「私」の同一性

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

滋賀大学大学院教育学研究科

教科教育専攻 社会科教育専修

3746 谷本麻紀 

 

 

≪目次≫

 

 

0.はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

 

1.私の同一性の基準

 1-1 身体的基準 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 2

 1-2 心理的基準 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 4

 

2.架空のケースから

 2-1 ウィリアムズの思考実験 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 7

 2-2 ウィリアムズのケースからの発見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 9

 2-3 パーフィットの思考実験 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・12

 2-4 パーフィットのケースからの発見 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・13

 

3.我々の自己同一性観についての考察

 3-1 All or Nothing ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15

 3-2 数的な同一性 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16

 3-3 Only x and y Principle ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18

 

4.おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・19

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

0.はじめに

 

我々は普通、私の存在は過去から現在、そして未来へ、同じ人として持続していると考えている。ゆえに日常生活において私の同一性は当たり前のことであって問題にならない。しかし、厳密には私の存在は変化に満ちている。身体の細胞は日々更新されていくし、心も移ろえば記憶も薄らいでいく。プラトンの『饗宴』[1]ではすでにこのような事態が描かれている。

  動物の各個体が生存しそして同一のものであり続けると呼ばれる間、―たとえば、人は幼児から老人となるまで同一人と呼ばれます。まったくの話、その者は決して同じものを自分のうちに持っているのではないのに、しかも同一人と呼ばれますが、その実、髪でも肉でも骨でも血でも、いや、身体(からだ)の全部において、常に若返っているとともに、他方では失うものもあるのです。しかも、それは肉体に関してだけのことではないのであって、魂に関してもまた、性向、人柄、意見、欲望、快楽、苦痛、恐怖、これらはいずれも同一不変のものとして各人にあるのではなく、そのあるものは生じ、あるものは滅びるのです。しかしそれよりもはるかに奇異なのは、じつに知識といわれるものの場合です。つまり、わたしたちの内においてそのあるものは生じ、あるものは滅び、したがってわたしたちは知識に関しても決して同一不変の者ではないのですが、単にそれだけではなく、さらにそれらの知識のどれであれ一つ一つがまた同じ〔たえざる変化の〕状態にあるのです[2]。(207D208A

 このような変化の方に全面的に目を向けると、ヒュームが言うように、私の存在は「観念の束」でしかなく、そこに同一性や連続性は全く見出せなくなる。しかしこのように結論したからといって、日常生活をこれで通すことはできないし、実際私たちはそのように行動してはいない。昨日私が借りたお金は今日、やはり私が返さなくてはならない。では昨日の私と今日の私の同一性は他者と関わり、集団で生活していく上での約束事でしかないのか。これもまた私の直観とはかけ離れた結論である。そう、私の同一性とは私の直観であり、決め事としてまわりから押しつけられたものでもなければ法律の条文のように学びとったものでもない。ではこのような変化を自覚してもなお、私という一個体が過去から現在、未来へ、存在し続けているという確信には根拠があるのだろうか。

 

 

1.私の同一性の基準

 

1-1 身体的基準

 通時的な自己同一性の基準として、我々が最も日常的に、素朴に信じているのは身体である。何よりまず我々はこの身体的基準を、自己よりも他者の同一性を判断する場合に用いている。時点t1における人物P1t2におけるP2の身体が同じであればこのP1P2は同一人物であるとするこの基準は、人物の同一性を物の同一性と同じに見る見方である。ただし、身体は日々移り変わる。細胞は常に新しいものに置き換えられ、十年前の私を形づくっていた細胞は、今この私の内に残っていないだろう。では身体が同じであるというとき、我々は身体を形づくっている素材ではなく、何を指して同一であると言っているのか。

この問いは「テセウスの船の難問」として伝統的に論じられてきたものであり、ここではノージック[3]によるものを取り上げる。「船の厚板が時間の間隔をあけて一枚一枚取り外され、それぞれの板がその都度新しいものに取り替えられる。その取り替えは船を以前と異なるものにはしない。時が経てばそれぞれすべての板が取り替えられるが、しかしもしこれが徐々に行われるのならその船は同じ船だろう。時間を貫くものの同一性はそれがすべて全く同じ部分を保持することを要求しないということは興味深い結果であるが、しかしよく考えるとそれほど驚かせるものではない。しかしながらこの話には続きがある。取り外された板が丁寧に保管されていることが判明する。そしてそれらは元の船のように組み直される。二つの船が水の上に並んでいる。ギリシア人はどちらが元の(original)船かと訝った[4]」。我々はこの問いに対してどのように答えるだろうか。この話に対する応答は、身体的基準の中身を明らかにしてくれる。私の身体は日々変化するのにそれでも同一であるというとき、我々はその材料ではなく形、枠組みに同一性の基準を置いていることになる。船の例の場合、厚板という材料は取り替えられつつも一定の形、機能を時空的に保持し続けたことが船の同一性を支えていると我々は考えているのではないだろうか。

このように人物の同一性の身体的基準である物質的なものの同一性の本質について考えると、身体を形づくる材料にではなく、DNAパターンなど、物質の変化を含んだ形相、形式の同一性にその基準を置いているように思われる。しかし、この形式の方を強調してしまうと個体性が薄れてしまうという事実も否定できない。例えばこの船の例において、形式を重視するということは船の設計図、機能の同一性が問われることである。船の厚板一枚一枚の同一性が問われることがないのはもちろんのこと、徐々に取り替えられようが一気に取り替えられようが問題にならない。極端に言えば、その設計図をもとに同時に何艘も同じ船がつくれることになってしまう。そうなってしまうと私の同一性という問題の本質からずれることになる。つまり、私の同一性の基準を身体的なものに置くと、その形相の同一性という所へ行き着くが、実はその基準を採用しても「どちらが元の船か」ということが決めがたい。その先には私という「種」の同一性しかないからである。そうではなく、そこにあくまで私という「個」の同一性、私の唯一性という意味が含まれなければならないのである。

 

1-2 心理的基準

身体的基準の行き詰まりに直面して、ならば内側から、一人称的視点で私の同一性の問題を考えるとどうなるだろうか。つまり、現在二十四歳の私が二十年前の四歳の頃の記憶を持っているということが私の同一性を支えうるかということである。このように意識、記憶の連続性に私の同一性の基準があると考えたのはロックである。ロックはその著書‘An Essay Concerning Human Understanding[5]の第二版で付け加えられた第27章‘Of identity and diversity’において、人間(man)の同一性と人格(person)の同一性を区別し、論じている。人間(man)の同一性とは、簡単に言えば生物としての人間身体の同一性である。

