補遺:景観(紛争)をめぐって ― 吉永明弘氏論稿への応答として ―

 

安彦一恵

 

 

キーワード:景観(紛争)、自由民主主義、価値と趣味、選好強度、仮想評価法、倫理、吉永明弘、松原隆一郎、安彦一恵、Y-F・トゥアン、

 

 本稿は、『公共研究』(千葉大学公共研究センター)第4巻第1(2007)所収の吉永明弘(以下も敬称略)「人間主義地理学は環境論にいかに寄与しうるか」[1] ― 以下、「吉永稿」と略記する ― 脚注3(27)でなされた拙稿「「良い景観」とは何か」(『〈景観〉を再考する』青弓社、2004 所収) ― 以下「景観稿」と略記 ― に対する

 

安彦一恵は……松原の景観論を、自由主義と民主主義にもとるとして批判しているが、……それほど単純には片付けられるものではないと考える。

 

という批判に対して、一定の反論を提示しておこうというものである。その基本線は、筆者(安彦)は一定の前提的議論の上で松原を批判したのであって[2]、逆らって言うならその批判論は、 ― 吉永への(事前的)批判をも含意しうるものとして ― (いわば)“複雑”なものとして提示したのであって、吉永の理解は、この前提的議論を無視した ― それは「吉永稿」においては(「自由民主主義」とすべきところを)「自由主義民主主義」[3]としているところに端的に表われている ― ものであって、この前提部分の無視こそが問題なのだと指摘するものである。

 しかしながら、「吉永稿」に、筆者として改めて検討すべき論点の(おそらく意識的ではないであろう)挙示がないわけではない。「誤解だ」として単純に退けるのではなく、あえて反論を試みるのはその故である。

 

 

 

 

 

 上記脚注3の全文を挙げて確認するが、吉永は内容的には以下のように安彦を批判する。

 

ここでトゥアンが言うように、場所に対する「親密さ」に価値をおき、「時間」がそれを育むという点に注目するならば、松原隆一郎の「こと日常景観にかんしては、市政に異議申し立てをしたり支持したりする権利を一律に与えられてきた『市民・住民』にも、その場所の『内』に住んだ時間によって、評価する資格に差があるはずなのだ」という主張(松原 2002:91-93)も首肯できよう。安彦一恵は、この点を含む松原の景観論(松原 2004)を、自由主義と民主主義にもとるとして批判しているが(安彦 2004)、本稿で見てきた観点からすると、それほど単純に片付けられるものではないと考える。

 

このように吉永の安彦批判は、トゥアンに依拠して「親密な場所」(性)という「価値」を主張する(27)文脈においてなされたものである。安彦批判をまず表面的に、「価値」の主張として(したがって「批判」を、この「価値」を無視するものだという批判として)了解して、われわれとしては次のように言いたい。

 筆者の景観紛争論の主要な主張点の一つは、紛争の解決(の過程)において、この「価値」がいわば横合いからの制約として ― 例えて言うなら、水戸黄門が持ち出す印篭のようなものとして ― 絶対的なものとして介入してきて、それが解決に対してむしろ妨害的に作用しているということである。自由民主主義においては、人々は、その利害を自由に主張する等しい(松原流に言うなら「一律に」)権利が与えられているのであって、そこに利害対立が在る場合は、人々のまさしく等権利の主張間の調整がなされるわけであるが、この「制約」のもとでは、「但し、価値に反しない限りで」というかたちで権利に制限が掛けられてくるのである。吉永の主張のコンテクストで言うなら、「親密な場所性」を認めない見解には、その主張の権利はない、あるいは等しい配慮はなされない、というかたちで。

 提起されている「親密さ」は、実は「親密さ」一般ではなくて、慣れ親しむというところから帰結している「親密さ」である。そう限定されているのであるが、これは保守主義的なもの(但し、たとえばH・セシルが「自然的保守主義」と言う意味での)である[4]。しかしこれに対しては、「自然的革新主義」というものも人には在って、それは「新奇なもの」を好む。しかるに吉永においては、「新奇さ」の追求は誤りであって、「慣れ親しんでいる」状態が保持されなければならない、と初めから ― 利害調整のプロセスあるいは討議が開始される前提として ― 制限が置かれているのである。すなわち、反-自由民主主義的である所以である。「新奇さ」は求めてはならないという反-自由主義として、あるいは、「親密さ」の主張をする者と(たとえば)「新奇さ」の主張をする者とでは権利上差が在るという反-民主主義として。(あるいはまた、人は「親密さ」のみを追求する等しい権利を有する(あるいは、追求すべきである)という反-自由主義的民主主義として。[5]

 しかしながら吉永は、

 

「場所」を強調する議論は、保守的で偏狭な心性に基づくものとして警戒されがちだが、トゥアンは「場所」の欠点を示し、人間には「空間」と「場所」の両方が必要であると主張することで、バランスの取れた議論を行っている。(27f.)

