安彦一恵
[01] 松原/安彦他の共著『〈景観〉を再考する』(青弓社、2004)――以下、「共著」と表記する――所収拙稿「「良い景観」とは何か」(217-256)*――以下、「前稿」と表記する――は松原氏の『失われた景観』(PHP新書、2002)に対する「コメント」を含んでいるが(253-5)、それに対応するかたちで「共著」所収松原氏論稿「経済発展と荒廃する景観」(13-80)は安彦に対する反論を展開している(74-7)。本稿は――同時に、私自身の考察の内在的展開を一部含みつつ――この「反論」に対して反論=再批判を試みるものである。
* 以下においても、文脈上明らかであるものを除いて、数字だけ記してあるのは「共著」のページを意味する。
* 引用文中の[ ]内は、以下においても、本稿筆者の加筆である。
[12] 次いで氏は、それぞれに対して次のように反論している(75-7)。要点箇所を挙げるが、第一に、「「コンテクスト」について言えば、私は京都に関して、平安京であり古都であるというコンテクストを守れなどとは言っていません。京都については、町屋が続く街並みに派手な色合いのビルが不似合いに現れるのが嫌だ、と感じているにすぎません。……私はごく具体的に日常景観を思い浮かべて論じているだけであって、京都といえば平安京であり古都である、伝統である、などというのはどうでもよいことです。むしろそういう安彦さんの連想そのものに、ステレオタイプの強い「コンテクスト」依存を感じます。」と語られる。
[13] 第二に、「安彦さんは、景観は自生すると松原はいうが、それだけではダメではないか、とおっしゃっている」が、――ここはこちらで要約するが――そうした一般論を語っているのではなく、『失われた景観』では、神戸・住吉川のケースについて、市当局による「都市計画」がむしろ景観を悪化させている、と述べただけであって、ケースによっては逆に「都市計画」が美しい景観を創出している場合もある。オスマンによるパリ改造はそのケースである。ただし、「パリ大改造に関して言えば……。古き良きパリや庶民性ある下町と調和するかたちで、整然とした区画整理や道路整備がおこなわれたからこそ、パリは美しいのです」、と語られる。
[14] そして第三に、「倫理は「好き・嫌い」には還元されないと思います。なにか「良さ」の基準があるものとし、それがなんであるかはよくわからないけれども、それを他人に訴えるしかないと考えるからです。……景観であれ論説であれ、同じく倫理的な「良さ」によって評価されるべきものです」と説かれる。
* 安彦/佐藤編『風景の哲学』(ナカニシヤ出版、2002)所収拙稿参照。
[22] これは「前稿」第六節で明瞭に示したところである。そこでは「倫理の二タイプ」を提示し、確かに氏が語られる(「良さの基準を訴える」という)「倫理」は否定したが、だからといって好き嫌いで人は行為していいと述べたのではなく、そうしたものを(公共的事柄においては)無倫理とするとして、そうした無倫理をも排して、もう一つのタイプの「倫理」を説いた。
[23] その「倫理」は――「妥協」「調整」と(簡単に)述べたが――自分の「選好」(=好み)が他の人のそれと対立をもたらす場合、そこで「妥協」「調整」を図り、決まった事柄には――自分の好みを抑えて――従うという「倫理」である。「倫理」という限りでなんらかの正当性を伴うが、この場合それは妥協・調整の過程における、もっぱら手続的な「正当性」([21]で記したのもこれである)に基づくものである。この「倫理」に定位するかぎりで、私は「自分の好き・嫌いで行為してよい」とは説いてないのである。その際私は「民主主義」ということも説いたが(226)、それは、各人の選好を平等に配慮し、その上で妥協・調整を図ることを意味する。松原氏は「デュー・プロセス」をも説いているが(46-8)、その場合、実は、「倫理」は基本的に我々のものと同じとなる。
[32] そして私は、その「表明された意見」に基づいて、そのまま行為してもよい、とは説いていない。むしろ逆に、そのまま行為するならば対立をもたらすことになるので、そこに妥協・調整が要ると述べたのである。確かに、表明される好みのまま行為してもよい、と説く立場もありうる。例えばニーチェがそうであろうし、我々の“業界”で言うなら、永井均氏がそう行為していいということを(一つの倫理として)説いている。今の議論のコンテクストで言うなら、例えば高松伸氏なら「人は自らの好みで建築してよい」と説くであろう。私の立場はこれらとは明らかに異なっている。
[33] 高松氏の場合、おそらく、一種のアナーキズムの美学として、極論するなら乱雑な状態にこそ美が在るとしているとも了解できるが、私はアナーキズムを採ってはいない。(一定の領域の)景観に、あくまで美的なものであるが秩序が在ることの方を私も好む。松原氏の安彦批判には、安彦はアナーキズムを説いているのに対して自分は美的秩序を説いているのだ、と了解できなくもないところが在るが、それは誤解である。私はむしろ、各人がそれぞれ美的秩序に関する好みをもっていて、その好みが多様であって、そこから対立が結果しているということを問題としているのである。さらに言うなら、これが基底的な問題性であるとするなら、単純に秩序(のみ)を語ることは実は少しも解決に至らないのである。
[34] そこで秩序の「基準」を説いても事態は同じである。私の理解では、その「基準」に人によって様々なものが在るからである。(「前稿」pp224-5では、このことを絵画(の良さ)について述べてある。)
[42] この発言を手掛りとするなら、松原氏は、(行為に先行するいわば第一次的な)意見表明のうちに倫理的なものとそうでないものとの別が在って、すでに意見表明の次元で倫理的でなければならないとの前提の上で、意見表明の次元で倫理的でないものを、そのまま(行為の次元でも)非-倫理的だと見ているのだと了解できる。
[43] しかし私は、意見表明のまま行為してもいいとは説いておらず、対立が在る場合は、場合によっては自らの意見を撤回して決まったことに従うべきだと主張している。それも一つの「倫理」である。松原氏はこれとは別の「倫理」を説いていて、誤解を伴って、私の「倫理」を非-倫理だとしているわけであるが、相違は二種の「倫理」間の相違なのである(cf.249)。
[44] そうだとして、「倫理」にも良い倫理・悪い倫理の別が在ると氏はさらに説いてくるのであろうか。これは倫理学研究者として引き受けなければならない難問であるが、前稿では(ひとまず)「倫理の別」ということを語っただけである。ただし、明確にどの「倫理」を採るのかということについては自由民主主義あるいは「功利主義倫理」(249)への定位ということを鮮明にしておいた。
[45] 松原氏は、私が「倫理は「好き・嫌い」に還元される」と説いているかのように理解されているが、「自由主義」とはそもそも人の「好き」の追求をまさしく「自由」として尊重し、(少なくとも私の理解では)功利主義は* その最大限の実現を原理とするものである。松原氏は、あるいはこのことを「好き嫌いへの還元」と表現しておられるのかもしれない。この立場(の主張)は一つの「倫理」であるが、しかし私が上([43])で「一つの倫理」と呼んだのは、このこと自身ではなく、そうした「自由」が相互に対立を結果する場合、そこで調整を図り、その調整に従うということである。これは、その意味で「自由」の制限であるが、しかしそれは、まさしく各人の「自由」の(最大限の)実現のためのものである。各人が直接的に「自由」を追求し合うなら、そこで生じる対立のゆえにかえってその「自由」実現の妨げになる。それゆえに(のみ)、一定の制限を付けるのである。ミルのタームで言うならそれは「危害(防止)原則」を設定することである。これを松原氏は退けていることになるわけであるが、そうであるなら氏は、「自由」に代えて何を「倫理」の原理とされておられるのか。「基準」と言われるが、それはいかなる「基準」であるのか。したがって、私としては松原氏がそもそもいかなる「倫理」を採っているのかの明示を求めたいところである。
