このページは、日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業 電子社会システム 「情報倫理の構築」プロジェクト『情報倫理学研究資料集 V』2001,pp.5-40 に掲載されたものをそのまま公開するものである。


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「ヴァーチャル/リアル」という問題――現代世界の問題として――


安彦一恵



はじめに


 厳密に考えていくためにまわりくどい表現になるが、いまコンピュータやインターネットを核とする諸技術によって可能となっている一つの空間を「サイバー・スペース」* と呼ぶとして、これについて正反対の評価がなされている。その評価のポイントとなっているのは、それが本質的に含む「仮想性」である。すなわち、一方では肯定的に、「仮想性」によって人間の在り方に一つの創造性が与えられると語られ、他方では否定的に、「仮想性」は人間の在り方にとって有害であると説かれている。利・害両方の側面が在るからこうなるのだと言うことは可能であろうが、以下、――この二面性の存在を否定しはしないが――基本的に「サイバー・スペース」を肯定する立場で、「仮想性」に対する否定的評価について基底的なところから批判的検討を加えていきたい。

* この表現はSF作家のW.ギブソンが使い始めたものであるが、我々はここでは、そうしたSF的含意(空想的未来世界)を捨象して、あくまで現実の世界における一(部分)空間を指示するものとしてこの表現を使用する。

 しかしそれは、内在的批判を介した、いわば否定的評価の真の動機の摘出(=イデオロギー批判)というかたちを採る。* 内在的批判の手掛りは、「仮想性」を焦点として次の(A)(B)の両方が――相互に矛盾するにもかかわらず――主張されている点に在る。

 (A)サイバー・スペースでは人に事実ではない知覚が与えられてしまう。
 (B)サイバー・スペースでは知覚が単なる事実的知覚に切り詰められてしまう。

我々は、この両者が、(表面的に)論理的には矛盾するにもかかわらず、いわば雰囲気的に両立しているその底に在るもの(主張)を取り出すというかたちで内在的批判を展開していきたい。そういうかたちで、サイバー・スペースをめぐる(表面には隠されている)真の問題性を明らかにしていきたい。

* こういう論じ方を私は最近多用しているが、それは、自己主張的に端的にポジティヴに論じるなら、どうしてもそれこそ「リアルでなくなってしまう」という感じがするからだ。他の論者達の諸議論に感じるのも基本的にこの非-リアル感である。いわば、言説そのもののヴァーチャル性の感覚が在るといってもいい。以下で論究することになるボードリヤールの用語を使うなら、展開される諸議論は単に「記号」として流通しているに過ぎないと感じられてしまうのだ。そこには原因として、――「大きな物語」と言ってもいいが――共通の基本的枠組みの喪失が在るのかもしれない。しかし、これは我々にとってもはや所与であり、受け入れるしかない事態である。ここからみるならリアルなのは、極論して(各議論それぞれの)内的整合性のみである。換言するなら我々は、このレヴェルで、サイバー・スペース否定論の、その不整合を突くという内在的批判を行なおうとするのである。我々は、もちろん反批判に対しては受容的である。というか、反批判が起こることがむしろ我々の真の目的である。換言するなら、そこに開かれる批判−反批判のディアローグこそがリアルなのである。したがって、私の一応の容サイバー・スペース的立場は、まさしく仮のものであって構わない。ディアローグの着火点になるなら、それで十分目的が達成されるからだ。

 この作業は、言われるところの<ヴァーチャル/リアル>という区別でもって一体何が想定されているのかを問うことを基本とする。この区別は決して自明のものでなく、極論するなら、各論者がそれぞれ(多く無意識に)勝手な理解を行なっており、例えばリアルな日常空間に対するサイバー・スペースの「仮想性」を批判するとして、そこにほとんど逆の了解がなされている場合すら生じている。「ヴァーチャリティ」が悪いものだとして、一体どのようなものとして、そしてどのようにそうであるのか。その場合、「リアリティ」とは何であり、どのようにして良きものであるのか。
 我々はこの基本作業を同時に、いわば現代世界論として、サイバー・スペースを本質的構成要素として含む現代世界への問いとして展開していきたい。第一に、「仮想性」への否定的評価の多くが現代世界そのものの「仮想性」批判と一体として展開されているからであり、そして第二には、サイバー・スペースがまさしく世界の本質領域となっているからである。


一 自然的知覚/人工的知覚

 工学的には「ヴァーチャル」は、基本的には、「実際には存在しないが、本質において存在していると同等の効果を有する」として、したがって「ヴァーチャル・リアリティ」と言われるときは、「リアリティ」を(むしろ)「実在」として了解して、<自然的知覚によって得られるのとは別の仕方で、つまり人工的に、しかし自然的知覚によるのと同じようなものとして与えられる実在感>とでもいったものとして規定されている。この場合は、したがって正確には、自然的に与えられるのと同じものを人工的に生み出したものとして、「ヴァーチャル・リアリティ」はむしろ「人工現実感」と表現する方が妥当かもしれない。(廣瀬 1993:1ff.参照)
 この場合、技術的に、いかにしてその「同等」を確保するかということが課題となる。例えば廣瀬通孝は自然的「実在感(リアリティ)」の要素を1)「写実的リアリティ」、2)「没入的リアリティ」、3)「操作的リアリティ」、4)「ふるまいのリアリティ」から成るものと分析し、このそれぞれを、それぞれとして、かつ総合的に(人工的に)実現する技術を目指すべき課題として設定している。(1993:4ff.)
 さてそうであるとして、いわば初級的な「仮想性」批判として、人工的現実感が(この課題をいまだクリアできてなくて)なお日常的現実感からかけ離れており、その落差が問題を生んでいる、といったことがよく語られている。この種の批判への反批判から議論を始めていきたい。例えばファミコンなどに入り浸った少年が、現実においても人工感覚の世界――そこでは(リセットによって)死んだ人も簡単に生き返る――の仕方で行動してしまう(簡単に人を殺してしまう)といったことが語られたりする。この場合、日常的実在感を基準として、それを「リアル」として、「ヴァーチャル」とはいわばそれの不完全なコピー(疑似的なもの)であるとでも対比されていることになる。しかしこの区別は、技術上の進歩によって原理的には解消可能である。ファミコン上では人(キャラクター)を殺しても単に画面上から消えるだけだと言うのなら、血を流して倒れ、そこに死体が残るというふうにすればいい。ナイフで刺すのなら、そのときの(肉から来る)抵抗の感覚を与えることも可能である。人が死ぬ際に発する叫び声も合成可能である。また、そのときの匂いといったものでも原理的には人工合成が可能である。
 しかしながら、仮にファミコン少年の方が事件を起こしやすいとして、この(ポルノグラフィーと性犯罪をめぐる問題性と同構造のものとも見える)関係は、サイバー・スペースの不完全性の問題ではないであろう。ファミコン上での殺人が実際の殺人に結びつきやすいとして、それはむしろ、その仮想殺人が実際の殺人に(逆に)似ているからではないであろうか。(だから逆に、劇画のような「リアル」な描き方が問題視されることにもなるのだ。)アナロジーが飛びすぎるかもしれないが、「将棋」は戦いであるが、だからといって将棋好きが実際の戦いを好むようになるといったことは聞いたことがない。遊びの勝負事が好きな人が実世界でも勝負が好きだということは在るかもしれない。しかし、それはいわば始めからそうなのであって、例えば将棋をすることによって勝負好きになるのではないであろう。これは、将棋が実際の戦闘を基にして作られたものであっても、抽象化において元の世界とは相当異なった世界になっているからだとも考えられる。そうであるなら、仮想世界が実世界に影響を与えるとしたら、それは逆に両世界間の相似性のゆえではなかろうか。そうであるなら、サイバー・スペースは(逆に)実世界に似ているから駄目だとすべきである。その場合(当然)、「<ヴァーチャル>だから駄目なのだ」とは言えなくなる。要するに、少年事件などの際に評論家達によって語られる「ヴァーチャル云々」という発言は、ほとんどいい加減なものである。もっとまともな「ヴァーチャリティ」議論が(そもそも)始められなければならないということである。
 そうだとしてまず確認されなければならないのは、「仮想」技術は、消極的に日常世界を再現しようとするものだけではないということである。厳密に言うが「仮想」技術は、日常世界的知覚の核をなす自然的知覚はそのままに、当人のいわば日常世界を越える世界の創出をも狙っている。仮想技術によって、例えば、当人の生活の場である日本に居ながら、一定時間アメリカに居るかのような知覚をも生み出しえる。さらには、宇宙空間に居るかのような知覚をも生み出しうる。あるいは、当人が背が低いとして、背が高くなった場合の知覚といったものでも生み出しうる。(この場合、我々は「内部感覚」変更されると原理的に想定している。この例で言うと、自分の身長が内部感覚的にも意識されるとして、内部感覚的にも「自分は背が高い」と感覚変更されると仮定する。)(この点から"augmented virtuality"という言い方もされている。)いま上の意味で技術が完全であるとして、この場合<ヴァーチャル/リアル>の区別は何か。
 この場合、普通(否定的に)語られるのは、仮想的に例えばアメリカ体験をしたとしてもそれは本当にアメリカへ行ったことにはならないという、<本当/うそ>とでも表現できる区別であろう。そして、この<うそ>としてサイバー・スペースは「ヴァーチャル」だと語られる(例えば、加藤茂 1998 参照)。
 この見方では、言うまでもなく<本当>がリアルである。そして、これを基準として、それ自身はヴァーチャルな知覚について、参照系としてこの<本当>をもつかどうかが問題とされてもいる。つまり、サイバー・スペースにおいて仮想現実的に知覚するとしても、それが<本当>の世界での知覚に代わるいわば疑似知覚として意識されている場合はまだましであるが、そうした「参照」世界への指向なしにそれ自身として仮想知覚をもつことは問題であるとも語られている。「仮想世界」の出来事はいわば「絵空事」なのであって、それがそうであることを忘れさせてしまうことが問題なのである。上のファミコン少年の場合の問題性もここに在るのかもしれない。
 例えば読書によって(想像的に喚起される)イメージでも、それ自身はヴァーチャルである。(だから活字メディアも電子メディアも同じであるという、トリヴィアルに真ではある反批判もなされることになる(例えば、今田高俊 1994:128 参照)。)しかし、この場合は<本当>がしっかりとした<参照系>として存在する。(フィクションの場合でも、<本当>とは異なるものとして「空想」だという意識が明確である。)これに対して、「サイバー・スペース」はまさしくその「現実」のゆえに、<参照系>を意識させないイメージを与える。ボードリヤールの言う「ハイパー・リアリティ」とはこのような現実感のことである。ボードリヤールはこう述べている。「シミュレーションとは起源(origine)も現実性(réalité)もない実在(réel)のモデルで形づくられたもの、つまりハイパーリアル(hyperréel)だ。」(1981:1f.)/「これが表象(représentation)と対立するシミュレーションだ。表象とは記号と実在が等価であることに由来する……。シミュレーションは逆に、等価原則のユートピアに由来する、価値としての記号をラジカルに否定することに由来し、あらゆる照合の逆転と死を宣告するものとしての記号に由来するのだ。……シミュレーションは、あらゆる表象自身の体系全体を、シミュラークルとしてつつみ込むのだ。」(1981:8)(しかしながら、例えば((実)飛行のための訓練用の)フライト・シミュレーションの空間などは「ハイパー・リアリティ」ではない、とここでは厳密に了解すべきである。ゲーム・センターなどで遊びの為にシミュレーションされるときは、ハイパー・リアリティとなりやすい。)サイバー・スペースは、いわば<にせ>であることを意識できない<にせ>の知覚を与えるものである。絵画で言うと、いわゆるポップ・アートのものと重ねて議論されることも在るのは、このゆえである。
 ポップ・アートについてR.バルトは次のように言っている。「ポップ・アートはこうして過激な映像を生み出す。映像であるおかげで事物は一切の象徴から解放される。これこそ精神の(あるいは、社会の)大胆な変動である。映像に変わるのはもはや事物ではなく[安彦訳:もはや事実が映像に変わるのではなく](これが、厳密にいって、隠喩の働きである。人類は、何世紀も、これでもって詩を作ってきた)、映像が事実に変わる[安彦訳:映像[そのもの]が事実になる]のである。ポップ・アートはこうして事実性と呼ばれる事物の一つの哲学的性質を登場させる。事実性とは、事実として存在し、いかなる理由づけも不可能であるようにみえるものの性質である。ポップ・アートが描いた対象は単に事実的であるだけでなく、事実性の概念そのものを具現している――この点で、ポップ・アートは、心ならずも、また意味し始めている。何も意味しない、ということを意味しているのだ。」(1982:147f.) つまりポップ・アートは<本当/にせ>という(区別)カテゴリーそのもの(=「事実性」の日常的概念そのもの)を破壊するのである。そしてサイバー・スペースは、ポップ・アートに対してと全く同様に、(日常的な)素朴な事実観=実在観を揺さぶるものとして批判されるのである。
 ボードリヤールの議論は現代の「大衆消費社会」分析・批判として展開されているものであるが、彼の議論から「シミュラークル」として一般的に受容されているのは、現代においては商品がそれがもつイメージとして消費されているという事態である。モノが、その「使用価値」と独立に流通していると批判されているのである。これと同様にサイバー・スペース批判は、そのなかでは知覚が――「使用価値」に相当する――<参照系>(「照合」系)をもたない、というものとして展開されている。冒頭の主張(A)は、多くこのボードリヤールの議論へと関説しながら、この<参照系>の不在を批判したものなのである。
 さてそうであるとして、主張(A)が逆の「リアル」として了解しているものは通常、(自然に=感覚器官を通して)知覚できるもののことである。知覚されるものがそのまま実在するのである。理論として言うなら、ここに在るのは素朴実在論である。しかし、これとは異なったいわゆる科学的実在論が在る。ここでは、実在は(自然的)知覚とは断絶を含んでいる。例えば我々は原子を知覚できないが、科学的実在論はそれを実在として想定する。
 これに対して素朴実在論は、場合によっては(科学的)道具主義を援用しつつ、そうした非-知覚物はあくまで理論的構築に留まると主張するかもしれない。そして、その際の論拠があくまで知覚できないというところに在るとするならば、ここでサイバー・スペースのヴァーチャリティ技術はまた別の問題点を提示することになる。この技術は、自然的には知覚不可能な――したがって、例えば数式でのみ記述可能な――もの(例えば原子)を、まさしく仮想的に可視化することができる。原子の場合は、太陽系を手本としたいわゆる「原子モデル」においても模擬的に可視化できるが、本質的にそうしたものでは可視化困難なものでもヴァーチャリティ技術は可視化可能にする。原子の場合でも、それを動きにおいて可視化するにはヴァーチャリティ技術を使うのでなければ難しいであろう。また、例えば重力は――落下しているときなどには知覚可能であるのだが――この技術を使わなければ本質的に知覚化不可能であろう。さらには、紫外線など、我々(ヒト)の感覚システムの制約によって原理的に知覚不可能なものでも、この技術は、別の色へとマッピングするのではあるが、しかしそういうかたちで色として知覚可能にする。
 P.ケオーはこの点と関連させて、"virtual"を原義に即して次のように(逆に)<現実的>という意味で(も)了解できると述べている。「<ヴァーチャル>の語源はラテン語ので、これは力、エネルギー、最初の衝撃を意味する。……とは幻想や幻影などではなく、…….。それは現実に、現実態として存在する。は本質的に作用するものなのである。それは、それに<従って>結果が存在するための最初の原因であると同時に、結果の中に原因を<ヴァーチャルに(実質的に)>とどめるものである。」(1993:23)
 ここから見るなら、ヴァーチャリティ技術によって、日常的知覚の制約を超えて物事の本質へ迫る道が開かれているとも言いうる。プラトンの<イデア/仮象>の区別と結び付けてもいいが、ヴァーチャリティ技術によって人は(真の)「リアリティ」に迫れるとも言えるのである。これを批判する人は逆に――「洞窟」の世界で――仮象に惑わされているのかもしれない。サイバー・スペース批判派はこれにどう反論するであろうか。(哲学史との関連づけについては、N.ボルツ 1991 参照。)単に日常的実在観に定位するだけでは駄目なのではなかろうか。


