滋賀大学教育学部心理学教室平成19年度卒業論文集への寄稿より

「 風のはなし」

     渡部雅之

 「千の風になって」という曲が長く流行っています(これを歌う秋川雅史さんは愛媛のご出身で、彼の御尊父は私の高校時代の部活顧問でした)。このタイトルは原詩の中の‘I am in a thousand winds that blow. ’という一節に由来します。そのため‘千’の風と訳されていますが、a thousandは‘無数’を意味すると考えた方がよいでしょう。『私の死を悲しむあなたのまわりを常に風が吹いているように、いつでも私はあなたの側にいる、だからもう泣かないで…』そう語りかける詩だと言われています。
 風は時として、さまざまな記憶や感情を突然に呼び覚まします。例えば、春の柔らかな風は、大学合格を知ったあの日の弾けるような喜びを、今一度思い出させてくれるかもしれません。木枯らしの冷たい空気が、誰かとの切ない別れの思い出につながる人もいるでしょう。私の場合、秋風のちょっと湿りがちな匂いを嗅ぐと、在外研究で英国の地を踏んだ15年以上も前のあの秋の日(海外に出るのも初めてでした)の不安が、ありありと甦ってきます。心理学ではこれを、記憶の文脈依存効果と呼んでいます。目に映る英国の街並みや風景、出会った人々の顔や声は、その時これらを経験した私自身の気分や感情、感覚などと深く絡み合って記憶されています。ですから時と場所を経た今日でも、風の暖かさや匂いが呼び水となり、懐かしい日々を再体験するのです。
 卒業後何年かたった後に、みなさんもふと大学のことや私のことを思い出してくれることがあるでしょう。その時きっかけになる風は、どんな風でしょう。大学の思い出が総じて楽しいものであったならば、暖かな風がその記憶を呼び覚ますことになるかもしれません。一方、あまり嬉しくない思い出の多かった人は、冷たい北風の中で、苦しかった大学時代のことを思い出すかもしれません。人にも一人ひとりに特有の風があると表現した人がいます。ならば私は、うっとりと心地よい日だまりのような風を持ちたいと願います(残念ながら意に反して、秋口の肌寒い風を吹かせているかもしれませんが…)。春風とともに大学時代のこと、私のことを思い出してもらえたら、これほど嬉しいことはありませんから。
 同様に、みなさん自身からも、みなさんにしかない風が吹いています。千人いれば千通りの「千の風」が吹くのです。あなたと出会った人々は、何年か後に似たような風を感じて、きっとあなたのことを思い出してくれるでしょう。それが暖かな風であれ、多少ひんやりとしたものであれ、人まねではない「世界に一つだけの」あなたの風であって欲しいと願います。これまで心理学教室を卒業された、みなさんを含む多くの人々が吹かせるこの千の風が、必ずや趣豊かな明日の社会を作ってくれると信じています。