第5号

1997 年 09 月 19 日


目次

  1. 安彦一恵 「歴史観」闘争

  2. 藤野寛 細見和之『アドルノ − 非同一性の哲学』(講談社 1996年)によせて

  3. 執筆要綱(暫定第三版)

  4. 編集後記


   


「歴史観」闘争


安彦一恵

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はじめに

[0001] 「歴史教科書」問題を一つの軸として、ここ数年「歴史観」をめぐる問題が大きなテーマとして浮上してきている。ほとんど無数といっていい程の論稿が書かれている。本稿は、この問題に、これら諸論稿と同じ土俵に立って筆者として<正しい歴史観>といったものを提示しようというものではない。そうした<歴史観>提示の試みはもう出尽くしているといっていい。我々として新たに<歴史観>を提示してみても、ほとんど無意味であろう。それは、筆者の専門分野からしても、そう言えるところである。我々は問題に、いわばメタヒストリカルに関わりたい。それは、筆者の専門分野である倫理学の元来の課題であるからでもある。

[0002] このアプローチは、当のヘイドン・ホワイトの「メタヒストリー」を含めて、すでに多くの論稿をもつ。日本における「歴史観」問題に即してもそう言える。したがって我々は、このアプローチをさらに限定したい。我々は平たく言って、なぜこの問題が<熱く>論じられるのか、ということに着目したい。実際、論争は<熱>を帯び、闘争の様相を呈している。「歴史観」をめぐる争いはなぜ<熱く>なるのか。この問いに答えを出すことはまた、メタヒストリー論一般においても一つの見解を提示することになるはずである。

一 坂本多加雄氏の「歴史観」

[0101] 論述をアップ・デートなものにするためにも、近年の「歴史教科書問題」に即して議論したい。この問題がいわゆる「自由主義史観」の登場によって<(より)熱く>なったということに鑑みて、この「自由主義史観」派と、(適切な言い方がないので仮にこう呼んでおくが)それに対抗する派から、典型的な論稿−−といっても、ごく最近目にしたものを使わせていただくが−−を取り上げて、そこから論点を拾っていくというかたちで議論を進めたい。*

* 筆者も参加している研究会の1997年7月会合でゲスト報告者の大越愛子氏(氏は反「自由主義史観」の急先鋒でもある)の主張と加藤典洋的発想との対決が一つの論点となった。これはその研究会の趣旨であるが、なるべく(異なった)見解を対決させるべく、そこでは筆者は加藤的発想の肩をもったので、ここでこの<対決>について筆者の観点からのまとめをも行なっておきたい。しかしこれは、ついでに述べておくといったものではなく、本稿テーマにとっても重要なものである。

[0102] 「自由主義史観」派からは、坂本多加雄氏の「歴史教科書の書き方とは」(『正論』1997年5月号)を取り上げたい。箇条書き的に主張点をまとめると氏は大要次のように語っている。

[0103]
・「専門の歴史研究における歴史記述と教科書の歴史記述とは別のもの」である(46)。[テーゼ1]
・歴史が価値判断を含むということはその通りだが、このことをもって(山崎正和氏のように)「歴史」を教科から外そうというのは間違いである(48)。[テーゼ2]

[0104]
・事実として歴史教育は、「国民意識の育成ということを目指して」きた(49)。[テーゼ3]
・歴史教育のこの在り方は今日でも「意義を有している」(51)。[テーゼ4]
・国民意識の育成とは換言すれば「国民的な一体感の育成」であり、それは諸個人を「われわれ」としてアイデンティファイすることである(50)。[テーゼ5]
・そのために、歴史は共通の歴史=「国民の歴史」でなければならない(50)。[テーゼ6]
・その意味で、「とくに日本史教育について」は、「オーソドックスな意味での「日本史」と呼べるものを基礎としなければならない」(49)。[テーゼ7]

[0105]
・そのような「国民」としての自己アイデンティフィケーションは一つの(共通の)「物語」を描くことによって可能になる(50)。[テーゼ8]
・それは個人の個人としての自己アイデンティフィケーションの場合と同様である(50)。[テーゼ9]

[0106]
・もっとも「歴史」は「物語」と「異なる面」をももつ。「歴史」は、「語るべき対象について、第三者としての純粋に認識の立場から、そこで生じた出来事の客観的な因果関係を究明すること」である。これに対して「物語」とは、「あくまで、その当事者が過去に生じた事態について、どのような態度で処したかを、将来に向けての実践的態度と密接に関わらせながら語られるものである」。(50f.)[テーゼ10]

