第7.91号

1999 年 05 月 14 日



二つの「合理性」概念−−J.McDowell的(*001)「道徳的実在論」の批判的検討−−

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安彦一恵

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[01] 或る<状況>にあるとき人は何をなすべきか。この問いに答えて行為するのが「道徳」であるとして、それは、その<状況>の価値的様相に応じて行為するという現象であるとも、あるいは、その<状況>に関する規範に従って行為するという現象であるとも敷衍できる。しかし、そこでさらに、「道徳」の現象に反省的に、そうした行為はそのまま妥当なものかと問うなら、一つの方向として、そこに合理性があるなら妥当であると次には言うことができる。「道徳哲学」−−ないしは「倫理」−−とは、一つの、しかし最も基本的なかたちとして、「道徳」の合理性を問うものであるとも言える。そこには、「道徳」の正当化として、自ら合理性の証示を行なうものに加えて、そうした合理性の証示は不可能だと論証するものも含まれる。こうした作業は、それとして重要だと考えるが、しかしながら我々はここでは、言われるところの「合理性」が果たして一義的な概念であるのかとの疑問のもとで、基本的に異なる二つの「合理性」観念が「道徳哲学」において支配しているということを、その背景をなすものから明らかにしたい。そしてそれは、実はこの<合理性>観念の相違こそが、相互対立を含んで様々な「道徳哲学」を展開させているのだと我々はみているからである。

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(*001) 他に、D.Wiggins,S.Lovibond,M.Johnston,C.Diamondなどがこの立場に属する。Ph.Foot,I.Murdoch(そしてA.MacIntyre)などもこれに近いと我々はみている。日本では、神崎繁(「《徳》と倫理的実在論」『徳倫理学の現代的意義』慶応通信,1994)、菅豊彦(「リアリズムの擁護」『テオリア』31,1992)、石黒ひで(「認識としての感情」『情念と意志』(=『哲学雑誌』,1986))氏が代表的論者である。(back)


一 J.McDowellの議論(一)−−「価値」の客観性−−


[11] 「価値」が客観的であるなら、例えば「窃盗」という現場を目にして、そのうちに「悪」を直観するとして、その<窃盗が悪である>ということが客観的真理であるなら、その直観にそのまま従って例えばそれを告発するという行為を採ることは「合理的」であると言えるだろう。しかしながら、その客観性が自体的真理と同じレヴェルにあるとも言い難い。現代においてもG.E.Mooreなどにはそういう客観性を説く主張がみられなくもないのだが(*111)、これに対しては、すでにヒュームが説いているような「主観説」(*112)の方が説得性が感じられる。そこに、価値について別の意味での「客観性」を主張する議論も出てくることになる。J.McDowellの議論はその代表例である。彼は第一性質・第二性質というロック的枠組みで、単純化して言って第一性質のもつ客観性を価値はもたない、客観性をもつというのは「思い違い(error)」である、あるいは価値は主観が対象に「投影(projection)」したものにすぎないと説くJ.L.Mackie(*113)を批判して、価値は第二性質として客観性をもつと説く。

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(*111) 周知のようにMooreは、広義の「価値」「善」を「善」と「正」とに区別し、前者を「内在的価値」「内在的善」と規定する。この「内在的(intrinsic)」という言葉は用法として多義的であるが、Principia Ethica,Cambridge UP.,1903(但し引用は、ペーパーバックの1971年版を使用(深谷昭三訳『倫理学原理』三和書房,1973))では、目的−手段関係に即して<(自己)目的的>といった意味で使われている。「内在的価値」はしたがって、「それ自体で存在すべきもの」「それ自体で望ましい」とも表現されている。
 Mooreはこの「善」を、同時に「性質(quality)」として把握しつつ、「単純性質」であって、したがって「分析」できないので、およそ「定義不可能」であるとする。そして、「善」を「善いもの(the good)」から区別し、その「善いもの」「に属している(belong to)」「他の[自然的な](註1)諸特性(properties)」によって「定義」することを「自然主義的誤り」であるとする(10)。Mooreによるなら、これは、「黄色いものが光において或る特定の種類の振動を産み出す」(というそれ自身は真である)ことをもって黄色をこの「光の振動」でもって定義しようとするのと同じことである(10)。しかるに、「この光の振動はそれ自身は我々が黄色によって意味するところのものではない。実際、それは[黄色と異なって]我々が知覚するところのものではない」(10)のであって、それゆえ、そうした「定義」は「誤り」なのである。
 Mooreは同時に、「善」をこの「黄色」から区別して、後者が「自然的特性」であるのに対して、それとは異なった「独特の(unique)特性」(21)であるとする。これは通常「非-自然的性質」と呼ばれるが、彼はこの両者を、「それ自身で時間のうちに存在する」(41)ということを基準にして、「黄色」がそうであるのに対して「善」はそうではない、として区別する。したがって善(という特性)は、一定の自然的対象と共に、そのうちにおいて初めて存在する特性なのである。しかしMooreは同時に、同じく非-自然的である「超感覚的実在」(113)(=「形而上学」が主張する「形而上学的存在」(xviii))からも「善」を区別する。そうした「実在」は、自然的性質を自然的実在と呼ぶとすれば、それとは異なった「実在」として「時間」のうちには存在しないと恐らく考えられているであろう。
 Mooreは、こうした「形而上学的実在」をもって「善」を定義することをも−−この区別にもかかわらず−−同じく「自然主義的誤り」と呼んでいる。彼が(むしろ意識して)そうするとき(39)、その理由となっているのは(あまり言及されことのない)次のことである。「それら[形而上学的倫理学が行なう主張]はまた......この倫理的命題が形而上学的である或る命題から帰結するということをも意味している。換言するなら、[そこでは]「何が実在するか」という問いが「何が善いか」という問いになんらかの論理的関係をもっているのである。」(113) Moore自身、引き続いて「私が第二章で、「形而上学的倫理学」を自然主義的誤りに基づいたものと記述したのは、まさにこの理由からである」(113f.)と述べている。
 さてここから見るなら、Mooreの「直覚主義」の本質は、「「これはそれ自身において善である」と主張する真理は、いかなるものであっても、種類において全く独自である、つまり、実在に関するいかなる主張にも還元不可能であって、したがって、実在の本性に関して我々が入手しうるいかなる結論からも影響を受けないままでいなければならない」(114)というところにある。実際、彼自身これを「倫理的真理の独自の本性」と呼んでいる(114)。そうであるなら我々は、Mooreの立場を例えば<非-実在論>とでも呼ばなければならない。だが他方、それはあくまで「反-実在論」とは異なる。(ヒューム的基準で見るなら)後者は、「善」の客観性(心の外にあること)という意味での「実在性」を否定して、逆に主観性(心の内にあること)の事柄にすぎない、とみなすものであるが、「実際、善が一つの感情であるのであれば、それは時間のうちに[それ自身として]存在することになるであろう。しかるに、このゆえに、善を感情だと呼ぶことは自然主義的誤りを犯すことになるのである。」(41)と説くときMooreは、「主観主義」をも排している。
 しかしながら、この立場は、有体に言えば、善は端的に「直覚」の事実であり、それが「真理」であるときは(「実在」との関連づけにおける)いかなる根拠づけからも独立に「真理」であるのだと説くものである。我々はこうしたものとして、Mooreを善の<自体的真理性>を説くものだとみなしている。
 Mooreは論稿"The Conception of Intrinsic Value",in:Philosophical Studies,Routledge & Kegan Paul,1922(深谷昭三訳「内在的価値の概念」前掲書所収)で、(ここでは「善」の代りに「価値」として「美」を採り上げ、その)「美」と「黄色」との区別に関して−−「それ自身で時間のうちに存在する」ということで「黄色」を「善」から区別することをも放棄しつつ−−前説を修正して次のように語っている。

黄色も美も共に、それらを所有するものの内在的本性にのみ依存する述語であるが、黄色がそれ自身内在的述語であるのに対して、美はそうではない。(272)
通常ここは、少し後に語られる−−ここは敷衍して厳密化するが−−
[『黄色』という述語は黄色という]内在的諸特性[を指示するものであって、そういうものとしてそれ]はそれらを所有しているものの内在的本性を記述しているように思われるのに対して、価値の述語は[−−それが指示する内在的特性は存在せず?−−]その意味では内在的本性を記述していない(274)
という箇所と一つにして後半部分に着目されるのであるが、我々は前半の「それらを所有するものの内在的本性にのみ依存する述語」という部分に(なお)注目したい。つまり、Principiaにおいてはそうされたようには、「美」(そのもの)という「特性」(したがって「存在(entity)」)があるのではないのだが、「美しい」はいわば単なる(ノミナルな)述語ではなく、それに対応するもの(「本性」)があるのである。その意味で、「美しさ」はその言葉にのみ即して想定された「主観的」なものではなく、「客観的」なものである。この「客観的」なものに「依存」して「美しい」という述定がなされるのである。
 この論稿にコメントしてC.D.Broadは"Moore's Ethical Doctorine"in:The Philosophy of G.E.Mooreで、Mooreが結局想定しているのは次のようなものだと考えたいとしている。すなわち、
善は......常に、私なら「善-にする(good-making)」と呼ぶであろう一定の非-倫理的特徴(feature)の現存に依存している。或る経験が善である......なら、そのことは決して究極的な事実ではないのである。「何がそれを善にするのか」と問うことは常に合理的である。......我々は事物の特徴を、究極的派生的との二つのクラスに区別することができる。善は確実に、派生的特徴のクラスに属するであろう。(60)
Broardはそして、「快」の経験についても、「何がそれを快にするのか」と問えるので、「快」も同様「派生的特徴」のクラスに属するとする。
 これに対してMooreは"A Reply to my Critics",in:op.cit.で、簡単に言って、「何がAをBにするか」が、Bが「快」である場合と「善」である場合とでは(実は)異なった問いであるとする。すなわち、前者の場合は、「私......が快だと思うのは、この経験のいかなる内在的特徴であるか」と「等値」であって、「この経験のいかなる内在的特徴から、それが快であるということが帰結するか」と「等値」ではない。それに対して後者の場合=「何がこの経験を善とするか」は、「この経験のいかなる内在的特徴から、それが善であるということが帰結するか」と「等値」である。そして、これらの問いの答えである「Cをもつ経験がBである」という「命題」は、前者の場合は「経験的」であり、後者の場合は「必然的」である。(590)
 しかしながら、これはいかなる「必然性」か。論稿"Conception"ではこれは、「もしAがBであるなら、Aに正確に似たものはなんでもBである」(cf.272)と言わ「ねばならない(must)」(271)として論じられているとみなしうる。そこでは、これは「論理的な「ねばならない」[=必然性]」ではない、とされている。しかも、この論稿の終わりの部分にある記述を前提にするなら、「色のついたある斑点が黄色であるなら、それと正確に似た斑点もまた黄色である」ことの「必然性」と、「もしAが美しいなら、Aと正確に似たものはなんでも美しい」ことの「必然性」とが(272)「種類を異にする必然性」(275)とされていると解釈される。
 この箇所は、最近では「随伴性(supervenience)」の問題として論じられている。すなわち、Mooreがここで「論理的ではない」と言うのは「含意(implication)」ではないということであって、その「必然性」は「随伴性」の事柄として捉え直されている。つまり、「黄色であること」や「美しいこと」は事物の「内在的本性」に「随伴」しているのである。J.Klagge,"Supervenience:Ontological and Ascriptive",in:Australasian Journal of Philosophy,66,1988 は「随伴性」を「存在論的」と「帰属的」との二種に区別している。これを手掛りに解釈するなら、「黄色」の場合の「必然性」は「存在論的随伴性」として、「美」の場合の「必然性」は「帰属的随伴性」として捉え直すことができるかもしれない。実際、Hareならそうするであろう。またこれは、先に言及した「内在的諸特性[例えば黄色]は、それらを所有するものの内在的本性を記述しているように思われるが、その意味では、価値の述語はそうではない」(274)という箇所と整合的でもある。例えば小泉仰氏もこの線で、後年のMooreは非-記述説へと繋がっていくと見られている(「十九世紀価値論への挑戦」(岩波講座 哲学 第IX巻『価値』,1968)198f.参照)。
 Mooreは上記論稿の或る箇所(274)で「黄色であること」と「快を含むこと」とを同レヴェルに置いている。そして、後者に関して「......をもつ経験が快を含む」ということが「経験的」であるとされているわけだから、同様「黄色であること」も「経験的」であることになり、そして「......をもつ経験が美しい」ということはこれと区別されて「必然的」とされていることになるという可能性がある。Hareの場合、"x is good"が"x is a"(例えば、x が自動車であるとして「xはスピードがでる」)に「随伴する」のは、その"x is good"と発話する主体のいわば結び付けによってである。発話者が、"x is a"に基づいて、しかし自らがそれを根拠として引き受けて"x is good"と発話するのである。さて、ここに「必然性」があるとするなら、それはいかなるものであろうか。Hareの場合は、言うとすれば、それは(例えば良心の)意志論的必然性とでもいったものであろう。しかし、Mooreの場合もそうだとは解し難い。ここは、認識論的な観点で次のように考えられているとも解釈できる。光の或る一定の振動が(いわばyellow-making natureとして)「黄色」を(知覚において)示すということは、科学的認識に基づいて、一定の観察・実験の蓄積の上で語られるものであり、したがって「経験的」である。これに対して「美」は、存在論的には何らかのもの(いわばbeauty-making nature)に依存しているのではあるが、その何らかのものに「美」が随伴していると−−発話者が意志的に結びつけるのでもなくて−−端的に直覚される。(Broad流に言うなら、この直覚される事実は(「総合的」に)「アプリオリ」な「事実」である(cf.op.cit.66)。(SidgwickがThe Method of Ethics,Macmillan,1874で、「行為」の正・不正についてだが、「直接的に知られるとみなされるのは常に何らかの特定の行為の正さである」とする「知覚的直覚主義」(xxv)が、このMooreの立場の規定として相応しいかもしれない。)(back)

(*112) 例えばこう述べられている。

悪徳は、対象を考察する限りでは、あなたの手を完全に逃れる。あなたが悪徳を見出すことができるのは、あなたの反省をあなた自身の胸中に向け、この[対象の]行為に対してあなたの内で生じる否認の感情を見出すときである。ここには、事実の事柄が存在する。しかし悪徳は、感情の対象であって、理性の対象ではない。悪徳は、あなた自身の内にあるのであって、対象の内にあるのではないのである。......悪徳と美徳とはそれゆえ、音・色や温かさ・冷たさにたとえられうる。後者は、現在の哲学に従えば対象における性質ではなく、心における知覚である。(A Treatise of Human Nature,ed.by L.A.Selby-Bigge,Clarendon Pr.,1888,469)(back)

(*113) J.L.Mackie,Ethics,Penguin Books,1977(加藤尚武監訳『倫理学』晢書房,1990)参照。本書でMackieは、「道徳的価値が客観的であることは、我々の日常的道徳言明が意味するところの一部である。西洋の哲学者達の主流だけでなく普通の人間においても、伝統的となっている道徳概念は、客観的価値の概念である」ことは認めつつも、「客観性の主張は、それが我々の言語と思考のなかにいかに深く沁み込んでいようとも、確証されるものではない」と説く。そして、「言語的・概念的分析は不十分である」として、その自らの主張を、自ら「相対性に基づく論証」「特異性に基づく論証」と呼ぶものを基本とする「思い違い理論(error theory)」として展開する。(35) この「理論」によるなら、価値が客観的であるというのはまさしく「思い違い」である。すなわち、すでにヒュームが認識しているように、「道徳的諸性質の言われるとことろの客観性は、道徳的態度の投影あるいは客体化と呼びうるものから生じている」(42)のである。但し、そこには「社会的な」「圧力」が働いており、また、「客体化を支えるであろう諸動機」として、他者に対して自分の「欲求(wants)・要求(demands)」を「権威」をもって貫徹しようとするという事態が存在している(43)。(back)


[12] McDowellは、第一性質=客観的、第二性質=主観的というロック自身の見方を否定して、まず「色」に即して第二性質が客観的であると説く。色が客観的であるというのは、主観が色を知覚するだけでなく、対象自身が色を「特性(property)」としてもつということである。ロックは第二性質を「我々のうちに様々な感覚を生み出す力」として語っているが(*121)、McDowellはこれを受けて物体自身の色を「傾性(disposition)」と規定する("Values and Secondary Qualities",in:G.Sayre-McCord,ed.,Essays on Moral Realism,Cornell UP.,1988,168. 以下、ページ数のみを挙げるものはこの論稿からの引用である)(*122)。赤で言えば、赤く見えるとき物体がもつ特性を<赤の知覚を生み出す>特性として規定する(*123)。そして彼は、このような「傾性」として「色」は客観的であると説く。例えば「水容性」という特性があるが、これは仮に「水」が存在しなくなるとしてもそれと同時に消滅する特性ではない。「水容性」を特性としてもつ物質はそれ自身としてこの特性をもち続ける。それは、「水容性」が客観的であるということである。<赤の知覚を生み出す>という特性もこれと同じであって、誰も赤を知覚していないとしても存在する、つまり客観的に存在する特性であると確かに言うことができる。

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(*121) An Essay concerning Human Understanding,Book II.Chap.VIII.Sect.X. 参考のため、この節全文を訳出しておく。

第二性質−−第二に。このような性質は、実際は対象自身のうちにおいては無であるが、 対象の第一性質によって、つまり対象の不可視の諸部分の大きさ、形、構造(texture)、運動によって、色、音、味等々として、我々のうちに様々な感覚を産み出す力である。これを私は第二性質と呼ぶ。第一性質・第二性質に第三の種類のものが付け加えうる。それは、ほとんど力であることを許されないのだが、しかし、普通の言い方で満足して私が性質と、ただし区別して第二性質と呼ぶところのものと同様、主体における実在する性質である。というのも、火のうちにある、自分の第一性質によって蜜蝋や粘土に新しい色を付けたり、それらを堅くする力といったものは、火のうちにあって、同じく第一性質......によって私のうちに新しい観念、あるいは暖かさや燃焼の感覚を産み出す力と同様、一つの性質である。それに私は以前には気づいていなかった。(back)

(*122) したがって、McDowell的見解は「新-ロック主義的見解(the neo-Lockean view)」と呼ばれるときもある。例えば、Hookway,C.,"Two Conceptions of Moral Realism",in:Aristotelian Society,Suppl.Vol.60,1986.参照。(back)

(*123) ここには「循環」があるように見える。次段落でみるようにMcdowellは(さらに、)<赤の知覚を生む出す特性>を<赤という特性>であるとするのであるが、脚注6で次のように述べられる。

赤く見えることが理解可能なかたちで赤くあることから独立であるということは、受け入れがたい。第二性質について私が与えている説明と一つにした場合、このことは一つの循環を措定する。
しかしながら、ここで参照されているC.McGinn,Subjective View,Clarendon Pr.,1983によるなら、この「循環」は「問題的」(McDowell)ではない。McGinnはこう説いている。
この循環性は以下のようなものだとされている。すなわち、赤い対象がいかなる種類の経験を産み出す傾性をもつのかを特定するために、我々は『赤』という言葉を使用する必要がある。しかるに、そうであるなら、赤くあることについて、事物がどのように視覚的にみえるかという見地からの傾性的分析は、循環的である、と。(6)
事物の「傾性的分析」は、それが知覚者にいかなる見えを産み出すのかという見地からの分析である。ここからは、或る事物は−−それが赤く見える場合−−それが<赤くある>ということについて、そのことが<赤の見え>に基づいて特定され、そして、その特定に基づいて<赤くある>とされた事態が−−<赤の見えを産み出す傾性>として−−知覚者に<赤の見え>を産み出す、と分析されることになるのである。
 この両< >間の関係は、「<或る対象が赤く見えるということ>が、<その対象が赤であるということ>をentailする」という関係である。その意味で両者は「論理的等値」である。そして、この両< >内には、色が−−あるいは「第二性質」全般的に、例えば「匂い」「冷たさ」等も−−いかなるものであっても、同じ述語が入ってくる。この「『Qである』と『Qに見える』との間の論理的等置」の主張は、しかしながら、「トリヴィアル」ではない。Qに何が入ってくる場合でもこの関係が成立するわけではないからである。この関係が成立するのは第二性質のものが入るときだけである。例えば(第一性質の)「形述語」を入れた場合、この関係は成立しない。第二性質の特徴として言うなら、対象(自身)が或る第二性質をもつということは、その対象が一定の「みえ」を示すことによって「構成」されるのである(8)。McGinnによるなら、ここには「循環」があるとは言っていいが、それは決して「悪循環」ではない(8)。(back)

