目次
[0101] 「ランドスケープの倫理学(一)」において我々は、近代の景観の範型を19世紀後半(厳密には、第一次大戦前まで)に置いて、これを基準として、現在に至る景観の変容と、それに対する人々の問題意識の諸類型を提示した。我々のタームで言うならW.ベンヤミンの『パサージュ論』は、まさにこの「景観」として−−19世紀全体*を問題にしているのであるが−−この時代について分析を加えたものである。しかしながら、このテキストには実に様々な解釈がなされている。これは、(テクスト解釈論的に)様々な解釈を可能にするテクストの豊穣性といったこととしてではなく、そもそもなぜそのように多様な解釈がなされるのかといった問題性として了解されるべき事態である。それは当然、ベンヤミン論そのものとしては、最も妥当な解釈の確定として問題とされなければならないであろうが、我々はこの事態に、解釈の多様性といういわば社会学的事実として、解釈そのものの問題として着目して、そこに近代の景観と、その景観の変容に対する問題意識の諸類型の表出を読み取ってみたい。
* xxxという表示は、その語句を強調することを表している。
[0202]
1.1 『パサージュ論』は、「デパートへと通じる屋根付きの街路に過ぎない」「最新のパッサージュ」ではなく、オスマンのパリ改造以後次第に「飲み込まれ、姿を消し」つつある「古くからあるパッサージュ」を主対象とするものである。
[0203]
2.1 それは、「街路と室内が一つに融け合った空間」である。
2.2 それは、ひとつの「夢の領域」である。
2.3 ベンヤミンは(20世紀において)、〈探偵者〉としてこの空間を歩くことによって、「市民社会の幼年期」(「19世紀近代市民社会」)そのものを「夢の領域」として「幻視」する。
2.4 「幻視」において現われる空間は、当時にあって(「〈探偵者〉の前身としての」)〈遊歩者〉にとって現われる空間と重なる。
2.5 この空間は、シュルレアリスムにも通じる。
2.6 それは、「当時の技術革新による建築物、例えばパッサージュ[そのもの]や水晶宮などの鉄とガラスによる建築、あるいはガス灯など」、あるいは「群衆、遊民、商品、広告、万国博覧会、モード」において、−−〈ファンタスマゴリー〉として−−〈慣れのアウラ〉を帯びている。
2.7 そうした空間は〈消費の原風景〉である。すなわち、物が、「[礼拝的価値を伴った]アウラ」を失いながら、しかし単に「有用性という機能連関に基づく使用価値」だけとなるのでもなく、商品として、その「使用価値から切り離されて、交換価値という浮遊性」を手に入れて、そこに「商品が錯綜した夢の諸像のように互いに入り混じり合う」空間である。
[0204]
3.1 それは〈アレゴリー〉によって開示される世界と同一である。
3.2 ベンヤミンはこの「夢の世界」に「太古のユートピア[「的な象徴世界」]を重ねる。」
3.3 すなわち彼は、〈労働が....自然の胎内に可能性としてまどろんでいる創造性を自然自体が発現するのを助けるものである〉ような世界が、「[19世紀の]生産技術の躍進や大衆(群衆)という集団形成という動向を通じて、新たな形で現在に蘇る可能性を見る。」
3.4 だからこそ、それは〈慣れのアウラ〉をもつとされるのである。
3.5 −−このようにベンヤミンは近代の、特に「幼年期」に積極的意義を認めるのである。
[0205]
4.1 しかしベンヤミンは他方で、近代を否定的にも捉える。
4.2 市民社会の展開は、同時に「物象化のプロセス」でもある。すなわち、商品は、その交換価値が「貨幣によって支えられた価値体系のもとに置かれ」て、「物神的な性格を帯びて」くる。
4.3 「オスマンのパリ改造計画は、このような一連の物象化の過程の象徴となる。」
4.4 「街路にはやがて電灯がつき、ガス灯の輝きは失われる。」
4.5 電灯は「今や物神と化した商品の礼拝を迫る」
4.6 「広告は、その幼年期に秘めていた....ユートピア的志向を、この物神としての商品の宣伝のために利用する呪術となる。」
4.7 〈ファンタスマゴリー〉〈アウラ〉も物象化されたものとなる。
[0206]
5.1 デパートはそのような物神的商品の場である。
5.2 「パッサージュの両側に混然と並んでいた〈小売店〉は「流行商品」「デパート」へと統合され....る(この意味で〈デパートの起源としてのパサージュ〉)。
[0207]
6.1 今や、パサージュは室内と街路へと分離する。
6.2 「アレゴリーは[今や]一方では商品アレゴリーとして街路化されるのに対して、他方では金利生活者の室内において様々な美術様式がそれぞれの時代から切り離されて混交する夢と陶酔の空間を成す。」
6.3 すなわち、他方では「利益を自らの私的室内のフェティッシュな装飾物収集に注ぎ込み、室内を....憩の場とする」。
[0208]
7.1 −−このように「近代に向けるベンヤミンのまなざしは....両義性をもつものであった」。
7.2 「この両義性は、市民社会の幼年期そのものがもつ両義性である。」
[0209]
8.1 「パッサージュは夢の領域であるが、それは同時にこの夢からの覚醒を目指す一つの〈境域〉である。」
8.2 〈覚醒〉は「〈慣れのアウラ〉を崩壊させること」を含む。
8.3 この「両義性を孕んだ夢の諸像から....神話的負性を払拭し、....太古のユートピアの再生へと夢の諸像を覚醒させること−−これがベンヤミンの革命のイメージとなる。」
8.4 ベンヤミンが目指すのは、「物象化のアウラを帯びた歴史の連続した流れを....破砕し」、「その瞬間的な裂け目」で、〈かつて在ったもの〉に即して「夢の領域を幻視し」、かつ、〈かつて在ったもの〉を「真に認識すること」として、「夢からの覚醒」を実現することである。
8.5 すなわち、〈真なる蒐集家〉として〈対象をその機能連関から切り離す〉ところに成立する対象の「破砕」状態(の「〈いま〉という瞬間」)に、〈想起〉によって過去(むかし)の出来事を「融合」させることによって、「物象化の流れに隠蔽されていた夢の領域を開示する」ことである。
8.6 「ベンヤミンはこの夢の領域に現われる諸像を、〈弁証法的像〉という言葉で表す。」
8.7 この〈想起〉はいわゆる「感情移入」とは別物である。
8.8 そのための方法が〈静止状態の弁証法〉である。そこにおいては、出来事は〈星座的配置〉として現われる。
[0210]
9.1 「〈静止の弁証法〉という構図は、明らかに一般的な意味での史的唯物論とも神学とも一線を画するが、それが予定調和的覚醒・救済を志向する限り、それは一種の神学的色彩を帯びる。」
9.2 「だがベンヤミンは、....〈神学的概念で歴史を記述しようとしてはならない〉という留保の姿勢を見せる。」
9.3 この「留保」のなかでは、〈覚醒〉は「物象化メカニズムへの批判機能をもつアレゴリーの無限運動性を保証する原理としてのみ機能する。」
9.4 すなわち、〈歴史の天使〉は、「覚醒した神なのではなく、あくまでもアレゴリー領域にとどまる〈サタンの天使〉である」。
9.5 「彼[ベンヤミン]はパッサージュ論を『ドイツ悲戯曲の根源』と平行する類似性のもとで捉え、〈両者に共通しているのは地獄の神学である〉と述べている。おそらくパッサージュ論においても、....〈アレゴリー的急転〉という形での覚醒の希望を見ていたように思われる。」
9.6 「だがそれだけに、我々はパッサージュ論のなかに安易に覚醒・救済の構図を見てはならない。」
9.7 「〈永遠なるものはつねに理念であるというよりはむしろ衣服の襞飾りである〉という言葉に表された....唯物論的分析に向かうことによって、アレゴリーの批判機能を保持しようとするベンヤミンの姿勢に、我々は目を向けなければならない。」
[0302] 「19世紀前半」「19世紀後半」は例えばそれぞれ「ガス灯」「電灯」によって[4.4]、またそれぞれ「小売店」「デパート」によっても[5.2]象徴できる。あるいはまた、それぞれ「博物館」「博覧会」によっても象徴できる(L1a,2)*。
* 以下同様であるが、『パサージュ論』からの引用は、邦訳(岩波書店)をそのまま用いる。引用箇所は、「概要」は邦訳ページ数、それ以外はここのように断片番号で指示する。
[0303] さて当のパサージュであるが、広義に見た場合、それは多様な形態をもち、初期のものはすでに19世紀以前に出現している(山名善之「パリとパサージュとベンヤミン」『建築文化』1996年5月号 参照)。しかし、好村富士彦「救出される廃物:収集とアレゴリー」(『現代思想』1992年12月臨時増刊号)によるなら、「ベンヤミンが愛着を抱いていたのは、オスマン通りが完成するために壊されてしまったオペラ座横丁に代表される古いパサージュであった。これらのパサージュは1820年代から30年代後半にかけて造られ、フィリプ・ドルレアンの時代に花と開いたもので」(307)あって、すなわち19世紀前半のものであり、かつ「この古いパサージュは19世紀末にはほとんど没落しつつあり、それ以降に作られた新式のアーケード式のパサージュをベンヤミンはすでにパサージュの中に数え入れていなかった」(314)のであって、19世紀後半のものは、したがってまた、その一つの完成態である(1870年以降大発展した(A2,4))デパートはベンヤミンが「愛着」をもつものではなかった。つまり「パサージュ」は、少なくとも「愛着」の対象としては、ベンヤミン自身が「概要(エクスポゼ)」の冒頭で「1822年以降の15年間に作られた」と語るところのものである。
[0304] そうであるとしてまず、ベンヤミンは19世紀前半のパサージュに一つの原点として「夢の領域」を設定し、次いで、後半においてそれが次第に「物象化」されていったと見ているのか。例えば富永茂樹『都市の憂鬱』(新曜社 1996)は明確に、19世紀前半の、形態的に言うなら文字通りではなくても性格的には「曲線的な[セミ・ラティス型の]空間」である「魅惑的な場所」と、「オスマンによる都市の改造事業」後の後半の「直線」的な[ツリー型の]街区とを区別しつつ、基本的にはそのように了解している。
[0305] しかし古屋の場合はそう明確でなく、「物象化のプロセス」[4.2]という言い方もしているのではあるが、「市民社会の幼年期そのものがもつ両義性」[7.2]と述べている。つまり、物象化が次第に進んでいくのであるとしても、すでに19世紀前半にも物象化が存在するのである。前半のパサージュも、富永の見るのとは違って、「魅惑的な」だけの場所ではないのである。したがって古屋にとっても、新旧両パサージュは共通の性格を有するのであり、以下、順を追って論証していくように『パサージュ論』がまさに「パサージュ」に即して「物象化」をも問題としているとするのであるなら、[1.1]は間違いであって、ベンヤミンは19世紀全体のパサージュを分析の対象としているのである。
[0306] 我々自身はさらに、『パサージュ論』のポイントは、単なる(失われた)「夢の領域」の「幻視」ではなく、それが同時に「物象化」形態であることの批判に在ると見ているが、ここからするならベンヤミンが−−単なる「愛着」なら話はまた別であるが−−19世紀論として分析の対象としたものにより適切であるのは、むしろ19世紀後半の「新式のパサージュ」の方である。「夢の領域」の主体として措定された「群衆」について言うなら、ベンヤミン自身「百貨店の創立とともに、歴史上はじめて消費者が自分を群衆と感じ始める」(A4,1)とも語っている。また、「遊歩者」が−−「群衆」という「ヴェール」を通して(20)−−「夢の領域」を経験できるのであるとして、「百貨店は遊歩者が最後に行き着くところである」(20)とも語られている。
[0307] 我々は、このように19世紀後半こそが分析の主対象たりうるとして、しかしベンヤミンは19世紀総体を対象としたのであると考える。したがって、そこで取り上げられる「パサージュ」も19世紀全体を通してのものであり、さらにはその完成形態としてのデパートをも含むものである。(ここから見るなら、19世紀前半のパサージュも、「百貨店の前身」(5)、「百貨店の先駆」(32)なのである。)
