ベンサムの(もう一つの)科学主義

安彦一恵

 ベンサムを評してJ.S.ミルは、「倫理学と政治学のなかに、科学の観念に必要不可欠な思考の習慣と研究方法を導き入れた」と述べている(*1)。簡単に言って、「ベンサムの書物は......立法の問題に科学的方法を適用した」(*2)のである。このようにベンサムを「科学主義者」として規定することは一般に異論のないところであろう。しかしながら、そう規定することによってベンサムの精神はそれほど明らかにならないと我々は考える。当の「科学主義」概念が多義的であるからである。これを「合理主義」に置き換えても同様である。しかし、この「合理主義」としては、共に「合理主義」と呼ぶことが可能でありながら、「大陸合理論」と「イギリス経験論」として互いに対立する二傾向を含むということに即して、限定して後者のうちにベンサムを位置づけることができる。その場合、ベンサムの精神は「経験論的合理主義」として規定可能である。そして「科学主義」としても、「経験論的科学主義」として規定することができる。しかしながら「経験論的科学主義」とは何か。そもそも「経験論」と「科学主義」とが対比される場合もある。本稿は、通常あいまいに「科学主義者」と規定されるベンサムについて、いわば「もう一つの科学主義」として、その「科学主義」の精神を明らかにしようとするものである。

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*1 杉原/山下編『J.S.ミル初期著作集3』御茶の水書房,1980,238.(back)
*2 Stephen,L.,The English Utilitarians,Augustus M.Kelly Publishers,1968 (org.:1900),vol.1,181(back)

   

一 反〈理念主義〉

 「観念史」派のバウマー(Baumer),F.L.は大著『近現代ヨーロッパの思想』(大修館,1992)で「19世紀を特徴づけた4つの世界」として「ロマン主義の世界」「新啓蒙主義の世界」「進化論の世界」「世紀末」を挙げ(371)、「新啓蒙主義」の一潮流としてJ.S.ミルと共にベンサムを挙げる(372)。ベンサムはもちろん18世紀人でもあって、18世紀啓蒙主義の傾向に位置づけることもなされており、バウマーも「新啓蒙主義」と「啓蒙主義」との連続性をも言うのであるが(*1)、我々はこのシェーマのうちの「新啓蒙主義」の反「ロマン主義」的含意に注目したい。バウマーは「4つの世界」について19世紀はこの順で経過したとしつつも、最初の二つについては「時代をほぼおなじくしながら」「はげしく衝突した」(426)と見ている。我々も、これに着目して、「ロマン主義」との対抗軸において、〈反ロマン主義〉というところからベンサムの精神を取り出しうると考える。
 この〈反ロマン主義〉として「新啓蒙主義」は、バウマーではその意義があまり評価されていないのだが、単純に「啓蒙主義」を継承するだけのものではない。それは(いわば啓蒙主義全般のうちの)18世紀的な「啓蒙哲学」への批判をも含むものである。18世紀啓蒙哲学は、強く〈理念主義〉(あるいは「理想主義」)の性格をもつものであって、19世紀においてこの〈理念主義〉を継承するのは、「新啓蒙主義」ではなくてむしろ「ロマン主義」である。ベンサムの〈反ロマン主義〉から、我々はまず、この反〈理念主義〉の側面を取り出すことができる。よく知られた自然権論批判、契約論批判(*2)は、彼の〈理念主義〉批判が端的に現われているところである。
 ベンサムがこれらの考え方を批判するのは、それらが「原契約」「権利」といった〈観念〉を用いるからである。ベンサムにとって「原契約」「権利」とは「擬制fiction」である。なるほど、それらの「言葉」は存在しているのだが、それは「実在」を指示する言葉ではない。あるいは、およそ言葉はなんらかの「実体」を指示するとみるなら、これらの言葉が指示するのは「虚構実体」であって、それは例えば「木」という言葉が指し示すもの(「実在実体」)とは別のものである(*3)。ベンサムはさらに、およそ「法」一般をそうした「擬制」の体系として把握する。しかし彼は同時に、正しい「擬制」とそうではないものとを区別して(*4)、実定法を前者だとする−−ここから、「自然法学」に対する「実定法学」が形成されていくことになる−−。それは、実定法の場合、その存在が、主権者の意志や、諸個人の是認の感情あるいは諸個人間の実際の約束へと還元できるからである。ベンサムは実証主義(感覚主義)的に、「感覚」のみが実在の保証であるとする。(実際、論理実証主義者であるC.オグデンがベンサムの「虚構論」を(再)発掘した(*5)(*6))そして彼の功利主義とは何よりも、この「感覚」レヴェルで「効用」のうちに行為の正当性の根拠を置くものであったのである(*7)
 こうした「原契約」「権利」の観念のいわば脱構築が、フランス革命を始めとして、それに依拠して革命を進めてきた流れに対して、その限りでは敵対するという機能をもつというのは、その通りである。しかし、ここから「J.ベンサム......の政治思想に潜む保守主義的傾向を指摘する」(*8)ことは不適切である。なるほど、抽象的理念の批判という点ではE.バークとの共通性を指摘できる。また、ベンサムと同じ経験論的立場に立つヒュームの場合、そこに「保守主義」を読み取ることができる。しかし我々は、同じ経験論者であっても、ベンサムは保守主義者ではないと見ている。その点では−−「論理的経験主義」として−−同じく経験論である「論理実証主義」と同様である。しかしながら、そうであっても、反〈理念主義〉という側面(反・啓蒙主義的哲学と換言してもいい)を保守主義と共有するということはできるであろう。例えばマクミュレイは「ベンサムは若いときはトーリーであり、ルソーの理念や、フランス革命の他の哲学者達を嫌った」(*9)と述べているが、このことは政治的立場の変更後も変わらなかったのである。

