加藤典洋の「ねじれ」の議論 安彦一恵 [001] たとえば、 「戦後日本の《特殊》な「ねじれ」を言い立ててナショナルな物語(「来歴」?)の再建を図りたいと願う人々」(中野敏男「戦時動員と戦後啓蒙」『思想』1997年12月号 160) として、加藤はほとんど例の「自由主義史観」派と同じであるという同定が(なお)なされている。本稿は、そうした同定の一つの手掛りとなっている「ねじれ」の議論に(限定的に)即して、−−かつ、対象論稿をできるだけ『敗戦後論』*第一稿に限定して−−彼の主張はどう理解されるのが(解釈として)正しいのかを明らかにしようとするものである。 * 以下、[303]-[310]を除いて、ページ数のみを記すものは、この書からの引用である。 一 [101] 加藤の認識では、日本はまだ「戦後という時間」(10)のうちにある。氏によればそれは、「日本が他国にたいして行ったさまざまな侵略行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていない」(10)こともあるが、第一には、「わたし達」がなお「ねじれ」のうちにあるからである。 [102] しかしながら加藤は、そうした「ねじれ」の《克服》*を単純に説いているわけではない。ましてや、「ねじれ」の克服として「ナショナルな物語」の再建を説いているのではまったくない。加藤にとって問題なのはむしろ、「ねじれを受けとめることを回避し」(24)ていることであり、そのこととしての「隠蔽」と、その結果としての「自己欺瞞」であり、《その意味では》−−克服ではなく−−「「ねじれ」を最後までもちこたえる」(93)ことが求められているのである。 * 以下、この記号を付してある部分は、その間の語句を強調することを意味する。 [103] では、「隠蔽」されている「ねじれ」とは何か。加藤は厳密に、「ある意味で「戦後」は......“最初の数年”が終わる、一九四八年あたりからはじまっている」(46)として、四八年までの「敗戦後」とそれ以後の「戦後」とを区別する。「ねじれ」とは、この「敗戦後」に第一には「戦後憲法」の定着のかたちに示されている、いわば「敗戦」の「終戦」という意識化である。 [104] 加藤は言う。 「わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。」(21) そして、外国によって作られた自国の憲法という「矛盾」の解消として確かに、国民投票によって憲法をもう一度選び直すという手続きを提起してもいる。これが、−−「内容」としては、平和憲法(第九条)のままでいいとする点で異なるのだが−−いわゆる「自主憲法」の主張と重ねられて了解されることにもなるのだが、しかし氏にとってはこうした形式的問題が重要なのではない。 [105] 加藤は更に言う。 「もし、ここに与えられているものがわたし達の価値観からして、否定さるべきもので、ただそれが勝者の強圧下に「押しつけられ」ているにすぎないなら、ここにわたしのいう「ねじれ」は、それほどのものではない。」(21) 「強圧下」に押しつけられて仕方なく受け入れている(「面従腹背」(21))のであるならばまだましであるが、そうではないというのである。 「わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、この価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された。しかし説得されただけではなくて、いわばその説得される主体ごと変わってしまったのだ。」(21) というのである。 [106] しかしこれでは、(単なる「保守」を越えた)真正右翼ではないか。そう読めてしまうのだが、ここだけでもその真意は(「主体」の)<代わり身の早さ>の批判にある。そしてそれは、(肯定的に)自己確立への訴えといったものとして読み替え可能なものではなく、まさしく(否定的な)過去の自分の棚上げという在り方への批判である。加藤によるなら、いわゆる「護憲派」の憲法論はこうした在り方からなされたものである。 「平和憲法は当時の旧体質の日本政府にこそ「押しつけ」られたが、民主的改革を望んでいた日本人民に熱烈に支持された、という実質的憲法「かちとり」説、平和条項は戦争の犠牲によって日本国民に与えられたいわば死者からの贈り物なのだという憲法形見説、あるいは押しつけられたのは事実だが、以後、実質的に日本国民により長きにわたって保持されることで、この初発の「汚れ」は消えている、という押しつけ消化説」(23) といったものがそのヴァリエーションとして挙げられている。