二 知覚と記憶

 <参照系>をもたないものとしてヴァーチャルな知覚が批判されるとして、しかしながら、当のサイバー・スペースに居る者は、そもそもそれが参照系をもたないとどのように分かるのか。ここで、知覚は単に受動的なものではなく、いわば図式として見る方の能動性もそこに関与しているとするなら、この能動性に何らかの相違が在るとも考えられる。それは記憶に関わるものである。この記憶が働いていて、或る知覚の場合は<本当>だ、或る知覚の場合は<にせ>だと意識させるのかもしれない。上の例で言うなら、いままでずっと日本に居たので、日本のなかの或る風景を目にした場合、そのそれまでの経験が記憶として作用して<本当>という意識が与えられるのに対して、サイバー・スペースでアメリカ体験をする場合、その(それまで日本に居たという)記憶との齟齬とでもいったものにおいて<にせ>と意識されるのではなかろうか。
 しかしながらこのことは、(サイバー・スペース内でアメリカ体験するのではなく)突然アメリカに連れていかれたりした場合においても生じうる。いま催眠術をかけられてアメリカに着いてから目が醒めたという場合、少なくとも最初は「夢でも見ているのではないのか」と思うはずである。(日頃から「サイバー・スペース」経験――もちろん<完璧>なものである――をもっている者の場合は、「いつのまにかサイバー・スペースに入り込んでしまっていた」と思うかもしれない。)しかるに、突然連れてこられたアメリカでの知覚(の方)は、第三者からみれば当然<参照系>をもっているはずであるが、これが当人には意識されないのである。したがって、サイバー・スペース内知覚が<にせ>だとされるのは、実は<参照系>の欠如によってではなく、この記憶との齟齬によってなのである。
 サイバー・スペースが否定的に評価されるとき、それはサイバー・スペースだけではなく、それも含めて記憶への齟齬を生むすべての空間体験が否定されているのだとも考えられる。であるから、P.ヴィリリオは「速度」の観点を持ち込んで、「私たちが……超音速旅客機のおかげで二時間で東京に行けるようになったとき、世界の狭さの感情が急速に耐えがたいものになるということは明らかです。私たちは自然の大きさを失ってしまっているからです。」と、同時に「テクノロジーが原因で、私たちは幽霊の身体のために固有の身体を失い、ヴァーチャルな世界のために固有の世界を失いつつあると私は思います。」と述べながら(1996:53)、まさしくサイバー・スペース批判を含意させつつ空間移動の高速化を批判するのである。サイバー・スペースへ出入りするときは、その移動の速度はいわば無限大であって、瞬時に移動ができる。しかし、これが瞬時でなくても、そうとう急であるときは、そこに記憶との齟齬が生じるのであるが、その齟齬のゆえにサイバー・スペース批判されることになるのである。
 ところで我々は、実は、(サイバー・スペースのような人工空間ではない)日常世界の自然的知覚においても、<参照系>を欠く知覚をもっている。例えば漢字は、言葉として、普通意味をもつものとして了解されているが、書道、しかも芸術作品における「書」では、漢字はキャラクターとして(いわば図として)知覚される。これは換言すれば<参照系>をもたないということである。(だから「書」は、(純)知覚論的にはポップ・アートのようなものである。)しかるに、ハイパー・リアリティを批判する(日本あるいは東アジアの)人も、「書」の(「書」としての漢字の)知覚を批判したりはしない。では、「書」はなにゆえハイパー・リアリティだとはされないのであろうか。我々は簡単には、それは<慣れ>の問題ではなかろうかと考えている。「書」は日頃慣れ親しんでいるので、少しもハイパー・リアリティだとはみなされていないのである。それに対してサイバー・スペースは、まだ十分慣れていないのでそこでの「実在感」はハイパー・リアリティとなるのである。
 ハイパー・リアリティは反自然的なものであると語られたりすることもあるが、我々に言わせれば、「反自然的」とは<慣れていない>ということにすぎない。例えば黒崎政男が端的に次のように説いている。「純粋無垢で、人間社会と関わりを一切もたない<自然>などというものは存在しない。……少年青年時代に我々は、その時点の世界を<すでに存在していたもの>として、つまり、<すでに前から存在していた>ものとして学ぶ。我々のそれぞれの少年時代に存在していた……のあり様、……それを固定したものと捉えることによって、各人の<自然>は成立する。……/本質的に、常に流動的である世界において……流動する世界のある断面を、無時間的な相のもとに捉えようという意志、それらが、<自然>ということなのだろう。つまり、それは、自らのうちにある、<保守性>の表明なのだ。」(黒崎政男 1991:144-6)*

* ここで言う「保守」ということは、厳密に定義するなら、H.セシルが次のように「自然的保守主義」と呼んでいるものの「保守性」のことである。「保守主義は二つの意味に解されるだろう。それは保守党の教義を意味するか、人間の自然な心の傾向……を意味するだろう。……わたくしは、この言葉が第二の意味で、いわば純粋な保守主義、つまり自然的な保守主義として用いられるときは、大文字を用いないで書くようにつとめた。」「自然的な保守主義は人間心情の一つの傾向であり、変化をきらう気質である。それはある程度まで、未知なものへの不信の念と、どちらかといえば理論的な論証よりは経験に対する信頼の念とから生じている。それは環境に順応する結果、単に慣れているという理由だけで慣れたものの方を受け入れやすくしたり、耐えやすくするという、人間に内在するあの能力から生じている。」(『保守主義とは何か』2ff.)

 この黒崎の言がすでに含意しているように、<慣れ>は厳密には相対的なものである。厳密に言うなら、絶対に変化しない空間(世界)というものは存在しない。わずかであれば空間は絶えず変化している。問題なのは、その速度であって、であるからヴィリリオも速度に着目するのである。そして彼は、この速度が速すぎず、いわば適当であることを説き*、同時にそれをもって自身も「保守的」であると規定する(1996:115)。保守主義は一般に古いもの(あるいは伝統)を保守せよと説くものであるが、では(具体的に)古いもののどれ(どの時代(から)のもの)か、と問うなら、答えをもたない。それは当然であって、「保守」とは(むしろ)変化の低速度性を説くものなのである。(したがって、保守はあまりに「古い」ものは好まないということにもなる。そうしたものはまさに古過ぎるゆえに齟齬を生むからである。)そして、「記憶」との齟齬が理由とされるのも、この保守性のゆえである。逆の齟齬がないという事態は知覚が安定しているということであって、したがって理由としての齟齬の挙示は実は不安定性の挙示であるのであって、それはまさしく(知覚上の)保守主義なのである。

* このように「速度」は、厳密にはいわば環境変化の速度である。ヴィリリオは高速そのものについて、新しい(列車などの慣れている速度に対して慣れていない)速度として批判する――上の「書」の例から見るなら、この批判も含まれているとしてもいいが――のではなく、変化の速度、高速(機)が与える急変化を批判しているのである。したがって、「二時間で東京に」というのも、ヨーロッパ、おそらくパリから「二時間で東京に」というのでなければならない。この高速機は具体的にはコンコルドのことであろうが、これはブリティッシュ・エアラインでも使用されている。したがって、二(〜四)時間でロンドンから(同じ英語圏の)シドニーに行けるとすることもできるが、その場合は問題とされないことになるかもしれない。

 したがって我々は、主張(A)のいわば本当の主張点として、知覚の保守主義といったものを取り出すことができる。しかし、「保守」には「[知覚上の]* 革新」が対応する。「革新」は逆に、<慣れ>を(退屈だとして)嫌って<新奇なもの>を好む。換言するなら変化の大きいことを好む。そして、この変化を与えてくれるものとして――例えば絶えず更新されていくモダン・アートを好むように――サイバー・スペースを、それが現時点では新しいものなので、あるいは次々と新しい知覚を与えてくれるものなので肯定的に評価するのである。そうであるとして所詮(A)は、<慣れているもの>を「リアル」、<新奇なもの>を「ヴァーチャル」と呼んでいるに過ぎないのである。

* 引用文中の[ ]内は本稿筆者の補筆である。(〔 〕内は別である。)


三 知覚と人格

 このように「保守」は、記憶との齟齬を与えるものとしてサイバー・スペースを批判しているとして、しかしながら次に、サイバー・スペースに一定期間ずっと居続けている場合はどうであろうか。例えば1時間いるだけであっても、十分サイバー・スペース内経験の記憶が出てくる。そして、サイバー・スペース内知覚であっても、この1時間前からの記憶とは齟齬を来さない。この<期間>が年単位という非常に長い場合、どうなるか。
 この場合(その後、日常空間に戻ってきたとして)、どちらが<本当>という意識は生じないのではなかろうか。あるいは、サイバー・スペースの内と外とでの知覚はどちらも<本当>と意識されるのではなかろうか。このことは、他の人との関係ということを考慮に入れても言いうることである。日常世界においては自分の知覚と他人の知覚とがいわば噛み合っているとして、サイバー・スペースはこの<噛み合い>を破壊してしまうと言われるかもしれないが、原理的にはこの問題はクリアできる。他の人も自分のと整合的なサイバー・スペース経験をもっていればいいからである。(そもそも、ライプニッツ的世界像はそういうものだった。)ヴァーチャル・リアリティ技術は、――コミュニケーション・ツールにおいて使用することを念頭に置いて――始めから、知覚の間主観性の実現を課題に置いている。
 そうであるなら、サイバー・スペースは何を根拠として否定的に評価できるのか。それは、(いま、ずっとサイバー・スペースだけに居続けるという場合を捨象するなら)、経験−記憶の系列が二重になるからではなかろうか。サイバー・スペースの外の方を「外」だという理由だけで<本当>だとはもはやできないとしても、<本当>なのはいずれか一方だけであるはずであるが、しかし、この二重性によって、両方とも<本当>だということになってしまうからである。否定的評価をする者は、この<本当>の、ということは「リアリティ」の二重化を批判しているのである。
 この二重化は別の面から見るなら、人格の二重化である。ここから見るなら、否定的評価をする者は、この人格の二重化を、あるいは、まさしくこれを批判しているのである(いわゆる「ジュリー事件」参照)。しかし、ポストモダニズムは逆に固定的アイデンティティを批判し、それから解放してくれる(かぎりでの)サイバー・スペースを評価することになる。解放というのは評価し過ぎかもしれない。あるいは、解放であるとしても、それは人によるということかもしれない。そして、人によっては二重化は到底好ましいとは感じられないかもしれない。しかし、二重化のもとで生きていけないということはないであろうし、我々は実際、日常生活内部においても多少とも二重の生活を送っている。だから、人格の二重性に対する批判はいわば信条的なものであろう。(同様、逆に二重化が解放であるというのも単に信条的なものであると認めていい。)そしてここでも、端的に「二重性」が否定され「単一性」が肯定されているとは言えないかもしれない。「一」には<慣れて>いるが、「二」には<慣れて>いないということの(むしろ)帰結であるかもしれない。逆に「二」に<慣れて>いれば反対の主張が出てくるのかもしれない。「日常生活内部でも」と言ったが、さらに言うなら「[個人が複数の役割をもつとして、それぞれの<役>に在るときはその]役割に徹せよ」と語られるときなどはむしろ二(多)重性が好まれているのではなかろうか。そうすると(やはり)、二重性そのものではなく、<慣れていない>(種類の)二重性が嫌われているのであって、したがって、やはり知覚上の保守主義が真の規定因であるのかもしれない。
 (この「二重性」ということに即して、先の「ファミコン少年」云々の問題について我々としてはむしろ次のようにみるのが妥当だと考える。ファミコン・ゲーム世界内では殺人が目的になっているとして、実世界ではそうならないようにすべきだとするなら、それは、(むしろ)二重性が当人の意識において貫徹されることによって保証されるのではなかろうか。ゲームが問題だとして、それは、ゲームのリアルさ(そのもの)の問題ではなく、ゲームを了えたときいわば意識のモードを適切に切り替えうるかという問題なのである。したがってまた、殺人(という内容の)ゲームを行なわないようにすれば実世界での殺人も減るということではない。(逆に<愛のゲーム>とでもいったものを行なえば実世界でも人々は愛し合うようになる、ということでもない。)よく、(いわば対動物世界で)動物を苛める人は人間に対しても冷酷に振る舞う傾向をもつと語られたりするが、それでは屠殺業従事者が、あるいは活け造りの調理師が人間に対しても冷酷になるのかというなら、そういうことは聞いたことがない。それは、それらの場合、職場(世界)とそれ以外の世界とが意識において峻別されているからである。重要なのは、二重性を生きるという明瞭な意識なのであって、それを人格の統合性などというもので批判するのはむしろ弊害となるのではなかろうか。)


