このページは、『社会哲学研究資料集 I 』(「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究」(代表:加茂直樹)2002年3月)所収のものを(厳密に言うなら、編集担当者にメールで送付したファイルを)そのままhtmlファイル化して公開するものである。



「公民」教育としての「社会科」教育−−戦後「社会科教育」論争史を通して−−*


安彦一恵


* 本稿は、科研研究費による「21世紀日本の重要諸課題の総合的把握を目指す社会哲学的研究会」分科会Dの第1回研究会(2001.08.01.於:キャンパスプラザ京都)で口頭報告し、それに一部修正・補完を加えつつ文章化して同HPで公開したものに、若干の補完・字句修正を施したものである。


はじめに


[01] 本稿は、加茂直樹編『社会哲学を学ぶひとのために』世界思想社(2001)所収の拙稿「国家−−「公共性」あるいは「公(ということ)」をめぐって−−」(以下、「前稿」と略記する)のいわば応用編として、戦後日本の社会科教育論争史の展開と関連づけながら、「公民」教育の在り方を批判的に検討するものである。

[02] 「前稿」で我々は、「国家」という課題テーマに即して、「国家」を、それを担う人間について問題とした。「国家」もまた一つの集団であるわけだが、集団の構成員がいかなるものであるときそれは「国家」となるのかと問い、構成員はまず、単なる自己目的追求的人間、それを「私民」と呼ぶとして、そうした「私民」に対して集団全体の存続をも一つの目的とする「公民」でなければならないとした上で、その「公民」として必要な要件を問うた。その際我々は、(言葉の厳密な意味での全体主義の反対としての)個人主義に立脚して、人がよく生きるということを第一義として設定し、その目的を満たすために必要な集団として国家が存在するという立場から議論した。したがって、人が生きるということよりも国家の存続そのものを上位に置く立場とは始めから相容れない。

[03] そして我々は、人々がそれぞれ自分のよき生を追求するとして、それが単独でなく協同においてよりよく実現できるということ、および、その過程で生じる人々の間の利害対立を解決する必要が在ることを確認しつつ、そして、前者からいわば「市民社会」の、後者から「国家」の必然性が帰結すると論じつつ、その「国家」の構成員としての人間の性格=「公」性について、「現代における「公」とは、いわば審議を尽くし、そこで出てきた結論には従うという性格のことなのである」と結論した。これは、或る意味でありふれた結論であり、言われるところの「議会制民主主義*」を説いたことになる。

* 「民主主義」は論者によって規定の異なる幅の広い言葉であるが、我々は本稿では「リベラリズム」の線で(限定して)この言葉を用いる。ただし、引用文中のものはこの限りでない。

[04] しかしながら我々は同時に、現在、あるいは19世紀以降、この端的な要件を越えたものが「公民」性として求められているという事態に対して、それは現在においてはむしろ「公共性」を破壊している、ということをもオリジナルな主張として展開した。現在さまざまのかたちで(「私」に対して)「公」の復権が叫ばれ、そこに「公民」であることにおける「誇り」といったことが説かれたりしているが、それはむしろ、人のいわゆる経済的利己利害とは別種ではあるがやはり一種の自己利害として*、公共空間(つまり国家)において−−自分の「理想」等に従って、多くはそこでの自らの在り方をいわば顕示することを求めつつ「国家」の在り方あるいは人々の在り方を特定化しようとするというかたちで−−その自己利害を追求するものであってやはり(経済的自己利害(直接的)追求と同様に)「公共性」に対して否定的に機能するということを述べた。

* 以下でも問題対象として取り上げることになる『新しい公民教科書[市販本]』で(複数の執筆者間の分担については記されていないが、ここは間違いなく西部のものであろうが)西部邁は「公的なものへの欲望」ということを語っている。この言い回しで言うなら、「公的なものへの欲望」も「欲望」としていわゆる欲望と同じく私的なものなのである。本稿執筆中にたまたま『Voice』2001年8月号を手にしたが、そこで西部は「公共事業こそ国民活力の支柱」という論稿において、取りようによっては「前稿」への反論であると理解できるかたちで(若干整理的に敷衍するが)次のように述べている(232-4)。自分が言う「公的欲望」は[財政論の]R・A・マスグレイヴが言う「社会的欲望」とは別物である。後者であるなら、マスグレイヴが言うとおり「私的要望の......特殊ケース」にすぎない。「個人主義」に立脚する限り「欲望」は結局すべて「私的欲望」であることになるが、自分はそうした前提を置いていない。そうした前提を取り外して見るなら、人には「私人」の側面と「公人」の側面との二側面があり、「公的欲望」とは前者を否定するかたちで存在する一定の「価値」「規範」に応じようという、その「価値意識」「規範感覚」を有した後者から出てくる「欲望」である。そして、この「価値」「規範」は自分が属する「集団」の「伝統」として存在するのであって、そういうものとしてその「集団」内においては各人において基本的に同じである。人はいわば(「教育」を通した)「社会化」によってそうした集団的価値の意識を内在化させているのであり、この事実の故にマスグレイヴも結局、別に「価値欲望」というものを設定せざるを得なくなっている。あえてマスグレイヴの分類法に合わせるなら、自分が言う「公的欲望」は、彼の「社会的欲望」ではなくこの「価値欲望」に当たるものである。
 こう西部は説くわけであるが、我々からするなら、この「価値欲望」がまさしく「私的」なのである。これは理解しがたいことであるかもしれないが、実はニーチェ−永井均の道徳(批判)論は、このことを言ったものでもある。彼らによると、道徳(という価値欲望)とは、いわゆる私的欲望を充足させることの出来ない人間(「弱者」)がその(まさしく私的な)ルサンティマンにおいて抱くものである。我々は、必ずしもルサンティマンというメカニズムを一般化しなくてもいいが、それでも、「公」への「欲望」は、それが「社会化」等いかなる経緯から出てくるものであっても各人の「欲望」から出てくるものとして「私的」である、と考える。それに対して我々が想定する「公」とは、何であれ個人から発する「欲望」に対してはそれを否定するもの(したがって「自分のうちにある」(234)のではないもの)=規則(「ルール」)に対して、<私的欲望を断念してそれに従おう>という意識のことである。そういう順法意識は極論するなら<いやだけど従おう>という意識のことである。そしてその<従おう>という意識は端的に(およそ「欲望」ではない)<理性>から出てくるのである。ここを西部は、いわば<喜んで従おう>という意識として「公」を考えつつ、結局は私的なものの或る部分を−−それが「集団」的「伝統」を背景にするということだけで、それ以外のものから区別して特権化して−−「公」としているにすぎないのである。更に言うなら、この「特権化」が実は選択的・仮構的であって、そこに強く私性が作用しているのであるが、ここではこの点はこれ以上問題としないことにする。

[05] こういうかたちで説かれる「公」性は、我々の主張する「(議会制)民主主義」の「公」性とは明らかに別のものである。今日日本でも「民主主義」を表立って否定する言説はほとんど見られないのではあるが、我々の見るところでは、本当に「民主主義」を説いているものは実は意外と少ない。本当のところは非-民主主義的である者が多数派なのである。(この意味では、民主主義の実現−−「防衛」ではない−−ということが今日なお課題として存在していると言っていい。)それは、いわゆる「保守」にだけでなく「革新」の陣営にも存在している。これに対して我々は「リベラル派」として自己規定しているわけだが、この「リベラル」の理念が未徹底なのである。もちろん、このリベラルそのものの問題性を問い、そのブルジョア性云々を指摘することも可能ではあろうが、今はその点は捨象して、戦後西欧世界の基本理念を「リベラル」として確定するとして、そういうリベラル・デモクラシーとの隔たりが日本において余りにも大きいということを問題としている。社会学者の宮台真司の言い方(「自己決定−−自由と尊厳」『〈性の自己決定〉原論』)で言うと、戦後西欧世界の基本型が「連合国」型であるとして、日本は−−旧ソ連もそうであったが−−(旧西ドイツが例えばハーバマスが言うように戦後必死に「西欧」化しようとしてきたのとは異なって)現在なお「枢軸国」型なのである。

[06] 本稿は、このことを戦後日本の「社会科」公民教育論の展開に即して具体的に確認することにもなる。


一 「公民」教育としての「歴史科」教育

[11] 現在、高等学校では「社会科」は「地歴科」と「公民科」という二つの教科に分割されているが、これで言うと「公民」教育はなにも「公民科」だけでなされているのではなく、高校旧「社会科」、あるいは小・中学校「社会科」全体でなされている(た)ものであり、この「社会科」を構成するとも言いうる各個別教科の教育として戦前においても同様であったというのが事実である。そしてこれは、日本においてだけのことでなく、世界の各国においても同じである。

[12] このように見た場合、特に問題となるのは「歴史(科)」である。(個別)教科として言うなら、この「歴史」においてこそ「公民」教育がなされてきたとも言いうる。そこには、19世紀に始まった近代歴史学の学科としての固有性格も大きく働いている。(研究会の案内で「歴史論関係の拙稿をも前提とする」と付記して頂いたのはこのためである。)

[13] 戦後の「社会科」を構成する個別教科は戦前においても存在しており、戦前の構成も「歴史」「地理」「修身」「公民」というかたちであった。「修身」は名称としては特殊なものであるが英語訳すれば"moral"であり、諸外国においても「歴史」「地理」「道徳」(あるいは「宗教」*)「公民」というのが基本構成であった。

* 欧米での科目「宗教」は近年−−別に「倫理」(「道徳」)が実施されていない場合は−−「倫理」に置き代わる傾向も在る。ドイツについては天野正治他『ドイツの教育』164 等参照。

[14] この四教科のうち最初(19世紀)は「歴史」「地理」が中心であった。その理由として、(社会的)世界を対象とするとして、形式的にそれを空間的に見れば「地理」、時間的に見れば「歴史」と言うことができる、ということが在る。確かにその通りであり、これに自然(的世界)を加えた場合、地理+歴史+理科という教科構成が可能である。この考え方はドイツにおけるSachkundeという教科群構成にも見て取れる。しかしながら、−−以下、もっぱら「歴史」を問題とするとして−−「歴史」が中心に置かれていた理由は、これだけではない。そもそも、上の考え方では、Sachkundeという言い方がそうであるように専ら事実の教示だけが目指されるに留まるのであるが、「教育」とはそうした事実教示に留まるものではなかった。それを「知育」と呼ぶなら同時に「徳育」をも目指すものであった。そして、「歴史」が中心に置かれてきたことの第二の理由として、この「徳育」として「歴史」が重視されたということが在る。

[15] しかし、この「徳育」としての「歴史」にも二つのものが区別できる。一つは「人文主義的」な教養理念に基づくものである。「歴史」の知を通して人間形成を図ろうとするのであるが、この場合、理想的人間の時代である古典時代が専ら知の対象となる。また、この場合の「歴史」は−−今日のものとは異なって−−「文学」や(思想史としての)「哲学」と未分化のものだったと言えよう。(この人文主義的教育理念は、「古典語」教育を重視するドイツのギムナジウム教育にも引き継がれていると言いうる。)もう一つは、19世紀において成立してくる近代国家=「国民国家」に定位して、その「国民」形成を目的とするものである。この場合、主対象となるのは自国の歴史であり、かつ政治(的展開)に焦点が合わせられることによって、「文学」「哲学」から相対的に分化することになる。我々は、近代的な「歴史」教育の始点をここに置くのが妥当だと考える。この始点における教科「歴史」は、19世紀において国民国家形成と密接に関連して学科として成立してくる「歴史学」と強い内的関係を有している。

