環境問題解決における「経済」と「倫理」−−環境の倫理学として問う−− (一)

安彦一恵

"Economics" and "Ethics" in Solving the Environmental Problems -- from the Position of "Environmental Ethics" -- (1)

Kazuyoshi ABIKO


[01] 環境問題は人間の経済活動によって出現したものである。経済活動は人類の発生と同時であるが、しかし環境問題は端的には近代世界に固有のものである。近代世界の特徴は、−−人口の爆発的増加を伴って−−その経済活動の水準が飛躍的に上昇したところに在る。それは、経済のシステムが相対的に自立的となったことに大きく拠っている。だが他方、経済活動も、一つの物質的活動として、「自然」=(それを人間から見る場合「環境」であるが、その)「環境」という基盤の上に初めて成り立つものである。しかるに、まさしく自立的システムとなったことによって、この制約性は無視され、富の増大を目的としてシステムは最大限に作動される。これが即ち「経済主義」という行き方であるが、その展開に従って、やがて経済活動が「環境」に限界を越えた負荷をかけていくことになる。そしてそれが現在、経済活動がそもそもそのためのものであった人間の生活に一つの危機をもたらすに至っているのである。この事態を解決するには、−−自然科学として、「生態学」等でこの「基盤」としての自然を解明し、かつ技術的に、「基盤」をまさしく「基盤」として適切に機能させるための「技術」を生みだしつつ−−1) 人間の経済活動を対象とするのが「経済学」であるとして、それをこの自然的制約性を組み込んだものに改める必要があり、かつ、2) 基底的には人間の経済的欲望が経済活動の動機であるとして、欲望、ないしはその過剰を規制するものとしての「倫理」を再び前面に出して、その下で経済活動の適切な統制を考えなければならない。この要請を満たすものとして、前者から「環境経済学」、後者から「環境倫理学」が、そして、規制は各種の「法」的規制のかたちを採る必要も在るので併せて「環境法学」が展開されなければならない。環境問題の社会的側面について大体はこのように了解されていると言っていいであろう。*

* この”三本立て”については、例えば下記([11])の書のp.6参照。

[02] 本稿は、「環境の倫理学」として、この基本了解をまさしく基本的には認めつつ(も)、しかしそこには問題性が含まれていることを指摘し、その克服の方途を提案するものである。具体的には、「経済と倫理」という(まさに核心的)問題に焦点を当てて考察を進めていきたい。「倫理学」が現行の学問体系では「哲学」の一分野とされているとして、「環境」を「倫理」的に問う分野として「哲学」のさらなる下位分野として「環境倫理学」が在るとして、この作業は哲学として「経済」「倫理」の概念分析を行うことを第一の課題とする。倫理学として言うなら、これはメタ倫理学的作業ということになる。しかし我々は同時に、一定の規範倫理学的考察をも行わなければならないと考える。それは、環境問題を解決しなければならないと説く「陣営」の内部に規範倫理的対立が在って、むしろそれが問題未解決を結果しているという側面も在ると見ているからである。「環境問題(解決)を無視・軽視している陣営」がなお多数派であり、この現状が問題未解決の基本原因である、「倫理」を説くことによってこの現状を改めなければならない、という理解が一般的には強いのだが、事はそう単純でない。換言するなら、環境問題は、啓蒙や運動によってのみ解決されうるものではないのである。だが一般的には、残念ながら、「環境倫理学」は専らそうした啓蒙的・運動的任務を担うものとして了解されている。このこと自体が一つの問題性であると我々は考えている。副題において「環境の倫理学」という表記を採ったのも、「環境倫理学」に対してそうした問題的了解がなされている以上−−欧米で"environmental ethics"と語られるときはこの了解性はそれほどでない。したがって、これは「日本的特殊性」であるとも言っていいであろうが、そこには「倫理(学)」教育に関する日本的特殊性が反映されてもいる*−−、それとの相違を示しておかなければならなかったからである。

* これは、実は、より広く日本の「社会科教育」の特殊性でもあるのだが、そのことと一体となっている日本における「(民主)社会」理解の特殊性をも併せ論じたものとして、拙稿「「公民」教育としての「社会科」教育」を参照頂していただきたい。(なお、以下も同様であるが、拙稿関連についてはホームページ:www.sue.shiga-u.ac.jp/~abiko/ を見て頂きたい。)


一 プリマックの(社会理論的)主張

[11] 議論を一定水準から始めるべく、上の「一般的理解」の事例として、生態学、厳密には、人類の生存ということを基軸に置く限りでの生態学−−したがって、「環境」が人間にとっての環境であるとして、「環境生態学」と言いうる限りでの−−のものとして教科書としても定評の在る Primack,R.B.,Essentials of conservation biology,Sinauer Associates Inc.・Publishers,1993 のいわば環境社会理論的部分を要約・紹介することから始めたい。(なお、本書の「日米版」とも言いうるものとして小堀洋美との共著『保全生物学のすすめ』文一総合出版社,1997 が在る。基本的主張は同一であるが、環境社会理論的部分はかなり省略されている。)

