「自然の価値」をめぐって

安彦一恵

 「自然は価値をもつ。だから、守られなければならない。」

 こうした、ほとんど自明の真ともみなされている言説について、我々はあえて論じなければならないと考えている。(第一に、)前件の「自然は価値をもつ」という言明が多くは極めて曖昧であり、それが曖昧なまま「守れ」と言説されることによって、実質的には(無根拠に)端的に「守れ」と叫ばれているだけであるか、あるいは、「価値をもつ」ということに多少なりとも説明が加えられるときは(実は)そこに極めて多様な内容が持ち込まれて、およそ相互に同種の言説ではもはやなくなってしまっているという事態があるからである。

 一 段ntrinsic value'ということの分析

「どうして『自然は価値をもつ』と言えるのか」と問うとき、さまざまなかたちで、しかし抽象的に一般化すると「我々人間にとってプラスになるから」と答えられる場合もある。しかし、環境思想のなかでは、この種の考え方は「人間中心主義」として評判があまりよくない。特に、環境保護に積極的に関わる人々は、そうした考え方を排して「自然はそれ自身として価値をもつ」と答える。「価値をもつ」のは人間の何らかの志向に対して手段としてそうであるのではなく、そうした「有用性」としてではなくまさしくそれ自身としてそうだと言うのである。そうであるなら、自然は、たとえ我々にとって有用でなくても、あるいはさらに有害であるとしても守られなければならない。我々がまずしなければならないのは、こうした「自然はそれ自身として価値をもつ」という言明の分析である。

 この言明は、倫理学的等少しく学問的には「自然はintrinsic valueをもつ」「inherent valueをもつ」と表現される。しかし、その用語法には統一性が欠けている。したがって、段ntrinsic'段nherent'の用語法の整理が第一の課題となる。Mooreの用語法もあって前者を用いた段ntrinsic value'という表現の方が標準的であるが、O'Neill,J.(Ecology,Policy and Politics,Routledge 1993,chap.2)によるなら、これ自身にも大別して以下の三通りの用法がある(8ff.)。すなわちintrinsic valueは:
 1.「非-道具的価値」
 2.「一定の対象がその段ntrinsic properties'にのみ依存してもつ価値」
 3.「『客観的価値』、つまり、一定の対象が評価者(価値づける者)の評価(価値づけ)から独立にもつ価値」
の三様の意味をもってそれぞれ使用されている。
 1.の意味は自明であるが、一定の事物・事態・性質が、何か別のものの手段としてではなく、いわば自己目的的に有する価値のことである。
 2.の用法はMooreに由来するものであるが、そのポイントとなる段ntrinsic property'をO'Neillは「非-関係的特性」と術語化し、これにはMoore自身の規定に近い「他の対象の存在あるいは非-存在から独立に存続する特性」という「弱い解釈」の他に、「他の対象への言及なしに性格づけうる特性」という「強い解釈」も可能であるとする。つまり、この意味での価値とは、一定の事物・事態・性質が、この両様の意味における「非-関係的特性」にのみ依存して有する価値のことである。
 O'Neillによれば3.にも、「評価者が居なくても存在する[評価的]特性」「評価者への言及なしに性格づけうる[評価的]特性」という弱・強二様の解釈が可能であり、この両「特性」はそれぞれ、「その対象を経験する何らかの存在者が居なくても存在する実在的特性」「その対象を経験しうる何らかの存在者の経験への言及なしに性格づけうる実在的特性」の「特殊ケース」である。この用法は、1.,2.とは違って専らメタ倫理学的な文脈で用いられ、「価値(的)」という性質がこのような意味で「客観的」だと語られるものである。

 段ntrinsic value'がこのように多様な意味合いで用いられているのであるが、さらに面倒なことには似たような事態が段nherent value'によっても意味されている。例えばRegan,T.が上の3.の意味でこの語を使用している。またTaylor,P.W.(Respect for Nature 1986)は上の1.と3.の区別に留意して、1.の意味での性質をinherentと呼び、次いで、かつ3.の意味で客観的であるものを、1.の意味で自己目的的ではあるが3.の意味で客観的ではないものをinherent valueと呼びつつ、それと区別してinherent worthと呼ぶ。その際段ntrinsic'の方は、Lewis,C.I.の(プラグマティズムの)線で、価値経験の側面から問題とされて「評価者[の経験に]内部的」の意味で用いられる。ここからするなら(彼らが言う)inherentはextrinsic(評価者外部的)である。
 我々は以下、先の標準的用法での段ntrinsic'をほぼ定訳となっているので「内在的」、この非-標準的用法での段ntrinsic'を「内部的」と、そして段nherent'の方は−−「独自の」というニュアンスが出てきてまずいので、そう訳出されることもある「固有の」(逆に非-標準的用法での段ntrinsic'が「固有の」と訳されることもある)という訳語は避けて、また原語の違いにも留意して「内在的」でもなく−−小泉仰に従って「内附的」と訳出したい。

