このページは、科研費報告書(研究代表者:鷲田清一)『倫理学のアカウンタビリティ』(平成12年3月)pp.9-20 に掲載されたものをそのまま公開するものである。


倫理学は現実の諸問題にどうかかわるべきか

安彦一恵

0.

昨年10月の日本倫理学会第50回大会で行われたシンポジウム「二十世紀−−倫理学への問い」において、現実の諸問題に倫理学はどう関わるべきかが問われた。後半の全体シンポジウムと、−−そこではいわゆる「応用倫理学」的諸問題がもっぱら議論の対象となり、いわば社会倫理学的な「大きな」問題はほとんど問われなかったということから、それを補うべく−−前半の第一会場で行われた三シンポジウムとに定位して、そこでなされた諸議論をさらに展開させてみるというかたちで、現実の諸問題と倫理学との関係について考えてみたい。(本稿筆者は、このシンポジウムに企画・司会というかたちで関わったが、その「実行委員」の最終の仕事として、樽井正義氏と共同「文責」として『倫理学年報』第49集に「シンポジウム報告」を載せている。以下、その記述をも適宜使用する。各個別シンポジウム毎に箇条書きでまとめてあるが、前半の各シンポはAからF、後半の全体シンポはGで表記し、参照箇所を例えば G-8 のように指示する。)

1. 規範倫理学かメタ倫理学か

「倫理」の特殊性あるいは基底性 各シンポジウムにおいて、特に主張が鋭く対立する場合は、議論の展開はもっぱら規範的主張のぶつかり合いであった。私見では、多くの発言は(「学者」に対する「市民」という品川−−以下も敬称は省略させて頂く−−のターム(cf.G-11)を用いるなら)「市民」としての発言であった。換言するなら、特殊「倫理学」的発言ではなかった。しかし、倫理「学者」であっても規範的発言を行うときそれが「市民」としての発言となるのは、一つの必然である。人は「市民」として一定の規範的立場をもっているが、それが「専門家」としては異なってくるということはありえる。例えば法律家が、裁判などで自分の「市民」としての規範的立場と異なって(特定の)法体系を強く意識した規範的発言を行ったりすることがある。(これはむしろ妥当なことであって、例えば裁判官が「市民」として(その「(市民的)良心」に従って)被告人に対するならばむしろ職務違反ということになるであろう。裁判官はあくまで法律に従うのでなければならない。)また、或る医者が、「市民」として例えば国家(保険)財政の健全性というイデオロギーを信奉していても、医者としては−−その「職業倫理」に従って−−「どんなに高額な医療でも施すべきである」と発言するといったこともありえる。これに対して、倫理学者である者が「市民」としての規範的立場と異なった規範的発言を倫理学として行うということは−−例えば、本稿も実はそうであるのだが「倫理学」の意義を主張するといった特殊なケースを除いては−−アプリオリに存在しないと言いうる。であるから「「市民」としての発言であった」と述べたのであるが、これは「倫理学者」の特殊性である。「xx倫理」という特殊倫理の場合は別であるが、いわば一般「倫理」としては、−−例えば「法」とは異なって−−「倫理」という個別領域が存在するわけではない。よく「法と道徳(倫理)」という言い方がなされ、そこから「法」とは別の「倫理」という領域が存在するかのような印象が与えられたりするが、この言い方はややミスリーディングである。「倫理」という領域が存在すると語るとしても「法とは別」というかたちでいわば残余領域としてしか規定できない。倫理を内容的にポジティヴに規定するのは不可能であって、規定するなら、(いかなる内容のものであっても)「xx」として意識されているのが倫理であるというかたちで(意識論的-)形式的に規定する他ない。カントの「道徳性」の規定では、この「xx」に<尊敬している>ということが入ってくるのであるが、現在ではHareのように、overridingnessによって規定するのが標準的である。要するに、何であれ最も優先すべき(と意識されている)状態が倫理であるということになるのである。したがって、法律に従うことが究極の規範であり、その意味で倫理であるとされる場合もありうる。* 個別(領域の)職業倫理の場合は、そこにさらに領域からくる(内容的)規定性が加わってくるのであるが、(「倫理学者」が対象とする)一般倫理にはそれが不在なのであって、したがって、倫理学者として倫理を語る場合、そうであってもそれは「市民」として語ることと同じになるのである。

