環境問題解決における「経済」と「倫理」−−環境の倫理学として問う−− (二・完)

安彦一恵

"Economics" and "Ethics" in Solving the Environmental Problems -- from the Position of "Environmental Ethics" (2=completed)

Kazuyoshi ABIKO


六 なぜ「倫理」が必要であるのか

[61] 環境問題の解決に「倫理」が必要であるというのは我々としても異論のないところである。しかしながら、それはどのような「倫理」であるのか。「標準の経済学」が想定する社会は、「開明的な自己利益追求的人間」から成る社会である。ここにも一定の「倫理」が内在している。簡単に言うなら「利口」の倫理である。短視的にその場その場でではなく長期的スパンで自己利益の最大化を、かつ(手段-)合理的に志向せよ、そのためには利己的振舞を抑制せよと説く「倫理」である。そうしたものをそもそも「倫理」と呼ぶことに反対する人も在りえようが、−−今、「倫理」と「道徳」を同義で使用するが−−「商道徳」と言う場合の「道徳」などは間違いなくそうした「倫理」である。例えば「正直は最良の政策である」という格言にもこの「倫理」(の一端)が示されている。「正直である」ことは言うまでもなく「倫理的」であり、かつ、それは「最良の政策であるから」というかたちで自分の長期的利益をそもそも目的としたものである。一般的に言えば、この「倫理」は他者に対して「公平」に振る舞うことを命ずるもの−−私のタームで言うなら「公平道徳」*。以下、本稿では言葉遣いを合せるために「公平倫理」と表現する−−であるが、人は、自己利益を動機としても「倫理的」でありうるのである。

* これは、安彦他編『なぜ悪いことをしてはいけないのか』所収拙稿で「道徳」の分類を提示したものの用語でもある。「道徳」の諸型について全般的にも本書を参照して頂きたい。

[62] 環境が(意識としてではなく、客観的事態として)問題となる以前の、いわば前-環境問題化社会においては、原理的にはこの「倫理」で十分であった。しかし、そうであれば、「社会」は「市民社会」(=経済社会)として完結しえるはずであるが、現実には「政治社会」(「国家」)が例外なく存在していた。これにはもちろん「支配」といった要因が事実としては関わっているが、今その要因を捨象するとしても恐らく「政治」が必要であろう。それは、詳論は別稿を見て頂くとして、人々の間で「合理性」が均一でないからである。簡単に言って、自己利益追求において短視的であって、その短視性のゆえに目先の利益を求めて「公平」に反した行いをする者も存在しうる。これに対しては、「処罰」によってそうした行為を抑制するために「政治」=「国家」が必要である。このように処罰(ベンサムで言えば「サンクション」)を持ち込むとしても、現実の社会に対してなおアンリアリスティックであろう。しかし、原理的には「社会」はこれで完結する。そして、さらに「合理性」の点で人は基本的に「等しい」(等しく合理的であって長期的視点を採れる)と仮定できるなら、この「国家」も不要であり、「公平倫理」をもった「市民社会」で社会は完結することができる。* 「完結」ということは、例えばレッセ・フェール主義、したがって原理的に経済学が説くところが「効率性」実現だけであるのに対して、さらに「公平」実現をも含むものとしてである。

* このことの最良の論証はD.ゴーシエ(Gauthier)によってなされているが、これを紹介・検討したものとして拙稿「道徳と自己利害−−「なぜ道徳的であるべきか」に対するD.ゴーシエの回答−−」を参照して頂きたい。本節の「別稿」もこの拙稿を意味する。

[63] 先に見たように、社会は(その経済システムの基盤としての)環境の上に成り立つ。いわば前-環境論的水準においては、経済活動がこの環境に与える負荷は「外部性」として無視されてきていたし、また、それでもって社会に大きな支障を来たすことはなかった。しかし、経済活動の水準の上昇に伴って、負荷がいわば環境が消化しきれないレヴェルに達し、結果として社会に支障を与え始めることになる。社会に支障を与えるということは、諸個人に悪影響を与えるということである。その限りで各人は、この悪影響を回避するという利己的動機から環境への負荷の停止ないしは軽減を行いうるところであるとは言いうる。しかし、環境は「公共財」として存在する。そうした環境の保護は、自らが行ってもその益がそのまま自らに及ぶという構造にはなっていない。換言するなら、自分が行わなくても他の多くの者が保護を行うなら、そこからの益が自分にも及ぶという構造になっている。したがって、(市場において利己的に振る舞うならそこから排除されるがゆえに、そこにおいては(短期的に-)利己的に振る舞うことへの(長期的に-)利己的な動機づけからの抑止が働いているのと異なって、)利己的動機から環境保護を結果することは不可能である。そこに、政治が介入して、公共的コストで環境保護を行うか、いわゆる外部性の内部化として、各種環境保護の政治的規制の下で経済活動を統制するかのいずれかが必要となる、と見なされている。

[64] では、このような政治介入は何によって保証されるのか。それは、増税か、自分の経済活動の直接的コスト上昇かのいずれかを伴う。人が利己的動機からこうした政治介入に賛成することは考えにくい、環境保護はやはり各人がそれぞれ「倫理」をもって実行しなければならない、そうした人が増えることによってこそ環境保護は成果をあげることができる、と説かれるかもしれない。ここで語られる「倫理」は−−およそ(長期的)自己利益を動機としえないものとして−−我々の言う「公平倫理」を越えたものである。以下、主要にはこの意味で「倫理」という語を使用するとして、しかし我々は、ここで安易に「倫理」を持ち出すことには反対である。また、人は(「市民」に対する)「公民」として、政治においては別様の行動パターンを採る、それが環境保護的政治介入を保証する、と安易に政治ないしは公共心に訴えることにも反対する。いま少し、利己的動機から政治介入を可能にする機制を探るべきだと考える。そのポイントは、政治を前提するなら、事態は先程の場合とは異なるというところに在る。少なくとも法治主義(これは民主主義の最核心でもある)という現在の政治形態を前提とするなら、政治は一般性ということを特徴とする。環境保護を行うにせよ、行わないにせよ、それは全ての人々に一定の行動を一様に命じるものである。したがって、先の場合とは異なって「ただ乗り」は不可能なのであって、環境保護の(一人当たりの)費用(コスト)の上昇と、保護を行わない場合の(一人当たりの)便益の減少との比較において、後者が前者を上回る場合は、人は(便益を求める)利己的動機から保護的介入に賛成することになる。(ただし現実には、コスト負担、便益減少は必ずしも人によって均一でなく、精確にはこのことも併せ考えなければならないのだが、その場合でもロールズのように人がrisk-averseであると仮定する等、いくつかの環境保護的介入への賛成に有利な前提を置くことができる。)