二 言明「自然は内在的(内附的)価値をもつ」の分析

 「自然は価値をもつ」と語られるとき、多くは、「人間対自然」というコンテキストで、人間の目的から独立に自己目的的に価値をもつことが主張されている。例えば、ディープ・エコロジストのNaess,A.が「地球上の人間以外の生命のwell-beingはそれ自身で価値をもつ。この価値は人間の限定的な目的にとっての道具的有用性のいかなるものからも独立である。」(O'Neill,ibid.9)と語るときが、その典型的ケースである。しかしながら、「何故にそうなのか」と問うなら、多くは(メタ)倫理学的に、上の3.の意味で自然の「内在的価値」が、つまり自然の価値の「客観性」が語られることになる。

 O'Neillは、遅 is good for greenfly'という文について分析を加えて、壇etergent sprays are good for greenfly'という場合、〈例えば庭師(という評価者)にとって善〉であるのに対して、知ild winters are good for greenfly'という場合、(評価者ではなく)〈油虫そのものにとって善〉であって、前者が主観的善であるのに対して後者は評価者への言及を含まないものとして「強い意味で客観的」だとし、これをvon Wrightにしたがって「xの善」と呼ぶ。
von Wrightは、「その善について語ることが有意味な存在者は、よくあることあるいは悪くあることが、....繁栄していることが....有意味に語られうる存在者」、つまり「[広義での]生命」であると分析する。そして続けて、「『いかなる種類あるいは種の存在者が善をもつか』という問いは、したがって、『いかなる種類あるいは種の存在者が生命をもつか』という問いと広義には同一である」と説く(The Varieties of Goodness 1963,50)。ここから我々は、後者の問いへの容易な回答として「自然」はそうした「生命」であり、したがって「自然は客観的価値をもつ」と言うことできるように思われる。実際、そのようにして自然の価値が語られている。例えばTaylor,P.W.がそうである。
 しかしながら、この考え方では、およそすべての「生命」が価値をもつことになる。そこには例えばHIVヴィールスも含まれる。また、「広い意味での」生命であるから、個体だけではなく、一つの種全体が、さらにはエコシステムが価値所有主体として語られうることになる。このことはそれとして問題点としうるのであるが、こうした考え方の基本的問題性は、一種の〈ずらし〉がなされているということである。Taylorはこう述べている。「『内附的worth』は、それ自身の善[=xの善]をもつ存在者にのみ帰属させうる。それ自身の善をもつ存在者xが内附的worthをもつと言うことは、以下のことを主張することである。xの善が実現される状態が....よりよいということが、(a)なんらかの人間的評価者によって内部的もしくは道具的に評価されるということから独立であり、(b)意識ある存在者の目標を促進する点で、あるいはなんらかの....他の存在者の善の実現を促進する点で事実有用であるということから独立であることを。/生命あるもの[つまり自然]が内附的worthをもつということが真であるなら、それはいかなる道具的あるいは内附的valueとも無関係にそのようなworthを所有している。」(ibid.75)すなわちTaylorは、自然は「それ自身の善」をもち、その「それ自身の善」の実現が客観的(かつ非-道具的)に善であるとき、その自然は「内附的worth」つまり客観価値性をもつ、と説いている。だが、「xの善」としてもともと客観的価値をもつと論証されるのは、人間という評価者の評価に依存しない知ild winters'である。これが、人間の評価に依存する壇etergent sprays'の主観的価値性に対して客観的価値性が論証されているのである。ところが、Taylor(達)はここで、そうした客観的価値がそれにとって価値であるところの「生命」に焦点をずらして、そうした生命が価値をもつとしているのである。しかるに、知ild winters'の客観的価値性の論証が成功しているとしても、そこから言えるのは、そうした客観的価値が「生命」にとって価値であるということだけであって、「生命」客観的価値性があることが論証されているわけではないのである。上の言に即して厳密にみるなら、Taylorにおいてなされえているのは、それ自身客観的である「xの善」のその実現が−−(b)は無視するとして−−我々人間の評価から独立つまり客観的に善であるとき、その「xの善」をもつ自然は「内附的worth」つまり客観的価値性をもつという定義だけである。greenflyの例で言うなら、greenflyにとって善であるそのmild wintersが例えばcold wintersよりもよいとすることは当のgreenflyを善とすることに心理的に繋がるので、この〈定義〉そのものは妥当だとしても構わないが、「xの善」の析出という客観的価値の存在の論証が使われているにもかかわらず、それが、この〈定義〉においてポイントとなってくる〈mild wintersの実現がよりよい〉ということの論証には少しもなっていないのである。
 Taylorも、「存在者の善」と「内附的worth」とが別の概念であることを認めたうえで、「しかしながら、存在者に対して、それはそれ自身の善をもつと理解するという態度あるいは尊敬を選択するなら、合理的行為者は同時に、存在者が内附的worthを所有するとみなすであろう、ということを我々は理解する」と述べている(60)。我々の議論のコンテクストで理解するなら、これは実は、自分にとって価値あるものをもつ自然(物)がそのまま我々人間からして(我々の評価とは独立に)客観的に価値あるものとはできないということを認めたものである。それゆえに「自然の尊敬」が語られるのである。そしてこれがポイントであるのなら、Taylorの説はメタ倫理学的にはむしろ情動説である。