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*1 シジウィックは、上述のスティーヴンに従って、「ベンサム主義は一つのアクティヴな勢力としては......むしろ19世紀に属する」としつつも、「啓蒙主義」との連続性において、それを「王政復古と反動の哲学が戦わなければならなかった世俗的合理主義」として規定している。"Bentham and Benthamism in Politics and Ethics",in:Miscellaneans Essays and Addresses,Macmillan and co.1904,137.(back)
*2 『統治論断片』(永井義雄『ベンサム』講談社 1982,158ff.に抜粋が邦訳されている)参照。(back)
*3 K.バーク『象徴と社会』法政大学出版局,1994,318 参照(back)
*4 cf.Hume,J.L.,"The Political Functions of Bentham's Theory of Fiction",in:Bentham Newsletter,vol.3.1979,19.(back)
*5 オグデンはさらに、「論理実証主義者としてのベンサムを発見した」(土屋恵一郎『社会のレトリック』新曜社,1985,164.)。(back)
*6 この「虚構論」を極限まで進めると、一つのかたちとして、すべての対象を理論的(構成物)だとするクワインの立場に至るが、彼は実際、こうした考えを「ベンサムにまで遡るものだ」としている。Theories and Things,Harvard University Press,1981,20.(back)
*7 ディンウィディ(Dinwiddy),J.R.はこう述べている。「かれ[ベンサム]が承認してはっきりと述べたのは、功利の原理はその正しさを証明し得ない公理であるということであった。けれどもかれがつくり出そうとしたのは、人間本性についての観察可能な事実(とかれが見なしたもの)と一致しているうえに、宗教的または神秘的な諸観念に少しも頼らなくてよい道徳理論であった。真の知識とは「感覚と経験」とから導かれると、かれは信じたし、道徳と立法との理論をこの「揺るぎない土台」(B i 304)のうえに組み立てたいと願った。」(『ベンサム』日本経済評論社,1993,35)[B i は Works of Jeremy Bentham,ed.by Jon Bowring,vol.1 を意味する。我々も以下、この全集から引用するときは同じ表記法を採用する。](back)
*8 北岡勲『新保守主義』御茶の水書房,1991,151.(back)
*9 Macmurray,J.,Some Makers of The Modern Spirit,Books for Libraries Press,1933,127.(back)

   