四 意味

 しかしまたサイバー・スペースは、冒頭の(B)の主張のかたちで、例えば「それは浅薄な知覚しか与えない。これに対して実経験は意味に満ちている」と語られてもいる。この批判においては、<ヴァーチャル/リアル>の区別は、この「意味」の<なし/ある>の区別に還元される。つまり、「意味」が感じられないので<ヴァーチャル>となるのだ。この場合は、サイバー・スペースは(純記録用の)写真機と同様に世界を事実としてしか知覚させないからだとして批判されることになる。いわば((A)とは逆に)、<参照系>をそのものとして、あるいは、そこから意味を抜き取って知覚させるとして批判されるのである。
 しかしながら、このような批判は正確さに欠けている。(今度は)ヴァーチャルな知覚は(逆に)指示対象はもつとされるのだが、そうであるなら、サイバー・スペース内の知覚も、この指示対象との関係で「意味」をもつことができる。ヴァーチャルな木の知覚もやはり「木」の知覚として与えられているのであって、例えば色斑点の集合として知覚されているわけではない。この点では、<ヴァーチャル>であろうが<リアル>であろうが等しく「意味」は存在するのである。
 ここで前者には無いと言われる場合の「意味」は、実は、知覚が(その(原因としての)指示対象を超えて)何か別のものを意味する場合の「意味」である。バルト系の言い方を用いるなら、それは(「デノテーション」を超えた)「コノテーション」としての意味である。あるいは、日常的には「象徴(的意味)」とも言われるものである。結局、主張(B)は、サイバー・スペースは知覚から象徴性を取り去ってしまうと批判しているのである。しかしながら「象徴性」は、日常世界の<参照系>を基準にして言うなら、まさしくヴァーチャルなものだとも言いうる。つまり(B)は、(A)とは逆に、サイバー・スペースはヴァーチャリティを喪失させてしまうと批判しているとも言いうるのである。(やや)比喩的に言うなら、サイバー・スペース上の知覚は所詮「絵」であって、それは象徴性というリアルな美を創出できないということであろう。確か『うらしまたろう』の歌詞(ただし改訂版?)に「絵にも描けない美しさ」という一節があった。しかし他方、その「美しさ」は「龍宮城」のものである。ということは、日常世界を基準とするなら、その「美」はやはり<ヴァーチャル>なのである。
 しかし、「サイバー・宗教」ということも語られている。「サイバー・スペース」を用いることによって、より容易に神秘体験をさせることができるとも考えられる(西垣通 1995 参照)。そうであるなら、「象徴性がない」というサイバー・スペース批判は間違っているのか。安手のものしか知らないからそうした批判がなされるのか。あるいは、「象徴性」というのは、そうした神秘的なものとは――一見似ているが――別のものであるのか(我々は別物だと考えている)。そうであるなら、では、「象徴性」とは何か。それを求めるからサイバー・スペースが批判されることになる、その象徴性志向とはいかなる在り方か。


五 象徴(一)――ボードリヤールの場合――

 サイバー・スペースは消費社会の典型形態だとされている。ここで再びボードリヤールの消費社会論と関連づけるとして、この「消費」について彼はこう述べている。「消費はそれがひとつの意味を持つ限りにおいては、記号の体系的操作の活動である。/伝統的な、象徴としての物(道具・家具・家そのもの)……、こういうものは消費されない。消費される物になるためには、物は記号にならなくてはならない。」(1968:246)
 彼は同時に『記号の経済学批判』で、定義的に「消費」を厳密に以下のように規定している。「記号と差異の論理である消費の論理と、ふつう自明さの力によってごっちゃにされている他のいくつかの論理とを区別しなくてはならない……。四つの論理が吟味されよう。/一、使用価値の機能的論理/二、交換価値の経済的論理/三、象徴価値の論理/四、価値/記号の論理/ 第一の論理は、実用的操作の論理である。/ 第二の論理は、等価の論理である。第三の論理は、両義性の論理である。第四の論理は、差異の論理である。/ あるいはこうも言えよう――効用の論理、市場の論理、贈与の論理、〔社会的〕地位の論理。物がいずれかの論理にしたがって秩序づけられるに応じて、物はそれぞれ、道具商品象徴記号の身分をうる。/最後の論理だけが消費の独自な領域を定義する。」「真の消費物が存在する条件は、つぎの諸規定から切り離された場合に限る。/――象徴としての心理的諸規定/――道具としての機能の諸規定/――生産物としての商品的諸規定。/したがって、真の消費物は、記号として解放され流行の形式論理、すなわち差異化の論理によってとりこまれる。」(1972:59,61f.)
 「物」は様々な側面をもっている。第一に、何かのために有用なものとして使用される物、第二に、他の物との交換に使われることができる物、第三に、他人との関係、あるいは人々の関係においていわばその関係性を表わす物、そして第四に、「無媒介にそれ自体になって」(57)いるものとしての物である。「物」が「記号」となるというのは、この第四の在り方を採るということである。第一から第三においては「物」はそれ以外の事態との関係をもっているが、第四においてはその関係が欠如している。関係が在るとすれば、それは他の「物」との「差異」の内にしかない。ボードリヤールが言い、そしてボードリヤールに即して論者達が現代がそうなっていると言う場合の「消費」とは、この「物」そのもの=「記号」としての「物」の消費のことである。それは、いわば勝義のものであって、例えば若い女性がP・カルダンの(高級)ワンピースを購入するとして、1)例えば御見合いに備えるためでも、2)財産としてとっておくためでも、3)自分の富を消費し、それを見せつけるためでもなくて、4)それが普段購入している(例えば)スーパーの規格品ではなくて、それと違っているというその理由だけから購入する場合のものである。*

* この第四は実は、他人との差異(他人とは違う商品をもつことによる差異)に生きるということと、いわば自分の世界内部でそれを商品の差異の戯れで満たすということとに(さらに)区別可能である。この場合、ボードリヤール(自身)における「〔社会的〕地位の論理」という(あるいは――これは以下とも関連するが――:としての)「第四の論理」はこの前者にしか当てはまらないであろう。ボードリヤールの消費社会論からもすでに時代が変化したということであるが、この二つは社会論としては区別すべきであろう。

 したがってまず、ボードリヤールを援用して(サイバー・スペースが代表している)現代世界を批判するとして、物質主義であるとか実利主義であるとかいう批判は、当たっていないと言わなければならない。こうした批判(例えば、仲田誠 1997:150 etc.)は近代(あるいは、1970年代位までのいわば古典的現代)に対しては当てはまるかもしれないが、その延長上で現代=サイバー・スペースを批判するのは的外れである。ボードリヤール自身も例えば、「消費の対象が物質的な物・生産物ではないことをはっきり言っておかなくてはならない」(1968:245)と明言している。主張(B)がサイバー・スペース批判として退けているのは「記号」性である。佐伯啓思は、「大衆消費社会では、人々は、モノによってしかセルフ・アイデンティティを確認できない」(1993:160)と、物質主義批判へとミスリードしがちに語りながら(も)、直ちに、「今日のモノの象徴的魅力ははるかに弱くなっている」(1993:163)として、消費の記号性の批判を通して、現代消費社会における象徴性の弱体化を批判する。
 そうであるとして次に、問題なのは、そうした批判が「象徴」を志向しているとして、その「象徴」と「記号」との関係である。これは果たして、四つのうちの二つのものとして同一次元に存立している事態であるだけなのであろうか。そうであるなら、「記号」性を批判して「象徴」性の復権を説くという在り方も端的に出て来うる。しかしながら、前掲書147頁から始まる「一般理論のために」というタイトルの章においてボードリヤールは自分の議論の転回を行なっているように思う。そしてそのなかで、「象徴」を別様に規定してもいるように思える。ボードリヤールはこの章の冒頭で、先に紹介した四つの「論理」を再度挙げた後、それぞれの領域が他の三つの領域へと「移行」(149)するという局面に定位して、それぞれの「論理」領域内おける三様態とでもいったものを展開する。「使用価値」については、第一として「生産的消費」、第二として「《非生産的な》消費」が挙げられた後、第三として((ニーチェ−)バタイユ的な)「消尽(consumation)」が挙げられている(149)。そして(「価値/記号の差異的論理の)「交換/記号の価値」(領域)の第一として、「記号が支持している社会的ヒエラルヒー、身分を示す差異、カースト・文化の特権は、恩恵、個人の満足として評価され、《需要》……として体験される。」、第二として、「記号の文化的特権・独占などを、経済的特権に再転換させること。」、といったことが語られる(150f.)。
 ここからみるなら、先の第四領域の事柄はむしろ普通言われる意味での「象徴」である。その第一などはヴェブレンの「衒示的消費」――言うまでもなくこれは、物にその象徴的意味として備わっているものの消費である――を含むものである。これに対してここでは「象徴」は、それ自身一つの「領域」であるというよりは、ネガティヴなかたちで、他の三「論理」領域におけるそれぞれの第三として、すべて――例えば「消尽」がそうであるように――「違反」(151)であると語られる。
 この展開の試行を経てボードリヤールは、結局「この考え方はだめになり、一般的な再構造化に到達する」(154)として、その「再構造化」として三つの「領域」を再提示する。簡潔にするために多少我々の読み込みを用いるが、その第一は((いわば古典的)「政治経済学」にとっての社会としての)「経済」、第二は(「記号の政治経済学」にとっての社会としての)「文化」、そして第三が、(ボードリヤール自身から見た社会としての)「象徴」である。この場合「象徴」は、上の四つのもののなかの一つとしての「象徴」と同じものではない。というか、後者がまだ通常の意味での「象徴」――「古物《嗜好》」について例えば「過去を象徴する記号[としての古物]」(23)と言われる場合がそうである――を引きずっていたとして、それから完全に純化されたものである。通常の意味でのものが「古典的な記号=言語学的意味での」象徴であるとして、「私はむしろいつも象徴……を、記号・意味作用の概念に対立し、それらに徹底的に代わるものとして使いたい」(207)とも述べられている。
 ボードリヤールはまた、この「一般人類学の方向指示盤として役立つような、すべての価値の転倒の一般的見取図」(147)と「記号」(現象)とを対応させている。ソシュール的に言って「記号」(シーニュ)とは、「意味スルモノ」(シニフィアン)と「意味サレルモノ」(シニフィエ)と――両者はそれぞれ「コード」の体系をなしている――から成る「言語本質体」である。経済は「意味サレルモノ」に、文化は「意味スルモノ」に対応する。そして、これは『象徴交換と死』において明瞭になるのであるが、「象徴」は、いわば-コード的記号現象(「〔言語の〕詩的働き」(1992:450))に相当する。(であるから、ボードリヤールはソシュールの「アナグラム」論を肯定的に検討することにもなるのである。)シニフィアン、シニフィエがそれぞれコード体系(というイデオロギー性*)をもっているとして、「象徴」とは、このコード性から自由になっていることなのである。

* 「イデオロギーは、内容とではなく、形式と結び付いている。それはコードの情念である。」(200)

 マルクスから見れば、「文化」の体系は(「上部構造」として)「イデオロギー」の体系である。そして、ボードリヤールは、これを受け入れつつ、それに加えて、上の「経済」の体系をもイデオロギーであるとする。上の「一般的見取図」で言えば、マルクスがすでに「交換価値のフェティシズム」を指摘しているが、ボードリヤールはそれに加えて「使用価値のフェティシズム」をも語る(157)。「使用価値は、有用性の形而上学というひとつの形而上学すべての表現である。使用価値は、一種の道徳律として物の中心にある。そして使用価値は……主体の心のなかに存在している(カント的・キリスト教的な)同じ道徳律を物のなかに移しかえたものである」(164)と語られる。先に我々が挙げた例で言うなら、御見合い用に着るのであればP・カルダンが「使用価値」として使われていることになる、と言えば、そのイデオロギー性が明らかであろう。これを記号論として見れば、「使用価値のフェティシズム」に相当するのは、「意味サレルモノ」を「実在」と考えるもの(素朴実在論)である。ボードリヤールは、「意味サレルモノ」も――ソシュールにおいてもそうであるように――一つの「観念」である(そういう意味では「シミュラークル」である)とする。しかし根底的には実は――「指示対象」が存在しないというのではなく――「記号」現象の外に「指示対象」が在るというのではなく、個々の(非-コード的)状況においていわば<記号=事物>が存在するのであって、(「記号の恣意性」という)理論を前提の上で記号の外部の「指示対象」というものを考えるなら、それは――「自然的必要」というものに対応する――一つの「神話」となると考えるのである。ここから見るなら素朴実在論とは、徹底的にコード的(システム的)に――イデオロギーとして――規定された「意味サレルモノ」(という事態の、いわば代償化的なかたち(「アリバイ」(198)))の聖化(自然化)なのである。(先に検討した主張(A)はこの系統のイデオロギー的なものであると批判することもできる。)*

* M.ポスターは、フェミニズムによる近代男根主義批判と重ねながら、「マルクス主義」のうちに――「指示性に依拠するマルクス主義」(1990:102)だとして――同じ傾向の存在を指摘している。「矛盾したことだが、マルクス主義の言説はブルジョア的主観性へのノスタルジーと結びついているのだ。たとえば、リアーズとフォックスは、プロテスタント的禁欲主義から「自己の充足と直接的満足」への欲望として枠づけられる消費文化への移行の源泉を、「進歩の時代」のブルジョアジーの内に見ている。マルクス主義的な立場からすれば、こうした変化は単に支配階級のイデオロギーの再編成にすぎないし、またリアーズのグラムシ流の言い方でいえば、「資本主義の文化的ヘゲモニー」の交替にすぎないことになる。/しかしこうした変化をリアーズは、衰退であるかのように説明する。新しい消費文化においては、「言語の濫用」による「意味の崩壊」があるというのである。広告は言語破壊を生み出す。「広告によって作りだされる文化の中には、(伝統的な諸文化におけるような)特定の文化の慣習に根ざしたシンボルも乏しければ、(ヴィクトリア朝文化におけるような)特定の指示対象をもつ記号が豊富にあるわけでもない」。しかし、なぜこれが「濫用」なのか? ……どうもそこで脅かされているものは、かつてのブルジョア的文化と、その自律的で、犠牲的な、安定した男性的エゴらしいのだ。/リアーズの説明は、新しい支配的精神を攻撃するために古いブルジョアジーの立場をとる点で、多くのマルクス主義的な文化批判の典型となっている。……この種のマルクス主義にとって、現状の分析は……初期資本主義の時代が去ったことへの嘆きとなってしまう。……批判者は広告言語とブルジョア的指示性という二つの巨岩の間の大渦にとらわれてしまい、前者を糾弾しようとすれば必然的に後者の立場に立たねばならなくなるのである。」(1990:99ff.)

