「道徳の理由」傍論−−批評:大庭・永井論争−− 安彦一恵 はじめに [001] 「なぜ道徳的であるべきか」という、つまり「道徳の理由」を問う問題は、倫理学の最も基本的な問題であり、(西洋においては)古代ギリシア以来、実に多くの回答が試みられている。しかしながら我々の見るところでは、未だ最終的な答えは示されていない。極論するなら、回答の試みがほとんど無限に繰り返されているだけである。「「なぜ道徳的であるべきか」という問いはどのように論じられるべきか」(安彦/大庭/溝口編『道徳の理由』昭和堂,1992。以下「前稿」と略記)において我々は、この事態に即して、そうした〈悪無限〉を回避するために、回答の《仕方》*に関する限定を提起し、併せて、D.ゴーシエの議論(「道徳と自己利害−−「なぜ道徳的であるべきか」に対するD.ゴーシエの回答」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』第41号,1991 参照)を踏まえて、その限定内で(我々としては唯一可能と考える方向で)一定の回答を提示した。しかし、なお論ずべきことが残っている。 * 《 》は、その間の語句を強調することを意味する。以下も同様。 [002] 1993年7月の「第21回全国若手哲学研究者ゼミナール」で上記『道徳の理由』所収の大庭健「なぜ道徳を気にしなければいけないか」(以下、「大庭1」と略記)をめぐって「シンポジウム・道徳の根拠」が行われ、それを受けて『哲学の探求』1993年号に大庭健、永井均がそれぞれ「道徳の求めに従うわけ(理由)」(以下、「大庭2」と略記)「大庭健「なぜ道徳を気にしなければいけないか」の批判」(以下、「永井2」と略記)を掲載している。本稿筆者は「シンポジウム」に参加しておらず、その場での議論は未聞であるので、以下この両稿、および当の「大庭1」、それに、両稿において言及はないが、おそらく前提となっていたであろう『道徳の理由』掲載の永井均「よく生きることヤテ、そりゃナンボのもんや?」(以下、「永井1」と略記)を加えたものから分かる範囲で大庭・永井論争を了解し、(我々の前稿との関連で言えば)「傍論」として、我々としてそれに介入するというかたちで論を進めていってみたい。* * 本稿は、大庭、永井のこれら四稿を読んでおくことを理解の前提とする。 一 大庭・永井論争 [101] 形式的に言うなら、この論争は、「《哲学》的にみるなら、大庭の議論は(「道徳の理由[根拠]という)問いがまさに始まるべきところで終っている」という(趣旨の)言(cf.永井2,21)でもって表面的には永井の勝ちで終っている。大庭が、「「哲学性」への固執にも、同様に冷徹なメスをいれていただきたい。」(大庭2,13)というかたちで、永井の〈「哲学」への定位〉そのものを問題としつつも、そうした〈「哲学」への定位〉を問う場の設定に失敗しているからである。これは、大庭の論稿(「大庭1」)を検討するというテーマ上なかば不可避のものであったのではあるが、大庭が十分予想された永井の批判戦略、永井の基本志向である道徳主義批判の立場から、「道徳の理由」提示の「哲学」的議論のうちに道徳主義的要素(「教説」)を抉り出してそれを批判するという戦略を無視して、あえて「哲学」と「教説」とを一体化させようとしたからでもある。 [102] 両論稿における大庭の力点は、「道徳の理由」を考えるというよりは、むしろ大庭流「自己」論の展開にある。これはもちろん「道徳の理由」を提示するためになされているのであるが、すでにある大庭固有の「自己」論が「道徳の理由」論にいわば外挿されているという印象が拭えない。そのこともあって「自己」論は、「自己」論そのものとしては鋭い分析であることを認めるとしても、我々も(土屋[上記『道徳の理由』における「大庭1」へのコメンテーター]、永井と同様)「道徳の理由」の提示にはなっていないと考える。我々からすればそれは簡単であって、「自己であること」は「呼応」を前提とするとしても、それは《他人の》「呼応」(のみ)であって構わないからである。呼応可能性(responsibility)に「自己であること」が依存し、そのresponsibility(呼応可能性=責任)として、道徳の前提の上ではじめて「自己」が可能であるとしても、それは《他人の》道徳であるからである。そこから、《当人》(「無道徳主義者」)の道徳を導くことはできない。(また、「自己」成立の要件であるその他人の「呼応」も、大庭の議論からして、必ずしも「道徳的」でなくても構わない。私を無視したり機械的に扱うのではない対応の仕方であれば、私のうちで十分「自己」を形成しうる。例えば、泣いている赤ん坊の私に対して母親が「蹴飛ばす」という対応をするときでも「自己」を形成しうる。もちろん、これを根源的次元で「道徳的」と呼ぶことは可能であろうが、それは「道徳の理由」を問う場合通常了解されている「道徳」の枠を越えているであろう。) [103] であるから大庭自身、結局《当人が》道徳的である「理由」は存在しないことを認め、その「理由」の不在をもいいことにして「無道徳的」である者を「他人の真面目さに依存しながら、しかし、それを足蹴にして利用しつくす」(大庭1,28)者として告発するのであり、そして、そうした大庭の「教説」を攻撃して永井は「自己が現に自己であるのは他者のおかげなのだから、他者への恩返しを忘れてはいけない、という程度のものだとすれば、なぜおかげをこうむっている者は恩返しをしなければ《いけない》のか、と反問するだけで話は終わりである。」(永井2,20)と語るのである。我々は、大庭はここでむしろ単純に、「恩返しをしなければいけない。」「《理由はないが》、そうしなければならない。」と語ってみてはどうだろうか、と思う。「大庭2」の結びの部分は、そう語っているようにも見える。 [104] そう語ることは、単純に道徳的「教説」を展開することになるのであるが、そうした《単純な》道徳主義に対して永井はどう反応するであろうか。厳密に言うなら、永井が道徳主義として批判しているのは、道徳主義《そのもの》ではなく、《「哲学」を偽装した》道徳主義であるようにもみえるからである。永井の批判は、その意味でイデオロギー批判でもあるようにみえるのである。実際「永井2」23では、大庭は、道徳を説くものとしてではなく、道徳を「理由」をもって説く「見せかけの哲学」として批判されている。しかし永井は他方、道徳主義《そのもの》を批判しているようにもみえる。これは「永井2」では表面に出てこないが、「永井1」では「よく生きるとは、元来、知恵と才覚と勇気によって、価値ある事業を成し遂げることであり、よき人、徳ある人とは、それを為しうる有能な人士を意味した。価値的諸概念は、道徳的・倫理的なそれに局限されてはいなかったのだ。ソクラテスとは、何よりもまず、価値一般を、したがってまた人生の意義を、道徳的なそれへと一元化しようとした人物である。」(80f.)という言い方で示されている。全体として、「永井1」で言うなら(永井1,80f.参照)、道徳主義的言説について、〈「概念変造」である〉という批判と、〈「倒錯的」である〉という批判との、本来区別すべき両様の批判が混在しているように思われる。しかし「論争」においては、この点への指摘が欠けている。我々は、両批判の区別から「哲学」のテーマ化も可能になると考える。 [105] 大庭が永井の言に(あえて)逆らって単純に「恩返しをしなければいけない。」と語らないのは、氏が意識しているかどうかは分からないが、一種の社会論に定位しているからでもある。「では、彼ら、永井が主張するような「無道徳的に呼応」する者たちの社会はありうるか?