「「歴史主体」論争」をめぐって 安彦一恵 はじめに [001]  「「従軍慰安婦」問題を軸とする歴史教科書論争とは別に、いま知識人の間で、もう一つの論争が戦われている。取りあえず「歴史主体」論争と名付けよう。」 朝日新聞(1997年5月17日)で西島建男氏が「「歴史主体」論争」として取り出した一連の論争は、例の「歴史教科書論争」に比べて論壇においてまだメインの論争とはなっていないが、一つの注目すべき論争である。それは、「歴史教科書論争」を生産的に展開させるためにも無視できぬものである。しかしながら、「論争」はなお未展開である。決定的には、加藤典洋氏が朝日新聞(1997年9月16日夕刊)で  「僕は自由主義史観には価値を認めていない。あの戦争は侵略戦争だった。自由主義史観との違いも近いうちに述べたい」 と語っているその「違い」と、違うという根拠が明示されるのを待たなければならないであろうが、「論争」は多く、高橋哲哉氏を中心にして加藤氏を「自由主義史観」派であると断定した上で−−したがって、我々からすれば誤解を含んだかたちで−−展開されるに留まっている。単行本『敗戦後論』出版以降はそうでない書評も二、三出てきているが、書評ということもあって断片的な理解に留まっている。「論争」がさらに(実質的に)展開されるためには、高橋陣営と加藤氏との間で、共に「自由主義史観派」とは違うというその「違い」の相違について、その「違い」がどう違うのであって、その「違い」が相互にどう問題であるのかをめぐる議論がなされるべきである。これは、「自由主義史観」の何が問題であるのかをより明確にすることにも当然繋がっていくし、「自由主義史観派」からより限定されたかたちでの反論が引き出しうることにもなる。 [002] 本稿は、この展望をもって、「論争」がそう展開していくことを促すためのものである。したがって、我々(自身)の主張を展開するというのではなく、いわば交通整理的に各論のポイントを−−一部内在的には批判しつつ−−取り出し、それら各ポイントを適切に対置するということが課題となる。論争の現時点での展開がまだ加藤誤解を多く含むというところから、加藤をどう理解すべきかということに重点が置かれる。 一 「死者の弔い」をめぐって−−理解と誤解−− [101] どこまでを(より適切に)「誤解」とすべきかを確定しつつ、まず誤解を指摘することから始めなければならない。 [102] 上記西島氏は5月までの段階においてであるが、反加藤陣営の中核に高橋哲哉・大越愛子の両氏を置いている。大越氏は  「加藤氏にとって「自分が自分になる」ということはどういうことなのだろう。....それは「国民国家の歴史形成主体になる」ということなのだろう。」(「もうひとつ」22) 「今新に歴史的主体に基づいた国民国家を再建することを、彼は密かに願っているにちがいない。」(同24) と語っている。これは端的な批判であって、加藤をいわば確信犯的「自由主義史観派」と断定するものである。これを基準とするなら、ここからは少しづれるかたちで、いわば《結果として》「自由主義史観派」と同じものとなるという趣旨の批判が可能である。「物語」における対談者である岩崎稔氏と共に高橋は、大越に比べるなら少しこの方に寄っている。これに対して、  「国家がなした「悪い戦争」をもそれと引き受けられるような「歴史形成の主体」を作り出そうという言い方で、あらためて「国民」としてのアイデンティティの自覚を呼びかける動きが現われてきている....。国家が悪に重大な関わりを持ったとしても、その責任を受け止めうるのもまた、国家の下に統合された「国民主体」のみだというのである。」 を−−「歴史形成の主体」という表現を根拠に−−加藤批判であると見る場合、中野敏男氏は大越に近いところに立っている(「悪」24)。 [103] 「自由主義史観」に近い立場から、加藤の発言を〈歓迎〉して大越と同じように了解する人たちもいる。この場合も含めてポイントは、まさに加藤がそれを論の出発点においた次の発言の理解である。  「悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。/そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。....ここでいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万人の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。」(「敗戦」286) これは、ミスリーディングだということもあって、いろいろ説明が加えらてもいるが、氏は単行本『敗戦後論』で  「わたしは、先に述べた三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道が編み出されなければ、わたし達にこの「ねじれ」から回復する方途はない、と考えられる。」(86) という「初出になかった言葉を書き加えて」(「山城」353)、自らのテーゼを再確認する。 [104] この「死者の弔い」は、単に論の出発点となるだけでなく、国家−−したがって、その国家をめぐる歴史教科書−−に関する論のまさに核心に位置するものである。氏自身−−ただし氏自身は「世界戦争が出現する以前」(語り口186)という限定を付ける−−も説くように、戦死者の弔いはまさしく「国民国家」(形成・維持)の根幹を成すものであるからである。であるがゆえに、自由主義史観に近い人達が(誤解して)加藤の発言を好意的に評価するということにもなるのである。例えば、松原隆一郎氏の  「加藤さんの発言で面白いのは、アジアの二千万の人たちに頭を下げるためには、論理的に言っても、靖国の日本の英霊に頭を下げなければならないという話」(「読む」114) という理解がそうである。また、それをコメントして橋爪大三郎氏が  「林[健太郎]さんは侵略戦争であることを認め、しかも誇りをもって死者を弔うことができると主張している。加藤典洋さんが....主張している問題と、立場は違うが通じています」(「雑誌」) と述べることにもなっている。 [105] この、松原・橋爪両氏のコメントは高橋も言及しているところであるが(「哀悼」250)、氏は松原の好意的評価は「“誤解”」に基づくとしている。この理解が、(直接の発言は見られないが、死者の弔いの論をこの両氏のように了解しているだろう)大越の端的な立場からの高橋の若干の距離を結果している。しかし高橋は同時に、加藤の発言を、「侵略戦争だったとしても、「国のために生命を捧げるのはつねに崇高な行為」だ」という林と同じものと了解する(同上250)。これが、大越からの距離が「若干」であることを結果している。 [106] 整理するなら「死者の弔い」は、自由主義史観派に近い方から見て、まず、1)正しい戦争において国のために戦った死者を弔う、2)正しいものではなかったが、国のために戦った死者を弔う、という二つの立場を取り出すことができる。(この1)2)は区別すべきものであって、実際相違するから2)の林と典型的な「自由主義史観派」である中村あきら氏との間で論争が成されているのである。)しかしながら、問題は、加藤が1)でないのは明らかだとして、高橋(および橋爪)の言うように2)であるのか、ということである。このことを問うために、3)戦争において死んだ者をただひたすら弔うという立場を設定するが、我々の理解では加藤の立場はむしろ3)である。「無意味のまま」弔うという言い方は、1)2)との区別を明確にするための形容であると見るのが自然である。しかるに大越・高橋はここのところを無視するのである。 [107] 国家のために死んだ者達としての弔いは、事実上、靖国神社において行なわれている。「誤解」はこの弔いの《場所》について、  「もちろん、靖国の死者を哀悼したいというのなら、別段、誰も阻止しようとは−−とりあえず−−しませんから、加藤氏は自分で勝手に....