本稿は、表記『報告集』所収の拙稿の電子版である。Htmlファイルにしたためレイアウトは変更してあるが、内容的には同一である。

 

============

 

 

「エゴイズム」とは何であって、その何が問題なのか ― 「倫理」をめぐる論点の整理のために ―

 

安彦一恵(滋賀大学教育学部)

 

 

 egoisticであることはethicalであることの正反対として端的に悪とされ、問題なのは実践的にそれをどう克服してethicsを実行するかだけである、と通常はみなされている。しかし、この了解はほとんど空虚である。この了解に基づく「倫理」の議論も同様である。この事態は、"ethical"の(再)検討のほうから解消することもできるが、ここでは、シンポジウムの統一テーマ(「エゴイズム」)のもとで、"egoistic"の検討を行ないたい。

"egoism"はそのまま直訳すれば「私-主義」であるが、日本語で「利己主義」と訳されているように、英語でも「利」「己」が関わって"egoistic"はまさしく「利己的」という意味をもつ(OEDでは、"egoism"の「倫理(学)」に関わる意味として、"The theory which regards self-interest as the foundation of morality"という定義が挙げられている)。では、この「利己的」の何が問題なのか。 ― この問いに生産的に答えうるためには、i そもそも「利」とは何か、ii その「利」の「己」的追求である「利己的であること」が何ゆえに問題となるのかが問われなければならない。

 

一 「利益」とは何か

 

 右に確認したように"egoism"は「利己主義」であるわけだが、しかし、その当の「利益(interest)」は実は意味が不分明である。したがって、そこに多様な内容が持ち込まれることが可能となっている。たとえばS.Wolfは、「自己(-)利益(self-interest)」を問題として、"Self-interest is interest in one's good. To act self-interestedly is to act on the motive of advancing one's own good."("Happiness and Meaning:Two Aspects of the Good Life",in:Paul,E.F.et al.,eds.,Self-Interest,Cambridge UP.,1997,p.207)と確認しつつ、その「(自己の)善」として多様な「(自己)利益」規定が成り立つとして、「自己利益に関する理論」についてのD.Parfitの「分類」に言及している。

 Parfitによるなら、「自己利益理論」は三種に分類可能である。第一は「快楽主義的(hedonistic)理論」である。これによるなら、「人の善」とは、「人の経験の感じられる質の事柄であり」、その「最もポピュラーな理論」では、「幸福」あるいは「快を伴った幸福」である。第二は「選好(preference)理論」である。これによるなら、「人の善」は、「その人が自分のために最も欲する(want)ところのもの」である。(Parfit自身の表現では、第二は「欲求-満足説(Desire-Fulfilment T.)」と呼ばれる(『理由と人格』(森村進訳)勁草書房 1998,p.4)。)第三は「客観的リスト理論(objective-list t.)」である。これによるなら、「人の善は、その人の選好から独立、あるいは、それに先行し、そしてその意味で、その人の経験の感じられる質に依存しない要素を、少なくともいくつか含んでいる。」さらにWolf自身は、この第三のものの一ヴァージョンの提起として、「有意味性(meaningfullness)は善き生の派生的ではない一側面である」と主張する(ibid.,p.208)。

 Wolf自身は、古代ギリシア的倫理観念にも立ち帰るかたちで、「有意味性」をさらに、「価値(worth)」のある「活動性(activity)」がもつものへと限定する。そして、その場合、そうした有意味性をもつことはもはや「利益」概念に包摂し難くなることを認めている。しかし我々は逆に、そうした「有意味性」ですら、しようと思えば「利益」に包摂できる、と考える。さらに「愛(=慈善欲)」や「義務(実行欲)」、一般的に「倫理的であることへの欲望」も挙げて、純粋に語義的にはそれらの追求も「利己」的でありうるとすることが可能である。実際Norman,R.は、自分(だけ)が道徳的であることを求める(古代ギリシア的)在り方を「道徳的利己主義」とも呼んでいる(『道徳の哲学者たち 第二版』(塚崎智他訳)昭和堂 2001,p.74)。