Taylorはさらに、この「尊敬」の根拠づけとして「自然に関する生命中心主義的な見方」(99ff.)を提示することになるが、それも結局、人間のそうした「信念」に「自然の価値」を基づけることであり、そういうものとして客観主義から外れることである。そして、Taylorのこの行き方では「自然の価値」の基礎づけはできていないと我々は考えるのだが、−−因みにO'Neill自身は、「自然の価値」の「尊敬」の基礎づけとして、我々からすれば一種人間中心主義的なかたちで、アリストテレスの「友情論」に依拠して〈尊敬すること〉が我々の生を豊かにするということを説いている(chap.5,9)。そして、ここでも上に言う〈ずらし〉が前提となっている−−しかしながら、また別のかたちでの試みもある。O,Neillの2.の意味で「内在性」を説く試みはその一つである。
実際、「稀少性」「多様性」といったものに基づけて自然の価値が説かれているが、それは、いわば純形式的に「内在的特性」に基づく価値主張だとも解しえる。例えばMuir,J.がヘッチヘッチー渓谷のダム建設に反対して、「原生の山々は人間の手が入っていないので価値がある」と主張した(O'Neill,ibid.15)ものもそうである。原生の山々は、そういう「内在的特性」のゆえにそれ自身「内在的価値」をもつというわけである。しかしながら、この「人間の手が入っていない」ということは「内在的特性」では決してない。「人間の手が入っていない」は不可避的に「人間」への言及を含んでいて「強い意味で内在的」でないのは自明として、さらに「弱い意味で内在的」でもない。なぜなら、その「存続」が、その山々における人間の不在ということに依存するからである。
「稀少性」についてはそう簡単に語れない。O'Neill自身は「すべてのものが何らかの記述のもとでは稀少である」ことを理由に「稀少だから価値がある」とは言えぬとしているが(183)、なるほど心理的には、「稀少」かどうかは比較的なものなので、或る対象を稀少だとすることはその比較の対象の存在に依存するとは確かに言えるが、或る対象への稀少性のそういう述定は他の対象の存在に依存するとしても、それは、稀少性という特性そのものが他の対象に依存していることを意味するわけではない。稀少性そのものは非-関係的特性であるともみなしうる。そして論理的には、或る対象について、比較に基づかずに端的に稀少であるとみることが可能である。しかしながら、そうであるとして、或る対象が稀少であって、その稀少性に基づいて「価値をもつ」とする場合、それは種についてだけしか行えない。個体については、稀少性に基づいて「価値をもつ」とすることはできない。個体そのものは原理的に稀少性を属性としてもてないのであって、「それは数が少ない種のものなので(稀少的)価値をもつ」というかたちになるが、その場合、個体の価値は、種(の内在的特性)に依存しており、「その[個体の]内在的特性にのみ依存し」ているのではないからである。そうすると、いわば種そのものは内在的価値があるのだが、その種に属する個体には内在的価値がないということになる。「稀少性」を基にして「内在的価値」が語られることは多いのではあるが、少し考えてみると、いかにも奇妙であることが分かる。O'Neill自身暗示しているように、我々が或る自然物について「稀少だから価値がある」とする場合、「その自然物がもともと価値がある(あるいは、ありうる、あるかもしれない等々)ので、稀少である場合一層価値がある」としているのではなかろうか(、だから例えば天然痘ウイルスについては「いまや稀少になったので価値がある」と語られたりはしないのではなかろうか)。このときは言うまでもなく、2.の意味での「内在的価値」ではもはやなくなっている。
「多様性」に基づいて自然の価値が主張される場合は、また異なった構造になっていると思われる。その場合は、上のものと同様に例えば自然全体が「多様性」という「内在的特性」をもつので価値があるとされているのではなく、「多様性」自身が価値とされ、その多様性を維持するために諸自然物の価値がいわば二次的に主張されていると考えられる。しかし、2.の意味での「内在的価値」はあくまで「内在的特性にのみ基づく」価値のことであって、その際「内在的特性」そのものが価値であることは意味されていない。「内在的特性」そのものの有価値性を言うのであれば、それはまた別の意味のものになるであろう。
しかしまた、Mooreのようにそもそも形式的に「内在的価値」を規定しようとすることはあまりに人工的であって、我々の価値体験とは大きく異なるのではなかろうか。我々の価値体験においては、直観的に端的に一定のものが有価値物とされているのではなかろうか。その意味で、メタ倫理学的には「主観説」が真なのではなかろうか。