[12] ポイントとなる部分をテーゼ的に纏めて(翻訳)紹介する。本書は生物多様性の保全をテーマとするものであるが、我々の議論においては、「生物多様性」は「環境」と読み変えて了解して構わない。
1 )「標準の経済学は、事物に対して価値を割り当てる(assign)一つの方法を提供する。事物は何であってもよく、生物多様性であってもその対象となる。ほとんどの場合において事物の経済的価値だとみなされているのは、人々がそれに対して支払う用意の在る(be willing to pay for)金額の量である。……標準の経済学がもつ主要な問題性は、それが自然資源には価値を割り当てない傾向に在ったということである。」(199)
2 )「この短視的パースペクティヴを補修するために、一つの重要な新専門分野が展開されてきている。それは、経済学、環境科学、公共政策を統合し、生物多様性を諸種の経済分析で評価することを含んでいる。この専門分野は、環境経済学あるいは生態経済学として知られている。……[生物多様性]保全に対して経済的根拠に基づいてよく考慮された論証は、生物学的、倫理的、感情的の諸根拠に基礎を置く論証をしばしば効果的に支えるであろう。」(199)
3 )「環境経済学の主要な焦点は、生物多様性の諸要素を価値づけるための方法の発見である。経済的価値を割り当てるために数多くのアプローチが展開されてきている。……McNeely(1988)とMcNeely他(1990)の枠組のなかでは、価値は直接的価値間接的価値とに区分される。前者は、人々によって収穫される生産物に割り当てられる。後者は、資源の収穫ないしは破壊を含まないかたちで生物多様性によって提供される便益に割り当てられる。」(202f.)
4 )「直接的価値はさらに、現地で消費される財の消費的利用価値と、市場で[買い手の消費のために]販売される生産物の生産的利用価値とに区分される。」(203)
5 )「間接的価値は、人々に経済的諸便益を与えるが資源の消費を含まない生物多様性諸要素に割り当てられる。これらの便益は、水質、土壌保護、レクレーション、教育、科学的探究、気候の統制や、人間社会に対して将来の選択を提供することを含む。」(203)
6 )「間接的価値はまた、存在価値−−種を絶滅から保護するために人々がいくら支払う用意が在るかというその金額にも割り当てられうる。」(203)[なお、一般の分類では、「間接的価値」も「利用価値」に分類され、「存在価値」は(存在しているだけで価値である)「非-利用価値」として「利用価値」総体から区別されている。]
7 )「この[存在価値の保護への]関心は、ユニークな種の生息地をいつか訪問して原生のうちにその種を見たいという欲求と結びついているかもしれない。あるいはまた、かなり抽象的な自己同定であるかもしれない。」(233)
8 )「特定の種、パンダ・ライオン・像や多様な鳥たちといったいわゆる「カリスマ的動物」は、人々のうちに強い反応を引き起こす。」(233)
9 )「経済的パースペクティヴは、価値を割り当てる一つの可能な仕方にすぎない。倫理的、美的、科学的、教育的な他の諸方法も同様に使用可能である。」(199)
10)「生物多様性の保護の正当化のために経済的論証がよく提示されるところである。他方また、そのような保護のための強く倫理的な諸論証も存在する。これらの諸論証は、大部分の宗教・哲学・文化の価値システムのなかに基礎をもつ。これらの諸論証は、生命の尊重、生物世界の尊敬、自然の内在的(intrinsic)価値の感覚、神による創造の観念に訴える。」(239)
11)「生物多様性の保護のための倫理的諸論証は、人々の高貴な本能に訴えるものであり、広く抱かれている真理に基づくものである。人々がこれらの諸論証を受け入れるのは、彼らの信念システムを基礎としてであろう。これと対照的に経済的基礎に基づく論証は、なお展開中であり、最終的には、不十全であり、高度に不正確であり、説得力を欠くものであると分かるであろう。」(239)
12)「「価値の経済的規準は変わりやすく、流動的であり、その実際の適用において完全に機会主義的である。これは、生物多様性を保全するのに必要な価値システムの反対物である。」(Ehrenfeld,1988)」(239)
13)「経済的論証は、それ自体としては種の価値づけの基礎を提供しうるものであるが、しかしまた、我々は種を救うべきではない、あるいは或る種は救うが別の種は救わないと決定するためにも使用(そして誤使用)されることができる。……いくつかの倫理的論証が、経済的価値に関わらずに全ての種が保存されることに対して成されうる。」(240)


二 「価値」等の基本(倫理)術語について

[21] 抽象的に語ることを許されるならば、人間の行為が目指すべきなのは価値、ないしは、諸種の価値間の矛盾対立ということも在るので、諸価値を比較衡量した上での−−現在の常識では、人間(個々人)の価値は絶対的であるので、これは例外となる*−−(環境の価値を含んだ)「総価値」の最大量である、と言い切っていいであろう。そうであるとして、「価値」は以下の議論において−−同時に、そもそも環境問題を問うとき−−最重要の概念である。しかるにこれについては、必ずしも厳密に規定した上で用いられてはいない。そして、それが発言の混乱を結果してもいる。以下の議論に必要な限りで若干の分析を提示しておく。

* 厳密に言うなら、その発端・終端に関しては端的にはそうみなされていない(「人工妊娠中絶」「安楽死・尊厳死」は無条件に退けられてはいない)。これはいわゆる「生命倫理学」の対象であるので、ここでは問題としない。なお、「環境問題」(のみ)のコンテクストにおいても、「道徳的地位をもつ、人間以外の生き物が存在する」、「この道徳的地位をもつ存在の集合は、意識をもつ存在の集合を含むが、それより大きなものである」という二点を主要主張としてもつ倫理として「生命倫理」が語られるときも在るが、今日の主要な用語法は、これとは相対的に別のものである。この、人間以外の生命体をも倫理的配慮の対象とすべきという意味での「生命倫理」についてはR.K.ターナー/D.ピアス/I.ベイトマン(大沼あゆみ訳)『環境経済学』東洋経済新報社,2001 を参照した(p.36)。原書は定評の在るものであり、訳書の翻訳も適切である。以下でも適宜参照することになる。

[22] 形容詞形で語るとして、「価値的(価値が在る)」は最大限には三項述語である。すなわち、1)或る事物・事態が、2)或る者(価値の評価者)から見て、3)或る者(価値の受益者)にとって、価値が在る、という構造が成り立っている。「最大限には」という限定を付けたのは、「価値的」を一項述語とみなす考え方も在るからである。「内在的価値」−−「内在的」の英語は"intrinsic"であり、これには「本源的」「固有の」等の訳語が与えられる場合も在るが、倫理学系では「内在的」がほぼ定訳となっているので、こう表記する−−の場合は、評価者の評価とは独立に(客観的)、かつ別の或る者にとって有価値(手段的)ということではなく、それ自身として価値(目的的)である。すなわち、或る事物・事態が端的に有価値である。しかし我々は、(この意味での)「内在的価値」は存在しない、少なくとも存在の論証は不可能であると見ている。何らかのものが有価値であると語られるとき、それは、評価者が自らの評価においてそう評価しているか、あるいは別の評価者の評価をいわば(無意識的に)引用しているか、のいずれかであるとみている。(ただし、このことは、自分の評価と他人の評価とが一致するという「間主観性」の事態を否定するものではない。)評価者から見て或るものが(手段的にではなく)目的的に有価値であるという事態をもって「内在的価値」が語られる場合も在る*。環境問題論においては「内在的価値」概念が一つの基底的問題性をもつと我々は考えているが、以下の各所でこれについて議論することになる。

* 例えばCallicott,J.B.がそうである。"Inrtinsic Value of Nonhuman Species",in:The Preservation of Species,ed.by B.G.Norton,Princeton UP.1986 ではこう述べられている。「この解釈では、内在的に有価値な事物は、自分自身のために(fors own sake)、自分自身にとって(foriteslf)有価値ではあるが、それ自身(in itself)、つまり、いかなる意識からも完全に独立に有価値であるのではない。……人間以外の種は……おそらく、この部分化的意味で内在的価値を所有しているであろう。」(143)