* 私の理解では、(「幸福主義」だとされる)ベンサムは決して幸福の客観説を採っていない。何が幸福であるかは人によって異なるという意味で主観説を採っている。(このことと、幸福が量的に計量可能――その意味で客観的である――ということとは別である。)そして、「自由」とは(他人が「これが幸福だ」とするものを受け容れるのではなく)自らが(主観的に)幸福と感じるものを追求することである。
[52] もちろん事柄によって、正しい意見として主張されなければならないケースも在って、氏が言われる「論説」の場合はそうである。そして、その場合「対立解消」は妥協ではなく、主張の妥当性の証示、および相手側の主張の根拠の論駁というかたちで展開されなければならない。しかし私は、「景観」を含めておよそ「美」の問題は、そうした論証型には属すべきでないと考えている。だから、食事の内容を何にするのか――ただし、栄養的観点はいま捨象している――をめぐる対立と基本的に同じものとしても説いたのである(225f.)。
[53] 食事の内容を何にするかをめぐる対立の問題を「食事問題」と呼ぶとして、その「食事問題」の解決は、実際にも多くそうであるように、各人の好みを、その是非を言うことなく、そのまま認めて等しく配慮し、調整するというかたちで比較的容易に解決できる(cf.225-6)。それは、各人の主張がそもそも「好き嫌い」という軽いものであるからである。これに対して、「正しさ」(あるいは「価値」でもいいが)の主張の場合は、折り合いが困難である。ほとんど不可能ですらある。例えば、どの神を信仰すべきかをめぐる「信仰問題」とでもいうもので考えてみればよく分かるであろう。「景観」の美をそのような「価値」とすることは、私からするなら過剰である。「[景観紛争]解決のためには、そもそも景観に対していわば軽いスタンスをとることが求められる」と述べた(255)のは、その趣旨である。
[54] この主張は、基底的には「美」の相対性の主張を論拠としている。そして松原氏は逆に、暗黙のうちに「美」の絶対性を前提とされているのかもしれない。そうであるなら、この「美」の絶対性・相対性をめぐるものへと批判・反論は展開していかなければならないはずである。それは、氏によるなら「美」の主張はすでに一定の論拠に基づくものであることになるが、それに対してはメタ的な議論となる。いま私が行っている議論もメタ議論である。氏の言葉で言うなら「論説」であって、このことはしたがって言うまでもないことなのであるが、氏が論説の場を「市場」として、しかも文脈上その「市場」を(その場合は)「好き・嫌い」の流通の場として説かれているので(77)、そうではないと一言述べさせて頂いた。
[55] 念の為に述べるが、ここで言う「絶対性」は「普遍性」ではない。時代や場所によって「美」の内容が異なっており、美がその意味で相対的であっても、その一定の時代・場所にはいわば唯一の美が在るとするものは「絶対主義」である。したがってまた、ここで言う「相対性」も、時代・場所的な相対性ではなく、別言するなら、各個人依存的であることである。(また「言語行為論」(オースティン)的に言うなら、「普遍主義」が事実判断上の一立場であるのに対して、「絶対主義」はむしろ(「これこれの美は絶対的であって、人はそれを認めなければならない」と説く)規範判断的なニュアンスをもつ。)これを「主観性」と言い換えることもできるのであるが、この用語を使わないのは、それには「非-実在性」と「非-共通性」という二義が在り、そしてさらに後者には、普遍的な共通性は認められないが、或る範囲の共同体においては共通性の余地が認められる場合と、或る範囲の共同体においても共通性の余地が認められない場合とが在るからである。「主観性」の意味をいま後者の、かつその第二の意味に限定するなら、「相対性」に代えて「主観性」という言葉を採用しても構わない。
[62] ただし、美に(のみ)基づくいわば「美的共同体」の余地は、私からしても認めうる。そのようなものとして、例えば華道の流派や各種絵画団体が在るが、その各共同体においてはメンバーはその共通の美に拘束される。しかし、「共同体主義」が「共同体」として想定するものは、そうした選択(参加)的、個別領域的共同体ではない。いわば総体的な共同体である。「共同体主義」は、そうした総体的共同体を前提に、その共通の価値を想定し、メンバーは(正しいものとして)それに拘束されるべきだと説くものである。
[63] 松原氏は――「景観」の場合、その空間性からそうなることは自然であるのだが――「地域共同体」といったものについて、それを総体的共同体として、それに共通の美を想定して論を展開しているのかもしれない。したがって「共同体主義」であるのかもしれないのだが、基底的にはそれを私は批判しているのである。
[64] 確かに前近代社会においては総体的共同体が在ったと言っていい。そこでは(おそらく宗教的なものを核として)諸種の、したがって美的価値をも含む共通の価値が在った。そして、機能論的に言って、メンバーがその価値を個人としても価値とすることは、機能的に共同体の存続・維持に貢献していた。しかし、近代はそうした共同体を解体したのである。それでもなお(単なる好みと異なるものとして)価値が残るとしても、M・ウェーバーが言うように(cf.232)、諸価値がそれぞれ自立的に領域別に分化し、一定の「地域」が在るとしても、それとの一対一的な対応関係を喪失していった。美もそうであって、一定の地域内に――例えば、異なった華道流派に属する人達がいるのと、あるいは異なったジャンルの音楽を愛好する人達がいるのと同じように――互いに別の景観美を価値とする人達が混在しているのである。
[65] そうしたなかで正しい(共通の)景観美が(在ると)主張されるなら、それは一つのイデオロギーとなる。近代においても、その国民国家形成という課題性に対応するというかたちで、正しい価値が措定されていった。国民(民族)固有の「伝統」という意識が形成され、「(正しい)歴史」が仮構されていった。「歴史」ほどではないとしても正しい景観といったもののイメージも仮構されていった。しかしそれは、ホブズバウムのタームで言うなら「創られた伝統」等として、(中世までのように)いわば自然ではなく、あくまで文化的仮構物であった。むしろ、共通の価値が喪失していったので、意識的にそうしたものが仮構されていったと言った方がいいかもしれない。(したがって、意識としての「伝統」は近代(以降)に固有のものであり、――これは松原氏が上([11])で挙げて下さっているのだが――京都に対してもたれている「平安京」というイメージが明治期になってからのものであるのは当然なのである。)共著における他の三人の論者は、「脱構築」として、景観のこの仮構性を指摘している。
[66] この仮構性はなにも政策的なものであるだけでなく、国民の側も――「(公)教育」が大きな要因とはなったが――半ば自発的にそうした仮構的意識を形成していった。しかしまたその場合であっても、各国民の意識においてそうした正しい歴史・景観は――私のタームで言って――一つの「観念」であった(239-243)。歴史・景観について「記憶」ということがよく語られるが、このことはこの側面からは次にように説明できる。大人になってからでも子供のときによく遊んだ所などは――そこには変容も含まれているが――記憶としてよく覚えている。そのよく遊んだ所の記憶像(イメージ)は、実際の(知覚)体験に基づくものとしていわば「実記憶」である。これに対して例えば「民族の記憶」などと語られるときはそうではない。そういうものとしていわば「虚記憶」である。それが現に意識のうちに在るとして、それは必然的に「想像」(=知覚できない非-実在的なものを意識すること)の部分を含む。であるから、B・アンダーソンは「国民」を「想像の共同体」とも呼んだのである。*
