[001] たとえば、
戦後日本の特殊な「ねじれ」を言い立ててナショナルな物語(「来歴」?)の再建を図りたいと願う人々(中野敏男「戦時動員と戦後啓蒙」『思想』1997年12月号 160)として、加藤はほとんど例の「自由主義史観」派と同じであるという同定が(なお)なされている。本稿は、そうした同定の一つの手掛りとなっている「ねじれ」の議論に(限定的に)即して、−−かつ、対象論稿をできるだけ『敗戦後論』*第一稿に限定して−−彼の主張はどう理解されるのが(解釈として)正しいのかを明らかにしようとするものである。
* 以下、[303]-[310]を除いて、ページ数のみを記すものは、この書からの引用である。
[101] 加藤の認識では、日本はまだ「戦後という時間」(10)のうちにある。氏によればそれは、「日本が他国にたいして行ったさまざまな侵略行為の責任を、とらず、そのことをめぐり謝罪を行っていない」(10)こともあるが、第一には、「わたし達」がなお「ねじれ」のうちにあるからである。
[102] しかしながら加藤は、そうした「ねじれ」の克服*を単純に説いているわけではない。ましてや、「ねじれ」の克服として「ナショナルな物語」の再建を説いているのではまったくない。加藤にとって問題なのはむしろ、「ねじれを受けとめることを回避し」(24)ていることであり、そのこととしての「隠蔽」と、その結果としての「自己欺瞞」であり、その意味では−−克服ではなく−−「「ねじれ」を最後までもちこたえる」(93)ことが求められているのである。
[103] では、「隠蔽」されている「ねじれ」とは何か。加藤は厳密に、「ある意味で「戦後」は......“最初の数年”が終わる、一九四八年あたりからはじまっている」(46)として、四八年までの「敗戦後」とそれ以後の「戦後」とを区別する。「ねじれ」とは、この「敗戦後」に第一には「戦後憲法」の定着のかたちに示されている、いわば「敗戦」の「終戦」という意識化である。
[104] 加藤は言う。
わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。(21)そして、外国によって作られた自国の憲法という「矛盾」の解消として確かに、国民投票によって憲法をもう一度選び直すという手続きを提起してもいる。これが、−−「内容」としては、平和憲法(第九条)のままでいいとする点で異なるのだが−−いわゆる「自主憲法」の主張と重ねられて了解されることにもなるのだが、しかし氏にとってはこうした形式的問題が重要なのではない。
[105] 加藤は更に言う。
もし、ここに与えられているものがわたし達の価値観からして、否定さるべきもので、ただそれが勝者の強圧下に「押しつけられ」ているにすぎないなら、ここにわたしのいう「ねじれ」は、それほどのものではない。(21)「強圧下」に押しつけられて仕方なく受け入れている(「面従腹背」(21))のであるならばまだましであるが、そうではないというのである。
わたし達はこれを「押しつけられ」、その後、この価値観を否定できない、と自分で感じるようになった。わたし達は説得された。しかし説得されただけではなくて、いわばその説得される主体ごと変わってしまったのだ。(21)というのである。
[106] しかしこれでは、(単なる「保守」を越えた)真正右翼ではないか。そう読めてしまうのだが、ここだけでもその真意は(「主体」の)<代わり身の早さ>の批判にある。そしてそれは、(肯定的に)自己確立への訴えといったものとして読み替え可能なものではなく、まさしく(否定的な)過去の自分の棚上げという在り方への批判である。加藤によるなら、いわゆる「護憲派」の憲法論はこうした在り方からなされたものである。
平和憲法は当時の旧体質の日本政府にこそ「押しつけ」られたが、民主的改革を望んでいた日本人民に熱烈に支持された、という実質的憲法「かちとり」説、平和条項は戦争の犠牲によって日本国民に与えられたいわば死者からの贈り物なのだという憲法形見説、あるいは押しつけられたのは事実だが、以後、実質的に日本国民により長きにわたって保持されることで、この初発の「汚れ」は消えている、という押しつけ消化説(23)といったものがそのヴァリエーションとして挙げられている。加藤によれば−−厳密には、後述するように第三のものは氏からしてもここで挙げない方がいいのだが、それを除いて−−「かちとり説」「形見説」はいずれも、自らがあの戦争を行ったということを棚上げにする(、したがって戦争の本当の反省・謝罪をも不可能にする)在り方なのである。
[107] 加藤は引き続いて、いわゆる「改憲派」についても次のように言う。
もう一つ現われたのは、この押しつけられた亡国的な憲法に代わり、自主憲法を制定せよ、という主張で、それは、彼ら自身がこの戦後の新憲法の恩恵を受けていることを直視しない、これもまた現実回避の論法だった。(23)加藤は、「改憲派」に対してもこう批判を加えるのだが、この批判は批判としては必ずしも決定的でない。加藤は次のようにも言う。
これまで、改憲派の主張は、憲法が押しつけられた事実を重視し、長年自主憲法の制定を主張してきたが、国家主権確立のため、在日米軍の撤退にまで進まなければならないところ、それは米国の利害との対立を意味するため、主張に加えないという中途半端な屈折した姿勢を余儀なくされてきた。(50)つまり、(第九条を廃棄して)交戦権を明示した憲法を主張するとして、その「自主憲法」と齟齬をきたす在日米軍の存在という事実をほうかむりしているという批判である。
[108] だが、これでは批判にならい。例えばNATO諸国はそれぞれ憲法上交戦権をもっていても米軍が駐在しているように、集団的自衛を憲法で規定すれば批判できないことになる。しかしながら、加藤はさらにこう述べている。
[改憲派が]こう主張しているのは、あくまで国内に向けられた内向きの自己でしかないのである。(51)加藤の「改憲派」批判は実は、改憲派の主張はもっぱら国内に対する「内向き」の主張でしかないというところに真意がある。「内向き」であるから、本当には米軍に出て行ってもらう気などなしに説かれており、だから米軍駐在は絶対だめということにならないのである。
[109] 加藤は、この「内向き」という改憲派批判に合わせて、たとえば、
たとえば大江健三郎の江藤淳にたいする拒絶的な姿勢に代表される、かたくなな批判......。それは、当初から国内のコンセンサスの形成をめざすことを放棄した、根っからの外向きの自己にほかならない。(51)というふうに、護憲派に対しては、それを「外向き」として批判する。
[201] 加藤は、戦後日本の批判として、
戦後というこの時代の本質は、そこで日本という社会がいわば人格的に二つに分裂していることにある。(46f.)と語る。それは、最も表層で言うなら、国内に「護憲派」と「改憲派」との対立があるということである。しかし、それは単なる両陣営の対立といったものではない。そうであるなら、実質的に平和憲法を求める加藤自身からしても、護憲派の勢力を拡大していけばいいという、これまた極めて単純な主張で結論ということになる。しかし、加藤によるなら、そうではない。対立というとしてもそれは、この「外向き」派と「内向き」派との対立である。戦争の反省・謝罪が不十分であるという外からの批判に直接対応する「外向き」派(cf.48)と、それでは日本は間違っていたことになるとしてそれに反発する「内向き」派(cf.48)との対立である。
[202] しかしながら、同時に、「日本近代の開国以来」の伝統だとする岸田秀の「内的自己・外的自己の分裂」という図式(cf.48)をここで安易に適用するのは、問題であろう。単純に言っても、外からの批判はアメリカからも来ているのであって、それは(一定の)軍備を日本に求めてくるものであるから、「改憲派」の少なくとも或るヴァージョンは「外向き」であり、逆に、日本の平和だけを考える「護憲派」の一部の方が「内向き」だと言えなくもない。
[203] 「内向き」「外向き」を言うとしても、人間の一つの本性として自己の現状を肯定的に見るということを前提として、敗戦までの過去の日本に対して、その過去との連続性において、その意味で、そういう過去を伝統として受け継いできた日本の「内」から現状を肯定しようという在り方と、過去との断絶において、その過去の「外」から現状を肯定しようという在り方との対立であると言うべきであろう。むしろ、これが加藤自身の真意でもあろう。
[204] そして加藤によるなら、そうしたものとして「分裂」は、例えば「米国における民主党と共和党」のような分裂ではなく、−−「比喩的に」言えばとされるが−−そうした「二つの異なる人格間の対立」ではなくて「一つの人格の分裂」である(47)。極論するなら、「われわれ」日本人は対外的には「護憲派」であり、かつ仲間内では「改憲派」なのである。加藤はここで「比喩的に」と限定を付しているが、我々はここは直接的に受け取ることもできると考えている。その場合、もっと厳密に語る必要があるであろうが、例えば「自衛隊」についてはそれを容認するものが多数派であり、(文面上は「自衛隊」を含めて一切の軍隊を禁じる)「憲法」についてもそれを容認する方が多数派であるという、この両多数派集合の重なるところに属する人たちについては、明らかに、まさしく一人格において「分裂」していると言わなければならない。
[205] いずれにしても「分裂」は一人格の「分裂」として、ある側面から見るなら「建前」と「本音」の使い分けであるとも言いうる。自国の「利益」ということから「改憲」(あるいは武力の容認)を、「平和」という「建前」からは「護憲」(あるいは武力の否定)を、ケース・バイ・ケースによって説き分けているのであると。
[206] 加藤は、ここから、
[両派は]共通しているのである。/そこ[両派それぞれ]にないのは、一言でいえば、やはり「ねじれ」の感覚である。(51)と語るのである。
[207] 加藤はさまざまな文脈で、またそまざまな意味合いで「ねじれ」を語るが、根源的にはそれは、ここで「共通している」と言われる「ねじれ」、すなわち「敗戦」の事実が「敗戦」として自覚されていないという事態である。加藤によるならそれは、戦死者について、「改憲派」が日本のために戦った者に限定して、それを「英霊」として祀ろうとし、「護憲派」が戦争の犠牲者に限定して、それを「無垢の死者」として祀ろうとし、要するに共に、戦死者を「清い」存在として祀ろうとするところに現われている。たとえば日本国民の死者についてはこう語られる。
護憲派は、原爆の死者を「清い」ものとし、同じく改憲派は兵士として死んだ自国の死者を「英霊」とし、「清く」する。......ともに死者を「清い」、無垢な存在として祀ろうとしている点、平和記念公園と靖国神社は相似なのである。(57)[208] ここに「自覚」されていないのが、あの戦争がもった「汚れ」であり、かつそれが−−戦勝国であるなら別であるが−−(戦争目標の点からみて)「無意味」でしかありえないという「敗戦」の事態なのである。この事態に対して、「改憲派」は戦勝国の論理で戦死者を祀ろうとして「敗戦」の事実を隠蔽し、「護憲派」は非戦国(単に戦争に巻き込まれてしまった者)の論理で戦死者を祀ろうとして「敗戦」の事実を隠蔽しているのである。
[209] しかし、「敗戦国」であっても戦死者を「英霊」として祀ろうとするのは通常のことではないのか。フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』などは、まさしく敗戦を国家建設へと繋げようとするものではなかったのか。こうした異論を躱すかたちで加藤は、
第一次世界大戦でのドイツ、第二次大戦の日本、ドイツ、イタリア、ヴェトナム戦争のアメリカはいずれもその死者を義によって弔えない形で戦争をはじめ、終えた敗戦国である。(232f.)として、一般的に言って第(一・)二次大戦以降は事態が別であるという論を付け加える。加藤によるなら、そうした「世界大戦」以降は、もはや19世紀的な「国民国家」の段階を超えている。そこでは、たとえ戦勝国であっても戦死者を単純に「英霊」として祀ることが困難になっている。例えば湾岸戦争時にブッシュが米兵の死者数に拘ったのも、人命尊重といった動機からではもとよりなく、死者が多数に及ぶとき「英霊」として遇しても国民がもはや戦争を受け容れないことを知っていた為である。ましてや敗戦国の場合、戦死者はまさに「無意味」な死者でしかないのである。「改憲派」はこの「無意味」さの事実をみないのであり、また「護憲派」はそこに別種の「有意味性」を外挿しようとするのである。
[301] これは評者たちによって論点として採り上げられていないところであるが、加藤はこれら両派の在り方を「現実回避」(23)としても批判する。加藤は「改憲派」に対して、
[その主張は]、彼ら[改憲派]自身がこの戦後の新憲法の恩恵を受けていることを直視しない、これもまた現実回避の論法だった(23)と批判するが、
わたし達はこの憲法を強制された。しかし、以後、この憲法の理念を自分のものとし、何とか自分の決定において半世紀の間これを保持し、いまでは、何だ、平和憲法というものは米ソ超大国を蝕んだ産軍複合体の発生を防止する、案外使えるものなのじゃないか、というような自前の評価をもつまで、これを自分ふうに、根づかせてきている(22)とも語っており、その故に我々は加藤からしても「押しつけ消化論」は別扱いにした方が適切であると[106]では述べたのだが、氏には、平和憲法が日本の国益にとって最適であったという現実認識がある。そして、この現実認識を前提に、「改憲派」の主張は、実は本当には国益に即したものですらなく、そういう国益を含んで人々の利益をきちんと考えない「現実回避」であると批判するのである。
[302] 同じく政治家たちの失言を分析した論稿「失言と〓[べし]見 「タテマエとホンネ」と戦後の起源」(『思想の科学』1995年6月号)*では、さらに「護憲派」の方も同様「現実回避」であるとインプリシットには説きつつ、ここに「本音・建前」の(戦後)日本に固有の形態があると説いている。
* 以下、三においては、ページ数だけを挙げたものは、この論稿からの引用である。
[303] この論稿では、「愛国」=日本的価値と、平和=アメリカ的価値とが軸として設定されている。加藤によるなら、「本音」では「愛国」(=「改憲」)であるが、諸外国の手前上「平和」(=「護憲」)を説いているというのであるなら、そこにあるのはいわば単純な「自己欺瞞」である。この単純な自己欺瞞があるのであれば、「敗戦後」においては、
あのアメリカへの服従、信従を示す言動はタテマエだった。自分はたしかに親米反共をいい、自由民主主義を信奉する政党に身をおいたが、戦前以来の愛国心はホンネとして心の奥深く隠してきた(28)という「面従腹背」があったことになるのであるが、加藤によるなら、本当はそうではなかった。加藤によるなら、
わたし達はホンネをじつは信じていない。たとえばわたし達は、戦争中、鬼畜米英といい、対戦国を激しく憎悪したが、いったんこれに負け、占領がはじまると、アメリカはステキだ、と敵国にいったんは心服してしまった、帰依してしまった(14)のであって、アメリカ的価値=平和憲法を(かつて)信じたか・信じはしなかったのかと(単純に)問うなら、それは信じたのである。
[304] ここから見るなら
タテマエとホンネは、このわたし達の国民ぐるみの自己欺瞞、「自分騙し」のために、呼び出された、張り子細工の思考様式にほかならない(14)のであって、「改憲派」は平和憲法を(一端は)信じたが、「占領が終わるや、再び心意を変え、「日本教」に立ち返」(14)った時点で、アメリカ的価値を本当は信じていなかったのだと自分を納得させるために作り出された機制なのである。カタカナで「ホンネ」と表記されるのも、単純な「本音」から区別するためである。
[305] これに対して「建前」の方も「タテマエ」として戦後日本では、自分の意に反するが原則として堅持されなければならないものといったものではなかった。加藤は土居健郎に従ってこう言う。
タテマエは、[建前の]意味から言えば本来的な方針・原則だが、その日本的ともいうべき特質は、それが「人々の合意によって取り決め」られるということである。「これを要するに建前は、常にその背後に建前において合意する集団が存在することを暗示する」。それは、モーゼの十戒のような神との契約による「取り決め」ではない。それはつねに空の高みならぬ集団の内部に視点をもち、そこからその視点をもち、そこからその視点人物により、タテマエと目される。(16)要するにタテマエとは、「集団」の見解であって、個人においてはその集団圧力を受けて主張されるものなのである。
[306] そして、これとの関係ではホンネは、
逆にその視点人物がその集団内部で、「建前に合意はするものの、それとは別に」個人としての「思惑」をもつと、それがタテマエにたいしての、ホンネと呼ばれる(16)と語られているが、加藤によるなら、個人が集団の見解に、集団の見解であるから仕方なく同意するが、そこに釈然としないものが残るとき、−−(ここは)土居が言うのとは違って、「実体」として(cf.16)いわば内心において初めからあるものではなく−−そこに反定立的に措定される(にすぎない)ものなのである。
[307] 加藤によるなら、例えば細川首相の「アジア侵略謝罪発言」に反発してなされた永野法相の「南京大虐殺はでっち上げ」という「失言」は、まさしく、こうした<反定立的措定物>としてしか理解できないものである。
失言とは......タテマエをいうべきところ、「ついうっかり」ホンネをいってしまうことである(11)が、永野の「失言」の場合、その「ホンネ」は(カタカナでいう「ホンネ」であって)「本音」=「本心」では決してない。次のように言われる。
永野法相が、「南京大虐殺はでっち上げ」だという。それは彼のホンネの開陳である。しかしなぜ彼はいったん諸外国の激しい反発に出会うや、これを前言撤回できるのか。....../答えをいえば、わたし達はホンネをじつは信じていない。....../......永野法相は、「南京大虐殺はでっち上げだ」と自分では信じていると思っているのだが、それは信じているのではない。....../永野茂門は、反対されるや、いとも簡単に、前言を撤回する。なぜ大切な信念だというのに......。わたし達[同様、水野]は、とんでもないおっちょこちょいなのである。」(9-15)おっちょこちょい」であって、「タテマエ」に反発を感じるとき、ただそれに対立しただけの発言を(その場で)言ってしまうのである。そして、それは決して信念などではなく、であるから簡単に撤回されてしまいもするのである。
[308] 加藤によるなら、こうした「失言」の構造は「失言」をしてしまう者だけが有するのではなく、周りの者も多かれ少なかれそれを有している。であるから、失言者・永野は「政治生命を失わずにすむ」(22)のである。
[309] この意味では、何がホンネ、何がタテマエであるかは、内容的にではなく、その時々の集団関係によって決まるのであって、ある時にホンネであったものが、また別のときにはタテマエの位置を占めることにもなる。まさしく
タテマエは真ではなく、ホンネも真ではない。わたし達は何も信じられず、信じず、そのことからタテマエとホンネを生みだすが、このタテマエとホンネの特色は、わたし達が何も信じられず、信じていないこと、そのことをわたし達自身に隠すべく、それがわたし達によって作られているということである。(20f.)[310] 加藤によるなら、これは日本の伝統である。
ここにはやはり圧倒的優位文化との関係のうちに自己の文化を形成してきた日本の古代から続く自己形成の文化的遺制が影を落としている。....../......古代以来、日本は時の世界の中心から高度な文明の所産を輸入することで自分の文化を培ってきた。そのため......根深い二重構造性が長い間のこの社会の一つの特徴となってきた。......タテマエとホンネが隠れ蓑として憑衣するのも、この二重構造性にである。/この二重構造性は優位移入文化に対する劣位土着文化の側の「劣等感」を媒介にした「不信」の形で、長い間わたし達の心の中に生きてきた。(22f.)ただ戦後は、この<伝統>が極端になった。外部から、そしてそれを受けるかたちで内部において形成される集団の見解としてタテマエが説かれるとき、それにたいする反発としてホンネが−−「本音」だという自己欺瞞的意識を捏造しつつ−−作られるのである。とりわけ戦後において、実は「本心」などは存在しないのであって、あるのは「集団」の見解という基準と「劣等感」だけである。*
彼ら[失言者たち]は全員自分達の「ホンネ」なるものを[、但し自己確信からではなく]信じ、機会に乗じてそれを吐露する。そしてそれがより大きな集団単位の世界で批判を呼ぶや、より小さな集団単位の世界に逃げこみ、前言撤回をし、その小さな集団単位への忠誠を誓う。(29)**というのである。「前言撤回」も、(反省など含まない)集団圧力回避の意図からなされるにすぎないものであり、この「小集団」にはその集団の見解があるので、この「小集団」の見解に依存して、「前言撤回」という恥をさらしてもなお「ホンネ」を保持し、いわば安心して何度も「ホンネ」が「失言」されることになるのである。
* 本稿は『敗戦後論』第一稿を主対象としてものであるが、それは(「ねじれ」の)批判としては、湾岸戦時における、いわゆる「文学者反戦署名」への批判から始められている。この「署名」を中心的に担った柄谷-浅田路線に対して加藤は激しい敵意を示している。その敵意は、ここでいう、<もっぱら「集団」との関係でなされる主張>という在り方の側面からは、例えば次のように示されている。「ディコンストラクションといえば、先行するあるものを解体構築するわけだが、このコワされるものの実体がコワす人の中に感じられない。厳としてそのヒトの中にあるものが、解体され、脱構築される前に、それはつまらないもの、古臭いものとしてすでに彼の中でコワれてしまっている。それをコワしているのは、古来日本人の歴史感覚を支配してきた「時勢」至上観というほかない。」(「「外部」幻想のこと」(『文学界』1988年8月号)174)加藤からするなら、柄谷-浅田路線とは、もっぱら言論界の内部での流行(「時勢」)に即して主張するというスタンスのものであり、その意味で「現実回避」だというのだ。だが、柄谷-浅田の方は逆に、加藤こそ「文学的内面」に固執したまさに現実回避だと批判する。ここには、この間の「歴史主体論争」における加藤の議論をより適切に理解するためにも重要な論点がある。これについては、別稿において論じる予定である。
** 我々はここで、こうした集団定位的心性こそが天皇制の核心であるとも言うことができる。それは、逆説的に極論するなら、仮に「天皇制廃止」が多数意見となるなら、多数見解であるがゆえに自らもそれに−−タテマエとして−−同意する、というかたちをとるであろうものである。
[401] では、この「ホンネ・タテマエ」の「二重構造」は「ねじれ」にどう関わっているのか。加藤によれば、われわれ日本人は論争をもっぱら「建前」としてしか行ってこなかった。「本音」の方は、例えば「失言」というかたちで、単に非-主張的にしか表に出てこない。「公共性」とはなによりも、この「本音」(の主張)をぶつけ合う空間のことである。湾岸戦争以降の「改憲派」として加藤は例えば北岡伸一を挙げるが(50)、北岡はその主張内容は批判されても、論争の公共空間に上がっているという点では評価される。『みじかい文章』(五柳書院 1997)に収められた或る短文においては、このことが
[北岡の]主張には反対だが、バッター・ボックスに立っているため、対立できる。(185)というかたちで語られている。加藤にとって大事なのは、「建前」の対置し合いではなく、まさしく「本音」のぶつけ合いなのである。
[402] しかしながら加藤によるなら、われわれ日本人は、そうした「本音」をぶつけ合うという習慣をそもそももってこなかった。われわれ日本人の言説の原理は、あくまで「集団」に、その「集団」圧力をいかに躱すかというところに、あったからである。そこから、言説はもっぱら「建前」としてなされるようになったのである。時には、この「集団」の見解に対立する「本音」が吐露されることもあるが、それは「劣等感」の暴発であって、実は本当の「本音」ではない。
[403] 「本音」とは換言すれば「自己利益」である。そして、「自己利益」の実現は、何が本当に自己利益になるかという現実認識を前提とする。加藤からするなら、平和憲法に対する自分のスタンスは現実認識からきたものである。そのスタンスは外面的には「護憲派」と一致する。したがって、外面的には「護憲派」は現実に自己利益貫徹的に適合していることになる。しかしそれは、たまたま適合しているに過ぎない。そうであって、護憲派において戦後憲法は、人々(「集団」)から圧倒的に支持されているというところから各人によって擁護されているのであって、現実認識において最も利益適合的であるとして受け入れられているのではない。「本音」=自己利益を−−公共的に−−主張し合うという習慣の欠如のゆえに、われわれはそもそも現実を現実として正しく認識しようとはしてこなかった。そして、そうした現実誤認の原点に、「敗戦」の「終戦」という認識が、戦後(全体の)原点の「ねじれ」として存在するのである。
[404] 加藤はなるほど
わたしが戦後の原点にあると考える「ねじれ」の一つは、この憲法の手にされ方と、その内容の間の矛盾、自家撞着からくる。(21)と述べている。ここから、この「矛盾」を解消すべく「選び直し」という提案がなされてもくるのであるが、しかし加藤からしても、これはなお表層の「ねじれ」であって、その核心は、われわれが悪い戦争を戦って敗戦したという事実を直視していないことなのである。「敗戦後」において少数の人たちはこの事実を正しく直視した。例えば大岡昇平が挙げられているが、彼は、象徴的に言って、(改憲派の)洗い直した日の丸と、そして(護憲派の)赤旗の、ともに「清潔」な旗を排して、「よごれしょぼたれた日の丸」(71)に就いたのである。そしてさらに言うなら、加藤にとってわれわれが進むべき道とは、「ねじれ」の必然的に欺瞞にいたる性急な「回復」ではなく、むしろ「「ねじれ」を最後までもちこたえる」(93)ことなのである。*
* こう見るならば、加藤は「よごれしょぼたれた」ものであっても「日の丸」を背負い込もうとするのであって、やはりナショナリストであるという批判が予想される。これについては、ナショナリズムを克服するためにも、方法として「よごれしょぼたれた」ところから出発するしかないと考えられているとだけ言っておく。換言すれば「内から」ということであるが、これはすでに論及したところでもあるし、上記別稿で新たな論点に即して論及する予定でもある。
[001] 我々は昨年夏以降、主として、(まず)加藤典洋の主張を正しく理解することが大事であるという観点から、「歴史主体論争」をフォローしてきた。しかし、そこには決定的に欠けるところがあった。それは、『敗戦後論』第一稿で議論の手始めとして出てくるのであるが、その後論争が対高橋哲哉陣営に向けられたため(少なくとも私には)見えなくなっていた加藤の柄谷-浅田路線への対抗の理解である。我々は、加藤典洋の主張を、また「歴史主体論争」をも適切に理解するためには、竹田青嗣をも加えて、加藤-竹田路線vs.柄谷-浅田路線の対立を理解することがことが必要であると考えている。両路線の対立は何であって、その論争からいかなる論点を取り出すことができるのか。
[101] 時間的経過を辿っていきたい。80年代の或る時点まで、政治に関わる局面においては両者間に対立はなかった。両者は共に、「護憲派」「改憲派」、あるいは「55年体制」両派に対して(「反帝反スタ」「第三世界」という)「第三の道」の立場を採っていた。これが明瞭であったケースの一つに「反核運動」時の対応がある。1981年にヨーロッパで起こった反核運動を受けて日本の文学者たちも中野孝次などを中心として「反核アピール」を出した。これに対して「文学者」の多くがそれへの署名を拒否した。その理由は周知のこととしておくが、要するに(核を容認する立場に対する)反核−−しかし実はソ連(・旧西独)への加担−−の第二の立場に対して、「第三の道」が説かれた。その中心になったのは言うまでもなく吉本隆明である。その意味では両路線とも親吉本であった。これが、それからほぼ10年後の湾岸戦争時には、大きく変わり、吉本を軸として言うなら柄谷-浅田は反吉本のスタンスで「文学者の反戦署名」を呼びかけたのに対して、加藤-竹田は引き続いて吉本的立場で、この「署名」を拒否し、かつそれに対して批判を加えていった。柄谷-浅田の側からは当然反批判が行われた。
[102] 政治的に見るなら、この対立は、冷戦体制の崩壊という決定的な現実変化があったにもかかわらず吉本は相変わらず「第三の道」を説いているとする柄谷-浅田と、「反戦署名」なるものはかつての「反核声明」と同じであって、ここで柄谷-浅田は変質してしまったとする加藤-竹田との対立である。しかしながら、そこには政治的次元そのものでは必ずしも見えてこず、そういうものとして80年代初めには顕在化してこなかった「文学」(および「文学」の政治的含意)をめぐる見解の相違がむしろ大きな論点となっている。そして、この「文学」をめぐっては、80年代後半にすでに論争が開始されている。