[16] 今日で言えば「社会科」に当たるものが「歴史科」として始まったのは、この「国民国家」の成立と密接に関連しているのである。そもそも「公教育」というものが「国民国家」と内的な関連をもっているのであるが、それが特に「歴史」教育において顕著なのである。それは、「国民国家」の構成員=「国民」というものが何よりも、「歴史」を共有し、かつ自己のアイデンティティの核心においてそうであるものとして観念されていたからである。したがってまた、その「歴史」の内容は、これに適合的に強く「通史」的なかたちを、かつ「正史」として採るものであった。「通史」という言葉はよく用いられるが、ここで我々なりに−−単なる形式的規定を越えて−−定義するなら、世界を(「歴史」として)1.時間的に、2.連続的に、3.いわば一個の統体(「個性」)として把握しようとするものであり(したがって、(その世界の)対象(部分(例えば日本史の場合:「日本」))は準-擬人化的に一個の主体として措定される)、したがって、4.叙述形式としてストーリー性(「物語」)が重視される、そしてその際(実際上)、認識する者の心理において、5.その歴史と一体化的である(したがって、その者のアイデンティティの構成要素を成すことになる−−「公民」教育としての「歴史」教育は、「正史」教育として、この機制を共通の歴史との一体化の創出として実現することによって共通のアイデンティティ形成を図るものである−−)、といった諸特徴を合わせもつ「歴史」のことである。

[17] ここで言う「歴史」、したがってまた「歴史」教育は、典型的に19世紀的なものである。これについて例えば史学史家の成田龍一は次のように述べている。「「歴史」とは、国民国家を創り出し、支えていくうえで非常に重要な装置だった。たとえば、学校教育の領域で、歴史は、大学だけでなく初等・中等教育においても、国民国家というものの起源と成立過程を子どもたちに教えこんでいくものとして機能していた。」(『〈歴史〉はいかに語られるか』11) これに補完して言うなら、そしてこうしたものとしての「歴史」は、その叙述の特徴として「通史」、しかも(唯一正しいものとしての)「正史」、かつ国家ないしは国民を「主語」とした「。。国(民族)の歴史」という叙述法を採るのである。

[18] 他方、教科「道徳」(「宗教」)も存在していたが、それは(西欧においてはキリスト教(道徳)を内容とするものとして)一種普遍的なものであった。したがって、これに「国民」形成を委ねるわけにはいかなかった。ただし、普遍主義的ではあっても、そこになにがしか国民形成的要素が存在しなかったわけでなく、「歴史科」に次いでいわば第二位的には「国民」形成の機能を果たすものでもあった。


二 社会科の成立

[21] (「宗教」=「道徳」とも区別された、狭義での)教科「公民」もマイナーなものとしてはすでに19世紀において行われていた。日本でも先行形態としてはすでに明治末期に始められている。これは、まさしく近代社会に定位して、その近代社会に生きていくことを可能にすべく、その政治制度や経済の仕組みを教示するものであった。いわば近代という新時代に適応して子供の「社会化(socialization)」を実現すべく、社会の脱伝統化に応じて必然的に設定されてきたものでもある。伝統社会においては社会化は社会そのものにおいていわば自然になされており、特別「教育」として行う必要のないものであった。それが、脱伝統化に従って意識的・組織的に社会化を行う必要が生じてきたのであり、「公民」科はその要請を満たすべく始まったのである。(同じことは、或る程度「理科」についても言うことができる。)

[22] ドイツ語にはBuergerと区別されたStaatsbuergerという言葉があり、日本語で訳し分ける場合、通例、前者を「市民」、後者を「公民」と訳出するが、上に言う「公民科」はこの後者の「公民」の育成を狙ったものではない。むしろ、それとの区別における「市民」の育成の方との関連が強い。しかし、例えばドイツではStaatsbuergerliche Erziehungというものが19世紀末からあり、長坂端牛によるなら、ここに今日の「公民科」の起源の一つが在る。これは、目的としては19世紀的な「歴史科」と同様に強く「国民」形成を目的としたものであった。長坂はこう述べている。「日本語で公民科ないし公民教育という訳を与える外国の事例......のうち、いわば両極的なコントラストをなす二つの典型的なものをあげてみたい。その一つは、1889年5月1日にカイゼル・ウィルヘルムU世によって発せられた勅令に現われている、国家公民教育(Staatsbuergerliche Erziehung)の思想である。その主要部分を訳せば、「久しい以前から私は社会主義や共産主義の思想に対抗するための役割を学校にもたせたいと考えてきた。まず第一に、学校は神への畏敬と祖国への愛を涵養することによって、国家並びに社会的な諸状況の健全な理解の基礎をつくらなければならない。学校では近世、最近世の歴史を、従来以上に教授内容として重視し、青少年に、歴代のプロイセン国王が、フリードリッヒ大王の社会改革や、農奴の解放などを通じて、労働者たちの生活条件を一段一段と高めるのに、どのように努力してきたかについて知らなくてはならない・・・・・・」」(『教育学全集8』161f.)

[23] こうした主旨での「公民科」理念は他の国にも在った。日本の場合でも、戦時体制化の進展に伴ってこのかたちでの「公民科」への変化が見られるが、しかしその日本でも、狭義での教科「公民」は当初ではむしろ(上の意味での)「市民」育成を主眼としたものであった。

[24] 他方、「道徳」科=「宗教」科も、トータルな国民教育理念のもとでこの意味での「公民科」的側面をももっていた。そしてそれは、狭義の「公民科」や、あるいは「歴史科」が事実教示を基礎に置いたものであるのに対して、いわば「徳育」特化的にもっぱら道徳的心性の育成を目指したものであった。そこには、同時に国民道徳的心性の育成も課題として設定されていた。日本の「修身」の場合典型的にそうである。ただ、その場合でも、特に低学年ではいわば国民性教育から相対的に独立に「しつけ」教育的な側面をもつものでもあった。

[25] 先に引用した部分に引き続いて長坂はこう述べている。「これと対照されるのは、米国における公民科(市民科と訳したほうがあるいは適切であるかもしれない)Civicsである。これは1910年代の半ばごろから教科として現われてきたものであり、重点の置き方によって、さまざまに異なるものがあるが、その中で最も広く行われたのは、Community Civicsである。これは......単に地方的地域社会の一員をつくるためのものでなく、一般に共同社会の一員としてのあり方を学ばせるためのものである。/......「社会科委員会」の1915年の報告書(社会科Social studiesという名称がはじめて公に用いられるようになったのはこの委員会からである)では、Community Civicsとは「公衆の健康、生命財産の保護その他社会共同の福祉common welfareの諸要素......を確保するために、人々が現にいかに協力しているか、また協力すべきかを学ぶためのものである」と説明されている。」長坂は、上のものを「上からの公民教育」と呼びつつ、それと区別してこれを「下からの公民教育」と呼んでいる。

[26] 我々は、日本においても当初導入されたものは、どちらかと言えばこの二番目の系統のものであったと先に述べたが、しかしながら、それが、近代社会の(新)事態に定位していわばそれに技術的に適応するためのものであったのに対して、このアメリカ民主主義のものは、そうした近代社会を道徳的に支える資質の育成をも狙って道徳教育の側面を有しているという特徴をもっている。そして、時期的に見ても言えることであるがこの理念は同時に「社会科(Social Studies)」の理念でもある。すなわち「社会科」とは勝義にはこのアメリカ民主主義の意味における「公民科」のことであったのである。戦後日本に新たに「社会科」が導入されたわけだが、それが同時に「歴史」「地理」「修身」「公民」の総体に代わるものであったのも、後者が全体として「公民」教育であったことからみて容易に理解できるところである。戦前からの変化は、その「公民」教育が「上から」のものから「下から」のものへ変わるという変化であったのである。*

* 本章等、戦前日本の教科構成については特に水原克敏『近代日本カリキュラム政策史研究』を参照。


三 「社会科」公民教育

[31] しかしながら、当の20世紀初頭のアメリカに即しても、いわば狭義の「公民科」の他に「歴史科」も−−かつ「公民」教育の側面を含みつつ−−存在していた。それが次第に両者(等)を包括するものとして「社会科」へと再編されていったわけであるが、このことは単に諸教科が「社会科」へと統合されたというだけではない。旧来の「歴史科」が「国民」(という「公民」)形成を目的としていたのに対して、「社会科」はいわば「市民」形成を目的とするものとして、その意味では「革新的」に導入されたのである。

[32] これは、「社会科」が国家レヴェルでなく地域コミュニティ・レベルに定位したものであるということではない。定位のレヴェルとしてはどちらも「国家」というレヴェルであると言っていい。その違いは、同様に「国家」の構成員の育成を目指すとして、その国家構成員の性格の相違である。「はじめに」における「枢軸国型」「連合国型」という言い方で言うなら、「歴史科」が(その「公民」教育において)目的としていたのは「枢軸国型」公民であり、「社会科」が目的としていたのは「連合国型」公民なのである。

[33] 「社会科」に統合されてその一(部分)領域となる「歴史」は、この目指される公民の性格の変化に応じて、それ自身内容的にも変化することになる。その特徴の第一は、対象とされる時代が近・現代を中心としたものに変わるということであり(例えばドイツのアビトゥーア試験「歴史」は範囲が近・現代史に限定されている(例えば藤沢法瑛「ドイツの歴史教育と歴史教科書」『あたらしい歴史教育5』60 参照))、第二は、現実の社会の民主主義の制度に合わせて政治史的な、しかしあくまで民主主義の形成過程に焦点が合わせられたものになるということである(したがって、名称として「歴史」の代わりに「政治」と呼ばれる場合も在る)。そして第三に、通史的歴史認識に代わって、「単元」という枠組みにおいて問題史的歴史学習が前面に出てくることになる。

[34] そうであるとして再度言うが、「社会科」における「公民」も言うとすれば(同様)「国民」なのであって、国家の枠を越えた「世界市民」、あるいは逆に国家内部の一地域市民のことではない。その特質は、あくまで(同じ)「国民」の、その国民であることの性格の規定に在るのである。それは、(個人よりも国家という全体を第一義とする)全体主義的国民に対する、(個人を第一義にし、国家をその個人のよりよき生活のための手段と考える)個人主義的国民に在るのである。すなわち「民主主義」的国民のことである。*

* 因みに「国民国家」という場合の「国民」は(ここで言う)「全体主義的国民」を意味し、それは一定の「国家(state)」の構成員を「国民」と呼ぶ場合とは意味を異にする。「ネーション・ステイト」の"nation"に当たるものであ。これを後者の「国民」(例えば「村の民」=「村民」との区別における「国家の民」)と区別するために「民族」と訳される場合も在るが、それは、「民族」という枠が先行して存在し、近代国家は−−「民族国家」として−−この「民族」の枠において形成されたという誤った認識に導きやすい。我々が言う「国民」("nation")は、−−本節を例外として−−あくまで人(集団の構成員)のの観点からのものである。(したがってまた、"state"の構成員でなくても「国民」と呼ぶことが可能である場合も在る。)

[35] 戦後「社会科」は、まさしくこの民主主義的公民育成を基本理念とするものとして構想された。敗戦直後期の「社会科」構想が纏め上げられたものと言いうる1951年の「文部省学習指導要領・社会科編」においても、このことは明瞭である。例えば「社会科編T」の「中等社会科の目標」では次のように説かれている。「戦後の日本の教育において、最もたいせつなことの一つは民主的社会における正しい人間関係を理解させ、有能な民主的社会人として必要な態度・能力・技能等を身につけさせることでなければならない。」(『社会科教育史資料2』336f.)