* この点については、拙稿「「ヴァーチャル/リアル」という問題――現代世界の問題として――」『情報倫理学資料集 V』2001、第八章参照
[67] この「虚記憶」も、「知識の記憶」とは異なってなんらかの感性的質を伴う。(であるから感情を喚起するのでもあって、例えば唱歌『故郷』――それは、特定のではなくいわば故郷一般を歌ったものである――を聴いてそれが想起させるイメージに涙するといったことも起こりえるのである。)しかしそれは、一つの「観念」である。* そういうものとして、実記憶が知覚と同じ質のものだと言えるとして、それとは異なって知覚とは質を異にするものである。であるから、例えば京都について、一定の「民族の記憶」をもってそこを訪れて(ということは、京都を知覚経験して)「なんだ、こんなものか」と失望したりすることも在りえる。また逆に、一つの発見として、「ああ、こういうのだったのか」と新たに納得したりするということも在りえる。さらに、京都について同じ「古都」という記憶をもって訪れても、その京都において具体的に――「これが古都・京都だ」として――「良い」と思う場所が観光客によって分かれてくることも在りえるのである。**
* 『故郷』を聴くことそれ自身は一つの知覚経験であるが、その経験そのものが「涙させる」のではない。その経験によって想起させられる「故郷」のイメージが「涙させる」のであり、そして、その「イメージ」が「虚記憶」のものなのである。ちなみに、たとえば或る城跡に関する一定の「知識」(たとえば、「かってここで合戦があった」という知識)であっても、それが「虚記憶」を想起させて感情を喚起することもある。しかしそれは、「知識の記憶」そのものが感情を喚起しているのではない。
そうだとして、この「故郷(一般)のイメージ」は通常の抽象者ではない。例えば、個々の三角形に対する三角形一般(三角形そのもの)に対応するものではない。これであれば、後者は前者を「包摂する」という関係に在るが、「故郷一般のイメージ」は(まだネガティヴにしか言えないが)個別的具体者に対する包摂性をもたない。(カントのタームを用いて、「故郷一般のイメージ」は――「概念」に対応する単なる「意味」に留まるものではないが――「図式」ではない、と言っていいかもしれない。)いや、厳密にはこう言い換えなければならないが、具体的個別者すべてに対して包摂性をもつのではなく、選択的に一定のものにしか包摂性をもたない。選択的にせよ包摂性をもつので(単なる「意味」ではなく)「イメージ」ではある。その点では、むしろ普遍というより種――ここでは、或る個別者と似たものと直観されるものの集合を「種」と呼んでいる――と同様である。だがしかし、種でもなく、この点を有意化して言うなら、それ自身は普遍でありつつ、いわば潜在的に無数の種を含むものである。(これもまだ近似的な言い方である。この「潜在性」は、抽象者自身に在るというより、その抽象者とそれをもつ一定の主体との関係のうちに在る。)そして、なんらかの機制によっていわば種化としてこの潜在性(のうちに在るもの)のいずれかのものが現実化されるとき感情を触発するのである。単なる「概念」は――それには、類的なものだけでなく、個的なものも在る――「イメージ」を伴わない。これに対して「故郷(一般)」は「イメージ」を伴うのであるが、それはまた通常の「イメージ」とは異なって、上のような特殊な「イメージ」なのである。我々は、こういうイメージを――厳密には、そのイメージそのものと、それを伴う一定の「概念」との両方をであるが。(再び言うが、この「伴う」ということは、その一定の「概念」そのものの性質ではなく、それとそれをもつ主体との関係の在り方から出てくるものである)――、その独特の存在様態に着目して「観念」と呼んでいるのである。
いま(大急ぎで)カント『判断力批判(上)』(篠田英雄訳、岩波文庫)を読み返しているが、前段落で述べたことは、この書の59節等の記述を用いて次のように言えるかもしれない。「故郷(一般)」という語(「記号」)は単にその「感覚的記号[文字キャラクター]によって概念を指示するようなものではない」(334)。しかしまた、例えば「三角形」「犬」が「図式」――カントは主要には「純粋悟性概念」の図式を語っているが、他方では「経験的概念」についても「図式」を考えている――において直接的に「表示」されるのとは異なって、「類比」を用いて間接的に「表示」されるに留まる(335)。前者の場合は、直観される「実例」と「図式」との間に「類似」関係が在るのに対して、「故郷」は、直観あるいは(実)想起される或る景観との間に類似の関係をもたない。しかしまた、そこには「類比」の関係が在る。(ちなみにカントは、そのような概念の例として「神」(337)と共に「実体」(336)を挙げている。[98]で挙げる「京都」はこの実体の一例である。)この「故郷(一般)」とは異なって「私が生まれた(ような)所」は「図式化」可能であって、具体的直観(「実例」)と類似関係に入りうる。これに対して「類比」を介して(初めて)直観的「実例」と関係を持ちうるものをカントは「象徴」と呼んでいるが、「故郷(一般)」はそうした「象徴」と言えるかもしれない。我々の言い方で言うと、そうした「象徴」として「故郷(一般)」は、いわば疑似図式的なイメージ性をもつのである。
カント自身は「象徴」を肯定的に説いているが、我々は今、その不定性といった点から否定的に見ている。カントは「象徴」の一例として「君主制国家」を挙げて次のように述べている。「それだから君主制国家は、それが国内法に従って統治されているならば、生命を有する身体として表象されるし、またそれが単独の絶対的意志によって支配されているならば、単なる機械(手挽き臼のような)として表象される、……。」(335)すなわち、「生命を有する身体」が「法に従って統治されている」場合の「君主制国家」を、「単なる機械」が専制的な場合の「君主制国家」を象徴すると説いている。しかし、いま前者で考えるとして、「法治的君主制国家」と「生命体」との間には――仮に、国家体制がテーマとなっているときという限定を付すとしても――一意的な対応関係が在るであろうか。人によっては、逆に「法治」を機械的なものと解し、「法治的君主制国家」を「機械」の方と結びつけるかもしれない。つまり、「法治的君主制国家」は、それ自身「図式化」を介して具体的直観と類似関係に入りうる類比物を一意的には持ちえないのである。我々の「故郷(一般)」もこれと同様である。
我々は、具体的直観と一意的な関係をもてないものとして、「象徴」を語ることに批判的である。景観について「保全」が語られるとき「文化」「歴史」「伝統」がいわば御三家となっているが、これらはいずれも「象徴」(語)であって――「古都(・京都)」もそうであるし、「中世」もそうである――、こうしたタームで景観を語ることは実は何も語っていないに等しいのである。