 すなわちボードリヤールにおいては、(いわば真の「象徴」は「記号」と対立するのではなく、)「道具」「商品」「記号」の各「論理」において(それぞれ)「[真の]象徴」が存在するのである。したがって、「記号」に対して「象徴」を対置するということは、それが真の「象徴」であるのなら、実は在りえないことである。ボードリヤールにおいては、「記号」は通常の意味での「象徴」をもその一下位形態として取りうるのであって、彼は、そうしたものとしての「記号」優位の現代社会の現実において真の「象徴」を貫徹しようとするのである。
 イデオロギーとは換言すれば「制度」(204)であるが、この「制度」において展開される「意味スルモノと意味サレルモノの形式的な相関関係を破壊し続けているのは、この象徴的なものである」(205)と語られている。しかしながら、この「破壊」は、「記号」(性)が優勢な現代においては、シミュラークルを単純に廃することではなくて――そうすることは、結果として実在の幻想のなかに落ち込むだけである――、むしろシミュラークルに留まることによってしか可能でないのである。『消費社会の神話と構造』39,47では、他所を参考にして補足するなら次のようにも語られていると言っていい。「われわれの「豊かな社会」の浪費」は……いわゆる「貧しい」社会が祭りや供儀の際に行なってきた破滅的ぜいたく……とはまったく別のものである。」後者が「財の破壊が集団的象徴的価値の源泉となるような浪費」としていわば本来の象徴を実現するとして、それを持たないという意味で「無」である。しかし「象徴」性の実現は、その無を両イデオロギーによっていわば有化することではなく、まさしく徹底して無化することでしか可能でない。つまり、無意味に浪費することである。
 それは、「差異」を追うことそのものではない。「差異」は(やはり)一つの(「物象化」された(207))「意味」である。そうではなく、徹底して「差異」を追うことによって、その「差異」自身を無意味化することである。しかしそれは、かつてのアルカイックな社会における浪費にわずかに繋がる「消尽」であると考えられているのかもしれないが、そうであるとしても徹底してネガティヴなものである。


六 象徴(二)――通常の場合――

 ボードリヤールの場合はそうであるとして、サイバー・スペース批判派が説いている「コノテーション」としての「意味」、通常の用法での「象徴」とはいかなるものであるのか。この批判派の良質の部分においては、そうでない部分が「象徴」をまさしく実体であると見るのに対して、「象徴」はまさしくヴァーチャルなものであると――政治の場面では、国家の歴史は「フィクション」であると――押えられている*。佐伯啓思がエリクソン(特に 1961 参照)に依拠して『隠された思考』で説いている言い方では、「象徴」は決して「事実的(factual)なもの」ではない。そうではなくて、その「事実的」なものに「実動的(actual)なもの」が「結合」されている事態である(34)。宗教的に言えば、事物が聖化されているということである。そして、この「実動的なもの」がわれわれを生き生きと動かすものとしていわば奥深い意味なのである。

* 例えば西部邁 1996:282:「歴史とは国民が自分らの過去について物語ろうとするところに生れる「仮想の現実」のことなのである。」

 しかしそれは、具体的にはいかなるものか。我々のテーマをまさしく直截に論じている『「シミュレーション社会」の神話』で佐伯は、やや安易にではあろうが、小津安二郎の映画から「古びた薄茶色の木目のたんすとちゃぶ台」を、「死者たちを含めた家族の歴史を象徴する」として例示している(7)。そして、時代の進行に伴って、「たんす・ちゃぶ台」が「機能的な家具」(モダニズム[むしろ近代主義]*)や、かつての家族の団欒の記憶の残像を伴う「広いダイニングキッチンや大きなテーブル」へ、さらに現在においては「暗い湾岸のこちら側に夜景が見渡せる高層マンションの一室。白い壁面に囲まれたむしろ殺風景な空間にビデオディスク、パーソナルコンピュータ、ファクシミリ、ハイヴィジョン映像受像機が並び、家族は皆バラバラに、独房のような狭い空間で、パソコンの前にすわっている」風景(ポストモダニズム)へと変貌してしまった(8)、と描出しつつ、「もはや何ものをも指し示さないし、何ものをも象徴しない」としてその「高層マンションの一室」内の家具を批判する(9)。そして、そうした生活を、ボードリヤールのタームで「シミュレーション」とも呼んでいる(10)。

* 欧語では同じであるが、日本語で「近代主義」と(カタカナで)「モダニズム」と言った場合、少なくとも我々の用語法では両者は別物である。(もちろん欧米においても「概念」としては二つの異なったものが存在する。)因みに言えば、サイバー・スペースはいわばハードとしては(科学技術を原理とする)近代主義のものであり、ソフトとしてはモダニズム(後述参照)のものである。

 だが、佐伯が「象徴」として挙げる「たんす・ちゃぶ台」を現在において求めることは、ボードリヤールにとっては、文化の体系の「イデオロギー」によって規定された「ノスタルジー」に過ぎない(1981:58)。そうした「古い物」はいまや「にせ物」である(1968:90)のである。あるいは、若者が「レトロ」感覚で古い物を――いわば「にせ物」であるかどうかを問題とせずに――求めるときは、それとは異なるが、その場合それはまさしく「シミュラークル」であろう(cf.1981:11)。
 こう言うなら佐伯は恐らく次のように反論するだろう。現代は「象徴」が喪失した時代である。それはボードリヤールも説いているところである。自分は、これに対して「象徴性」の再興を説いているのだ、と。なるほどボードリヤールも現代を「象徴」の喪失態として捉えている。しかしその場合の「象徴」は、我々が前章で確認したように<真の象徴>である。しかるに、佐伯が問題としている「象徴」は――それとは異なったものとしての――通常の意味での「象徴」である。これは、上に見た彼が挙げているものからも明らかである。そして、そういう「象徴」であるなら、(広告を通した)商品イメージが溢れかえる現代はむしろそれに満ちていると言いうる。「モノに対する消費者の関係が変化してしまった。消費者はもはや特殊な有用性ゆえにあるモノと関わるのではなく、全体としての意味ゆえにモノのセットとかかわることになる。洗濯機、冷蔵庫、食器洗い機等は、道具としてのそれぞれの意味とは別の意味をもっている」とボードリヤールは説いているが(1970:14)、この「別の意味」とは我々がここで言う「象徴」以外のなにものでもない。ボードリヤールは実際、「現代社会のますます多くの基本的な面が、意味作用の論理や記号と象徴的体系の分析の領分に属するようになっている」(1970:23)と述べている。佐伯も、「この議論がまちがっているわけではない」として、80年代の「消費の記号論」の説くところを「車の性能がどれも一定のレベルに達してしまった八○年代には、人が車に求めるものは機能的な優秀さというより、それが象徴する「何か」だというわけである」として要約している(1993:164f.)。つまり佐伯は(も)、現代が端的な象徴欠如態であるとは見ていないのであって、そうであるなら、現代にはそれが無いとして過去のうちに求められる「象徴」とは、――「象徴」そのものではなくて――論理必然的に特定の「象徴」であることになる。そうした「象徴」を求めるのであれば、そこにはやはり、<慣れ親しんだもの>に(限って)「象徴」を感じるという「保守性」が働いているのではなかろうか。
 しかしまた、佐伯からすれば、現代の象徴はいわば浅いものでしかない。求めるべきは深い象徴であるということなのであろう。(但し、佐伯自身は、「商品の「象徴作用」は、現代では、かつてなく衰弱している」(1993:166)として、現代における「象徴の衰弱」を語っている。これは、消費の個人主義化を念頭に置いて、その個人性をもって「衰弱」だとしているのだが、我々は例えばP・カルダンを若い女の子達が買い漁るのはまさしく大衆化現象であって、到底個人主義的だとはみなせない。あるいは、個人主義化を事実として認めるとしても、共同的象徴に比べてその個人的象徴が個人性のゆえに象徴性そのものの衰弱であるとは言うことはできないはずである。佐伯のここのところには論の飛躍が在るのであるが、それを我々は「深い象徴性」の喪失の指摘として理解し(てあげ)たのである。)しかしながら、いずれにしても、(深い)象徴の消失として現実を認識する限りでは、氏の主張は、ヴェブレン的(衒示的消費の)象徴性をもった近代はよかったということにもなり、いわば昔の方がいいというアナクロニズムでしかない。(氏はさすがに、こうした論理破綻とも言うべき事態を巧妙に回避してもいる。氏は1993年の著書の結論部分で、ボードリヤールの現実認識を受け入れつつ、いわばそこに隙間を挿入する。つまり現実のすべてが記号支配の下に在るのではなく、「文化」というそれを逃れた領域が在るとする。そして、ここにおいて、記号性を逃れた象徴性の活動領域が存在すると説く。しかしそれは、経済――現在においてはそれは記号性に覆われている――の領域と文化の領域が切り離せるということを前提とすることになる。それはそれとしてまた別の問題性を持ち込むことになるであろう。)
 サイバー・スペース批判は、それに<昔の良き時代>が対置されているのであるなら、一つの感受性の鈍さの表現でしかないと言いうる。これに対して、鋭い感受性のシュルレアリスムは、もはや惰性的な意味(象徴)しかない空間を、そのなかの物の配置換えによって打破しようとしたのであり、現在においてもモダニスト達はその試みを続けているのである。ここをボードリヤールは、そうした試みももはや記号の戯れとなるしかない、あるいはその不徹底において文化に回収されるしかない、唯一可能なのは戯れの徹底化だけだとするのであるが、我々はこの現代世界診断については評価を保留したい。しかし、鋭い感受性の者がもはやノスタルジーにはニヒリズムを対置するだけしかないと感じるのは、十分理解できるところである。
 ただし、公平を期すために次のようには付言しなければならないであろう。ボードリヤールの先程の引用文においても示されているように、本来の象徴は「集団的」なものとして集団結合的に機能する。佐伯は、この集団の結合性の維持のために、むしろ――逆説的に鋭い感受性をもって――感受性を鈍くすることを求めているのかもしれない。そこにおいて与えられるのはボーリヤールが指摘するようにもはや「にせ物」にすぎないとしても、集団結合性の維持のために伝統主義的に一定の古きものを規範として措定するのかもしれない。しかしながら我々は、集団結合性にとってもはや象徴は不必要であると見ている。この点は別稿(2001)を参照して頂きたい。
 しかしながら、いずれにしても、(B)系列のサイバー・スペース批判もつまるところは保守性が真意なのである。ただし、(A)系列において出てくる保守性とは微妙に異なるかもしれない。それは、むしろ通常の政治的な意味、但し文化-政治的な意味での保守性である可能性もある* 。象徴性志向(厳密には(奥)深い象徴への志向)を持つ者は、現在がその志向を満たさないと感じるとき、別の時代を同時に志向することになる。原理的にはそれは、象徴性志向を満たすものであれば(現在以外の)どの時代であってもいいはずである。だから、逆に革新的に象徴に溢れた未来を志向することも、あるいは、現在の変革といういわば過程性に象徴性志向を充足させることも在りうる。しかし、そこで当人が自然的保守性をもつ場合には**、それは慣れ親しんだ(少し前の)過去への志向となる。それは、その過去に象徴性が在ったとしてのことであるが、現代からみて少し前の過去の近代にはそれが在ったと言いうる。あるいは、近代がそういう象徴をもっていたと仮構されることによってそれが志向されていると言った方がいいかもしれない。そのようにして現在への批判を含んで文化-政治的な保守主義が出てくるのでもある。あるいはまた、象徴性は実はどの時代にも在るのであって、ただそれが時代に応じて変化していて、そこに<慣れ親しんだ>象徴性の方がいいとして、<慣れていないもの>を非-象徴的なものとして現在を批判しつつ、(少し前の)過去を志向しているだけかもしれない。この場合は、端的な知覚的保守主義である(政治的保守主義はその外皮にすぎない)。いずれにしても、例えば佐伯に見られるように、象徴性志向は多くはこの自然的保守性を併せ持ったものである。というかもう少し積極的に、多くの者において、その象徴性志向がいわば自然的保守性の発動に加重を与えているのである。その分、(象徴性がないと見られる)サイバー・スペースへの批判はラディカルになるのである。
 
* 上記注でのセシルのタームで言うなら「保守党の教義」に当たるものである。

** そうでない場合には、(奥深い)象徴志向と、反-象徴志向とがそのものとして対立していることになる。これは、美学的次元で言えば、歴史主義とモダニズムとの対立である。これは(知覚的)保守と革新との対立とは(一応)別次元の対立である。七・八章はこの対立を軸として論じたものでもあるが、我々は本稿全体では、――歴史主義と保守、モダニズムと革新、にはそれぞれ親和性があるとみて――保守・革新の対立軸を主軸として論じている。


七 情報資本主義

 そうして出てくる批判は、現代には「(深い)象徴」が欠けているというものである。しかし「象徴」は必ずしも不可欠のものではない。ここに、むしろ「(深い)象徴」からの解放において、自由な欲求追求・充足を与えてくれるものとして現代を、したがって「サイバー・スペース」を肯定する立場も出てくることになる。情報社会を、多様なイメージ消費――決して単なるモノの消費ではない――を与えてくれるものとして評価する者もいるのである。その代表格として――先行者として(佐伯が批判対象としている)山崎正和を挙げてもいいが――見田宗介の名前を挙げておく。
 彼は、現在の情報資本主義を資本主義の「純粋」形態であるとみなす(1996:31)。それは、かつての(産業)資本主義が――自然性の「神話」のもとで――「欲望」を所与のものとしていわば自らのシステムの外部に置かざるを得なかったのに対して、それを内部化しているからである。欲望はいまや資本の論理のままに動くのである。これはまさしくボードリヤールがそう認識したところである。
 ところが見田は、ここでボードリヤールが現実批判的になるのに対してそれを原則肯定する。まず社会科学的に、1)「商品」を購入してくれる「欲望」を求めて資本はもはや植民地市場拡大(という絶対的に限界の在る)運動を必然としなくなる、帝国主義(独占資本主義)の段階を終えて資本はいわば平和的なものになる、2)「欲望」がモノ自体からイメージへと方向を変えることによって、モノ=資源の消費も不可避ではなくなり、資源(さらには環境)問題という、これも資本システムにとって外部的な制約から脱出することができる、ということが指摘されている。
 そして次にこう説かれる。現代は多様な「欲望」に満足が与えられる時代であるが、それはまさに資本が各主体のうちに喚起したものであるがゆえに、原則的には必ず充足される。そして充足はなんであれ幸福の実現である。「大衆が消費することは、それが資本の増殖過程の一環をなすからといって、それが大衆自身のよろこびであることに変わりはない。……<システムの環としての幸福>というものが、そうであるからという理由だけで批判される根拠はないことをみてきた。それは<幸福の環としてのシステム>として、反転してとらえかえしておくこともできるものだからである。」(37f.)と説かれる。
 しかし見田は、こう原則的におさえながら、そこに従来の資本主義にはない「問題系」として、まさしく我々が議論してきた事態を指摘する。情報資本主義では主体が古典的な意味ではもはや自律的なものでなくなるわけであるが、ここから次のように説かれている。「この自己準拠するシステムの相関項として形成される主体の形式――脱根拠化された欲望の無限性とその相互の関係という経験が、われわれの生の世界の経験の現実性にどういう帰結を生み出すか、人間たちのリアリティとアイデンティティの変容をめぐる問題系である。」(40) 我々の理解するところでは、見田はこの問題を受け止めながら、しかし楽観的に、現在のいわば悪しき側面だけを取り去った豊かな「幸福」社会が実現できるというかたちで締めくくっている(cf.171)。
 したがってまた、我々が問題としている「サイバー・スペース」に対しても基本的に肯定的評価を展開することになるのだが、このような議論は実は多く見られるところである。たまたま手元に在るものを挙げるなら例えば、牧本/マナーズ『デジタル遊牧民――サイバーエイジのライフスタイル』がそうである。この書のタイトルが暗示しているように、思想的レヴェルでここでドゥルーズ/ガタリ* の名を出すこともできるであろう。