[23] "intrinsic"には実はこれとは別系統の用法も在る。今、単純に主観・客観の二分法を前提に語るなら、上の用法では「(内在的)価値」は正確にはいわば主観・客観の別とは独立に或る事物・事態のうちに−−厳密に言うなら、例えばプラトンの場合が典型的であるように「価値そのもの」(自存的価値)が語られるときも在るが、ムア以降の基本了解では、内在的価値といっても何らかの有価値者のうちにその一性質として存在するものである−−在る。これは確かに、多くは客観のうちに在ると観念されているが、(何らかの客観に対している)主観の一定の事態が内在的価値をもつとされるときも在る。これは換言するなら、経験されるものに対する経験(すること)という主観的事態である。そうであるとして、例えば「快」(経験)のうちに内在的価値が在るとされる場合に対して、例えば「認知」(状態)は或る生命体が生きていくのに不可欠の状態であろうが、この経験(状態)の価値は、「生きていくことにとって」というかたちで非-内在的なものである。そうすると経験が価値をもつとして、それには内在的と非-内在的との二種類が在ることになる。別系統の用法というのは、この(経験されるものに対する)経験における価値全般について、したがって、「経験されるものにおける」を「客観的」とするとして、それに対する「主観における」という意味で"intrinsic"という表現を用いるものである。(これに対して客観のうちにおける価値は"extrinsic"と表現される。)これはアメリカのプラグマティズム系統においてよく見られるところである。プラグマティズムの価値観は一般に主観主義的であり、評価者と相関的に価値が存立すると見るが、「経験のうちに」は、その評価者が自らの経験のうちに価値を見いだす場合だけでなく、いわば別の主観の経験のうちに価値を見いだす場合も含む。後者の場合、評価者(のみ)を主観と呼ぶなら、価値は客観的であるとも言いうる。いずれにしても、英語としては同一であるのだが、概念としては第一の用法とは別のものなので、我々は第二の用法におけるものに対しては「内部的」という訳語を当てるのが適当だと考えている。

[24] この第二の用法を採る場合、第一の用法が"intrinsic"をもって指示する事態は別の語で指示される必要が在る。その場合、"inherent"が用いられる。これについては「固有の」という訳語がよく用いられるが、これには−−これ自身多義的であって−−「独自の」という別のニュアンスも含まれるので、それを避けるために我々は−−小泉仰に従って−−「内附的」という訳語を採用したい。ただし、"inherent"は、「独自の」(「そのなかにのみ在る」)という意味でも−−そして、ケースによっては、それゆえに「内附的」であるという意味をも付されて−−使用されてもいる。いずれにしても、語"intrinsic"には二用法が在るのである。英語の用法として不統一が在るわけだが、日本語に訳出する場合は、別義であるので第一用法・第二用法のいずれにおけるものかを訳し分ける必要が在る。そうされない場合、議論に混乱が生じるからであるが、残念ながらこの混乱は一般的にも見られるところである。* 我々は、以下も第一の用法を採用する。

* 一般的に見られる混乱として、次のことにも注意を促しておきたい。上の意味での「客観のうちに在る」ということは形容詞形で「客観的」と表記することができる。しかし、この「客観的」には、「或る主観と別の主観との間で共通の」という意味での用法も在る。そして、この同じ言葉で二つの事態が(二義的であるということを意識しないままに)意味されてしまっているような議論も広く見受けられる。後者を意味する場合については、我々は「間主観的」という用語を用いて区別したい。

[25] 「経験」ということを軸にして、価値は「経験(状態)」のうちに在るのか、「経験されるもの」のうちに在るのか、という区別をすることが可能である。この区別は「功用(性)」("utility"=「功利(性)」「有用(性)」)概念の基本的ゆらぎと文字通り対応してくる。倫理学史的には、この概念はベンサムの理論で使用されるものとして有名であるが、そのベンサムにおいては、「効用」は明らかに事物(すわなわ「経験されるもの」)がもつ性質である。具体的には、「主観」のうちに「快」(の経験)を生みだすという、事物がもつ性質である。因みにベンサム等「快楽主義的(hedonistic)」功利主義においては、この快(状態)が「善」であり、その「善」(の最大量)をもたらす行為が「正」である。功利主義は経済学の基本理念となるものでもあるが、他方、経済学において「効用」概念は、エッジワースやマーシャルを通して次第に、決定的には現代の「公理的効用理論」において、主観の経験状態の、「快」を始めとして、しかしそれだけでなく、それを含むより広い「満足(satisfaction)」状態を意味するものとして使われている。そしてこれと連動して、経済学においては、自己の効用=満足の最大化を志向する人間=「経済人(ホモ・エコノミクス)」として経済行為主体が想定される。因みに、(一般的な)「環境主義」からは、こうした主体の行為システムとして「経済」が批判のやりだまに(イメージ的に)挙ってもいる。

[26] 「満足」は文法的にも何らかのものを前提して、それの満足として成立する事態である。現代の経済学では、この何らかのものとして「選好(preference)」の概念を前面化し、「経済人」の行動原理として「自己の選好満足[充足]の最大化」を置いてもいる。これに対応するかたちで倫理学においても、古典的な快楽主義的功利主義との区別において「選好功利主義」概念が立てられ、人々の諸選好の充足の最大化をもって「正」と考える倫理説を意味するものとされている。

[27] 経済学ではさらに、「経済人」は合理的であると想定されている。「選好」で言うならこれは、選好を、単にその時々のではなく、長期的なスパンでの選好の充足に限定することになる。「経済人」は自己利益追求的であると特徴づけられているのだが、この合理性の制約に服する場合は「開明的な自己利益追求」へと限定されることになる。倫理学ではこれに当たるものとして「利口[自愛の思慮](prudence)」−−ギリシア的な「賢慮」の意味をもつ"prudentia"そのものではなく、近世において変容を蒙って今日の意味となったそれである−−概念が使用されている。しかしながら「合理的選好」は、さらに「完全な情報下での選好」という意味が与えられる場合も在る。これは、解釈によっては「真なる選好」と規定することも可能であるが、その場合「満足」は、ほとんど「客観的幸福の実現」と等しいものとなる。ここには、その客観的幸福の実現として「正の実現」を置くなら、自己利益から出発しながら、いわば「真の自己利益」へと限定することによって、「正しくある(道徳的である)ことが自己の(真の)利益となる」と説く倫理説をも包摂することが可能となる。*

* 以上三節は、Broome,J.,Ethics out of Economics,Cambridge UP.1999 を特に参照した。

[28] この説は、通常の利益概念で言うなら、自分のではなく他人の利益の実現を説くものである。この側面から「利他主義(altruism)」という概念が立てられる。経済学では、「経済人」はこの在り方を排して「利己主義」的に専ら(長期的=開明的な)自己利益を志向するものと観念される。一般的にも、環境主義はこうした経済人の在り方を否定して広い意味で利他主義を説くものだとも観念されている。そうであるとして、経済学では通常、「自己利益追求的」と「選好充足追求的」はほとんど同義で用いられている。しかるに「利他的」という在り方も在るわけであるが、ここから、利他的志向については、そうした行為を含んでおよそ行為が「選択(choice)」に基づくとして、「反-選好的選択」という表現がなされる場合も在る。代表例としてはセンがそうである。しかし彼には「倫理的選好」という表現も在る。経済学、特に環境経済学では近年「利他主義」が問題とされるところであり、それもまた一種の「利己主義」として理解可能であって、「選好」充足的として一括して扱えるのではないか、という見解も提示されている。しかしながら、以下で見るように、その扱い方は大きく分かれていて、とりわけ環境経済学において一つの基底的な論点となっている。倫理学でも「倫理的利己主義」(真の利益を求めて自分が倫理的であることを志向するという、プラトンが端的にそうであるような在り方)が概念化されている* **。これは、「自分が善いことをしたいから善いことをしているにすぎない」という俗な言い方で日常的にも意識されているところである。

