いかなる倫理が「私」を超えうるのか――公共性と倫理――

 

 

安彦一恵

 

 

[001] 共編著『公共性の哲学を学ぶ人のために』(世界思想社、2004)「序論」で我々は、「公共性」のいわば諸レヴェルを理念化的に取り出すために、「経済性」「倫理性」「政治性」(および「文化性」)の諸次元を区別した。本書では、この諸次元について各論者に論じて頂いたが、本稿は、(まず)「倫理性」の次元での「公共性」について自らも考えてみようというものである。

 

[002] 英語で言うなら「公共的」は"public"であるが、それについては"political"と等置する理解もみられなくない。特に日本では、"public"="official"という了解が強く、そのofficialな場として"politics"があるからでもある。この"politics"として考える場合、「倫理」はいわば政治倫理として問題とされることになる。「政治倫理」は一つの語として慣用的に使用されているところでもあり、公共性の場である「政治」、端的にはその担い手の「政治家」について、たとえば腐敗といったその問題性の克服として倫理が強調されてもいる。しかしわれわれは、そもそもの public = official という考え方、あるいは、public についてのそうした側面への切り詰めを否定する。(1) "public"としてわれわれは、まさしく"private"の対極の在り方を了解する。"private"の対極としての"public"という在り方が「倫理」のかたちでも存在すると考えるのである。

 

 

一 「政治」と「倫理」、「経済」と「倫理」――「倫理」の規定のために――

 

[101] しかしながら、「倫理」とは何か。そもそも「倫理」の意味が解明されているのでなければ倫理的公共性について適切には問えない。倫理的公共性の議論には、「倫理」の規定が必須の前提課題となる。

 

[102] 「法と道徳」といったことがよく語られる。言葉遣いを統一するためにいま後者を「倫理」と言い換えるが、人の行為がなんらかの規則との関係にあるとして、その規則の別として「法律」と「倫理」(的規則)とが対比されていると見ることができる。しかしこの両者は、その規則の内容の点で異なっているのではない。どのような内容の倫理的規則であっても同時に法律でありうる。また逆もありうる。通常もこの両者は、規則内容ではなく、行為へのサンクションの観点から区別されている。端的な場合で言うなら、倫理規範への違反の場合と異なって法律違反には必ず処罰が伴う。法律は違反規定を必然的に伴っている。それは同時に、その違反への処罰を現実化する一つの力=「権力」を前提とすることである。

 

[103] 人々の相互の関係態に即して、通常、この「権力」性をもつ関係態が「政治」として了解されてもいる。厳密に言うなら、法律をもたない権力的関係態=「政治」もありうる。(絶対的)支配者の命令にのみ基づく人々の関係態がそうである。その場合も含めるのなら、この権力性そのものによって「政治」が規定可能である。ここから、権力的関係態=「政治」に対して、そうでない関係態として「倫理」を規定することが可能である。

 

[104] しかし逆に、「倫理的命令」ということも語られうる。たとえばカントは、人に対する道徳法則の性格として「命令」性を説いている。このこととも関連するであろうが、ちなみにカントは、(命令性をもった)法則に対する従い方の観点から、「適法性(Legalität)」(行為が単に法則にかなっていること)に対して「道徳性(Moralität)」(右に加えて、法則にかなうことそのものが動機となっていること)を区別している。しかしわれわれは、この区別についてはかなり懐疑的である。「適法性」「道徳性」という区別そのものでは「倫理」の規定として弱すぎるとわれわれは見ている。

 

[105] それゆえでもあろうが、カントは他方で規則そのものの次元で、「(単なる)格律」との区別において「法則」を規定し、そこから倫理性に迫ろうともしている。格律・法則の区別のポイントは「普遍性」というところにあるが、R・M・ヘアがこの線で「倫理」の分析をより展開するかたちで提示している。われわれは、このヘアの議論に、右の権力(不在)性に基づく「倫理」了解とも関連していく有力な「倫理」規定の手掛りがあると見ている。

 

[106] ヘアは、(われわれの議論に合せるかたちで説明を簡略化するためにこの語を用いるが)「規範判断」を(単なる)「命令」から区別する。前者も「命令」性(彼のタームでは「指令性(prescriptivity)」)を含むが、同時に、逆に後者が含まないものとして「理由」性を有すると説く。そして、規範判断が「理由」を伴うということは、それが「普遍化可能(universalizable)」であることである。「理由」を伴うということは、「規範判断」が「……であるからXXすべし」という含みをもつことであるが、そこから、「……である」ことが当てはまる全てのケースについて「XXすべし」が必然的に導かれるからである。