[103] 「文学」の観点から見ていく場合、吉本の「自立の思想」が決定的な軸となる。吉本は、戦後知識人たちの「民主主義」への(再)転向を問題として、そこに外部から啓蒙的に現実に関わろうとする在り方を読み取り、それこそが現実の本当の変革を妨げるものだとして、そうした知識人に対して「大衆」を対置し、知識人の「インターナショナリズム」に対する大衆の「ナショナリズム」*に定位して、その「大衆」の「自立」として現実の根本的変革を志向した。
* 因みに、加藤が「ナショナリズム」と言うときも、肯定的な意味では−−通常のものとは異なった−−この吉本的意味のものであることに留意する必要がある。
[104] 88年の加藤典洋/高橋源一郎/竹田青嗣の鼎談「批評は今なぜ、むずかしいか」に対して浅田彰は、「むずかしい批評」=蓮實・柄谷を弁護し、加藤・竹田を批判する「むずかしい批評について」を書き、そこで、加藤-竹田路線を「共同体派」と規定した。これに反論を加えて加藤は「「外部」幻想のこと」において、柄谷-浅田路線を、「外来思想」に眩惑された「眩惑」派と規定する。竹田青嗣は
浅田の一文が、ポスト・モダン派と「共同体」派という批評上の立場をはっきりと対立させた......(「夢の外部」90)と述べているが、ここに互いに相手をそれぞれ「共同体派」だ、(ポストモダン思想に依拠して論を張る)「眩惑派」だ、と批判し合う対立関係が明瞭になる。それは吉本を基準にして形式的に言うなら反吉本派と親吉本派であるが、内容的(かつ、できるだけニュートラル)に言って、−−後で説明を加えるが−−<啓蒙派>と<文学派>の対立関係*である。
* これは多く、<「外部」派対「共同体」派>とも語られるが(例えば上野千鶴子「ポスト冷戦と「日本版歴史修正主義」」(『論座』1998年3月号 73)、それは柄谷-浅田側からみた場合の言い方であって、ニュートラルではない。
[105] 上記論稿において浅田は、柄谷・蓮實をむずかしい「外来思想」に「眩惑」されてしまっていると批判する加藤・竹田を、逆に(高橋の言うように)「明快だ」と反批判しつつ、加藤の「[川崎徹の]*「なんとなく、わかるでしょ?」っていいなと思った。」という発言(88)と、竹田の「本当に言い難いものを含んだむずかしさ[を]......自分の中にある自分の生の感覚と直接結び合ってるような言葉で味わい直してみるのが批評なんだ......。......裸眼で見れるような情景に移しかえて味わってみて、はじめて批評になる」(95)という主張を手掛りにして次のように切り返す。
このような「生の感覚」に基づく前言語的な触れ合いが、かれ[竹田]の言う「エロス」を介した触れ合いということになるのだろう。....../......それ[かれらの言う批評]は、共同体の内部で取り交わされる挨拶、同じ共同体に属していることを暗黙のうちに確認し合う儀礼なのだ。......そのようなコミュニケーションは深く内面化されて、同類のイメージから「エロス」を味わう「眼」を形成する。「裸眼」と言われているものは、その実、こうして共同体によって形成されたものに他ならない。(「むずかしい」156)そして、批評というものは本来そういうものではないとして、引き続いて次のように主張する。
[批評とは、]まず何よりも、「裸眼」による認識がいかに深く共同体に規定されているかを認識すること、それによって共同体の外へ出ようとすることから始まるのではなかったか。(156)*以下、引用文中の[ ]内は、本稿筆者の加筆である。
[106] 浅田はこの加藤-竹田批判を詳しくは吉本批判として展開する。浅田は吉本の「自立の思想」を、上野千鶴子の吉本解釈を援用して検討を加えていく。
上野千鶴子の解釈した「吉本隆明」によると、国家や家族や自己は幻想に基づいている。その各々に対応する共同幻想・対幻想・自己幻想は互いに独立であるが、共同幻想と自己幻想が逆立しつつも時として同調する(「御国」のために死のうとする軍国少年のように)のに対し、対幻想はどこまでもそれと拮抗しようとする(この女のために自分は死ねないと言う男のように)。......こうした対幻想を核とする家族、その家族の織り成す大衆こそ、「吉本隆明」が国家に対抗する拠点としたものだった。(157f.)このように浅田はまず吉本の「自立の思想」を「幻想」論の次元で押える。
[107] そして次に、現実世界の変化はこうした自立の戦略を無効化したと説く。
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機が[今や]それ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ[共感の共同体]は[現実が変化した今では]むしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らないという保証はどこにもないのである。(158)つまり今や、国家への対抗において、対幻想=「自立」に依拠すること*は見込がないのであって、むしろ逆にソフトなかたちで国家に取り込まれてしまうのである。
* 武者小路実篤の『桃色の室』を評価するというかたちで(『日本という身体』)、加藤にもこれが明らかである。
[108] 浅田によるなら、依然として自立路線を採る加藤-竹田は、その自立路線のゆえに「〈共感の共同体〉の内部でぬくぬくと自足している」(156)だけなのである。
[201] これに対して加藤は前掲論稿において反批判を加える。柄谷-浅田路線は「外部」を語ることによって「共同体」という「内部」を撃とうとする。このこと自身は正しいことである。しかし、と加藤は言う。
「内部」とのダイナミズムなしに、どのようなものであれ、「外部」は語られうるだろうか。......従来の言説空間における「外部」(人間主義、国際主義、世界性)は、その「内部」の言説システムに内属する所以を、さらにその「外部」の視座からの批判によって明らかにされ、否定されたが、いまぼく達の前にあるのは、その「外部」、過去の「内−外」の二項性そのものの「外部」を中心に、新たに形成しつつある、それ自体閉ざされた、もう一つの言説空間なのである。(174)簡単に言って、「外部」の語り方がもっぱら「外来思想」の援用であるために、
「外部」は、こうしていま一つの符蝶のようなものになりつつある(174)のである。「外部」を語ることは、「「内部」とのダイナミズム」を失って、いまや「内部」=「共同体」に何等ダメージを与えない単なる「「言う」こと」(174)になってしまっているのである。
[202] 加藤はこれを、日本近代の言説の在り方を歴史的に辿るというかたちで次のようにも展開している。
日本の知識人は、明治以来、浅田のように書いてきた。......彼らは......普遍的なことを「外」からの眼で語ったが、逆に「内」からの眼が、どうすればその「外」に達するかというみちすじを自ら辿ることを怠った。(175)戦前においては小林秀雄がこうした「インテリゲンチャ」を批判し、[戦後においてはその仕事を吉本が引き継いでいるのだが、]浅田はいわば先祖帰りをしてしまっている。大事なのはあくまで、「「外の認識」をどのように共同体内部の成員に届く「内の言葉」で語ることができるか、ということである」(178)。
[203] こう浅田を歴史的に位置づけつつ課題を再確認していおいて、加藤は論を展開する。
それでは、この「共同体」の言説空間の中で、その「共同体」の言葉を使って、どうやればこの「共同性」に属さない、その「外部」の言説を成立させることができるか。(178)と問う。そして、この問いを
これは、......柄谷行人流の言葉で言えば、現代日本の言説空間において、どのように「超越論的」な批評が可能か、というのと同じことである。(178)として再定式化しつつ、好便な手掛りとして柄谷の論稿「ポストモダンにおける「主体」の問題」の検討へと論を進める。
[204]
柄谷は......この「超越論的な批判」という言葉を、「超越的な批判」と区別し、これは、「自分が暗黙に所属し前提しているものへの吟味」、「つまり、その外部からの批判ではなく、外部に立ちうるという考えそのものへの批判」なのだと述べている。(178f.)と、「超越論的」な(柄谷の)主体と「超越的主体」とを区別する柄谷の議論を紹介する。ここ(だけ)からするなら、加藤は「超越論的」主体であって、奇妙なことに浅田は(柄谷の退ける)「超越的主体」の立場から「「超越論的」なぼく[加藤]の先の問いをその「共同体」への内属ゆえに否定している」(179)かのように見える。しかし加藤は、そうではないと語る。そして論を柄谷批判へと展開していく。
[205] 加藤によるなら、「超越論的」を「超越的」と区別する柄谷の議論は正当なものである。しかし、
柄谷の議論は、ここまで[54ページ上段7行目まで]を前段とすると、以後の後段において、また別種の展開をとげる。後段の議論で彼がいうのは......右の「超越論的な主体」には、外部性をもつものともたないものがある、ということであり、外部性をもたない「超越論的な主体」は、結局のところ、ある種の共同性に帰着せざるをえない、ということであって、それが彼の結論(179)である。浅田に好意的にその加藤批判を了解するならば、
それは、「外部」をもつ「超越論的」なあり方からの「外部」を欠いた「超越論的な批評」への批判であるとして受けとめることもできる(179f.)として、浅田の批判をいわばポテンツを高めて柄谷的な加藤批判というものを想定して、そこで逆に柄谷の「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」の主張*の批判へと展開する。
[206] 加藤はまず、この「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」を要約する。
[柄谷によるなら、]カント、フッサール、ハイデッガーらは、その「超越論的なあり方」によって、「他者」......を見出したが、そこでの「他者」(無限なるもの)は「自己」(有限なるもの)から構成されたものにすぎず、そこに本来的な「他なるもの」の契機はない。つまり彼らの「超越論的主体」には外部性が欠けている。一方......。柄谷は......デカルト、スピノザは、「他者を自己から見出したのではなく、他者において自己を基礎づけようとした」という。この文脈におけるデカルト、スピノザ、レヴィナスの「他なるもの」とは......「有限」に対する「無限」である。「自己」から構成される「他者」は、一般性、共同性をつうじて「全体性」[レヴィナス]の観念を導くが、この「全体性」を否定しうるのが、「無限」(レヴィナス)であり、この他なる「無限」によって見出される「自己」が「単独性」である。(181)つまり柄谷によるならそれは、例えばフッサール的な、「超越論的あり方」において「自己」から「他者」を「構成」する在り方に対する、例えば(柄谷的に)デカルト的な、「超越論的あり方」において−−「絶対的他者」としての、デカルトのタームで言うなら「神」としての−−「他者」において自己を基礎づけようとする在り方である。そして補って言うなら、後者は、絶対的他者として、つまり「構成」できぬものとして「外部」をもつのである。
[207] さて加藤は、この「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」を直接的に批判するのではない。この「あり方」を説く柄谷の後段の議論をそのものとしては認めつつ、加藤は次のように言う。
あなた[柄谷]の前段の議論と後段の議論は、それぞれに面白く聴かせて[読ませて]もらった。しかしその二つの「つながり」がよくわからない。(180)加藤は柄谷の議論を前段と後段とに分けて理解するのだが、厳密には「53頁下段18行目から54頁下段10行目まで」(182)を「蝶番にあたる部分」であるとして、この「つながり」を辿ろうとする。しかし、
この個所は、彼の議論においてここが最も重要な所であるにもかかわらず......最も説得力に乏しい。(182)として、端的に言うなら、内在的に「つながり」を辿ることを放棄して、結局は「つなが」っていないと断定する。
[208] 加藤は、その「つながり」の欠如の原因を求めて、柄谷が「超越論的な批判」ということについて、そういうものを「言う」だけであって、自らそれを「行う」ことをしないところにそれがあるとする。そして、「つながり」をもたない二つの議論がなされているのは、本来「行う」ならば不可能であるものを単に「言う」だけだからであると語る。加藤自身の言葉で言うなら、
この二つの議論は、それぞれに説得的だ。しかし人は、一つのことからしかはじめられないのではないだろうか。人は、二つのことを「言う」ことができる。しかし、「行う」時、人はその二つのうち「一つ」を自分に受けとっている(181f.)というのである。柄谷の、そして浅田の「言う」だけの在り方に対して、加藤は、
[彼らの]足場をもたない身軽さ、拘束をもたないゆえの「あれもこれも」の摂取の自由は、ぼくにどこか極めて日本的なシンクレティズム......の現代的表現とみえるのである。オーディオのような批評。これは現代の批評にとって一つの理想でありうる。しかし批評は、ここしばらくは、オーディオになれない悲哀を噛みしめて、書きつがれなければならないというのが、ぼくの観測である。(181)として、自らは「行う」ことを宣言するのである。
[301] 加藤は「つながり」がないと言うわけであるが、そこはなお検討する必要があると我々は考える。竹田青嗣は、上記「夢の外部」において、自らも柄谷批判を展開している。
[302] 彼はまず、加藤の論稿では必ずしも明瞭でなかった批判の真意を
ひとが共同体の「外」に立つ(あるいは立たない)ことで何をなし、何をなさなかったか、そしてなぜそうだったのかを、問わない。[加藤によるなら]柄谷の議論にはそのような「実践的契機」が欠落しているのだが、柄谷(たち)がそれ[=問うこと]を「実行」しようとすれば、そのとき彼らは「自分が暗黙に所属し前提している」日本語という言説空間の「外」に、素朴には立てないという事態に直面するはずである・・・・・・。(95)ということであるとして、−−柄谷の「前段の議論」の方を評価するかたちで、それを実行するなら−−いわば吉本路線で行くしかないことを確認する。
[303] しかし、この結論を導くためにも、「つながり」が最重要の論点となる。竹田は、柄谷の主張のポイントを、
ここで注意すべきことは、超越論的であることは、私がこの世界に属すると同時に、この世界の外に立つことであるとしても、それを「自己意識」と混同してはならないということです。(53)/再びデカルトに戻っていえば、彼が疑いを開始するのは、彼の属する共同体または共同的システムの外に立つことによってです。つまり、他なるものに出会うことによってです。(54)の箇所にあるとして引用し(99)、それを
「自己意識」的な原理によってではなく、「他なるもの」の原理によって「外」に立つときにだけ、ひとは「この世界に属すると同時に」この世界のシステムの自明性を疑いうる「外」の立場に立つことになる。そう柄谷は言っている。(99)として要約する。そして、このような「「外」の立場に立つ」ことの主張を、
このような「外部」を構想することがカントやフッサールにとっては形而上学的な転倒を意味した。(104)として、結局は形而上学的独断であると批判する。
[304] 柄谷の主張を支えるのは、「神」が「自己」を基礎づけると説いているとするデカルト解釈である。もしデカルトがそう説いているなら、カント・フッサールから見ればそれは「形而上学的な転倒」以外の何物でもないのだが、竹田は解釈として柄谷のデカルト論は誤りだとする。では、なぜ誤ったのか。
[305] 柄谷のデカルト解釈はレヴィナスのそれに依拠している。柄谷が引用している(56f.)ところを読むなら、なるほど<神が自己を基礎づける>とデカルトが語っているように見える。しかし竹田によるなら、
柄谷はレヴィナスの思想を呼び水のようにしてこの考えを提出しているが、わたしの見るところ、じつはレヴィナスと柄谷の考えは似て非なるもの(104)である。
[306] 柄谷が引いているレヴィナス『全体性と無限』中のデカルト『省察』からの引用部分
神の認識は私自身の認識よりも、ある意味で先なるものとして私のうちにあることを、私は明白に理解する(・・・・・・)。なぜなら、私が疑うこと、私が欲することを私が理解するのは、すなわち、何ものかが私に欠けており、私はまったく完全であるわけではないことを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が私のうちにあって、それと比較して私の欠陥を認めるのでなければ、不可能であるあるからの正しい解釈として竹田は、レヴィナス『困難な自由』中の
デカルトにおいて、思惟する「自我」は無限についての観念を所有している。「無限」の他者性はその観念のなかで生気を失わない。一方デカルトによれば私が私自身にもとづいて説明することのできる有限な事物の他者性はそうではない。無限の観念は思惟される以上のものを思惟することに存する。/......自分が思惟する以上に思惟する思惟とは「欲望」でなくて何であろう。......を引用しつつ(106)、それに解釈を加えるというかたちで次のように言う。
「私が疑」い、「私が欲」することでコギトが理解するのは、〈私〉のうちで「自分が思惟する以上に思惟する」、つまり「欲望」というつねに〈私〉を超え出るなにかが〈私〉につきまとい、内属している、ということにほかならない。そのようにレヴィナスは言うのである。(106)つまりレヴィナスからしても、「絶対的他者」は、「コギト」(自己意識)ではないが〈私〉の内にあって「不完全性を超えでようと〈私〉をつき動かすなにか」(107)であって、換言すれば例えば柄谷の後段の議論がデカルトとの違いを言う当のハイデガーが「「気遣い」という言葉で呼んだ」(107)もののことである。敷衍して言うなら、柄谷の(現象学的な)「前段の議論」において出てくるはずのものなのである。
[307] それにもかかわらず更に「後段の議論」が出てくるのは、竹田によれば、
柄谷の「外部」の議論は、〈決して誰もコギト(共同体)の「外」に出られない、にもかかわらずコギトの自明性を検証しそれを疑える原理がコギトの「内」にある〉という超越論のモチーフを、ロジカルな短絡によって「外の立場」へ移している(108)からである。であるから加藤は「つながり」がないと言うのである。
[308] では、なぜ、「つながり」のない(「後段」の)議論への展開を行うのか。竹田によれば、そこには「一種のニヒリズム」(111)があるからである。「共同体」を疑うとは、それが「夢」でないかと疑うことであるが、その疑いにおいて「夢」ではないところを求めてもそれはつねに「夢」である可能性に付き纏われている。これは、「わたしたちが「夢」の内部にあるかぎり決してその不完全性を根本的には振り払うことができない」(111)ということでもあるが、柄谷はそのことだけに目を向け(=ニヒリズム)、そこで「いわば「夢」の外にだけ、人間の本来のありよう(実存)があると考える」(111)のである。
[309] 竹田によれば、このように考えてしまうことの背後には「ポスト・モダン思想が内に含む“構造論”的視線」(111)がある。(柄谷がゲーデル論で確認したように)「構造論的」に見ればおよそ「外部」は存在しない、絶対に「夢」を超えられない。柄谷は、そう追いつめることによって、そこからの「反動」において、「夢」を超えた「外部」を語るのである。*
柄谷が「形式化」の問題で追いつめたのはそのような[外部の絶対的不可能性の]事態であり、おそらくそのパラドクスから“抜け出る”ために、その反動として、「外部」の論理、つまりつねに無根拠に、絶対的にシステムを疑い続けるような立場が呼び寄せられることになったのである。(112)* ただし、「批評季評 絶対的な現実性としての「戦争」」では、結論は同じであるが、この「構造論」との関係では批判の論理構制が別になっている。そこではこう語られている。「柄谷の「外部」や「他者」は、つねに“構造”主義的に「主体」、「内面」を拘束している制度性を“指摘”する「誰か」あるいは「なにものか」として提示されている」(292)。我々は解釈としては、こちらの方が適切であると考える。
[310] しかしながら、そのようにして「呼び寄せられ」た「外部」は、結局(柄谷の「前段」の議論で否定された)「超越的主体」がもつ「外部」ではないのか。竹田は、
柄谷がつかんだ実存の立場は、柄谷が注意深くそうではないと自注するにもかかわらず、本質的に「自己意識」的なメタレベルを意味する」(112)/「柄谷のこのような絶対的「外部」の実存の論理は......カントの論理[と同じであって、それは、]人間の生活上の行為や実践の理由を、「自由」という絶対的理念から規定するものにほかならない。それはどのように見ても、サルトル的な自己意識の実存に帰結するほかない(114)という言い方で、そうだと断定する。
[311] 竹田によるなら、「夢」ではないかと疑い、「夢の外部」を求めるにはそもそも「動機」があるはずである。
自己意識のメタレベルを積み重ねてゆく欲望は、それ自体がエロス的欲望なのだが、その根底にはなんらかの欠如や不安(不全感)が横たわっている。この欠如や不全感に強く押されたとき[始めて]、わたしたちは自分の内属する世界を「夢」ではないかと疑い、「夢」の外部に本来的な〈世界〉を思い描く。(113)というかたちで、竹田はその「動機」を確認する。
[312] そして竹田は、自らの体験を重ね合わせて、このような「疑い」が(彼から見れば)本来どう展開していくのかを語る。
そういう自己意識の運動を相対化するものがあったとすれば、それは共同体の内に見出される「他者」以外にはありえなかったのである。そういった経緯の中で、わたしたちは......自己意識の“絶対”感情を無化され、“相対感情”のうちにとどまらざるを得ない自己というものを見出すことになったのだ。そしてこのときに、「夢」の外側にじつはどんな本来的立場や現実もあり得ないこと、世界および生とは、この「夢」の場所以外に全く拠りどころを持たないという痛みを伴った覚知が、すこしずつもたらされた。(113)竹田によるなら、人はそのそれぞれの「疑い」によって「共同体」に対して、それが「夢」だとして「夢の外部」を求めて「反抗」し、その或る意味での挫折のかたちで「夢の外部など存在しない」ということを知り、いわば「夢」=「共同体」に対する「相対的」疑い=反抗の立場へと成熟するのである。言うとすれば<「革命」から「改良」へ>である。これに対して<永続革命>という道があることを我々はもちろん知っている。しかし、柄谷の立場はこれとも違う。それは、いわば<一挙の革命>(「世界同時革命」?)である。<革命>は「絶対的な疑い」を動機とするものであるが、柄谷にとってはその革命が<一挙>として考えられている。しかしながら竹田によるなら、
絶対的な疑い、そういうものは現実の人間にとっては背理である。それは[現実の人間においては]ただ極限化された理性の理論能力としてだけ想定されるものにすぎない......。(113)そうした「絶対的な疑い」は、「動機」から来るものではない。「動機」が言えるとしても、<実践的動機>ではなく、<理論的動機>でしかない。であるから加藤は
柄谷の議論には、その実践的契機が欠けている。(182)と語るのであるが、それが換言すれば、柄谷は「言う」けれども「行わ」ないということである。
[401] しかしながら、こう見るだけでは柄谷に対して十分フェアではない。柄谷の議論のポイントに独自の(彼からすればレヴィナス的な)デカルト解釈があるのであるが、「絶対的外部」から「自己」を基礎づけたというそのデカルト的解釈として柄谷は、デカルト自身が経験した「現実的な外部性」(55)を重視する。
デカルトは、彼の否定する懐疑主義者......のように懐疑したのではなく、そのような懐疑をさえ可能にしている「慣習」としての言説の外部に立ったのです。たとえば、デカルトは、亡命者として、フランスの外、オランダで考えました。......デカルトの可能性をぎりぎりまで追求したのが、スピノザです。いうまでもなく、スピノザは、キリスト教徒ではなく、またユダヤ教会からも破門された、徹底的に外部的な実存でした。(55)と例えば語られている。
[402] 竹田青嗣は別稿「「疑い」の条件と根拠」では柄谷に対して少しく違った理解をしている。この「現実的な外部性」に即して、次のように語られている。
柄谷の「超越論的」立場は、いわば異なった文化(共同体)の外に立つが、しかしそれはメタレベルの立場を意味しない。メタレベルの立場は「自由な意志」つまり自己意識によって外に立つこと[例えばサルトル]であるのに対して、「超越論的」な立場とは「他者の他者性」によって外に立つことだからである。/この議論によって彼は、おそらく「万人」とは違う「奇妙な立場」に立ってしまった人間が、「万人」の内属する場所に対して持つ「疑い」(批評)の、“権利問題”[カント]を問うているのである。(87f.)デカルトやスピノザは、自らが「事実」としてもった「疑い」に即して、(カント的に超越論的に)その「疑い」の「権利」を問い、そこに「絶対的他者」を想定した、というのである。
[403] そうであれば問いのスタンスは「論理的」である。「論理的」であること自身は別に問題ではなく、カント(の認識論)の超越論的立場は「論理的」である。しかしながら、柄谷はカントと異なって、そこに経験論的なものを持ちこむ。上に挙げた「この現実的な外部性は重要です。」に続けて、
事実、彼がフランスに戻り、影響力をもちはじめてからは、この外部性は失われていった(55)と語るのは、その故である。現に(経験的)事実として「疑って」いることが重要なのだと語られている。このようにして「外部」性をもつ主体は、したがって経験的なものである。柄谷が
デカルトのコギトは......カントのそれのように万人に妥当する「私」ではなく、キルケゴールのいうような単独者です。(55)と語るのはこのゆえである。柄谷によれば、そうした主体は「超越論的主体」であり、彼自身言うように「超越論的還元」の主体だと言っていいが、フッサールとの対比で言うならその「還元」は、いわば「形相的還元」抜きの「超越論的還元」である。
[404] 柄谷はこの点から、西田幾多郎についても、
彼がアカデミズムに受け入れられるにつれて、この外部性を失っていったのは明らかです。そのとき、主体の批判は、超越論的主体そのものの滅却、共同体に対して外部的であるような主体の滅却となり、かくして、共同体のイデオローグに転化したのです。(59)と語っている。(同様の批判がハイデガーに対しても行われている(59f.)。)因みに、この、いわば日本主義者(となった)西田という理解は今日では十分問題であるし、柄谷も現時点では異なった理解をしていると思われるが、ここではそう語っている。しかし問題は、この西田論から明らかなように、「外部・内部」性を問うとき、経験的次元が重視されているということである。
[405]
ディコンストラクションを可能にする「外部の視座」は、他のだれよりもデカルトによって明確にもたらされたのです。しかも、このディコンストラクションは、それ自体外部的で単独的な実存と切り離しえないのであって、それが安定した方法であるかのようにみなされたとき、[デカルト自身とは異なった]デカルト主義と同じ運命におちいることになるでしょう。(60)と語られるとき、それはむしろ自身によって強調されている。しかしながら、この柄谷の(経験論的)「実存」主義は、竹田の指摘する「構造論」とは明らかに矛盾する。「構造論」とは、経験的事実(主体の問題としては心理的事実)への依拠を−−いわゆる「実存主義」だとして排して−−純論理的にいわば「仮説」を提示するものであるからである。そして、単に竹田が指摘するだけでなく、構造論は明らかに柄谷自身のものである。
[406] しかし、この(実存的)経験論と構造論は、複雑に絡み合っている。通常「構造論」は心理的事実に即して主体を「共同体」の「外部」に確保する主張に対して、そうした「主体」=「外部」は存在しないと説く。「ポスト・モダニズム」(ディコンストラクション)もそうした(近代的)主体の特権化を批判するものである。しかし柄谷は、
モダニズムが「主体」という概念に代表されるとすれば、それ[ポスト・モダン]が「主体」への批判に集約されるのは当然です。しかし、それは、けっしてそのような批判をなす超越論的な主体を否定することにはならないはずです。(59)と説く。この主張を、柄谷は否定するかもしれないが、(実存的)経験論が「根拠」づけている。自らの経験的事実として−−「現実的な外部」というかたちで−−「外部」が確保されている。しかし柄谷は同時に、再び(モダニズムのように)その「外部」を特権化しようとはしない。彼によれば例えばヘーゲルの「主体」はそのようなものであるが、彼はそうした主体は峻拒する(61)。いわゆる「実存主義」も(60f.)、人間主義的マルクス主義も(61)そうしたものだとされる。そして、「構造論」からすれば当然そうなるのである。しかし非常にわかりにくいところだが、柄谷は例えば