[65] この費用−便益の比較は、多くは経験的な問題であり、そしてその計算法の開発は(環境)経済学の課題であるので、本稿では問わない。しかし、環境倫理学が引き受けなければならない問題がなお存在すると我々は考える。現実の環境保護が不十分であるとして、それは、比較して環境保護が有利であることに人々が無知であるからなのか、それとも実は環境保護が不利となるからなのか。こう問うなら、前節は前者であることを前提としたものである。そうであれば原理的には解決は容易であって、知的啓蒙が課題だということになる。しかし後者である場合は、そうした知的啓蒙(だけ)では解決に至らない。そしてその場合初めて、「倫理」(厳密には、「公平倫理」を越えるレヴェルでの「倫理」)が、そしてその「倫理」への「教育」が必要だということになる。

[66] 環境問題の困難なところは世代の問題が関わってくるところに在る。環境への負荷・悪化−その軽減・解消は現世代内で完結する問題ではない。負荷・悪化は(その時々の)現世代の営為の結果であるが、その効果は(その時々の)次世代以降にも及ぶ。いわば現世代エゴイズムとして将来世代が考慮の外に置かれることも在りうるが、この世代間問題をも考慮に入れる場合、将来世代の者の便益にも配慮するかたちで現世代はいわば過剰に費用を支払うことが求められてくる。この過剰な費用を払ってもその額がなお現世代がそれ自身で環境悪化から蒙る被害額を下回るという可能性が論理的には在るが、現実的にはそれはおそらく在りえないであろう。この点を併せ考えるなら、「倫理」が不必要であるという可能性はおそらく存在しないと言っていい*。(同じことは、便益享受者として人間以外のものをも対象とする場合にも言える。ただし、我々は規範倫理的主張として、便益享受者を人間以外の生命体にまで拡大することには反対したい。いわゆる人間中心主義を我々は採る。しかしこれは、(誤解しないで欲しいが)人が各種生命体が保護されていることに(自己)便益をもつとして、その便益をも排除するものではない。なお、以下においても、我々は人間中心主義の立場から議論する。)ここからが、本稿後半のいわば本番となるが、では、その「倫理」はどのようなものなのか。

* 上記註で言及のゴーシエなどは、なお「公平倫理」(のみ)で考えようとしている。具体的には、「将来世代」といっても、一定の期間における親世代−子世代の共在のいわば連鎖において存在してくる(であろう)ものであって、この一定期間における共在を手がかりにしている。我々としても例えば、親世代が子世代に環境負荷のつけを廻すなら、親世代が高齢者となったとき年金給付の減額といったかたちでしっぺ返しを受ける、それを(長期的視点で)予想して、利己的動機からそれを回避すべく現親世代として環境への負荷を低減するということも在りうる、とは言いうる。ただし、この場合でも、子世代が親世代の環境保護という「恩」を「仇」で返さないということの子世代の側の利己的動機づけを保証する仕組みが必要になってくるであろう。精確な議論が必要なのであるが、本稿ではこれは捨象して考えている。

七 「持続可能性」概念の明確化

[71] どのような「倫理」が求められるべきなのか。四章で明らかにしたように「倫理」には多様な内容が在る。どの意味での「倫理」が求められるべきなのか。この問いは、環境保護の水準は何をもって「十分」とするかという、その「十分な水準」の確定と相関的である。これについては「持続可能性」という回答が予想される。我々もこれとの関係で、求められる「倫理」の確定ができると考える。しかし我々は、この概念の−−この語の一般的な使用においてはほとんどジャーゴンであるが−−安易な使用には否定的である。ほとんどの主張が「持続可能性」をそれぞれ説いており(前掲Turner他,訳書,30,55-62 参照)、単に「持続可能性」を言うだけではそれらを全て含みうることになるからである。換言するなら、ほとんど空虚な回答となる。何の持続かということが特定されるのでなければならない。求められる「倫理」もこの「何」と相関的に特定されてくるのである。

[72] ほとんど論理的可能性でしかないが、人間の手による撹乱のない状態で自然の存在が持続していくことが説かれることも在りうる。これは、人間が自らの撹乱の後始末を付けた上で地球から退場することである。しかしながらこれは、人間の自殺を意味する。しかも、一個人の自殺ではなく、(子孫を残さないということを含んで)人類の自殺である。こうしたものを説く「倫理」は在りえるであろうか。しかも、もちろん単にそう説くこと自身に意味を見いだすというのではなく、その実行を命じるものとしてである。確かに、論理的には在りえるし、「生命愛」といったものを仮定すれば(例えばWilson,E.O.の「バイオフィリア」(『人間の本性について』ちくま学芸文庫,1997)参照)理論的にも完全に在りえないということはない。子供のために自己を犠牲にするということは見られるところであって、その対象が人類以外の生命に(のみ)向けられることも在りうるであろう。これはもちろん、人間の不在の自然が各生命種にとって好都合であるとしてであるが、しかしそこで、(そうした)自然をパラダイスのようなものとして観念してはならない。あるいは、自然の或る定常状態といったものを想定してはならない。(例えば、森林について「極相」といったことが語られることも在るが、生態学の現在の水準はそれを否定している。)自然はもっと動的なものである。そしてそういうものとして、種の絶えざる絶滅、発生ということを内在させている。しかし、地球史的に見て、生命発生後、全生命種が絶滅したということは−−「アイス・ボール地球」の仮説を前提するなら、その危機は在ったが−−ない。そして今後も、数億年という範囲内で言うなら、全生命種の絶滅ということは恐らくないであろう。或いはそれどころか、地球史の事実で言えば、種は確実に増加してきた。(これは巨大隕石の衝突も含めてである。それは、特定の種(例えば恐竜)の絶滅を結果したが、生命の進化という点ではむしろ促進的であったと今日の進化生物学は報告している。)こうした状態を実現する、あるいは、こうした状態に戻すために人類は退場すべきだと説く「倫理」は、確かに在りうるであろう。しかしまた、それは一種ダーウィニズム的なものであって、−−「社会ダーウィニズム」の場合はむしろ反「倫理」的な教説と一般的にはみなされている−−いわば通常の「倫理」の拡大版としての「生命倫理」とは言い難い。この「生命倫理」は、通常の倫理が人間諸個人の「人権」概念を核心としているとして、その「権利」を人間以外の生命個体にも対象拡大しようとするものであるからである。いわゆる「土地倫理」の場合はそうした個体尊重主義を採っておらず、そうしたものであるなら、求められる「倫理」の具体例で在りうる。しかしまたこれは、厳密に言うなら、現実の生命の尊重を説くものではなく、生命のいわば条件の尊重を説くものとして、生命尊重主義だとしても通常の語感からはかなり外れたものである。

[73] だが、こうした考え方は極端であって、全生命体の保護を語る場合であっても多くは人類の存在の余地を与えて考えている。一定の範囲内であれば自然は人間による撹乱のいわば無化の力をももっているのであって、その範囲内であれば人類の存在も許されるのかもしれない。いわゆる「ディープ・エコロジー」が説く「持続可能性」はこれである。ここでは、こうした無化の能力の範囲内に収めるべく地球における人類の比重の縮減が説かれる。具体的には、人口の削減と経済活動の水準低下が説かれている。現実性をもった「倫理」としてはこれがいわば再左派であって、Turner等の分類では、全体として4タイプに分類され、そのうちの再左派としてこれが挙げられている。