[0402] 道籏泰三も、同号所収の論稿「ベンヤミンにおける「アウラ」の展開」において、野村と同じ三分類を提示する。ただし、「慣れのアウラ」という表現については「その広がりにいくぶん制限を加えるような響きがある」として、独自に「流動性のアウラ」という表現を導入する。他の二つは「礼拝的アウラ」、「疑似的アウラ」と呼ばれる。そして、この後二者が(否定すべき)「フェティッシュとしての神話的アウラ」であるとするなら、「流動性のアウラ」は肯定的に見られる本来の意味のものであるとする。
[0403] 道籏は、「そもそもアウラとは、「かすかな風の動き」、「もやもやした霧」、「ほのかな香気」、「漠たる雰囲気」、「ものをとりまく神秘的な放射体」などの意味の広がりをもっており、ベンヤミンにあっては、人間の周囲に広がる事物、事象に人間が付与する意味のヴェールと広義に解釈できる。」「しかし、ベンヤミンがそもそもアウラと呼ぶのは....人間とものの関係が....濃密になった場合[の意味のヴェール]に限られている。」とする。そして、「アウラは二通りの成立のし方をもっている。ひとつは、集団ないし伝統の圏域にあって何らかの事物、事象が人間を強烈な力でもって集団的に呪縛する場合であり、もうひとつは、個人としての人間が今というこの一瞬の時点において、自らの存在の内側から何らかの事物、事象と強い結びつきをもちはじめる場合である。....人間が存在した原初の時点でいえば当然後者のアウラしか存在しない....前者は後者の固定化した残骸、しかもなお大きな力をもって人間を集団的、神秘的に呪縛している残骸に他ならない」として、否定的なものと肯定的なものとに峻別しつつ、−−ベンヤミンは「アウラ」を否定的な意味で(のみ)用いているという理解を退けて−−「生涯にわたってベンヤミンの思考の根底にあったのは、後者の流動するアウラによって前者のフェティッシュとしてのアウラを粉砕しようとすることであった」と解釈する。(以上100)
[0404] 古屋は、「幼年時代」という『ベルリンの幼年時代』を連想させる表現を用いながらも、個人史的な幼年時代に触れることなく、「市民社会の幼年時代」[2.3]=19世紀前半について「慣れのアウラ」の存在を語るが、また、道籏は、もともと自分の幼年期に即して語られる「慣れのアウラ」の含意がいわば外延的に狭すぎるとして「流動性のアウラ」という別の表現を導入するのだが、この「ベルリンの幼年時代」におけるベンヤミン自身の経験が第三の肯定的アウラ概念の原型になることは間違いない。その意味で我々は、その「広がり」については拡大の余地を残しつつ、以下、この「慣れのアウラ」として、ベンヤミンが肯定的に語るアウラを表現する。
[0502] だが、「慣れのアウラ」は子供だけのものではない。大人であっても、「遊歩者」となることによってこのアウラを感じることができる[cf.,2.4]。「だがさまざまな大袈裟な追憶、歴史的な戦慄−−そうしたくだらぬことは遊歩者としては観光客に任せておく。観光客というのは、その土地の守護霊(ゲニウス・ロキ)と軍隊式の合言葉で接することができると信じ込んでいる。われわれの友人であるこの遊歩者は黙っていてもいいのだ。彼の足音が近づくだけで、その場所は生き生きしてくる。」(M1,1) 端的に言うなら「パリは遊歩者にとって風景となるのだ」(M1,4)。
[0503] しかし古屋によるなら、ベンヤミンにとっては、このアウラを感じるためには或る手続が必要である。古屋はそれを「幻視」と表現している[2.3]。19世紀前半に「消費の原風景」を設定する古屋は、20世紀の(ベンヤミンの時代の)遊歩者に即して、この19世紀前半との時間的距離が手続を必要とすると解しているように(も)見える。すでに過ぎ去った「過去の幼年期」であって、直接知覚することができないので「幻視」を要するのである。実際ベンヤミン自身、例えば上のM1,1のパラグラフをこう続けている。「その場所は生き生きしてくる。....この遊歩者はノートルダム・ド・ロレット教会の前に立つと、彼の靴の底ざわりで思い出すのだ。この場所はかつて....だところだ、ということを。」そして更に続けて「街路はこの遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れて行く。遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ。この坂は彼を下へ下へと連れて行く。母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと連れて行く」(M1,2)と端的に語られている。古屋にとってパサージュとは、それゆえに「古くからのパサージュ」であるのである[1.1]。そこには19世紀前半の「痕跡」が残っているからである。「幻視」はその「痕跡」に即して[cf.,2.3]過去の「追憶(アナムネーシス)」(M1,5)として行われるのである。
[0504] しかしまた、古屋によるなら19世紀前半においては、この「慣れのアウラ」がまさに「夢の領域」として現実の世界のうちに感じられていたのである[cf.,2,3]。
[0602] 古屋はこの「物象化」に経済学的な説明をも付しているが[4.2]、ここは氏も引用している箇所をそのまま読むことの方が大事である。ベンヤミンにとって「物象化」とは、経済学的範疇のものであるよりも、美学的範疇のものであるからである[4.5,4.6]。ベンヤミンはこう記述している。「万国博覧会は商品の交換価値を美化する。博覧会が作る枠組みのなかでは商品の使用価値は背後にしりぞいてしまう。万国博覧会は幻影空間(ファンタスマゴリー)を切り開き、そのなかに入るのは気晴らしのためとなる。....人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる、これこそは[画家]グランヴィルの芸術のひそやかな主題である。[彼の]手練手管は、「スペシアリテ」[特産品、特選品−−訳者]なるもののうちに込められている。「スペシアリテ」とは、この時代に贅沢産業界の中で生れた商品表示のことである。グランヴィルの筆にかかると、全自然が「スペシアリテ」へと変貌してしまう。彼は全自然を、広告が商品を展覧に供しはじめたのと同じ精神で、展覧に供している。」(14f.) 商品はいまや、その「使用価値」から独立して、端的にはブランド名や包装紙などで飾り立てられて、そうした「美化」された「交換価値」をもったもの=「スペシアリテ」として、万国博覧会やデパートの電灯の光に照されて「輝かしい光景」(16)を見せ、「モード」として「商品をどのように崇拝すべきかという儀礼の方法を指定」(15)しつつ、人々にまさしく「神」として姿を見せるのである。すなわち「物象化」である。ここに「物象化のアウラ」が現出する[4.7]。
[0702] この「室内の真の居住者である蒐集家」の「蒐集(Sammeln)」について、ベンヤミンはさらに次のように語っている。「蒐集において決定的なことは、事物がその本来のすべての機能から切り離されて、それと同じような事物と、考えうるかぎりもっとも緊密に関係するようになるということである。この関係は、有用性とはまっこうから対立するものであり、完全性という注目すべきカテゴリーに従っている。....蒐集は、実践的な想起の一形式であり、「近さ」のさまざまな世俗的な顕現のなかでも、もっとも明快な顕現である。だとすれば、政治的な考察はどんなささいなものであれ、いわば骨董品の扱いにおいてこそ新次元を開くことになるのである。われわれは本書(hier)では、前世紀のキッチュを目覚めさせ「集合」させる(zur ・Versammlung・・・ aufstoert)、一種の目覚まし時計を設計したいと思う。」(H1a,2) この最後の部分は、それまでの部分に対していわばメタ的に、こうした前世紀の「室内」を構成する「キッチュ」を「目覚め」させ「集合」させることを語ったものであり、したがって直接、その「室内」の住人自身が行う「蒐集」が「目覚め」を前提とすることを述べたものではない。しかし、連想の次元では、そのことが含意されていると我々は解釈する。それゆえ、H1a,5では、「本書では、パリのパサージュも、一人の蒐集家の手のうちにある所有物であるかのように考察される」とも語られるのである。すなわち、「蒐集」は「覚醒」を前提とするのである。
[0703] この箇所を解釈するためには、ここでは「目覚まし時計」という表現が出てくるが、「覚醒」と、それがそこからの覚醒である「夢」について整理しておかなければならない。ベンヤミンは、「19世紀とは、個人的意識が反省的な態度を取りつつ、そういうものとしてますます保持されるのに対して、集団的意識の方はますます深い眠りに落ちてゆくような時代(ないしは、時代が見る夢)である」(K1,4)と語っている。「夢」と表現されているが、これは比喩的な言い方であって、−−カントの「超越論的には観念的、経験的には実在的」という考え方とアナロジーさせてみると分かりやすいが−−「時代」が一方では直面する社会の現実の外部で作り上げたもの、「社会が生み出したもののできの悪さや社会的生産秩序の欠陥を止揚すると同時に、それをすばらしいものに見せようとする」「願望の形象」であって、個々人から見るなら実在形象である。したがって厳密には、〈夢のような世界〉のことである。古屋が(19世紀前半に即して)言う「夢の領域」も、引用箇所からみても、この「集団的夢[集団が見る夢Traumkollektiv]」(K1a,6)の世界のことである。具体例の提示としてベンヤミンは次のように述べている。「集団の夢の家とは、パサージュ、冬園、パノラマ、工場、蝋人形館、カジノ、駅などのことである。」(L1,3)「集団の夢のもっとも際立った形のものが博物館である。」(L1a,2)そして、同様の趣旨でまさしく「夢の都市パリ」(L2a,6)とも語られる。
[0704] 「蒐集」とは、この「集団的夢」からの「覚醒」を前提とするのである。したがって「室内」とは、ひとまずは「夢の領域」を越えた別の領域であると了解しなければならない。
[0705] しかしながらベンヤミンの言う「室内」は、端的な意味での「室内」に留まるものではない。「群衆の中で都市はあるときは風景となり、またあるときは居間になる。」(20) 三島憲一「都会性と〈根源の歴史〉」(『思想』1994年6月号)がこの箇所等を手掛りに明確に述べているが、ベンヤミンにとって、或る「知覚」にとっての「都市」そのものが「室内」なのである。そして「デパート」が、この「室内」としての「都市」を象徴する。ベンヤミン自身も上の引用文を更に続けて、「[....になる。]その双方をやがて百貨店が作り出す」(20)と語る。したがって、19世紀全体のものとしてみるなら、まさに(「デパート」を自らの完成形態とする)パサージュそのものが「室内」なのである。
[0706] したがって、19世紀後半において「街路」も一つの「よりよき世界」である。あるいはむしろ、19世紀後半において「街路」はいわば〈新しい「夢の領域」〉を創り出したともいえる。「デパート」においてもそうである。そして、総体としての「パサージュ」(「都市」)が〈新しい「夢の領域」〉であるのである。そこには新しいアウラが溢れているのである。
[0707] 「遊歩者」とは、古屋の言うように19世紀前半を「幻視」するだけでなく、19世紀全体において−−あるいは特定の時代に限定されることなく−−このような〈新しい「夢の領域」〉を、例えば「街路は美しい!」(ディドロ)として(M7,7)そのままそこにアウラを感得しつつまさしく遊歩する者でもある。
[0708] しかるに、まさにこの「パサージュ」が先に見た「物象化」を呈しているのである[6.3]。ということは、当然「室内」もそうだということである。実際こう語られている。実際ベンヤミンは、端的に「室内という魔術幻灯(ファンタスマゴリー)の世界」(41)と語っている。また、「商品そのもの、つまり物神としての商品が、こうした形象である。家であるとともに道路でもあるパサージュも、こうした形象である。」(21)とも語られる。そうすると、これが問題点なのだが、「室内」という概念を通して、「覚醒」を前提とした「蒐集」の世界が同時に「物象化」の世界だということになる。一体これはどういうことか。
