第一号


目次

  1. 創刊にあたって(転載)
  2. 安井 惣二郎 滋賀の平和教育
  3. 安彦一恵 「相対主義」の克服−−R.ローティに即して−−
  4. 執筆要綱(暫定版)
  5. 編集後記


   

創刊にあたって

 我々の研究室でも、まだ試行錯誤の段階であるが、ようやくインターネット・ホームページを作成・公開できるようになった。これを機会に、いままで専ら財政的な制約で断念せざるをえなかった哲学・倫理学関係の専門雑誌を、エレクトリック・ジャーナルとして刊行したい。

 雑誌名はDIALOGICAとする。これは造語であるが、意味は明瞭だと思う。我々は、論争的な論稿の公表を主たるものとして考えている。特に我が国では「論争」−−哲学のスタイルが本来そうであった「論争」−−に欠けるところがある、というのはほぼ共通の認識であろう。欧米圏の最新の研究をいかに手際よく、あるいは迅速に紹介するかで勝負するという、あるいはドップリとタコツボに浸って自分の研究を自分だけで積み上げて行くというスタイルがなお主流であるように思われる。少しく振りかぶって言うが、我々はこの現状を改めたいとも考えているのである。

 今後の運営方針はまだ多く未定であるが、まず我々の研究室のメンバーが論争を「仕掛け(てみ)る」ことから始めたいと思う。反論・批判、あるいは論争への「介入」等があることを当然、期待するわけだが、御希望の場合は、研究室以外の方であっても、反論の論稿を掲載したいと考えている。(あるいは逆に、少なくとも当初は全く反応がないということも考えられるので、同時に反論等を「依頼」することになるかもしれぬが、よろしくご協力をお願いしたい。)その場合も含めて、原稿は、html言語で書いたものをms-dos等のtextファイルで提出することを原則としたいと考えている。その際の「執筆要綱」もいま作成中であるが、それも、とりあえず第1号を発刊してみることのなかで細部まで詰めていきたい。

 また、すでに始められておられるところもあるかとも思われれるが、同様の試みとのネット・ワークの形成も考えたい。これについて、情報等をおもちの方は、連絡いただければ有難く思う。

                           1996/03/22


   

滋賀の平和教育

安井惣二郎

[1] 八年前、県下の全ての小・中・高・養護学校、計403校を対象に、現在行なっている平和教育の実状をアンケート調査した(回収率44.2%)。学校全体で取り組んでいるもの25.6%、一部で取り組んでいるもの47.2%、特に取り組んでいないもの27.3%。分野別では、学校行事(修学旅行、映画回・講演会、学芸会・文化祭など)50.0%(以下複数回答)、学級活動29.8%、道徳教育32.0%、教科教育(社会、国語など)79.8%、課外活動6.2%であった。特に社会科では、憲法学習との関連で60.5%、あるいは歴史における重要な観点として59.9%、国際社会の視点から42.7%、歴史的事実として22.9%、郷土学習の一環として10.2%など多様な取り組みがなされている。(滋賀大学『平和教育の課題と方法に関する学際的研究』(U),1989年) 十分な調査とは言えないが、滋賀の平和教育は長い歴史と着実な広がりを持っていることが分かる。
[2] そこで先ず、平和教育の中心となるべき社会科、それも「高校社会」の抱えている問題に限って私見を述べたい。
[3] 数年前から高校社会は、地歴分野(日本史、世界史、地理)と公民分野(現代社会、政治経済、倫理)とに分けられ、殆どの高校が、主として大学受験対策上、前者に圧倒的な比重をかけたカリキュラムを採用している。その結果(と言うべきか)、受験生の九割が地歴を選択し、そのまた八割が「日本史」に集中する。しかも夙に指摘されているように、近・現代史は過密カリキュラムの中で素通り、ないしは時間切れで終る。これでは、ヴァイツゼッカーの「道徳的に傲慢不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人びとの助力をしたい」という、歴史教育の目的は達成され難いであろう。
[4] 他方、学校現場で殆ど無視されている公民分野、とりわけ「現代社会」は、実は、地球時代の普遍的価値とも言うべき平和、人権、民主主義、社会的公正、環境について考えさせる科目である。教科書の目次を見れば、「自分らしさとはなにか?どうつくるか?」から始まって「かけがえのない地球を守るには」「ゆたかさとはなにか」「地域の変化と住民自治」「政治参加と世論の役割」「日本国憲法と恒久平和主義」「諸民族の独立と南北問題」「地球市民の倫理」まで、市民教育の(ひいては平和教育の)基礎と応用問題が網羅されている。高校教育の現場で公民教育が軽視され続けるならば、日本の若者は、地球民主主義の時代からますます取り残されていくのではないか。
[5] 子どもたちは、明日のみならず今日の市民である。悩み苦しみ考える時間と場所を保証しなければならない。そうすれば、自分の意志で決め責任をとる市民に成長するに違いない。そのためには大人自身が人間らしさを回復しなければならない。

(『しがの住民と自治』58号から転載)

テキスト・ファイル


   