しかしながらまた、「主観説」が妥当だとしてもなお1.の意味で「内在的価値」を語ることが可能である。実際、例えばStevensonが主観説(の一種である情動説)のメタ倫理学的立場から「『xは内在的に善である』が主張するのは、話し手がXを内在的に是認し、聞き手をして同様にxを内在的に是認させるよう情動的に行為する、ということである。」(O'Neill,ibid.11)として内在的価値を規定している。
1.の意味での「内在的価値」の主張についてまず問題としなければならないのは、或るものが単に手段的にのみ価値を有するに過ぎぬとしても少なくとも一つのものは自己目的的に有価値的である、そうでなければ目的−手段の系列が無限に続くことになって(事物あるいは事態の有限性という事実からみて)不合理である、という(神の存在の宇宙論的証明に似た、一見)論理的なテーゼである(cf.O'Neill,ibid.9)。我々はこれに対しては、これは目的−手段の関係を(因果関係のような)事実的関係と考える点において誤りであると考える。非-事実的関係なら連鎖は、事実あるいは事態が有限であるとしても、論理的に無限に続きうる。
しかしまた、逆に、いわば連鎖の途中において或るものが自己目的的に有価値でありうる。そして、通常「自然は価値をもつ」とされるときは、分析的に言って、上のように形式(論)的にではなく、一定のものが端的に自己目的的な有価値物であることが主張されているのであると考えられる。しかしながら、そうであるなら、その主張はStevensonと同じであって、原理的にすべてのものがそうした「内在的価値」(物)でありうるし、逆に一定のものに限ってそれのみが「内在的価値」であり、その他のものは「手段的価値」に過ぎぬとすることが可能である。実際、例えばRossは人間(の或る状態)のみが目的的価値をもつとしている(O'Neill,ibid.13)。ということは、自然には「内在的価値」はないということを意味する。そこで、そうではない、自然にも、あるいは自然のみが「内在的価値」であると根拠をもって主張することはできるであろうか。我々の議論のコンテキストで言うなら元に戻って、やはり「客観性」が言われなければならないのではなかろうか。因みにRossは、唯一「内在的価値」をもつとした人間について、その価値は評価から独立であるという意味で「客観的」だと主張している。

三 再び「客観説」をめぐって−−McDowell説の検討−−

O'Neillの分類でいう「強い客観説」で「自然の価値」を根拠づけるのは不可能であると我々はみた。残っているのは「弱い客観説」の検討である。O'Neillが言うようにそのなかで現在最も検討に値するのは、「第二性質と評価的特性とのアナロジー」(O'Neill,ibid.16)から「価値」の客観性を説くものである。
 この説によるなら、いわゆる「第二性質」は、「強い客観説」の意味では「非-実在的」であるが、「弱い客観説」の意味では「実在的」である。それは「傾性的dispositional」性質の一種であって、例えば赤色(性)は、通常は、客観的に存在する光線の一定の波長ではなく、その光を受け取った生体が感受する性質のことであって、生体の感覚器官に依存するという意味で主観的であるとされるのだが、そうではなくて、そのように感受する生体への言及なしにはおよそ表現できない性質ではあるのだが、一定の理想的観察者が理想的条件下で存在するならばそこに必ず現出するという意味で客観的である。また、「第二性質のこのような性格づけと、たとえ観察者によって決して実際に知覚されえないとしても、対象がその性質をもつということは整合的である」。そして「価値」も同様−−一つの「第二性質」として−−、一定の理想的観察者が理想的条件下で存在するならばそこに必ず現出するという意味で客観的であり、また同様そのことと、価値の実在性は整合的である。−−O'NeillはMcDowellを念頭に置いて大要こうまとめて紹介しているが、「環境倫理に関する議論」にとっては−−McDowellに批判されているMackieの主張同様−−あまり意味をもたないとして、詳細な検討を行っていない。しかし我々は、この説が「自然の価値の客観性」の根拠づけとして現在最も有力な説であると考えている。節を改めて以下検討する所以である。

 O'Neillは「第二性質」のいわば〈間主観性〉と〈実在性〉とが「整合的」であると述べているが、これで言うならMcDowell説のポイントは、このうちの後者の論証にある。すなわち、「第二性質」が、そしてその一種として「価値」が一つの「傾性的dispositional」性質であり、したがって、そういうものとしてその「知覚」は実在的であるとするところにある。McDowellによるなら、我々は日常、例えば「これは赤色である」として一定の対象に「赤」を帰属させているが、「第二性質は、それを或る対象に帰属させることが、その帰属が真であるとして、対象の、一定の種類の知覚的現れを提示する傾性によって真であるとする以外には適切に理解されない特性である」(天alues and Secondary Qualities,in:Sayre-McCord,G.,ed.,Essays on Moral Realism 1988,168)。もちろん、「或る物が赤である」ことを「物の表面のなんらかのミクロ的な組織的特性」(168)によるものとして説明することも可能ではあるが、それによっては「その物が赤である」ということを理解はできない。ロックは第二性質を「我々のうちにさまざまな感覚を生みだす力」と同一視したが(168)、それは「理解」という点からみるなら適切には、「....な組織的特性」ではなく、赤色の場合で言うなら「我々に赤の知覚を生みだす性質」つまり「赤という第二性質」(168)として規定されなければならないものである。色は「本質的に現象的な性格」(174)をもつのである。(実は、ここがMcDowellの論において微妙であり、またロック解釈という難題にも繋がって行くところなのであるが、−−ここでは簡単に、McDowellがそう言いたいであろうポイントのみを以下示すが−−実在すると論証されているのは「色の知覚を生みだす性質」ではあっても「色」そのものではい、(〈つまり〉は成立しない、)という異論は、したがって認められないのである。そういう異論を認めるなら、「本質的にではないが現象的な」第一性質についても、その「現象的」部分について、例えば物体の「一定の性質」は「三角形の知覚」を生みだすが、前者は後者とは別ものであって、したがって「三角形(性)」そのものが実在するとは言えない、ということになってしまう。)