[0709] 我々は、この問いへの解答が、ベンヤミン解釈に見られる大きな幅の源泉であると考える。以下、この問いに即して、日本の代表的な論者達のいくつかの解釈を見ていきたい。ただし、ここではそれらの諸解釈の解釈=メタ解釈の妥当性は目標としない。解釈の諸類型をいわば理念型的に提示することが重要だからである。
[0802] 先に「室内」を問題としたが、この「室内」についてベンヤミンは「ユーゲント様式」と関連づけて次のようにも語っている。「世紀転換期に室内はユーゲントシュティールによって大変革に見舞われる。もっとも、ユーゲントシュティールは、そのイデオロギーからすれば、室内の完成である。」(17) つまり、「室内」は「ユーゲント様式」の採用をもって完成するのであり、またそこで行われる「蒐集」はこの様式の美学のもとでなされるのである。フランス語版概要では「室内の清算がなされたのは、19世紀の最後の十数年のことで、「モダン・スタイル」[=アール・ヌーヴォー]によってなされた」(44)という言い方もなされているが、しかしこれは、もう少し先まで読むと、ユーゲント様式が「室内」を極限化することによって、「室内」総体を終焉にもたらすという趣旨だと分かる。まさに「ユーゲント様式」が「室内」の美学の極致なのである。
[0803] 「室内」とは同時に「物象化」の世界でもあったが、ベンヤミンは、グランヴィルと広告とを介して、この「ユーゲント様式」と「物象化」とを結びつけている。「広告はユーゲントシュティールにおいて解放された。」(G2a,2)「....。ここでは登場しつつある資本主義的な商品広告とグランヴィルのつながりは、手に取るように明らかだ。」(G2,1)「商品が物神であったとすれば、グランヴィルはその魔術の伝授者だった。」(G7,2) すなわち、「室内」の美学の、したがってその前提としての「覚醒」の「完成」態が、同時に「物象化」をまさしく体現するということになるのである。一体これはどういうことなのか。
[0804] 「アウラ」ということで言うなら、「室内」に漂うのは〈真正のアウラ〉なのか〈疑似アウラ〉なのか。前者だとするなら、それもまた「物象」であるかぎり否定の対象となるのだが、〈真正〉のものの否定ということになる。古屋の[8.2]はそこまで含意したものであるのか。おそらく、このように設問するのは「弁証法的」でないのであろう。「弁証法的」には、いわば自体的な「真正」というものはないのであって、「真正」のものも時間の進行に従って直ちに「疑似」となるのであり、そこに、それを否定しつつ絶えず新たな「真正」を現出させていかなければならないというのであろう。先に引用した「慣れのアウラ」が語られるパラグラフに続いてN2a,2ではこう語られている。「象徴化された慣例的世界(Merkenwelt)[−−これを「慣れのアウラ」の世界と同義であると解してだが−−]はいっそう崩壊の速度を速め、そのなかにある神話的なものは、急速に、ますますはっきりと姿を現わす。それよりももっと速くまったく別の象徴化された慣例的世界を作って、崩壊しゆく世界に対抗させねばならない。」しかしながら、我々は後でこういう言い回しを抽象的だとして問題とするが、ここは敢えて非-「弁証法的」に設問しなければならないと考える。それは、(19世紀について)「物象化」を二段階に区別することになるが、例えば「1850年から1890年の間に博物館に代わって博覧会が行われるようになる。この両者のイデオロギーの基盤の違いを比較すること。」(L1a,2)といった箇所がそうすることを指示しているからである。そしてなによりも、そう設問することによって、それへの様々な回答として、解釈の多様性を導き出すことができるからである。
[0902] 上では説明の都合上「夢」と記したが、鹿島の解釈では子供にとって現出するのは、一つの端的な実在的知覚像である。その意味では子供の方が覚めているのである(cf.26)。だからこそベンヤミンにとって、パサージュという「集団的夢」を大人たちが描いたまさしく「夢」として認識しつつ、「蒐集家」としてそれを解体し、そこに「弁証法的形象」を現出させるのに、子供時代の記憶の想起が武器になるのである(cf.50)。
[0903] 確かにベンヤミンは実際、このような歴史主義批判として19世紀を批判する。「着手さるべきは19世紀の機械論や動物機械説に対する批判ではなく、19世紀の麻酔的な歴史主義やその仮装癖に対する批判なのである。」(K1a,6) 「疑似的アウラ」を言うなら、それは第一にこうした〈歴史主義的アウラ〉なのである。それもアウラではあるが、子供にとって現出する「慣れのアウラ」とは異なっている。古屋[2.6]に対して言うなら、これは19世紀前半にも当然当てはまることであって、この時期を象徴するガス灯であっても、子供がいわば「ガス灯」の新しいガスの火の灯りに夢を見ているとするなら、大人は、新しい火との「ずれ」を伴って古い様式に飾られたガス灯に夢を見ているのである。
[0904] この歴史主義の克服に関して、ベンヤミンは「ユーゲント様式」に一定の評価を与えている。「ある種のアール・ヌーヴォーのモティーフは技術に由来する形態から生じている。」(S8,6) 1900年前後の新技術は、−−「リアリズム」に続く第二の試みとして(S8a,1)−−このユーゲント様式において、過去の芸術を「借用」することをやめていわば自前の芸術様式を志向している。そしてユーゲント様式はさらに、徹底して「装飾」と闘った、つまり反歴史主義的であったA.ロースとも関連づけられる(S8a,1)。ユーゲント様式は、こうした意味でいわばモダンであったのである。「ボードレールは彼のサロンの中では自分を風俗画の非和解的な敵として認識していた。ボードレールは、風俗画を消滅させようとしたアール・ヌーヴォーの試みの竿頭にたっている。」(S10,1)という発言もこの観点からのものであろう。
[0905] この19世紀歴史主義の批判を確認しておいて、鹿島は「覚醒」と「物象化」との関係の難題に回答を与える。「技術によって条件づけられている形態をその機能連関から引き離して自然の定数にしようとする−−つまり様式化しようとする−−反動的な試みは、アール・ヌーヴォーの場合と似たかたちで、しばらく後に未来派においても登場した。」(S8a,7) すなわち鹿島はこの件に基づいて、ベンヤミンにとって「ユーゲント様式」の「目覚めは、本来的な目覚めとは異なる疑似的な目覚めだった」(244)と解釈する。これは「物象化」ということで理解するなら、量的に換言して言っていわば〈不徹底な目覚め〉であって、その分なお「物象化」を含んでいた、ということであろう。(そうすると、この「ユーゲント様式」を世紀転換期の典型であるとするなら、古屋の場合[4.2]と異なって、19世紀の進行は〈脱-物象化のプロセス〉であるということになる。)
[0906] しかしそうだとして、鹿島は、この不徹底の克服のうちに決して明るい未来を見ない。鹿島はさらに、「ブルジョワジーは、15年後に歴史がおそろしい物音で彼らを目覚めさせるまで、アール・ヌーヴォーのうちで夢見ていたのである」(S4a,1)という件を引用しつつ、まだ新技術は完全に自前の芸術をもたなかった、その分、なお過去の借用のうちで夢を見ていたと(おそらく)了解しつつ、その「15年後」、つまり第一世界大戦の勃発によって眠りが破られ、と同時に兵器において新技術は完全なる自前の芸術を手に入れることになる、と見る。
[0907] モダニズムの挫折であると更に解するなら、これは、80年代以降、主として建築論のジャンルで流行となっているポストモダニズムのベンヤミン論と整合的である。ポストモダニズム的解釈では、「覚醒」は、モダニズムではなく、まさしくポストモダニズムにおいて実現されると見られるからである。(清水多吉「幻視の都市、幻視の空間」『現代思想』1992年12月臨時増刊号 参照)
[0908] しかしながら、この種の見方は歴史主義との関連ではどう理解すべきなのか。ポストモダニズムの基本技法である「引用」はベンヤミンの言う「借用」であると解し得るからである。「借用」批判=歴史主義批判というベンヤミンの志向と整合的であるためには、「引用」は「借用」とは別のものでなければならない。なるほど「引用」は「借用」と別物だと解することもできる。印象的に言って「引用」には〈遊戯性〉があるからである。しかしながら、ということは社会から浮いているということでもある。それは(それだけでは)社会からの復讐の危険を絶えずもつ。そしてユーゲント様式が「反動的」であると語られるのも、それがこの種の〈遊戯性〉をもつからだとも解し得る。実際ベンヤミンは「ユーゲント様式」の「反動性」についてこうも言っている。ここは「が」の前後を逆にして読んで欲しいが、「アール・ヌーヴォーにおいてブルジョワジーは、その社会支配の条件とはまだ対決しようとしなかったが、自然支配の条件とは対決し始めていた。」(S9,4) また端的には、「アール・ヌーヴォーは....日常性一般をなお直視し続けるための力が失われる限りでは退歩である。」(S9a,4) これらは、予めポストモダニズムのような〈遊戯性〉を批判したものだと解釈することができる。
[0909] 例の「芸術の政治化」というテーゼは、ベンヤミン自身が「日常性一般をなお直視し続ける」ところから語られたものであろう。そしてベンヤミンからするなら、この「芸術の政治化」の挫折、したがってそこに残された「芸術」を欠いた「日常性」を、やがてファシズムが−−「政治[という「日常性」]の審美化[芸術化]」でもって−−埋めて行ったのである。
[1002] この物象化はしかし、どのような意味で問題とされているのか。それは、氏が物象化されていない時代−−その「喪失」の「経験」として『パサージュ論』を解釈しているのだが−−が何であるのかを見ることによってかなり明らかとなる。それは、先に見た富永と同じもの、すなわち19世紀前半である。この19世紀前半が軸として設定されて、端的にそれからの「変貌」として「物象化」が語られているのである。では、そうみる場合、どのような意味で「物象化」であるのか。
[1003] 「ユーゲント様式」は、我々の確認では、「反動的」であるとしても、19世紀前半の「アンピール様式」(6)や、あるいは第二帝政期の「スゴンタンピール様式」とは違って歴史主義からは脱したものであった。アウラということで言うなら、それがもつのは、技術との関係で見るなら一応真正のアウラであった。しかしそれは、−−上の浮遊性ということと関連するが、しかし相対的に別の事柄として−−いわば〈軽い〉ものであった(あるいは、道徳が欠如していると言っていいかもしれぬ。ここでベンヤミンの「要するに、ポスターにおいて、道徳はけっして芸術のあるところにはなく、芸術はけっして道徳のあるところにはない。そして、それが何よりもポスターの性格を規定する。」というタルタール『血の都市』からの抜き書き(G1,8)を引用するのは強引すぎるであろうか)。ここのところは我々自身の直観的理解を基にして、「アール・ヌーヴォーの根本モティーフは不妊の聖化である。身体はもっぱら性的成熟にいたる前の形態で描かれる。」(S8a,1)といったところ−−因みに、ここでは、「ボードレールは、アール・ヌーヴォーが現われる前に、アール・ヌーヴォーに対して手厳しい評決を下していたのである」(S9,1)と語られる−−などを解釈したものだが、おそらくこう解釈するしかないであろう。そうであるから、「アール・ヌーヴォーはアウラ的なものを極端に強める」(S8,8)のではあるが、それはまさしく「キッチュ」であって、人々のアウラを求める心を完全に満たすものではなかった。その限りで、19世紀前半のものに比べるなら、「疑似的アウラ」であった。