 

とも述べている。「保守的でない」ことの弁明として、「安全性」の「場所」と、「自由性」の「空間」との(cf.25)「バランス」が説かれているのであるが、これは「親密さ」の主張とは齟齬を来している。それは、安彦に対する批判に対しても不整合となっている。「安彦は、場所に対する「親密さ」の「価値」を優位化しないというかたちで“単純”である」と批判しているわけだが、その批判がいわば自己撤回されたかたちになっている。これで言うなら、われわれは「安全性」「自由性」の主張双方に等しい権利を与えつつ ― 在りうべき誤解を避けるべく念の為に言うが、語られる「自由性」はいわば特定のものであって、「自由主義」という場合の一般的な意味での「自由(性)」ではない。「自由主義」とは、「安全性」「自由性」のいずれであっても自由に主張していいとするものである ― この「バランス」をこそ、そしてその「バランス」のかたちによっては「親密さ」の主張が退けられることも在りうると説いているのである。と同時に、いわば関係者がそれぞれ自分でバランス感覚を身に付けることによって利害調整もうまくいくというのではなく、各利害の(直接的)主張 ― これを自由主義は認める ― から結果する対立事態の、その利害主張に等権利性を与えることを原則とする ― すなわち民主主義である ― 解決プロセスによってバランスが実現される、と説いているのである。

 

 

 

 しかしながら、安彦批判はもう少し深いものである。権利主張のその権能の根拠が説かれていて、その根拠を無視しているという批判に(も)なっているからである。

 「吉永稿」の上記脚注3が付された本文部分(27)は、以下のトゥアンの主張の紹介である。

 

時間が経過するうちに、われわれはある場所に馴染むようになる。つまり、ますますその場所を当然のものとして受け容れることができるようになるのである。時間が経過するうちに、新しい家はあまりわれわれの注意をひかなくなる。それは、古いスリッパのように、出しゃばったところのない打ち解けたものになるのである。

 

或る所を長く経験することによってそこに生じてくる(「親密さ」という)「価値」が説かれているのだが、すなわち吉永は、その価値がその者にとって生じてくるその或る人々(長く経験をもつ者)の権利主張を、そのいわば価値対応性を根拠として優位化するのである。そして、それが松原で説かれていて、この点を安彦は無視している、というのである。

 この「価値」は客観的に存在していて、長く住む者はそれが分かってくる、だから長く住む者に格別の権利が在る、というのではない。「価値」はあくまで主観的に、長く住む者にとって(のみ)、その「長さ」(「時間」)ということに基づいて(意識内に)生じてくるものである。しかしそうであっても吉永は、その主観的価値の主張を優位化している。

 吉永の安彦批判は、表面的には、この「価値」が対立解消のプロセスに対して外的制約となるべきなのだが、安彦はその制約性を無視して関係者の自由な主張間の民主的解決だけを語っている、と了解可能であり、はその線で了解して反論したものであるのだが、ここで“深い”と言うのは、価値を前提とした主張とそうでない主張とが対立するケースをテーマ化している(ことになる)からである。

 しかしこれを認めるとしても、吉永の主張は、「価値を前提とした主張を優位化すべきである」という反-自由民主主義的、ないしは、価値に定位しない ― 経済学でよく使われるタームで言うなら、「価値(value)」に対する「単なる趣味(好み)(taste)」の ― 主張には等しい権利は与えられないという反-自由主義的な立論となっている。(したがって、「バランス」論とはやはり齟齬を来している。)

