第1.11号


目次

  1. 安彦一恵 江口氏への回答

  2. 編集後記


   

江口氏への答え

安彦一恵

拙稿「「自然の価値」をめぐって」に対して、江口聡氏の「読書メモ」で何点かの疑問が出されたの簡単に答えておきたい。

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[1] p.88では、「それ自身としての価値」ということを表すのに、'inherent value'という言い方をするのに対してMooreのように'intrinsic value'という言い方をする方が「標準的」であるとした。これに対してp.89では、'intrinsic'という言葉の用法に「標準的用法」と「非-標準的用法」があるとしてしまった。ここは明らかに不統一である。要するに、「それ自身としての価値」を表すのに'inherent value'という表現を使う人々は同時に'intrinsic value'という表現をもしているが、これはまた(「内部的」という)別の意味の価値を表現するためであって、'intrinsic'のこの用法を「非-標準的」と仮に呼んだのである。これに対して、「それ自身としての」(=「内在的」)という意味で'intrinsic'を使うことが「標準的」用法ということになる。

***

[2] p.91の「稀少性」云々のところであるが。御指摘の通り、全体の論旨とは関係ないが、派生する問題があるので少し詳しく論じておきたい。まず、論旨を明確にしておく。「「稀少性」についてはそう簡単に語れない。O'Neill自身は「すべてのものが何らかの記述のもとでは稀少である」ことを理由に「稀少だから価値がある」とは言えぬとしているが(183)」の部分は、ここで「....いる。」として一旦文を結んだ方がはっきりする。そして次の「なるほど....」の所であるが、ここは、O'Neill自身はそのように言うことによって、それ以上「稀少性」を問題としていないが、しかし....−−と、また別の議論を始めていると了解していただきた。

[3] まず、O'Neill自身はどう言っているかであるが、p.109では次のように(ごく簡単に)述べられている。「稀少性それ自身は価値ではありえない[価値をもちえない]。なぜなら、何らかの記述の下ではすべてのものが稀少であるからである。[「xは性質y(例えば稀少性)をもつので価値がある」という言い方は、およそすべてのものについて「それはyをもつ(したがって価値がある)」ということが言える場合には、無意味だからだ、とでもいった前提があるのであろう。]しかし稀少性は、価値を増幅するものamplifierである。或る対象が、或る記述の下で価値をもち、かつ、その記述の下で同時に稀少であるとき、その価値はより大きな意義をもつ。」

[4] さて、本題だが。まず、私が「心理的には....確かに言える」と言っているのは、或る一定の記述の下で例えば「....なゴキブリは稀少である」ということが成立するか否かは、そのとき「....なゴキブリ」が10匹居るとして、その「10」を少ないと見るか否かに依存する、そしてそもそも「10」が少ないと感じるか否かはその人が他のどのような対象に、どのように日頃あるいはそのとき接しているかに依存する、というふうに考えても構わないということである。

[5] もちろん、そのように考えるのが自然であるとしても、論理的には−−つまり、そういうことが在りうることとしては−−例えば「....なゴキブリが10匹居る」として、その事態だけに即して例えば「....なゴキブリは稀少だ」と考えられる、あるいは語られる、あるいは感じられることは在りうることである。

[6] しかしまた、人が何かについて「これは稀少だ」と感じるという心理的側面から見るなら、[5]の事態が排除されるわけではないが、人間のいわば自然的事実としては何らかの比較が前提となっていると言っていいだろう。

[7] しかしながら、−−これがポイントの一つなのだが−−[6]のことを認めて、「....は稀少だ」という述定がそのように比較を前提とするものであり、したがってその限りで述定は「他の対象の存在に依存する」としても、それは「稀少性」という特性が「他の対象の存在に」(むしろ「他の特性に」と記した方がよかった)依存することを意味するわけではない。その意味で、「稀少性」は「非-関係的特性」でありうる。

[8] そして論理的には、そうした「非-関係的特性」である「稀少性」を、−−再び[5]のように考えて−−一定の対象に対して端的に述定することは可能である。

[9] しかしながら次に、[8]が言えるとしても、論理的に一つしかないもの、すなわち個体については、「そのもの」としては−−例えば属性を一切もたない個体とでもいったもの、あるいはラッセルの言う「論理的固有名」によってのみ指示できるものを想定してほしい−−、「それは稀少である」とは語りえない。これは当たり前のことである。しかし、例えば「江口氏は希少な人だ」と言えるのではないか。しかしこれも、あくまで「江口氏は....な人[例えば:倫理学をやっていてワークステーションも分かる人]なので希少な人だ」ということである。そしてこれがポイントなのだが、この「江口氏は稀少だ」ということは、「....な人」という種に依存しているということなのである。つまり稀少性は、種の「内在的特性」であるとしても、個体の「内在的特性」ではないのであって、或る個体が「稀少性」をもつとしても、「その[個体の]内在的特性にのみ依存し」ているのではないのである。したがって同時に、「或る個体が(その個体の)稀少性という「内在的特性」にのみ依存して価値をもつ」ということは成立しえないのである。