加藤によれば−−厳密には、後述するように第三のものは氏からしてもここで挙げない方がいいのだが、それを除いて−−「かちとり説」「形見説」はいずれも、自らがあの戦争を行ったということを棚上げにする(、したがって戦争の本当の反省・謝罪をも不可能にする)在り方なのである。 [107] 加藤は引き続いて、いわゆる「改憲派」についても次のように言う。 「もう一つ現われたのは、この押しつけられた亡国的な憲法に代わり、自主憲法を制定せよ、という主張で、それは、彼ら自身がこの戦後の新憲法の恩恵を受けていることを直視しない、これもまた現実回避の論法だった。」(23) 加藤は、「改憲派」に対してもこう批判を加えるのだが、この批判は批判としては必ずしも決定的でない。加藤は次のようにも言う。 「これまで、改憲派の主張は、憲法が押しつけられた事実を重視し、長年自主憲法の制定を主張してきたが、国家主権確立のため、在日米軍の撤退にまで進まなければならないところ、それは米国の利害との対立を意味するため、主張に加えないという中途半端な屈折した姿勢を余儀なくされてきた。」(50) つまり、(第九条を廃棄して)交戦権を明示した憲法を主張するとして、その「自主憲法」と齟齬をきたす在日米軍の存在という事実をほうかむりしているという批判である。 [108] だが、これでは批判にならい。例えばNATO諸国はそれぞれ憲法上交戦権をもっていても米軍が駐在しているように、集団的自衛を憲法で規定すれば批判できないことになる。しかしながら、加藤はさらにこう述べている。 「[改憲派が]こう主張しているのは、あくまで国内に向けられた内向きの自己でしかないのである。」(51) 加藤の「改憲派」批判は実は、改憲派の主張はもっぱら国内に対する「内向き」の主張でしかないというところに真意がある。「内向き」であるから、《本当には》米軍に出て行ってもらう気などなしに説かれており、《だから》米軍駐在は絶対だめということにならないのである。 [109] 加藤は、この「内向き」という改憲派批判に合わせて、たとえば、 「たとえば大江健三郎の江藤淳にたいする拒絶的な姿勢に代表される、かたくなな批判......。それは、当初から国内のコンセンサスの形成をめざすことを放棄した、根っからの外向きの自己にほかならない。」(51) というふうに、護憲派に対しては、それを「外向き」として批判する。 二  [201] 加藤は、戦後日本の批判として、 「戦後というこの時代の本質は、そこで日本という社会がいわば人格的に二つに分裂していることにある。」(46f.) と語る。それは、最も表層で言うなら、国内に「護憲派」と「改憲派」との対立があるということである。しかし、それは単なる両陣営の対立といったものではない。そうであるなら、実質的に平和憲法を求める加藤自身からしても、護憲派の勢力を拡大していけばいいという、これまた極めて単純な主張で結論ということになる。しかし、加藤によるなら、そうではない。対立というとしてもそれは、この「外向き」派と「内向き」派との対立である。戦争の反省・謝罪が不十分であるという外からの批判に直接対応する「外向き」派(cf.48)と、それでは日本は間違っていたことになるとしてそれに反発する「内向き」派(cf.48)との対立である。 [202] しかしながら、同時に、「日本近代の開国以来」の伝統だとする岸田秀の「内的自己・外的自己の分裂」という図式(cf.48)をここで安易に適用するのは、問題であろう。単純に言っても、外からの批判はアメリカからも来ているのであって、それは(一定の)軍備を日本に求めてくるものであるから、「改憲派」の少なくとも或るヴァージョンは「外向き」であり、逆に、日本の平和だけを考える「護憲派」の一部の方が「内向き」だと言えなくもない。 [203] 「内向き」「外向き」を言うとしても、人間の一つの本性として自己の現状を肯定的に見るということを前提として、敗戦までの過去の日本に対して、その過去との連続性において、その意味で、そういう過去を伝統として受け継いできた日本の「内」から現状を肯定しようという在り方と、過去との断絶において、その過去の「外」から現状を肯定しようという在り方との対立であると言うべきであろう。むしろ、これが加藤自身の真意でもあろう。 [204] そして加藤によるなら、そうしたものとして「分裂」は、例えば「米国における民主党と共和党」のような分裂ではなく、−−「比喩的に」言えばとされるが−−そうした「二つの異なる人格間の対立」ではなくて「一つの人格の分裂」である(47)。