二 反「保守主義」

 ここで「保守主義者でない」というのは政治的意味に限定されるものではない。我々が「保守主義」として考えているのは、そうした政治的保守主義の基底にも存在する、〈解釈(学)主義〉とでも呼びうるものである。それは、例えば村上泰亮が「進歩主義は、超越論型の反省 transcendental reflection (つまりひたすらに高次の抽象的法則や理念を追求しようとする姿勢)に、/保守主義は、解釈型の反省 hermeneutic reflection (つまり常に具体的な生活世界やその歴史に照合しようとする姿勢)に、/それぞれ深い類縁関係がある。」(「世紀末の保守と革新」『中央公論』1990年1月号)と言うときの「解釈型の反省」に対応するものである。
 しかしながら、この村上氏の図式で言うと、ベンサムは対極の「超越論型の反省」を採るものではない。これは、我々の言う〈理念主義〉に対応するものである。同じく合理主義であっても、これを〈理念的合理主義〉と呼ぶなら、ベンサムのは〈現実的合理主義〉とでも呼べるものである。そしてそれは、〈解釈(学)主義〉とも異なるものである。私見では、この〈現実的合理主義〉と〈解釈(学)主義〉との相違は、「伝統」に対するスタンスの違いとして明瞭となる。ベンサムの思索の出発点がブラックストーン批判にあることはよく知られている。ブラックストーンのコモン・ロー擁護の立場は、思考タイプとして一般化するなら、「伝統」として蓄積された知識−−ヒュームにはこの意味での「経験」の重視がある−−への依拠、簡単に言って「過去」の尊重である。ディンウィディによるならベンサムはこれに対して、「歴史[ここは「過去」と読む]に価値があるのは、なされるべきことを示すことよりも、避けるべきことを示すことのほうが大きいという考えに傾きがちであった。かれが『虚偽の書』の中で述べたように、「われわれが多くを学ぶべきは、われわれの祖先の愚かさからであって、英知からではない」(B ii 401)」(前掲書 116)のである。
 言うまでもなくこれは、〈過去の誤りから学ぶ〉というだけのものではない。〈過去からの知識〉(=伝統)に依拠することなく、いわば現在において、その感覚的経験(と推論)の明証に依拠して知識を構築しようというものである。それは一種の〈明晰主義〉だと言ってもいい。彼がコモン・ローを批判したのは、それが曖昧でもある−−そこに特殊な解釈能力を有した職業的法律家と、裁判官の自由裁量によるその都度の解釈とが必要になる−−からである。これに対してベンサムが求めたのは、各条文が一義的に意味了解可能で、かつ事態に関して欠けるところのない法律体系(「パノミオン」(B iii,211))である。であるから、ベンサムは法典編纂に心血を注いだのである。
 ではベンサムは、(明示的な)知識でもって全てを統制できるとする考え方を採っていたのか。フーコーなどは、知識を技術知の側面から見て、その技術知による支配を近代社会の本質として捉え、ベンサムを典型として例の「パノプティコン」を引き合いに出すのであるが、それは適切なベンサム理解であろうか。別の側面から言うなら、ハイエクのように「設計主義者」としてベンサムを捉えることは正確な理解なのであろうか。
 後者の側面から見るとして、「設計主義」の典型として「社会主義計画経済」が普通挙げられる。これは市場メカニズムを排してすべて政治による計画で経済を運営しようとするものである。しかるにベンサムは、(全面的にではないが)明らかに「自由放任」を説いている。「自然が、産業の適用に関して、最も有利な部門にプレミアムを与える。......人為的プレミアムが自然的プレミアムと同じ方針を取っても、それは無益である。」(*1)と述べられている。さらに当の「法」についても、「私の幸福は、私が法によって強制・制約されることによって......効果の点であなたや他の誰かによってそうされる場合と同様に、破壊されるであろう」(*2)とさえ語られる。
 ベンサムにとって、法による統制がむしろ不在であるべき領域が少なくとも経済領域にはあるのであって、決して法によるすべてのコントロールが語られるわけではないのである。ベンサムが法による統制の目的として考えているのは、本質的には「安全」であり、そしてそれは(私的所有の保障という点で経済的な観点からの)個人の自由の確保のためのものであって、法によって経済活動に介入しようというのではないのである。
 しかしながらハイエクは、「設計主義的」な「自由放任」というものもありえると語る(*3)。バリー(Barry)によるなら、ハイエクにとって自由放任主義とは、法なしでも人はうまくやっていけるであろうという人間観に基づくものであるが、人間は法なしでうまくやれるほど善ではない。そこに「ルール」(一般的な法)が必要になる。だが、こういう趣旨でならベンサムもまさに法を認めるであろう。そもそも「自由放任」の理解がハイエクでは特殊であって、それは日本語でまさしく「自由放任」と呼べる状態を意味する。これに対してベンサムにおいては、通常の理解で〈市場メカニズムに委ねる〉という意味でであるし、その〈メカニズム〉が有効に働くための法規制は当然想定されている。ただし、その「ルール」=「法」について、ハイエクは−−コモン・ロー的観念に近いかたちで−−自生的なルールを語るのに対して、ベンサムでは意図的な法であるという違いがある(*4)。ベンサムにはさらに、自生的にはむしろうまく行かないという認識もある。したがって、意図的な一般的規制を説くという意味ではベンサムは「設計主義者」であると規定しても構わない。
 ただしまた、その場合でも「デカルト的」とさらに限定を付す場合は、ベンサムは「設計主義者」とは言えなくなる。上に確認したようにベンサムはデカルトのような〈理念主義者〉ではないからである。