* 象徴性からの解放という側面から見るとして、ドゥルーズは例えばこう述べている。「形象化(すなわち図解的なものであると同時に物語的であるもの)の作用を乗り越える……」(1984:46)


八 サイバー・スペースは何を提供するか――「主体性」との関連で「象徴」を再論する――

 しかし我々は、もう少し慎重に、主体とリアリティの問題を(原則的に)検討した上でないとこういうことは言えない、と述べてきたつもりである。ここで見田に加担して補完的に若干の再説を行なっておきたい。
 ポイントは古典的な意味での自律性(これは「主体性」といっても構わない)である。例えば佐伯は――これは実は近代主義的なのだが――この古典的自律性に拘る。しかしそれがどういものであるのかはすでに暗黙には述べたつもりである。明示化するならそれは、「観念」――佐伯はそれを「理想」と言うであろう(1985:33;1989:162,178)*――によって(自己を)律しているという状態である。しかし我々はここで、「律している」は実は「律せられている」であるといったことを言いたいのではなく――ボードリヤールなら「イデオロギー」ということを言うであろうが――、その「律」の準拠が「観念」に在ることを問題としている。そして「リアリティ」の問題と関連づけるなら、この「観念」が「事実」に――実動的に作用する――「深い意味」(つまり(深い)象徴)を仮構させるのである。

* 但し、「観念」という語も用いている。そして同時にそれとの関係で「[象徴性をもった]リアリティ」をも規定している。「結局われわれは、この社会を組み立てているいくつかの基本的な観念、その象徴的に安定した組み合わせという、この社会の深層を形づくるものに再び戻ってこざるを得ないのである。/リアリティとは、煎じつめると、それらの観念のある種の組み合わせの中にある。」(1988:240)
 (西部−)佐伯の論はオルテガ(特に『個人と社会』)に依拠しているが、そのオルテガの<「観念」(「理念」)/「信念」>の区別を援用して、自分が言う「理想」「観念」は、オルテガの(「観念」ではなく)この「信念」であると厳密化するかもしれない。別個の検討がまた必要になるであろうが、ここでは簡単に以下のようにだけ述べておきたい。佐伯は、オルテガの言う「慣習」――それは「根本実在」(50)ではなく「第二の実在」(211)であるが、「もっとも強力な実在」(235)としてまさしく「社会的現実」である――に、またそれが――「奇妙な実在」(314)として――「幻想的動物」(304)としての人間に固有の活動性の所産(つまり「幻想」)であることに着目する、つまり、いわば「信念」によって規定された「現実」としての「慣習」の存在に着目するわけであるが、我々は、佐伯が言う「観念」はオルテガが言う「信念」とは実は同じでないとみている。それはむしろ、オルテガが言う「観念」の方に近い。
 「慣習」についてオルテガは同時に、1)それは「石化した人間的なるもの」(261)である、2)「悪習」(=悪しき「慣習」)というものが在る、と語っているが、佐伯はこの二点を無視しているように思われる。(なるほど、)<観念/信念>の区別は時代の変化という事柄に即して、新時代においていわば単に新しいものとしてのみ登場してくる原理が単なる「観念」であるのに対して、伝統の内から出てくる原理が「信念」である、という――それ自身「保守主義」[我々の西部批判の別稿(1997a)での言い方で言うなら「理念的保守主義」]と言うことも可能である――かたちでも提示されるのであるが、(しかし、)その場合の伝統は――「伝えられる」ものの流れといった深い意味のものとして――、「慣習」一般よりは明らかに一段深層に位置するものだと理解される。「石化」というのは、この<流れ>がそれぞれの時代において固定化されたものが「慣習」であるからである、と解釈できる。オルテガに敢えて即して語るなら我々は、変化の時期においては、それまで、いわば伝統の基底の上で「信」を置かれていた「慣習」がまさしく「悪習」に堕してしまうのだ、と考える。誤解しないで欲しいが、「石化」=「悪習」化なのではない。「石化」は(「伝統」の)いわば<定着化>とも換言できるが、「悪習」というのは、その「石化」のなかの悪しき様態である。
 したがって、佐伯の言う「観念」――それがオルテガの<「伝統」を「慣習」へと固定化するもの>に当たるものだとして――そのもののうちに(しかし、その内容においてではなく、「現実」との関係の在り方において)いわば良きものと悪しきものとが在るのでなければならないが、佐伯では<悪しき「観念」>の占める位置が存在しない。そういうかたちで、第一に、もっぱら「観念」(そのもの)の喪失が批判されることによっていわば理論的に<悪しき「観念」>も含めて「観念」一般が説かれることになり、そして第二に、「観念」の不在態に対していわば反措定的に「観念」が語られることによって実質上<悪しき「観念」>が説かれている――保守主義は現実には大半がこのかたちのもの[上記別稿での言い方で言う「現実的保守主義」がこれに当たる]である――と我々はみている。
 「象徴性」というのは、この<悪しき「観念」>から出てくるものである。そもそも「観念」とは、その存在性において、「現実」の(知覚的)リアリティとは区別された別種のリアリティである。それが<良き慣習>である場合、「慣習」として「観念」がまさに「現実」そのものとなっている――オルテガにおいて、この場合の(佐伯自身が言う)「観念」が「信念」である――。これに対して、<悪しき慣習>である場合は、この区別が――人々の意識において――保持され続けている。そして、にもかかわらず、まさしく「慣習」というかたちで「観念」が「現実」にいわば重ねられている。「象徴性」とは、この区別―重ね合せの事態において出てくるリアリティである。まさしくこうした「象徴性」において<慣習>は<悪しき慣習>となるのである。そういう<悪しき慣習>の源泉として佐伯の言う「観念」はオルテガが言う場合の「観念」に等しいものとなるのである。(オルテガの言う、同時に佐伯のも実はそれと同じである「観念」とはしたがって、「現実」とは別種の存在である。我々の理解ではこれは近代固有の存在性であるのだが、これはそれ自身としてはポジティヴにも了解できる。唐突であるが、キルケゴールが言う「理念」はそうしたものであって、彼は意識的に「現実」に対して、それを否定して「理念」の存在性にのみ信を置いたのである。政治哲学的に我々は、保守主義と区別されるべきものとして(しかし理念(型)的に)「右翼」という範疇を設定しているが、その「右翼」――例えば三島由紀夫――もまた、「観念」にのみ生きるという在り方である。これに対して佐伯もそうである「保守主義」は、「観念」性が「現実」となっている存在性を求めるものである。)
 いわば現在の社会学(的メディア論)の標準的見解であると言えるが、吉見俊哉も、現代を「理想」から「イメージ」へと移行した時代であるとして次のように(純記述的に)述べている。「理想とは、伝統や歴史や神によって与えられるものであり、われわれが積極的にそれに向かって努力する目標である。それに対してイメージは、自由に合成したり製造したりでき、人びとを逆に自己実現に意味づけていく。」(1994:173)

 「観念」はまた、「現実」と重ね合せられる限りで、「文化」と言い換えてもいいが――そうすると次の見田の発言と絡んでくる。「消費社会の運動の自由を保証する欲望の離陸ということは、誤解されるように、「自然の必要」からの文化の離陸ということではない。自然の必要からの文化の欲望の離陸ということならば、どのような共同体の伝統としての文化の様式も、すでに自然の「必要」を離陸する過剰な欲望を回路づけていた。現代の消費社会のダイナミズムを保証する<欲望のデカルト空間>は、欲望が自然から自由であるだけでなく、欲望が《文化からも》自由であることをとおして実現する。もちろん文化から自由な欲望は、再び文化の手の中におちこむのだし、その運動を支配する力も文化なのだけれども。要点は、「自然」であれ「文化」であれ、欲望を《限定》し《固定化》する力からの自由ということである。」(28)――、ここで「観念」と言ったのは、「文化」のうちのいわば知覚的根拠をもたないものに限って問題視するためである。
 食(感覚)を例として説明するが、例えば寿司が旨いか不味いかは「文化」によって大きく規定されるところであろう。我々もこの(文化)規定性は「幸福」の要件として捨象しない。しかし、食通の人などには「俺は江戸前のものしか食わネェ」という者もいる。この場合は話は別である。今食べているネタが「江戸前のもの」であるか否かは感覚できないものであるからである。(もちろん、微妙な味覚を持っている人も居て、その人は食べただけでどこの産のものか分かるかもしれない。今は、こうした特殊ケースは捨象している。したがって、板前に「これは江戸前です」と言ってもらって初めて「ああそうか」と分かる人だけを念頭に置いている)。それでも、「これは江戸前です」と言ってもらえれば突然旨く感じられ(始め)るということは在るであろう。(また、微妙な味覚をもつ人にとっても、「東京湾産」と言われながら食べるときと、「江戸前」と言われるときとでは、違って味わわれるかもしれない。)そしてこれは、魚の質として江戸前(=東京湾産)のものが特別優れたものでなくても生じるものである。この「江戸前」が我々が言う「観念」であり、「江戸前だ」と言ってもらって突然旨く感じられる(感じられるからリアリティなのだが)リアリティが「象徴」のことである。したがって逆から見て、「江戸前だ」という「観念」を喚起させられるかたちで――例えば創業何年といったような看板がかかっている寿司屋で出されるというかたちで――提示されているネタが象徴(物)なのである。因みに、こういったいわば身体性をもたないリアリティは近代固有のものである*。(B.アンダーソンを念頭において言うが、近代国民国家は――印刷メディアを介して――この観念定位的象徴を(その「国民」創出において)政治原理としたものである。彼が言う「想像の共同体」の「想像」性とは、換言すれば、我々がここで言う<身体性をもたない>――<身体性をもたない>ということは知覚されないということなのであって、であるから想像されるほかないということになるのである――ということである。)

* ベンサム論拙稿(1997c)は、このことを(準)主題的に論じたものである。

 こうした象徴的リアリティは、実は「大衆消費社会」のその消費のまさしく原理となっているとも言いうる。単なる「記号」としてモノが消費されているといっても、見田も挙げている(147)有名な例で言うなら、(モノとしてはそのまま新たにこのネーミングで売出された)「ココア・パフ」が爆発的に売れたのは、単にその商品そのもののゆえではなく、そこから喚起される(肯定的)イメージのゆえである。人々は、単にネーミングが目新しいから新商品を購入する――そういう場合も在るであろうが――のではなく、そのネーミングから喚起されるイメージを消費しているのである。そしてそれは、「江戸前」と聴いて――「東京湾産」と言われる場合とは違って――なんとなく旨く感じられるのと同様、そこになんとなく「快」が感じられる(、そういうかたちでリアリティが存在する)からなのである。しかし逆にそれは、あくまでネーミング――これが「観念」に相当する――を介してのものである。中身が変わったためのものではない。そういうものとして、その快のリアリティは「象徴」なのである。そうであるなら、「江戸前」と「ココア・パフ」はどう違うのか。やはり、「江戸前」は<慣れた>ものであるのに対して「ココア・パフ」は違う、というだけではないのか。再び知覚的保守主義が作用しているだけではなかろうか。
 ボードリヤールの主張に関する議論として厳密に了解していくなら、彼が言う「差異の論理」とは――それはまた記号性の論理とも言い換えうるのであるが――、或るモノ(商品)を、それが他のモノと異なっているというその理由だけで購入しようというものである。つまり、その場合、モノの意味は(他のモノに対する)差異性にのみ在るのである。であるがゆえに、「差異の論理」は(ソシュール的意味における)「記号」の論理となるのである。そうであるとして、差異を求めるということは、従来のモノとは異なるモノ、ということは新しいモノを求めるということになるのであって、佐伯はこの新しいモノへの志向を(こそ)――記号性(そのもの)ではなく――批判しているのである。したがって、そこに保守性が働いているのであるが、そこからするなら、モノがモノそのもの(記号)としてではなく、イメージをもったものとして求められていても、――常に新しいイメージを求めるものとして――当然批判の対象となるのである。
 そうであるとしてさて、議論はさらなる分節化を必要とする。「ココア・パフ」の場合は――いわば中間的であって――言い難いが、上のP・カルダンの場合は、そこに精確に区別すべき二つの事態が明瞭に存在する。「カルダン」が売れるのはその名前(商標)が喚起する(新しい)イメージのゆえでもあるが――だから、まったく同じ職人の手になるものであっても、「カルダン」だというcertificationが欠けているだけで、ニセモノだとして市場価値が下がるということにもなる。実際「横流し」でこうしたものが出回っていると聞いたことがある――、他方、その優れたデザイン(という知覚性)のゆえでもある。今、カルダンをその商標のゆえに消費されるという側面も在るとして、その現象をポスト・モダニズムと呼ぶとするなら、デザインの(知覚上の)質を求めるのはむしろモダニズムである。ここで原理となるのは――見田も情報資本主義評価においてそう明確にすべきだと考えるが――、あくまで知覚上のよさ(快)の自由な追求である。*

* モダニズムのこの志向は、「解放」と一体である。見田では「(自然および)文化からの」解放とされることになるのであるが、我々は厳密に(文化のうちの)「観念」からの解放と規定したのである。のバルトからの引用文はこの文脈からも読むことができる。その場合、文字通り「事物は一切の象徴から解放される」のところが焦点となる。この引用前後から拾うと、「ポップ・アートと「現代」の諸実験とを結ぶ最後の特徴は、再現されたものと再現との平板な合致である。……ポップ・アートが望むことは、対象を脱象徴化し、それに事実の持つ鈍いくすみ具合と頑固さとを与えることである(ジョン・ケージ、《対象は事実である。象徴ではない》)。」(146f.)というところが、ここではより適切な引用箇所となる。
 しかし実は、バルトのこの箇所は、(事実という)指示対象の消去をも同時に語っている。であるから、少し後では、「所記[シニフィエ]を、したがって、記号を廃絶しようとした」(148)とも語られることになる。つまり、指示対象(としての意味、あるいは表示内容)(=デノテーション)の消失と、象徴(=コノテーション)の消失の両方が一度に語られているのである。因みに、で引いた佐伯の「もはや何ものをも指し示さないし、何ものをも象徴しない」という発言も、二つのものの消失を同時に語っている。(しかしながら厳密には、「指示対象」(指示=表示的意味)と「象徴」(象徴的意味)との区別づけそのものから論じていかなければならないが、ここでは簡単にこう処理しておく。)