例えば塩がもつ「水溶性(水に溶けるということ)」という文字通り「傾性的」性質の場合、「水」への言及なしにはおよそ表現できないが、しかし水が存在しなくなる場合でも、それと同時に存在しなくなるわけではない、その意味で客観的である、とは確かに言える。McDowellはそれをそのまま「第二性質」にも適用して、例えば「赤色の知覚を生みだす」性質についても同様に、誰も赤色を感受していなくてもその性質が存在しなくなるわけではない、そして価値についても同様に言える、と主張するのである。しかし我々は、この主張にはかなり懐疑的である。まず、「水に溶ける」と「赤の知覚を生みだす」とが同じだとは言い難いと考えるからである。感覚器官の異常や条件の不備が在る場合には一定の波長の光線が受け取られても赤色が感受されないケースがあるのでMcDowellは「理想的」云々−−但し、彼自身の表現では「一定の環境下で」(168)「正しい環境下で」(169)である−−ということを言うのであるが、我々はこの「理想的」云々という言い方に誤魔化しがあると考える。そこにおいて「赤」が知覚される感覚器官は厳密には、「理想的」云々として「赤」から独立にではなく、「を感受できる感覚器官」(色色盲ではない視覚器官)として、「赤」を用いて表現されることになるであろう。それに対して水は、仮に塩を溶かさない水があるとして、それを排除して厳密に表現するとしても「を溶かす水」とは普通は表現されない。あるいはむしろ、普通の理解では、塩を溶かさないのであるのならそれは水ではないのであって、これは、赤が感受されなくても視覚器官ではなくならないのと異なるところである。
それでも、人間に限って言うならノーマルな感覚器官は「赤」を知覚でき、そこに「ノーマルな感覚器官に赤を知覚させる」性質ということを言えるので、そこからするなら「赤」はなお「水容性」との同質性を言うことができるかもしれない。しかしながら次に、そうであるとしても、さらに「価値」(よさ)についても同様に言えるだろうか。「価値」の場合、例えば或る絵画の美の場合、それが或る観照者に美感を生みだすが、別の者にはなんら美感を生みださないということは、ごく日常的に存在する。そのときその観照者は、近似的には「トレーニングを積んだ者」等と言えるとしても、「では、どういうトレーニングか」と問うていくなら究極的には「その美感を感じ取る者(取れるようになった者)」としか表現できないのではなかろうか。そうであるとするなら、厳密には「その美感を感じる者に美感を生みだす」という性質であることになるが、そのようなものは、果たして絵画そのものの性質と言えるであろうか。絵画の性質だとするなら、それは、例えば(夜道の)縄切れが或る者に「蛇だ」との幻覚を生みだすとして、「その蛇の幻覚を生みだす性質」といった(奇妙な)ものと原理的に同じものではなかろうか。(ここで、「美の知覚を生みだす性質」と「蛇の幻覚を生みだす性質」とは別だとするなら、我々もやむをえず「幻覚」と表現したのだが、予め「幻覚」と「知覚」とを区別するという論点先取の虚偽を犯すことになる。)我々は、「理想的」云々という言い方がこの奇妙さを隠してしまっていると考える。例えば一定の高さの椅子が、(大人からすると低いが)子供にとっては高いという場合、その「高いということ」はその椅子そのものの性質とは言い難い−−なぜなら、大人にとっては低いのであって、「高いということ」を椅子自身の性質とするなら、椅子は「高く」かつ「低い」ということになってしまうからである−−のであって、言うとするなら、椅子と子供との間の一つの関係的性質である。美感を生みだす性質といったものも、これと同様、その絵画と一定の人との間の関係的性質ではなかろうか。
(誤解を避けるために言うが、我々も、美が知覚されるときであってもその対象にはそれに対応するものが何もない、と主張しているのではない。我々も、この絵画も含めて物体が「美感を生みだしうる(=生みだすこともある)」という性質をもつことなら認めても構わない。(物体は、存在論的に言うなら「美的空間内にある」、いわば人間学的に言うなら「『美である』という述定が意味をなすゲーム内にある」と認めて構わない。)さらに、「美感を生みだしうる」という点に着目して物体は拡張的な意味で「美を生みだす傾性」をもつと語ってもいい。その限りで、この「傾性」が一定の主体との関係で美を顕在化するのであるが、その「関係」はノミナルではない。しかしながら、美が知覚されない場合、それは実在的に存在する美が知覚されそこなっているとは考えない。それは丁度、椅子が一定の高さでなければ子供に「高い」という知覚を生みださないのではあるが、大人が「低い」と知覚する場合、実在的「高さ」を知覚しそこなっているのではない、というのと同様である。また、この大人であっても「高い」という知覚をもつ(別の)椅子は存在する。それと同様、一定の絵画に美を知覚しない者もおよそ美を知覚しないというわけではない。しかし、「高さ」の知覚と同様、いわば美の知覚にバラツキがあるのである。この観点から言うなら我々は、「この絵画は実在的に美をもち、この物体はそうではない」というふうに、いわば美の配置が客観的に決まっている、ということを否定するのである。(したがってまた、「隨伴性」というふうに見る場合であっても、特定の「自然的性質」と美とが一対一的に対応しているとしてはならない。))
ここでいう「高いということ」は厳密には「高く見えること」であって、したがって成立しているのは「子供にとって高く見えること」と「大人にとって低く見えること」であって、この両者間には確かに矛盾はない。そして主張されているのは「....に見えさせる」という傾性的性質である。しかしながら、こう厳密に考察仕直すとして、この椅子の場合、それは「大人には高いという見え、子供には低いという見え」を生みだす傾性的性質ということになるが、そういう性質を椅子自身の性質として想定することはいかにも奇妙ではなかろうか。ここで、例えばBTB溶液は酸性の液体と混じるときは黄色、アルカリ性の液体と混じるときは青色を示すが、それはそうした傾性的性質をもっていると通常されているのであるから、椅子にそういう傾性的性質があるとしても少しもおかしくない、と言われるかもしれない。そう言われるなら、我々は厳密にさらに次のように言いたい。「大人」「子供」といってもいろいろな(背の高さの)人がいるのであって、厳密には「背の低い人には高いという見え、高い人には低いという見え」を生みだすという性質、さらには、背の高い人であっても(例えば見方の癖によって)「高い」と見るということがありえるので、究極的には「高いと感受する人には高いという見え、低いと感受する人には低いという見え」を生みだす性質、ということになってしまう。−−そこまで徹底して言わないとしても、やはり椅子自身がもっているのは一定の高さという(第一)性質であって、これが知覚主体との関係において大人には「高い」という、子供には「低い」という知覚を生みだしているに過ぎない、とすべきではないだろうか。