ありうるとするならば、その社会とは、互いに関係しあうが道徳の規範性をなんら認めない、という者たちの関係のアンサンブルでしかない。とすれば、そもそも万人が道徳を気にしないのだから、そこで生起するのは、自己の価値実現にとって実害がなければ、悪びれずに、殺し・奪い・犯すという関係である。」(大庭2,11)と反論するときは、明らかにそうである。この社会論的次元について永井も「永井2」,21f.で論じているように見えるのであるが、それは極めて未展開である。そして未展開のまま、道徳主義批判のメインの議論へと回収されてしまっている。 二 論争の社会論的含意 [201] 大庭の「自己」論は、この社会論的次元においてこそ生産的である。「自己」論として、社会を形成しうるかぎりでの「最小限道徳」が示されているからである。永井は「以上の批判はすべて、大庭風「人−間」の形而上学をかりに認めた上で」(永井2,20)として「人−間」論=社会論的検討は加えていないのであるが、社会論としては一つの検討に値する論が提示されていると言っていいであろう。 [202] 但し、社会論としては妥当である、つまり「人に対して呼応すべきである」という規範(道徳)が社会形成の前提となるという主張は認めるとしても、それは「道徳の理由」の提示(そのもの)としては不十分である。「理由」が提示されているとしても、それは、人々が−−《共通に》無道徳的であるのではなく−−《共通に》道徳的であるべきなのはなぜか、という問いに対してでしかないからである。すでにベイヤーに対して、提示される「理由」では"Why should 《we(people)》 be moral?"に答えてはいても、"Why should 《I》 be moral?"には答ええていないという批判がなされているが、大庭の回答にも同様の批判が可能である。道徳論としてはこう言えるのだが、しかしこれに対して、なぜ社会論に《定位》してはいけないか(=なぜ"Why should we be moral?"に答えるだけではいけないか)と反論することが可能なのである。そして、社会論に定位する限りで大庭の論が妥当であるとするなら、批判は−−勝負であるなら−−当然、社会論《に定位することそのもの》の妥当性をめぐるものとならなければならないが、大庭・永井論争においては、それが未展開なのである。そこには、社会論的定位そのものを道徳主義として処理しようという永井のスタンスと、そうしたスタンスを「....自分には外部が見えていると自惚れつつ現状を放任・追認するだけに終わりうる」(大庭2,13)と(のみ)批判する大庭の対応が桎梏となっているのかもしれない。 [203] しかし、「永井2」にも社会論が提示されているとみれなくはない。「すべての成員が実は合理的な無道徳主義者であり、法と道徳を(尊重する振りをしつつ)ウマク利用する社会は、十分成立可能であるように思われる(そして、道徳を気にしているという自己意識の下で生きている人を含めて、実は《この》社会がそういう社会なのではないか、という疑いを私は今も払拭することができないのだが...)。」と述べられている箇所(21)である。これは、大庭が「かかる社会[無道徳主義者の社会]が可能なのは、アナーキストのユートピアがそうであったように、その成員がみな「己の欲するところを行えども道の矩を超えず」に類した聖人であるとき、そのときに限る。」と言う(大庭2,11)ときの「社会」では《ない》。しかし、そうでなくて何であるのかということは実は不明である。 [204] 不明であるのは、「すべての成員が....ウマク利用する」ということの意味が不定であるからである。例えばキセルで言うと−−その場合、社会が存続するとは鉄道が存続することを意味する−−、無道徳主義者であれば露見しないときは得なので必ずキセルする。しかし全員がそうするなら鉄道会社はそのままでは倒産してしまう。したがって、運賃の値上げが必至となる。そして(キセルできない区間について)高い運賃を払うことは損である。では無道徳主義者はどうするか。「道徳を守って今度はお互いにキセルをしないでおこう」という趣旨で「キセルは悪だ」というキャンペーンをはることにでもなるであろう。しかし、キャンペーンが効を奏してキセルがなくなって経営が安定する*と、再びチャンスを見てキセルを始めることになる。−−実際は、こういう経過を辿ることはないが、無道徳主義者は頭の中でそういうシュミレーションをして、「キセルは悪だ」と語って他人がなるべくキセルをしないように仕向け、自分の方は適度にキセルをすることになる。......こういうことなのだろうか。 * これは道徳の効用を認めていることを意味するが、「永井1」83ではそれは、「ソクラテスのような主張は事実に反しており、それゆえ誤謬であるのだが、そのような言説を(真理として)世の中に流布させておくことは、結果として多数者の幸福には貢献することにはなる」という言い方で表現されている。 [205] しかしながら、社会論としてはこのイメージは成立しない。社会論は、社会がどのような人々からなることによって(よりよく)成立するかを考えるのであって、(抽象的に)人は《皆等しく》同じ在り方を採るということを前提とするからである。さて、この場合、抜け駆け的に自分だけがキセルをするということは全員がそうするわけであるから、結局、運賃の値上げを結果する。結局、キセルをしてもしなくても支払額は同一である、あるいはキセル摘発コストの運賃への転嫁を考えるなら支払額が増えることになる、したがってキセルにうまみはなくなる。合理的であるならキセルはしなくなる。ということは、キセルをしないこと=道徳的であることもそう不利なことではないということで、無道徳主義者は、「尊重」はしないが結果として道徳を守っていくことになる。......ということなのか。 [206] そうであるなら、そうした社会(状態)は、人々が(「尊重」して)道徳を守っている社会と外面的には全く同一ということになる。これでもなお異なるというのなら、例えば心の状態(の相違)を重くみているということになる。しかし、それは永井の真意ではないであろう。結局、永井は社会論への定位そのものを拒否しているのである。それは「いずれにせよ、普遍妥当性の原理のごとき道徳原理を前提にしない限り、小さな違反が社会をアノミー化することなどありえない」(永井2,21)という言い方に表われている。永井は結局、この現実の社会=多くの人が内心はどうであれ大体においては道徳を守っている社会を前提として、《自分として》利益を逃してまでキセルをしないでおくというのは合理的でない、その意味でキセルをしてはならないというのは非合理なことであって、そこに「理由」などはない、と語っているのであろう。そこのところをなお、キセルをしないでおくことの「理由」を求めるのは道徳主義的欺瞞以外の何物でもないのであろう。 [207] 因みに、このキセルの例で言うなら我々の「道徳の理由」の提示は、或る意味で永井と同様に現実の社会を与件として、それでも(「尊重」しなければならない理由はないが)キセルをしないでおくことに「理由」があるというものである。その「理由」とは簡単に言えば−−その証明がむしろ論証のポイントであるのだが−−「その方が得になる」ということである。どうして得になるのかというと、キセルは露見して高額の罰金を取られる可能性もあるからである。但し、それだけでは、「道徳性」と、無賃乗車の得と罰金支払の損とを考え合わせて結局キセルをしないでおくという「利口」とが同じになるので、そういう「利口」と「道徳性」とを区別する必要がある。