 

[107] ヘアはさらに、この「理由」について、そこに「個体」への言及が含まれている場合とそうでない場合とを区別する。前者の場合、その「個体」として「私」が言及されているとき、たとえば「私の利益になるから(全ての同様のケースについて)XXすべし」という利己主義的判断が可能となる。それゆえさらに、「理由」に「個体」への言及が含まれる場合の「普遍化」と、そうではない場合の「普遍化」とを区別して、後者のみが倫理的なものであるとされる。(この「個体」は、逆にいわば特定利他主義的に「あなた(のみ)」や、特定の誰々氏でもありうる。ヘアはそれらすべての言及を倫理から排除することになる。)そして同時に、法的なものを前者に分類する。法的な規範判断は必然的に法律への言及を含むが、その法律は必ず、それを施行している或る特定の――したがって「個体」である――国家への言及を(非明示的にせよ)含むからである。(2)

 

[108] われわれは「権力性」をもって、政治と倫理とを区別しようとしているが、「倫理」が「理由」性をもつということはこれと整合的である。「理由」性をもつということは、行為者・判断者がいわば「理由」に拘束されるということであって、そのことによって(普遍性へと)恣意性の発動を妨げられるのであるが、言うまでもなく、権力性とはその核心において、他者に対する意志(内容)の強制であるからである。ここから見るなら、「法」は国家の意志を基底としており、その限りで「理由」性に限界をもつ。(国家が制定したものであるなら、「理由」の存否に拘らず法は妥当する。)意志強制性をもって権力性とし、したがってまた政治性とすることには、異論もありえよう。しかしそれは、権力をofficialなもの(「公権力」)として考えているからである。実際、フェミニズムの文脈で、「個人的なことは(も)政治的である」と語られたりもしている。換言するなら「倫理」とは、消極的には、意志(強制)性の不在でもって性格づけることができるのである。人々の関係として言うなら「倫理」とは、相互の意志強制を含まない関係態なのである。

 

[109] しかしながら、この点から見るなら「経済」も同様である。市場における相互関係は、まさしく自由な(売買の)相互関係である。では次に、この「経済」からは「倫理」はどのように区別されるのか。両者の区別については、しばしば、経済が物質的なものに関わるのに対して倫理は精神的なものに関わると語られる。こうした見方に対してわれわれは否定的である。通常の市場においてたとえばサーヴィスも売買の対象となっているし、「市場」を広義で用いて「文化市場」といったことも語られている。相互関係において「財」が対象になっていると見るとして、その「財」が物質的なものかそうでないかという観点から経済・倫理を区別するのは妥当でないとわれわれは考えるのである。「倫理」として言うなら、精神的なものを対象とする相互関係としてそれを規定することはできないということである。

 

[110] 物質的なものによる区別と多く重なるかたちで、「利益」が問題とされることもある。「利益」追求を原理とする「経済」とそうでない「倫理」という区別がしばしばなされている。しかし、「利益」概念は多義的であって、必ずしも物質的利益に限定されるわけではない。実際、たとえばプラトンは「利益」概念を拡大するかたちで、いわば真の利益を措定し、それと倫理とを、後者は前者の実現に繋がるというかたちで結びつけている。

 

[111] では、「倫理」は何によって「経済」と区別されるのか。それは、端的に、利他ないしは平等ということである。「経済」が自己利益的行為を原理とするのに対して、「倫理」が原理とする行為は、端的に利他的であるか利己・利他中立的かである。その際、「利」は何であってもいい。ポイントは、利益の種類ではなくて、その「利」に関する「他」ないし「平等」にあるのである。さらに「政治」との区別で言うなら、政治においてはこの「他」および「平等」の対象が本質的に他の(自)国民に限定されるのに対して、「倫理」はその限界を超えるのである。

 

 

二 個人倫理の排除

 