靖国に参拝したらいいでしょう」(「すが」39) というかたちでも表われている。これで言うなら、「無意味のまま」というのは場所的には「靖国神社では《ない》ところで」−−当然また「英霊としてでは《なく》」−−ということを意味している。(あるいは、加藤流にフリッパントに言うなら、靖国神社で弔うとしても、例えば「靖国神社においてキリスト教式に弔う」のなら「無意味のまま」が実行できるかもしれない。しかし、それでは「無意味」は実現できても恐らく「弔い」にはならないであろう。) [108] しかしまた、加藤の言う所は一応理解したうえで、そうした「弔い」の主張が、論争のもともとの場である《政治》において適切な主張たりえているかと問う批判も存在する。上記山城の書評はそうである。  「自国の無名兵士一人一人に固有名を回復していくことで、英霊という概念の虚偽を破り、その果てにフィリピン人戦死者という他者に出くわした大岡の論理と倫理に[加藤同様]共感することはあっても、これを一般命題化した、自国の三百万の死者への哀悼からアジアの二千万の死者への謝罪へという著者の論理と倫理には、やはり共感を(反感をも)覚えがたい。..../だが、大岡の『レイテ戦記』を読んだ著者の文学的直観と、問題の政治的発言との間の「分裂」はほんとうに克服されているだろうか。」(353) と語られているが、これは山城の論の固有のコンテクストからのものだが、大きく言うなら、発言の政治的含意から批判を行なったものである。 [109] この問題を先に処理しておくが、加藤からするならしかし、−−山城の場合はそうではないが−−逆にストレートに〈政治〉を語ることは実は、その発想を〈国家〉(「国民国家」)のそれと共有している、そうした〈国家〉の論理を打破するためにはまず〈私性〉から出発するしかない、と反論できるであろう。「靖国」に対して「アジアの二千万の死者を先に弔う」というのは、氏からするなら、むしろ同じくこの〈国家〉の論理に立ったものであろう*。アーレントの議論を援用して氏が批判する「共同性」とは、この〈国家〉の論理のことである。 * こう言うことはもちろん乱暴ではある。厳密には、「〈国家〉の論理の裏側」とでも言うべきであろう。しかし、加藤からすれば、それはいわば国家の論理そのものと同類である。仮に、「二千万の死者を先に」と説く勢力が、それだけで国家を形成した場合、それは同じく「国民国家」となるであろう。「国民国家」とは(人種という意味での)「民族」を核とするものではなく、(複数の民族の者から成ってはいても)その構成員が「国民」として同質であるような国家のことである−−例えば旧ソ連のように−−からである。 [110] しかしながら、氏の《意図は》そうだと理解するとしても、果たして氏は本当に〈国家〉を批判しえているか。山城の批判も結局そういうことになる。「「歴史主体」論争」の展開は、この問いのもとで始めて生産的に展開しうると我々は考える。我々としては、《全面的に》氏の考え方でいいかどうかはなお留保しなければならないが、「国民国家」解体の基本方向としてはそれで妥当だと考えている。しかしここは、禁欲的に〈交通整理〉に徹して内在的に議論していかなければならない。高橋は先の言及に続いて、  「「わたし達がいまここにいることのために死んだ自国の死者への哀悼」が何より先だというなら、「祖国のために死ぬこと」を「崇高」化するこうした[林の]議論とすぐにも「通じて」しまう。そのことの問題点が、見えているのかいないのか・・・・・・。」 と述べているが、−−この「通じてしまう」が政治上《結果的に》そうだと言うのでなければ−−これは完全に誤解である。我々が上に確認した「無意味のまま」ということは、ここでのタームを使うなら「崇高で《ない》ものとして」ということになる。そして更に、加藤氏によるなら、「アジアの二千万の死者を弔う」場合であっても、「平和」(という、まさしく《崇高な》理念)のための犠牲者として−−抽象化して−−弔うならば、同じく「崇高化」することになる。高橋はここで、(いい場合とわるい場合とを区別せずに)「崇高化」(一般)を批判するのなら、この加藤の論に答えておくことが必要であろう。 二 「実感」をめぐって [201] しかしながら、高橋は「哀悼」では論点を変えるかたちで、「崇高」の議論を未展開に放置して−−したがって「死者の弔い」の議論を加藤への誤解を含むかたちで放置して−−、加藤の論は「実感」に依拠するものだという批判へと展開する。 [202]  「加藤さんは、「地上に露出した」「直径二メートルほどの土管」を想像し、この土管の内と外では「日本人」の意味がまったくちがう、と言うんだ。[加藤によるなら、]フーコー流の言説(ディスクール)論に依拠して、「日本人」の概念の虚構性、フィクション性を言い立てる議論は、「日本人」が「われわれ」という「まとまりの感覚」として生れた土管内の出来事に、「いわば土管の外からチョークで印をつけている」にすぎない。歴史性とフィクション性とは、「互いに他を排除する、共約不可能な概念」であり、真の歴史は土管の内側に、外部からでは必然的に「いい間違ってしまう」ような「内在」の領域として存在する。」 主として「岬」での議論をここでは手際よくこうまとめ、そして、それを  「実感というのは当てにならない。よく最近の思想に触れる人はそういう。でも、その当てにならない実感で何か言うしかない。実感は当てにならないから、どうもこれを言うのはまずいみたいだと自己抑制をして、外から実感とは別の形で、そのときに正しいと思える知識をもってきたら、その実感はずっと抑圧されるだけだ。」(「世界戦争」47f.) という辺りとを結びつけて、「日本人」だという「実感」に権利を与えるかたちで「日本人」として「われわれ」という「主体」の立ち上げを説くものであり、更に、「自由主義史観」に連動するかたちで「日本民族の正常化」(「物語」147)、つまり国民国家・日本を支える主体形成の動きに竿さすものであると批判する。 [203] 高橋によるなら、そうした「実感」なるものは−−加藤自身だけの固有の実感ではなく「われわれ」日本人共有の「実感」であるとされるかぎりで−−実は《純粋な》「実感」ではなく、それ自身も一つの「実定性」(フーコー)として、それを説くことが「政治的含意」をもったものである。加藤はいわば、そうした「実感」をもつ《べし》と説いているのである。しかしながら、そう了解するとしても、その、いわば当為としての「実感」の内実が、高橋も確認する通り(同147)「私利私欲」−−「戦後の左翼的言説の呪縛からの解放感」をもって「私利私欲」にいわば自足する感覚−−であるのであれば、そうした「実感」の主張がそのまま「国民国家」に繋がるという理解は問題である。高橋も紹介しているが(同143)、加藤は「国のあるなしに関わらず持つ私情あるいは私的感情」として「ナショナリズム」を定義する。これを高橋も「珍しいナショナリズムの定義だ」(同143)としている以上、加藤の「ナショナリズム」の言説そのものが−−通常のナショナリズムと理解されて−−上の批判の根拠になっているのではないであろう。では、何が根拠となっているのか。いまのところ  「要するに「国益」中心主義なんですよ[。それゆえ「自由主義史観」と同じなのですよ]。」(同145) と言われているにすぎない。だが加藤の主張としては、そうした「ナショナリズム」とは−−氏自身言うように「デモクラシー」と一体となって−−国民(個々人)の「私利私欲」を、かつ、むしろ〈国家利害〉といったものとの対抗において原理とするものである。* * この「私利私欲」への定位については「考え方」「明治」参照。後者では、例えば、(国際)政治的リアリズムでまさしく「国益」を説く北岡伸一氏を批判して、「国民一人一人が、自分の自己利益を国家に認めさせ、ついで、その延長で、国家に国家の自己利益を対外的に主張させる、というベクトルで示される」べきであると説かれている(36)。