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*1 J.Bentham,Economic Writings,ed.by W.Stark,vol.1,213. A.Dube,"Hayek on Bentham",in:Utilitas,vol.2,no.1.,1990,74から 引用。(back)
*2 Bentham MSS,University College London lxix.,55. 同様 A.Dube,74 から引用。(back)
*3 N.P.バリー『ハイエクの社会・経済哲学』春秋社,1984,85 参照。(back)
*4 Stephen,op.cit.,304(「ベンサムは、制度は機能するよう意図した通りに機能するであろうと仮定した。」)参照。(back)

   

三 反「歴史主義」(一)

 さて以上は、簡単にはスティーヴンと共に「ベンサムはバークのロマン的方法と同様、ペインの抽象的方法ともまったく遠かった」(ibid,195)と言えば済むところである。しかし我々はこれではまだ漏れてくるところがあると考える。ベンサムの〈反ロマン主義〉はさらに含意をもつ。「ロマン主義」は「歴史主義」を内含する。したがって〈反ロマン主義〉はさらに、反「歴史主義」という側面をもつ。我々は、ベンサムの合理主義はこの「歴史主義」と対比することによって最もよく特徴づけられると考える。例えば建築史家のF.ショエは、アーバニズムについてだが19世紀−−厳密には1848年から1914年の時期だが−−に関して上述のバウマーの見取図を更に還元するかたちで次のように述べている。「この時期を通じて論争は......現代性(モデルニテ)と伝統との二つの対立する極の廻りで行なわれた。現代性は、最初は衛生学との関係で受け止められたが、しかしまた社会・経済・技術の新しい構造としても理解された。これらの諸構造は、都市空間の転形を呼び出した。これに対して伝統は、歴史研究の展開によって引き立たせられた。そして、そうした研究から伝統が生ぜしめた関心が、古代都市や過去の建築形式の再評価を導くこととなった。/18世紀の後半から、居住空間に関する考察は、衛生思想と医学思想の一角を占めていた。1770年代の病院計画に伴う諸論稿や、それより少し遅れてジェレミー・ベンサムの著作から影響を受けたパノプティックな諸著作、啓蒙の進歩主義的諸ユートピア−−それは、19世紀の最初の三分の一の期間を通してフーリエの仕事と交代したが−−が、都市地域あるいは制度の治療的価値をもった合理モデルを提供した。これらのものが、19世紀後半に生じたアーバニズムの理論の序章を構成するのである。」(*1) これを都市史家のD.J.オールセン(Olsen)は文明論的ないしは精神史的に一般化しつつ、大要して「19世紀は歴史と、科学・工学およびベンサムとフーリエの啓蒙運動との争いであった」といった趣旨で纏めている(*2)。我々は、この、「歴史」に対する「科学・工学」の精神としてベンサムは最もよく理解可能であると考えているのである。
 一般に「功利主義」と「歴史」とは、18世紀の(啓蒙的)「哲学」精神と19世紀的な「歴史」という対比がなされている。(上のショエにも、部分的に−−我々から見れば誤ったかたちで−−この見方が影響している。)そして、ベンサムに比べて(中期)ミルにはロマン主義的な「歴史」への回帰の側面があり、それが功利主義のヘドニズム的側面に対する修正を結果した、と見られている。しかしながら、この場合「歴史」には二義がある。一つは、ほとんど「経験」と換言可能なものである。例えば『ミル記念論文集』(木鐸社,1979)所収諸論稿は、ベンサムと比べて(中期)ミルには「歴史」の重視が見られるとしているが(*3)、それは基本的にこの意味におけるものである。
 しかしながら、我々がここで言う「歴史主義」とは、そのような〈経験の重視〉といったものではない。すでに確認したように、ベンサムは初めから反〈理念主義〉者であり、そうした者として、その「合理主義」は〈経験の重視〉を含むものである。我々が言う「歴史主義」とは、あくまで「科学・工学」の精神の対極にくるものである。ベンサムはそうしたものとしての「歴史主義」の対極に位置するのである。
 「科学・工学」的精神と「歴史主義」とは、ポパーに即して対置されてもいる。例えば橋本努『自由の論法』創文社,1995,212 では次のように説かれている。「ポパーはまず、工学的精神の重要性を強調する。工学的精神をもたない反社会工学者は、実践的な社会改革を無力だとする歴史主義に他ならない。この種の『歴史主義者は、社会制度というものを主としてその歴史、その起源、展開、現在および未来における意義といった観点から眺める傾向がある[P1]。彼は、その起源は人間のであれ神のであれ、明確な計画や設計に基づき、明確な目的の追求に基づくものだと主張するかもしれない[P2]......。』これに対して社会工学者ないし技術者は、『歴史的傾向とか人間の運命などというものについては、何ら問うことがない[P3]。彼は人間が自分自身の運命の主人であり、われわれは......目的に応じて人間の歴史に影響を与えたり変化させることができると信じている[P4]』。彼は『制度に対して、一定の目的に役立つ手段として合理的に向かうのであり、技術者として、もっぱらその適合性、効率性、単純性などに応じてそれを判断するのである[P5]』。」[『 』内はポパーからの引用。[P1]等は本稿筆者の付加]