[201] しかし、「利益」概念の諸種として区別が可能であるとなお説かれるかもしれない。物質的利益を求めるのが「経済」、端的には名誉という利益を求めるのが「政治」、そして、プラトンあるいはソクラテス的に魂の利益を求めるのが「倫理」というふうに。(ちなみに、魂の利益以外の精神的利益を求めるのが「文化」だとも区別しうる。)しかしながら、倫理的公共性を求める本稿の立場からは、われわれはこの区別には否定的である。魂の利益を求める在り方を「倫理」だと仮に認めるとしても、それは本質的に個人倫理でしかありえない。そういうものとして公共性の原理とはすることができない。

 

[202] 別稿(3)でわれわれは、「倫理」を一つの個別活動性であるとする見方を批判して、むしろ各個別活動性に対する一つの統制の在り方として「倫理」を規定したが、この批判は、利益概念を限定して魂の利益を求める活動性として「倫理」を規定する見方にも当てはまる。「倫理」とは、利益について、その内容ではなく、それが何であれその追求の仕方について、それを一定の方向へ統制するものなのである。右のヘアが端的にそうであるが、「倫理」の規定において一般にも、利益概念を限定して特定(内容)の利益との関係で「倫理」を規定するという在り方に対してはメタ的であると言える、その高次の平面で分析がなされている。端的にはこう言えるが、私の利益ではなく、他者の、あるいは両者を含んで全員の(あるいはなるべく多くの者の)利益を求めることが「倫理」であると一般にも了解されている。(自分の利益だけを求める)「利己主義」の反対として「倫理」が了解されているのである。ヘアの場合この「倫理」を表現するものとして――彼の場合、功利主義の含意として提示されるのだが――「平等原理」が提示される。ここから見るなら、魂の利益を求めるものであっても、自分の魂の利益の追求である限りで、それは一種の利己主義だと言うことができる。実際、たとえばR・ノーマンが、プラトンを含んで古代ギリシアの「倫理」について「道徳的利己主義」という性格づけをしている(4)。

 

[203] そうであるとして、ここでは論を別のかたちで展開したい。古代ギリシアではが有意化されるわけであるが、現代においてはそれはむしろ「アイデンティティ」や「意味」として説かれている。つまり、「アイデンティティ」や「意味」の実現を求める活動性が「倫理」であると説かれている。たとえばCh・テイラーが前者、B・ウィリアムズが後者の具体例である。そして、それらにおいては、右のヘアのような功利主義では人は単なる「利益」受容体――ベンサムのような快楽主義的功利主義では快楽の受容体――であることになるという批判がなされてもいる。この批判については、その「アイデンティティ」「意味」の実現が一つの「利益」の事柄であるとしえるので、反批判可能であるが、詳論はここでは措く。そうするとして逆にわれわれは、そうした在り方の主張は、公共性を問う場面では一つの誤り、いわば「自己論的誤り」であるとして退けておきたい。公共性を問題とする場面においては、「自己」の在り方を問い、自己の在り方の一つとしての「倫理」を原理とすることは誤りなのである。

 

 

三 自由主義と共同体主義――二つの倫理的公共性(主張)――

 

[301] しかし、ここで反論が予想される。「アイデンティティ」にせよ「意味」にせよ、(たとえば「日本人」というアイデンティティとして)個人的なものではなく共通のものとしてある。そうしたものの志向は、そこでまさしく「共通性」が有意化されていて、それこそが公共性を構成しているのだ、と語られうる。だが、その場合(も)それは、一つのメタ的なものである。そうしたものとしてそれは、また別の次元での議論を要する。

 

[302] 先にはメタ的なものとして「平等性」を挙げた。そして右のは共通性(そのもの)への志向である。共に、それぞれ「平等性」「共通性」を「価値」としていると言うことができるが、そう言うとしてもそれはメタ「価値」である。そうだとして、同様メタ的なものとして、これ以外の価値も挙げることができる。そして、その価値の追求として多様な「倫理」を考えることができるかもしれない。先には「平等性」を端的に「利益の平等性」として考えたが、各人は各利益の追求の権利を有するとして、その権利の平等性を挙げることもできる。利己主義であっても、(各人はそれぞれ自分の利益を追求すべしと説く)いわゆる「普遍的利己主義」に即して、人々のその利己的関係態が内含する価値として「競争」「闘争」といったものを挙げることができる。「倫理」として言うなら、ここで「ニーチェ的(英雄的)倫理」といったことを言うこともできよう。

 