  私たちの心にある人間の観念(the idea in our minds, of which the sound man in our mouths is the sign)とは、人間というそういった一定の形状の動物の(of an animal of such a certain form)観念以外の何物でもない。なぜなら私の考えでは、誰でも自分自身と同じ形の生き物を見れば、たとえそれが猫やオウムより理性的でなくても人間と呼ぶだろうし、また猫やオウムが話したり、推論したり、哲学的思索をしているのを聞いたとしてもそれを猫やオウム以外のものとは考えないだろう。あくまで前者は愚鈍で非理性的な人間だし、後者はとても賢い理性的なオウムである[6]

 これに対してロックが述べる人格(person)とは、「思考する知的な存在者(a thinking intelligent being)」、つまりそれは「推論および反省の能力をもち、自分自身を自分自身と考えることのできるものであり、また時と場所が変わっても同一の思考するものである。そしてこのことは思考とは分離できない意識によってのみ可能であり、その意識は思考にとって本質的なものである[7]」。さらに、この意識こそが人格の同一性をつくりだすということはどういうことなのだろうか。「意識がいつも思考に同伴し、この意識がすべての人をその人が自分と呼ぶものにさせ、これによってその人自身を他のすべての思考するものから区別するから、この意識によってのみ人格の同一性、つまり理性的な存在者の同一性が成り立つ[8]」。

 このように人格の同一性の根拠を意識に置くということが可能なのは、自分自身の同一性を確認する場合、つまり一人称的な視点で自己同一性を確認する場合であるように思われる。ゆえに、ここにおいて「人格」という言葉は「私」と言い換えることが可能である。しかしここで重大な見落としに気付く。意識に中断はつきものである。私の同一性の根拠を意識の連続性に帰すということはつまり、この意識が過去に遡れるところまでを同一であるとすることであるが、これではとても頼りない。睡眠や忘却、泥酔などによって意識からもれた部分に私は存在しないことになってしまうからである。

 この記憶基準の欠陥に対する逃げ道として、「実体」という概念を導入することもロックにとっては可能な方法だった。意識は中断していてもその基底に同一なもの、実体があるとすればその欠陥を補うことができる。ロックは実体の観念として三種類挙げている。一つは神―これについて同一性は疑い得ないとしている。二つ目が神と区別される限りでの有限な知性(精神)―これについては時と場所の関係が同一性を決定するとしている。そして三つ目が身体―この物質を構成している粒子が増減しないとき同一であるとしている。しかしロックは私の同一性を実体の同一性から明確に区別し、記憶基準の補強として実体を置くという方法を採らなかった。

我々は意識が中断され、過去の自分を見失うので、我々が同一の思考するもの、すなわち同一の実体であるか否かという疑いが生じる[9]

私の同一性は同一の意識にのみ拠っているのであるから、その意識が一個の実体と結びついていようと、あるいはいくつかの実体の連続性を通じて継続することができようともどちらでもよい[10]

私の同一性と実体の同一性の区別において、ロックは二つの問いを立てている。一つは、異なる二つの実体にまたがって同じ私があるかというもの、もう一つは反対に、精神的実体は同じにとどまりながら、異なる私(人格)であることが可能か、というものである。前者の問いに答えるためには、過去の行動の意識は一つの思考する実体から他の思考する実体に転移できるかどうかということについて考えなければならない。我々が「過去の行動を意識する」というとき、それは現在無いものを意識の内に現しているのだから、実際には存在しなかった行動が私の意識にのぼるという可能性も完全には否定できない。他の人がしたことを自分がしたことにように、自分の意識に映し出すということもないとは言い切れない。すると、同じ意識が保たれるところに私の同一性が成立するというロックの定義からは、二つの思考する実体が、同じ私であるという可能性も否定できない。そう結論しておきながらも、結局ロックはこの問題を神の善意に帰着させることをベストとする曖昧な判断を下している。「神は、彼の創造した心あるもののどれかの幸、不幸が関係するかぎり、それら創造物の致命的な誤りによって、賞罰を伴うような意識を、ある被造物から他の被造物へ転移し、自分が行わなかったことの意識で罰せられる不幸に陥らせるような無慈悲なことをしないだろう[11]」。これに対して二つ目の問いは、言い換えれば、過去の存在の意識をもたなくても、同じ精神的実体であることは可能かということである。前世を認める人は、この問いに対してYesと答えるだろう。ただしそういう人でさえ前世の行動の意識をもっておらず、私の同一性は意識の届く以上には届かないから、そんなに長い間無意識状態で、継続しなかった前世の精神は異なる私(人格)を形成するに違いないというのがロックの考えである。またさらにその前世の意識をもっている場合として、「復活」についても述べている。この場合、同じ意識がその復活者に伴うから、たとえこの世においてもっていた身体と全く同じでなくても、同一の私(人格)であると考えることができる。

 このように人格と実体を区別した上で、自己は意識に基づくのであって実体には基づかないということを明言している。「過去および過去の行動の意識をもつものはすべて同じ私であり、過去と現在の行動はともにその私に属する[12]」。つまり、「私が〜した」「私が〜している」という意識は「私の」意識として「自己」に収斂される。そしてその「自己」が精神であろうが身体であろうが、どんな実体と結びついていようとそれはまた別の話であるし、またそもそもそのような実体の存在を確認する術を我々は持っていないから、実体という概念自体が空疎なものとして扱われている。

 そして最後に、ロックは興味深い議論を残している。この「私(人格)」は法廷用語であるというのである。「私が用いる意味では、私(人格)は自己に対する名前である[13]」。「この語は、行為とその報酬に充てられる法廷用語であり、それゆえに法律と、幸、不幸を受け得る知的行為者にのみ属する。この私は、ただ意識によってのみ現在の存在を越えて、過去のものへ自分を拡大する[14]」。この考えでは賞罰は私(人格)に帰されるのであるから、その根拠に意識を置くのであれば、自分が意識していないこと、覚えていないことに対して責任は負わされないことになる。酔っ払って罪を犯した場合、しらふに戻った私がそれを覚えていないなら、私は罪に問われない。しかし、罪を逃れるために覚えていないと嘘をつく可能性もあり、本当に覚えているか否かを他人が判断することはとても難しい。このことについてロックは、人間の法では真と偽とを確実に区別できないから、酔っ払ったり眠ったりしたときのことを自分に関わりのないこととして弁明することは認められないという現実的な判断を下しつつも、最後の審判の日には自分の何も知らないことに対する責任は負わされないだろうということでここでもやはりその保証を神に求めている。