「相対主義」の克服−−R.ローティに即して−−

安彦一恵

はじめに

[1] R.ローティは、形而上学を批判するというかたちで、あきらかに絶対主義を批判している。我々も(彼が批判する意味での)絶対主義は採用できないし、現在では単純に絶対主義を説く者はほとんどいない。それでは単純に、逆の相対主義が正しいということになるのであろうか。積極的に相対主義を説く論者はかなり多いし、その数は(いわゆるポストモダニズムのもとで)増えてもいる。しかしながら我々は、主張(間)の対立が在るところでも何が妥当かが決められないということを相対主義が含意しているのであれば、それは断固として退けられなければならないと考える。そういう相対主義のもとでは、対立の状態がそのまま残ることになるか、なんらかの力によって妥当性の外部で対立の解消がなされることになるからである。いずれであっても、我々はこれを認めることができない。しかし他方、ローティ自身は、自分は相対主義ではないとして、独自の「自文化中心主義(ethnocentrism)」を提唱している。以下、彼のこの「自文化中心主義」を検討するというかたちで、「相対主義」克服の途を探っていきたい。

一 自文化中心主義と相対主義

[2] なんらかの実在的事態があって、それを正しく写し取ったものが真理である、という実在論的発想をローティは「形而上学」として批判したわけだが、それに代えて彼が提案するのは一種の合意説である。つまり、真理について「客観性を連帯に還元する」(PPI 22)わけである。そして、その「連帯」については、「強制のない合意で十分」(PPI 38)である。そういう「合意」を得たものが真理なのである。
[3] しかしながら逆に、合意があれば何でも真理だというわけではない。ローティは、そうした、いわば純粋な合意説を採っているわけではない。真理であるのは、あくまでなんらかの「テスト」(PPI 38)に耐えたものだけである。だが他方、そのテストの「根拠ground」として普遍的なものが存在するわけではない。問題になる信念は「我々がすでに所有している諸信念」のネットワーク(体系)のなかでテストされるのであり、「根拠」として言うなら、信念のテストの「根拠」はあくまで「我々の」一定の信念なのである。そしてこれは、我々の(特定の)「文化」が所有する信念でしか在りえなない。「我々は、我々自身の光の下でやるしかない。頼ることができる超-文化的な観察台といったものは存在しないからである。」(PPI 213) したがってまた、「根拠」が在って、それに基づいて信念の正当化はできるのだが、「我々は我々の信念を全ての者に対して正当化できるわけではなく、一定の適切な範囲で我々のものと重なる信念をもつ者に対してだけそうできるのである。」(PPI 31)

[4] だが、これでは相対主義になるのではなかろうか。実際パトナムはそう見ている。彼は言う。「リチャード・ローティは文化的相対主義者だと私はみなす。・・・・・・彼は真理を正当な受容可能性と同一視するが、その正当な受容可能性を例えば自分と文化的に同等の人々の尺度によって判定するからである。」(PPIII 235)「我々は思想者であり、そして思想者として我々は、なんらかの種類の真理、実質的であって単に「引用符消去的」でないなんらかの正しさが存在するということにコミットしているのである。・・・・・・このことは、規範的なものを消去できないということを意味している。」(PPIII 246)
[5] これに対してローティは次のように反論する。例えば「ナチの世界」と「我々の世界」とではどちらが正しいのかの判決を下すために「事柄の事実」に訴えることができないので私は相対主義者だ、とパトナムは批判するのだが、しかし、そうした「事柄の事実」に訴えることはできない(PRM 451)。そうするならば「実在論」になってしまう。
[6] しかし他方、パトナムもそういう(単純な)実在論ではない。ローティはそう捉え直して、次のように論を展開する。実は我々は共に、真理を「合理的な受容可能性」として考えているのだが、問題は、パトナムがこれを更に「理想化された合理的受容可能性」として考えているところに在る。しかしながら、そう考えること自身は別に構わないが、これは「一定の理想的な共同体にとっての受容可能性」としてでなければ意味をなしえない。そしてこの共同体は、パース的な路線で「我々人間」というものを持ち出してしまう不毛な考え方に行ってしまうのでなければ、まさしく「教育を受けて洗練された、寛容で心暖かい(wet)リベラル」である「我々」以外のものとしては考えることができない。そして、こうした「我々」という「共同体」にとっての「合理的受容可能性」を語ることは、結局「自文化中心主義」を説くことになるのである。(PRM 451f.)