極論するなら、「われわれ」日本人は対外的には「護憲派」であり、かつ仲間内では「改憲派」なのである。加藤はここで「比喩的に」と限定を付しているが、我々はここは直接的に受け取ることもできると考えている。その場合、もっと厳密に語る必要があるであろうが、例えば「自衛隊」についてはそれを容認するものが多数派であり、(文面上は「自衛隊」を含めて一切の軍隊を禁じる)「憲法」についてもそれを容認する方が多数派であるという、この両多数派集合の重なるところに属する人たちについては、明らかに、まさしく一人格において「分裂」していると言わなければならない。 [205] いずれにしても「分裂」は一人格の「分裂」として、ある側面から見るなら「建前」と「本音」の使い分けであるとも言いうる。自国の「利益」ということから「改憲」(あるいは武力の容認)を、「平和」という「建前」からは「護憲」(あるいは武力の否定)を、ケース・バイ・ケースによって説き分けているのであると。 [206] 加藤は、ここから、 「[両派は]共通しているのである。/そこ[両派それぞれ]にないのは、一言でいえば、やはり「ねじれ」の感覚である。」(51) と語るのである。 [207] 加藤はさまざまな文脈で、またそまざまな意味合いで「ねじれ」を語るが、根源的にはそれは、ここで「共通している」と言われる「ねじれ」、すなわち「敗戦」の事実が「敗戦」として自覚されていないという事態である。加藤によるならそれは、戦死者について、「改憲派」が日本のために戦った者に限定して、それを「英霊」として祀ろうとし、「護憲派」が戦争の犠牲者に限定して、それを「無垢の死者」として祀ろうとし、要するに共に、戦死者を「清い」存在として祀ろうとするところに現われている。たとえば日本国民の死者についてはこう語られる。 「護憲派は、原爆の死者を「清い」ものとし、同じく改憲派は兵士として死んだ自国の死者を「英霊」とし、「清く」する。......ともに死者を「清い」、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである。」(57) [208] ここに「自覚」されていないのが、あの戦争がもった「汚れ」であり、かつそれが−−戦勝国であるなら別であるが−−(戦争目標の点からみて)「無意味」でしかありえないという「敗戦」の事態なのである。この事態に対して、「改憲派」は戦勝国の論理で戦死者を祀ろうとして「《敗》戦」の事実を隠蔽し、「護憲派」は非戦国(単に戦争に巻き込まれてしまった者)の論理で戦死者を祀ろうとして「敗《戦》」の事実を隠蔽しているのである。 [209] しかし、「敗戦国」であっても戦死者を「英霊」として祀ろうとするのは通常のことではないのか。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』などは、まさしく敗戦を国家建設へと繋げようとするものではなかったのか。こうした異論を躱すかたちで加藤は、 「第一次世界大戦でのドイツ、第二次大戦の日本、ドイツ、イタリア、ヴェトナム戦争のアメリカはいずれもその死者を義によって弔えない形で戦争をはじめ、終えた敗戦国である。」(232f.) として、一般的に言って第(一・)二次大戦以降は事態が別であるという論を付け加える。加藤によるなら、そうした「世界大戦」以降は、もはや19世紀的な「国民国家」の段階を超えている。そこでは、たとえ戦勝国であっても戦死者を単純に「英霊」として祀ることが困難になっている。例えば湾岸戦争時にブッシュが米兵の死者数に拘ったのも、人命尊重といった動機からではもとよりなく、死者が多数に及ぶとき「英霊」として遇しても国民がもはや戦争を受け容れないことを知っていた為である。ましてや敗戦国の場合、戦死者はまさに「無意味」な死者でしかないのである。「改憲派」はこの「無意味」さの事実をみないのであり、また「護憲派」はそこに別種の「有意味性」を外挿しようとするのである。 三 [301] これは評者たちによって論点として採り上げられていないところであるが、加藤はこれら両派の在り方を「現実回避」(23)としても批判する。加藤は「改憲派」に対して、 「[その主張は]、彼ら[改憲派]自身がこの戦後の新憲法の恩恵を受けていることを直視しない、これもまた現実回避の論法だった」(23) と批判するが、 「わたし達はこの憲法を強制された。