 [P5]はベンサムの立場の形容としてもぴったりのものだが、しかしながら、ベンサムの場合この対比だけでは、その反歴史主義の特質はまだ明らかにならないと考える。ポパーは「歴史主義」を、通常「歴史法則主義」と訳出される"Historizismus"という独自の範疇として問題としている。しかしベンサムにとって「歴史主義」とは、そうした「歴史法則」の仮定[P1-P3参照](のみ)にあるのではない。それは、いわば「歴史」との関係の在り方のうちにある。確かにポパーの"Historizismus"は「歴史信仰」と訳出されることもある。この「信仰」とは、「歴史」に対する関係の在り方の一様態である。そして、これに対するベンサムの対「歴史」関係の在り方は「信仰」からおよそほど遠いものである。その意味では、ポパー的精神として何程かベンサム的精神を示すことができるとは言える。しかし、それでもなお不十分である。
 この訳語を採用しているのは小河原誠氏であり、彼は『ポパー』講談社,1997,144で、「「歴史法則主義」という言葉も、ポパーが「ヒストリシズム」という言葉で意味したことの全体を表現しきれていないように思われる。彼は、「ヒストリシズム」という言葉で、あらゆる形態の宿命論−−法則よりも広い意味での必然論−−のみならず、歴史への過剰な、かかわり、のめり込み、思い入れを意味していたように思われるからである」として、「歴史主義」を「歴史」への「過剰な思い入れ」として、したがってポパー的精神をその対極にあるものとして説いている。これは、ベンサム精神の理解にも一歩近づくものである。しかし氏は、その際、「この訳語[「歴史主義」という訳語]は、トレルチやマイネッケに代表される歴史主義あるいは歴史相対主義と混同され」(143)るので、それを避けるためもあって「歴史信仰」という訳語を導入するのであるという説明をも付ける。これに対して我々は、「歴史信仰」をそうした(本流の)「歴史主義」にも当てはまるものとして理解している。「過剰な思い入れ」も、そうした「歴史主義」全般の属性として規定されるべきであると考える。
 その場合「過剰な思い入れ」はいわば一つの美学的範疇としてこそ、より適切に理解可能である。したがってその側面から考察するとして、ベンサムにとって「歴史主義」は誰によって代表されるかと言うなら、それは例えばウォルター・スコットである。実際すでに、両者の関係に焦点を当てて「ベンサムとスコットとは対立する観点をもつ、と語られてきた」(*4)。しかしながら、「ベンサムがスコットを無視したのと全く同様、スコットはベンサムを無視したように思われる」(*5)のであって、(バウリング編)ベンサム全集索引にW.Scottの項目はあるが、それで調べても内容的発言はまったくない。しかし、この両者の相違がベンサム的精神の特質、少なくともその反「歴史主義」の特質の解明に重要であることは変わらない。それは、スコットに「歴史主義」(の一側面、しかし上に言う「過剰な思い入れ」の側面)の核心が示されているからである(*6)
 先にも引用したスティーヴンは、同様スコットに「歴史主義」の源泉を確認しつつ、功利主義との対立におけるスコットを次のように描き出している。「よく言われているようにスコットは、我々の祖先はかつて我々自身と同じように生き生きとしていたと我々に教えた最初の人物であった。......彼は、過去に根差した制度と歴史的組織の富を心から愛した。彼は、バークの政治的教義を詩とフィクションとに移転した。彼にとっては、革命運動は単純に、あらゆる古き紐帯を骨抜きにし、溶解させるものであった。古くからの伝統を弱体化し、国民を群衆に置き換えてしまうからである。彼には、国民の生活の連続性が本質的条件であると思われた。国民とは、個別的な諸個人の集合体ではなく、古くからの体系の上に展開する昔から続く有機体なのである。......歴史の生き生きとした実現は、古くからの秩序への愛と共に自然に進むものなのである。スコットは、あらゆる革命主義者にとってと同様、功利主義者にとって最も意に沿わぬような歴史観念を鼓舞しつつあった。」(op.cit.,366-8) ラスキンも、自然観に即してだがスコットの「歴史主義」を次のように描出している。「かうして「自然」はScottには三重の意味で愛すべきものとなる。第一は都會に見出すことの出來ない過去の遺跡や記念物を藏し、そして其荒涼たる土地の到る處の緑の丘陵の蔭に、Praetoriaの塚又は騎士の墳墓を見出す為めである。第二は、塀を廻らした花園が中世の人に魅力を有したと同樣に、自由な快濶な沼地が彼に魅力を有する為めである。......第三にScottは都會と人間とに共に見ることの出來ない、あの完全な美の為めに自然を愛する。此美を凡ての近代人は遂に渇望し始めた。そして新しさと氣力に富んだScottは萬人の中で最も熱心に此美を求めたのであつた。」(『近世畫家論(三)』春秋社,1933,167f.)
 このようなスコットに始まる系列のなかに例えばコールリッジも位置する。そしてコールリッジに即しては、すでにミルがベンサムと対極に来る人物として描いている。しかしそれではベンサムは、「歴史主義」として言うなら〈過去主義〉(的「歴史主義」)(*7)の対極として位置づけられるにすぎない。ここで我々は、上述の〈「科学・工学」の精神〉の含意を〈反ロマン主義〉ということから少し広げて見なければならない。