我々はそれを、(知識=検札情報の)「不確実性」という観点を導入して、あくまで自分で損得計算をする「利口」と、不確実性のもとでは計算誤りの危険が伴うので自分で利益計算することをやめて道徳の命令を方針として採用する「道徳性」というかたちで−−併せて、(神ならぬ人間の)「利口」とは結局「《小》利口」であって、どこかで計算違いから利己的に振舞うことを指摘しつつ−−展開した(前稿,60ff.)。 [208] 大庭・永井論争においては結局、社会論的定位そのものがポイントとなっている。これが論じられていないので、論争は基本的にはすれちがいに終っていると言わざるをえない。(大庭が社会論という土俵の上で勝負を挑んでいるのに対して、永井はその勝負を受けて例えば相手を押出すというのではなく、その土俵に上がることそのものを問題としているとでも言えよう。ただし、印象としては勝負が行なわれているように見えるが、勝負として永井がやっているのは、いわば土俵を壊してしまうという(ウルトラ)技の行使である。)しかし、こうした社会論的定位そのものの論への展開の芽は存在している。永井は社会論的定位を拒否する際、「普遍妥当性の原理のごとき《道徳》原理」という言い方で、社会論への定位そのものが道徳的であると語っている。この社会論への定位《そのもの》が道徳主義的であるという含意に、おそらく、大庭はいらだちを感じているのであろうが、この社会論的定位(そのもの)が道徳的であるか否かの議論が始められた場合どうなるであろうか。 三 道徳主義批判の含意 [301] 上の問題に対して、永井は簡単に、自分が(所与の現実のなかで)どう生きていくかだけが問題であるというスタンスに対して、自分のことだけでなく人々みんなの生き方を問うという、つまり社会論のスタンスは、それだけで道徳的である、と答えることになるわけであるが、しかしながらその道徳性は、それだけでは《単純に》道徳的である。永井は、この単純な道徳主義に対しても批判的であるのか。社会論的定位をめぐる議論は、この線では、単純な道徳主義をめぐる議論として展開されていくことになるであろう。 [302] さきに見たように永井は確かに、単純な道徳主義に対しても批判的である。「永井1」81では端的に「真の幸福は道徳的な生き方にあるという倒錯的な人生観」とも語られている。「倒錯的」というのは言うまでもなく否定的評価語であって、だから「道徳的な生き方」の教説が批判されていることになるのだが、永井は同時に、これに−−〈そうした人生観が自分は好きではない〉というのではなく−−ギリシア語の(ソクラテス以前的な、「本来の意味」での)「エウ・ゼーン」に反した生き方だ(永井1,80)、簡単に言って〈人間の自然に反する〉〈不自然だ〉という理由づけを行う。 [303] このように道徳主義批判に理由が挙げられているのであるなら、「永井2」23の論述が解明を要することになる。そこでは、「『禁じ、強制できる理由を示す』ことと、『勧め、説得し、嘆願する』ことは・・・二項対立であるとは限らない」という大庭の言に、「はっきりとした二項対立が存在しており、少なくとも私は、実は後者を意図している(のにそれをごまかして前者であるように見せかけたり....する)ような見せかけの哲学を、最も忌まわしいものと感じる」と述べられている。揚足を取って言うなら、永井は、道徳の主張に理由を挙げるときは「みせかけの哲学」であり、理由を挙げても道徳を批判するときはそうでない、としていることになる。 [304] しかし、永井が〈不自然だ〉と言うとき、それは(それも)言ってみれば「説得」のレトリックなのであろう。そして、それに対して「道徳の理由」の提示の方は「哲学」を装っている、ということなのだろう。しかし、そうであるとすれば、そうした〈哲学の装い〉をも寛大に「説得」のレトリックとして認めてやってもいいのではなかろうか。そうすると、共にレトリックを駆使した道徳主義と反-道徳主義(厳密に言えば、反道徳・主義ではなく、反・道徳主義・主義である)とがぶつかるわけであるが、そこで、互いにレトリック性を攻撃し合うことではなく、本体の〈主義〉そのものの攻撃の応酬が期待できることになる。 [305] 永井の道徳主義批判は、ポジティヴな主張として「賢慮(prudence)」主義とでも言えるものを背景にもつ。論稿「規範の基礎」(これは、第一公表稿が日本倫理学会編『規範の基礎』慶応通信,1990 に、第二公表稿が永井『〈魂〉に対する態度』勁草書房,1991 に収められている。以下、引用は後者に基づく)では、「道徳に関する人間性の発達段階として、論理的に....設定できる」として、1.「快楽主義的段階」、2.「自己利益的段階」、3.「道徳主義的段階」に続く第四の「超脱的段階」として「賢慮」という在り方が次のように記述されている。「この段階は「人は道徳的であるべきだ」という要求が力をもっている....ことを前提とし、それを認めた上に成り立つ段階である。....それ[賢慮]は相反する[道徳的に行為すべきである、自己利益的に行為すべきである、という]二種の要求に関する一種の均衡状態をつくりだすことになるだろう。」(62ff.) すなわち「賢慮」主義として、道徳の要求と自己利益追求との間でバランスをとって生きるという在り方が主張されているのである。 [306] いま道徳主義的含意を含ま《ない》ものとして「倫理」という語を使うとして、こうした「賢慮」の立場は人の生き方を説くものとして一つの古典的倫理でもある。(近代の)「道徳」は、そうした「賢慮」を−−それを「処世」と転義しつつ−−反-自己利益に収斂させていったものでもある。さて、そうであるとして、大庭vs.永井は、単純な倫理的主張としては、永井から見れば、この賢慮主義vs.道徳主義であるであろう。このように規範倫理学的に(単)純化された場合、議論はどのように展開していくであろうか。我々はそう見ているのだが、最近の倫理学の展開は、「[倫理的]徳の倫理学」対「規則[つまり規制]の倫理学」を主軸とする(大庭/安彦「倫理学の最近の動向」『理想』652号参照)。永井・賢慮主義vs.大庭・道徳主義は、その一ヴァージョンでもある。その意味で、それは一般性をもった論争である。 [307] 「かかる社会[大庭から見て「無道徳主義者の社会」=賢慮主義者の社会]が可能なのは、アナーキストのユートピアがそうであったように、その成員がみな「己の欲するところを行えども道の矩を越えず」に類した聖人であるとき、そのときに限る」、つまり、賢慮主義では現実の社会が成立しない、可能であるとすればそれは、多くの人々が道徳的であって、そのなかで少数の(永井のような)人々が−−多数者の道徳を当てにして−−「賢慮」的に生きている社会だ(cf.大庭2,11f.)、という批判に対して永井は、大体の者が道徳的に生きているのは現実であって、問いはむしろそれを与件として立てられるべきであるのであって、大庭が認めるように可能なのだから〈《私として》賢慮的に生きる〉ということでいいのではなかろうか、と反論するのであるが、しかしこれは、永井によるなら「利己的」ではない。厳密に言うなら「利己的」ともなり《うる》が、賢慮的であること《そのもの》は決して利己的でない。それは、いわば自然であって、そこから出てくる行為が結果として他人に対して利害阻害的に働くこともあるが、逆に(場合によっては道徳的行為以上に)利害促進的に働くこともある(「永井1」93には「別の利他性」という表現がある)。 [308] 永井は、この自然性を重視し、自然性が高度であるものが(「今日の世界では....道徳主義的世界解釈が神聖にして侵すべからざるものとして君臨して」いて、「そのことを認識するための概念的手段(語彙)すら奪われている」(永井1,93)ために、評価語としてはこれを使わざるをえないが)「道徳的価値が高い」(永井2,24)とさえ語る。したがって、ネガティヴに評価されているのは、その反対=非-自然性である。