構造主義が直接の標的としたのは、サルトルの実存主義でした。しかし、サルトルは、べつに心理的な主体を主体とみなしたのではなかった。実存的主体は、経験的な主体への批判において見いだされるのです。(60)と語る。問題はここで言えば「経験的な主体への批判において見いだされる」「実存的主体」である。純粋に「構造論」から言えば実はそうしたものは存在しない、しかし、彼の(実存的)経験論からすれば事実として存在する、という格好になっているのである。通常、現象学においては、超越論的主体は明らかに経験的・心理的主体から区別されている。それを保証しているのは「明証」(直観)に支えられた「形相的還元」である。(因みに、これでは駄目だということでフッサールは他我構成=「間主観性」を語ってくるのだが、これは柄谷よって批判されている。)しかるに柄谷は「形相的還元」を採るのではなく−−さらにカントの論理的主観をも排して−−そこに、「単独者」(実存)を説くのであるが、その「根拠」は自らの−−デカルトの場合はデカルト自身の−−経験でしかありえない。すなわち、本来両立しない構造論と経験論の協同から「経験的な主体への批判において見いだされる」「実存的主体」が確保されているのである。* あるいは、こうも言えよう。自ら(「経験的な主体」)を「外部」に在ると説く「モダニズム」に対して、「構造論」はそうした「主体」もまた「内部」に在るにすぎないと批判する。そして、そう批判するときの(構造論を展開する)主体も、実は自己言及的に、それもまた「内部」に位置するのであるが、柄谷はこれを−−「経験的主体」との区別において−−「実存的主体」として「外部」にいると考えているのだ、と。しかしこれは、ありていに言えば「自分だけは別だ」ということである。そうであるなら、その区別の根拠はやはり経験的なものである。
* これは明らかに矛盾である。しかし、後([707])で見るように柄谷自身「矛盾」を認めている。そして、実はそこから−−「哲学」的議論の底に在る−−柄谷の主張の(皮肉なことに)なお「文学」的といっていいスタンスが明らかになる。(ここで急いで言うなら、(あるいはド・マン流の、と言っていい)「批評」だというスタンス取りは、このことを曖昧にするに過ぎない。)
[407] 論稿「精神の場所」を見ると*、柄谷の「外部論」がどのようなものであるかがよく分かる。彼はまず「思惟」(コギト)との区別において「精神」を次のように規定する。
デカルトがいう“精神”は、たんに思惟(私は考える)ではない。なぜなら、デカルトの考えでは、思惟は、共同体の“慣習”すなわち夢のなかにあるからだ。“精神”とは、そこから外部へ出ようとする“意志”なのである。(60)そして、
[哲学者が通常行うような]疑うことさえも精神ではない。実際に、われわれは夢のなかで、これは夢ではないかと疑うではないか。疑いは夢の一部分である。ウィトゲンシュタインは、疑うことは言語ゲームによって可能であり、言語ゲームの一部に属するといった。これは、哲学における懐疑=問題が、哲学の言語ゲーム(慣習)に付属するのではないかという[精神の]“疑い”である。(60)として、いわゆる「疑い」からも、「精神」としての「外部へ出ようとする“意志”」を区別する。通常の理解ではデカルトは、意識−−デカルトの言う「コギト」は日本語で言う「思惟」ではなく、同じく日本語で言うなら「意識」のことである−−の内容が「夢」であって実際には存在しないとしても、そのように夢をみているにすぎないとしても、その夢をみるという作用もまた存在しないということはありえない、として、そうした作用を行っている「私」の存在は確実である、とするのであるが、柄谷はフッサール的に言っていわばノエシスではなくあくまでノエマの方から「疑い」を考える。自分が存在すると思っていること(内容)があくまで「夢」にすぎないのではないかと疑おうとする「意志」が彼が言う「精神」である。そして彼にとって、その「疑い」は、存在すると思えるのは単に共同体の「慣習」がそうさせているだけではないのか、という「疑い」である。であるから、いずれにしても、(経験的な)共同体の外に(経験的に)出るということが、そうした「疑い」を根拠づけている**のである。柄谷は実際明瞭に次のようにも述べている。
夢をみているのではないかという疑いは、『方法叙説』においては、自分が共同体の“慣習”または“先入見”にしたがっているだけではないかという疑いと同義である。彼はそれを、時間的・空間的な「旅」の経験から裏づけている。(59)* 『探求I』第一論稿でも同趣旨の議論の展開がなされている。
** なお、ここで言う<根拠づけ>は、先に(柄谷によるならデカルトにおいては)<神が自己を基礎づける>と紹介した([206]等)場合の<基礎づけ>とは別の意味である。「精神の場所」での言い方では後者は、「疑う主体は、外部性として単独に在るだけだ。そのように在る主体の明証性には、何の保証も根拠もない。神だけがそれを保証すると、デカルトは考える。」(64)というかたちで、タームとしては「保証」と言われるものである。それに対して前者は、例えば「そもそもデカルトの疑いは、諸共同体の“差異”からはじまっており」(65)というかたちで語られるものである。ここだけから見るなら、前者は厳密には<動機づけ>とした方がいいと思えるかもしれないが、しかしそれは、彼の立論に対しては<根拠>の位置を占めている。すなわちこういうことである。<神が自己の明証性の真理を保証する>というのは、それだけでは一つの形而上学である。柄谷からしても「神」とは、「デカルトは、諸共同体の外部に在って単独者として疑っていることが、何の根拠もないとしても、自分をそのように促している何かがあり、その何かが在るがゆえに、自分が疑っているのだといいたいのだ」(64)と述べられているが、その<疑いを促すもの>に与えられた仮の名称であり、さらにはその<疑いを促すもの>も、「疑っていること」という事態を<なにものかがそうさせている>といわば一種物象化的に表現したものである。そして、「疑っていること」という事態は、一つの当為的事態として「疑え」という命令に従うところに現出するものではなく、デカルト=柄谷自身のまさしく事実として、すなわち経験的事実として現出しているものである。そういう意味で、そうした経験的事実が立論を<根拠づけ>ているのである。
[501] これに対して竹田の方は、まさに経験論的次元で、先ほどの箇所([402])にすぐ続けて
いかなる「根拠」によって、君たちは「夢」を見ているのだ、と語ることができるだろうか。(88)と問う。その「根拠」は(論理的根拠ではなく)心理的なものである。彼はそして、この心理的(という経験的)次元で「根拠」を問い、そこにさきほどと同様「動機」を語ってくるのだが、彼自身の境遇に即して、
共同体に属する人間が、その体系あるいは他の共同体との関係に内在的な矛盾の意識を持っている場合だけ、この「疑い」は思想としての条件と根拠を持ちうる。(88)と語られる場合の、その「矛盾の意識」が「在日」(朝鮮・韓国人)という意識であることを併せ考えるなら、そのことが十分納得できるであろう。*
* これは、換言すれば竹田の思索が自分の固有性(「在日」)に定位したものだということである。これに対して、柄谷-浅田路線はむしろそのことを否定するものだと見ることができる。例えば高澤秀次によれば「すでに柄谷的なディスクールは、ポスト全共闘的なパラダイムを画定していたのである。/この決定的なパラダイム・チェンジ......を、いち早く察知したのは、おそらく自分の支えが被差別部落であることを受け入れ、しかもそれが文学にとって何の意味もないことを意識化しつつあった中上健次ではなかっただろうか」(「ポスト全共闘と柄谷行人」54.)ということであるが、中上健次は逆に、創作を自分の固有性(「被差別部落」)に定位させないという行き方を採っている。
[502] 竹田の場合はこれで一貫的なのだが、問題は柄谷においてなぜ経験的次元が拘泥されるのかということである。竹田はここ(論稿「「疑い」の条件と根拠」)では、柄谷にも経験的次元での「根拠」を想定し、それが「絶対的外部」という「仮説」(88)を想定せしめたと解釈し、かつ、そうした経験的次元関係的なものとしては、その「仮説」は普遍性をもちえないと批判する。ここでは、したがって、論稿は
柄谷行人の「疑い」の立場は、まさしく彼の時代や場所に固有のものである。その意味で『探求II』は彼自身の“エチカ”であり、だれにとってもこのような「条件と根拠」を僭称することは無用であろう。(88)という言葉で締めくくられることになる。
[503] しかしながら、いま柄谷自身と柄谷一派とを分けるとして、前者にはこの言葉が当てはまるとして、後者に対してはむしろ、「夢の外部」中の
絶対的に共同体の「外」に立とうとする批評、この批評の本質は、いっさいがシステムのうちにあり、いっさいが“構造化”されているという新しい世界像に対する、メタレベル的な対抗にある。この立場は、共同体のシステムと絶対的に対立し、システムの構造をあばき、その物語を食い破ろうとする欲望(ポスト・モダン欲望)を支える。そのために新しい「外」の物語がつぎつぎに見出されることになるだろう。/「外」の強力な物語によって、自分の内属する共同体(夢)の外部に立ちうるというメタレベルの幻想。まさしくそれが日本に固有のモダニズムの欲望なのである。日本にとってモンダとは、つねにそのような「夢」の外部への憧憬として現われなかったろうか。(116)という見方が、竹田(および加藤)からの柄谷-浅田路線観としては中核のものである。
[504] 「動機」をいうなら、ここにも「動機」はあると言える。それはしかし、「理論的」であることが一つの「実践」であるような動機である。そしてそれを換言すれば「啓蒙」ということなのである。それは更に「戦後啓蒙」と換言してもいい。すなわち、日本という「共同体」に反定立されたあのインターナショナリズムからの正統なのである。
[505] 坂本龍一との対談「「啓蒙」はすばらしい」において柄谷はカント的啓蒙を説く。
もちろん人間は、企業なり国家なりどこかに所属しなければ生きられないし当然そうしていいわけですが、そこから離れる瞬間がなければならない。カントが言うコスモポリット(世界市民)というのはそういう意味ですね。」(154)/「僕は昔は[吉本と同じように]世界市民、コスモポリタンというのは抽象的であるとか言って否定してた[が、それは誤りである。確かに]人間はどこかに所属している。しかし、その場合パブリックに理性を使用する勇気があるかどうか。それをもつことがコスモポリタンだし、それが啓蒙ですね。(155)*しかしそれは、例えば、
浅田彰は......こう言った。大阪は朝鮮人と中国人が日本で一番多いところであり、すでに国際的都市である、東京の真似などする必要がない、と。(156)という発言に即して言うなら、この「国際的都市」の事実に即して、しかし、自分から問うことなく、−−かつ、自分が「企業なり国家なりどこかに所属」していることを(単に)「当然」視しつつ−−自らとしては単に理論的に共同体・日本の「外部」に立とうとするものである。上に柄谷自身と柄谷一派とを区別したが、こういう在り方を説くとき柄谷は<柄谷一派>的である。自らの「在日」性に定位して思索する竹田から見れば、「在日」の重みが認識されていない。認識されているとしても、それは他人の重みであって、自らの重みではない。存在するのは、こうした「啓蒙」の立場と、自らの境位から思索するという「文学」の立場との対立である。
* 加藤-高橋論争の文脈で語られるアーレントの「注視者」も、言うまでもなくこの意味のものである。
[601] 以下、小山鉄郎「文学者追跡 「文学者」の討論集会とは何か」に拠って紹介するが、湾岸戦争時に「文学者」の周辺で次のような動きがあった。
・91年1月29日:或る会合の後、川村湊、中上健次、島田雅彦の3氏の間で、湾岸戦争に対して何か言おうということで話し合いになり、島田が「反戦の四原則」および、それに
こうして列挙してみると、いかにも白々しく、偽善的に響くので、思わず苦笑いしてしまった。いずれもすでに世界の到るところで起きてしまっていることを自分は認めないと宣言しているだけのことで、「反対する」の四文字は空虚に空しく響く。だからといって、ニヒリストになってみても始まらない。というコメントを付けたものをまとめ、これを各メディアに送ろうということになる。
・その後、ニューヨーク・タイムズに意見広告を出したらという意見なども出てきたが、柄谷の「まず日本のなかで議論を重ねるべきだ。この戦争の問題で討論集会をしたらどうか」という考えに従って、柄谷、島田等6人が発起人となって、「「文学者」の討論集会」が約150名の「文学者」に呼びかけられ、2月9日、約90名の参加で討論集会が行われた。討論の結果、下記の「声明1」に各人が個人として署名することになり、その後、これの説明のためのものとして下記の「声明2」が事務局によって作成された。
・91年2月21日:柄谷、いとうせいこう、高橋源一郎等の文学者に経済学者の岩井克人を加えた計11名が記者会見。この11名を含む42名が署名した短い「私は、日本国家が戦争に加担することに反対します。」という声明(「声明1」)と、11名に5名を加えた16名で構成する「文学者の討論集会事務局」名で
戦後日本の憲法には、「戦争の放棄」という項目がある。それは、他国からの強制ではなく、日本人の自発的な選択として保持されてきた。それは、第二次世界大戦を「最終戦争」として闘った日本人の反省、とりわけアジア諸国に対する加害への反省に基づいている。のみならず、この項目には、二つの世界大戦を経た西洋人自身の祈念が書き込まれているとわれわれは信じる。世界史の大きな転換期を迎えた今、われわれは現行憲法の「戦争の放棄」の理念こそが最も普遍的、かつラディカルであると信じる。われわれは、直接的であれ間接的であれ、日本が戦争に加担することを望まない。他国がそれを強いることも望まない。われわれは、「戦争の放棄」の上で日本があらゆる国際的貢献をなすべきであると考える。/われわれは、日本が湾岸戦争および今後ありうべき一切の戦争に加担することに反対する。という声明(「声明2」)が発表された。
[602] この「声明」に対して、吉本、竹田を含めて何人かが批判を行った。加藤-竹田路線とは別のところからも、例えば若森栄樹、笠井潔等から批判がなされた。加藤もいくつかの批判的発言を行い、そのまとめとして出てきたのが加藤の『敗戦後論』第一論稿である。柄谷等も反戦声明の延長で発言を継続する。
[603] 上の動きと相対的に別の「詩人」達の間で、「湾岸戦争反対」をめぐって一連の論争が行われた。その中核は、主として『現代詩手帖』上で行われた藤井貞和(反対声明派)vs.瀬尾育生(声明批判派)の論争である。湾岸戦争の事態に一早く「反戦詩」公表で対応した藤井に対して瀬尾は、例えば、
藤井氏が作り出しているものは「正義」なのだ。しかもそれは......正義としてはきわめて特殊な正義であり......いずれの戦争に対しても、関与していないと信じている者が戦争放棄を主張するというトートロジーによって「正義」になっているような正義なのだ。/[藤井は]どうして「私は戦争はいやだ」とだけいわないのだろう。[そうではなく]戦争の悲惨を正義に接続しようとするかぎりこの巨大統覚的な文体は不可避となる。......真面目な顔で反戦を語りだすとき彼らは虫の顔を捨てて人間になっているのだが、その変容こそが彼らから力の通路を遮断し、そのとき......世界への核心的な通路が奪われるのだ。われわれは虫として語るべきであり、それが唯一われわれに世界との通路を与える。(「跳躍について 藤井貞和へ」29f.)と語り、(戦後における「荒地」派の線で)現代において人がもはや「虫」でしかないという現実のなかで、詩人は実の篭らない「人間」などの立場で語るべきではなく、あくまで「虫」の立場で語るべきだと説く。そして、詩の「効用」に関するかつての鮎川、黒田の議論の紹介を介して、
藤井氏の文章においては[実は]、戦争の悲惨と詩を書くことの現実的な関係はほんとうは問題になってすらいない」(31)/「[このように実は]「無力でもいいからxxxxを言い続けること。」このような言説の構造をささえるものはなにか。無力と知りつつxxxxを言い続ける者の真情が、だれかによって汲み取られること、このときはじめてこの行為が効果と接続されるのだ。だれにとってか。おそらくあの方[天皇]によって。(35)として、現実に対して無力だとして、その無力さを知りつつ「真情」を語ることによって、そこにいわば真情の共同体−−それを象徴するのが天皇である−−こそが本当の目的として想定されていると批判する。*
* 若森栄樹『日本の歌』をも参照。
[604] これに対して藤井は、
瀬尾さんの言いたいことは......詩は無力な(孤立した)ものであることぐらい皆さん先刻ご承知のはずなのに、何となく反戦的な(悪い)特集へ曖昧に共存するかのように寄稿に応じているのは、彼らの「詩する」意志がまだまだだ、というところであろうか。(「詩は無力であるか−−瀬尾育生へ」160)と、柄谷的に「内面」派として瀬尾を理解し、同様柄谷的に、
瀬尾育生......。その他もろもろの吉本隆明依存症たち。(161)と批判する。
[605] このように湾岸戦争をめぐって、大雑把に言って、「第三の道」は「第三」を貫徹しようという吉本的路線と、もはや「第三」はないとする(したがって「第二」に合流する傾向をも含む*)非-吉本路線の二つに分裂することになる。
* 浅田彰の「今年の言論活動」が「『赤旗』1月3日号のインタビューから始まった」(「編集後記」)というのは、それを象徴するものであろうか。
[606] この分裂に相当するものが西欧世界においても展開する。しかし西欧では、日本におけるような反戦声明vs.声明反対というかたちではなく、米軍中心の多国籍軍による対イラク戦に賛成か反対かというかたちをとる。賛成の立場に立った者として、ウォルツァー、リオタール、エンツェンスベルガー等が(ハーバマスは「限定的な対イラク戦」を主張)、反対の立場に立った者として、バリバールやブルデュー、ドゥルーズ、デリダ等がいる。(以上、岩崎稔「湾岸戦争と西欧知識人」、松葉祥一「リオタール批判序説」、中村隆一「「大国ドイツ」の熱い夏」、杉山光信「クウェート危機とフランスの知識人」等参照)
[607] 西欧世界との対比で言うと日本での分裂の仕方はきわめて特殊であると言いうる。「第三」の立場から対イラク戦賛成というのが日本では皆無(わずかに笠井潔が例外か)であるというのが大きく異なる点である。また逆に、イラク(アラブ)側に立って対イラク戦反対という立場が西欧では目立ったのに対して日本ではその意見が弱いというのも、大きく異なるところである。日本では参戦か非戦かということが軸であったのに対して、西欧ではイラクによるクゥエート占領という事態にどう対応するかということが軸であったと言ってもよい。ここに、戦後日本の−−悪く言えば現実棚上げ的に−−もっぱら理念でのみ考えるという習慣がなお続いているとも言いうる。加藤-竹田路線は、この在り方を問題として問うたのであるとも見ることができる。しかしながらこれもまた、加藤-浅田路線の在り方を批判するといういわばメタ的議論であって、湾岸の現実そのものにどう対応するかということを必ずしも問うていない。その在り方が逆に、(反対声明という)行動でなくて、もっぱらその際の在り方を「文学」として問うだけの「文学的内面」重視派だという反批判を呼ぶことにもなっている。
[701] ここに、この限りでは第三者的である竹田の次のような論評がなされることにもなる。
ひとことで言うと、柄谷の「文学」批判の議論と「署名」や「アピール」への[反柄谷派の]批判の議論は、対立しているはずなのだが、その対立の核心はじつはよく見えない。その理由は、双方がよく似た論拠で相手を批判しているからである。(「批評季評」289)更に展開されたかたちでは:
反戦の「署名」や「アピール」に対する笠井潔や加藤典洋などの批判は、現在“世界の歪み”に関してよるべき理念的根拠がまったくなくなったとき、絶対的な「平和」理念に依拠することの危険と欺瞞を指摘したものだ。......[署名・アピールは、]「現実性」に「個人の自由の夢」というロマンを対置するにすぎないからだ。/これに対する柄谷の......反批判は......。「文学」的内面はつねにあるがままの「現実」に対して「ロマン的現実」を対置する。そして共同体は、個人が自分を「ロマン的現実」の中に追い込んだときに、共同体への積極的な加担を強いることなく、いわば“個人が個人であるままに”やすやすと個人を共同体に“吸収”する。これが柄谷の「ロマン的内面批判」の要諦である。(同上 290f.)竹田によるなら、両派とも相手側を、「現実」を直視しない「ロマン」派だと批判しているのである。柄谷批判のコンテキストにおいてだが、竹田自身はこの事態を「奇妙」だとして次のように述べている。
このような柄谷の議論が、「署名」や「アピール」批判と奇妙にすれ違っていることは明らかだろう。“批判派”もまた、絶対的な「平和」の理念こそがまさしく「あるがままの現実」を直視しないロマン主義にすぎないと言っているからだ。この奇妙なすれ違いが湾岸戦争をめぐって生じた批評の混乱の根をなしていると言ってよい。(291)[702] 我々は、この「奇妙なすれ違い」がなぜ生じるのかを問い、そのことによって両路線の対立の−−単なる「反戦声明」署名・反対という表層を超えて−−深層を明らかにしたいと思う。 [703] 竹田は上の中立的論評の後、自ら(および加藤)の方はロマン派ではないとインプリシットには反論しつつ、柄谷がロマン派だということの論証・批判へと向かっている。ここではまずは共同体批判として論点が正確に同一化されているが、その要点は、すでに紹介したところと同じである。すなわち、こう説かれる。「共同体の「イデオロギー」をそこに生きる個人が内在的に批判すること」こそが本当の共同体批判である。それに対して柄谷のように「共同体という原理それ自体を「外部」から“否認”すること」は本当には批判とならない。なぜなら、それは「人間が現実を批判しつづけうる条件と根拠を無視」しているからである。そして、この「無視」ということが「ロマン主義に陥る」ことなのである。(以上、同上 292)
[704] 柄谷では、「条件・根拠」の「無視」−−その「条件・根拠」が<「内部」にあること>によって出てくるものであるので、その「無視」がすなわち<「外部」にあること>になるのだが−−にもかかわらず共同体批判がなされているわけだが、したがって、その批判は「無根拠」ということになる。こう理解することは、「外部性」が「無根拠」だとされている以上、柄谷自身からもしてもその通りである。竹田はそれを
これは具体的にはどういうことを意味するか。共同体内的な生活条件を否定してその“外”に出よ、とか「文学的内面」を自己否定せよという倫理的“定言命法”を打ち立てることだ。(292)と換言する。これは、先に([310])見たように、すでに「「自由」という絶対的理念から規定するものにほかならい」とか、「サルトル的な自己意識の実存に帰結する」と批判されたのだが、ここでは「ロマン主義」だとして批判されるわけである。柄谷の方が相手側を「ロマン主義」だとして批判するときも同じであるが、その対極には完全に肯定的な意味で<「現実」の直視>が置かれている。そして、湾岸戦争時において、もう一つの対応として、この<現実の直視>の一つのかたちとして、多国籍軍に加担するという(いわゆる)「現実主義」が−−いわゆる「自由主義史観」にもこれが含まれる−−登場してきたが、「ロマン主義」だという批判には、それに有効に対抗できない、あるいはさらに、それよりも悪いという含意がインプリシットには込められている。したがって、「ロマン主義」だという批判は、まさに正反対からの批判となるのである。そして、<現実の直視>と「ロマン主義」ということをめぐって真の論点が形成されているのである。
[705] しかし、「ロマン主義」とは−−通常の意味よりかなり広義のものであるが−−曖昧な概念である。そこで、柄谷は明示的に、加藤-竹田の方も暗黙には、さらに、相手を(より明瞭に)「ロマン的イロニー」(の立場)として批判してもいる。笠井は浅田の「侵略があれば全滅してもよいという覚悟を語っているのだから平和憲法はラディカルだ」という「意味の発言」について、
自分の信じていないこと、むしろ軽蔑さえしていることを信じているように振舞い、それによって批評力を担保しようとするロマン主義的イロニーの、まさに凡庸な現代版でしかないように思われる。(「ダチュラ」の運命」217)と批判している。要するにポストモンダン的に(変わることなく、なお)浮遊しているだけだというのである。これを竹田流に言えば、そもそも「動機」がないのであるから、現実の批判の出てきようがないのである。批判がなされるとしたら、それは実は何でもいいのである。いとうせいこうの
この戦争で、我々はアメリカにもイラクにも日本にもどの国の側にも立てないという無根拠が露呈した。その全ての立場が無くなった時に、戦争賛成か、絶対平和を選ぶか、全く無視するか、その三つしかない。しかし、どこにも根拠が無いなら無根拠のままで絶対平和を選ぼうと決意した。(「小山」176)という発言は、それを裏付ける。「根拠が無い」のなら「戦争賛成」を選ぶことも可能であったはずであるが、そうしなかったのは、「動機」として言論界における<立場取り>といったことがあったからであろう。
[706] しかし柄谷(自身)は、自分をロマン的でないと語る。
[イロニーの他に]もう一つの姿勢があるとしたら、僕が使った言葉でいえば、ユーモアですね。....../このユーモアは、自分を一種の高みには置くので、非常にイロニーと似てるんですけど、一つ決定的に違うのは......。......僕の湾岸戦争における行動というのはほとんどユーモアですね。(「現代文学をたたかう」11)では、イロニーではなくてユーモアだと言う、そのユーモアとは何か。柄谷は、
ユーモアは真面目なんです。......ユーモアというのは、目的とか意味とかが全くなくなったときにとりうる精神的姿勢だ(同 45)と語る。これだけではまだ不明であるが、「ヒューモアとしての唯物論」ではさらに次のように語られている。
それ[ヒューモア]は、有限的な人間の条件を超越することであると同時に、そのことの不可能性を告知するものだ。(122)また、スピノザが「ヒューモア」の人であるとして、さらにこう説かれている。
スピノザの考えでは、神は世界(自然)であり、そこではすべてが決定論的である。この世界を越えて在ると思われるものは、この世界のなかから派生した表象である。たとえば人格神は親子関係の心理的投射にすぎないし、自由意志や目的因は、たんに、われわれの知性が原因を充分に知りえないがゆえに成立する表象(想像物)にすぎない。(122)
[707] 柄谷は「超越論的であることはヒューモアである」(124)と語るが、ここからみるなら彼が言う「「外部」をもつ「超越論的」なあり方」の主張がよく分かる。すなわちそれは、人は自分の限定−−そこから有限性が帰結する−−を例えば「自由主義国家」「共産主義国家」といった「理想」(125)をもって否定しようとするが、そうした「理想」=「外部」が実は「想像物」=「幻想」であり、存在しえないものであることが、夢が夢の外部から初めて夢であると分かるように「外部」から明らかになるということである。「外部」から「外部」が存在しないと分かるということは「矛盾」(133)であるが、その矛盾を言い立ててはならないのであって、子規で言えば、「自分が[内部の]自分自身を高み[外部]からみる「自己の二重化」」(119)という「精神的姿勢」において明らかなのである。
[708] 例えばヘーゲルのフモール規定では、フモールは現実を、スピノザ同様、決定されたものとみる。しかしながら、その事態を肯定的にみる。「現実的=理性的」というあの定式が意味するのはこのことである。柄谷においてもそうであるのか。留保付きではそう言ってもいいかもしれぬ。したがって、このスタンスは批判されるようにニヒリズムではない。ニヒリズムは現実の否定を志向してそれが実現されないところに出てくる一切は無益だとする態度であるが、フモールは現実を肯定するからである。
[709] しかし他方、留保付きと言ったのには理由がある。このユーモアの立場と、共同体=ナショナリズム批判の立場とが整合しないからである。柄谷には共同的なものへの(絶対的と言っていい)違和感がある。推量するなら−−丹念に調べれば分かるかもしれないが、いま手元にあるメモを基本としていわば「速報」的に書いている−−それは、共同体が同じ「幻想」を共有する者たちの空間であるからである。(逆に、「幻想」を共有しない空間が共同体の外部=言うところの「交通空間」である。)「幻想」とは(或る種の)「意味」のことであるが柄谷には『意味という病』というタイトルの評論集があった。ここから見るなら、柄谷にとって現実の肯定とは、いわば<意味抜きの現実>の肯定である。* そして、竹田の言う「動機」であるが、竹田自身認めるように「動機」が「意味」を創出するものである以上、柄谷はむしろ「動機」を排除する。ここにあるのは、もっぱら「理論的」でだけあるスタンスである。蓮實との共著『闘争のエチカ』ではこう語られている。**