四 敗戦直後期における「革新派」による「社会科」への批判

[41] 戦後日本におけるこうした「社会科」の導入は、教育理念の急激な転換であった。大正期において「社会科」的公民教育への一定の試みが在ったとしても、戦時期においては全面的に「枢軸国型」公民教育であって(その究極が1941年の「国民科」設定である)、その伝統を断絶するかたちで戦後「社会科」的公民教育が始まったのである。もちろん、それまでの公民教育は戦時期日本に固有の、あるいは広く明治以降の日本に固有の「皇民」教育というものであったが、戦後の転換は、理念としては、単なる「皇民教育」からの転換に留まるものでなく、さらに徹底して「枢軸国型」公民教育からの転換であったのである。

[42] したがって、或る意味で当然に広くこれに対する反感が在った。戦前型の教育に郷愁をもつ「保守」派においては当然そうであったが、アメリカ占領下では「保守」派からの批判は前面に出にくかった。しかしながら、これは特殊(戦後)日本的特徴であるのだが、「革新」派からも「社会科」への−−したがって「社会科」公民教育への−−批判がなされた。そしてそれは、「社会科」を批判して「歴史科」を−−したがって「歴史科」的公民教育を−−主張するというかたちを採るものであった。それは実は、公民教育の転換が単なる「皇民教育」からの転換としてしか理解されておらず、「枢軸国型」公民教育から「連合国型」公民教育への転換としては必ずしも理解されていなかったということを意味する。(この点は同じく敗戦から出発した旧・西ドイツと大きく異なるところである。)そして、このことが現在に至るまで戦後日本の「公民」教育(あるいは広く「社会科教育」)に影を投げかけることになるのであるが、その論証が以下の主要課題(の一つ)となる。

[43] 革新派による「社会科」批判の出発点にあたるものとして最もよく指摘されるのは「歴史教育者協議会」の高橋*[しん]一の1948年の論稿「社会科の壁を破るもの」であろう。そこにおいて次のように説かれている。「社会科は「社会改良科」であるといわれるとき、わたしたちに魅力があるのだ。/しかし、わたしたちはこの魅力に酔っていてよいのだろうか。....../社会科が、目標として強く押し出しているのは周知のように「相互依存」の関係である。......社会科が社会改良科としていわれているかげには、一定の秩序と結び合わされた進歩が並べられて....../そこでまず歩き出す人形は秩序であって進歩ではない....../おそらく「相互依存」の名のもとにいわれる社会改良は実は改良までも行きえず、そこで「改良」とか「進歩」とかいわれるものは、たかだかその周囲の条件にたいする妥協、順応、ないし合理化の線を越ええないであろう。/......社会科が正しく「社会改良」の教科として効果的に行わるべき民主的な現実の環境がわれわれといかに遠いところのものであるかを結論せざるをえないのであって、松島栄一君のいう通り「社会科教育においては、そういう社会を来たすべき能力をもった青少年を教育することを目的としながら、そのような社会を前提としたプランである、という理想と現実の循環矛盾に陥っていると痛感しないではいられない」のである。それは現実を直視しない社会科の悲喜劇である。」(『著作集5』156ff.)すなわち、言うまでもなく「社会科」はアメリカ民主主義の理念を体現したものであり、高橋によるならそれは民主主義の存在を前提とするのであるが、日本にはこの前提条件が不在であり、したがって、その条件下ではそのまま「社会科」を導入することは不適切である。なるほど「社会科」でも「改良」が語られているが、それはいわばあくまで体制内での改革であって、(「社会科」実施の前提である)「民主主義」体制を実現していくとしてもそれは日本では体制変革=「革命」を要するのであるにも拘らず、この「革命」を語ることが「社会科」では不可能なのである。

[44] しかしながら、では何故「社会科ではなく歴史科」ということになるのか。高橋は引き続き次のように説く。「いまの社会科には壁があるのだ。社会科の壁を破るものはなにか。これを出発点に戻って考えることである。......それは現在の社会科の腐れ縁のような枠をはずして、生徒児童の不均等な、不十分な、また根本的にもちえないかもしれぬ生活経験の領域を乗り越えて、現実の段階を過去よりの発展として捉え、「社会改良」を現実の革命的克服として未来への発展的展望を与えること、すなわち科学的な歴史把握、いわば歴史的なものの見方をコース・オブ・スタディー自身が筋金を入れることであり、同時にこれを運用する教師自身が現実の民主革命のなかにあって主体的に行動することによって歴史的発展を実践を通じて学びとることこれである。」(162) すなわち、「革命」実現のためには、その主体が必要であるが、その主体形成は、「歴史」が発展するということの教示を通して自らも歴史発展に向けて「行動する」者の育成としてなされる、というのである。*

* 欧米教育界では「歴史学」はむしろ右派に属し、そこから「社会科」へはそれが左派的な「教育学」の教育理念によるものであり、そしてそれは「社会学」が「元凶」となっていると批判されていて(例えば望田研吾『現代イギリスの中等教育改革の研究』242 参照)、むしろ「社会学」が左派に位置するのであるが、日本では左派から「歴史学」を擁護して「社会学」に対して「右派」だという批判がなされている。(例えば馬場四郎は「元来、社会学はアメリカン・サイエンスだといわれるぐらいですから、ヴァージニア・プランの作成を指導した......がソーシアル・スタディ(社会研究)すなわち社会科であるという見地から、社会科の中に社会学の研究方法をとりこんでしまったと見られます。......こうした機能主義的な考え方で社会科の単元を見出してゆく原理を考えた為、その後多くの批判を蒙つたわけです。一番強く反対したのは歴史学者や歴史教育家だつたんです。」(和歌森/馬場編『歴史教育の確立と前進』100)と述べている。)これは或る意味で日本の特殊性であって(つまり、欧米では左派である「社会学」の更に「左」に日本・歴史学が(単に)位置するということではなく)、この特殊性の説明には次章で見る「通史」志向ということの理解が不可欠の前提になる。

[45] 高橋は同時に、「社会科」教育の方法(そのもの)を問題として次のように説く。「社会科で取り上げられている歴史的教材は大きく二つに分類される。一は、現実の生徒の生活経験に結びつけて考えられるものである。[ここでは教材は]いわばよこの線に置き並べられていて、これを歴史的に発展的には捉えようがない。それは社会科が生徒の生活経験の上に立って問題を出発させることからくる宿命である。歴史教材の他の一つの取り上げ方は、現実の生活から出発し、その根源を倒叙的にさかのぼろうとする試みで、燈の歴史、交通の歴史といったような、いわばたての線である。....../しかしこうした歴史教材はしょせん歴史知識の羅列であって、進歩のカケラは発見できても、それはその進歩を導いた社会的な発展からは切りはなされていて、......「話の泉」的な物しり博士しか生み出さない。......歴史の遺物ばかりである。現在のわれわれの社会がいかに矛盾に満ちていようとも、それはその前の、さらにその前の、もっと矛盾の多い時代を克服し、さらに克服して発展してきた社会なのであるということを総合的に理解することによって、現在の矛盾もまたわれわれの努力によって克服することができるのだという見通しとその確信、そしてそれを主体的に克服して新しい社会を建設しようとする実践的な熱情は、バラバラな知識の集積では出てくるはずがない。/......これを打開するためにはまず社会科自身が歴史的博物館を出て、一貫した科学的体系を筋金にした科学的な歴史把握、歴史的なものの見方のできる教材として再出発することである。....../社会科がかくて真に「社会改良科」として生命力のある内容をもちえたとき、それは歴史をふくんで統一された教科として「完成に達する」かもしれない。だがしかしその時は社会科がその実質を歴史科に譲るときなのである。」(163f.) すなわち、「社会科」理念の一つに在る生活単元学習という方法に、生徒の生活経験に依拠するだけのそうした「浅薄な経験主義」(遠藤豊吉(歴教協))「這い回る学習」(広岡亮三(日本生活教育連盟))では歴史発展の総合的認識は獲得されないと批判しつつ、認識の獲得のために「科学的体系」を生徒にも「系統的」に教示する必要が在るとするのである。そして、そのためには「社会科」では限界(「壁」)が在るのであって、その限界を越えるべく「歴史科」が(再)設置されなければならないというのである。この主張点は、「社会科」理念を支持する側−−後に「社会科の初志をつらぬく会」を結成することになる(1958年)−−から「注入主義」であるという反批判があり、そこにやがて問題解決学習vs.系統学習論争という戦線を形成していくことになる。*

* この点を含めて戦後日本の社会科教育論争については特に谷川彰英『戦後社会科教育論争に学ぶ』を参照した。


五 批判において何が「歴史」として主張されたのか

[51] このように「社会科」批判には反論も在ったのであるが、それは換言するなら、いわば「歴史科学」に「教育科学」を対置するというかたちであって、教示される「科学」の在り方そのものに関するものでは必ずしもなかった。しかし実は、ここにこそ本当の核心が在ったのであって、そしてまさしくそれゆえに「社会科ではなく歴史科」と主張されたのである。変革主体形成には知識が必要であり、かつ、それは一定の科学的知見に基づかなければならないとしても、それは直ちに「社会科」ではなくて「歴史科」教育が必要となるということには本来ならない。例えば「社会科」を構成する経済学に即して端的にはマルクス経済学から「搾取」という概念を学ばせるなら、変革主体形成は十分可能であるはずである。にもかかわらず「歴史科」でなければならなかったのである。

[52] では、何故にか。それは、彼らが変革主体をなお19世紀型人間、換言するなら「枢軸国型」公民として考えていたからである。この変革主体は、世界の展開(「歴史」)にいわば「信」を置き、その「信」に基づいて(「信」の内容を自らのアイデンティティの核心として)行動意欲をもつという主体である。高橋の上([45])の発言では例えば「見通しとその確信」と述べられているが、歴史の発展といういわば「命題」に対するその在り方(現象学のタームで言うなら「信憑様態」)は「知」というよりは「信」である。そもそも19世紀型「歴史」意識とは、「世界」の展開過程を「歴史」としてそれに「信」をもつという意識である(拙稿「ヒストリーを越えて」等参照)。高橋はさらに論稿「小学校における歴史教育」(『著作集5』)で、「歴史教育......は、まさに現代にいきるものとしてもたねばならぬ歴史的自覚をめざめさせ」(208)なければならない、という一見戦前の京都学派歴史哲学(のうちの西田幾多郎系統というよりはむしろ田辺元系統)のような言い廻しで始めつつ、それを、「戦争中の神がかりの「歴史教育」にもまたこの言葉があてはまるかもしれない」(209)、したがってその点は注意しなければいけないとしつつも、こう敷衍している。「わたしたちはなんのために歴史を学ぶのか......。「まさに現代にしかあるべき歴史的自覚」をよびさますとは、言葉をかえていえば、わたしたちはどこから来たのか。わたしたちはどこにいるのか。そしてわたしたちはどこへ行くのかそれを学ぶのだということができる。」(208f.)と説いている。端的に「信」の事柄だと言表されているわけではないが、これは(「知」の)「科学」(精神)とはほど遠い在り方である。*