* 通常は、一つの事実として「人間は利己的である」と説く「心理的利己主義」に対して、規範的主張として「人は利己的であるべきである」と説くものを指して「倫理的利己主義」と呼ばれている。しかし、本稿はこれとは別の意味でこの用語を使用する。それは、−−本稿の用語法の統一として「道徳」ではなく「倫理」という言葉を使っているので、こう表現するが−−R・ノーマンが「道徳的利己主義」と呼んだ(塚崎智他訳『道徳の哲学者たち 第二版』ナカニシヤ出版)ものに当たる。
** 「自分が倫理的であることを志向する」ということ自身は、「自分のみが倫理的であることを志向する」ということとは別であるから、「利益」を「真の利益」に拡大するからといって、そのままでは「自分のみの利益」を求める「利己主義」には属さない、という異論が在るかもしれない。通常の「利己主義」は確かに、これと違って精確には「自分のみの利益」を求める在り方である。しかしこの異論に対しては、発話として「私もそうするが、あなたもあなたのみの利益を求めなさい」と説く在り方も在ると指摘できる。倫理学のテクニカル・タームで言うなら「普遍的利己主義」である。これを我々は捨象して議論したいが、それは、それがいわば発話倫理として一種メタ・レヴェルの在り方であるからである。そして、上の異論がその存在を根拠にしていることになる「私もそうするが、あなたもあなたが倫理的であることを求めなさい」という在り方も同様メタ・レヴェルのものである。したがって、「普遍的利己主義」をも議論の対象とするレヴェルに立たない限りでは、この異論は無効である。換言するなら、このレヴェルの手前では、「自分が倫理的であることを志向すること」は「自分のみが倫理的であることを志向すること」として扱わなければならない。(なお、(真の利益ではなく)通常の利益に限定して語るなら、そして通常の用法もこれに即したものであるのだが、「利己主義」が「利己主義」であるのは「自己の利益」を求めるからではなく、まさしく「自己の利益」を求めるからである。英語の"egoism"それ自身には「利益」という意味は入っておらず、直訳するならそれはいわば「己-主義」である。そこに、人間の行動原理は「利益」であるという(暗黙の)見方が重ねられることによって、(英語でも)「利己主義」という意味になるのである。しかしながら、一般的には、「利益」を求めることそのものが「利己主義」だと(誤って)観念されているケースもよく見られるところである。)


三 「経済的」をめぐって

[31] 第一章で紹介したプリマックの主張は、経済主義が環境問題(彼自身のテーマでは「種の絶滅」)を引き起こしているという一般的理解の下で、第一には「標準の経済学」を批判するものである。経済学には大別して記述経済学と規範経済学の二側面が在るが、彼によるなら、この「標準の経済学」は、環境問題を引き起こしている現実の経済システムを記述する理論であると共に、規範的にこの現実をいわば追認するものである。「標準の経済学は……自然資源には価値を割り当てない傾向に在った」(1))と説かれているが、自然に価値を割り当てないというかたちで経済学は自然保護を軽視してきたのである。これに対して「環境経済学」は、逆に自然に価値を与えることを通して、有価値物としてその保護を語りうる根拠を提示しようとするものである。しかし厳密に言うなら、例えば石油や木材といったいわゆる(自然)資源はまさしく価値を割り当てられている。新たに価値を割り当てるべきだとされるものは、これとの区別において「環境財」とも呼ばれている。それは何をもって区別されるのか。直接的には「市場価格」を有するか否かによってであろう。本章はプリマックに即して一般的に使用されている語「経済的」の意味の解明を目指すものであるが、第一として、この「市場価格を有する(ものに関わる)」「有しない(ものに関わる)」−−短縮的には「市場的」「非-市場的」−−として「経済的」「非-経済的」と区別されている可能性を指摘できる。

[32] しかしこれであれば、いわば市場外で自家使用されるものは「非-経済的」に分類されることになる。また、公共財として供されているものもそうである。そこで第二の可能性として、プリマックは「人々がそれに対して支払う用意の在る」(1))か否かで両者を区別することになる。そこでは、「経済的」は「支払う用意が在る」と同義であることになる。これはまた、2)で「経済(的)分析」と言われる場合の「経済的」とも意味を等しくする。プリマックの認識でも、「環境経済学」は、この経済的分析を、対象として「環境」にまで拡大し、それに対して人々が「いくら支払う用意が在るか」ということを通して、それに「価値の割り当て」を行なおうとするものである。

[33] 環境経済学では全般に、経済学全体の現在の基本的方向性のなかで、いわば相関主義的に、事物と主体との関係に即して、主体に対して「便益」を与えるものとして事物−−この側面から事物は「財(good)」と呼ばれることになる−−に「価値」が割り当てられる。したがって、広く位置づけるなら、いわゆる費用−便益分析というかたちで環境の価値が分析されることにもなる。実際プリマックでも「便益」という語が用いられている(5))。しかし、そこで「便益」に付されている「経済的」という形容は、その限定の意味が不明である。後でまさしくポイントとして問題とする「存在価値」を含めて(全)「間接的価値」が「経済的便益」をもつとされていることになるのであるが、その場合、非-経済的便益のクラスがゼロとなるわけだから、それは剰語的である。単純には削除すべきであろう。

[34] しかしまた彼は、上の第二の「それに対して支払う用意の在る」の意味で、(「便益」に「経済的」と「非-経済的」との二種が在るというのではなく)「便益」を「経済的」、換言するなら「経済的」見方で把握するという趣旨で「経済的」という形容を付しているのかもしれない。9)で「経済的パースペクティヴ」、11)で「経済的基礎」、13)で「経済的論証」と言われる場合は明らかにそうである。「環境問題解決」は(利害を異にする)人々の間での合意を前提とするとして、そのためには便益=価値の何らかの数量的評価が不可欠である。プリマックは、それゆえに2)で経済的アプローチを肯定視してもいるのである。