我々は、Mackie等のように価値は単なる投影物であるとは極言できないが、したがって、投影物と言う場合そうであるような主観の能動的作用の所産ではなくて、主観の側からして受動的なものであり、そこに価値が〈客観〉視されることにもなると考えるが、その意味で単に主観的なものではなくなにがしか客観的であると言うとしても、(O'Neillの「対象を経験する何らかの存在者が居なくても存在する」という規定からするなら、或る者に美感を生みだす性質は、その或る者がその美を経験していなくても存在するという点でなお客観的であるとしても、それは、子供にとっての椅子の「高いということ」が、その子供が椅子を経験していなくても存在するのと同様であって、)価値は「傾性的に」対象自身がもつものではなく、「高いということ」と同様関係的性質であると考える。美感を生みだす傾性的性質というのは、「感覚器官に美感を生みだす」と語られているが、それは厳密には「その美感を感じる者に美感を生みだす」という「内的関係」としてしか表現できないのであって、そこからみて、この関係が物体に、いわば物象化的に投影されたものであると言ってもいい。
しかしそうだとすると逆に、上の「ノーマル」であっても近似的に過ぎず、厳密にはやはり「赤を感受できる感覚器官に赤の知覚を生みだす」性質となるのであって色の場合も同様「関係的性質」ではなかろうか、そこのところを色のような第二性質と価値とを、例えば後者を「第三性質」として区別するのは、その方が論点先取の虚偽ではなかろうか、という異論が予想される。これに対しては我々は、〈間主観性〉の程度の差ということでもって答えたい。赤色の感受と美の感受とでは間主観性の程度=感受できる者の比率に差があるのであって、この〈差〉が両性質の区別を可能にするのである。さらに言うなら、第一性質も含めて、およそすべての性質がこの間主観性の程度の差に結局は還元できると我々は考えている。(第一性質であっても、例えば「三角形性」が或る種の知覚障害者に「三角形」の知覚を生みださないこともあるのであって、この場合でも言うとすれば「ノーマルな感覚器官に三角形の知覚を生みだす性質」と言うことができる−−但し、これは「現象的」部分についてであって、非-現象的部分についてはこう簡単には語れない−−。)そしてこの区別は、単に論理的な区別ではなく、まさしく間主観性の程度の差に基づいて、心理的にも存在するのであって、Mackieにように「投影」というのならそう言っても構わないが、この〈差〉の心理的存在が(個々人によってではなく)いわば社会によって実在に投影され、そこに「性質」間の区別が措定されるのである。そして再び言うなら、「理想的」云々という言い方が、この〈間主観性〉の程度の差という決定的事柄を隠しているのである。またO'Neillに対して言うなら、〈間主観性〉と〈実在性〉との間には、単に「整合的」という関係があるだけではなく、このような本質的な関係があるのである。
 