 このようにロックは、私の同一性の根拠を実体から区別し、意識や記憶に置きながらも、その不完全な部分の保証を結局は神に頼っている。現代の我々には、このような形で神を持ち出すことに抵抗がある。しかしロック以前の哲学者たちにとってこれは特別不自然なことではなかった。当時、不死なる魂というものが私の同一性の根拠として挙げられていたのである。ロックが述べる精神的実体も、言い換えればこの魂である。ロックによってこれら精神的実体、魂は確認しようのないものとして棄却された。その意味でロックは現代的な自己同一性観を唱えた先駆者であるとも言える。しかしロックの場合でさえ、神を外すといろいろ問題が生じてくる。これが私の同一性の問題の起源であるように思われる。

 

 

2.架空のケースから

 

2-1 ウィリアムズの思考実験

 では実際、我々は私の同一性というとき何を信じ、何を拠り所にしているのだろうか。ロックの文章を読む限りにおいても、記憶だけに私の同一性の基準を置くことには無理があるということを我々は容易に確認できる。では、このような記憶基準の欠陥を踏まえつつも、我々は以下のようなケースに対してどのような考えをもつだろうか。

ウィリアムズは‘Problems of the Self[15]の第4章‘The self and the future’において、以下のような架空のケースを想定し、考察を始めている。

 A、Bそれぞれの人物の脳から記憶情報を引き出し、それを互いに相手の脳に置き直すという実験をする。実験後、Aの身体とBの記憶をもつ人物をA-body-person、Bの身体とAの記憶をもつ人物をB-body-personと呼ぶこととする。実験後、一方に大金を与え、他方に拷問にかかってもらうということをA、B両者に実験前に告げる。そしてその賞罰をどのように配分したいかということをA、Bに問う。

このような設定において、自分がAだとすれば、A-body-personB-body-personにどのように賞罰を配分するだろうか。ここで問われているのは、未来の自己を自分の身体に置くか記憶に置くかということである。

例えばAはB-body-personに賞を、A-body-personに罰を与えることを希望し、BはA-body-personに賞を、B-body-personに罰を与えることを希望するとしよう。するとここでは両者とも記憶の方に同一性の基準を置いていることになる。この場合実験者は両者の意に沿うことは出来ないから、仮にA-body-personに賞を、B-body-personに罰を与えることに決める。実験後のA-body-personBの記憶をもっているから、この場合自分の選択が受け入れられたことに加えて、今現在大金をもらえているという二重の喜びがある。反対に、実験後のB-body-personには二重の失望がある。ここにおいて、A-body-personBと、B-body-personAと同一視されている。また他のパターンとして、実験前ABがそれぞれ自分の身体の方に自己を投影―AA-body-personBB-body-personに賞を配分―したとしても、結局実験後にAの記憶を持つ者こそがAなのであるから、Aは自分の視点をB-body-personに、BA-body-personに置くことになり、自分の身体を気遣った選択が裏切られる結果となり、結局自己を記憶の方に置かざるをえないという結論は同じとなる。したがって、実験前のABにとって、未来の私に起こることを気遣うことは必ずしもこの私の身体に起こることを気遣うことではなく、自己というものを身体に置いていないということがわかる。<ケースT>

 我々はロックの帰結から、自己同一性の根拠を自分の記憶だけに置くことには無理があることを悟ったにも関わらず、ウィリアムズのこのようなケースにおける選択にその教訓が生かされていないのはどういうことだろうか。ただしこのケースの特殊なところは、未来の自己を問題にしている点である。ロックは未来の私の同一性までは問題にしていないので、その点は考慮に入れつつ、次のケースへ移ろう。この<ケースT>は一見完結した議論ではあるが、実はウィリアムズはこのような結論を主張したかったのではなく、これと類似のケースを導入し、このような結論に対して問題提起をしている。

ある人物Aは明日拷問を受けることになったと告げられる。Aが恐怖を感じるのは当然のことのように思える。でも大丈夫、拷問を受ける直前にあなたは記憶喪失になる手術を受けることになっているから、と続いて告げられる。この知らせはAの恐怖を和らげるだろうか。次に、記憶喪失だけでなく、ある種の性格変化、例えば苦痛に対する耐性が増すなどの変化が起こるということを告げられればどうか。それでもまだ恐怖を感じているとして、ではこれに加えて、架空の記憶と性格をAに植付けるというのはどうか。また、その記憶、性格が架空のものではなく、Aが憧れるような特定の人物Bのものに合わせられたものであればどうか。次に、その記憶、性格がBの脳から引き出されたものであり、またBは以前のままの状態であればどうか。最後に、Bがそのままの状態にあるのではなく、BにAの記憶、性格が植付けられればどうか。以上をまとめると次のようになる。<ケースU>

1.Aに完全な記憶喪失を引き起こす手術を施す

2.記憶喪失の上に他の干渉がAの性格に変化を引き起こす

3.記憶喪失、性格変化の上に、架空の記憶をAに植付ける

4.記憶と性格両方を実在の人物Bに合わせて植付けることを除いて上記3と同様である

5.Bの脳からその記憶と性格をAに写し、Bはそのままであることを除いて上記4と同様である

6.Bがそのままではなく、Aのもともとの記憶と性格がBに移されることを除いて上記5と同様である

 <ケースT>において、Aはその身体をあっさりと捨てて、Bの身体の内にAの視点をその記憶とともに維持しつづけた。ゆえにAの身体に起こるであろう苦痛を自分のものとは受け取らなかった。では、<ケースU>においてはどうか。明日拷問を受けるのはAの身体である。記憶や性格が変わろうともそれに恐怖を感じるということは、その記憶や性格ではなく身体の方にAの視点を置いているということになる。ところがこのケースの最終的な状況は、<ケースT>の身体交換と同じである。しかし両ケースに対する我々の反応は確かに違う。最後にBの身体にAの記憶と性格が移されたとき、恐怖は拭い去れただろうか。拭い去れないとすれば奇妙である。

 