[7] しかしこれでは、「ナチの世界」と「我々の世界」=リベラルの世界との間で判決は結局リベラルの基準からなされるのであって、結局やはり相対主義になるのではなかろうか。「共有された共通の前提に訴えることによって全体主義者を打ち負かすという方法は存在しない。」「共通の人間本性があって、それが無意識的には全体主義者にもこのような共通の前提を所持させる、と言い張ってみても無意味である」(I 42)と語るとき、ローティは確かに相対主義であると見える。
[8] しかしローティはここで、「我々」を端的な「我々」、いわば固定的事実としての「現在における我々」ではなく、「最良における我々」として、テストの「根拠」としての「信念」体系として言うなら、我々の現在の信念体系としてではなく、修正を加えて行って我々が将来もつであろう最良の信念体系として語っている(PRM 452)。彼は「自文化中心主義」を「自文化帝国主義」から区別するが、この区別が含意するところは、この、「現在における我々」から「最良における我々」を区別し、「根拠」を後者に置くところに在ると考えられる。
[9] パトナムはしかしなお、そうした「より良い」といってもあくまで特定の「我々」から見てのものであって、結局相対主義になると更に批判する。そうした「最良」であるなら、結局複数の「最良」が在るのであり、「ナチの世界」と「我々の世界」とのいずれが正しいかということも、「ナチの世界」の「最良」と「我々の世界」の「最良」とが在るのであって、結局判決不可能ということになるというわけである。(cf.RHF 3ff.)
[10] しかしローティは、パトナムの批判を躱すかたちで更に論を展開してもいる。「より良き信念体系」を「我々自身のより良きヴァージョンとして我々が認めることができる言語使用者」の次元に還元して、次のように語る。「彼らをより良きヴァージョンとして認める」ということは、「問題となっている中心的論点においてなお我々と一致する人々として認める」(x)ということではなく、「合理的説得と強制との区別についての我々の現在の観念に照して合理的説得だとみなすことができるようなプロセスによって、我々のとは異なった信念をもつに至った人々、として認める」(y)ということである(PRM 454)。ローティはここで、信念体系のいわば内容と形式とを区別するということをポイントとして、(x)であればパトナムの言うように相対主義となるかもしれぬが、(y)であるなら、「自文化中心主義」でありつつ、かつ相対主義を脱することができる、と語っているのである。

二 「討議」の可能性

[11] R.M.ヘアは、「すべてのユダヤ人は抹殺されるべきである」という「ナチ」の主張について、そういう主張をする者が、実はその者自身がユダヤ人であることが分かった場合どうなるか、その場合でも「ユダヤ人がいない世界」を理想として自己を犠牲に供してもなお主張を続けるか、あるいは自分の存在の確保という利害を優先して主張を撤回するか、という場面を仮設してみせている。ヘアはここで、通常の人間ならば後者の途を採るだろうとして、いわばナチの主張の非人間性を暴露しているが、同時にそこには次のような論理が並行している。この仮設的場面においても「自分は例外だ、自分以外のユダヤ人は抹殺されるべきだ」という第三の途も可能なのだが、それは(エゴイズムとして)「道徳の論理」を外れることである。「道徳の論理」内では、「個人の存在[という利害]が優先されるべきであって、何人であろうとおよそ抹殺は許されるべきではない」という主張と、「自分を含めて何人であれユダヤ人は抹殺されなければならない」という「狂信的なナチ」の主張の二つしか在りえない。この二つにおいては、議論によって「(狂信的)ナチ」の非を言うことはできない。しかし逆に、「道徳の論理」と「利害の重視」とを共に前提とするなら、その二つから、それらと不整合であるとして「(狂信的ではない)ナチ」の主張の非が導出できる。(以上、『自由と理性』参照)
[12] ローティの上の議論は、形式の重視として更に展開するなら、このヘアの議論と構造的に同じであるとみなしうる。つまりローティに即しても、「リベラル」が「狂信的ではないナチ」と対立しているとして、そのリベラルが、自らの当初の単純な「人を殺してはならない」という信念から、(道徳に加えて)「およそ全ての人の自己利害の主張は認められるべきである」という「より良き」信念へと深化させるとき、ナチもまた−−狂信的ではなくて−−それを認めるなら、その深化された共通の信念を基準として「ナチ」の主張の非を導くことができるのである。
[13] またパトナムも『理性・真理・歴史』で、「完璧に合理的なナチ党員」を相手として、その「目的」(ユダヤ人の絶滅)について、直接的にその非合理性を言うのではなく、それが(事実認識の点で)「馬鹿げた」主張を根拠にしていることを明らかにするというかたちで議論によって論駁できるとしている。(312ff.)
[14] この共通の基準(根拠)からの導出による一方の是、他方の非の導出というやり方は、典型的にはハーバマスの討議倫理の基本をなすものであり、またラーモアが言うように(Patterns of Moral Complexity)一般に民主主義的討議の基本であるのだが、ローティにもこれを説いているところが見られるのである。例えばこう語られている。「調整と寛容の精神は、ニーチャやロヨラ[のような非-リベラル]とも共通の根拠を求めるべきであることを示している。」(PPI 191)「自分の良心において公共的政策にとって重要であると思うが、彼の仲間の市民と共通の信念を基礎にして弁明することができないと分かるとき、個人は、公共の便宜という祭壇において自分の信念を犠牲にしなければならない。」(PPI 175)
[15] 我々はここに、「自文化中心主義」を(不可避の)前提にして、かつ相対主義を克服する途を見ることができる。これは、西洋起源のリベラリズムをして、それに内属する西洋性を越えて機能させる、ということと等値であり、実際ハーバマスの討議倫理学も基本的にこの構造をもつものである。