** これについては拙稿「景観紛争解決法の構築 --- 一つの倫理学的考察 ---」『『景観』の制度化と都市計画 − 美しい都市づくりを目指して − 』(日本建築学会都市計画委員会、2004)参照。
[68] このような観念的記憶を伴って「よい景観」として意識されるのは、なにも特定の景勝地や歴史都市だけではない。きわめて日常の景観であってもその対象となりうる。松原氏は、「私は京都に関して、平安京であり古都であるというコンテクストを守れなどとは言っていません。……私はごく具体的に日常景観を思い浮かべて論じているだけであって、京都といえば平安京であり古都である、伝統である、などというのはどうでもよいことです」と語られているが(75)、したがって、特別の場所でなく「日常景観」を念頭においているということ(それ自体)から(は)、「コンテクスト」性の強調が私の共同体主義批判の射程外に在る、ということにはならない。
* 「歴史主義」「過去主義」については、むしろ「歴史」概念に即してさらに論究されなければならない。これについては、拙稿「歴史主義について」『DIALOGICA』第3号、1997 を参照していただくとして、本稿ではいわば原初概念として使用させて頂く。ただし、現時点では、そこで析出した諸要素を「歴史主義」(「過去主義」)と「時間性の意識」とにいわば振り分けるかたちで修正を加えている。その修正のポイントは、「歴史主義」の、「伝統主義」とも共有する「観念」性の強調である。「観念」性については、[66]への註でも言及したが、上記拙稿「「ヴァーチャル/リアル」という問題」第八章を参照いただきたい。
[72] 「前稿」では氏を(まず)「知覚上の保守主義」* と規定したが、氏には、これを超えて(私のタームで言う)「伝統主義」の側面も在るのではなかろうか。前者がいわば「慣れ親しんだものを好む」という感性であるのに対して、後者は、上に言う「過去主義」として、その「過去」(厳密には「過去のもの」)を規範化しつつ観念的に(その「過去のもの」の時間的展開系列としての)「伝統」を措定するものである。
* 前稿では明示しなかったが、これはほぼH・セシルが言う「自然的保守主義」の言い換えである。上記拙稿「「ヴァーチャル/リアル」という問題」第二章参照。
[73] 「伝統」という言葉も曖昧であって、「(何であれ)伝えられているもの・伝えられていること(そのもの)」としては、伝統は実在的である。しかし「伝統主義」は、例えば「伝統を守れ」と説かれるときがそうであるように、そうした実在的伝統に対しては選択的・事後的=遡及的に或るものを「伝統」として仮構するものである。「前稿」では、氏の語られる「コンテクスト」を(さらに)そうした「伝統」(的コンテクスト)として了解してコメントしたわけであるが、氏は「伝統である、などというのはどうでもよいことです」と語られている。その場合「伝統」は私が「伝統主義」として問題とした「伝統」であって、氏はそれを「どうでもよいこと」と語られているのであるが、それは果たして氏の真意であろうか。換言して、氏は「伝統主義」を本当に採っていないのであろうか。
[74] 「伝統である、などというのはどうでもよいことです」と語られている以上、事は単純でない。松原氏はヨーロッパの都市を評価して、たとえば「ヨーロッパでは、イタリアに代表されるように、とりわけ都心部で歴史を詳細に拾い上げるような都市計画が、市民参加の制度までも含めて成立している。そうして復活した都市ごとの伝統的な景観が、街に全体としてのまとまりを与え、……」(前掲『失われた景観』53-4)と語られている。これは、確かに、「伝統である、などというのはどうでもよいことです」という発言とは不整合である。しかし、われわれは、ここからいわば直截に氏の「伝統主義」を確認しているのではなく、むしろ、あるいはそれを「伝統主義」だとは意識されておられないかもしれない次元から見て氏がやはり「伝統主義者」だとみなしている。*
* 「草の根保守」という言い方が在る。これをもじって言うなら、われわれは松原氏のうちにいわば「草の根・伝統主義」を見ていると言っていいかもしれない。先の「共同体主義」についても同様、氏の「草の根・共同体主義」を見ているとも言いうるが、本稿は、「草の根」であることは(日常性に定位した)「草の根」であるということで「主義主張」としての検討の対象から免れるものではない、ということをメタ・メッセージとして含んでいる。
[75] これは間違いなく氏の立場――というより「感性」であるとした方がいいであろうが――であると言っていいが、先の「知覚上の保守主義」から改めて検討してみたい。再度確認するが、それは慣れ親しんだものを好むという心性である。問題は、氏においてそれが(単なる)「好み」に留まっているか否かである。私の議論からして、この知覚的保守主義の好みは、「好み」としてそれにも権利が与えられる。「個人的な感情を交えて……」(71)と語られているところからみるなら、氏の議論は全体としてこの(個人的)好みの(意見)表明であるとも了解可能である。そうであるなら、私の解決枠組みでは、問題は、そうした「好み」をどう配慮すべきかということになる。「デュー・プロセス」を言うなら、この「好み」の表明をどう扱うかということで、ここから「プロセス」が始まるのである。
[76] しかし氏の議論から得られる印象としては、「デュー・プロセス」を尊重するならいわば自動的に氏の好みが採用されることになる、と説いておられるように見える。であるから、「デュー・プロセス」を経ない場合は一つの個人的好みの主張であるものが、その同じ内容のまま妥当であると説かれているように見えるのでもある。あるいはむしろ、氏は、「デュー・プロセス」に純手続的なものを超えた一つの実質的なものを(予め)組み込んで考えていると見た方がいいのかもしれない。あるいはまた、その実質的なものを「デユー・プロセス」に加えて設定しているとも了解できる。実際『失われた景観』では、「よりよい景観を維持するためには、デュー・プロセスだけでなく、他の制度的条件も必要になるだろう。その条件とは何だろうか。注目すべきは、「すぐれた景観」というときの、基準がどこにあるかだろう。」(89)と説かれている。
[77] この実質的なものとして氏の「伝統主義」が前提となっていることになるのではないのか、と私は見ているのである。しかし、「知覚的保守主義」(そのもの)ではなく、なぜ「伝統主義」が前提となっているのか。それは、「知覚的保守主義」が一つの「好み」ではなくまさしく「正しい」価値として主張されているからである。(単なる「好み」の表明を超えた)「正しさ」の主張は、本質的に一般性をもたなければならない。氏は、神戸・住吉川のケースについては自分の過去(少年時)の景観の保全を望んでおられるが、それはそのままでは一般性をもたない。一般性をもつためには、「誰にとってもの過去」として、いわば過去一般の保全が主張されるのでなければならない。しかるに、過去一般なるものは実在するわけでなく、そこに「過去なるもの」という「観念」が措定されざるをえず、そうした「観念」の有意化として「伝統主義」となるのである。*
* 用語法は異なるが、拙稿「保守主義・伝統主義・歴史主義――批評:西部邁『思想の英雄たち』――」『DIALOGICA』第3号、1997)ではこの機制をテーマ的に論じた。
[78] しかしながら「過去一般」では、どうすればいいかということが具体的に出てこない。ここに、等しく過去を尊重していてもいざ具体化するとなると意見が分かれてくることも起こりうる。住吉川周辺地域について、氏は、自分が少年時にそこで経験した景観と連続したものを「良き景観」とされるわけであるが、他の人にとってはそれがその人の少年時のものと断絶を含んでいることも在りえる。逆に、他の人にとっては松原氏には断絶を感じさせるものが連続性をもっているかもしれない。人によって「過去」(少年時)は異なっている可能性が在るのである。(こういう可能性はないとするなら、氏の嫌われる「画一性」というかたちで、どこの景観も基本的に同じである(あった)ということが成立していなくてはならない。)これが「過去一般」なるものが実在しない、ということである。なるほど、(諸)地域そのものにとっては(それぞれに)連続・断絶がいわば自体的に在ると言えるかもしれない。しかし、問題にされる連続・断絶はあくまでそこに住む人にとって感じらるものでなければならない。ここで松原氏は、いわば地域と共に住む者=旧住民を特権化し、その旧住民(のみ)を連続・断絶感の主体とすることによって、一定の解決を図っている(cf.74)。しかし、そうしたいわば既得権主義が氏の最終の論拠であるのでは必ずしもないようである。