 * この点で、「倫理的」という語は例えば「人間的」という(評価)語と似ている。

倫理の立場というものは存在しない 換言すれば、倫理の立場というものは存在しないということである。「倫理学」には、固有領域からくるものとしては固有の立場は存在しないのである。これは、同じ規範学である「経済学」や「法学」とは、あるいは「美学」とも異なるところである。しかるに世間からは「倫理学者」に、「倫理の立場」からの発言が求められたりする。これは、「倫理学者」としては大いに困惑するところである。そこで、あえて「倫理学者」として語ろうとするなら、多少気の利いた「市民」的発言をすることにしかならないといったことも起こる。あるいは、多くの人々はなにがしか自己の利益を優先して非-倫理的に発言しがちであるとして、それに対して「倫理学者」には強い倫理性が要求されたりすることもある。ここから、そうした要求に応えるのが「倫理学者」の使命であると規定するのであれば、我々はそれを−−「市民」のうちに非-倫理的な人と倫理的な人とがいるとして、結局、倫理学者をこの後者と等置することになるものとして−−峻拒したい。ここにはそもそも「学(者)」ということに対する誤解がある。「倫理学者」が強く倫理性を求められるのであれば、例えば「犯罪学者」は強い犯罪性を求められるという(奇妙な)ことになってしまう。こうした誤解は、そもそも倫理(固有)の立場というものが存在するという誤った見方から(、そうしたものが不在であるところをなお倫理固有の立場をどこかに確保しようとして)出てくるものである。
倫理の立場は存在しうる 倫理の立場というそもそもありえないものに定位して自己規定しようとするなら、「倫理学者」は結局(倫理性の強い)「市民」と同じことになるのであるが、そうであれば、「学科」として「倫理学」が存在する必要はないということになる。社会-機能論的に考察するなら、歴史的に「倫理学者」には(自ら倫理を実践しつつ)人々を倫理的存在(国民)に教育するという任務が与えられてきたというのは事実であろう。しかしそれは、本来「倫理教育者」の任務ではあっても「倫理学者」の任務だとは言い難い。* しかしながら我々は、「倫理学」に−−「倫理」の固有性からくるものではなく、「倫理(の)」の固有性として−−なお固有の立場があると考える。その固有性は、固有領域性からくるいわば規範的方向性といったものの固有性ではなく、端的に倫理現象を対象とするという固有性である。しかしながら、ここで言う「倫理現象」とは、例えば法現象のような、一定の固有制度とそれに固有の規範意識とではなく−−いわば自己言及的に規定することになるのだが−−人々がなんらかの規範性を最優先のものとして意識しているという現象である。この意識現象は固有のものであって、倫理学はこれを対象とするものとして固有なのである。

 * 次節でも言及するが、ここで言う「倫理教育」は「倫理教育」と別である。後者の「教育」は、他の例えば「物理学教育」の場合と同じ意味のものであるのに対して、それを「知育」と言うなら「徳育」として、「人格教育」とでも呼べるものである。教育にはそうした側面もあるとして、そうした教育としての「倫理教育」についての「道徳教育学」という学科が存在しているが、「倫理学」をこの「道徳教育学」の方向づけのもとで自ら「道徳(倫理)教育」(実践)として規定するのは問題的であるということである。この点は、シンポCで「国民道徳論」の問題として展開しえたところでもあろう(cf.D-7)。