[303] しかしながら、これらのメタ的価値追求の在り方は、すべて倫理的公共性の原理でありうるであろうか。公共性の原理ではあるとしても固有に倫理的公共性の原理でありうるであろうか。先の議論を踏まえて言うが、ポイントは権力性にある。端的には「競争」について問えるが、「競争」の必然的帰結としてある勝者・敗者の別に即して、そこに強者の「名誉」が想定される場合、それは敗者に対して勝者を賞賛すべしということを伴うので一つの権力性を内包する、とわれわれは考える。したがって、(ニーチェ的)競争主義は、固有の意味では倫理でない。公共性を構成するとしてもそれはむしろ「政治的公共性」である。(であるから、「アゴーン」という競争を説くアーレントもそれを「政治」として語っているのだとみなせる。ちなみに斎藤純一は、その競争の場に「現れること」をもって「公共性」の核心であるとしている(5)。)

 

[304] 検討が必要なのは共通主義である。普通の用語で言うなら、これはいわゆる「共同体主義」である。そこでは、一定の共通の価値――これはいわば一次的価値である――の追求が、それ自身メタ価値とされている。これについては、二点で権力性=政治性の存在の嫌疑をかけることができる。一つは、共通のいわば範囲である「共同体」から見て、自分の共同体を他の共同体に対して優位化しているのではないのか、ということである。右に個人間について述べたことが共同体間の次元で言えるかもしれないのである。これに関連するかたちでC・ムフは、共通アイデンティティの志向に伴う我々・彼らの対立性を「政治」の本質としてむしろ積極的に説いている。もう一つは、一つの共同体の内部における他のメンバーとの関係に即したものである。全メンバーがいわば自然的に(最初から)共通の同じ価値を志向しているのであるなら問題ないが、そうでない場合、共同体主義は、他者に対して(私が志向している)価値を求めるべきであると説くことになる。言うまでもなく、ここには一つの権力性がある。

 

[305] 端的には西部邁が、自然的志向を排して共通価値を志向することこそが(単なる「社会的欲望」を超えた)真の「公的欲望」であると説いている(6)。その場合、この「べし」という命令性は自らにも当てはまることになるが、それでも命令性が、かつむしろ本質的なものとして説かれていることになる。そしてわれわれは、それが他者に向けられるとき、それは一つの権力性であると見ている。われわれはそれを個人の自由性の否定であると見るのだが、ただし共同体主義は、(I・バーリンの用語で言うなら)ここで「積極的自由」概念を援用して、そうした強制は自由の否定ではない、と説く。だが、その場合の「自由」は、「自由主義(liberalism)」という場合の「自由」ではないし、共同体主義自身も「自由主義」の言う「自由」を「消極的自由」(これは本質的には、人の自然性を承認し、それに対する束縛をできるだけ否定するものである)であるとして批判している。

 

[306] われわれ自身は「自由主義」に定位するが、それを措くなら、ここで二つのタイプの倫理的公共性の原理を確認することができる。これが、本稿の最基本的主張である。倫理的公共性について見解が分かれるとすれば、それは、この「自由主義」対「共同体主義」という基底的対立に因るのであって、論をこのレヴェルにまで還元することが重要だということである。

 

[307] そうだとして次に、――われわれが「経済」との区別において取り出した――「利他」あるいは「平等」の志向は、共同体主義の場合と同じように、権力性の存在の嫌疑を受けないであろうか。われわれは「利他主義」のありようによっては、その可能性があるが、それが何であれ他者の自然的利益を優先するという種類の利他主義である場合(これは、「非-パターナリスティックな利他主義」と概念化できる)はその嫌疑を免れる、と考える。(「パターナリズム」概念は包括的であって、われわれもすべてのパターナリズムを退けるものではない。ここでは、少し限定化的に、次のようにだけ付言しておく。人が自らもつ欲求――これを「自然的」欲求とも呼んでいるのだが――の尊重が「自由主義」の基本である。先の西部を典型に、これを「価値のある欲求をもちなさい」として否定するのがいわゆる「モラリズム」であるとして、こうした否定のかたちで他人に介入できるとするものも「パターナリズム」と呼ばれうるが、これに対して、人がその欲求の実現と矛盾する行為をしようとしているとき、かつそのときに限ってそれに対して介入してもよいとする立場を「パターナリズム」と呼ぶこともできる。われわれは後者の「パターナリズム」は否定するものでない。誤解を防ぐためにもう一点付言するが、ここで言う尊重の対象は、別の人に危害を加えることのないものに限定される。ミルのいわゆる「危害(防止)原理」の制約が当然課される。しかし、この危害防止的介入は通常も「パターナリズム」の問題ではない。逆に言って西部は、他の人に危害を加えることのないものの範囲で価値ある欲求とそうでない欲求との区別をしている。そして、この区別の根拠が介入者の、その者自身の価値観による意志なのである。)われわれは利他主義をこの利他主義に限定して倫理的公共性を主張したい。