道徳的行為(利他的行為)そのものは、その意味で批判さるべきものでは少しもない。それが、《自然に》なされたものであるなら、−−その自然性があるかぎりで、その自然性に基づく一定の価値の実現として−−むしろ賞賛さるべきものである。これに対して、(今その人の自然性が利己的であるとして、その利己性の)自然性に反して道徳的行為をすることや、そういう道徳を主張すること(つまり道徳《主義》)は、批判さるべきものである。 [309] 永井はその際、(理由はないが、とにかく自然を抑圧して道徳的でなければならないと説く)単純な道徳主義−−これも「倒錯」であるとして批判される−−と、道徳の正当化(という道徳主義)−−これは「概念変造」であるとして批判される−−との両方を共に批判する。しかも、両者を連続的に把握することによって一体として批判する。しかしながら、本来この両者は区別すべきではなかろうか。「倒錯」であるという批判は倫理的(道徳的の意味ではなく、例えば上の[306]の意味で)、「概念変造」であるという批判は理論的なものとして純化して了解するなら、両者は明らかに別物とされなければならない。 [310] しかしながら、そのように区別した場合、「倒錯」という批判は、言葉の情動的意味からして批判性は強いのだが、その記述的内容はきわめて少ないのではなかろうか。少なくとも、大庭が「尊厳」を語るときのレヴェルを越えていないのではなかろうか。したがって、このレヴェルでは永井は大庭に勝利しえていないのであって、明らかに押しているという印象は、批判が「概念変造」性の批判−−これは我々からみても卓見であるが−−と連続していて、そこから力を借りてきているのではなかろうか。それを切り離して見た場合、結局「自然性」にすべてを依拠しているのではなかろうか。そうだとするなら、逆の道徳主義擁護の立場からプラトンによって語られる「健康」「調和」の言説とほとんど変らないのではなかろうか。永井はこれについては「魂の健康に上訴するその議論は、しかしその結びつきが結局は経験的なものにすぎないことによって即座に解体する」(永井1,85)とするが、確かに「健康」に比べて「自然」は強いように思われる。だが、その強さは、「自然」の情動的意味が強いところから来ている。そのような情動性に依拠する「自然性」の言説は、あえて乱暴に言うなら、例えばアドルノがハイデガーを批判して指摘した「本来性」の言説とどこが異なるのであろうか。 [311] しかし直ちに言うが、こう批評することは適切でないであろう。おそらく永井は、道徳を直観的に《うさんくさい》とみなし、その「教説」を「概念変造」としていわば本質把握すると共に、ニーチェ的系譜学として、その歴史を「自然」からの「倒錯」の過程として説明していったのであろう。だが、同様「道徳」を告発したニーチェの場合、その道徳には強いリアリティがあった。それは何よりも自分の内にあったものだし、それゆえ、よく言われるように、その道徳批判は道徳的でもあったのである。永井においてもそうなのか。 [312] しかし「哲学」としては、このような問いはくだらぬものであろう。我々としては、「倒錯」だという批判、つまり単純な道徳主義批判をめぐる議論は、なお未展開であることを確認しておいて、(大庭批判においては)永井にとっても本題である「哲学」の検討に移りたい。 四 「哲学」的含意(1)−−道徳の正当化について、あるいはヴィトゲンシュタインをめぐって−− [401] 対大庭論争(そのもの)においては永井はもっはら批判的である。「道徳の理由」問題についてポジティヴに語られているのは前記「規範の基礎」等『〈魂〉に対する態度』第I部に収められた諸論稿においてである。以下、本書についてコメントしていきたい(以下、ページ数のみのものはこの書からの引用である)。しかしこれは、〈哲学になっていない〉という大庭批判に大きく関わるところである。大庭批判が最終的勝利になりうるためにはこの自らのポジティヴな議論の方が〈哲学になっている〉のでなければならないからである。(「なぜ道徳的であるべきか」という問いを問題としている我々から見ても、この諸論稿は現在のところ最も重要な検討対象である。したがって、この四において、我々の「傍論」は「再論」(準備)というかたちへと展開することにもなる。) [402] 検討すべきポイントは、テーゼのかたちで挙げるなら 1.「道徳的であるべき理由などは存在しない。しかし、理由が存在しないからといって岩盤(盲目的規範随順行動の水準)に到達しているわけでもない。」(61)、2.「ことあらためて「人は賢慮的であるべきだ」と言えば、そこでは他の選択肢の存在が前提されていることになり、使用される「べき」にはさらに高次の超絶性が要求されることになる。そういう状況を考えることは難しい。われわれはここで根拠なき実技秩序に....到達しているのだ。もはや「なぜ」の問いが立てられる余地はな[い。]」(64) の二つである。 [403] 第二テーゼから見ていく。我々は「前稿」64で、「本稿では議論の単純化のために、....「真の幸福」については基本的に捨象して考えている。しかしリアルにみてみるなら、人には「幸福」に加えて(「道徳性」によって与えられる)「真の幸福」を何程か求めるというところがある。ここに「エゴイズム」と「道徳性」とのバランスを実現した者としていわば〈真の「利口」者〉というものを(換言すれば「賢者」として)想定することができる。この状態では「なぜそうであるべきか」という問いはいわば不発になると言えるが、しかしそれは、定義的にそうなのであって、ヴィトゲンシュタインの言う〈理由の連鎖の終点〉に達しているからでは《ない》。この〈真の利口〉をめぐる問題については、永井、前掲書p.63f.の主張との異同を明らかにすることが生産的であろう。」と述べた。この「異同」の確認から始めたい。 [404] 我々からするなら"Why be moral?"という問いが「適切」であるのは、そのように問う当人のうちで道徳がなにか別のもの(典型的には利己)といわば葛藤のうちにあって、(典型的には)〈なぜ利己的であってはならないのであって道徳的でなければならないのか〉というかたちをとる場合のみである。上に言う「賢者」の状態、つまり永井の言う「賢慮」の状態−−「《賢》者」と表記したが、これはあるいはミスリーディングであったかもしれない。平たく言えばそれは、(「前稿」では捨象して議論を進めていた)「良心」を前提して、「良心の疚さ」がなくなるまで(しかしその範囲内で)利己的であることを控えるという状態であるからである。だから、それは、永井は端的に「通常誰もがそうする」状態と言うが、レヴェルとしては「通常」のものである。但し、その実現はなかなかむずかしく、その意味で実現できれば(なお)賢者と言えるかもしれぬ−−は、この二つの要求がバランス=均衡にある状態である。このバランスはもちろん個々の場合(そのもの)で成立するのではなく−−個々の場合においては、道徳的に行為するか、利己的に行為するかいずれかでしかありえない−−一定の行為の集合に関する〈これくらい道徳的、これくらい利己的である〉というその割合について、その当人のうちでその割合について〈それでいい〉と感じられている状態である。〈それでいい〉と感じられているのであるから、しかも、一方の〈利己的であるべし〉、他方の〈道徳的であるべし〉という要求を考慮したうえでの自己感情であるので、そこにはもはや「定義的」に葛藤が不在であり、したがって同様「定義的」に「なぜ賢慮的であるべきか」という問いが不成立なのである。 [405] 永井の「賢慮」は、しかし我々のとは別であろう。