[35] しかしプリマックは同時に9)−13)において、「環境経済学」総体の限界性を指摘するかたちで経済的アプローチを批判してもいる。そしてそのなかで、「経済的」に対して「倫理的」を対置することになっている。しかしながら、その「経済的」の意味はこれも曖昧である。また、9)-13)において必ずしも同じ意味で語っているわけでもなさそうである。発言9)は文脈上、1)の前半部分に続けてなされており、したがって、そこでの「経済的」は当然「人々がそれに対して支払う用意の在る」と同義であり、そして、この「支払う用意の在る」対象として、従来無視されてきた環境財を含んで全ての財を適切に評価すべきと説いているのだが、その同じ箇所で(したがって自己矛盾的ということになるのだが)いわば金銭的価値づけが「経済的」として限界が指摘されているのである。そうであるとして、10)以降においては、どのような意味で「経済的」アプローチが批判されているのか。ほとんど推測するしかないが、いくつかの可能性を以下列挙してみたい。

[36] 「経済的」の第二の用法においてプリマックは、「経済的」アプローチは環境財を含めて全ての価値を貨幣換算するものだ、としていた。したがって、プリマックがそうした貨幣換算的アプローチでは捉え切れない価値が存在すると考えていると見ることはできない。批判がなされるとき、捉えることはできてもそうしたかたちで捉えることが不適切な価値が在るとでも説かれているのであろう。(これとよく似た批判として、(そもそも)数量的に捉えることが不当となるような価値が存在するという主張を想定することもできる。)「環境倫理学者」で「経済的アプローチ」に否定的な論者としてSagoff,M.が居るが、彼はThe Economy of the Earth,Cambridge UP.,1988 で明確に、「我々が愛している事物の尊厳(worth)は、それに対して我々が支払う用意のないことによってよりよく測定することができる」(68)と説いている。これは(「尊厳」という語の使用から見て)カント的な手段的価値=「価値」と目的的価値(「内在的価値」)=「尊厳」との区別の試みであるとも言いうる。プリマックもそうした目的的価値を想定しているのかもしれない。「存在価値」はまさしくそういう価値である。しかしそうすると、プリマックは自己矛盾的に「経済的アプローチ」(そのもの)の限界性を語っていることになる。経済学は、主体の「便益」から、そのいわば相関者として価値を考えるが、そうすると価値は「便益」という目的の実現の手段であることとなり、目的的価値の存立の余地をもたなくなるからである。(厳密に言うなら、「便益」という目的的価値が存在することにはなるが、これはまた別の問題である。)目的的価値(「内在的価値」)を「重要な価値」とでも理解するなら−−「……にとって重要」ということで−−「便益」との有意的関連性をもつことができ、したがって自己矛盾から免れうるが、それは他方、「内在的価値」の厳密な規定を失うことを意味する。換言するなら、プリマックの議論展開は、用語の曖昧な使用によって可能となっているのである。そうであるとして、プリマックにおいて、第三の可能性として、この「目的的価値関係的」の反対の、「手段的価値関係的・志向的」とでもいった意味で「経済的」という語が使用されていると見ることができる。

[37] これはプリマックではほとんど可能性がないのであるが、一般的見解ではよく見られるところなので挙げたいが第四のものとして、経済学は人間を物資的欲望の主体として想定し、精神的なものを無視する傾向に在るという批判と共に、「物質(関係)的」とでもいった意味で−−したがってプリマックが採用している価値分類では専ら「直接的価値」を志向する、という意味で−−「経済的」と語られるケースも在りうる。また、7)では「自己同定」云々と語られているが、これに即して第五の可能性として、プリマックにおいて、自己同定志向的な在り方の反対を意味するものとして「経済的」が考えられていると見ることもできる。これは、上のSagoffによる「金銭」(この場合、金銭換算可能な「効用」を意味する)と「意味」との対比(68)と重ねるなら*、「意味」志向的の反対の「金銭志向的」として「経済的」が意味されているとも換言しうる。

* これはSagoffが一部引用している(90)ところであるが、Heller,T.C.,"The Importance of Normative Decision-making",in:Wisconsin Law Review,1976 は次のように説いている。「保全への要求の重要な要素は−−それは市場価格のうちのどこにも示されていないが−−おそらく、その道具的効用からよりも、そのシンボリックな意味から引き出されるものであろう。或る者にとって、セカンドハウスの開発を犠牲にするというかたちで幸福を大きく失うことは、自然は利用されるからではなく存在し続けるがゆえに価値の源泉であるという規範的立場に対して広く持たれているコミットメントから出てくるものである。」(405)


四 「倫理的」をめぐって

[41] プリマックは「倫理的」を、一方(10),11),13))では非-経済的そのものの意味で用いると同時に、他方(2),9))では、その非-経済的という在り方の一つを指すものとして用いている。これは、最大限に好意的に見れば広・狭二義で「倫理的」が用いられていると言うことは可能であるが、しかし基本的には、用語法の曖昧さと見るべきである。しかしながら、「倫理的」の規定は難題であって「倫理学」プロパーの課題の一つとさえなっているところである。また、多義的用法は、単に言葉の曖昧な使用であるだけでなく、現実の日常的用法にも反映されるかたちでそれぞれ実質的な意味をもって様々な「倫理」が在るからでもある。倫理学の現時点までの議論を踏まえて誤りなく「倫理的」を規定しようとするなら、R.M.ヘア等に従って"overriding"というかたちで極めて形式的に規定するほかないであろう。これは、何であれ人が最上のもの(したがって他の何よりも優先されるべきもの)とみなす在り方を「倫理的」とするものである。これに加えて、もう少し実質的に規定するのなら、功利主義的倫理学の概念枠組で(したがって規範倫理学的ということになるが)、自己利益追求的に対する「他者利益追求的」、および−−これは極端に「達人倫理」的であるので、通俗レヴェルで可能にすべく−−「自分の利益と他者の利益を公平に扱うこと」と規定すべきだと我々は考えている。これは「利己主義」を基準に、そうではない在り方として「倫理的」を規定する点で日常的用法とも一致するものである。我々は、「利他主義」および「公平主義」をもって「倫理」を規定するのが基本であると考える。因みに、この枠組で言えば「功利主義」は「公平主義」と同義となる。

[42] しかし、「倫理的」の日常的用法は多義的であって、上のものとは別の用法も在る。そしてそれに対応するかたちで、プリマックにおいてもこれとは別義の用法もなされている。それは基本的に、前章で確認した「経済的」の諸用法に対応するかたちをとっている。第一に、「市場的」(という「経済的」)に対応するものとして「非-市場的」として「倫理的」という語が使用されている可能性が在る。確かに、冒頭で述べた「経済主義」批判には反-市場主義というニュアンスも含まれていると言っていい。市場経済の克服を志向することが「倫理的」として観念されてもいる。

[43] 第二の「貨幣換算的」に対応して、「貨幣換算しない」という在り方が「倫理的」として観念されている可能性も在る。さらに、「貨幣換算しない」ことの根拠として価値の内在性が在るが、第三として、「内在的価値と関わる」という在り方が「倫理的」と観念されている可能性が在る。これについてプリマックは10)で明確に、「経済的論証」との対比において「自然の内在的価値の感覚」を語っている。