* これは、例えば田中陽兒「歴史学と「世界史」教育」『岩波講座 世界歴史30』の上原専禄論においては、「ロマンチズムの歴史学」「ユートピア的」(565)という表現によっても確認されている。
 こうした「歴史的自覚」の強調は、厳密には−−一般的に19世紀以降の「歴史」意識の表現であることに加えて−−さらに特殊1930年代以降的な(あるいはもう少し広く20世紀的な)「危機意識」の表明としても理解するべきであろう(歴史論関連拙稿参照。また、鷲田清一「危機と批判−−二十世紀の文明批評とその時間意識」『批評の現在』をも参照)。戦前・戦中期には京都学派歴史哲学の「歴史」言説−−これには三木清の歴史哲学も含まれる−−に代表されるいわば「危機の言説」が戦後もしばらく−−もちろん危機意識を伴って−−続いていたとも理解できる。戦後期の梅本克巳などによるいわゆる「主体性論争」にもこの意識が読み取れる。しかし、相対的安定への変化の後もなおこうした言説がなされる場合、それはいわば宙に浮いたものとして受け取られてもくる。「革新派」言説が次第に影響力を失っていったことの原因の一端がここに在ると言えよう。これに対して「保守派」の「歴史」強調の場合は、後に見るように「人文主義的」な「文化」の強調−−『新しい歴史教科書』におけるように強調しすぎると人文主義の精神から逸れてしまい、それはそれで浮いたものになるのだが−−を行うことができる。これが「革新派」からはできないという構造になっている。
 因みに、本稿修正作業中に読んだ上村忠男「歴史が書きかえられるとき」(上村他編『歴史が書きかえられとき』所収)−−これは、「歴史」をめぐる近年の日本の諸言説の、現時点では最も行き届いた纏めの一つではある−−の欠如部分は、歴史意識(我々の言う意味での、いわば歴史との距離感とでも言いうる側面から見た意識としての歴史意識)の考察である。上村は、ベンヤミンや、上の三木清に依拠して「歴史研究」の在るべき姿を説いているが、彼等がそれぞれ強烈な危機意識を抱いていたということを捨象して、クローチェの有名な言への言及がなされているが(11)歴史研究一般の問題として議論してしまっている。そこでのメイン・ターゲットである野家啓一に対する批判は概ねその通りだと考えるが、野家の「歴史意識」、そしてそれが歴史論へと反映されているのだが、その点を解明する議論が欠如している。これが欠如しているから、論述の表面的論理だけを追って、野家と坂本多加雄との相違性の不在を言う(cf.39)ことにもなると考えられる。
 また、「歴史」と「倫理」との関係をめぐる考察もなされているが、これを踏まえて言うなら、上村の、もう一人のメイン・ターゲットであるハーバーマスへの批判は、彼の「西側」志向が一つの現実的選択であったということが無視されている。「西側」的理念−−それは、本稿が立脚するリベラリズムの理念と重なるのであるが−−といえども決して無欠のものでないということは明らかであり、ハーバーマスもそれは十分承知の上である(だから、例えば『理論と関心』の彼の理論的主張との齟齬が出てくることにもなる(cf.11))。ハーバーマスの選択は、極論するなら、我々(宮台)のタームで言って「連合国」型と「枢軸国」型とのどちらがよりましかの選択であって、絶対的によきものの選択ではなかった。ここのところを村上は実は、(我々の言い方で言って)絶対的善の追求がなされていないと批判することになっている訳であるが、それは、(後期・)高橋哲哉との相違が語られているが(46)、むしろ高橋的である。
 ここは論が錯綜しているのだが、上村は、上野千鶴子の「対抗的な語り」の主張に、「対抗言説のほうもまた、同様の[抑圧の]事態を引き起こさないという保証はどこにもない」(47)として留保を付け、そこで(初期・)高橋の「歴史の原-暴力」論に賛意を表しつつ、それを踏まえた「歴史研究」の課題を確認して筆を(一旦)擱いている(51)。これは、我々のタームで言うなら絶対に悪に陥らぬように絶えず自戒するということである。しかしそれは、−−高橋の場合、野家・上野批判としてそれを「「正しさ」へのコミット」論へと展開するのだが、この後期・高橋への展開が矛盾的でないのであるなら−−いわば絶対的善の上位「平面」(cf.44)には立っていることになる。しかし上村は他方では、後期・高橋のように「脱構築不可能な「正しさ」の審級を設定することには......断固として異を唱えたい」と断言し、そして、上野の主張の線で、ただしそれに限定を加えて「さまざまな物語り行為が相互に和解しがたく抗争しあう「ディフェラン」......の成りゆきにゆだねる道を選びたいとおもう。」とも語っている(46)。これは、確実な絶対善は不在であるゆえそもそも選択しないということである。この二つは矛盾的である。それは必ずしも理論的矛盾ではないが、いわばトーンとして相互に相容れないものである。換言するなら我々は、そうしたものを明らかにするために(我々の意味での)「歴史意識」の究明が要ると述べているのであり、それが欠如しているから、こうした矛盾的事態を結果することにもなるのである。

[53] このような(いわばノエシスの)「信」(という様態)のいわばノエマとして、「歴史」は「通史」としてこそ適合的である。彼ら革新派の歴史観念は19世紀的な「通史」のそれなのである。もちろん、語られるものの中身としては19世紀的な国家政治史を中核とするものではなくなっている。言われるとこころの「社会構成(体)史」というものになっている。しかしそれでも、その叙述方法が「通史」であるということには変わりがない。そして、まさにそれゆえに、「社会科ではなく歴史科」ということになるのである。

[54] 保守派の「歴史」観もいうまでもなく「通史」的である。歴史教育の現場(小学校)においても例えば(革新派の)金沢嘉市が「歴史科」を主張していたが、したがって、これに保守派の人から支持の表明がなされるということも生じていた。そのことについて金沢自身「回顧」として次のように語っている。「「先生、日本の歴史を教えて下さい。」という子どもの声にうながされて......。/......これは彼等の血のなかに流れている民族意識が、いま一つの抵抗を試みようとしているかのように、私には感ずることができた。/......歴史の学習がだんだんと進むにつれて、子どもたちの眼がいきいきとかがやくようになってきたとき、馬鹿正直の私は、つい人をつかまえては、歴史教育の必要を説いたものであった。/やがて1951年の夏、そのことを知った日教組の教育新聞が、私の不完全な実践記録を少し誇張した表現で発表してしまったことがあった。....../このことが新聞の記事として発表されると、私は何人かの人々から賛成や激励の手紙を受取ったのであるが、なかには/「あなたの意見に大賛成である。皇国の歴史を子どもに教えて忠君愛国の精神を植えつけなくてはならない。」/というような同志(?)もあらわれて、面くらってしまった。」(「歴史教育の回顧」『地理教育』14号 25f.)

[55] これは、単なる一エピソードとして理解することも可能ではあろうが、ここはむしろ構造的なものを読み取るべきである。しかしそれは、「革新派」も−−例えば「愛国」ということも語られていたのであるが−−なおナショナリズム的なものを残していて、その点で「保守派」と共通である、といったことではない。そうではなくて、逆に「保守派」と「革新派」とはやはり正面から対立する主張をもちつつ、しかし、その対立のいわば平面が同一であるというふうに解すべきである。そして、その共通の平面として通史的歴史観(というより、歴史感覚)が、そして「枢軸国」型人間観が存在するのである。(我々が言う「連合国」型人間観は、この「平面」そのものに対立するものである。因みに言うが、「歴史の展開」とは−−それが「枢軸国」型から「連合国」型への展開であるとして−−、或る「平面」上での優勢者の交替ではなく、対立の「平面」そのものの別のものへの転換というかたちを取るものである。そう見るのが(真に)「弁証法」的ということでもあろう。)

[56] こうした歴史観は、旧・ソ連における教科「歴史」においても確認することができる。例えば1980年版のロシア共和国教育省認可の「低学年用教授項目」では次のように記されている。「歴史は人類社会の発展の統一的・合法則的な過程を明らかにする役割を担っている」。/「歴史の教科は......社会発展の歴史の合法則性を科学的に理解させ、資本主義の崩壊と共産主義の勝利の必然性を確信させ、歴史の真の創造者、物的・精神的価値の創造者としての人民大衆の役割......を解明させるに役立つものでなければならない」(『教科書からみた教育課程の国際比較1 総論編』103)。また、ソ連の小学校「歴史」教育の特徴について坂上順夫は次のように纏めている。「歴史教育は、時間数の配分を見てもその重要視されていることが理解される。歴史教育では......歴史の弁証法的発展を明らかにすることに重点が置かれている。歴史の流れの中で、共産主義社会が歴史的必然性として存在していることを理解させ、共産主義社会の建設に積極的に取り組む意欲を持たせることが目的とされている」(同上 218)。

[57] このソ連の「歴史教育」は、以上の引用箇所を見る限りでは、決して一国主義的でない。この点で敗戦直後期における「革新派」の「日本(民族)」の強調* は異なっている。しかしこれは、敗戦直後期におけるアメリカ占領という特殊事態、そしてそれ以降も「革新派」は日本がアメリカの支配下に在るという認識を持ち続けていて、その事実認識に規定されたものでもあろう。その事実認識の変更によって、「革新派」において「日本」の強調という点は次第に弱くなっていく。教科としての「日本史」に対しても批判的意識をもち始めていく。「世界」という視野において「歴史」を認識することが主張されていくことにもなるのであるが、しかしながら、その場合でも問題性として、なお通史的「歴史」感覚が強く見られる。(その点では−−もはや「共産主義社会の歴史的必然性」といったことは語られないとしても−−なお、旧ソ連の「歴史」教育とタイプとして同じであると言いうる。これに対してソ連崩壊後のロシアにおいてはこの点の修正(=西欧化)が顕著である。なお、注目されるべきであるが、ソ連においても(1917年)革命後しばらくはアメリカ型の「社会科」の試みが在った(『社会科教育史資料集4』67 参照)。したがって、「ソ連」といってもスターリン型社会主義のソ連と言わなければならないかもしれない。)

* これは「社会科」を「無国籍」(宮原誠一)として批判する批判(「社会科の功罪」『社会科教育史資料集4』274)と相関的である。


六 保守派の「社会科」批判

[61] 敗戦直後期では「革新派」からの「社会科」批判が目立ったのであるが、この「社会科」批判は現在ではもっぱら「保守派」の主張点となっている。50年代以降、教育の「反動化」の中で、「保守派」からの「社会科」批判が前面化してくる−−これに応じて「革新派」は逆に「社会科」擁護派へと転回する*−−。その中で1986年以降、今日の「自由主義史観」派の原型とも言いうるような議論(1986年の『新編日本史』刊行で具体化する)も出てくる。村尾次郎は例えば次のように説いている。「われわれが歴史の教科書を作るときにまずぶつかるのは「社会科の壁」である。現行制度が歴史までも社会科に抱へ込んでゐることは、歴史学の専門家としては、私は強く反対であり、一日もはやく社会科の桎梏から歴史を解放しなくてはならないと望んでゐる歴史家は私だけではない。歴史は人文の学であって、人を重んじ、人の精神生活に触れることにこそ最高の意義がある。それなのに、社会科はこれとは別の面に眼を外させ、人格を捨象して非人格的な集団現象に関心を向けてゐる。この点が私どもにとっての問題なのである。/社会科の此の性格は、マルキストには誂へ向きである。歴史を社会科学と規定し、人格よりも階級を、精神生活よりも階級間の矛盾対立を重んずる学派にとって、社会科は住み心地良い教科である。......勿論、敗戦直後にアメリカから輸入されたソシアル・スタディー(社会科)はこれとは違ひ、啓蒙主義的な進歩史観を土台にした生活環境改善のための教科(プラグマティズム)であつたが、どん底に落ちた日本ではそれをマルクス主義的に解釈して歴史を教へる傾向を強く押し出す結果になつたのである。」

* ただ、その転回が表面的に政治的な転回であって(連合国型)公民教育としての「社会科」教育理念を必ずしも理解した上でのものでないというところに問題が在るのである。極論するなら、「科学(注入)主義」を自己批判して「経験主義」の方へ近づいただけである。ここから言うなら、「経験主義」を支えた民主主義理念への理解が素通りされている。

