保守主義・伝統主義・歴史主義−−批評:西部邁『思想の英雄たち』−− 安彦一恵 はじめに [001] 「ランドスケープの倫理学(一)」81頁で我々は簡単に「西部邁も、この意味での〈保守主義〉であるのか通常の〈伝統主義〉であるのか明確でない。」と述べたが、本稿では西部邁『思想の英雄たち』(文藝春秋 1996)に即して、このことをテーマ的に確認したい。そして併せて、前稿「ベンヤミン『パサージュ論』の解釈について」への補完として、保守主義との関連で「歴史主義」を位置づけておきたい。しかし眼目は、解釈そのものではなく、〈分析の武器〉として「保守主義」「伝統主義」「歴史主義」のカテゴリーを適切に再構成して提示することにある。 一 西部邁における「保守主義」(一) [101] 副題に「保守の源流をたずねて」とあるように、本書における西部の意図は、あるべき保守主義の提示にある。 [102] 西部が(真の)保守主義として提示するところのものは、通常あいまいに「革新」「左翼」に対置される「保守」「右翼」とは異なっている。「保守」については政治的に自民党のイデオロギーとみなされることが普通であるが−−もっとも最近では、西部自身を含めて(cf.18)自民党のイデオロギーはむしろ社会民主主義だと語る論者も増えているが−−、西部は「旧与党である自民党の政策を継承するという理由だけで、つまり現状維持を唯一の根拠として、またその現状たるや大いなる伝統破壊にのめり込んでいるにもかかわらず、保守派を名乗っているのだ」(17f.)として、保守主義をそうした「保守」のイデオロギーから区別する。しかし他方、旧新生党(の一部)のイデオロギーとして語られることもある「新保守主義」からも、自らを区別している(232)。「新保守主義」の基本イデオロギーの一つである「リバータリアニズム」を恐らく念頭に置いて「現代の自由主義(リベラリズム)(正しくは放縦主義(リバティーニズム))」と語っている(205)。また、「近代主義が限界に達したと日本人が感じるたび、より具体的には欧米との国際摩擦が暗礁に乗り上げるごとに、「近代の超克」を日本主義やアジア主義とよばれる集団的感情の激発にゆだね、その揚句、ある種の集団的自殺行為に民衆を駆り立てる」(16)として、いわゆる「右翼」からも自らを区別している。 1 - 1. 自生主義 [111] 「保守の源流」の一人としてハイエクが紹介されている。我々は、ハイエクが(計画主義的)社会主義を念頭に置いて批判した「[設計的]合理主義」「設計主義(constructivism)」が西部においても、最も主要な批判対象であると見る。西部の社会観の基本には、社会は、例えば(極端な)社会契約説がそう見るような人工物ではなく、本来的にはいわば一つの自然として、自生的(spontaneous)に展開するものだという見方がある。この見方は、少しく異なった視角からは、「理念型としてのアメリカニズム、それは歴史不在のところに国家を樹立せんとする社会的実験主義のことにほかならない」(11)という言い方にも現われている。やや生硬な表現になるが、この〈自生主義〉とでも呼べるものが西部の「保守主義」の基本を構成すると見ておく。 [112] 「保守主義」論の古典の一つとしてマンハイムの論稿"Das Konservative Denken;Soziologische Beitraege zum Werden des politisch-historischen Denkens in Deutschland",1927(邦訳:『保守主義』森博訳 誠信書房 1985.)がある。我々は以下(邦訳を用いて)適宜この論稿に言及するが、彼は(彼が言う)「保守主義」と区別して、「普遍的な人間の本性としての伝統主義」(8)という範疇を設定している。これは、「われわれは旧来のものを墨守し、更新にたずさわるのをきらうような人間的な心的素質を一般的にもっている」(8f.)として、その「一般的な心的素質」を指示するために設定されたものである。マンハイムはこれをM.ウェーバーに基づいて「伝統主義」と呼ぶわけだが、我々は、彼も指摘しているH.セシルの言い方の方を採用して「自然的保守主義」(9)と呼んでおきたい。「伝統主義」について我々は独自に考察したいからである。 [113] この「自然的保守主義」は、あくまで《現状》*の変更を嫌うものであって、そこには過去(から伝えられているもの)《そのもの》の尊重ということは含まない。我々の考えでは、これに対して「伝統主義」は、通常の意味では、−−現状に即して語る場合でも、それを現在の(新しい)ものと過去(から)のものとに分別して−−《過去》を尊重するものである。 * 《 》は、−−ここも含めて本稿では全ての箇所において−−その内側の語句が強調されていることを意味する。 [114] さて、この「自然的保守主義」という語を以下用いるとして、特に生活心情等について「保守的」と言われるときは、この「自然的保守主義」に当るものである場合が多い。しかしながら〈自生主義〉は、カテゴリーとしてこの「自然的保守主義」とは基本的に異なるものである。それは、現状の変更を嫌うということを含まない。変化を含む場合であっても、自生的な展開であるときはそれを認める。〈自生主義〉は、社会の展開は、そうした変化をも含んで自生的でなければならないと説くものである。 1 - 2. 秩序主義 [121] しかしながら西部の保守主義は自生主義だけからなるものではない。そこには次に、〈秩序主義〉とでも呼びうる要素がある。ここで言う「秩序」とは、定義的に、行為の安定性を保証するものとでも換言できようが、西部はそうしたものとしての秩序の存在を重視する。実際ハイエクも「自生的《秩序》」を語っている。社会は、自生的であっても、そこに−−いわば自生的《無》秩序として−−秩序が欠けているならば、認められないのである。 [122] 西部は、この秩序ということを基点にして、「自生的秩序」を説くハイエクが楽観的であると(内在的に)批判する。「ハイエクが保守主義者になれなかったのは、自生的な(慣習的)秩序がいわば自生的に破壊されることもありうる、という疑念を持ち合わせなかったからである。自生的秩序は、....「設計主義」によらなくとも、崩壊しうる。」(234) ハイエクは、設計主義的介入がむしろ逆に自生的秩序を破壊すると考えたのだが、西部によるなら、そうした介入が無くても自生的秩序は崩壊しうるのである。 [123] 西部によるならしかしこれは、 ハイエクが秩序を重視しなかったからではなく、あくまで見方が甘かったからであるにすぎない。内容的に言うなら、ハイエクが見ていた社会は「あまり大きな変化の起こらないような静態社会あるいは変化の仕方が一定しているような恒常社会に近いものだったから」(240)であるが、しかし現代の「高度技術および高度情報の大衆社会」(235)は動態的であり、そこでは秩序は自生的にのみでは維持されないのである。 [124] 西部が維持を主張する秩序は、普通言われる場合よりは外延の狭いものである。ハイエクを(なお)肯定的に評価して次のようにも語られている。「そうだとするとハイエクは首尾一貫せる保守主義だということになる。彼が保守せんとしたのは、もちろん、既存の秩序そのものではない。既存の設計された秩序の奥底にあって歴史をつらぬいて持続してきた自生的な秩序、彼が保守せんとしたのはそれである。」(242) ハイエクは、「組織[つまり秩序]を設計しようとする」ことによってむしろ逆に秩序が破壊されることになる、秩序は自生的秩序としてこそ本当に保守されると説くのだが、西部も秩序を、そうした表層的な組織的秩序としてではなく、それから見るならその底にあるものとして主張するのである。しかし同時に、西部によるなら、そうした「奥底」にある秩序が自生的にのみでは保守できないのである。 [125] しかし、ハイエクのように人工的な計画的秩序に対して単純に自生的秩序として「奥底」の秩序を言うのでなければ、どのようなものとして「奥底」の秩序を限定することが出来るのか。該当の文脈内ではミスリーディングに提示されているが、西部は「歴史の知恵」(242)に基づく秩序といったものを考えているように思われる。(ミスリーディングだと言うのは、(奥底にある)秩序そのものを問題としながら、「歴史の知恵とでもいうべきものを守らんがためなのだと思われる」と段落を締めくくっているからである。)しかし問題は、この「歴史の知恵」とは何かということである。 1 - 3. 伝統主義 [131] これに対して西部は、「伝統」をもって答える。〈自生主義〉との関連で言うなら、この「伝統」によって導かれる自生的秩序ということを主張するわけである。ここに我々は、西部の「保守主義」の次の要素として〈伝統主義〉を加えることができる。エリオット論においては、〈自生主義〉との関係で実際次のように説かれている。「彼[エリオット]は、社会の各地・各層において長い歴史のなかで自生的に成長してきた人間の生き方の多様性とそれらのあいだの統一性をともに保守するには、個別の古き諸制度のなかに秘められている宗教の規準と伝統の英知とを確認し定着させなければならないといいたかっただけのことなのだ。」(209) [132] しかし、西部において「伝統」は、形式-語義的に「歴史によって「運ばれてきたもの(トラディクション)」が伝統である」(28)とも語られているが、それであれば伝統主義は、さらに〈今後運ばれていくもの〉をも含める場合、(純粋)自生主義と外延的に同一となるのであって、実際はそれよりは限定されたものとして考えられている。他方また、(一定の)過去そのものを規範として設定して、そうした歴史的実体として伝統が規定されているのでもない。普通の語感では、このように過去そのものを規範とするものが伝統主義と呼ばれるのだが、西部のはそれとは異なる。そうではなくて西部は、エリオットに即して、(悪しき因襲をも含む)過去の伝統のうちの「正統」の部分として「伝統」を考えている。では、そうしたものとして「伝統」はどう規定されているのか。 [133] 西部は「庶民」と「大衆」とを区別し、「祖先の伝え残した歴史の知恵とでもよぶべきものを担っているのが庶民であ」る(124)と語る。というか、歴史の知恵=伝統を担う者を「庶民」と定義する(cf.269)。そこに期待されるのは、伝統をその担い手の側から規定することである。例えば柳田や吉本ならそこに「常民」「大衆」というものを、そしてその「知恵」を提示してくると言えるが、しかし西部はそのやり方を採らない。「現代の人々は伝統破壊者としての大衆の顔相を露骨にし、伝統保持者としての庶民の容貌を希薄にしている」(269)と例えば語りつつ、実体としての庶民の存在を否定する。庶民と大衆という二種類の人々がいるのではなく、現実に存在するのはいわば庶民性と大衆性を共にもつ者だけなのである。 [134] しかし他方、オルテガに共感を示しつつも、ここで大衆の対極に立つものとして「真正の知識人」を実体として提示することも拒否する。そういうものを知識人のなかから取りだそうとしても、現実の知識人はあまりにも「疑似大衆化」(269)してしまっているからである。 [135] 西部は、「真正の知識人」を(も)、「庶民の生活に表現を与える」(269)者と規定する。しかし、そうした規定によって「伝統」を規定しようというのであれば、それは単なるトートロジーにすぎぬ。そこで彼は、いわば認識論的観点から、知識人を「解釈」者(cf.272)、あるいは、オークショットの会話論を援用して(258)庶民(性を含む者)との「会話」者(cf.270)とも規定し、「解釈」や、庶民との「会話」において認識されるものとして伝統を規定しようとする。 [136] 西部は、このうち「解釈」に即して、そうした知の在り方を「経験論」(24)に見てもいる。あるいはまた、「いわば“伝統について意識化するための賢明な方法”が正統とよばれているわけだ」(207f.)として、この認識論的観点からもエリオットの「正統主義」を擁護する。 1 - 4. 平衡主義 [141] しかし西部は結局、認識のいわばよき在り方によって見出されるものとして伝統を規定することを貫徹しない。つまり解釈学的立場や、会話主義そのものを結論としはしないのである。 [142] 西部は他方で、直接「知恵」自身を限定してもいる。伝統に関連づけて次のようにも語られる。「技術、イデオロギー、慣習そして価値のあいだをはじめとして、矛盾や対立を孕みつつ多方向に分岐していく言語の多機能のあいだで平衡をとること、それが文明の成熟ということなのだ。そしてあまりにも明瞭なのは、そうした平衡の感覚および成熟の知恵が....一つの時代だけの、一つの世代だけの、そして一個人だけの努力によって獲得されるわけではないということである。私が伝統とよんできたのは、そうした成熟の知恵への接近法にかんする歴史的な堆積のことである。」(286) 端的には「平衡術の貯蔵庫にほかならぬ伝統」(36)とも語られる。−−この、いわば〈平衡主義〉とでも呼べるものも西部の「保守主義」を構成する。 [143] どの方向へかということは別として進むことが必然であるとするなら、どう進むかが問題となるが、この観点から西部は、〈平衡主義〉の系として「漸進主義(グラデュアリズム)」(31)を主張してもいる。「平衡をとりつづけるためにこそ保守思想は漸進的な歩行を採用するのである。」(31) そしてそこで、同時に〈平衡主義〉の根拠づけとして、人間の不完全性(32)に因る合理主義の不可能性ということを指摘しつつ、「合理に依拠する」急進主義(33)、および、それへの単なる反動(「反合理を標榜する急進主義」(34))を共に退けて、〈漸進主義〉の正当性を主張する。 [144] 〈平衡主義〉は、個人間・集団間の対立という局面では、同様一つの系として〈妥協主義〉というかたちを取る。