倫理学とは何か しかしながら我々はまた、例えば法律史、経済史と並列的なものとして倫理史といった記述倫理学的在り方を念頭に置いているのではない。「倫理学史」としてはこの在り方で完結しうるであろうが、「倫理学」はこれに収まらない部分をもつ。「倫理学」と言うとき我々が念頭に置いているのは、第一には、(そうした「歴史」としても記述可能な)倫理現象の「本質」の解明である。例えば先のHareはこの「解明」として、「倫理的言明」に即して「普遍化可能性」「指図性」を倫理の本質として取り出している。しかし、人々の倫理現象はそうした「本質」部分からはみ出るかたちで、相互に矛盾しもする様々な付帯的部分をもつ。「倫理学」は第二には、これに対して批判的に関わることにもなる。この両作業はしかし、学者が自らの倫理観に基づいて、したがって規範的に行うというものではない。そうではなくて、あくまで現象に即してその本質の摘出と内在的批判として行われるものである。したがってまた、倫理現象は人々の意識におけるものであるから最終的には当の人々による承認をいわば「検証」として要することになる。(これは、シンポでは川本から提起されたが未展開に留まった「反照的均衡」の論点(G-10)に関わるところである。)その意味で我々が言う「倫理学」は、規範倫理学に対して「メタ倫理学」と呼ぶべきものである。
倫理学はコンフリクトを対象とする しかしながら、そうしたメタ倫理学的作業はいかなる意義をもつのか。倫理学として現実の諸問題に関わると言うときその問題は、単に事実に関する問題であるだけでなく、その事実(問題)に関する人々の間の異なった見解間のコンフリクト状態でもある。諸問題の問題性は実はこのコンフリクト性に尽きるという場合すらありうる。倫理学とは、事実そのものではなく、この後者のコンフリクト状態を対象とするものであると我々は考えている。一例として資源問題について言えば、或る資源がどのくらいあるかということは倫理学の対象問題ではない。そうではなくて対象問題となるのは、それが或る一定量だと推測されるとして、例えばそれをどう配分するかということに関する人々の間の意見対立である。これを論じうるためには、事実問題に関する一定の知見を前提とするが、そうした知見の獲得・伝達に倫理学の本務があるのでは決してない。(この点は、特に各「応用倫理学」において必ずしも留意されていないようなので敢えて述べておく。)コンフリフト状態は他の諸学問も対象とするところであるが、この点では倫理学が特別の位置を占める。それは、意見対立が例えば法的ディスクールとして始まるとしても、それが−−未決着のまま−−徹底化されるとき必然的に倫理的ディスクールへと展開するからである。また、法的ディスクールとして始まるとしても、表面的には確かにそうであるが、そこに無意識的には倫理観が規定要因として働いているとも言いうる。法的見解の相違がどこからくるのかと言うなら、それは究極的には基底におけるこの倫理観の相違から出てきているのである。倫理的ディスクールへの展開は、この無意識の意識化でもある。
メタ倫理学として 我々は、倫理学が現実の諸問題に関わりうるとしたら、メタ倫理学であるべきだと考える。規範倫理学として関わるならば、どうしても一「市民」として関わることになり、それでは「倫理学者」であることの必然性が存在しないからである。全体シンポにおいて最も鋭く対立したのは大庭流(実存主義的)一人称倫理と、いわば他者の(が直面する)問題にコミットする(二人称)倫理とであったが(cf.G-9)、両者は規範倫理学という点では共通である。しかし、規範倫理学かメタ倫理学かという対立の方が基底的なのであり、品川の挑発的でなくもないメタ倫理学としての「応用倫理学」という規定(G-3)にもかかわらず、シンポではこの対立に関する論争は不発に終わったと言える。あるいは、メタ倫理学の「中立性」が欺瞞的であると一蹴されたままに留まった−−加藤から「中立性」の重要性が説かれたにもかかわらず−−とみることもできる(G-6)。

2. (メタ)倫理学として何をするのか

倫理的「教育」の拒否 「倫理学者」は規範倫理的に諸問題に関わるべきだという考え方はなお強い。我々は、「倫理学者」も一「市民」であって、そのかぎりで自ら規範倫理的に関わるいわば権利をもつことは認める。しかし、それは自らが当事者であるときに限るべきだと考える。規範倫理的に関わるとは自ら一定の規範的主張をすることであるが、その場合、「倫理学者」として当然より多くの倫理的知見を有しているわけであるから、そこに、異なった見解をもつ人々に対して一種の非対称関係を結果することになる。それらの人々と論争関係にあるとして、そこに、いわば(論争の)武器の不均等が生じるのである。それでも構わないとする場合、世間の非-倫理的見解に自らの倫理的見解を対置しているのだという思いがあるのかもしれない。しかし、この思い−−例えば「使命感」−−のもとで、武器の優位性に依拠して自らの倫理を主張するなら、それは一つの「教育」といったものとして受け止められるであろう。多くの<現場>で「倫理学者」が敬遠されているというのも事実であるが、それはもっぱらこの「教育」的スタンスの故ではなかろうか。(また、このスタンスは一つの独断論として、自らが誤っている場合、その誤りをチェックする途を保証しないという欠点をももつ。)我々は、諸問題に対するこうした「教育」的関わりは、むしろ問題解決に繋がらないと考える。
「倫理的還元」を 先に述べたように我々は、表面的には非-倫理的である主張も、論争の展開のなかにあって妥当なものとして主張し続けられるかぎりで必ずなんらかの倫理を含意していると考える。例えば環境問題において「開発か自然保護か」ということがしばしば基本対立となるが、これは、基底的次元では、「開発」を主張する非-倫理的(経済的)発言と、自然の価値の保護を主張する倫理的発言とが対立しているのではなく、開発によって得られる(物質的)幸福を主張する、それ自身一つの倫理である主張と、(物質的)幸福とは別の価値を主張するまた別の倫理の主張とが対立しているのである。そこで、後者の側が前者の側をもっぱら「非-倫理的だ」と批判するなら、それは論争の展開、したがって問題の解決にとってむしろ妨げとなる。「倫理学者」が後者の側に立っているとして、彼/彼女がまずしなければならないのは、相手側の主張の倫理的含意を取り出すということでなければならない。* 批判するとしても、その上でなければならない。この在り方は、広い意味ではなお教育と言えるかもしれないが、上のもの(「教」)とは明らかに別であって、それと区別するなら「教」とでも呼ぶべきものである。