 我々がこのように言うなら、その大部分をMcDowellは受け容れるであろう。それは、彼が一種の相対主義を認めているところからも明らかである。しかし局論するなら彼は、価値は実在的性質ではないとしても〈価値感〉の説明は可能であるが、「理解」可能性を保証するかたちではあくまで実在的性質としなければ説明は不可能である、と説いている。以後の論争は、この〈理解的説明〉ということを軸にして展開されているが、この軸に即しては我々としては一点次のことを述べておきたい。
 McDowellは、価値とは異なるが、しかし重要な特徴を価値と共有するものとして、したがって価値についても同じことが言えるものとして「恐怖」を問題として、「我々が恐怖を理解するのは、それをそのような感情に値するmerit[=実際に恐れらるべき]対象への反応として見ることによってである。....我々の生活のこの領域において自らを理解する我々の能力を明らかにするような恐怖の説明は、恐ろしさに関して実在は何も含まぬという主張と全く整合しないであろう。」(176)と説く。我々はまずは第二文の内容は認めても構わない。我々が実際に恐ろしいものに遭遇して−−ということは恐ろしいものが実在していて−−恐ろしいという感情をもったことがなければ、その感情を、(例えばホルモン上の変化とでも関連づけて説明がつくような)単なる感情の変化として把握することはできても、まさしく「恐怖」として理解はできないからである、と言いうる。しかしそのことは第一文の内容を認めることには繋がらない。例えば「あの子供はおもちゃのヘビを見て本物だと思って恐ろしがっているのだな」という場合、「恐怖」として理解してはいるが、「そのような感情に値する対象への反応」としては見ていないからである。したがって、恐れる必要がない対象(=恐怖を引き起こすという性質をもたない対象)を前提としても「恐怖」は有意味的に理解可能なのである。したがってMcDowell自身、上の引用文中の「....」の所で「[我々が恐怖を理解するのは、]または、反応に向かう、恐ろしさに関するものとしては理解しがたいであろう傾向の明らかに欠陥のある所産として[見ることによって]である」と正確化している。
 我々の議論においてはこのことが確認されればそれで十分なのであるが、そうであるとしても私がかつて遭遇した少なくとも一つの対象は実際に恐ろしいものであることを必要とする、したがって、それにおいて「恐怖を引き起こす性質」は実在的である、と反論されるかもしれない。実際我々も、まずはそういう実在的恐怖を認めた。しかしながら次に、そうしたいわば原初的恐怖は必ず実在的でなければならないであろうか。発達心理学的に言って「恐怖」はむしろ学ばれるものであって、「これは恐れられるべきものだ」と教え込まれることによって「恐怖」の感情を身につけていくのではなかろうか。その場合は、恐怖の対象は論理的には実際に恐れるべきものでなくても少しも構わない。
 「恐怖(感)」については事実はどうであるのか(というより、どう見るのが妥当か)容易に断定できないが、「価値(感)」の場合は、この教示−学習のプロセスが決定的であろうと我々は見ている。また、仮にそうではないとしても、個々の価値物については価値感は基本的に主観的であると確実に言いうる。実際、例えば或る者には「美しい」と見られている或る絵画について逆の「美しくはない」という知覚はごく普通に見受けられるところである。その場合逆に、一体、「或る絵画が美しくはないという知覚」は、その絵画の実在的美しさを前提とした場合どのように説明できるのか。恐らく、色盲の場合と同様に「美盲」とでもいったものによって説明されることになるであろう。「お前(達)は美を感じる能力がないから分からないのだ」とでも語られることになるであろう。私自身も学生のとき美術史の講義で、そのように言われたことを思いだす。しかしそのとき先生は、これははっきり覚えていないが、「能力」の涵養として、「美しいものをたくさん見ていれば分かるようになる」か「美しいとされるものをたくさん見ていれば分かるようになる」といった趣旨のことを言われたように記憶している。この両者には大きな違いが実はあるのであって、我々は、これで言うなら(反省的に見るなら)後者が美(感という現象)の実態であって、前者はその(ミスリーディングな)省略的表現であると考えている。
 こう言うなら(価値)実在論者達はさらに、なるほど後者の言い方も可能であるが、それは美のゲームに対して外在的な視点からのものであり、ゲーム内在的には前者の言い方が妥当する(、ゲームに内在するならいわば「とされる」が意味をなさなくなる)、とでも語るであろう。我々もそのことは認める。しかし、専門家、あるいはさらにその専門家達の一定の流派内部では美は一様かもしれぬが、日常世界においては、−−日常世界は、科学の世界とは異なって、そこでも美は「美とされているもの」として現出するわけではなく、まさしく「美しいもの」として現出するのではあるが、−−美の現出が一様ではないのである*。そして、この一様でないという経験に基づいて、それを反省することによって上の後者の言い方がされることになるのである。端的に換言するなら、(価値)実在論と反実在論との対立は、専門家レヴェルに定位するか日常レヴェルに定位するかの対立なのである。

* こう言うなら、ヴィトゲンシュタインに依拠して、一様でないのであるならおよそ美は(科学上のなんらかの心理的質といったものではない)美としては現出しない、それは丁度、「足し算」(というゲーム)において答えが人によってバラバラであるならプラス記号がまさしくプラス記号として了解されていないことを意味するのと同様だ、と反論されるかもしれぬ。しかし我々は、言うとするなら、ゲームは(そこにおいて「正常」が)一様であるものには限られないと考える。一般に価値の(諸)ゲームとは原理的にそうしたものであろう。一様でないから価値はまさしく「価値」であるのであって、一様であるならそれは端的に「事実」となるであろう。(だから逆に、2+2=4は「正しい」答えではあっても「よい」答えではないのであろう。)専門家達も、一面では日常世界に属していて、そこにおける非-一様性を経験しているからこそ、彼らにとっても価値は価値として現出するのである。ゲームとして言うなら、専門家達のゲームは日常的ゲームの部分ゲームとしてのみ存立しうるのである。
 しかしまた、こう言うなら、なお反論が予想される。なるほどそういう「価値」があることを認めても構わない。しかしその場合、「美」(的価値)はそういう「価値」ではなくて、むしろ「事実」である。そして「事実」として端的に実在である、と。しかし、これに対しては我々は、この反論は「「事実」であるから、美感の欠如は(色盲と同様に)「異常」(ヴィトゲンシュタインのタームで言うと「錯乱」「精神障礙」、McDowellで言うと「欠陥」)である」と続くことになるが、我々はこの「異常」を「異常」ではなく、一つの別の「正常」と見ているのであって、そしてその根拠は全般的な非-一様性にある、と答えたい。結局ポイントは非-一様性の事態をどう評価するかにかかっているのである。我々としては、この事態の存在が確認されればそれで十分なのだが、(純)理論的には、この事態を我々のように評価しなければならないということを、−−「これは赤色だ」「これは赤色ではない」とは異なって−−「これは美しい」「これは美しくはない」が同一のゲームを行っていることの証示として展開しなければならない。(価値)実在論の最終的論駁も、この作業を待たなければならない。