[16] しかしながらローティは、この討議の可能性を十分に展開していない。ヘアが可能性を示した「リベラル」「ナチ」間についても、[14]の第一の引用文を更に、「確かにそうではあるが、しかし、どこにこのような共通の根拠が見出されるか、あるいはそもそも見出されるか否か、予め語ることはできない。・・・・・・人間存在は信念・欲求の中心のない体系であって、それが用いる語彙とその見解は歴史的状況によって規定されているという[私の]見解は、二つのこのような体系の間で、政治的論点について可能な合意に至らしめるほど十分な重なりは存在しえないという可能性に余地を残している」(PPI 191)と続けている。
[17] ローティは、同時にフーコーを「リベラルであることに気が進まぬイロニスト」、ハーバマスを「イロニストであることに気が進まぬリベラル」と規定しつつ(CIS 61)、自らを「リベラルなイロニスト」と規定している。「リベラル」とは「残酷さが我々がなす最悪のものであると考える人々」であり、「イロニスト」とは「自分自身の核心をなす信念・欲求が偶然的なものにすぎぬということを直視するような種類の人々、十分に歴史主義者・ノミナリストであって、そうした核心をなす信念・欲求が時間と偶然の射程を越えた何かを指示するという考えを放棄している人々」である(ibid xv)。
[18] 他所をも手がかりにこの規定を整合的に解釈するなら、「リベラル」そのものは、「希望」をもって端的には「残酷さ」という問題の解決を志向する者、「イロニスト」そのものは、そうした志向の普遍的根拠の不在を反省しうる者ということになる。ここからするならローティは、普遍的根拠に依拠することなく問題の解決を志向する者とでも理解できることになる。これに対してハーバマスは、十分に「歴史主義」的でなく、もはや「形而上学」的にではないが、討議においてなお普遍的根拠を求める者、フーコーは、そうした普遍的根拠の不在から、およそ解決の不可能を語る者と規定されることになる。
[19] だが、普遍的根拠に依存することなく問題の解決を結果する具体的方途をローティは示しえているであろうか。ローティは具体的には、二つの途の間で揺れているように見える。一つは、特殊でしかない根拠に基づいて、そうしたものとしての解決を求めることである。例えば「古くからの馴染みの根拠のすべてを動員してなお論点について議論することができる」(PPI 67)と語られるときがそうである。この場合は、予め根拠を共有している人々の文化内に限定して、その間での根拠に基づく問題解決が目指されている。
[20] しかし他方では、同様イロニストであるリオタールが、各文化を越えたところでは根拠に基づく「係争litige」は不可能であって、およそ合理的な解決の不可能な「抗争différend」のみが可能である、とすることを批判して、「政治的リベラリズムとは、抗争をできるだけ係争に置き換えるよう努力するという提案のことである」と語る(PPI 216f.)。そして、そこでは逆にハーバマスとの親近性を語りながら、恐らくは西洋リベラリズムの延長線上に、しかしその特殊性の枠を越えて、将来「合意」が達成されるであろうことを説く。例えば、こう語られる。「人間性の歴史は、人間の間で達成される自由な合意の量にまさに比例して、換言するなら、強制を説得に置き換えること、抗争を係争に置き換えることに比例して、一つの普遍的な歴史となるであろう。」(218) しかしここでは、それが合理性による合意であることが強調されはするが、その合理性は「非-基準的なnoncriterial概念の合理性」(220)だとされる。つまり、他方では各文化を越える問題解決が志向されるが、その場合は、根拠に基づく是非の判別として解決が考えられているのではないのである。
[21] 第一の途では、いわば一定の文化内で相対主義が克服されるに留まり、第二の途では文化の枠を越えて相対主義の克服が志向されながら、そのかたちが曖昧である、という格好になっている。純形式的に見るなら、後者においては純粋な合意説として相対主義の克服が語られているともみなしうる。しかし、その「合意」はいわば事実でしかない。換言するなら、事実として合意が達成されるなら問題解決に至る、そうでないなら解決に至らない、ということでしかない。ローティ自身、(将来における)合意を希望をもって期待しつつも、その実現可能性をアプリオリに語ることはできないとするであろう。これに対してハーバマスでは、実はローティと基本的に異なっているのであり、彼の場合でも合意の実現そのものは一つの事実でしかないが、根拠による是非の判別が原理となっており、合意はその是と判別されるものでの合意でなければならない。そこでは、是と判別されたものを実際に認めるということは一つの事実であるが、しかし是であるものの確定が可能的には、あるいは規範的には−−[4]で挙げたパトナムの「規範的なものを消去できない」という発言は、ローティはこれを何のことか分からぬとする(cf.PT 418)のだが、我々はこのように理解することも可能だと考える−−すでに合意を実現している。我々は、相対主義を最終的に克服するためには、この根拠による是非の判別が不可欠であると考えている。
[22] ここで一つの異論が予想される。ローティにおいて〈二つの途〉なるものは存在しない。内文化的にせよ、間文化的にせよ、いずれにおいても合理性は「非-基準的」なものとして考えられており、根拠といっても決して基準的なものではない。そもそも信念体系は複雑に絡み合ったものであって、そこに(「原理」として)−−基準として取り出しうる−−確定した中心なるものがあるわけではない、と。ローティのいわゆる「全体論」的立場である。我々はそれでも、ニュアンスとして二つの方向が在ると見るのだが、それは単なるニュアンスの差だと無視しても構わない。しかし、その場合我々は、「全体論」、というかむしろ、その「全体論」のローティにおける実践的帰結を端的に批判しなければならない。信念体系(全体)を非-基準的に考慮して、裁判に即して言うならいわば利益衡量論的に総合的・直観的に判定がなされるということになるのであろうが、我々はそれでは実は是非の合理的な判定はできないと考える。合理的な判定を完遂するためには、この体系にいわば切れ目を入れていって、なにがしかの基準を措定するのでなくてはならない。次に見るように冨田恭彦は、ローティにおける問題解決のアド・ホミネム性を指摘するが、我々からするなら、そのアド・ホミネム性はこの基準設定のアド・ホミネム性でなければならない。
([23] 「基準criteria」という言葉をローティは次のように用いている。
1. 「『合理性』という言葉の二つの意味を区別する・・・・・・。一つの意味においては・・・・・・〈合理的である〉とは〈方法的である〉こと、すなわち予め定められた成功の基準をもつこと、を意味する。・・・・・・[これに対して]詩人や画家は、仕事を進めるなかで、業績の新たな標準standardsを作り上げる。」(PPI 36)
2. 「合理性を市民的教養性と見るプラグマティズムの見方からすれば、探求とは、個々の問題に基準を適用することではなく、むしろ、信念の網目を絶えず編み直すことである。他の信念が変化するように、基準も変化する。」(『連帯と』14。この箇所はPPIには見当たらない)
3. 「[悪しき意味での]自文化中心主義を避ける途は、我々〈ぼかし主義者fuzzies〉がそれを放棄しているとして非難されるその当の種類のものをまさしく放棄することである。つまり、我々の信念を変更するための基準の最も簡単に、最も大雑把に定式化されたものだけを、最もゆるい、最も流動的な標準だけをもつことである。」(PPI 43)
 単に言葉使いの問題が在るだけだと言うならその通りなのだが、−−引用文2.の原文は未確認だが−−「基準」は確かに肯定的にも用いられており、我々が言う〈第一の途〉は言葉としてはここに手がかりを置いている。退けられているのは、「予め定められた基準」「一般的・中立的で、予め定式可能な基準」だけであって、「基準」そのものが退けられているのではないと解しえるのである。そして、なんらかの「基準」−−あるいは「標準」であっても構わないが−−への依拠なしでは、判定は直観的になされるだけであって、それでは本当には是非の判別ができないと我々は考えるのである。)