 我々は、少なくともモダニズムの原点においては「象徴」の消去が課題であったと見ている。その場合、フランス印象主義(絵画)が典型となる。それは、当時の主流派であるアカデミズム派(の特に「歴史画」)批判から出発した。そこでは、「物語」――つまり「観念」――に依拠した絵画が志向されていた――そこでは、絵のテーマである「物語」が知覚的にも重たいリアリティを与えていた――が、印象主義は「物語」の消去によってこれに挑戦したのである。しかし同時に、そこには豊かな知覚質(「イメージ」という言葉を使うなら、先の想像的イメージに対する知覚的イメージ)が在り、そこに幸福が知覚されている――象徴されているのではない――のもその通りであって、だから(見田が言うように)モダニズムは、何ものかの単なる「喪失」ではなく、(人間の幸福への)「解放」でもあるのである。
 「絵空事」「絵にもならない美しさ」に次いで三つ目のフレーズとして「絵のように美しい」を援用するなら、いわばプレ-モダニズム――これは、或る側面での近代の原理である――は、逆に美しさ(つまり「リアリティ」)を、「絵」を準拠点として、その「絵」のようであること(ピクチャレスク)として求めたのであり、そして((ボードレールや)印象主義に出発点をもつ)現代性(「モデルニテ」)は、そうしたいわば規格的な視覚の――実際人々は、「絵」が「額縁」のなかに収まっているとして、その「額縁」のような枠を通して風景を眺めたと言われている――、ということはつまり「観念」を介したということであるが、そうした規格の束縛から美(つまり「リアリティ」)を解放しようとしたのである。ここから見るなら、象徴性志向とは、「観念」に拘るものとして一種のフェティシズムである。
 サイバー・スペースが提供するのは、このモダニズムの延長上に在るあくまで知覚上の質である。それは、再度言うが「象徴性」を伴っているという質ではなく、正反対に逆に「象徴性」から解放された知覚質である。ということは逆に、「サイバー・スペース」は象徴性は与ええないのである。象徴性は「観念」を前提として、それを媒介にして出てくるリアリティであるのだが、サイバー・スペースはそのメカニズムをもたないからである。(もちろんサイバー・スペース内でイメージ喚起的なフレーズを人に提示したりすることはできるが、サイバー・スペース固有の原理によって、例えば神経系――厳密には刺激伝達神経系と言うべきかもしれない。記憶系は除外しているからである ――に直接刺激を与えることによっては、それは不可能である。)であるから、サイバー・スペースは浅薄なリアリティしか与ええないと批判されることになるのである。
 「記憶」を操作して、その内容を書き換えることができるなら、実は「象徴」性も人工的に実現できるのである(これは「洗脳」である)が、我々はサイバー・スペースを――その(ヴァーチャル性という)本質性において問題とするために――原理的にこれを排除するものとして想定している。「観念」(コトバ)が象徴喚起力をもつのは、その「観念」にまつわるコノテーションが知識として当人の記憶に貯蔵されているからである。だから、例えば「江戸前」と聴いて、そこから「江戸」に関する知識の記憶が作動して、それが食べている寿司ネタに旨さを加えるのである。したがって、厳密に言うなら、サイバー・スペースにおいてもその当人が日常世界で感じうるのと同じ象徴性であるなら、実現可能である。出来ないのは、日常感じられないような(内容の)「象徴性」の実現である。(もちろん、非常に長くサイバー・スペース内に居て、その内で脳が「学習」を積んでいく場合は、話はまた別である。)
 しかし、「記憶」についてはなお分節化しなければならない。我々が「観念」に付帯するコノテーションの記憶と言う場合、それは、「知識」に基づいて、そこからのイメージとして形成されているもの(に限って)である。それは、同じ記憶でも、自分の経験(つまり知覚)が記憶化されたものとは異なる。後者は、前者と異なっていわば「身体化」された記憶である。精確に言うなら、例えば子供のときに父親に(場合によっては、たった一度だけ)「これが江戸前だ」と教えてもらいながら寿司を食べたことがあって、それが大事なこととして記憶に残っている場合(「エピソード記憶」)は、話は別である。そういう場合には、たまたま同僚と入った寿司屋で「江戸前」という言葉を聴いて突然味が変わってきたとして、それは(我々が言う)「象徴」的リアリティのものではない。それはむしろ、知覚的レヴェルでのリアリティと限りなく同じ質のリアリティであろう。これに対しては、「象徴」的リアリティの方がむしろ浅薄だと言えよう。しかしながら、佐伯が求める「象徴」はあくまで共同的なものであって、そうした共同的記憶は後者のような個人的記憶の実質はほぼ本質的にもてないと考える。例えばプルーストの「コンブレー」で言うなら、当のプルーストが或る場所で例えば「ここからコンブレーまで10kmです」と聞いて、その場所のリアリティを感じる場合と違って、「象徴」的リアリティはプルースト読者――読者は多数居るから、そこには「共同的記憶」が在ると言っていい――がフランス旅行中に同じ場所で同じ言葉を聞いて感じるような、――そこで感極まったりはするかもしれないが――いわば(この文脈で言えば)<観光パンフ>的リアリティにすぎない。
 「エピソード記憶」は「日付の在る記憶」といったもののことではない。いま手元に在る山元大輔『脳と記憶の謎』を参照して言うなら、「知識に関する記憶」に対する「生活の記憶」のことである(31)。我々がここで言う「エピソード記憶」はまた、――この場合、果たして(山元のように)「生活の記憶」と言うのが妥当かどうか分からないが――自分の内部でいわば時間と共にそれ自身成長するものでもある。その成長において、実際とはズレを含むことになり、したがってその意味では「仮想的」とさえ言えるものであるのだが、まさしく人の身体性を構成するものとしてその人を支えるものである。だから、強い「リアリティ」をもっている。例えば「故郷の記憶」といったものもそうである。(以上、港千尋『記憶』44ff.参照)
 ここに言う「故郷」は自分の――したがって固有名をもった――「故郷」であって、いわば「故郷」一般ではない。これに対して唱歌『ふるさと』が歌うものなどはこの故郷一般である。* そして、そこからいかに強いイメージが浮んで来るとしても、それは「象徴」的なものである。(<観光パンフ>的リアリティのものである。)

* 厳密にみるなら、ここには難しい問題が在る。例えば、自分の生れ育った所が「盆地」であるとして、(例えば海辺を見たときと違って)別の盆地を見た場合、そこでもなにがしか故郷的なものを感じてしまうことが在りうる。これは、自分の文字通りの故郷を核として、それよりは広いものとしていわば<自分の故郷>という「図式」が成立しているためだ、と説明することができる。この「図式」に包摂されるとき、別の所であっても故郷だと感じられるのである。しかし、「故郷一般」はこれを越えたものである。の一番目の註で述べたこととも密接に関連してくるが、これは他方、純粋に「概念」に留まるものではない。純粋に「概念」に留まる場合も在りうる――したがって厳密には「これは他方、通常は」と言わなければならないが、例えば「ロマン派」(「日本浪曼派」をも含む)が「故郷」を語るとき、<通常>でないものとしてこれである場合が在る――が、確かに、例えば上の唱歌『ふるさと』を聴くときなんらかの感情が喚起されることが在り、そのように感情に作用する限りで、「概念」には留まらない。そういう意味で、或る種の「図式」であって、これに従って風景が、感情において、故郷(一般)/非-故郷(一般)に分類可能となる。しかしこれは、第一の「図式」とはあくまで別のものである。自分の生れた所とはまるで異なった所(例えば外国の或る風景)でも、例えば「なつかしい風景」と感じられてしまうことが在るが、ここにはあくまで<異>の(自分の生れた所とは異なるという)要素が在り、しかし、にもかかわらずそれが<同>として感受されるというメカニズムが働いている。これに対して「自分の故郷」の場合には、この<異>の要素が介在していない。(因みに「歴史(意識)」の問題として言うなら、我々は「歴史感覚」をまさしく、この、<異>を前提とした<同>の感覚として分析しているが、これについては、拙稿 1997b を参照して頂きたい。)

 「観念」そのものでなく、物が――いわば物に定着した「観念」として――「観念」の機能を果たすことも在る。物がコノテーションを伴っていて、その伴われたものが、その物の象徴的意味となる。佐伯が挙げる「ちゃぶ台」はまさしくこうしたものである。(但し、「江戸前」のように、この「ちゃぶ台」も人によっては「エピソード記憶」を伴い、したがってそのコノテーションが象徴的意味でない場合も在りうる。)
 因みに「神秘的なもの」は純知覚レヴェルのものである。いわば知覚(体制)の日常的水準を超えるものとして「神秘的なもの」が在るのである。これは、むしろサイバー・スペース内で(こそ)実現可能である。例えば宇宙空間(仮想)体験のことなどを考えてみて欲しい。また(少なくとも)バーク・カント的な意味での「崇高」も、この知覚水準に関わるものである。「象徴」はよくこの「崇高」と混同されることが在る。したがって、「象徴性」への志向が実は「崇高性」への志向である場合も在る。確かに、象徴的な「歴史画」などは崇高な観念を描出している。しかし、絵画の場合、観念に――したがって描く「テーマ」に――依拠することなく、絵画そのものにおいて崇高を示すことができる。いわば画面そのものが崇高でありうる。(P.ニューマンの絵画――これは抽象画である――などはその例であろう。)芸術とは――術として――それを可能にしているものであろう。そして、サイバー・スペースは――その自由な技術によって――こういう崇高なら(むしろ容易に)提示しえる。実空間、ということは実世界であるが、そこで崇高なものを提示するために巨大な記念碑を建設したりするが、場合によってはそれが「政治」に向かうこともある。* この(政治の崇高化――左翼的な形態も在りうるが、ファシズムがその典型である――という)危険性を考えた場合、仮に代償的なものだとしてもサイバー・スペース内での崇高体験で満足した方がいいであろう。(もっとも、サイバー・スペース内で「政治」が形成されることも在りうる。)

* ここでジジェク「政治的主体化とその運命」を想起している。例えば「シミュラークルの論理において見失われているものは、現実の一片を、僅かの間、超感覚的な<永遠性>に輝く何ものかへと変容させる、《この》「現われ」の次元[すなわち「崇高なもの」]である」(200)と語りつつ、彼は我々とは異なった方向へと議論しているが、これについての検討は現在では手に余る。

 「観念」は「知識」と言い換えることもできる。この「知識」という言葉では、むしろ逆に、情報社会は単なる知識の洪水を与えるだけであって、そこに感情が枯渇してしまうことになる、と批判されることも在る。しかし、その批判は実は捩れたものでもあって、批判者が他方で観念性を志向していて、その観念性志向のゆえになされるものである。(批判的な言い方で言うなら)フェティシズムが満たされないという批判なのである。確かに「情報=(単なる)知識」と言われる場合も在り、サイバー・スペースもそうした意味での情報提供空間でもあるのだが、しかしそれは、知覚拡大・変容空間という限りでの――それを本稿ではテーマとしている――サイバー・スペースの本質からは外れたものである。(いわば付加的機能である。)その本質においてはサイバー・スペースは、豊かな知覚を可能にするものなのである。語呂合わせにしかならぬかもしれないが、「情報」の「情」は文字通り「情け」である。サイバー・スペースは、この「情け」を拡大・変容する空間なのである。


九 原理論的考察の要請

 我々の議論はサイバー・スペースが<完璧>であるということを前提としていた。ここで言う<完璧>とは、人間の自然的経験と同じ経験を与えるということである。<同じ>というのはもちろん内容的にではない。そうであれば、およそサイバー・スペースは必要ないということになる。<同じ>というのはいわば経験の質(quality)として同じということである。だが、このような意味で<完璧>なサイバー・スペースは可能なのであろうか。
 この原理的問題の検討については、「人工知能」問題として論じられてきた議論に関わっていくことが参考になるかもしれない。そうだとしてしかし我々は、この問題がいわば人間から切り離された機械系の問題として論じられてきたことを超えて(あるいは変更して)いわば<機械+人間>系の問題として考え(直し)ていかなければならない。我々の観点からして、サイバー・スペース内において人が機械と対話することでなく、その機械の助けを借りて人が新しい経験ができるということが眼目であるからである。そこでは、(機械との対話ではなく、)人の側からの機械(系)の操作という能動性も含まれる。この、人による能動性の付加によって、一方ではあるいは問題が解決されるかもしれないが、他方では新たな問題をもたらすかもしれない。いずれにしても、この問題の解決には「哲学」が必要になるであろう。まさしく『人工知能になぜ哲学は必要か』というタイトルの著者達が言うように、「哲学におけるいくつかの主要な伝統的問題が、人工知能において現われるのであ」(9)って――テーマはサイバー・スペースに変わってもこれは同じであろうから――、ここで「哲学」* の関与が求められるところである。

* 近年の「思想」化した「哲学」がここで求められる「哲学」たりうるかということにはかなり疑問が在る。冒頭注にリンクさせるなら、そうした<思想化した哲学>は、(ボードリヤールが言う意味での)「記号」現象であるという印象も拭い難い。