[79] そうした既得権主義を回避すべく、少年期の過去という限定を外してまさしく「過去一般」の有意化が説かれている可能性も在る。上の「他の人」にとってその人の少年時のものとは異なっていても氏が「良い」とされる景観は、(氏には連続性をもって)「過去」を含んでいる。そういうものとして、「他の人」にとっても共通に「過去」ではあるわけであって、その「過去」を含むものとしてその景観は「良き景観」であるはずである、と。実際パリについては(氏にとっても当然少年時のものではない)「中世」が有意化されて語られている。だが、「中世」として少しく限定されるとしても、そうした「過去」はやはり「過去一般」であって、まさしく「一般」として逆に、それを尊重した景観というものを具体化することはできない。それを私は「観念」と呼んだのであるが、「観念」は知覚(具体物は知覚対象である)とは断絶を含んでいるのである。にも拘らず「過去」(一般)を説いているのなら、それは私のタームでは明らかに「伝統主義」である。そして、再度確認するが、それは、具体的景観として実を結ぶことのないものであるか、逆に実を結ぶときは特定の「過去」が特権的に有意化され、そこに他の人の意向の拒否を結果するものであるかである。*
* 松原氏が広義で「保守主義」であるとして、そのいわば原点である「知覚的保守主義」に留まるならば或る意味それでよかったのだと私は考えるが、それは私の言葉で言う「好き・嫌い」として意見表明するに留まるということである。しかし氏は、ここで「知識人」の使命として、これを正当なものとして説いて、ここにまで至ったのだと見ることもできる。『失われた景観』(148-9)ではチャールズ皇太子に仮託して、いわば庶民の立場から(「進歩主義」的)知識人の批判を行っているが、ここには、知識人批判がその批判において知識人性をもつことになる(したがって、「正義」として「主義」を語ることになる)という機制が在るとも言えるかもしれない。
[82] しかしながら、その「慣習」は「過去」ということとどう関わるのか。氏は私への反論として(やや苛立って)「オスマンによるパリの大改造を見習って神戸市も美しい都市計画をしてくれよ、ということです」(75-6)と語られながら*、直ちに「ちなみにパリの大改造に関して言えば、それが成功だったのは、それが何百年と続く下町をすべて排除しないで、むしろ共存しているからだと思います。古き良きパリ……と調和するかたちで、整然とした区画整理や道路整備がおこなわれたからこそ**、パリは美しいのです」[強調・註表記は引用者による](76)と説かれる。すなわち、過去からの連続性が持ち出されるのである。しかし、パリが美しいのは本当に「過去」によってなのか。
* このままであれば、19世紀後半のオスマンの時点での設計主義が容認されていることになり、松原氏において自生主義と(自己)矛盾することになる。
** これを本稿ではテーマとしないので、ここで簡単に述べさせて頂くが、オスマンのパリが美しいのは、この「整備」の故である。それは、およそ「過去」とは、あるいは時間とは関わらぬ空間的性質のものである。「前稿」pp.250-2は、良き景観の具体的創出策として美の「普遍的基層」を取り出すというかたちで付加的に若干述べたが(250-2)、換言するならこれをそこでは説いたのであって、仮に松原氏が純空間的な観点でこの「整備」に即して「統一感」を説いているのであるなら、美感について基本的に私と相違がないことになる。
[83] 氏は景観の美しさを「統一感」としても語られている(cf.70)。しかし、それは本当に過去からの連続性に基づくものであるのか。「自生」であるから「固定」ではなく、そこには変化も含まれる。であるからそもそも「進化」であるのだが、変化は(各末端)主体の行為から見るなら「創造」である。それに「過去からの連続性」が要因となっているとされているわけであるが、それは普通の言い方で言うなら「伝統と調和した創造」(254)ということであって、「前稿」ではこれを原理的に不可能であると説いたのである。そして、「不可能」であるなら、「良き景観」は実はこれとは無関係に生じているのではないのか、ということなのである。
[84] 正確に論じるために、「色」に即してモデルで考えてみたい。氏は、先程の箇所であるが、「街にほつぽつと[ではあっても]そういう[同じ]色の家があるというのは淡い統一感を醸し出していて、結構いい」(69-70)とも語られている。理念化するならこれは、街の建物が同じ色であることである*。この同一色であることは、果たして過去との連続性に基づくものであるのか。自生主義によるなら、実はそうではない。つまり、或る街が過去において一様に赤色であったとして、そこから変化するとして、それが例えば青色に変わるのではなく、赤との連続性をもって一様にピンクに変わる(に留まる)から変化後であっても統一感が維持される、というのではない。そうではなく、いま多少であっても自分の建物の色を変えなければならないとして、各住民がいわば各所で互いにお互いの意向を調整し合って具体的な新色を決めるから、例えば同じくピンク色に定まってくるのである。したがってまた、調整の仕方によっては等しく赤紫色にするということも在りえる。あるいはまた、自生主義そのものは別に漸進主義を含むわけでなく、調整の結果、青色に統一される可能性も原理的に在る。また、従来無統一であった色景観に新しく統一が実現されるということも在りうる。すなわち、実現される「色の同一性」は、過去の色状態とは独立なのである。そしてその場合、新住民であっても、その調整に関わることができる。市場における商品の価格は上からの統一指令によって定まるのではなく、いわば鳥瞰的に言えば需要・供給の関係によって、各主体にとっては「それでは高すぎて売れない」「安すぎて儲けが出ない」という個別経験、およびその経験の蓄積による知識によって定まってくるのであって、「以前の価格と余り違わない範囲で」という限定が在って、その限定が在るから決まるということではないのであるが、それと同じことなのである。いま「慣習」と言うなら、それは以前(「過去」)の価格=色を守るといった慣習ではなく、実践的経験知として在る、「売れない」「儲けが出ない」価格を設定しない=周りの人の色意向と調整するといったいわば形式上の慣習、およびその慣習に基づく(それぞれの時点での)一定のものの内容化(これもまた「慣習」であるが)である。その内容は「以前からの」とは独立である。
* これは何も色相の同一性でなくていい。彩度の同一性であってもいい。ドイツの小都市などに見られる建物のファサード面の色的統一性は――南フランスの村落などとは異なって――後者のものである。