 四 「自然は価値をもつ、だから守られるべきである」という言説について

 我々は、自然の問題については上の日常レヴェルに定位する。なぜなら自然の問題はまさしく日常的問題であるからである。さてそうすると、我々は「自然には内在的価値はない」という立場にコミットすることになるのだが、この立場においては「自然は価値をもつ、だから守られるべきである」という言説はどう評価されることになるのか。
 我々の立場からして重要な課題は、同一のゲーム内で、しかしさまざまなかたちで現出する「価値」の(心理的)レアリティーをどう説明するかということである。もう紙幅もあまり残されていないので簡単に言うが、社会的(に規範的な)力と、必ずしも−−いわゆる「社会化」を通しての−−その内部化にのみ依存するのではない、個人の人格構成の構造からくる(一種の規範的な)力が、なにがしかの心理的メカニズムで働いて各人に「価値」を知覚させると我々は考えている。「主観説」に近いといえば言えるのだが、いわば「守られるべきだと迫ってくるので、価値があると知覚される」のである。そして「守られるべきだ」という力が無意識的に働くので、価値は端的に存在するもの、つまり「実在」だと知覚されるのである。
 しかしながら問題は、価値知覚のメカニズムがこうしたものだということではなく、このメカニズムの(内容的)作動が人によって一様ではないということである。だから、或る人にはメカニズムが働いて或るものが価値あると知覚されても、別の者にはそうではない、ということがありえるのである。そのとき前者が行う「これは価値をもつ」という言説は後者には「偽」と意識される。そこのところを前者がさらに「だから、それを尊重せよ」と語るなら、それは後者には「強制」とでも意識されるであろう。それゆえに、例えば西洋人が「鯨には特別な価値がある。だから、それを捕獲してはいけない」と語るとき、食鯨の習慣のある日本人がムカッときたりするのである。いわば主観性が客観性として押しつけられているからである。そこのところを「かわいそうだから、捕獲してはいけない」と語られるときそれほどムカッとしないのは、主観性が正直に主観性として表出されているからである。
 ムカッとくるときには理性的な対話は困難である。しかるに「....は価値をもつ」という言説はこの無用なムカツキを引き起こすのである。我々も価値の享受は尊重されるべきであると考えているが、その際対話は「....にとっては価値がある」というかたちの言説を用いて行われなければならないのである。では、そうした言説間の対立は、つまりは価値対立は、どう解決さるべきなのか。引き続いて簡単に言うが、功利主義的に、しかしそこに平等・公正といった限定を加えて、各人の「内的価値」に即して、各人−−この「人」ということは論証抜きで語っている。これを他の生物種にまで拡大していくことはもちろん可能である。しかしその場合でも、「その(一定の)生物種は(内在的)価値をもつから」という理由を付けることはできない−−におけるこの価値を比較衡量するというかたちで対話が進められるべきであると我々は考えている。その比較衡量の算定式をどう設定するかということが当然次に問われてこなければならないのだが、本稿としては「自然保護の問題」について、それは、各個人が自然保護(あるいは非-保護)から享受できる「内部的価値」に即して解決されなければならない、端的に「(内在的)価値をもつから守るべきだ」という言説は、自然破壊に対して戦術的に有効ではあるとしても、価値現象の事柄からして事実認識としては誤りであって、したがって問題の本当の解決には結びつかない、ということの確認までをもって終わりとしたい。*

* 「環境倫理」のテーマをだしにして「価値」の単なる概念分析を行っただけではないかと言われるかもしれないが、筆者としては本稿で「応用倫理学」を行ったつもりである。「応用」であるかぎりで「環境倫理」の言語ゲーム内にいなければならないが、我々の結論は十分内部的であるからである。〈川本路線〉がいわば「分析」の段階においてすでに、−−およそ学はクリティカルでなければならないとして−−しかしクリティカルに内部的であるのに対して、我々のは、結論においてそうであるというかたちになっている。「分析」は外部的だといっても構わない。しかし、−−〈大庭路線〉は、この言語ゲームの〈政治性〉を、いくらクリティカルであっても内部的であるかぎり突破できぬとして批判的なのだが−−倫理学が哲学の一領域であるなら、哲学固有のアプローチとしてそういう「応用倫理学」もあっていいと我々は考える。


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1996/04/04 作成