[1004] さて、この「ユーゲント様式」の〈軽さ〉が好村において「物象化」として批判の対象になっていると我々は解釈するのである。なるほど好村も、氏自身「物象」と等置する「ファンタスマゴリー」について、ベンヤミンにおけるその「弁証法」性を確認している(「弁証法的〈幻映(ファンタスマゴリー)〉」(60))。そして「物象化」そのものについても「二義性」(61)を語っている。しかし厳密に見るならそれは、「ベンヤミンがルカーチを通じて摂取した物象化のカテゴリーが持つ二義性、つまりプロレタリアートの物象化の否定的側面とその物象化をくぐり抜けるところにしかプロレタリアの解放はないという肯定に通じる側面と同じような二義性」と性格づけられている。そして、この「くぐり抜け」たところにイメージされているのは、プロレタリアートの解放と重ねられてはいるが、〈失われたなつかしい時代〉なのである。
[1102] 村上は、「古きよき世界」を本論では解釈上正確に−−ユング的に−−太古の世界としても理解しているが(168,172)、この太古の世界の再興である「革命によって人類が解放されたならば、人類は過去の失われた瞬間をすべて回復し、....幼年時代の楽園におけるような生活をふたたび始めることができるであろう」(188)と述べられている。そうすると、いわば過去ノ相で見るなら、すべての時代が「よき世界」となる。現在からみるなら19世紀も、とくにその後半や世紀転換期も「よき世界」だということになる。そして、そのような「世界」を現在なお残す所は貴重な歴史的遺産だということにもなる。すなわち、歴史主義的な解読である。流行の「風景論」のなかでベンヤミンが言及されることも多いが、その多くは、このような「古きよき世界」を描写したベンヤミンと見ている。
[1103] この見方では、−−我々の設問に無理に関連づけることになるという印象は拭えないが、それでも敢えて推測すると−−19世紀後半、とくに「ユーゲント様式」は、−−20世紀後半の現在から見るなら「よき世界」を構成するものではあっても、その当時においては−−モダニズム(現在主義)として、まさに「覚醒」によって過去を解体しようとして「物象化」に陥ったということにでもなろう。
[1104] しかしこれでは、19世紀の歴史主義を、そして「[過去の]顕彰や擁護は、歴史のプロセスのもっている革命的な契機を隠蔽しようと務めるのだ」(N9a,4)として一般に歴史主義的見方を批判したベンヤミンが完全に抜け落ちてしまう。「博物館には、一方では学問的な研究の、他方では「悪趣味の夢の時代」の要請に応えるという弁証法があることを強調しておくべきだろう。「....19世紀初頭は、後ろ向きに、過去にどっぷり浸かる傾向があったために、博物館を発展させた」ジークフリート・ギーディオン....。私の分析は、過去へのこうした渇望を主対象とするものである。」(L1a,2)とまで語るベンヤミンに対して、余りにも無理解ということになるであろう。
[1105] 先に見た富永は、特殊19世紀前半を「よき時代」として設定し、19世紀後半以降をこの「よさ」の喪失態と見る。また好村は、あるいは富永と同じであるかもしれぬが、可能性としては例えばH.Cecilが言う「自然的保守主義」として、自らが幼年期に体験したものが(大人になった現在)いまや失われたとして、現在を、その過ぎ去った過去の「よさ」の喪失態と見るものである。これに対して村上におけるベンヤミンでは、富永のたまたまそこに「よさ」があった或る一定の過去や、好村のいわば実体験としての過去とは異なって、一つのいわば〈観念〉としての過去が−−伝統として−−想定され、現在はそうした過去の「よさ」の喪失態として見られている。村上のベンヤミン理解は少なくとも一面的であって、ベンヤミンは実は歴史主義を批判しているのであるが、その場合の歴史主義は、こうした観念的な過去志向である*。
* この「歴史主義」については、西部邁の近著に即して「保守主義」「伝統主義」を検討する別稿において、詳細に検討する予定である。
[1106] 「概要」の「I フーリエあるいはパサージュ」では、確かに「フーリエはパサージュに協働生活体(ファランステール)の建築上のカノンを見ていた。....協働生活体はパサージュからなる都市となる。フーリエは帝政期の厳格な形式の世界のうちにビーダーマイヤーの色鮮やかな牧歌的風景を打ち立てる。この牧歌的風景の放つ光彩は色褪せながらもゾラにまで続いている。....カール・グリューンのフーリエ批判に対してマルクスはフーリエを擁護して、そこには「人間についての巨大な想念」があると強調している。」(9)と語られている。しかしこれは、「帝政期の形式」という古代世界を取り入れた形式を尊重して、つまり歴史の伝統を踏まえて(ビーダイーマイヤー風の)ユートピアが描かれている、というふうに(歴史主義的に)単純に理解してはならない。ベンヤミンは確かに歴史を肯定的にも語るが、それは「根源の歴史」として、いわば原像として「太古の世界」(8)を仮設しつつ、その「太古の世界」を−−ユートピアとして未来に投企するというかたちで−−「夢」として描いてきた(cf.8)、しかもそれが失敗に終ってきた時代の歴史としてである。「根源の歴史」とは、その失敗の背後に読み取られうる一つの〈ありうべき時代〉の(連続の)歴史である。しかもそれは、(時代の現実に対して描かれた)「夢」そのものから偽りを除去した部分として仮構される歴史である。古屋の言い方では、「両義性を孕んだ夢の諸像から....神話的負性を払拭し」[8.3]た歴史である。歴史主義とは、まさにこの「神話的負性」を伝統として尊重しようという傾向なのである。
[1107] 同じく歴史主義的にプルーストが言及されることも、これもまた非常に目につくところである。しかし、ここではプルースト解釈そのものに立ち入ることは差し控えるが、プルーストは非-歴史主義的に解釈することも可能である。まさしく「失われた時」が語られているが、その「時」はあくまで「記憶」のなかの「時」であると解しうる。そこでは「よき世界」は記憶として〈変容されたもの〉のうちにのみ在るのであって、決して(過去の)実在ではない。(〈変容〉として「記憶」は一つの解体であり、その「想起」は機能上「蒐集」と同じである。だから、先に見たようにベンヤミンは「蒐集は、実践的な想起の一形式である」(H1a,2)とも語るのである。)したがって、その遺産が残るなどということは原理上ありえない。ベンヤミンをこのプルーストに合せて解釈することも可能である。そしてその線上で「物象化」批判をも理解することが可能である。
[1108] (変容された)記憶形象が、そういうものとして意識されるのは「想起」においてである。それは、眠っていて夢そのもののなかに在るときは決して意識されない。したがってベンヤミンは「プルーストがその生涯の物語を目覚めのシーンから始めた」(N4,3)と言うのである。そしてベンヤミンはこの「目覚め」をもって19世紀に立ち向かうのである。「プルースト....同様に、あらゆる歴史記述は目覚めによって始められねばならない。歴史記述は本来、この目覚め以外のものを扱ってはならないのだ。こうしてこのパサージュ論は19世紀からの目覚めを扱うのである。」(N4,3)
[1109] 歴史主義者の方法が「感情移入」だとするなら、古屋の言うように[8.7]この「想起」はそれとは別物である。「想起」とは、それが可能だとして、過去の単なる再現ではなく、再現と言うとしても、変容を含んだ再現である。
[1110] しかし問題はこの〈変容〉である。実はベンヤミンから見たプルーストは単純であって、先に見たのとは異なっている。プルースト自身が幼年期に経験したものが記憶としてそのまま保存され、それがいわば単純に「想起」されるという格好になっている。因みにプルースト解釈として、「変容」はむしろネガティヴなものとして「想起」の時点で起こるという見方も可能である。「想起」は意識的作業であって、その意識の検閲を通るところで変容が生じてしまうというのである。だからプルーストは無意識的想起という恩寵の瞬間を待たなければならなっかたのである、とも解釈可能である。
[1111] では、そうであるならベンヤミン自身においても「想起」は単純なものであるのではなかろうか。決してそうではない。「想起」されるものはあくまで〈変容〉を含んだものである。だが、どうしてそうなのか。記憶の対象となっているのは「集団的夢」、つまり大人にとっての「夢[のようなもの]」−−その当時の大人が悪しき現実への補償の夢として作り上げたもの−−、「新しいものが古いものと深く浸透しあっているような形象、....願望の形象」(7)であり、我々の例でいうなら〈古い装飾を施されたガス灯〉であるからである。この形象が、古屋の言い方では「神話的負性の払拭されたもの」[8.3]として−−いわば〈子供が素直に見るガス灯〉に−−「変容」されて記憶に保持され、それが想起されるからである。(したがって−−プルーストにおけるように−−文字通り子供の記憶が想起される場合は、話はまた別である。)
[1112] そしてベンヤミンによるなら、こうした「想起」が可能であるためには、歴史を連続として、つまり歴史主義的に時代の積み重なり、したがって或る時点に過去の様式が残存的に重なり合っている流れとして見る見方を破壊する、そういう意味で脱-物象化的に見ることが必要なのである。
[1113] しかしながらこれだけでは、鹿島のように(ユーゲント様式の)世紀転換期を〈未完成の脱-物象化〉の時期と見るのでなければ、世紀転換期の〈物象化〉を処理できないことになる。やはり、この時期に特有の〈物象化〉をどうみているのかを明示化しなければならない。
[1202] 解釈の類型としては、この行き方のものがむしろ普通である。しかしそれは、その中で様々なのである。それはまず、我々の図式で言えば〈重み〉の実質の求め方にいくつかの途が在るからである。道籏は、「流動性のアウラ」をノヴァーリスの「感知可能性」と重ねているが、そういうロマン主義的な方向もその一つである。あるいはこれにかなり近いかたちで、例えばブロッホ的に神学的な解釈を採ることも可能であろう。
[1203] シュルレアリスムの線で、しかしそれ自身多様な解釈の余地をもつそれを純化して「美的モデルネ」の試みとしてベンヤミンを解することも可能である。例えばBohrer,K.H.「ベンヤミンにおけるファンタスマ=都市」(『思想』1994年6月号)はこの方向でベンヤミンを徹底しようとしていると言える。この見方は、社会との何らかの関わりのうちで一つの〈全体性〉として〈重み〉の回復を志向する行き方と決別して、いわば「蒐集」(という組み替え:「手術台の上のミシンとコウモリ傘」)において現出する、それ自身としての美的経験の「瞬間」のうちに〈重み〉を求めるものである。(因みにBohrerは、プルーストもこの枠組みで解釈している。)しかしこの行き方は、「芸術の政治化」をも説く限りでのベンヤミンと矛盾しており、純解釈としては誤りであろう。そして何よりも、シュルレアリスムがドイツでは根づかなかったことに示されているように、なお〈全体性〉を求める人々にとっては受け容れられるものではなかった。ベンヤミンは、あるいは不本意であったかもしれぬが、この〈全体性〉への志向をもつ人々に合せて「芸術の政治化」を説いたのだとも解しえる。
[1204] あるいはまた、文字通りプルースト同様にベンヤミンも、単純に自らの幼年期の回想にのみ生きた、と見ることも可能である。石光泰夫「ベンヤミンの「身体空間」」(『批評空間』II-2)は、この系統のものだろう。氏は言う。「「私」に固有の統合された身体など存在せず、「私」という「軟体動物」の身体は自在に形を変えてどんなモノのなかにも溶け込んでしまえる」空間。「ベンヤミンはこの空間を「身体空間」と、「シュルレアリスムス論」で呼んでいる。」遊歩するとき、「パッサージュの空間は、まさにそのような「身体空間」に変貌する。....「遊歩するとはこのまどろみのリズムのことだ」(「パッサージュ論」)。子供にはこの「まどろみ」はいっそう親しいものだ。」(69)「ベンヤミンの身体論はあのアリアドーネの糸を繰り出す快楽に倫理的なまでに忠実だっただけであ」(77)る。