 しかし同時に、「利益」がそのように包括度の大きい概念であるとするなら、一般的には、その「利益」を自分のもの、つまり「自己利益」に限って追求するという在り方のすべてが「利己主義」として悪しきものとされているのではない、と言わざるをえない。では、いかなる「(自己)利益」の追求が「利己主義」として退けられているのか。

 経済学では一般に、上で言うなら(一般にイメージされているようにさらに第一の理論と等置されてはいないが、それを含みうるかたちで、また第三の理論は排除するかたちで)第二の理論に定位して、まず、i ― 人を「経済人(homo economicus)」と規定しつつ ― 人は自ら(のみ)の欲求(desire)充足を「選好」としてもち、それがそのまま「選択」として行動に表われるとする。その際、人をいわゆる「合理的エゴイスト」として規定しつつ、「欲求」充足について理性的に長期的なパースペクティヴを採るものと想定する。(Hirschman,A.(『情念の政治経済学』(佐々木/亘訳)法政大学出版局1985)によるなら、近世において次第に、「利益」は「情念」との対比において ― prudentialなものとして ― 理性的なものに限定されていった。)そして同時に、ii その欲求の対象がいわゆる「経済的」なものに限定されて、欲求は「経済的欲求」として規定される。その際、「経済的」は「物質的」とも等置されてイメージされる。

 

 

二 「利己的」とは何か

 

 では、「経済的=物質的」利益の追求のみを「利己主義」とすることには、どのような根拠があるのか。一般的には、「経済的」は「市場(経済)的」と同義で了解されているとも言いうる。そこから考えてみたい。英語では同じ語が用いられているのだが、「善」はなんらかの「財(good)」の使用のうちにあると言うことが可能である。そうだとして、市場でやりとりされる財は、「非競合性」「排除不可能性」の二性質をもつ「公共財」の逆の意味で「私的財」である。すなわち、その財の使用が、競合的・排除可能的である財である。先の「経済人」が市場の主体として想定されるものであることをも考え併せるなら、経済的利害についてのみ「利己主義」が語られるのは、この使用の競合性・排除可能性に基づくのかもしれない。その使用において善が実現される財が競合的・排除可能的にしか使用しえないものを求めるがゆえに、それのみが「利己的」とされるのかもしれない。

 しかし、私的財を基準として「利己主義」を規定するのであるなら、実は「名誉欲」もそれに含めるのでなければならない。「名誉」(という財)も、あるいは、そのほうがより強く競合性・排除可能性をもつからである。「名誉」以外にもこの性質をもつものが考えうるが、我々は、それらをも含めるのであれば、この競合性・排除可能性をもつ財の自分だけの享受への志向をもって「利己主義」の基本型としうると考える。

 たとえば「利己的=功利的」という等置(ラスキン『構想力の芸術思想』(内藤史朗訳)法藏館 2003,p.290の訳者解説)に見られるように、功利的=経済的・物質的という含意のもとに、まさしく「利己的」であるというより、その利己性の内容として経済的・物質的なものを追求するという在り方が「利己主義」として語られる場合もある。この場合、逆に、「自ら(のみ)の善」を求めていても、それが「経済的・物質的」なものでないときは「利己主義でない」とも観念されがちである。たとえば「物欲」は利己主義の属性であるが「名誉欲」はそうではない、あるいは、(単なる)「好み(taste)」の追求に対して一定の「価値」の追求は利己的ではない、というかたちで。我々の言う〈基本型〉は、これ ― それは、「利」として同じ経済的・物質的なものを想定しているとするとしても、いわば「利-主義」として利己主義を了解するものだとも言いうる ― とは明らかに別であって、あくまで競合性・排除可能性を基準とするものである。

 

三 「利己的」の何が問題なのか

 

 我々は同時に、この〈基本型〉をまさしく、それが志向する財の競合性・排除可能性のゆえに、他者がその財を享受することに対して阻害的であるという点で問題であり、それゆえ「悪」として否定の対象とできると考える。だがその場合、その他者阻害性は、いわゆる物質的財の場合、その稀少性をさらに前提とする ― 逆に、財が十分に存在する場合は必ずしも他者阻害的にはならない ― のに対して、「名誉」(「地位」の場合もそうであるが)は、その利己的志向がいわば「内的(関係的)」に他者阻害的である。「名誉」は、それを享受するものが少数であることで初めて「名誉」であるからである。(全員が「名誉」をもつということは、ゲームにおいて全チームが優勝であるという事態のように、自己矛盾的事態である。)したがって、他者阻害性という問題性の点では、「物質欲」よりも「名誉欲」のほうがより「利己的」である、とも言いうる。