「《新しい》自己利益」(64)と表現されているが、ここを重く見て解釈するならそれは、普通に言う「利己」「利他」(の内容)が−−両者間のバランスを含みつつ−−ともに「利己」となるような、つまり自分を利する内容と、他人を利する内容とが無差別に共に「新しい利己利益」と感じられるような状態のことであるかもしれない。これは、「己の欲するところを行えども道の矩を越えず」という状態とは異なる。後者においては、その「己の欲するところ」の内容が《すべて》(利他を命ずる)「道徳」(「道」)の要求する内容であるからである。しかしながら我々からみるなら、そういうものとしての「賢慮」についても、「なぜ賢慮的であるべきか」という問いは、この場合「新しい自己利益」というところから、同様「定義的」に不発であると言える。 [406] だから、永井が言うようにこの問いはもはや−−もちろん文として発話することはできるが、それは「不適切」である−−(「適切」には)「言挙げされない」(64)のである。しかし、我々と異なって永井は、それを「われわれはここで根拠なき実技秩序....に到達している」(64)とヴィトゲンシュタイン的に記述する。相違点は、このヴィトゲンシュタインをめぐるものである。 [407] 次の三つの問いを(我々も)設定して議論を進めていく。 a) "why be moral?" b) "why be grammatical?" c) "why be prudential?"  ヴィトゲンシュタインが言う「岩盤」−−そこにおいて「規則」に従うことが「盲目的」であり、彼によればその規則を「なぜ」と問うことが(理性に反するものとして)「狂気」であり、その実践が「根拠なき実技」(永井)であるところの「岩盤」−−の概念を使うなら、永井によればb)とc)は「岩盤」に達している。これに対してa)は−−ヴィトゲンシュタイン主義者の中にはa)もそうであると語る者(例えばSt.Toulminがそうである)もいるが−−そうではない。 [408] しかしながらまず、どういう意味で「根拠なき実技」であるのか。ヴィトゲンシュタインは「理由の連鎖の終点」という言い方、つまり「根拠」の探求が終るところ=最終の根拠という言い方をするが、それはミスリーディングである。この言い方では、「岩盤」そのものが(一般に)論理的なものであるかのような印象を与えるからである。しかし、永井も引いている(57)「終局点は根拠なき前提ではなく、根拠なき行動様式なのである」(『確実性』101節)や、これは「《究極的規範原理》の正当化について」(日本倫理学会編『現代倫理学と分析哲学』理想社,1983)」でも挙げたものだが、「証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終る。−−しかし、ある命題が端的に真として直観されることがその終点なのではない。すなわち言語ゲームの根底になっているのはある種の《視覚》ではなく、われわれの営む《行為》こそそれなのである。」(『確実性』204節)「わたくしが根拠づけの委細をつくしたのであれば、わたくしは確固たる基盤に達しているのであり、わたくしの鋤はそれかえってしまう。そのときわたくしは『自分はまさにこのように行動するのだ』と言いたくなる。」(『哲学探求』第一部217節)という件を解釈するなら、(ヴィトゲンシュタインにおいても)「岩盤」がそのものとして〈論理的なもの〉であるのではないことが分かる。 [409] 確かに「文法的であることは」は、〈論理的〉岩盤と言っても構わないであろう。しかし厳密に言うなら、〈論理的〉であるのは、「なぜ....か」という「....」の正当化を問うゲームにおける〈正当化を行うということ(そのもの)〉のような、それについて(否定的である場合)は「なぜ」という問いが「なぜ(=いかなる根拠をもって)正当化を行うのか」というかたちで自己矛盾を含むようなものだけであろう。もちろん、この「正当化ゲーム」の外部に出ることは可能である。しかし、その外部から、この「ゲーム」に対して「なぜ....か」と問うことはできない。その問いは「正当化ゲーム」内部の問いであるからである。これに対して「文法的に語る」というゲームの外部に出て、例えば自動筆記法を説くシュルレアリストのように「なぜ文法的であるべきか」と問うことは−−その発話自身は「文法的」であるが*−−十分可能である(アーペルならこれを拒否するかもしれぬが、そのアーペルを批判してH.アルバートがその可能性を言っている)。ここのところを、そもそも(相手に対して)語るということは間主観的な営みであって、前提として相手に分かるように語ることが必要であり、その意味で「文法的であること」は〈論理的〉岩盤だと言うなら、アーペル達がそのレヴェルで導出した「相手を自分と同じ者として承認すること」という道徳規範をも〈論理的〉岩盤として−−永井は19では「認めない」と言っているのだが−−認めなければならないであろう。 * この点で、「なぜ文法的であるべきか」という問いは、次の「相手を認めること」や「真実を語ること」を問う問いとは異なっている。例えば「なぜ語るべきなのか」と同様、問題にしている事柄を自ら遂行せずには発話できない問いである。その意味では(アーペルの言うように)「遂行的自己矛盾」的であると言っても構わない。しかしながら、いわば心中でそう問うこと自身は十分整合的である。これに対して「なぜ正当化すべきなのか」はおよそ整合的でない。「なぜ」という問い自身が「正当化」を求めるものであるからである。 [410] このb)に比べてc)は、そのようなコミュニケーション(成立)の前提条件にも届いていないという意味で、到底〈論理的(岩盤上にある)〉とは言えない。では、それはなぜ「岩盤」である(とされる)のか。それは、−−我々からすれば−−そこにおいてはそれ自身を問ういわば〈心理的〉レアリティが存在しないからである。ヴィトゲンシュタインの言う「自分はまさにこのように行動するのだ」ということは、そこには、そう行動することに関する〈心理的〉レアリティの揺らぎが少しも存在しない−−したがって「なぜそう行動するのか」と問うことに〈心理的〉レアリティが存在しない−−ことを意味している。ヴィトゲンシュタインの言う「岩盤」は〈心理的〉なものなのである。「岩盤」は「理性」の「岩盤」であって、だからその外部は「狂気」(理性を越えていること)だと言うなら、その「理性」はいわば(〈心理的〉リアリティに依拠する)「実践的理性」なのである。そして、(〈心理的〉リアリティに拘束されない)「理論的理性」から見るなら−−唯一、(例えば「矛盾律を守ること」というような)理論的ゲーム構成的「岩盤」を別として−−「岩盤」はもはや「岩盤」ではないのである。* * 但しこれは、〈外部的〉にみた場合の言い方である。〈内部的〉には、(「岩盤」と言われる)或る事柄は、「自分がまさにこう行動するところ」であり、併せて、《さらに》その根拠が求められるときは、「理由の連鎖の終点」として「理性」の「岩盤」となる、と説明されることになる。そして、この〈内部〉においては、「理性」の「実践的」「理論的」の区別は存在しない。 [411] 永井は、ここでハーバマスの「妥当要求Geltungsanspruch」と「威力要求Machtanspruch」の区別に依拠して、〈そうあるべきだ〉という要求が「妥当要求」を伴う場合と、もっぱら「威力要求」を伴うだけである場合とを区別して、後者に対応するのが「岩盤」であると語るかもしれない(cf.42)。しかしながら、両者の区別は実は論理的区別ではない。R.M.ヘア的に言うなら、(指図的)発話として前者は「道徳判断」、後者は「命令」であるが、発話が「道徳判断」であるか「命令」であるかは発話の形式から(文型として論理的に)区別できるものではなく、話者が自らの発話に理由を挙げる用意があるか否かという、話者の心理の違いによって区別できるものである。