ヴィム・ヴェンダースの『ベルリン、天使の詩』は、天使が人間の女に恋して人間になるという話です。物語としては、古いパターンですが、ただこの天使たちは、ベルリンという都市の人々を見守ってきて、しかもベルリンがナチズムとスターリニズムのもとで荒廃するにいたるまで、幾度も無力でしかなかった天使たちなのです。つまり、天使として描かれているけれども、彼らは、ある種の人間のことだといってよい。それは、実践家ではなく、認識者であり、どんな人間的実践にも物語にも幻滅したがゆえに二度とそれに加担することなく、ただ実践が何も生み出さないことを認識するためだけに生きているというようなタイプの認識者なのです。(10)このように純粋な「認識者」をフモリストと呼ぶことは、拡張的な意味においては可能かもしれぬが−−ヘーゲルの用語法を含めてその標準的意味においては−−少なからず無理である。我々が上で留保を付けたのは、この意味においてである。
* <「共同体の外部」=「交通空間」>という言い方は、<「外部」が存在しない>という認識とは矛盾する。したがって、前者は一種の簡便な言い方であって、<共同体の「外部」に「交通空間」が在る>というふうに理解するのは正しくないであろう。<共同体と共同体の間>、<そこから共同体が成立してくる空間>といった趣旨の実体化的表現も見られるが、むしろ「交通空間」とは「共同体」的現実と別のものではなく、或る視点から見られた現実そのもののことであろう。それは換言すれば、「意味」の相を−−「幻想」だとして−−捨象した現実のことである。だから柄谷は、「“交通”という視点は......「歴史の意味」を排除する」(『批評とポストモダン』184f.)とも語るのである。(因みに、逆に、歴史を有「意味」とみる見方は「歴史主義」と呼ばれるが(『隠喩としての建築』29)、「歴史主義」のこの用法は(ほぼ)完全に我々のもの(拙稿「歴史主義について」参照)と一致する。)『言葉と悲劇』251-3では、「思考の三つのタイプ」として、「故郷を甘美に思う」という「共同体の思考」、「あらゆる場所を故郷と感じられる」という「コスモポリタン」、「全世界を異郷と思うもの」が挙げられている。「交通という視点」とは換言すれば、この第三の「全世界を異郷と思うもの」のことである。これを柄谷は、「この第三の態度というのは、あらゆる共同体の自明性を認めない、ということです。しかし、それは、共同体を超えるわけではない。そうではなく、その自明性につねに違和を持ち、それを絶えずディコンストラクトしようとするタイプです」と説明する。ここからみても、「交通空間」という「外部」が(別の空間として)存在するのではないことが了解される。
** 「彼は......ただ共同体の秩序によって生きているだけの人間に対して屈伏することは拒むのです。」(15)と「闘争」宣言をし、かつ「この闘争に、「理由」や「動機」はありません。」(16)と柄谷は語っている。後の引用文に続けて「たんに自分を殺そうとする敵が眼前にいるからにすぎません。」(16)と語られるとき、極めて表面的に理解するなら、「敵」が「共同体」であるのでそれに対して反共同体(の「闘争」)というスタンスを採っている−−悪く取れば言論界内部の争いがあるだけだ−−、その意味で(内発的な)「動機」などは存在しないということであるのかもしれないが、我々はここに(柄谷自身の)内発的なものとして共同体への違和感が存在すると考える。なるほど柄谷は、(吉本=竹田的な)内発性に依拠する「批評」の在り方を−−結局「共同体」的なものとして−−拒否し、それとの区別で「理論(セオリー)」という言い方もされてくるのであると考えられるが、その志向そのものはやはり内発的なものだと言うべきであろう。共同体に対する違和感は、単に「批評」に際して(知的に)それに定位したというものではないはずだ。したがって、「理論的」という在り方は、同時に実践的である「理論的」在り方なのである。「・批評・は、方法や理論ではなく......。......もし日本で(少数の)批評家や作家が......ある優越性をもちえた(と私は思う)としたら、その理由はいうまでもなく・批評・が方法や理論ではなく、生きられるほかないものだからである。」(『批評とポスト・モダン』20f.)と語られるとき、そう理解するしかないように思われる。但し、上に「速報的」云々と書いたが、テクストとしては(例えば)『畏怖する人間』『漱石論集成』等の検討を待ってでないと正確には語れない。
しかしながら、ここで、<検討>のポイントだけは述べておきたい。柄谷は上の著作の両方に収められた論稿「意識と自然」において、例えばこう説いている。「要するに、漱石の小説は倫理的な位相と存在論的な位相の二重構造をもっている。それはいいかえれば、他者(対象)としての私と対象化しえない「私」の二重構造である。他者としての私......を完全に捨象してしまったとすれば......どうなるか。それを示しているのが『夢十夜』だ。この「夢」は漱石の存在感覚だけを純粋に暗示する」(『畏怖』35)。四でみたデカルト論と重ね合せるなら、この引用文中の「対象としての私」は「経験的な主体」に、「対象化しえない「私」」は「経験的な主体への批判において見出される実存的主体」に対応する。しかし我々は、後者は、−−竹田が「疑い」について「ただ極限化された理性の理論能力としてだけ想定される」と言うときはそう見ているのだが−−(言論界でのスタンスを採るために)単に理論的に想定されているだけのものではなく、まさしく柄谷自身において−−したがってその意味では経験的なものとして−−体験されているものであると理解する。『畏怖』に収められた「著者から読者へ」(374)では、「一方で、私は、時代状況と何の関係もない「自己」の問題が実在すること、それは倫理以前のものであることを強く感じていた。なぜなら、倫理的であるには他者が存在しなければならないが、その他者が現実的に感じられなかったからである。私はこれを少年期から感じていた。」と述べている。そして、こうした柄谷自身の「感じ」=「存在感覚」が、共同体への「嫌悪」を結果しているのであるし、また、その共同体への「疑い」を「促」してもいるのである。
古井由吉論(「閉ざされたる熱狂」)での表現で言うなら、この「感覚」は「「頭の恐ろしさ」ではなく「心臓の恐ろしさ」[漱石]」(『畏怖』164)である。これを竹田は「頭の恐ろしさ」、つまり「理論的」なものだと言っていることになるのだが、それは解釈として正しくない。その誤解は、こうした「心臓の恐ろしさ」が「病理体験」の次元のものでのみあって、「健康」の次元に留まる竹田からすればおよそ体験できぬものであるところから、来たものであろう。しかしながら問題はあるのであって、それは、このような「病理体験」レヴェルから出てくるものが果たして(柄谷自身の)「倫理」(エチカ)となりえるだろうかということである。ここから出てくる反共同体を−−「文学」ではなく−−「倫理」として説くとき、体験から出てくる、その意味で真正の反共同体は、(言論界の)共同体的な言説への単なる反定立へといわば脱体験化されてしまっているのではなかろうか。あるいは、蓮實が理解するように柄谷は(蓮實が言う)「芸術家」であって(「蓮實」)、そういうものとして−−したがってエチカは美学であって−−、むしろ体験から語るという行き方を退けているのであろうか。これが<検討>すべきポイントである。
[710] そうであるとして、さて、このような「認識者」のエチカは、竹田が言うように彼だけの倫理でしかありえない。「反戦署名」においても、彼は彼だけの立場から(「単独者」)署名しているのである。しかしながら、(「署名」そのものはいいとして)なぜ「反戦署名」となるのか。それは、極論するなら、「文学的内面」批判を通して「共同体」を批判するためである。柄谷には「近代文学における「文学的内面」こそ「ナショナリズム」を作ったという理論的な主張」(竹田、「批評季評」289)がある。そして事実として、反核運動時と同様なお「内面」に固執して「反戦」にネガティヴな一派がいる。この「内面」派を、そして共同体を批判するために柄谷は「反戦署名」を提唱したのである。しかしそれなら、なお、「参戦署名」であってもよかったはずである。「内面」派はそれにも反対しているからである。実はこれは、いわば「内面」派分裂を狙ったものであると考えられる。「内面」派が反戦か参戦かというなら明らかに前者に傾いているところに狙いを定めて、それでは「反戦」を採って「内面」を放棄するか、なお「内面」を採って「反戦」の立場を曖昧にするか迫ったものである。加藤のその後の反応は、このように仕掛けられたことに反発したものであろう。
[711] 実際、柄谷にとって、日本が参戦するかどうかはどちらでもいいものであった。大事なのは、(「内面」に閉じこもらないで)何かを言うことであった。石川好との対談では
......。大事なのは、それを外に表明することです。原理さえちゃんとしていれば、本当は、九十億ドル出そうが、難民救済のために自衛隊を派遣しようがかまわない。(「湾岸戦争を満州事変にするな」118)と語られている。
[712] しかし同時に、湾岸戦争時は「日本は平和憲法を積極的な原理として表明しうるチャンスだったと思う」という発言に対する「土井たか子と同じなんですか」という石川の質問に「ちがいます。」と答え、続けて上の「......」の部分で、
世界政治においては、動機がどうであろうと、理念や原理がつねに語られる。その場合、日本人が西洋に対してだけでなく、アジアに対しても提示しうる原理は、これ[平和憲法]以外にはない(117f.)と語る。ここには、「認識者」であることをやめて−−あるいは、言うとして<治者>の視点に立って*−−、日本が今後あるべき道といったものとして平和理念の主張が説かれている。
* ここに、この時期、(表面的には)同じく「平和憲法」を説いた−−(生活者)吉本との基本的相違があると言いうる。吉本との対談で瀬尾は「[柄谷達の]そういう言い方と吉本さんの言われていることがいったいどう違いどう同じなのかということが、ぼくにとっては最も難しかった」(「湾岸戦争」12)と語っているが、少なくとも、この<治者>に対する「極東に位置する日本国の一個の民衆」(「わたしにとって中東問題とは」104)という自己規定において、相違は決定的である。
[713] 『〈戦前〉の思考を巡って』では、冷戦後の世界を−−アメリカの一元的支配ではなく−−多極化の趨勢にあり、そこで日米間の対立が今後避けられないとして、それに対処すべくアジアの結集を図るために、まさか再び「大東亜共栄圏」を言うわけにはいかないので、日本が現在、理念として唯一掲げることのできる「平和憲法」を前面に打ち出すべきであるという趣旨の主張が展開されている*。ここは、あるいは、日本が衰退に向かうことなく進むことができるとすれば、こういう道しかない、と純理論的に認識を示しているだけかもしれないが、しかしここは、むしろ国民的知識人といったものとして語っているようにも感じられる。
* このことは、「従来の平和擁護論が、「平和がいかに大切か」ともいうべきひとびとの実感に訴える「平和」の“使用価値”を強調するものだったとするなら、この[柄谷派の]「ラディカルな平和」の提示は、現在の国際関係のエコノミーにおけるその“原理”としての有効性を“活用”しない手はない、とその“交換価値”を強調しているわけです。」(『世紀末の』50)というかたちで、加藤にも認識されている。
[714] しかしながら、柄谷本人と柄谷派の人々を区別するとして、後者は、相変わらず旧来の「戦後的啓蒙」のスタンスでただ理念を−−湾岸戦争時には「絶対平和主義」を−−語っているだけではなかろうか。そうであるとするなら、柄谷の場合は現実を直視しているとして、彼らは、今度は柄谷という「外来思想」をただ受け売りしているだけではなかろうか。そして、何でもいいがとにかく現実に対処することそれ自体が大事なのであるとするなら、それは、そうした対処を行っている主体を実は現実の上に置くというかたちで、ロマン的イロニーであると言うことも不可能ではない。
[801] 瀬尾・藤井論争をコメントして柄谷は次のように言う。
......ベトナム戦争なら......なおそこに、米ソいずれでもない革命の可能性を「想像する」といったことが可能でした。今度は違う。おまけに、日本が実際に戦争に参加することが出てきたわけです。それは、もう、「想像力」の問題ではない。文学者の無力は、単なる無力であって、もはや逆転の契機はありません。これまでの[吉本的]思考に慣れてきた人たちでも、それがもう流通しないことに気づいていると思います。その場合に人がとる方法というのはたぶん二通りあるでしょう。一つは、危うくなった「主体」をいわば高次化する......ことです。......イロニーですね。すでに、[戦後の「荒地」派以来の、吉本にも繋がる]「詩人は無力だ」というのも、イロニーだったんですが、[かつては]まだそこには、逆転の可能性が残っていた。しかし、[いまや]本当にたんに無力になると、どうするか。現実あるいは自己を軽蔑することです。そうすることによって、高次の自己を確認する。......[例えば]ボードリヤール[のように。]....../もう一つの姿勢があるとしたら......ユーモアですね。/....../ドゥルーズ......。今度の湾岸戦争で、彼は、ほとんど公式的なまでに、正面から反戦を声明しましたね。あれがユーモアだったといっていいと思う。(「現代文学をたたかう」10-12)柄谷は瀬尾をこのようなイロニカーとして批判する。そしてこれは、間違いなく加藤-竹田路線批判をも含意している。要するに、この時点でなお「第三の道」を採ろうとすることは、「文学的内面」に固執したイロニーでしかないというのである。
[802] しかしながら、これはどういう批判であって、加藤-竹田路線としてはどう反論することになるのか。これは柄谷の基本テーゼなのだが、彼によるなら、近代は「文学的内面」の成立と一体である。そして「内面」(をもった主体)が、「国民国家」−−換言すれば「ナショナリズム」−−の主体を形成した。問題はまず、これとイロニー批判との関係である。
[803] [801]の引用文からも明らかなように、「イロニー」は二種類に分けて使われている。すなわち、そこでの言葉を使うと1)「逆転の可能性」を残し、現実否定へと繋がりうるイロニー(A)と、「現実を軽蔑」し、「高次の自己を確認」するだけのイロニー(B)である。まず、このことを確認する必要がある。そうするとして、竹田(の方)からすれば柄谷派はロマン主義として批判されると確認したが、いま「イロニカー」として問題とするとして、厳密には、それはこの「イロニカーB」としてである。そして、その「イロニカーB」として柄谷の方は逆に瀬尾と、そして加藤-竹田路線とを批判するわけである。
[804] つまるところ両路線は共に相手側を「イロニカーB」として批判するわけだが、そこに(竹田が言う)「奇妙」さがあるわけである。しかし、これは表層の事態であって、竹田によれば、そこには「よく見えない」「対立の核心」がある。我々はそれを、柄谷-浅田路線による批判の観点からは、柄谷が言うこれらの「イロニー」(A、B)、「内面」、「国民国家」=「共同体」の関係を問うことによって明らかにできると考える。
[805] まず、(柄谷が加藤-竹田路線がそこに陥るとする)「共同体」への一体化であるが、「内面」派は「イロニカーB」としてこれに陥るというのはその通りだとする。しかし柄谷派からするなら、「イロニカーB」は冷戦体制崩壊後の現実の変化によっていわば強いられたかたちで「A」がそれへと変質して出てくるものである。そうすると、この見方と、近代的「内面」=「イロニー」総体との関係はどうなるか。(かつて柄谷自身がそうであった)「内面」の「イロニーA」を意味あるものとして保持するとして、「共同体」と一体化する「イロニーB」的「内面」は、冷戦後にのみ固有の在り方だというのか。しかし、それでは、近代初頭(19世紀)の国民国家形成期と「内面」とは有意的に結びつかないことになる。あるいは、冷戦期のみが特殊であって、その時期にのみ「内面」は「イロニーA」という形を取りえたというのか。しかし、それでは、この時期を近代において例外的な時期だとしてしまうことになる。それは柄谷派の真意ではないであろう。
[806] [107]に見た浅田の見方に従って、「共同体」への、いわばハードな一体化とソフトな一体化とを分けて、冷戦体制崩壊後、「内面」派が「イロニカーB」として陥るのはこの後者だと限定することが可能である。そうすると、現在のソフトな一体化とは別のハードな一体化が近代成立後支配していたとして、その主体は何か。「イロニーA」的「内面」なのか。そうであるとするなら、いかなる「共同体」をも否定する柄谷の、その柄谷もかつて取った「イロニーA」的「内面」は、冷戦期に即しても否定さるべきであったということになるが、そうなのか。そうだという方向で、柄谷はあるいは、かつては日本的共同体といわばインターナショナルな共同体とのいずれをも拒否しつつ、しかし何らかの理想的共同体を志向していたのだが、冷戦後その可能性がなくなって、そうした第三の可能性がなくなったにもかかわらず、なおそれを求めるなら日本的共同体に行かざるをえなくなったという時点で−−或る意味でかつての自己を、「第三」であってもやはり「共同体」志向的であったと批判しつつ−−「内面」総体の批判へと転回したのかもしれない。しかしながら我々は、「内面」=「イロニー」、「共同体」という基本概念は受け入れるとしても、簡単な三者間の等置図式では説明力が不足すると考える。
[807] 柄谷の近代論(風景論)に対してかつてカテゴリーが不足していると批判したことがあるが、我々はここでもそれを言わなければならない。基本から考え直していくとして、まず、時期区分的によくなされるロマン主義を前期・後期に分けるという見方を援用して、但し必ずしも時期区分的なカテゴリーとしてではなく我々も、ロマン主義を前期・後期に分けたい。そして前期ロマン主義の「イロニーA」として「内面」がその原型において成立すると規定する。
[808] では次に、国民国家=共同体はどう結びつくのか。ここで我々はさらに「イロニーA」について、それをいわば「純粋なもの」と「不純なもの」に区別する。竹田が柄谷の説としてまとめたところによると、「内面」は「ロマン的現実」を「現実」に対置するのであるが、我々の見方では、それは柄谷が言うようには(?)ただちに国民国家=(近代以前的な共同体に対する)いわば新共同体につながるものではない。(前期)ロマン主義は、イロニーとして旧共同体的現実を全否定するが、それは同時に(その「ロマン的現実」において)新共同体に加担するわけではない。加担するものもあるが、そして形成期においては新共同体=国民国家の主体はロマン主義的主体でのみあるのだが、それは、その「イロニー」が「不純」である場合だけである。「内面」は−−旧共同体的現実に対しては等しく全否定的であるが−−、それ自身、(その「ロマン的現実」の構成分として)新共同体を含むものと、含まないものとに区別されるのである。
[809] この前者の(前期)ロマン主義者=「内面」を支えてとして国民国家が形成される。それは換言すれば近代国家である。しかし、国民国家はやがてその近代性に対する反発を誘発してくる。そこに成立してくるのが後期ロマン主義である。それは、新共同体的現実に対して旧共同体的現実を対置する。しかしそれは、対置の仕方としては同様ロマン主義的であり、イロニーとして(今度は)新現実を否定する。したがってまた、主張内容としては復古主義的であっても極めて近代的でもある。*
* 我々は京都学派の「近代の超克」も、このようなものとして理解している。
[810] 以上のプロセスの内にはまだ「イロニーB」は登場していない。では「イロニーB」とは何か。柄谷派は、現実の方の変化によっていわば受け身的に「イロニーA」が「B」に変質すると見るのであるが、我々はイロニカーという主体(そのもの)の側のうちに、「B」の独自性を想定したい。主体のうちにどういう独自性があるのか。正確に言うのは困難なのだが、いずれの現実であっても、その現実を否定するのが「イロニー」一般であるとして、「現実」に対して「ロマン的現実」を−−そこに共同体を含むにせよ、含まないにせよ−−その内実に即して対置するのが「イロニーA」であるとすれば、否定するということそのものを一種の「ロマン的現実」として対置するのが−−そこに共同体が内容として入りこむ場合もあるが、そうでない場合もある−−「イロニーB」である。この限りで「イロニーB」は、共同体が内容として入りこむ場合であっても、「共同体」を自らの「ロマン的現実」の内容として構成しようとしないかぎりにおいて、上の意味で純粋か不純かというなら「純粋」ではある。そこでは、「不純な」「イロニーA」が現実への反定立として積極的に「共同体」に一体化するのに対して、いわば、どうでもいいものとして「共同体」への一体化が行なわれるにすぎない。
[811] そうだとしてでは、加藤-竹田路線は(我々の図式から言って)どこに位置するのか。我々から見ても、それが「内面」派=「イロニカー」であるというのはその通りであると言っていい。彼らもまた現実を否定し、何らかの「ロマン的現実」を対置するからである。例えば、加藤が(瀬尾の方に加担して)、
言葉が戦争という現実を前にして全く無力だとして、「だから」とばかり[参戦派のように]政治というリアリスティックな現実的思考に赴いても、また逆に「だからあえて」とばかり[反戦署名派のように]その「貧しい言葉」を引き受ける「決断」のほうに赴いても、そこに言葉(モラル)の生きる可能性は、すでに断念されている....../でも......言葉がその「無力」を前に“絶句”することは、無ではない、何ごとかでありうる。(『世紀末の』107)と語り、そこに「モラル」を語るとき、そういうモラル的「内面」の世界が「ロマン的現実」として対置されている。
[812] そして、さらに、この「モラル」が「内面」に自足する「モラル」に留まる限りでは、そこに「イロニーB」がある。これを換言すれば、「政治」に対する「文学」に自足しているということである。加藤が、例えば、文学の政治性を主張する文学観を批判した太宰治を弁護するとき、さらには、その太宰の延長線上にある吉本に対して、その「自立思想」になお「政治性」が残っているとしていわば「文学性」の徹底を語るとき、「イロニカーB」だとみなすことが可能ではある。
[813] しかし加藤は、そうではないと間違いなく語るであろう。我々の図式で言うなら「純粋な」「イロニーA」だと主張するであろう。彼は「政治」をも語っているからである。だが問題は、その「政治」を言うだけに留まっていないかどうかということである。そして、柄谷からすれば、「イロニーA」だとしても、もはや「純粋な」イロニーAは不可能なので、「不純な」イロニーAたらざるをえない。問題は、「純粋なイロニーA」はもはやありえないのか、という現実認識にも関わる。
[814] この問題は、実は、柄谷の「ユーモア」のスタンスをさらに問うことへと繋がる。そもそも「フモール」は−−「イロニー」と異なりつつ−−「純粋」でありえるのか。「純粋」とは、「イロニー」の場合は、(現実を否定し、現実を超えた)「共同体」という「ロマン的現実」を仮構しないことである。フモールが、結局−−イロニーと異なって−−現実を肯定するのだとしたら、このようにして「純粋」であることは不可能なのではなかろうか。「現実」には、その一局面として(なお)「共同体」が含まれているからである。標準的意味では、「フモール」は、この「共同体」をも、それが「現実」であるかぎりで肯定的にみることになる。それが「幻想」であり、高み(「外部」)から「幻想」が「幻想」であることを知りつつ、「共同体」を肯定することになる。これが柄谷の「ユーモア」の場合どうなっているのか。
[815] 或る意味で柄谷は、なお共産主義=マルクス主義者である。しかしそれは、フォイエルバッハ流の人間主義的なマルクス主義の対極に位置するシュティルナー的なマルクス主義である(『終わりなき世界』200f.参照)。そしてそれは換言するなら、「共同性」の要素を完全に払拭した共産主義である。この共産主義の主張に対する対談者・岩井の「それは世界資本主義とどこが違うんですか」という質問に柄谷は「それは同じことですね」と回答する(203)。
ある意味で言えば、マルクスは資本主義の発展が共産主義そのものなんだということを言っていたんじゃないかと思うんです(207)とさえ語られている。しかし彼は、アナーキズムのいわば国家抜きの資本主義を(理想として)説こうとしているのではない。アナーキズムが自然発生的秩序のまさしく理想を同時に語るのに対して、世界資本主義の運動の無秩序性をも彼は認めている。このとき彼は、冷徹な認識者として世界を見つめている。柄谷は冷戦体制崩壊後の世界を「先進資本主義国」の世界支配が基本構造となるとみる。もはや、社会主義が対抗原理にならないだけでなく、「第三世界」も有効な対抗勢力とはならない。それもまた先進資本主義国の支配構造に組み込まれてしまっている。<対抗>があるとしたら、フセインやノリエガのような「非理性」の噴出としてでしかない。この「先進資本主義国」の世界支配は、換言するなら「多国籍資本」の支配であるが、しかし柄谷によるなら、そこから国家の枠組みが超えられているわけではない。資本はなお、その政治部門として国家を使用する。しかしまた、そうした多国籍資本の政治部門としてアメリカが一元的に世界を支配しているわけでもない。パックス・アメリカーナが存在するわけではない。存在するのは、いくつかの国家連合(アメリカ中心のNAFTA、EU、そして日本中心のアジア(?))間の支配権闘争を含んだ「先進資本主義国」の世界支配である。これは第二次大戦前と同じ構造だと言っていい。柄谷は、だから現在を「戦前」と規定するのである。(以上、『終りなき世界』『〈戦前〉の思考』参照)
[816] 柄谷はしかし、この事態を認識者として眺観するだけではない。同時に、一種の現実主義者として、この事態への<対処>をも語っている。[713]にみたように(日本人として)アメリカの覇権に対抗すべくアジアの結集を(インプリシットには)説いてもいる。そして原理的次元では、資本の無秩序性に対して、いわば防波堤として国家に(なお)依存しなければならないことをも認めている。しかし、その国家は、もはや「国民国家」ではない。国民国家は本質的に(不純に)ロマン主義的なものである。それは、成立期で言うなら、例えば現実の身分的差別を否定して、国民という限りで−−したがて非国民を排除する−−平等な構成員から成る国家=国民国家の「ロマン的現実」が実現されていったものである。柄谷が想定する国家は、これとは異なって、例えばスピノザが説いている「いささかも共同体的な、民族的な、血縁的なつながりをもたない個々人の間の契約国家」(『終りなき世界』204)*である。「フモール」が国家の肯定を含むということを、柄谷の「ユーモア」にも認めるなら、内容をこの契約国家で埋めた<国家という枠組み>(のみ)の肯定であると言うこともできる。
* これは加藤-竹田の場合も同様とみなして構わないと考えるが、ここで言う「国家」とは「政治」とも換言できるものであって、決して「近代国家」のことではない。したがってまた、例えば坂本多加雄が(EU等にすでに「国家」を超える萌芽があるが、)なおしばらくは「国家」が必要である−−そして、それは「国民国家」でしかありえない−−と語る場合とは異なる。柄谷からすれば、そういう「近代国家」とEUとは基本的に同じものである。したがってまた、−−例えば西川長夫のように「国際主義」的に−−そうしたかたちでの(近代)国家の消滅に希望を見ているわけでもない。
[817] こう理解するなら、そのスタンスは意外と加藤のそれに近い。柄谷から見れば加藤は、言うとすれば−−「純粋なイロニーA」として−−なおアナーキズムの可能性に拘っている(その現実の不可能性から「内面」に留まるだけである)のであるが、加藤もまた、国家という枠組みは−−例えば「ぼくはもう「国」、「国家」を悪とは考えない」(『世紀末の』155)というかたちで−−容認しつつ、しかしそこから徹底して「国民性」を排除しようとしているからである。(「歴史主体論争」の文脈で言うなら、それが「公共性」である。)これはすでに前稿で加藤理解のポイントとして指摘したところである。テーマ的には彼の福沢論(「「痩我慢の説」考」)の検討が重要であろうが、それはまた別稿を期したい。(因みに、これは福沢解釈としては正しくない。彼が福沢を肯定しているからといって、そこから例えば司馬史観を介して「自由主義史観」へと繋げて行くのは、したがって、妥当でない。彼が支持しているのは、加藤流に誤解して想定した「国民国家」批判者としての福沢であるからである。)
[818] このスタンスは、次のように述べるとき竹田においても明瞭である。
......モラルとしては人間の欲望の「自己中心性」を認めること......。ぼくにはまさしくそのことが現在の批評や思想の言葉の出発点であると思えるのです。/......この原理を認めたとき、「社会」とか「国家」というものを、はじめて「共同体」ではなく、単なるルールによって成り立つ自由な個人の「集合体」とみなすことができる......。(『世紀末の』147f.)