2-2 ウィリアムズのケースからの発見

 これらのケースは同じ状況についての異なる描き方なのか、だとすれば我々の反応が異なるのは描き方の違いによることになり、どちらが正しい描き方なのかと問うことも可能である。いや、描き方の問題ではなく状況自体が違うのだとすれば、実際どういう違いがあるのかが問題になる。ウィリアムズ自身はあくまでこれは同じ状況であるとした上で、これらのケースの描き方について二点、注意を促している。まず一つは、<ケースU>において、拷問はあくまでA(私)に起こるものとして描かれていたこと、そしてもう一つは、<ケースU>においては最後の段階まで他者、つまりBが登場しないことである。一つ目の点について説明すれば、拷問についての予期と、記憶や性格が変化するということについての予期があるのだが、後者の予期が前者の恐怖を打ち消さないばかりか、後者の予期そのものが恐怖として働くということである。自分が自分でなくなるということの恐怖がここにはある。二点目については、<ケースT>においてAの視点と同一視されていたAの記憶と性格の行き場が<ケースU>の初めでは用意されていない。<ケースT>ではBが重要な役割として利いていたのだが、<ケースU>でのBの登場は取ってつけたような印象を与える。しかし、5と6の間に本質的な違いはあるのだろうか。5のA-body-personと6のA-body-personに何ら違いはない。違うのはB-body-personAの記憶と性格が移されるか否かである。このB-body-personにおける変化がAの予期に影響を与えるものなのか。6の結果だけをとってみると、これは<ケースT>と同じだから、A-body-personAではなくB-body-personAである。すると、5と6のA-body-personに違いはないから、5のA-body-personAではないことになる。こうして見ると、5から1へ段階的に遡って考えていく中で、どこでA-body-personAでなくなったのかということについて確信が持てなくなる上に、1から6へという過程でもABという別人になったという見方ができず、あくまでAが異常をきたしたのだという考え方から抜け出せないので、Aに対する予期の恐怖から解放されない。

 <ケースU>においてこのように恐怖が拭い去れないことの原因をさらに追求するとどういうことになるだろうか。<ケースT>では身体交換する前の現在の私が未来の私に配慮するという構図、そして身体交換後の未来の私がその現在の私の配慮を受け止めるであろうという想像が、現在の私と本来未決定である未来の人物を同一の「配慮」を通して同一人物としてつないでいる。その根底には未来への配慮には意味があるという確信があり、またつないでいるのが「配慮」なだけに、身体と記憶をきっちり分けたこの状況下では記憶の方に未来の自己を見るという道筋が強められたのではないのだろうか。これに対して、<ケースU>では<ケースT>においてなされたような記憶の方を強める要素がない。<ケースU>の1で完全な記憶喪失になるだろうという宣告が未来への配慮を無意味なものにしてしまっている。もともと「未来の私」に配慮するということは現在の私による想像でしかない。ならば未来に起こるであろう出来事を想像し心配するということは無意味な取り越し苦労であるとも言える。しかし我々はそうすることを止めない。こうすることで我々は現在から未来への私の存在の持続を暗黙の内に確認している。しかしこの<ケースU>では、その確認手段である想像、未来の私への配慮自体が記憶喪失ということで真っ先に否定されている。想像が断たれることは未来が断たれることであり、それは死を意味する。ここでは未来を気遣うことに意味がなくなる。

我々は習慣的に身体と記憶を区別して考えている。しかし実のところ、我々は両者を区別しているだけで切り離して考えてはいないのではないか。例えば<ケースT>のABがそれぞれ少女と老紳士であればどうだろうか。A-body-personは身体は少女であるが記憶は老紳士のもの、B-body-personは身体は老紳士であるが記憶は少女のものということになる。この実験後の生活を長期的に眺めると状況は変わって見える。A-body-personを例に考えてみると、記憶は老紳士だから最近の生活では活発に運動することなどなかったであろうが、今体を動かしてみると思いがけずよく動くし、また女性の身体を有することによって行動様式もそれまでのものとは違ってくるだろう。こんなにも身体が変わってしまうと、今自分が持っている老紳士としての記憶が実際生活において使い物にならず意味を持たなくなる。すると、本人にとっては記憶の方こそが夢のように感じられ、現在の身体に合わせて、新しい経験と調和する部分は残り、調和しない部分は薄れるという風に、意識や記憶が変化していくのではないだろうか。

実はウィリアムズもこのように身体が変わりすぎた場合のことを意図的に隠すというトリックをはじめから認めていた。

もし、以前のABがお互い身体的にも心理的にも極端に異なり、また性別も違った場合、Aの身体の振舞いの内にBの性格を読み取ることはとても難しい。さしあたって、そのような困難が生じない程度にABは似ているとしよう。つまり実験後ABの知人が、かつてAのものであった身体の振舞いは完全にBの性質として、Bのものであった身体の振舞いはAの性質として受け取る程度に両者は似ているとする[16]

このことを考慮に入れると、一見トリッキーに見える<ケースU>よりもむしろ<ケースT>の方にこそケースの描き方における危うさが見えてくる。ここにおいてウィリアムズは、我々は普通自分自身をその身体よりも記憶や性格の方に置きがちであるが、その傾向が表れるのは<ケースT>のように三人称的な視点で、無頓着に選ばれたときであって、<ケースU>のように一人称的な視点で、深刻に検討していくと自分自身を身体の方に置いてしまうという矛盾を指摘している。これは自己を捉えるにおいて身体を軽視していることに対する警告であるとともに、記憶と身体を別々に、切り離して考えることの限界を示唆している。

ここで言えることは、身体とは現在である、ということである。ならば「現在の私」と言うとき、身体だけで十分かといえばそういうではない。その「私」には中身がないからである。そこに内容を与えるのが、意識であり記憶である。身体の働き、それはある重みをもって、意識を時空的に「今、ここ」という場所につなぎとめることにある。言い換えれば、意識に「今、ここ」という現実的な存在を与えるのが身体である。意識は空間的広がりをもたないが、時間的幅をもつ。しかしその視点はあくまで身体を伴う現在にあり、現在の意識が、過去や未来を意識するという形になる。ただし現在の私にとって、過去の私と未来の私は等置されていない。未来の私とは、純粋に、現在の意識の産物であるのに対して、過去の私とは、かつて身体を伴ったという実績とともに、現在の私に内容的幅を与えている。つまり先に述べたように、現在の私に意味を持たせているのは、現在から過去への意識、記憶である。では反対に、その意識や記憶だけで私であるに十分かといえばそうではない。身体の意味とは意識や記憶に時空的位置を与えることであり、これによってはじめてその意識や記憶に「唯一性」という価値が授けられる。テセウスの船の例の場合、厚板という材料は取り替えられつつも一定の形を時空的に保持し続けたことが船の同一性を支えているのであって、最後に登場した船は材料、形こそは同じであるが時空的に連続性を持ち続けておらず、その船には船として当然あるべき歴史がない。つまりその船が時空的連続性をもってどこを航海したのかというところに、人間でいうところの身体の連続とそれに伴うその歴史としての記憶が存在し、そこに時空的、内容的に唯一のものが存在し続けていると言いうる理由があるように思われる。ただしそれを他人が確認するのは難しいということも事実である。元のテセウスの船を知っている人がその修復の過程を知らず二艘の並んだ船を見た場合、その材料や形だけを手がかりに後から復元された方の船を同一のものと見なすだろう。人や物を見ると、その背景には過去からの時空的連続があると見るのは人間の特性であるが、それはこちらがそう勝手に見込んでいるだけで、我々はその対象にじっと張り付いているわけではないので本当のところを疑い出せばきりがない。たとえじっと張り付いていたとしても、まばたきしている間に世界が変えられている可能性も否定できない。船の例では、身体的基準を突き詰めていくと私の同一性という問題にとって重要な「唯一性」が損なわれるという結論に達したが、精神をもつ人間にとっての身体の価値とは、そこに行き当たる。私の身体は私に時空的に唯一の位置を与えてくれている。ただし身体だけでは中身がない。その中身を埋めるために意識や記憶が重要なのだと言ったとき、しかしその意識や記憶に時空的位置を与えているのは身体なので、すでにそこには身体が前提されている。身体と記憶を切り離せないことの理由はここにあるように思われる。

