eiji yoshikawa laboratory
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多国籍島 生誕地は長崎市から西に100km、東シナ海に浮かぶ五島列島福江島――魚以外には格別のものもない、美しい島です。アジア地図で見てもらうとわかりますが、直線距離で大阪と上海のほぼ中間、日本の「はしっこ」です。

長崎県は日本の西のはてです。そのかみの肥前の国の一部ですが、地理に不案内な人のために参考サイトをあげておきます。

 
COLUMN
遣唐使船は宝亀7(776)年第14次以降、福江島を経由しました。使節一行は、待ち受ける危難を胸にこの島の浜から船出したのです。空海の「辞本涯」の碑が立つ、まさに日本を離れる西涯の地で、勇名を響かせた王直に代表される後期倭寇の出撃拠点、50の教会が散在する隠れ切支丹の故地でもあり、江戸後期にはさかんにロシア船も寄港しました。そう思えば、中国人・ロシア人・海賊・切支丹の後裔らしき人たちの住む島です。
反日本国 生まれてすぐに長崎市に移ったので、生育地は長崎市内です。

坂の町として知られる長崎はほとんど平場がありません。来訪者は、四囲の山頂付近まで住宅が密集しているのを見て吃驚するそうです。細く延びたわずかな平地部を、経営の見本とも言うべき全線100円の市電が走っています。

 
COLUMN
長崎は日本人の作った町ではありません。元亀2(1571)年、貿易の拠点を求めるポルトガル人によって開港しました。後背を山に囲まれた狭い盆地で、日本に背を向け海外に向かって市街が開けています。日本で唯一、真の意味で余所者に対して開放的と言われる町です。
ジプシー 学業と仕事の関係で、長崎・東京・埼玉・滋賀・京都と転居を重ねてきました。いまは、春は桜、秋は紅葉の美しい山科疎水の近くで暮らしています。

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私的年譜
1949 浜沿いの海士の苫屋で暴風雨の夜に産声を上げる。松川事件の起こった日であった。前途多難の予兆。誕生後数か月にして母の生地長崎市へ。中町教会で洗礼を受ける。洗礼名はヨゼフ。
1956 市立山里小学校入学。式当日、校門前の凍結したスロープで転倒し鼻から出血。人生の門出ではやくも蹉跌。
1958 新人の女性教師が担任に。生涯の恩師となった。
1959 市立片淵中学校入学。文学に没入。人生で唯一楽しい学校生活を送る。
1965 県立長崎東高等学校入学。2年生のとき、佐藤春夫という名前の数学教師が担任に。双方微妙な気分であった。
1968 東京で浪人生活を送る。生まれて初めて地震・行列・立ち食いを知る。
1969 早稲田大学政治経済学部入学。集団路上パフォーマンスで警察官と懇意に。
1970 大学からの帰路、騒然たる自衛隊市ヶ谷駐屯地前を通過。カー・ラジオで三島の割腹死を知る。
1971 読書三昧の日々。即身仏のような教授たちのひからびた授業に、登校拒否。
1973 後先かまわず結婚。翌年長男、翌々年次男誕生。憂きふししげき世とは知らずや。
1974 早稲田大学大学院文学研究科に入学。和歌研究室に配属。
1975 生活安定の資金獲得のため、ルーレット必勝法を案出しマカオへ。憔悴して帰国。
1980 理事同士の抗争の余波を受け東中野の学習塾から追放。教え子と駆け落ちした国語教師の後任非常勤として、小金井市の某私立高校へ着任。
1987 代々木にある某巨大予備校に就職(理事長はもと神主)。話題が多すぎて割愛。肉体・魂魄ともに消耗す。
1993 滋賀大学教育学部に雇われる。あれこれ予見を吹き込まれ、いざ上方へ学徒出陣。
1994-2004 特記事項なし。
現在 ぬるま湯三昧を期し欣喜雀躍して来たるも、いつしか公務員に。
2010頃 勧奨退職か。
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