[85] したがって、オスマンの「大改造」は、それ自身「慣習」に従ったものであるとしても、自生主義から見るなら「中世」とは無関係であるはずである。であるから氏は最新の論稿「日本の都市と景観」『環』vol.17,2004 では、「オスマンによる大改造がパリを大きく変えたことは事実である。けれどもそうした大改造は二百年に一度のものにすぎず、……」(99)として、半ば妥協的に「オスマン以降のパリ」に限定して語られてもいるのであろう。実際オスマンは、それ以前のパリに対しては「破壊的」に大改造したのであって、中世からの部分が残されたとしても、いわばその未貫徹の結果であり、そして、結果としてそれがパリの美しさに貢献しているとして、最大限譲歩的に言うなら「それはそれとして」であり、事実としては、(相互調和的にではあるが)街路灯の設置(つまり「夜景」の成立)を典型として、商店として使用してショウ・ウィンドーを付設する等、それなりの近代化を行ったからである。
[86] では次に、この「自生主義」を採っているとして、それは純粋にそれだけで美しい景観をもたらすであろうか。現実にはそれは不可能であると私は考える。都市はまさしく自生的には美だけを原理として生成するものではなく、むしろ(生活=日常の基底である)「経済」を根底に置くものであり、そして、「経済」(つまり或る種の「善」)と「美」とは決して一体のものではなく、少なくとも近代においては相互に「分立」している(M・ウェーバー)ので、自生的に「経済」的秩序は成立するとしても、それが自動的に「美」的秩序をもたらすわけではないからである。ここから見るなら、「美」を原理とするという強い意志の下、したがってむしろ計画的――それは、なにも「上から」のものである必要はない。住民の合意による「下から」のものであってもいい――にでないと美的秩序は実現できないと見た方が妥当である。実際オスマンの「大改造」は計画的であった。上に挙げた「整然として区画整理や道路整備がおこなわれたからこそ」(76)の部分(のみ)を見るなら、松原氏もこれを認めざるをえなくなっているとも言いうる。そうであるとして、自生主義の下では、少なくとも美については必ずしも秩序を生むとは限らないのである。
[87] しかしながら、いま仮に「美」だけが問題となっている場合はどうであろうか。その場合、他の領域には秩序を結果しないとしても、「経済」の場合と同じように相互調整的に自生的に一つの秩序をもたらしえるのではなかろうか。その調整は、いま自生主義に加担して言うなら、まさしく「経済」の場合、いわば無理のないものである。各人が直接的に、自己の利益を動機として、それぞれ自らの知識を動員しつつ自己利益的に行動することによって秩序が形成される。A・スミス的に言うなら、そこに「神の手」が働いているとも言いうる。これに対して「美」の場合、美だけが問題となっているとしても、各人がそれぞれ美を求めて行為するなら、そこに生じるのはむしろ無秩序である。そこに秩序をもたらそうとするなら「無理」が生じざるをえない。厳密に言わなければならないが、こういうことである。いま問題にしている「美」は、「景観」の美として他者との共有物であるということから、本質的に他者関係的なものである。この点は、自己利益の実現という「経済」の場合も同じである。自給自足経済といったものなら事態は別であるが、市場経済の場合、その市場における財の交換を前提とするからである。「経済」における秩序とはこの交換の秩序である。そしてそこには、自分の生産物が売れなければ、それを別のものに変えるということが含まれる。しかし、そのことは「無理」なことではない。経済活動の動機は(特定の物を)生産したいというものではなく、利益をあげたいということであるからである。これに対して、市場において(他者に対して)或る商品を売りに出すということに、他者に対して自分の「美」を共有化することを主張することが対応しているとして、その主張は――売りに出す商品を変えうるのとは異なって――変更することのできないものである。経済的利益一般というのが在るとして、それと異なって美(的利益)一般というのは在りえず、人にとって「美」は必ず特定の状態であるからである。何(どの商品)によって経済的利益を得るかということは本質でないのとは異なって、美の場合はその「何」が本質的なのであって、その意味では一つの絶対性が在るとも言いうる。そして、ここで美の主観性を前提とするなら、一つの絶対的な主張が相関係し合わざるをえず、そこに無秩序が結果されるのである。
[88] そこで秩序が形成されるとしたら、それは本質的に他者の主張を退けるという権力性を伴うということになる。したがってまた、美的秩序は「政治」の事柄ともなる。言うまでもなく、オスマンによるパリ改造は一つの「政治」であった。自生主義はここで、そうした「政治」から独立に、人々の相互調整によって美的秩序が実現できると説くかもしれない。しかし私からするなら、そこで調整が実現されるとしても――フーコー的な観点を持ち込むことになるが――ミクロな次元での無数の強制・受容の結果としてである。権力性の発動の結果であって、その点ではマクロな統一中央権力による計画に権力性が伴うのと同じである*。いま例えば「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの言い方を採用するなら、そうした相互調整もそれ自身一つの「政治」であると言っていい。あるいはこう言った方がいいかもしれぬ。「経済」の場合、自己利害的動機がまさしく「神の手」によって一つの秩序をもたらすとして、自己利益が確保される限り(確保されるから「神の手」なのだが)、その秩序そのものが何であるかは問われないのに対して、美はまさしくその秩序について、各人がそれぞれに利害(好み)をもっていて、そこにいかなる秩序であるかをめぐる相違こそが問題になるのだ、と。あえて「経済」にアナロジーさせると、秩序として成立してくる或る商品の「価格」について、それが各人からみて自分には――それなりに利益にはなるが――他の人にとってと比べるとあまり利益にならない、その価格を上げるべきだ、という不満が残る、ということと類比的である、と。この場合、(計画的な)統制価格が設定されることになるか、「再分配」による所得の調整がおこなわれることになるか、いずれにしても「政治」が関わってくることになるが、美の場合、秩序が形成されるとしたら、本質的に「政治」性が関わってくるのだとも言いうる。**
* 私の自由主義の立場からするなら、この権力性は最も回避しなければらないものである。松原氏は消極的であろうが私はここで、補償原理を採用することを説きたい。原理的に言うならそれは、美的価値を経済的価値化することである。丁度、土地の取り引きと同じように、自分の美感の実現・喪失に金銭的価値を定め、その間に取り引きのアイデアを持ち込むことである。共同体主義の下では、結局、自分の美的価値の実現、逆に喪失は共に“ただ”とみなされている。「景観の保護」には現実には多く、この「ただで黙らせる」というかたちで権力性が作動している。しかしまた現実にも、ナショナル・トラスト運動に典型的に見られるように、「景観はただではない」という経済原則が採用されているケースも在る。念の為に言うが、ここで、美の金銭化という卑しい考えだといった安易な批判をしないで頂きたい。それは、基底的には「自由」を確保するためのものであるからである。