 

2-3 パーフィットの思考実験

 では私の同一性の根拠を私の身体や記憶に個別に帰すことは難しいと判明した今、そもそも根本的に私の同一性は私の存在に本質的なものであるのかという問いが挙げられる。あくまで本質的なのだと言い張るなら、私の記憶や身体以外にそれを帰しうるものがあるのかどうか検討しなければならない。否、本質的でないのだと結論するのなら、それは我々の直観を否定することになるが、新たな問題として、私の存在に私以外の他者の存在の有無が関わりうるものなのかという問いが発生する。先のウィリアムズのケースにおいて5と6の間で違いができるのは奇妙に思われたのはこの問題と関係する。パーフィットはこのことに関連して、『理由と人格』[17]の第10章‘われわれは自分自身を何であると信じているのか’(What we believe ourselves to be)において、以下のような装置をつくりだし、思考実験をしている。

 遠隔輸送機のボタンを押すとこの私は意識を失う。と同時に、その装置は私の身体を破壊しながら私の細胞情報をスキャンし、その情報を火星に送る。火星にある受信機はこれをキャッチし、私の身体の完全な複製をつくる。火星で目覚めたその人物Mはボタンを押す瞬間までの私の地球での記憶をもっている。とすると、私は地球から火星へ移動したのだと考えられなくもないだろう。遠い未来において、このような仕方で宇宙旅行をする人も出てくるという可能性も否定できない。Mは遠隔輸送機に入りボタンを押すまでの記憶を持っているのだから、地球にいた私とMとの間には心理的な連続性が保たれている。そればかりかDNAはもちろん、身体も同じである。そして何よりMはこれまで地球で暮らしてきた私と同じ人物であると思っているし、それまで地球にいた私はもうそこには存在しない。

 しかしこのケースにおいて、私が装置に入り、その身体が破壊され意識が消滅したとき、私はすでに死んでしまっていたのではないだろうか。この場合、Mはあくまで私の複製であって、私ではない。この意見は上記のケースの(パーフィットによる)変形を考慮に入れた場合一層支持されるように思われる。

 新しいスキャナーの前回との違いは、私の身体を破壊せずにその細胞情報をスキャンできる点にある。ゆえに地球にいる私と火星にいる人物Mとの生が重なって存在することになる。

 第二のケースを考慮に入れた場合、初めのケースにおいてMを私であると考えた人は動揺するだろう。そもそも第一のケースにおいても、私の身体が破壊された時点で私は死んでしまったのだと考えられたはずである。両ケースともMのつくられ方は同じであり、Mと地球にいた私との関係に何ら変わりはない。なのにその関係以外のところで、スキャナーが地球にいる私の身体を破壊するか否かによってMが私であるか否かが決定されるという判断を我々は受け入れることができるだろうか。

 