[74] そのすぐ右に位置するのは、彼らのタームで言えば「共同体主義者」の「倫理」である。これ(communalist)は(訳語は同じになるが)いわゆるcommunitarianとは別であって、人類を含んで全生命が一つの「共同体」を成すという考え方を意味するものである。ここでは、いわば人類も一つの自然者とされ、あくまで一定の範囲内であるが、その営為=「人為」も一つの「自然」である。そしてそういうものとして、生態系システムの枠内に収まるものである。実際、例えば「里山」(自然)が肯定的に語られてもいるが、里山ということは人工自然であるのだが、そこには(そうでないところと比べて)豊かな生命種環境が在ると報告されている。「ディープ・エコロジー」との区別を明示するなら、これが人間の営為が多少在るとしても(無化によって)全体的にはあたかもそれがないかのように自然が経過することを説くのに対して、「共同体主義」は一定の範囲内では人間の営為が(例えばネズミのそれと同様)それ自身自然であって、したがって人間的営為の痕跡を残しつつ自然が自然として経過することを説くものである。では、その「一定の範囲」はどこで線引されるのか。多くは、前-産業(工業)社会もしくは−−実際、第二次世界大戦後、経済活動は飛躍的に増大しているが−−第二次大戦以前、あるいは、日本で言えば「高度成長」以前が想定されている。ここでは「持続可能性」は、そうした「生命共同体」の持続可能性である。しかしながら、(先進国の)現在の水準から言うなら、このレヴェルの実現は人々の便益の大幅な低減を伴う。地球全体で言うなら最大の環境問題は(そこからの諸帰結を含んで)地球温暖化であろうが、これは、いわゆる京都議定書の実行で解決できるものでは到底なく、−−南北間の格差の解消を前提とするなら−−日本で言えば現在の何分の一レヴェルにまでCO2排出量を削減するのでなければならない。もちろん、CO2排出あるいはエネルギー消費が便益に正確に比例するわけではないが、そうであるとしても便益の大幅な低減を要するであろう。

[75] これに対して、もう一つ右に位置するのは、現在の便益水準を保証することを基本として、上の温暖化問題で言えば、1)技術的にCO2排出が環境負荷になるべくならないようにクリーン・エネルギーへの転換を図ることなど−−Turner等の用語で言うなら、一般的に「経済活動が与える環境への影響が、経済成長と連動しない」ことを「分離」と言う(29)が、技術的にこの「分離」を追求すること−−を志向をする、2)温暖化を環境の「悪化」と端的に考えるのではなくいわば中立的に「変化」と捉えつつ、その「変化」への対応によっても便益の確保を考える(例えば、水位上昇に対して堤防で対応する)、基本的にこの二方向を採るものである(cf.30)。(因みに、この次の再右派に位置するのは、便益拡大=経済成長を基本原理として、しかしそれだけでなく、環境対策として、それで十分対策となるとして或る種楽観的に「分離」を追求するものである。(cf.30))これ(あるいは、この両者)は、−−決して無「倫理」というものではなく−−便益の追求を目指す、一般的なタームで言うなら「幸福主義」の「倫理」をもつ。もちろん、専ら自分の便益を目指すならそれは非-「倫理」であるが、それは「倫理」としては、そうした利己主義を規制しつつ便益の「公平」(世代間公平も含む)を目指すものである。因みに、政治上の左派はこの「公平」を強く目指し、(それを、貧しい者の経済水準の向上として実現しようとする)結果として環境対策に消極的となることも在る。その意味では環境右派ではあるが、政治左派・右派と環境左派・右派とは重なるものでないことは知っておくべきである*。

* 東ヨーロッパ旧共産圏における環境悪化が一時期盛んに語られたが、それは間違った共産主義の結果であったというより、共産主義そのものの結果であったと見た方が妥当であろう。そしてそれは、共産主義が(少なくとも意図としては)「公平」を求めて貧しい者の経済水準の向上を志向したからである。レーニンの「共産主義とは電化である」という有名な言は、この「経済水準の向上」の志向を端的に語ったものであろう。

[76] 環境問題をめぐる見解の相違は、大勢としては「共同体主義」対(右から二番目の)「幸福主義」との間に在る。これは、「非-人間中心主義」(の穏健版)対「人間中心主義」(の「グリーン」版)とにほぼ重なる。そうであるとして、主張の明確さという点では後者の方が優れている。それは、守るべき環境水準が人類(全体)の便益の維持として明示されているからである。それは、一方では可能な限りで便益を追求するが、他方、それが(長い視点で見れば)自然の悪化を招来し、結局便益の低減が予想されるときは(直接的)便益の追求に制限をかける。いずれにしても、長期的な視点での便益の最大化として基準が明確である。これに対して、「共同体主義」は必ずしもそうでない。やや比喩的に言うなら、人間もまた自然(の一部)であるとして、どの範囲での営みが「自然」であるのかの線引が不可欠であるにも拘らず、その線引がイメージ的なものに留まるからである。これは重要な問題であって、最終二章で「倫理」の側面から考察する。

[77] 「倫理」の実行という点から見ても、人間中心主義の場合、開明的利己主義+将来世代への「愛」として、換言するなら、全人類単位での便益の最大化として動機が明確なのに対して、「共同体主義」の場合、何が動機なのか不明である。もちろん、この言い方に合わせて(全)人類を含めて全生命体の便益の最大化と語られる可能性も在る。しかし、全生命体とは一まとめに換言すれば「自然」(全体)であって、「自然」は動的なものであって特定種の絶えざる絶滅をも、したがって人類の絶滅をも含みうるものであるのだが、「共同体主義」はそれを念頭に置いていない。それはあくまで人類の生存を前提とすることを意味し、その分「自然」を逸脱することになる。そのように見るなら、この立場は結局「人間中心主義」と同じであることになり、ただニュアンスの差(それは大きいものではあろうが)が存在しているにすぎない、と言えるかもしれない。しかし、問題は「動機」である。ニュアンスの差が在るにすぎないとしても、その「差」は、「動機」としては異なったものが在ることを予想させる。

