倫理学・哲学とは

1996/03/10

by 安彦一恵


「倫理学」と「哲学」

 本学部の研究室は「倫理学・哲学研究室」−−略称「倫哲研究室」−−と呼ばれています。しかしこれは、単なる習慣であって、本当は「哲学・倫理学研究室」という方が普通です。
 「倫理学」は、「美学」「宗教学」「論理学」等と共に、哲学という(大きな)学問分野のなかの一分野を構成しています。これに対して、「哲学、倫理学」として並置され場合の「哲学」は、これらの個別哲学が扱わない、あるいは扱いにくいものを対象とする分野であると言えます。また、特に教育学部のように個別分野があまり置かれていなところでは、諸個別哲学分野を総称する一つの総合分野でもあります。


「哲学」のイメージ

 それでは、そうした総合分野としての「哲学」とは、どのようなものでしょうか。
 「何か深遠な事を語るもの」「人生論のようなもの」と言われることがあります。しかし、そういうスタイルの哲学もありますが、それはあまり本質的なものではありません。そのように言うと、皆さんにはあまりイメージが湧いてこないかとも思われます。
 これは、中等教育までには「哲学」が「教科」として存在しないためでもありましょう。このことは、或る意味で日本の特殊性であって、多くの国では、教科として「哲学」が存在しています。さらに、「哲学」という教科が(最)重要教科となっている国もあります。また、小学校で初歩的な「哲学」が試みられている国もあります。
 しかしまた、「教科」としては存在しない場合であっても、実質的には「哲学」が行われているとも言えます。例えば丁度、(母国語で)話しをしている際に文法が意識されることはないが、その発話には文法的知識が前提となっているというのと同様に、それとして表面に出てはいなくても各教科には哲学・倫理学的知見が多く含まれているということも事実です。
 また、教科「倫理」や「現代社会」としてイメージされている場合も多いと思われますが、それらで扱われているものは、内容的にだけではなく領域的にも、学問領域としての哲学・倫理学のごく一部でしかありません。


歴史的に見ると

 歴史的に見るなら、かつては哲学とはphilosophia(「知を愛すること」)としてイコール学問そのものでありました。それが、近代に入ると、まず自然科学、次いで社会科学として「科学」(science)という学問の在り方が分化・成立してきます。そして、そこに残ったものが現在「哲学」と呼ばれているものである、と言うこともできます。
 しかし、この見方は不十分です。「哲学」以外のものもその「残余」として存在するからです。かつてhumanitiesとして学問の大きな部分を占めていたものは、今日一応「人文科学」とは呼ばれてはいますが、「科学」とは異なるものとして、この見方では、一括して非-科学(「残余」)とされています。そこには、例えば歴史学、文学などが入っています。
 これに対しては、学問はすべて「科学」でなければならないのか、という大論争が生じていますが、ここでは、哲学が「残余」として歴史学・文学などと一括されてしまうことが問題です。これらのものと哲学はやはり異なります。また、単なる「残余」と見ることはあまりに消極的です。そこで20世紀に入って、他方では改めて「哲学」とは何かが問われてきてもいます。
 そのなかで、「哲学とは(諸)科学の(論理)学(logic)、つまり科学論である」という回答もなされています。本学部でも倫哲研究室担当で「科学論」という講義が開講されていますが、特に英米ではこの考え方が有力です。そこでは更に、各個別科学に対応した、例えば「物理学の哲学」「法律(学)の哲学」「心理学の哲学」といった個別科学論が展開されています。
 しかし同時に、哲学は、科学以外のものも含めておよそあらゆる知(知識)を問題とすべきであるという立場から、一種の知識論として哲学が展開されてもいます。また、知は言葉において表現されるという側面に基づいて、哲学は「言語分析」であるという考え方もなされています。
 これらはいずれも、対象そのものではなく、各個別的対象の知を更に対象とするものとして哲学をメタ・知識(知識の知識)と規定します。しかし、これに対して、「哲学は、各個別知識が問題としない固有の対象をもつ」という考え方も他方には存在します。すなわち、伝統的に「形而上学」「存在論」と呼ばれてきたものに還元して哲学を「普通言う存在(者)を超えた形而上的なもの(例えば神)を論究する学問」「各個別的存在が共通にもつ存在一般を(例えば「『ある』ということはどういうことか」という問いのもとで)論究する学問」として再構築しようという考え方です。


 しかしながら、このような「定義」で「哲学」を規定し尽くすことは不可能です。そこで次に実質的な紹介として、実際に「哲学」として行われていることを分類・整理して提示したいと思います。

 