平たく言って、「岩盤」であるか否かは、当人(達)が当の事柄を自明と見ているか否かによって決まるのである。そして、この自明視の変更あるいはエポケーによって、岩盤であったものはそうでなくなり、換言するなら、その岩盤の上に営まれていたゲームの外部に立つことができるのである。 [412] ということは逆に、およそ何であっても、それに対する自明性の心理的リアリティに揺らぎがないときは「岩盤」であると言いうる。「永井1」,95で、「....によれば、アリストテレスには「人は自分が好むなら自分の母親を殺してもよいなどと言う人々に対しては議論をしても始まらない。むしろ殴りつけてやるべきだ。」という発言があるとのことであり、....。」と語られているが、こうした「自分の母親を殺してはならない」ということも「岩盤」でありうるのである。因みにこれは「(母親の)殺人の禁止」であるから「岩盤」であるのではない。我々が(少しだけだが)調べたところでは(『徳倫理学の現代的意義』慶応通信,1994,163における安彦の発言参照)、アリストテレスの発言そのものは「すべての問題やすべての立論を吟味すべきではない....。神々をうやまい、両親を愛すべきか、それともそうでなくてよいか当惑するひとたちは懲罰を必要とする....」(村治能就訳)であって、この「両親を愛すること」「神々をうやまうこと」も「岩盤」でありうる。論稿『原因と結果:直観的把握』("Ursache und Wirkung:Intuitives Erfassen",Philosophia Vol.6,Nos.3-4)で挙げられている例を転用して言うなら、ヴィトゲンシュタイン自身も例えば「泣いている子をなだめるのに理由はない」[終始冷淡に観察するという振舞をその母親がするなら、それは「奇妙で、気違いじみて」みえるであろう]と語るであろう(元の議論のコンテクストは異なるが、こう転用してもその議論と整合的である)。 [413] しかしながらa)については、永井も我々と同じように見ているとも解しうる。永井は「道徳的であるべき理由などは存在しない」(61)とするが、我々からすればそれは、道徳的[道徳が関わる]ゲームの内側にいる当人にとって「道徳」の自明性の揺らぎが存在しないからにすぎない。であるから、理論的には(外部に立って)「道徳」の理由を問えるのであって、したがって永井も、「なぜ道徳的であるべきか」と問える、しかも有意味なものとして問える−−永井は「「なぜ道徳的に行為すべきなのか」という問いは、「なぜ人は文法的に話すべきなのか」等々の問いとは、次元の違う問いである」と語る(59)−−ことを認めるのである。 [414] では、(永井からしても)外部に出て「理由」を問えるのにもかかわらず、なぜ「道徳的であるべき理由などは存在しない」とされるのだろうか。テーゼ2.の前半ははっきりとそう述べている。なぜそうなのか。永井はまず、「べき」を道徳的な「べき」とみるなら、回答は「単なるトートロジー」になると言う(53)。我々の言い方で換言するなら、「べき」を道徳的「べき」と了解するなら、問いは結局「道徳的に道徳を問う」という自己矛盾を犯すことになるか、ないしは単なるトートロジーを語ることになるのである。 [415] 永井はしかし次に、「この「べき」を自己利益的....な合理性(self-interestの"should")の意味にとって、なお人が道徳的である「べき」理由を説明しようとする伝統も、プラトン以来今日まであとをたたない」(53)として、例えばカントで言えば仮言命法中の「べき」として了解することも認める。しかし直ちに、「少なくとも、道徳性が自己利益....に一致しない場合がある(そしてそれが普通である)ということは、「道徳」の本質からしてほぼ分析的にいえることであるとする」(53)。この「伝統」の線(の内の社会契約論的枠組み)のなかで回答を示した我々からするなら、これが最もポイントとなる。我々として、成功的な回答を示したつもりであるが、それを否定するかたちになっている永井のこの言は、意味が不確定である。 [416] それは実は、永井自身揺れているからである。永井は或る箇所(31f.)で、「グラウコンは正義の起源を社会契約説的に説明する」として、その大要を示した後、「グラウコンの言うところは概して真理であるように思われる」と語っている。この「グラウコンの言うところ」とは説明するまでもなく、正義(道徳)の起源は、正義が不在である場合よりも正義が在った方が利益になる、つまり「道徳を守るのは自己利益になる」ということであるにもかかわらず、前段のように語っているのである。ここを−−"Why should 《I》 be moral?"と"Why should 《we》 be moral?"の違いを問題としているのでないかぎり−−整合的に理解することはほとんど不可能である。グラウコンのように言える《場合》もあるが、逆に道徳と自己利益とが一致しない《場合》もある、したがって道徳が《常に》自己利益になるとは言えない、ということなのだろうか。(これであるなら、「〈道徳が自己利益になるから〉とは《常に》言えない」という主張に対して、「《一定の前提のもとでは》言える」ということを論証した我々の議論と両立可能である。)しかしそうであるなら、この〈場合〉について論じることこそ本務であろう。それとも、そうした自己利益実現の手段としての道徳は本当の道徳ではなく、したがって、〈そうしたものが自己利益になる〉と論証しても、それは少しも(本当の)道徳の理由を論証したことにはならない、というのであろうか。しかしそうであるなら、この場合は「道徳」の規定が課題として引き受けられなければならない。永井はまた、自己利益追求に対して「共同体の利益」を追求することが「道徳的」であるという規定の下に、唯一可能な回答があるとすれば、「なぜ共同体の利益のために行為すべきか」に対する「その方が共同体の利益になるから」という「同語反復的なものでしかありえない」(60)とも言うが、これがここでの真意であるなら、それは結局「べき」を道徳的「べき」と解することを前提としている。 [417] いずれにしても永井は、さらに(第三の)「超脱的なべき(detachmentの"should")」を語る(53)。しかし、そうした「べき」の了解の下で「道徳の理由」を語ることをしない。(「べき」の段階論という)論の流れからすれば自然にはそれが予期されるのであるが、永井はこれについてはテーゼ2.を言うことを専らにしている。何故に「理由」を語らないのか。我々から見るならこれは、「賢慮」の永井の規定−−これは我々の言うそれとは異なるのだが−−から(我々が言う意味で)「定義的」にそうなるところである。「賢慮」とは利益について「定義的」に〈それでいい〉とされている段階であるから、そもそもそこで利益について別の在り方を要求する「道徳」について、その「理由」を肯定的に問われることがないのである。問われるとしたら否定的に「理由などはない」という方向においてのみである。「理由」がそこで問われうる段階であるから、その意味で「道徳を基礎づけてもいる」と語る(62)ことは許されようが、その「基礎づけ」は、問いを−−永井自身言うとおり−−「反語的な修辞疑問」(永井1,79)とのみするものであって、決してベイヤーにおけるような単純な「疑問」を措定しうるものではない。ということは、「基礎」という言葉によって意味される階層性が−−「《発達》段階」そのものであるなら構わぬが−−そもそも「賢慮」と「道徳」の間には存在しないのであって、両者はいわば〈利益に関わるという「岩盤」〉の上での二つの(正確には、「快楽主義的」「自己利益的」を含めて四つのうちの二つの)《選択肢》であって、ただ「賢慮」がすでに決定的に−−ということは、「選択の意識なしに」でもある−−選択されているだけなのである。