[78] しかし他方、ニュアンスの差が在るとして、それは環境の事実の認識の相違に基づくのかもしれない。「共同体主義」の方から言うなら、「人間中心主義」は環境の現状に対する危機感が甘いということであるのかもしれない。事実を危機感をもって正しく見つめるなら、相当な(便益低下の)覚悟が要るということなのかもしれない。恐らく、これが大きなファクターであるのではあろうが、しかしこれだけであるなら、やはり「人間中心主義」の一ヴァージョン(危機意識版)である。「人間中心主義」とは別種の立場であることを保証しない。別種であると言うのであれば、そこに在る「倫理」の動機はいかなるものであるのか。ここで、あくまで(人類を含む)全生命体の便益の最大化を言うのなら、それは逆に、或る定常的な安定した自然が在るのであって、人類の営為が或る水準内に留まるなら、その人類を含んで多くの生命種があたかも合目的的に共存的に存続していけると見て*、その上で主張しているのかもしれない。しかし、これは非-科学的であって、この方が環境を事実として認識していないとも言いうる。あるいは、科学的であるというのはいわば第二義であって、したがって、その科学が便益の最大化を予想するところを行うというのも第二義であって、何か別のものが一種ロマン主義的に志向されているのかもしれない。その場合、何が動機となっているのか。ここに我々は、「便益」とは別のものが動機となっているのではないのか、という可能性を見るのである。

* いわゆる「共生」の論もそう見ている。「共生」とは各生命種が相互依存=相互援助の関係に在るという事態を言うが、各生命体が「共生」の関係に在るというのは余りに目的論的な見方であって、科学としては無理な見解であろう。「共生」というのは、実は各生命種が(種)利己主義的に相互利用しているという状態があたかも「共生」であるかのように(als ob)見えるということでしかない。ここでついでに言うが、「自然と親しもう」といったスローガンの下に「人間もこの共生の輪に加わろう」といったことが−−特に「教育」の現場で−−広く唱えられているが、これは、後述する(豊かな自然を享受する)「精神的便益」心の育成であるのならそれでいいが、科学への動機づけとしては問題を含むものである。(おそらくこの結果であろうが、自然科学者のなかにも、自らの専門的営為においては「科学」的であっても、それを啓蒙的に語る段になると極端に「非-科学的」となるケースがよく見受けられる。)科学の営みは、本来もっと知的な好奇心が動機であるはずである。

八 どのような「倫理」が必要なのか(一)

[81] 本稿が「再左派」として位置づけた考え方は、地球生命系に含まれる個々の種、およびその全体の状態がいかなるものであれ、自然がそれ自身で自然に経過することを善とするものであった。これは、自然の経過が生命の消滅を論理的に含む限りでは「生命倫理」から逸脱することになるが、一種の(例えばガイア仮説のような)目的論として生命持続のメカニズムを内包するという仮定の上では「生命倫理」となる。その際、この「ガイア」が(さらに)、個体数を有意化しつつ各生命個体の繁栄を内在化していると仮定するか否かで、それ自身二タイプに区別できる。個体の繁栄を説くものは便益主義タイプである*。この場合、各生命体を便益の主体として想定し、そういうものとしての生命体繁栄の系として地球生命系の維持を説くものとなる。他方、必ずしも個体の繁栄を説かないものは、非-便益主義である。「生物多様性」としての数のみを有意化するものもそうである。いずれも、人類は(非自然者として)不在である方がいいので、人類からするなら完全な利他主義となる。しかし、第二タイプのものは厳密には生命愛を動機とするかたちでは存在しえない。厳密に言うなら、それは各生命体ではなく、各生命体の条件としての地球生命環境(そのもの)が上位に置かれているからである。ディープ・エコロジーにも、この便益主義と非-便益主義との二タイプが在りうる。両人間中心主義は、共に、人間便益主義であり、種レヴェルでは(人類)利己主義である。ここでは動機は、(個人的)利己主義+(人類)愛として明瞭である。これらに対して、「共同体主義」の「倫理」は、二タイプへの分類が微妙である。これは、人間が存在し続けることを前提とした上で全生命が一つの共同体を成すことを説く「倫理」であるのだが、(自然における人間の不在よりも)人間が存在していた方が全生命体の便益が増大するということを最初からいわばポイントとしていないからである。これは、「人間中心主義」への−−「生命倫理」「ディープ・エコロジー」とは異なって−−端的なアンティ・テーゼではなく、むしろ人間の在り方として「生命の共同」を説くものであるからであろう。したがって、この「共同体」において結果として全生命体の便益が最大になることが在るとしても、それが目的として置かれているのではない。そういうものとしてこれは、端的に非-便益主義タイプに分類する方が適切かもしれない。

* 個体数の増加が便益の総量の増加と相関するとここでは単純に仮定しておく。「平均的功利主義」というカテゴリーを持ち込んで、各個体の平均的便益水準ということをも有意化するなら事はそう単純には扱えないが、本稿での議論にとっては、この単純化は差し支えないと考える。

[82] 先に、現実には人間中心主義と、この「共同体主義」との対立が基本軸であると述べたが、以下、この「共同体主義」倫理の問題性の明示化として議論を進めていきたい。非-便益主義タイプとして確認したかぎりで、この「倫理」の動機は(利己主義でないのは当然として実は)「愛」ではありえない。では、何が動機となっているのか。こうしたタイプの倫理は幅広く説かれているところである。プリマックにおいてもそうである。先に確認したように([43])「倫理的」には「内在的価値と関わる」という(第三の)用法も在り、平たく言って「大事なものをまさに大事にすることが倫理だ」という意識も一般には在る。動機として言うなら、この「大事なものを大事にする」という動機が働いていると見ることが可能であるかもしれない。しかし、我々は「内在的価値」の存在を疑問視する。「内在的価値」だと語られているものは、究極的には実は、その者が自分が「価値」だと考えるその価値が対象に投影されたものだと我々は考える。「価値」は、「内在性」を放棄するかたちで各人が(自己目的的)価値と考えるものとして実際は語られているのである。したがって我々は、環境問題の場面でそもそも「存在価値」というカテゴリーを導入することに反対したい。「存在価値」が語られていても実質的には変質化されて異なったものとして語らざるをえなくなっている。しかしながら、その場合、非-便益主義において本当には何が動機となっているのか。我々は同様先に、行為の結果として行為者自身に実現される便益を含んで、およそ結果としての便益ではなく、行為そのものにおける便益を動機とする行為が在ることを確認した。つまり、環境に対するなんらかの保護の行為が、その行為の結果−−つまり保護(の実現)であるが−−をもたらすためにではなく、保護を行うことそのものを目的としてなされる、そしてそれはそこに便益が在るからである、という可能性を確認した。前節では「非-便益主義」というタイプとして分類したが、そこでの「便益主義」とは異なるが一つの便益主義がここでも成立しているのではなかろうか。人は、−−多く「経済主義だ」と語りつつ−−便益主義を安易に批判するが、広義で見た場合、そもそも非-便益主義というのは在りえないとも考えられる。[45]節では別の方向から「真理」志向的な行為を問題として、「真理」志向に便益が成立していることの困難性を言った。そうした真理志向における便益なら、そもそも便益に分類しなくていい可能性も在るかもしれないが、それはそもそも困難であった。厳密に言うなら、それとは別のものとして−−換言するなら、「端的に真理として価値であるゆえに」という価値志向ではなく、自分の価値観の実行という一つの自己実現状態として−−まさしく便益としてしか理解不可能なものが動機として存在していると見た方が妥当である。その便益は、論理必然的に当の行為者自身におけるものであって、したがって、それを動機とすることは利己主義である。いわゆる利己主義とは別であるとしても一つの利己主義であることには変わりない。しかし、Mitchell等に従うなら、これも「倫理」である。環境保護を結果するのであるのなら、それが、そうすることにおける自分の満足を動機とするものだとしても、「倫理」だとは言いうる。