[44] 第三については、「便益性」ということが、そして、それと「経済性」との関係が「倫理」に影響してくるところが、関わっている。「便益性」と相関的に価値を考えるなら価値は手段的なものとして規定されることになり、そしてこの手段性に対して目的性=内在性が語られているのであった以上、「倫理的」は併せて「便益追求的でない」ということを意味することになる。しかし、「便益」概念は規定の困難なところである。広く理解するならおよそ「便益追求的でない」場合は在りえないとも考えられる。であるからプリマックは限定して「経済的便益」とも語り、そして、これに対して「非-経済的便益の追求」のカテゴリーを立て、これをもって「倫理的」としているという可能性も在るのである。しかしこれは、「経済学」がすべてをまさしく「経済」として問うとするのであるなら、そのうちに「倫理」を取り込むことになるという意味で自己矛盾を内包するものであった。先には、プリマックがこの経済学の行き方を(一方では)評価しているところから、その点で彼は自己矛盾的であると(とりあえず)処理したが、実は、これは経済学の難題となっているところである。これは、先に「倫理的利己主義」という在り方を指摘したところとも関わって、同時に倫理学の動員を要請しつつ、経済学がもつ最基底的な理論的問題性である。別途、章を改めて議論したい。

[45] しかしまた、プリマックの発言11)に着目するなら、「真理」相関的な便益として、つまり「真理」を行っていることに伴う便益といったものとして、非-経済的便益が規定されている可能性も在る。述語「真(なる)」は、例えば「美味(しい)」だけでなく「美(しい)」や「神聖(な)」とも確かに異なった(論理的)身分をもっている。そして、「美相関的」や「神聖相関的」をもって非-経済的便益を規定する場合、逆に経済的便益の規定が−−たとえば物質相関的とでも限定的に規定するのでなければ−−困難となるのに対して、その難点はクリアできるかもしれない。しかしながら、先に言及した発話上のものと同じく、これも一種メタ的なものである。「美しい」や「神聖な」が一つの事態であるのに対して、「真なる」は、事態であると言うとしても一定の事態に対していわば追加的に成立している事態である。そういうものとして、「真であるから」ということは、その真とされたものの実質的内容から独立であるが、しかし他方、その独立性のゆえに、実質的内容として、例えば「殺人は真である」をも許容できる。したがって、結果としてであるが、その「殺人」に(「殺人であるがゆえに」ではなく、まさに「それが真であるがゆえに」であるが)便益をもつことが「倫理的」とされうる。「とんでもない、人を殺さないということが真である」と言うなら、結局、倫理性を内容とする「真理」を行うことに便益をもつことを「倫理的」とすることになり、準-循環的となる。

[46] プリマックは11)で、「真理」ではなく、それに付された「広く抱かれた」の方を強調しているのかもしれない。つまり、個人的なものではなく共通的なものに対してもつ便益をもって「倫理的」としているという可能性も在る。これに対しては、同じくメタ的とは言いうるが、上とは別の種類のものであって、論理的な批判は不可能である。しかしながら、それはほとんど全てのものをカヴァーできるものとして無内容であるか、あるいは、「共同体主義」と言っていいであろうが、一つの、共通性(そのもの)に便益をもつことを説く特殊な倫理を(限定化的に)主張することを結果する。この後者の事態は、後半の規範倫理学的考察の部分で検討したい。因みに11)はまた、「高貴な本能」を語っているが、ここからは恐らく、便益を高貴・低俗に区分する、ほとんどミルの「高級な快・低級な快」に相当するものが想定されていると言っていいであろう。

[47] 11)はしかしまた、内容独立的に、「[何であれ]価値システムに基礎をもつ」ことを「倫理的」としているのかもしれない。この「価値システム」も「倫理」であると呼ぶことが可能である。そうすると広・狭二義の「倫理」が在ることになるが、これは例えばJ.L.Mackieが「狭義の道徳」「広義の道徳」として論じているところである(加藤尚武監訳『倫理学』晢書房,1990 参照)。この場合、広義の「倫理」に基づくことをもって「倫理的論証」が(したがって、その「論証」の結論として出てきた行為が)まさしく「倫理的」であるとすることになるが、しかしそれは循環を犯すことにはならない。しかし逆に、そうした広義で「倫理」である「価値システム」に「基礎」を置くのではなく、端的にその「価値システム」が命じるままに(倫理的に)行為すればいいのではないのかと言いうる。そうではないのであるからあくまで「基礎を置く」なのであろうが、そうすると、「価値システム」は、それ自身「倫理」であるとしても、(環境問題解決において)求められる「倫理」とは相対的に別種類のものとなる。歴史(経過)的に見るなら、環境問題は新しい問題であって、したがってそれに対応した「倫理」をまだもたないものである。そこで、どう「倫理」を創っていくのかという課題が生じてくるのだが、その際、いわばゼロから考えるのでなく、既存の「価値システム」に基づいて考えよ、そしてそれが、ゼロから考えることに対して「倫理的」であるのだ、と説かれている可能性が在る。我々はこれを、「宗教・哲学・文化の価値システム」と言われているが、それを端的に広義で「文化(システム)」と呼びつつ、「文化」に基礎を置くことをもって「倫理的」とする、(後述する意味がさらに二つ在るのでこの番号を振るが)第六の意味での「倫理的」の用法がなされていると纏めておきたい。これに対応させて、「経済的」にも第六のものとして「文化に基礎を置かない」を意味する用法の存在を想定しておきたい。実際、経済学は、経済システム要素としての主体=「経済人」を、「文化」から独立的に専ら自分が(自律的に)選好するものを志向する者として想定している、と言っていい。「文化に基礎を置くこと」は上の「共同体主義」の一特徴でもあるが、経済学はこれに対して元来「自由主義=個人主義」的である。

[48] 共通性に依拠するプリマックの議論は、恐らく、それ自身さらに12),13)(および11)の最後の部分)に基づくものであろう。しかしながら、これはらは端的に偽である。

[49] 第四に、「精神的なものを志向する」という意味で「倫理的」という語が使用されている可能性が在る。そして第五として、「意味志向的」の意で「倫理的」と語られている可能性が在る。我々はこの二用法については規範倫理学的に問題となるところであると考えているが、これについても後半で問題とする。