 * シンポジウムBは、この「倫理的還元」の実行として、もっぱら(個人を踏みにじる)国家主義とでもして非-倫理的主張だと一蹴されることがなくもない国家の必要性の主張の根底に、笹澤は「福祉」を、藤野は「文化(的アイデンティティ)」を取り出したものとして了解することもできる。

むしろメタ倫理学的スタンスで この「教示」のスタンスを採ることは心理的には困難であって、−−Hareから、倫理的発言の特徴として「指図性」ということを引き受けるなら−−自らの倫理的発言の「指図性」を失うことにもなりかねない。このこともあって、「倫理学者」はむしろ<現場>には、言ってみれば超越的に−−悪く言えば「他人事」として、もう少し積極的に言うなら、「当事者」としてではなくいわば「行司」として−−関わって、対立し合っている諸発言を諸倫理の対立として描出するということを本務とすべきであるのではなかろうか。これも、換言するならメタ倫理学的に関わるということである。
(市民的)諸倫理の対決としての倫理学的ディスクール 相手が彼/彼女自身「倫理学者」であるときは話は異なってくる。冒頭に記したシンポジウムでは、まさしく規範的主張のぶつかり合いがあった。これを我々は、−−倫理学内部の専門的論争として捉えることもできるが、このシンポの趣旨からしてむしろ−−市民的な諸規範的主張が−−倫理学的知見を伴って「専門的」に−−倫理学(内)的主張として展開されたものとして捉えたい。(そうしたものとして理解して、シンポジウムは一般性をもちえるからである。倫理学的ディスクールはこの一般性として独自の位置を占めるのであって、この一般性をもちえるというところに倫理学の意義の一つがあると言いうる(cf.G-11)。)その場合、いわば「教育にならないように」という自制は必要ないであろう。まさしく、市民的見解の(したがって問題性の)徹底として、相互批判が十全に展開されるべきである。しかし他方、それだけでは相互批判はいわば私的事柄である。それでは「倫理学者」は−−もちろん「倫理学教育者」(これを先の「倫理教育者」と混同しないで欲しい)として職務を果たしているのであるが、いわゆる「研究者」としては−−(給料を対価とする)職務を果たしていないことにもなる。この相互批判をさらに、市民的相互批判の一つの「模範」として、具体的に言うなら、(市民的相互批判がコンフリクト解決のためのものであるとして、その)コンフリクト解決を内在化したものとして展開するのでなければならない。換言するなら、相互批判は批判のしっぱなしのまま終わってはならないのであって、どちらが正当かの決着がつけられるのでなければならないということである。(自然科学系の学会などではこれは自明の事柄であろうが、「倫理学」においてこれが困難なのは、相互批判敗者が自分の<敗北>を素直に敗北として認める用意がないからではなかろうか。あるいは、自説をいわば人格を賭けて主張していて<敗北>がいわば「人生の敗北」とでもいったものとして了解されているためでもあろうか。この点でも、自説との言うなれば<距離>を取るというメタ倫理学的スタンスが求められていると考えられる。)
弁護士としての「倫理学者」 見解の対立において相手側に倫理学者が不在である場合もありえる。その場合は−−一種「弁護士」的に−−あえてその相手側に(仮設的に)立って倫理学的主張の展開をすることも有用であろう。その場合、相手側が「権力」であるときは「御用学者」と呼ばれたりすることにもなるが、ここは−−「御用弁護士」という言い方は通常されないのだが−−論争の展開ということのために、そうした役割を引き受ける者が居てもいいのではなかろうか*。しかし、(「市民」として自分の意見をもっていて、それとは)異なった意見の弁護を引き受けるということは、心理的に一層困難である。ここでは、メタ倫理学的であることがさらに必要になる。