[83] Mitchell等では、この「満足」として良心の満足、社会性への欲求の満足といったものが想定されていた。だが、そうした「満足」を動機とすることを「倫理」だとすることには異論も在る。Mitchell等は「社会規範の充足」とも語っているが、カントに即して次のように言いうる。カントは「(単なる)格律」と(客観的な)「(道徳)法則」とを区別しているが、語られる「社会規範」はそれだけでは「格律」でしかない。それがさらに「法則」となるためには「客観性」の条件を満たすことが必要である。しかるに、それが「共同体主義」では不明である。(生命体の)便益の最大化は「客観性条件」に相当するものだが、「共同体主義」はそれを退けている。その限りで、いくら社会規範と言われていても、それは「単なる格律」である。そして、「単なる格律」に従うことはカント的意味では「道徳性」(=倫理)とはならない。それゆえ多様な「倫理」概念が持ち出されることにもなるのである。このことはプリマックで確認したところである。

* ここで倫理学プロパーの方から予想される反論に急いで回答しておく。一般に「功利主義 対 (カント的)義務論」という対立軸が想定されているが、功利主義=便益(幸福)主義と了解するとして、カントの議論に依拠して「便益の最大化という客観性条件」を語ることはおかしいのではないか、と言われるかもしれない。しかし、当のカントにも「[言うまでもなく自分のではなく人類全体の]幸福を追求することは義務である」という趣旨の発言が在る。しかもそれは、−−「幸福」は「徳」に内在しない、という(ストア派批判の)言から見るなら−−いわゆる「幸福」(「傾向性の満足」)とは異なった精神的幸福(「浄福」)といったものでもない。

[84] 先([76])に「「自然」の線引が不明である」と批判したが、それは、第六義の「文化に基礎を置くこと」と実は相関的である、と我々は見ている。森林(生態)学の平川浩文は2000年12月16日関東生態学会公開シンポジウム講演「歴史的価値としての生物多様性の保全」で次のように説いている。「「生態学的に正しい」自然の姿など存在しない。/「自然のあるべき姿」に関する主張はすべて人間の価値観によるものである。/生物多様性保全は「自然のあるべき姿」に関する主張の一つであり、この主張は歴史的価値観に基づいている。」すなわち、(科学的に見た場合)客観的に正しい「自然」の姿といったものは存在せず、人々の歴史的、すなわち歴史的経過のなかでそのときどきに、その意味で偶然的に形成された「価値観」が「正しさ」の基準を与えているに過ぎないのである。ここで言われた「自然のあるべき姿」は我々が言う「自然」である。そしてそれが、「歴史的価値観」に相関的なものであるのだが、それをプリマックの言い方で言うと「宗教・哲学・文化の価値システム」、要約して「文化」ということになるのである。

[85] Sagoffの場合、「文化に基礎を置くこと」は明確に、さらに還元されるかたちで「金銭」すなわち「便益」の反対の「意味」の事柄として語られている。しかもその「意味」は、いわば客観的意味ではなく、人間(各人)の「意味」である。上でも挙げたHellerから「彼自身の存在の意味」というフレーズを含む一節が引用されている(90)。自然の保護は、−−自然が客観的にもつ「意味」に即してなされるというのではなく−−その「保護」の行為を通して人が自らの「人生」に「意味」を与えるためになされるのである。前掲書『なぜ悪いことをしてはいけないのか』で我々は、こうしたタイプの倫理を「自己価値実現道徳」と術語化したが、環境問題解決という場面においては、そうした道徳=「倫理」(四章の分類では第五義での「倫理」)は、適切に「倫理」とは言い難いと我々は考える。しかるに一般的には、むしろ便益志向型倫理に対してその方が「真に倫理的だ」としてこのタイプの意味志向的「倫理」の方がいわば幅をきかしている。一つの問題的事態である。*

* 拙稿「二つの「合理性」概念−−J.McDowell的「道徳的実在論」の批判的検討−−」は、このことを倫理学プロパーの議論として展開したものでもある。一般には、「価値観」に基づいて自らの人生を有意味化することが「倫理」として観念されているが、実はそれは−−それこそが「倫理」であるとされる限りでは−−端的に間違いである。いわば価値=意味関係化的誤謬とでも言いうる誤りである。

[86] 全生命体の便益の最大化に繋がらないとしても、或る特定の生命(体)状態が(特定的に)有価値であるなら事態は異なってくる。そうした一定の状態に「内在的価値」が在るのなら、自然の保護も、生命体の便益の最大化から独立に、それ自身としてなされなければならない。自然保護に人が自分の人生の意味を付与しているとしても、その場合は事態が異なってくるであろう。しかしながら、我々は「内在的価値」の存在を疑問視した。人が「内在的価値」であるとするものは実はその人の価値観−−平川のタームで言えば「歴史的価値観」−−のいわば投影の結果であると我々は見ているのである。であるから、事実そうであるように、人によって「内在的価値」(をもつとされるもの)が異なってもいるのである。端的にはプリマックが「カリスマ的動物」と呼ぶものを見る場合、そのことは明瞭である。人は、例えばパンダ(を含む自然状態)がそれ自身保護されるべきだと説くが、それはその人のパンダ愛好という価値観から出てくるものに過ぎない。だから、別の人が「いや、ライオンだ。」「イルカだ。」「日本猿だ。」……と語ることにもなる。* 先([76])に「自然の線引の曖昧さ」を指摘したが、それは、この自己意味化的価値観が「自然」に投影されているからでもある。

* 「愛好」も一つの「愛」であるとは言いうるが、それは本稿で我々が言う「愛」とは別である。後者は換言するなら「博愛」であって専一的に他者の便益のみを目的とするものである。これに対して「愛好」の場合、自分における便益が有意化されており、その便益内容の相違が愛好の対象の選別を結果しているのである。

[87] こうしたカリスマ的動物の特定に間主観性が成立していることは、論理的には否定できない。しかし、事実としてはそうではない。成立するとしても、それは、まさしく各「文化」固有の、その「文化」の範囲内での間主観性に過ぎない。近代国家が−−いわゆる「国民国家」として−−「文化」の共有性を一つの基盤に成り立っているとして、それは事実上「国家」レヴェルでの間主観性である。Sagoffは、この「国家」(「国民」)性を有意化して、先の「意味」を「国民」性と重ねている。環境保護も「国民」としてこそ行うべきであると説いている。前掲書の結語部分でこう説かれている。「[社会的・環境的統制の]法律は、便益と費用とを差引勘定することによって資源を効率的に配分する、あるいは消費者余剰を最大化することではなく、安全な社会やクリーンな環境といった規範的目標に向かって進むことをアメリカ人たちに要求する。それをアメリカ人たちは、一つの国民として切望するのである。これらの法律は、アメリカ人たちが自分自身を一つの国民として知覚することを表出しているのである。」(224) 因みにSagoffは、これとの関連で、反-経済主義的に、環境保護を「政治」の問題であるとも説いている。*