[13] しかしながら、そうした「傾性」が客観的であるとして、それはロックが言うように(やはり)単なる「物の表面のなんらかのミクロ的な組織的特性」であるのであって、赤く見えるとき物体は<赤の知覚を生み出す>特性をもつということは言っていいとしても、その「特性」(そのもの)は決して<赤という特性>であるわけではないのではなかろうか。これに対してMcDowellは、色は「本質的に現象的性格」(169)のものであって、対象のもつ色が主観においてそのままその色として現象するのだと答える。(*131)

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(*131) McDowellは「現われを額面どおりで受け取ることには何等の障害もない」(168)として、対象はまさに見えるとおりに存在する、赤く見えるならば実際に赤いと考えることに問題はない、とするのであるが、Mackieはこうした考え方を批判している。Mackie(Problems from Locke,Clarendon Pr.,1976)によるなら、第一性質・第二性質の区別に関するロックの考えの基本は以下のように纏められる。

この区別は、心の中の諸観念と......外部の物質的事物の内在的な特徴(feature)との間の対照の見地から定式化される。後者は前者に対して因果的に責任をもっており、したがって我々は、このような内在的特徴を基礎にもつ、これらの諸観念を産み出す力を語ることができる......。この第一性質/第二性質の区別の原理は、第一性質の観念はそれを産み出す力の基礎に似ているのに対して、第二性質の観念はそうではない、ということである。性質について我々がもつ観念は、いずれの種類の性質の観念も、外部の事物における実在的な相違に対応し、それを体系的に表象するのではあるが、我々の観念が、事物において存在するものをかなり忠実に描出するのは、第一性質に関してだけである。(16)

 これを受けてMackieは、「或る別種の特徴、つまり第二性質について我々がもつ観念に似ている完全に客観的な特徴を要請することには理由がない」(18)として、「現われを額面どおりに受け取ること」を批判するのであるが、McDowellはこれにかなり詳細な反批判を加えている。McDowellによるなら、簡単に言えば「Mackieの見解は、[現われを額面どおりに受け取る]素朴な知覚意識を、第二性質を第一性質と取り違えるものだと非難することに帰する」(169)。つまりこういうことである。心がもつ諸観念について、「形」(等)の観念はそれに「似ている」「特徴」が事物の「内在的特徴」として実在する−−その場合、「特徴」は「第一性質」と呼ばれる−−が、「色」(等)の観念は、それに「似ている完全に客観的な特徴」という(第一性質の)実在を想定することは不「整合」ではないが、我々の「経験」がそれを否定している。にもかかわらず我々は我々の「色」観念に「似た」性質が第一性質として実在するとしているが、そうしたものは我々の「虚構」である、とMackieは−−「幻覚」論をモデルとして−−論じているのである。
 McDowellによるならMackieは、「形」はそれに「似た」実在が第一性質として存在するが、「色」の場合は、それに「似た」ものは主観が対象の内に「投影」したものにすぎず、「第二性質」と言うとしても、第一性質とは違って本来実在の性質ではない、としているにすぎない。しかし、この理解の内では実は、「第一性質」は、それに「似た」ものとして主観のうちに現象するものではなく、主観のうちにはいわば概念的なものとして−−Mackieに言わせれば主観のうちに経験の「内在的特徴」(171)として、「志向的(intentional)」(170)* なものとして−−存在するにすぎない。そこでは「観念」は対象と実は「似ている」のではなく、「同一」である(170)にすぎない。対象は主観に対して少しも「現象」していないのである。そこで、経験は、「似た」ものとして、「事物をそれが一定の在り方で存在しているままに表象する」(172)と(なお)考えるとしても、「内在的特徴」ということを保持するかぎりでは、それは「経験の内在的本性にとって強く付加的なもの」(173)としてしか認められない。したがってそれは、「経験そのものにとって外在的であり」、「「経験のうちに読み込まれた」と言うのが自然であるように思われる」ものであるにすぎない(173)。
 ここで、「類似に関するロック的用法を放棄し、第一性質・第二性質は同等に経験的であるとするなら、
現出(manifest)イメージ」[W.Sellars]において対象に帰属させられる特性は全て等しく現象的である、つまり特性はその所有者が現われる傾性をもつ仕方の見地でのみ理解可能である、と想定することへと導かれるであろう。これに対照的な意味で客観的な特性は、その場合、単に「科学的イメージ」[W.Sellars]においてのみ姿をあらわすことができる。(171f.)
しかしMcDowellによるなら、これは「第一性質は客観的かつ知覚可能的という点で独特であるというロックの直観の本質を完全に失ってしまう」。もっとロックに即して考えられるべきである。McDowellによるなら、ロックに即して次のように考えられるべきである。
 色と形とは経験において姿をあらわす。しかしそれらは、−−経験の内在的な特徴でありつつ−−無差別に主観的である、というような特徴によって担われた表象的意味としてではなく......、端的に、対象がもっていると表象される、それぞれ、或る場合には現象的に、別の場合にはそうではないというかたちで表象される特性である。......ロックが、我々の「観念」の実在的な類似という描像をもって一つにしようとしてうまくいかなかったものは、今や分離したままにおかれなければならない二つの概念に分けられることができる。つまり、第一に経験の可能な真理性(veridicality)(経験の対象の先に区別した二つのうちの第二の意味における客観性)。この点では、第一性質と第二性質とは一致している。第二には、経験が対象がもっていると表象する或る特性の本質的に現象的であるのではない性格(対象の第一の意味における客観性)。これは、第一の知覚可能な性質を第二性質から区別する。(172)
ここで言われる二つの「主観性」−「客観性」とは、以下の意味におけるものである。「第二性質は、一定の主観的状態の見地以外では適切には考えられない性質である。したがって、その性格づけが定義する意味において、それ自体として主観的である。これとの自然な対照において、第一性質は、或る物がそれをもつということが、主観的状態を引き起こす傾性の見地以外の仕方で適切に理解可能である。」(170) 前者が「主観的」であるというのは、しかし、「幻覚」がそうであるというのとは別である。これを「第二の意味で主観的」とするなら、それとの区別において「第一の意味で主観的」と呼ぶべきである。(170)
 第一性質は「本質的に現象的であるのではない」ものとして、主観に対して知覚的に現われれると同時に、その現われを超えるところがあると(日常的に)経験されるものである。これに対して第二性質は「本質的に現象的」なものとして、経験において、端的に現われるだけであって、それを超えるところを本質的に(「定義」的に)もたないものである。換言するならそれは、「経験の主観を捨象するならばおよそ考えられないもの」である。T.Nagelの用語で言うとそれは「本質的に主観的」(Mortal Questions,Cambridge UP.,1979,207)なものである。(173)
 McDowellによるなら、Mackieは、これを「客体化」しようとするから、先のような考え方をすることになる。McDowell自身の言い方では、
事物が人に対してどのようなものであると印象づけるのかは、明瞭な意味で主観的な事柄である。事物が人に与える印象は、経験の主観を捨象するなら、およそ考えることができない。さて、[痛み、熱、色の付いた形等々の感覚という経験上の−−cf.Mackie,op.cit,10]内容の諸側面の[Mackieによって]言われるところの支持物(vehicles)を強調する際の動機は、哲学おいては馴染みのあるあの熱望、すなわち、主観性を実在に関する根本的に客観的な考え方の範囲内に収めようという熱望のうちにあるといっていいであろう。内容の諸側面が内在的な構造における諸要素によって担われているというのでなければ、それら諸側面の主観性は切り詰め不可能である。これと対照的に、経験の内在的に表象的であるのではない特徴に帰属させられる必要のある「本質的な主観性」を客体化しようと人は望むかもしれない。その際、或る物に対して主観の側でもつ特別な接近は広く客体的な仕方で考えられる、つまり世界における或る物の存在がそれに対する主観の側の特別な接近によって構成されるのではないと考えられる** 、ということを含む描像を開発することによってそう望む。この動きで考えた場合、「現出イメージ」のもつ現象的性格は一定の馴染みのある描像を用いて説明されることができると想定することが自然なこととなる。その描像においては、対面されている客体的本性のみをもつと考えられる「外部の」実在は、この客観化的な仕方で考えられる一つの構造化された「主観性」を通して経過する。この描像が、第二性質に対するMackieのアプローチの本質を捉えているように思われる。(173f.)
のである。(次へ)
(** McDowellはここに対して−−註22として−−「Bernard Williams,Descartes,Penguin,1978,295を参照せよ」と(のみ)記している。参考のために該当の箇所を訳出しておく。
或る者の意識状態に関する問題の一般的形式はhow is it for A?である、と言うことができる。Aが痛みのうちにある(in pain)かどうか不審に思うなら、我々は想像してAの視点を取り上げて、その視点から、痛みが存在するか否か、痛みが苦痛を与えているか否かの可能性を問うてみる。Aの視点からみて事態がどうであるかというこの考えを、我々はAの経験の内容と呼ぼう。......私がその後、第三人称的あるいは客観的視点に立ち戻って、そこから、Aが痛みのうちにあるとき世界のうちにまさしく何が存在しているかに関して考えを形成しようと試みるなら、その誘惑は、或る漠然とした仕方で、Aの経験の専有的内容を−−かなり安易ではあるが自然なかたちで言うなら、痛みを−−世界のうちに書き入れるという試みである。Aの経験の内容を取り上げて、それを、存在すると考えられる事態としての世界のうちに置き入れるなら、我々が実際試みているのは、how it is for Aから、how it isを抽出し、それをそれ自身で存在する事実とすることである。それはしかし、他人によって想像・推測されることはできるが、Aにだけ接近可能であり、Aに直接知られることができるだけであるという神秘的な特性をもっている。しかしながら、ここには必然的に誤った考えが存在することになる。Aの意識の内容に関する唯一のパースペクティヴは、Aの意識のパースペクティヴである。it is so for A(たとえばit hurts for A)であるとき、専有的なit is soを人が考える唯一の仕方はそもそも、再度Aの視点を採用し、想像的に自分自身を、Aと同じように、it is so(例えばit hurts)と−−それが言語的に表現可能だとして−−言うことによって人が表現する状態に置き入れる、という仕方である。/我々が、第三人称的視点から考えうる世界における客観的事実として必要であるものは、it is so for Aのうちのit is soではなく、it is so for Aそのものである。だが我々は、自然な傾向として、この事実を、自律的な、しかし隠された項として、Aの意識の内容を世界のうちに置き入れる仕方で考えてしまう。......
−−McDowellによるなら、人はこのような「自然な傾向」において「本質的な主観性を客体化し」てしまうというのである。)(back)
 McDowellは、こうした「描像」が「我々から、我々が知覚する対象の第一の(本質的に現象的であるのではない)性質を切り離してしまう」として批判するのであるが、纏めるかたちでは、引き続いて次のように言われる。その「引き離し」がなされると言うのは、「(類似性に訴えることによって)結局、第一性質に関する我々の概念から区別して本質的に現象的な性格を保持することを不可能にしてしまうか、第一性質を知覚が近づきえない単に仮説的なものにしてしまうか、いづれかになるからである。」McDowellはそして、こうした「描像」に対して、「客観的実在に対して経験が開かれているということの満足のいく理解に達すべきであるのなら、我々は、経験の本質的な主観性に関するもっとラディカルな解釈を作らなければならない」とするのである(174)。
 McDowellも(もちろん)、Mackieは「根拠」があるから我々はこうした「描像」を描くことになるとしていることを認めている。引き続いて次のように語られる。
「第二性質に関して我々がもつ観念に似ている完全に客観的な特徴」[Mackie]を要請しないことに対して我々がもつとMackieが考える経験的根拠は、そのような特徴を対象に帰属させることは、第二性質に対して我々がもつ経験を説明するという要求にとって余計だということである。
これを受けるかたちでMcDowellは、我々が次節で紹介する「説明」に関わる議論を展開していくのだが、ここで(予め)、引き続き述べられるところを引用しておく。
私が思うには、対象にこのような特徴を帰属させることが不整合であるというのなら、この経験的根拠は必要のないものとして消え失せてしまう[だけである]。そうではあるがしかし、説明に関して余計ということに基づく論証が、第二性質は間違いなく対象を性格づけるという考えに関して私が提示した法外でない解釈に対して、どのように進行することになるのかを考察することは意味のあることである。それは、問題がむずかしい、あるいは異論の余地のあるものであるからだというのではなく、実在に関する説明的テストはどのように適用されるべきかということにこの論証が投げかける光の故である。(174)

 この点は、次節で問題とするとして、「色」が本質的に「主観的」であるのなら、それが同時に「客観的」である以上、各「主観」の別に即して、同一の事物が様々な色をもつということにならないであろうか。見え=経験としての色であるなら各人において様々であるというのは問題ないが、色が(「第二の意味で」)客観的であるとするなら、事物自身が様々な色をもつというおよそ想像できないことが語られていることになるのではなかろうか。そうでないとしたら、どのようにして「主観的」である色が同時に客観的なのであろうか。カントやフッサールのように共同的主観とでもいったものを同時に想定しているのであろうか。上に引用した「現われを額面どおりで受け取ることには何等の障害もない」に続けてMcDowellは次のように述べている。
或る対象が赤く見えるというかたちであること(An object's being such as to look red)は、特定の者にとって特定の場合にその対象が実際に赤く見えるということから独立である。したがって、赤くあることと赤として経験されることとの間の関係は概念的結合であるにもかかわらず、或る物が赤だという経験は、いずれにしても、経験自体からは独立にそこに存在する或る特性を伴って現在していることの一事例としてカウントされえるのである。(168f.)
これはどういうことか。
 (Hookway,C.は、色に関する「傾性理論」の基本は受容しつつ、従来の(McDowell的)説明が「傾性」を「単線的(singele track)傾性」(op.cit.,199)として考えてきたことを批判して、「洗練された傾性説明」(197)として、「色は複線的(multi-tracked)傾性である」(200)と説く。すなわち、色経験は単に主観的な現象であるのではなく、対象自身の(傾性的)性質として存在するのであるが、それがさまざまな条件下で、様々な現象として経験されると説くのである。前段落での我々の議論は、このHookwayの議論を−−取り敢えずは−−無視したものである。しかし、Hookwayはこの立場から、「色」(そして「価値」)の経験について議論していくのだが、後では我々も、違った視点からであるが彼が「複線的」として取り出した事態を検討することになる。因みにMcDowellに関説した我々の前稿(「「自然の価値」をめぐって」『応用倫理学の新たな展開』(平成7年度科学研究費補助金・研究成果報告書(代表:佐藤康邦))で「傾性」を「美」について、「拡張的な意味で」、(「美感を生みだす」ではなく)「美感を生みだしうる」という性質なら認めてもいい、と述べた(95)のものは、Hookwayの主張と整合的である。−−そうであるとして、McDowellはこのような考え方を採らないのである。)
 McDowellここで、「現在の節全体を通して、私はこの最重要の論稿に大きな恩恵を受けている」として、G.Evans,"Things without the Mind",in:Z.van Straaten,ed.,Philosophical Subject,Clarendon PR.,1980 に言及している。ここではEvansの論証を全面的にフォローする余裕はないが、例えば、「彼が経験したのとまさに同じ種類の現象が、いかなる経験も存在しないときにも生じているだろうということは、どのように可能か」という問い(88)を受けて次のように語られている。
我々は、'It's φ-ing'[McDowellの例で言うなら「或る対象が赤く現象している」]を経験から引き離すことができるが、それは、'It's φ-ing'がそれによって真であるところのものが、或るときに、しかし常にではなく充足される一定の条件によって経験と結び付けられる場合にのみである。'It's φ-ing'という命題はしたがって、その条件が充足されているのなら真であると知覚されうる、ということをentailすると理解されるだろう。そこにある条件の定式化のうちには、知覚に関する一つの理論、あるいは初歩的なかたちの理論が介在している。(89)
、あるいはMcDowellが挙げているページでは、
例えば、主観の経験は規則的でありうる。その場合、一定の他のものが経験されるとき経験されるであろうものに関する様々な条件的ないしは反事実的諸命題を、その主観が表現することが可能になる。これらの諸命題は、それが真であるなら、その主観の自己史における現実の出来事によって真であるのではない。そして、或る対象の実在性がこの現実の出来事によって許されているという主張の基礎であるとみなされていると言っていいであろう。(78)
と語られている。これを受けてMcDowellは「意識が推定する対象[赤いという意識が推定する赤い対象]は、主観的状態がもつ、その対象に関する経験だと意味される単なる虚構であるのではなく、経験されるべくそこに存在している」(170)とするのである。
 だがさらに、これはどういうことか。一つの結論としてEvansは、
或るものが赤であるということに関して結局言えることは、そのことは、ノーマルな条件下で見られた場合それは赤く見えるであろう、ということである。この定式化は、主観的経験から客観的特性への傾性的ルートと呼びうるものを具体化するものである。(98)
と述べている。我々の見るところでは、McDowellが結局語っているのもこれである。McDowell自身は明示的に語っていないが、例えばM.Smith,"Realism,Value,and Secondary Qualites",in:J.Haldane/C.Wright,eds.,Reality,Representaion,and Projection,Oxford UP.,1993は次のように述べている。
色は経験されるべくそこに存在していると思われるという現象論的主張を、我々は認めていると想定しよう。その場合、色は実際に経験されるべくそこに存在していると示すためには、我々は色に関して単に<である/思われる>の区別を行ない、色がこの「である」を充足すると示す、すなわち対象は色が付いていると単に見えるだけではないと示すことができるだけでいい。傾性分析に入ろう。対象がもつ色について我々の経験を基礎にして我々が誤りうる様々な在り方を説明し、したがって、或る対象が実際に色が付いていることと単にそうであると見えることとの間の区別を行なうことを我々に許すことが、まさにその分析の「ノーマルな知覚者において」「一定の条件下で」という一節の役割であるからである。実際、第二性質経験における表象の「現われ」を「額面通り」受け取ることに「一般的な障害は存在しない」と言うときMcDowellが念頭に置いているのは、このことであるように思われる。(240)
McDowellは、「ノーマル」というところに成立する「経験」(見え)のいわば−−検証可能な−−間主観性に依拠して、それを同時に客観性(実在性)としているのである。*** 我々は三節以下で、この「ノーマル」ということを軸としてMcDowellを批判することになる。(back)

* この「志向的」について、Mackie自身は例えば次のように述べている。

観念を志向的対象として扱う見方......。「私は一頭の馬を見る」において「一頭の馬」という語句が多少とも内的対格に似たものであるようなかたちで「見る」といった動詞を用いる成句法が存在する。この成句法の見地で私が見るところのものは、必然的に正確に私が見るとおりのものであるが、その言明は、私が見るところのものは、私がそれを見ていることと独立にそこに実際に存在しているということをentailしない。この成句法を用いるなら、私は翼をもった馬を見る[と言う]ことができるが、そうしたものは実際には存在しない。......これらの志向的対象は、ロックの言う狭い-意味-での-観念が要するところのものの多くを満たす。そして、「観念」という用語のバークリー的用法にはさらにうまく適合する。それらは、正確に我々がそれらを知覚するとおりのものである。それらは、心に依存するものである。......私が第一章で経験的内容と呼んだものを組み立てるのは、この志向的対象である。(op.cit.,47f.)(back)