三 相対主義の実践的克服−−正義の確保−−

[24] 相対主義の克服について結局ローティが語りえているのは、異なったものに対しても耳を傾け、場合によっては自ら見解を改めていく用意の在る柔軟な精神といったものに過ぎない。換言すればこれは「寛容」の精神であって、そういうものの主張としてローティはまさしくリベラリストである。倫理学的に見るなら、しかしそのリベラリズムには、同じくリベラリズムの精神を基本とするハーバマスと異なって、あるいは更にロールズとも異なって、「正義」の感覚が弱いというところが在る。「正義」には、いわば冷酷なところも在って、是は是、非は非として峻別するというところが在る。これは−−それはまたそれとして問題としうるのではあるが−−妥協の精神といったものとははっきり異なる。先に見たようにヘアのリベラリズムには−−論理を追求するとそうなるとして説かれているのだが−−あくまでもエゴイズムを排除するというところが在るが、こういうエゴイズムを許さないという点でローティの主張は弱いのである。
[25] このことの裏面には、彼が言う「ポストモダニストのブルジョワ・リベラリズム」の「ブルジョワ」性が在ると考えられる。敢えて否定的に言うが、「ブルジョワ」として自らの基本的利害を確保した上で、あるいは利害が確保されている地歩の上で他者に対して例えば「寛容」であるというところが在る。そして、このような「寛容」の下では、すでに自己の利害は確保されているのであるから、討議は第一義的に解決を志向するものであることを止めても構わないのである。討議は、まさしく彼が言う「会話」となる。これに対して例えば弱者の立場からは、自らの状態は直ちに是正されなければならない。討議は第一義的に是非の判別をつけるものでなくてはならない。そして場合によっては、自らの状態が是とされている(ローカルな)根拠自身を問うて、その根拠自身の妥当を問うものともなる。討議は、例えば岩崎稔の解釈(「解釈学のポリティクス」『情況』1991年7・8号)ではハーバマスの討議説においてもそうなのであるが、リオタールの言う「抗争」の様相をも示すのであって、しかし同時に、現状の是正を目指すものであるから−−例えば「革命」ではなくあくまで合理的解決を求めるかぎりで−−その抗争を深い次元において「係争」化するものでなければならない。