「平衡と妥協」という節タイトルの下で、「肝心なのは、その制限にして歴史の英知としてつくり出されたものならば、そこに人間および社会に潜む灼熱せる矛盾、葛藤、二律背反を平衡させる精神の政治学、とでもよぶべきものが秘められていると知ることである」(131)と説かれている。 [145] 〈平衡主義〉はまた、その系として〈人格主義〉とでも呼べるものを伴っている。こう言われる。「自分は今のとは別の機能の担い手(あるいは価値の表現者)となりうるのだ、さらには複数の機能(あるいは価値)にもかかわりうるのだと理解したとき、人間はみずからのうちに生じる機能的相克や価値的葛藤にたいして平衡を与えるべく、人格上の総合(インテグリティ)(完成)を求めはじめる。」(265) これは通常のタームで言うと、「卓越主義」とも呼びうるが、さらに限定すると、例えばA.マッキンタイアのものに相当する。ただし西部は、ウェーバーの議論を踏まえて、「専門人・党派人」という人格の断片化に対して、その統合性として主張している(265ff.)。 [146] この〈平衡主義〉は西部において中心的な規定となっている。「正統」ということについてもチェスタトンから「正統はいわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だった」(129)という件を引用しつつ、「正統」を「平衡」から規定しようとしてもいる。しかしこの点で言うなら、西部は、この「平衡」についても、それをそれ自身として規定することを放棄している。チェスタトンについても「正統と目されている思考および行動の類型のなかにこそ、その種の平衡術が宿されていると考えた」(129)として、逆に「正統」から「平衡」を考えようとしている。したがって、西部が言う「保守主義」そのものについても、端的に〈平衡主義〉として規定することはできないのである。 二 西部邁における「保守主義」(二) 2 - 1. 解釈主義 [211] 西部と同じく真の保守を求める村上泰亮は「世紀末の保守と革新」(『中央公論』1990年1月号)で、(真の)保守の核心として〈解釈(学)主義〉とでも呼べるものを提示している。「進歩主義は、超越論型の反省 transcendental reflection (つまりひたすらに高次の抽象的法則や理念を追求しようとする姿勢)に、/保守主義は、解釈型の反省 hermeneutic reflection (つまり常に具体的な生活世界やその歴史に照合しようとする姿勢)に、/それぞれ深い類縁関係がある。」(104) 西部の保守主義もこの〈解釈主義〉を本質的要素として含む。 [212] 村上はマンハイムの議論への補完としてこのことを述べているが、マンハイム自身も次のような言い方をしている。「保守主義者からみればかれら[ブルジョワ自由主義者・社会主義者]は〈機械的〉であり、器械のように統御でき、合理化しうる生成途上の階層をば歴史のなかにとらえようとする。これに反して、保守主義的思考は〈解釈的〉立場をとり、できるだけすべてのものを理解し、解釈しようと務める。」(58) [213] 我々はこの〈解釈主義〉が(我々の言う)〈保守主義〉の核心をなすと考える。(というか逆に、〈保守主義〉を〈解釈主義〉を核心とするものとして規定する。)上記拙稿80頁で「イギリス的な、Bramwellの言う意味での、というより、すでにMannheim,K.の古典的規定からしても」と述べたのは、この点を踏まえてのことであった。但し、保守主義のこの規定はマンハイムにおいて必ずしも中心的ではないので、ミスリーディングではあった。 [214] さて、この意味での保守主義は、上に挙げた〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉と親和的である。しかし、〈伝統主義〉との関係は問題である。それは、〈伝統主義〉の含意が曖昧であるからである。[132]で見た形式的意味におけるものである場合は親和的である。しかし、普通言われる場合の伝統主義である場合は、そうではない。では、西部の言うような〈正統主義〉とでも呼べるものの場合はどうであるか。−−実は、これが、西部の保守主義の規定そのものにとっても、最重要の問題点である。 2 - 2. 〈正統主義〉について [221] [136]で簡単に触れた認識論的観点からの「正統主義」の規定もあるが、それは西部においてメインのものではない。メインはあくまで内容的なものである。しかし、これについて明確なのは、ヨーロッパ、あるいは、そのうちのイギリスをアプリオリに「正統」としている(199f.)ところだけである。エリオット(およびチェスタトン)自身は、(場合によっては*)「キリスト教」を「正統」の核心と考えているが、西部はそれには留保を示す(130)。そして、我々はいかなる意味で「伝統」が語られるのかを求めて「正統」の主張に着目したのだが、その「正統」の規定は結局「伝統」に送り返されている。 * この限定を付したのは、エリオットが言う「正統」はこう簡単には規定し切れぬものを含むからである。例えば、福田和也が、彼が言う「古典主義」としてエリオットを読む場合の「正統」の規定も検討しなければならない。因みに、この福田については、本稿筆者も、ハイデガー=保田與重郎論をテーマとしていずれ論じなければならないと考えている。 [222] しかるに西部は、「だが伝統が何であるかを具体的に述べることなんぞはできない相談である」(203)と語る。そして、この「伝統」を「具体的に述べ」ぬかぎりで、〈伝統主義〉の含意は曖昧なままなのである。そして、どういう意味で〈保守主義〉であるのかが曖昧なままなのである。であるから、再度上記拙稿からの引用を繰り返すが、「西部邁も、この意味での[=〈解釈主義〉を核心とし、〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉と親和的な]〈保守主義〉であるのか〈通常の伝統主義〉であるのか明確でない」のである。 2 - 3. 通常の意味での「伝統主義」 [231] しかしながら西部は《実際は》他方で、上の言に相違して、「伝統が何であるかを具体的に述べ」ている。それはまず、伝統を「国民国家」の伝統として規定するところに現われている。西部は、「伝統が国民的な性格のものである」(287)として、「伝統」を「国柄(nationhood)」と等置する。端的には、我々の言う〈平衡主義〉に即して、「国柄という平衡棒」(288)とも語られる。そして更に、近代の国家形態である国民国家は、そうした「国柄」に基づくものであり、そういうものとして「歴史上の偶然の産物」ではなく(287)、「人間社会の展開の必然の帰結」(288)であるとして、伝統を「国民国家」の伝統として規定している。 [232] 「伝統」のこの規定について西部は、一つの根拠づけを提示している。「政治のイデオロギーも社会の慣習も文化の価値もみんなそうだが、経済の技術もまた言葉の派生物である。」(286) 「言葉づかいの適否をおおまかにせよ仕分けることを可能にするルールの体系、それが伝統の本質であ」る(287)。なるほど日本等においては、(自然)言語の流通範囲と国民国家の領域とは一致している。そしてアンダーソン、B.を踏まえて言うなら、−−彼自身は言語と国家の範囲はむしろ一致しないとするのだが−−特に近代のまさしく「国民国家」は(その「想像の共同体」の形成において)多くを言語に依拠するものである。その限りでは、いわば自動的に伝統は国民的伝統である。 [233] しかしながら、ここでも、レトリカルな言説の背後にある構造は、再び単なるトートロジーである。伝統をまず国民的伝統と規定するから根拠づけが可能になっているに過ぎない。しかし「伝統」は、国民的伝統として、「国民国家」の枠内でのみ伝えられるのであるか。そうであるとするなら、「正統」も国家の枠内にあることになるが、エリオットのイギリスへの帰化を「正統への亡命」(199)と理解するとき、少なくとも西欧世界(全体)を枠組みとする伝統と、そのなかでの「正統」が前提されている。西部においても、伝統を国柄として規定することは徹底されていないのである。だから、「誇張」であると断られてはいるが、「日本の知識人がヨーロッパの正統的思想を引き継ぐということだってありえない話ではない」(210)とも語られるのである。 [234] 西部はまた、伝統主義の形式的意味から大きく外れるかたちで、伝えられてあるものについて、その是非を峻別しもする。近代を大きく規定するものとして技術(知)と自由を挙げることができるが、西部はこのうち−−自由主義的保守主義として−−大枠としては後者を是とする一方、前者については懐疑的な態度をとる。しかも、「近現代の市場経済は巨大な技術革新のうねりとなって発展しているのであり、それゆえ市場が大いなる不確実性の発生源になっている、ということについて、ハイエクが等閑視している」(243)としてハイエクを批判するかたちで、技術社会の不可避性を認識しつつである。つまり、技術社会を一方では不可避の事柄であると認めつつ、それに対して否定的な判定をするのである。したがって、その不可避性を認めている以上、技術社会を廃棄することは主張しないが、それに制限を加えることが説かれる。例えば「技術体系は権威によって裏づけられていなければならな」い(264)、「技術的合理を歴史的良識によって制限するような社会体制が確立さ」れなけらばならない(282ff.)と語られている。 [235] あるいはまた、(少なくとも形式的には)伝統と言える同じく近代の「物質的な豊かさ」(8,267)についても、全否定するわけではないが、「自分らの精神を頽廃に導く」(268)ことのないかぎりという限定をつけられるし、現状については、そうした「頽廃」に導かれてしまっていると判定する。 [236] つまり、「伝統」といっても、伝えられているものの《全て》が「伝統」として保持が語られるのではなく、そこには一定の選別がなされているのである。こう言うならば、「伝えられている」といっても一定の時間的持続が必要なのであり、近代起源のものは「伝統」たりうるためにはまだ持続期間が不足であると反論されるかもしれぬ。だが西部は、「自由」については、それが明らかに近代起源のものであっても「伝統」に数え入れる。また逆にこうも言える。「物質的な豊かさ」を求めるという在り方は、それこそ人類の発生からのものであり、そこまで話を広げなくても、例えば日本の戦国期の展開などはまさしく土地=物質的豊かさを求めてのものではなかったか。西部は、逆に近代以前のものであっても自分が言う「伝統」に算入しない場合があるのである。 [237] そのように国民主義的、選択的に「伝統」を語るとき、それは通常の意味での伝統主義である。西部は他方では、〈通常の意味での伝統主義者〉でもあるのである。 2 - 4. 歴史主義 [241] 西部は一方では、(我々の言う)保守主義として、近代の現実のうちに三つの傾向を確認し、その三者間のバランスを説く。「アメリカニズム、それは純粋近代主義(ピュアモダニズム)の別名である。現実の近代という時代は、当のアメリカにおけるものを含めて、前近代主義(プレモダニズム)と後近代主義(ポストモダニズム)とを兼ね備えている。三者のあいだの矛盾と葛藤が、相克と亀裂が、近代という時代に、危機の様相とともに活力の表情を与えもしてきたのである。一言でいえば、純粋近代主義における個人主義と合理主義との爆発を抑制すべく、前近代主義という過去志向的な解釈の力と後近代主義という未来志向的な想像の力とを(互いに関連させつつ)活用するということだ。」(284) しかしその場合でも、明らかに「前近代主義」に重心が置かれている。 [242] それは、いわばメタ的に、そうしたバランス(平衡)の感覚が過去からの伝統のうちにある(cf.284)というからだけではない。この感覚が「歴史感覚」とも換言されている(20)ように、バランスにおいて過去そのものが特別の位置を占めている。したがって、形式的に三つの主義の間のバランスが語られてはいても、「歴史喪失」として「前近代主義」の欠如のみが批判の対象になっている。「アメリカニズム」という批判がなされたり、そうしたアメリカニズムのアメリカと現在の日本とが同質であるというところからなされる「アメリッポン」「ジャメリカ」という言い方に妥当性を認める(282)ところに、それは明らかである。また、過去志向の優位は、「プレモダニズムとしての保守主義」(12)という(つまり、三者間でのバランスの志向ではなく、「前近代主義」そのものが「保守主義」であるという)言い方で示されてもいる。 [243] 我々はこのような《現在との関連における》過去志向を「歴史主義」と呼ぶ。それは、現在の問題性を過去からの桎梏に原因があるとみて、過去からの解放を《現在》の重視というかたちで−−ないしは未来を志向するというかたちで−−説く現在主義=モダニズムの対極に位置するものとして、現在の問題性を過去の忘却にあるとして、その忘却されている過去を復権させようというものである。西部には他方で、この「歴史主義」がある。* * 「歴史主義」の我々の用語法は、「自然主義」(ロータッカーによれば、より適切には「普遍主義」)の対立概念としての標準的用法とは異なるものである。また、ポパーが(Historizismusの表記で)独自に用いるものとも異なる。系統としては、建築史などで用いられるものに属する(例えばマンフレッド・タフーリ『建築のテオリア』朝日出版社 参照。彼は現代建築史の基本軸をアヴァンギャルドと歴史主義の対立に置くが、我々が言う「歴史主義」は、このアヴァンギャルドを典型とする「現在主義」に対して、その対立概念となるものである。