[901] 以上みてきたような対立が現在まで基本的に続いていると見て差し支えない。加藤-浅田路線から「歴史主体論争」に関わる積極的な発言はあまりない。わずかに、高橋哲哉と西谷修をゲストとして迎えて行われた「共同討議 責任と主体をめぐって」においてぐらいであろう。ここでなされた発言のいくつかを拾っておこう。
高橋さんはそういう当事者の苦哀を感じとることなしに「講壇」の高みから語っているだけだ、というのが彼[加藤]の言いたいことでしょう。だけど、「内から出る」ことは「外へ出る」こととは違う、共同体的なものに深く身を浸しつつ反発の瞬間だけにとどまりたいというのでは、それ以上どうにも動きようがない、むしろ、ぼくはそこに、どちらにもつかない「私」を特権化するナルシシズムを感じざるをえないんです。(18)[902] 共に浅田の発言であるが、柄谷も基本的に同じ趣旨の発言をしている。全体の批判は湾岸戦争時と同じである。この「共同討議」ではしかし、上の第二引用文に見られるような一種の現実主義が目立つ。取り敢えず、丸山的な近代主義で行くしかないという。これは、次のヴァイツゼッカーの評価の仕方(浅田)からも端的に読み取れる。ともあれ、日本の場合、共感の共同体がそういう形で再生産され続けているとすれば、まずそれを近代的な個人主義の論理で克服した上で、その近代主義をさらに批判しなければいけないという、非常に厄介な二重の責務を背負わされているということだと思うんですよ。(25)/さっき丸山真男と言ったけれども、アーレントというよりハーバーマスといえばいいわけで......、この人はなんと西欧中心的・ロゴス中心主義的な人かと思いながら支持せざるを得ない、......。(26)
歴史修正主義に関連して言えば、そもそもドイツがやってきた戦後処理というのは、いろいろ問題があるとはいえ、日本の戦後処理よりはるかに徹底している。......そうしなければ、ヨーロッパで経済活動をやっていけないんだから。たとえばヴァイツゼッカーが大統領だったときの有名な演説でも......。......実際あれこそまともな保守派の言説ですよ。さらに、シニカルな見方をすれば......それこそがドイツの資本の利害にかなっているわけです。(21f.)第一引用文と併せて理解するなら要するに、革命を求めてその不可能性からただ「内面」に留まるだけでは駄目であって−−政治的には「自由主義史観派」のような「まとも」でない「保守」に吸収されてしまうだけであって−−いまやまず「まともな保守」の近代主義で(に後退して)冷戦後の変化にしっかり現実主義的に対応していかなければならない、と語られているとさえ言っていい。
丸山真男が言いたいのは、近代主義・市民主義がいかに陳腐であろうと、日本では近代も市民も実現されていない以上、今なお新鮮である......。ぼくは、一九八四年頃......それを読んで共感を覚えた。(26)と語るとき、柄谷もこれを裏書している。
[903] この「まともな保守」は別に「進歩」と換言しても構わないものである。しかし、湾岸戦争時の「反戦署名」は一見いわゆる「進歩派」のスタンスと同じであったように見えるが、柄谷-浅田の場合は一種の現実主義があるのである*。この点は看過すべきでない。したがって、「進歩派」左派のスタンスに立つ高橋の発言とは微妙にトーンが違っており、悪意にみれば、高橋の熱弁ははぐらかされてもいる。浅田によって
絶対的な他者が重要なのではない、たんに相対的な他者とのいまここでの関係が絶対なんだ......。「ショアー」の問題にせよ、「慰安婦」の問題にせよ......どうしても死者や被害者を大文字の他者として立ててしまうバイアスがかかる。そうすると、それに対して加藤さんのような人が「鳥肌が立つ」と言ったりすることにもなる。......さらに言えば、絶対的な他者との不可能な関係に耐えるというようなことを倫理として主体に要請してしまったときに、その不可能性から主体というものが空無に帰してしまい、逆に言うと、そこにはいかなる経験的な内容を充填してもいいということになって、結果としてオケージョナリズムに陥ったりもするわけでしょう。(36f.)と語られるときは、明らかにそうである。
* 「倫理」の問題として言うなら、ここには「責任倫理」があると言うこともできる。これは、いわば「誠実」を軸とした加藤-竹田的倫理とも、そして加藤-竹田が「進歩」派に見る「正義」の倫理(言説においていかに正しいことを言うかを軸とした倫理)とも異なる。倫理学プロパーの問題としては、この三種の倫理の相違を論じることも重要であろう。因みに、−−「正義」の倫理を否定して、その意味で「ノン・モラル」を説いているが−−「ある意味では[なお]無責任なノン・モラルの柔軟さが欠如している」という川村湊の加藤批判(「湾岸戦争の批評空間」303)は、テーマ的に加藤-竹田の倫理を問うたものである。柄谷も、そうした誠実の倫理を、「偽善」を嫌う「正直」の倫理として、まさしく「やまとごころ」の伝統的倫理だとして批判している(『終わりなき世界』130f.)。これに対して加藤-竹田は、「欺瞞」の倫理だとして反批判するわけだが、同じ「欺瞞」だとして、柄谷的倫理の「欺瞞」と、「進歩派」の倫理の「欺瞞」とは大きく異なる。後者が、いわば<言説>と(自らの)<生活>(の在り様)とを区別しつつ、<言説>において倫理的であることによって<生活>を棚上げにするものだとしたら、前者は、倫理学のタームで言うなら「動機主義」に対する「結果主義」に明確に定位して、その「結果」における「善」を−−それを説くことが「偽善」であろうとも、それを意識しつつ−−問うものである(『終りなき世界』130ff.参照)。この相違が指摘されていないところにも、「歴史主体論争」がまだ未展開である所以がある。
<正義の倫理>は、換言するなら「倫理的満足」を求める倫理のことである。唐突な関連づけだが、環境倫理で問題とされるいわゆるCVMについて栗山浩一氏は「生態系の価値評価と環境倫理」(『環境倫理と市場経済』東洋経済社 1997)で、次のように問題を指摘している。「彼ら[Desvousges等]は水鳥を守ることの価値をCVMによって評価したが、その際に(A)2000羽の保護、(B)2万羽の保護、(C)20万羽の保護、という3種類の保護政策を想定した。常識的に考えれば、2000羽しか保護されないよりは2万羽が保護される方が望ましく、20万羽が保護されるのはさらに望ましいだろう。したがって、CVMの支払意志額が環境価値を反映しているならば、政策(A)(B)(C)の支払意志額をそれぞれWTPa、WTPb、WTPcとするとWTPa<WTPa<WTPcとなるはずである。/ところが、彼らの評価結果では......支払意志額は、必ずしも評価対象の変化に対応していなかった......。/このような現象に対して、Kahneman & KnetschはCVMが評価したものは、環境の価値ではなく、「倫理的満足」にすぎないと主張した。つまり、保護対象が何であれ、ともかく環境保護にお金を払うだけで人々は満足しているのであ」る(184f.)。<正義の倫理>とは、このようなかたちで、<自らが正しくあること(を目的として、その目的の実現)に満足を覚える>という倫理のことである。これは、義務論的倫理でありながら、言うとすれば「愛の倫理」が「水鳥を保護すべし」という義務に同じく従って、しかし可能な限りで、対象の水鳥の数に応じて「支払額」を増やしていくものであるのに対して、要するに義務に従ったということで満足してしまうものである。そして、結局自分の<生活>を犠牲にまではしないということが一体になっているとき、そこに「欺瞞」があるのである。これに対して<誠実の倫理>は、同じく<生活>を犠牲にしようとはしないが、その<生活>を犠牲にしないという限りで結局「義務」にも十全に従えないのであるという認識のもとで、自らが「正義」であるという意識だけは「欺瞞」として峻拒するものである。<結果倫理>は、これを「正直」への自足といったものだとして批判し、いわば自らが同じく<生活>を犠牲にしない範囲で「支払う」ことは実は水鳥(全体)の保護に関しては無に等しいことを知りつつ、したがって自分が「正義」であるという意識などはもつことなく、その無に等しい「支払」の実行・主張が第三者に対してもつ効果を重視しようとするものであるとも言いうる。(柄谷はこの倫理で語っているのだともみなせるが、しかしそうであれば、[502]でみた彼の「エチカ」とはやはり齟齬がある。柄谷からすれば、むしろ<結果倫理>などはどうでもいいものであって、彼は「エチカ」の実行の単に一つの方途として<結果倫理>を説いているだけ−−それが加藤-竹田からすると「欺瞞」に見えるのだろう−−なのかもしれない。)
[1001] 我々の理解では、政治的含意としては実は、現実主義的に国家の枠組みを受け容れ、かつそこから徹底的に国民国家性(共同性)を排除していくという点では、両路線は基本的に同じである。にもかかわらず、加藤-竹田は、柄谷-浅田路線では、そうした方向が上から(<啓蒙>として)主張されいて、それが「言う」だけに留まっていて、特に浅田の場合のように、その限りでかつてのポストモダン的浮遊の延長上にあると、対して後者は前者を、相変わらず物事をモラルで考え、−−かつての「革命」の可能性が消え去った今では−−そのモラルのゆえに何も出来なくなっている、それは「内面」の方が重要であるからだ、と批判し合っている。
[1002] ここには、或る意味でどうしようもない感受性の相違がある。この感受性が結局は規定的であるとするなら、対立はそれ自身「文学的」である。しかしここは「政治的」に、それぞれの言い分では共に反共同体であるというその主張を、本当の共同体派に対して対置してみてはどうであろうか。そうすれば、論争はまた違った姿を示してくるはずである。但し、そのためには、加藤-竹田の側は、柄谷-浅田派の現実認識に−−それを「踏み絵」にしていると批判する(『世紀末の』94)だけでなく−−別の現実認識*があるのなら、まずそれを対置することをしなければならない。また柄谷-浅田の側は、「内面」=「共同体」という余りに抽象的な図式を分節化し、「内面」への徹底=反共同体という相手側の主張を、その主張から帰結する、(柄谷-浅田が一見接近しているかに見える)「第二」の立場はなお「共同体」的であるという批判を、(一端)内在的に理解してみる必要があるであろう。「歴史主体論争」をさらに生産的に展開させるためにも、これは決定的に重要な課題である。
* 我々からしても、加藤-竹田は(もはや)アナーキズムを説いているのではなく、この点では現実主義的に国家という枠組みで(なお)考えざるをえないとしている。問題は、そこに具体的な現実認識が欠けているということである。もっとも、彼らからすれば、柄谷が語る現実はいわば大現実である。もっと自分の(小)現実から思索するのでなければならない、とは反論されるであろう。
引用文献・略号([ ]内)
[0001] 一般的に、フリードリヒ・シラー(Schiller, Johann Christoph Friedrich von;1759-1805)は、ゲーテと並んで「古典主義」(Klassik)の作家と言われている。したがって、シラーの哲学的、美学的論文についても古典主義的であるという位置付けがなされることが多い。このような見解は、シラー美学が、変革期にあって動揺していた当時(1790年代)の社会に理想的人間性という範型を与えようとしたこと、さらに理想的な美の在り方として「道徳的美」(moralische Schoenheit)、「美しい魂」(schoene Seele)、「遊戯衝動」(Spieltrieb)などの諸理想を提示したということに注目している。確かにシラーの美学には、理性と感性とを融和させることによって、調和的人間性を志向するという面がある。さらに、シラーはこのような理想的状態が古代ギリシアにおいて実現していたと考える傾向を持っている。単に以上の点を考慮するだけならば、シラーの美学は名実ともに古典主義的であると言うことができる。このような解釈も、確かに一つのシラー美学解釈としては成立するかもしれない。
[0002] しかし、シラー美学を単なる古典主義美学として捉えることを疑問視し、ロマン主義やヘーゲル美学との親近性を指摘する見解も示されている(*)。このような見解は、半ば固定的になっているシラー美学の解釈に反省を迫るものである。
(*)例えば、シラー美学を古典主義とロマン主義との結節点に立つものとした西村清和の指摘(今道友信編、『講座 美学(1)---美学の歴史』所収、東京大学出版会、1984、147ff. 参照。以下、引用文献のページは数字のみで示す。)は、シラー美学にロマン主義的側面があることを認めたものである。また、四日谷敬子は近代的ポエジー確立への道という視点からシラー美学を捉え、ヘーゲル美学との関連を指摘している(『歴史における詩の機能---ヘーゲル美学とヘルダーリン』、理想社、1989、第2章第2節「近代的ポエジー確立の試み」参照。)。
[0003] 確かに、シラーの美学は古典的調和という理想を追求する点においては古典主義的である。しかしながら、シラー自身はそのような理想がそのまま実現するとは考えていなかった。つまり、シラーが現実に対して調和的人間性という理想を語ろうとするとき、その試みは何らかの形で修正されざるをえないのである。例えば、「美しい魂」は「尊厳」(Wuerde)という形を取らざるをえないし、「遊戯衝動」もそのまま導入することはできず「仮象」(Schein)として実現するしかないのである。「素朴」(naiv)と「情感的」(sentimentalisch)という対立において、このような傾向はより明白な形で見出すことができる。近代詩人が目指すべきものは「情感文学」(sentimentalische Dichtung)なのであって、単にギリシア風の「素朴文学」(naive Dichtung)に立ち戻ることはできないばかりか、許されないことなのである。このようにシラーの理想主義は、現実という局面に向かい合った場合、たえず動揺していると言える。つまり、現実に対するときのシラーの態度は単に理想主義的なのではないのであって、古典主義的な範型定立を第一義的とするというような単純な捉え方はできなくなるのである。ここにシラー美学の位置付けを再検討する余地が残されていると言うことができる。
[0004] 本稿は、以上で示されたような問題意識に基づいて、シラー美学を再検討し、新たな位置付けを与えることを課題とする。その際、「古典主義」と対置されることの多い「ロマン主義」(Romantik)という概念に注目して考察を進めることにしたい。実際、シラー美学にはロマン主義との接点を感じさせる概念がしばしば出てきている。これについては後で細かく検討するが、例えば『素朴文学と情感文学について』(Ueber naive und sentimentalische Dichtung)における「情感的」という概念、あるいは『崇高について』(Ueber das Erhabene)における「崇高」(das Erhabene)の概念をあげることができるだろう。しかしながら、これらの概念が「古典主義」的であるのか、それとも「ロマン主義」的であるのかということについて、我々は検討を加えていかねばならない。そこで、第1章において、シラー美学について検討する前の準備作業としてドイツにおける「古典主義」と「ロマン主義」について、その基本的諸特徴を述べ、両者の相違点を明らかにしたい。次に、第2章において、上記二編の論文に加え『優美と尊厳について』(Ueber Anmut und Wuerde)について、その内容を示す。そして、第3章において、シラーの美学論文を(単なる「理想の提示」ではなく)「理想の実現」という視座から検討する。その際、考察の軸として、「崇高」「情感的」という概念に注目し、シラー美学について本稿独自の見解を提示することにしたい。最後に、第3章までの検討をもとに、シラー美学をどう位置付けるべきかという問に答えることにする。
[1001] 「古典主義」と「ロマン主義」については様々な見解が示されている。また、それらの関係についても対立的に捉える視点と連続的に捉える視点という、相互に対立する二つの視点が示されている(*)。また、「古典主義」「ロマン主義」という概念はヨーロッパ全体で用いられているが、国ごとにその用法が異なっている。したがって、混乱を避けるために、以下、本稿において問題にするのは、ドイツにおける「古典主義」「ロマン主義」と限定することとする。
(*)例えば、「古典主義」と「ロマン主義」を連続的に捉える視点はコルフ、ペーターゼン、ベンツらによって、また、対立的に捉える視点は後述するようにシュトリヒによって示されている。
[1002] 最初に「古典主義」と「ロマン主義」との関係を対立的に捉える視点と連続的に捉える視点が存在することについて一言述べておこう。そもそも、なぜこのような対立する二つの見方が生じるのだろうか。まず一つの理由としては、「古典主義」という概念と「ロマン主義」という概念が様々な内包を持っていることがあげられる。つまり、これら二つの概念は、より一般的には歴史的概念として使われる(「古典主義」の時代が「ロマン主義」の時代に先行する、などと言う場合)が、同時に様式の概念としても使われる(文学や美術、音楽において「古典主義」「ロマン主義」と言う場合)ことがあるし、さらには精神類型として使われる(例えば、「古典主義は健康で、ロマン主義は病気だ」(ゲーテ)と言うような場合)こともある。また、これらの要素をすべて含むような形で総称的に「古典主義」「ロマン主義」と言われることもある。「バロック」などの純粋な様式概念と「古典主義」「ロマン主義」の概念が異なるのはこのような点である。そして、「古典主義」「ロマン主義」という二つの概念の持つ曖昧さが、両者の関係を定義付ける際にも影響を及ぼす。例えば、両者を歴史的概念という側面から捉えれば、その性質を単に対立的に捉えるだけではなく、(時間的に両者が連続していることから)連続的に捉えるような見方も成り立つ余地があるわけである。総称的にこれらの概念を用いるならば、さらに混乱が深まるのは当然のことと言えよう。
[1003] また、第二の理由は「ロマン主義」の側の問題である。「ロマン主義」の定義は「古典主義」にもまして曖昧である。そこで、「ロマン主義」を定義する際に、「ロマン主義」内部でのタイプを分類することでより明らかな定義付けをしようという試みがなされてきている(*)。このような区別は多くが歴史的観点からなされたものであるが、おおむね、初期ロマン主義は前世代を継承するもの、後期ロマン主義は反動的なものであるとされる。しかし、このような試みも「ロマン主義」の全貌を明らかにするには至っていない。かえって、「ロマン主義」の内部に矛盾をもたらすような二つの区分を設けることで、混乱が深まった感さえ与えるのである。ただし、「ロマン主義」そのものにこのような混乱の原因があるのも事実であろう。「古典主義」と「ロマン主義」の関係に関する対立した二つの見方が生ずるのは、「ロマン主義」の側の問題が大きく影響しているためと考えられるのである。
(*)例えば、初期ロマン主義と後期ロマン主義との区分、第一世代のロマン主義と第二世代のロマン主義との区分などはその例である。ただし、このような区分はロマン主義と啓蒙主義との関係から論じられることが多い。
[1004] 本稿においては、漠然と「古典主義」「ロマン主義」という言葉を使うのではなく、精神類型を示す概念としてこれらの術語を用いることにする。そうすることによって、この両概念の個々の特色をはっきりと示し、両概念の相違点を明らかにすることができると考えられるからである。考察の基本的な方向性をこのように定めた上で、「古典主義」と「ロマン主義」のそれぞれについて、さらに細かく検討していくことにしよう。
[1101] 「古典主義」の概念について様々な定義がなされているということは前述のとおりである。ここでは、まず「古典的」(klassisch)という言葉が何を示すのかを、既に示されている定義の一部を用いながら明らかにすることから始めたい。そして、「古典主義」が何を目指したのかについて考察し、そこから「古典主義」の定義を導出することにする。
[1102] まず、「古典主義」における「古典」とは古代ギリシアであり、したがって「古典的精神」の源泉は古代ギリシアの精神であるとする定義がある。大西克礼はゴムペルツのギリシア人の精神的特徴を論じた論考をもとにして(*)、次のように「古典的精神」の特色をあげる。「全ての生活分野において常に節度を尊び、均衡と調和を重んじ、本能や空想や感情の過度に走り、極端に流れることを嫌ったその精神態度……こそは、後世ドイツの「古典主義」者等の教養の理想であったとともに、その理想はまた彼らの精神生活の中に実現されたところであった」(**)。大西によれば、「「人間」を中心として「世界」を考え、また人間の理想境を完全なる「調和」の状態に認めていること」(***)が究極的な「古典的精神」なのである。
(*)大西は次のように述べている。「ゴムペルツは、ギリシア・ローマ人の精神的本質を論じて、そこに二つの特性を指摘している。一つはギリシア・ローマ人が事物の差異と類似とを認識する特別に鋭い感覚を有したこと、また一つは彼らがまったく特別な感情の強さを有していたことであるという。……この第一の特性からギリシア・ローマ人の知的学術的文化の発達が由来し、第二の特性から……彼らがついに確固不変の政治的形式や、統一的総合的の国家生活の形式に到達しえなかった弱点が由来すると論じ、しかも彼らの優れた知性は、その強烈なる感情の力を自然のままに放任することの危険を感じて、巧にその種々の本能的感情を制御し、緩和し、それらを互に調和させ、均衡を保たしめて、以てその生活を全体として調和的に形成することを可能ならしめたところに、正にギリシア・ローマ的精神の本質があるという意味のことを論じている」(大西克礼、『浪漫主義の美学と芸術観』、弘文堂新社、1968、399. なお、本文中の旧カナ使いは改めてある。以下、同様。)。
(**)同 399f.