*** 因みにDummettは、

「見える」の意義[sense]を以上のように[それ自身説得的に]説明すると、説明上の順序としては「赤い(is red)」の方が「赤く見える(looks red)」に先立つことになる。しかるにこのことは、色と、人間的な視覚能力との間に成り立つ密接な関連を説明するための、最も明白なやり方を排除してしまう。実際、「赤」は単にある物理的性質を意味する(signify)だけには留まらない。むしろこの語が、ある観察可能な(observable)性質を意味するのであって、このとき、そのようにこの語がある観察可能な性質を意味するという事実を何とかして救おうとするならば、その最も単純なやり方は、「それは赤い」を次のような仕方で説明することである。すなわち、「それは赤い」とは「それは......の下で、赤く見える」という意味なのだ、というのがその説明である。ところが、すでに「赤く見える」を「赤い」を用いて説明してしまっているのだとすると、逆に「赤い」を「赤く見える」を用いて再び説明することは禁じられざるをえない。この循環......
として、我々が上に問題としたのと同じ「循環」の事態を確認している。(野本和幸他訳『分析哲学の起源』勁草書房,1998,131f.) そして、「この循環から、一体いかにして逃れることができるだろうか」と問う。
 その解答の基本は、
色は観察可能な性質である。しかしそれは、われわれが再認可能なセンス・データを拠り所として色を同定するからなのではない。そうではなく、われわれの色概念が、究極的には、観察によって色を認識するというある種の能力−−これは訓練を積むことによって獲得される−−そのものに基づいているからなのである。(140)
各々の人は、色彩語の意義を構成する当該の認識能力を、標準的視覚を備えた他のすべての人々に共有されるものとして理解しており、そのような認識能力の共有についての理解そのものが、色彩語の意義にとって不可欠な一部を成している(141)
という言い方から明らかなように、「赤い」の「意義」を共有的な「認識能力」において「見える」その「色」として分析することである。
 その際Dummettは、ここで獲得される「赤」の「意義」が「ある一個人の感覚やその他の反応から独立である」という意味で「客観性」をもつが、しかしそれは、「あらゆる人間的な感覚および反応の一切から独立である」「強い意味合いにおける客観性」とは区別される「弱い意味合いにおける客観性」に留まることを認める(140f.)。そして、「ある表面が赤いのは、その表面が、相対的に波長の長い光線を反射し、相対的に波長の短い光線を吸収する傾向を持つ場合である」として、「赤」を「強い意味合いにおける客観性」をもって規定することもできるとする(142)。
 しかし彼は、この規定において確保されるものは「指示[対象](reference)」であって、それは「観察可能な性質」である「赤」の「意義」とは別者であるとする。そして、彼からすればこの「指示」と「意義」との混同を伴いつつ「赤」の意味を物理主義的に規定する行き方を拒否しつつDummettは、「強い意味合いにおける客観性を、現実的な実在(real existence)と混同してはならない」と述べる(142)。「仮に、味が強い意味合いで客観的ではなかったとしても、[例えば]砂糖が甘いというのが実在的な事柄であることを形而上学的[実在論的]に否定してしまったりするのは、まったく正当性を欠いている」のである(142)。
 この見解は、基本的に、上のEvansや、さらにはMcDowellとも同じものである。ここでDummettが言う「実在性(reality)」がMcDowellが「実在論」を言うときの「実在性」でもある。しかし、議論はより正確になっていると言いうる。Dummettは「弱い意味合いにおける「客観的」」について、「これについては、代わりに「間主観的」という語を用いてもよい」と述べている(142)。(back)


[14] McDowellは、価値もこの<赤の知覚を生み出す>特性と同様の「傾性」的特性であり(cf.175)、したがって客観的であると説く。Mackieの場合は、むしろ逆に、価値は第二性質と同じであるから主観的であるにすぎないと説くのであるが(*141)、McDowellはこれを、客観性を例えばプラトン的な自体性として−−自身の言い方では:「第一性質モデル」(178)で−−考えるからそうなるのであって、別の(しかも説得性のある)客観性概念を導入するなら、このように第二性質として客観性を言うことができるとするのである。このようなものとしてMcDowellは、「道徳的プラトニズム」("Noncognitivism and Rule Following",in:S.H.Holtzman/C.M.Leich,eds.,Wittgenstein:To Follow a Rule,Routledge and Kegan Paul,1981,157)だとして古典的実在論は拒否するのであるが、新しいヴァージョンの「道徳的実在論」の代表と見なされている。(*142)

[次へ]

(*141) cf.op.ct.,chap.1.,sec.3.(back)

(*142) このようなMcDowell流の「道徳的実在論」は、例えば、「私がとりわけ依拠するのはリアリズムの立場に立つ経験に基づいた議論であって、その経験が善と結びつき、また偉大な芸術に示される愛や公平さと結びつくのをわれわれは知覚するのである。」(菅豊彦/小林信行訳『善の至高性』九州大学出版会,1992,117)と述べるI.Murdochや、「哲学者達の道徳的盲目性」を批判しつつ、「道徳的注視(attention)が我々の論題である」(The Realistic Spirit,MIT PR.,1995,309)として同じく道徳的知覚に定位して、「実在的精神において、つまり形而上学的要求に奴隷的に従うことにおいてではなく、倫理について考えよう」(23)とするC.Diamondにも共有されている。(back)


二 J.McDowellの議論(二)−−「説明」の妥当性−−


[21] しかしこの説明は、自体的物体とそれを表象する意識という表象論的枠組みに(なお)依拠したものである。McDowellが言いたいのはむしろ、「第二性質は、それを対象に帰属させることが−−それが真であるとして−−対象がもつ一定の種類の知覚的現われを提示する傾性によって真である、とする以外には適切には理解されない特性である。」に続く次の箇所である。「この現われとは、明確に言うなら、どのように対象が知覚的に現われるのかを言うためには、一つの単語[例えば「赤」](註1) をその特性そのものに対して用いることによって性格づけうる現われである。このように、対象が赤くあるということが、その対象が(一定の状況の下で)まさしく赤く見えるということによって存立するものとして理解されるのである。」(168) 実は、この主張の説明として上に示した議論がなされるのであるが、これでもまだ異論が可能であろう。そこでMcDowellは同時に、そもそも「説明」とは何でなければならないかを議論する。

[次へ]


[22] Mackieは、知覚者に赤の知覚を生み出す「物の表面のなんらかのミクロ的な組織的特性」なら−−かつMcDowell同様「傾性」的性質として−−認めるとしても、それが<赤という特性>であることは認めないであろう。その根拠は、−−実は、第一性質であってもその実在を認めなくても構わないのだが、その場合とは違って−−そうした特性を対象に帰属させる(attribute)ことは、「これは赤い」という我々の経験を説明するのには「余計(surplus)」(174)であるということである(*221)。これに対してMcDowellは、簡単に言って−−これがまさにポイントとなるのだが−−「余計」でないと主張する。対象の「表面の組織的特性」に基づく説明を、それはそれとして認めるとしても、自分の「説明」は「余計」でないと主張するのである。そして彼はここで、説明が実在の説明として適切なものであるか否かの「実在に関する説明的テスト」(実在に関する説明のいわば説明力を問うテスト)(174)ということを問題として、それが「いかに適用されるべきか」(174)という観点から「正しい説明的テスト」(175)ということを言い、それは「自分が認めた説明において或るものがそれなりの力を発揮するか否かではなく[−−「表面の組織的特性」であってもこの「力」は発揮する−−]......説明者がその或るものの実在性を整合的に拒否できるか否か」(175)のテストであるとして、対象の赤色が知覚者に赤の知覚を生み出すという説明中の「或るもの」=対象の赤色は、したがってそうしたものを項として含む説明は、「整合的には拒否」できないと主張する。

[次へ]

(*221) McDowellが指摘している箇所でMackieは次のように述べている。

このような[例えば光に関する]理論のどのような展開においても、物質的対象、つまり大気あるいは光のなかに、そもそも我々が聴くとおりの音、あるいは我々が見るとおりの色のようなものである性質が存在すると要請することは、端的に余計である。......我々が見るとおりの色などを光などの物質的対象に文字通り帰属させることは、物理的世界において、我々がもっている感覚・知覚を我々がもつに至るプロセスのなかで進行しているものを説明するのに、いかなる役割をも形成しない。(op.cit.17f.)
(back)


[23] これはどういうことか。McDowellはここで、逆に価値の方に即して第二性質の経験に関するあるべき「説明」を展開する。例証としては、「価値ではないが、決定的な特徴を価値と共有する」(175)ものとして、したがって、それについて言えることが同時に価値についても言えるものとして(cf.176)「恐怖」を採り上げて、次のように説かれる。

[次へ]


[24] 「恐怖のケースは「客観的な恐ろしいこと」の一つの具体例によって引き起こされる機械的な......プロセスの終点状態としても説明されうるだろうが、そう想像することは明らかにグロテスクであろう。我々が「我々自身を理解しようとしている」のであるなら、恐怖というような反応について単なる因果的説明を行なうことは、いずれにしても満足のいくものではないであろう。そういうとき我々が欲しているのは、説明されるものを有意味なものとする説明スタイルである。......我々は恐怖を、そのような反応に値する(merit)対象への反応と見なすことによって有意味なものとする。」(176) 対象の「表面の組織的特性」が感覚器官に因果的作用を及ぼすことの結果として赤の知覚を説明するのと同じように、対象の何らかの特性が及ぼす因果的結果として「恐怖」を説明するなら、その「恐怖」が対象に「相応しい(merit)」感情であるということが出てこない。「恐怖」が「相応しい」感情であるためには対象は「恐ろしいもの」でなければならず、そしてそれは、その対象が「恐ろしさ」という特性を含むということなのである。「そのように、恐怖に関して、我々の生のこの領域において我々自身を理解する我々の能力を示す説明は、恐ろしさというかたちでは実在は何も含まないという主張とは端的に不整合なのである。」(176)(*241)

[次へ]

(*241) この「値する=相応しい(merit)」に基づいた説明が逆に「色」についても当てはまるかどうかについては疑問である。そして、この「説明」が「恐怖」については言えるとしても「色」については言えないのであれば、「色」の客観性についてはなお説明仕切れていないということになる。例えばJ.Dancy,Moral Reasons,Blackwell,1992は、この「説明」が「恐れ」−−そして「価値」−−については言えることを認めつつ、「色」については妥当しないと述べている(160ff.)。(back)


[25] 同じことが「価値」についても言えるのであるから、McDowellによれば、「これは悪い」「告発しなければならない」という(道徳的)「反応」(*251)は、その対象である「窃盗」が、−−色同様、そのうちに知覚者にそうした「反応」を引き起こす「傾性」をもつというかたちで−−客観的にネガティヴな価値をもっているから生じるのであると説明されることになる。そうした道徳的反応、簡単に言って「道徳」は、決してヒュームの言うような「主観的」現象ではないのである。

[次へ]

(*251) 「反応」には、(このように)厳密には「経験」と「意志の傾向」との二つの層がある。cf.ibid.,157,163.(back)


三 McDowellの議論のどこが真の問題点であるのか


[31] 我々の意図はMcDowell批判にあるのだが、それは以上の議論を基本的には認めるところから出発する。換言するなら我々は、(プラトン的な)古典的実在論を前提として、例えばMoore的(*311)にMcDowellは十分実在論的でないと批判するのでも、やはり同様古典的な実在観の前提の上で、逆に価値の実在性を否定してMcDowellを批判するものでもない。

[次へ]

(*311) ただしこれは、"Replay"以前におけるMooreである。"Replay"以後のMooreについては、むしろMcDowellと同じ考え方であるとも解釈できる。(我々は<以後>のMooreについて「知覚的直覚主義」(シジウィック)の規定が相応しいかもしれないとしたが、Butchvarov,P.,"Realism in Ethics",in:Midwest Studies in Philosophy,Vol.7.,1988は、「シジウィックがそう呼んだもの[知覚的直覚主義]は、後期ヴィトゲンシュタイン哲学の影響の下で最近受け容れられている」(402)として、McDowellを「知覚的直覚主義」者として規定している。)あるいはさらに、"Replay"以前においても古典的実在論でないと言えるかもしれないが、("Replay"以後と比較した場合)考え方の枠組みとしてはなお古典的実在論に囚われていた、と言った方が正確かもしれない。(back)

[32] McDowellも、(色の場合と異なって)価値の場合は(典型的に)「異論の余地(contentiousness)」(176)があり、したがって「反応の妥当化(validiation)は論争的である」(177)ことを認めている。「[自分が価値だとする]価値が異論の余地をもつものであると気づくと......自分の当初の傾向と一致しない人々から学ぶべき何かがあるかもしれないと考えるよう語りかけられてくる。[その場合]自分自身を理解したいという望みは、自分の反応が欠陥としてではなくて理解可能になることが必要なら、それを変えようという望みとなる」(177)とも説かれている。しかし直ちに、「[その場合]感受性のある人は、自分の評価的見方が改善の余地のないものであるとは決して自負してはいないのだが、だがそのことは、彼の評価的反応の何らかのものについて、その対象が実際にその反応に値すると思うことを中断させるよう義務づけるわけではない」(177)と語られる。

[次へ]


[33] ここに示されている道徳像は、価値に関する異なった見方に心を開きつつも、そして必要なら自らの価値観を改めるよう努力しつつも、或る時点においては、自らの価値知覚にいわば素直に反応して行為するという在り方である。そうである以上、異なった人々の間で行為の対立が生じることも認識されている。そういう意味で、この道徳像の提示は「相対主義」とも整合的であると言ってもいい。やはり、人々の直接的な価値知覚を超えたところにある絶対的価値を想定すべきなのではなかろうか。そうでなければ「異論の余地」が、従って行為間の「不一致」が残されたままであるからである。しかしMcDowellはこう説いている。「異論性は除去不可能であるとみなされるべきでない、ということに私は理由を見出すことができない。」(177) 異論の余地のない(絶対的)価値を−−例えばプラトンのように(cf.178)−−求めるなら、結局その不在に直面してニヒリズムに陥るだけである。「エラー・セオリー」とか「投影主義」とかいった理論も、その事態を裏面から示すものである。理論はむしろ、「一致」の可能性を説明するものであるべきでないのである。「実在に関する説明テストは一致の要求を切り離す」(177)べきなのである。(*331)

[次へ]

(*331) 「異論の余地」「一致」ということに関して述べられている註35全体を訳出しておく。

異論性は除去不可能であるとみなされるべきでない、ということに私は理由を見出すことができない。この事態から導かれる帰結を挙げるなら、それは、実在に関する説明テストを一致の要求から切り離すことであろう(上の註26で引用したWigginsによる一節を参照せよ)。私が理解する限りでは、この分離はいいことであろう。それは、投影主義に対する抵抗を、良心をもって、相対主義に関するなんらかの不必要な悩みから解放することを可能にするであろう。それはまた、Wittgensteinを参照して、自然なかたちでこのような[投影主義の]立場に立ち至るその誤解、を挫くこともできるであろう。(Blackburn[がそうした誤解の代表例である。]......[彼のそうした誤った理解は、]結果として、真理を合意の事柄にしてしまうようなWittgenstein解釈[である。]......)一致の要求を脱落させる、あるいは少なくとも一観点へと根本的に相対化するなら、方向づけ的なもの(directives)の真理の主張の問題は、Wigginsが少なくとも上記書所収の論稿'Truth,Invention,and the Meaning of Life'において述べているよりも、もっと接近して評価の真理身分の問題に至ることができるであろう。(177)

 McDowellも「[自己]反省」の余地を認めるのであるが、この「一致の要求」の拒否に応じて、それは「内部的反省」に限定されることになる。論稿"Some Issues in Aristotele's Moral Psychology"では、
本稿の目標に関して本質的なことは、この反省は、伝統的な思考モードによって構成される立場の外に踏み出して、反省に外在的なvalidationを与えるものであると考えられる必要はない。哲学的方法に関するアリストテレスの概念と完全に調和すると思われる人がもつ別の行き方が存在する。それは、航海中に自分の船を修繕する船乗りについてノイラートが描いたイメージが相応しいような反省概念である。(Mind,Value,and Reality,1998,36)
として、それを「ノイラート的反省」とも換言している。因みに引き続いて、
アリストテレスを「内部的」(あるいはノイラート的)実在論者として読むなら時代錯誤的であることを私は認めている。しかし、この時代錯誤は対称的なものではない。人の実在論を「内部的」と分類する際のポイントは、近代の哲学的混乱を拒否することだからである。(38)
として、Putnamの「内部実在論」を暗示しているが、私見では、上の「ノイラート的反省」が(いわば標準的な理解として)Rorty的なそれであるのに対して、Putnamの「ノイラートの船」は(実は)Rortyのとはかなり異なっている。拙稿「「相対主義」の克服−−R.ローティに即して−−」(『Dialogica』no.1,1996)参照。(back)


[34] さて問題は、McDowellのこの主張が、道徳現象に関する日常的な見方の(哲学的)解明として妥当であるかということである。McDowellはもちろん妥当だと考えるのだし、S.Blackburn(*341)でさえ、道徳的ディスコースは「実在論的に見える文法」をもつことを認めている("Error and the Phenomenology of Value" in:Essays in Quasi-Realism,Oxford UP.,1993,152)。ただし彼は、にもかかわらずこの日常的見方は、実在論的前提を用いない方がより適切に説明可能であるとする(ibid.,161ff.)(*342)のだが、日常的見方の解明としてはMcDowellの方が「自然」であると言えなくもない(cf.,M.Smith,op.cit.,243.)(*343)。しかしながら、「自然」であるとしても、解明として本当に妥当であろうか。

[次へ]

(*341) Blackburnは、Mackie同様、ヒューム的立場を「投影主義」と呼び、基本的にそれを採用するのであるが、しかし、自分のはMackieのとは異なっているとする。以下、上記論稿(152)に即して彼の立場を簡単に示しておく。
 彼はまずヒューム的立場を以下のように提示する。

道徳性の本性、に関するヒューム的描像、およびその問題点に関する形而上学を投影主義と呼ぼう。この見解によるなら、我々は、事物の自然的諸特徴によって引き起こされる感情や、その他の反応をもっている。そして我々は、世界がこれらの感情に一致する(answer)諸特徴を含むと記述する−−アイスクリームのおいしさがそれが我々に与えてくれる快に一致するというかたちで−−ことによって世界を「飾る、あるいは着色する」。

 しかし、これに続けてMackie(等)との相違を次のように述べる。
したがって言おうと思えば次のように言うことができる。Mackieは形而上学的問題点に関して正しい。そして、道徳的な語彙や概念を別のものに置き換えることによってさらに徹底的であるべきであった。換言するなら、倫理学における投影主義者は、自らの実践的推論を別の仕方で行なうべきである。その[別の仕方のものは言うとすれば]shmoralizing[であって、それ]はmoralizingではないであろう、と。これを修正主義的投影主義と呼ぼう。これに対して、shmoralizingをmoralizingと準-実在論的に同一視する[我々の]行き方がある。......準-実在論は重大に受け止められる[べきである]。なぜなら、投影主義者であっても、見たところmoralizingと同じである実践を自分が行なっているのを見出すことになるからである。もちろん、これらの見解のいずれにも反対するかたちで、いかなるものであっても投影主義は誤りであるとする実在論的非難が存在する。さらに、例えばHare教授によって推し進められている「静観主義的」見解が存在する。それは、真の論点は、道徳的価値に関して客観性をめぐって、あるいは他の仕方で立てられうるものではない、とするものである。
(back)

(*342) Blackburnは、McDowellの「説明」論が(Blackburn流の)投影主義に反撃を行なっているとして、それに反批判を加えている。次のように語られている。

John McDowellは、投影主義による説明らしきものは「余計」であると主張することと、もっといいもの[説明]をすることができていることを示す反対ケースを提示することとによって、[投影主義に]反撃を加えている。この後の方の主張を最初に取り上げよう。実際それは、説明の「関心-相関的な」本性というものを用いて、様々な評決(verdicts)に関する適切な説明が想像的に投影された事態に言及することによって与えられるコンテクストを例として挙げている。「なぜ私はそれがfrightening/funny/appallingだと思ったのか。」[この問に対して]「なぜなら、それはfright/mirth/horrorに値するからだ。」と答えることは、こうした問いの背後にある関心を満足させることができる。「なぜ我々は人間の幸福が善だと思うのか。」[に対して]「なぜなら、それは善であるからである。」[と答えられる場合もそうである。]想像的に投影された事態にここで言及することは、説明において役割を演じている。そしてその役割は、一定のコンテクストにおいては、問いの背後にある欲求を満たしえている。/そうした答えは間違いではない。しかしながらそれは、それだけでは全く愚鈍なものである。比較してみよう。「なぜ我々は1728の立方根は12だと言うのか。」「なぜなら、それは12であるからである。」少なくとも、こうした問いの背後にある動機が、立方根が12であると言うなら、それは規則に反した意外なことになるのではないかという恐れであるのなら、そうした答えはその恐れを和らげることができる。......最初に挙げたケースの場合も同様である。例えば暗闇がfrighteningであると思うことには何か奇妙なところがあるのではないかという疑いがあるのなら、それは、frighteningがあなたが予期しているところのものであろうと言うこと、暗闇はfearに値すると言うことによって、和らげられることができる。しかしながら言うまでもなく、こうしたことをすべて認めるとしても、それは、これらの解答が引き受けることにまったく失敗する他のもっと広い説明関心を認めないことには決してならない。こうした関心からなぜ我々は或る物をfrighteningだと思うのかと問う者は、およそそうした反応は理解できないと思うので問うているのかもしれない。なぜ人間は一体fearを感じるのか、あるいは、或る物がfearに値すると想定するに至るのか。これに対して解答が用意されているのは疑いのないところである。例えば、情動の行動的帰結と、その情動をもつ被造物にとってそれらの帰結が進化論的に見て有利であるということを語るものがそうである。....../こうした説明関心は何らかのかたちで不当であると見なしうるというのだろうか。或る種のタイプの説明はなされてはならない、そうしたものへの欲求は、人間の一切の立場・パースペクティヴの外部にある幻想的な、「外的な」視点を求めるものである、と見なしうるというのだろうか。......これらのより広い説明関心が正統であるとしても、それらは哲学者と自然科学者との間の境界を示している、と言われうるというのであろうか。