 * シンポジウムCにおける佐藤には、この役割を引き受けたというところが多少なくもない。

理論的ディスコースを どのポジションに関わるとしても論争において<勝ち>を目指すことが任務となるわけだが、その場合でも、ひたすら<勝ち>だけを目指すいわば実践的ディスコースではなく、むしろ論争の展開を目指す理論的ディスコースを志向すべきであろう。その理由は後述する。個別的には、自らの主張のみを倫理的主張として相手を(そもそも)非-倫理的であると決めつけることなどは禁止されるべきである。そのためにも、いわば気分としてメタ倫理学的になる必要がある。これは、主張の(規範的)倫理性を低減させることにもなるのであるが、換言するなら、その点を批判する言説−−例えば「あなたには実践が伴っていない。」「あなたには問題に対する共感がみられない。」といった発言(詰問)もそうであるが−−なども禁止されるべきであろう。(そうした発言は、論理学で言うargumentum ad hominumに相応するものでもあろう。)
倫理学は理論的ディスコースにおいて「正当化」的に関わる しかし他方、理論的ディスコースを志向するからといって、論争の展開そのものが目的であるというのではない。理論的ディスコースも、最終目標としては論争の「決着」を目指さなければならない。このためには、例えば(知的)「会話」といったものであってはならず、そしてそのために「決着」を論争の構造として内在化させるのでなければならない。これは換言すれば、(理論的)ディスコースを正当化的ディスコースとして展開するということである。この点で我々は、上記シンポジウムにおける「各意見の「正当性」(「根拠」)を問う」という品川の倫理学規定に賛成する。
品川・加藤との異同 品川は同時に「概念あるいは厳密な思考の専門家としての倫理学者」という規定を提示したが(G-3)、この、哲学(一般)に解消する側面をもつ考え方には若干の留保を述べておきたい。それは単純であって、上に言った「倫理的還元」を併せて行わなければならない、ということである。また、この品川に対して加藤は、倫理学(哲学)の(演繹-)論理的推論と(トピクを伴う)法的推論との違いを指摘した(G-3)が、我々は、「正当化」はもっぱら論理的推論として行うのでなければならないと明言しておきたい。大きく言うならこれは、解釈学的スタンスに対する合理主義的スタンスの主張でもある。

3. 合理主義的Moralphilosophieren

理論的ディスコースの主張は実践的含意をももつ 我々の考え方は例えばHabermasの「討議倫理学」の理念とも一致するものであるが*、それが−−単にメタ倫理学であるのではなく−−一つの規範倫理学であるというところからも言えるように、我々の主張は同時に実践的でもある。簡潔に言うなら我々は、問題をいわば理性的に解決しようという規範倫理学的(したがって実践的)メタ主張をも同時に行っている。これは換言すれば、「言説」への定位ということであるが、これに対してはシンポでは古茂田から「言説」での自足への留保が語られている(A-3)。古茂田によれば、「言説」を言うだけでは「言説」を持てない者の非-言説=「暴力」を単純に否定するだけになってしまう。しかし我々は、上に述べた(「弁護士」的な)代理倫理学者といったものを保証するなら、この問題点はクリアできると考える。

* ただし、我々の「理論的」「実践的」の用語法はHabermasのとは異なる。彼の用語法で換言することは困難であるが、彼の−−用語ではなく−−用語を用いて「理論的ディスコース」を「論議」と換言することはできる。ただし、彼はこれを或る箇所では「コミュニケーション的に調整される行為プランの遂行、したがって目的活動に第一義的に奉仕するのではなくて、それ自体としてはコミュニケーションを可能にし、安定化するものであるような行為連関、すなわち一定のコンテクストで自己目的となる歓談、論議、一般的に言って対話」というふうに、かつ「会話」の規定として述べている。我々はこの規定のうち、後半の「コミュニケーションを可能にし、安定化するものであるような行為連関、すなわち一定のコンテクストで自己目的となる歓談......」の部分を切り離して−−この部分(だけ)を意味するものを、「論議」と区別して「会話」と呼びつつ−−、かつ前半の「コミュニケーション的に調整される行為プランの遂行、したがって目的活動に第一義的に奉仕するのではな[い]」という部分を次のようにさらに規定して、それを「論議」(「理論的ディスコース」)と呼びたい。この部分は少なくとも二義で解釈可能である。一つは、文字通り「目的活動」であることをやめていることとして、もう一つは、自ら自身の「目的」を追求しないが、或る「目的」を自らのものではないものとして引き受けて、いわば仮言的にその「目的」の「正当化」を行うということとしてである。(このことによって、「目的」の実現そのものはいわば「中和化」されている。これに対して「目的」実現を目指すのが我々が言う「実践的ディスコース」である。)我々は第二の意味で前半部分を理解して、そこに我々の言う「論議」というものを設定したいのである。Habermas批判として展開するなら、彼においては我々の言う「論議」にあたるものが存在せず、いわば相互に自己の「目的」を正当化し、相手の主張を批判する作業が「論証の力だけ」による純合理的なプロセスとして可能であるとされ、したがって、それが同時に政治理念としても提起されることになるのであるが、我々はそれは無理であると考える。仮に「心理」をもたない人間というものがあればそれも可能であろうが、人間に「心理」があるかぎり、どうしても正当化に偏向がもたらされてしまうことになる。ここに、その偏向を矯正すべく伝統的にはideal observerというものが導入されてくることにもなるのであるが、我々はこのideal observerの機能を−−そうした理想的個人によってではなく−−一つの制度によって保証しようと考えてもいるのである。(因みに、Habermas自身が言う「理論的」「実践的」は、我々に言わせれば「規範関係的」「事実関係的」とでも換言できる。)なお、「コミュニケーション的行為概念」に焦点を併せてその多義性を指摘・整理した拙稿「「コミュニケーション的行為」概念の分析」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』第40号、1991)を参照して頂きたい。