* こうした政治的国民主義は、いわば「主義主張」としてだけでなく、日常的にも見られるところである。一つだけ例示するなら、「外来種」問題について(「外産種」問題として)「日本の固有種を守ることが生態系の維持に繋がる」と発言されるときなどがそうである。自然は、したがって生態系はまさしく「自然」であって「国家」という人為的なものとは独立であるはずだが、そうであるにもかかわらず政治的なものが重ねられて意識されてしまっているのである。さらに言うなら、(非-欧米圏においては)近代国家システムはまさしく「外来」のものであって、そこには「外来」の諸制度が−−変形されてではあるが、そうであるとしても「外来」のものが、かつ多く(いわゆる「伝統の発明」のかたちで)日本固有の「伝統」だとして−−導入されているのだが、あたかもこれと相関的に、長い時間スパンで見るならまさしく「外来」のものが「日本の固有種」として語られてもいる。例えば京都(近郊)における(孟宗)竹がそうである。

[88] こうした立場は、いわば倫理一般としては、(この場合は政治哲学的意味での)「共同体主義」的倫理として一応、一「倫理」でありうる。しかし、「環境倫理」としては問題をもつものだと我々は考える。悪く言うならそれは、「環境倫理」だと言うとしても環境をいわばだしにする「環境倫理」である。環境問題の解決そのものが目指されているのではなく、そうすることにおける(国民としての)自己意味化−−それは、同じくプリマックが語っている「自己同定」とも換言できる−−が実際の目標であるからである。我々は、こうした「倫理」でもって環境問題の解決に当たることには懐疑的である。Mitchell等の場合、こうした第五義での「倫理」に、「満足」としていわば別種の「便益」が明瞭に想定されていた。彼らの場合、経済学理論の枠内でそうしていたのだが、この別種の便益は倫理学一般としても主題となるところである。我々も、こうした「便益」がまさしく「便益」であることは認める。決して「にせの便益」といったものではない。だが、それは、環境問題解決にとっては(場合によっては阻害的でもあるが)中立的である。いわば、環境保護を喜んで(便益をもって)行おうと、いやいや行おうと、当の環境保護という点では全く同じであるからである。そうした便益は(単に)付加的なものとしていわば減価しなければならないと主張したい。* 前半部末で挙げた「共生」志向型倫理は(他者の便益享受を自らの便益とするというかたちで)便益志向型の一種ではあるが、その場合の自らの便益も環境問題解決という点では中立的であって、このタイプの倫理も環境問題解決において有意的であってはならないであろう。

* 前掲書所収の拙稿では、(「効用」という同意味の言葉を用いて)これを「第二次効用」としてカテゴライズした。これはまた、カントで言うなら、彼が「好意・同情」について、道徳的行為にそれが伴っていて("mit")も構わないが、それが道徳的行為の動機であること("aus")を峻拒したところとも平行的であろう。

九 どのような「倫理」が必要なのか(二)

[91] これに対して、プリマックの言う「倫理」の第四義=「精神的なものを志向すること」は別様に扱う必要が在る。「精神的なもの」に伴う「便益」(Mitchell等が挙げる「アメニティ」も一例である)は上のものとは−−一体として語られことも多いのだが−−一応、別のものである。我々としても、「精神的なもの」は、それ自体としては肯定的なものであると考える。そうであるとしてこれは、環境問題解決において経済主義が物質主義として批判されるときまさしく「倫理」として説かれるところでもある。環境の保護を我々は専ら各生命体の物質的便益享受の観点から語ってきたのだが、環境保護の目標はそれに尽きるものではなく、自然が例えば美しくあることも取り込んで問題とすべきなのではなかろうか。一般的にもこう説かれている。

[92] 「美」はそれ自身で−−内在的価値として−−価値であるというのではなく、そこから得られる一つの享受(したがって別種の便益)のゆえに価値である。一般的にもそのように観念されていると言えるし、だから(環境価値の標準の分類法では)「利用価値」の一種類としてカテゴライズされてもいるのである。そうであるとして我々は、こうした便益の存在そのものは否定しない。それが人の幸福の重要な構成要素であることも否定しない。そして、そうした便益の主張であるなら、それは我々からしても十分、一「倫理」として認めうるところである。しかし問題は、そうした便益の追求が果たして環境保護という枠内に収まり切るかということである。環境を「美」の観点から見た場合「風景」と言えるが、その風景の保護と環境の保護とは場面によっては対立する。詳しくは安彦他編『風景の哲学』ナカニシヤ出版,2002 所収拙稿を見て頂きたいが、この対立は明らかに存在するところである。

[93] この対立は、明確に人間中心主義に立つときは原理的には消滅する。例えば森林のいわば生物環境質と美的質とが矛盾するとして、人がそれぞれに対してもつ便益を比較衡量してその総計の最大値を出すことが可能である。非-人間中心主義的に他の生命体をも考慮に入れる場合、それら生命体は−−擬人化的に人間に似たものとでもするのでなければ−−美を享受することのないものであって、そこに美の享受の便益を算入するなら、そうした享受主体としての人間を不当に有意化することになり、非-人間中心主義としては不整合となる。結局、(物質的便益に対して)美的便益を有意化して非-人間中心主義を説くことは無理である。美的便益を有意化するのなら、明確に人間中心主義に定位する他ない。そしてその場合は、対立は原理的には解決可能なのである。しかしながら、それはあくまで原理的にはそう言えるということであって、現実にはここに大きな問題が在る。

[94] それは、「美」、あるいは一般的に「精神的なもの」が主張されるとき、それが比較衡量を拒否するいわば絶対的な質として説かれる傾向が強いからである。ベンサムに対してミルは、快を量的にだけ問うのではなく、その「質」をも問題とすべしとして、低級な快に対して高級な快を有意化したが、語られる「精神的なもの」はこれに対応する。しかしミルは両種の快について、必ずしも量的な比較衡量ではないが、一つの比較衡量の方途を提案していた。しかしながら、一般に「精神的なもの」が主張されるときは、まさしく比較衡量を越えたものとして説かれている。そして、プリマックに即して分類した第二の意味で([43])、そのように比較衡量しないことこそが「倫理的」だともされている。しかしこれは、一つの独断主義の表明である。絶対的なものが根拠なしに主張されているものとして明らかにそうである。