しかし、以後、この憲法の理念を自分のものとし、何とか自分の決定において半世紀の間これを保持し、いまでは、何だ、平和憲法というものは米ソ超大国を蝕んだ産軍複合体の発生を防止する、案外使えるものなのじゃないか、というような自前の評価をもつまで、これを自分ふうに、根づかせてきている」(22) とも語っており、その故に我々は加藤からしても「押しつけ消化論」は別扱いにした方が適切であると[106]では述べたのだが、氏には、平和憲法が日本の国益にとって最適であったという現実認識がある。そして、この現実認識を前提に、「改憲派」の主張は、実は本当には国益に即したものですらなく、そういう国益を含んで人々の利益をきちんと考えない「現実回避」であると批判するのである。 [302] 同じく政治家たちの失言を分析した論稿「失言と〓[べし]見 「タテマエとホンネ」と戦後の起源」(『思想の科学』1995年6月号)*では、さらに「護憲派」の方も同様「現実回避」であるとインプリシットには説きつつ、ここに「本音・建前」の(戦後)日本に固有の形態があると説いている。 * 以下、三においては、ページ数だけを挙げたものは、この論稿からの引用である。 [303] この論稿では、「愛国」=日本的価値と、平和=アメリカ的価値とが軸として設定されている。加藤によるなら、「本音」では「愛国」(=「改憲」)であるが、諸外国の手前上「平和」(=「護憲」)を説いているというのであるなら、そこにあるのはいわば《単純な》「自己欺瞞」である。この単純な自己欺瞞があるのであれば、「敗戦後」においては、 「あのアメリカへの服従、信従を示す言動はタテマエだった。自分はたしかに親米反共をいい、自由民主主義を信奉する政党に身をおいたが、戦前以来の愛国心はホンネとして心の奥深く隠してきた」(28) という「面従腹背」があったことになるのであるが、加藤によるなら、本当はそうではなかった。加藤によるなら、 「わたし達はホンネをじつは信じていない。たとえばわたし達は、戦争中、鬼畜米英といい、対戦国を激しく憎悪したが、いったんこれに負け、占領がはじまると、アメリカはステキだ、と敵国にいったんは心服してしまった、帰依してしまった」(14) のであって、アメリカ的価値=平和憲法を(かつて)信じたか・信じはしなかったのかと(単純に)問うなら、それは信じたのである。 [304] ここから見るなら 「タテマエとホンネは、このわたし達の国民ぐるみの自己欺瞞、「自分騙し」のために、呼び出された、張り子細工の思考様式にほかならない」(14) のであって、「改憲派」は平和憲法を(一端は)信じたが、「占領が終わるや、再び心意を変え、「日本教」に立ち返」(14)った時点で、アメリカ的価値を本当は信じていなかったのだと自分を納得させるために作り出された機制なのである。カタカナで「ホンネ」と表記されるのも、単純な「本音」から区別するためである。 [305] これに対して「建前」の方も「タテマエ」として戦後日本では、自分の意に反するが原則として堅持されなければならないものといったものではなかった。加藤は土居健郎に従ってこう言う。 「タテマエは、[建前の]意味から言えば本来的な方針・原則だが、その日本的ともいうべき特質は、それが「人々の合意によって取り決め」られるということである。「これを要するに建前は、常にその背後に建前において合意する集団が存在することを暗示する」。それは、モーゼの十戒のような神との契約による「取り決め」ではない。それはつねに空の高みならぬ集団の内部に視点をもち、そこからその視点をもち、そこからその視点人物により、タテマエと目される。」(16) 要するにタテマエとは、「集団」の見解であって、個人においてはその集団圧力を受けて主張されるものなのである。 [306] そして、これとの関係ではホンネは、 「逆にその視点人物がその集団内部で、「建前に合意はするものの、それとは別に」個人としての「思惑」をもつと、それがタテマエにたいしての、ホンネと呼ばれる」(16) と語られているが、加藤によるなら、個人が集団の見解に、集団の見解であるから仕方なく同意するが、そこに釈然としないものが残るとき、−−(ここは)土居が言うのとは違って、「実体」として(cf.16)いわば内心において初めからあるものではなく−−そこに反定立的に措定される(にすぎない)ものなのである。 [307] 加藤によるなら、例えば細川首相の「アジア侵略謝罪発言」に反発してなされた永野法相の「南京大虐殺はでっち上げ」という「失言」は、まさしく、こうした<反定立的措定物>としてしか理解できないものである。 「失言とは......タテマエをいうべきところ、「ついうっかり」ホンネをいってしまうことである」(11) が、永野の「失言」の場合、その「ホンネ」は(カタカナでいう「ホンネ」であって)「本音」=「本心」では決してない。