[26] 日本の代表的論者で言うと、冨田恭彦は、曖昧さを含んではいるがなお解決を志向するというローティの側面を強調しているように思われる。彼は言う。「ローティがしばしば言うように、この争点を一事不再理的に決着せしめるような中立的な論証を、われわれはおそらく提示できないであろう。だがわれわれは、ローティに与して、アド・ホミネムな論拠を、事実問題として提示することはできるであろう。・・・・・・そしてとりあえず、なんらかの結論に至る。」(『クワインと現代アメリカ哲学』196)
[27] これに対して、同様代表的な論者である野家啓一は言う。「 それに対してローティは、共約可能な「普遍的基盤」を求め、それを基盤にして「究極の一致」としての真理を目指すような哲学の活動はすでに終焉した、と宣告する。/それに代えて彼が提出するのは、「さまざまな言説の間をとりもつソクラテス的媒介者」としての哲学の役割である。つまり、「共通の基盤」を捜し求めるのではなく、むしろ「異質なもの」どうしのポリフォニックな交響を享受し、一致ではなく、むしろ「刺激的で実りある不一致」を増殖する活動こそ哲学に期待されているものなのである。」(「プラグマティズムの帰結」『現代思想7』299)
[28] 野家のローティ像においては、文化を越える次元に定位して「抗争」を展開するが、もはや問題の解決を志向することを止めて、それを脱-実践化して様々な声を「詩的」に響かせ合うという「会話」の姿が前面に出ている。ローティには、基本的にはプラグマティストとして実践的であるが、確かにそういう脱-実践的なところも在る。ハーバマスはこの側面に即して、「ローティは観察者の観点を絶対化する」と批判する(HM 195)。

[29] これに対して冨田は「ハーバマスはかつてローティを、「観察者の観点を絶対化するもの」と批判したが、このような誤解こそが、ローティを「相対主義者」と断ずるとともに、徹底した歴史主義がまさしく「参加者の観点」から自ずと出てくるものであることを見誤らせるもとともなっている」と語る(ローティ『連帯と自由の哲学』への「訳者あとがき」287f.)。これを受けて川本隆史も、「冨田が・・・・・・注意するように・・・・・・むしろローティの方が「参加者の観点」に立っていると言えるだろう」としている(「民主主義と私たち凵v『現代思想』1989年11月号)。我々は、この〈転倒〉のうちに相対主義の克服をめぐる一つの問題性が在ると考えている。
[30] M.ウォルツァーは次のように説いている。「道徳哲学を行うこれらの三つの在り方を私は、発見の途、発明の途、解釈の途と呼ぶ。発見と発明は、道徳的存在を判定すべきなんらかの外的で普遍的な尺度を見つけることを望むという点で、逃避の試みである。・・・・・・存在の批判は、存在そのものに対して内的な原理から始まる、ないしは始まりうる。」(Interpretation and Social Criticism 21) ローティ的な「解釈の途」こそが参加的であって、ハーバマス的な途は実は高みからの観察の途でしかないのである。冨田のローティ擁護=ハーバマス批判も基本的に同タイプのものであるが、これはしかしハーバマスの議論のポイントを外している。
[31] 正確を期すため少し長い引用になるが、ハーバマスは次のように述べている。「歴史家あるいは民族学者として単に肩越しに見るのではなくて参加するかぎりで、我々は、ローティが消去しようとする〈妥当な見解〉と〈社会的に受け容れられている見解〉とのまさしくその相違を保持する。・・・・・・「妥当な論拠」という潜在的には規範的な概念を「その時に我々にとって真であるとみなされている論拠」という記述的な概念に整合的に置き換えることができると思う点でローティは、客観主義的誤謬を犯している。議論に参加している者の遂行的態度をすでに学んでいるのでなければ、我々は、三人称の観点から〈これは議論の行為だ〉と記述するところのものの意味を理解すらもできない。すなわち、一人称の観点から、特定のローカルなコンテクストの地方的合意を越えた地点を差し示す妥当性要求を掲げるということが、何を意味するかを理解できない。こうした能力こそが、我々の意見に確信の性格を与えるのである。」(HM 194)ハーバマスによるなら、参加者であるかぎり、人は自分の見解を妥当なもの、単に一定の社会にとって受け容れられているものとしてではなく、そうした社会をも越えて普遍的に妥当なものとして主張する。普遍的に妥当なものとして主張されるものが、それ自身本当には妥当でないという可能性も在る。また、妥当ではないという批判の余地も当然開かれている。しかし、そこで「我々にとっては受け容れられているもの」として主張するなら、それは実は問題解決という実践の場から距離を取って観察者の立場に立ってしまっているのである。
[32] いつまでたっても見出せぬ普遍的根拠を求めるなら、それは差し迫った問題の解決を引き延ばしてしまうことになる。この点に即して冨田は、問題解決の緊急性に即して「アド・ホミネムな論拠を提示し・・・・・・とりあえず、なんらかの結論に至る」べきである、そうしたことをしない普遍主義者は(結果として)観察者的になる、と述べるわけだが、ハーバマスが強調する相違は、そうした普遍的根拠とアド・ホミネムな特殊的根拠との間に在るのではない。問題にされているのは、「真である」と(普遍的な)妥当性要求を掲げて主張するか、「・・・・・・に受け容れられている」と妥当性を付さずに、その意味で第三者的に主張するかの相違である。そしてハーバマスによるなら、自己(自文化)をも相対化するというイロニカーの反省が在るのではあるが、この妥当性要求を曖昧にしてしまうローティこそが観察者の観点に立っているのである。そして「討議」とは、こうした妥当性主張同士の対決の場なのである。
[33] 普遍的な妥当性の主張と、普遍的な根拠ということとは互いに独立である。普遍的な根拠の確定に基づいて、普遍的な妥当性の主張がなされるわけではない。妥当性の主張であるから、なんらかの根拠に基づいて主張されるわけだが、それが普遍的であることの確証に基づいて妥当性が主張されるわけではないのである。したがって、にもかかわらず普遍的妥当性が主張されるわけであるが、およそ妥当性要求は普遍的でしかありえない。特殊的でしかない妥当性要求というのは形容矛盾である。端的なかたちで言うが、そういうものは「私から見れば・・・・・・である」といったものであって、それでは「・・・・・・」の妥当性が主張されることにはならない。妥当性の主張であるためには、「誰から見ても・・・・・・である」とされるのでなくてはならない。
[34] この「誰から見ても」は、厳密に言うなら、「あなたと私のいずれから見ても」で十分である。第三者的に見るなら、この「あなたと私」は「我々」に過ぎない、そういうものとして特殊に過ぎないと言うこともできる。しかしこの「我々」は、「我々」と「彼ら」が対立している場合の「我々」とは別である。あくまで対立者の双方を含むものとしての−−逆に、その限りのものではあるが−−「我々」である。そして、そういうものとして(当事者にとっては)一つの普遍なのである。
[35] ここで普遍性そのものを問題とするなら、それは討議において主張されるもののではなくて、いわば討議という場の普遍性である。ローティで言うなら、「強制ではなく合理性を」というその主張の普遍性である。もちろん、こうした形式そのものの普遍性主張をも批判することはハーバマス自身認めるように可能である。また、この形式の主張自身も自文化中心主義であると批判することも可能である。しかしその場合の自文化中心主義は、いわばメタ次元のものであって、我々はこのメタ次元性の確保にローティの可能性を見たのである。

