「問題解決」という問題設定の枠内で非人間中心主義は生き残れるか?
神崎宣次(大谷大学)
本論では人間中心主義と非人間中心主義のいずれを支持するかという、環境倫理学の中でくりかえし論じられてきた(が、現在で はいささか古臭いとも思われる)議論をとりあげる。その中で、非人間中心主義の余地をいかに確保するかという関心に従って、とりうる議論の一つの方向性を 素描することが本論の目的となる。1
1. 人間中心主義/非人間中心主義という対立軸の設定自体が妥当か?
非人間中心主義を説得的に述べるための一つの方針を提示するというのが本論の目的であるが、人間中心主義か非人間中心主義か という議論の枠組み自体が妥当ではないかもしれない。たとえば環境プラグマティズムは、従来の環境倫理学が人間中心主義/非人間中心主義の対立に決着がつ けられなければならないという価値一元論に拘泥し、それがために現実の環境問題の解決に貢献しなかったという批判を行なった2。 ここで重要なのは、多元主義と(問題解決に向けられた)実用主義という「プラグマティズム」に含まれる二つの要素が、この批判の中で結びつけられている点 である。環境プラグマティズムが人間中心主義/非人間中心主義という環境倫理学の構図自体を問題にしたのは実用性の観点からであった。だがこの構図にはそ の他にも以下のような点から疑問が投げかけられるだろう。
対比させられるべきこれらの概念をいかに定義するかによって、それらの対立の理解も変ってくるだろう。たとえば、人間に特権 的な地位を認めるという立場を人間中心主義とすれば、非人間中心主義は人間にそれを認めないという立場ということになる。また、この「特権的な地位を認め る」の内容を「意思決定においてその利益が道徳的に配慮されなければならない」と理解するならば、人間中心主義は人間の利益のみを規範の根拠とする立場、 そして非人間中心主義は人間以外の存在の利益も道徳的に配慮されなければならないと主張する立場となるだろう。
後の方の定義では二つの立場の間の対立は必ずしも調停不可能ではない。たとえば環境プラグマティズムの代表的論者の一人であるブライアン・ノートンは次のように述べている。人類は自然あるいは環境の一部なのだから、
ヒトという種全体の利益に役立つ政策は、長期的には、自然の「利益」にもまた役に立つだろうし、その逆もまたしかりである。環境主義者たちは、このように信じている。3
また環境主義者たちがこのように信じている理由は、(ノートンによれば)人間中心主義者であろうと非人間中心主義者であろう と環境主義者である以上は共有している科学的自然主義、すなわち生態系についての科学的理解と知識に、彼らがとるべき政策の選択が基づいているからである4。そして生態学によってもたらされた知識もしくは知見のうちで最も基礎的かつ重要なのは、人間は生態系の一部として存在しているという認識であるという。
それに対して最初の人間中心主義と非人間中心主義の定義では、人間に特権性を認めるかどうかが二つの立場の間の差異となっているので、これら二つの立場は排他的な内容を持つことになる。
人間中心主義/非人間中心主義という対立軸は、保全/保存、あるいは自然に道具的価値のみを認める/内在的価値も認めるとい う別の対立軸と結びつけられることがしばしばある。たとえば歴史家ロデリック・ナッシュは、保全の立場を代表する人物であるジョン・ミューアについて記述 する際に、非人間中心主義や内在的価値に関連する言葉を用いている5。
このことを通じて更に、人間中心主義/非人間中心主義という対立軸はその他の二項対立とも緩やかに関連づけられる。そのよう なその他の対立軸のなかで(本論の関心から)最も重要なのは、人々を説得して環境保護へ向けて動機付けさせることができる/できない、あるいは現実の問題 解決に役に立つ/立たないという対比である。たとえばナッシュはミューアがある時期から人々に対して語りかける場面では自分自身の非人間中心主義的な思想 を隠して、人間中心主義的な言葉を用いて保護を主張したとし、その理由を以下のように説明している。
なぜ、ミューアは環境倫理学的な方法を放棄したのだろうか、その理由ははっきりしているように思われる。彼は政治の世界に首 を突っ込むと同時に、プラグマティックな人間になったからである。ミューアは、「アメリカの原生自然を救う唯一の方法は国民と政府に原生自然の重要性を納 得してもらうことである」と信じていた。その結果、彼は"生命中心主義"やそこから示唆されている倫理体系を抑制し、人間中心主義という口実のもとに自分 の著作物、講演などでそのような考え方を隠していたのである。6