 そうなってしまうのは、せっかく提起されている価値主張と(単なる)趣味主張との対立がそれ自身として考察されていないからである。吉永はここで、価値と時間との関係についてトゥアンを内在的に批判するかたちでE・レルフの議論の紹介へと移っている(28f.)。ちなみにわれわれは、紹介されたレルフの議論を(基本的な部分では)もっと進めることにもなるかたちで、そしていわば補助的に上の“対立”解消への一視点の提起ともなるものとして、われわれの意味で「時間意識」について考察してある[6]

 

 

 

 しかしながら、本稿で ― そして求むべきは「吉永稿」でも ― 論究されるべきなのは、上の価値主張と趣味主張との対立である。

 吉永の議論展開の背景に在る論理は、「価値」を主張すべきである、逆に言うなら(単なる)「趣味」の主張はすべきではない、というものである。しかしそうであるなら、吉永はそこで反-自由主義を自らの主張前提として明示化すべきであった。言うまでもなく、ここで想定する「自由」とは、I・バーリンのカテゴリーで(粗っぽく)言うなら「消極的自由」であって、自由主義とは、これに定位するかたちで、いわば内容的評価抜きに人々の志向を最大限に認めるものであり ― 端的に言うなら「愚行権」の承認である。ただし、「他者に危害を加えない限りで」という制約は付される[7]― 、この自由主義を伴う(場合の)民主主義とは、諸個人のその自由な志向に等しい権利を与えるものである。

 これは吉永でも(一面では)そう認められていることになるが、価値について主観説に定位するなら、価値と趣味とは質的には区別できない。価値在りとされているものは、趣味の対象と同様、等しく好みの対象である。区別できるとするなら、量的に、前者はより強く好まれているという点においてだけである。

 そうであるとしても、われわれとしても、この量的差異は“単純に”無視できぬところである。やや硬く言うなら、ここで選好の強度をどう扱うかという問題が生じている。強度に差が在る場合、それぞれの選好の主張は“単純に”一主張として等しく配慮するだけでは済まないとも言いうる。われわれは、吉永の安彦批判を、この問題を検討せよという要請として受け止めたいのである。

 一般化して言うが、或る事について意見を異にしていて、その意見の背後に選好の強さの差異が在る場合、意見対立の事態はどう解決するのが妥当であるのか。“単純に”一意見は一意見であって、そこに差を付けることはできない、とは ― 多くのケースにおいてはそうなっているのであるが ― 必ずしも断定できない。なんらかのかたちでそこに重み付けがなされるべきだとも考えられる。

 複数の者が同一の(希少な)物を求めるというかたちで対立が在る場合は、求める度合いが強い者にその物を与えるというのが妥当とも思える。実は(オークション)市場では、このことがいわば自然に生じている。選好の強さは支払い用意の額に反映し、より強く求める者が当然より高い支配額を提示し、その者がその物を手にすることになる。

 物が稀少財であって入手において競合性が生じる場合でなくても、 ― いわゆる需要−供給関係のことを見てみれば ― 原理的に市場はこの解決を与えている。また、端的な物だけでなく、一定の事態であっても、同様である。さらにまた、いま問題となっている景観のような非-市場財であっても、たとえば「仮想評価法(contingent valuation method)」は同じ原理で対立事態の解決を志向する。

 しかし、この仮想評価法についても指摘されているように、支払能力の差異という問題が在る。支配意思額は選好の強さだけでなく支払能力をも反映する。そこで、必ずしも強い選好をもたなくても高い支払能力をもつ者がより高い支払額を提示することが在りえる。自由主義だけであるなら、この事態は問題視しなくても構わないのであるが、われわれはそこに民主主義を付け加えている。それは理想的には、いわば各個人の選好実現の総枠を同じにすることを求めるものである。ここからするなら、或る対立事態では或る者にその選好の強さに配慮して優位性を与えるが、その場合、別の事態においては選好実現を断念してもらうということになる。[8]

 しかしながら、より正確に考える必要が在る。人には性格的に、(何にでも)強い選好をもつ者と、いわば淡泊にそれ程でない者との差が在りうる。この事態にも定位するなら、個別事態に対する選好の強度は、そのままで有意化されるのではなく、いわばその者の全選好のなかでの割合へと換算される必要が在るであろう。その者が自分の全選好のなかで(その意味で相対的に)どれくらいの比重を置いているのかの、その比重値が確定されて、その値が高い者の選好を優位化するということにならなければならないであろう。(民主主義として言うなら、これは、いわば各人の選好表明の総枠を同等とすることである。)われわれとしては、これによって「慣れ親しんだものへの嗜好」への配慮から「既得権」(性) ― 松原は「旧住民」にこれを認めていることになる ― を排除することが可能であると考えている。