[1205] ここには歴史主義の影はない。そして、この〈歴史主義的物象化〉をも含めて、19世紀全体の「物象化」も無視されてはいない。例えば「キッチュ」はまさしく「キッチュ」として押さえられている。しかし、そういう「物象化」への対処は、キッチュについてはそのキッチュそのものを「キッチュを克服するための唯一の手段」(71)としつつ、ただ「物象化」をいわば擦り抜けていくだけである。「ユーゲント様式」で言うなら、商品たちのあの「輝かしい光景」は、たとえ「物象化」されたものであろうと、そこに「快楽」が感じられるのは事実である、とおそらく言うのであろう。
[1302] 先に見た鹿島茂も、「[弁証法的]形象(image 像)を! なによりも形象を! これこそが、形象の偉大な蒐集家であったベンヤミンの最終的な言葉であった」(285)と解釈を締め括るとき、それがまさしく最終の言葉であるとき、構造としては石光とほぼ同じである。
[1303] 氏によるならば「ユーゲント様式」は不徹底ではあるとしても、「目覚め」の様式である。その「目覚め」の「いま」と過去が「想起」において出会うとき、そこに「弁証法的形象」が出現するのだが、しかしながら、何度も言うように問題は、その「目覚め」の様式が同時に「物象化」を含んでいるということである。
[1304] この問題に拘る限り、ポストモダニズムは袋小路に陥る。脱出の途はないのであろうか。表層的ヴァージョンのポストモダニズムはこの拘りを捨てる。それは、「物象化」であるとはもはやみなさないことである。先に、この「物象化」とはいわば〈軽さ〉であると解釈した。しかし、それがそもそも〈軽さ〉であるのは、そもそも〈重み〉を求めるからである。この〈重み〉を求めることをやめてしまえば、〈軽さ〉も存在しないのであって、したがって「物象化」ではなくなるのである。
[1305] この場合、なお「物象化」批判を言うなら、それは、そういう〈重み〉を求める主体の方の在り方への批判となる。ポストモダニズムはおそらくそのように論を展開していくであろう。しかし、このような批判をベンヤミンが考えていたとするのは、誤りであろう。ベンヤミンは−−モダニストとして−−〈重み〉を求めていたからである。そしてそれは、人々が〈重み〉を求めていたからである。そもそも人々は〈重み〉を求めていたからこそ、−−ユーゲント様式を含むモダニズム全体を(〈軽い〉とみなして)否定しつつ−−「政治の芸術化」として十分な〈重み〉をもって登場したファシズムを支持したのである。
[1306] しかし幸いなことに、ベンヤミンの時代とは違って、現在人々はもはや〈重み〉を求めたりはしていない。したがって、これと相関的に成立する〈物象化〉などを語る必要はない。今は、商品のファンタスマゴリーに身を委ねればそれでいいのだ。こうポストモダニスト達は語ることができるのだろう。だが、こうした語り口に苛立ちを覚える論者たちは多数いる。
[1402] 三島は、この箇所−−ただし、「歴史的には」以降は引用していない。あるいは、処理が一つの問題となる「アルカイック」を一応棚上げにするためとも了解できる−−を、「疎外された事物」のところ(Den entfremdeten)を正しく「疎外された人間」と訳出しつつ、「疎外された人間にとっては」というのは否定的な表現だとしてアドルノをその部分については批判しつつ、「表現(Ausdruck)」の成立を−−「弁証法的形象」として−−決定的な出来事として採り上げる(46)。
[1403] 安直にフィヒテの正・反・合の図式を持ち出して説明して申し訳ないが、三島は、直接的に「形象」を語る解釈(「正」)を「はるか19世紀やベルエポックへのノスタルジーとなる」もの、直接的に「形象」を否定する解釈(「反」)を「ロマン主義の岸辺に流れ付いた、挫折した革命ごっこのお兄さんたちの集団的自尉の儀式と堕する」もの、と批判しつつ、自らはまさに「[思弁的]弁証法的」に「合」に定位するのである(62)。
[1404] 具体的に「物象化」ということで言うならこういうことである。「疎遠さ」がすなわち「物象性」であるが、それが「室内」という「覚醒」の空間においては、「歴史的には」否定の対象であると同時に「自然の」ものとしては肯定の対象であるのである。そして、いづれも「仮象」であって、「物象」(「ファンタスマゴリー」)であるといえばその通りなのである。このアドルノの表現では「自然の仮象」と呼ばれるものが「弁証法的形象」なのである。それは、そこからの「覚醒」として「歴史的には仮象である事物」のその「仮象」を解体しつつ、しかし、その解体クズを材料にしつつ同様に「仮象」として現出するものなのである。そもそもベンヤミンの『パサージュ論』とは、このような「自然の仮象」を−−氏の言葉では「心象風景」として−−現出させるための材料と方法の提示なのである。
[1405] しかし我々から見て、『パサージュ論』第5巻「解説」における氏の解釈は歴史主義論に一元化されている。そこでは次のように語られる。「19世紀の文化は....19世紀のイデオロギーとして切り捨てるわけにはいかないポテンシャルを感じさせる生活スタイルである。歴史主義的な装飾群がいかに空疎であっても、そこになんらかの夢を感じとった経験が生きている。そうした夢のエネルギーが後にユーゲントシュティールへと変貌したことを、ベンヤミンは知っている。歴史の引用の織物が示すみかけの華美さと、「永遠に今日的なものであるモード」への視線は相互補完的であること、19世紀の襞へのこうした視線はまたきわめて「政治的」なものであることもである。したがって、志向する時間のベクトルは、過去のエネルギーを踏まえながらも、常に現代のアクチュアリティにある。「新しき天使」の視線のとおりである。「後ろ向きの予言者」は現在を凝視する天使になっている。」(418f.) つまり、(世紀転換期においては)〈歴史主義的夢〉が「ユーゲント様式」によって(、一般論的には、〈歴史主義的夢〉が「永遠に今日的なものであるモード」によって)解体・再編成されて、そこに「弁証法的形象」を結ぶ、という図式になっている。
[1406] 土屋も引用しているが[9.7]、そして鹿島もそうであるが、確かにベンヤミン自身「永遠なるものは....衣裳のひだ飾りのようなものである」(N3,2)と述べている。確かに「モード」は「既在のうちにひそんでいる爆薬(そして、その本当の姿がモードであるような爆薬)」(K2,3)と語られているのではあるが、ベンヤミンにおいても「モード」そのものが、解体・再編成の「モード」であるわけではない。厳密に言うなら、「モード」が何がしかの(いわば歴史主義的夢の)解体・再編成の「モード」ではあるとしても、それは「弁証法的形象」を現出させるものではない。「モードこそは物神としての商品をどのように崇拝すべきかという儀礼の方法を指定する」(15)のであって、「弁証法的形象」は、「モード」のそういう解体・再編成の仕方そのものをさらに解体・再編成するものなのである。三島の図式では−−「永遠に今日的なものであるモード」といういわば「美的モデルネ」的「モード」を、「永遠に今日的なものである」の所を(ベンヤミン自身の記述に即して)捨象していわゆる「モード」として了解する場合、そしてそれは「夢のエネルギーが後にユーゲントシュティールへと変貌した」という言い方を受けるとき自然に出てくるものであるのだが−−〈「モード」の「襞」というかたちで「弁証法的形象」を結ぶ〉という実質的結論を予想させるが、問題は、これで言うなら「モード」の「襞」というかたちの「物象化」なのである*。これを「物象化」と見ないのであれば、基本的にポストモダニズムと同じになる。
* 「モード」に潜む「爆薬」を爆発させるのが(美的モデルネの前衛である)アヴァンギャルドであるとして、三島はここに「弁証法的形象」の可能性を見るのであるが、鷲田清一(「哲学にアヴァンギャルドは存在するか?」『情況』1992年4月号 等参照)は、そうしたアヴァンギャルドの絶対的不可能性を語っている。いわば、すべてはいわゆるモードでしか、我々の観点から言うなら「物象化」を含むモードでしかありえないのである。
[1407] しかし、さすがに三島は、「このような形で[そのうちにモードが本当の姿で爆薬としてひそんでいるところの]既在へと歩み寄るということは、これまでのようにそれを歴史学的なやり方で取り扱うのではなく、政治的なやり方で....取り扱うということなのである」(K2,3)というところを踏まえて、「19世紀の襞」へ(さらに−−でなければならない−−)「政治的な視線」を向けることをも語っている。そのことによって、「襞」そのものに「弁証法的形象」を見るというポストモダニズムを批判している。先の「ノスタルジーとなる」という批判も、ポストモダニストへも向けられたものであると了解される。そうだとするなら氏も、このポストモダニストへの批判をも込めて「「事態のなりゆきに対する押し留め難い不信の念」を、今日の都会的な状況のなかで、すくなくとも心象風景として作り出すことができるか」(62)という課題を立てていることになる。しかしながら氏は、この自らにも課した課題、そしてそれはベンヤミンの正しい解釈という課題にもなるのだが、その課題を実質的図式を提示することによって具体的に果たそうとして、果たしきれずに躓いているのである。
* 古屋の結論は、別稿「未知なる領域としての言語」(『ドイツ文学』87)を見るとき、いま少し明らかとなる。そこではベンヤミンの「純粋言語」を「戯れのトポス」と解するデリダに対して、「アレゴリー的急転」におけるそうした「戯れ」を超出する「救済」の可能性が読み込まれている。しかし、まだ一読しただけであるので早急に語るべきではないのだが、この「救済」も具体的イメージをもたらさない。
** なお論ずべき点が数多く在る。代表的な解釈としても横張誠の諸論稿が残されている。次の仕事として、解釈の類型をもう一つ付け加えるべく、この横張の議論−−そのポイントは「寓意家(アレゴリカー)」を「遊歩者」から明確に区別するところにある−−の紹介・検討がある。そして我々としては、ここにキルケゴールを絡ませていけると考えている。ただしそれは、(アドルノが批判するような)審美家としてのキルケゴールではなく、審美主義批判者としてのキルケゴールである。それはしかし、宗教家としてのキルケゴールではない。モラリスト(人間観察者)として審美的人間を分析し、自らの経験に即して審美的段階を去らなければならない(ならなかった)ことを説くキルケゴールである。これについては、ずっと昔、修士課程在学中にレポートとして提出したものがある。返却されたとき捨てないでおこうと思ったという記憶が在るので、探せばどこかから出てくると思うが、発見でき次第〈次の仕事〉に移りたいと思う。ここでは、それは、ベンヤミンが例えばJ63,4で引用しているようなキルケゴールであることだけを急いで述べておく。
はじめに
[0] 以下において、『ドイツ哲学誌』1995年第6号「家族と公正」特集にアクセル・ホネットが寄せた論考「公正と情愛の結びつきとの間で−−道徳上の論争の焦点にたつ家族」*の内容を要約的に紹介する。この雑誌の編集同人の一人であるホネットは、一時ハーバーマスの助手をつとめたことがあり、「フランクフルト学派第三世代」という言い方をすればそのリーダー的存在とみなすことができる。彼の家族論は、キャロル・ギリガン以降北米で展開を見ている「ケアーの倫理学」から強い理論上の刺激を得ていることは言うまでもないが、他方で、すでに1930年代にマックス・ホルクハイマーが組織した共同研究「権威と家族」以来の理論的伝統に根ざすものでもある。それ故、ホネットの論考の内容紹介に先立って、ホルクハイマーの問題関心の要点解説を付した。加えて、きわめて明快でかつ興味深いこの論考に対する紹介者自身の感想を、最後に添えた。
* Axel Honneth, Zwischen Gerechtigkeit und affektiver Bindung--Die Familie im Brennpunkt moralischer Kontroversen,in: Deutsche Zeitschrift fuer Philosophie 6/1995, Schwerpunkt: Familie und Gerechtigkeit(Herta Nagl-Docekal), S.989--1004.