・・・彼は自分の急進的平等主義を広く受け入れてもらうために、レトリックを使ってカムフラージュした。これは人間のために なるような自然の利益に力点を置くというやり方である。この後、生態学者は政治的な問題が絡んでくるときにはいつでも、同じようなテクニックを用いた。7
つまりミューアは人々を説得するという現実的かつ政治的な問題のために、戦略的なテクニックとして人間中心主義的なレトリッ クを用いていたというのである。このナッシュの記述にみられるとおり、人間中心主義と非人間中心主義は(現実の問題解決に役に立つ/立たないというよう な)その定義の内容には含まれていない対立軸と結びつけられて論じられる場合があるのである。人間中心主義と非人間中心主義との対比を検討するには、こう いった関連づけられうる対立軸群も含めて分析することも必要なのではないだろうか。
本論では「非人間中心主義」と表記しているが、その内容をもう少し意識して「非-人間中心主義」あるいは「人間非中心主義」 などと表記される場合もある。とりわけ前者の場合は、人間中心主義「ではない」という人間中心主義への批判として消極的に規定されているという印象を与え るかもしれない。また、非人間中心主義や人間非中心主義という表記であっても、生態系中心主義や生命中心主義といった積極的に規定された概念とは微妙に異 なった内容を示していることになるのかもしれない。そもそも非人間中心主義は人間中心主義とは独立に定義される概念といえるのだろうか。
環境プラグマティズムによる批判のなかで描写され、批判と対象とされているような「環境倫理学的な」思考においては、われわ れの間に広く蔓延している人間中心主義的な価値観が環境破壊の原因であって、この価値観の根本的な転換がなければ環境問題が真の意味で解決されることはな いとされる。つまりわれわれのデフォルトの価値観である人間中心主義への批判として非人間中心主義が主張されていることになる。しかし重要なのは、非人間 中心主義的な思想を述べているとされる論者の主張の多くは、人間中心主義的な思考だけでは不十分というものであるということである。たとえばアルネ・ネス の(初期を除く)立場がその例といえる。またブライアン・ノートンは、現在生じているダメージを最小化するために政策の領域で働くと同時に、環境に対する 人びとの傲慢で無感覚な態度や価値観を変えていくという長期的な目標に従事するという「レオポルドの二重の戦略」に言及している8。
したがって、人間中心主義か非人間中心主義かという二者択一に基づいた問題設定は不適切であるかもしれない。むしろわれわれ は、人間中心主義だけでいいのか、それとも非人間中心主義も必要なのかと問うべきなのだろう。その場合、非人間中心主義の余地を説得的に述べるという本論 の目的は、人間中心主義と非人間中心主義のこの二重性をいかに確保するかという問題設定として言い換えることができる。
この二重性の主張は、既に述べた環境プラグマティズムの価値多元主義とも整合的といえる。しかしながら、ブライアン・ノート ンが提唱している収束仮説 convergence hypothesis というアイディアは、価値多元主義に基づいていながら、この二重性を「収束」させ、解消してしまうように思われる。
簡単にいえば収束仮説とは、環境保護を主張する根拠や基づく価値が異なっている立場の間であっても、実際の環境問題を解決す るために必要と考える手段についての意見は収束しうるという仮説である。いいかえれば、人間中心主義者と非人間中心主義者は採用すべき政策という観点では 意見が一致しうるということになる。ノートンが挙げている例は次のようなものである。原生自然地区で露天採掘を行うことを禁じるという共通した目標を達成 するために、その土地を神聖な場所と考える者と、人びとがレクリエーションのために利用できるという価値をその土地に認める者は、たしかに露天採掘を禁止 させるという目標について一致しており、その目標に向って協働することができるだろう。なぜなら、
科学的自然主義への共有されたコミットメントのために、異なった価値へのコミットメントを持つ環境主義者たちは同じような政 策へ引き付けられる。なぜなら彼らは、生態系についての科学的理解が自分たちの多様な目的を追求するための利用可能な手段を決定すると信じているからであ る。9
つまり既に述べたとおり、環境主義者たちは人間中心主義者であるか非人間中心主義者であるかに関係なく科学的自然主義へのコ ミットメントを共有しており、生態学の知識に従うという点で共通しているので、共通した目標をそれぞれの価値観に基づいて達成するための手段の選択に関し ても一致するというのである。