 Spreading the Word,Clarendon Pr.,1984,182-189では、さらに、「投影理論」の方を「そのライバル理論」=(McDowell等の)「道徳的理解を知覚に同化してしまう理論」よりも優先させるとして、その際の「三つの動機」(182)を挙げている。第一は「エコノミー」である。道徳の現象の説明において、前者の方が「世界」について要求するところが少ないというわけである。第二は、形而上学的なもの、第三は、「行為の哲学」に関するものである。内容的フォローは措くが、「説明」力(そのもの)からの優劣の議論−−これが実在論vs.反実在論の論争の中心を形成しているのだが−−では、実は道徳的実在論に関して本質的な議論とはならないというのが−−この点はMcDowellも(結局)認めるところである−−、本稿の主張の一つである。(back)

(*343) M.Smithは端的に(のみ)こう述べている。「実在論的に見える文法の最も自然な説明は......確かに以下の点にある。すなわち、実在論的に見える文法は、我々が事物に関してそうだとみなす仕方を反映している......、という点に。」(243)(back)


四 「共同体との一致」をめぐって


[41] McDowellの(道徳観、あるいは価値観(さらには色観)そのものではなくて、その)「説明」のポイントとなっているのは、上の「恐怖」の説明において着目された「値する=相応しい」という感情である。これは日常的に明らかに存在する感情である。しかしながら、この現象は別様にも説明可能であるのではなかろうか。我々はしばしば、例えば小動物に関して、人によって怖がる種類が異なるのを経験している。そしてそれについて、しつけの違いに因ると語られたりする。ここを理論化して(「説明」として)、<この種の動物は怖い>と−−多く態度の提示によって−−親が教え込むから子供も次第にその種の動物を怖がるようになる、つまりそれに「恐ろしい」という特性を帰属させるようになるのだと説明することもできるのではなかろうか。

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[42] これが異論になるとして、しかし、こう言うなら、McDowellもそう言って構わないとするであろう。McDowellからすれば、そもそも主観とはそうした<教え込み>によって初めて成立するのであって、そのようにして成立した(後の)主観にとっては、(特定の種類の動物の)「恐ろしさ」はまさしく事実であるからである(*421)(*422)。異論はさらに分節化される必要がある。議論の飛躍の印象を与えるかもしれぬが、「共同体との一致」を軸としたWittgensteinの議論の検討として、この作業が有効に遂行できると我々は考える。(1) (以下、Wittgensteinからの引用は『全集』(大修館書店)の邦訳を使用する。但し、訳語の最小限の統一化は行なっている。)

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(*421) 我々はここで、リベラリズムの自我観における自我を「負荷なき自我」(M.J.Sandel)として批判して、それに「位置づけられた自我」(同)を対置するするいわゆる共同体主義の義論を念頭に置いている。なお、ここ(および以下)で私が言う「共同体主義」とは、政治哲学において基本概念となっているそれであって、Wittegenstein解釈において端的に「共同体との一致」によって意味が規定されるとする(community viewとも呼ばれる)考え方−−McDowellからすれば、これは契約論的な「合意」に意味を還元するものであって、当然批判の対象となるものである−−を「共同体主義」と言う場合のそれではない。(back)

(*422) Mind and World,With a New Introduction,Harvard UP,1996で例えば、

アリストテレスが倫理的性格の陶冶(moulding)を考える仕方を一般化するなら我々は、第二の自然の獲得によって人の目を理性に最大限に開かせるという観念に到達する。このことに当たる適切な短い英語表現を私は考えることができないが、それはドイツ哲学において教養形成(Bildung)として現われるところのものである。/この講義においてこれまで私は知覚経験を一つの目標課題とみなしてきたが、それは、我々が人間の条件の諸側面について考えるときに陥りがちな種類の断定を記述するためであった。......[こうした断定を提示するものとして、]自然を脱魔法化されたままにする自然主義[(=「科学主義的自然主義」(82))ということを言うことができる]。[この自然主義の影響下で]我々は、第二の自然というまさにその観念を忘却しがちである。私が説いているのは、この観念を再把握することができるなら我々は、前-科学的な迷信あるいは狂暴なプラトン主義には陥ることなしに自然をいわば部分的に魔法をかけられているものとして保持することができる、ということである。これが、私が述べてきた哲学的落とし穴に対して免疫力をもった経験概念の余地を与えるのである。(84f.)
我々の自然は、大部分は第二の自然である。そして我々の第二の自然は、我々が生得的にもっている能力のゆえにのみ自然がもつ在り方ではない。それは、我々のしつけ、我々の教養形成の力も関与して自然がもつ在り方である。(87)
と語られるとき、この<教え込み>を介して成立する自我と、それに相関的な知覚経験が−−そしてそこには(McDowell自身の比喩的言い方で言えば「魔法」として)価値知覚もまた含まれている−−説かれているのが明らかである。(back)


[43] 『探求』206節の「規則に従うということ、それは命令に従うことに類似している。ひとはそうするよう訓練され、命令には一定の仕方で反応する。しかし、いま命令や訓練に対して、あるひとはしかじかに、別の人は別様に反応するとしたらどうあでろうか。そのとき誰が正しいのか。」という箇所にコメントを加えてN.Malcolmは、「この答えはかなりはっきりしている。ノーマルな仕方で応じて行為する人が正しいのである」と語っている(Wittgenstein:Nothing is Hidden,Blackwell,1986,173)。足し算の例でいうなら、「2+2は?」に対して−−「4」と答えるのが「ノーマル」であるとして−−ノーマルに「4」と答えるのが正しいのである。この「ノーマル」という「共同体との一致」が「正しさ」を帰結しているのである。そしてMalcolmは、「これは色の名前に関しても同じである」と言う(ibid.,174)。しかも、色に関して語られているのは、決して単なるネーミングの事柄ではない。色について普通とは異なった言い方をする者は、−−いわば色盲ではなくて−−知覚上の誤りとして「色盲」であるとされている。

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[44] 色を「傾性」として規定するMcDowellも厳密には、「赤」で言うなら−−明示的には述べられていないが、通常はそう読まれているように−−「[標準的な条件下で]ノーマルな視覚に赤の知覚を生み出す傾性」として規定している(cf.,M.Smith,op.cit.,240)。問題は、これを逆に見ると、赤を知覚できない人は「アブノーマル」(Wittgenstein)とされることになるのだが、色とのアナロジーが成立するとされている以上、この「ノーマル」「アブノーマル」ということが価値についても語られていることになるということである。価値についても、美を知覚できない者は「美盲」、「正・不正」を知覚できない者は「道徳盲」とでも語られることになるのか。

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五 Wittgenstein解釈のポイント


[51] 色の場合と価値の場合とは同様にみなすことができるのか。価値についても、美を知覚できない者は「美盲」、正・不正を知覚できない者は「道徳盲」とでも語られることになるのか。Wittgensteinの議論に即してこれを確認する必要がある。そのためには、「アブノーマル」が−−これがすべてのケースについて言われているのかどうか判断できないが−−別の観点から見るならそうでないと認められている可能性があることを(まず)知る必要がある。例えば上の「足し算」も一つの−−「ノーマルな人々」が規則を共有して営まれる−−「ゲーム」と捉えられているのであるが、この側面からは<別のゲーム>ということが考えられている可能性がある。「アブノーマル」とされた人々が、少数であるとしても彼らの間では同一の規則に従っているとき、そこに<別のゲーム>が成立している余地がある。この場合、事態はどうなるのか。学生たちのノートを基にして纏められた『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』(上記邦訳『全集』第10巻所収。以下、引用はすべて第一講義のものである)をテクストとして「美」について語られているところを見ていきたい。

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[52] Wittgensteinは美的評価のゲームが存在し、そのなかで何が「よい」(美しい)かを−−単に主観的な好みとしてではなく、その意味で客観的に−−語ることができると説いている(15節参照(*521))。しかし同時に、同じ美的評価に関するものであっても多くのゲームがあり、複数のゲームを横断しては評価は意味をなさないことも認められている(28,9節参照(*522))。彼はその際、複数のゲームを、異なった時代・文化のゲームとして考えている(25,26節(*523))。そしてさらに、「下宿のおかみさんがある絵をきれいだと言い、わたしがぞっとすると言っても、二人は互いに矛盾しているわけではない」という(いわば標準的にWittgensteinを理解した)一学生の発言を受けてこう語られたとされている。「あるいみでは......二人は互いに矛盾している。......下宿のおかみが「これはぞっとする」と言い、きみが「これはきれいだ」と言うとしても−−それはそれでよいのである。」(36節) 「それはそれでよい」と言われるときは、二人は「異なったゲーム」(29節)を行なっているからだとして、「互いに矛盾している」というのはどういうことか。

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(*521) 「......わたしが仕立業に転じて、まず規則を全部学んだとすると、わたしは全体として二種類の態度をとることになるだろう。(一)リューイが[素人として]「これじゃ短すぎる」と言う。わたしは「いや、これは正しい。規則にかなっている。」と言う。(二)わたしが規則に対する感覚を養う。規則を解釈する。「いや、これ[リューイの判断]は正しくない。規則にかなっていない。」と言うかも知れない。この場合、わたしは、(一)のいみで規則にかなっているこのものについて、一つの美的判断を下していることになろう。......」(back)

(*522) 「ニグロ芸術の伝統とは何であろうか。......わたしにはわからない。フランク・ドブソンのニグロ芸術に対する評価がどのようようにして教養ある黒人の評価に比べられるのか、わたしにはわからない。かれ[ドブソン]にはそれが評価できる、と諸君が言っても、わたしにはまだそのことが何を意味しているのかわからない。かれは「ああ!」というだけだろうか。それとも......。これを評価と呼んでもいいが、教養ある黒人の評価とは全く異なっている。......その黒人のとフランク・ドブソンのとでは全然違った評価なのである。」/「リューイが絵画について教養ある趣味なるものをもっていると仮定せよ。その趣味は、十五世紀に教養ある趣味と呼ばれたものとは全く異なった何かである。全く異なったゲームが行なわれていたのである。かれは当時の人が行なっていたことに対して全く異なったゲームを行なう。」(back)

(*523) 「異なった時代には全く異なったゲームが行なわれる。」/「一つの言語ゲームに属することがらが一つの文化全体なのである。音楽の趣味を記述する際には、子供たちがコンサートを開くかどうか、女がそうするかどうか、それとも男だけがそうするのか、等々を記述しなければならない。」(back)


[53] 引用文中の第一文と第二文とでは、不整合である。もっとも前者には「あるいみでは」という限定が付けられており、それを<特殊な意味においては>とでも、後者を厳密に<その特殊な意味以外の普通の意味では>とでも了解するなら整合化される。(実際Wittgenstein自身前者について「一つの特殊な場合」と語っている。ニュアンスとしては、無視できる思弁的ケースという意味が付けられている。)しかしそうであっても、「あるいみでは......矛盾する」ということは残る。では、どういう「いみ」で「矛盾」することになるのか。Wittgensteinは端的に「異なったゲーム」を言うときそれを異なった「文化」と連動させて語っているが(26節参照)、「それはそれでよい」というのは、両者の間でこの「文化」が異なるからであると考えられる。「矛盾しない」という学生の理解もこの場合成り立つ。だが、「あるいみでは矛盾している」というのは−−ここでは、一方が「ノーマル」、他方が「アブノーマル」とされているのではないであろうから−−どういうことなのか。

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[54] 人はその生活の全体においては決して一つだけのゲームを行なうのでなく、様々なゲームを同時に行なっている。「文化」とは、それらゲームの総体であると見ることもできる。或る人が、この「文化」(の大半)は共有するが、或る一定の領域(例えば足し算)においては<別のゲーム>を営むとき、それがその「文化」を共有する他の人々(「共同体」)から見て「アブノーマル」になるのではなかろうか。逆に、その人が、「文化」をも共有しないときは、或る領域における<別のゲーム>の遂行は(単に)<別のゲーム>を行なっているにすぎないことになると考えられる。であるから、例えば、ヒトにおける「色盲」は「アブノーマル」とされても、(或る種の)動物における「色盲」は(ヒトから見て)「アブノーマル」とはされないのである。動物の場合、ヒトとは「文化」を共有しないからである。

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[55] 互いに異なったゲームが行なわれているというのは、このように「文化」を共有していないということである。しかしながら、この「文化」の非共有は、直ちにはこのような生活空間といったものの非共有と理解されてはならない。Wittgensteinは「異なった時代には全く異なったゲームが行なわれる」(25節)とも述べているが、これはミスリーディングであり、16節(Rheesのノートに基づく脚注)では「人々がしかじかの規則を立てているというのは単なる事実である。われわれは<人々>と言うが、実際には特定の階級のことであった。・・・・・・われわれが<人々>と言うとき、それはある人々のことであった」とも語られている。つまり、少なくとも階級の別の存在という点からみるなら、同一の「時代」(つまり同一の生活空間)に別の「文化」が共存していることの可能性が認められているのである。この場合における「異なったゲーム」の遂行は、(普通「異文化」としてイメージされる)異なった生活空間間での「異なったゲーム」の遂行とは、かなり様相が違ってくる。我々は、ここでは相違が意味をなしてくると考える。そして、上で見た「矛盾」が成立するのはここにおいてである。生活空間を共にしつつ「文化」を共有しないとき−−単に「異なったゲーム」を行なっているのではなく−−(「矛盾」を成立させる)対立関係が存在している。そこには、対立を内包する一つのゲームが遂行されているとも言いうる。

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[56] そうであるとして、「色盲」の「アブノーマル」は(一応)言えるとして、「道徳」の場合は、一定の事柄について異なった判断が下される場合、どちらか(というか少数派)が「アブノーマル」である、ということは直ちには帰結しないのではなかろうか。ここで、例えば利己主義者が「異なったゲーム」を行なっているにすぎないとされる余地はある。我々が言っているのは、これとは異なって、共に道徳ゲーム(道徳という領域で行なわれるゲーム)を行なっているとして、そこで判断が異なるとき、その判断がいかに少数派のものであろうとも、一方が「アブノーマル」であるということは直ちには言えないということである。我々は、「道徳」とは本来、いわば内的に全「文化」を背後にするものであって、したがって相違があるときこの<背後>の相違があるのであって、同一生活空間内で判断の相違を結果しているとき、一方が「アブノーマル」であるということは不可能であると考えている。これが、対立を内包する一つの道徳ゲームをもたらしているのである。(*561)(*562)

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(*561) 因みにBlackburnは、「色」の場合と「価値」の場合とを我々とは別様に区別している。こう述べられている。

「もし、その形が方形であるというのが事実でなかったならば、それが方形であるとは私は思わなかったであろう。」と言うことは可能である。それは、我々が形によって因果的に影響されており、形に関する評決を伝えるのにその影響を使うことができるからである。「もしそれが赤でなかったら、それが赤であるとは私は思わなかったであろう。」と(も)言うことができる。それは、私が、他の人々との関係におけるノーマル性を十分に知っており、それゆえ、或る物が、光のよい条件下では大部分の人々に、それが赤だと言わせる傾性をもっているときにのみ、私はそれが赤だと言う、ということを知っているからである。....../重要な点は、道徳的知覚を語ることは、それ自身では、このような条件法に関するいかなる理論も提供しない、ということである。(op.cit.,161f.)
これは、「色」と「価値」とを区別する場合普通に語られるところでもあるが、こう簡単には言えないと我々は考えている。
 いわばヒトの事実として「色」については「異なった」色覚・色語使用が「アブノーマル」とされており、これに従って我々も「「色盲」の「アブノーマル」は(一応)言える」としたのだが、しかしこれについても、例えばイヌイットなどの、我々が(通常)区別できない(白に関する)微妙な相違を認知できる文化のことを考えるなら、そう簡単には語れない。「一応」と限定を付けたのはそのためである。−−我々が次に考察していこうとするWittgensteinがそうであるように−−半ば思考実験的に、このイヌイットが我々と生活空間を共有すると考えて、そこでイヌイットの色覚が「アブノーマル」であると言えるかというなら、そうは言えないことが分かるであろう。論理的には「色盲」の場合についても同様に考えることができるのであって、したがって、厳密には両者間の区別は存在しないとも言いうる。
 しかしながら、ここでは我々は、ヒトの事実として「色盲」の場合は「アブノーマル」とされていることを前提に、「道徳」の場合は本質的にそうはできないと考えている。事実として「色盲」の人も「文化」の大半は通常知覚の者と共有していおり、そのことに基づいて「色盲」状態を自らも「アブノーマル」として認めている。これに対して異なった「道徳」をもつ者は、本質的には、背後に必ず異なった「文化」を有しており、このことが自らを「アブノーマル」と認めることを不可能にしているからである。(「聾文化」ということが語られる場合がある。これと類比的に「色盲文化」ということを想定するなら、事態は異なってくる。この場合、「色盲」の人も自らを端的に「アブノーマル」と認めることはしないであろう。)
 計算において例えば3×3=6とする者は、−−他の領域においては「ノーマル」に振舞っているとするなら−−「色盲」と同じレヴェルで「アブノーマル」である。この計算上の「アブノーマル」に対して、先の絵画の判断の相違は「アブノーマル」でないと奥雅博氏も述べられている(「ウィトゲンシュタインの美学的批評」『大阪大学人間科学部紀要』第19巻,1993)。但し、氏自身は次のように表現されている。
例えば、自分がたまらなく俗悪と感じ、火中に投じたいと思う一幅の絵を、口を極めて賞賛し額縁の埃を払い、日夜しげしげと眺める下宿の女将との間では、絵画についての対話はほとんど不可能であろう。およそ、どこに話の接点を探すべきか、皆目見当がつかないからである。このような不一致は確かに存在し、不一致の根絶はおよそ不可能であろう。(この不一致はなんら欠陥ではない、欠陥と思えるのは九九の計算におけるように一致すべきである、とする先入見の故である。)(64)

 「アブノーマル」という言葉は−−欧語においても−−、<非平均的(少数派の)>ということと(評価性をともなった)<異常>ということとの二義を併せもっているが、「道徳」の場合でも、異なった見解の者が前者の意味で自らをアブノーマルだと認めることはあるが、後者の意味でそうだということは本質的にありえない、これに対して事実上は、色盲の人は後者の意味でも自らがアブノーマルであるということを認めて(おり、したがって例えばノーマルな知覚体系に自らを適合させようとして)いる、と厳密には言うべきである。(back)


(*562) 「道徳」が「文化」を<背後>としてもつということは、「道徳」がいわば重たい現象であるということを意味しない。あくまで、<背後>から独立的ではない、ということである。例えば、「食べ物を大事にする(従って食べ残しをしない)」という「道徳」は、食糧の不足(あるいは不均等な配分状態)という<背後>と相関的に出て来るものであるということである。この道徳観からすれば、この食糧不足という<背後>上の事態が解決されている場合は、「食べ物を大事にする」ということはいわば実質を失うということを意味する。したがってまた、この場合、(この)道徳は必ずしも遵守しなくてもいいことになる。これに対して、<背後>と独立したものとして「道徳」を考える場合、こうした変化があってもなお「道徳」は遵守しなければならないということになる。<重さ>を言うなら、「道徳」は−−「道徳」そのものというより、「道徳」とのいわば関係の点で−−我々の道徳観における方が<軽い>ということができる。(back)


[57] 「美」についても同様に言える。例えば同じ絵画について全く異なった優劣の判断が下されることがある(*571)。それは、道徳ゲームの場合におけるように一つの対立ゲームを結果することもできる。だから、上の例のように「矛盾」が可能なのであるが、しかし美については、「流派」の違いとして−−ちょうど「異文化」間の場合と同じように−−評価の相違が脱対立化されることがありうる。そしてそれは、そこでは文化的<背後>が−−それがあるとして−−捨象されうるからである。(*572) (Wittgensteinは、だから「それはそれでよい」と言うのかもしれない。)そうした<捨象>がなされるとき、評価の対立は「流派」の違いの事柄だとされ、そして一つの「流派」の内部では客観的な美的評価が可能になり、判断を異にする者は「アブノーマル」である(か、紛れ込んできた別の「流派」の者が「異なったゲーム」を展開しているかである)。

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(*571) 例えばA.Carlson,"Nature and Positive Aesthetics",in:Environmental Ethics,vol.6.,1984 はこう述べている。

ヴァン・ゴッホの The Starry Night は力動的で生動的な後期印象派の絵画である。しかしながら、それがドイツ表現主義の作品として見られた場合、どちらかというと穏健で、多少抑制的であり、さらにはいささか退屈でさえあると見えるであろう。それを適切に評価し、その力動的で生動的な性質を評価するためには、我々はそれを後期印象派絵画として見なければならない。(25)
すなわちゴッホのその作品は、後期印象派と表現主義とのいずれの観点から見るかによって評価がかなり異なってくるのである。(back)