思想の歴史的研究

a) 思想史として、「哲学者」と呼ばれている人の思想を研究すること。

 これは「哲学史」と呼ばれることもあります。卒論としてもあったものから例を挙げると、例えば「カント理論哲学の研究」「孔子『論語』の研究」「フロムの研究」といったものがこれにあたります。本学部では哲学者の教育思想を研究した卒論が目立ちますが、倫哲研究室でも、ルソーやラッセル等の教育思想に関する論文が多く書かれています。

b) 哲学者に限定せず、幅広く思想を研究すること。

 ここでは、文学者や芸術家、あるいは科学者の思想もまた研究の対象となります。卒論にも、例えば画家のダリについて、その絵画が通常言われるように本当にシュールレアリスティックか、という観点からその思想を論究するものがありました。また、趣味を生かしてフルトベングラー(指揮者)の音楽とナチズムの関係を扱ったものや、これは比較的多いタイプのものですが、例えば聖徳太子、北村透谷、ガンディー、マーク・トゥエイン(ペシミズムの研究)といった馴染深い人々の思想を扱った卒論もありました。少し前になりますが、「村上春樹論」というのもありました。

 

コトバの哲学

c) 「コトバの哲学」として、我々の日常的・科学的言明を分析すること。

 例えば船の名前は命名によって決まります。進水式等において命名が儀式として行われることもあります。「この船を滋賀丸と命名する」と発言することによって、以後、その船は「滋賀丸」という名前をもつことになります。しかし、その儀式に参加している誰がそう発言しても、船の名前が決まるのではありません。そうではなくて、一定の人が一定の手続きに従って発言した場合だけが、名前を決定することになります。「では、その船が以後『滋賀丸』と呼ばれることになるためには発言者・発言の場面についていかなる条件が必要か」といったことの分析がなされます。
 「......と約束します」や「結婚します」といった発言についても、精密な分析がなされています。「......と約束します」と発言するなら、いかなるものでも約束行為になるわけではありません。通常は、例えば「あしたからは真面目に授業に出席します」は立派な約束行為ですが、「いまから御飯を食べます」という発言を約束だと見ることには抵抗が感じられます。まともな約束であるかどうか我々は直観的に判別できますが、哲学はそれを何らかの規則として析出しようとするのです。
 以上は日常的言明の分析ですが、科学的言明についても哲学は分析を行います。

 また、言明の真理について、「事実によって真」であるものと、「取り決めによって真」であるものとの分別といったことも分析の対象になります。例えば「地球は丸い」は明らかに前者、「母親は子供をもつ」は後者です。「地球は丸い」が真であるか偽であるかは、地球が実際にどうであるかによって決まります。そこで地球の形を調べるわけです。これに対して「母親は子供をもつ」が真であることを確認するために、実際の母親(達)を調べてみるとしたら、あきらかに馬鹿げたことです。これは「母親」という言葉の使い方として、もう「子供をもつ」ということが決まっているからです。
 以上は、これもまた直観的に明らかなところですが、言明によってはそう簡単に分類できないものもあります。これはまた科学論の対象でもありますが、例えば「平行線は一本しかない」というのはかつては前者であったが、今日では(大勢としては)後者とされています。(或る見方では)「1+1=2」は今日なお論争の対象です。また、例えば「人間は自由であるか」といった(解答がディレンマに陥りがちである)問いも、実はこの分別に関わる問いであるという可能性もあります。

 

科学論

d) 科学論として、広く諸科学を論究すること。

 科学の諸領域に即して、「物理学の哲学」「心理学の哲学」「経済学の哲学」等々のさまざまな諸科学論があって、それぞれ一つの専門領域を構成しています。
 一般的な論点としては例えば「因果性」とは何かといったテーマがあります。特に歴史学では「因果」の概念は不可欠ですが、そもそも「....が....の原因である」とはどういうことなのか。どのような条件があればそう言えるのか。また、人によって原因の挙示が異なってくるのはなぜか。「倫哲基礎教育」Tの後半ではほぼ毎年、(例えば太平洋戦争やアメリカの南北戦争等の)具体的な歴史記述(の変遷)に即してこの問題を考えています。
 自然科学の場合、お互いに異なる理論は、例えば「天動説」と「地動説」とでは、いずれかが間違っているということになりますが、歴史記述の場合は、そうはいきません。科学論としては、さらに検討を加えて行って、「なぜそうならないのか」ということの理由まで明らかにしていきます。先日、司馬遼太郎氏が亡くなられましたが、彼のような歴史小説と、歴史書とはどこが違うのかという難問にもトライしています。
 比喩を用いて一般的に言うなら、諸科学がそれぞれ「文法」に従って「文」を発するとして、その「文法」を検討するのが科学論である、とも言えるでしょう。科学論としてはまた、scienceとそうでないものはなにをもって区別されるか、自然科学と社会科学、歴史学(タイプ)と社会学(タイプ)はどう異なるのか、といったことも主要問題です。
 この系統の過去の卒論としては、「Th.クーンの科学論の検討」というのがありました。