[36] 野家的な(言うとするならオークショット的)ローティ像においては、「討議」の「会話」化が顕著である。そこでは問題の解決が放棄され、さまざまな見解の、むしろ「不一致」こそをめざす対置が「哲学」として説かれている。そこでは、「妥当性要求」を伴わない、言うとするなら(こうも考えられるという)「物語」の提示が専らである。これは、冨田的なプラグマティスト的ローティ理解とはかなり異なってくる。この点で、「私は妥当性要求を掲げません。ただ物語をしているだけです」という冨田が紹介した(上記『クワインと』206)ローティの発言を「冨田はどう考えるか」という野家のコメント(『週刊・読書人』1994年7月22日号)に、冨田は−−形而上学は物語であるという自明の次元ではなく、例えば「人間は平等であるべきだ」という(弱者の)主張が、それもまた物語に過ぎぬのかという次元で−−是非答えてみて欲しい。そこで、二つのローティ理解、あるいは二人のローティの間で有益な論争が生じるはずである。
[37] このように観察者の観点で物語の対置がなされるだけであるなら、問題の解決はどうなるか。先程の引用文を野家はこう続けている。「哲学は安心立命の業ではない。われわれは今ここで、自分自身の「生」を歴史的負荷とともに引き受ける以外のことはできないのである。」(299)ここから見るなら、問題解決−−それはそれとしてなされなければならないし、また、現状の不変更の場合も含めて事実として必ずなされるわけだが−−は「討議」ないしは「会話」の外部で、いわば現実に委ねられることになる。「哲学」はそれを眺めるだけ、あるいは受け容れるだけということになる。

[38] 冨田も野家もローティの行き方のメタファーとして「ノイラートの船」に言及するが、野家の場合、それはオークショット・ヴァージョンのものである。オークショットはこう述べている。「かくて政治的活動においては、人々ははてしなく底も知れない海を行くのであるが、そこには、停泊できる港もなければ、投錨するための海床もない。また、出航地点もなければ、目ざされる目的地もない。そこでの企ては、ただ船を水平に保って浮かびつづけることである。海は、友でも敵でもあり、船乗りの仕事は、行動の伝統様式という資産をうまく使いこなして、すべての敵対状況を友好的なものへ転化することである。」(『政治における合理主義』(勁草版)147)
[39] これに対して冨田が念頭におくものはノイラートのオリジナル・ヴァージョン(プロトコル命題」『現代哲学基本論文集I』)に近いものであって、人間の制約の事実としていわば中立的に自文化中心主義を語らせるものであるように思われる。違いを言うなら、そこにはオークショット的な(K.マンハイムの意味での)保守主義的ニュアンスは見られない。
[40] 実は、あまり知られていないがパトナムにも独自のヴァージョンがあって、これは、我々がローティにも確認した討議説の可能性に対応するものである。パトナムはこう述べている。「私の見取図は・・・[ノイラートの]・・・修正版である。・・・・・・私のイメージは、一隻の船ではなく、船団から成り立っている。・・・・・・[ノイラートのイメージに加えて、更に]人々はある船から他の船へ物資と道具を手渡しており・・・・・・。最後に、人々は、場合によって彼らが乗っている船が嫌いになり、他の船に完全に乗り換える決断をすることもある。」(『実在論と理性』250)