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*1 F.Choay,"Pense'es sur la ville, ars de la ville",in:La ville de l'a^ge industriel,dirige par M.Agulhon,Seuil,1983,159f.(back)
*2 D.J.オールセン『芸術作品としての都市』芸立出版,1992,472 参照。(back)
*3 例えば、「ベンサムと自分の父の著作に示された「幾何学的」あるいは抽象的方法......。ミルは、このような間違いを確かめようと試みることによって、社会科学における真の歴史的方法についての彼の究極的な考え方に向かって研究し始めたのである。」(バーンズ(Burns),J.M.;16f.)(back)
*4 J.Dinwiddy,Radicalism and Reform in Britain,The Hambeledon Press,1992,340.(back)
*5 ibid.(back)
*6 イギリスの歴史家のトレヴェリアンは、19世紀に特徴的な歴史主義の源泉はスコットであると指摘している。草光俊雄「歴史は文学か科学か」(『英国をみる−−歴史と社会』(『歴史と社会』第11号)リブロポート,1991 所収),73 参照。(back)
*7 このカテゴリーについては拙稿「歴史主義について」(Dialogica no.3,1997(electronic journal = http://www.sue.shiga-u.ac.jp/WWW/dept/e_ph/dia/3.html))参照。(back)

   

四 反「歴史主義」(二)