** このように言うなら、松原氏は、したがってハイエク、さらにはA・スミスも次のように反論するであろう。「相互調整」がそもそも「秩序」を生み出すかたちで可能であるのは、そこにさらに、いわば調整の仕方を方向づける精神といったものが在って、それが基底的な「慣習」として働いているのだ、と。本稿では、これをテーマ的に論じる余裕はないが、簡単に次のようには述べておきたい。そうした「慣習」は、上の比喩で言うなら、「自生的」に定まってくる「価格」について不満が生じない、ということに対応する。そういう精神(あるいは「社会性」)が在るから、価格に安定性が出てくるのだということなのかもしれぬが、我々はそうした「精神」のうちに政治性の貫徹を見る。近代とは、そのことが――いわば自然性であることを止め――人々の意識に上ってきた時代のことである。近代の場合、(「伝統主義」の)「観念」の体系がそうした(不満)意識を――マルクスが「宗教は阿片だ」という意味で――半ば宗教的に昇華させてもいたが、現代では、この(準)宗教機能がもはや――例えば個人的なアイデンティティ確立としては在りうるかもしれぬが、そもそも「社会」を構成するものとしては――機能しなくなっていると我々は見ている。我々としては、安定性を考えるとしてももはや(かつメタ的レヴェルで)「相互調整」そのものに即してである他ないと考えているが――したがって、私が考える「デュー・プロセス」とは、一種メタ的に、それぞれに(主観的に)主張される複数の秩序案相互の調整となる――、それに対して松原氏は、そうした――内容的には異なるとしても――伝統社会的「精神」の再建を説いておられるのだとも了解できる。この場合「調節」は、その「精神」に基づいて自生的に生じるとも言いうる。だが問題は、その規範的妥当性である。少なくとも「美」の場合、我々からするなら、「共同体主義」的になんらかの規範的美の想定の下に、それから外れる美感は「正しくない」と判定することを伴うからである。ここは基底的には美の客観性・主観性の問題が関わってくるが、人々の美感の現在の状態を「主観的」であると(事実)認定するなら、現実に対して一つの空論とならざるをえないようにも見える。
[89] 自生主義の枠内でこの状態が克服されるとしたら、動機論的に言って、自分の美感を実現するという動機より、例えば多数派の見解を共同の意思として、その共同を自分(個)の上に置くという(一種「利他」的な)動機の方が強いのでなければならない。これは、その者が一種「共同体主義的」心性(あるいはむしろ「共和主義」的心性)をもつということである。しかし「共同体主義」は通常は、そうしたいわば形式主義的なものでなく、内容的に、各「共同体」固有の、各個人からするならそれを超えた自体的な美を想定するものである。そして、そこで再び、伝統主義として「過去」が有意化されることにもなる。「基準」を語るとき松原氏においても、やはりなんらかのかたちで「過去」の有意化がなされているのだとも了解できる。*
* 上の註*の続きとして言うなら、さらに次のように言える。「共同体主義」の下では、多数派の見解であれ、想定された共通価値であれ、それとの相違はいわば逸脱として無化される。だから「ただで黙る」ということになるのであるが、これに対して「自由主義」は相違にも権利を与え、その喪失には補償を考える。美の主観性の下では実現される統一的美観は必ず何らかの者には喪失(例えば自分の美感にはそぐわないものへと自分の建造物を改修すること、自分の美感には反するものを受け容れること)になるのだが、その喪失分を金銭的に補償するのである。そして、その補償は財源的に、自らの美感が実現できた者(のみ)が負担するのが公正である。したがって、原理的に「公費」を財源とする補償は妥当でない。財政学のマスグレーヴのタームで言うと、この主張は「価値財」のカテゴリーを非有意化することを意味するが、この点からは安彦/谷本編『公共性の哲学を学ぶ人のために』(世界思想社、2004)所収拙稿を参照頂きたい。
* ちなみに、この部分の直前に「すべての景観はなんらかの断絶を含むではないか、といった浅薄な反論を返す人があるかもしれない。美しい景観を有するとされるパリにしても一九世紀にオスマンが大改造を行っているではないか、と。」という件が在る。これは、「前稿」pp.253-4部分の松原氏的読みだとも了解できる。
[92] この第6,7文を見るなら、氏は「知覚的保守主義」として変化の少なさを説いている。だが、その(一般化を伴う)「主義」としての主張が不可能であることを、「伝統主義」(化)という観点から私は説いてきた。この不可能態である「伝統主義」を説いているのではないとしたら氏の立場はどこに在るのか、というのが問題なのである。第2-5文を見るなら、氏もまた「伝統主義」だとも理解できるのであるが、それは氏の中核的主張であると必ずしも了解しなくていいのではないのかとも私は見ている。
[93] 上の引用文から拾うと、ポイントは第4文中の「過去がどのようなものであったか記憶を呼び起こす」、第7文中の「連続を印象づける」を、半ばその文脈から切り離して、「記憶を想起させるかたちで過去からの連続性が感じられる景観」を説いているのだと了解してみたい。つまり、厳密に言って「過去」ではなく(今まで短縮形として「過去」とも呼んできたが、それはむしろ「過去のもの」であって、それとは異なる)「過去性」、しかも自らと無関係なものではなく、自分がいるこの現在とも繋がっているかたちの「過去性」を有意化しているのではないのか。こうした過去性の有意化は、私のタームで言うなら「時間性の美学」である。過去と現在との連続を、その連続しているものとして連続性そのもの、つまり時間(性)を、氏は有意化しているのではないのか。
[94] 時間は具体的な事物に即して感じられる。そしてそれは多く、過去(から)のものの現在における存在に即してである。しかし伝統主義的に「過去」を説く場合と異なって、その過去のものは原理的にどの時代のものであってもいい。それは、時間は事物(厳密には、むしろ事物経験)の「形式」であって、その形式に対して原則的に何であってもその内容となりうるからである。というか「時間」は、いかなる事物(経験)に対しても等しくその「形式」として相伴いうるものである。これに対して「過去」(一般)は、様々な「過去」に対するその形式ではなく、いわばそれらを個・種とする類的な普遍者であって、いわばそれ自身「内容」である。したがって、個・種と同様、対象をもつことができるのであるが、しかし、その対象は、個から種、さらに類になるにしたがって抽象的なものとなる。少年時(過去)の懐かしい景観(個)だけでなく、それと似た(種類の)ものについても我々は具体的に「過去」を経験できるが、類についてはそれは不可能である。逆に、なんらかのものを「過去」として経験しているとき、その類はいわば種化されており、そこにその種化の諸種として人によって「過去」として経験されるものが異なってくることにもなる。これに対して「時間」は、「形式」であるので、過去(から)のものに限定するとして、原則的にはどの過去(から)のものであっても経験可能なのである。
[95] しかし厳密には、これは「過去性」について言えることであって、「時間性」の場合は、現在との関連ということから、実際には或る制約が在る。原理的にはいかなる時代のものであっても(あるいは(逆に)未来を感じさせる新規なものでも)時間性をもちうるのであるが、しかし現実には、あまりに古いものは古すぎるゆえに時間を感じるのが困難である。ここに、(現代から見て)「過去」として求められるのが、近代のもの、せいぜい行って近世のものということになる。過去として「中世」が有意化されることも在るが、この観点から見るなら、それは古くからのものとしてより、古くなっているものとしていわばそこに時間が蓄積しているからである*。古代のものの場合は、廃墟として(崩壊態のうちに)時間の経過が明瞭なものがむしろ好まれる(廃墟趣味)のであって、完璧に保存されたものや、(物としては新しいものである)復元物は、むしろ異物と感じられてしまうであろう。こういうかたちで、街の過去の復元が失敗に終わっているケースをよく目にする。また端的には、過去を大事にするとして(そもそも物ではなく)遺跡の保存がなされるときも在るが、それは、周囲に建築物が並んでいる箇所、つまり街中である場合は、景観にとっては破壊的でもある。極度の歴史主義的感性の人の場合は、いわば想像力がその穴埋めをして、「○○の跡」という表示板を見るだけで感動したりする場合も在るが、並みの人にはこれは無理である。並みの人にとっては、例えば地震(による家屋崩壊)の結果、虫食い状に単なる空所が混在している地域と同じように感じられてしまう。