 

[308] 平等主義についても、これに相当する平等主義に限定して考えたい。平等原理の側面から見るなら、ベンサム型の古典的功利主義はこのヴァージョンの平等主義を含むものである。そしてそれは、換言するなら自由主義を含むということである。(初期の)ヘアでは、これが明瞭である。彼は同時に、「倫理」を「功利主義的倫理」と「理想主義的倫理」との二タイプに分類し、自らは前者を採って明瞭に後者を退けている。彼が言う「理想主義」は、われわれの言う(一次)「価値」の特定のものを有意化し、自分の「利益」に反する場合も含めてそれを「利益」に優先させるものである。彼の場合、それを、「利益」を(自らの利益をも)「理想」に服従させるものとして(反自然的な)「狂信」と呼ぶが――ヘアは「理想」の具体例として「ユダヤ人のいない社会」を挙げ、「殺されない」という(基底的)「利益」よりも「理想」を上に置くことを、たとえ自分がユダヤ人であると(分かると)してもそのようにするという場合に即して「狂信」と呼んでいる――、われわれはその「権力性」を問題としているのである。

 

[309] ヘアは「道徳的論証」の「四要素」として、「論理」に加えて「傾向」ないしは「利益」を挙げている(他の二つは「事実」「想像」)。前者は、「道徳判断の二つの特徴」=「指令性」「普遍化可能性」に「対応する」ものである。これ(ら)は――用語は異なるが――カントも挙げるものであるが、ヘアは「倫理」(という「道徳的論証」)の要素として、これに加えて「利益」をも挙げているのである。ヘアは、(「理想」に定位して)「利益」を無視する判断であっても普遍性をもちえ、したがって「倫理」ではありうるとするのであるが、「利益」の重視を加えることによって「倫理」を功利主義的に限定している。通常のイメージでは、「利益」を「自己利益」として問題としつつ、むしろ「利益」を排して「理想」に定位することが「倫理的」であるとされているが、ヘアではこれが逆になっている。ヘア自身は、当然であるが「利益」の自己利益への限定を外して(功利主義的総和主義として)関係者すべての者の利益の最大化として「倫理」を考えつつ、利益の無視をいわば不自然として批判するわけであるが、われわれは利益の無視に「権力性」を読み取っているのである。

 

[310] これには異論が予想される。したがって、いま少し具体的な説明を付け加えておきたい。今われわれの前にケーキが一切あるとする。私がケーキを食べたいので「あなたは食べるべきでない」と主張するという場合もあるが、いま問題としている「権力性」はこれに伴うものではなく、たとえば、私が日本主義者として発する「あなたは日本人なので(西洋の)ケーキを食べるべきでない」といった発言に伴うものである。後者は、私も日本人であるとして、「私も食べるべきでない」(したがって「我々は食べるべきでない」)という含みをもつとき、普遍性をもった判断=(理想主義的)道徳の判断でありうるが、しかし、そこには前者の場合よりも強い「権力性」が伴っていると言いうる。前者の場合、通常は、「申し訳ないが」といった悪の自覚を伴うのに対して、後者では(「理想」性からくる)「これは正当なことだ」という含意が伴われるからである。あるいは、先([108])に「理由」性による普遍化から帰結する意志制約性を述べたが、「理想」がその「理由」になるとして、それによる普遍化は――「理想」が自分の意に反したものであるなら別でありうるが、それは「理想」ということに矛盾したことであって、「理想」は自分の「理想」であるのが通常である――むしろ意志拡張性だとも言いうる。そもそもさらに、前者の判断は利己主義的な判断であるが、いま比較の対象となるのは、そうしたものでなく功利主義的タイプの「倫理」であって、そこでは結局――共に等しくケーキを食べたいと思っているとして――「(半分づつ食べるとして)あなたは半分だけしか食べるべきでない」ということになり、「権力性」をもつとしても、全部食べたいという欲求に対する「半分しか食べるな」という意志性であって、これに対しては後者(理想主義)の「権力性」ははるかに大きいものである。