あくまで「私益」が基準であって、「国益」が仮にそれと対立する場合は「国益」を認めないというものであろう。これは、通常の「国益主義」とははっきり異なったものであり、それとの区別において、正確には「[個人的][倫理的]エゴイズム」とすべきであろう。そして氏からするなら、それは「開明的エゴイズム」であり、その「開明性」が「平和」に関しても第一の担保力となると考えているようである。因みに、これに対して高橋陣営は、そうしたエゴイズムを克服する道徳心が必要であると説くのであると思われるが、加藤はそれを、それが政治の場面で理念として上から説かれるとき、むしろ危険である、と批判しているのだと了解されうる。 [204] 対談相手の岩崎も、  「国益中心主義ですか・・・・・・そこまで。それこそ自由主義史観ですね。」(同145) と語っている。しかしながら、これであれば、結局、−−日本の現状を国益中心主義として断定し、そして加藤をそのイデオローグだとして批判する以上−−15年戦争期を含む、明治以降、現在までのすべての時期における日本が、単一に批判の対象となっているにすぎない。もちろん、見掛け上の戦争・平和の相違にもかかわらず「戦後」の日本も基本的にそれ以前と同質だというのは、一つの見解でありうる。しかし、そうであるとするなら、この〈現在〉に関して発言が軽すぎるという印象がどうしても拭えない。両氏も含めて我々「日本国籍所有者」はこの「国益」の享受者であるからである。「国益中心主義」を批判しつつ、かつ自らが「国益」享受者であることにまったく関説しないとき、それは極論するなら、「我々は国益を享受しているのだが、言説としては、そのことをそのまま肯定的に主張する自由主義史観派を批判している」ということにもなりかねない。 [205] この点での議論は前稿(六)で行なったし、少なくとも「「歴史主体」論争」においては前面に出ていないのでこれ以上論じないが*、論を次に繋げていくとして、こうした軽い発言が可能なのは、加藤からすれば、「[言論人として]自らを外部に置いている」からなのである。そしてその限りで、いわば生活人のなかから、そうした外部的発言に対する(極端な)反定立として「自由主義史観」が説かれてくることにもなるのである。 * しかし次のことは(追加的に)指摘しておきたい。高橋が(加藤の同盟者とも見なしうる)西谷修氏を批判して、  「国家の責任逃れを批判するという意図は、もちろんよく分かるんだがけれども、これだといわゆる「指導者責任論」に近くなり、兵士や国民の責任が免除されてしまう」(「哀悼」254) と語るとき、自らをこの「国民」から除外して語っている。また、大越がまさしく国益追求擁護論者として加藤を批判しつつ、その加藤の過去を「全共闘」に置いて  「全共闘世代は、《親世代》の自己欺瞞を問題化はしたが、その自己欺瞞の源泉にまで遡って追及することはなかった」 と語るとき、「全共闘」がその「親世代」の「自己欺瞞」を批判するという《他者》批判の(旧・左翼的)欺瞞性を告発しつつ、《自ら》の自己欺瞞への批判(いわゆる「自己批判」)に定位したことを無視するというかたちで、自らの国益享受を棚上げにするという立場取りが示されている。 [206] 高橋に従って加藤の「実感」の内実を「私利私欲」として同定する(だけ)なら、加藤としては、人間の自然としてその不可避の「実感」を、それが戦前のように暴走しないようにすべきだ(そうするしかない)、そこで観念的に「私利私欲」を批判するなら、それは(逆に)「お国のために」といった「私利私欲」の全面否定を結果しかねない、とでも説いていることになるであろう。そしてそれに対して高橋陣営としては逆に、そうした「私利私欲」こそが問題であり、戦前の暴走もこの「私利私欲」の必然である、(自らの「私利私欲」を問わないということを好意的にみて補うなら:「私利私欲」はいわばそれと語らずに求めるものであって、それを一つの〈主義〉として語ることはその暴走化を加速しかねない)とでも反論していることになる。「実感」をこのように「私利私欲」として同定するなら論理的にはこういうことになると言わざるをえないのであるが、しかしながらこれでは両氏とも本意ではないと言うであろう。では、加藤の言う「実感」とは何であり、何としてそう単純には否定できないものであるのか。 [207] 「単純には否定できない」と言うのは、(高橋陣営内の)大越もまた「実感」に定位してもいるからである。氏は  「世界的な女性たち....の連帯は女性たちの身体的実感に基づいていて、決して観念だけの運動ではない」(「もうひとつ」25) と述べている。これは単なる言葉の一致ではなく、氏の「実感」は概念として加藤と同じものである。大越もその「実感」への定位を他所では加藤同様「抽象的立場」への対置として説いているからである。しかし氏の「実感」は「女性」という《被害者の》「実感」であり、−−被害者の場合はその(被害の)「実感」に基づいて主張することは政治的に正当だとするなら−−正当な「実感」である。これに対して加藤のはそうではないという非対称性が存在する。我々は「前稿」では、この〈有利〉な条件に依拠するだけでは批判はフェアなものとはならないとしたが、ここになお問題とすべき点が残っていることは確かである。加藤にとってこの「実感」はまた「「鳥肌を立たせ」、違和感を生じさせる」(「語り口」206)という「実感」でもあるが、この感覚に基づく、「共同性の言葉」を正すべきだという主張(同206)は、それ自体は正当性をもたない。政治的には権利をもった主張とはなりえない。加藤はそれを認めるであろう。しかし氏にとって、政治的正当性はいわば第二義的なものである。氏は「文学」に定位しているからである。 [208] これに対して、大越は上述の理由で別だとしても、高橋陣営は全体として「政治」に立脚している。或る観点から見るなら、対立は「文学」と「政治」との対立である。加藤自身強調するように氏の主張の中核は(「文学」的立場からの)イデオロギー批判である。政治的な観念の主張や、そうした観念のストレートな啓蒙(「トップダウン式の考え方」)に対して、「現実から出発するボトムアップ式」を対置することである(「あとがき」316f.)。これに対して高橋陣営は、−−ここに言う「現実」は「実感」の別表現であるが−−端的に言って、そうした「現実」=「実感」の主張は、−−そのものとしては一概に否定できない(し、大越の場合は「実感」が有効に働いている)のだが、「主体」の言説と一体で語られるとき、その政治的含意は極めて危険なものである、と主張するわけであるが、加藤によるなら、そうした主張はまさしく「トップダウン式の考え方」なのである。 [209] しかしながら論争は、純粋に「文学」対「政治」というかたちでは展開していない。加藤が引用する大岡昇平等文学者とは異なって、氏自身はすでに「政治」論を展開している。自身「自分の中の政治と文学の分裂を克服できた」(「あとがき」324)と述べているが、厳密に言って「文学」を「政治」として展開している。高橋陣営も当然、加藤の論をそうした「政治」論として了解して批判を加えている。そうである以上、その「政治的含意には危険なものがある」という批判に対して、我々も加藤の論を「政治」論として評価しなければならない。その場合論点は、まさしく「主体」をめぐるものとなる。 三 「われわれ」という主体 [301] 高橋陣営が加藤批判のメイン・ターゲットにするのは、厳密には実感主義《そのもの》ではなく、加藤の「「われわれ」という集合の「まとまりの感覚」」への定位である。これが、実感に即して「日本人」という「主体」に定位しているのであり、その「主体」の「人格分裂」の克服というかたちで国民国家・日本の再構築を狙っているのだと批判されることになるのである。確かに、表面的に読むなら、そのように理解できなくもない。