* 「古くなっている」でも、さらに「古くからの」でもなく、端的に「古い」ものを好む心性も在りえる。これは、「伝統主義」(「歴史主義」)と言うとしてもかなり周辺的なヴァージョンであって、「過去」としてむしろ永遠性を求めるものである。例えば、特にイタリアのファシズムや、(ナポレオンの好みの)(新)古典主義の感性にはそうしたものが見られるが、通常の「伝統主義」は、「過去」を時間的なままに、つまり自分と連続性をもったものとして、しかし原理的に特定化(=現実化)不可能なままに、したがって「観念」として尊重するというものである。ここから見るなら、端的な過去はむしろ「異物」である。他方、ポストモダニズムは、「異物」であっても、それはそれとして面白いと――上の「周辺的なヴァージョン」との区別を付けるなら、それがいわば超時間性を求めるものであるのに対して、無時間的に(ちなみに、この「無時間性」にはモダニズムとの親近性が在るとも言いうる)――感じる感性である。若者達が自分の日常の空間とは相当に異質であって連続性を感じることのできないものであっても、それを「レトロ」として(むしろ「断絶」を)面白がるのは、その一例であるのかもしれない。
[96] 例えば京都が「歴史都市」として景観的に好まれるのも、典型的には「平安京」として古代世界が各所に残されているからではなく、物として時代的には様々であるが、古くなったものが多く残されているからである。しかも、時間性は現在との連続性をもつことが必要であるが、そうした古くからのものが現在も使用されていて(博物館的なものではなく)生活空間ともなっているからである。伝統的「コンテクスト」をめぐって私はその仮構性を述べたが、そうした仮構物としては「コンテクスト」は実際には(平安時代からの、江戸時代からの、あるいは明治時代からの、として)様々に分化せざるをえないのに対して、時間はいわば時間一般でありうる。であるから、実際そうであるように様々な時代のものが混在していても構わないのである。(京都は意外と近代都市であって、景観的に典型にはレンガ造りの建物が多い。)松原氏はあるいは、この時間性を「コンテクスト」として説いているのかもしれないが、それであればそもそも「コンテクスト」ではない。時間性には、その時間性が在ることという一つの形態しかないからである。各地域固有の「コンテクスト」と語られるかもしれないが、時間性(だけ)を有意化するのであれば、そうしたものは実は存在しない。つまり、様々な時間性が在ることは不可能である。であるから、実際、単一の時間性の枠内で、パリは景観的にも様々な(各地域の)文化の混合態であるし、京都も特に近代(化遺産)を考えて見た場合、西洋建築が大幅に取り入れられてもいるのである。そして、それにも拘らず、というかむしろ、時間性の観点からみるなら、いわば時間性の創造的付加としてまさにそれゆえに、一つの美観が形成されているのである。
[97] この「時間性の美学」と「伝統主義の美学」とでは、具体的には意見対立を結果しもする。南禅寺境内の水路閣が代表事例であるが、後者からは南禅寺境内に明治期のものが混在しているのは(「伝統」として具体的に例えば「室町時代」が有意化される場合、その「室町時代からの」というコンテクストにそぐわないので)「良くない」ということになるのに対して、前者からは現時点から見るならそれもまた時間を蓄積したものであるので違和感なく共在していて「良い」景観を成している、ということにもなる。* したがって松原氏には、最低限、このいずれの立場なのかの明示を要請したい。「最低限」と述べたのは、氏が強調される「統一性」に限っても「景観」には過去・時間に関わるものとは他の要素も在るからなのだが、今はそれは措きたい。
* 両美学は一人の者において共存しうるものである。ただ、人によって、いわばその混合の割合が異なっており、そこに理念型として前者だけをもつ者、後者だけをもつ者を想定することができる。そこに同じ(特定の)過去のものについて、現在におけるその存在様態をめぐって対立が生じる場合も在る。中世の建造物の保存について19世紀ヨーロッパで大きな論争となった「修復」か「反-修復」かという対立は、その典型である(cf.236-7)。両者は共に、その中世の建造物を「良き景観」(構成要素)とみているのだが、修復派はその中世のままへの修復を説く、いわば「過去のもの」を「過去のもの」として美を感じるものであるのに対して、反-修復派は、中世からの時間を経過して古くなったものとして、その現時点に至るまでの(例えば壁面の摩耗といった)時間の蓄積に美を感じるものである。
[98] 「他の要素」は主として空間に関わるものである。松原氏が「コンテクスト」を言われるときも、主要には空間的なものであるのかもしれない。(「京都については、町屋が続く街並みに派手な色合いのビルが不似合いに現れるのが嫌だ、と感じているにすぎません」と述べられているが、その場合、「二階建ての建物が並んでいるというその地域のコンテクストのなかに中・高層の建物が混在するのは嫌だ」「木造の茶色を基調とする地域に赤色や緑色の壁面の建物が混在するのは嫌だ」とでもしていることになる。)しかし氏は、――これはC・アレグザンダーの場合でも多少感じられるが(平田翰那訳『時を超えた建設の道』鹿島出版会、1993 参照)――その「コンテクスト」を成立させる一つの実体(京都で言うなら、まさしく固有名「京都」が指すもの――念の為に言うが、それは現時点の「京都」でなく、時間を貫いて持続するものとしての「京都」であって、したがって例えば「その絵を描いてみる」としてもそのものとしては描けない=知覚物とならないものである――、あるいは、その「精神」)のようなものを想定していると了解できる。例えば『英国の未来像』に肯定的に言及されている(『失われた景観』pp.142-9)のを見るとき、その印象をもつ。そして、その「実体」を(観念的に)構成するのが実は「伝統」であると私は見ているのである。* したがって、「前稿」に引き続いて本稿でも、「コンテクスト」概念のこの側面を問題にしたのであって、その空間的側面については今は措きたい。
* チャールズ皇太子はたとえばこう述べている。「たぶん大多数の英国人は、自分の国を非常に誇りに思っており、その風景や村や町、そして何気なく「英国的」と呼ぶ特徴をかもしだしている周囲の景色に、何か特別なものがあると感じている、と私は指摘したい。あちこちの州において目にする地方の建築様式にすこぶる顕著なこのような特質は、われわれが祖先から受け継いできた、きわめて豊かな伝統の一部である。」(出口保夫訳『英国の未来像』東京書籍、1991,p.17)
[99] この「他の要素」をも考慮に入れて氏はおそらく、そもそも景観を配慮しない経済的開発主義と景観主義との対比を強調しておられのだと思うが、その景観主義の主張が未分節であるとき、自分の美感を明確に意識している者にとっては、そこに含まれる異なった美感部分が、と言うより、その異なった美感が一つの「正義」として主張されるときそこに派生する権力性が障害となる。そして、他の形態も在りうるが、「正義」として語られるとき通常そこに持ち出されるのが「伝統」なのである。私からするなら、これが、景観主義が単なる建前を超えて実効的に広い賛同をもたれていない最大の原因である。
本稿は、平成16年度文部科学省科学研究費補助金による研究の一端である。
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2005/03/25作成