 

「心の哲学」「認識論」「価値論」など

e) 人間の「心」というものを論及していくこと。

 今日の「哲学」の主要領域としては、例えば「足を取り替えてもその人はその人のままだが、では脳を取り替えたらどうなのか」「脳と意識の関係はいかなる関係か」といった基底的なところから「心」というものを考えていく「心の哲学」という専門領域があります。これは昔からあったものですが、近年、コンピュータ・サイエンスや認知科学の展開と並行して、それらに隣接するものとして(再)流行してきています。

f) 人間の認識という働きを研究すること。

 わたしたちは事物をありのままに認識するのでしょうか。そうではなくて、わたしたちの認識器官のいわば「かたち」に合せて何らかのかたちで変形して認識するのでしょうか。人間に関する科学は明らかに後者だとみています。しかし、そうすると、認識はおよそ主観的なものなのでしょうか。哲学の主流は、現在もなお、こうした科学の知見を踏まえつつも、認識の客観性を説明しようとします。そして、そのことは、そもそも「事物のあるがまま」とは何なのか、「『客観性』とは何なのか」ということの論及を含みます。
 これに属する卒論としては「錯覚の研究」がありました。

g) 「価値」という現象を研究すること。

 わたしたちは、「......はよい」ということをごく日常的にも語ります。しかし、「よい」ということはどういうことなのでしょうか。また、「よさ」をなんらかの性質とみる場合、その「よさ」はどのような性質なのでしょうか。例えば「大きさ」や「赤色」と同じなのでしょうか。
 この問題については、哲学内部でさまざまな立場があります。ある立場では、「よさ」は客観的なものであると考えます。しかしまた、「よさ」は主観的なものすぎない、とみる立場も存在します。科学的には「よさ」は大体、主観的なものだとされています。心理学や経済学がその代表的ケースです。たしかに、例えば美人などの規準は明らかに時代や文化によって異なっており、ここからみるなら「よさ」(「美しさ」)は主観的です。哲学内部でも、少なくとも20世紀に限っていえば今までは「主観説」が優勢でしたが、近年、「客観説」を主張する哲学者が増えています。その一つの根拠は我々の日常的価値意識にあります。我々は日常的には、「x はよい」とするとき、その「よさ」をx自身の性質だと了解しているからです。

 こうした個別哲学が、この他にもたくさんあります。

 

本質論的考察

h) 諸現象をいわば本質論的に考察すること。

 諸科学と対象を同じくする場合でも、哲学固有のアプローチとして、本質論的考察とでも表現できるやり方があります。歴史哲学等が代表例ですが、最近話題になっている日系米人フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』は、ヘーゲルの歴史哲学や、フランスの哲学者コジェーヴのヘーゲル解釈を下敷としています。哲学者の梅原猛の(後述する「解釈学」的立場での)古代学などや、江戸の美意識を分析した久鬼周造の(同じく「解釈学」を駆使した)『〈いき〉の構造』も、ここに分類できます。「シラー美学におけるロマン的精神」という卒論がありましたが、それはここに分類することが可能なものでした。

 これは最近流行しているテーマでもありますが、今年度の「倫理学史U」では、諸価値論のフォローを具体的に「風景」(美)に即して行う予定です。
 「風景」を問題とする学問としては地理学がまず考えられますが、哲学はこの同じ対象について本質論的な論究をおこないます。NHK「人間大学講座」で昨年末に地理学者のベルクが「風土」に関する講義を行いましたが、そこでも和辻哲郎やハイデガーの哲学的風土論の紹介から始められていました。哲学は、そうしたものを導入としてではなく、それ自身を本題として論究するものです。特にドイツ語圏では、様々なアプローチの中心に哲学的風景論が位置していますが、それによって、我々がごくあたりまえに風景として意識しているものが、実は近代に固有の見方によって成立したものであることが、原理的次元で明らかにされたりしています。

 

環境倫理学、生命倫理学

(i) 生命(倫理)問題や環境問題を論究すること。

 近年では生命問題や環境問題について活発な議論があります。ここでも、その原論的な部分を哲学が担っています。諸科学からの様々なアプローチもありますが、例えば「妊娠中絶」問題や「安楽死」問題について、突き詰めて論じていく場合、哲学的議論が不可避となってきます。「そもそも『人』であるとは何か」「患者が自らの死を望むなら、医者はそれに手を貸してもかまわないのか。そもそも何をもってその『望み』の確定ができるのか」といったことが論じられなければならなくなるからです。