次のように言われる。 「永野法相が、「南京大虐殺はでっち上げ」だという。それは彼のホンネの開陳である。しかしなぜ彼はいったん諸外国の激しい反発に出会うや、これを前言撤回できるのか。....../答えをいえば、わたし達はホンネをじつは信じていない。....../......永野法相は、「南京大虐殺はでっち上げだ」と自分では信じていると思っているのだが、それは信じているのではない。....../永野茂門は、反対されるや、いとも簡単に、前言を撤回する。なぜ大切な信念だというのに......。わたし達[同様、水野]は、とんでもない《おっちょこちょい》なのである。」(9-15) 「おっちょこちょい」であって、「タテマエ」に反発を感じるとき、ただそれに対立しただけの発言を(その場で)言ってしまうのである。そして、それは決して信念などではなく、であるから簡単に撤回されてしまいもするのである。 [308] 加藤によるなら、こうした「失言」の構造は「失言」をしてしまう者だけが有するのではなく、周りの者も多かれ少なかれそれを有している。であるから、失言者・永野は「政治生命を失わずにすむ」(22)のである。 [309] この意味では、何がホンネ、何がタテマエであるかは、内容的にではなく、その時々の集団関係によって決まるのであって、ある時にホンネであったものが、また別のときにはタテマエの位置を占めることにもなる。まさしく 「タテマエは真ではなく、ホンネも真ではない。わたし達は何も信じられず、信じず、そのことからタテマエとホンネを生みだすが、このタテマエとホンネの特色は、わたし達が何も信じられず、信じていないこと、そのことをわたし達自身に隠すべく、それがわたし達によって作られているということである。」(20f.) [310] 加藤によるなら、これは日本の伝統である。 「ここにはやはり圧倒的優位文化との関係のうちに自己の文化を形成してきた日本の古代から続く自己形成の文化的遺制が影を落としている。....../......古代以来、日本は時の世界の中心から高度な文明の所産を輸入することで自分の文化を培ってきた。そのため......根深い二重構造性が長い間のこの社会の一つの特徴となってきた。......タテマエとホンネが隠れ蓑として憑衣するのも、この二重構造性にである。/この二重構造性は優位移入文化に対する劣位土着文化の側の「劣等感」を媒介にした「不信」の形で、長い間わたし達の心の中に生きてきた。」(22f.) ただ戦後は、この<伝統>が極端になった。外部から、そしてそれを受けるかたちで内部において形成される集団の見解としてタテマエが説かれるとき、それにたいする反発としてホンネが−−「本音」だという自己欺瞞的意識を捏造しつつ−−作られるのである。とりわけ戦後において、実は「本心」などは存在しないのであって、あるのは「集団」の見解という基準と「劣等感」だけである。* 「彼ら[失言者たち]は全員自分達の「ホンネ」なるものを[、但し自己確信からではなく]信じ、機会に乗じてそれを吐露する。そしてそれがより大きな集団単位の世界で批判を呼ぶや、より小さな集団単位の世界に逃げこみ、前言撤回をし、その小さな集団単位への忠誠を誓う。」(29)** というのである。「前言撤回」も、(反省など含まない)集団圧力回避の意図からなされるにすぎないものであり、この「小集団」にはその集団の見解があるので、この「小集団」の見解に依存して、「前言撤回」という恥をさらしてもなお「ホンネ」を保持し、いわば安心して何度も「ホンネ」が「失言」されることになるのである。 * 本稿は『敗戦後論』第一稿を主対象としてものであるが、それは(「ねじれ」の)批判としては、湾岸戦時における、いわゆる「文学者反戦署名」への批判から始められている。この「署名」を中心的に担った柄谷-浅田路線に対して加藤は激しい敵意を示している。その敵意は、ここでいう、<もっぱら「集団」との関係でなされる主張>という在り方の側面からは、例えば次のように示されている。「ディコンストラクションといえば、先行するあるものを解体構築するわけだが、このコワされるものの実体がコワす人の中に感じられない。厳としてそのヒトの中にあるものが、解体され、脱構築される前に、それはつまらないもの、古臭いものとしてすでに彼の中でコワれてしまっている。それをコワしているのは、古来日本人の歴史感覚を支配してきた「時勢」至上観というほかない。」(「「外部」幻想のこと」(『文学界』1988年8月号)174)加藤からするなら、柄谷-浅田路線とは、もっぱら言論界の内部での流行(「時勢」)に即して主張するというスタンスのものであり、その意味で「現実回避」だというのだ。