正当化的ディスコースは妥当である Habermasのタームで言ってこのように「非対称性」が克服されるとしても、正当化的言説そのものの「抑圧」性という見方がなお存在する。しかし、我々はさらに、この「理論的ディスコース」を−−例えば法的ディスコースがそうであるようには−−権力-制度的に固定されないものとして考えている。我々は「正当化」を、所与としての特定の原理からの主張の演繹として考えているわけではない。あえて言うなら、そこで原理として(固定的に)前提されているのは「整合性」だけである。したがって、「正当化」のその正当性はいわば幅広くこの整合性によって保証されるのである。(もちろん事実との関係もあるが、今は、そうした「実証」の問題は捨象して述べている。)しかし逆に、不整合なものは直ちに不当であり、批判もこの不整合の指摘というかたちを採る。そして、この不整合を(不整合であっても)認めよという主張は不許可である。こうした正当化が抑圧的であるとなお言うのなら、それは、例えば「矛盾律」の遵守は抑圧的であるといった主張と同じになると我々は考える。それでもなお抑圧性を語るのであれば、いわば立証責任がそう主張する側にあると言いたい。
正当化の限界 ただし我々は、相互にそれぞれ完全に整合的であって、その意味で正当化されている複数の見解が並立するというケースがありうることを認める。この場合は、端的に正当な方を選ぶということは不可能になる。この場合は「倫理学」は問題決着を<政治>に委ねなければならない。しかも自らとしては退くことを伴ってである。(なお発言を続けるなら、「倫理学者」は一「市民」となる。)あるいはここで規範倫理学派と決定的に異なってくるのかもしれないが、規範倫理学派が−−(存在論的に)客観的な規範倫理的真理を想定して−−自らが真理であるとなお語るとき、我々は、それは独断であるという断定と共に「倫理学」(そのもの)の限界をも言わなければならないと考える。しかしながら、現実の<政治>には正当化されていない見解が−−単に多数見解であるというだけで−−力をもっている場合が多いと考えられる。「倫理学」はそういう現実に対しては「正当化的ディスコース」の徹底化を主張していく義務をもっている。
倫理学は(必ずしも)有効性を目指すべきではない ただしまた、そうした正当化的ディスコースそのものが有効性の点で限界をもつということも認めなければならない。しかしながら我々は、かといって逆に、有効性を追求して正当化ということ(あるいは正当化への自足)を放棄すべきだとは考えない。上記シンポにおいても、倫理学的言説をももっぱら有効性を原理として展開せよという考え方がみられたが、我々は、有効性がまさしく原理であるのが<政治>であるとして、倫理学は−−学の一つとして−−<政治>ではないと考える。このことは、−−あらゆるところに<政治>が存在するわけであるから−−「倫理学研究者」が一「市民」として、学の世界において有効性を追求することを否定するものではない。ただ、例えば有効性が同時に即真理性であるというかたちで、政治性と学問性を混同することは退けられなければならない。
学の自立性 ここで誤解しないで欲しいのだが、我々は逆に、倫理学が原理とすべき正当化ディスコースは倫理学的ディスコースあるいは学固有のディスコースであると述べているのではない。政治的ディスコースにおいても、それがディスコースであるかぎりで、「正当化的」ということは一つの理念となる。ただし、その場合は一つの理念に留まるのであって、民主主義あるいは「審議国家」に定位するとしても、それに加えて有効性というものが別の理念として存在し続ける。したがってまた、先のHabermasに対して例えばK.Guenterがさらに「適用(応用)原理」を主張することになるし、Habermas自身も「妥協」ということを語ってくることになるのである。それは、Habermasにおいて「討議倫理学」が単に<討議倫理学>といったものではなくて、一つの政治理念でもあるからである。我々はしかし、「討議倫理学」といういわば一般的(全体的)理念をそのまま倫理学的ディスコースにも適用せよと言っているのではなく−−そうするなら<政治性><政治的有効性>にも配慮しなければならなくなる−−、その理念の正当化主義という理念(の部分だけ)を<倫理学を統制するべき原理>として採用せよと言っているのである。(したがって、「妥協」云々については配慮する必要はない。)これは換言するなら、学の自立性の主張である。倫理学も学として、自立して、むしろ有効性は原理として採用すべきではないのである。ただしこのことは、例えば「政治」として政治理念を語ってはならないということを含意しないし、政治が倫理性をもつかぎりで、倫理学として政治論を語ってはならないということをも含意しない。だがら(倫理)学者であるHabermasも実際そうであるように政治論を展開して構わないのであるが、しかしその場合でも、実際の政治の論としては限界性をもっていることは弁えておくべきである。例えば「知識人」として語るときはそうなりがちであるのだが、この点が軽視されるとあのプラトンの「哲人王」という滑稽な役割を演じることにもなりかねない。