いわゆる「護憲派」と「改憲派」との「対立」が「人格分裂」であるためには、純論理的にも一つの主体、「日本という主体」を措定することを必然とするし、その「分裂」の克服を語る限りで、「日本という主体」の再建を説いていることになる。 [302] しかしながら、「日本という主体」の再建の主張は、「日本」という「国家」再建の主張ではあっても、「《国民》国家・日本」の再建の主張を直ちに意味するであろうか。明治期に「日本」として形成されたいった「国家」が「国民国家」であるというのはその通りであるが、いわば領土が(ほぼ)同一であるというところからだけでは、その(範囲での)「国家」の再建が「国民国家」の再建であるとは言えないであろう。したがって、高橋陣営がそのようような批判をするときは、加藤が志向している「国家」が、その《性格として》国民国家であることの論証を行なわなければならない。このためにも、「国益第一主義」国家と「国民国家」との乱暴な同一視は(一旦)放棄して、自らの「国民国家」規定の提示から始めなければならないであろう。我々の理解では、加藤は何らかの「国家」の再建を志向しているとしても、彼の意図としては、それが「国民国家」でないことは明瞭である。彼にとって「国民国家」とは(彼がまさに批判のターゲットとする)「共同性」(各国民の共同性=同質性)を本質とする*ものであるからである。 * 「前稿」で述べたように、この共同性=同質性産出のための最大の装置が(国民共有の)「物語」=「フィクション」であり、また「歴史教科書論争」は歴史という「物語」を巡るものなのである。したがって、我々の理解では、「国民国家」は換言すれば〈物語国家〉である。 [303] 加藤の一連の戦後日本論は、江藤淳批判をモティーフとする「アメリカの影」(1982年)の延長線上に位置するものである。加藤が「日本」の「人格分裂」の克服として、「日本」という集合主体を措定するのは、ここに規定されたものでもある。江藤の日本論がそうである以上、その批判として、いわば主語が同じく「日本」となるのである。しかしながら、そうした経緯もあって集合主体を措定せざるをえなくなっているのだが、彼は「人格分裂」を「日本」の分裂としてだけでなく、まさしく「[自然]人格」の「分裂」としても考えている。  「ここで特に人格的な分裂と断るのは、たとえば米国における民主党と共和党....というような事態を指してわたし達は国論の二分というが、日本における保守と革新の対立を、これと同様に見ることはできないからである。/わたしはその違いを、前者においては、二つの異なる人格間の対立であるものが、後者においては、一つの人格の分裂になっているといっておく。/簡単にいうなら、日本の社会で改憲派と護憲派、保守と革新という対立をささえているのは、いわばジキル氏とハイド氏といったそれぞれ分裂した人格の片われの表現態にほかならないのである。」(「敗戦」271) と説かれているが、加藤はまさしく文字通り一個の「人格」(《各》国民)における「分裂」を、実は問題としているのである。 [304] あるいは我々の敷衍的理解になるかもしれぬが、加藤によるなら、その「分裂」の根はまさしく「共同性」にある。我々が「共同性」という在り方をなおもっているがゆえに、一方では過去の日本をいわば我々の自我の延長部分として肯定的に捉えざるをえず、しかし他方では、その過去の罪のゆえに、過去を引き受けることができずに自らをそこから切り離して、それを外部として否定することになるのである。加藤が後者をそれもまた「共同性」であると批判するとき、そうした外部的否定の一様性を−−イデオロギー批判として−−批判するだけでなく、それが「共同性」という我々の根から由来するものであることをも突いているのである。であるから、加藤は、このそもそもの「共同性」という在り方を、その核心である「死者の弔い」方に即して解体を志向するのである。「無意義なものとして自国の死者を弔う」というのは、この解体の戦略なのである。 [305] 加藤がこの〈戦略〉の先に想定しているのは、したがってまた厳密には、「国民国家」を担う「主体」ではなく、岩崎の言い方では「健全な主体、健康な主体」(「物語」147)である。加藤陣営は、そうした「健康な主体」(そのもの)をも批判するのであるが、少なくとも加藤の意図としては、それは直ちには国民国家の主体ではなく、批判しえるとしても「私利私欲」の主体に留まる。これを高橋陣営は直ちに国民国家の主体として読み替えるのだが、そこには国民国家のイメージの相違がある。加藤においては、「私利私欲」の主体からなる国家こそが国民国家の対極にあるのに対して、高橋陣営においては、そうした国家こそが国民国家であると捉えられているようである。そして彼らにとっては、国民国家の対極に位置するのは、いわば正義の国家、あるいは国家の廃絶の先に予期されている正義の(倫理的)市民達の関係態である。彼らにとっては、それこそが(アーレントの言う)「公共性」である。 [306] 高橋は死者の弔いの論としては、被害者である二千万のアジアの死者達に向かい合うことこそが、そうした倫理的主体を形成していくことになるとも説いている。「元慰安婦」に立向かうことというコンテクストにおいてだが−−しかしまた、「元慰安婦たちの証言が〈死者への関係〉を含んでいる」(「汚辱」177)とされている−−、  「元慰安婦たち、彼女たち一人一人の顔とまなざしは....「国民国家」の虚偽あるいは自己欺瞞を、最も痛烈に告発する「他者」の顔、「異邦人」ないし「寡婦」のまなざしではないだろうか。この汚辱の記憶、恥ずべき記憶は、「栄光を求めて」捨てられるべきものなどではなく、むしろこの記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが、この国とこの市民としてのわたしたちに、決定的に重要なある倫理的可能性を、さらには政治的可能性をも開くのではないか。」(同177) と、レヴィナスを踏まえて説かれている。 [307] しかし、これに対して加藤は、そうした(いわば反定立としての)倫理的主体こそが戦後左翼の自己欺瞞的主体であり、補完的に国民国家を支えるものであると(逆に)告発するのである。したがって、両者において実は共通に国民国家的主体が批判の対象になっているのである。それゆえ生産的な論争はまず、いわば戦略論として、そうした国民国家解体の戦略としていずれが妥当であるのかというかたちでこそ行なわれるべきである。加藤批判としては、その戦略では駄目だという議論として展開されなければならないのである。 [308] 加藤はこの〈戦略〉の基本を「内から出る」「内から扉を開く」として説いている。「われわれ」日本人という「まとまりの感覚」に定位するというのはいうまでもなくこの戦略的布石である。ここを端的には大越は、そうした「まとまり」として国民国家の主体の形成を狙ったものだと批判するのであるが、加藤は、そうした「感覚」の復権を説いて、いわばそこへ《至る》べしと説いているのではなくて、そうした「感覚」から《出発》すべきであると説いているのである。さらに言うなら、加藤は、そうした「感覚」を問題として、いかにしてそれを解体するかを志向しているのであって、そうした「感覚」を無視して、外部から「日本」を(観念的に)問題にするだけでは、本当には「感覚」の解体に繋がらないと説いているのである。再び言うが、したがってポイントは、そのように「日本の解体」を共有するとして、その戦略としていかなるものが妥当であるのかという議論、加藤批判としては、その戦略(「内から扉を開く」)では駄目だという議論として展開されなければならないのである。加藤が高橋陣営を批判するとき、そのメインの主張は、高橋的戦略は無効であるというところにある。(氏の議論をさらに展開するなら、外部から観念的に「日本」を批判することでは、「反-日本」へと看板の取り替えは行なわれるが、その中身は「日本」に留まったままであるとも言える。)