Honnethは"Desintegration−Bruchstuecke einer soziologischen Zeitdiagnose"(Frankfurt/M 1994)でも、第九章で「家族の構造転換」を主題として取り上げている。
〔1〕ホルクハイマーについて一言
[1.1] ホルクハイマーは市民社会の「冷たさ(Kaelte)」ということを繰り返し、ただし常についでのように口にした思想家だった。その時考えられていたことが「感情の希薄さ(Gefuehllosigkeit)」であったことはほとんど同語反復のように明らかである。冷たいのは「目的合理性(Zweckrationalitaet)」によって隅々まで支配し尽くされた、「すべてのコミュニケーションが取り引きである」ような(「契約関係であるような」と言いかえても差し支えないだろう)社会だった。
[1.2] では、ホルクハイマーは「暖かみ(Waerme)」をどこに見い出していたのだろうか。有力候補として「家族」が名乗りを挙げえたと考えることは見当違いではないはずである。けれども、家族を「愛」を唯一の原理とし「調和」の支配する安らぎの場、社会からの避難所とみなすオプティミズムはフロイト以降もはや成り立たない。イデオロギーの嫌疑を免れることはできないだろう。家族とは、葛藤の場であり、ヒステリー患者の工場であり、わけても「権威の学校」*に他ならない。ところで、ホルクハイマーにおいて「権威(Autoritaet)」は「自律(Autonomie)」と常に手に手をたずさえる概念である。「権威に弱い性格」は「自律した性格」に対置される。ホルクハイマーにあっては−−『権力の批判』でホネットが詳細に分析しているように、アドルノにおいてもまた−−家族は、自律しているように見えてそのじつ権威に弱い、適応・迎合(Anpassung)に長けた社会的成員の製造の場、自然支配をこととする社会関係が内的自然支配という形で人間の内側にまで浸食してくることを可能にする媒介機関である、という話しになってしまう。
* Max Horkheimer: Autoritaet und Familie(1936),in: Gesammelte Schriften Bd.3, Frankfurt/M 1988, S.399f.
[1.3] ここから『権力の批判』のホネットは、ジェシカ・ベンジャミンらの研究を援用して、ホルクハイマー/アドルノの家族論が、「理性の自然支配」モデル、「主体/客体」モデルに依拠するあまり、家族における間主体性の側面に対していかにSensibilitaetを欠いた理論の展開に陥ってしまっているかを暴露してゆくのである。例えば、子供が父親の権威との戦いを通して自我を確立・強化してゆくというストーリーが、核家族においてはもはやスンナリ成り立たなくなる、というのは事実だとして、どうしてそこから「自我の弱体化−−文化産業によるエスの直接操作」という話に突き進んでしまうのか。例えば「母親のはたす役割りの重要性の高まり」という方向に話がすすんでも少しもおかしくないはずではないか、と。*
* Axel Honneth: Kritik der Macht, Frankfurt/M 1986, S.106f. 邦訳:『権力の批判』法政大学出版局 叢書ウニベルシタス 369 (120 頁-- )
[1.4] もっとも、ホルクハイマーは「個人 − 家族 − 社会」という三項関係において、家族を社会のAgenturとして捉える視点のみならず、社会から個人を保護する機関として家族を捉える観点をも全く欠落させていたわけではない。特に、ナチズムのような強制的管理支配体制下では後者の機能の意義は相対的に増したはずである。実際、前者の視点からのみ考えると、家族解散(解体)、反権威主義的教育の方向に突っ走ってしまいそうなものだが、ホルクハイマーは、ほったらかしにされた子供が強い自我を形成するというものではないことを、きちんと押さえていた。* 家族は「反権威主義的要素も含む」**とさえ言うのである。(統一後のドイツで、若者−−ちょうど「六十八年世代」を親にもつ子供たちだった−−による外国人への暴力事件が続発するのを眼前にして、その「六八世代」の人達が、反権威主義的教育の是非について反省する作業に追い込まれる、ということがあった。)
* Horkheimer, Autoritaet und Familie in der Gegenwart(1947/1949),in:GS 5, Frankfurt/M 1987, S.394
** Horkheimer, Autoritaet und Familie, S.408
[1.5] けれども、その場合もホルクハイマーは、強制支配から個人を護る原理として「自律」を掲げうるのみで、手持ちの概念装置はそれ一つきりなのだ。「暖かみ(Waerme)」を可能にするものについて積極的に理論構築してゆくことはできない。理性を補う原理として感情について語ろうとする時も、ホルクハイマーの否定主義の立場が「共苦(Mitleid)」というようなnegativなそれについて語ることしか許さなかったのだ、ということか。
[1.6] こういう理論史的背景に立って考える時、ホネットの論文のタイトルが「公正と情愛の結びつきとの間で」であることは、いかにも象徴的だし、議論の方向性も既に予想できるような気がする。
〔2〕アクセル・ホネット
「公正と情愛の結びつきとの間で−−道徳上の焦点にたつ家族」
(1) 前史
[2.1.1] 近代(現代)の家族は、資本主義的な工業化の進展の動きの中で、プライベートなものの場所として確立されてきた。小家族(さらには核家族)の定着の過程である。
[2.1.2] この近代家族を構成する諸関係が抱え込むmoralischな問題として、次の三点が挙げられうる。
(一) 家族を構成する中核中の中核である夫と妻の関係に関して:
これを、社会的・政治的影響の一切から解き放ち切り離すべきか、またどの程度までそうすべきか。
この問いの背景には「結婚というものは、もっぱらお互いの愛情のみに基づくものであるべきで、それ以外の打算に依存すべきではない」という理想がある。
(二) 親の子供に対する関係について:
子供を働かせることによって親が経済上の支えを期待することは認められるか、禁じられるべきか。
「子供時代というのは外部から特別に保護されるべき独自の一時期をなす」という考え方が、理想として、近代家族において初めて生まれた。
(三) 家族全員(妻・夫・子供たち)に即して:
資産はどのようにして公正に分配されるべきか。
新しい家族観には富の分配・財産相続をめぐる「平等(Gleichheit)」の理念が結びついている。
[2.1.3] これが、十八世紀中盤以来、小家族という新しい機関をわずらわせてきた三つの問いである。
[2.1.4] その後の約二百年の展開が示しているのは、家族にまつわる(上記三つの理想に照らしての)社会的な弊害・問題というのは、いずれも、「家族が社会という枠組みから依然として不十分にしか身を振りほどいていない、切断・分離されきっていなかった」という事実に由来するものだった、ということである。夫婦関係を社会的影響から解き放つことにせよ、子供の労働の禁止にせよ、財産配分の法的規整にせよ、家族をプライベートなものの場として確保するためにこそ解決されなければならない問題だったのだ、という風に特徴づけることもできる。
[2.1.5] けれども、階層固有の時間のズレはあるにせよ、この間、上記の理想に呼応する状況が大体において達成されている、と言えるのではないか。つまり、肝腎なところでは社会的・経済的な強制によって規定される機関であったものが、変じて、今では、純粋に二人の関係だけから成り立つ構造ができあがっている。感情の結びつきが人と人とを結びつける力の唯一の源泉であるような関係構造としての家族 ! メンバー個々人の感情が、そしてそれだけが、キーとなるような生活の場としての家族 !
(2)現状分析
[2.2.1] 今や、もっぱらプライベートな生活のために別個に確保された領域というものが、家族に対して開かれた。 (一) 結婚というものをもっぱら愛情関係の内に繋留させること (二) 児童労働の禁止 (三) 財産分配の法による規整−−この三点を通して。
[2.2.2] もちろん、この達成に関して、市民層において速やかに実現され、(肉体)労働者層は長い闘争を必要とするという階層間格差はあった。とはいえ、二十世紀も初頭に入る頃には、大部分の層において、近代的なタイプの家族を形成するための条件は整っていたと言えるだろう。それ以来、家族は、いわばautonomな(社会関係からは独立した)展開を示し始めた(家庭生活の伝統からの脱却)。そして、そこから、家族とそれを取り巻く社会的・経済的世界との関係をではなく、家庭生活そのものの内部を襲う新たな(これまでになかったタイプの)危険が生み出されてくることになる。
(ホネットは、このプロセスを「逆説的」と形容する。本当に「逆説」か。いかなる意味で逆説か。)
「新たな危険」 その一
[2.2.3] 家族が社会的労働の領域に直接結びつけられていた間は、内部の関係が感情の動きにのみ支配されるという余地は少なかった。ところが、結婚するか否かが社会的・経済的計算から独立し始めるにつれて、家庭を築くという決断が、パートナーが相手に対して抱く感情の動き(のみ)に規定される度合いがどんどん高まる。つまり、二人を結び付ける要因というのは「純粋に」ひたすら積極的な感情の存在のみ、ということになり、この関係の運命はひとえにこの感情が持続するか否かにかかってしまう。
[2.2.4] ところが、よく知られているように、お互いに対して向かってゆく感情というものは、「意思の力で自由に動かすことのできない(unverfuegbar)」もので、つまりは、二人の関係というのは、どんどん「不安定な、もろい(fragil)」ものになってしまう。つまり、伝統的な役割分担・役割期待から切り離されて、家族は、どんどん個人の感情や気分の流れ(気まぐれ)に左右されるものとなる。(愛のロマン主義!)