五 利他主義・存在価値、あるいは効用・選好・便益をめぐって

[51] 経済学、とりわけ環境経済学が直面している問題は、相互に関わるところをもつ「利他主義」「存在価値」の扱いである。議論の組み立て上、好便なので、Brookshire,D.S./Eubanks,L.S./Sorg,C.F.の論稿 "Existence Values and Normative Economics:Implications for Valuing Water Resources",in:Water Resources Research,vol.22,no.11,1986 の主張のポイントとなる箇所の紹介から始めたい。彼らによるなら、「便益−費用分析から帰結する政策提言の規範的基礎は、次の三つの原理から成り立っている。第一に、価値の基礎は、社会の個々のメンバーが行う主観的価値づけの集合であって、それ以外のものではない。社会にとっての経済的価値は、個々人の選好から生ずるものであって、それら諸選好は外から来る所与とみなされなければならない。第二に、分配上の変化についての望ましい政策は、潜在的なパレート改善として性格づけられる。……第三の原理が在るが……。便益−費用分析は、規範経済学的分析が社会の資源の市場的分配が資源を効率的に分配することに失敗するであろうと提言するような状況のなかで求められるものである。……便益−費用分析は、効率性倫理を表現するものとみなされることができる。」(1514)

[52] 「標準の経済学」は「市場」が資源の効率的な分配のシステムであることの証示を課題としているとして、それに対する「環境経済学」は、「経済活動」が「環境」の基盤の上でなされていることを射程に入れて見た場合、「市場」はその効率性実現のシステムでは必ずしもなく、ましてや「パレート改善的」ではなく、(あるいは更に、公平な資源の分配を帰結するものでは到底なく、)その意味で「失敗」せざるを得ない、そこに政治的介入による矯正が必要となる、と説くものである。しかしながら、このことは直ちには政治主義といったものを意味せず、いわゆる「外部経済の内部化」というかたちで、政策的規制の下でのではあるが、効率性が基本的に市場システムで実現可能だということを排除しない。いずれにしても、その「効率性」(あるいはさらに「潜在的パレート改善」「公平」)状態の確定には、あるいは「社会的厚生関数」(厳密には:社会的厚生)の決定には、「標準の経済学」が採っているのと同じ「経済的アプローチ」、厳密に換言するなら貨幣換算的アプローチを採ることになる。

[53] 環境経済学はこの点も「標準の経済学」と同様に、「効用・選好・便益」という枠組を採用する*。これらは、認識論的に主観的なものである。ベンサムの場合、便益は専ら「快」として考えられているのだが、それは経験内部的なものではあ(り、その意味でいわば存在論的に主観的であ)るが、(認識論的には)外部からも測定可能な客観量とみなされている。しかし今日では、これは否定されている。そこで採用されるのは−−広く言えば「行動主義」的であると言えようが−−各主体の「行動」からその選好を(いわゆる「顕示選好」として)確定するという方法である。これは端的に市場における売買行動において顕示されるものである。しかるに、環境財は非-市場財である。そこで現在の「環境経済学」では、各主体の(顕示されない)非-市場財に対する選好をも(いわゆる「表明選好」として)明示化するべくCVM等の各種の方法を開発・改良することに主眼が置かれている。

* ここで注記するが、「効率性」とは例えば−−一般的にはこう了解されがちなのであるが−−「利潤最大化的であること」といったことではない。あくまで、効用・便益/選好の(財を所与とした場合の)最大量の実現/満足に関わるものである。

[54] そうであるとして問題は、この選好の確定のうちに在るのではない。問題はあくまで、「選好」が「存在価値」「利他主義」と関わるところに在るのである。前者の方から見ていきたいが、Brookshire達は次のように論を進めている。「存在価値は次の二つの要素をもちうると論証される。(1) 効用最大化的行動と整合的である経済的な要素、(2) 規範的な便益−費用仮定と不整合な倫理的要素。」(1509) センのタームで言うなら、第二のものは(支払への)「コミットメント」(という倫理的なもの)であって、規範経済学の(上に紹介した)原理に反するものとして退けられなければならない。そして実は、(倫理学起源の)「内在的価値」という語はこの「コミットメント」に対応する倫理的な意味合いをもつものなので「存在価値」の規定としては相応しくない。これに代えてむしろ"inherent"という語でもって規定する方が相応しい(1514)。そして、そういうものとしての「存在価値」は、行為者自身に便益を与えるものではないとしても、将来の者も含めて他人が享受する便益には関わるものである。「もし、存在・保存への支払意志のうちに経済的価値が存在するのなら、個人によって、自然の[例えば]水環境にinherentであって効用ないしは満足を産むと知覚される何かが存在していなければならない」(1515)として、「存在価値」もあくまで便益と結び付けられるのである。そしてそういうものとして、経済的アプローチ内で社会的厚生関数決定のファクターとなるのである。

[55] 我々は、この論の進め方には問題が含まれると考える。初歩的なポイントとしてまず確認するが、それは非-倫理的であるからではない。経済的アプローチはそれ自身は非-倫理的であることを決して意味しない。逆に、人間諸個人の便益(の総量)を最大化すべしと説く一つの倫理を基本原理とするものである。「反-選好的」な行為を説くものとしての倫理が考慮に入れられるべきでないとされているのである。そうだとして問題なのは、あくまで「存在価値」が「便益」と関連づけられていることである。字義的に厳密には「およそ(単に)存在していると知ること」には「便益とは関係がなく」という含意が在る。プリマックの記述6)では曖昧なのだが、これは現在では厳密に、主体関係的には「それが単に存在していると知ることに対して人々が支払う用意が在るところのもの」を意味する。(したがってプリマックの7)も間違いであって、「将来、自分が(さらには別の者が)それを見て楽しむという見込み」が理由となっていてはならないものである。)彼らの議論は結局、「存在価値」を、独自のカテゴリーとしては解消しつつ、言われるところの「オプション価値」「遺贈価値」に還元するものである。だから、「……知覚される」として「存在していることを知ること」と同義表現の「……」の部分で、「効用ないしは満足を産むと」という(知の)限定化がなされてもいるのである。後で説くように我々は、「存在価値」概念の解消はむしろ妥当であると考える。そうすると、価値は、「便益」との関係で、「オプション価値」は「開明的利己主義」(の慎重版)、「遺贈価値」は「愛」−−これを我々は厳密に、他者の便益享受のみを求めるものと定義する−−の、それぞれ主体にとっての価値として纏められることになる。