(*572) であるから、例えば日本人であっても、日本画だけでなく西洋絵画も楽しむことができるのである。註(*562)の続きとして言うなら、このように日本人が西洋絵画を楽しんでもなんら奇妙なところがないのに対して、同じく日本人が西洋文化に固有な現象に関わる道徳、例えば「鯨肉を食べない」に−−単に好みとしてではなく−−従うなら、それはかなり奇妙なことである。で我々は、「道徳」を「美」のように(相対的に)自律したものとみなすことを一つの誤りとして「美学主義」と呼ぶが、それはこの<奇妙さ>を伴うのである。
 この<奇妙さ>は決して<慣れ>の事柄ではない。日本人が(現在)西洋絵画を楽しんでも少しも奇妙でなくなっているのは美術史の授業や博物館訪問によってそれに慣れてきたからであるが、我々がここで<奇妙>だというのは、このように主体と事象そのものとの間に成立する事態ではなく、その事象と別の事象との関係性に基づくものである。比喩的に言うが、例えば予防摂取を何回か受けていくうちに注射に慣れてくるが、(そのように慣れてきて、したがってその限りでは人が注射を受けているのを見ても奇妙な行為だとは思わなくなってきていても、)病気と無関係に注射を受けている人を見た場合、おかしなことをする人だと感じられる。我々が言う<奇妙さ>とはこの種のものである。
 この注射でも、マゾヒストかなにかであって、それ自体を楽しむということはありえる。この例が極端だと言うなら、仏教徒がクリスマスをそれ自体として楽しんでいることを挙げてもいい。<美学主義>というのは、この仏教徒がクリスマスを祝うように「道徳」を行うことである。クリスマスは本来宗教儀式であって、つまりキリスト教という事象と関係をもつものでる。仏教徒がクリスマスを祝う場合は、この関係性から切り離されて一つの<趣味>としてその儀式を祝っている。我々は別の所で、「フーコーはさらに、我々も「自己への配慮」の方を先行させるべきであると言う。古典的にはニーチェにも同様の主張があるが、近年、例えばB.ウイリアムズ等、近代の道徳は他者関係のみに極限されたものであると批判して、そこに自己の問題を含ませつつ、(「道徳」より)広い意味での「倫理」を説く論者が増えている。傾向としては古代ギリシアのアリストテレスを源泉とする「卓越主義perfectionism」がその典型である。/この場合しかし、従来は例えば「趣味」の問題として道徳とは無関係とされてきたものが「倫理」の内容に入ってきて、そこに倫理の「美学化」がなされている−−近年のポストモダニズムにおいても、このようなかたちでの美学主義が見受けられる−−、という批判もあることに留意しなければならない。......」(佐藤/溝口編『モラル・アポリア』ナカニシヤ出版,1998,234)と述べたが、「道徳」を独立的=自律的事象をみなすなら、それは道徳を<趣味>化することにもなるのである。但し、この引用文中のポストモダニズムの場合は、まさしく<趣味>としていわば軽い「道徳」を説いているとみなしうるが、我々がここで<趣味化>と言っても、それは<軽さ>を必ず伴うわけではない。例えば、健康増進ということと無関係にひたすら「早起きする」場合は、−−それが<趣味>であったとしても−−かなり<軽さ>が消えてくるであろう。さらに、例えば「嘘をつかない」といったものは、−−場合によっては嘘をついた方がいいということがあるとしても、生き方の姿勢として決して嘘をつかないという場合は、これもまた一つの<趣味>であるとも言いうるが−−(通常は)逆に<重い>ものとなる。
 ケースによるこの<重さ><軽さ>の相違は、我々の言葉で言って<背後>から独立しているという同一の局面上にある。我々はこの<局面>を批判したのであって、<重さ><軽さ>そのものを問題としたわけではない。しかし、これを問題とすることもできる。この相違は一つの言い方では「イデオロギー性」ということから説明できる。<重さ>が在る場合は強いイデオロギー性を伴っている。(通常は<軽い>とされる事柄であっても、そこにイデオロギー性が強く伴われている場合は、<重く>なる。)我々はで、この「イデオロギー性」を〈文化〉として問題としつつ〈道徳の「方法」化〉ということを主張するが、それは、この意味での〈重さ〉の排除を必要とする。(back)


六 二つの合理性−−あるいは「真理」と「方法」−−


[61] しかし、我々の問題は「道徳」である。そこでも、<背後>を共有するときは、多数派の道徳のゲームの規則に従おうとしない者は「アブノーマル」であると言っていい。しかし、<背後>を共有しないときはどうであるのか。「美」の場合のように、それでもその<背後>を捨象できるのか。我々の解釈では、McDowellの主張は、<背後の共有>があるときか、この<背後の捨象>が可能であるときにのみ成立するものである。

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[62] ゲームは−−(遊戯のような)いわゆるゲームの場合は別だとして−−生活形式としては、<背後>をまさしく<背後>として成立しているものなので、その<背後>によって制約されて基本的に規則(体系)は単一である。多数派はこの規則にいわば自然に従っているのであって、この<背後>を共有するかぎりで、この規則に従わない少数派は生活空間内で不整合であり、それゆえまさしく「アブノーマル」となる。(*621) この場合は、McDowellの主張が妥当である。全体的に見てMcDowellは「保守主義」−−但しこれは、政治的概念ではなく、我々の言い方では「解釈学主義」(註2) とでも言えるものである−−であって、その道徳観は同一の生活空間内で<背後>が共有されているような世界に相応しい道徳観である。

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(*621)

料理の規則をなぜ私は恣意的と言わないのか。そしてなぜ文法の規則は恣意的なものだと言いたくなるのか。その理由は、「料理」の概念は料理の目的によって定義されているが、それに反し「言語」の概念は言語の目的によっては定義されない、と考えられるからである。料理の場合、正しい規則とは別の規則にしたがう人は、下手に料理する。しかし将棋の規則とは別の規則にしたがう人は、別のゲームをやっているのである。そして、普通におこなわれているのとは別の文法規則にしたがう人は、だからといって何も間違ったことを話しているのでなく、何か別のことについて話しているのである。(「哲学的文法1」『全集』第3巻,257頁)
Wittgensteinは例えばこう述べているが、我々が言う「生活形式としては」ということは、換言すれば、この<「目的」性をもったものとしては>ということである。「目的」性があるから、それと適合的には「基本的に規則(体系)は単一」なのである。そして、この「規則」−−目的に適合的であるとき、それは「正しい規則」である−−とは「別の規則」にしたがう人は、「目的」に反しており、それゆえ「まさしく「アブノーマル」となる」のである。但し、「料理の規則」も一定の、特定の「文化」の「規則」であるとみなければならない。(したがって、別の特定の文化に属しつつ「別の規則にしたがう人」は、端的には「アブノーマル」ではない。)料理の上手・下手も厳密には、この「文化」と相関的である。(back)


[63] こうした世界においては、客観的に存立している価値に「相応しく」反応する判断・行為が正しいものであり、そしてそれが「合理的」だということになる。その意味で合理的である人が「徳」ある人である。論稿"Virtue and Reason",in:S.G.Clarke/E.Simpson,eds.,Anti-Theory in Ethics and Moral Conservatism,State Univ.of N.Y. Pr.,1989 でMcDowellは、原理の適用として「合理性」を考える行き方を「偏見」として退けて、それに「実践的合理性」を対置している(ibid.,93)(*631)。そして、−−「合理性」を「理由」というところから語って−−「状況が一定の種類の行動を求めるということが、人が[そのように]行動する理由である」(ibid.,88)としつつ、この「要求」への「感受性」を「徳」と規定している(ibid.,88)。(*632)

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(*631) 「原理」の適用として道徳を考えることは、McDowell等の重要な批判点の一つである。この箇所を少しく詳しく訳出しておく。

徳が何を要求するのかについての自分の考えを一組の諸ルールへと還元しようと試みるとき、そのコードをいかに微細に、どれほど考えて描き上げても、規則の機械的適用が間違っていると思われるケースが不可避的に出てくるであろう。そしてそれは、人が自分の心を変えてしまっているから生じることでは必ずしもなく、事柄に関する人の心は、どのような普遍的な定式によっても把握することができないからである。/合理性に関する根深い偏見は、このことを進んで受け容れることを妨害する。[その場合、]道徳的外観は、人の実践的合理性に関する特殊な規定である。その規定が、行為に関して人はどのような理由をもつのかに関する見解を形づくる。合理性は一貫性を要求する。個々の領域における特定の概念は、一貫性という抽象的要求の上で特定の形式を課すことになる。何がそこで同じことを行ない続けていることとみなされるかについての特定の見解を課すことになる。この偏見は、合理性の特定の概念の光のなかで行為することは定式化可能な普遍的原理によって導かれているという見地で解明可能でなければならない、という考えである。
McDowellは、これに続けて
この偏見は、『哲学探求』におけるWittgensteinの、規則に従うという概念についての議論において根源的な攻撃の対象となっている
として、Wittegsteinに言及することになるのである。(back)

(*632) J.Dancy,Moral reasons,Blackwell,1993 は、McDowell,"Virtue and Reason"から「大きな影響を受けた」(126)として次のように語っている。

最後に、理由を与えるという活動を私がどのように理解しているかを展開したい。私の説明は、いかなる包摂理論に対しても意識的に対抗するものである。そして、合理性は専一的に、最良の(最も蓋然性の高い/最も有益な)可能な代案を比較して選択することとして理解されるべきではないということを示したい。/状況の特性の或るものは、人は何をなすべきかという問いにとって有意的である。別のものはそうではない。......この有意的な特徴は際立っている(salient)......或る特徴を際立つものとして見ることは、自分の前にあるケースにおいて人は何をなすべきかに関してその特徴が一つの差異を形成していると見ることである。....../我々が状況に対して記述を与えるに至るとき、様々な際立ちがその状況において我々がどのように進むべきかに関して一つの差異を形成する。......我々が[この記述に際して]行なっているのは、その状況のストーリーを語ることである。我々のナラティヴがその状況がもつ型(shape)を辿らなければならない。....../......少なくとも道徳的ケースの場合、正当化は、このケースを、何らかの仕方で合理的な支持を命令する一定の一般的原理の下に包摂することからのみ成り立っている。[このような正当化観がむしろ通常であるが、そこでは、][状況の]記述は明らかに、このような正当化の事柄を遂行することを意図したものではない。記述と正当化とは別の事柄となっている。私は、正当化に関するこのような説明を、同時に正当化と記述との区別を拒否する。自分が行なった選択を正当化することは、その選択を行なうことに対して自分が見ているところの理由を与えることである。そして、この理由を与えることは、まさに、正しい場所から出発し、正しい仕方で様々な際立った(salient)特徴を提示し続けながら、自分が状況をどのように見ているのかを展開することである。こうすることが、道徳的地平を満たすことである。この理由を与えることにおいて人は、状況を見ている自分の仕方を論証しているのではない。人がしているのはそうではなくて、......自分自身が見ている仕方で状況を見るよう他人に訴えているのである。そしてこの訴えは、出来うる限り説得的にその仕方を展開することから成っている。その際の説得性は、ナラティヴの説得性である。説明における同意を強いる内的な整合性である。我々の目標において我々が成功するのは、我々が描くストーリーが正しいと見えるときである。道徳的正当化はそれゆえ、本性上包摂的であるのではなく、ナラティヴ的なのである。(111-3)

 ここに、「状況」について、それをその「際立ち」(から成り立つ「型」)の知覚に即して一定の仕方で記述することが、同時にその「状況」下でなすべきことの理由−−したがって、そのなすべきことに対する「正当化」−−を与える、という在り方が説かれている。この「際立ち」がつまり直観される「価値」であるとすれば、その直観が直ちに行為の「理由」であることが理解される。したがってまた、「徳」が正しい行為を生むものであるとすれば、それが同時に「状況」を正しく直観する能力でもあることが理解される。McDowellが言う「感受性」とはこの(徳の)能力のことである。(back)


[64] だが、(同一生活空間内で)<背後>が共有されないときはどうであろうか。我々は、基本的には近代世界というのは、<背後>を共有しない世界であると見ている。生活空間が内部分化したということもあるが、さらに、それまで無交渉であった複数の生活空間がまさしく一つの「世界」において、生活空間を単一化する方向で相互に関係せざるをえなくなったということもある。あるいは、近代世界というのは、(いわゆる)「文化」をいわば脱(社会)規範化ないしは私的規範化しつつ、共同性を「文化」の外部で作りだそうとする世界である。そこでは、「道徳」はむしろ、この「文化」と、それに強く規定された「価値」から独立して、一定の規範によってその「価値」志向を統制するものである。いわゆる「共同体主義」−−我々はMcDowellもそうだと見ているのだが−−は、共同性を再び「文化」の事柄としようとするものである。こういう世界において、多数派の(厳密には:だと自らをみなす)者が少数派の者に「アブノーマル」だとして対するとき、そこに一つの独断(独善)的在り方が出てくることにもなる。例えばアリストテレスが「すべての問題やすべての立論を吟味すべきではない......。神々をうやまい、両親を愛すべきか、それともそうでなくてよいか当惑するひとたちは懲罰を必要とする......」(『トピカ』105a(村治能就訳))と語るとき、−−仮に現代における発言であるとすれば−−そこには独断の匂いが出てくる。(*641) この「神々」の代りに現在において(キリスト教徒によって)<イエスをうやまうこと>が(客観的に)正しいこととして、かつ、同じ生活空間内のイスラム教徒に対して言われたとしたらどうなるのか。あるいは少しく「過激」かもしれぬが、先の「窃盗」でも、搾取された「人民」が搾取階級のその搾取の結果である私有財産を「窃盗」するとき、それでもその行為が端的に「悪」だとして「告発」されるのが正しいことなのか。

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(*641) McDowellは例えば"Virtue and Reason"では、「人の感受性が......教育によって変更され、豊かにされうる」(99)/「道徳的進歩に向けて」(105)とも語っているが、そうであっても、それはあくまでいわば途上における事柄であり、完成された状態においては自らの価値の直観に従って行為するという在り方が想定されている。場合によっては人間のいわば永遠の途上性という観点に立って例えば(超越的)宗教的に、自らの直観ではなく神の命令に従って行為するという在り方は排除されている。現代風に「他者」が不在であると言ってもいいであろう。その意味では自律主義的である。我々は自律主義そのものはいいとして、自らの「価値」直観を無効化する用意を含まない限りで、いわば価値観上の自律主義として、(完成された状態においては)自己否定の余地が全くなくなるということを「独断的」として問題としているのである。(back)


[65] こう言うなら、(少なくとも)前者の事例については、相手の立場に立って、その意味で本当に道徳的であるなら、そうした発言は出てこないはずだ、と言われるかもしれない。しかし、そもそも相手の立場に立ちうるためには、自分の身についた習性の必然である<うやまうべきものとしてのイエス>という直観をいわば括弧に入れて、そこで第三者的に考量してみるという態度が先行しなければならないのではなかろうか。自らの(直観的=身に付いた)価値観を一端「中和化」(フッサール)する必要があるのではなかろうか。その意味では(規範)道徳とは逆説的に、自らの価値観の作動を遮断することではなかろうか。

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[66] しかしながら、これだけでは道徳的行為は出てこない。その為には何かが必要である。近代においては、そこに出てくるのが「原理」なのである。そしてそこでは「合理性」とは、何よりも「原理」の属性である。態度の側面で「合理的」ということを言うならそれは、この「原理」を例えば「普遍化可能」(Hare)かどうかテストしようという構えのことである。カントが「道徳法則」を軸として道徳を考えるのも、彼が近代に定位して論を構築しているからである。(因みにカントからすれば「徳」とは、この正当化された原理=「法則」に−−それを「尊敬」しつつ−−従いうる能力であろう。McDowellは、そういうものを単なる「自制(continence)」(ibid.,91)に過ぎないとするのだが。)

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[67] こう言うならMcDowellは−−「相対主義」だという批判は甘受しつつ−−第三者性を「外在的立場」として(177)、かつそこではそもそも「価値」が現象しないと反批判するであろう(*671)。「色がそうであるのと同様、価値というものはbrutelyに−−我々の感受性から独立に−−存在するものではない」(177)と説かれるのだが、しかし我々が言っているのは厳密には、それぞれの特定の「感受性」と相関的に現象する「価値」を−−それが対立を生み出している場合は−−(一旦)疑ってみるべきである、ということである。(*672) そしてさらに言うなら、道徳的ディスコースというのは本来、ほとんど定義的に、「色」の場合と異なって「内在的」にも統制的ディスコースであって、そこに判断の相違が出てくるときは、(自己)懐疑を可能にするものである。McDowellも道徳の「規範性」を認めており(*673)、そこから道徳が統制的であるということに気づくことが可能だったし、あるいは気づいていたのかもしれないが、そこからの必然である懐疑への途を遮断しているのである。或る意味では、McDowellもなお(自らが批判する)自体的実在の観念に囚われているのであって、その前提の上で、自体的実在なるものは存在しない、つまり「brutelyには価値は存在しない」(177)とするのであるが、我々は、価値の対立を、bruteな絶対的価値へと遡って処理すべきであると言っているのではなく、この相対的な価値の現象のレヴェルで、そこに判断の対立がある場合は何らかの規範(「原理」)に従ってその解決を志向すべきであると主張しているのである。

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(*671) 「単なる外在的立場からの説明に自己限定するなら、そこでは価値が我々の視野に入ってこないのであって、我々は我々が求めている種類の理解可能性を欠くことになる。」とMcDowellは述べている。そして同時に、「この限定が許容する何らかの別の種類の自己理解に何らかのより良いところが存在するであろうと想定することに対して、投影主義者達はいかなる理由も与えていない」とするのであるが、これに対してBlackburnは以下のような反論を行なっている。

或る種類のタイプの説明はもたれてはならない、それを求めることは一つの幻想、一切の人間的立場・パースペクティヴの外にある「外在的」観点への欲求である、と考えられるべきなのであろうか。」McDowellのようにそうだと考えることは、「哲学」を「現象論」に切り詰め、例えばホッブズ、ヒューム、マッキーを「自然科学者」と分類してしまうことになる。「残されている哲学的活動は、唯一、何についても現に存在するテーマのヴァリエーションを演奏することだけであって、それ以外のことではない。哲学的鋤は、定義によって、最初の一撃によってそれ返ってしまうものとなる。(op.cit.,163)

 この最後の部分は明らかに『探求』217節の
わたくしが根拠づけの委細をつくしたのであれば、わたくしは確固たる岩盤(bedrock)に達しているのであり、わたくしの鋤はそれかえってしまう。そのときわたくしは「自分はまさにこのように行動するのだ」と言いたくなる。
を念頭に置いたものである。Blackburnは『探求』のこの箇所を否定的な意味で暗示しているのだが、因みにMcDowellは"Wittgenstein on Following a Rule",in:Synthese 58,1984 でこの箇所に逆に肯定的に言及している(360)。(back)

(*672) 先の註(*632)に続けるなら次のようにも言いうる。−−この「感受性」の方から逆にみるなら、これが価値を構成しているとも言いうる。したがってまた、この「感受性」が−−そこから現出する価値が「相対的」だとして−−否定されるなら、およそ「価値」が一切否定されると言ってもいい。「際立ち」=「価値」についてDancyは「建造物」を例に説明を展開しているが(112f.)、我々はここでR.G.Collingwood,An Essays on Metaphysics,Clarendon Pr.,1940の「原因の相対性」(304)の議論を手掛りにしてもう少し考えてみたい。
 こう述べられている。

或る地点を曲る際に車が横すべりして、縁石に衝突して引っ繰り返った。運転者の観点からは、この事故の原因は、曲る際にスピードを出しすぎたことである。そこからの教訓は、もっと注意して運転すべきだということである。国土監察官の観点からは、原因は、道路の表面あるいは反りの欠陥であった。そこからの教訓は、道路の横すべりチェックをする際にもっと注意が払われなければならないということである。自動車製作者の観点からは、原因は車の設計上の欠陥であった。そこからの教訓は、重心がもっと低くなるようにされなければならないということである。(304)
この事例にそくしてCollingwoodは「原因の相対性の原理」(の系)として、「因果判断は、いずれのケースにおいても、多くの可能な特定の「立場」のいずれかの一つに相関的である」(W.H.Dray,Philosophy of History,Prentice-Hall,Inc.,1964,45)と考える。さらには、「立場」は「原因」に対して構成的であると考える。したがって、そもそも「[立場をもたない]単なる傍観者にとってはいかなる原因も存在しない」(307)のである。
 ここで言われる、「原因」「因果判断」「教訓」は我々の問題の「価値」「価値判断」「行為」に対応する。そして、「傍観者」は「外在的立場」に対応する。この対応を考えてみた場合、McDowellの言うことはよく理解できるところである。しかしながら問題は、この対応で言えば、McDowellにおいては−−Collingwoodにおけるのと同様に−−この三つの因果判断のいずれが妥当かということがそもそも問えないというところにある。その場合、こうした事故について責任を問うという例えば「裁判」−−それは事実として行なわれている−−はどういう位置を占めることになるのか。我々は、この「裁判」に当たるものが、−−この点はMcDowellの言うところを認めて、いわば各立場に横断的な中立的(客観的)原因というものが存在しないのと同様、中立的(絶対的)価値も存在しないという前提の下で(も)−−価値の対立の(解決の)場合にも存在しなければならないと主張しているのである。(back)