 「利己主義」に他者阻害性とは別の問題性を指摘することも可能ではある。この問題性の候補として、他者阻害性とは微妙にだが、論理的には明らかに別の事柄として、「私性」(そのもの)を挙げることができる。私的財は、それが十分に存在するときは、人のそれの享受は必ずしも他者阻害的とならないと右に述べたが、その場合も含めて、私的財の享受はまさしく「私的」である。その意味で、「善」としてそうした財の享受へ定位することは、私的在り方において「人の善」を考えるものである。これは換言するなら「個人主義」であるが、「利己主義」は多く「個人主義」の意味で批判されてもいる。(「(西洋)近代性」を批判する論者達の場合が典型である。)先のOEDは"egoism"の「形而上学」的意味として、いわゆる「独我論」に当たるものを挙げているが、これを倫理の場面に移したものが「個人主義」だとも言いうる。

 だが、「私性」に即して「個人主義」として「利己主義」を問題とするとき、我々の(〈基本型〉)とは別のものとして「利己主義」を問題としていることになる。そこでは、「共同性」に「人の善」を見るなんらかの「共同主義」の前提の上で「個人主義」そのものが(「利己主義」として)批判されていることになる(ポパーによるなら、プラトンがその典型である。The Open Society and its Enemies,Vol.1,Harper & Row Pub.,1962,p.101.)。我々も、このように「個人主義」として「利己主義」を問題とすること(そのもの)は認めうるが、しかしそれは、明らかに別の問題である。しかるに、曖昧に同じ問題とされることも多く、その結果として、〈基本型〉としては「利己的」であることが、それこそが「非-利己的」だとされてしまうことも生じている。たとえば、私的な快楽(安楽)を否定して「共同」の事柄に即して「名誉」を求めて「真剣」に生きることが利己を越えることである、とされたりするときがそうである。また、「私的財」が「私有財産制」に基づくとの誤解 ― 「共有財産」であっても使用は私的である ― の上で、利己主義の克服として共産主義が説かれたりするときにも、混同が見られる。

 

四 個人主義の前提の上で利己主義の克服を考える

 

 しかしながら、「利」を原理とする限りで「個人主義」も「利-主義」ではあるが、そうであるとしてもそのものとしては、「利」の主体として「私」(個人)を想定し(いわば「利私主義」)ていても、「己(だけ)」(いわば「己-主義」)という意味は含まない*。我々は、「個人主義」として利己主義を了解することを退ける。これは、換言するなら個人主義と利己主義との峻別である。ポパーは、この峻別において、「利他主義と結びついた個人主義が我々西洋文明の基礎となっている」(ibid.,102)として、個人主義の前提の上で、利己主義の問題性の克服として「利他主義」を提唱する。

 しかしながら、個人主義の前提を崩さないのであるなら、それは「真正の利他主義(genuine a.)」でなければならない。「利他」とは他者の「利」を自分としても第一とするものであるが、その「利」が内容的に自分が「利」だと考えるものである場合「利他主義」は ― 「パターナリスティックな利他主義」(厳密には、これはいわゆる「パターナリズム」とは微妙に異なる)として ― 他者の自律性に対して阻害的である。「個人主義」とは、単に(「全体」に対して)「個人」を上に置くというだけのものではなく、さらに、 ― 「自由主義」として ― その「個人」の自律性を重視するものである。したがって、その前提の上で利他的である場合、利他主義は ― 「真正の利他主義」として ― 相手が自律的に自ら「利」だと考えるものを私としてもその実現を第一とするのでなければならない。「経済人」への定位はいわゆる「消費者主権性」への定位をも意味する。そして場合によっては、それ自身が利己性であるとも了解されがちなのであるが、「真正の利他主義」は換言するなら「消費者主権性」の尊重を必然とするのである。

