コメント 永井均 [104]哲学を偽装した道徳主義に対する批判と道徳主義そのものに対する批判について:確かに両方の要素があると思う。概念変造と倒錯の混在について:確かにこれはレベルが違う話である。 [206]心の状態(の相違)を重くみているというは永井の真意ではない、という点について:私は心の状態(の相違)を極めて重くみている。私は安彦氏と違って、道徳の心理学(とそれに基づく人間精神の成り立ち)に主要な関心を持つニーチェの徒であるから、外面的な同一性では満足しない。だからこそ、この世界においてみんなが実は不道徳という可能性はあるわけだ。しかしまた、社会論への定位そのものを拒否しているというのも事実。 [207]このような安彦風道徳性を大庭氏は真の道徳と認めるかどうか知りたい。わたしは真の道徳とは認めない。そして、認めないが故に、安彦氏に賛成する。(ひょっとするとこの点に、大庭氏と私の共通土俵と、安彦氏との対立があるかも知れない。大庭氏と私は、ともに《キリスト教》徒であり、道徳性に対するその感覚を前提したうえで対立しているから。安彦氏の感覚の違いはこの《論争》の理解そのものに深く響いているかもしれない。) [303]道徳の主張に理由を挙げるときは見せかけの哲学…という点について:見せかけの哲学であるのは「実は後者を意図している」場合だけ。道徳を批判するときも同じ。これはできるだけ区別していくべきだと思う。 [310]「倒錯」という論点は先ほどの心理学の問題に関係する。そうでなければ記述内容は極めて少ない。これはいわば、つい「尊厳」を語りたくなるような人の琴線にだけ触れるような問題。安彦氏の琴線に触れない? [408]論点と何の関係もないが『確実性』204の訳は誤訳ではないか? [413][414]「道徳的であるべき理由などは存在しない」という文には二義性がある。自明であるから理由など問えないという意味と、理由などないのだからべきなどとは言えないという意味と。私はこの場合後者の意味で言ったと思う。 [415][416]ここは再び[206][207]のコメントで述べたようなことが響いている。道徳を守ることは自己利益になる、それ故道徳を守るべきだ、という見解は、私にとって(たぶん大庭氏にとっても)正しいが不道徳な見解なのである。そういう意味で、グラウコンの言うことは概して真理であるにもかかわらず、道徳性が自己利益に一致しないことは道徳の本質からほとんど分析的にいえる、ということになる。 [508]ここで述べられているような安彦氏のスタンスから、大庭氏と私の《直観》のよって来たるゆえんを《解明》してもらえると面白い。たぶんそれが最も生産的であろう。 「五」全体について:私は、自分がいかに生きるべきかといった問いや、世の中がいかにあるべきかといった問いを、道徳との関係で持ったことはかつて一度もない。私にとって、道徳とは始めからその《いかがわしさ》の内実が解明されるべき対象であったにすぎない。だから、それが解明し尽くされてしまえば、私にとって道徳の問題はそこで消滅する。