2-4 パーフィットのケースからの発見

 先のウィリアムズのケースも含めて、このような空想的な想定そのものをはじめから拒否する人がいるかもしれない。このような想定から出発することにどのような意味があるのだろうか。まず言えることは、このようなケースを考える私の内に、日常生活においては表出してこない、自分自身についての信念を発見することができるということである。私自身が持続的に存在しているということの中に含まれる真実、真理はこのようなケースを考察しても明らかにならないかもしれない。しかし、我々がどのように考えているのかということについての発見はある。一つは、この火星の人物Mは私であるか否かという問いに対して、YesNo、答えは二つに一つであると我々は考えていることである。Mは私と心理的連続性は保たれているが、身体は一度電気信号に変換されているので通常の意味での時空的連続性は保たれていない。この点を考慮して、では半分私で、半分私でないと言うことはできるだろうか。おそらくそのような結論を下す人はいないだろう。第二に、我々が「私の同一性」を問題とするとき、質的な同一性ではなく数的な同一性を、つまり火星のMがいくら地球の私と質的に同じ記憶、身体を有していてもそれだけで同一であるとするには十分ではなく、それら質的な要素が時間の中で変化してもなお個体として同一であるというというときの数的な同一性を問題にしているということである。このことをパーフィットはビリヤードの球を例に挙げて説明している。「二つの白いビリヤード球は数的には同一でないが、質的には見分け難いほどよく似ている。もし私が両者のうち一つを赤く塗るならば、今のこの赤い球は昨日のその白い球と質的に同一でないだろう。だが私が今見ている赤い球と私が赤く塗る前の白い球とは数的に同一である。それらは同一の球なのである[18]」。「私の同一性」をこの数的な同一性と見た場合、これは通時的な自己同一性[19]と呼ばれる。最後に、Mが私であるか否か、つまりMと装置に入る前の私の同一性は、その時点の私とMの関係以外のところで決定されるようなものではないという信念である。火星にいるMと同時点に地球に存在する人物の生死によって、Mが私であるか否かが決まるのはおかしいと我々は直観的に思う。この直観は正しいのだろうか。それを説明するものとして再びウィリアムズの、しかし別の論文[20]から「生まれ変わりを主張する人」の例[21]を取り上げよう。「チャールズが目撃したと主張する出来事、なしたと主張する行動すべてが、過去に実在したある人物、例えばガイ・フォークスの生涯と一致したとする。またその記憶主張は、一般的には知られていない、ガイ・フォークスでなければ知りえないようなものも含んでおり、それに不自然な部分はない。ここでチャールズとガイ・フォークスは同一人物であるように思われる。そういうことは絶対にありえないと言い張ることは難しい。しかし、もしチャールズがそのような変化を受けることが論理的に可能なら、それと同じ変化が同時に兄のロバートにも論理的に起こりうる。この場合、両者がともにガイ・フォークスであるということはありえない。もしそうなら、ガイ・フォークスが同時に二つの場所にいることになってしまうし、また両者が同一人物だということもばかげている。またどちらか一人がガイ・フォークスで、他方はそっくりさんであるとすることも空虚な策であり、この話の前提条件からして、どちらをガイ・フォークスとするのか、その基準がない。とすると最善の道は、両者ともが不思議なことにガイ・フォークスのそっくりさんで、千里眼的に彼について知っているのだとすることである。ではもしこれが一番まともな説明だとすれば、チャールズだけが変化した場合も、チャールズはガイ・フォークスの生まれ変わりではなく単なるそっくりさんであるというのが一番まともな説明になるのではないか。なぜなら、チャールズだけが変化した場合のチャールズとガイ・フォークスの関係は、チャールズとロバートが変化した場合のチャールズとガイ・フォークスの関係と全く同じである」。以上から、兄が登場しなかったケースにおいてもチャールズはガイ・フォークスではなかったという推論が可能になるが、それはチャールズがガイ・フォークスであるか否かは両者の関係だけで決まるはずだという考えがその背景にあるからである。ロバートの登場次第でチャールズがガイ・フォークスであるか否かの決定が左右されるのはおかしいと我々は考えている。ここにはonly x and y principle[22]という常識、つまり、ある時点での人物xが後の時点での人物yと同一であるのは、あくまでxとyのみの事実によるのであって、第三者zの存在による影響は受けないという我々の確信がある。このように、通時的な自己同一性の根拠は私自身の内(ある時点での私と他の時点での私)にあるという確信の一方で、その確信が他者(第三者)の登場によって揺らぐはずではないのに揺らいでしまう。パーフィットのケースにおいて、初めは火星のMを私であるとしながらも、実は地球にいる私の身体は破壊されていなかったということを聞いて意見を変えた人はその確信が揺らいでいる証拠である。その他者(第三者)とは、ここでは必ずしも私とは全く別の人物ではなく、私の身体的な部位を有していたり、記憶が同じであったりと、私とよく似た存在なのだが、その揺らぎの内に、私は私自身の同一性の根拠を何に置いていたのかという内省をはじめる手がかりがあると考えられる。

 

 

3.我々の自己同一性観についての考察

パーフィットのケースから、我々の自己同一性観の背景にある信念が三つ発見されたが、これらは本当に根拠のある信念なのかそれぞれに考察する必要がある。

 

3-1 All or Nothing

まず一つ目は「火星のMは私であるか」という問いに対して、YesNoで答えられるという信念についてである。未来の人物を問題にしているということで、いくらその人物の原因が現在の私のうちにあるということを言われても、現在の私にとって未来とは不確定であるということから、この問いに対して「わからない」と答える人がいたとしても、時点を現在だけに絞ると私と他者との区別は絶対的なものであり、ある人物が私であるか否かという問いに対して選択肢はYesNoのいずれかであると我々は考えている。しかし本当に私の存在はAll or Nothing、つまり「ある」か「ない」か、はっきりと答えられるものなのだろうか。事の曖昧さは死の問題を考えることによって見えてくる。

魂などを想定しない我々は、私の存在は死によって無くなることを十分に理解している。しかし何がどうなると死であるのか、そのところは実は曖昧である。私はベッドに横たわっている。意識を失っている。そして心臓が停止した。この事実によって私は死んだということが言えるのだろうか。「何がどうなると死であるといえるのか」という問いに簡単に答えられるようなら、これほど試行錯誤してもはっきりと答えの出なかった私の同一性の基準というものを我々はすでに知っているはずである。現実的に、医者は死亡診断を下し、死亡時刻を確定する。しかし実のところ、本当に死んだ瞬間というものを我々ははっきりと捉えられていない。すると私の存在の有無はYesNoで答えられるほど明確なものではないということに気付く。

ここには矛盾した二つの信念がある。我々は魂の存在を否定しているし、私の存在には生死がはっきりあると考えている。しかしその一方で、「私は私である」という自己意識は誰にでもあって、この枠組み自体は不変であるから、私の諸性質の変化は認めるがその根底には同じ私が存在しつづけているという確信をもたせている。このように考えると、意識を失った「私」、心臓が停止した「私」というように、最終的に自分の身体が分解されたとしてもそこに「同じ私」というものがあることになる。するとここには生と死という決定的変化をも貫いて「同じ私」が存在することになり、この考え方は実体や魂というところに結びつく。

先のケースを考えたパーフィット自身も、YesNoで答えられるのは我々の同一性が確定的なものである場合、つまりそれは我々が個別的に存在する実体でない限り不可能であるから、そのような信念は排斥すべきであると主張している。

 

3-2 数的な同一性

我々が過去から現在へ持続的に存在しているというとき、質的な同一性ではなく数的な同一性というものをイメージしている。私が身体的、心理的にどれだけ大きく変化したとしてもやはり同じ私が存在しつづけていると考える我々の自己同一性観には、「実体」という言葉を用いないまでも、そういう変化を支える基底のようなものを想定しているとみることができる。私の存在は数的に同一なものであるという信念の背景にはこのような概念が存在している。

しかし実体という概念は空虚なものとしてロックによって捨て去られたことは先に述べた通りである。捨て去られるのにもそれだけの理由があった。実体の存在を我々は論証することができない。にもかかわらず、現在でもそのような概念が我々の内に残っているというのはどういうことなのだろうか。実体という概念を重要視したロック以前の哲学者、デカルトはその著書『省察』[23]において、私の存在について次のように述べている。

私はある、私は存在する。これは確かである。だが、どれだけの間か。もちろん、私が考える間である。なぜなら、もし私が考えることをすっかりやめてしまうのならば、おそらくその瞬間に私は、存在することをまったくやめてしまうことになるであろうから[24]

 デカルトは有限な実体として物体と精神を認めていた。この二種類の実体はその特性が異なり、物体の本質は延長(広がり)、精神のそれは思惟であるとされている。そして人間の本質は精神的な実体であり、その特性としての「思惟すること」においてのみ私が存すると考えていた。しかし上記の引用の通り、それでは思惟していないときに私の同一性は保てなくなる。