[62] ここでは政治的に革新派(マルクス主義)およびリベラル派(プラグマティズム)への批判が前面に出ているが、「通史」的歴史観は−−教科書そのものの構成からも明らかなように−−自明の前提となっている。このことは例えば、保守派の「社会科」批判論を集めたものと言える−−但し一部例外は在る−−『現代のエスプリ』251号 所収の粕谷一希の文章では明確に説かれている。こう述べられている。「原理的に考えても歴史は人間存在の時間論であり、社会は人間存在の空間論である。社会を歴史に包含してしまうこと自体、ナンセンスなのである。/......社会科学を志向するにつれて歴史はつまらなくなり、人間の姿が消え、美しい歴史叙述は少なくなっていった。歴史文学が過度に読まれるのは、歴史学の怠慢のせいもある。」(216)*

* このような「通史」教育復権の主張は欧米でも80年代の新保守主義−−ただし厳密にはこれは、イギリスに関する場合用いられる「ニュー・ライト」という言い方の方が適切であり、その新右派に(新)保守主義と新自由主義(市場主義)との二つの傾向が在り、そして、この「通史」主張はこのうちの前者から(のみ)なされたものである(望田、前掲書 238f.参照)−−のもとで見られるものである。アメリカでは例えば「合衆国史教育独立論」という主張のかたちで現われている(例えば田中英朗「アメリカ歴史教育史研究序説」『社会科研究』35号 参照)。

[63] これは村尾・粕谷の発言においても見られる所であり、例の『新しい歴史教科書[市販本]』においても明瞭なのだが、「保守派」の「歴史」主張は場合によっては「歴史」の人文(科)学性の主張を伴う。これは(或る種19世紀以前的な)人文主義の理念を前提としたものでもありえ、論者によってはそれが前面に出てもいるのであるが、しかし多くは、そうした人文主義理念を貫徹していない。(あるいは、公教育ということで、やむをえず人文主義を抑えている。)人文主義は本来、いわば教養主義として非-実践的なスタンスを採り、したがって同時に−−人間(自己)形成ということは目指しても−−「国民」形成(あるいはさらに「公民」形成)といったことを志向しないものなのだが、多くはこの志向を保持している。『新しい歴史教科書』では明らかにそうであり、その兄弟本とも言える『新しい公民教科書』では、まさしく「国民」形成のための「歴史」という理念に貫かれている。たとえばこう述べられている。「世論がマスメディアの一面的報道だけを信じるならば、民主主義はたんに衆愚政治に転落する。したがって、世論が健全であるための必要な条件は何かについて考えなければならない。/国民の精神の健全さを保障するもっとも重要な要素は良識である。ここで良識というのは、その国の歴史の中で形づくられ、そして国民によっておおよそ共有されている常識のことをさす。つまり、自由主義を健全なものにするのが、歴史的秩序であったのと同じように、民主主義を健全なものにするのは歴史的良識なのである。」(210f.) 端的には、「公民」を「公的なものへの欲望」をもつ者と規定しつつこう説かれている。「こうした公的なものへの欲望は、自分のかかわる国の歴史のあり方と無縁ではない。また、その欲望が、自国の歴史的な国柄を確認したいという動機に根ざしているなら、国民一人ひとりの欲望の間には、同じ国民である以上は、何らかの共通点があるということになる。」(208)


七 「歴史(学)」規定の明確化の必要

[71] 「保守派」は、全体として「歴史学」を「人文科学」として規定する。これを「革新派」は批判するわけであるが、歴史学は19世紀的な古典形態においては本来「人文科学」なのであり、「歴史学」=「社会科学」という規定は特殊日本(革新派)的なものである。確かに、近年(対象として「社会」を重視するというのではなく、社会科学的手法を導入するという意味での)「社会史」が典型的には戦後(西)ドイツで登場して来ている。しかし日本の革新派的歴史規定は、これとは無関係である。ドイツの「社会史」の構想(ヴェーラーやコッカ等)は、本来の歴史学を人文科学的なものとして了解し、その上で−−(その通史的ヴァージョンに焦点を合わせて)それを「歴史主義」だと批判しつつ−−社会学や経済学など「社会科学」の手法を導入した「新たな」歴史学を「社会史」として提唱している−−ドイツでは、「政治的陶冶としての歴史教育」として教育においても明確にこの「社会史」に定位した「[社会科]歴史教育」の構築が試みられている。例えば服部一秀「「社会史」に基づく歴史教育理論」『社会科研究』37号 参照−−のに対して、日本の革新派は歴史学は本来「社会科学」であると規定している。これは、彼らの依拠するマルクス主義が戦前「社会科学」という名称の下に弾圧され、「社会科学的」=左派的という用語法が在ったためでもあろうが、ドイツの「社会史」理念から見るなら、当のマルクス主義歴史学はなお古典的に「歴史主義」的であるとされている(イッガース,G.G.『ヨーロッパ歴史学の新潮流』349 参照)。ここから見ても日本の革新派の歴史学規定は非常に特異なものであり、欧米では人文科学とされているものをそのまま「社会科学」と呼んでいるにすぎない。*

* これは学問としての「歴史学」への反省がなされていないということと相関的である。「歴史学」が自らを問うものである「史学史」について、日本におけるその欠如が何人かの歴史研究者自身によっても指摘されている。あるいは更に一般的に、学問全体を問う科学論が、欧米では「科学(の=についての)哲学」というかたちで制度的にも確保されているのに対して、日本では(当の)「哲学」界が−−ややもするなら思想史的研究に特化的であって−−「科学論」に冷淡であるということも作用しているであろう。

[72] 欧米においては、こうした「歴史学の社会科学化」を批判して、逆に「社会科学」からは遠くむしろ「文学」に近いものとして「歴史学」を再構想しようという傾向も見られる。この傾向のなかでは、19世紀的な歴史学からも距離を取りつつ、そこでは語られていた「歴史における真理」というものを放棄しようとする−−「文学」においてはそもそも「真理」という概念は存在しない−−。その場合、歴史記述は各歴史家の個性を強く刻印した一つの「作品」となる。これに対して「社会史」的理念では「真理」が重要概念となるが、それは社会科学、あるいは科学一般と同じかたちでの「真理」であり、「仮説」の「検証」をもって「真理」であるとするものである。しかるに、19世紀「通史」的な歴史記述についてはこうした意味での「検証」はそもそも不可能なのである−−例えばポパーは、彼の場合は「反証」がいわば真理可能性の基準となるのであるが、(19世紀的な)マルクス主義史観について、それはそもそも(真偽以前的に)「反証不可能」であって疑似科学であると批判している−−。

[73] これに対して戦後日本の歴史学は19世紀「通史」的「歴史」をそのまま「(社会)科学」だとして、−−戦前の歴史をフィクション(神話)を含むものとして「虚偽」だと批判しつつ、その対極として−−「真理」性を強く主張するのである。(これには、「ユートピア社会主義」に対して自らを「科学的社会主義」と規定するマルクス主義も勿論反映している。)しかし他方、社会科学あるいは科学一般と同じものとして「真理」を語ることはさすがに無理であるとも気づかれ、そこに(道徳的な)「正しさ」の観点をももち込んで、極論すれば「正しいがゆえに真である」といった主張がなされる場合も在る。これは戦後においては遠山茂樹の「プロレタリートの立場」論において明確であり、それはすでに戦前の羽仁五郎、さらにはルカーチにも遡ることができるのであるが、最近の「革新派」のものとしては次の浜林正夫(浜林/佐々木編『歴史学入門』)の考え方が標準的であろう。「社会科学には価値判断あるいは階級性が付随する。」(236) しかし、「こういう価値判断あるいは階級性はけっして科学性と矛盾するものではない。なぜなら、それはけっして個人的主観的なものではなく、それ自体が客観的な根拠をもつものだからである。この客観性は、具体的にはある歴史家の研究の成果が社会的な共感を呼び起こすということのうちにしめされる。」(236) すなわち、いわば間主観性をもって真理性の基準であるとするのであるが、その「共感」が「共通の課題意識」(から来る「階級性」)に依存させられているところから見て、それは、いわば単純な間主観性、つまり、理論的仮説そのものへの賛成ではなく、それが価値的に含意するものへの賛成という(真偽ではなく)正・不正の事柄の次元での間主観性である。(因みに、この間主観性という意味での「客観性」と、実在性という意味での「客観性」とがタームとしてだけでなく、概念としても混同されるという初歩的ミスが犯されている。)

[74] しかしこれは、価値と事実との分離という近代科学の−−例えばM・ウェーバーが定式化した−−理念に反するものであり、印象としては道徳主義的な歴史記述として受け取られることにもなる。ここに「自由主義史観」が付け込んでくる余地が在るのだが、例えば『新しい歴史教科書』は端的に、「歴史を学ぶとは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。」「歴史を固定的に、動かないもののように考えるのをやめよう。歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう。」と説いている(7)。

[75] この「自由主義史観」的歴史規定では、各歴史記述は相対的なものであることを認めることになる。その主旨でそもそも「自由主義」史観であるとも宣言されている。実際、「個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。」「歴史を自由な、とらわれのない目で眺め、数多くの見方を重ねて、じっくり事実を確かめるようにしよう。」と語られている。これはこの限りでは間違いのないところであるが、しかし彼らは、(一種しか用いられない)「教科書」としての記述において、いわば遂行的(performativ)に自己矛盾を犯している。「自由主義」史観であるなら、「教科書」としてはまさしく「歴史」(記述)には原理的に複数のものが在るということの認識、そしてその複数の「歴史」を尊重し合うという心性の獲得が最大の目標であるはずであるにもかかわらず、その教科書は単一の歴史観で貫かれている。相対的なのは「時代」あるいは「国によって」なのであって、一つの「時代」「国」においては−−一応「個人によって」と述べられてはいるが−−単一のいわば定番(「正史」)が在って、これが今まで欠けているとして自らはこれを提示しているのだ、という印象を強く受ける。しかし他方、これは彼らの志向において必然である。彼らは(あるいは、革新派同様彼らも)「歴史」に即して一定の「公民」、かつ、明確に「枢軸国型」国民の形成を狙っているからである。であるからまた、彼らは別途「公民教科書」も刊行しているのであるが、そこではこの狙いが明示的である。これに対して「歴史教科書」ではいわばimplicitに「公民」教育が目論まれている。*

* 例えば、小堀桂一郎「「心の教育」わたしの意見」『正論』1998年12月号 では「心の教育として、徳育として行はれる教育の教材は民族の精神の歴史であることが必要にして且つ十分な要件である。」というふうに明示化されている。

[76] この19世紀型「公民」教育の点では、「保守派」「革新派」は共通である。その土俵の上で、いかなる「公民」であるのか、そしてそのためのいかなる「歴史観」なのかが争われているのである。我々はこの論争(あるいはむしろ紛争)はそのままでは永遠に決着がつかない−−あるいは、相手側を消滅させることによってのみ決着のつく−−ものであると考える。そしてそれは、主張される「歴史」がそもそも「信」の事柄であって、「信」の相違は議論によっては解消しない、あるいは更に(利害的)妥協というかたちでも解消しないからである。このことは国家間の歴史観の相違を乗り越えて「共通の」歴史観を構築しようという試みに対しても言わなければならない。相違する「信」はそもそも共通の「信」へと修正することは不可能なのである。あるいは、何らかの「共通の」ものが実現されるとき、それはもはや「信」ではなくなってしまう。したがって、「共通のもの」を目指すときは、共通の「歴史観」ではなく、言うとすれば共通の「事実認識」を目指すのでなければならない。(もちろん、この「事実」を「歴史」と換言することも語法上誤りでないが、それは「歴史観」という場合の「歴史」とは意味がかなり異なってくる。「歴史観」という場合はいわば過剰にコノテーションが入ってくるのだが、この過剰用法を避けるためには、例えば「歴史の(に対する)裏切り」「歴史の冒涜」といったかたちで本来「人」あるいは「神」に適用される述語を用いるのをやめるようにする−−ちなみに「。。が抱いている歴史観の冒涜」は可である−−ことが一つの手掛りになるであろう。)そのためには「歴史観」への欲望を禁欲しなければならないであろう。例えば16・7世紀におけるカトリックとプロテスタンティズムとの紛争のことを考えてみてほしい。(「宗教戦争」という)「信仰」の対立は結局、言うまでもなく「共通の信仰」の確立をもって終結したのではなくて、異なったものを(そのまま)認めるという「寛容」でもって解決されたのであるが、それは「信仰」を−−政治原理から外して−−私的なものとすることであった。「歴史」の問題で言うとこれは、「歴史」が旧来の19世紀的歴史つまり通史ではなくなるということである。現在問題となっている「新しい教科書を作る会」教科書で言うなら、なぜ「公民教科書」の方が問題とされる程度が低いのかというと、それがそもそも「歴史」の教科書ではない、その意味で「歴史観」の「信」に抵触するところが少ないからだと言うことができる。*