 

[311] 「倫理」を二タイプに区別する際ヘアは、「利益」を通常のイメージで物質的なものとして考え、それに対立するものとして「理想」を考えているが、われわれは必ずしもこれに拘束される必要はない。後期のヘア(たとえば『道徳的思考』)も、「理想」の実現をも「利益」に含めるかたちで「利益」概念を拡張して考えている。(前期でも、「欲求」の側面から、通常の「欲求」に対して、「「欲求」の広い意味」もあり、その場合「理想に相当する」欲求も含まれる、としている。)いわば「理想主義」的成分を取り込むかたちで一般功利主義とでも呼べるものを――「選好功利主義」としての功利主義の再規定とも関連するが――説いている。これについてわれわれは必ずしも肯定的ではない。同じく「欲求」と呼ぶとしても、「理想」への欲求と「利益」実現への欲求との区別がなお有効であると考える。われわれはここに、自然性を基準として、自然的な欲求とその否定を伴う欲求との区別をしているのであるが――厳密には、いわば逆方向で、反-自然的な欲求として「理想」への欲求を規定しているのであるが――、しかし後期ヘアの場合でも、「日本人はケーキを食べない」という「理想」に対する私の欲求が「ケーキを食べたい」という相手の欲求より強いとき、「あなたはケーキを食べるべきでない」が正当な判断として発話されることになるが、形式的に見て、その正当性はいわば「ケーキを食べたい」という相手側の欲求の分を差し引いた残分であって、「理想主義的倫理」における判断の場合より「権力性」は少ない。この「倫理」の下では、「理想」への欲求は――単に、その方がより強い欲求であるということでなく――まさしく端的に、それ自身正しい欲求であって――右に「後期ヘアに対して必ずしも肯定的ではない」と述べたのは、「理想(主義)」のこの比較衡量超越性とでも言えるものが汲み取られないことになるからである――、その主張には、自然的欲求配慮分の差し引きが含まれないからである。

 

 

四 愛について――倫理的公共性の本質へ――

 

[401] 「倫理」のかたちとして「愛」が一般にも説かれるが、われわれは「倫理」において「愛」が特別の位置を占めると見ている。そしてそれは、「愛」が利他主義・平等主義と本質的に関係するからである。もちろん「愛」にも多様なかたちがある。しかしその本質は、相手をそのまま尊重することである。一部の「共同体主義」が説くところでもある「承認」をその具体的形態として了解する可能性もなくはないが、「承認」の場合、たとえば相手の「アイデンティティ」を、厳密にはそれを構成するに足る、その意味で特定の「価値」の担い手として相手を承認するというところがある。アイデンティティ構成者であるので、端的にはその価値はなんらかの一貫性をもったものでなければならないことにもなるが、その場合、相手に対して「一貫性をもて」、またたとえば「ふらつかないでアイヌ民族の一員であることを自覚せよ」というかたちで或る強制性が出てくる、とわれわれは見ている。われわれが本質において了解する「愛」は、そうした制約を一切付さない。その意味で無条件のものである。そういうものとしてそれはまた、「情愛」的なものでない。これは、相手に関する特定性が本質となっていて、その限りで選別・排除的である。それは換言するなら、(情)愛の主体の意向が働いていることである。そして、その限りで「私」性が関与していることである。これに対してわれわれの言う「愛」は、「無私」のものである。通常の用語を用いるなら「博愛(charity)」に相当すると言いうる。(ちなみにイエスの「隣人愛」も、誰であれ、かつ何者であれ私の目の前に現われる者への愛として、非-選別・排除的であると解釈できるかもしれない。)

 