 しかし他方、この「比重値」がそのまま選好実現に繋がるべきであるとも考えられない。選好実現のコストの問題も在り、これとも適切に関連づける必要が在る。一つのモデル・ケースを挙げるとして、或る者が高い比重値をもって ― 日常語で換言するなら、これは「何はさておいても」ということである ― 或る事態(A)(の実現)を選好し、別の者があまり高くない比重値をもって別の或る事態(B)を選好し、この両事態の実現の間に非両立性が在る場合、単純に前者の選好の方を実現するべきだということにはならない。事態Aの実現のコストがB実現のコストをはるかに上回るということが在りうるからである。論理的可能性としては、自らの全てをかけて(他のものを一切選好せず)途方もないこと(実現に途方もないコストを要するもの)を選好するということも在りえる。

 われわれは、実現に極端に高コストを要する選好は、それが高い比重値をもつからといって、そのまま実現を認めるということにはならないと考えるのである。しかし逆に、通常のようにいわゆるコスト−ベネフィット原理に従うことも、われわれはここで退けたいと思う。こうした対立事態が在る場合 ― そして、全選好の実現と有限なコスト支出総枠ということを考えるなら、およそすべての選好実現について対立性が在りうることになるのであるが ― 、通常は、いわゆるコスト−ベネフィット原理に従うことになるのだが、われわれはここで、端的にベネフィット−コストの量的比較ができるとしても、その比較からただちに決定を下すべきではない、と考えている。今度は同一量のベネフィットを得るということに定位して述べてみるが[9]、人によってその同一量を得るために必要なコストが異なるということが在る。われわれは、この点をも考慮しなければならないと考える。[10] (これは、コンテキストは異なるが、身体的ハンディキャップを持つ者と健常者との間のギャップの問題を考えてみれば容易に分かるところであろうが、このコンテキストで言うなら、われわれはここでA・センの「機能(functioning)の平等」という発想と同じことを説いていることになる。[11][12] すなわちここに、通常の「財の平等」とはまた別種の「ベネフィットの平等」の原理が持ち込まれるべきだと説いていることになるのであるが、「民主主義」はこの平等の実現をも含意しているのである。ただし、そこにはいわば限度が在って、どこまで選好実現の平等を求めるかということで、「民主主義」内部で立場が分かれてくることになる。われわれはその一定の立場を提案するものでないが、平等実現の妥当性は基本的に人々の選好実現間の調整に関する討議−合意の事柄であるとは述べておきたい。

 この討議−合意について、それ自身の妥当性を(十分条件的な)原則として提示することはおそらく不可能であろう。合意は ― 民主主義は前提とするとして、換言するなら平等は前提するとして、その「平等」をどう具体化するという局面で ― 人々の事実的決定に委ねる部分を含まざるをえないと考えている。ただしわれわれとしては、ここで純粋合意主義を採るのではなく、上に述べた「比重値」の優位化というさらなる制約を課すことを説きたい。(われわれはこれを、特定のではなく、「(自由)民主主義」一般の含意として取り出した。ここから見るなら、現行の(単純)多数決主義はなお、民主主義の含意を十分取り出したものではない。ちなみに、であるから「少数意見の尊重」ということが語られることも在るのであるが、そのままでは矛盾的な両原則をわれわれは「比重値」というアイデアで整合化的に統一化しようとしているとも言いうる。)[13]

 また、先の「仮想評価法」について次のことをコメントしなければならない。この評価法は、各人の選好を、かつその強さをも反映させるかたちで社会的決定の基礎データとすることを原理とするものであるが、ここで ― たとえば、一定の事態の実現に人々がどれくらい支払うべきかに関する選好として ― 「(実質的)平等」の具体的かたちに関する理想的=イデオロギー的選好も反映されたものとみなすこともできる。すなわち、一定の事態に対する自分自身の選好だけでなく、人々がそれに対してどういう選好をもつべきかのいわばメタ(自己)選好をも反映したものとみなすことができる。しかしそれは、いわゆる「外的(external)選好」(他の人々がもつ選好に関する選好)のファクターを取り込むことである。われわれは、選好表明はあくまで「個人的(personal)選好」だけに留まるべきであると考える。(これが自由主義一般から言えるのか、自由主義をさらに限定することになるのかは、そう簡単に断定できない。この問題性の論究はここでは省くことにしたい。)したがって、「仮想評価法」そのものの問題として、この「外的選好」の排除をどう実現するかという課題が設定されることになる。