(***)同 400.
[1103] さらに、F.シュトリヒは「完成」と「無限」という、永遠性に関する二つの根本概念を示した上で、前者を「古典的精神」の特徴、後者を「ロマン的精神」の特徴としている。シュトリヒによれば、精神が体験を形成するのは、時間・空間および直観の諸形式においてである。しかしながら、このような形式は、「完成」と「無限」という根本概念のどちらを選択するかを求めて、精神の内部に「悲痛な矛盾」を生み出す。シュトリヒは、この「悲痛な矛盾」に対して「古典的精神」がどのように対処しようとしたかについて、次のように述べている。「時間・空間のもつこの矛盾を解消し、調和へと導くことができる精神は、古典的精神である。……というのは古典的人間は、永遠なもの、つまり自分にとって完成しているものを、すでに時間の経過のさなかに、つまり生の流れのさなかに体験し、形成しうるからである。時間と永遠性は古典的人間にとって矛盾ではない。永遠なるものはすでに時間の内部に存在するからである。……古典的人間は自分の理想を実現するために、時間に制約された生や経験の限界から離れる必要はない。彼は時間の流れから、永遠に静止する形象を把握しうるし、しかも生にたいし、経験にたいし、現実世界にたいし、誠実な市民のままとどまることができる。彼はこの世界の限界から離れて外の世界へ憧憬を抱く必要はない。この世界の内部自体において、完全な自己実現と自己完成が可能だからである」(*)。
(*)F.シュトリヒ(加藤鷹二訳)、『ドイツ古典主義とロマン主義、あるいは完成と未完成』(抜粋)(H.O.ブルガー編、相良守峯監修『ドイツ古典主義研究』所収、エンヨー、1979、 173f.)
[1104] 以上の「古典的精神」の定義から、その特徴を取り出してみれば、調和を保っていること、静的であること、完成されていることがあげられる。また、これらの諸特徴を古代ギリシアに認め、そこに理想を求めるのが「古典的精神」の最大の特性であると言えよう。そこで、次に典型的な古典主義者と考えられるヴィンケルマンを取り上げ、彼の著作に現われている「古典的精神」を検証してみよう。
[1105] ヴィンケルマンの著作が古典主義的な精神の醸成に大きな役割を果たしたことは、文芸史家・美術史家が広く認めるところである(*)。本節では、彼の主著である『絵画及び彫刻芸術におけるギリシア作品の模倣についての考察』(以下、『ギリシア芸術模倣論』と記すことにする)と『古代美術史』について、その概略を示すことにしよう(**)。
(*)例えば、美術史家のK.クラークは次のように述べている。「1755年、卓越した資質に恵まれた最初の美術史家であるヴィンケルマンが、『ギリシア芸術模倣論』と題する本を刊行したが、これはやがて、古典主義の聖書とも言うべきものとなった」(K.クラーク(高階秀爾訳)、『ロマン主義の反逆』、小学館、1988、34.)。
(**)ヴィンケルマンの芸術論をまとめるにあたって用いた参考文献は、以下のとおりである。(1)E.H.ゴンブリッチ(下村耕史・後藤新治・浦上雅司訳)、『芸術と進歩』、 中央公論美術出版、1991.(2)L.ヴェントゥーリ(辻茂訳)、『美術批評史』、みすず書房、1963.
[1106] ヴィンケルマンにとっては、古代ギリシアの諸作品のみが完全性を有する芸術であった。E.H.ゴンブリッチによれば、『ギリシア芸術模倣論』は「何よりも時代の堕落を告発し、いまだ軟弱化に陥っていない文化状態へのあこがれを表明したものだった」(*)。ヴィンケルマンは、この著作において「高貴な単純さと静謐な偉大さ」という有名な理念を提示し、ギリシア芸術の本質を規定した。この理念によって彼が試みようとしたのは、ギリシア芸術の本質における固有のもの、至高のものを捉えて特徴付けることであった。この理念は、単に芸術様式について規定しているだけではない。ヴィンケルマンは、ギリシア芸術の中に理想的な魂や人間性を見出しており、その意味でこの理念は倫理的な性格を持つと言える。
(*)前掲『芸術と進歩』、25.
[1107] 以上のようなギリシア芸術への傾倒は、1764年の論文『古代美術史』において、さらに鮮明になる。すなわち、ヴィンケルマンは、この論文の中で古代ギリシアの芸術を「古い様式」「崇高様式」「美しい様式」「模倣の様式」へと四区分し、この区分をルネサンス以降の近代芸術にも当てはめている。ヴィンケルマンによれば、芸術は「古い様式」から「崇高様式」を経て「美しい様式」へと発展し、「模倣の様式」において没落するというサイクルを持つ。「古い様式」は力強いデッサンを有するが、硬直性に支配されており、そこには優美さはない。一方、「崇高様式」は硬直性は残るものの、より大きな自由さと高貴さがある段階である。そして、発展の最終段階である「美しい様式」において、初めて硬直性が消えて優美が獲得され、完全性の精髄が示されるのである。ヴィンケルマンはこのうち、「崇高様式」と「美しい様式」をともに賞賛している。「崇高様式」にはフェイディアス、ポリュクレイトス、あるいはラファエロ、ミケランジェロが、「美しい様式」にはプラクシテレス、アペレスが区分され、盛期ギリシアと盛期ルネサンスの巨匠達がみなこの両様式に区分されている。また、ヴィンケルマンは彼らの中に理想的な人間性を求めようとする。彼らの作品において具現されている高貴さや優美さこそ、理想的美であり、理想的魂の表現なのである。『古代美術史』において、芸術作品の背後にある高度な精神性、あるいはその倫理性によって古代ギリシアや盛期ルネサンスの芸術は、堕落した現代芸術から明確に区別されるのである。
[1108] このように、ヴィンケルマンはギリシア芸術に道徳的完全性を認め、そこに人間の理想を求める。ヴィンケルマンの芸術論では、ギリシア的美が前面に押し出され、それが理想化されている。彼にとって、ギリシア的な調和や完全性が絶対的基準なのである。我々はこのような態度の中に古典主義の精神的特徴を認めることができるのである。
[1201] 先に述べたように、「ロマン主義」の概念を明確に規定することは非常に困難である。そこでまず、「ロマン的」(romantisch)とは何かということから定義していこう。
[1202] 「ロマン的」という言葉が、もともと中世のロマンス(陰謀や冒険を描いた空想的物語)を指したものであるということ---すなわち、現実離れし感傷的なもの一般を指したということはよく指摘されるところである。例えば、ルネ・ウェレックは、このような指摘がなされているということを述べている(*)。ウェレックによれば、「ロマン的」という言葉は17世紀のイギリス、フランスにおいて初めて使われたが、そのときから一貫して中世ロマンスの意味を持ち続けていた。「ロマン的」という言葉がドイツにおいて使われるようになってからも、このような傾向が見られる。つまり、「ロマン的」という言葉には、古典古代に源流を持つ文学とは異なった文学、という意味が含まれているのである。このような「古典」文学との対比という伝統的用法が、シュレーゲル兄弟によって示された「古典主義」と「ロマン主義」を対立させる視点を形成するのである。
(*)『西洋思想大事典』、平凡社、1990、第4巻639ff.
[1203] 以上で示されたように、「ロマン主義」は「古典主義」に対する概念として登場した経緯がある。このことを念頭において、我々は再びシュトリヒの「完成」と「無限」という根本概念に戻り、ロマン主義の特徴について論じることにしたい。シュトリヒによれば、「ロマン主義的精神」とは「無時間の完成された形象ではなく、時間の無限の旋律を体験し、形成しようとする精神」(*)である。「その精神は、生と体験とにたいし解消しがたい矛盾におちいる。この精神が現実に体験する時間は、無限ではないからである。……この場合、無限と思われているものは、ただ永遠の死に過ぎず、静止することなく、次から次へと献上する生の犠牲であり、永遠に続く消滅である。……この精神は、生と経験の世界を離れて、時間・空間の諸形式の彼方にある無限性の世界に、自己救済を求めざるを得ない」(**)。このようなロマン的な無限性の希求を適切に語ったのが、Fr.シュレーゲルの『アテネーウム断片』(116番)における次の部分である。「ロマン主義文学はまだ生成の途上にある。それどころか、永遠にただ生成しつづけていて、けっして完成することがないというのが、ロマン主義文学に固有の性質なのである。……ロマン主義文学のみがひとり無限であり、ひとり自由である」(***)。また、Fr.シュレーゲルの思想的根幹をなした、永遠に自己の内部における矛盾を見つめ続けながら、究極的にその矛盾から脱出できないという、あの「ロマン的イロニー」はその典型的な例である。ネガティヴに言えば、「ロマン的イロニー」に現われた永遠性は矛盾そのものでしかない。しかし、ポジティヴに評価するなら、それは限りない進歩発展を約束する試みということができるのである。
(*)F.シュトリヒ、『ドイツ古典主義とロマン主義、あるいは完成と未完成』(抜粋)(前掲『ドイツ古典主義研究』所収、174.)
(**)同、174.
(***)Fr.シュレーゲル(山本定祐編訳)、『ロマン派文学論』所収、冨山房百科文庫17、1978、44.
[1204] これは先に検討したギリシア的調和、あるいは完全性によって永遠というものに答を与えようとする「古典主義」の精神と著しい対照をなしている。ロマン主義者も調和や統一性を求めようとしたことは確かである。しかしながら、それは古典主義者が志向したようなギリシアという規範への回帰を目指すような調和ではなく、無限なものとの調和、総体性あるいは全体性の希求とでも言ったほうがよいようなものであった。例えば、ノヴァーリスは、創造的想像力を発揮することによって、自然と精神を同一化しようとする「魔術的観念論」の構想を示し、世界との内的・全体的調和を成就しようとした。また、文学以外の芸術においては、カスパー・ダヴィード・フリードリヒが、絵画を通じて自然やその背後にある神性との合一を求めた。さらに、シェリングは小論「世界霊について」で、諸原理の有機的統一を要請している。「諸原理の統一は、個々の作用の無限の多様性を経て自己自身に帰着するのでないかぎり、充分なものといえない」(*)のである。
(*)シェリング(神林恒道訳)、「世界霊について」(薗田宗人・深見茂編、『ドイツ・ロマン派全集(9)---無限への憧憬』所収、国書刊行会、1984、105.)
[1205] このような全体性要求によって、究極の理想として求められたのは、最終的には超自然的なものであった。この超自然的なものとは何かについても解明する余地があるが、それは本稿の主旨ではないため、ここでは保留しておこう。しかし、正に超自然的なものを求めたという点にロマン主義が現実から逃避し、いわゆる非合理主義的傾向を強めていったという事実を見出せるであろう。
[1206] ところで、この非合理主義的傾向についてはロマン主義的精神のもう一つのモティーフとしてあげられることが多い。ただし、同じ非合理主義といっても、これは「シュトルム・ウント・ドランク」のような盲目的な反合理主義、反啓蒙主義とは区別する必要がある(*)。「ロマン主義」は、理性や悟性を全面的に排斥するものではないのである。この点は、Fr.シュレーゲルの次のような言葉によって裏付けることができるだろう。「ふつう理性と名づけられているものは、その一ジャンルにすぎない。すなわち薄められた、水っぽい理性。だが濃密で火のような理性も存在する。これこそが機智を機智たらしめるものであり、堅牢な様式に弾力性と電気を与えるものである」(**)。また、「魔術的観念論」によってロマン的自然観を提示したノヴァーリスは、鉱物学に関して当時としては最先端の科学的知識を持っており、「科学の聖書」を作ろうとした。このことも、典型的なロマン主義者だったノヴァーリスが、偏狭な理性排除主義には陥っていなかったことを裏書きするものである。彼らは全面的に理性に反対するが故に非合理的な教説を述べたのではなく、啓蒙的知性の一方的な伸長を恐れたために、このような態度に向かったことを理解しておかねばならない。
(*)シュトルム・ウント・ドランクとロマン主義との関係についても、(1)その共通点に注目する見解と、(2)共通点は認めるが、むしろ両者の異なった側面に注目する見解の二種類がある。例えば、若きゲーテのシュトルム・ウント・ドランクがロマン主義と同様の精神性を持つと言われるような場合が、前者の例である。このように精神性という局面に注目した場合、前者の見解を採用する傾向がある。しかし、シュトルム・ウント・ドランク---古典主義---ロマン主義という流れに注目した場合---すなわち、歴史的側面に注目したような場合は、シュトルム・ウント・ドランクとロマン主義をまったく同一であるとするのではなく、両者の相違点にも注目することになる。一般的な傾向は以上のとおりであるが、精神性という側面から考えた場合でも両者は区別したほうがよいと思われる。というのは、シュトルム・ウント・ドランクが単に18世紀の啓蒙に見られる科学的合理主義への反動であったのに対し、ロマン主義は非合理主義的側面を持ちつつも、単なる反合理主義ではなく、合理主義をも含めたより総合的な精神運動であったと考えられるからである。本稿では、このような立場に立って、シュトルム・ウント・ドランクとロマン主義をはっきりと区別したいと思う。
(**)Fr.シュレーゲル、『リュツェーウム断片』(104番) (前掲『ロマン派文学論』所収、30.)
[1207] 当然、ロマン主義者が求めたような無限との調和には絶対的規範は存在しえない。したがって、古典主義者が求めたような規範的な調和を実現しようとすることは、ロマン主義者にとっては嫌悪すべきものであり、また虚しい努力でしかないのである。例えば、Fr.シュレーゲルは古典的な規範を絶対視しようとする試みをシニカルに突き放す。「すべての古典的文学ジャンルは、きわめて厳正に見るならば、今や笑うべきものである」(*)。また、彼は古典的規範を範型としようとする試みの欺瞞を告発して、次のように言う。「人びとは依然として古代人のなかに、みずからが必要とし、望んだものだけを見つけ出している。つまりもっぱら自分自身の姿を」(**)。ロマン主義者は絶えず調和を求めるが、決してそこにたどりつくことはない。彼らの求めた調和や統一性は、古典主義者の求めた規範的な調和とはまったく異質のものなのである。
(*)Fr.シュレーゲル、『リュツェーウム断片』(60番) (前掲『ロマン派文学論』所収、28.)
(**)Fr.シュレーゲル、『アテネーウム断片』(151番) (前掲『ロマン派文学論』所収、49f.)
[1208] この無限との調和という性質から、「ロマン主義」は必然的に動的性格を持たざるをえない。ある段階にとどまっていては目標には到達できないからである。だが、その動的性格ゆえに、「ロマン主義」はまた決して目標には到達しえない。すなわち、「古典主義」のように完成することは決してないのである。自らの規範を古代ギリシアに定め、それを実現することによって、「古典主義」は完成と落ち着きを得られる。しかし、「ロマン主義」の場合、規範的調和を求めることはもはや不可能なのである。ネガティヴに言えば、ロマン主義者は無限の憧れを追い求めてさまよい歩くことになった。
[1209] また無限性を希求するという特質ゆえに、ロマン主義的精神は現実世界と理想との乖離を無理矢理にでも意識せざるをえないという、自己の存在にかかわる大きな問題を抱えることになった。この点もロマン主義の大きな特色の一つである。
[1210] 小野紀明はヘーゲルの「不幸な意識」という概念を用いながら、ロマン主義的精神の矛盾が自己分裂から派生するものであることに言及している。小野はロマン主義的精神に見られる「不幸な意識」を「「世界」との調和を喪失した自己意識一般」(*)と解釈した上で、次のように言う。「「不幸な意識」においては、特殊者の間断なき変化の相の下に置かれた「世界」を志向する部分と普遍者の住まう永遠の領域を志向する部分との間に分裂が生じており、両者は絶え間ない葛藤状態にある」(**)。このような葛藤の状態から、現実世界と理想的世界の「二元的世界観」が生じる。これこそが「ロマン主義」の抱えていた矛盾である。このような自己分裂が生じた背景として、小野は近代合理主義によって伸長してきた幾何学的、分析的知性が理性と感性を乖離させ、認識論的不調和を招いたことをあげる。すなわち、ロマン主義的精神が露呈した自己矛盾は、言わば「近代的自我の苦悩」であるというわけである。ロマン主義的精神を近代的特性と結び付けた小野の考察は、注目すべきものであろう。
(*)小野紀明、『フランス・ロマン主義の政治思想』、木鐸社、1986、8.
(**)同 8.
[1211] ロマン主義が孕んでいたこのような矛盾は、同時にそこに宿っていた病でもあった。この病から多くのロマン主義者が不幸を通り越して絶望へと至るのである。H.G.シュンクは「ロマン的精神」のニヒリスティックな「世界苦」について詳細に検討し、多くのロマン主義者が虚無の深淵に惹かれ、挙げ句の果てに死滅への願望を持つに至ったことを論じている(*)。シュンクによれば、「ロマン主義的なニヒリズムは、実際にはいかなる種類の希望も信念もまったくないというのではないことがわかる。……彼らは虚無そのものをかたく信じていた。彼らが他のいかなる希望ももっていなかったとしても、それでもまったくの消滅は待ち望んでいた」(**)。
(*)シュンクは、ロマン主義者の「世界苦」を信仰と不信仰という相矛盾する二つの感情を対立軸として設定することによって解明しようとする(H.G.シュンク(生松敬三・塚本明子訳)、『ロマン主義の精神』、みすず書房、1975、第二部「ニヒリズムと信仰への希求」参照)。
(**)同 83.
[1212] 古典主義の定義において、我々は古典主義者が古代ギリシアにその範型を求めたということを確認した。これに対して、ロマン主義者は範型を喪失してしまったのである。小野の考察によれば、それが近代的自我の特性ということになるのだが、このような見解に従えば、ロマン主義者は近代人の精神状態を暴露したと考えられるのである。
[1213] これまでの考察から、精神類型としての「古典主義」と「ロマン主義」とがはっきりと対立するものであるということが明らかになった。すなわち、規範的調和、静的、完全性という「古典主義」の特質に対し、「ロマン主義」は無限との調和、動的、(ネガティヴに言えば不完全性であるが)未完全という特質を有するのである。
[2001] 本章では、シラーの美学論文のうち、(1)『優美と尊厳について』、(2)『崇高について』、(3)『素朴文学と情感文学について』の三編を取り上げる。この三編の論文は、シラーの思想の変遷を追っていくのには最適であると考えられ、実際にシラーの代表的な美学論文として議論されることも非常に多い。以下、これらの論文の内容についてまとめることにする。
[2101] この論文の冒頭において、シラーはギリシア神話に見られるような「優美」(Anmut)とは「随意的運動での、魂の……美しい表現」(AW 235)(*)であると定義し、優美一般について具体例をあげ簡単に説明した後、優美についての哲学的考察を進める。まずシラーは、単に自然の必然的法則にしたがって作られた美を「構成美(構造の美)」(architektonische Schoenheit)と名付ける。構成美は、単に自然の力のみに規定される美なのである。
(*)本稿において使用したシラーの美学論文のテキスト、およびその引用方法についてここにまとめておく。原書テキストは Friedrich Schiller Saemtliche Werke,Band 5---Philosophicshe Schriften,Vermischte Schriften,Winkler Verlag Muenchenを用い、また邦訳テキストとして、『シラー選集(2) 論文』(新関良三編、冨山房、1942.)および『美学芸術論集』(石原達二編訳、冨山房、1977.)を用いたが、訳語については一部改変した箇所がある。引用文の後には引用したシラーの論文を表わす略記号を付けることとするが、それぞれの略記号は、AW=Ueber Anmut und Wuerde(『優美と尊厳について』)、E=Ueber das Erhabene(『崇高について』)、NS=Ueber naive und sentimentalische Dichtung(『素朴文学と情感文学について』)、EM=Ueber die aesthetische Erziehung des Menschen(『人間の美的教育について』)を表わす。また、略記号の後に原書の該当ページを記すことにする。
[2102] しかしながら、人間は自然物であると同時に一つの人格であり、精神によって諸々の事柄を決定していく。したがって、単なる構成美は人格の美とは言えない。人格の美については別に定義されなければならない。ここでシラーは、「優美」こそ人格の美であると定義付ける。構成美は自然の、優美はそれを所有する人間の業績となる。つまり、優美は自然が人間に与えた美ではなく、人間自身が努力した結果生み出される美なのである。
[2103] ところで、人間は現象としてはあくまで感覚の対象である。したがって、道徳的感情も美的感情もともに犠牲を強いられることなく、満足されなければならない、ということになる。シラーはここで道徳と美を両立させなければならないという困難に直面する。つまり、感覚界の外に根拠を持つ道徳的運動と感覚の内に根拠を持つ美を結合することは、それ自体明らかに矛盾であるかのように見える。この矛盾を除去するためには、精神がその中の道徳的状態を熟達させることによって、美が出来上がる素地を提供すると考えるしかない。もちろん美を形成するのは感覚的条件、すなわち自由な自然の作用であって、道徳の作用ではない。しかし、自然自体が自由であるわけではないのである。したがって、美が発現する際の自由は、精神の側からの許容であると考えられる。優美も道徳的なものが感覚的なものに与える恩恵であると言えよう。つまり、人間の感覚的部分の持つ本能が理性的部分の持つ諸法則と調和して、両者が合致するときに、優美が発生する。そして正に優美が発生するそのことによって、道徳と美との対立が克服されるのである(*)。こうして、シラーは「美しい魂」(shoene Seele)の概念を提出する。道徳感情が、意志の指導を安心して情緒(Affekt)に委ねることができ、かつ意志の決定と矛盾することがなくなる程度までに人間の諸感情を保障したとき、それは「美しい魂」とよばれる。「美しい魂」においては、個々の行動ではなく性格全体が道徳的であり、感性と理性、義務と傾向が調和している。「優雅」(Grazie)は現象における「美しい魂」の表現である。そしてこの魂こそが、「構成美」を「優美」にまで高めるのである。
(*)シラーがカントと異なるのは正にこの点である。シラーは道徳の概念そのものには傾向の入り込む余地はないとしているものの、人間の道徳的完璧は、正に道徳に傾向が参与していると考えることを前提としなければ解明できないとし、人間は傾向と義務を合致させてよいのみならず、積極的にそうすべきであるとまで言っている。シラーによれば、カントは傾向と義務を明確に分けすぎてしまったために、その意に反して単なる禁欲主義者という誤解を招く恐れを生み出してしまったのである。