[402] そういう意味では、われわれの言う「愛」は、むしろ「連帯」に近いと言えるかもしれない。しかしながら、「連帯」では共同である(なっている)ことそのものが目的化されていて、この点で利他・平等志向は異なる。後者は、自らがそう志向するということであって、皆がそうである状態を志向するわけではない。それに対して連帯志向とは、単に自分が連帯を志向するということではなく、いわば皆が連帯志向的であって、そこに連帯が実現されていることを求めるものである。こう見るなら、(皆が利他的であることを求めるならそれはもはや利他ではなくなってしまう「利他」とは異なって(7))平等志向には微妙なところがある。「平等志向」には、自分が自他を平等に扱うという場合と、皆が平等的である状態を求めるという場合の二つがある。このうちわれわれが倫理的公共性の原理としうるのは前者のみである。後者の場合は、「連帯」志向と基本的には同じになる。この前者の平等志向と利他は、そうした共通性を非目的化する。

 

[403] ここには「倫理」の(論理的)本質に迫るところがある。「連帯」にせよ「平等」にせよ、あるいは、それを含んでなんらかの「共通性」のその状態を志向することには、志向者がその状態を享受するというところがある。その意味では、「状態」は一つの「利益」(対象)である。そして、そういうものとして、この連帯・平等志向はその志向者の"privacy"(私性)であると言いうる。「状態」は共通のものであるといっても、その享受という側面から見るなら、たとえば共通享受主体という、その意味でpublicな主体といったものはありえず、享受はあくまで、共通の事態(利益)を各人が、共通にではあってもそれぞれ各自的に享受しているにすぎないからである。享受は本質的に「私的」なのである。そして「利他」(および平等な取り扱い)とは、「利己」の反対として、まさしくこの"privatism"を有しないことなのである。「情愛」でも、その「愛」の関係におけるなんらかの利益(たとえば「暖かさ」)の実現が本質的構成分となっていて、そこに一定の利益状態が有意化されている。これに対して「(博)愛」は、「無私」のものとしてそれもまた、そのような"privatism"を有しないことである。ここに、利他(および平等な取り扱い)が「愛」と本質的な関係にある所以がある。

 

[404] しかしながら、「利他」であっても、他を利するというその志向そのものが利益対象となりうると反論されるかもしれない。だが、そうなるとしても――その場合「純粋な(pure)利他主義」となる。そうならない場合は「真正な(genuine)利他主義」である。逆に、利他の志向そのもののみが目的となっている場合は、一種、「利他」を手段とする「利己」であって、なお利他主義と言うとしても「不純な利他主義」である。上記共編著所収拙稿参照――、それは、志向そのものを利益とするといういわば自己言及的な利益対象化であって、右の、志向の対象である「関係」の利益対象化とは異なる。われわれは、この自己言及的な利益対象化は、そのものとしては「倫理」であることを損なうものでないと考える。問題は、あくまで他者との関係にあるのであって、「共通性」の「状態」の志向は、その「共通性」の「関係」という「私」を超えるもの――なぜなら、「関係」は他者との関係であるからである――が、利益対象化として私有化されているとわれわれは批判しているのである。(「純粋な利他主義」の場合も、一つの転倒態として、「利他」を通した「共感」の喜びが目的となるときは、この批判が当てはまる。同上拙稿参照)

 

[405] 「共通性」は人と人との関係を含む。「共通性」の「状態」の志向は、この「関係」を一つの目的とすることでもある。ここで、そうした目的化をもたない「(博)愛」は、「関係」という、その意味で(間主観的な)公的な場に定位することの否定として、まさにそれゆえ(関係非有意化的)に非-公共的だとみられるかもしれない。しかし、実は逆である。「関係」の目的化は、他者を「目的」として遇するといったこととは別であって、その他者との関係において他者をいわば自分に引きずり込むことである。逆説的に聞こえようが、他者との関係の目的化は、それの私有化としてそのほうが非-公共的なのである。(先に「自己論」的倫理を「個人倫理」として批判したが、そうした倫理が「関係」において説かれるとき、必然的にこの「私有化」を結果する。)「愛」はそうした私有化をもたない。そういう意味で、「愛」は倫理的公共性のまさしく核心なのである。

 