[56] Brookshire等のこの行き方が一つの主要傾向であるとするなら、もう一つの主要傾向として Mitchell,R.C./Carson,R.T.,Using surveys to value public goods:the contingent valuation method,Resources for the Future,1989(これには環境経済評価研究会訳『CVMによる環境質の経済評価』山海社,2001 として邦訳が在る)が採っている行き方が在る。彼らは、この点では同様「経済的アプローチ」を採用し、Brookshire等を、「効率性倫理を人間の幸福に焦点を合せた管理倫理として記述する」だけであって、そのために「inherent価値」を排除することになっていると批判しつつ(65)、Brookshire等が「倫理的」として排除したものを独自の「便益」をもつものとして取り込もうとする。こう語られる。「人々は、物質的報酬を期待することなしでも、他人を助けることから効用[便益]を獲得する。」「倫理的信念に基づいて選択を行うことは必然的に自己犠牲[=負の便益]を含むと想定することは誤っている。それどころか、この種類の選択を行う人々は、内面化された社会規範を充足することから効用[便益]を得ている。」(66) これと同じ様に、「或る人々にとっては、原生をそれ自身のために保存するといったことは、……アメニティであって、それが提供されることは彼らの個人的幸福を真に改善するのである。」(66) 一見では、倫理的行為(「コミットメント」)に便益を認め、そしてその相関者として「存在価値」を経済的アプローチで総価値計算に取り込むことに成功しているように見える。しかしそれは、本来「便益」から独立という「存在価値」の原義を変質することによってである。具体的には、「アメニティ」の場合は自明にそうであるとして、第一も当然として第二でも結局、「良心」の満足、あるいは社会性への欲求の満足といったかたちで「便益」が動機となっており、そういうものとして「それに対して支払う」対象の価値は厳密な意味での「存在価値」ではなくなっている。実際彼らは、「内在的価値」概念を−−したがって、「存在価値」の特質として「内在的価値」性を挙げることを−−この「便益」に無関係であるものとして退けている(60)。

[57] 「存在価値」も「それに対して支払う用意」を人々がもつところのものである。であるがゆえに、経験的にCVMを用いて支払額が算出されてもいる。理論はこれをどう扱うべきなのか。経済学の基本原理では、個人の行為は「選好」に基づくものと見る。しかし、「存在価値」に対して「支払う」という行為は、「選好」には基づかないものだと言うこともできる。センは、上述のように「反-選好的」というカテゴリーを立て、同時に「厚生主義」の限界性をも述べている。これに対して上の二つの行き方は、共に、変質化された−−したがって厳密にはもはや「存在価値」ではない−−「存在価値」を取り込んでいるのだが、そこに問題性を含むことになる。取り込んでいるというのは、換言すればそこに「便益」の存在を付加しているということであるが、Brookshire等の場合は、それが他者が享受する便益であって、行為者がそうしたものを志向するということは「利他主義」そのものであるという問題が生じている。いわば前-環境論的社会論としては、「他者の利益を配慮することは結局、長期的には自己の利益になる」ということの証示が可能であり、非-利己的行為が結局、(開明的な)利己主義であることになる。* しかし、環境が問題となるときは、いわばスパンを長く取ることになり−−したがって「将来世代」ということが語られる−−、この構造は成立しない。ここのところは、ベンサム的に「サンクション」を持ち込んで利己的行為を差し控えるのでなければ罰という損失を課せられることなるとすれば、人は、その損失の回避という利己的動機から非-利己的行為を行いうることになる。しかし「サンクション」を前提することは、「経済学」をいわば「政治=経済学」へと枠組変更することになるであろう。この変更そのものは構わないが、問題なのはその「政治」の可能性の根拠である。端的に利他主義を説くのなら、その場合は「経済学」をいわば「倫理=経済学」へと枠組変更することになる。これに対してMitchell等は、倫理学のタームで言うなら「倫理的利己主義」を取り込むかたちで「利己」概念を拡大するという方途を採用している。換言するなら、センが「反-選好的」とするものを−−実際センでも「倫理的選好」という言い回しがなされていたが−−選好概念を拡大してそのうちに取り込もうとしている。しかしこの場合も、「経済学」の枠組は「倫理=経済学」へと変更されている。「経済学」が前提するのはあくまで通常の意味での利己主義であるのに対して、そこではそれが「倫理的利己主義」を含むものに拡大されているからである。確かに、近代以前の社会においては−−例えば「贈与」(という財交換)を想起して欲しいが−−そのような倫理=経済システムが在ったと言っていいが、近代世界においてこれを語ることは社会の根本的な変革を要請することになるであろう。しかしこの場合も、問題なのは、根本的変革として非現実的となるということではない。問題なのは、そうした倫理=経済的なものとしての「倫理」の可能性の根拠である。

* これは余りにも単純化した言い方である。この問題は倫理学プロパーとしては「なぜ道徳的であるべきか」という問題としてプラトン以来論じられているところであり、そこではもっと厳密な分析を前提とした議論がなされている。これについては、この問題を論じた諸拙稿を参照して頂きたい。

[58] 社会的厚生関数を決定する場合、便益のいわゆる「二重計測」を回避することが求められる。しかるに「倫理的行為」を取り込む場合、この「二重計測」の問題性が出てくることになる。端的には「共感」を伴う場合がそうである。これは、自分の行為によって他者に便益が与えられるとして、そのことに自分自身が便益をもつという在り方である。自分の一つの行為において便益が他者のそれと自らのそれとで「二重」にカウントされることになる。(環境経済学ではこれは、いわゆる"warm(-)glow"として問題とされてもいる。)だから、Brookshire達の場合、「存在価値[配慮的行為]は、行為者自身に便益を与えるものではない」とされていた。またMitchell等の場合は、「他人を助ける行為」「社会規範を充足する行為」−−「存在価値」配慮的な行為もこれらのうちに解消されている−−は、「利他主義概念」を表面的に解消するかたちで(端的に、「[原生保存の行為は]自己利害的で利己主義的な考慮によって動機づけられている」とも述べられている(66))、その行為の対象側(他者)の状態を捨象して、専ら行為者のその行為の際の状態に即してそこに「便益」が想定されていた。しかしながらこれらは、一方の側の「便益」を(理論的整合性のために)無視しただけあって、そうした行為によって必然的にこの一方の側にも「便益」が生じているのではなかろうか。「行為者自身に便益を与えるものではない」と言うのなら、その行為はでは何を動機とするのか。また「他人を助ける行為」の場合、相手側に便益が生じないとするなら、それはそもそも「助ける」行為とはならないのではなかろうか。

[59] しかし逆に、ここで「二重」性に着目して、利己主義的な社会状態(それを経済学は前提としている)に対して倫理的な社会状態の方が「便益」の総額が大きくなるとしてそれを有意化すべきであろうか。「共生」社会を説く主張は広く見られるところであるが、それはこの事態を一つの理論的根拠とすることが可能である。そうであるとして、我々は環境社会をそうした「共生社会」として構想すべきであるのか。包括的に言うなら、そのことを含めて何らかの「倫理」が必要であるとして、どの意味での「倫理」が求められるのか、逆に「倫理」であればどれが動員されてもいいのか。我々はここに最基底的な問題性が在ると見ている。そしてそれは「内在的価値」の問題性と深く関わるところである。しかしながらこれは、むしろ規範倫理的問題であろう。次に、この問題を含めて広く環境問題解決に関する規範倫理学的考察を加えたい。  (未完)


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2003/03/20 作成