ここからしても、高橋陣営はまともに対応して、戦略の有効・無効の観点で反論すべきである。 [309] この議論が展開しうるためには、しかし現時点では決定的な桎梏がある。高橋との対談で(この論争においては高橋の同盟者である)岩崎は次のように語っている。  「[加藤によって]高橋さんはある種の共同性の側に、戦後というものに無自覚に取り込まれた存在として描かれてある。それに対して、かれ[加藤]は、「公共性」、「自立的思考」....の側という配置になっている。....[しかし、加藤が言う]この日本人という存在、「内在」というしかないとされるところに成立する主体はどうして共同性ではないのだろうか。それでいながら、どうして加藤さんのほうが共同体の対極に場所を確保して、共同性にはまっているとされる高橋さんを撃つことができるのか、僕にはついに理解できなかった。」(「物語」136) これはまず、岩崎が加藤の「内から」ということを理解してないことを示している。加藤は上に述べたように、いわば戦略論として「内から」を説いているのであって、どちらが「内」、どちらが「外」に《(すでに)いる》という論ではない−−したがって「加藤が共同体の対極に場所を確保している」わけでは《ない》−−。どこにいるというのなら(平均的)日本人はすべて「内」(「共同体」)にいるのであって、−−そこにいるにもかかわらずすでに「外」にいるかのように語る欺瞞を批判しつつ−−そこからどのように「外」へ出るかを加藤は問うているのである。まして「内在せよ」と規範的に主張しているわけでは決してない。むしろ逆であって、その戦略は「国民国家・日本」−−「共同性」とは加藤とって「国民国家」の第一の属性である−−の解体のための戦略であって、決して「日本」の回復のためのものなどではないのである。 [310] 第二に、これは誤解とは言い切れぬ点であるが、左翼側に見られる観念的=外在的な議論を、加藤は「共同性」と見ており、高橋陣営はあるいはそれをそうではない(それこそまさしく「公共性」だ)とみているかもしれない、という点がある。加藤は高橋をそういう「左翼」だとみて「共同性」だと批判するのであるが、これに応じるなら、いわゆる「(旧)左翼」の言説をどうみるのかをまず明らかにする必要があるであろう。私見では、  「国民的プライドの回復、「誇りの持てる歴史を」という点でも、左右両派は、国民的アイデンティティを共有しているらしいふしがある」 という上野千鶴子の「左翼」批判(「記憶」158)は加藤と同じ論点を含んでいる。また、  「日本の若者たちが韓国を訪れ、その訪問行事のなかに、戦時中に強制連行された男性や「慰安婦」にさせられた女性の経験を聞く、という催しがあった。....日本の若者が立ち上がり、とつぜん、「....ゆるしてください」と号泣したのだ。....この若者のナイーヴな反応をめぐる「感動的な挿話」は、国家と自分とをこれほどまでにかんたんに同一化するかれのナイーヴさにおいて、わたしに恐怖を抱かせる」(同171) と語られる上野のその「恐怖」は、加藤の(「共同性」に対する)「違和感」と同質のものである。 [311] しかしながら、論争が生産的に戦略論として展開されていないことには、加藤の側にそれなりの原因がある。それは、加藤が目指すべきものとして想定している「私利私欲」の主体の形成する〈社会〉が、それこそが真の「公共性」であると主張されるだけであって、いったいどのような〈社会〉であるかが明示されていないところにある。彼が(『思想の科学』的にプラグマティックに)現実に定位してそれなりの変革を志向するときも、その行方に新たな〈社会〉が想定されている。だが、同時に「政治論」であると語るなら、すくなくともその骨格が提示されるべきであろう*。そして、再び言うが、高橋陣営としては、加藤の「私利私欲」の主体を直ちに国民国家の主体とみなすのでなく、各国民が自らの「欲」−−こういう言い方は挑発であって、普通の言葉で言えば「幸福」−−を実現するための有効な組織としての国家について、それが国家としても自己利益追求的であるというところから、国家そのものを(国民国家として)否定する、という乱暴な議論を差し控えて、あるべき・許されるべき国家の在り方について、同様政治論として論じるべきであろう。 * ここを『思想の科学』論一般として、川本隆史氏と共に  「《情念》と《制度》とを媒介する社会倫理学的アプローチが、鶴見には欠落していると言えないだろうか。....『思想の科学』運動[は]「社会生活の指導原理」すなわち社会倫理の探求を棚上げにしてきた....」(「川本」38) と語ることができる。 [312] 同時に「主体」論としては、加藤の「私利私欲」の主体=「健康な主体」と、倫理的主体=「正義」の主体との対置として、そこに還元して、それ自身をテーマとして論じるべきである。私見では、前者は(道徳の「遮断のイデオロギー」を批判して)こう換言していいが「自然」な主体を説く永井均の「主体」でもある。因みに、永井を批判する大庭健の「主体」は高橋達の倫理的「主体」に近い。したがって、論争は深いところでは、永井−大庭論争にも通底している。加藤の主体が一見反倫理的とも見えるので、我々としてここでバランスをとっておくが、「正義」の主体こそが(かえって、より大きな)悪を生むのではなかろうかという反省も必要である。かの15年戦争も、そして戦争は一般に、スローガンとしては「正義の戦争だ」と叫ばれてもいたのであるから。 四 「責任」の主体 [401] しかし事態はもう少し混み入っている。それは、加藤が《責任》主体としても「日本」を措定しているからである。しかしこれは、実質上一体として語られているのであるが、「実感」の議論=戦後論とは独立のものとして理解すべきである。 [402] 加藤氏との対談において西谷は戦争責任を問題として、次のように語る。  「....だから「われわれ」が謝らなければならない....。そのときにどうしてもこれは個人の問題ではなく、「われわれ」と言わざるをえない。そうすると、いままでは別に日本人でなくてもいいんだ、おれはおれだと言ってきたけれども、そのような責任(リスポンサビリテ)−−これをレヴィナスは他者の呼びかけに答えうる応答可能性(レスポンスする能力)とみなすわけですが−−の主体として、戦後の世代も「われわれ」と言わざるをえない。そして「日本人」であることを引受けざるをえない。」(「世界戦争」51) これは西谷の発言であるが、この後引き続いて「そのことが今要請されていると思うのですが、そこに加藤さんの「日本人論」論があったのです」と語られているところからみても、加藤の主張として了解することも十分可能である。我々は、ここを手がかりにして議論を進めていきたい。加藤のオリジナルの議論の場合、「人格分裂」「ねじれ」の論と、したがってその克服−−これが高橋陣営からは「日本国民」という「主体」の立ち上げ、として理解されることになる−−と一体として論じられているのだが、我々はその部分を(方法的に)むしろ切り離して問題とすべきであると考えるからである。 [403] そうするとして、この点(だけ)に関して高橋は、鵜飼哲氏の議論をも援用しつつ次のように応じている。  「鵜飼さんは....「戦争の記憶が世代を超えるとき、それが罪責感以上に羞恥に係わるものになるのは必然ではなかろうか」といっている。人は、たとえ親であっても他人の犯した犯罪に「罪責感」をもち続けるのは困難だけれども、「羞恥」は自分の行為だけでなく、他人の行為についても抱く。たとえば、「日本人として恥かしい」というとき、人は「同時に自分の帰属を肯定しかつ当事者性を否認している」。」(「哀悼」248) そして、「「日本人として恥かしい」というと、「われわれ日本人」という「主体」とどうちがうのか」という疑問を自ら想定して、  「ぼくは、日本国家という政治的共同体への帰属で十分だと思う。「従軍慰安婦」問題を考えてみると、あの犯罪が許しがたいと感じるのに日本人である必要はない。