 「哲学」同様、「倫理学」にも――単に「応用倫理学」だけにではなく、伝統的な「倫理学」にも――関与が要請されるところである。筆者の守備範囲からしてここは多少詳しく述べておきたいが、その際、最大の論点はR.ノージックが「あなたが望む(desire)どんな経験でも与えてくれるような、経験機械があると仮定しよう」として提起した「経験機械」の問題である(1974:67ff.)。しかし我々は実は、すでにノージックの議論を頭の隅には置いて論を展開してきたつもりである。したがってここでは、彼が問題として挙げたものに我々が(すでに)どう答ええているのかといういわば再検討のかたちで、もう少し議論を展開しておきたい。
 ノージックもその「経験機械」を彼の観点から<完璧>なものとして想定している。つまり、その「機械」――言うまでもなく、これは換言すればサイバー・スペースである――のなかで当人には当人が「望む」すべての「経験」が与えられると前提したうえで、「我々の人生が内側からどう感じられるかという以外に、一体何が我々にとって問題なのか」(68)と問う。なお残余問題がないかと問うのである。
 その残余問題の第一は、「我々は、あれこれの事柄を行い(do)たいと思う(want)のであって、それらをしているという経験だけが欲しいのではない」として挙げられる問題である。これについて我々は、ここでの言い方で言うと「実際に行なっていること」と「そうしているという経験」との区別は――機械内に在る当人にとっては――不可能、というか存在しないものである、と考えた。区別は、「機械」の内と外との両方を経験し、その「外」から見て「内」は単なる「経験」にすぎないというかたちで初めて可能になるのである。しかしながら、「内」「外」はどう決まるのか(ここでデカルトの「夢」を引き合いに出してもいい)。端的に二つが在るだけではないのか。それを我々は経験(そのもの)の二重化として、そしてその経験の主体である人格の二重化として論じていったのである。
 ノージックも第二としてこの「人格」を問題として、「[機械に]繋がれることをしない第二の理由は、我々が特定の形で存在し、特定の形の人格であり(be)たいと思うからである。タンクの中で漂っている誰かは、形の定まらない塊である」(68f.)というかたちで問題を提起している。ここでノージックは「機械」内の人格が単なる塊であると前提しているが、その前提は不当である。「機械」内では「特定の形の人格」でありえないと言うのであるが、我々は、<完璧>な機械であるなら「特定」の経験しかできないような(そう設計・プログラミングした)ものでもありうるのであって、そうした装置内では経験の主体は「特定の形の人格」でありうると考える。しかしまたノージックは、「機械」をまさしくそのなかで何でも――その「機械」のなかで初めて出てくるものも含めて――すべて「望む」ことのできる機械として想定して、そのなかでは人は「快」の方に流れてしまう、と危惧しているのかもしれない。「望む」ままに「快」を追求する結果として一貫性、つまり「特定」性の欠如を結果する、と考えているのかもしれない。しかし、人は常にそう「望む」とは限らないかもしれない。また、「快」を「望み」つつも、それから自立して「特定の形の人格でありたいと思」って、その思いを実現すべく「機械」内で動く(操作する)こともできるかもしれない。「機械」が<完璧>だというのはそういうことでもある。しかし、そうであるとして、では、その流れ(傾向)に対して(は)規制的に働くことになる「特定」性はどういう身分のものか。そうした規制を選ぶことは果たして「在りたいと思う」事柄だと言えるのか。ここは「自由(意志)」という(伝統的)問題が絡んでくるところであるが、ノージックはここではかなり保守的に人格の「特定」性=単一性を善きものとして前提している(だけである)。この前提を我々は少なくとも問題とすべきであると説いたのである。
 第三は、「経験機械に繋がれることは、我々〔の経験〕を人工の現実に限定するが、これは人々が構成しうるもの以上の深さや重要性をもたない世界である」(69)と語りだされる問題である。これは我々としては「象徴」の問題として扱い、そうした象徴性志向をいわば解剖しつつ、それが必ずしも不可欠ではないと論じたところである。しかしノージックは続けて「[機械内では]より深い現実との[アクチュアルな]接触は、その経験の模造は可能だとしても、本当には一切ないのである」と語りつつ、問題を「象徴」経験そのものの問題から、その経験の仮構性の問題(「本当には……」)へと直ちに切り替えてしまっている。これに合わせて言うなら、(非-人工的な)「象徴」(実)経験の難しいところはそれ自身がヴァーチャルだということである。この、いわば<実ヴァーチャル>と<虚(人工的)ヴァーチャル>とはどう区別できるのか。簡単に宗教経験などを持ち出してきても回答にならないということはノージックも注(71)で述べている。しかし、それだけであって、問題は未回答に留まっている。我々の議論も、――「象徴」とは実はフェーティッシュなかたちでヴァーチャルなものであって、そうしたものをサイバー・スペース内で(新たに)実現困難だとしても、それは少しも構わないと規範的に主張したが――結局は未回答であるのではあるが、例えば佐伯の議論への内在的批判として、提示されている区別の議論は結局知覚的保守主義が根拠となっているということは示したつもりである。
 しかしノージックも、さらに「変身機械」をも論点として提起しつつ――これは「応用倫理学」的に言うと「遺伝子操作」の問題と重なってくる――、「これらの機械について最もまずい点は、それらが我々の代りに我々の人生を生きるということにある。……我々が望んでいる[――ここは原語でも"desire"であるが、"want"でなければならないであろう――]のはたぶん、現実に触れながら自分自身を生きる(能動的述語)ことなのである。」(70)と仮りにしておいて、これがしかしそう簡単に言えることではなくて、これを言いうる為にも、「知の因果的説明と自由意志に関する諸問題と驚くほど関連すると私は信じる」(70)として、認識論・自由意志論の展開が先決であると暗示している。しかし、ここでは議論はそれで打ち切られている。本稿では、我々も課題として残しておくことにする。*

* しかし少しだけ次のことは述べておく。自由意志論は、(「快」を)「望む」・(「快」を超えて)「在りたいと思う」の問題としては、(快・選好をめぐる)功利主義の問題と合流してくる。実際、功利主義者のR.B.Brandt(Fact,Values,and Morality)や、J.Tannsjöu(Hedonistic Utilitarianism)が「経験機械」に言及している。


十 自然科学=規範科学的サイバー・スペース論への橋渡し――暫定的結論として――

 以上の我々の議論を認めるなら、サイバー・スペース批判論の多くは根拠なしとなる。批判は、結局、保守性に基づいているだけであるからである。そして、この傾向が満たされなくても人が生きていくのに別に差し支えないからである。あるいは、(文化的)保守性vs.革新性の次元にまで還元して議論されるのでなくては、サイバー・スペース論も――「記号」的(「モード」的)論説としてではなく――まさしく論証としては未展開になるのである。
 では、更にどう(いう方向で)論じていくべきか。我々自身としてポジティヴにも論じていかなければならないであろう。最後にその方向性を示しておきたい。再びボードリヤールの議論を手掛りとしたい。しかし今度は彼に対しても批判的に関わることになる。で我々は「使用価値のフェティシズム」を紹介したが、そこはわざと曖昧にしておいた。同時に、我々が提示したP・カルダンの「使用価値」の例をもっともらしいものとして示した。ここから論を進めて行きたいが、そこでの「御見合い用」に代えて「暖をとるため」とでもしたとして、ボードリヤールにおいては、それもまたイデオロギーによって規定されたものであるということになる。暖を取るためにP・カルダンというのはかなり奇妙であるが、ここは普通の(あるいは何であれ)衣服を「使用」することにしても、それはボードリヤールにおいてイデオロギー的であるということになる。なぜなら、彼においては、「欲求」そのものが非「自然」的である、厳密に言うなら「自然」であるといわば神聖化された「文化」であるからである。
 我々も原理的にはそうしたことは在りうると認める。それは、人間の欲求がすべて操作できると想定することができるからである。意識(心)改造によって我々が――多くの動物と同じように――暖を取るべき衣服を欲求しなくなることも可能である。ということは、そうであるなら、(現に在る)人間の欲求は――例えば神による意識操作の結果であって――一つの特定のものであって、決してアプリオリなものではない、と見ることも可能となる。ボードリヤールの現代(記号)消費社会論をサイバー・スペース空間の問題と重ねるなら、ここでサイバー・スペースはまさしくそうした欲求操作が可能になる空間だと見ることも可能ではある。
 しかしながら、ここで区別が必要である。なるほど、神経系を直接刺激することによって、人間が寒いとは感じなくなる、したがって衣服を欲求しなくなるという状態を作ることは可能であろう。だが、人は――残念ながら心だけからなるのではなく――肉体をももっている。そしてその限りで、服を着なければ寒いと感じないままに凍え死んでしまうことになる。ここで、肉体を改造して寒さに耐えうるものにすればいいと言われるかもしれない。だがそれでは、サイバー・スペースをもはやサイバー・スペース(の特殊性)において論じてはいないことになる。ここは多く混同されて論じられているのだが、サイバー・スペースは人間の感覚(だけ)にヴァーチャル技術を加えるものである。決して――「神経系」に操作を加えることはあっても――「代謝系」に操作を加えるのではない。比喩的に言えば人間をアンドロイドにするといったことを前提とするものではない。(したがって、ノージックが言う「変身機械」(の方)そのものはもはや問題としなくても構わない。)「代謝系」=肉体には操作を加えないゆえに、そもそも日常空間におけるのとは異なった「神経」状態の惹起が<ヴァーチャル>となるのである。もし、サイバー・スペース内では人間が肉体改造されてスーパーマンになって空を飛ぶとでも言うのなら、その空を飛ぶということはまさしく<リアル>なことであって<ヴァーチャル>なことではない。
 ポストモダニズム系統において一般的にそうだと言えるのだが、いわば「身体」を語ることによって「肉体」が無視される傾向に在るが、我々はここであくまで人間の物理性に定位したい。我々はこの肉体性からくる――その意味でアプリオリな――欲求が在ると考える。もちろん、一定の「文化」性が欲求になにがしか影響を与えることが在るのは認める。しかし、そこにはその幅に肉体性からくる一定の限界が求められるのである。
 我々は、いわばサイバー・スペース倫理として、この肉体――もちろんこれは単なる物体としての肉体ではなく、知覚性の基体としての肉体である――への負荷の禁止という最小限制約を課したいと思う。もちろん、一定の許容範囲の余地は在る。多少であれば、肉体への負荷も許されるであろう。それは、(自由主義的な)日常空間においても許されているものである。肥満を介して若干死を早めることになるとしても、美食は禁止されていない。しかしこれは、あくまで一定の範囲内である。一定の範囲を超える肉体への負荷は禁止されなければならない。そしてそこには、(サイバー・スペース内における負荷だけでなく、)サイバー・スペースと日常空間とを出入りすることによって生じる負荷も含まれる。――この<肉体への負荷>の留意が、我々がサイバー・スペースを評価するときの第一の原理となる。
 言うまでもなく、この一定の許容範囲内での肉体への負荷は、その肉体に負荷を与えることになるものにポジティヴなところが在るときでなければ無意味である。美食は食であるから肉体への負荷と引き換えにされるのである。そうであるとして次に、美食はいわば実際に(つまり食そのものにおいて)旨いものを求めるから美食なのであって、そこに――安易に「伝統」などを語ることによって――観念性を付加して考えるのは邪道であろう。もちろん、この「実際に旨い」というレヴェルに文化性が反映することは認める。しかしそれは、身体化されたものとして、観念的(に惹起される)旨さとはレヴェルを異にするはずだ。先の例を再度用いるなら、寿司(生の魚)が旨いと感じられるには一定の文化が背景となるかもしれない。しかし、その文化内で、「江戸前」と(単に)聞くことによって突然旨く感じられ始めるとしたら、それは――一種フェーティッシュなものとして――むしろ異常性のものであろう。(因みに、この規範的規定は容モダニズム、反ポストモダニズムという含意をもつ。これによって二つのイズムは大きく区別可能となる。)
 「<異常>ということ」は<反自然>と換言してもいい。我々はここで「哲学」(ないしは、規範的なものに関わる限りにおける「哲学」としての「倫理学」)として、<自然>ということを軸として我々の(ポジティヴな)主張を纏めておきたい。それはまた、サイバー・スペースが、言葉としては我々と同じものを用いて「反自然的空間」として批判されているからでもある。実際サイバー・スペース批判派の側の基本テーゼもまた「サイバー・スペースは反自然的である」というものとして纏めることができる。彼らはいわば自体的に<自然性>を措定して、これを基準として(「<反自然的>だ」として)サイバー・スペースを批判するのである(冒頭のテーゼ(A)に相当する)。我々はまずこれに対して、自体的<自然>というものの存在を否定し、我々の(一つの特殊性である)<肉体性>に定位して<自然性>を措定する。例えば、我々の肉体に負荷となるものが反自然的なものとなるのである。サイバー・スペース批判派は、この<肉体性>と無関係に<自然性>を想定し、それを基準として批判を展開するのであるが、我々からすれば、その<自然性>には実は<文化性>が反映されてしまっている――というか、そもそも<文化性>なしには自体的<自然性>は規定できない――(テーゼ(B)はここから出てくる)。であるから、<肉体>にとって別に有害でないものが<反自然的>として非難・禁止されたり、逆に<肉体>にとって有害なものが<自然>として推奨されたりするのである。後者の例として、例えば「正座」が挙げられる。日本(伝統)文化圏では、「しかるべきときには正座するのが正しい(=自然である)」と語られたりするが、体内の血流という点からいうならこれは有害なものである。また、前者の例として「茶髪は不自然だ」という発言を挙げることができよう。そしてこれも、日本の「黒髪」文化の反映であるとも言いうる。(もっとも「茶髪」については、――染めて茶色にする場合は――髪(という肉体の一部)を痛めるので問題だと、我々の方からも言うことができる。)(ここで批判派は、<社会性>という観点を持ち込んで、仮に<反肉体的>であるとしても<社会>の存続のために守らなければならないものがある、と語ってくるかもしれないが、我々はそもそも<社会>とは何なのかと問うていくなら、結局(各個人の)<肉体性>に帰着すると考えている。)
 しかしながら他方、ボードリヤールが端的に<自然>を総体として「(結局)<文化>である」とするのに対して、我々は<肉体性>(との関係)という弁別軸を措定しているのであるが、さらに<身体性>というカテゴリーにも権利を与えて、<身体化>した<文化>とそうではない<文化>との差異を有意化した。そして、前者が――いわば「第二の自然」として――<自然>の一部を構成することは認めてもいいとした。しかしこれはあくまで、<身体化されない文化>にも権利を与えるものではない。しかるに、サイバー・スペース批判派は多く、この<身体化されない文化>を、あるいはむしろそれこそを<自然>だとして、そこから批判を展開しているのである。我々は、この<身体化されない文化>を<観念性>として批判したのである。* サイバー・スペース評価の第二の原理として我々は、この<観念性>の非有意化ということを挙げておきたい。