[2.2.5] のみならず、結婚というものが、感情面での結びつきの表現以外の何物でもない、という話しになると、愛情と家族(という形式)との間に関連があるべきである、という考え方の解体を阻止できるものは何もなくなってしまう。「性愛」「結婚」「同居」「子育て」の結びつきは「感情」が前面に出てくる中で、ばらばらになってしまう。
「新たな危険」 その二
[2.2.7] 第二の展開は、性差に特有の役割り分担というものが徐々に解消されてきた、という点に関わる。特に、それは、女性が労働市場に組み込まれてゆくことを典型として(家族の外の)社会という場で起こっている。もちろん、近代家族の理念が成立したのは、性差に固有の特性に関する紋切り型的偏見が未だ強固な時代であったから、ロックからヘーゲルまで、男は外で働いてお金を稼いできて家長として君臨し対外的に公的役割りも担当するのに対して、女性は子育てと家事に心を配る、という伝統的見解に囚われていたけれど、市民層より下の階層の小家族においては、そういうクリシェー通りに事が運ぶものではないことは、早々と明らかになった。一方で、父親の仕事は不安定で大した力になどならず、他方、母親は家事に専念する余裕などもてはしない。伝統的な役割り分担のこの解体過程は、例えば、三十年代以来の「父親の権威失墜」をめぐる議論にも反映している。ましてや、先進工業国で女性の職場進出が進みだすと、伝統的な女性イメージはますます疑問にふされることになり、クリシェーは、家庭の外・社会における性別役割り分担のみならず、家庭の内側でのそれを正当化する力も失ってしまう。つまり、性差に特有の仕事の分担を正当化する伝統的な主張は、家庭の外での動向に促されて、既に説得力を失っているのだが、にもかかわらず、家庭の中では「男の習慣性(惰性・怠慢)」からくる力づくの抑圧のもとで、家の中で男の疲労回復を助けたり子供を育てたりする仕事は、相変わらず女に押しつけられるという状況が続いている。今や、社会ではなく、家族こそが、女性の個としての自律の実現を阻み、女性が、癒されるどころか、傷つけられる場の最たるものとなってしまっているのである。k (この状況描写は、しかし、ドイツや、さらに顕著にはフランスやアメリカにはあてはまるかもしれないが、日本では、どうか。)
「マトメ」
[2.2.8]
(1) 家庭生活が脱因襲化するにつれて、子供の傷つけられ易さは「とてつもなく(enorm)」増大した。子供たちは、大人がころころ変わる感情に合わせて下す決断や行為から自力では自分を守れず、その犠牲になってしまいかねない。
(2) 家庭生活が脱伝統化するにつれて、家庭内部での分業が、それこそ、女性の自律の実現を阻む主たる社会的制約をなすに至ってしまっている。
(3)思想史的回顧
[2.3.1] 家庭生活において女性に帰せられるべき役割りが元気回復と子育てのための仕事である、という点では、哲学者たちはおおむね見解の一致を見ていたわけだが、家族関係に正当性を与えるための立論においては、二つの対照的な、しかも共に大きな影響力を持ったモデルを取り出すことができる。即ち、契約関係に基づけるモデルと、感情の共同性に基づけるモデルと。
「I」カント
[2.3.2] 結婚を、二人の自律主体の間で結ばれる契約の内にその最内奥の核が存在する関係として、最も首尾一貫した形で解釈したのが、カントだった。
[2.3.3] 自然な「性の共同態(結婚関係)」は、性を異にする二人の人格を結びつけてお互いの性的特性を生涯にわたって相互に所有し合うようその結びつきを調整する、そのような契約に基づいている時、法に適っている、と言える。
[2.3.4] カントがこういう理論構成をせざるをえなかった前提にあるのは、彼の「道徳的自律」の概念だった。つまり、カントは、お互いを(実際には男が女を)もっぱら性欲の対象(客体)として取り扱ってしまう、その危険を性関係の内に見い出していたわけだ。もちろん、それでは、人格を単なる手段として取り扱うことを厳しく禁じる彼の考えと衝突することになる。
[2.3.5] この危険は、二人の人格が互いを「もの(Sache)」として獲得しつつ、しかし、そのことを通して自律した契約相手と捉えその人格性を再建する、そういう条件の下でのみシャットアウトされうる、とカントは言う。とにかく、相手の性欲の単なる客体になってしまうという危険から身を護るというdefensiv-negativな関心が土台にあり、そのためには、お互いに対して同等の権利を保障する契約こそ最善の方法だ、と見るのである。人間が自然にそなえる性欲の充足という点にからめて結婚の正当化をはかる、というのはキリスト教の伝統に属し、カントも、性的快楽そのものの内にではないにしろ、そこからくる人格「客体」化の傾きの内に存する道徳的な危険を取り除くことに、結婚の根拠を認めるのである。逆に言うと、結婚とは、人が道徳的尊厳を失うことなく性欲を充たすことのできる社会制度だ、ということになろう。
「II」ヘーゲル
[2.3.6] この契約への還元主義的な見解にヘーゲルが真っ向から異論をぶつけたわけだが、彼の異論も同じくキリスト教の伝統の活性化という面を持つ。即ち、結婚を、性的快楽がはらむ危険からではなく、感情的関係の持つ道徳的実質から説き起こして正当化しようとするのである。
[2.3.7] それによれば、結婚とともに全く新しい何物かが生み出される−−二人のパートナーの互いへの愛が、二人の人間の間により高い一体性を成立させる、そのような合一を可能にする限りにおいて。(なんとロマンティックなことか。)『法哲学』においては、ヘーゲル自身、このモデルをカントの契約モデルに対抗する代案だとはっきり意図して提出している。
[2.3.8] ヘーゲルは、結婚を単なる契約関係に還元するやり方は、二人の関係の実質をなすものを捉えそこなわずにはすまない、と言う。なるほど、いかなる結婚も契約を結ぶという形式をふむことによって初めて打ち立てられるわけだが、この契約の締結は、現実に感情の共同性が築き上げられ遂行されることの内に「止揚(aufheben)」されるためにこそ存在するものだ、と言う。パートナー一人一人の願望や欲求が権利として主張されねばならないようでは、既にもう成功した結婚とは言えない。そう言えるのは、その願望や欲求がお互いに愛し合い手を差し延べ合うことを通して充足に至る場合にのみなのだ。だから、お互いに離ればなれのパートナーが、その目的に達するために、いかなる感情を形成することもなく相手に対する要求を掲げ合わねばならない、というような権利の関係をモデルにして結婚や家族を考えることは、誤りであるのみならず、醜悪ですらある。
[2.3.9] この考察には、ヘーゲルがイエナ期にあたためていた、様々な「承認」の形を区別するという考えが土台を与えている。つまり、契約関係においては、主体は互いに対等の権利の担い手として相手を認め合うのに対し、愛や家族というものは、互いに心を差し向け合うことを通して個々の欲求そのものが確認を得る、そういう承認のあり方として特徴づけられるのである。
[2.3.10] 要するに、家族というものは、互いのpositivな感情の合一こそがそれぞれの願望の充足を可能にするのであるが故に、決して単なる権利の関係を示すものではありえない。
[2.3.11] さて、問題は、愛における合一というものが、家族において、契約関係を単に補うものなのか、それとも、これに完全に取ってかわるものなのか、という点なのだが、ヘーゲルはこの点を曖昧なままにしている。上に、「aufheben」の語が用いられたが、ヘーゲルはここでも(しばしばそうであるように)どちらの解釈も許すような仕方でこの概念を用いている。
[2.3.12] で、問題をより具体的に把握できるようにするために、ヘーゲルの考えを強く解釈して、カントのモデルに対する完全な代案(Alternative)へとねり上げることが許されるだろう。すると二つの範型が成立する。権利モデルと感情モデル。
(1) 権利モデルにおいては、家族のメンバーの関係は、権利と義務という範型に従って構想される。社会の関係が一般にそうであるのと同じように、家族においても、一人一人の人格は一定の権利要求をなしえ、それは他のメンバーによって満たされねばならない。各自が他のメンバーの正当な権利要求に応じる義務を負うことになる。
ここでポイントとなるのは、権利・義務に関するメンバー間の左右対称性・互換性ではない。肝腎な点は、家族外で道徳的自律の原理のもとに確立されているのと同じ公正性が、独特の条件のもとでではあれ、家族においても支配するのでなければならない、というその考え方なのだ。このモデルでは、公正という普遍原理が、家族の中で独特の文脈にふさわしい仕方で適用されるのだ、とも言える。「家庭の中でもパートナーの道徳的自律を尊重し、また子供の場合、自律の貫徹がうまくゆくように手助けをしてやる、そういう行為、姿勢が公正なのだ。」権利をそなえる人格への尊敬という最低限の条件が感情を盾にとってふみにじられることは、家庭においてもあってはならない。
(2) 感情モデルは次のような直観から出発する。
家庭において、メンバーから、権利主張の性格をおびた要求が掲げられる時には、家族生活の(道徳的)実質は既に壊されてしまっているのだ、と。なぜなら、家族の成員の間の関係というのは、うまくいっている時には、権利と義務のやりとりの内にではなく、気づかいと思いの差しむけを互いに保障することの内に成り立つものなのだから。このモデルの要点は、(同じく、左右対称性・互換性にはなく)家庭内での道徳的姿勢の源泉は、権利と義務への合理的洞察なのではなく、思いやりと愛の感情あるのみ、とする観点である。このモデルを土台にする場合も「公正」について語ることは可能である。すなわち、公正なのは、ここでは、一人一人の家族の成員の欲求がそのあり様にふさわしい仕方で充足されるよう手助けする、そういう行為と姿勢なのだ。
(4)現状へのモデルの適用
[2.4.1] この両モデルが構想されてから二百年が経過し、それらが理想として掲げたところと家族の現状との間には、架橋不可能な溝が口を開いているかに見える。一方で、性というものをそれ自体道徳的に非難さるべき対象とみなす見解は、性の解放を経て今や力を失い、従ってお互いを性的に道具化する危険に対してわざわざ契約でもって対処する必要などもはや存在していまい。他方、家族の自律化こそが、権利保護の対策を講じなければならない状況を生み出してしまっている現実は、ヘーゲル的「契約モデル」批判からも我々を遠ざける−−−−−ように見える。
「家族とは、両方の道徳的志向が休みなく衝突し続ける、そういう社会領野だ。」
「家族の中で、愛によってお互いを認め合うあり方の独自性がものを言い始めるのは、いや、むしろ、言い終わるのはどこからか?」
「他ならぬ相手を思いやる行為こそが、相手の個人的関心を傷つけてしまうことが容易にありうるのだ。というのも、往々にして、そういう行為は、最高の善意に基づいて、しかし相手の欲求への誤った解釈に基づいて行われるものなのだから。」
(5)付言
[2.5.1] 公正の原理と感情的結びつきのそれとは、安定した両立関係に落ち着きうるものでは決してない。それは、緊張をはらんだ関係でしかありえず、しかもそのバランスの発見という課題に対しては、これとして差し出されうるような解答はなく、プロセスの中で発見されてゆくしかない。