彼は、現代においてはアヴァンギャルドが担う傾向を遡ってルネサンス期にも見出し、「15世紀以来の」建築史を歴史主義vs.反-歴史主義の枠組みで捉えるが、これに対しては我々は、歴史主義vs.現在主義を19世紀以降のものとして考えたい。)。ニーチェが「歴史の過剰」(『生に対する歴史の利害』)と批判する立場も、我々が言う「歴史主義」と同系統に属する。  「歴史主義」(全般)についてはこう簡単に処理できぬところがある。本号所収の別稿「歴史主義について」をも参照して頂きたい。 [244] この「歴史主義」は(現在においては)外延的に〈通常の意味の伝統主義〉とほぼ重なるものであるが、それはさらに《特殊》近代の傾向として、逆説的に言うなら、それ自身一つの近代主義である(我々は、そういうものとして「歴史主義」を限定的に規定したい)。それは、近代において、その近代の問題性に対して、特殊近代的にその問題性の克服を志向するものである。そこから「歴史主義」が出現する問題性とは、端的に言えばアイデンティティの不安定化である。歴史主義は、近代において不安定となるアイデンティティを過去に依拠して安定化しようとするものなのである。そして、そういういわば機能を担っているところから、それは一種のピュアリズムのかたちをとる。歴史も純粋化されることになる。したがってまた、歴史はそうしたものとして一種仮構されたもの(虚構)となる。であるから、「伝統」も選別されたもの−−ホブズボームのタームで言うなら「[過去について近代によって]創り出された伝統」−−となるのである。 [245] 西部は自らの「保守主義」のほとんど別称として「歴史主義」という言い方をする(19)。そしてそれを、例えば別著『貧困なる過剰』(PHP文庫 1991)では、「単なる過去趣味」=「レトロ主義」(181f.)から区別する。しかし、その区別は結局、歴史における「正統」を尊重するということによってなされるものにすぎない。再び〈正統主義〉がポイントとなるのだが、先に見たように〈正統主義〉は曖昧なままである。同書では−−「権威」概念を介して−−〈(人々によって)歴史上正統だとみられているものが正統である〉という(準)トートロジーが語られている(cf.186f.)。ここから見るなら、西部の〈正統主義〉は「曖昧」というより、その意味が空なのである。 [246] 我々の解釈では、この〈空〉が他方では−−同書では「現代人にとって可能なのは非在のレトロなのであろう」(184)と語られつつも、その「非在」ということが深く考察されることなしに、いわば安直に−−埋められており、そこに出てくるものを我々は「歴史主義」と呼んでいるのである。それは、なるほど限定を加えて「浅薄なレトロ主義」(191)と呼ばれるものとは異なったものであるとの印象を与える。しかしそれは、構造としては「浅薄なレトロ主義」と−−例えば「ハイ・キッチュ」がいわゆる「キッチュ」と同様「キッチュ」であるのと同じように−−同じものである*。そして我々の理解では、「浅薄なレトロ主義」と同じものとして、我々の言う意味で〈歴史主義〉なのである。 * 因みに西部は、「こういう浅薄なレトロ主義が馬鹿にできない吸引力をもっていることにも注意しなけらばならない。私の好きな哲学者や思想家たちのうちでも、伝統を思う気持ちが大き過ぎたために、浅薄なレトロに過ぎなかった運動に、後になれば慚愧の念に堪えないようなかたちで引き込まれたものがたくさんいる」として、チェスタトンと共にハイデガーの名前を挙げている(同書 191)。これに対して、上に挙げた福田(『保田與重郎と昭和の御代』等)はハイデガーを、ここの表現で言えば「非在」の事実を見つめた思想家として捉えている。そして、そのなかで「正統主義」を考えている。これは、第一義的には当人同士の問題であるのだが、西部と福田の違いを明らかにすることも、「保守主義」の解明にとって生産的であろう。 三 西部における二つの保守主義 3 - 1. 理念的保守主義と現実的保守主義 [311] ここで我々は、いままで「我々の言う保守主義」と呼んできたものを〈理念的保守主義〉と呼ぶことにする。それは、〈解釈主義〉を核として、〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉、そして形式的意味における〈伝統主義〉を含意するものである。正確に言うなら、この五つの〈主義〉がそれぞれ意味するところがすべて重なる部分が、〈理念的保守主義〉である。これに対して、前四者に加えて、〈通常の意味における伝統主義〉と〈歴史主義〉を含むものを−−現実の保守主義はこの方が普通であるという点からみて−−〈現実的保守主義〉と呼ぶことにする*。我々が西部に対して求めたいのは、単純に、このどちらを主張したいのかということの明示である。 * この〈現実的〉という呼称は、あくまで〈理念的〉に対する意味でのものである。いわゆる−−例えば「政治的リアリズム」という場合の−−「現実主義」の含意はもたない。因みに言うなら、この「現実主義」には〈理念的保守主義〉の方が近い。「現実主義」の対立概念は「理想主義」であるが、我々の言う〈現実的保守主義〉の方がむしろ理想(あるいは、観念性)を(多く)含んでいる。しかしまた、〈理念的保守主義〉の方も、まったく「現実主義的」かというと、「現実主義」が語感的に含意するところのものから見て、少し違うように思われる。この点については、簡単にであるが[344]註***で引き続いて論じてある。 [312] こう求めるのは、まず〈理念的保守主義〉の主張が、思想のタイプとして本格的に議論の対象にされなければならないと考えているからである。村上の言う「反省の二つの型」の間でこそ生産的な論争が可能であると換言してもかまわない。本稿筆者の専門領域でいうなら、例えば Clarke,S.G./Simpson,E.(eds.),Anti-Theory in Ethics and Moral Conservatism,State University of New York Press,1989. などは、まさしくこの観点から編まれたアンソロジーである。 3 - 2. イギリスの保守主義について [321] 日本の多くの〈現実的保守主義者〉に比べて西部が異なるところは、ヨーロッパ、特にイギリスに一つの模範を求めていることである。我々は、ヨーロッパ内部においても、イギリスの保守主義が〈理念的保守主義〉に一番近いと考えている。 [322] 「たしかにイギリス人的思想の系譜にふれるとき、何と愚鈍な退屈さだろうと苛立つことが少なくない。ところがそれらには読み終ったあとにずしりと胸に応えるものがある。それのみならず、何十年か経ったあとでも、その読書体験が知らぬまに熟成していて、しっかりと自分の精神の血肉となっているとわからせるのは、やはりイギリス人の著作においてであることが多い。」