 ベンサムは、"Historizismus"としてポパーが批判した「歴史主義」の対極に位置する者でもあると我々は見ている。我々は、そうした「歴史主義」の代表例として、−−ポパー自身が挙げているマルクス主義をも挙げうるが−−大分後の時期のものであるが(イタリア)「未来派」を挙げることができる。この「未来派」はまさしく〈未来主義〉として〈過去主義〉の対極に来るものである。しかし、また別のかたちでの「歴史に対する過剰な思い入れ」を含むものであって、「歴史主義」という共通の基盤の上で〈過去主義〉と対立するものである。これに対してベンサムは、この基盤そのものの対極にくる。
 厳密に言うなら複雑になるのだが、ショエが「伝統」(〈過去主義〉に相当)に対置した「現代性」(モダニズム)の一ヴァージョンが「未来派」であり、かつそれは「モダニズム」のうちの「歴史主義」的傾向の一ヴァージョンでもある。そうであるとして上記の土屋氏は『ベンサムという男』(青土社,1993)で、ベンサムを美学的にこの「モダニズム」のなかに位置づけて、次のように語っている。「美という観念ほどベンサムからほど遠いものはない。ブラックストーンは建築の必須不可欠のものとして......堅牢、便利、美の三つをあげていた。......ブラックストーンにとって、美を構成するものは均斉と装飾であった。この二つがベンサムの建築[パノプティコン]の観念のなかにはない。まったくの機能性に建築を還元してしまって、しかもそれがいつでも、完全な視覚の支配に置かれなければならないならば、装飾は世界をおおってしまうものに他ならない。/......[ベンサムが「晩年に居を構え」た(94)]フォード僧院の威厳と荘重さは、確かにロムリーが語ったように、ベンサムの哲学とはまったく異質な世界に見える。しかし本当はそうではないのだ。機能に全てが還元されたパノプチックな世界のうちには、美と装飾が剥ぎとられて、透過された全体が姿を現わす。その巨大趣味と細部への区分化、断片化は、機能主義のコスミックな感覚である。」(97f.) 「パノプチコンというベンサムの建築の理想は、効率と整然さではなく、むしろ、この崇高さへの欲望によって作られた。最大多数の最大幸福という功利主義の原則の背後にも、数量の巨大さがもたらす崇高の美学があったのだ。」(112) そして氏は、パノプティコンは「機能こそ美しいといった、反装飾的な建築家ル・コルビュジエの世界に通底するといってまちがいがあるだろうか。」(108)と語る。
 しかし我々は、ベンサムをこのように、(単に)〈過去主義〉との対比においてモダニズムに分類することは無理だと考える。(氏はナチズムのうちにも「崇高」を見るが、我々の理解ではナチズムは〈未来派〉に近いかたちで歴史主義を含んでいる。したがって、「崇高」の規定によってはベンサムは逆に歴史主義に接近することにもなる。)「美学」を言うなら、ベンサムの美学はむしろ旧式のものであると我々は見ている。実際ベンサムの趣味は、動物を飼うことや、ヴァイオリンを弾くことであった。その意味で、趣味の内容としては〈過去主義〉的であるとさえ言える。しかしながら、その趣味への対し方が〈過去主義〉と、そして「歴史主義」一般と異なっていた。それは、そこに〈こだわり〉といったものが欠如しているとでも表現できるものである。「偏見なしに見れば、ピンはじきゲームは音楽や詩の技術や知識と等しい価値を持つ」(B ii,253. ディンウィディ188 から引用)という有名な件はこのことを示している。換言するなら−−これは、まさに土屋氏も(他方では)認めているところなのであるが−−趣味も徹底して感覚に還元されているのである。(因みに、「印象派」絵画はこの感覚主義の典型例である。)そのスタンスは、(ヘドニズムというよりは)エピキュロス主義である−−したがってまた「快」は、ミルが(誤解して)弁明に務めたように、決して「低級」なものに限られるものではない−−。我々が、ベンサムが単に〈過去主義〉の反対に位置するだけでなく、その根本において反「歴史主義」的だと言うのは、本質的にはこのスタンスのことである。