[2104] しかしながら、この「美しい魂」は「理念」(Idee)であり、いくら努力しても完全に到達することはできない。なぜならば、人間は自由でありつつも、結局は自然衝動に支配されずにはいられないからである。しかし、人間は意志を持っている。人間の意志は理性の法則に対して義務を負っている。つまり、本来的に反自然的なものなのである。情緒が理性の法則と合致するためには、自然の要請と矛盾をきたさねばならない。したがって、情緒の中では、「美しい魂」は単なる「美しい魂」ではなく、「崇高な魂」(erhabene Seele)へと変えられなければならないのである。このように「崇高な魂」へと必然的に変化するということが、単なる「気質的徳性」(Temperamentstugend)から「美しい魂」を区別する試金石である。「気質的徳性」においても傾向と道徳とは合致しているが、それは偶然的に合致しているにすぎない。したがって、情緒においては、それは単なる自然の産物にまで下降してしまうのである。これに対して「崇高な魂」においては、傾向と道徳とが必然的に合致するのである。このことを受けて、シラーは次のように述べる。「道徳力による衝動の支配が、精神的自由なのであって、尊厳(Wuerde)とは、現象におけるその自由の表現を言うのである」(AW 271)。
[2105] こうして、精神においては、「尊厳がその表現でなければならない」(AW 273)ことが明らかになる。シラーは続いて、尊厳と優美について考察している。傾向が尊敬を得るためには、尊厳が求められる。逆に徳性には優美が要請される。なぜならば、人間性は単なる傾向に支配されることを受け入れないが、しかし単に道徳の要請に黙従するものでもないからである。傾向と道徳的要請とが調和した完全な人間性を実現するためには、尊厳と優美が相補的な役割を果たさねばならない。シラーはそのような完全な人間性の表現とは、ベルヴェデーレのアポロンのように、優美と尊厳が、前者は構成美によって、後者は力によって支えられ、同一人物中に融合しているような表現である、としている。
[2106] 優美と尊厳が融合するとき、我々は精神的存在として好感を、感覚的天性の持ち主として嫌悪を感じる。尊厳においては、感覚的なものを道徳的なものの支配下におくことが要求される。この要求は我々の内部に葛藤を引き起こし、必然的に尊敬とよばれる感情を引き起こす。一方、優美においては、理性の要求は感官において満たされているので、我々の内部には好感(愛情)という感情がよび起こされる。このうち、真に自由なのは愛である。なぜならば、愛においては心情に制限を加えるものはなにもないからである。しかしながら、それゆえに愛は心情の弛緩を生み、自己欺瞞に陥りやすい。この欺瞞が破綻すると愛は自然衝動によって支配され、欲望に堕してしまうのである。尊厳はこれを食い止め、優美は逆に尊敬が恐怖になることを防ぐ。シラーによれば、真に偉大なものは決して恐怖を引き起こしてはならない。あくまでも優美と尊厳が調和的に実現されていなければならないのである。
[2201] 人間の本性は、強いられて何かをするのではなく、意識と意志を持って合理的に行動する点にある。ところが実際は、人間は自分の力をはるかに越えた無数の自然的諸力に囲まれている。人間は、悟性によってそれらの自然的諸力を支配下におくことにある程度は成功してきている。しかしながら、それらの自然的諸力を完全に制圧しているわけではない。その証拠として、シラーは、人間は必ず死ぬという命題をあげる。死ぬことによって、人間は自ら制御できない力のもとに支配されるのである。シラーによれば、このような「力」(Macht)が一つでもある限り、自然の諸力を完全に支配するのは不可能であると言わざるをえないのである。
[2202] しかし、人間は意志する存在である以上、他の事物のように支配不可能な力に黙従することはできない。人間は、本性的に自然からいかなる「暴力」(Gewalt)を加えられることもよしとしないのである。シラーによれば、「文化」(Kultur)こそが、自然的諸力から人間を自由にする助けとならなければならない。このような「文化」を実現する方法には二つある。一つは、人間が自然の「暴力」に「暴力」をもって、すなわち、自然を自然として支配する方法であり(「現実主義的」(realistisch)方法)、もう一つは人間自らが自然から脱出することによって、「自分のことを斟酌し、暴力の概念を捨て去り」(in Ruecksicht auf sich, Begriff der Gewalt vernichtet)(E 216)、「暴力」に屈伏する方法(「理想主義的」(idealistisch)方法)である。シラーによれば、後者こそ人間の自由を実現するものである。自然を自然としてしか支配できなければ、人間は「自然的文化」(physische Kultur)以外に何の資格も持たないことになってしまうが、そのような在り方は、意志する存在である人間にそぐわないばかりか、自由の放棄にもつながるであろう。したがって、「暴力」を被らないようにするためには、「暴力」に屈伏するしかない。そして、人間にその能力を与えるものが「道徳的文化」(moralische Kultur)なのである。道徳的教養のある人間は、自然の力が単なる「暴力」ではなく、もはや彼独自の行動と一致しているがゆえに、まったく自由なのである。
[2203] ところで、感性的かつ理性的な存在者である人間には美的傾向も存在している。シラーによれば、美に対して発達させられた感情は、ある程度まで我々を一つの「力」(Macht)として自然から独立させるには十分である。なぜならば、美は対象の素材よりも形式に宿るものであり、「現象についての単なる反省」(die blosse Reflexion ueber die Erscheinungsweise)のみから高められた心情だからである。また、美的心情においては必ずしも対象を所有する必要はない。つまり、美は(美を感じさせる自然物である)素材から自由なのである。しかし結局、「仮象」(Schein)、すなわち美もまた、自己をあらわすべき「形態」(Koerper)を持とうとする。したがって、厳密に言えば、美的仮象に対する欲求が存在する限り、人間の美的な満足は未だに自然の支配下にあることになる。この点において、美は未だ人間を自然から完全に独立させるには至らないのである。
[2204] しかしながら、我々は、美的仮象を追い求めることに甘んじるのではなく、さらに厳粛に目の前に存在するものが美でありかつ善であることへの要求を持つ。シラーによれば、このような要求は、単に「仮象」への欲求を持つこととはまったく異なっている。「我々が、美でありかつ善である諸々の対象への要求を感じることと、目前の諸々の対象が美しく善であれと要求することはまったく別なことである。後者は心情の最高の自由と併存することはできるが、前者はそうではない」(E 217)。後者のような要求を持つ心情が崇高な心情である。崇高の感情は「悲痛」(Wehsein)と「喜悦」(Frohsein)という相反する二つの感情の混合した感情である。このように我々が自らの内部で二つの異なる本性を結合し、また一つの対象に対して二つの異なった立場に立てるということは、我々の道徳的自立性を明らかにしている。シラーによれば、崇高の感情によって、我々は「精神の状態は必ずしも感官の状態によって決定されるものではないということ、自然の法則が必ずしもまた我々の法則ではないということ、およびすべての感性的感動に依存せざる自立的な諸原理を我々の内部に有するものであるということなど」(E 219)を知り、自らが単に自然の支配下にあるのではなく、道徳的に独立した存在であるということを理解するのである。
[2205] 理性と感性は美しいものにおいて一致するが、崇高なものにおいては一致しない。道徳的人間は、このような事態に対して自らの限界を知りあきらめを持つのではなく、かえってそのような事態を自らの力として無限に高めようとするのである。美しいものにおいては、理性と感性との調和は見出せても、そこに徳を保障することはできない。それに対して、崇高は感覚的な世界から、我々の自立的精神を引き離すのである。
[2206] ところで、崇高なものに対する感受性は、誰においても等しく発達するものではなく、人為的に育てられなければならない。まず、我々は第一に美を迎え入れることを要求される。なぜならば、まず美によって、人間は自然的状態から脱出し、ある程度は自由を得ることができるからである。しかしながら、美を受容した段階では、人間は依然として「仮象」への欲求に囚われている。人間の内部に高度に自由な省察が育ち、自分自身の中にある不変のものを見出すようになると、粗暴な自然は美以外の方法で人間に接するようになる。「彼の外部にある相対的偉大性は彼自身の内部にある絶対的偉大性を映す鏡となる」(E 223)のである。この段階に至って、初めて人は単なる自然的人間から脱出するのである。また想像力にとって到達しがたいものであるこのような崇高以外に、「混沌」(Verwirrung)も自然の作品として現われると心情に飛躍を与えることができる。自然的人間は、混沌に対して快感を覚えることができず、単に悟性によってそれを整理することを要求するにとどまる。しかしながら、もし「混沌」を無理にある法則のもとに統一しようとしなければ、「自由の純粋な理性概念と一致する独立の概念が得られる」(E 225)のである。こうして悟性的認識は失敗に終わったとしても、崇高な感情を持つ者には、人間が自然法則から独立した自由な理性的存在であることが示されるのである。そして、自然法則によって、自然そのものを説明することが不可能であることを明らかにし、人間の心情を現象の世界から理念の世界へといざなうのである。シラーはこれらを総括して次にように言う。「崇高なものを感受する能力はそれ故人間性におけるもっともすばらしい素質の一つであり、それは、道徳的人間への影響のために完全な発展に値すると同様に、自立的な思惟および意志の能力から発現するために我々の尊敬に値するものである」(E 228f.)。
[2207] シラーは、人間が達成すべき最高の理想は、人間の尊厳を規定する道徳的世界と隔絶することなく、自然的世界と交流を保つことであると述べている。美しいものは、人間の自然的使命と理性的使命を調和させる役割を果たしている。しかし、美のみでは自然的世界と道徳的世界を結び付けるのは不可能である。崇高なものがあって初めて、我々は単なる自然的人間から脱出し、道徳的文化を得ることができるのである。シラーの言い方を借りるならば、「美しいものが存在しなかったならば、我々の自然的使命と理性的使命との間に間断のない闘争が存在していたことであろう。……崇高なものが存在しなかったならば、美は我々に尊厳を忘れさせたであろう」(E 229)。美しいもののみではなく、それに崇高なものが結び付いたとき、人間の美的教育は初めて完成されると言えるのである。
[2301] 人間は特に知性や趣味を満足させるわけでもないのに、自然の風景や子どもや田舎の人、未開人の風俗について、単に自然であるという理由から、それに対して一種の愛と感動的な尊敬を持つことがある。自然に対するこのような関心は、その対象が自然であり、しかも自然が人工と対照をなしてそれに打ち勝つこと、という条件がそろったときにのみ生じるのである。シラーは、このような関心は理念的なものであり、したがって道徳的な感情であるとする。「素朴」(naiv)とは悟性によって呼び起こされた単純なものへの嘲笑と、理性によって呼び起こされた単純なものへの尊敬が合流した感情なのである。
[2302] 一方、シラーは近代人において典型的に見られる感情として「情感的」(sentimentalisch)な感じ方を提示する。シラーによれば、古代ギリシア人は、近代人が自然の風景や自然の性格に対して抱くような「情感的」関心を持たない。その理由は、ギリシア人は自己自身によって存在するものと技術や人間の意志によって存在するものとの間に何ら区別をつけないからである。ギリシア人と近代人との間のこのような違いは、人間に対する自然の位置が異なるために生じるのである。すなわち、ギリシア人が人間性の内部の自然を失っていなかったのに対し、近代人はそのような内的な自然を消失してしまっているのである。したがって、近代人は失われた自然を求めて「情感的」関心を抱くのである。
[2303] シラーはついで、「素朴」と「情感的」を対立的な感じ方として用い(*)、詩人を「素朴詩人」(naiver Dichter)と「情感詩人」(sentimentalischer Dichter)とに分類する。「素朴詩人」は、あたかも「神が宇宙の背後にいるように、自分の作品の背後にいる」(NS 451)のである(**)。このような「素朴詩人」は「人工的な」(kuenstlich)時代においては、よほど運が強く、時代の影響から護られる場合でない限り、もはや存在しえない。しかし、詩的な能力は、人間をたえず自然へと押し戻す道徳的衝動と密接な関係にあるので、「素朴詩人」とともに消えてしまうわけではない。近代では、詩的能力は古代ギリシアとは別の関係に立っているのである。すなわち、古代の詩人は自然によって、近代の詩人は理想によって、我々を感動させる。「古代詩人は限定の芸術によって力強く、近代詩人は無限なものの芸術によって力強い」(NS 458)とシラーは述べている。このことから、古代詩人は感覚的に描写されうる具体的なものの表現においては勝利を収めるが、近代詩人は描写できないもの、すなわち絶対者や芸術作品において精神とよばれるものの表現において、古代詩人を凌駕できるとされる。
(*)シラーによれば、「素朴」と「情感的」という区別はあくまでも感じ方の問題であり、歴史的な概念ではない(実際、シラーは「素朴詩人」として近代詩人であるシェイクスピアをあげる)。しかしながら、この論文においては、「素朴」=「古代」、「情感的」=「近代」としてあたかも歴史的な概念であるかのように用いられていることが多い。実際にシラー自身の用法も厳密でなく、この点はなお解明すべき余地がある問題である。この点については第3章で言及する。
(**)シラーはこの例として、ホメロスの『イリアス』第6巻におけるグラウコスと ディオメデスの和解の場面を取り上げ、近代的な詩人ならばこのような行為に対して自分の喜びをすぐさま表明するであろうが、ホメロスはそんな痕跡はまったく見せず、何事もなかったかのように贈りものを交換する場面を続けていることを指摘する(NS 452ff.参照)。
[2304] 近代詩人は、「限界を与えるものである現実」と「無限なものとしての理念」という相争う観念と感情を相手にするのである。したがって、すべての「情感詩人」はこの二つの起源のうちどちらが優勢になるかということによって、「諷刺的」(satirisch)と「哀歌的」(elegisch)とに区別することができる。現実と理想との矛盾を対象とする詩人は、「諷刺的」である。諷刺には、対象を厳粛かつ感動的に描く「懲罰的ないし悲壮な諷刺」(strafende oder pathetische Satire)と、楽しく晴れやかに描く「諧謔的諷刺」(scherzhafte Satire)とがある。ただし、詩人の目的は詩的遊戯を損なわずに自然と理想を相手にすることなので、前者は崇高へと移行して詩的自由を得なければならない。また、後者はその対象を美として取り扱い、詩的内容を得なければならない。一方、自然と理想の表現に重点をおくような詩人は「哀歌的」である。「諷刺」(Satire)と同様に、「哀歌」(Elegie)も失われた自然、到達しえない理想を悲哀の対象として表現する場合と、両者が現実の表象として喜びの対象として表現される場合とがある(*)。哀歌における悲哀は、単に失われた喜びや過去の黄金時代を振り返ることからではなく、理想によって呼び起こされた感激から生み出されなければならない。
(*)シラーは諷刺詩、哀歌、牧歌という名称を使うにあたって、自分はただそれぞれのジャンルに支配的な感じ方に注目するのみであり、新たなジャンル論を展開する意志はないということを明言している。なおこの点は「牧歌」構想の冒頭でも繰り返し述べられている(NS 466f.参照)。
[2305] 他方、シラーは情感文学のもう一つの在り方として、「無垢で幸福な人間性の詩的表現」(NS 483)という「牧歌」(Idylle)の構想を示す。一般に、このような状態は人工的関係の中には見られないので、詩人達は牧歌の舞台を単純な羊飼の状態へと移し、それを文化の始まる以前の状態と定めてしまった。確かに、素朴な「羊飼の牧歌」(Schaeferidylle)の場合、その内容は形式そのものの中に含まれているので、内容的に欠けることはない。したがって、自然という限界の内から素材を見つけて、それを絶対的に表現しようとする素朴詩人は「羊飼の牧歌」にとどまることができた。しかしながら、情感詩人はそれとは異なっていなければならないのである。情感詩人による「羊飼の牧歌」は、単に理想を我々の背後におき、失われたものへの悲哀を呼び起こすにすぎない。この点で、情感的な「羊飼の牧歌」には決定的欠陥がある。情感詩人は自然という限界に抑圧されている限り、絶対的内容は表現できないので、「羊飼の牧歌」はいかなる天才をしても満足のいく情感的な牧歌でありえない。シラーによれば、情感詩人の役割はあくまでも情感的な創作衝動を理想へと振り向け、それを徹底的に追求することなのである。それゆえ、情感的牧歌の概念とは、「個々の人間および社会において完全に闘いが和解されるという概念であり、性向と法則との自由な結合の概念であり、最高の道徳的尊厳にまで向上、純化された自然の概念である」(NS 488)。この現実と理想との対立が廃棄された「やすらい」(Ruhe)の状態こそ、美の理想である。
[2306] こうして素朴文学と情感文学、さらには情感文学における三つの分野の特徴が明らかになったが、シラーは「素朴」と「情感的」という対立について、詩的理想との関係からもう一度整理する。あらゆる詩人に共通の課題は、人間性に完全な表現を与えることである。このうち、素朴詩人は情感詩人が努力して到達しようとすることを実際の事実として述べるので、感性的実在性の点で情感詩人に勝っている。しかし、情感詩人は素朴詩人がなしえたよりも大きな対象をその衝動に与えることができるという長所を持っている。確かに情感詩人は素朴詩人のように自分の課題を十分に達成することはできない。しかしながら、その課題は制約のない絶対的自由を持つものであり、常に感性的かつ実在的という制約を受ける素朴詩人に勝っているのである。
[3001] 本章は、第1章、第2章をふまえてシラー美学の特徴を取り上げ、それを適切に位置付けることを課題とする。その前に、私は一つの仮説を立てることにしたい。それは、「シラー美学はロマン主義的美学である」という仮説である。以下で、この仮説について論究することにしたい。シラーの美学論文において用いられている術語に注目しながら、そのロマン主義的性格について述べていこう。
[3101] まず、「崇高」の概念について考察する。考察の進め方として、(1)「崇高」の概念がロマン主義を特徴付ける重要な概念であることを述べる。さらに、(2)『優美と尊厳について』における「崇高」の概念と、(3)『崇高について』における「崇高」の概念を比較対照しつつ、シラー美学においても「崇高」の概念が重要な位置を占めていることを明示したい。
[3102] 一般的に「崇高」(das Erhabene)を積極的に評価するのは、ロマン主義的精神の特徴であると言われる(*)。実際に、ロマン主義芸術家は、「崇高」を自らの作品に積極的に取り入れた。ロマン主義をあまり肯定的に捉えないK.クラークでさえ、「崇高」の導入はロマン主義者がなした功績として認めている。クラークによれば、「崇高さの意識は、ロマン主義運動がヨーロッパ人の想像力に付け加えた一つの能力」(**)である。
(*)たとえば、E.スリヨはロマン主義に至って天才が重視され、美的カテゴリーに変化が起こったことを指摘している。「天才とともに美的カテゴリーの段階づけも変化する。最も賛美され希求される価値となるのは、もはや「美」ではなく、「崇高」である。同様に、いかなる過度、いかなる強烈さも持たぬといって調和を賞賛するごとき≪よき趣味≫も斥けられる」(E.スリヨ(古田幸男・池部雅英訳)、『美学入門』、法政大学出版局、1974、28.)。
(**)K.クラーク(河野徹訳)、『芸術と文明』、法政大学出版局、1975、304.
[3103] 「崇高」の概念について、初めて明確な定義付けをしたのは18世紀のイギリス人、E.バークであった。彼は『崇高と美との観念の起源に関する哲学的考察』において「程度のいかんを問わず、およそ、苦と危険の観念を引き起こすのに適するものはなんでも……崇高の源泉である」(*)と述べ、苦痛と危険が「崇高」の起源であることを示した。バークは、苦痛や危険が急に我々に接近するとき、それは単なる恐怖であるが、それがある程度緩和されると喜ばしいものになると述べている。バークによれば、このような感情を起こさせる対象とは、大洋や広大な平原、暗い森、曇った空のような、大きさ、曖昧さ、無限性、莫大な力を持つ自然である。こうして、バークはそれまでの「美」とは異なる美的概念として「崇高」を示した。
(*)E.バーク(鍋島能正訳)、『崇高と美の起源』、理想社、1973、60.
[3104] バークが経験論的立場から論じているのに対して、カントは超越論哲学の立場から崇高について考察している。カントによれば、バークの分析は「心理学的所見としてはきわめて見事であり、経験的人間学がもっとも好んで行う探求のための豊富な素材を提供する」(*)が、趣味判断が単なる個人的判断ではなく普遍的判断であるとするなら、何らかのア・プリオリな原理がなければならない。これがカントの言う超越論哲学の立場であるが、このような立場に立って、カントは崇高を「数学的に崇高なもの」(das mathematisch-Erhabene)と「自然の力学的に崇高なもの」(das dynamisch-Erhabene der Natur)に分けて細かく考察している。「数学的に崇高なもの」は人間の認識能力との関連で語られる。カントによれば、崇高とよばれるものとは端的に大きなものであるが、ここで大きいと判定する我々の判断力は美的(aesthetisch)判断力である。ところが、数学的(論理的)判断力が無限であるのに対して美的判断力は有限であり、絶対的に大きなものを「総括」(Zusammenfassung)するのは困難を極める。しかし、このような困難を感じながらも「総括」しようと努力することは、正に人間に感性の限界を超出しようとする能力が備わっているということを示している、とカントは述べる。崇高なものを感じることは人間には理性が存在するという証拠なのである。ここにおいて、苦痛が喜悦に変化するというバークの説明を超越論的に説明することができる。つまり、美的判断においては理性の評価と不適合なために崇高の感情は不快なものであるが、一方、不適合であることが理性法則そのものには合致し、その点において合目的的なので快の感情であると言えるのである。次に「自然の力学的に崇高なもの」について述べられるが、こちらは人間の欲求能力との関連で語られている。自然が人間に対していかなる「暴力」(Gewald)をも行使しない「力」(Macht)として現われるなら、自然は崇高なものになる。このような力は人間に自らの非力さを悟らせる一方、自らが自然から独立していると自覚させるものでもある。前述のように、バークは苦痛が緩和された場合に崇高さを感じると述べたが、カントもこのような「安全保障」を行っている。つまり、自然の力の只中にいるとき、人間は崇高さを感じることはできない。崇高さを感じるのはその力を傍観する立場にいる場合である。自然は人間の内部にある諸理念とは合致しない。しかし、数学的に崇高なものを感じる場合もそうであったように、このような不一致は理性によって決着がつけられる。すなわち、理性の力(道徳力)によって無限なものを感性にも捉えられるように整理するのである。このような点から、カントにおいては実践理性すなわち道徳能力の開化が崇高さを感じるための必要条件とされている(**)。
(*)I.カント(宇都宮芳明訳)、『判断力批判』、以文社、1994、上巻251.