そして、決定的に選択されているから、「なぜ賢慮的であるべきか」とは問われない*のと同様、通常の疑問として「なぜ道徳的であるべきか」とも問われないのである。** しかしながら、永井がここで「道徳の理由」を語らないのは、おそらくこれとは異なるであろう。では、何故か。 * もし、そこで問われるなら、それはいわば〈自己確認的〉な「なぜ」としてであろう。それが仮に問われるなら、例えば確信をもって「自分は美しい」と思っている人の「なぜ私は美しいのかしら」といったような〈いやらしい〉ものとなるであろう。 ** 永井の「賢慮」はあるいは、我々が言う「理論的」態度のこと(そのもの)かもしれない。諸利益(特に他者の利益)へと心を傾けさせる(実践的)「力」がエポケーされた、その意味で理論的な境地のことかもしれない。"detachment"という表現は、この解釈を可能としている。そうすると、「なぜ賢慮的であるべきか」は「なぜ理論的であるべきか」と同じことになり、論述という(理論的)行為においてそれが問われないのはきわめて当たり前のこととなる。しかしながら、永井はこの線での解釈をおそらく拒否するであろう。(因みにこの「理論的」態度は、《実践的には》(=実践的意義の側面からは)「理想的観察者」と構造上同じものである。あるいは、この含意から議論が展開できるかもしれない。その場合、おそらく「動機(づけ)」ということがポイントとなるであろう。) 五 哲学的含意(2)−−「邪悪な真理」とは何か−− [501] 永井は『態度』38f.で次のように言っている。「総じて、ニーチェも言うように「まさしく論理的に正当化されえないことこそが道徳の美点に属する、−−無意識性なくしては道徳は何の役にも立たない」のであ[る。]」ここから単純にみるなら、論理的には、「《「道徳」が有効であるかぎりでは》道徳に理由はない」という限定つきで「理由はない」というメタ回答が可能ではある。さらに、「およそ有効でない道徳は道徳ではない」という主張をもって、限定を外すことも可能であろう。(これに対して我々としては、仮にこれを認めるとしても、直接的にはニーチェの上の言に対して「一般に理由を伴うことは有効性を損うか」と反問できるし、そして、いくらでも反例を挙げることができるとは言っておきたい。) [502] しかし、こうした議論に入り込むことを永井は好まないであろう。永井の関心はあくまで、「道徳」という現象の系譜学的考察であるからである。そして、その現象把握は、あくまで〈盲目的力をもって(のみ)我々に(有効に)迫ってくる「道徳」〉という把握である。しかしながら、この把握自身もおそらく派生的なものであろう。永井によるなら「どのような生活態度の内部にも、その生活態度を「論証」するかのような言説が不可避的に要求される」のであるが、その道徳的ヴァージョンを説く「徳のイデオローグ」(44)の〈うさんくささ〉の直観が先行しているのであろう。 [503] そうした直観の「解明」(52)として提示されるのがかの「遮断のレトリック」論なのであろう。結局、「道徳の理由」などはないのであって、「理由」の提示=「道徳哲学」なるものは、本来「理由なき道徳」(「力」としてあるだけの道徳)にいかさまの「理由」を仮構して、道徳の外部へと出る途を「遮断する」レトリック以外のなにものでもない、というのが永井の主張点であるのだが、我々の見るところではそれは、永井の直観の「解明」なのである。この「解明」は永井自身の言葉であって、この言葉は「私の意図はあくまで解明にあり、自分の態度決定を表明したり、他者に特定の態度を推奨したりすることにはない」(51f.)という意味で、いわば(道徳的)「教説」の反対の意味で使われている。こうした「解明」が永井によるなら「哲学」であるのだが、しかしながら我々は、それは例えば(後期)ロールズ的意味における「解明」*でもあって、自らの直観を出発点として、−−その直観を吟味するのではなく、その直観の妥当性を前提として−−それを分節化するものだと理解する。 * 拙稿「道徳的言明の正当化−−ロールズの議論を引き合いにして−−」(関西倫理学会編『現代倫理の課題』晃洋書房,1990,44)参照。 [504] 実はテーゼ1.もこの「解明」のかたちで−−だから、「なぜ....か」と問う問いは、それに引きずらて、いわば素直に〈問題〉として回答仕切れないということにもなるのである−−論究された結果であると我々は理解している。つまり永井は、人々が(「共同体」の圧力や、「徳のイデオローグ」の洗脳を受けて)「道徳的でなければならない」と感じているという心理のリアリティに(のみ)即して、その「解明」として、「そうした心理のもとでは、道徳的であることは自明であって、だからそこで(さらにその)理由などがあるとは少しも思われないのだ」と分析し、しかし同時にそのことを(一見)論理的なものとして「道徳であるべき理由などは存在しない」とも表現するのである。しかしながら、永井も認めるように、(本源的)利己心から出てくるリアリティも人のうちには同時に存在していて、これが「道徳的であること」のリアリティのいわば一元化、すなわち「岩盤」化を不可能にしているのであって、だから永井も「しかし、理由が存在しないからといって岩盤に到達しているわけでもない」と語らざるを得ないのである。そしてそうであるから、これも永井が認めるように、「なぜ道徳的であるべきか」と問えるのである。しかしながら、永井の基本志向はあくまで道徳の「解明」、しかもそうした道徳を説く「道徳哲学」の〈いかがわしさ〉の直観に基づく解明−−だから、我々の言う〈心理〉も主要には、その道徳的教説を内面化した「良心」として問題とされることになる−−である。 [505] しかしながら永井解釈として(できるだけ)忠実に言うなら、外部に出て理論的に「なぜ道徳的であるべきか」と問えるということは、永井からしても当たり前である。永井にとっても「解明」の着目点は、「道徳の場合にはきわめて特殊な事情も存在するのである。道徳規範の場合には、その外在的な視点がいわば内部にも存在する、という点である」(58)と語られる「特殊な事情」の根拠にある、我々のタームでいえば人の心理的リアリティの(実践的)分裂である。「道徳は....自己利益や自己幸福の追求を規制することを主要な機能目的としているのだから、それが機能すべき場面ではすでに自己利益的で非道徳的な選択肢が主題化されていなければならないはずだ」(59)と語られているが、人のうちに「道徳的に行為すべし」という要求のリアリティと、「自己利益になるようにせよ」という要求のリアリティとの(実践的)分裂が存在するのである*。しかし、こうした〈分裂〉はどこにでも存在するのであって、例えば「人は美しくあるべきだ[、だからダイエットすべきだ]」と「[食べたいものを我慢すべきではない、というのも]美しくあるべきだということはない[からだ]」といったものの間にも存在する。だが永井は、この〈分裂〉を《「道徳」の》「特殊な事情」として問題とする。それは、特殊「道徳」の場合についてのみ特殊な(いわば社会構成的な([509]参照))「遮断のレトリック」が働いているから−−そうであるなら、永井も社会論定位的になる−−ではなく、とにかく《道徳の》「事情」であるからである。そして、その「レトリック」はいうまでもなく「....だから道徳的であるべきである」というかたちで道徳に「理由」を与える内容のものである。