本稿は、表記『年報』所収の拙稿の電子版である。Htmlファイルにしたためレイアウトは変更してあるが、内容的には同一である。

 

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論点のさらなる整理のために

 

安彦一恵

 

 シンポジウムでは論点の整理を基本目標としたが、ここでも、一部、当日述べたこと−−その「提題報告」部分については『報告集』を参照頂きたい−−を要約して再録する部分を含みつつ、シンポジウム全体で語られたことに即して、私なりの論点(再)整理を試みたい。

 

一 利己と利他  本シンポジウムの趣旨の一つにエゴイズムを肯定的に評価するという視点の提起もあったと思う。吉田報告(以下敬称略)の「善きエゴイズム」の提唱もその線上にあると思うが、そうした、フーコーやB・ウィリアムズにも見られる古代的モデルの復権に対しては、筆者は消極的である。近代主義だと言われればその通りであるが、倫理の基本は自己−他者関係のその対立性の解決にあると考えているからである。ここから見るなら、古代的倫理は、いわば個人倫理的に、自己の善のみを説くものとなるか、自己の(利己的)善がそのまま他者の善ともなると説くことになる。

 後者の場合、多くなされるのは、その自己の善を道徳化して、簡単に言えば、道徳的であることが真の自己利益だと説くことである。プラトンがその代表例である。立岩真也の議論にもそのようなところが見られるのだが、小泉は、立岩を批判しつつ、「病人」という、或る意味で最も利己的とも言いうる存在態に即して、その利己を利他と「架橋」しようとしている。しかし、当日の報告において提起されたその具体的在り方(端的には、病人が生き延びるために(保険)治療を求めることが、その需要を満たす医療関係者の、その生計の確保という他者の利を結果する、という在り方)から見るなら、「架橋」には失敗していると見ざるをえない。この在り方は、例えば窃盗という利己的行為がそれを取り締まる治安担当者の生計の維持を確保するというのと基本的に同じであり、そして、治安維持はコストであって、それは他者達一般の「利」を損なうことになるからである。

 筆者としては、「架橋」するのであれば、いわば逆方向に、短期的利己の制限という利他性が長期的には自己利益の確保に繋がることの証示という(小泉が「契約論のレトリック」として批判した)かたちでしかありえないと主張したい。

 

二 「利益」概念  この主張は、当の「利」について、−−理論的にはおよそ全ての事態を「利」とみなすことができるのであるが、そうした包括的「利益」規定は排して−−自己の「利」の追求の制限が倫理性となるものへと「利」を限定する作業を伴なわなければならない。この限定下での「利」は、通常「経済的利益」「物質的利益」として語られているものと重なってくるが、しかし「経済的」「物質的」の(再)規定を伴いつつ−−提題報告で試論を提示したが−−厳密な考察が求められるところである。

 このことは換言するなら、その追求が倫理=利他となる類の自己の「利」を「利」から排除することである。この点については、「分かち合い」と「譲り合い」の相違を再確認しておきたい。筆者の意での「利己の制限」は「譲り合い」という側面をもつが、「分かち合い」はこれとは別である。物理的事柄としてはこれも「譲り合い」を含むが、「分かち合い」は、その関係における例えば「暖かさ」「良心の満足」といった付加的「利」を有意化するものである。これであれば、「分かつ」という利他行為が直ちに(別種の)自己利益の実現となってしまう。

 「利他主義」の側面から言うなら、これは一部の厚生経済学者などが言う「純粋な利他主義」であるが、相手に分かち与えることが「暖かさ」実現の手段とされるならば「不純な利他主義」に転落してしまう。これで言うなら我々は利他主義を、与えられた相手側の「利」のみを有意化する「真正の利他主義」に限定し、そのいわば減価版として公平主義をも含んで、そこに倫理性の核心を措定すべきであると考えている。

 この相手側の「利」を、内容的に、その相手自身が「利」とみなすものとして我々は考えている。それは、「そうした利の追求は私から見るなら悪である。別の利を求めなさい」という制限を付さないということである。そうした制限内で利他的であることは「パターナリスティックな利他主義」として概念化されているが、我々はそれを倫理性からは除外したい。このことは、相手の「利」をそのまま認める−−もちろん、いわゆる「危害原理」の下で、それが別の者の「利」を侵害する場合は制限をかけるが−−ことを意味し、坂井が言うように「相手に対して甘ちゃんになる」ことを含意する。それを、我々は「消費者主権性」への定位としても説いたところである。(因みに、最近、上野千鶴子が「当事者主権」を説いているが、それは「消費者主権」の別言とも了解できる。)

 

三 社会生物学  上記「架橋」について、我々のような行き方を採る場合、一般に進化生物学的知見の援用が有効であると言われている。これとも関連して、岸報告にもコメントしてみたい。進化生物学の「社会」への誤適用も語られ、また多くのヴァージョンのなかでの位置が筆者には分明とならなかったので、必ずしも岸報告そのものへのコメントということにはならないが、主としてR・ドーキンスに即して、かつ、むしろ(さらなる)説明の要請というかたちで、提出した疑問(の趣旨)を再確認させて頂きたい。