このような生態学の知見への環境主義者のコミットメントは、レオポルドに由来するものであり10、 ノートンも自分の議論を展開する際にレオポルドに大きく依拠している。レオポルドは有名な「土地倫理」の章のなかで生態学から得られる知見として、1) 人間は土地という共同体の一構成員にすぎないという認識、2) 生態系の構造と働きについての知識、の二つに触れており、このような見方をノートンもレオポルドから引き継いでいる。
ノートンのこのような収束仮説の議論に基づきつつ、独自の方法論的プラグマティズムという立場を展開しているのが、アンドリュー・ライトである11。 彼の議論もさまざまな論点にわたっており簡単にはまとめられないが、一言でいえば収束仮説に「人間中心主義的な理由に基づいた方が人々は環境保護に向けて 説得されやすい」という経験的事実を付け加えて、「(環境主義者の間で採用すべき政策についての意見が収束している場合には)一般の人々を説得するという 文脈においては、環境哲学者は自らの立場がどのようなものであるかに関係なく人間中心主義的な語彙でもって説明しなければならない(なぜなら環境問題は早 急な解決を要する問題であり、そうする方が人々を環境保護へ向けて動機づけやすいから)」と主張する。つまり、戦略的なレトリックの選択というミューアの 伝統12の上に、現代の環境プラグマティストであるライトも位置しているのである(ライトは自分のこのアイディアについて「戦略的人間中心主義」という言い方をしている)。
問題はライトの議論が、非人間中心主義の主張が人間中心主義の語彙で「翻訳」13可 能とみなしてしまう傾向を持つという点である。いいかえればライトの議論では(少なくとも人々を説得するという、実際の環境問題の解決に役立つことが目指 される場面においては)非人間中心主義は単に必要ないというだけでなく、人々が説得されにくいという理由によって不適切なものとされてしまうかもしれな い。この翻訳可能性によって、非人間中心主義は人間中心主義的語彙によって「汚染」され、乗っとられてしまい、人間中心主義と非人間中心主義の二重性は 「収束」させられてしまうだろう。これを人間中心主義による「汚染戦略」と呼ぶことにしよう。
ライトは環境プラグマティズムに属する論者であり、したがって価値多元主義を(表向きは)主張しているにもかかわらず、彼の 議論は上で述べたとおり一元論的な性格を潜在的に持っている。したがって人間中心主義と非人間中心主義の二重性、いいかえれば非人間中心主義の必要性を確 保するためには、(少なくとも)戦略的人間中心主義によって汚染されることのない、純粋に非人間中心主義的のための余地を見出さなければならないというこ とになる。ではそれはどこに見出されるのだろうか。一つの案を以下で述べたいと思う。
(汚染戦略をとらない)ノートンとライトの議論の特徴の違いの一つは、既に述べた生態学の知見の二つのうち、ライトは第一の 「人間は土地という共同体の一構成員にすぎないという認識」をノートンほど重要視していないように思われるという点にある。実際の環境問題の解決のために 採用されるべき政策や手法の選択を裏付けている、生態系の構造や働きについての知識という第二の知見のみを彼は強調しているのである(だからこそ汚染戦略 をとりうるのだといえる)。したがってライトが軽視している第一の知見が、人間中心主義的語彙によって汚染されない非人間中心主義の余地を確保するための 一つのポイントとなるだろうという見通しが出てくる。
そこで次のように考えてみよう。実際の問題解決のために生態学の知識に依拠しようとするならば、「人間は土地という共同体の 一構成員にすぎない」という生態学的事実を(ライトのように)軽視することはできない。むしろわれわれはこの生態学的事実から全ての(環境倫理学的)議論 を出発させるべきだと。
この事実を認識することは非人間中心主義的な価値観をわれわれに呼び起こす14。ノートンが述べているとおり「生態系の科学は世界観と究極の価値観を変容させる力を持つ」のである15。したがって、われわれは現実の問題解決に従事するだけでなく、同時に人々の価値観の転換させるという二重の戦略に従事する必要があるだろう。そうする場合にはじめて、非人間中心主義の余地が生まれるのである。