必ずしもアカデミズムではない しかしまたこのことは、いわゆるアカデミズムを説いているのではない。それ自身は有効性を原理としない領域が社会の一部分として存在していて、それが社会全体に対していわば最適化的に作用するということ−−因みに、これ自身は「功利主義」を含意しないし、ましてや社会防衛論といったものを考えているのでは全くない−−はむしろ強調したい。否定すべきだというのは、自ら自己完結的に最適性を考えてそれをそのまま実現しようとすること−−自からの(学的)言説の政治的効果を考えるというのはこの一変形である−−である。我々が強調したいのは、−−予定調和論的楽観主義だと言えば、そう言ってもらって構わないが−−そうした(有効性を考えないで)合理性をもっぱらとする(部分)領域が存在することが社会全体にとってかえって最適化的であるということである。これはイメージしにくいかもしれないが、例えば裁判において(裁判官だけでなく)検事も弁護士も被告人について(共に)最適の量刑を考える−−これは機能上、裁判官だけで裁判を行うということである−−のではない方がうまくいくということと類比させてみて頂きたい。検事側はもっぱら被告の有罪性を、弁護側はその無罪性を立証し合うことによって、その審理のトータルとして裁判は最適に展開しえるのである。全く有効性を考えないというのがアカデミズムというスタンスであるとするなら、我々は倫理学をそうしたアカデミズムとしてではなく、自らは有効性を原理としないとしても、いわば有効性原理に対抗的に-補完的に関わることによって社会全体において最適化的に働くということは考慮しているのである。
倫理学は社会の一部としてはむしろ部分的であるべきである 民主主義のイロハとして三権分立ということがある。これは、権力の分散と、その分散された諸権力間のバランスに定位したものである。しかしながら我々は倫理学を一つの権力として、例えば統治権力との対抗関係を想定しているのではない。むしろ報道というものと類比させた方がいいかもしれない。報道関係者がその報道の影響を第一に考えて(その報道行為の直接の影響として)よき影響を与えるニュースだけを提供するとすればどうなるであろうか。(他の活動性をももつ)社会全体としては、むしろそうしない方が最適であるのではなかろうか。であるから、報道倫理としては、−−報道によってよき影響を与えるということではなく−−(もちろん一定の例外的ケースはあるが)情報の(正確な)伝達ということが第一の任務とされるのであるが、それは、社会そのものの原理として言ってみれば「情報性」と例えば「安全性」−−あるいは、その系としての「有害な情報からの保護」−−という必ずしも両立しない二原則があるとして、両者間のバランスは、端的にそのバランスの保持を原理とする機能体というものの存在によってよりは、それぞれ一方の原理(だけ)を原理とする二つの機能体の拮抗によって実現されるからである。これと同様、有効性を原理とする<政治>に対して、有効性を考えずもっぱら正当化だけを事とする倫理学的ディスコースが存在することによって社会は全体として最適となりえるのである。逆に言うなら、倫理学は、自ら端的に最適性を志向する全体的ディスコースになるべきではないのである。
正当性と最適性 しかしながら、そもそもなぜそうなのか。(諸正当性主張の並置から出発して論議を経て−−一種メタ正当性として−−唯一の)正当ないわば「解」が存在するとして、それはさらに実現されるのでなければならない。しかし、正当な「解」はその「正当」であるということのゆえに直ちに実現されるというわけではない。その意味で「有効性」に欠けていると言えるのであるが、それは、正当なものは正当であるからということで人々によって直ちに受け入れられはしないからである。そこには、論証のプロセスを経ていわば論理的に受け入れられた正当なものが−−理想的には、論理的に不当と論証された自らの主張の撤回というかたちで、しかし現実には、<政治>闘争を介して、その敗北によって、あるいはその闘争のコストの回避を動機とする譲歩というかたちで−−心理的にも受け入れられていく次のプロセスが必要となる。そしてそれはコストである。このコストを勘定に入れた場合、正当性は必ずしも最適性とは言えないのである。しかし他方、或る時点(のみ)におけるいわば論証(作業)的および心理的に最も負担の少ない−−そういう意味で(いわばメタ的に、つまり各主張(の有効化)間の最少コストの折合わせというかたちで)有効な−−「解」が最適であるわけでもない。我々は(さらに)、正当性と(メタ)有効性とのいわばバランス状態として最適性が存在すると考えるのである。民主主義あるいは審議国家というのは、理念としてはこのバランスを自ら(単独で)実現しようというものであるのかもしれない。しかし我々は、これはやはり有効性の枠内に留まるとみている。それはやはり<政治>であるからである。<政治>である限り、いわば生身の人間間のディスコースとして−−必ずしも「利害(固執心)」だけでなく、「理想(追求心)」なども含めて*−−自分の「心理」と、相手側の「心理」を勘定に入れることとが作用するからである。ここでは「解」はいわば心理的妥当性−−心理的に最も(各人の)抵抗(の総和)が少ないこと−−として出てくることになる。「(メタ)有効性」とは換言すれば、この心理的妥当性のことである。