* この歴史観対立の問題で山崎正和は、「そのため[歴史が政治から解放されるため]の具体的な一歩として、国家は初中等学校における歴史教育を廃止すべきだ、ということを重ねて繰り返しておきたい。」と述べているが(「歴史の真実と政治の正義−−歴史の見直しをめぐって」『アステイオン』52号)、その真意は我々の言う「通史」としての「歴史」から脱却すべきであるということであろう。ただし、「歴史観」対立がなくなるとしても「事実」に関する評価の対立がなくなるわけではない。そしてそこに倫理的に見て妥当な評価とそうでない評価の弁別という論点も成立しうる。しかしそれは、それとして明確に画定的に措定して、「歴史観」の一部に組み込むことなしにそれ自身としてテーマ化されるべきであろう。
 この山崎もそうなのだが、本稿原報告と同じ研究会での谷本光男報告「寛容と差異 (Toleration and Difference) 」はまさしく「寛容」を説いたものである。この点から言うなら、その「寛容」の精神は「通史」志向(の精神)とは本来相容れない、ということでもあるのである。(しかしながら、「相容れない」ということは反「寛容」ということなのだが、「通史」志向のそうした「反・寛容」の立場に対しても「寛容」は寛容であるべきなのか、というところに本当の問題が在るということは認められなければならない。この難問にはすでにいくつかの定式化がなされているが、現在なお決定的な回答は不在である。本稿筆者としても考察を加えなければならないところであるが、ここでは課題外にせざるを得ない。)

[77] この「通史」の土俵上での保・革対立は、端的には「日本史学」の場合であって、「西洋史学」や「東洋史学」の場合は事態はかなり異なっている。そこでは事の必然から諸外国の研究から独立であることはできず、欧米的な歴史研究の在り方が影響を与えている。もはや単純な通史的歴史観をもつわけにはいかなくなっているところも在る。そこでは、「社会科学的歴史学」の志向や、あるいはフランス・アナール派のような、19世紀的歴史学とはそもそも時間感覚を異にする研究や、あるいは逆に「物語」として自己限定しようという研究態度も大きな部分を占めている。特に第三のものの場合、(或る種19世紀以前的な)「人文学」としての自己規定も見られる。*(「日本史」の場合も、欧米(特にアメリカ)の日本近・現代史の研究はかなり進んでいて、日本においてもここからの影響が見られる。しかしそれは多く、制度としては「歴史」学界の外部においてである(コンテクストは少しく異なるが、成田龍一『歴史学のスタイル』13 をも参照)。例えば「法学部」における「日本史研究」もこうした意味でインターナショナルなのであるが、そこに同じものを対象としても日本史・近代史と政治学・日本近代史とでは異なってくるということも生じ、それは双方において認識されてもいる。)

* 例えば福井憲彦は「歴史の記述が......歴史社会学のような一般理論化への志向が強いものであるか、あるいはフランスの歴史家のアラン・コルバンが出したような、ある種、歴史文学的な世界に非常に近接したモノグラフィーであるのか、それは、それぞれの研究者が求めている歴史学の違いによるとしか言いようはない。」(『西洋史学 2000』52)と述べているが、西洋史学の場合は、−−「世界史」教育理念の場合は別として−−研究者レヴェルではもはや19世紀的な通史的歴史は場所を占めていないと言うこともできる。

[78] 現在の日本歴史学界は(歴史教育学界も)、或る意味で戦前と同じ布置を示している。一つは革新派的な通史的歴史観、一つは保守派的な通史的歴史観である。そして、研究者数の点ではこれが最も多いと思われるが、(日本-)伝統的な文書(古文書)実証主義である。彼らは、多く近代以前を研究対象としている。ここから、いわば学界政治的に、日本では現在なお近代以前の歴史が大きな比重を占めていて−−これには、そもそも「歴史」に関する特殊日本的なイメージが関わっているのかもしれない。例えば佐藤正幸は日本の「歴史教育」の特異性を言う論稿(「多文化社会における歴史教育」『歴史学研究』683号)で次のように述べている。「多くの日本人が「歴史」といわれて思い浮べるのは、江戸時代であり、せいぜい明治・大正までが限度であろう。......これに対して、欧米では、「歴史」という時、多くの人が思い浮べるのは、現代史であり、過去1世紀の歴史である。ここからして、すでに大きなギャップが存在するのだ。」−−、これが対象時代的に、本質的に近・現代史限定的な「社会科歴史」に対して「歴史科歴史」を志向させる原因ともなっている。この近代史以前の重視は保守派通史の歴史観とはむしろ適合的である。国家・民族の強調には対象とする時代が過去に遡れば遡るほど好都合であるからである。革新派との関係においてはこれは論理的には中立的であるはずであるが、彼らにも近代以前史の重視を容認するところが在る。それは、歴史の発展法則をより一般的な法則として提示するためには対象とする時代が長ければ長いほど好都合であるというところが在るからである。*(川北稔/鈴木正幸編『シンポジウム 歴史学と現在』80頁では、「マルクス主義というのは、......共産主義を原始共産制の「否定の否定」として語る、歴史主義的傾向をもった学であると私は思っています。したがって、......日本史がマルクス主義の影響を強く受けてきたということと、日本史がどうしても前近代史に偏重する傾向をもってきたということとは、無関係ではないのではないかと私は思っています。」と語られている。)ここから、近代以前に重心を置いた日本独特の教科「日本史B」(「世界史B」も)が出てくることになるのである。それが「社会科」(の一部としての「歴史」)理念から外れた教科「歴史」構成を結果することになり、そしてそれが「歴史科」独立を動機づけるものともなっているのである。

* しかしその場合、彼らもまた志向する現実の社会の問題理解・変革にとっては、これは本来不適合である。そこに、例えば有名な「安井実践」というのが在って、そこでは古代ローマの「スパルタクスの反乱」に即して階級闘争の学習が目指されているが、それを現在の諸問題と関連づけようとして無理が生じ、支配者vs.被支配者の対立という−−それ自身は別に間違いではないが−−非常に抽象的な図式が生徒に了解されるだけであるという事態も生じている。これは「日本史」で「百姓一揆」などを対象とする場合でもそうだが、そこに同時に「公民教育」「道徳教育」が持ち込まれるとき、極論して「世の中には悪い人がいて多くの善い人をいじめている」といった悪代官的史観とでも言えるものが形成されるだけである。(これは、倫理的判断だけでなく、政治的論点に関するものも含めて広く規範的判断一般について、その成熟した判断能力の形成を妨げるものともなっている。)
 文書実証主義的研究は、個別事実の確定には大きな力を発揮するが、それがそれに自己限定されるならばいいのであるが、いわば「通史」に取り込まれることによってそこに詳細「年代史」というものが出来上がっている。これが何よりも「客観性」を重視する入学試験と適合し、そこに「暗記物」としての「歴史」という事態が出現している。受験科目「社会」における特に「日本史B」の比重の高さも在って、受験生には過大な、かつ(暗記力を問うという以外には)非-生産的ともいえる負担を強いることにもなっている。
 高校について言うが、「歴史」が「社会科」の一部を構成するものであるのならば、それは思い切って近・現代史に限定することが生産的であろう。現行の制度の下で言うなら「世界史A」「日本史A」の方を学習の基本とすべきであろう。かつ、「現代社会」を(必修科目として)基礎に置き、それとの有機的な関連づけを設定すべきであろう。
 近代以前史に関しては、初歩的な歴史研究の在り方の教示等も含めて、かつ19世紀通史的発想への拘りを止め(むしろ)人文主義的な観点を前面化して、いわば知の喜びの場としての「歴史」というものに再構成すべきであろう。(現在の日本における歴史観紛争は先進国としては異常であり、この異常な事態を解消するためにも通史性を弱める、あるいは通史をまさしく相対的な歴史観の事柄として提示するようにすべきであろう。上([76]注)で言及した山崎も引き続き、「もし国家が歴史について教えるとすれば、それは歴史の精神であり歴史認識の面白さであり、認識された事実ではなく認識そのものの方法のほかにはあるまい。具体的には歴史記述の古典的名作を教室で読ませ、同時に後世それがどのように批判されたかを生徒に教えることであろう。」と述べている(28)。)こういうものとしては「歴史」は、むしろ積極的に「社会科」から切り離して「歴史科」として実施すべきかもしれない。こうした「歴史」の場合「文化史」が前面に出る「歴史」となるとも考えられるが、この点を踏まえつつ例えば伊東亮三が「社会科」から独立した「文化科」を提唱している(「社会科と文化科」『社会科研究』41号)。あるいはさらに、「古文」(さらには「美術」「倫理」の一部)などと一つにして「古典科」を置き、その一部に位置づけるべきかもしれない。
 因みに、「西洋古代史」の場合、自らの研究を(総合的な)「古典学」として自己了解しているケースも見られる。この「古典学」という枠組みは強く人文主義的学問観の下に在ると言えるが、「日本」に関してはその枠組みが欠如している。それは「日本」研究者が自らの営みを何分かは社会的なもの(ないしは実践的なもの)としても了解しているからでもあろうが、それは、人文主義としては未成熟であることを示しているとも言いうる。人文主義は(高級な)知的営みでもあり、その意味でそうした「歴史」は純粋教養とも言えるものとしていわば「遊び」の側面をもっており、「日本」研究者はまだそうした非-効用性に耐えられないのかもしれない。
 こうした人文主義的教科「歴史」が現行のものとしてはいわゆる「歴史B科目」に当たると見ることは到底できない。「歴史B科目」は人文性を説く「保守派」の理解でも、(なお)強く−−例えば「国民」形成のためという、あるいは広く世界を知って日本の地位を適切に確保するためという−−効用性をもたされている。人文主義的「歴史」はアメリカでも右派から唱えられており、それと左派的な「社会科歴史」理念とが対抗軸をなしている(例えば岸本実「アメリカの歴史教科書と歴史教育」『あたらしい歴史教育』92 参照)が、その場合でも効用性(政治性)が付加されている(であるから「右派」が/として主張する/されることにもなっているのである)。強く実践性を志向する「革新派」の場合は当然、「歴史科目」を(大衆性をもった)効用科目として設定することになる。しかるに、その「効用性」が保守・革新いずれの側においても具体的には政治性で埋められ、それがひいては「歴史観」紛争を生み出してもいるのである。
 そもそも、この「効用性」と上の「喜び」とは相容れないものであるが、人文主義的理念としての「歴史学」の特質は後者の「喜び」に在る。例えば西洋史研究者の草光俊雄は、19世紀に特徴的な「歴史主義」−−厳密には、ここでは人文主義的理念がロマン主義的なそれとなっている。因みに、近年のポストモダニズムは、(草光の言うこの)「歴史主義」の或る側面は受け継ぎつつもそのロマン主義性を払拭したものとも言いうる−−の源泉をウォルター・スコットに置きつつ、そのスコットの功績として「細部への関心」を挙げている(「マコーリーはスコットの歴史学へ与えた功績は細部への関心であると言う。それまで歴史家たちは歴史の細部、すなわち人々の身なりや食事、住居のディテイルなどにほとんど関心を払ってこなかった。そこへスコットがいわゆる風俗などへの関心を歴史家に注ぎ込んだのだ、ということである。」『歴史と社会』73)が、この「細部への関心」とは、まさしく「知的喜び」を求める精神である(この両者の関係については、例えばR・バルトの論述「どうして歴史や小説や伝記の中に時代や人物の《日常生活》が表象されているのを見て、快楽を覚えるのだろう......。なぜこまやかな細部に対する好奇心があるのだろう。......要するに......凡庸さの舞台......に悦楽を見出すような《小ヒステリー患者》(前述の読者たち)がいるのではなかろうか。/だから、《きょうの天気》(過去の天気)の記述くらい、瑣末で、無意味な記述を想像することはできないが、しかし、先日アミエルを読んでいた時......刊行者があの『日記』から日常的な細部、ジュネーヴ湖畔の天候を削除して、無味乾燥な倫理的考察だけを残した方がいいと考えているのを見て、いらいらした。」『テクストの快楽』101f.を参照。但し、これはポストモダン的なものであって、スコット的なものと直ちに同じではないであろうが、スコットにおいても「細部」と「喜び」とには関係が在る)。しかし、これはさらに、「知的喜び」一般と同義ではない。後者には「知的好奇心[探究心]」といったものも含まれるが、それが一定の「問い」を前提とし、その問いへの答えを追究するものであるとして、それとは異なって「細部への関心」は、一種美的なものとして、その知(の状態)を享受するといったこと−−「知的好奇心」の場合はその「問い」においてその答えを求めて対象の「本質」に向かうのに対して、「細部への関心」はこの享受性においてまさしく「細部」に向かうのである−−を含む。そういうものとしてそれ−−これを或る側面から言い表した言葉として「尚古趣味」が在る。また、ニーチェが「歴史主義」として批判した在り方もほぼこれに当たる−−は本来、社会的関心といった実践的なものからは遠いものである。しかるに教科「歴史」において、これが「効用性」志向の実践性と結合することによって、その実践性の対象を同時に知的な喜びの対象とするという一種倒錯的な構成性が産出されている。(例えば「カルチャー・センター」において「歴史学」系の講座が多数開講されているが、それはこの「喜び」という点から説明可能である。これとの関連で、「学校」教育における「教科」が或る種そうしたカルチャー・センター的なものとなっていると言うことも可能である。)
 事実としては、この効用性のゆえに「歴史B科目」はとりわけ「受験科目」としていわば(それぞれ)名分をもって主要科目として存在しているのでもあるが、そこにはあるいは逆に、学界の論理とも言えるものが働いているのかもしれない。純粋教養では大衆性を持てない(したがって主要受験科目としての名分に欠けることになる)として、その理由から効用性が付加されているのかもしれない。そう見る場合、「歴史観」紛争という不毛な事態は(実は政治的対立などではなく)この学界の論理の帰結であるとも言いうる。そうであるなら、それは不幸なことである。この点では、学界の論理で「教科」内容や入試科目を設定するのではなく、学問の内的論理や(中等)「教育」の論理こそが重視されなければならない、と言われるべきであろう。