 

 

 

 対立の「自由民主主義」的な解決法をどのように具体化するかという問題はなお未決であると言っていいであろう。しかしわれわれは、この方向性を確定しておいて、具体化の方策をさらに追究すべきであると考える。

 これに対して、やはり価値は趣味とは異なるのであって、価値の尊重は外的制約となる ― 以下の議論との関連で予め誤解を防ぐべく厳密に言うなら、内的に自己限定的に価値に定位した主張をするものは、単に趣味の主張をするものに対して優先する、趣味の主張はこの価値の主張に対しては自らを否定するという外的制約に服すことになる ― と主張する ― われわれからするならそれは、内容限定的に特定の選好を優位化することである ― のであれば、なぜそうでなければならないのかというかたちで反-自由主義の議論を展開すべきである。その場合、或る価値と対立するのが単なる趣味でなく別の価値であるという対立事態に即しても論を展開して欲しい。景観問題で言うなら、「新奇さ」というものがまさしく「価値」として主張されてくる場合どうするのか。ここを、それは(本当の)価値に盲目であるだけであるとするなら、最初から議論を放棄していることになる。あるいは価値の客観説を説いていることにもなりうるが、その場合はそれとしてまた基本的な議論展開が要請されてくることになる。[14]

 ここを、自らの価値観に(のみ)忠実に、それを認めないものを ― 別の価値観の表明としてではなく ― 価値に盲目であるとしてのみ退けるなら、それは独断論となる。われわれはこの独断論をこそ退けているのであるが、多少洗練されたかたちでこれは広く流通しているところでもある。曰く「公共の事柄については、消費者(consumer)としてではなく市民(公民)(citizen)として発言しなければならない」[15]等々として[16] [17] その場合、多く価値客観説を前提として、あるいはより正確に言うなら価値間主観説をも前提として主張展開されてもいる。いずれであっても、多くは「共同体主義」の立場で ― 共同の価値(共通善)のみが価値であるというかたちで、厳密に言うなら、(われわれからするなら共同性は討議の後にそこでの合意として成立するものであるのだが、そうではなく、)共通善が討議の(事前的)制約とされて、それについての異論は同権利では認められない、というかたちで ― 論が展開されている。われわれの松原「景観論」批判の基底は、この「共同体主義」が(自明視されて)前提されているだけであって、その前提の議論がないばかりか、その事実の挙示もなされていないということであった。吉永氏にも、最低限この立場に立つか否かの明示を求めたいところである。

 最後に、吉永の安彦批判そのものに“単純に”回答しておく。われわれとしては、われわれ自身の議論の展開のなかで景観に関する「価値」意識 ― しかも「時間」が関わって成立してくるものも含めて ― の存在を確認したうえで、その「価値」を(単なる趣味とは異なるからとして)そのまま絶対的なものとして主張する ― 換言すれば、これが独断的ということである ― ことの問題性を、それは自由民主主義の立場とは相容れないというかたちで指摘したのである。したがって、引用したところに即して言うなら、「「場所に対する「親密さ」に価値をおき、「時間」がそれを育むという点に注目」してみても、「松原隆一郎の……という主張」は、 ― 「自由主義」(だけ)ないしは「民主主義」(だけ)とではなく ― 「自由[主義的]民主主義にもとる」と、われわれは批判しているのである。

 

〔付記〕本稿は、平成19年度科学研究費補助金による研究の成果の一部である。



[1] この論稿は、次のアクセスで電子版でも読める。http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/41yoshinaga.pdf

[2] 安彦の松原批判については、「景観稿」の他に、「都市景観における「過去」の問題 ― 松原隆一郎氏への反論=再批判 ― 」(『DIALOGICA(http://www.shiga-u.ac.jp/dept/e_ph/dia.html )no.8,2005(以下「過去稿」と表記)をも参照して頂きたい。

