滋賀大学教育学部心理学教室平成7年度卒業論文集への寄稿より


「育つことと育てること 」

     渡部 雅之

 私はよく自分の子どもの話をします。コンパの席で始めるとゼミの学生などは、「また始まった」と言わんばかりの顔をします。親バカだとは思うのですが、彼らのすることなすことが、私にとってとても刺激的なのです。気がつくといつの間にか「うちの子は…」と言いかけている自分に気づきます。
 商売柄、私は並の父親諸氏よりも遥かによく子どもというものに接します。それは我が子に対しても例外ではなく、おそらく半分は父親としての務めから、後の半分は職業的興味から、意識的に彼らと関わるようにしている気がします。
 ある朝、いつものように(?)子どもを幼稚園に送っていったその帰り道、同じ幼稚園に通わせる近所の奥さんと挨拶を交わしました。その時、ふと思いました。「この人達は毎日こうして子どもを幼稚園に送り、また迎えに行き、お昼を食べさせ、お買い物に連れ出し、たまには少し遊んでやり、あるいはガミガミと叱りつけ、そして静かな夜が来て、添い寝しながら子どもとの一日が終わるんだ」と。もし自分がその立場だったらどうだろう? その単調な繰り返しに耐えられるだろうか? こう思うと、育児を担う世の母親達が一層神々しく思えてきたのです。私のように仕事半分ではなく、彼女たちは最も大切な、自らの人生の多くの時間を子どもたちと過ごすことに費やしているのです。
 そこで昨年の秋に、ゼミ学生の卒論をかねて、「滋賀県下における母親の意識調査」というのを実施しました。この中で、育児を通して母親がどのように成長し変化していくのかをみてみたいと思ったのです。このテーマは最近注目され始めたもので、学問的にももちろん大きな意義があるのですが、それだけではなく、先のように個人的にも興味があったからです。子どもたちに四六時中接している母親達は、いったい何を考え、そこから何を得ているのだろう。こんなことが知りたくて卒論にかこつけて行った調査でした。その結果はほぼ予想通り、育児体験が母親を人格的に成長させ、あるいは変化させていることが示されました。それは、私を安心させるものでした。調査がうまくいったからばかりではなく、あんなにも健気にがんばっているお母さん達が、育児からなんにも得ていなかったとしたら、彼女たちは余りにも浮かばれないと思いませんか。
 大学教育もたった4年間ではありますが、この育児に似たところがあると思います。ほとんど心理学のシの時も知らずに入学してきた学生を教え、こうして立派な論文を書くまでに鍛え上げていきます。その過程で、もちろん学生諸君は、知的にもあるいは人格的にも成長していくわけですが、一方我々教える側も、何らかの形であなた方に育ててもらっているのです。人と人との交わりは、どちらか一方だけがオファーするようなものではありません。互いに「育ち・育て」あうものなのだと思います。
 これから社会に出ていく皆さんの、そうした大切な出会いが、せいぜい実り多いものになりますよう、祈ってやみません。