滋賀大学教育学部心理学教室平成13年度卒業論文集への寄稿より


「わりきれなさ」

     渡部雅之

 今年は、なんといってもアメリカでのあのことに触れないわけにはいかないでしょう。イチローの大活躍…ではなく、同時多発テロのことです。グローバル化が進む現代において唯一とも言える超大国アメリカで起こったこの惨劇は、わが国を含めた世界の多くの国々に、決定的な方向性を与えました。アフガン戦争等のテロ対策がそれです。
 いかなる理由があろうとも暴力行為が決して許されるものでないことは当然ですが、かといってテロリストは悪、我らは善と簡単に二分して考えてしまうことにも、なにか割り切れなさを感じます。まるでアクション映画を観ているような気楽さと興奮が、現実感を希薄なものにしているような気がしてなりません。
 同様の危惧を、オウム真理教のドキュメンタリー映画「A」を監督した森達也氏が述べています。オウム真理教を悪と決めつけて、その対局に安住してしまうことの、ある種後ろめたさです。それは、自分達の中にもオウムに通じる忌むべきものがあるのかもしれない、そうした気づきに対する不安であると言い換えてもよいかもしれません。
 では、なぜ人は二分法的な考えに陥りやすいのか。朝日新聞の塩倉裕記者は,「想像力の壁を越える」と題したコラム(2002年1月10日付,朝日新聞夕刊)の中で、群集心理に自らを委ねてしまう危険を指摘しています。先の森達也氏を始め、宮台真司、高村薫、赤坂真理ら各氏の意見を引いた上で、正しく現実を捉えるためには、「まずは自分を冷ます。そして覚ますことから始めてもいいのかもしれない。」と提案しています。私たちは気づかないうちに、まわりからの熱によって暖められ、冷静な判断ができなくなっているのかもしれないのです。
 さらに、こうした二元論への容易な逃避は、なにも政治問題などの重大な話題に限ったことではありません。イチローの活躍を話題にしたある日の天声人語の記事に対して、相手チームの日本人ファンから表現がマリナーズ側に偏っているとの批判的投稿があったそうです。後日著者は、皆がマリナーズを応援しているのだとの前提に知らず知らず陥って記事を書いていた自分を反省しています。本当に恐ろしいことは、こうした他意のない思いこみの積み重ねから生まれるのかもしれません。
 皆さんが学んだ心理学は、世界やそこに生きる人々の姿をわかりやすく切って見せてくれるのと同時に、「こころ」の奥深い不可思議を教えてくれるものでもあったはずです。大学で4年間学んだことの真の成果も、いくつかの知識を身につけたことよりも、深い洞察能力であってほしいものです。そのためには、世の中の「わりきれなさ」をありのままに受け入れる努力を続けて下さい。曖昧さを抱え続ける苦しみに耐えてこそ、現実を正しく冷静に見抜く目を持つことができるからです。
 「わりきれなさ」の持つ肯定的な意義を、どうか忘れないで下さい。