 少なくとも一般の了解では、社会生物学は利他行動をなんらかの利己的振舞いから説明する。ドーキンスの場合は、「利己的遺伝子」によって利他行動が説明される。例えば、親として自分の子供のために自己犠牲的行動をする、さらに、これはW・D・ハミルトンの説と言ったほうがいいかもしれぬが、いわゆる血縁淘汰の説として、自分の子を犠牲にしても兄弟・姉妹の子の面倒をみる、といった現象が、自己と同じ遺伝子のより多くの存続を目指した「利己的」振舞いとして説明されている。

 もちろん、基本的に自己と同じものの(複製的)創出であり、この「同一」ということが効いているのであろうが、その「同一性」はいわゆる「質的同一性」であって「数的同一性」ではない。しかし、「我が子を喰らうサトゥルヌス」(ゴヤ)といったものを利己主義の極致と見るなら、その我が(実)子をも犠牲にして自己の生存を図るという在り方において前提とされている同一性は、明らかに後者である。そして、少なくとも人の行為の場合、「利己的」とは「私(ego)」という数的同一態の特別視のことであろう。(ここから見るなら、「自己複製子」(「遺伝子」)を「利己的遺伝子」と呼ぶのはミスリーディングである。)

 ここで(個体ならぬ)遺伝子を遺伝情報の「乗り物」とみなしつつ、情報そのものに着目するなら、その(伝えられる)遺伝情報は数的に同一のものであると言いうる。しかし逆に、情報であるなら、「乗り物」としてのその物質的基体は何であってもいいはずである。物理的複製の因果連鎖(「生殖系列」)の点で別系統であっても、そこで伝えられている情報は数的に同一でありうる。実際、ヒト同士では、さらに他の生物種とも遺伝子はほとんど同じであると言われている。「ここからウィルソンの言う「生命愛」というものも説明できてしまうのでは」と当日述べたが、遺伝情報は、血縁の者でなくても厳密にも同じでありえ、その同じ情報をもつ者に対しては利他的に振舞うということになるのではないのか。(あるいは、血縁を有意化する際、実は個々の遺伝子ではなく各個体の遺伝子総体=ゲノムのことを念頭に置いているのであろうか。)

 これは、もちろん、相手が有している遺伝子(情報)が認知できるということを前提にしてのことで、通常は、そうした認知を前提とせず、遺伝子はいわば盲目的に振舞っているとされ、確率論的に、近くに居る者が−−そしてそれは血縁の者である確率が高いのであるが−−同じ遺伝子を含む確率が高いので、同じ遺伝子をもっていてもそうでない者に対しては利他的に振舞わないのに対して、近くに居る者に対して利他的に振舞う、と−−群淘汰の考えを付加しつつ?−−説かれている。

 しかしこれは、「群」が閉じたものであることを前提する。人間の社会、特に近代社会に定位する場合、その開放性ゆえに、このアイデアは適用できないことになる。ここで(先ずは、会場におられた専門家の発言を促したが遠慮されたので自ら)H・サイモンの(九十年代の)議論に言及したが、それは、単純化して言うなら、血縁のない者に対しても利他的に振舞うことの有利さの説明として、社会は、(それ自身の存続のために)利他主義を説きつつ、それを受容するに足る「柔順性」をもった者、つまり利他主義者には、同時に、そうでない場合には与えられない自己繁栄の(技術)知を与え、そのことによってトータルとして、利他主義者を有利な位置に置く、と説くものである。

 このアイデアは「限定された合理性」と対になったものであって、その点は受け容れるが、しかし人間の事象については、いわば単独行動態に対する相互的利他主義の関係態=「協力」の関係態の有利性を前提として、−−(或る程度の)相互的認知性を前提として−−利他的(公平的)に振舞う者のみが、この有利な関係態に参加することができる、というアイデアを採るべきだと我々は考えている。

 

四 倫理学の定位点  このことはしかし、集団的エゴイスム(現世代エゴイズムをその一つの形態として含む)をそのままでは排除しない。ここに大川によって語られたことの我々にとっての課題性があるが、ここでは、例えば柄谷行人の世界資本主義(=共産主義)論を想起して頂いてもいいが、A・スミスとも絡めて「分業」=協力という側面から、世界大的な協力関係ということを述べるだけにしたい。また、特に世代間に定位する場合、見返り(相互性)のない利他主義として「愛」をも説いておきたい。

 大川はしかし、集団の拡大→解消という方向ではなく、特に「暴力性」に即して悪しき集団性の克服を説いた。これについて筆者としては、いわば過剰集団性としての(つまり自己目的性としての)「政治」性の克服を基本方向として設定したい。この方向は(実は)、「われわれ」としての、(集団内的)「利他」とも連動する類の「利己」=集団の一員として自己を同定することの「利」を非有意化することを含意する。

 大川にも見られるが、「益」を語るというシンポジウム全体の方向性を否定して(他者の)「苦」に定位すべきであると説いた大庭健が典型的にそうであった志向性に対して我々は、倫理は、世界の現状に定位して、その悪に対していわば補正的に関わるのではなく、善き世界−−その不在が「悪」を結果している−−を構成する原理として措定されるべきであると説きたい。強調された「規範性」についても、そうした構成的規範性として問題としたい。少なくとも当日は、筆者はそうした原理論的次元で語ったつもりである。