[3] 引用文に付した強調、および引用文中の[ ]内は、本稿筆者の加筆部分である。

[4] 安彦「保守主義・伝統主義・歴史主義 ― 批評:西部邁『思想の英雄たち』 ― 」『DIALOGICAno.3,1997 参照。

[5] 「親密さ」が共同的価値とされる場合、ここに共同体主義的民主主義といったものが成立している。

[6] 「過去稿」等参照。ちなみにこれは、上記引用文の「「時間」がそれを育むという点に注目するならば、……それほど単純に片付けられるものではない」という批判(部分)を無効化するものである。

[7] 「危害」の捉え方にもよるが、場合によっては、およそいかなる行為も他人に危害を与えざるをえないかもしれない。その場合、被ることになる危害の平等ということをわれわれとしては考えたい。その基本的在り方についても、以下の議論は含意しているはずである。

[8] ちなみに、ユートピアとしての共産主義とは、しかし原理的には私的消費の可能な財についてのみ、 ― 「必要に応じて取る」というかたちで ― この断念の事態を克服するものである。それ以外の、享受(消費)が原理的に共同的事態として成立する財(「景観」もそうである)についてもそうすることが可能であるとされるときは、非明示的にではあるが、たとえば人間の選好は本質的に内容的に同じであるとしつつ、自由主義を捨てることになる。マルクスのこの共産主義は認めるとして、現実のそれがマルクスから決定的に異なるのは、 ― ここで共同体主義を取り込みつつ ― 自由主義(的成分)を否定したところに在る。

[9] これは、ベネフィット(「効用」)の個人間比較が可能であるということを前提とする。ベンサムの「幸福=快楽計算」という考えは、この比較を可能にするかたちで、端的にベネフィットの客観的計測が出来るとするものである。われわれはこれには懐疑的である。ただし、幸福=快の心理量が脳に関わるなんらかの物理量(生理量)に還元できるとするならば、原理的に計測可能となる、と一応ここではしておく。

[10] これに対して、いわゆる「顕示選好」の考え方は、選好がそのまま(市場財の場合は購入の)行動に表われるとするだけでなく、 ― コスト・ベネフィット原理とリンクするかたちで ― その「顕示」の量をさらにそのままベネフィットの量と正比例的に相関するとみなすものでもあろう。

[11] ただし、センの議論はいわば弱者に定位したものであるが、これを裏から見るなら一種強者(向けの)の議論として了解可能である。いま例えば、或る者(強者)が高級ワインを選好し、別の者(弱者)が安物ワイン(で、十分だとしてそれ)を選好していて、かつ、それぞれの選好実現でもたらされるベネフィットが同じであると仮定してみる。センの議論は、センの本意とはまた別に、この場合、コストが安く、同一のコストでより多くのベネフィットを与えることになるからといって弱者の選好を優位化して強者の選好を退けるべきでは必ずしもない、ということをも帰結しうる。ちなみにベンサムの場合は、一種「限界効用逓減の法則」に似た発想に基づいて、この場合明確に強者の選好を退けて弱者の選好を優位化すべきであると ― 功利主義原理に即して ― されている。われわれはここで、このベンサム的な(弱者定位的)民主主義性(より厳密には、(弱者定位的)多数優位化主義)には反するかたちで、セン自身の議論を拡張的に適用していることになる。しかしわれわれは、これもまた ― いわば強者(高級志向)にも配慮するヴァージョンのものを措定するかたちで ― 「民主主義」の枠内に収まると考えている。(ここで、プッシュピン−ポエムに関するミルのベンサム批判に加担していると誤解しないで欲しい。ミルが「高級な快」を与えるものとして後者を優位化するのは、内容的にその快が「高級」であることを理由とする ― ただしミルは、両種の快を知る者は高級な方を選好するということも説いている。しかし、これは経験的事実の(反証の余地の在る)挙示であって、これが十分な理由となるわけではない ― ものである。それに対して、われわれがここで「高級(ワイン)」志向に配慮することになるのは、あくまでベネフィット(快)の平等という(形式的)観点に拠ってである。これに即して再度言うならベンサムは、各人別のベネフィットの平等に反するかたちで、各人の各ベネフィットの総和の「最大化」を説いている。なお、これはわれわれの議論全般にも関わることであるが、ベンサムが言う「最大化」とは厳密には、各人が被ることになるコストをマイナスのベネフィット(苦)として元の(プラスの)ベネフィット(快)から差し引いたものの最大化である。)