***

[10] 我々の議論とは無関係に、例えば「江口氏の家のゴキブリ」そしておよそすべてのものがいかようにも記述できる−−そして、そのことは「心理的」な事柄ではないということなのだが−−という指摘は、「読書メモ」の次に内井惣七氏へのコメントが在ったので連想されたのであるが、ずっと昔、大学院生のとき感じた疑問を思い起させた。Hareの「普遍化可能性」概念を厳密化して内井氏は、単なる「全称化可能性」と区別して、個体への言及を一切含まない全称文へと言い換えが可能であることとして「普遍化可能性」を定式化仕直している。例えば、「x氏を殺してはならない」が道徳的判断であるためには、例えば「すべてのユダヤ人は殺してはならない」ではなく、「すべての人間は殺してはならない」へと全称化可能でなければならない。さて、私も昔そう思ったのだが、江口氏によると、「ユダヤ人」は(固有名詞を使わない)別の表現へ書き換え可能である。そして逆に「人間」も、「地球上の理性的生物」といったものへ書き換え可能である。そうだとするなら、「人間」と「ユダヤ人」は論理的に同じ身分のものなのか。同じだとするなら、更にカント的に(?)「すべての理性的存在者は殺してはならない」へと全称化可能でなければならないのか。−−江口氏にも考察を進めて頂きたいところである。

[11] ついでに悪乗りして言わせて頂くが....。或る判断が道徳的判断であるか否かを確定するためには、−−Strawsonに言わせれば「sentenceではなくstatementとして」ということになるであろうが−−「判断すること」として語用論的次元に定位しなければならないのではなかろうか。

[12] なるほど普遍化(全称化)は、或る個別(単称)判断、例えば「aを殺してはならない」について、その「理由」、例えば「aはxだから」に即して、「すべてのxなものは殺してはならない」というかたちで語られるものである。例えば「aを殺してはならない」は、「aはユダヤ人なので」という「理由」をもつときは、「すべてのユダヤ人は殺してはならない」へと普遍化されるのでなければならない。「同じユダヤ人であってもaだけは別である」として「aだけは殺してはならない」あるいは「a以外のユダヤ人は殺してはならない」、さらに「ユダヤ人であってもbは別である」といういわば含みがあるときは当の判断は普遍化不可能なのである。しかし内井氏によるなら、そういう例外を含まず、したがって「すべてのユダヤ人は殺してはならない」へと普遍化されるものであっても、「ユダヤ」という個体への言及を含む限りで単なる「全称化」が可能であるにすぎないのである。

[13] しかしながら、「すべてのユダヤ人は殺してはならない」(へと単に全称化可能であるにすぎぬ判断)であっても、ナチズム下のドイツにおいては十分道徳的判断でありうるのではなかろうか。(実際は例えばジプシーなどもそうであったのだが、仮にユダヤ人だけが虐殺の対象になっていると仮定した場合、)被虐殺民であるユダヤ人に即して「すべてのユダヤ人は殺してはならない」へと全称化可能である判断は、それもまた単純に例えば政治的判断だとできるであろうか。いわば、発話のコンテクストが重要なのである。

[14] あるいは、「ユダヤ人も人間なので、すべて殺してはならない」といった含みの有無で決まってくるとできるかもしれぬ。また、上のコンテクストにおけるユダヤ人は被虐殺民ユダヤ人であるので、「ユダヤ人は被虐殺民であるので」という含みを(さらに)もっていて−−Frege的に言って、いわば「ユダヤ人」が「被虐殺民ユダヤ人」というSinnを通してbedeutenされていて−−、したがって「すべての被虐殺民は殺してはならない」へとまさしく「普遍化可能」である。その場合、普遍化可能の階層とでもいったものを考えることになるのか。−−これはまた、MackieのHare批判とも関わってくるだろう。

[15] いずれにしても、とりあえず単純に言うのだが、語用論的次元に定位するのでなければ、或る判断が道徳判断であるか否かの判定はできないのではなかろうか。またHare自身においても実際はそうなっていると考えられる。Hareは、「aはユダヤ人であるので殺すべきである」という判断について、それが「およそすべてのユダヤ人は殺すべきである」という普遍化されたものをも受け入れる用意があるときは一つの道徳的判断であるとする。但し、それは「[それ以後ユダヤ人であると分かった場合でも]自分は例外である」としないことをも含まなければならない。「自分だけは別である」とすると、それはエゴイズムとして道徳的判断ではなくなる。(「自分をも含めておよそすべてのユダヤ人は殺すべきである」ことを認めることは可能であり、それは道徳的判断であるが、Hareはそうしたことをも認める者をfanaticと呼んでいる。)ここには「指図性」が関わっているのだが、このタームで言うと、〈自分に対する「指図」をも引き受ける〉というかたちで、語用論的要素が組み込まれているのである。

***

[16] これは江口氏からは(今の所は)御指摘のなかったところであるが....。p.93最終段落中の、上から2行目の「実在的」と、下から4行目の「実在的」とは別のものである。前者はO'Neillが(曖昧なままに)言うものであり、後者は私のものである。


追加:

江口氏の再コメント


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編集後記

 コメントへの回答等を掲載するいわばafterprint号とでもいったものも刊行して行きたいと思う。本号はそのサンプル号であって、安彦の小論稿は別のものに掲載した論文へのコメントに対する回答であるが、今後、例えば1号掲載に関するものを1.11,1.12,1.13....1.19号として刊行して行きたい。

 お願い:(linkなしで)語句にアンダーラインを付ける方法が−−ないとは思うが、もし−−あれば教えて下さい。(日本語文中で)ドイツ語、フランス語の特殊文字を表示する方法を教えて下さい。

(安彦記)



1996/06/26


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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

1996/06/26 作成
1996/08/29 追加