 環境問題では、「人間だけの問題として考えていいのか」という根本問題があります。常識でも、「人間の利害だけで考えてはいけない」として人間中心主義は否定的に見られていますが、実は、例えば「私はxには価値があると思うので、人間だけでなく、xの利害も考えなければならない」という場合は、厳密に考えるなら、それもまた人間中心主義に入ってしまいます。(ましてや、「環境を大事にした方が我々人間は豊かな生活をおくれる」というのは明らかに人間中心主義です。)xの利害の実現が、そういうふうに思う人の利害の実現になってしまうからです。そうすると、本当に非-人間中心主義であるためには、「私には価値がないと思われるもの」であっても、あるいは「人間にとって有害であるもの」でも、その利害を考慮に入れるのでなければならなくなります。しかし、そこまで徹底して非-人間主義を主張することは妥当であるのか。哲学では、こういうふうに徹底して論じていきます。

 もちろん、もう少し現実的・具体的な問題も論じられます。例えば、上の「妊娠中絶」で言うなら、妊娠者の年齢・意志、あるいは社会常識等のいかなる条件があるときそれは許可されるのか、といった問題や、先進国と開発途上国とで環境保護の程度は同じであっていいか否か、といった問題があります。
 この領域で卒論を書くケースが近年増えています。昨年は生命倫理関係の論文が、今年は環境問題を一部として論じた論文が、それぞれ一つありました。

 

ポスト・モダン論や身体論など

  (j) その他、具体的問題を論じること。

 上の生命問題や環境問題の他にも、ポストモダン論、フェミニズム論、ファッション論、都市論、権力論、身体論、等々の領域があります。また、さらに、平和(教育)、喫煙、公害、エスニシティー、人権等々の多くの問題が「哲学」の対象となっています。過去の卒論としては、「男女の性差」を論じたもの、「平和教育」を論じたものなどがありました。

 

社会哲学

(k) 社会の現実的諸問題を論じること。

 特に「倫理学」は政治や社会も重要な対象としていますが、ジャーナリスティックな現象、例えば小沢一郎と武村正義のイデオロギー対立についても、その世界観まで遡って捉らえようとする場合、その「新保守主義」「リベラリズム」について(例えば人間観、自由観、あるいはまた福祉観、教育観について)原理論的な考察として「倫理学」が要請されてきます。また、東側世界の崩壊と共に近年では市場が万能視される傾向にありますが、その市場の倫理的評価といった課題もあります。
 ごく最近の出来事で挙げるなら、「住専問題」についても、なまなましい権力闘争の側面を捨象していわば純化してみるなら、社会における国家の役割に関する二つの考え方の相違といった側面から原理的に社会哲学として論じることができます。
 昨年の出来事で言うなら、阪神・淡路大震災やオーム真理教事件も、取り上げることができます。

 

道徳の正当化

(l) 「人はなぜ道徳的であるべきか」ということを論じること。

 倫理学の中心問題の一つに、「そもそも人はなぜ道徳的であるべきか」(道徳が正しいということは自明だとして、「では道徳はいかにして正当化できるか」)という問題があります。これは卑近な言い方では、「生徒はどうして『いい子』でなくてはいけないのか」というふうにもパラフレーズできるものです。
 「学芸科目」として開講している「倫理学」では、ここ数年、この問題をテーマとした講義をおこなっています。これは、あたりまえのことだとも言うことはできるし、先生や親はそれなりに解答を与えていますが、最終的な解答を与えるとなると意外と難しい問題です。また、わたしたちは(例えば親として子供に)よく「悪いことは悪いのだ」と言ってしまいます。これに対しては逆に、「そういう断定はよくない」と考える方が多数派ですが、道徳というものは結局どこかでそういう「断定」に依拠せざるをえないとする哲学者もいます。例えばヴィットゲンシュタインなどがそうです。この「断定」をめぐっては現在なお活発な議論があります。

 

論理的思考の訓練

(m) ディベートの基礎学としての論理学。

 教科で言うと国語や社会で最近は小学校においても「ディベート」が導入されていますが、哲学のスタイルが元来「論争」にあったということもあって、これに対しても哲学は基礎学の位置を占めています。これはまた、正しい推論の学としての「論理学」−−これは学芸科目として開講されています−−を当然前提としています。

 

哲学史

(n) こういったかたちで哲学が展開されているわけですが、そこにはいくつかの「流派」(例えば「現象学」「解釈学」「分析哲学」)が存在します。そしてそれら各流派がそれぞれに哲学の「言語」をもっています。そこに、一つの哲学史として、流派の「言語」の研究という分野も成立しています。今年度の卒論「フッサールの現象学」は、このタイプに属するものです。
 ここに言う「言語」とは物事を考えていく際の枠組みのようなものであって、それは同時に、例えば「現象学的社会学」といったかたちで個別科学に対してもその枠組みを提供しています。−−哲学の本領は、むしろこの枠組みそのものの(新たな)提出にあります。科学(や、広く生き方そのもの)が行き詰ったり、革新的な展開を示すとき哲学が求められてくるのもその故だと考えられます。

 

( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

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1996/03/10 作成