 ちなみに、このワインのケースについて、強者の(実現が高コストである)選好と弱者の(実現が低コストである)選好を各一選好として同じ比重で考慮してよい、あるいは考慮すべきであるとする場合、それに対しては、弱者の選好がいわゆる「適応的選好」として問題とされてもくる。ここでのわれわれの提案は、この問題性を引き受けることにはなる。

[12] 理解のために、障害者−健常者、高級品志向−低級品満足という両方向性に対して中立的にもなるものとして、以下のモデル・ケースを提示しておきたい。いま体重50キロの人と100キロの人が居るとする。その場合、大雑把に言って、食事によって同じ満足(ベネフィット)を保証するためには、後者には前者の2倍(コスト)の食料を提供しなければならないであろう。これは、食料(そのもの)の配分の点では平等でないのであるが、満足の点での平等を保証するものである。(そういうものとして、民主主義が含意しえるところである。)しかしながら、これが体重200キロ、300キロとなる場合、食料の提供量を(50キロの人に対して)単純に4倍、6倍としていっていいとはしがたい、ということをわれわれは問題としたのである。

 このモデルは、なお大食いの人−少食の人というケースをカヴァーしていない。体重が同じであっても、この両者間では、満足する食料の量に差が在る。この場合、満足するなら、少食の人の食事量はそうでない人より少量であって全く問題ないのであろうか。前註の「適応的選好」の問題は、この場合は生じていないのであろうか。いわゆるニーズで考える立場であるなら、客観主義的に(十分な)栄養摂取ということで、体重(そのもの)を有意化するであろうが、「満足」は必ずしも栄養摂取に還元できるわけではない。しかし、かといって満足が同量ならそれでいいとも言い切れない。「適応的選好」の問題とは、より根源的にはそういう問題であろう。

[13] ちなみにロールズの(彼によれば「格差原理」を導出することになる)「原初状態」のアイデアも、「民主主義」の含意を取り出したものの一つである。われわれの言う「比重値」がこれと機能的にどういう異同関係に立つかは一つの論点となりうるが、この問題の検討は別稿を期したい。

[14] ちなみにわれわれは、「自然の価値」に即して、現在まで提示されている「価値客観説」論証について ― ただし、もう10以上年も前のものであって、最近の特にメタ倫理学的な価値論の展開のファローの点では十分なものでない ― 、その論証としての-妥当性を(メタ)論証した。「自然の価値をめぐって」『応用倫理学の新たな展開』(科学研究費成果報告書(研究代表者:佐藤康邦)),1996 参照( http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/gyouseki/paper/value.htmlで電子版を公開)。なお、本誌本号所収のもう一つの拙稿は、これを補完する部分を含む。

[15] ちなみに再確認しておくが、これは松原においては「倫理」の主張として語られている。対立克服にあたっては、価値を説くという意で「倫理的」であることが前提となるというかたちで。それに対してわれわれは、「倫理的」とは対立克服において妥当である(われわれの場合はそれは「公正」である)ことであると主張している。詳しくは上記「過去稿」等参照。また、「吉永稿」が収められた『公共研究』誌の基本テーマである「公共性」に即して言うなら、われわれは「公共性」を、公共的価値を体現する公共的人格といったものとしてではなく、公共財(共同財)について討議(共同決定)する公共的空間に定位して、 ― たとえば、その空間内で妥当な合意の用意の在ることといった ― それを支える在り方として問題としているのである。

「消費者」「市民」の区別に即して確認するなら、より厳密にはわれわれは、この区別を ― 「趣味」「価値」の区別の廃棄に応じて ― 廃棄すべきであると考える。しかしそれは、区別される場合の「市民」的成分を取り込むかたちでである。「景観」の問題として言うならそれは、自らが「価値」とみなすものの選好をも ― その景観を「消費」するとも言いうるかたちのものとして ― 認めるのである。そして、そうであるにもかかわらず区別を廃棄するのは、区別される場合含まれてくることになる独断性(他者に対する強要性)を排除すべきであると ― 自由主義として ― 考えているからである。また前段との関係で言うなら、われわれとして区別において「市民性」概念を維持するなら、それは、いわば第一次的意見表明(これは端的な自己選好表明である(べきである))のレヴェルではなく、相手から提示された意見との突き合せ−調整のいわば第二次的局面において求められてくる質のものである。そしてそれは、 ― 端的に(第一次レヴェルで)この区別をする立場とはむしろ逆に ― 自らの意見を(それがたとえ「価値」に基づくものであっても)相対化し、他者の異論にも耳を傾け、調整の用意をもつことのできる心的特性としてこそ存在するものである。