[2.5.2] 「それぞれの家族は、自らに特有のケースにあって、正義という普遍原理に対してどこで限界線を引くべきかについて、可能な限り強制にならない仕方で、話し合い了解に達する努力を繰り返さなければならない。理性的に洞察されたことをあらためて感情的姿勢の中へと移し戻し入れてゆく個々人の能力がどの程度に及んでいるかは、家族成員が議論の応酬を通して一緒に探ってゆくしかない。家族の将来は、ディスカッションを通しての反省−−それによって公正と感情的結びつきとの間の適切なバランスが常に新たに見い出されてゆくのだが−−という能力を育んでゆくことにどこまで成功するかにかかっている。」
〔3〕感想
[3.1] この論文を読み要約の作業をする中で、私は約十年ぶりに「家族」について考えることになった。そして、かつてと比べて、その議論の内容もそれを受け止める自分もものすごく変わってしまったようでそのことに強い印象を受けた。その変化は「家族解体」という言い方に対する反応に関わる。かつて私は「家族は事実として解体しつつある」のみならず「家族は解体されるべきである」と考え感じていたとおもう。例えば
「家族という集団自体の原理というものは、内部的には元来市民社会的なものではなくて、普通は共同体的なものですよね。ということは、市民社会的な個人とか、近代的な自我というものとは、どうしても矛盾する面を家族という集団は持ってくるわけです。その矛盾がどうしようもないところまできているのが、現在じゃないかと思うんです。それは現象としては、よく問題になっている家族の解体とか、独身主義とか、、、、、」*
というような事実判断に1986年の私は心底うなずいていたのみならず、
「ぼく個人の考えを言うと、制度としてのモノガミーというものは、廃止すべきである。というのは、モノガミー一般を廃止すべきだとは言っていないんですけれども、制度としては廃止すべきである。つまり結婚しないことのほうを原則とすべきであって、どうしても結婚したいペアーだけが結婚する。結婚してもいい、そういうのがいいだろうと思うわけね」**
という当為判断にも、それを「家族解体」への呼び掛けと理解した上で全面的な共感を抱いていたと思う。
* 見田宗介『現代社会批判< 市民社会の彼方へ >』作品社 1986 年、115 頁。
** 同書 122頁。
[3.2] 同じ86年刊の別の本の中に
「<近代>が終焉しつつある。<近代家族>もまた「終焉」しつつある。一部の人々は家族が「解体」しつつあると捉えて、自立を求める女たちが、家族の解体に手を貸していると非難する。だが、「解体」されつつあるのは、たんに<近代家族>にすぎない。言いかえれば、家族は「解体」ではなく「再編」されつつあると言える」*
とか、あるいは
「女たちは家族や生殖からの解放ではなく、抑圧的でない性愛、抑圧的でない生殖、抑圧的でない家族を求めている」**
というような言葉を見い出して、「なるほど」と感じながらも、しかし、私自身は、結婚せず家族を持たない路線をそのまま突き進んだ。
* 上野千鶴子「近代家族の解体と再編−−核家族の孤立をどう抜け出すか」『女という快楽』勁草書房 1986 年、134 頁。
** 上野千鶴子「女性にとっての性の解放」、同書 269頁。
[3.3] それが、今回、上記の見田宗介氏の言葉にぶつかって、私が感じたのはむしろ異和感だった。そして、解体をめざすものではないホネット−−「六八世代」の彼がかつては解体論者であったことを、私は憶測する−−の論文にはひたすらなる共感を抱いた。以下に、ホネットの論文に対する感想を、「家族解体」という言い方に対する私自身のこの感じ方の変化にこだわりつつ、少し記しておきたい。
[3.4] 家族解体論は、家族を、対等ならざる力関係が折り重なり入り組み合う一つの修羅場と捉えた。男と女、親と子、年寄りと働き盛り、長男とそれ以外...。左右対称の関係などほとんど一つもない。にもかかわらず、家族を愛といたわりが支配するハーモニーの場である、と言い張るイデオロギーが、この非対称の力関係を隠蔽し抑圧の構造を温存する。その際、強い立場の方に立つ者の愛やいたわりは「無償の愛」とか「無償のいたわり」という面を持つがゆえにどうしても「施す」という性格を帯びずにはすむまい。施される愛やいたわりに対して感謝ではなく反抗で応じるなどということでもしようものなら、極めつけの忘恩の振る舞いとして弾劾されることになっただろう。この押し付けがましい愛に異を唱え押し返そうとすることは容易ではあるまい。
[3.5] その時、「愛・いたわり」の原理に対置されたのが−−今から思えば−−「公正・正義」の原理だったのだと思う。「なるほど、汝は父で私は子かもしれない。しかし、我々は共に同じ人間ではないか。だから、汝の意見であれ愛であれ、押し付けは差し控えていただきたい」というわけだ。我々がともに同じ人間であるのは「自律した人間として」という条件付きではあっただろう。だから子が二十歳になっていなくても一人前の人間であるかのように扱おうとし、またそういう反権威主義的な教育が目指されもしたのだろう。「妻」と「夫」の関係であれば、この「自律」ということを単なる理念・立て前にとどまらせず実質化するために、妻が経済的にも自立する途が追求されたわけだ。
[3.6] ホネットの論文から学びうると思うことは、家族をこの「正義・公正」の原理のみが支配する場たらしめようとすると、その試みは(単に「近代家族」のみならず)家族一般の解体に寄与することになってしまうだろう、という点だ。家族関係には、自律した人格同士が対等な条件のもとで公正という普遍的原理に従って結び合う契約関係というものにはつくされない面が含まれ、そればかりか、その面こそがこの関係の精髄をなすのだから。例えば、結婚する時、他の男(女)は皆眼中から消え相手のことしか考えられなくなり相手一人この世にいてくれればよい、というような排他的な、普遍性のかけらもない感情、感情の強度というものが一つの条件になってはいないか。相手の心の動き(欲求や関心)に対するSensibilitaetというのは、感情の強度と一体になることができるのであり、それは、たとえば「人類愛」(普遍的正義だ!)などというものが人と人の違いに対する鈍感さと感情の希薄さ(人類すべてに対して強烈な感情など抱いていたら身がもたないだろう)のおかげで辛ろうじて成り立つのであろうのと好対照をなす。あるいはまた、子は親と契約を結んでしかる後に産んでもらうわけではもちろんないし、老人が寝たきりになったり呆けたり、家族のだれかが重い障害を持つ身になるや、もう自律した人間同士の対等の関係とは言えないというわけで、契約は解除してあとはおかみ任せ、福祉行政任せにするなどという話にはならないはずなのだ。
[3.7] 要するに、家族解体論というのは、正義・公正そして自律という理念だけで理論武装して家族について考えようとした−−「愛」の方は全く無視したわけではないのだが、家族というような「形式」がなくても「愛」は成り立ちうるから、とさしあたり「家族」論から切り離した−−その結果の、必然的なれの果てだったのではないか。
* 横塚晃一『母よ!殺すな』すずさわ書店 1984 年(増補版第二刷)。
異なった論点からではあるが、同書への言及が「<障害>の視点から見たろう文化」(『現代思想』1996年四月臨時増刊、総特集<ろう文化>46頁-)でなされている。
[3.10] けれども、その後、自立生活を始めた多くの障害者たちは、決して、この「正義・公正」原理に基づく介護体制に支えられた自立生活に自足し続けなかった、と思う。介護という行為にあっては、「これはなされるべきことである」という発想に基づいてのそれは、むしろ薄っぺらなもの、うさん臭いものですらあることが多い。自立障害者たちは、正義感や義務感に従って介護に来る介護者だけではあき足らず、もっと強い感覚的・感情的動機に発して介護に来る人間を求め始めるのだ。介護者が、他の人といるよりも充たされた時を過ごせるからこそ介護に来るという風であることを期待するようになるのだ。パートナーを見つけたり、子供をもうけたり、結婚したりというケースがそこここに生まれてゆく。家族がきずかれるのだ。
[3.11] 重度障害者たちが自立を実現したのは、学生たちの正義・公正の感覚に発する介護を通してだった。ここでは「正義・公正」が「あふれんばかりで盲目の愛」の押しつけを突破する上で大いに貢献した。しかし、人は、そこで充たされて留まりはしなかった。幸福であろうとして、例えば、一旦は否定の対象であった「愛」なるものにも向かい始めるのだ。
[3.12] 問題は、その両者の関係はいかにあるか、である。正義の原理に基づく介護者たちとの関係を、愛に基づくパートナーとの関係と、いかにして自立生活の内部で両立させてゆくのか。両立が実現されているケースでも、きっと、ものすごい綱渡りが行われているにちがいない。
VERSION 2
1996/08/08
1. 原稿は、原則として、MS-DOS等の純テキストファイル(ダウン・ロード用*、ファイル名の拡張子はtxtとする)(A)と、それをHTML言語で加工したもの(拡張子はhtmとする)(B)との両方を、3.5インチ720KBフォーマットのフロッピー・ディスクで提出する*こと。(HTML言語の表記法はごく簡単なので、プリント・アウトしたもので表示を指示して頂ければ、(B)は編集担当者の方で作成するので(A)の提出だけでも構わない。)なお、ファイルは(当分)圧縮しない。
* (ソース・ファイルではなく)表示ファイルをダウンした場合、それがどのようにテキスト・ファイルに変換されるかまだ未知の部分があるので、取り敢えずはこれも提出する。
** 将来は、電子メール(等)での提出も考える。
2. ページ(というもの)が存在しないので、(引用の便等を考えて)各段落に通し番号を付すこと。
3. コードは(パソコン標準の)shift-jisを用いること。そうでない場合は編集の段階で変換しますので、用いたコードを申し出ること。
4. イタリック、強調、活字の大小に限っては各ブラウザーで表示できるので使用しても構わない。(B)では必要に応じてHTML言語で記述すること。その場合(A)では、印刷時に変換できるように、そのまま(B)での記号で、あるいは仮の記号で指示すること。(因みに本号の安彦論文では、強調の箇所は強調タグで囲って指示している。)
5. (ロシア語、ギリシア語と違って)ドイツ語、フランス語の特殊文字はshift-jisコードでは表示できない。(B)では、(ISO8859-1の符号を使って)一部ブラウザでは表示可能だが、日本語文中では表示不可能のブラウザが多いことを考えて、用いる場合は適宜工夫した表示をすること。(A)では、これも仮の記号等で指示すること。
6. 註のつけかたは特に指定しない。(B)では、論文末にまとめて本文関連箇所とリンクさせる等、適当に工夫しても構わない。
7. 参考文献紹介については、(本号安彦論文のように)別のデータベース・ファイルとリンクさせても構わない。
8. 論文執筆日時を明示すること。
* 「執筆要綱」に関しても、アドヴァイス等を頂ければ有難く思います。
本号で第2号となった。一応軌道に乗りつつあると感じている。非常勤講師として本学部でも講義していただいている藤野氏には、日本ではまだあまり知られていないフランクフルト学派の家族論を紹介していただいた。安彦は、拙稿「ランドスケープの倫理学(一)」で言及していたベンヤミンについて、かねて感じていて、不満ももっていた解釈の多様性を明らかにする意図で本号論文を執筆した。これは、諸解釈間での論争が今後なされることを強く希望してのことである。(安彦記)
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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)
1996/08/15 作成