おわりに

[41] 「会話」においても、さまざまな見解の対決のなかで、相対主義の克服はなされうる。あるいは、例えば解釈学的な「地平融合」というかたちでより深い次元でなされうるとも言いうるであろう。しかしながら我々は、このような相対主義克服の途は採らない。我々は現実の実践的問題性に定位しており、克服はこの問題性の解決としてなされなければならないと考えるからである。その場合は、形而上学(的実在論)の途はローティが批判し去ったようにもはや採ることはできないので、なんらかのかたちで「討議」のアイデアの途で行くしかないであろう。しかしまた、討議は「会話」化されてはならないのであって、解決としてそれを閉じる方法を提示しなければならない。1993年のパトナム批判の論稿のうちに我々はローティにおいてもその可能性が在ることを見たのだが、残念ながら、まだ未展開にとどまっている。その後中断されたままになっているパトナムとの論争の再開が望まれるところである。


引用略号

CIS:Rorty,R.,Contingency,irony,and solidarity,Cambridge University Press 1989.
PPI:----,Philosophical Papers,Vol.1,Cambridge Uinversity Press 1991.(これについては、冨田恭彦編訳『連帯と自由の哲学』(岩波書店)の訳を参照させて頂いた。)
PT:----,"Putnam on Truth",in:Philosophy and Phenomenological Research,vol.12,n.2,1992.
PRM:----,"Putnam and the Relativist Meanace",in:Journal of Philosophy,vol.150,n.9,1993.
PPIII:Putnam,H.,Philosophical Papers vol.3,1983.
RHF:----,Realism with a Human Face,Harvard University Press 1990.
HM:Habermas,J.,"Questions and Counterquestions",in:Bernstein,R.J.ed.,Habermas and Modernity,Polity Press 1985.

Putmanとの関係に焦点を絞ったRorty関係の参考文献については、http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/data/R_P.html で公開しているので、そちらを見て頂きたい。

本稿は、日本現象学・社会科学会第11回大会シンポジウム「相対主義」(1994年12月11日、立命館大学)で行った報告を若干修正したものである。

                             1996/04/02
テキスト・ファイル


   

執筆要綱(暫定版)

1. 原稿は、原則として、MS-DOS等の純テキストファイル(ダウン・ロード用*、ファイル名の拡張子はtxtとする)(A)と、それをHTML言語で加工したもの(拡張子はhtmとする)(B)との両方を、3.5インチ720KBフォーマットのフロッピー・ディスクで提出する*こと。(HTML言語の表記法はごく簡単なので、プリント・アウトしたもので表示を指示して頂ければ、(B)は編集担当者の方で作成するので(A)の提出だけでも構わない。)なお、ファイルは(当分)圧縮しない。
 * (ソース・ファイルではなく)表示ファイルをダウンした場合、それがどのようにテキスト・ファイルに変換されるかまだ未知の部分があるので、取り敢えずはこれも提出する。
 ** 将来は、電子メール(等)での提出も考える。
2. ページ(というもの)が存在しないので、(引用の便等を考えて)各段落に通し番号を付すこと。
3. コードは(パソコン標準の)shift-jisを用いること。そうでない場合は編集の段階で変換しますので、用いたコードを申し出ること。
4. アンダーライン、イタリック、強調、活字の大小に限っては各ブラウザーで表示できるので使用しても構わない。(B)では必要に応じてHTML言語で記述すること。その場合(A)では、印刷時に変換できるように、そのまま(B)での記号で、あるいは仮の記号で指示すること。(因みに本号の安彦論文では、アンダーラインの箇所は《....》で囲って指示している。)
5. (ロシア語、ギリシア語と違って)ドイツ語、フランス語の特殊文字はshift-jisコードでは表示できない。(B)では表示可能だが、(A)では、これも仮の記号等で指示すること。
6. 註のつけかたは特に指定しない。(B)では、論文末にまとめて本文関連箇所とリンクさせる等、適当に工夫しても構わない。
7. 参考文献紹介については、(本号安彦論文のように)別のデータベース・ファイルとリンクさせても構わない。
8. 論文執筆日時を明示すること。
* 「執筆要綱」に関しても、アドヴァイス等を頂ければ有難く思います。


   

編集後記

 準備号に引き続いて、なるべく早く創刊してみるという方針で第1号を公開することとなった。安井先生には、教育学部所属の研究室であるということから、哲学・倫理学を少し拡大した範囲でも論争を呼びかけるという趣旨で、高校の社会科に関する問題提起をして頂いた。安彦は、少し前のものであるが、論文としては未発表であるので、学会報告時のレジュメの一つを文章化してみた。本号はとりあえず創刊してみることに重きを置いたが、我々としては反応があることを期待している。(安彦記)

1996/04/02


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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

1996/04/02 作成