八 高校「社会科」公民教育の再構築を

[81] 「歴史」は保守派の理念だけでなく革新派の理念においても「公民」教育として、かつ自己完結的なものとして機能しているのだが、これはむしろ問題である。19世紀国民国家的国家観を採る場合はそうした「公民」教育となるのであるが、これはもう機能不全に陥っている。もはや民主主義が(単に制度としてではなく、その理念において)常識となっている世界の−−たとえそれが先進諸国に限られているとしても−−現状では、本来その理念を体現している「社会科」は、その「公民」教育を、現行の高校科目構成で言えば「公民科」を中心とするものに委ねるべきであろう。現行の科目構成を前提にして言うなら、「現代社会」(を再度(4単位)必修として、それ)を核として「地歴」科目はその「現代社会」理解への補助の位置において−−「歴史」を禁欲して−−近・現代に関する事実の教示に自己限定すべきであろう。(因みに、「総合的な学習の時間」について教育現場で困惑が広がっているとも報告されているが、「現代社会」2単位への縮小化の現状の下では、これを端的に「現代社会」を(時間的に)補完する時間枠として用いるのが最も生産的であろう。)

[82] 現在、「道徳」、および「公民科」の一科目として教科「倫理」が存在する。これも「公民」教育において重要なのであるが、しかし、これらの「社会科」公民教育としての課題は今まであまり明確でなかった。この位置づけも再検討しなければならない。我々はいわばSollenについて語ることを禁欲して専らSeinに関わるべきであると「(社会科)歴史」については説いたのであり、そうである以上、Sollenの事柄について、本来Sollenに関わる「道徳」「倫理」が前面に出てくるからでもある。

[83] 「道徳」は「修身」の後継科目に当たるものである。そして、「修身」においては、その課題は「心性」の育成、言うところの「徳育」として、事実認識(「知育」)とは切り離されて設定されていたと言っていいであろう。ここには、どう行動すべきかのその「内容」はいわば外(たとえば政府)から示される、あるいは世間的に自明のことであって、育成されるべきなのはそれに(素直に)従う心性の形成だけである、という道徳教育観が在ったとも言いうる。しかし、戦後導入された「道徳教育」においては、この教育観を否定し、むしろ、生徒の将来の現実生活において道徳的見地からしても妥当なかたちで自ら判断・行動することのできる能力の育成が課題として設定された。そこではあくまで自ら道徳的に行動することを可能にするいわば形式的能力とも言えるものの育成が目指されたのである*。(「文部省指導要領」においても各所で「自主的に判断し行動する能力を養うこと」が説かれている。)そして、具体的行動については、それを個別に(徳目を列挙するかたちで)指示するのではなく、いわばそこにおいて具体的行動が行われる現実(社会)について、或る意味で純粋に事実認識を与え、その事実認識に即して将来自らの判断で行動することを可能にする能力を育成する、ということ−−いわば「知育」と一体となった「徳育」−−が図られたのである。

* 教育科学のタームでいうなら、これは「形式的陶冶」論である。そしてこれは、「善」について政治は中立的であるべきであるというリベラリズム国家観の基本原則と相即的である。
 このように言うならば、「モラルの育成がなされない」と反論されるかもしれないが、それは実は逆である。「モラル」を−−「徳」の事柄として−−そのものとして説いても決してモラル(心)を育成しない。人間の活動は「道徳」活動だけではない。というか「道徳」は、それ自身一つの個別活動領域なのではなく、端的には経済活動を含めて様々な活動に対して、それに統制的に関わるものとして本来いわばメタ的なものである。であるがゆえに、道徳は世界認識と、かつ自らが現に生きる世界の認識と一つにして−−自分の世界とは遠い世界と一つにされる場合は問題である。ここに「(歴史科)歴史」において道徳教育(「公民教育」)がなされることの問題性の一因が在る−−教示されなければならないのである。現行の「道徳」授業の問題性の基底は、このことの無理解の上で、「道徳」を個別活動性として考えているところに在る。そこに形成されるのは、建て前だけのモラル観、あるいは特定の時だけ(免罪符的に)道徳的であるという、いわば−−「日曜画家」という言い方に合わせて言うなら−−「日曜道徳」の形成である。

[84] したがって、別個教科としての「修身」は当然廃止されることになった。しかもこれは、かつての「修身」の中身が問題であったからでなく、そもそも自己完結的な徳性教育というものが否定されたからである。しかしながら、この「社会科」(道徳)教育、換言するなら民主主義的公民教育の理念は戦後容易には理解されず、やがて「道徳の授業」が導入されてきても、もちろん中身は戦前のものとは大きく異なるが、「社会科」とは独立な授業として設定されることになる。したがってまた、これには「社会科」教育理念に基づく反対意見も表明され、そこに「特設道徳」論争とも呼べる事態も生じて来ることになった。

[85] 現行の高等学校教科「公民」にはその一科目として「倫理」が設定されている。この位置づけも「社会科」公民教育の理念に沿ったものでは必ずしもない。一面では、「道徳」と同じ徳性育成科目として設定されているとさえ言いうる。なるほど、過去の(「先哲」)倫理思想の学習*(という知的内容のもの)も課題として設定されているが、それは「思想」としてむしろ歴史学的なものとして設定されている。(しかも、各思想家によって提示された「哲学(思想)」(そのもの)の学習となっている。当の「思想家」はその時々の現実社会の問題とのいわば格闘においてphilosophirenしたのでもあるが、その面への言及は弱い。)ただしその場合、現行「歴史」の通史的理念、したがって「枢軸国型」公民育成の狙いはむしろ低く、言うとすれば人文主義的教養の理念の方が読み取れるものとなっている。あるいは、「青年期における自己形成」云々が語られるときは、いわば即実用的なものとしても考えられていると言いうる。

* ここには勝義での倫理思想とは別の哲学思想も学習課題として設定されているが、その部分の位置づけも必ずしも妥当とは言えない。欧米では「哲学」が−−「倫理(学)」とも別個に−−設定されているところも在るが、これは「社会科」の一科目というよりは、いわば全教科の基礎をなすものとして、論理的ないしは批判的思考力の育成、および科学論ないしは「知の理論」(「国際バカロレア」の科目構成の場合)として各個別科学的知見の総合や、それへの批判的反省能力の育成を狙うものとして設定されている(『国際バカロレアの研究』111 参照)。日本では、初等・中等教育におけるこの「哲学」の位置づけに関する議論が決定的に不足しているのであるが、その他、欧米での教科「哲学」について言及した文献を二、三挙げておく。柏倉康夫『エリートのつくり方』[フランス]、嶋崎隆『ウィーン発の哲学』、橋迫和幸「イギリス中等学校における「哲学」科目の導入」『国立教育研究所研究集録』17号。
 日本においてはこうしたものとしての「哲学(的思索)」の教育−−(思想家別の)個別哲学思想に関する知識の教育ではない−−が欠如しているのであるが、ここに、語られている「日本人の論理的思考の弱さ」の原因の一端、しかも決定的な一端が在るであろう。