(24)−−例えばこのように西部は、イギリスに自らの「保守主義」−−そして我々からするなら、それは〈理念的保守主義〉であるのだが−−模範を見る。 [323] この引用に続けて、「それは、疑いもなく、経験論の重みのためなのだと思われる」と語られる。ここに「経験論」と語られ、26頁ではA.スミスと共にその名が挙げられているが、我々はヒュームの思索に、我々の言う〈理念的保守主義〉の典型を見ている。しかし西部はここでは「イギリス経験論の山脈のなかでとりわけ高峰をみせつけている」(24)としてエドモンド・バークに言及する。 [324] 我々はバークにも〈理念的保守主義〉の典型を見ることができる。しかしながら西部は、〈理念的保守主義〉へといわば純化してバークを理解しているであろうか。バークの理解にはさまざまなものがあるが、〈理念的保守主義〉は、山崎時彦編『政治思想史−−保守主義の生成と発展−−』(昭和堂 1983)に即して言うと、マンハイムやハーンション,E.J.C.に対してハンティントン,S.P.の理解に近い。ハンティントンによるならバークの保守主義は、「特定の社会集団の持続的主張や必要を反映するものではな」くて、「集団同士の間にある関係に依存する」「位置のイデオロギー」である(16)。したがってそれは、状況によってその関数として内容を変えるものであって、その意味で、「逆説的に思えるかもしれないが」、「伝統をもたない」し、また「歴史をもたない」(17)。これだけでは近似的でしかないが、筆者(森本哲夫)が要約して「ラディカルな観念論的形態をとらないところに、バークとイギリス保守主義の特色があるともいえる」(21)と述べるとき、それは我々の概念規定に正確に重なってくる。では、西部のバーク理解と、そしてそもそもその「保守主義」はこのようなものであるのか。 [325] 「....はバークの卓見であった。つまり「偏見の擁護」ということである。プレジュディスは先入観であるが、「あらかじめの(プレ)判断(ジャッジメント)」でもある。いかなる判断もそれに先立つ判断がなければ成立しないことをバークは見抜いたのであった。伝統が仮に偏見の体系にみえたとしても、それらの偏見は合理的判断のための拠るべき前提なのかもしれない。」(30)と語られるときは、正しく〈理念的保守主義〉を言い当てている。この(解釈学的な)「偏見の擁護」は、古典で言うとアリストテルスの「エンドクサ」の重視にも通じるが、このタームを用いて言うなら、西部は自らの「保守主義」をエンドクサ主義として純化して語る用意があるのであろうか。 [326] 本稿はベンヤミンに関する拙稿への補完でもあるので、ここで『パサージュ論』に言及したい。S6a,1としてエルネスト・ルナン『道徳と批評に関するエッセー』から次のイギリス論が引用されている。「一つの国が快適さ(コンフォータブル)(フランス的というにはほど遠いある一つの観念を表現するために、この[英語起源の]野蛮な言葉を使わざるをえないのだが)の趣味に関してなし遂げる進歩が可能になるなどということがあり得ない以上、逆説でも何でもなく、次のように言うことがゆるされよう。すなわち、快適さが公衆の関心を惹く主要な興味となった時代や国は、芸術的見地からすれば、もっとも才能にとぼしい・・・・と。便利さは様式を排除する。イギリス製の壷は....のどんな壷よりもそれ本来の用途に適している。これらの壷は芸術品だが、イギリス製の壷は家庭用品以外のなにものでもあり得ない。・・・・歴史において、工業の進歩が芸術の進歩とけっして平行的ではないという、この疑問の余地のない帰結[のみにここではとどめておくことにしよう]。」そして、この前にS6,4として同じ書物からの次の引用がなされている。「私的な快適さというものは、ギリシア人たちのあいだでは、ほとんど知られていないことがらだった。あれらの小都市の市民たちは、自分たちのまわりにすばらしい公共の記念建造物をいくつも建てたにもかかわらず、家のなかでは質実そのものだったのだ。....」ベンヤミンはこの引用に簡単に、「ボードレールの創作に見られる、快適さへのこれとは逆な愛を参照せよ」とコメントしている。 [327] 我々の解釈では、文脈から見てここでボードレールは《反》歴史主義者として言及されている。そうすると、イギリスは−−例えばフランスに比べて−−反歴史主義的であることが含意されている。さて西部は、《そういうものとして》イギリスに加担するのか。我々のみるところでは〈理念的保守主義〉は、ここの表現で言うと、何よりも「快適さ」を求め、安易に観念的に「芸術」を説いたりしないところがある。もちろん、ここでいう「快適さ」は物質《主義》的なものではない。ここを物質主義と(誤)解するなら、それは自らの歴史主義を裏側から告白していることになる。−−西部が例えばこの箇所にどういうコメントを付けるのか知りたいところである。 3 - 3. 〈現実的保守主義〉について [331] 西部は、他方では確かに〈現実的保守主義者〉である。しかしながら、そういうものとして「保守主義」を説くのであるなら、氏はなお論を尽くさなければならないと我々は考える。 [332] まず伝統の本質的ナショナリティーについて。西部は上述のように確かに言語−−しかしそれは近代的な「国語」である−−論的な根拠づけを行っている。これについて先には単なるトートロジーであるとしたが、なお検討を行っても構わない。語られていない以上、代わって我々がなされるべき議論の方向を示すことになるが、それは解釈学に関するものとなる。西部も言及する(30)ガーダマーは、なるほど経験の言語性を語っている。経験は、言語の枠組みのなかでなされるのであり、その意味で「先入見」のなかでなされるのである。そしてその「先入見」はガ−ダマーにおいても、「伝統への帰属性」によって制約されている。ここで、この「伝統」を言語的伝統として、言語の範囲と伝統の範囲とを等置しても構わない。しかしガーダマーは他方で、「地平の融合」をも語っている。西部が見るように、伝承されている固定的枠組みとして「先入見」があって、その枠組みのなかで経験がなされるというのではなくて、「地平」としていわばまず「現在」の「先入見」があって、それが「過去」の「地平」との「対話」において絶えず変化する、というふうに見られている。この「地平の融合」を例えばアーペル的に《他の》地平との融合として更に考えるなら、一つの「国民的伝統」が他の「国民的伝統」との関係において自らを変化させる、ということが可能になる。しかるに西部の〈根拠づけ〉においては、その余地がなくなるのである。あるいは、その方が正しいのかもしれぬが、そうであるとしても西部はここで、単に「解釈学」のイメージに依拠するだけでなく、まさしく解釈《学》を提示しなければならい。あるいは更に、ガーダマーに即して−−「ただ一つの地平」という考え方などを手がかりにして−−西部的解釈学を根拠づけることも可能と思われる。