しかし、....を考えると、「日本人として恥かしい」と言いたくなっても不思議はない。....日本の戦後責任を引き受けるためには、とりあえず、日本国家への政治的帰属を肯定することが前提だろう。」 と続ける(同249)。 [404] 加藤・高橋両氏のこの両論は、「日本人として」謝罪すべきであるという点では同じであると言いうる。であるから高橋は「どうちがうか」という疑問を自ら立ててみているのであるが、しかし、一見して同じであるかに見えて、その内実は大きく異なる。その違いは、「日本人として....」という限りでは、加藤がすっきりしているのに対して高橋に動揺があるというところに表われている。「動揺している」と言うのは、特に戦後世代にみられる「俺たちには責任はない」として、日本のかつての非を言うときは端的には「彼らは....」という言い方をする論者を逆の(それとして、すっきりした)立場に置くとして、この両端の中間に位置しているからである。 [405] 逆の端から見るとして、高橋はなぜ(なお)「日本人として....」と言うのであろうか。「当の私(個人)が日本人として恥かしい」というのは何が「恥かしい」のであろうか。我々が例えば欧米人と話すときと比べてアジアの人たちと話すときは何か別のものを感じる。特に「[お前は日本人であるが]私の親は日本軍に殺された」と言われるとき、何か自分自身が罪を犯したかのように申し訳なく感じてしまう。高橋も恐らくこの体験は有しているであろう。これも「実感」である。戦後世代に属しつつも加藤は、恐らくこの「実感」にも依拠して、  「戦争を通過していまわたし達がここにいるという、敗戦者の自覚」(「敗戦」276) をもって自己を、戦争において非行を行なった者たちをもメンバーとして含む或る集団−−「日本を立ち上げる」とは、何よりもこの「集団」を措定することであろう−−の一員として規定する。したがって加藤は、そうした集団の一員として彼自身が「有責」であると規定するのである。そして、そうした者として彼自身が「謝罪」するのである。「手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ」(同278)とは、そういうことであろう。 [406] これに対して高橋は、恐らく上の「実感」は有しているであろうが、言説としてはそれを無化するかたちで、「日本国家への政治的帰属を肯定」(「哀悼」249)しつつも、その「帰属」する「日本国家」を戦後・日本国家へと限定する。であるから、これはあるいは誤植かもしれぬが、自らが引き受ける「責任」を「日本の戦《後》責任」として、具体的には加藤が言う「ツケ」をきちんと返していない(戦後)日本政府を我々が選んでいる/許しているということへと限定するのである。加藤からすれば、高橋が「恥」を「人類として恥かしい」(「物語」141)へとずらしていく*ことの背後にも、過去とのこうした〈切り離し〉があるのだろう。 * これは、[403]で「しかし、....を考えると」と中略して引用した「....」の部分においても明らかである。すなわち高橋はその部分で、「あの犯罪が当時の日本軍、日本国家によってなされたこと」として加藤=西谷と同じ認識から出発しながら、「しかも、戦後日本はそれを隠蔽し、忘却されるにまかせ、問題が顕在化してからも日本政府は責任をとらず....」として、戦《後》責任へと責任を展開させている。あるいは、戦後において政府が戦争の責任を引き受けるべきであるとしつつ、みずからの責任を、戦争責任から、そうした戦争責任を引き受けない政府を許しているわれわれの戦後責任へと展開している。 [407] 上に言う「責任主体」としての「日本」を立ち上げると加藤が語るときの真意は、しかし、まさにこの〈切り離し〉の批判である。  「戦後の問題は、日本人がこの非難[「日本人がおかしいじゃないか、おまえたちがおかしいじゃないか」という非難]を受けとめる「やった」われわれを用意すらせず、そこから逃げたということでしょう。主体=「日本人」をつくって、それに対してやっぱりおかしいじゃないか、責任をとれ、謝れ、少なくとも声を聞け、という要請に応えようとしたした人間は、残念ながらほとんど、いなかった。」(「世界戦争」51) と語られるときの「逃げ」を加藤は批判しているのである。 [408] しかしながら高橋にとっては、この〈切り離し〉はむしろそうすべきであるものかもしれない。責任としても日本の過去は、むしろ引き受けるべきで《ない》のかもしれない。過去を引き受けるとは、悪しき日本とのであるが、その日本との一体化を意味するからである。実際、「自由主義史観」に近いところで、−−過去をよきものと欺瞞するのではなく(ここに「自由主義史観派」との一定の距離がある)−−過去を悪しきものとしたうえで、その過去を引き受け、そしてそのうえで日本の連続性を保持しようという行き方も説かれている。悪しき過去を引き受けるとき、その罪の謝罪を認めることになるが、例えば福田和也氏は  「日本人の民族性をいま一度認識するためになら謝罪をしてもいい」(「読む」114) というかたちでこのことを説いている。そうであるから高橋はむしろ積極的に〈切り離し〉を説くのかもしれないのである。「戦《後》責任」への限定も、むしろ意識的になされていることかもしれないのである。 [409] そうであるなら、〈切り離し〉を徹底して、戦後日本からも切り離すべきではなかろうか。「人類として」と語られるときは、あるいはそうしているのかもしれない。しかしながら、それでは「俺たちには責任がない」というのと同じになるのではなかろうか。そこで語られる「責任」は、《他人の》「責任」に留まっていて、自分の「責任」性ということがまったくなくなっているのではなかろうか。自分は〈善〉であって、ただ他者の〈悪〉を告発するということにしかならないのではなかろうか。「前稿」でも言及したが、アーレントのブーバー批判は、そうした〈自己の善良視〉を批判したものである。 [410] 加藤が高橋を「第三者として語っている」(「世界戦争」46)と批判するのは、このことを意味していると了解すべきである。ここのところは、高橋が〈むしろ第三者として語るべきだ〉としてしか対応していないので厳密に辿る必要がある。高橋はここではまったく理解していないということになるのであるが、しかし、その原因は、少なくとも誘因は、加藤の論じ方にもある。加藤は、  「さっきのハンナ・アーレントの例でいうと、そのコンテクストはハンナ・アーレントがホロコーストにおけるユダヤ人指導者たちの責任を問題にしたというものです。..../....裁きというものがもし成り立つとしたら、この場合にはユダヤ人であるアーレントがユダヤ人である当時の指導者を糾弾するという形においてでしょう。《当事者》が《当事者》を裁くというのはいったいどういうことなのか、そのことが十分に、批判している高橋さんにおいて受け止められているとは思えない。高橋さんは、いわば第三者として語っている。」 として、アーレントの議論と関連づけて批判を行なっている。しかし、アーレントの議論そのもののコンテクストにおいては、裁くには「第三者」(「注視者spectator」)であることが必要である(『カント』95,112etc.参照)というのが正しい読み方であろう。これがあるから、加藤の高橋批判は「変だ」(「哀悼」241)ということにはなる。ここは明らかに加藤に非がある。他所でもそうだが、氏の議論はミスリーディングである*。しかしながら、批判の真意は我々が上に了解したものであろう。したがってまた、高橋が理解に苦しんで  「ぼくが「第三者」的であって「当事者」的でないという批判は、「当事者」性が「同胞意識」が欠けている、という意味でしかありえないだろう」(同242) と理解したところは、「[罪を犯した者のその罪の責任を]同朋[として引き継ぐという]意識」とでも了解すべきであろう。