(*673) A.Gibbardは Wise Choices,Apt Feelings,Harvard UP.,1990 で、McDowellおよびD.Wigginsの議論を批判しつつ次のように述べている。

傾性的分析は、第二性質に関しては機能するが、規範に関しては失敗する。しかしながら、規範判断は、重要な点で第二性質判断と平行関係にある。私が何かを青いと見るとき、私は、それが実際に青いので青いと見ていると普通(normally)想定している。同様に、或る行為が私を怒らせるとき、それが実際に言語道断(outrageous)であるのでそうなのであると普通想定している。私は自分の経験が、事物がある在り方に反応的であると理解している。/だが、なぜそうなのかについて私が自分に語りうるストーリーは、色と規範とでは異なっている。私が理解するところでは、色に関しては、反応性は単純にノーマルな視覚の事柄である。私は、私の感覚にとりあえずの権威を与えている。そして、私の基礎を考察するとき、私は、一つの単純なストーリー、つまり視覚に関しては正しさはノーマリティーであるというストーリーに辿りつく。「それは青く見える」から「それは青い」へと進むとき私が本気で主張するのは、私の色視覚がノーマルであり、かつ条件がノーマルであるということに尽きる。/規範によって支配された反応の場合では、正しさは単なるノーマリティではない。奇妙な髪型は一様に、そして普通は人々を怒らせる、と考えてもいいであろう。しかし、そうした髪型は道徳的に言語道断であるわけではない。我々が怒るのは間違っている。/何が言語道断であるのかに関する私の判断が感情に導かれているというのは、間違いのないところである。私が誰かを怒るとき普通、私は彼が行なったことは言語道断であると考える。怒りを感じることは意味をなすと考える。もちろん、或る場合には、私は私の怒りを錯覚を示すものとして扱う。場合によっては、怒りを感じはするが、そうすることは意味をなさないと考える。しかし普通は、私の判断は感情に合っており、感情を判断の内容を示すものとして扱うであろう。私が思うには、私が怒りを感じるのは、彼が行なったことが言語道断であるからである。私が怒りを感じるのは、彼が行なったことが怒りに値する(merit)からである。要するに、私は私の感情に権威を与えているのである。私がこの感情をもち、そしてそれに従って規範判断を行なうとき、私は現にある私自身に権威を与えているのである。/しかしながら、この二種類の判断の間の対照は決定的である。我々の感情が世界を追跡する仕方に関するストーリーは、単なるノーマリティのストーリーではない。私のノーマルな感情への信頼を説明するのに、私の判断が主張するところはその感情がノーマルであるということに尽きると言うかたちで、端的に意味に訴えることはできない。怒りを感じることは意味をなすと判断するとき、私の怒りを言語道断への反応であるとどれほど扱おうとも、私の判断は規範的なのである。(186-8)

 (J.Dancyも"Two Conception of Moral Realism",in:Atstotelian Society,suppl.vol.,60,1986 で、Gibbard同様「値する」というところを問題として、価値の場合と色の場合とでは相違があると述べている。
色のような第二性質は適切には我々のうちに一定の反応を引き起こす傾性であると考えられる。これに対して、道徳的特性はむしろ、対象が何らかの独自な反応に値する在り方であるとみなされるべきである(184)
とMcDowellは述べているのだと纏め、かつ、厳密には「色」の場合はさらに「ノーマルな状況下で」ということが補われているとして、しかし「価値」の場合は同様に「ノーマルな状況下で」という条件を付すとしても「反応に値する」を「反応を引き起こす」と−−「知覚」の事柄として−−同等視できないとMcDowellを批判する(184)。そして、この「ノーマルな状況下で」を「理想的な状況下で」に置き換えるならば、「値する反応を引き起こす」として同等視できるようになると修正案を提示する。こう語られている。
反応に値するという観念を理解する唯一の仕方は、値する反応を、理想的な条件下で引き起こすであろう反応とみなすことである。......このように私には、行為が値する反応という観念は、理想的な状況下で引き起こす(引き起こす傾性をもつ)であろう反応という観念と同一であるように思われる。(185)
ここで言われる「理想的」には「外的状況(situation)」が理想的であることに加えて「知覚者」が理想的であることも含まれている(178)。我々からするなら、「価値」現象の場合は、この「理想的」というかたちで「規範性」が含まれていることになる。厳密に言うなら、実際には(一つの極限的理念である)「理想」から何分か相違している人間に対して(は)、いわばその「理想」から来る力として「規範性」が存立しているのである。これに対して−−(*641)で見たのと同じことにことになるのだが−−McDowellは「理想」的人間に即して論を展開しているように思われる。したがって同時に、その論においては「規範性」が(実は)宙に浮いているのである。)
 我々が「規範的」と言うのはこの「規範的」のことでもある。McDowellが言う<x(aがbであること)が「値する」>ということは、<xがノーマルだ>ということに尽きるのではなく、<xであるべきだ>ということを含むのである。そういうかたちで、<xへと統べられている>のである。そして我々は、このべきは、第一には他者からのべきとして、そして第二、この他者からのべきへのいわば反措定として自らにおける−−いわば自らの自然の規範化としての−−規範の発生として生じるのであると考える。そして、この自他の二つのべきの対立において、自らの(同時に規範化してもいる)自然への反省も可能になってくる、と考える。Gibbardはこのプロセスを(明示的には)述べていないが、「怒りを感じるとき、私の怒りを言語道断への反応であるとどれほど扱おうとも、私の判断は規範的なのである」として判断の「規範性」を指摘するとき、それは−−対象の価値的直観のその価値性からくる規範性ではなく−−他者からの規範性への反措定としての規範性なのである。また、「我々が怒るのは間違っている」と判断するに至るのも、最初の「言語道断だ」という判断が、他者からの「そうではない」という判断に遭遇し、「私には言語道断であると直観され、そして私の(主観的な)「怒り」の感情に依拠して、−−あなたに反対して−−あなたもそうみるべきであると語ったが、よく考えてみたらそれは誤りであった」というプロセスを経過することによってなのである。
 野矢茂樹氏は、マッギン『ウィトゲンシュタインの言語論』(勁草書房,1990)への「訳者あとがき」で次のように言われている。
『論考』において、規範性はまさに語りえぬものであった。論理空間[−−因みに、『心と他者』(勁草書房,1995,183)では、「ウィトゲンシュタインが「生活形式」と呼ぶもの」が「「論理空間」に呼応するものと言えるだろう」と述べられている−−]を「論理」空間たらしめている規範性は、いわばその「空間」の「外」にあるのである。この点はおそらく『探求』においても変わりはない。だが、『探求』においては、与えられた言語ゲームはもはや唯一絶対のものではない。それゆえ、言語ゲームの「外」はオフ・リミットの沈黙ではなく、さまざまにざわめく他の言語ゲームたちなのである。......比喩的に言えば、規範性とはある言語ゲームが他の言語ゲームと出会うときに初めて姿を現わすものと言えるのではないだろうか。規範性とは間ゲーム的なことがらなのであり、それは、複数のゲームを適切に並べて見せることによって示されるしかないものなのである。それゆえ、言語ゲームがその外を、すなわちいっさいの他の言語ゲームを失ってしまうとき、それは規範性を失うことになる。(339)
McDowell的なWittgenstein解釈がこの「間ゲーム性」を有意味なものとして認めない−−我々からすれば、であるから「規範性」が出て来ないことになるのだが−−とするなら、氏の解釈は、我々と同様にこれに対立するものである。我々も、他の「ゲーム」と−−かつ、生活空間を共有しつつ、したがって「矛盾」の関係にありつつ−−出会うとき、単なる「アブノーマル」に対するときそれが(放置されるのでなければ)単に「訓練」によって矯正されるのと異なって、いわば根拠をもって対抗され、そこに初めて規範性が出てくるのであると考えている。
 しかしながら、McDowellは"Wittgenstein on Following a Rule"in:Synthese,vol.58,no.3,1984−−これはC.Wright編のEssays on Wittgenstein's Later Philosophyというタイトルの特集号である。『理想』617号に、松本洋之氏による各論稿の紹介がある。議論の大要についてはこれを参照して頂きたい。また、この問題に関するMcDowellの議論については、浅岡慎一「規則に従うということ」『哲学論集』32号が詳細な紹介・検討を行っている−−では、「この[Wright的]描像からは一切の規範的なものが消え失せることになる」(341)としてC.WrightのWittgenstein(の「共同体との一致」をめぐる)解釈を批判している。すなわちMcDowellは、規範性ということを強調しているのである。我々は(逆に)McDowellではいわば規範性ということの含意が十分展開されていないという方向で批判したわけであるから、議論はさらに明確化されなければならない。
 Wittgensteinにおいてポイントとなるところは、(例えば)『確実性の問題』(『全集』第9巻)の
証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終わる。−−しかし、ある命題が端的に真として直観されることが終点なのではない。すなわち言語ゲームの根柢になっているのはある種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。(204節)
と語られる箇所である。
 McDowellは、この箇所の解釈として、先の引用文に先立ってこう述べる。
この箇所を次のような線で理解する誘惑が存在する。すなわち、「岩盤」のレヴェル(そこでは正当化が終わりになる)においては、言語行動と(これは疑いないことだが)強制の感情以外の何物も存在しない、と。......
これに続けて「この描像からは一切の規範的なものが消え失せることになる」と述べられるのである。McDowellはここで、この一見妥当な解釈を退けるために、『探求』289節の「ある語を正当化することなく用いるということは、それを正しさなしに用いるということではない」という箇所に注意を促す。Wrightは「正当化なしに」というところだけで「岩盤」を語るのだが、この文の後半を無視しないことが重要だとし、そしてこの「正しさ」として「規範性」が存在するとするのである。
 Kripkeによって「規則」とその「解釈」とのパラドクスとして(も)取り出された問題をMcDowellは「表現」とその「意味」として問題としつつ、(古典的)実在論がいわば自体的に存在する「意味」を語っているとして、Wrightは反-実在論的に「意味」は共同体における人々のいわば単なる一致(「合意(consensus)」)としてのみ存在するとしているのであり、したがって、或る「表現」にその「意味」を与えるについてはいかなる「規範」も存在しないことになるのである、と見る(cf.353)。McDowellによるなら、こうしたWright的解釈は、
ここにある困難な事柄は、掘り進んで地盤(ground)に至るということではなく、我々の前に地盤として存在している地盤を認めることである(Remarks on the Foundations of Mathematics,ed.by G.H.von Wright et al.,Blackwell,1978,VI-31)
というWittgensteinの言を無視するかたちで、「岩盤の下に至ろう」(353)としているのであって、そこに規範が喪失するのである。これに対して、いわば正しく岩盤に留まるなら、そこで従われている「規則」として「表現」を特定の「意味」へと結ぶ付ける「規範」が存在しているのである。
 しかしながら、このことと、「パラドクス」問題についての−−McDowellによれば、それをいわば「解決」するのではなく「解消する」ものとしての−−「規則の解釈ではない把握」(201節)、つまり「規則に盲目的に従う」(219節)ことへの定位とは整合するのか。「盲目的に従う」とき、(McDowellに対する内在的批判として言えば)そこにあるのは(やはり)「強制の感情」(341)だけであって、「規範性」は存在しないのではなかろうか。上では省略した、「この描像からは一切の規範的なものが消え失せることになる」の直前の部分ではこう語られている。「しかし、この一階レヴェルでは、共有されたコミットメントの問題が存在しない。」つまり、「共有されたコミットメントの問題」が存在するというかたちで「規範性」が存在することが暗示されている。これは、どういうことか。
 336頁では、
この[Wright的な]基礎的レヴェルでは、共有されたコミットメントの問題が存在しない。つまり、行動と、それと結びついた意識の流れの、その外にある何物かの権威に従っているという側面の問題が。
と述べられ、併せて、その「問題が存在しない」ということの傍証としてWright,Wittgenstein on the Foundations of Mathematics,Duckworth,1980,220から「共同体そのものにとっては、いかなる権威も、したがって満たすべきいかなる標準も存在しない」が引用されている。ここからみるなら、「意識の流れの外にある何物かの権威に従っている」ことのうちに「規範性」が想定されていると言えるのであるが、我々からすれば、このことの含意がMcDowellではいわば宙に浮いているのである。
 McDowellは339頁では決定的な箇所として『探求』198節に言及し、−−ここでは、201節の「規則」が「道しるべ」として問題とされているのだが−−
わたしはこの[道しるべの]記号に一定のしかたで反応するよう訓練されているから、こんどもそのように反応する
ひとはある恒常的な慣用、ある慣習のあるときに限って道しるべに従う
というところに着目して、同時に第二文は202節の「<規則に従う>ということは一つの実践である」に「対応する」ものだとして、それが意味するところとして次のように述べる。「この訓練とは、一つの慣習に導き入れること(initiation)である。」そしてこれに続けて、
もしそうでなければ、道しるべと行為との間の結びつきの説明は、bruteな動きとその因果的説明以外の何物の説明とも見えないであろう。我々の描像は、我々の実践は道しるべに従っている(によって進む)と語る権利を我々に与える用具を含まないことになるであろう。
と語られる。
 実は、「さて、正確にはこのことはどのように理解されるべきか」として、この後、先にポイントを示したところが展開されるのであるが、我々はここにある「規則に従う」ということと「それへの訓練」との区別に注目したい。人々が「慣習」「実践」として(共通して)「従っている規則」に「訓練」によって「導き入れ」られる際に、「意識の流れの外にある何物かの権威」ということが「規範性」として存立しているのであって、「訓練」が完了し、「共有されたコミットメント」が或る人自身において「慣習」「実践」になっているときは−−いわば「権威」が身体化され−−もはや「外」は存在しない、つまり「規範性」は存立していない、と厳密には理解されるべきであると我々は考えている。しかるにMcDowellは、この「訓練」過程において意識されている「規範性」を、「訓練」終了後にも存在するものとしているのである。(こう言うならMcDowellは、「訓練」によって物事を正しく知覚できるようになったのであって、その知覚が−−したがって物事の「価値」が、でもある−−促すところとして「規範性」が存在するのだ、と反論するかもしれない。しかし、そう見るなら、促されるものの方、つまり意欲・欲求といったものであろうが、その方は「訓練」されなかったということになってしまう。そして、McDowellが結局言っていることになる「規範性」は、この、人におけるいわば訓練された部分において意識される「価値」が(不十分にしか)訓練されていない部分に対してもつ「規範性」でしかない。例えば"Some Issues in Aristotle's Moral Psychology"で「NE 6.13では......。厳密にそう呼ばれる性格の徳は、知性的要素と非-知性的要素との調和的な共在態である。この非-知性的要素は、行為者が、その内容が知性的要素によって自律的に固定される目的の追求によって措定された要求に服従することを保証する」(Mind,value,and reality,39)と語られているが、これで言えば、「非-知性的要素」が「知性的要素」の「要求」に「服従する」−−これができるということは、「非-知性的要素」における一定の訓練を必要とする−−際に意識されるような「規範性」である。しかし、こうしたものであるなら、McDowellが「規範性」がないと批判するWright流の「共同体の一致」においても、「一致」した「知性的要素」が「非-知性的要素」に対してもつことが可能である。我々が問題にしている「規範性」は、これらの言い方で言うと、「知性的要素」(の方)がその外部に対して意識する「規範性」である。これが、「知性的要素」の訓練過程においては存在するのであるが、McDowellが正しい価値直観のいわば主体とする訓練を完了した「知性的要素」においては消失するのである。)
 我々が「道徳」に関して指摘している「規範性」とは、−−「表現」の用い方の場合とは異なって−−「訓練」が完了している者(大人)においても、一定の実践領域において常に−−統制的に−−個人に対して、「外」の、あるいは例えば「良心」として「内」であっても構わないが、いずれにしても何らかの命令する「権威」として関わってくるものから出てくるのである。これがMcDowellには欠如しているというのである。例えばだらしなくて成人に達しても規則を守らない者に対してはなお「訓練」を語っていいとしても、普通の大人に対しては違反する者は単純にサンクションが課せられるだけであろう。(アリストテレスも「懲罰」を言っている。)そして(我々からして)問題なのは、別の「道徳規則」をもって或る規則に反する者の存在である。この場合、規則を説く側は単純に規則やサンクションを持ち出すだけでは済まない。そこでは、自らの規則の方を(一旦)疑がってみるということも必要になる。そしてそこに別の(高次の)規則を志向する場合、(自らの規則と一体となっている)「価値」がいわば機能停止されることも必要になってくるのである。
 こう言うならば、おそらくWittgensteinの立場から−−但し、限定して、そのメイン(の解釈)の立場から−−は外れることになるであろう。Wittgensteinは別の規則を対置してくる者に対しては「説得」しかないと説いているからである。『確実性』では次のように語られている。
私が物理学の命題に従って自分の行動を律していることは、間違いなのであろうか。しかるべき理由は何もない、と言うべきであろうか。それこそわれわれが「しかるべき理由」と呼ぶものではあるまいか。(608節)

その理由を適切とは見做さない人びとにわれわれが出会った、と仮定しよう。われわれはこれをどう考えたらよいか。彼らは物理学者の見解を尋ねるかわりに、神託を問うようなことをするのである。(だからわれわれは彼らを原始人と見做す。)彼らが神託を仰ぎ、それに従って行動することは誤りなのか。−−これを「誤り」と呼ぶとき、われわれは自分たちの言語ゲームを拠点として、そこから彼らのゲームを攻撃しているのではないか。(609節)
さきに、私は他人を「攻撃」するだろう、と言った−−だがその場合、私は彼に理由を示さないであろうか。だがどこまで遡るかが問題である。理由の連鎖の終わるところに説得がくる。(宣教師が原住民を入信させるときのことを考えてみよ。)(612節)
 これは、換言すれば一定のゲームを超えた「理由」は存在しないということである。そこでは、その「理由」を認めない者に対しては、さらなる「理由」、したがってさらなる「正当化」はないのであって、「正当化」は、あるとするなら、いわば繰り返して「理由」を述べるというかたちでしか存在しない。それが「説得」ということである。このことをD.Wigginsは次のようなかたちで説いている。
[私が主張したいのは、]本当に[funny/appalling/shocking/......な]物事は、単に[amuse/appal/shock/......]であるだけでなく、さらに、それらがまさしく[funny/appalling/shocking/......]である故にこれらの効果をもつ事物である[、ということである]。」「[しかし同時に、次のことも主張したい。]この「の故に(because)」は、説明すると共に正当化する説明というものを導入する。(それは、次のように語られる仕方と似た仕方においてである。すなわち、「我々が皆そうなのだが、7+5=12と考える顕著な傾向がある。そして、7+5はいくつなのかに関して実際そう考える以外にないから、この傾向が存在するのである。」ということは、傾向を、それを正当化することによって説明している。(Needs,Values,Truth,Blackwell,1987,199f.)