ライトのように現実の問題解決の緊急性や重要性を(過度に)強調する問題設定の枠組や文脈の内部では、人間中心主義の「汚染戦略」はある程度の説得力を持ち、また機能するだろう16。だが、そもそも環境に対するわれわれの関係や態度をそのように狭く規定してしまうこと自体(環境問題を解決することの緊急性と重要性を考慮したとしても正当化されないほど)不適切あるいは不十分なのだと、われわれは考えるべきかもしれない17。
1 2008年3月22日に行なわれた京都生命倫理研究会での発表の際には、議論の補助資料としてイヴァン・イリイチのインタビューからの抜粋も配布したが、 本稿では省略した。デイヴィッド・ケイリー 編 (2005) 『生きる意味』,高島和哉 訳, 藤原書店 (David Cayley. Ivan Illich in Conversation. House of Anansi Press. 1992. の翻訳). の第十章「偽神と化した「生命」」を参照のこと。
2 環境プラグマティズムの基本的な主張と論点については、白水によるサーベイがある。白水士郎 (2000)「環境倫理学はどうすれば使いものになるか—環境プラグマティズムの挑戦—」, 『倫理学サーベイ論文集Ⅰ』, 京都大学文学研究科倫理学研究室.
3 Bryan Norton (1991) Toward Unity Among Environmentalists. Oxford University Press. pp. 239-240
5 ロデリック・ナッシュ (1999) 『自然の権利—環境論理の文明史』, 松野弘 訳, 筑摩書房 (Roderick F. Nash (1989) The Rights of Nature: A History of Environmental Ethics. The University of Wisconsin Press. の邦訳).
10 アルド・レオポルド (1997) 『野生のうたが聞こえる』, 新島義昭 訳, 講談社 (Aldo Leopord (1949) A Sand County Almanac. Oxford University Press. の邦訳). に含まれる「土地倫理」の章のなかで、レオポルドは人間と自然の間の道徳的関係の理解に生態学と進化論が重要であるという考えを述べている。
11 Andrew Light (2002) 'Taking Environmental Ethics Public.' Environmental Ethics - What Really Matters, What Really Works. ed. by David Shcmidtz and Elizabeth Willot. Oxford University Press. などを参照のこと。
12 本文中で既に引用したナッシュの主張(1999, p. 121)を参照のこと。
13 ライトは人間中心主義的な語彙を用いて一般の人々に話しかけることを「道徳的翻訳 moral translation」と呼んでいる。
14 われわれはここで、ミューアが野生の白いランの群生に出会った体験、およびシュヴァイツァーがガボンのオゴウェ川を船で旅している時に「生命への畏敬」と いう言葉が閃いたという体験を思い出すべきかもしれない。これらはいずれも人間を超えた何かと遭遇し、それを認識することによって生じた「回心」のエピ ソードといえる。
16 もちろんここで述べている「汚染戦略」やミューアの戦略的なレトリックの選択とはまた別に、人間中心主義者(より正確にいえば、非人間中心主義者ではない 人物)が非人間中心主義的な主張を自らの目的のために利用しようとすることもありうるだろう。ハーマン・E・デイリー (2005) 『持続可能な発展の経済学』, 新田功ほか 訳, みすず書房 (Herman E. Daly (1996) Beyond Growth - The Economics of Sustainable Development. Beacon Press. の邦訳). pp. 28-32. を参照のこと。人びとを動機づけるという実践的な関心が、これらの「戦略」の間で共有されている。
17 レオポルドも問題解決をあせるあまり、価値観の転換(という早急には達成されない課題)に取り組まないことを次のように批判しているのである。「われわれ が知的に重点をおく対象や誠実さ、愛情、信念における内面的な変化が起きないことには、倫理観の重大な変化が起きたためしはない。自然保護がまだ、人間の 行動に触れていないことは、哲学や宗教がいまだにこの問題を扱ったためしがないのが何よりの証拠だ。自然保護をやさしいものにしようとしたばかりに、矮小 化してしまったのである。」レオポルド (1997) p. 327.