だが、柄谷-浅田の方は逆に、加藤こそ「文学的内面」に固執したまさに現実回避だと批判する。ここには、この間の「歴史主体論争」における加藤の議論をより適切に理解するためにも重要な論点がある。これについては、別稿において論じる予定である。 ** 我々はここで、こうした集団定位的心性こそが天皇制の核心であるとも言うことができる。それは、逆説的に極論するなら、仮に「天皇制廃止」が多数意見となるなら、多数見解であるがゆえに自らもそれに−−タテマエとして−−同意する、というかたちをとるであろうものである。 四 [401] では、この「ホンネ・タテマエ」の「二重構造」は「ねじれ」にどう関わっているのか。加藤によれば、われわれ日本人は論争をもっぱら「建前」としてしか行ってこなかった。「本音」の方は、例えば「失言」というかたちで、単に非-主張的にしか表に出てこない。「公共性」とはなによりも、この「本音」(の主張)をぶつけ合う空間のことである。湾岸戦争以降の「改憲派」として加藤は例えば北岡伸一を挙げるが(50)、北岡はその主張内容は批判されても、論争の公共空間に上がっているという点では評価される。『みじかい文章』(五柳書院 1997)に収められた或る短文においては、このことが 「[北岡の]主張には反対だが、バッター・ボックスに立っているため、対立できる。」(185) というかたちで語られている。加藤にとって大事なのは、「建前」の対置し合いではなく、まさしく「本音」のぶつけ合いなのである。 [402] しかしながら加藤によるなら、われわれ日本人は、そうした「本音」をぶつけ合うという習慣をそもそももってこなかった。われわれ日本人の言説の原理は、あくまで「集団」に、その「集団」圧力をいかに躱すかというところに、あったからである。そこから、言説はもっぱら「建前」としてなされるようになったのである。時には、この「集団」の見解に対立する「本音」が吐露されることもあるが、それは「劣等感」の暴発であって、実は本当の「本音」ではない。 [403] 「本音」とは換言すれば「自己利益」である。そして、「自己利益」の実現は、何が本当に自己利益になるかという現実認識を前提とする。加藤からするなら、平和憲法に対する自分のスタンスは現実認識からきたものである。そのスタンスは外面的には「護憲派」と一致する。したがって、外面的には「護憲派」は現実に自己利益貫徹的に適合していることになる。しかしそれは、《たまたま》適合しているに過ぎない。そうであって、護憲派において戦後憲法は、人々(「集団」)から圧倒的に支持されているというところから各人によって擁護されているのであって、現実認識において最も利益適合的であるとして受け入れられているのではない。「本音」=自己利益を−−公共的に−−主張し合うという習慣の欠如のゆえに、われわれはそもそも現実を現実として正しく認識しようとはしてこなかった。そして、そうした現実誤認の原点に、「敗戦」の「終戦」という認識が、戦後(全体の)原点の「ねじれ」として存在するのである。 [404] 加藤はなるほど  「わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。」(21) と述べている。ここから、この「矛盾」を解消すべく「選び直し」という提案がなされてもくるのであるが、しかし加藤からしても、これはなお表層の「ねじれ」であって、その核心は、われわれが悪い戦争を戦って敗戦したという事実を直視していないことなのである。「敗戦後」において少数の人たちはこの事実を正しく直視した。例えば大岡昇平が挙げられているが、彼は、象徴的に言って、(改憲派の)洗い直した日の丸と、そして(護憲派の)赤旗の、ともに「清潔」な旗を排して、「よごれしょぼたれた日の丸」(71)に就いたのである。そしてさらに言うなら、加藤にとってわれわれが進むべき道とは、「ねじれ」の必然的に欺瞞にいたる性急な「回復」ではなく、むしろ「「ねじれ」を最後までもちこたえる」(93)ことなのである。* * こう見るならば、加藤は「よごれしょぼたれた」ものであっても「日の丸」を背負い込もうとするのであって、やはりナショナリストであるという批判が予想される。これについては、ナショナリズムを克服するためにも、《方法》として「よごれしょぼたれた」ところから出発するしかないと考えられているとだけ言っておく。換言すれば「内から」ということであるが、これはすでに論及したところでもあるし、上記別稿で新たな論点に即して論及する予定でもある。 1998/04/24 version 1.00