[86] 「公民」教育は現代社会の現実的諸問題に即して、それを「正しく」解決できる能力の育成として展開されるべきである。その意味で、やはり「社会科」の中で行われるべきである。しかし他方、それぞれの現実問題の事実的教示に即して、その事実に関して単に価値判断的にも考察するというだけでは不十分であろう。かつて「特設道徳」が導入されるとき、学問領域として「倫理学」という個別学科が存在するので−−ちょうど例えば「地理学」に対応させて教科「地理」が別個に設置されているように−−それに合わせて「特設」でも構わないという見解が出され、それに対して「社会科」公民教育理念に反しているという反論がなされたのだが、この両見解はそれぞれ問題をもっている。特に後者の反対論に対して言うなら、そこでは、規範的なものの(科)学も存在しているということが無視されている、と言いうる。(科)学と言えば事実(科)学だけであって、規範的なものはいわば「知」ではなく「意志」とか「感情」の事柄であるという、この点では戦前の「修身」理念と共通と言えなくもない理解が前提になっている。しかるに、規範的なものに関する学も存在するのであって、これは倫理学としてだけでなく、経済学や法学にもその一部分として存在している。欧米に比べて日本では、この規範(科)学ということに対する理解が弱く、これは(なお)「社会科」公民教育理念が不徹底であることを意味してもいる。すなわち、欧米の「社会科」では、規範的な事態(例えば意見対立−その解決)に関する−−かつ、例えば「他人を尊重する態度の育成を」といった情緒的なものではなく、あるいは「多数決だが、少数意見の尊重も」といったお題目的なものでもなく、まさしく(科)学的な−−学習もなされており、例えば「社会科」を"decision-making citizen"育成の教科であると規定する場合(例えば小原友行「小学校社会科における市民的資質育成の理論と授業構成」『高知大学教育学部研究報告』第1部35号 参照)などは、−−一見我々(日本人)の「倫理(学)」のイメージから遠いように見えるが−−まさしく「倫理学」的考察を核とした「社会科」となっているとさえ言いうる。あるいは、例えば草原和博(「近年の社会科教育学研究が示唆するもの」『社会科教育論叢』43号)は、「市民性という視点から」、「民主主義と子どもの関係」に関して「合意主義」と「批判主義」との二つの立場に大別しうるとしているが(108f.)、ここでそれぞれ、あるいは相互に問題とされている論点−−ただし、もちろん具体的な授業展開ではなく、そこで原理とされているものに関するものだが−−はまさしく現代倫理学のテーマそのものである。(であるから、「社会科教育学」においても例えばハーバマスの合意理論ないしは討議倫理学が研究の対象となっているのである。一例として:津留一郎「コミュニケーション的行為論による「理解」と「説明」の結合」『社会科研究』50号。)現行の「社会科」「公民科」がトータルとしてこうした規範(学)的考察に欠けている限り、その欠を個別教科「倫理」が埋めざるを得ないであろう。*

* この「欠を埋めるものとしての教科「倫理」」が制度的には設定されているのであるが、−−ここには哲学系大学教官の高校教育あるいは大学入試への相対的無関心も在って−−生徒に実質的に学習が保証されていないというのが現状である。ここから、「現代」について(も)諸「教科」で事実認識は与えられているとして(も)、そこで意識された諸問題に対して(「倫理学」以前的な)安易な、あるいは建て前だけの規範判断がなされることにもなる。
 また、教科「政治・経済」の不完全な履修によって、政治的・経済的判断もまた同様なものとしてなされている、ということも付言しなければならないであろう。たまたま手にした『論座』9月号に伊豆山健夫「学習指導要領で入試を縛るな」、丹羽健夫「怒れ、受験生!。。。。」の2論稿が現行「歴史」に関説している。我々の観点から受け取るなら、後者では「詳細年代史」的「歴史」から来る入試問題の問題性が指摘されている。そして前者では「歴史教科書(中学)」について例示的に「現代社会の特徴」の記述「『科学の世紀』といわれる二十世紀は、電子工学の発展が、コンピューターを生み出し、ロボットを登場させた。ロボットは人間の労働をかたがわりし、職場から人間を追い出しかねなくなった。[次に:]遺伝子工学の進歩は......」の不適切さが指摘されている。氏はここでは「理科」の立場からこうした(「歴史」的)「近代技術」評価の一面性を突いて、同時に「問題を理解するだけの基礎力もない無垢な頭脳に、このような文明批判を叩き込めばどうなるのか。......初等・中等教育がこのようであるから、子どもたちの理科離れが起こるのではないか。」と批判を加えているが、ここは社会科学の立場から現代世界認識そのものとしてもその認識の一面性を指摘すべきであろう。しかし、(現代世界をも一つの「流れ」として記述する)「通史」という叙述スタイル(ストーリー性をつける)を採る限り、この一面性は不可避でもある。(「こういうことが言えるが、しかしまたこういうことも言える(。では次にどのように考えていったらいいのか)。」というのではそもそも「流れ」の叙述とはならない。)十分な認識を保証するためには、記述スタイルとして−−時代理解的にではなく問題定位的に−−例えば「近代技術」というテーマを設定し、それの社会(政治・経済)との関連をも問いつつ、さまざまな問題点から、それぞれ複数の見解を示し、それらを相互に付き合わせつつ検討するというのでなければならないであろう。そしてそれは、現行の科目で言うなら(「現代社会」、あるいは「倫理」の一部ででも可能なのだが)「政治・経済」において可能であるのだが、その履修が(受験科目の制約との関係で)実質上保証されていないのである。
 この<「詳細年代史」的「歴史」から来る入試問題の問題性>については、より根底的に上記の「細部への関心」と関連付けて論じられなければならないであろう。丹羽氏だけでなく、「歴史」(等)の<暗記物の問題性>は以前から広く指摘されている。例えば「徳川の第。。代将軍の名を記せ」といった類の、徳川政権の本質の理解とはおよそ無関係な−−その意味で或る種「細部」的な−−知識を問う問題が出題されている。(丹羽氏は或る大学の「二○○○年度外国語・法学部の十体の仏像について「どれが一番背が高いか低いか」などを問う問題があった」と報告しているが、これなどは端的に「細部」を問う設問であろう。)こういった問題は確かに−−正答が一義的に明瞭であるという意味で−−「客観性」を有している。そして、入学試験は何よりも「客観性」が求められるとしてこうした出題がなされているのも確かであろうが、しかしながら、そこには(多く無意識に)出題者の「細部への関心」も規定要因となっていると思われる。安易に「客観性」を求める出題を<悪>とするとして、その<悪>は「細部への関心」といういわば(それ自身は)<善>である(とも言いうる)ものから(も)結果しているのである。これは一般的にも言いうるところであるが、<悪>の除去は本当には何らかの<善>を切り捨てることによって初めて可能になる。大学入試レヴェルでは、「細部への関心」という<善>はむしろ意識的に切り捨てられるべきであろう。

[87] しかし、これはいわば次善の策であって、規範的考察は事実的な諸問題に即してなされるのが望ましく、現行の「現代社会」はこの点では−−「やりにくい教科である」という意見が多いのではあるが*−−これに適合的な教科である。しかし、その場合であっても、(同時に相対的に独立した「政治・経済」や、あるいは「(社会科)歴史」も必要であるのであるが、それと同様に)規範考察的部分を相対的に独立に、あるいはより体系的に学習するものとして教科「倫理」はなお必要である。先にも述べたことだが、教科「倫理」がいわば実践科目として了解されている現状では、この主張は理解され難いかもしれないが、「倫理学」とは、「正しいこと」を実践するのが「倫理」だとして、その「正しさ」を(学的に)究明していく学問である。そして現状では、この「正しさ」の−−その自明視、その実はお題目化の下で−−究明が決定的に不足しているのである。(現在なお、「倫理」を実践学科として理解する傾向が強いが、それは例えば「法学」を「順法精神」とでもいったものの育成を図る学科と見るのと同様の誤りである。)しかし他方、そのためには「倫理」の内容構成が再構築されなければならないと考えられる。この点は近年、かつての教科「倫理(・社会)」の構成に比べて、いわば「倫理学の応用倫理学的転回」とも言えるものに対応するような構成修正がなされている。(『平成11年版学習指導要領』では「倫理」の内容の二つ在る「大項目」の一つとして「現代と倫理」が設定され、「現代に生きる倫理的な課題について思索を深めさせ、自己の生き方の確立を促すとともに、よりよい国家・社会を形成し、国際社会に主体的に貢献しようとする人間としての在り方生き方について自覚を深めさせる。」という説明が付されている。そして、その三つ在る「中項目」の一つとして「現代の諸課題と倫理」が設定され、「生命、環境、家族・地域社会、情報社会、世界の様々な文化の理解、人類の福祉のそれぞれにおける倫理的課題を、自己の課題とつなげて追究させ、現代に生きる人間としての在り方生き方について自覚を深めさせる。」という説明がなされている。)これは基本的に好ましい修正であるが、しかしこれは他方、それはそれとして逆に、例えば「環境倫理」「生命倫理」「。。倫理」というふうに自己完結的な単元が単に並置されて、そこでその都度「倫理学」的考察も加えるということに留まってしまうならば問題である。問題解決にはどのような倫理原則を適用すべきなのかと更に問うていくのでなければ本当には問題解決に繋がらないのであるが、そのためには倫理原理そのものを問う倫理学的学習がさらに求められてくる。

* これは、「現代社会」に対応する(個別)学問領域が制度的には不在であるということが大きな原因である。近年「現代社会学部」という学部が設立されつつあるが、そこでの任務の一つとしてこの「現代社会」担当教員の養成ということも設定すべきであろう。あるいは、(政治学、経済学、社会学等の社会諸科学の知見を吸収しつつ)既存の「哲学」ないし「倫理学」を手掛りに、その一部に「社会哲学」−−これは本研究会のテーマでもあるのだが−−という下位領域を設定し、そこで(既存各学問に対してはそれらに対して)「総合的に」現代社会を、その問題性に即して考察していくことも有効な対応手段であろう。
 因みにその場合、これは「応用倫理学」の単なる言い換えと考えられるかもしれないが、「応用倫理学」という呼び方は実は望ましくない。これでは、既存の倫理原理をそのまま諸問題に「応用」するというかたちになり、これは思想史的研究スタイルで個別思想を研究してきた者がその知見を(次に)現実問題に適用してみる、ということで心理的には採りやすい途ではあるのだが、問題的である。厳密に換言しなければならないが、倫理原理を適用すると言っても、(たまたま自分が専門の対象としている思想家のその原理の適用を考えるというのではなく)問題に即していかなる原理の適用が妥当であるのかという方向で考えていく−−その方向で同時に思想研究をも進める−−のでなければならない。現実(就職)問題として「哲学」系大学(院)生は、思想研究に加えて「応用。。」をも研究しなければならないという大勢にあるが、哲学教育カリキュラムにおいても−−(思想研究の)「基礎」を了えてから、ということではなく−−「現代社会の諸問題」の考察とでもいった授業(あるいは、それを不可避的に含むことになる「応用倫理学」関係授業)の方を先に(あるいは同時並行的に)置くべきであろう。(ただし、純人文学的に「思想史」として「哲学」を規定する場合は話は別である。)
 しかしながらそれにしても、これは大学教員という現場からの<嘆き>としてよく聴くところであるが、高校までで、いわば「事実」教授の際に、(当人は真剣であるだが、残念ながら規範諸科学には不案内であって、あるいは規範的なものはおよそ「学」の事柄ではなく、例えばもっぱら「良心」の事柄であるという了解のもとに)安易に、かつ過剰に倫理的なものが実質上教授されてきていて、その結果として形成されてきた学生の倫理観−−上に「悪代官史観」と述べたが、多くはそうしたレヴェルのものである−−をまず批判しなければならない、というところが在る。そのために、学問的な倫理研究として「思想史」教授を行いたくなるのかもしれない、とは言いうる。


おわりに

[91] では教科「倫理」あるいは「現代社会」についてどういう教科構成が求められるのか。これは、直接「社会科教育」を研究テーマとしてはいない本稿筆者としても、その専攻(倫理学)からして無視していいという事柄ではない。しかしながら、従来、倫理学界は組織的には(公民)教育に関して冷淡であった。個別に教育に関して語られる場合は結構在るが、その場合も多くは、社会科教育のいわば現場から独立に、その意味で素人的な発言に留まってきたとも言いうる。(そして、たとえば教科「倫理」を問うのではなく、「いじめ」「不登校」等のいわば教育現場の「倫理」的問題を問うこと−−これ自身は問題ないのであるが−−をもって「教育」にも(十全に)関わっているとするところがなくもなかった。)この点、自戒をも篭めつつ、理想的な教科プランの検討についてはこれからの課題として確認するに留めて、本稿はここで一旦擱筆としたい。

* なお、参照文献に関する精確な情報については、上記研究会口頭報告の資料として「研究会」HPで公開したもの(のヴァージョン・アップ版)を見て頂きたい。
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2002.01.07.
(version 1.2)

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2002.03.17.作成