[95] したがって、或るものが絶対的であるというのは「知」ではなく「(単なる)信(念)」(思念)である。プリマックはこれを「真理」だとも言っているが([12]-11))、それは「根拠づけられた=正当化された」(知である)という意味ではなく、むしろ「信念」とでもいったものとして語られている。その思いがいかに強いものであっても、そのことは「真理」性とは無縁である。あるいは、先に指摘したように、「広く抱かれている」を根拠としている可能性も在るが、その場合は、−−「真理」に関する「合意説」を説いているのでもあるなら話は別であるが、その可能性はほとんどなく−−一つの特定の価値観の前提を認めることである。言うとするなら、それは(政治哲学的意味での)「共同体主義」の価値観である。つまり、「……が価値が在るので、それを保護すべきだ」と説かれるとき、共同体内でそれを構成するものであるがゆえに価値が在る、というかたちで同時に「共同体主義を採用すべきである」とでもいったことが含意されているのである。あるいはまた、「文化の価値システムのなかに基礎をもつ」といったことも語られているが([12]-10))、それは既存の「システム」であるゆえ、その場合、一つの保守主義−−これは政治的なものではなく、いわば知覚上の保守主義* である−−が含意されることになる。

* この概念については、拙稿「「ヴァーチャル/リアル」という問題」を参照して頂きたい。

[96] こうした「共同体主義」「保守主義」の含意が伴われる場合、環境保護という結論の点では同じであるとしても、「個人主義」「革新主義」を採る場合、賛成が躊躇されることになる。我々の認識では、環境問題解決で人々の合意が形成されることを妨げている最大要因はここに在る。近年「環境プラグマティズム」という行き方が説かれるようになってきており、そこでは「立場の相違を越えて……」といったことが語られているが、我々はそれには反対である。余分な含意をもって主張がなされているゆえに合意形成が困難となっているのである。合意は共通の地盤を必要とする。それは、精神的な便益をも一つの便益として、そうでない便益(物質的便益)と、まさしく便益として同等であると認めることである。この原則、それは「民主主義的原則」と言ってもいいが、換言するなら環境問題解決には、この原則の徹底が必要なのである。* 純(メタ)倫理学的に言うならこのことは、価値観に基づく主張をする際、(その「価値観」そのものの)根拠づけに「主義」を持ち出さないということである。「精神的なもの」は−−実は「物質的なもの」の主張の場合でもそうでありうるのだが−−多く、この「主義」主張と一体化的である。そして、いわば「主義」の満足が一種「精神的満足」として語られることも在るのだが、これはむしろ第五義での「倫理」に伴う「満足」である。「精神的満足」は、これとは独立に「精神的満足」そのものとしてカウントされるのでなければならないのである。

* 例えばデンマークの環境学習では民主主義の学習が不可欠とされているが、それはこのゆえでもある。

[97] ただし、「民主主義」が現世代中心主義となりがちであるとは言いうるところである。そうであるがゆえに、(環境倫理の意味での)「共同体主義」は−−この現世代中心主義という意味合いで人間中心主義を理解し、それに対して−−非-人間中心主義を説いているのかもしれない。そしてそれは、将来世代のために多大な自己犠牲=物質的便益削減を伴うゆえに、いわばそれを補償するものとして精神的便益を強調しているのかもしれない。(物質的には貧しくとも精神的には豊かに、として。)もちろん人間中心主義は原理的には決して現世代中心主義でなく、将来世代を含んで全人類の便益の最大化を説くものであり、その可能性の根拠として「愛」をも強調するものである。将来世代への配慮の必要が相当であるときは、結論としては「共同体主義」が説くのと同水準のレヴェルで現世代の犠牲をも説きうる。だが、人間はそれほど立派なものでなく、「愛」として端的な利他主義は困難なものでもある*。その欠をいわば精神主義的利己主義として「共同体主義」が−−まさしく利己主義として−−現実性をもって埋めうるということかもしれない。しかしながら、そうであるとして(も)、精神主義には独善性が伴いがちである。したがって、精神的利己主義に「愛」を補完する機能が在るとしてそれをも動員するとして、それは一定の統制のもとでなければならない。それは、精神的便益をも(物質的便益に比較してそれ自身「高級な」あるいは「正しい」ものだとするのではなく)あくまで便益一般として考慮しつつ**、便益の最大の確保を原理として明確に設定することである。そうするのでなければ、そこに一種の転倒として、精神的なものの保護が−−「精神的なもの」といっても「物質的な基体」の上に在るのであって、その「基体」の確保というかたちで、環境配慮の枠をはみ出して−−逆に環境に負荷をかけることを容認してしまうことにもなりかねない***。例えば、伝統の維持のためには多少の環境負荷はやむをえないというかたちで**** *****。

