滋賀大学教育学部心理学教室平成27年度卒業論文集への寄稿より

「塞翁が馬」

     渡部雅之

  『塞翁が馬』は私の座右の銘です、と人に話すのを心地よく感じていましたら、同様に座右の銘であると公言していらっしゃるお二人の研究者に、先日立て続けに出逢いました。この言葉が好きな方は、世の中に結構たくさんいらっしゃるようです。
 由来について今更述べるまでもないでしょうが、逃げ出した馬が別の駿馬を連れ戻り、後日その馬に乗っていて落馬し、足の骨を折ってしまったおかげで、今度は兵役を免れた、という中国の故事にちなんでいます。そのため、何か悪いことや思い通りにならないことが起こったとしても、その不幸はいつか幸福に転じるかもしれない、安易に喜んだり悲しんだりするべきではない、というのが本来の意味です。幸福と不幸はより合わせた縄のように表裏一体であることを意味する「禍福は糾える縄の如し」とよく似た意味です。
 こうした言葉の真意を私たちは十分に理解しているはずなのですが、『塞翁が馬』の呪文に頼るのは、何かつらいことがあった時が多いようです。私自身も、これまでにつらいことや苦しいことがあるたびに、「塞翁が馬、サイオウガウマ、…」と心の中で唱えて自分を奮い立たせてきました。幸せの絶頂にあって、「塞翁が馬だから安易によろこんではいられない」などと言っている方に出会ったことがありません。心理学においても、ストレスへの対処行動やレジリエンスなど、苦境を乗り切るメカニズムの研究は盛んですが、十分に適応している者に対し、さらに将来の備えを求めようとする考えはありません。人は弱い存在ですので、苦しみから逃れて安心・安定を手に入れ、それが永続することをありがたがるのは無理もないことなのでしょう。
 私たちにとって本当に難しいこと、そして価値あることは、不幸を乗り越えることよりも、むしろ幸せの中にあって不幸を思うことではないでしょうか。学校教育においても、困難を抱えた子どもたちが学校ストレスに対処できるようにそのソーシャルスキルを高めたり、ソーシャルサポートを引き出すのに適した自己開示のあり方を調べるような実践研究は盛んですが、現状においてすでに良好な友人関係を形成し、高い自尊感情を持つ子どもに対して、将来の苦難への備えを説く、予防的な働きかけは極めてまれであるのが現状です。しかし、こうした心構えは、将来の見通しを持つことが難しくなりつつある現代を生きる我々にとって、ますます大切になってくるはずです。
 みなさんが、それぞれの人生をたくましく生き抜いて下さるように願いを込めて、『塞翁が馬』の言葉を贈ります。