高橋はここで(親切に)真意を汲み取り、かつ、そういう批判に対して−−その意図といったものを探ろうとするのをやめて−−まずはまともに対応すべきであろう。 * そのためであろうかここに関して「語り口」では、  「この高橋の指摘にわたしはほぼ賛成である。違いは一点しかない。その第三者性に関し、わたしは批判し、高橋はこれが大事だというが、そこにはすれ違いがある。....[高橋の言うように第三者性が必要であると言っても構わない。しかし、]それ[第三者性]は、たとえ概念としては高橋のいうように要約しうるものだとしても、たんに非当事者が非当事者であることで手にしている第三者性と同じではない。それはほぼ不可能な場所で、にもかかわらず、またそれゆえに掴まれる第三者性である。アーレントにとってはカントがそうであるような注視者の第三者性として措定されなければならないにせよ、それは、そういう始点から公共性のほうに育てられた、パリアの第三者なのである。」(195) という説明を行なっている。しかし、これでもまだ真意は伝わりにくいであろう。 [411] そうであるとして、では逆に、過去の責任を引き受ける加藤のスタンスは、先の自由主義史観に近いかたちでのそれと同じになるのか。私見では、両者の間には相違がある。この相違を高橋は見ていないのであって、そこに、加藤のおそらく「戦争を通過していまわたし達がここにいるという....」(「敗戦」276)という件を「わたし達がいまここにいることのために死んだ自国の死者」(「汚辱」180f.)と、つまり〈非行を行なったとしてもいわば歴史の必然のなかで日本のために(と思って)戦って死んだ死者〉とでも理解してしまうことが生じたりする。だが我々の理解では、加藤は、「わたし達」が彼らの戦争行為から恩を受けてい《ない》としても*、その彼らの非行を責任として引き受ける、と語っているのである。しかしながら加藤は、例えば高橋が引いているレヴィナスの「わたしがしたのではないことに対する責任」(「哀悼」247)としてではなく、なぜ「われわれ日本人」の責任として過去の非行を引き受けるのか。ここは、やはり、そうした責任の引き受けを通して「戦後」日本の確立を図るためであると理解したくなるのであるが、そうであるとしても、それは、もはや「国民国家」日本の再建のためではなく、−−また、例えば宮崎哲哉氏の、マッキンタイア流の共同体主義で、国家と共同体を切り離して、その共同体の維持を説く行き方(『正義』135ff.,)とも異なって−−、いわば日本列島を自然的範囲とする一つの(諸個人の「私利私欲」実現のための)機能的集団を集団として「健康」に(=欺瞞を含むことなく)確立するためのものであろう。あるいは、悪であるという点で戦前の日本と現在の(われわれの)日本とがなお同質である−−例えば軍事的侵略と経済的侵略というかたちで−−という認識のもとで、過去の非行を、われわれがそれを現在なお犯しつつあるものとして引き受け、そこに生じるまさしくわれわれ自身の責任を問うているのかもしれない。 * 「世界戦争」では  「自分が日本人であって、日本にいることで何らかのおかげを蒙っている、僕はそういうことでの貸し借りを無しにしたいんですよ。」(51) と語られているが、この〈恩〉はあくまで「何らかの」〈恩〉であって、(祖国のための)戦争行為に〈恩〉を感じているわけでない。であるから、他方では戦争行為を行なった「死者に鞭打つ」ことが「評価」されることになるのである(同,55)。 [412] この解釈も可能ではあろうが、しかしながら加藤の真意は、おそらく次の箇所にある。  「わたし達は....謝罪の主体を用意することを、誰かに要請されているのである。/これは、ある批判者の指摘するようにたしかに国民の共同主体としての「われわれ」の立ち上げ、ということを意味する。しかし、侵略者であろうわたし達は、最低、そのようなことだけはする義務がある。侵略国の国民だとは、このように、無条件に個人だといえない場面をもつことではないだろうか。」(「戦後」299) つまり、  「日本人おかしいじゃないか、おまえたちがおかしいじゃないかと言われたときに、その「おまえたち」に合致する「われわれ」というものはもはやいないし、その「おまえたち」を引き受ける人はだれもいない。「敗戦後論」というのは、だったらおれが全部引き受けてやるよ、と書いたものなんですよ。」(「世界戦争」50f.) と語られているが、加藤は、アジアの人たちが戦後世代の私達個々人に対して(も)「あなたは日本人であるが....」と問うてくることに定位して、それをそのまま(=「日本人」として)引き受きうける、という立場に立っているのである。* ** * しかし、ここの議論は、西谷の場合の「日本人はこういうことをしてきた。われわれは日本人である。だから「われわれ」が謝らなければならない」(同,50)といういわば単純な〈三段論法〉同様、なお未展開であると考えられる。さらに、高橋の〈人類=人間として〉というのも同様である。我々としてもなお考えなければならないが、この加藤のスタンスに関しては、アジアの人たちが−−集合的に−−日本人《総体》を批判するとき、それはそれとして「国民国家」的枠組みで思考しているとも考えられるが、そうした告発に対してはむしろ批判すべきであるか、という問いを立てることができる。さらに次のような問題を挙げることもできる。1)例えば中国の政治家から「指導者」と「人民」とを区別して語られるとき、(いわばそれに甘えて)自分を「人民」として(のみ)規定することは、是か非か。2)(個々の戦争責任者の罪を問うのではなく)−−集合的人格としての−−「国家」の責任を問うことは、それもまた「国家」的発想となるのか。3)戦前の日本国家と戦後のそれとが別だと解しえた場合、戦後の国家が戦前の国家の責任をいかなる根拠をもって引き継ぐのか。(理論的応用問題として:明らかに別の国家となっている場合、例えば「日本人捕虜シベリア抑留」に対する旧ソ連の責任は、ロシアもまた引く継ぐべきなのか。ロシアはそうだとして、例えばウクライナはどうなのか。)−−いくつかは(国際)法的には答えが出ているであろうが、倫理的にはどう考えるべきか。 ** ここのところは哲学史的に、あるいはレヴィナス理解の問題として展開可能かもしれない。なぜなら、西谷の場合は、《同じく》レヴィナスに依拠して「他者の呼びかけに応えうる」「主体」として「日本人」を(、誤解をさけるために再び言うなら、責任が問われる非行をなした「主体」と同じ「主体」を)立てることを語っているからである。 五 「歴史形成の主体」をめぐって−−再び言うが、戦略論を−− [501] 「責任(引き受け)主体」論としては、これが加藤の結論であるであろうが、高橋陣営はこれを、明確に語られる「国民の共同主体としての「われわれ」の立ち上げ」というところを、かつ「国民国家を担う主体」として読み込んで批判するわけである。 [502] そして高橋は[306]で紹介したように、そうした主体形成に対して、アジアの人たち(「他者」)の声を聞くことによる−−「日本人」という悪しき主体を克服した−−いわば《真の》主体の形成を説くのであるが、しかしそれは、《あえて》悪意に理解するなら、例えば「従軍慰安婦」(という「他者」)の声を自らの「主体」形成のために《利用》することになるのではなかろうか。(その中身は異なっているが)高橋の方が「主体形成」に拘っているのであって、ここで高橋は「責任主体」の問題を別の論へとすり替えているのではなかろうか。 [503] 高橋は、[403]で挙げた鵜飼の主張を更に問題として、次のように展開している。  「ただ、問題は、その恥かしいという意識を、加藤さんの言葉を使えば、共同性あるいは同一性の方に回収していくのか、それとももっと公共的な方に開いていくのか。..../彼女[アーレント]はこう言っているんです。「....私は人間であることを恥じると答えようという思いにかられた。....」。....