* ただしこれについても、先の「親世代−子世代の連鎖」という視点から、将来世代(全般)への「愛」が「博愛」として”高級”なものであるのに対して、孫子への愛(という、いわば遺伝子レヴェルでの利己主義)という”低級”な愛であるものにも、かなり依拠できるということは付言しておきたい。 ** 「便益一般として」ということは例えばこういうことである。捕鯨問題ないしは鯨保護問題について、捕鯨国である日本から、「捕鯨は我が国の伝統文化である(から……)。」と語られることも在るが、「便益一般」の主張として折り合いの土俵に乗せるのであるなら、−−「鯨は必要な食糧資源である。」というのが物質的便益の主張であるとして−−「鯨は習慣の食材である。鯨食がなくなるのは(心理的に)寂しい。」とでも主張する方が好ましいということである。この点から、イヌイットの捕鯨が「伝統」として例外扱いされていることも問題であると言いうる。「多文化主義」(の或る潮流(たとえばC.Taylor))にとっては、まさしく「伝統」として語るべきだということになろうが、「伝統」の言説は合意形成にとっては障害として作用する。反対側の「鯨は聖書に出てくる[伝統の]特別の動物であるから捕鯨反対である。」という主張も同様である。(一般的には、「伝統の」は純粋に記述語ではなく、一定の評価性をもった言葉であり、合意形成の場ではそうした記述=評価(一体)語の使用は好ましくない、とも言いうる。唐突なアナロジーであるが、例えば「先の戦争」について、「太平洋戦争」で指示する者と、「大東亜戦争」で指示する者との間では、その言葉の使用そのものによって合意が困難となるといったことを想起してみて欲しい。)「便益一般として」ということはまた、場合によっては、「文化としてではなく」ということをも含意する。物質的なものに対する精神的なものが「文化」を意味することも在るが、両方を含んで何らかのものに特別の意味が付されて観念されるときに「文化」と呼ばれることも在る。例えば「自然と文化」と言われる場合は前者である。「芸術」がその一例である。これに対して、対象としては同じものを指示するときであっても例えば「文化勲章」と言う場合は、(さらに)一つの、強い評価性をもつ特別の意味が付されている。上の「捕鯨」に関わるもの等、(物質)生活に関わるものであっても、そこに「特別の意味」が付与されるときは「文化」として観念されうる。ここで「文化としてではなく」というのは後者の意味においてである。「伝統性」は、この「特別の意味」の一つである。因みに、筆者は日本倫理学会1999年度大会シンポジウムで「反文化・主義」と「反・文化主義」との区別を語ったが(『倫理学年報』49集所収「シンポジウム報告」参照)、ここで言う「文化」の主張に反対するものは後者に属する。 *** ここから言うなら、「精神的なもの」はいわば純粋に「精神的なもの」として物質的基体性が−−完全には不可能であろうが−−限りなくゼロに近いことが望ましい。しかしそれは、恐らく「豊かさ」を犠牲にするものでもあろう。そうしたものが(なお)利己主義として可能であるとするなら、それは、自己の(言うまでもなく美の享受といったものも含めて)便益の減少そのものに−−逆説的だが−−便益をもつという在り方であろう。この場合、「精神的便益」は我々が前章で問題とした、「倫理」の第五義に伴う「便益」に限りなく接近するものとなる。この点から見るなら、実はカントでも論は単純でない。カントの問題系そのものとして言うなら「尊敬の感情」の問題が関わってくるのであるが、これはそうしたものの一例と見ることも可能ではある。それは、通常の「人間性」から見るなら非-人間的なものとして一種倒錯的なものでもある。そういうものとして、シラーがカントを「厳粛主義」だとして批判したところと重なってくる。しかし、「倒錯」であるというのは、あくまで−−丁度マゾヒストが苦痛に快楽を感じるように−−(逆説的に)便益の喪失に便益をもつからである。(したがって、この「便益」は、物質的便益と区別される「精神的便益」ともさらに別種のものである。)カントの場合、「尊敬の感情」においてこの便益性は有意化されていないとも了解できる。その意味で、他者の便益を志向するとしてもそのことに便益をもたない(と本稿で定義した限りにおける、「博愛」という意味での)「愛」と近いとも言いうる。また、同様「基体性」の側面から見る場合、「宗教」は、「来世」における幸福(便益享受)を説きつつ、それと引き換えに「現世」における幸福の断念を説くものとして、環境保護に適合的であると言えるかもしれない。しかしそれは、その徹底として、例えば寺院を建てることを拒否する、ましてや(環境負荷の高い)金属製の像の鋳造は峻拒するものでなければならない。その意味で反-文化的なものである。これの具体例を求めるなら「原理主義」が近似的なものであろうが、これも非-人間的なものである。ただし、例えば苦行そのものに便益をもつという場合は倒錯的であるが、「来世」の幸福を願うかぎりでは倒錯的ではない。例えば「解脱」として、その要件としての便益の断念が実行される場合であっても、(「現世」における)精神的苦痛からの解放が求められているときは、それも非-倒錯的であろう。 **** モデル・ケースを一つ挙げる。都市部においては鉄道はほぼ電化されているが、これに対して「懐かしい」(伝統である)として蒸気機関車の運行が喜ばれたりする。しかも、蒸気機関車を愛好することは一つの「倫理」であるかのようにさえ語られることも在る。しかし、蒸気機関車は言うまでもなく石炭という化石燃料を動力源とするものであって、しかも自動車については、環境対策として、ガソリン(化石燃料)エンジン車に対して電気自動車が求められているところである。伝統的なものが「環境に優しい」と語られたりするが、正確には、そうした伝統的なものを含む(社会総体としての)伝統的生活様式−−この場合の「伝統的」はむしろ「前-近/現代的」の意味であって、例えば「伝統を守れ」と語られるときの意味とは微妙に異なる−−がその低消費レヴェルのゆえに「環境に優しい」のであって、その個々の要素(伝統物)がそうなのでは必ずしもない。(これとの関連で、特に初等教育における「環境教育」について次のことを述べておきたい。例えば「農薬の害」を単純化的に取り上げて伝統農法だということで「無農薬」ということを安易に語ってはならない。(ましてや、そのことが原因で農薬使用農家の子弟に対する「いじめ」を誘発するようなことが在ってはならない。)それを回避するためには、農業(全般)−産業−社会という大きな視点を併せて導入することが不可欠である。換言するなら、農薬使用−無使用の費用−便益分析(ただし、「精神的なもの」をも射程に入れた広義での)の視点も必要だということである。残念ながら、最近の(短兵急な)「総合学習」では、こうした”単発的”テーマ学習が目立っている。)因みにこのことは−−再確認するが−−愛好者達が蒸気機関車運行から得る(精神的)便益を考慮の外に置くことを意味しない。 ***** 「自然愛好」の問題としては次のケースを示しておきたい。例えば室内に閉じ篭ってコンピュータ・ゲームにのめりこむ−−彼の場合は専ら「読書」であるが「彼にとって自然は無縁であった」と語られるサルトルのような−−若者に対して、終末はキャンピングに出かける人の生活には、確かに精神的に豊かな質が在ると言うことは可能である。しかし、このことは環境の保護ということとは相対的に独立である。であるがゆえに(逆に)、キャンプ地まで出かけていくマイ・カーのガソリン消費が問題とされないということにもなるのである。

[98] この辺で結論としたいが、我々が析出した「倫理的」の諸用法について、その大部分のものの使用を禁止すべし−−ただし記述的使用は構わない。厳密には規範的使用である−−ということである。認められる用法は我々が核心として取りだした「公平的」および「愛の」と同義の意味におけるもののみである。これは功利主義的発想(いわば一元的便益公平主義)に基づくものである。ここで「功利主義」と言うのは、いわば精神的功利性をも説くものとしてである。ムアの「理想的功利主義」を持出さなくても、すでにミルのものが−−実はベンサムのものも−−これを説いている。しかるに、これに対して一般的には、「経済主義」的だとして、厳密に言うなら、三章で確認した、第四義での「物質(関係)的」、第五義での「反-意味志向的」、第六義での「文化に基礎を置かない」の意味に加えて、第二義の「貨幣換算的」の意味をも付加して「経済主義」的だとして、それに反対することこそが「倫理的」だと観念されている。つまり、「環境倫理」の主張において、環境問題の解決に求められるものが最初から排除されているのである。プリマックで言うなら、2)では認められたいわば「方法としての「経済主義」」が曖昧な「倫理」の主張によって自己否定されてしまっているのである。これでは「倫理」は空転することになるはずである*。

* このことと、(日本における)倫理の「建前」化との間には相関性が在る。この「建前」化に日本の「倫理教育」の欠陥の一つが在ると我々は見ているが、これについては、それを道徳の「日曜道徳」化(特定の時にだけ(免罪符的に)道徳的であること)−−「週日」、つまり社会総体の問題としては「倫理」を考えないこと、象徴的に言うなら、(経済に対する倫理としてではなく)経済に関する倫理として「倫理」を考えないこと−−として批判した(部分を含む)拙稿([02]註で挙げたもの)を参照して頂きたい。


研究業績ページへ戻る。

安彦ホーム・ページへ戻る。


( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

2004/03/20 作成