[406] こう言うなら恐らく、それは「私」を実体化的に「関係」から切り離すことを前提とした議論だ、と反論されるであろう。しかしこの反論は、逆に「私」について共同体主義的自己観を前提としたものだと言いうる。これに対して、われわれは自由主義的自己観を前提としている。たしかに、共同体主義的自己のほうが豊かな自己であるとは言えるかもしれない。しかしそれは、いわば人間性の点においてであって、より倫理的であるわけではない。(われわれの考え方では、「倫理性」と「人間性」とは別の事柄である。その限りで、「倫理的であること」は一種「非-人間的」だと言ってもいい。このことを嫌って、逆に「倫理」を「人間性」から考えようとする場合もあるが、われわれをそれを「人間主義化的誤謬」とでも呼んで退けておきたい。)そして自由主義であっても、そうした豊かな人間的関係そのものを否定するものではない。ただ、それを基本的に「私的」なものと捉え、それを「公」の構成原理とすることを――「公」の私有化だとして――否定するのである。(「立場」から独立に純粋に個人として「理性を使用すること」を「理性の公的使用」としたカントも、その点ではわれわれと一致する。)われわれは、ここでも自由主義か共同体主義かという基本対立に議論が還元されるのでなければならないと言いうる。

 

[407] 「博愛」については、「倫理」として達人倫理的であるという異論もありえる。したがってわれわれは、この場合――平等志向に限ることになるが――長期的に自己利益を確保するために平等倫理を守るという可能性も認めている。(したがって「平等倫理」は、端的に平等を志向するものと、長期的利益の確保のために平等を志向するものとに区別されることになる。)しかしそれ(右の後者)は、タイプとしては「経済」的なもの(「倫理」と言うとしても、いわば「経済の倫理」)とすべきであろう。また、一定の権力性を引き受けて諸種の「政治」に定位しなければならないという可能性も認める。しかしながら、タイプとして「倫理的公共性」を措定するのなら、(右の前者の「端的な平等志向」に加えて)「博愛」の現実性を語るしかないと考えている。

 

[408] そしてそもそも「倫理的公共性」を別カテゴリーとして措定するのは、「経済」が平等主義に留まって利他の余地をもたないからであり、(あるいはさらに、その「平等」の実現の点で必ずしも万全でないからであり、)また、「政治」は「権力」関係維持に相当のコストを伴うのに対して、「倫理」はそのコスト分を削減することができるからでもある。そうしたものとしてわれわれは、倫理的公共性を強調しておきたい。

 

 

 

(1) 斎藤純一『公共性』参照。

(2) 以上ヘア関係について、拙稿としては「道徳の正当化」、『思想』六八四号、一九八一年、所収、参照。

(3) 拙稿「二つの「合理性」概念」、『哲学』五号、一九九九年、所収、参照。

(4) R・ノーマン『道徳の哲学者たち 第二版』、塚崎智他訳、ナカニシヤ出版、二○○一年、参照。

(5) 斎藤、前掲書参照。

(6) 上記共編著所収拙稿「序論」参照。

(7) ここには、「利他主義」をいわば主義として説く「普遍的利他主義」化として、「利己主義」を一つの主義として説く(「普遍的利己主義」)なら(通常の意味では)「利己主義」ではなくなるのと同じ機制があるとも言いうる。

 

参考文献

 

H・アーレント『人間の条件』、志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年。

I・バーリン「二つの自由概念」、生松敬三訳、『自由論』第二巻、みすず書房、一九七一年、所収。

R・M・ヘア『自由と理性』、山内友三郎訳、理想社、一九八二年。

R・M・ヘア『道徳的に考えること』、内井/山内他訳、勁草書房、一九九四年。

I・カント『実践理性批判』、邦訳多数。

同『啓蒙とは何か』、邦訳多数。

C・ムフ『政治的なるものの再興』、千葉眞他訳、日本経済評論社、一九九八年。

大庭健/安彦一恵/永井均編『なぜ悪いことをしてはいけないのか』、ナカニシヤ出版、二○○○年。

プラトン『国家』上・下、藤沢令夫訳、岩波文庫、一九七九年。

斎藤純一『公共性』(「思考のフロンティア」)、岩波書店、二○○○年。

Ch・テイラー『〈ほんもの〉という倫理 近代とその不安』、産業図書、二○○四年。

B・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』、森際康友・下川潔訳、産業図書、一九九三年。

「共通課題「エゴイズムの再検討」」(拙稿「論点のさらなる整理のために」を含む)、『倫理学年報』第五四集、二○○五年。

 

(付記) 本稿は文部科学省科学研究費補助金(課題番号=一四五一○○四二)による研究成果の一部である。

 

2005/03/24作成

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