 この「説得」が受け容れられないときは「不一致」が存在する。Wigginsも、この「不一致」が存在することを認めている(cf.212)。しかしながら、ここで、仮にそれが存在するとしてさらなる(外的な)「理由」に即して「一致」がなされうるとしてもいわば実の伴わないもの−−McDowellはそうした一致を(但し、「表現」の「意味」に関して)「契約論的」と呼んでいる(336)−−である。(Wittgensteinの言葉で言えば[単なる]「意見における一致」である。)これに対して、実のある一致はあくまで、相手が「説得」を受け容れるときにのみ可能である。そしてそれは、(「入信」にも似た)改心を伴うものであって、換言すれば「感受性」の変更を伴い、我々の例で言えば(特定の)「価値」がまさしく「価値」として「感受」されるようになることを含んでいる。(「一致」を言うなら、それはWiggins自身語っているように「感受性における一致」(205)としてしか意味をなさない。)−−しかしながら我々に言わせれば、こう考えることは再び「訓練」モデルを導入することである。(back)


[68] McDowellはこの途を排除していることになるのだが、では、なぜそうなるのか。我々の解釈ではそれは、直観のもつ実質といったものが重視されているからである。「美」の場合はこの<実質>が恐らく本質であろう。そして道徳においても、<背後>を<捨象>することができるのなら、この<実質>に身を委ねることができる。いわば充実感をもって善を行なうことができる。しかしながらそれは、「美学主義」とでもいった一つの誤りであるのではなかろうか。「美」はそれ自身(相対的に)自律した一領域であるが、「道徳」は−−この点では「法」と同様−−我々の「生」の、その営みを(対立を含んだ社会の場面で)統制してそれをよき(快適な)ものへと導くいわば手段ではなかろうか。(*681)

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(*681) 我々の手段的道徳観に対してMcDowell等は「充実感」をもった、その意味で自己目的的な道徳を主張していると言えるのだが、例えばWigginsではこのことは、「生活の意義」−−原語は"meaning of life"であるが、この"meaning"は「意味」というより「意義」と訳出する方が適切である*−−あるいは「生活が意義をもっていること」として説かれている。彼は、「真理の問題と生活の意義の問題とは、道徳哲学の最も基底的な問題に属する」(op.cit.,88)と述べている。そして、道徳的実在論として、道徳的真理が語られるのも、この「生活の意義」との関連においてである。

私が[この論稿において]見出していくのは、生活の意義の問題は......真理の問題へと導かれる、また逆でもある、ということであろう(88)
と述べられている。しかしながら我々は−−次段落でGadamerについて問題とするが−−この場合の「真理(truth)」は日本語ではむしろ「真実」と表記されるのが相応しいものだと見ている。(次へ)
 (* Singer,I.(工藤政司訳)『人生の意味』法政大学出版局,1995 は、註でWigginsへの参照を求めつつ「幸福を立派な生の唯一または最高の基準として用いる哲学者は、人間性にとってもっと重要な意味の探求をなおざりにしている」(172)として「幸福」とは別の事柄として「人生の意味」を問うているが、その際さらに次のようにも述べている。
私が提議している多元性は......。二人の人間がいて、一人は他人の幸福のために働き、もう一人は利己的な自分の快楽しか考えず、おまけに不道徳ときている。しかし、意味のある生き方をしている点では二人は同じだ、と聞かされれば彼らは当惑するだろう。......自分自身にとって意味があるということは、客観的に見て意味があるということとは違うのではないか。もしある人が瓶の蓋や古風なタバコの空缶集めに凝っているとすれば、最大で最上の収集−−『ギネス・ブック』に載るような−−を目指す熱意は彼の人生において意味の源泉にもなるだろう。しかし、だからといって我々は、かれが本当に意味のある人生を生きていると言いたくなるだろうか。......伝統的な叡知は、聖者や英雄の生き方はほかの生き方にくらべ......より大きな意味があるとつねに主張してきた。/これは難しい問題で一考を要する。......伝統的な解釈は正しくもある。なぜなら、英雄の生き方のほうが優れているとする一種の有意味性−−それを意義と呼ぼう−−があるからである。/ここで意味と意義の一般的な違いをはっきりさせることが必要になってきたようだ。(148f.)
我々が「意義」と訳出する方が適切だ、としたことは(さらに)、例えばこのSingerの言う「違い」と関係してくるのではなかろうか。つまり、Wigginsが言う"meaning"とは、例えば単に意味論的なものではなくて価値論的な含意をもつというのに留まるのではなく、さらにSingerが言うような「意義」であるのではなかろうか。)(back)
 註(*001)で挙げたLovibond,S.はWigginsのこの立場に賛同し、かつ我々からすれば共同体主義的なリベラリズム批判と理解しえるものをそれに結び付けて次のように語っている。
Wigginsは講義において、「真理の問題と生活の意義の問題とが本当には道徳哲学の中心問題であるという可能性の探求」に着手している。彼の考えるところでは、これらの[両]問題は、生活における意義を発見する我々の能力が、しかじかの活動性が(内在的に)価値をもつと断言する命題が真理の身分をもつという想定に依存するという点で、密接に関連している。この見解は、「ナイーヴな非-認知論者」の見解......と対照を成す。これは、個々人の生活がもちえる唯一の意義は、その生活を構成している活動性の或るものへの「自由に浮動するコミットメント」の実行によって供給される、と考えるものである。.....この「自由に浮動するコミットメント」は、人間はいかなる活動性であってもそれに道徳的にアンガージュできるという説明を行う非-認知説が、そのために引き合いに出すものであるが、それは、非-認知論者が、世界を道徳の余地をもったものにするために依拠する無意識的党派性に過ぎない。−−しかしそれは、今や言うが、共同体の生活から切り離された個人の生活との関係において見られたものである。(Realism and Imagination in Ethics,Blackwell,1983,7f.)
Lovibondはまた、同様Wigginsに連接しつつこうも述べている。
David Wigginsが行っている「合理性そのものにとって構成的である共有の生活様式」への言及は......我々がいま探求している考えを呼び起こすように思われる。この考えとは、合理性は一般に−−したがって、なおさらのこと道徳的合理性は−−制度において身体化された共有の実践に依存している、というものである。倫理に関する我々の実在論的理論によって提示される「道徳的世界」は、或る意味において、この制度の配置と同一である。というのも、道徳的世界は身体をもたない状態では存在しえないからである。このことは、当の共同体の個々のメンバーがそれら各人の身体から離れては存在しえないのと同様である。」(ibid.,82f.)
因みに彼女は、こうした「道徳的世界」をヘーゲルの「人倫性」に親近的なものともみている。(cf.,63,etc.)
 なお、Taylor,C.−−彼はMacIntyreと並ぶ共同体主義の代表的思想家である−−にも、Wigginsと同様の主張がある。星野勉「「自己同一性(self-identity)」と倫理学」『法政大学文学部紀要』n.41,1995 による紹介・論究を参照されたい。(back)


[69] ガーダマーの「真理と方法」という言い方を借用して言うなら、McDowellが求めているのは「真理」、かつガーダマー的な意味での「真理」である(*691)。それは、日本語としてはむしろ「真」という言葉で表現されるものである。これに対して我々が対置したいのは「方法」としての「道徳」である。しかしガーダマー的な含意を払拭して、−−後期フッサールの科学論を念頭において言うのだが−−「理念」を措定するとして、それを実体化しない、あくまで常に「方法」に留めようとする道徳である(*692)(*693)。McDowellは、「一致」という点から道徳に対してなお科学の方を模範とするB.Williamsを、自体的実在の観念に囚われたものだとして批判しているが(cf.,"Critical Notice:B.Williams,Ethics and the Limits of Philosophy",in:Mind,no.379,1986)、我々からすれば科学が想定する実在とは−−McDowellはMackie等を「第一性質モデル」だとして批判するわけだが(178)、その「第一性質」も−−本来、「方法」として、かつ(道徳的実在の場合に比べて)生産的な「方法」として科学者間の合意において措定されているものである。そのようにして措定される科学の世界は我々に現象する世界からは遠いものである。その意味で、(McDowell的意味で)「有意味」でないと言っても構わない(*694)。だが、それは、その「生」をまさしく生きていくための方法なのである。(*695)(*696)

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(*691) Mind and World,With a new Introduction では、何箇所かでガーダマーが肯定的に言及・引用されている。因みに神崎氏の近著『プラトンと反遠近法』新書館,1999 でも、このことが指摘されている。そのまま引用するが、

マクダウエルは、彼自身の著作『心と世界』において、そのような事態[「世界とわれわれとを隔てる第三者は、存在しないということ」]を「世界に開かれてあること」と呼んでいるが、言語や習慣、慣習的行為や制度といったものは、決して世界とわれわれの間に介在する第三者ではなく、まさに言語浸透的にわれわれと世界を繋ぐものなのである。(39)
という記述に後註として「この点で、マクダウエルが、ガダマーに言及している」(231)と記されている。神崎氏のこの(正しい)指摘との関連で言うなら我々の主張は、そうしたいわば認識観の共通性の基礎に、人生の<有意味性>への志向が「世界」(そのもの)の見方を規定している、というかさらに、そうした<有意味性>を伴って初めて「世界」が成立している、と考える点での共通性が存在しているということである。(back)

(*692)

解釈学の問題は、すでにその歴史的起源からして、近代科学の方法概念によって措定された限界を超えて進む。......解釈学的現象においては、確実な認識の構築が第一義的に問題なのでは少しもない。科学の方法理念にとってはそれで十分なのであるが。しかしながら、解釈学的現象においても認識と真理とが問題である。......[しかし]それはいかなる認識、いかなる真理なのか。/......理解という現象は、科学の内部においても自律的な妥当性をもち、それを科学の方法へと改釈させてしまおうという試みに抵抗している。......以下の研究の立場は、科学的方法性の統制領域を超えるような真理経験を全領域において探求しようというものである。
Gadamerは『真理と方法』「序論」において例えばこう述べているが(Wahrheit und Methode,4.Aufl.,J.C.B.Mohr,1975,S.XXVII)、「近代科学」がその「方法」という在り方においていわば切り詰めてしまう「真理」−−それは、Heideggerの「アレテー」概念をも下敷にした、いわば事柄の<真(の)相>とでも言えるものである−−を探求しようとするものである。その「真理」は、「芸術」をモデルとするような、それを認識していることがそれ自身目的であるようなものである。そしてそこでは、「方法」は否定的な意味をもっている。
 これに対して後期Husserlにおいては、恐らく近代科学の同じ事態を「方法」と呼びつつも、科学をまさしく方法的な仮説といった意味で了解して、その実体化を「客観主義」として批判しつつ、同時にそれを「生」の方法という意味で肯定的に把握してもいる。『危機』において例えばこう語られている。
測定術は実用のなかで、事実として普遍的に入手可能な経験的な意味で堅い物体に即して具体的に確定された一定の経験的な基本形態を、尺度として選び出し、それと物体のその他の形態との間に存立している(ないしは発見できる)関連を介して、この他の形態を間主観的に、そして実用的に一義的に規定する、という可能性を発見する。このことは、最初は比較的狭い諸領域において(例えば畑地の測定術において)生じたが、その後、同様に新しい形態領域に関しても生じた。このようにして理解されるのは、「哲学的な」認識、世界の「真なる」、客観的な意味を規定する認識を求めるという活発となっている努力の継続のなかで、経験的な測定術と、その経験的・実用的に客観化する機能が、実用的な関心が純粋に理論的な関心に転形されることの下で、理念化され、そのようにして純粋に幾何学的な思考手続へと移行していったということである。(Husserliana,Bd.VI,S.25)
「数学と数学的自然科学」という理念の衣、あるいは別様に言うならシンボルという衣、つまりシンボル的に数学的な諸理論は、科学者や教養人達に対して、「客観的に現実的で真なる」自然として、生活世界を代理し、それを覆い隠すすべてのものを含んでいる。この理念という衣は、一つの方法であるものを我々をして真なる存在であると思い込ませる。方法であるというのは、元来は、生活世界における現実の経験や経験可能なものの内部において、ありうる粗野な予見を無限に進歩する「科学的なもの」によって改良するためにだけ、ということである。(ibid.,S.52))
我々が主張するのも、この<生のための方法>という意味においてである。
 丸山高司氏は
ガダマーが語っている「真理」というのは、「主観と客観の関係」において成立するような真理、対象化された真理、いわゆる「客観的な真理」ではないはずである。誤解をおそれずにいえば、それは「主体と主体との関係」においてはじめて成立してくるような真理、いわば「実存的な真理」といったものであろう。......もともと三木は、「客観的な真理性(Wahrheit)」と「主体的な真実性(Wahrhaftigkeit)」とを統合しうるような「真理」概念を捜し求めていた。......こうして、ガダマーの「真理」概念と三木の「真理」概念とが、たがいに重なり合うことになる。(『ガダマー』講談社,1997,238f.)
と述べて、ガーダマーのうちに我々が確認したのと同じ「真理」概念を、しかし我々とは逆に肯定的に読み取り、そしてそれが三木清によっても説かれていることを指摘している。我々もここで、この三木において「真理」がどう語られているのかを見ておきたい。
 三木は例えば論稿『危機意識の哲学的解明』でこう語っている。
思想の性格は対象的な意味における真理性Wahrheitによって規定されるといふよりもむしろ主体的な意味における真実性Wahrhaftigkeitによって形作られる。しかるにそのような真実性は、実をいふと、より根本的な事実的真理もしくは存在論的真理の主観的な、即ち意識における規定を現はすのである。ちやうど存在的真理の主観的な、従ってロゴス的な面を現はすものとして、存在的真理即ち普通にいふ真理の概念から区別されて正しさRichtigkeitの概念が規定されるのと同様である。そのやうな正しさと[、]まこと或ひはほんと即ち主体的真実性[、]とは同じでない。或ることを正しく知るといふこととそれがほんとに分かるといふこととは別である。一方は客体的な関係を、他方は主体的な関係を意味するであろう。いずれにしても正しさ及びまことは認識の内在的な面を表はしてゐる。これに対して存在的真理及び存在論的真理の概念は認識の超越的関係を指すものと理解しなければならぬ。......意識に対して二重の超越が、一面では客体的に「存在」が、他面では主体的に「事実」が考へられるのに相応して、二重の意味における真理の概念が与えられる。超越的なものへの関係を離れて真理はない。正しさが存在的真理の内在的インデックスであるように、まことは事実的真理の主観的インデックスである。真実性はもとより心理的なものでありながら単に心理的なものと考へられないのは、それが超越的な事実的真理のインデックスにほかならぬためである。意識は外において存在によって規定されるのみでなく、内にいて事実によって規定されてゐる。正しいと知っただけではなほ行為的に動かされない、ほんとに分つたときはじめて主体的にはたらきかけられ、かやうにして実践に促され、或ひは自己において自己自身の思想を孕まされるのである。(『全集5』岩波書店,1967,8f.)

 すなわち三木は、「普通にいふ真理」であるとも換言しつつ「対象的な意味における真理性」を措定し、これとの区別において「主体的真実性」を強調する。しかし厳密には、前者を「存在的真理」とも換言しつつ、それ自身ではなく、いわば、それの主観における意識としての「正しさ」の状態を措定しつつ、それとの対比で、それと区別されるものとして「主体的真実性」を想定する。これは「まこと或ひはほんと」とも換言されるが、前者が(三木ではなく)普通に言う事実的真理であるとして、それに対する当為的理念といったものではない。したがって、前者が客観的であるのに対して後者が主観的であるわけではない。「主観的」というなら、両者は、それぞれ一定の、前者は「存在的真理」という、後者は「存在論的真理」という「超越」者の「意識における規定」として共に「主観的」である。ここで認識を対応説的に語るとして、前者の場合は「正しく知る」として、後者の場合は「ほんとに分かる」として両者がそれぞれ真であるのは、それぞれが「超越」者に対して対応の「関係」にあるときである。この両関係は、「一方は客体的な関係を、他方は主体的な関係を意味する」とも言われているが、この「客体的」「主体的」は「客観的」「主観的」と決して同義ではない。
 しかしながら、そうではあっても、「存在的真理」は「存在」、「存在論的真理」は「事実」と呼ばれて区別され、かつ「意識は外において存在によって規定されるのみでなく、内にいて事実によって規定されてゐる」と語られている。共に「超越」者であるとしても、前者が「存在」であるのに対して後者は−−「事実」とは言われているが、カントにも「理性の事実」という言い方があるのであって−−やはり当為であるのではなかろうか。我々の読みでは、そう言うこと自身は必ずしも誤りでないが、言うとすれば、この当為も一つの「存在」である。『表現に於ける真理』では次のように説かれている。
行為の立場に於て[は、]我々に対する客観的世界と云はれるものは既に表現的世界である。この世界に於て物は個別的なもの、独立なものとして既に表現的なものである。この世界に於ける一切のものは創造されたものの意味を有する。それらは表現的なものとして我々の表現的活動に呼び掛ける。この呼び掛けに絶えず応ずることによつて我々の表現的活動は現実性を、従って真理性を得るのである。(同上,137f.)
すなわち、当為あるいは「事実」とは、「存在」と別のものではなく、いわば「行為の立場に於て」対された「存在」そのものである。であるから、ここでは、「事実」=「存在論的真理」の主体的対応物(「真実性」)が「[いわば高次の]真理性」とも言われるのである。(『構想力の論理』では、「善とは対象の側においても主観の側においても真実のあるべき存在を意味し、かくして主観と客観との間の必然的な親和を作り出すものが善である。」(『全集8』,1987,77)として、同じことが善=存在というかたちでも説かれている。)
 我々は、三木がこのようなものとして語る「[高次の]真理性」がガーダマーの言う「真理」であり、そしてMcDowellの言う「実在」でもあると考えているのである。そうであるとしてさらに、上に註(*681)で確認したように、McDowell的道徳観では「真理」が「生活の意義」と重ね合わされているのであるが、まさしくこの重ね合わせが三木においても「性格」概念を用いて示されていると我々は解釈している。例えばこう語られている。
思想がその性格において問題にされるといふことが思想の危機の時代のひとつの特徴である。......[認識]価値の見地からみると、或る思想について問題になるのはただ、真であるか偽であるかといふことである。しかるに思想の危機の時代においては一定の思想について何よりもその真偽が問題にされるのでなく、むしろ主としてその思想が善いか悪いか、穏健か危険か、進歩的か反動的か、等々が問題にされる。すべてこの種の言葉は思想の性格を表はすものと見ることができる。思想の価値判断よりも性格批判ともいふべきものが特にこの時代においては問題になるのである。(『全集5』,3f.)
思想の性格は対象的な意味における真理性Wahrheitによって規定されるといふよりもむしろ主体的な意味における真実性Wahrhaftigkeitによって形作られる。(同,8)
として、「思想の性格[性]」というところから先の真理論も展開されることになるのである。
 「レトリック論」の側面から三木を高く評価する小畑清剛氏は、−−「真理性」に対してさらに「真実性」を説くものとして(我々同様)三木を理解しつつも−−「丸山は、三木とガダマー哲学の親縁性を重視するが、三木が「弁証法(弁証法的推論)」である「レトリック」を、一方で「分析的推論」である「形式的論理学(純粋に論理的な思考)」と対置し、他方で「有機体説」である「ヘルメノイティーク(解釈学)」と対置するという二正面作戦を展開していることに注目するならば、やはり三木とガダマーの思想は基本的に相容れないと考えるべきであろう。」(『魂のゆくえ』ナカニシヤ出版,1997,14)と述べられている。これは我々としても検討しなければならないところであると考えているが、ここでは(取り敢えず)「真実性」の主張の点での共通性は(やはり)言えるとだけ述べておく。(back)

(*693) Mackieは「道徳は発見されるべきものではなく、作られるべきものである」(op.cit.,106)と述べているが、「方法」としての「道徳」という見方をする我々からすれば、この規定は−−<では、何のために「作られる」のか>という問いを伴うかたちで、道徳を超える目的の存在を含意するものとして−−評価できるところである。因みにWigginsは、我々のこの<方法としての道徳>をまさに正面から批判している。こう述べられている。