しかしその場合は、ガーダマーに加えられている解釈学の他の諸コンセプトからの批判に対して反批判を展開しなければならない。そうでなければ、言説は基本的にレトリックに留まり続けるであろう。 [333] しかし我々はここではむしろ、西部における一つの近代主義としての伝統主義(つまり歴史主義)を問題としておきたい。(大体の保守主義がそうであるように)西部もまた、近代(のある局面)に対する反発として、そしてその近代的な(ピュアリズム的な)反応として伝統を語っていると考えられる。例えば18頁で「冷戦構造の解体」について語られる諸言説を批判して、「だが、実際に生じているのは、自民党がこれまで以上に社民色を強め、社民諸党が政権に参画し、そして(立て続く戦争謝罪発言に如実に示されているように)国民の歴史感覚にたいするいっそうの冒涜が行われているという事態である」と語られるときは、明らかにそうであろう。そもそも、ここで言われるような「歴史感覚」は、例えばエリオット論で言われるそれ(「歴史的感覚」(203))とは別物である。 [334] 我々の理解では、こうした「歴史感覚」は簡単に言うなら、自分たちの根=過去が間違いではなかったということを(自己欺瞞的に)確認したい、そうすることによって自己のアイデンティティを安定化したい、というところに出てくるものである*。そしてこの場合は、伝統はいわば〈真理〉として提示されることになる。〈理念的保守主義〉においては過去=歴史の伝統は、それを〈よきもの〉とみる場合であっても、betterなもの、より正確にはless badなものであるに留まるのに対して、ここでは一つの絶対的なものとして説かれるのである。 * 上に挙げたニーチェの著作では、比喩を用いて次のように語られている。「樹木[人々]が自らの根に対してもつ幸福感、つまり自分がまったく恣意的・偶然的であるのではなく、過去から相続人、花そして果実として成長してきており、そのことによって自らの存在において弁明され、さらには正当化されていると知るという幸福。−−これが、人が今、好んで本来的な歴史的感覚と名づけるものである。」(理想者刊『ニーチェ全集』第4巻 121 但し、訳文は一部変更)我々の主張と関連づけるならば、であるから、過去は間違いを含んでいてはならないのである。  因みに確認するなら、この著作についてニーチェは後年、「この論文において、一九世紀が誇りとしている「歴史的感覚」なるものが初めて病気として、典型的な頽落の徴侯として看破せられている」(同上『全集』第14巻 85)と述べて、上の言明が単に記述的な言明ではないことを明示している。 [335] しかし他方、そうした「歴史感覚」もアプリオリには否定できない。この「謝罪発言」云々については、いわば左翼的に一蹴することもできるが、歴史主義は−−例えば風景感覚や様々な生活慣習への感覚など−−普通は「よきもの」と見なされる内容のものをも「歴史感覚」として、かつ《構造的には》上の場合と同じものとして語っているからである。我々はこれを、アイデンティティ安定化の機能を担うものと見ているのだが、先ず、そうしたかたちでのアイデンティティ安定化が不可欠であるか否かが、換言するなら「虚構」の不可欠性の真偽が確認されなければならない。 [336] 我々から見るならそうであるとして、さて、−−これはおそらく、いま流行の「仮想の現実(ヴァーチャル・リアリティ)」という大騒ぎを、それはなんら新しいものではないと批判する過程で、議論の流れで言わざるをえなくなったものであろうが−−西部も次のように言うことによって「歴史」の虚構性を述べている。「歴史とは国民が自分らの過去について物語ろうとするところに生れる「仮想の現実」のことなのである」(282)。彼によれば依拠すべきことになる歴史とは、実はフィクションであることが認識されているのである。しかるに西部において〈現実的保守主義〉として、この「虚構」の不可欠性が説かれているのである。そうであるなら、−−〈理念的保守主義〉へと純化して論を張るのでなければ−−氏もこの「虚構論」を展開しなければならない。 [337] 例えば、小阪修平との対談「伝統の可能性とニヒリズム」(『ORGAN』第3号)では、「虚構」の不可避性を前提として「良き虚構」を−−伝統として−−語っている。しかし、ここで我々が求めている「虚構論」は、そうした「良き虚構」と「悪しき虚構」−−後者は『思想の英雄たち』では、ル・ボン論において、「群衆」の「行為の動機」となる「イメージ」として捉えられている(107f.)−−との区別ではなく、人間の「生」−−これを西部は、オルテガに近いかたちで「観念」に対置している。例えば、三島由紀夫の自死についても、この観点から批判がなされている−−における「虚構」の位置に関する論である。「生」にとって「良き虚構」が不可欠だとするなら、《どういう意味で》そうであるのか。 3 - 4. 両保守主義の関係−−あるいは、〈物語主義〉−− [341] 「歴史」が「虚構」であるとの認識(そのもの)は〈現実的保守主義〉のものではない。西部が「虚構」であると語るとき、それは〈理念的保守主義〉としてのものである。〈現実的保守主義〉においては、(〈理念的保守主義〉からすれば)「虚構」(であるもの)は「実在」である。〈理念的保守主義〉は、「歴史」について〈現実的保守主義〉がまさしく「実在」とみるものを「虚構」だと認めるのである。しかしながら問題は、「生」にとってのそうした「虚構」の《不可欠性》である。 [342] 西部によるなら(171f.)オルテガがこうした「虚構」の不可欠性を語っている。『危機の本質』から次の件が引用されている。「人間とは存在にたいする憂慮ないし関心である・・・・・・かく存在しようとする憂慮・・・・・・最も固有な自我を実現しようとする憂慮である。生とは、みずからを防御し、難破者となって世界の海原を漕ぎすすんでいかねばならぬこの人間の奇妙な存在のドラマのことである。・・・・・・歴史とは、そのもっとも根源的な原理・・・・・・からして、すでに解釈であり註解であって、これは個々の事実を一つの生、一つの生きた体系のなかに組み入れることを意味する。」我々は、西部も引いている「物語的理性」という表現に即して、このような認識を〈物語主義〉と表現することもできる。 [343] ここで言う〈物語主義〉は一つの《規範》倫理的主張である。人は((よく)生きるためには)物語ら《なければならない》という実践的教説(いわば〈《実践的》物語主義〉)であって、人は《事実として》物語って《いる》という理論的教説(いわば〈《理論的》物語主義〉)ではない。したがってまたそれは、人は何らかの物語の枠内でのみ認識をもつことができるという解釈学的教説とも別のものである。「歴史とは国民が自分らの過去について物語《ろうとする》ところに生れる」(282)と西部が言うとき、それは実践的教説として説かれている。