私がすぐまえに存在したということから、いま私が存在しなくてはならないということは帰結しない。そのためには、ある原因が私をこの瞬間にいわばもう一度創造するということ、いいかえれば、私を保存するということ、がなければならないのである[25]

最終的にはデカルトもその保証を神に頼っている。そもそもデカルトは実体を「それ自身によって存在しうるもの[26]」と定義しており、その意味で厳密には神だけが実体であった。しかし我々の内にある実体と言いうるような概念の根拠をデカルトのように神に帰したところで我々は納得することはできない。

パーフィットは実体の存在を否定してはいないが、その存在の有無は確認しえないということで考察の対象から外している。そして重要なのは<R‐関係>、つまり正しい種類の原因をもった心理的連結性および/あるいは心理的継続性であり、人格の同一性は重要なことではないとしている[27]。そして驚くべきことに、このことから、火星の人物Mというレプリカをもつことを通常の生存と同じくらいよいものと見なすべきであるという主張をしている。

 分裂の結果として生ずる人物の一人が世界を放浪し、そしてもう一人は家にとどまるということを私は擬似意図できる。私が擬似意図することを行う者は、私ではなく、分裂の結果として生ずる二人の人々である。通常は、もし私が誰か別人が何かをすることを意図しても、私はこの意図だけでは彼にそれをさせることができない。ところがもし私が分裂するところならば、擬似意図するだけで十分だろう。分裂の結果として生ずる人々は両方ともこれらの擬似意図を受け継ぎ、そして、気が変わらないならばそれらを実現するだろう。彼らは気を変えるかもしれないから、私は彼らが私の擬似意図することを実行すると確信はできない。しかしそれは私自身の生においても同じである[28]

ここには確かに人物の数的同一性は前提されていない。このような分裂のケースを考察すると、現在から未来への私の数的な同一性は確定されえない。

私の存在は数的に同一であるという信念の背景を辿っていくと、実体という概念、そしてそれを保証する神というところへ行き着く。しかし我々は歴史的に、神を消し、実体の存在を否定してきた。にもかかわらずこの不安定な信念を我々が放棄していないということは、実は我々は神、それも私の存在のすべてを保証してくれる「善き神」を信じているのだと言えるのかもしれない。

神とは私の外にあるものである。その意味で、ロック以前は私の同一性の根拠を私の内にではなく外に帰していた。ロックでさえもその最終的な保証を神に頼っていたが、それ以降は意識や記憶といった自分の内側にその根拠を求めていくようになったと考えられる。しかしそれには限界があることが確認された今、現代の我々にとってその役割として再び神を持ち出すことには抵抗を感じるが、ある種の保証を自分の外に置くということはそれほどおかしなことではないのかもしれない。

 

3-3 Only x and y Principle

only x and y principleとは、ある時点の人物xと後の時点の人物yとが同一であるのはあくまでxとyのみの事実によるのであって、第三者zの存在による影響は受けないという我々の確信であるが、その確信とは裏腹に、第三者zの存在によって私の同一性が左右されるとはどういうことだろうか。only x and y principleという理論が我々の直観と合致するということは先に述べたが、この理論に矛盾が生じる場合がある。それはyについて言えることがそれと同時点に存在するzについても言えるという場合である。このことはウィリアムズの「生まれ変わりを主張する人」の例において、ガイ・フォークス(x)とチャールズ(y)には心理的連続性があるということから二人を同一人物であると認めたのに、ガイ・フォークス(x)とロバート(z)の間にも心理的連続性が認められたという事実から、チャールズ(y)とロバート(z)の両者ともがガイ・フォークス(x)ではないと結論せざるをえなくなったというところに表れている。

このように第三者zの存在によってxyの同一性が揺らぐのは、xyが同一であることの根拠を「質的なもの」に置いているからではないだろうか。性質が同じものというのは、同時にいくつも想定しうる。ゆえに厳密には、質的なものの同一性から数的な同一性は導けないが、日常生活においてはそんなに紛らわしい第三者zが登場することはないことからxyの数的同一性は質的な同一性を手がかりにしているように思われる。自分自身の同一性が問われる差し迫った状況、例えば何らかの事件に巻き込まれて自分が犯人であると疑われているという場面を考えてみても、DNA鑑定や指紋の照合などいくつかの方法を用いることによって自分は犯人ではないということを証明できると考えている。特にDNA鑑定は現在科学的に最も信用されている方法であろう。しかしこのDNAでさえ私自身のうちにある質的なものであり、今日ではDNAが同じクローンをつくることができるということからもわかるように、DNAが自己同一性の基準であるとは言えない。すると、数的な同一性というものの根拠を私自身の内に帰す場合にはどうしても魂や実体といった取り替えのきかないもの、コピーできないものを持ち出す必要がある。

しかしこの結論は、数的同一性の根拠はあくまで私自身の内にあるという信念を貫いた場合のものである。かつてはそれを神に帰していたように、同一性の根拠は私の外にあるという可能性を考慮に入れるとまた違った結論が導かれる。これはonly x and y principleという我々の直観に反して、xyの同一性が、第三者zの存在に影響されるということを含んでいる。しかしここでのzとは、特定の第三者ではなく、ましてや神でもなく、もっと一般的な、広い意味での他者である。それは我々の信念とは異なるが、現実的な場面において我々はそのことを受け入れている。例えば先に述べた、自分が犯人であると疑われているという状況において、DNA鑑定や指紋の照合によって自分自身の同一性が証明されるという考えの背景には同一性の根拠は自分自身の内にあるという考えが存在するが、自分自身の無罪を証明する方法としてアリバイの確認を求める場合、同一性の根拠を自分の外に置いていることになる。アリバイの確認において、私自身の証言だけでは無意味である。私自身の同一性が他者との関係において確定されうることを私はここに発見する。

only x and y principleとは、xyの内的な関係においてのみ私の同一性が決定されるという信念を表すものであるが、そこに数的な同一性をみる場合、つまりxはその未来においてたった一人の人物としか連続しないということを前提とするなら、only x and y principle が守られるためには、yと同時点に存在し、かつ同程度にその存在の原因がxにあるという特定の第三者zが存在しない場合という制約が付け加わることになる。そうでなければ、内的な関係において同一性を決定していると言いながらも、xと連続する人物は二人いることになり、数的な同一性は崩れてしまう。日常生活において、紛らわしいzはほぼ存在しないということから、only x and y principleという信念が守られているのだと言うことができる。反対に、数的な同一性を前提とせず、あくまで重要なのは<R-関係>だとするパーフィットにはこの制約は不要である。内的な関係において、xyxzがそれぞれ連続していると言えるのなら、yzの両方ともがxと連続していると結論づけることが可能だからである。