 美に関してこのエピキュロス主義が「歴史主義」と異なるのは、換言するなら、いわば〈観念性の欠如〉である。特に〈過去主義〉については(抽象的なものに対する)具体的なものへの着目をもって特徴づけられることもあるが、そう言うこと自身は誤りでないが、その具体的なものへの着目が〈観念的〉なのである。その意味では抽象的であるとさえ言ってもいいかもしれない。実際、例えば先に引用したラスキンはスコットについて「抽象的な存在である自然に對する此純粹な熱情は......好古の情と美しい色彩並に形状を愛する心とによって益々其度を強める。......此二つの感情は......共にScottの幼時から本能的に存してゐた」(前掲書,166)と語っている。ラスキンはこのような「感受性」を"Pathetic fallacy"と呼んでいるが(同,54)、我々の理解では、この"pathetic"という状態は〈観念〉が−−それとして分離して意識されることなく(この点で18世紀「啓蒙主義」的〈観念〉と異なる)−−いわば感情面に過重に投影されるところに出てくるものである。これに対してベンサムにとって美とは、あくまで快の感覚を与えてくれるものであって−−したがって、美学で言うなら「快感美学」に位置づけ可能である−−、決して規範ではなかった。平たく言ってベンサムは、快が感じられぬものを−−観念的に−−美とすることはなかったのである。
 このことはしかし、厳密に言って、或る個人にとっての快が観念に媒介されているということを排除するものではない。ベンサム個人の場合も、彼が旧式のものに快を感じたのは、それなりの一定の観念に媒介されてのことであろう。したがって、この媒介する観念の違いによって人によって感じられる快、および美は、様々でありえる(*1)。そういうものとして快・美は「主観的」である。快・美はいわば〈心理量〉であって重さや長さのような〈物理量〉ではなく、そういうものとして(その〈心理〉体制の各自性によって規定されて)「主観的」なものなのである。例えば「快楽計算」ということに即してベンサムの客観主義が語られることもあるが、それはそのままではミスリーディングであって、「快楽計算」とは主観量の「計算」が可能であることを言っているに過ぎない。(その際、−−これは「一人を一人としてカウントする」という功利主義の基本的平等観の系であるが−−その主観量はいかなるものであっても、同等にカウントされる。これに対して、等しくエピキュロス主義だと言えなくもない〈解釈(学)主義〉では、平均的な美(感)に即して、そこに「伝統」の流れといったものを想定して、それを優先的に扱うというところがある。)
 しかし他方、観念に媒介されているからといって、逆に意識的に観念に即して−−規範的に−−特定のものを美とすることをベンサムが認めているわけではない。異なった趣味に関する「寛容」(*2)が、ここから帰結することになると我々は考える。美が主観的であると認識されているから、(自分の趣味を絶対化することなく)異なった美の追求も認められることになるのである。そして「歴史主義」とは一般に、逆にこうした〈観念〉に基づいて「現実」を(時間軸で)統一化しようとするものである。〈観念〉が下敷になるから、「現実」=「歴史」に自体的意義(例えば「伝統の流れ」「発展法則」)が想定されることにもなるのである。エピキュロス主義とは、こうした〈観念〉−−それは「理念」と言い換えても構わない−−に対して、あくまで「感覚」という実質を重んじようという考え方のことである。
 我々は、このようなエピキュロス主義が政策−−ベンサムは政策志向的思想家であった−−の場面で現われるとき「科学・工学」の精神と呼ばれるのであると考えている。このような精神はモダニスム(のなかの非-歴史主義的傾向)のうちにも現われているものである。モダニズムは、(単に)〈過去主義〉と対立するだけでなく、その部分に「歴史主義」全体と対立するものをも含んでいる。その意味ではベンサムをモダニズムの系列に位置づけても構わない。ショエでは少なからず曖昧であるが、オールセンは−−ヴァレリーもまた、と付け加えてもいいであろう−−はっきりと、そうしたモダニズムの「科学・工学」の精神と「歴史主義」とを対置している。そしてベンサムの「科学主義」とは、こうした「科学・工学」の精神の別名なのである。

*1 したがって道徳の場面では、「自愛的」快の他に、「共感」の快をも含んでさまざまな種類の快が存在することになることをベンサムは認めている(『道徳および立法の諸原理序説』(『世界の名著』38,中央公論社,1967)180ff.参照)。因みに言うが、ベンサムは決して「利己主義者」などではなく、むしろこの「共感」を強調さえしている。「急進改革派」としての(福祉国家への)−−「厚生経済学」に繋がる−−志向は、彼自身においては「共感」を動機とするものであろう。ベンサムのこの側面については、大庭健「マーケット、ウェルフェアと倫理学」『専修大学人文論集』第29号,1982 参照。(back)
*2 「同性愛」処罰への批判(「自己にそむく違反、男色」(土屋編/富山監訳『ホモセクシュアリティ』弘文堂,1994)参照)は、その端的な表われである。(back)

 

 

 

(強調部分は、原文ではアンダーラインです。/註の付け方は、原文と異なっています。)


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1999/05/03 作成