* 「環境倫理」を意識して、そこで問題とされる環境自然の在り方とのアナロジーを言っておく。これは、我々の言う<自然>概念の(さらなる)説明になるとともに、環境問題のコンテキストにおける「(環境)自然」概念の混乱に対して一定の整理を提供するものでもある。
 想定される<自体的自然>に対応するものとして「原生自然」が語られているが、――この場合は確かに「人間の手が加わっていない自然」として、その限りでは明確に規定可能なのだが――人間もまた自然の一部であるとした場合、「原生自然」はそもそも特定できなくなる。我々はこれに代えて、<肉体(適合)性>に対応するものとして――「人間中心主義」の立場を採ることになるのだが――人類の物理的生存(しかも単なる生存ではなく、可能な限りで快=幸福を伴った生存)に適合的な環境という水準を、基軸として設定する。しかしながら、「快」のうちに「美的快」をも含めて、その「美的快」に即して環境が或る特定のかたちのものとして求められることを容認していいと我々も考えているが、語られる「環境自然」にはこの美的快への志向が(無意識に)反映されている場合も在る。例えば、「自然らしい景観」を問うアンケートで、――ジャングルなどではなくてむしろ――例えば京都・北山の杉林景観が挙げられるときがそうである。言うまでもなく、これは人工林である。これが(守られるべき)(環境)自然だと語られるとき、その「自然」概念は<文化的>なものである。(主として米国で語られ始めた「原生自然」概念にも実は米国文化が――但し(ヨーロッパ的)既成文化へのいわば反定立として――反映されている。)しかし我々はこれは、<身体化されたもの>としていわば「第二の自然」に当たるものとして、拡張的な意味で「自然」だとしても構わない。しかしながら次に、これもよく語られるところであるが、多く「自然と歴史」というフレーズでもって、「歴史の場となった自然」、「歴史が想起させられる自然」がまさしく「自然」だとされることも在る。上の杉林であっても、それがまさしく京都・北山のものであるがゆえに(自然として)守られるべきだとされる場合が、そうである。(こうした「自然」は、(「中世」の刻印を――しかし人々の知識=記憶において――もったスコットランドの丘陵を愛でるW.スコットの)「スコット的自然」としてカテゴライズできる。(安彦 1997c 参照*))言うまでもなくこれは、我々が言う<観念性>の規定を受けたものである。そして、こうした「自然」概念が環境問題の議論のなかに紛れ込んでいることが問題的であるのと同様に、「リアリティ」概念のなかに<観念>(的象徴性)が付加されていることが、サイバー・スペースを論じる場合に問題的であると我々は主張したのである。(* この拙稿では、ラスキンの"pathetic fallacy"概念を直接スコットにも当てはめるかたちで議論していったが、ラスキン自身のスコット評価はそれほどネガティヴではない。慎重には、ラスキン自身の自然観・風景観(の揺れ)を含めて、この概念の分析・検討、およびラスキンのスコット評価の分析がそれ自身テーマとして論じられなければならないであろう(これについては、いずれ別稿執筆を考えている)。この拙稿では、スペースの制約もあって乱暴に処理してしまったわけであるが、但し、(「スッコト的自然」摘出に関する)論旨は現在でも変更の必要を感じていない。公表当初から気にかかっていたことなので、ここで(取り敢えず)一言述べておく。)

 この<身体化された文化>と<身体化されない文化>との区別として我々は、一事例として、<文化>規定的にそもそも寿司(生の魚)が旨いと感じられるのと、いわば江戸文化としてこれもまた<文化>ではあるが、「寿司は「江戸前」でなければならない」とされるときの、その「江戸前」という<観念>が惹起する旨さの感覚との差異を挙げた。この事例の場合、後者は(「江戸前」という)「言葉」(の意味)という非-知覚的なものが原因者であるが、しかし知覚的なものでも<観念>に分類されるべきものが存在する。我々(日本人)でも例えば安上がりの忘年会で、フランス料理を(中華料理のときのように)ラウンド・テーブルから食べるとき、なんとなく不味く感じられることが在るかもしれない。これは、映画などでフランス料理が各人別に順番に出されてくるシーンを見ていて、「そうでなければならない」と思っていることも在るからである。しかし、これは基本的には<知識>に基づくかたちで、そこからの一種の(連想的)推論を介して出てくるものである。フランス人であるなら、ここは端的に不味いと感じられるかもしれないが、それは、そうした習慣が(肉体的に)体制化されている(=<身体化>されている)からである。フランス人ならぬ我々の場合、そういう習慣は必ずしも体制化されていないのである。逆に我々も例えば羊羹を食べるとき(たとえ木製のものであっても)フォークを使うならなんとなく不味く感じられてしまうが、これは、羊羹には黒文字を使うということが体制化されているからである。(オルテガが取り出した「悪習」も、こうした体制化が無くなってしまった場合の「慣習」として解明できるかもしれない。)
 <身体化された文化>と<身体化されない文化>との区別は確かに微妙なものである。さらに、この区別が明確化されるのでなければならない。しかし、これを<文化>の在り方から論ずるのであるなら、説明されるべきものをその説明されるべきものから説明するという同語反復にしかならないであろう。非-同語反復的には、そこに何らかの心理的・生理的質の差異が確定されるのでなければならない。例えば神経科学的に記憶回路の種別の存在として説明されうるかもしれない。こうした区別の確定は(生理学、心理学、あるいは感性工学等の)科学によってなされるところである*。そしてそもそもの、肉体への負荷が具体的に何であって、またどの程度が許容範囲内となるのか、これも第一には(生理学、心理学等の)科学の問題である。そして――リソースやコストの配分といったこと(まさに<社会>の問題)も関わってくるので――第二に規範諸科学の問題である。いずれにしても、もはや文明論的に語るといった事柄ではないであろう。

* 「科学」ということで、ここで、リアリティをめぐる問題系に関する精神科医の木村敏の発言を紹介・検討しておく。木村は、佐伯も論じている「アクチュアリティ」概念に定位して、アリストテレスの「共通感覚」論に関説しながら、次のように述べている。「「リアリティ」と「アクチュアリティ」……。この二つはまったくの同義語というわけではない。/リアリティは私たちが個別感覚によって認知し、主としてクリティカによって判断しているような現実であり、アクチュアリティのほうは共通感覚によって「身をもって」経験し、トピカをはたらかせてその生命的・実践的な意味をキャッチしているような現実である。」(1994:28f.) 言葉遣いを合わせるなら、――「アクチュアリティ」の方は同じ意味であるが――木村が言う「現実」は我々が問題としている「リアリティ」であり、木村の「リアリティ」は(エリクソン−)佐伯ではfactualityである。
 この概念を用いて木村は、精神病を「アクチュアリティ」の変調であると規定する。端的には「離人症」についてこう述べられている。「離人症という精神症状では、個別感覚的に知覚できる「もの」には何の変化も起こらないのに、共通感覚で捉える「こと」の側面はすっかり欠落してしまう。」(126)/「離人症で「もの」の知覚だけが保たれて「こと」の体験が失われるというのは、リアリティは知覚できるのにアクチュアリティの実感がなくなるということである。」(128) 我々がここを特に引用したのは例えば(社会心理学系の)情報社会論学者である仲田(前掲書)がここを一つの手掛りとして、つまり「アクチュアリティ」喪失的現実感として、我々のタームで言って「サイバー・スペース」的知覚を批判しているからである。
 しかしながら、仲田の議論は――サイバー・スペースと関連づけていないので当然だが木村の議論も――「サイバー・スペース」的知覚がいわば精神病的知覚と同質だと言うだけなのか、さらに前者が精神病を誘発すると説いているのか不明である。サイバー・スペース批判を展開するのであるなら、後者をも説くべきであるのだが、この点が明らかでない。
 しかし問題は、ここで木村の議論そのものを問うことになるのだが、木村は佐伯のいわば文明論的な議論のポイントである「象徴性」――(佐伯を援用する)仲田においても彼が言う「意味」にこの「象徴性」が含められていると考えられる――を、その「アクチュアリティ」の(必須)構成要素として考えているかどうかである。そうであるとすれば、木村からしても、脱象徴化的空間であるサイバー・スペースは批判の対象となることになる。もし精神病理学的に、「象徴性」の喪失(=「象徴性」からの解放)が人間の(心の変調状態と同質であるということに加えて)心に変調をきたす、というのであれば、我々の議論は大幅に修正を迫られることになる。しかし我々は、むしろ(逆に)「象徴性」の過剰が精神症の原因となっているのではないか、と考えている。

 我々の直接的テーマであるヴァーチャル・リアリティの問題としてテーゼ的に纏めるなら次のように言える。
(0) ヴァーチャル・リアリティは――快・不快という側面でみるなら――(当然)快(という感覚質)を与えるものだけが求められるべきである。
(1) (いわば「脳」には快くても「体」には悪いというかたちで)「快」であっても一定限度以上に「肉体」に負荷となるものは、禁止されるべきである。
(2) 「快」には前<文化>的な(=<肉体>的アプリオリの)もの、<文化>的に生じるが<肉体>的に体制化されているもの、<文化>的に生じるがそうではないもの、という優先順位が在る。(第三のものは――<肉体性>を基準としてみるなら――フェーティッシュなものであり、それ自身としては否定する必要がないが、<肉体>への負荷(やコストの問題)等が在る場合はむしろ退けられるべきである。)
(3) したがって、第三のものを与えないとしてヴァーチャル・リアリティを批判するのはあまり意味がない。特に、ヴァーチャル・リアリティが(<肉体>に負荷を与えないかたちで)「快」を生み出しているときは、批判は反批判されなければならない。*

* 「倫理学者」としてこれで擱筆とするのでは愛想ないだろう。一つだけ規範的提案をしておく。平等主義倫理では、人々の選好を同じ比重で扱うことが基本原則であるが、我々はこれに制限を加えて、肉体性(拡大して身体性を加えてもいい)に基礎を置かない選好はそうしなくてもいい、という付帯原則を提案したい。例えば、(食べただけでは違いが分からない者の)「江戸前」への選好は同等に配慮しなくても構わない――ただし、その者に「江戸前」に特別な思いでも在る場合は例外である――ということである。


引用・参照文献


(各項目の最初の数字は、その文献が最初に出版された年(訳書の場合は原著の出版年)を表わす。)

安彦一恵 1997a:「保守主義・伝統主義・歴史主義 − 批評:西部邁『思想の英雄たち』」『Dialogica』no.3(electronic journal = http://www.sue.shiga-u.ac.jp/WWW/dept/e_ph/dia/3.html)
同 1997b:「歴史主義について」『Dialogica』no.3(electronic journal = http://www.sue.shiga-u.ac.jp/WWW/dept/e_ph/dia/3.html)
同 1997c:「ベンサムの(もう一つの)科学主義」『実践哲学研究』第20号
同 2001:「国家――「公共性」あるいは「公(ということ)」をめぐって――」(加茂直樹編『社会哲学を学ぶ人のために』世界思想社 2001 所収)
バルト,R. 1982:沢崎浩平訳『美術論集』みすず書房 1986
ボードリヤール,J. 1968:宇波彰訳『物の体系』法政大学出版局 1980
同 1970:今村仁司他訳『消費社会の神話と構造[普及版]』紀伊國屋書店 1995
同 1972:今村仁司他訳『記号の経済学批判』法政大学出版局 1982
同 1976:今村仁司他訳『象徴交換と死』ちくま学芸文庫 1992
同 1981:竹原あき子訳『シミュラークルとシミュレーション』法政大学出版局 1984
ボルツ,N. 1991:山本尤訳『仮象小史』法政大学出版局 1999
セシル,H. 1912:栄田卓弘訳『保守主義とは何か』早稲田大学出版部 1979
ドゥールーズ,D. 1984:山**訳「絵画と感覚」『現代思想』1999年9月号
エリクソン,E.H. 1961:*幹八郎訳「心理的現実性と歴史的事実性」(『洞察と責任』誠信書房 1971 所収)
廣瀬道孝編 1993:『バーチャル・リアリティ』産業図書 1993
今田高俊編 1994:『ハイパー・リアリティの世界』有斐閣 1994
加藤茂 1998:『ひとは自我の色眼鏡で世界を見る』勁草書房 1998
木村敏 1994:『心の病理を考える』岩波書店 1994
黒崎政男 1991:『ミネルヴァのふくろうは世紀末を飛ぶ』弘文堂 1991
牧本次生/マナーズ,D. 1998:『デジタル遊牧民――サイバーエイジのライフスタイル』工業調査会 1998
松原仁他 1990:『人工知能になぜ哲学は必要か』哲学書房 1990
港千尋 1996:『記憶』講談社 1996
見田宗介 1996:『現代社会の理論』岩波新書 1996
仲田誠 1997:『情報社会の病理学』砂書房 1997
西部邁 1996:『思想の英雄たち』文藝春秋 1996
西垣通 1995:『聖なるヴァーチャル・リアリティ』岩波書店 1995
ノージック,R. 1974:島津格訳『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社 1998
オルテガ(・イ・ガセト),H. 1957:佐々木孝訳『個人と社会』(『著作集』V)白水社 1969
ポスター,M. 1990:室井尚/吉岡洋訳『情報様式論』岩波書店 1991
ケオー,P. 1993:西垣通監訳『ヴァーチャルという思想』NTT出版 1997
佐伯啓思 1985:『隠された思考』筑摩書房 1985
同 1988:『「シミュレーション社会」の神話』日本経済新聞社 1988
同 1989:『現代社会論』講談社学術文庫 1995(『産業社会とポスト・モダン』筑摩書房 1989 の文庫版[追加部分あり])
同 1993:『「欲望」と資本主義』講談社現代新書 1993
ヴィリリオ,P. 1996:本間邦雄訳『電脳世界』産業図書 1998
山元大輔 1997:『脳と記憶の謎』講談社現代新書 1997
吉見俊哉 1994:『メディア時代の文化社会学』新曜社 1994
ジジェク,S. 1999:酒井隆史/澤里岳史訳「政治的主体化とその運命」〈2〉(『批評空間』II期24号 2000 所収)


 本稿は2000年9月16日の第8回FINE京都研究会(於:京都大学文学研究科)で口頭報告したもの(厳密には:その際配付した文章の要旨を報告したのであるが、その文章)を修正・補筆したものである。(なお、第五章は、全体の論旨は同じであるが、議論の展開の仕方としてはこの口頭報告とは大幅に異なっている。口頭報告では、『記号の経済学批判』邦訳書205頁の「意味作用のこの過程を廃棄するものは、結局は意味の巨大なシミュレーションモデルにほかならないが、それは《実在》・指示対象、つまり記号の外側の闇のなかにほうり出された、価値の何らかの実体ではなく、象徴的なものである。」のところが、我々の立論にとって有利な箇所であるとして、これを手掛りにいわば迂回的に論じていったのであるが、念の為(その後で)原書(196)を確認したところ、ここは素直には、「意味作用のこの過程、それは結局は意味の巨大なシミュレーションモデルにほかならないが、この過程が廃棄するものは、……象徴的なものである。」と訳出する方がいいと思え、それでは我々の立論に手掛りとして使えないということで、結局大幅に修正することになった訳である。総じて本書は、彼の他書と異なって理論的体系化を強く志向したものであるが、考察の結果を提示したものというより、いわば考察の展開過程をそのまま公開したといったものに留まっている。その分、論旨をフォローし難いものとなっている訳であるが、穿ってみれば、ボードリヤールはここで、思想界において他の思想家との「差異」において自説を一時でも早く公表しようと先走ってしまったとも言いうる。いわば、ボードリヤールの思想そのものが「記号」現象であるとも言えるかもしれないのである。彼の議論に言及するときは気をつけなければならないということである。しかし彼の議論はほとんどタームのみが流通していると言っても過言でない。ボードリヤール解釈に即してここでも言いたいが、単なる「思想」的紹介としてではなく、その論理をフォローするような解説書を、ボードリヤール研究専門家には求めたいところである。)


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2001.09.02.作成