この「恥かしさ」は....実は「人類」の理念というものの可能性につながっている。..../要するにアーレントは、ここで....人間として恥かしいという感情にそうとう大きな「政治的」な意味を見出している。..../「人類」の理念だけがいかなる民族も排除せず、ナチ的な人種主義への「唯一の保証」である。..../....もし「人類」という理念に意味があるとすれば、人間は他民族が犯した犯罪にも責任を背負わなければならない、とアーレントも言っている。記憶し証言する責任はわれわれにもある、と書いた。」(「物語」140ff.) ここには、「責任」論としての展開がある。そしてその結論=「記憶」の継承の責任を、自ら行為として果たしてもいる。しかしながら、果たすべき「戦争責任」とは《この》責任であるのか。なるほど「忘却の穴」に対しては有効な対応だとしてもそれは、純論理的に見て「戦争責任」(そのもの)の引き受けであろうか。そこには、自らの「主体」を形成するといういわば「主体」論的偏向があるのであって、「責任」論(そのもの)としては問題を含むのではなかろうか。 [504] しかし他方、こう批判するなら高橋はあるいは、「二度と同じことを繰り返さない(ようにする)ことが本当に責任を果たすことである」という考え方を基に、「責任」を貫徹させるためにも真の「主体」を形成していかなければならない、と語るかもしれない。「責任」論は必然的に「主体」論へと展開していくというのかもしれない。そして、加藤が「歴史形成の主体」を語るとき、彼もまたこの展開を行なっているようにも了解しえる。 [505] しかしならがそうであるとして、加藤はやはり「国民国家を担う主体」の形成を説いているのか。「われわれ」がそういう「国民国家を担う主体」であるとしても、しかし上の引用文では、それは端的には、まさしく戦争責任をその責任が帰属する行為の遂行者と同じ主体として《まず》引き受ける(のみの)主体、「《戦争》責任」(のみ)を担う主体であって、(今後あるべき)国家形成の主体ではない。したがって、加藤が「歴史形成の主体」としてそうした国家形成の主体を説いているとしても、それは論理構成としては「責任」論における主体とは別である。「国民国家を担う主体」を説いていると批判するのであるならば、別の論拠に基づくのでなければならない。 [506] きわめて未消化のかたちで言われる「国益中心主義だ」という批判は、無意識にはこの〈論理構成の別〉に従ったものでもあるだろう。だが既述のように、そうした批判は「国民国家」批判としてはあまりにおそまつである。加藤の「私利私欲」の論−−高橋陣営も、「国民国家」批判としてこれを突いているだけである−−が〈社会論〉としてはおそまつであるのと対応しているのだと割り引くとしてもやはりそう言わざるをえない。そしてこれは実は、高橋陣営にとってはいわば本論であるとも言える「主体」形成論の(加藤からみれば)おそまつさをも帰結している。加藤によるなら、それは結局「清さ」を説いているに過ぎないのである。 [507] 「主体」形成論−−加藤においては「歴史形成の主体」論−−としては加藤は、そうした教説を「サロン思想」(「戦後」314)、−−内容的には上のような「他者の思想」(同、314)と表現されるものを加藤は主体の在り方の点でそう呼んでいる−−と軽蔑しつつ、おそらくそれを「子ども」の思想とも等置しつつ、次のように語っている。  「いま時代は国民国家のフィクション性が明らかになり、「国家」の枠それ自体が問われるところまできている。そうだとして、もしわたし達が無垢な十歳の子どもであるなら、いま、ここからはじめられるだろう。/しかし、わたし達は十歳の無垢で素朴な児童ではない。歴史を生きている。悪い戦闘を闘い、敗れるという経験がわたし達を大人にしたのである。/国民国家がいつか波打際に指で書かれた文字のように消えていく存在であると知らされて、そうか、それなら、そこから考えはじめられる[という]ような状況には、わたし達はない。....国民国家の消滅を眼で追いながら、しかし手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ事にあたる。これが、わたし達の姿勢だろうというのがわたしの考えなのである。」(「戦後」278) [508] これは、「内側から扉を開く」という戦略を「主体」の側面から説いたものである。したがって高橋陣営は、「主体」論としても、(正面からは)まさしく戦略論として加藤を批判しなければならないのである。「他者の思想」を批判して自らの立場を「自分がなければ、他者に出会えない、という考え方」(「戦後」314)」として対置する加藤を、単に「自己中心」として退ける(「物語」137)だけでなく、それを「実感」論、「私利私欲」論から−−方法的に−−切り離して、まさしく戦略論として、「主体形成」の在り方の妥当性をめぐって批判しなければならない。「物語」156における高橋の『レイテ戦記』分析は、この方向を示してはいるが、それもエピソード的なものにとどまっている。主体の在り方は他者との関係によって規定されるのだから、その変革は他者に正しく向かい合うことによって始めて可能なのであって、その〈正しく向かい合う〉というところから始めるべきなのか。そうした関係において在り方を規定されている現にある主体が欺瞞を含んでいるとき、他者に正しく向かい合うためにも、その欺瞞にまず立向かうことが必要であるのか。 おわりに [601] もう簡単に締めくくりたい。まず高橋氏の方が、その専門(哲学史)領域で発揮されているテクストの正確な読みを加藤の議論に対しても行なって欲しい。「哲学」とは、加藤の言い回しを用いてきつく言うが「清さ」を競うものではなく、何よりも〈正確さ〉を期待される学問であるからである。 引用文献・略号 『カント』  :アーレント『カント政治哲学の講義』法政大学出版局,1987 「物語」   :岩崎稔/高橋哲哉「「物語」の廃墟から」『現代思想』1997年7月号 「記憶」   :上野千鶴子「記憶の政治学」『インパクション』103号,1997 「もうひとつ」:大越愛子「もうひとつの「語り口の問題」」『創文』1997年4月号 「考え方」  :加藤典洋「考え方の順序」『Voice』1992年10月号 「明治」   :同「戦後を渡って明治の中へ」『言語文化研究』(立命館大学)6巻3号,1994 「敗戦」   :同「敗戦後論」『群像』1995年1月号 「岬」    :同「「日本人」の岬」『へるめす』56,57号,1995年7,9月 「戦後」   :同「戦後後論」『群像』1996年8月号 「語り口」  :同「語り口の問題」『中央公論』1997年2月号         同『敗戦後論』講談社,1997 「あとがき」 :同上書所収「あとがき」 「川本」   :川本隆史「自由主義者の試金石、再び」『みすず』1997年9月号 「読む」   :佐藤亜紀/福田和也/松原隆一郎「書評鼎談 「戦争」本を読む 2」『Ronza』1995年10月号 「すが」   :すが秀美「文学を擁護し、詩を保守する」『現代詩手帖」1997年9月号 「汚辱」   :高橋哲哉「汚辱の記憶をめぐって」『群像』1995年3月号 「哀悼」   :同「《哀悼》をめぐる会話」『現代思想』1995年11月号 「雑誌」   :中西輝政/橋爪大三郎/山下悦子「雑誌を読む」『毎日新聞』1995年7月25日 「悪」    :中野敏男「悪の存立と社会関係の可能性」『日本倫理学会第48回大会 研究発表要旨』1997 「世界戦争」 :西谷修/加藤典洋「世界戦争のトラウマと「日本人」」『世界』1995年8月号 『正義』   :宮崎哲哉『正義の見方』洋泉社,1996 「山城」   :山城むつみ「了解の上と下 加藤典洋『敗戦後論』」『群像』1997年10月号 「前稿」   :安彦一恵「「歴史観」闘争」『DIALOGICA』No.5,1997 version 1.00 1997/11/06