永井は、この道徳の理由づけ(徳のイデオロギー)をターゲットにして、それを〈いかがわしい〉とする自らの直観の「解明」として論を展開するのである。であるから、(ごまかしでない)正しい理由が−−検討してみた結果、存在しない、というのではなく−−存在していては《ならない》のである。 * 我々も、この点でa)とb)は異なると考える。我々の言い方では、a)はすでに内部的な(利益が問題となるゲーム《内》で発せられる)問いであるのに対して、b)は(「文法的であること」の自明性を理論的にエポケーした)外部的な問いである。a)も同様理論的に問うことも出来るのであるが、b)はもっぱら理論的にしか問えぬ問いである。換言するなら、そう問うことに《実践的》必然性が伴わない問いである。c)もこの点では同様であるが、c)の場合は、さらに「定義的」にそうであるという違いがある。さらに「なぜ正当化か?」という問いは、《(純)理論的にも》「定義的」に不可能な問いである。なお、我々は「「自然の価値」をめぐって」(科学研究費(代表:佐藤康邦)研究成果報告書『応用倫理学の新たな展開』1996),98f.において「ゲーム」を二種類に区別したが、この区別はa)とb)との違いに対応する。 [506] この「遮断のレトリック」は−−対立があって、対立項の一方にのみ加担しようということがあるところでは−−どこにでも存在するとも言いうる。これは、上記『規範の基礎』にその記録が収められている「シンポジウム」で小池澄夫が「レトリックということ以外に、そうではないものがあるのか。」(167)と問うたところにも関係する。この小池の問いに永井はその場では、「まあそれに関しては、言ってしまえば、それをそういうふうにも言えますけれども、一応ここでは、そういう意味でのレトリックではないものがあるというふうに想定して話したのです。....いわば口うまくして或るものに人を仕立あげたり、或る結果を引き起こすために何かうまいことを言うわけですから。それに対して真実を語るということは、それと別のことだというふうに一応わけて考えることができるだろうと思います。」(168f.)と答えている。この「真実」で言うなら、永井も言及する(v)ニーチェの「邪悪な真理」とまさに関係するのだが、レトリックでない「真理」とは、或る特定のレトリック(道徳的言説)を告発するなかでいわば反定立として措定されたものであり、そしてそれがここでいう「解明」(の結果)なのである。(〈「道徳の理由」の不在〉を永井は「[邪悪な]真理」として説くのだが(62)、やや揚足取り的に言うなら、これは〈道徳の理由は不在だという言説を問うゲーム〉に対して構造上は全く同じかたちで「遮断のレトリック」行使であり、また「道徳は倒錯、概念変造だ」という言も同様である。) [507] であるから抽象的には、そうした「真理」も含めて全てレトリックだとも言いうるのであるが、しかしながらここで「哲学」としてレトリックで《ない》ものを探すなら、「内在的批判」ということが考えられる。我々がいくつか行なった「揚足取り」も形式的にはこの「内在的批判」である。しかし「揚足取り」はいわば貧しいものであって、それを越えるような「内在的批判」も可能である。その一つとして、相手の主張を内在的に展開してみることによってその実践上の帰結を引き出してみせるというものがある。これは例えば、ヘアがユダヤ人絶滅を説く「ナチ党員」に対して、「あなたの主張を一貫させるなら、あなたがユダヤ人である場合は、自分の殺害を帰結することになるが、そうした反人間的なことをあなたは引き受ける用意があるのか」として突きつけたものである。ここから大庭の論を再構成してみるなら、「無道徳主義者」に対してこれと同じ議論が展開されているとも了解できる。すなわち、「道徳を気にしないことをあなた[無道徳主義者]は「たかがキセル」位に考えているかもしれぬが、それは実は「他人の真面目さに依拠しながら、しかし、それを足蹴にして利用しつくすこと」なのである。」と説いているとも了解できる。だから大庭は、「キセル」と「足蹴」とのレヴェルの違いを無視して「据え膳を食うこと」と一般化する土屋の言(前掲『道徳の理由』34)に激怒する(同,40)ことにもなるのである。 [508] 永井は同時に、道徳性を自然性に対する「倒錯」としても批判している。この「自然」は語義的に「本性」でもあるが、我々からみるならそれは、事柄としてそうであるのではなく、「解明」において、〈いかがわしさ〉への反定立として措定されたものである。永井はこのように〈道徳のいかがわしさ〉という自らの直観に忠実に議論しているのである。因みに我々の「別稿」は、これとの関係で言うなら、この〈直観〉を共有しつつも、それをエポケーして「なぜ道徳的であるべきか」をいわば純粋に(理論的[知的])問題として論じたものである。したがって、自分の〈直観〉に忠実であるという点で永井は我々に比べて或る意味で道徳的であ(り、その意味でニーチェ的でもあ)る。これに対して大庭は、この点では永井と同じく〈直観〉に、しかし逆の〈無道徳性のずるさ〉とでもいった〈直観〉に基づいて、その告発として論を展開したとみることも可能である。但し大庭はその際、「道徳的であるべきである」という方向で議論したところから自然にも生じる「教説」性の印象を、あえて引き受けて論を展開した。ここに、永井の「解明」vs.大庭の「教説」という基本スタンスの対立が結果しているのである。 [509] 例えば43で、「どのような妥当要求もどこかに必ず威力(マハト)要求に取って代わられる地点がある。だがもちろん、ここで想定される力(マハト)とは、通常の意味での権力や暴力とは異なり、我々がそれによってはじめて「我々」として、共同体によって承認された一人の個人として成立しうるような、メタフォリカルでメタフィジカルな共同体の「力」なのであり、....」という一見大庭の(社会的)「自己」論を思わせるような議論がなされている。しかしながら、重要な違いがあるのであって、大庭の場合「であるから、道徳的であるべし」と語られるのに対して、永井では「道徳とはこうしたものだ」と語られていると言っていい。「教説」ではなくて「解明」であるからなのである。そして論争における永井の勝ちは、基本的に、永井が大庭の「であるべし」という点を、その「理由」づけの試みにおいて攻撃して一定の成果を挙げているのに対して、永井には攻撃すべき「であるべし」という点が不在であって*そもそも(反)攻撃ができない、というところから来ていると我々は見ている。 * 先に永井を規範倫理学的に「徳の倫理」を説く者ともみたが、厳密には永井の場合は、いわばメタ規範倫理学であって、平たく言って「人は自分のしたいように行為すべし」と説くものである。ここでは「べき」は相手に対する永井自身の「力」の行使を含んでいない。もちろん、同じ「徳の倫理学」であっても、多くの場合そうであるようにここで「己が《真に》欲するところ」を(内容規定的に)語るならば通常の「べき」となる。例えばアリストテレスによって語られる「賢者」はそうした「真の欲求」をもつ者であって、だから永井の「賢者」はそれとは異なるのである。 [510] 論争にもっぱら永井批判的に介入したのは、別に判官びいきであるからではない。この攻守の非対称性がいわば構造的に永井の勝ちを結果する仕組を作っているのであるが、その仕組をまず解体することが議論の更なる展開を保証していくと考えたからである。そして、その〈解体〉の突破口は永井の「解明」というスタンスの問題化にあると我々は考えたのである。これは、「「哲学性」への固執にも、同様に冷徹なメスを入れていただきたい」という大庭の永井批判を、永井の「哲学性」とは「解明」性であるのではなかろうかというかたちで展開したものでもある。 version 1.01 1997/04/26