であるから、そうした物語の努力について「良きもの」と「悪しきもの」との峻別がなされることにもなるのである。これに対して純理論的に見るなら、事実は端的に事実であって、良し悪しをおよそ語ることのできぬものである。 [344] しかしながら、こうした〈実践的物語主義〉はそもそもありうるのだろうか。西部において、〈物語〉=〈虚構〉は、〈観念〉から区別されている。〈物語主義〉は〈観念論〉とは異なっている。オルテガは、そしてオルテガに即して三島を批判するときの西部も、明らかに「観念」を拒否している。しかし、「観念」とは別のものとしての「虚構」とは何であるのか。これについては、オルテガの「生」(および、それを構成する「信念」)と「観念」の概念を検討することが手がかりとして有効であろうが、「虚構」が「観念」とは−−それを意識する者にとって、内容としてではなく、いわば信憑様態として−−別であることが証示されるのでなければならない。〈虚構〉が〈観念〉と結局同じであるのであれば、−−〈歴史は観念にすぎない〉として−−〈理論的物語主義〉は可能であろうが、〈実践的物語主義〉は〈理念的保守主義〉であるかぎりは恐らく不可能となるであろう。しかるに西部は、明確に〈実践的物語主義〉を説いているのである*。** *** * 西部はニーチェをも「保守の源流」に数え入れているが、〈理論的物語主義〉の主張は、そのニーチェの言い方で〈すべては解釈である〉と換言することもできる。これとの対比で言うなら西部は、「解釈をもたなければならない」と説くものである。そして、そういう実践主義的読みを、このニーチェに対しても内在的に批判するというかたちで行っている(81ff.)。また「保守の哲学的根拠」としてヴィトゲンシュタインが挙げられている(213ff.)が、そこでも同様実践主義的読みが行なわれている。ヴィトゲンシュタインの哲学は、我々の解釈ではその「生活形式」は認識の形式ではなくて実践の形式であるのだが、しかし、そうした実践上の事実を事実として述べた理論的教説である。(倫理的主張だとしても、《記述》倫理的主張である。)しかるに西部は、例えば「人間の生活形式の少しでも安定した根拠を探求せずにはおれなかった人間」(226f.)とヴィトゲンシュタインを理解しているのである。  この二種の〈物語主義〉については、オルテガの議論の検討も含めて、なお考察の必要があると考えている。ここでは簡単に以下の分析のカテゴリーを挙げるに留めておく。〈理論的物語主義〉:1.「人は無意識的に物語っている」、2.「人は意識して物語っている」。それぞれについて、a.「多くの人は....」とb.「人は不可避的に....」とを区別できる。〈実践的物語主義〉:それぞれについて「(よき物語である場合は)それはよきことである」と語る。これに対して、いわば〈実践的反-物語主義〉として、a.を前提として、「物語るべきでは《ない》」と説く立場を措定できる。b.を前提とする場合は、端的に〈反-物語主義〉を説くことはできないが、その場合でも「人(の認識・行為・生)はそうしたもので《しかない》」と語るものがありえる。 ** 「正統主義」の可能性も、この(〈理念的保守主義〉としての)〈実践的物語主義〉の可能性に依存すると見ることができる。 *** 我々も、すべては物語《である》と説く〈《理論的》物語主義〉であるなら、〈理念的保守主義〉もそれを本質的構成要素とすると見ることができる。そのような〈理論的物語主義〉的認識は、人間の有限性の認識から出てくるものであって、後者は我々がすでに述べた〈解釈主義〉が含意するところであるからである。[311]への註との関係で言うなら、この〈理論的物語主義〉の点で〈理念的保守主義〉は−−〈理念的保守主義〉的「現実主義」というものも可能ではあろうが−−「現実主義」そのものとは異なるとみることもできる。(例えば国際政治に関して共に「現実主義者」であるモーゲンソー,H.J.とアロン,R.との対比で言うと、前者が人間の行為を合理的なものと見るのに対して後者がそれに懐疑的であるという違いがある。前者の合理主義的人間観は〈理念的保守主義〉とは不整合である。) [345] かなり前のものであるが、小論「歴史の喪失」(『生まじめな戯れ』筑摩書房 1984)では、我々のタームで言えば歴史主義と物語主義とを関連づけつつ、物語の復権を説いている。大要こう語られている(84f.)。「歴史(ヒストリー)は現在において構成される物語(ストーリー)なのである。」そうした歴史=物語は、人間に固有のものであり、動物は歴史=物語をもたない。その意味でそれは、オルテガの言い方では「客観的には過剰なもの」である。しかしそれは、「良く在る」ためのものである。「とりわけて過剰なのは、「“良く在る”ことのみが人間には必要であり」[オルテガ]....という点である。」−−我々からするなら、歴史主義とは、このような「良く在る」ことを求めて歴史を物語るものである。−−しかし、「第二次大戦後....“歴史喪失の世紀”がはじまった。主観的な物語もしくは芸術としての歴史がファッシズムやスターリニズムの醜悪を生み落とした後となっては、「われわれ自身のなかのヒトラー」(ピカート)に眼をつむりたくなった気持ちもわからぬではない。」そうした歴史=物語のない所で、ニーチェの言うように、「動物じみた、あるいは子供じみた幸福が得られもするのだろう。」* しかし、「私のごとき歴史的動物」は歴史=物語の復権を求めたい。 * ここでは、西部とニーチェの基本的違いが西部においても把握されている。同時に、同じ「生」であっても、ニーチェの「生」とオルテガの「生」とは異なるということが含意されている。この相違は、思想解釈上の一つのテーマとなりうる。 [346] さてそうであるとして、しかしながら「虚構」は「虚構」《として意識される》かぎりでは「生」において機能しない。したがって、〈現実的保守主義〉においては「歴史」は「実在」と見られているのだが、「虚構」が不可欠だとするなら、「保守主義」は〈現実的保守主義〉としてのみ機能することになる。そしてそうであるなら、西部も−−自らは〈理念的保守主義者〉でありつつ人々に対しては−−、〈現実的保守主義〉を説いて構わないということになる。西部における〈現実的保守主義〉的《言説》も、そうしたいわば戦略的言説であるとも解しうる。そしてここに、そうした戦略を行使する者と、行使される者というかたちで、オルテガの「知識人−大衆」という図式がなお作動しているとも解しうる。 [347] しかしそうであるとして問題は、この「生」にとっての「虚構」の不可欠性ということである。これが論証されるのでなければならないのである。再び問うが、「生」にとって「虚構」が不可欠だとするなら、どういう意味でそうなのか。この不可欠性の論証が示されて始めて、「保守主義」をめぐって本当の議論が行いうると我々は考える。 version 1.04 1997/02/24