的に国家という枠組みで(なお)考えざるをえないとしている。問題は、そこに具体的な現実認識が欠けているということである。もっとも、彼らからすれば、柄谷が語る現実はいわば《大》現実である。もっと自分の(小)現実から思索するのでなければならない、とは反論されるであろう。 引用文献・略号([ ]内) 浅田彰:「むずかしい批評」(『すばる』1988年7月号)[「むずかしい」] 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