 

 

4.おわりに

「私」は絶え間なく変化している。我々はそれを自覚する一方で、過去から現在、未来へ、同一人物として存在し続けているとも思っている。変化しているのに同一であるということの内に含まれているものは何なのかということについて考えてきた。しかし、同一であるとする根拠を見つけることはできなかった。ここに結論として三つの道がある。

一つは、根拠なしを理由に同一性を放棄するという道である。これは一番わかりやすい結論であるが、ではなぜ我々は通時的に同一のものとして存在していると考えているのかということについては答えが出ない。それは単なる思い込み、幻想であると一蹴できるほど弱い信念ではない。そのように「思い込む」原因、理由を考える必要がある。

二つ目は、根拠がないということはもうこれ以上遡れないということ、つまり同一性は私の存在にとって第一もの、根源的なものであるとする道である。私の存在にとって「変化」は自明のこととしてある。そこから「同一性」は導けない。同一であるという直観を意味のあるものとして捉えるには、その直観がすべての経験に先立つとすることである。しかし、この場合の「同一性」に内容はあるのだろうか。確かに「私は私である」という直観は第一のものとして認められるかもしれないが、我々が「私の同一性」というときにイメージする通時的、歴史的なものをそこに読み込むことは難しい。

そして三つ目は、前者を修正した形で支持するという道、つまり同一性を完全に放棄するのではなく、その中身を「連続性」にまで弱めるという道である。私は結論としてこの道を採る。テセウスの船の例において、材料は取り替えられつつも一定の形を時空的に保持しつづけたこと、その連続性が「どちらが元の船か」という問いに答えるにおいて重要な意味をもった。またその連続性はそれ自身においてだけではなく他者との関係、例えば船とその持ち主との関係にも認められる。しかし、連続していれば必ず同一であると言えるのかということについては疑問がある。連続性には程度の差がある。パーフィットの思考実験において、火星のMと地球にいた私との間の連続性と、地球にいる私と地球にいた私との連続性、後者の方により強い連続性を感じることは事実である。すると連続の程度を手がかりに後者にだけ同一性を授け、そして地球にいる私が死んだ時点で、火星のMが急に地球にいた私と同一であるとされることも考えられる。しかしそれは三人称的に同一性を判定する場合だけかもしれない。火星のMと地球にいる私、両者とも本人の視点からは連続の程度を比較することなしに地球にいた私と同一であると考えるだろう。ここで言えることは、同一人物であるというときその人物に関わる細かな事実が連続しているということでしかない。そこから、連続していれば必ず数的に同一であるということを導くことはできない。しかし通常、連続の程度において微妙な他者は登場せず、連続性を同一性と置き換えても大きな問題は起こらない。同一性と連続性との関係はさらに考察する必要がある。

日常生活においては当然のことであって、問題になることすらない「私の同一性」であるが、いざその根拠を問われると答えに窮するというところにこの問題のおもしろさがある。その事実関係について明確な答えが出ないもどかしさはあるが、この問題を考えることを通して、私は自分自身をどのように考えていたのかということについての発見は確かにある。そこにこの問題を考える意味があるように思う。

 

 



[1] プラトン『饗宴』(『プラトン全集5』 鈴木照雄訳、岩波書店、1974年)

[2] Ibid.pp.90-91.

[3] Robert Nozick. ‘Personal Identity through Time’

in Raymond Martin, and John Barresi, eds, Personal Identity, Blackwell Publishing, 2003.

[4] Ibid.p.96.

[5] John Locke. An Essay Concerning Human Understanding, Dover Publications, 1959.

[6] Ibid.pp.445-446.

[7] Ibid.pp.448-449.

that has reason and reflection, and can consider itself as itself, the same thinking thing, in different times and places; which it does only by that consciousness which is inseparable from thinking, and, as it seems to me, essential to it

[8] Ibid.p.449.

For, since consciousness always accompanies thinking, and it is that which makes every one to be what he calls self, and thereby distinguishes himself from all other thinking things, in this alone consists personal identity, i.e. the sameness of a rational being

[9] Ibid.p.450.

I say, in all these cases, our consciousness being interrupted, and we losing the sight of our past selves, doubts are raised whether we are the same thinking thing, i.e. the same substance or no.

[10] Ibid.pp.450-451.

, it being the same consciousness that makes a man be himself to himself, personal identity depends on that only, whether it be annexed solely to one individual substance, or can be continued in a succession of several substances.

[11] Ibid.p.454

God; who, as far as the happiness or misery of any of his sensible creatures is concerned in it, will not, by a fatal error of theirs, transfer from one to another that consciousness which draws reward or punishment with it.

[12] Ibid.p.458.

whatever has the consciousness of present and past actions, is the same person to whom they both belong.

[13] Ibid.p.466.

[14] Ibid.p.467.

It is a forensic term, appropriating actions and their merit; and so belongs only to intelligent agents, capable of a law, and happiness, and misery. This personality extends itself beyond present existence to what is past, only by consciousness

[15] Bernard Williams. ‘The self and the future’

in Problems of the Self, Cambridge University Press, 1973.

[16] Ibid.p.46.

if the previous A and B were extremely unlike one another both physically and psychologically, and if, say, in addition, they were of different sex, there might be grave difficulties in reading B’s dispositions in any possible performances of A’s body. Let us forget this, and for the present purpose just take A and B as being sufficiently alike (however alike that has to be) for the difficulty not to arise; after the experiment, persons familiar with A and B are just overwhelmingly struck by the B-ish character of the doings associated with what was previously A’s body, and conversely.

[17] D.パーフィット『理由と人格 非人格性の倫理へ』 森村進訳、勁草書房、1998

[18] Ibid.p.282.

[19] 英語では ‘personal identity through time’ ‘personal identity over time’ と表されているものが「通時的な人格の同一性(自己同一性)」と訳されている。

[20] Bernard Williams. ‘Personal identity and individuation’

in Problems of the Self, Cambridge University Press, 1973.

[21] Ibid.pp.7-10.

[22] Harold W. Noonan. Personal Identity (Second edition), Routledge, 2003.

[23] デカルト『省察』(中公クラシックスW21『省察 情念論』 井上庄七・森啓訳、中央公論新社、2002年)

[24] Ibid.p.38.

[25] Ibid.p.71.

[26] Ibid.p.65.

[27] D.パーフィット, op.cit.p.361.

[28] Ibid.p.360.