 * 我々は、実は(利害ではなくてむしろ)この「理想」が<政治>を非和解的に闘争化していると考えている。<政治>において妥協として(それなりの)問題解決が行われるためには、いわば−−自らの「理想」の実現も一つの自己利害であるとみなすという意味での−−「理想」の「利害」化が必要であると考える(因みに、Moral ThinkingにおけるHareの転回もこの一つのかたちである)。(気分として)メタ倫理学的であるということは、自らの「理想」実現をも一つの「利害」にすぎないとみなしうることを含む。同時にまた、我々が言う「正当化」は、自らの「理想」そのものの「正当化」ではなく、あくまで、それが整合的であることの「正当化」であり、したがって、不整合が分かる場合、自らのものであってもその「理想」を放棄しえることを一つの理念としている。

「審議会」に倫理学はどう関わるのか 正当性と有効性とは、正当化のディスコースと有効性のディスコースとを媒介するものが存在しなければ最適性として両者間のバランスが実現されないと我々は考える。ここに、両ディスコースを媒介するものとして−−それ自身はコストであるのだが−−「審議会」というものが存在することになる。加藤は、この「審議会」に定位して「アド・ホックな対応をすること」(G-2,4)を説いている。ここには様々の「学」と「政治」(行政)とが関わってきている。では「倫理学」はどのように関わるのか。加藤は、この審議会そのものの内部で諸立場を「媒介」(G-4)する位置を占めると考えている。シンポにおける他のいくつかの発言においてもそうした「媒介」の主張がなされたと言いうる。しかし、どのように媒介するのか。「倫理学者」に「知識人」的役割が求められたりすることもあるが、述べてきたように、これには我々は否定的である。この場合、「審議」に対して添え物的役割を果たすに留まることも多いと考えられる。加藤は、各専門領域を超えた幅広い知見を有する(有しうる)ものとしての「倫理学」−−確かに、あらゆる領域で(その個別専門家によって)「倫理」が語られており、「倫理学」はそれに対応するなら、その各領域について幅広く知ることが必要であるとは言いうる−−に定位してコーディネーター的な「媒介」の在り方を説いたと言いうる。この場合、逆に「審議」を主導することにもなるが、これはしかし、「倫理学者」固有のものではないであろう。(幅広い)事実的な知見を要するような場面では、「科学論(科学(の)哲学)」専門の学者も同じ役割を果たしうるところである。特に日本では各科学論が制度として欠如していて−−法哲学(法の科学の哲学)が唯一の例外か?−−、その欠を埋めるべく倫理学に過剰な負担が課されているのかもしれないが、「主導する」としても科学論との協同においてであるべきであろう。「倫理学」固有の役割を言うのなら、我々としてはむしろ、先の限定を付けた上であるが品川的スタンスで、各「委員」の主張の正当化作業のいわば手助けと促しとをする、その意味でのアドヴァイザー=プロモーター的な役割を果たすべきだと考える。


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2001.08.29.作成