 財政学のMusgraveの用語で言うなら「パターナリスティックな利他主義」は、相手が「価値財(merit good)」を享受することを第一とするものである。「消費者主権性」の原理はこの「価値財」を非有意化するものであるが、ここで逆に、人は財一般ではなく、「価値財」の享受をこそ目指すべきである、とも説きうる。これは、たとえばすでにベンサムを批判するミルにも見られるものであるが、一般的な倫理学的カテゴリーとしては「卓越(完成)主義」だと言いうる。

 しかし我々は、価値財がそもそも価値財であるためには、それが共同のものであるからだという主張がさらに付け加えら ― Musgrave自身もそうである ― れなければならない、と考える。我々は、なんらかの「共同性」を前提としなければ「価値」 ― 単なる「好み」を越えるものとしての「価値」 ― は成立しえない、と考える。したがって、卓越主義は共同主義に帰着することになる、と考える。

 ここで、個人主義の枠内で卓越主義を成立させるべく、欲求=行為の「首尾一貫性」といったことが説かれるかもしれない。これは、たとえばB.Williamsの功利主義批判でもある。それはParfitの第一理論の上で、快の総量を求める結果として断片的な快追求になるとするものであるが、しかし「一貫性」そのものの快というものも考えうる。そして「消費者主権」の原理であってもそれを認めうるところである。実は、論理的に考えるなら欲求=行為のいかなる軌跡であっても「一貫的」とみなしうる。これは、クリプケンシュタイン(Kripke的解釈によるWittgenstein)の規則論との類比からもそう言えるところである。これを「一貫的と思っている」に過ぎぬとして、それとの区別で「一貫的である」ことを区別するなら ― 先のWolfは、これと類比的に、「有意味性」を問題として、pushpinに対するpoetry(ベンサム・ミル)とも連動させつつたとえば「パチンコ(pinball)」の名人になることから「チェス」の名人になることを区別しようとしている(ibid.,p.212f.) 。(これで言うなら、「パターナリスティックな利他主義」とは厳密には、自分の価値として「チェス」があって、それを相手が享受するのを一種自分の「利」とするものである。)― 、クリプケンシュタインが「パラドクスの解決」として結局「共同体」を持ち出すのと同様、なんらかの「共同性」を持ち出さざるをえなくなる。

 (厳密には我々は、利己主義・利他主義のいわば中間である「公平主義」とでも呼べるものを採る。利他主義は達人(倫理)的であって、俗人には現実性をもたないからである。それは、稀少である場合、財(の享受)を自分・相手の間で公平に分配することである ― ちなみに、これは「利己」の制限であるが、それが現実的であるのは、ひたすら自分の「利」を求めて、そこに争いを生じ、その結果として自分の「利」が減少することになることを考慮した場合、いわば最初から「利己」を制限したほうが自分の「利」が大きくなるからである。ここに、いわゆる"Why be moral?"問題への解答の基本型がある ― 。これは、一種「譲り合い」の倫理であるが、それは必ずしもいわゆる「分かち合い」 ― これの利他主義版として「純粋な(pure)利他主義」がある ― とは同じでない。後者の場合、「分かち合う」ことそのものが善であり、そこに一種の「利」が想定されるが、それを有意化してはいないからである。)

 もちろん、〈基本型〉とは別のかたちで「利己主義」を問うこともできるのであるが、その場合、たとえば先のように「個人主義」としてまず「利己主義」を明確に規定し、その上で明確にターゲットをそれに定めて議論するのでなければならない。要は、「利己主義」を批判する場合、それでもって何を意味しているのかの明示が先行しなければならないということである。それを不明にしたままで端的に「利己主義」を批判しようとするなら、議論の無用な混乱を生むか、利己主義を批判しているのだという自己満足が結果されるだけかである。そしてこのことは、「倫理」そのものを問うことの在り方とも連動しているのである。

 

* 「私(ego)」とは何かということが−−或る「私」が自分を指示する場合が「己」でもあるので−−さらに問われなければならないが、これについては他の論者の議論に待ちたいと思う。