[16]上記引用文中の「……に価値をおき、……ならば、……それほど単純に片付けられるものではない」という批判(部分)は、この独断論を前提としている。

[17] ここで「自由主義」について、少しくメタ倫理学的な考察を加えておく。「独断論」であっても、(その独断の)「自由」を肯定する。価値による制限を説くとしても、価値が当人にとって「価値」であるかぎり、制限はむしろ、いわば自己(自発的)制限として「自由」である。この独断的自由性の在り方を「自由主義」と呼ぶことは可能である。しかしそれは、「利己主義」という場合の「主義」状態と同じであって、これが「利己的であること」を意味するのと同様、単に「(自分が)自由であること(の肯定)」を意味するに過ぎない。(この意味での「自由主義」とは、「「親密さ」に価値をおき、「時間」がそれを育む」ということ、および、その「時間」を体現する者に「差がある」とすることは「もとら」ない。)これに対して、いわば本来の「自由主義」とは、 ― 単なる自己自由肯定ではなく ― 「(全ての)人は自由を追求すべきである」という普遍的なものである。

 説明のためにもう少し述べるが、これに対応するかたちで、「人は利己的であるべきである」と説くものについて「普遍的利己主義」という用語が導入されている。しかしながら、これは一つの「教説」であって、これに従って、人々がそれぞれ自分の利益を追求するなら、それは、そもそもそう説く者の利益に反することになる。「利己主義」と「普遍的利己主義」とは(遂行的に)矛盾するのである。これと同じようなことが「自由主義」の場合でも起こりうる。人々がそれぞれ自分の自由を追求するなら、それは個人の自由追求に、厳密に言うなら自由の実現に障害となりうる。そこで ― 先に挙げた「危害原理」と或る意味で同じかたちで ― 「だだし、他人の自由(実現)を損なわない限りで」という制限を課すことが考えられる。「自由主義」は、その普遍的実現を考える場合、半ば自己否定的に「自由」の一定の制限を加えることになる。(「利己主義」についても、 ― 利己的であることそのものでなく、自己利益の実現に定位して、その普遍性を志向するなら、各人の利己(的追求)性に一定の制限が ― まさしく「道徳」として ― 課せられてくることになるが、「普遍的利己主義」はこの制限性まで含意するものとしては通常は了解されていない。それは、「利益」の実現ではなく、各人が自己利益を求め合うということを、そしてさらには、 ― であるからニーチェ的とも言いうることになるのであるが ― そこに生じる利害対立の事態そのものをも(いわば闘争という美しい事態として)志向するものである。これに対して「(普遍的)自由主義」の場合は、語感として、「実現性」への ― したがって、一定の制限性への ― 定位が内含されているように思われる。)

 しかしこの制限は、価値による(自己)制限とは異なる。あるいは、もう少し厳密に言うなら、この制限は、(普遍的)「自由」という価値による制限だとは言えるとしても、その場合の「価値」はいわば形式的なものであって、実質的なものではない。あるいは、諸個人の(まさしく自由な追求の対象である)実質的価値の追求に対しては外的制約として存在するものであって、諸個人が自らの志向を価値志向的なものへと自己限定する場合の内的なものではない。自己限定が自己限定としてそれ自身「自由」であるとするなら、一種逆説的に、(実質的)価値志向のその在り方のほうが、普遍的自由主義状態における諸個人の在り方よりもより自由であることにもなる。独断論的在り方は、この自由を享受してもいるのである。

 自由主義の「主義」としてのこの普遍性は、必ずしも「平等主義」を含意するものでない。人々が全て自由を実現する状態を志向するとしても、その自由といったものの各人別の同等性を含意してはいないからである。ここに「民主主義」が別の理念として求められてくる所以が在る。