道徳を人間の福祉(welfare)の道具あるいは手段とみなすことはもはや不可能である。人間の福祉の機能なら、他の道具や手段によっても等しく同様に果たされるであろう。(354)
単純化して言うなら、ここにあるのは<(自己)目的としての道徳>なのである。
 しかしながら、Wigginsがこう言うとき、一定の前提がある。すなわち先行してこう語られている。
人間が関わっている出来事はよりよくではなくより悪いことになる傾向をもっており、人間はこうした傾向と戦わなければならない。道徳の内容はこの必要によって制約されている。G.J.Warnockのような著者達は、こうした事態に言及している。[しかしながら、]そうした言及がなされるとき、認知論者は次のように主張する。ここで「よりよい」「より悪い」が何を意味するのかは、社会の道徳や社会の慣習そのものの実際の内容に言及することを取り込むという仕方を用いないでは、我々は完全には言うことができない。このことにはもはや何の問題もない。我々の道徳観念はすでにそう言える地点に達している。我々はこの発見によって強く影響を受けるべきである、と。(op.cit.,353f.)
例えばWornockのような論者達は、いわば中立的に善悪(福祉)に関する人間の必要というものを確定し、それによって制約されたものとして道徳を考えるのだが、それは実は間違っているのであって、そもそも何が善悪(福祉)であるのかが(逆に)道徳によって規定されているのである。さらに言うなら、道徳が「福祉」の具体的内容を措定しているのである。
 道徳とそれ以外の実践との関係を、Mackieは上に引用した箇所に続くところで、「狭義の道徳」と「広義の道徳」との関係として問題としている。こう述べられている。
なされるべき一つの区別が存在する。広義においては道徳は、行ないに関する一般的で包括的な理論であろう。すなわち或る人が賛成する道徳は、その人が自分の行為を選択する際に、それを嚮導あるいは決定することを最終的に依拠させる諸原理の何らかの総体であろう。狭義においては道徳は、行ないに対する或る特定の種類の諸制約の体系である。その諸制約の中心的任務は、当人以外の人々の利益を守ることであって、したがって諸制約は、当人に対して、当人がもつ行為への自然的傾向あるいは自発的傾向を抑制するものとして現われる。(106)
そしてMackieはこの両者について、
大事なのは、両者を混同しないことである。我々が(狭義において)特別に道徳的な考慮点(considerations)だと認めるものを、(広義の道徳へと転用して)我々の行為に関して必ず最終的に権威をもつものだと考えたりしないことである。(107)
と語る。これは、まさしくWigginsが批判するところであり、社会契約論的発想を批判して「[自分の幸福を求める]利口(prudence)は、強制装置を伴うホッブズ的解決と結び付けられるときでも不十分である。したがって、道徳的理由に即して行為する広範な傾向が存在するということが重要である。」(124)と述べるとき、Mackieは自分でもその限界性に気づいている。
 しかしながら、我々の論点はWiggins的批判を超えたところにある。Mackieの用語で言ってWigginsの説くように「狭義の道徳」が「広義の道徳」の内容をも(実は)規定しているとしても、その「狭義の道徳」が人によって−−かつ、そこに対立を結果するかたちで−−異なっているということを、我々は問題としているからである。この問題状況にあっては、Wigginsはもはや答えを有しないのである。Wittgensteinなら「説得だけ」と語ることになろうが、Wigginsは結局、いわばよりよい方が「時の試練(test)」(161)に耐えて残って行くであろうと述べるだけである。上に引用したところに続いて、
しかし、このことは、道徳という装置に関する最良の可能な内容が、各行為者がたまたまもっている特定の道徳的感覚によって供給されるということを意味しはしない。また、それが私がいま拒否しているところのものである。(124)
と述べるとき、Mackieも我々と同じ問題認識を有している。
 McDowellはMacIntyreと共通するところが大きいと我々は見ているが、MacIntyreなら我々の主張を「道徳的道具主義」として批判するであろう。彼は、「道徳的道具主義の操作的様式が支配的である全体的環境と、[H.ジェイムズの]『ヨーロッパ人』に描かれているニュー・イングランドのような、そうではない全体的環境との区別」を道徳観上の基本的な相違であると見ている(After Virtue,Univ.of Notre Dame Pr.,1984,24. 邦訳:篠崎榮訳『美徳なき時代』みすず書房,1993)。前者は「情動主義がもつ社会的内容」(23)として、「情動主義」が相応しい「全体的環境」=「社会」としても把握されている。そして、この「情動主義」に即して次のようにも語られている。
我々自身の時代において情動主義は、次のようなキャラクター達において体現されている理論である。すなわち、その全員が、合理的ディスコースと非合理的ディスコースとの間の区別という情動主義的見解を共有するが、非常に様々な社会的諸コンテクストにおいてその区別の体現を示している。これらのもののうちの二つに我々はすでに注目した。すなわち、豊かな審美家と管理者である。(30)
我々が住んでいる社会は、官僚制と個人主義とが対立すると同時にパートナーでもあるような社会である。そして、情動主義的自己が当然のこととして我が家にいるのは、この官僚制的な個人主義の文化風土においてである。(35)

 この「官僚制的個人主義」として表現されたカテゴリーは、我々もまたベンサム論において−−「科学主義」と「快楽主義」との本質的結合として−−確認したものである(「ベンサムの(もう一つの)科学主義」『実践哲学研究』第20号,1997)。このベンサムを典型として功利主義においては道徳は、「管理」と同様、快楽(それは、通常の理解とは異なってむしろ逆に、「審美」を含むものである)という目的のためのまさしく手段である。これに対してMacIntyreは、そしてMcDowellも後者の在り方(「そうではない全体的環境」)−−それは道徳のうちに、我々が本文で言う<実質>を求めるものでもある−−を説くのであるが、我々はここに、道徳をめぐる基本的な対立軸があるのではないのだろうかと考えている。(因みに、「方法」ということとの関係で言うなら、Sypher,W.(野島秀勝訳)『文学とテクノロジー』研究社,1972,40)に「ジェレミー・ベンタムこそ方法の制覇を確立した」という見方があること(だけ)を挙げておく。)(back)

(*694) 因みに"Some Issues in Aristotele's Moral Psycology",in:Mind,Value,and Reality,op.citでMcDowellは、「アリストテレスの描像では、人はどのように生きるべきかに関する正しい概念は、どの関心に即して行為すべきかを決定する方法を与えるものではない」(29)というかたちで、「方法」をネガティヴな概念として使っている。(back)

(*695) [63]節との関連で言うなら、我々の主張は以下のようにも換言できる。McDowellが、「理論」が「実在」を切り詰めてしまうとして、−−新たな「実在」概念を提示しつつ−−「反-理論」のスタンスを説いているとすれば、我々は「理論」を、「実在」のいわば記述の適切性においてではなく、「生」にとっての「方法」の見地から評価すべきであると考える。McDowellも、実在観は生活を有意義たらしめるものでなければならないというかたちで、或る意味では我々同様<記述主義>を批判しているのであるが、McDowellが実在のあるべき把握として、その実在の知覚という場面そのもので有意義性が成立していなければならないと説いているのに対して、我々は、「生」をその<場面>とは別領域として措定し、その<場面>における実在の把握=「理論」はそうした「生」にとって手段として適切でなければならないと考えるのである。ここから、一つの系として、McDowell的「反-理論」への反論として、「理論」が(彼が言う)「実在」の(記述的)切り詰めであるというのは、或る意味では「方法」性の制約から来る当然の事態であって、それを(単に)切り詰めだとして批判することは、(なお)一種の<記述主義>を前提としていることになる、と言うことができる。(back)

(*696) 説明註の最後として、ここで言う<方法としての道徳>の主張は<道徳は本質的に<背後>をもつ>ということと矛盾するのではないのか、という異論を想定して、いま少し我々の主張を補強しておきたい。「道徳」が<方法>であるためには、それはむしろ<背後>との関係を断ち切らなければならないのではなかろうか。道徳的主張間に対立が在る場合はいずれかを非として退けなければならないと説かれているのだが、「道徳」が<背後>と内的関係をもつとするのであれば、それは自動的にその<背後>をも退けることになる。それは、「道徳」だけを退ける場合に比べて恐ろしく困難なことではかろうか。いずれかを非として退けうるためには、むしろ道徳は<背後>との関係をもたないとみた方がいいのではなかろうか。逆に、「道徳」が<背後>と関係をもつということが−−先の(*572)の<奇妙さ>の議論を受け容れて−−意味論的に「道徳」の適切な規定であるとするなら、したがって「道徳」というのはそういうものだとするなら、そもそも<方法としての道徳>ということは成り立たないのではなかろうか。「道徳」に関する事実認識と<方法としての道徳>の提唱とが不整合であるのではなかろうか。−−大体このような趣旨の異論が予想できる。
 先の(*572)の「食べ物を大事にする」という「道徳」の事例について述べたところを想起して欲しい。そこで確認したように、まず<背後>に変化が生じる場合は、「道徳」が<背後>と関係を(有意的に)もつものだとした方が、この<変化>に着目して、「道徳はいわば現状に相応しくあるべきものであるが、その現状に合わなくなった」として、一定の道徳的主張の非をより容易に言うことができる。反対に「道徳」は自律的領域だとする場合、現状に変化があったとしてもなおその一定の主張は尊重されるべきだということになるが、我々が言う<方法>とは、「道徳」をそのように自律的事態だとみなさないということを意味する。
 しかしながら次に、<背後>に変化が生じていないときはどうなのか。この場合我々は、例えば、<食べ物を大事にして無理して食べ残さないようにして、カロリーを採り過ぎて病気になるということもありうる>ということに即して次のように言いたい。食べ残すか食べ残さないかということは、厳密に言うなら、そのこと自体では食べ残さない方がいいとしても、−−食糧不足という<背後>上の事態がある場合でも−−この病気のことも、したがってその治療のコストも考えて、食べ残すか残さないかいずれがいいかを考えるべきであるというのが、この場合の我々の主張となる。規範道徳的には−−「(古典的)功利主義」だと見てもらっても結構なのだが−−我々の主張する道徳の基準は<生>の全体的幸福にある。ここからみて、この、例えば肥満の人が食べ残さないように言われているケースについて判定を行えというのが、我々の主張である。この場合、<食べ物を残さないようにしなくてもいい>と判定されるとき、<背後>に関する一定の変更を迫ることになる。しかしそれは、よき変更である。
 どういうことか。我々は<背後>を、<生>と<文化>とに区別する。前者を基礎的実践領域とするとして、後者は、<生>のいわば(価値的)自己了解でもありつつまた別の一つの実践領域である。例えば芸術がそれに属する。(<背後>にはさらに、この実践の事態に対する<認識>もまた含まれるのだが、いまはこれを捨象して議論する。)我々は方法的に「道徳」を切り離したのだが、これも含めて、<生><文化>(<認識>)の全体がWittgensteinの言う場合の「文化」である。我々の言う<文化>はこれとは別概念である。さてそうであるとして、例えば上のケースにおいて「残してはならない」「残しても構わない」という主張が対立し合っているのだが、いま「残しても構わない」と判定されるとして、それは、「食べ物を残さない」という(ことを含む)<背後>(「文化」)の変更を意味することになる。第一に<生>における例えば−−「食べ残さない」というのが従来の食事習慣であるとして−−食事習慣の変更を帰結する。しかしそれは、よりよき<生>を営むための変更である。そしてその変更は、定義的によき変更である。「残しても構わない」という判定は、食事習慣をそのものとして問題にしてなされるのではなく、あくまで<生>にとってどちらがいいかを基準としてなされるからである。しかしその判定は、第二に、一定の食事習慣を−−その自己了解として−−例えば美風とする<文化>に対しては、それをもはや美風とはしないという判定としていわば自己否定を迫るものとなる。
 上の異論は、こうした<文化>の否定を意味することになるものとして、我々の主張は困難を伴うと述べたものであると限定できるかもしれない。この限定に即して言うなら、我々は、<文化>に対しては「道徳」はそれから独立すべきであると主張していることになる。同時に我々は、<文化>と強く結びついた「道徳」とは別の「道徳」を提唱していることにもなる。前者を「徳の道徳」だとするなら後者は「原理=規則の道徳」だと言うこともできる。上の「......いずれがいいかを考えるべきである」というのは、この後者からする道徳的主張である。それは、「食べ物を大事にする」「健康の方を第一に考える」という道徳をいわば一次道徳とするなら、「いずれが妥当かを問え」というものとして、それに対する二次道徳だと言うこともできる。註(*572)との関連で言うなら、この道徳は、一次道徳に対してはそれに拘ることを退けるものとして、それに対しては(むしろ)<軽い>ということにもなる。
 しかし異論は、そうであるとして我々の主張は<文化>を否定するものとしてやはり困難だとなお語ってくるかもしれない。我々は<文化>よりも<生>の方が「道徳」にとって有意的であると考えている。(我々とMcDowell的道徳観とにおいて、この<文化>対<生>ということが基本的対立軸であると言ってもいい。)しかしながら我々は、<文化>(の否定)については、それを放棄すべきである、あるいは別のものに変えよ、と主張しているのではない。「道徳」を公的なものだとして、その「道徳」から切り離された私的なものとせよと主張しているのである。したがってまた、その限りで、私的なものとしては、その当の<文化>を否定する必要はない−−当人が自分だけの格律として「食べ残さない」というのであれば、それは(一応)構わない−−というこをも含意している。否定されるのは、それが公的な「道徳」を規定することである。(この意味では、否定されるのは、<文化>そのものではなく、それが「道徳」を規定することである。)しかもその否定は、−−定義上−−<生>に即して、その<生>をよりよく営むためのものなのである。(これに対しては、<よさ>は<生>そのものではなく、その<生>の自己了解=<文化>のうちにこそ在る、という異論がなお可能である。ここからするなら、我々とMcDowell的道徳観との対立は、<<生>かその自己了解=<意義>か>ということを対立軸とするということができる。)
 <主張>間の対立が在る場合、その解決は−−第三の<主張>が出て来る場合もあるが、基本形としては−−<一方の是、他方の非>ということの導出として可能になるのであるが、ここでそれぞれの<主張>の<背後>に<文化>が在るということに着目して、実効力をもって一方の否定を導くためには、(心理的な)力としてむしろ、<是>とされる方の<背後>に在る<文化>の力に依拠した方がいい、したがって(一次)「道徳」にむしろ<文化>性を反映させた方がいい、と言われるかもしれない。<対立>の解決については、McDowell派もこう語るかもしれない。しかし、この行き方は、始めから自分の方の<是>が明らかであるときにのみ有効である。さらに、我々からすれば、<対立>は−−まさしく「道徳的」主張間の対立として−−善悪の対立といったものではなく、言うとすれば異なった善の間の対立であって、したがって、この行き方はそもそも問題である。そこでなお実効性をもつとするなら、それは力の差によるいわば成り行き−−Wiggins流にポジティヴに言えば「時の試練(test)」−−を当てにしてである。これに対して我々の行き方は、<生>の営み(のよさということ)からの一方の方の<主張>の是の導出に依拠するものとして、いわば理性的なスタンスを採るものである。
 しかしながらさらに、そもそも二次道徳とは何か。その「原理」とは何か。例えば上で「いずれが妥当かを問え」とも述べたが、これは短縮表現であって、これだけでは−−<対立の解決>について結局「さあ(理性的に)解決しよう」と言っているだけであって−−実効性をもたない。原理は何らかの<内容>をもたなければならない。この表現においても我々は<生(全体)の幸福の実現>といったものを含意させていたのであるが、こうした抽象性の強いものであってもすでに<内容>をもっている。だが他方、「原理」がそのように<内容>をもつとき、それ自身が<主張>間の対立の項となるのではなかろうか。我々はこのことは十分承知している。しかし、この場合も、さらに三次道徳ということを考えていった場合結局同じことが言えることになる。
 だが、この三次道徳の「原理」についても同様の異論が提出することができる。結局我々としても、何らかの次元における「原理」内容については(すでに)同意が成り立っていることを前提とする。ということは、結局<背後>についても、−−<対立>が存在する以上−−そのすべてにおいてでは当然ないが、なんらかの部分において共通性が在ることを前提することを意味する。これは、我々の立論を否定することにならないか。そうはならない。我々が解決が必要だとするのは、何らかの対立であるが、ここで言う「原理」はその対立している道徳的主張とは別のものであるからである。この「原理」は対立解決のための原理であって、これ以外のどこかになんらかの対立があれば我々の立論は成立する。そうであるとして、この共通性に依拠して、厳密に言って、ここから出て来る共通の「原理」に依拠して、我々は対立−−厳密に言って、相違性を<背後>として出て来ている相互に相違する<道徳的主張>間の対立−−の解決を考えることができるのである。
 しかしまた、厳密に言って<対立解決>に(有意的な)共通性をもたないときはどうなるのか。この場合は、<主張>の一方の方(のみ)の妥当を導出するというかたちは不可能になる。しかしそれでも、いままでの「原理」を内容的原理とでも呼ぶとして、それとは別型のいわば形式的原理として、「多数決で決める」「くじで決める」といった「原理」を考えることができる。この「原理」に依拠して<解決>が可能である。しかしそれは、結論が出てはくるのであるが、結論の論理的導出ではない。したがって例えば「生(全体)の幸福の実現」といった「原理」に依拠する場合とは別型である。もちろんここでも、その形式的原理のいずれを採用するかをめぐる対立が可能である。その場合は、−−但し、お互いに話し合って決めるという合意がある限りで−−どの「原理」を採用するかということをテーマとした議論が(まず)始まることになる。(ここで「民主主義的」に、「多数決で決める」というのが−−こうした場合は−−ほとんど自明的に採用されるべきだ、あるいは、すでにそういう共通性があるはずだ、と言われるかもしれないが、そう単純には言えない。純粋に形式的なものだと見る場合、この「多数決で決める」は直ちには「多数者の利益に配慮する」と同じではないからである。(この点は、「最大多数の幸福」の原理とは異なっている。)論理的には、「多数決」で「少数者の利益を優先する」と決まることもありえる。逆にいわば「少数決で決める」という「原理」のもとでも「多数者の利益を優先する」と決まることもありえる。そもそも、どういう人の利益(したがって善)に繋がると予め−−決定者の意志(内容)から独立に−−決まっていないがゆえに「形式的」なのである。)そこで、議論を経てなんらかの「原理」の採用で同意が成立するなら、(次に)それに即して(当初の)対立する道徳的主張の是非が判定されていくことになる。
 そうだとして我々も、この純形式的「原理」に即する場合においては対立解決はいわば理詰めでは行えないことを認める。しかしその場合でも批判は可能である。但しまたその<批判>は、理詰めで「根拠」(「論拠」)に基づいて批判するという場合の<批判>とは別種であって、それと区別するなら<批評>とでも呼ぶべきものである。このことはもちろん、その純形式的「原理」のもとで、関係者の意志の表明に、そしてそれにのみ即して−−いわば主意主義的に−−結論を導くことを排除するものではない。しかしそれは、結論の(論理的)導出ではない。(因みに、Habermasや、あるいはより明確にはApelは、この(論理的)導出の力をもった究極の原理を、それ自身「超越論的」に基礎づけようとするが、我々の解釈では、基礎づけに成功しているのは彼らが言う「討議倫理学的原則」(「D」)(のみ)であって、かつそれは、導出力をもつとみなしてもいい「普遍化原則」(「U」)とは別である。この「超越論的基礎づけ」を通して一定の具体的結論が導出できるかのような印象が与えられているが、それはこの両原理を(不当に)重ね合わせているからである。かなり以前のものであるが、これについては拙稿「現代倫理の新潮流 I−−ドイツ−−」(『西洋倫理思想の形成II』晃洋書房,1986)を参照して頂きたい。)
 いずれにしても対立解決は一方が批判を受け容れることによって実現するのであるが、<批評>の場合は、その<受け容れ>はいわば非-理論的なものである。その場合は「改心」に似たものを前提とする。したがって我々は、この純形式的「原理」に即した対立解決にあまり大きな比重を置くことはできない。(因みに、McDowell派は逆にこれだけに依拠しているとも言いうる。)我々は、対立する双方が受け容れている(共通の)内容的「原理」に依拠した行き方を採りたい。内容的「原理」とは定義上、なんらかの対立する一方の非を導出できるものであるが、直接対置されている道徳的主張そのものだけでなく、それぞれがもつそれ以外の多くの(直接的には対立の場に提示されていない)諸信念とも関連づけて、そこになんらかの(内的)不整合−−因みに、「正」は「善」に対して抽象的事態・徳であるとされるが、それは(形式的なものではなく、)この不整合を含まないこととして(一般的=抽象的には)規定できるかもしれない。「正」の反対は「利己」であるが、それは、主張として普遍性をもとうとするなら、利己としてまさしく自分を別扱いすることと不整合となる、という特質をもっている−−を証示する、というかたちをも<導出>に取り込むなら、多くの場合において存在するものであると考えている。(back)

[70] 道徳についても、同一の生活空間内で(<背後>としての「文化」を異にしつつ)生じている価値の対立の事態を重視するのなら、この点では科学を模範として、(「規範」の側面から)「間主観性」の次元で考えられるべきではなかろうか。「客観性」も、実在との関係で考えられるのではなく、この「間主観性」の次元で、例えば妥当な「合意」の在り方のうちに求められるべきなのではなかろうか。「合理性」もこのような「客観性」のうちにこそ求められるべきなのではなかろうか。

(1) 引用文中の[ ]内は、すべて本稿筆者の加筆である。(back)
(2) 拙稿「保守主義・伝統主義・歴史主義−−批評:西部邁『思想の英雄たち』−−」(『Dialogica』(滋賀大学教育学部倫理学・哲学研究室)no.3,1997[electronic journal = http://www.edu.shiga-u.ac.jp/dept/e_ph/dia/3.html])参照。(back)

version 1.20
1999/05/14

version 1.01からの修正箇所

内容的修正、追加:
(*562),(*572),(*673),(*696)

若干の字句の修正:
(*331),(*671),(*673),(*692)

表記上の変更:
(*693)(リンク追加)

(version 1.20→1.21の修正点:(*673)(*696)の一部。全体に渡って ・ → " の変更) 履歴:

version 1.01
1999/04/13

version 1.00
1999/03/31
からの変更点:(ファイル内)リンク付加等、および若干の表示色上の変更



註記

 安彦の論稿は、『哲学』第50号掲載の拙稿において「本稿の詳細ヴァージョン」として参照を求めたものである。この拙稿で示した主張をドキュメンティーレンするものとして、少しく多めに引用を行った。(安彦記)

1999/04/06


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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

1999/05/14作成