(**)ここで取り上げたカントの崇高論がシラーの崇高論に直接的な影響を与えているとするポピュラーな主張はある面では正しい。特に自然の力学的崇高に関するカントの議論とシラーの議論は非常に似通っている。しかしながら、シラーの崇高論がカントの崇高論をそのまま模写したものであるとは考えにくい。この点に関しては後述することにしたい。
[3105] こうして崇高の概念が定義されてきたのだが、このような概念は無限性の希求というロマン主義のモティーフと重なっている。バークのあげたような「崇高」な感情を引き起こさせる対象は、例えばカスパー・ダヴィード・フリードリヒの絵画に描かれた自然と一致する。一方、自然に対するこのような感情を重視することは、古典主義的な理想的調和に対立するものであった。これはカスパー・ダヴィード・フリードリヒの絵画《山上の十字架》に対して、保守的な古典主義者であったラムドールが良い趣味を危機にさらし風景画をおとしめるものと論難した事件---いわゆるラムドール論争---に現われている。古典主義的精神によって好まれたのは、「良い趣味」の現われであった。つまり「崇高」よりもむしろ「美」(あるいは「優美」)であったのである。また、「崇高」という概念が取り上げられることはあっても、それはヴィンケルマンの芸術論において見られるように「美」の一部分に取り込まれていた。いずれにしろ、古典主義においては「崇高」が「美」から分離した独立した概念として定立されることはなかったのである。しかしながら、ロマン主義者にとって、古典主義的精神の求めたような規範的な「美」は画一的なものでしかなかった。彼らは「美」に代わる美的概念を求めたのである。ロマン主義者は「崇高」を「美」から切り離し、独自の美的概念として捉えるようになったと言えよう。
[3106] 『優美と尊厳について』において、シラーは「優美」(Anmut)の概念について述べている。シラーによれば、「優美」は道徳の要請と人間の感覚とが合致しているときに発生するものであり、これこそ人間性の属性なのである。このように「優美」を発現させうる人間の心情の状態を、シラーは「美しい魂」(shoene Seele)と定義した。この点にのみ注目すれば、シラーの美学は文字通り古典主義的美学であるという評価をすることができよう。なぜならば、「美しい魂」は、理性と感性という人間の二つの属性が調和した魂であるということが可能だからである。これは、人間を中心として世界を捉え、人間の理想を完全な調和の状態に認める古典主義的視点の産物に他ならない。
[3107] しかしながら、シラーはこのような「美しい魂」について述べるだけでは満足しなかった。我々は、シラーが、「美しい魂」は「理念」(Idee)であっていくら努力しても決して到達できるものではない、と述べていたことに注目すべきである。つまり、「美しい魂」が単なる(実現不可能な)理想的目標でしかないということはシラー自身が認めているのである。現実において「美しい魂」はそのままの形ではなく、別の形に変わらねばならない。では、どう変わらねばならないのか。これに対するシラーの解答が「崇高な魂」であった。『優美と尊厳について』においてシラーが述べているように、現実においては「気質的徳性」ではなく「崇高な魂」のみが「美しい魂」の理想を完全に実現しているのであるから、現実の人間の情緒においては、「美しい魂」は「崇高な魂」に変化させられなければならない。シラーはここで「崇高」という概念を初めて提示するのだが、その意義は積極的に捉えられているのである。なぜならば、単なる「美しい魂」が理念にとどまるのに対し、「崇高な魂」は「美しい魂」を実現しているものだからである。このように、『優美と尊厳について』においても、「崇高」は「美」と並ぶキータームになっているのである。ここに、シラー美学が単なる古典主義的な理想的調和のみを追求したものではないという我々の主張の正当性を示す端緒を見出すことができよう。
[3108] ところで、『優美と尊厳について』はあくまでも本章冒頭で想定した仮説を検証するための端緒を与えてくれるにとどまるということも強調しておかねばならない。なぜなら、『優美と尊厳について』の段階では、シラーはまだ「美」から分離された「崇高」そのものに積極的意義を見出しているのではないからである。それは、「優美」に対置された「尊厳」(Wuerde)という概念を見ればわかるであろう。「尊厳」とは、シラーによれば、増大した自然衝動に対する精神の側の自由の表現である。このように言う場合、シラーは自然衝動を抑制するものとして、道徳力を想定しているのであるが(*)、結局、「尊厳」の概念は自然的要素である感覚と人間固有の属性である道徳が調和的に実現した「優美」の概念を現実化するために要請されるにすぎない。なぜならば、「尊厳」と「優美」は現実化されたものと理念という差こそあれ、ともに、「完全なる人間性」という古典主義的理想に呪縛されている点では変わりがないからである。
(*)例えば、第2章第1節で取り上げた AW 271の表現などを参照。
[3109] 『優美と尊厳について』においては、「崇高」というロマン主義的な概念が提示されつつも、それが前面に押し出されて議論されるには至らなかった。したがって、『優美と尊厳について』は古典主義的色合いの濃い論考となっている。しかしながら、『崇高について』におけるシラーの考察は、「崇高」を「美」から独立させる方向へ進むのである。
[3110] 『優美と尊厳について』において、シラーは単なる理念としての「優美」に満足しはしなかったが、逆に「優美」から積極的に新しい理念を導出したわけでもなかった。しかし、シラー自身が感じていた「美」に傾斜した「優美」への不満は、彼の中に次第に新しい理念を形成していく。その理念の一つが「崇高」である。
[3111] 『崇高について』の冒頭で、シラーは、人間が自然の諸力から真に自由になるためにはいかにすべきなのかということを問うている。ここで我々はカントの崇高論での「自然の力学的に崇高なもの」の議論においても、よく似た議論があったことに気が付くであろう。しかし、カントの解答とシラーの解答では、その方向性において大差はないものの、若干異なっている。カントは、あくまで道徳第一主義的に理性的能力の伸長によって自然諸力から人間の独立性が確保されると答える。これに対して、まず進んで自然の「暴力」を受け入れてみようというのがシラーの解答なのである。カントも「暴力」への屈服という言い方をしているが、シラーの議論においてはこの視点がカントより重視されていると考えられる。シラーはこのような方法を「理想主義的方法」と名付けているが、これは単に規範を定立して済ませるような「理想」主義では決してないことに注意しなければならない(*)。シラーは、このような方法を取ることによって、むしろ問題を現実的に処理しようとする。シラーによれば、人間が真に自由になるためには、もはや「美」のみでは不完全である。なぜならば、「美的仮象に対する欲求がなお存在する限り、我々の対象の存在に対する欲求が残存するのであり、したがって我々の満足はなおすべての存在を支配する力としての自然に依存することになる」(E 217)からである。『優美と尊厳について』の段階では、シラーはまだ「美」の限界について積極的に主張するには至っていない。しかしながら、『崇高について』においては冒頭から「美」の限界が明示される。このような前提に立った上で、シラーは新しい概念として「崇高」を導入するのである。第2章で述べたように、人間を自然の力から解放するものは「道徳的文化」である。このような「道徳的文化」を実現するために、またそのような文化を実現する能力があることを示すために「崇高」が要請されるのである。シラーの言葉を借りれば、単に「美のみによっては、我々が純粋の叡知として自己を表わす使命を受け、かつその能力を与えられているということを永久に学び知ることはなかっただろう」(E 220)ということになる。こうして、「崇高」は「美」より重要な使命を持つに至る。「崇高」の必要性について、シラーは次のように述べている。「崇高なものは美的なものに接近し、それによって美的教育を完全なる全体になし、人間的心情の感受能力を我々の使命の全範囲にわたって、それゆえにまた感覚的世界を超えて拡大しなければならない」(E 229)。このような記述からもわかるが、「崇高」は美を現実化しようとする試みには不可欠なものなのである。したがって、我々は、シラー美学において「崇高」が一つのキータームであると結論して良い。またこのことは、シラーがすでに典型的な古典主義の主張から脱出したことを示している。
(*)シラーの「理想主義」が単なる現実逃避や観念論的思考でないということは、既に主張されている。例えば青木敦子は、「虚構と崇高---シラーにおける方法としての「理想主義」」(日本独文学会編、『ドイツ文学』92所収、1994.)において、シラーの崇高をカントやリオタール、ナンシーといったポスト・モダンの哲学者の崇高と比較して述べているが、シラーの崇高からは「実在の否定」という含意が読み取れると述べる。青木によれば、『崇高について』の冒頭でシラーが述べているような「理想主義的方法」は、「表象不可能なもの」を「実在(=表象可能なもの)」を使わずに表わすような方法として捉えられる。このような「理想主義」によって、シラーの崇高論は「表象」を虚構に、逆に虚構であるとされてきた「仮象」を現実にすることに成功しているのである。したがって、シラーの「理想主義的方法」には、単に観念論的な方法というような意味合いはないとしている。
[3112] ところで、シラーとカントの崇高論における一番の差異は、シラーがカントの立場を一歩進めて、より具体的なものの崇高性を論じている点であろう。『崇高について』の次の部分は、「崇高」な感情を呼び起こす対象をもっとも具体的に書いている。「想像力にとって到達しがたいもの……すなわち混沌もまた、偉大なものとなって自然の作品に現われるや否や……超感性的なものの表現に役立ち、心情に飛躍を与えることができる。一体、誰がフランス風の庭園の活気ない規則正しさよりも、自然の風景の活気に富んだ無秩序により多くの心を惹かれないであろうか。誰が規矩正しいオランダにおける頑固な自然力に対する苦悩に満ちた忍耐の勝利を賛美するよりも、シシリアの平原における想像力と破壊力との間の驚くべき闘争に目をみはり、スコットランドの奔放な急湍や霧深い山々、あるいはオシアンの描いた偉大な自然を楽しむことを望まないだろうか。」(E 224)。この一節において我々が注目すべき術語は「混沌」(Verwirrung)であろう。カントは具体的な対象に崇高性を認めることには最後まで躊躇し、理性と構想力との結合という整合的な視点から崇高性を述べたのにとどまっていた。ともすれば道徳的な秩序を破壊しかねない「混沌」をあえて崇高論に導入したことは、シラーの崇高論が単にカントの崇高論の無条件賛美に終始していないことの証明と言えよう。もっとも、両者の崇高論の方向性が同一線上にあることは事実である。カント的路線をさらに進めたこの一節にあげられた対象は、またロマン主義者との共通点ともなっている。絵画から例をあげるならば、先に取り上げたカスパー・ダヴィード・フリードリヒが好んで描いた対象と一致している。この点が、「崇高」な対象の性質として曖昧なものをあげたバークの見解と相通じる点があることは明らかである。シラーの場合、一方であくまでカント的に道徳性と「崇高」を結び付けて考えるところがバークとは異なっている。しかし、人間を自然法則から独立させ、真に自律的人間たらしめるために要請される「崇高」の対象は、無限的なものでなければならないのである。この点で、シラーの想定していた「崇高」な対象はロマン主義的であると言えるのである。
[3201] 続いて、『素朴文学と情感文学について』の考察に移ることにしよう。まず、最初に注意しておかねばならないことがある。それは、この論文における「素朴」と「情感的」という術語の使われ方である。シラー自身は、この二つの概念はあくまでも感じ方、作風の差異であって歴史的概念ではない、と断っている。しかし、この論文においては、「古代的」「近代的」というコンテクストで、これらの概念が用いられることが多い。したがって、本稿においては「素朴」「情感的」という対立概念を歴史的側面からも扱うことにする(*)。本節においては、(1)「情感文学」構想とロマン主義との関連をさぐることで、「情感的」という概念がロマン主義と深くかかわっていることを示す。そして、(2)感じ方としての「情感文学」、(3)歴史的概念としての「情感文学」についてそれぞれ論及することによって、シラー美学のロマン主義的側面を示したい。
(*)この点はシラー自身の用語法が曖昧であり問題が多いが、「素朴」と「情感的」を歴史的概念と解釈する見解は多い。例えば、G.ルカーチは「シラーの近代文学論」において、次のように述べている。「シラーは素朴と情感的との対立という場合、「時代の相違というよりは作風の相違と理解されなくてはならない」と強調している。しかしこのように発言したからといって、素朴と情感的のもっとも深い具体的な相違の根底は、やはり歴史的な根底であるということを否定している証拠にはならない。古代を過去として、二度ととり戻せぬ失われたものとして捉えることは、シラーの歴史観における、したがってまたその時代の評価におけるもっとも重要な契機の一つである」(G.ルカーチ(国松孝二他訳)、『ルカーチ著作集(4)』所収、白水社、1986、409.)。
[3202] 「美」と「崇高」の問題を現実的に解決しようとした結果、シラーが最終的にロマン主義的な「崇高」という解答を採用するに至ったことは前節で述べた。本稿で取り上げているシラーの美学論文において、我々が注目すべきもう一つのロマン主義的要素は「情感文学」構想である。では、「情感文学」構想とロマン主義とはどのような関係にあるのか。
[3203] まず、その前に注目しなければならないのが「素朴文学」である。シラーは「素朴詩人」と「古代詩人」を随所で結び付けている。そもそも、「素朴詩人」は近代においては、シェイクスピアなど、ごく一部の例外を除いて存在しえないということはシラー自身が認めている。シラーは「素朴詩人」の例としてホメロスをあげ、具体的な作品を引用しつつ「素朴詩人」の説明を試みているが、その説明の最後の部分で次のように述べる。「こういう素朴な種類に属する詩人達は、人工的な時代にはもはや居場所がない」(NS 454)。シラーによれば、「素朴」が完全な形で認められるのは古代ギリシアである。古代のギリシア人について、シラーは次のように述べる。「彼らの社会生活の全構造は人工の作りものではなく、自然の感覚に基づいていた。彼らの神話そのものも素朴な感情のはたらきによるものであり、喜ばしい想像力の所産であって、近代の諸国民の教会の教義のようにいろいろ思いめぐらせた挙げ句の理性の所産ではなかった。このようにギリシア人は人間性の内の自然を失っていなかったので、自分の外の自然を見ても、それに驚かされることはなく、自然を再発見するための対象を求めるといった切実な必要も感じなかった」(NS 449)。また、古代ギリシア人は「自分自身と一致し、自己の人間性を幸福に感じていたので、自身の最高の状態としてそこに立ち止まり、それ以外のすべてのものをこの人間性に近づけようと努めずにはいられなかったのである」(NS 449f.)。我々はここで、第1章でいくつかの見解をもとにしながら述べた、古典主義の定義付けを思い出すことにしよう。第1章において、我々は古典主義の主要特徴として、完成や調和を重んじ、古代ギリシアにそれらを見出そうとする点があげられることを述べた。シラーが「素朴」の具体例としてあげているものは、まさに古典主義的であると言える。つまり、「素朴」という概念は古典主義的な概念であると考えられるのである。
[3204] 一方、シラーは「素朴」の対立概念として「情感的」という概念を提示する。シラーによれば、これは近代人特有の意識であって、古代人には見られないものである。なぜなら、近代は「人工的な」時代であり、人間はもはやかつてのように「調和的な全体」でありえないからである。このように近代を「分裂の時代」と捉える問題意識は、『素朴文学と情感文学について』に先立つシラーの他の論文においても見ることができる。例えば、『人間の美的教育について』(いわゆる『美的教育書簡』)の第6書簡において、シラーは近代を「人間全体がその素質の一部しか発揮できない」(EM 323)時代と規定し、完全な人間性が実現していた古代と対置している。このように述べると、あたかもシラーが単純な古代賛美者であるかのような印象を受けるかもしれない。しかしながら、シラーは近代的な分裂状態をむしろ肯定的に捉えている。「個体はその本質のこのような分裂によって不幸となるにしても、人類全体としては、これ以外の方法では進歩しえなかった」(EM 327)のである。つまり、分裂は必然的なものであるとシラーは考えるのである。このように、「人間性の経験において不幸である」(NS 450)ような分裂を肯定的に評価しようとする点に、(それが「苦悩」にまでは至らないとしても)我々は「不幸な意識」を明確に自覚していたロマン主義との接点を見出すことができる。
[3205] 「情感文学」構想もこのような肯定的な姿勢を継承している。シラーによれば、「情感詩人」は「理念」を表現しなければならない。ところで、「理念」の表現という近代詩人の目標は、「素朴詩人」が到達する点よりも高いところに設定される。シラーはこのことに関して次のように述べている。「人間が文化によって努力する目標は、彼が自然によって到達する目標よりも限りなく勝っていることがわかる。つまり、一方〔素朴詩人〕は有限の偉大さの絶対的到達によってその価値を保つのであり、他方〔情感詩人〕は無限の偉大さへの接近によってその価値を得るのである」(NS 456;〔 〕内は本稿筆者)。我々は、「情感詩人」の目標が「無限の偉大さへの接近」とされていることに注目したい。さらに、シラーは「情感詩人」がその目標に到達できないことも認めているのである。これは正に無限との調和を目指したロマン主義的精神と同じ方向性を持っている。つまり、「情感的」という概念は不完全性を内部に含みつつ、絶えず目標に向かって努力しなければならないという点においてロマン主義的であると言えるのである。
[3206] このように、『素朴文学と情感文学について』においては、「素朴」=「古典主義的」、「情感的」=「ロマン主義的」という図式が成立する。ただし、我々はこのような図式を示すのみで満足することはできない。なぜならば、これらの二つの概念の位置関係は依然として明らかになっていないからである。我々は、「素朴」と「情感的」との関係は、単に相補的なものであるのか、それともまったく独立した概念であるのか、という点を明らかにしなければならない。この問題を解決するために、我々は「情感文学」構想についてより細かく検討していくことにしたい。
[3207] ここでは、作風の違いという点から、シラーの「情感文学」構想について考察する。シラーは自然に対する感じ方によって「素朴詩人」と「情感詩人」を区別する。つまり、ありのままの自然を感動的に表現する詩人が「素朴詩人」、調和的自然という理念を表現するのが「情感詩人」である。これらのうち、「情感詩人」の目標に関するシラーの見解に注目しよう。シラーが、「情感詩人」の目標は文明化された状態にある人間、すなわち近代人の目標と同じであると述べているということは前述したとおりである。こうして、無限への進歩というテーマによって「情感詩人」はその価値を見出されるのである。
[3208] ここで思い出されるのは、永遠の生成をうたったFr.シュレーゲルの「ロマン主義文学」の構想である。もっとも、Fr.シュレーゲルの場合は、シラーの「情感的」という理念のように確固たる目標はなく、ただ進歩のみが存在した。それゆえに、多くの文学作品を残したシラーと対照的に、Fr.シュレーゲルは作家として統合力に欠け 、まとまった作品を残すには至らなかった。しかしながら、Fr.シュレーゲルはシラーと同様に単なる古典的範型を打破するような、新しい文学の在り方を模索していた。彼は古代人と近代人を対置して、次のように言うのである。「古代人のなかにわれわれは、あらゆる文学のアルファベットのすべてが揃っているのを見ることができる。近代人のなかには、生成しつつある精神を予感することができる」(*)。この言明は、課題を十分に達成することはできないが、まさにその課題の広がりが無限であるがゆえに「情感詩人」を評価したシラーの態度と合致する。絶対的なものの表現という課題を近代詩人に与え、その課題ゆえに近代詩人を積極的に評価するという点で両者は共通しているのである。このような点でシラーの「情感文学」構想は、Fr.シュレーゲルに近代人の定義を与え、彼の新しい文学---すなわち、「ロマン主義文学」に霊感を与えたと言えよう。
(*)Fr.シュレーゲル、『リュツェーウム断片』(93番) (前掲『ロマン派文学論』所収、30.)
[3209] シラーの「情感文学」構想は、彼が「牧歌」概念を提出する際に再び取り上げられている。シラーによれば、「情感的牧歌」は課題を低く設定することによって、安易な妥協などしてはならない。情感詩人は、徹底的に理想を追求しなければならないのである。シラー自身の言葉で言うならば「もはやアルカディアに帰ることのできない人間をエリュシオンにまで導くような牧歌」(NS 488)でなければならない。そして、それは最高の道徳的品位にまで高められなければならないのである。シラーは、ここで「完成のやすらい」が「情感的牧歌」の支配的印象であるとするが、それは力の停止からくるものではなく、無限の能力の感じを伴ったものとされる。こうして、我々は「情感的牧歌」の概念について、ロマン主義の特質である動的な性質をも認めることができるのである。
[3210] 以上で考察したように、シラーの「情感文学」構想は「素朴文学」から独立した新たな文学を模索する積極的な試みと言うことができよう。ここで以下のような反論がなされるかもしれない。それは、シラーの「情感文学」は、実際には「素朴文学」への回帰を目指したものであり、「素朴文学」なしでは成立しないのではないか、という反論である。この疑問に答えるために、シラーが、「情感詩人」はもはや「素朴詩人」に戻ることはできないと繰り返していた点をもう一度確認しておく必要がある。確かに、「情感文学」という概念を提示するにあたって、シラーは「素朴文学」をその対極において述べている。しかしながら、「素朴文学」を近代の詩人が完全に取り戻すことは不可能なのである。例え、「牧歌」の構想のように「無垢で幸福な人間性の詩的表現」という一見「素朴」なものが「情感詩人」の目標として設定されることがあったとしても、それは「素朴」な「牧歌」そのものの回復ではない。情感詩人は、徹底して理想を追求することによって、新しい「牧歌」を目指さねばならないのである。シラーによれば、「情感的」牧歌は「子ども時代へと我々を後向きに導くようなことをせずに、戦士の報いとなり、征服者の喜びとなる、より高い調和を感受させるために、我々を成年へと前向きに導くべきである」(NS 488; 傍点は本稿筆者)。それゆえに、「情感文学」は単に「素朴文学」の回復を目指したようなものではなく、明らかに「素朴文学」とは異なった独立した文学ジャンルであると解されるべきなのである。
[3211] 「素朴」および「情感的」という概念は、また、シラーの歴史意識を示したものでもある。シラーは「素朴」の概念を古代に、「情感的」という概念を近代に重ね合わせて捉える。しかし、詩人の使命は「素朴詩人」も「情感詩人」もともに「自然」を求めることであるとされている点に注目しなければならない。これは、シラーが最初に「素朴詩人」「情感詩人」という言葉を使う際に述べられている。「詩人はすでにその概念から言って、どんな場合にも自然の擁護者である。……彼らは自然であるか、あるいは失われた自然を求めるかのどちらかである」(NS 450f.)。したがって後者、すなわち「情感詩人」には、当初は既に失われてしまった自然や自然の完全性を理念的に取り戻す使命が課せられていた。しかしながら、シラー自身、そのような課題が決して達成されえないことを自覚していたのである。この点はすでに見たように、シラーが「情感詩人」はその課題を十分に達成することはできないと述べていることから明らかである。ここに、シラーの「情感文学」構想に含まれる矛盾が露呈する。すなわち、「情感詩人」は自然の完全性を回復すべく努力しなければならないにもかかわらず、いつまでたってもそれにはたどり着けないという矛盾である。
[3212] ところが、シラーはこの矛盾こそが「情感詩人」の創作原理であるとしている。シラーは次のように述べている。「情感詩人はいつも二つの相争う観念と感情、つまり、限界を与えるものとしての現実と無限なものとしての彼の理念を相手にしていることになる。彼が引き起こす混合した感情は常にこうした二重の起源を示すであろう」(NS 459)。したがって 、「情感文学」構想はそれ自体の中に、現実と理想との不一致という「不幸な意識」、つまりロマン主義的な「近代的自我の苦悩」を含んでいる。この点で、シラーの「情感文学」構想は、彼の後の時代になってより深刻な問題として現われてくる近代的自己分裂を先駆的に意識したものと言うことができるのである(*)。
(*)G.ルカーチは「シラーの近代文学論」において、この点について以下のように述べている。「シラーは、近代の生のなかにおける本質的なものと現実的なものを芸術的な方法ではっきりと形象化することが、どんなに困難であるかを示している。シラーはこの問題を、かれ以前のどの理論家よりもいちだんと明確に認識している」(前掲『ルカーチ著作集(4)』所収、389.)。
[3213] このような矛盾は、現実と理想との明らかな分裂を含むという点で、Fr.シュレーゲルの「ロマン的イロニー」における矛盾と同種のものと言えよう。ただし、Fr.シュレーゲルは徹頭徹尾、無限の彼方の無意識的なものの中に理想を求めようとした。したがって、彼は近代的な文学の確固たる目標を定めることができず、近代文学の特性を次のように述べるしかなかった。「近代人の多くの作品は、成立と同時に断片である」(*)。この言明は、ロマン主義的な自己分裂を象徴的に語っており、また彼らの行く末を暗示しているものでもある。これに対して、シラーの場合は「情感文学」について論じる一方で、失われた「素朴」、つまり古代的なものを回復不可能なものと認めてはいたが、「情感的」に対する一つの在り方として意識していた。したがって、シラーは現実と理想の対立という矛盾を強く感じていたにもかかわらず、決定的な分裂には至らずに済んだのである。
(*)Fr.シュレーゲル、『アテネーウム断片』(24番) (前掲『ロマン派文学論』所収、36.;傍点は本稿筆者)
[3214] しかしながら、歴史哲学としての「情感文学」構想は理想と現実の分裂という近代特有の問題を解決することはできなかったと言えよう。G.ルカーチはこの原因について次のように述べている。「〔シラーは〕近代文学における素朴と情感的との弁証法的統一を---その相違点に固執するあまり---思想的に捉えることができなかった。かれは本質的なものの芸術的把握を直接の感覚的現象界から固定的に、一途に分離して、それを現象界に一途に対置したものだから、右の相違点を思想的に捉えることができなかったのである」(*)。ルカーチは、「素朴」と「情感的」という対立には歴史的な意味が含まれるのにもかかわらず、シラーがあくまで感じ方にこだわって問題を主観化したため、明確な解決に至らなかったことを指摘するのである。したがって、歴史哲学としての「情感文学」構想は近代的分裂を意識的に取り上げたが、その解決には失敗したという点で、後の世代に課題を残すものとなった。ルカーチの述べるように、この点にシラーの歴史哲学としての「情感文学」構想の限界があるかもしれない。しかし、同時に近代的自己分裂をはっきりと意識しているという点において、「情感文学」構想はロマン主義的であると言えるのである。
(*)G.ルカーチ、「シラーの近代文学論」(前掲『ルカーチ著作集(4)』所収、402.;〔 〕は本稿筆者)
[4001] 最後に、本稿の課題であったシラー美学の位置付けについて述べることにする。
[4002] 以上の考察から、我々はシラーの美学を単なる古典主義の美学とすることには大いに疑問が残ると結論せざるをえない。なぜならば、第3章で述べたように、シラー美学にはロマン主義的要素が明確に認められるからである。そこで、本稿での考察を締めくくるにあたって、シラー美学に認められる古典主義的要素とロマン主義的要素について、両者の関係をもう一度総合的に整理することとしたい。そうすることによって、シラー美学の位置付けがより明確になると、我々は期待できるのである。
[4003] ところで、古典主義的要素とは具体的に(狭義の)「美」や「素朴」を、ロマン主義的要素とは「崇高」や「情感的」を意味している。第3章において、我々はこれらの諸概念について考察した。その結果、「美」と「崇高」の問題に関しては、シラー美学が単に「美」を重視する立場から、「崇高」を「美」より高いものと位置付け、結果的に「崇高」を重視する立場へ移行したことが明らかになった。しかも、このような移行は、偶発的なものではなく必然的なものなのである。つまり、シラーの目指した「道徳的文化」という理想の実現のためには「崇高」が必要不可欠なものとして要請されるのである。また、「素朴」と「情感的」をめぐる問題---すなわち、「古代」と「近代」をめぐる問題---についても、我々はシラーがヴィンケルマンのように単純に「古代」を賛美したのではない、ということを示すことができた。また、シラーは、単に「古代」を範型として、「情感詩人」に要請される到達点を明示したわけでもない。なぜならば、「情感詩人」の目標は無限の彼方にあり、しかもその無限の彼方とは、もはやアルカディアではありえずエリュシオンでなければならないからである。このように考えると、シラーの美学を「古典主義」という枠組みに組み入れることは不可能になる。もし、シラーの美学が純粋に「古典主義」的であるならば、なぜ、「崇高」が要請されなければならなかったのか、あるいは、なぜ、「情感詩人」の目標として「素朴」やそれに類似した概念ではなく、まったく新しい目標を定めたのかがわからなくなってしまう。また、これらのことがシラー美学の必然的な結論であったということも説明がつかない。したがって、シラー美学を「古典主義」の美学であると結論する従来の見解は、疑問視せざるをえないのである。
[4004] では、シラー美学の位置付けについて、我々はどのような説明を与えるべきなのか。今までの考察から、我々はシラー美学は「古典主義」の美学ではなく、むしろ「古典主義」から離れようとする美学的な試みであると理解するべきである。シラーが「崇高」に「美」から独立した地位を与え、かくも熱心に「情感的」という在り方を追求した(あるいは、せざるをえなかった)という事実が示しているのは、彼が新しい時代の美学の定立を志向していたということなのである。この姿勢はシラーの次の世代、具体的にはFr.シュレーゲルやA.W.シュレーゲル、シェリングの世代になると顕在化する。特にFr.シュレーゲルは、本稿で取り上げた部分からも明らかであるが、シラーの『素朴文学と情感文学について』から大きな影響を受けたと考えられる(*)。このように、シラー美学は、全体としては、「近代」を肯定的に捉え「近代」が向かうべき方向を模索した点で、後のロマン主義者達の問題意識を先駆的に取り上げた美学であると言える。また、シラーは、それぞれの論文において古典主義的な概念について述べてはいるが、それは次第に回復不可能なものなものとして意識されるようになる。つまり、古典主義的概念は徐々にシラーの理想主義から切り離されていったのである。この点を、我々はシラー自身の次の言葉によって確認することができる。「古代詩人と近代詩人---素朴詩人と情感詩人---とはまったく比較すべきでなかったか、あるいはある共通なより高い概念……のもとに比較すべきであったろう。というのも、詩の類概念をあらかじめ一方的に古代詩人から引き出してしまえば、近代詩人を彼らより貶めるのは、これ以上簡単でまたつまらないこともないからである」(NS 457)。
(*)このような言い方は、シラーとFr.シュレーゲルとの確執、特にシラーがFr.シュレーゲルを極度に嫌ったということを考慮した場合、疑問視されるかもしれない。両者の確執という点に着目してシラーとFr.シュレーゲルの間の思想的差異を示している論考としては、例えば、酒田健一「芸術哲学への途上で---シラー、シェリング、そしてフリードリヒ・シュレーゲル---」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(文学芸術学編38)所収、1992.)がある。酒田は、Fr.シュレーゲルの『ギリシア文学研究論』とシラーの『美的教育書簡』が、同様の発想を根に持っている点を指摘した上で、それにもかかわらず、シラーがカントを中心におく思想圏にとどまっていたのに対し、Fr.シュレーゲルがフィヒテを中心におく思想圏に組したという点で両者は異なっている、とする。しかし、この相違が古典主義とロマン主義をめぐる対立から来る相違と同値であると受け取るのは早計かと思われる。カントの思想圏がロマン主義と無縁であったかと言えば、決してそう言い切ることはできない。特に『判断力批判』に限定した場合、カントは美とは別に崇高の概念を論じ、新たな美的概念としてこれを提示する。なるほど、酒田の述べるように、一般的にロマン主義者はフィヒテを拠り所としたと言われるし、それは事実であろう。しかしながら、カントがロマン主義的土壌の醸成にまったく参与しなかったとは言えないのである。このような見方をするならば、シラーがカントの思想圏にあったとしても、それが即ロマン主義と無関係であるということにはならない。それゆえ、シラーとFr.シュレーゲルの確執は古典主義的精神とロマン主義的精神との対立とは別のものと考えられる。したがって、本稿では表面的対立に囚われず、シラーとFr.シュレーゲルとの精神的類似性に注目することにしたい。また、そのように考えることは決して不可能ではないのである。
[4005] 以上から、我々は結論を示すことにする。確かに、シラー美学においては、古典主義的概念が取り上げられているが、結果的にこれはあくまでも回復不可能なもの、単なる理想としてしか意識されえなかった。シラーの示そうとした理想は、そのような単なる理想ではなく「近代」という現実に対処するための現実的理想であったと言えよう。そのとき、要請されたのが「崇高」という概念であり、「情感的」という概念なのである。既に検討してきたように、このような概念によって論を構成していこうとする姿勢は、もはや「古典主義」の範疇を超出している。それはシラーの後の世代に本格化した精神態度を準備したものであったのである。したがって、我々はシラー美学がロマン主義的美学であると結論できるのである。
安彦の論稿は、引き続いて今回も加藤典洋絡みのものである。第一論稿は、彼の「ねじれ」概念がなお誤解されているという認識のもとに、彼の「本音と建前」論と関連づけて解釈してみたものである。第二論稿は、加藤の近年の発言を少し広いコンテクストで理解すべく、80年代後半からの加藤・竹田青嗣vs.柄谷行人・浅田彰の論争を辿ってみたものである。なお、いずれも、5月にpreversionとして公開したものと全く同じである。麻生徹氏の論稿は1月に提出された修士論文である。水準を超えるものであったのでかねて公開することを勧めていたが、修士課程終了後勤務された高等学校が夏休みに入って少し余裕が出てきたところでhtml化して提出して頂いた。(安彦記)
1998/08/25
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1998/08/25作成