[0107]
・「教科書の歴史がそれぞれ特定の国民を主人公とする物語であることから....あるひとつの国の物語が他国民と「共有」されるということは厳密にはありえないということになろう。」(53)[テーゼ11]
・他国との関係で「望まれるのは」、「自国の歴史を尊重するという態度そのもの」を「美徳」として共有しつつ、「他国の人々も同じように自らの国の物語を生きているという事実に「共感」するということ」である。[テーゼ12]

[0108]
・「過去を反省的に眺める視点」も必要である(53)。[テーゼ13]
・そこに過去に対する否定的判断も必要となるが、「政治的・外交的な失敗だ」というようないわば<政治的判断>と、「....は悪であった」という<道徳的判断>(これは、(国際)法的な判断と、(勝義の)倫理的な判断との二レヴェルをもつ)とを区別すべきである(53)。[テーゼ14]
・後者の判断については、「物語」全体とすべて関わらせていいというものではない。事態が「異常」である場合は<道徳的判断>を「物語」と関わらせても構わない。「正常」(=平均的水準内にあること)である場合は、<道徳的判断>はそれ自体として行なうことは構わないが、「物語」と関わらせるべきではない(54)。[テーゼ15]

[0109]
・[「国家」に「愛国心」があることが大切である。]「愛国心」は、「タテ系列の家族....の「愛」のモデルで考えるべき」である。「というのも、日本国民であるという事実は....ある家族の一員であるということと同様に、当人の自由な選択に由来するというよりは、むしろ、誕生の時点で、いわば、それを担って生れてきた属性だからである。」(58)[テーゼ16]
・「「愛国心」についても....家族の間のそれに似た情緒的ななにものかが基盤となる」(59)。[テーゼ17]

[0110]
・換言するなら、愛国心は過去への「共感」によって育成されるものであり、教科書で「抽象的な事項の記述よりも、むしろ具体的な人物についての生彩に富んだ叙述が望まれるのは」その故である(59)。[テーゼ18]

[0111]
・国際関係の事実的展開のなかで見るなら、「日本近代の国民の物語は....国際社会の歴史にしかるべき独自の位置を築いているという点に主眼を置くべきであろう」。(60)[テーゼ19]
・「日本がそのような役割を果たし得たのは....日本の歴史の伝統のなかに潜む国際性」の故である(60)。[テーゼ20]
・そういうものとしての日本の「伝統」を描き出すべきである(60)。[テーゼ21]

二 大日方純夫氏の「歴史観」

[0201] 次に、「自由主義史観」に対抗する「史観」の一例として大日方純夫「現代日本と歴史認識の課題」(『教育』1997年5月号)を取り上げる。同様、テーゼとしてまとめるなら氏は大要次のように語っている。

[0202] 
・「「記憶の共同体」は集団的な記憶の過程で、自分たちに都合の悪い面は忘れ、都合のよい面だけを記憶し、それに特別の歴史的意味づけをすることによって作られたものである」と石田雄氏は述べているが、「こうした「記憶の共同体」に住む人たち」は、問題的な「語りかけ」をしがちである(16f.)。[テーゼ1]

[0203]
・「過去を知るため」には一定の作業を経て、その過去を「復元」しなければならない。「この復元された<過去>を歴史認識と呼ぶ。」(17)[テーゼ2]
・「過去におこった出来事といっても、それは山ほどある。とすれば、そのなかの、何を、どう復元するのか。」という問題がある(17)。[テーゼ3]

[0204]
・この問題として、「歴史を認識する際の対象の選択と、その意味づけにあたっての価値基準が問われざるを得ない。それは、すぐれてその人の現在の生き方にかかわり、また、その人がどのような未来を選び取ろうとするかによっても左右される」。(17)[テーゼ4]
・「歴史認識」は次の二「基準」によって「つねに検証されつづけられなければならない」(17)。[テーゼ5]
・「第一基準」は、「過去の真実をいかに究明しえているかという真実性の基準」である(17)。[テーゼ6]
・「第二基準」は、「その歴史認識が現在および未来の課題にいかに応え得るのかという価値性の基準」である(17)。[テーゼ7]
・「第二基準は、第一基準に支えられることによってしか正当性を主張し得ない。」(17)[テーゼ8]

[0205]
・「自由主義史観」派は、「誇り」をもてる歴史を主張するが、「誇り」といってもいろいろある(18f.)。[テーゼ9]
・したがって、彼らによって実は或る特定の誇りと、そしてそれを可能にするための特定の「物語」が主張されていることになるのであるが、「しかし、今、「日本人」が「ほんと」に「心に刻」まなければならないのは、このような「物語」なのだろうか。」−−そうではない(19)。[テーゼ10]

[0206]
・このような(特定の)「物語」への欲求が「正史」の主張となって現われてもいるが、それは、換言すれば「国史」として、「国民国家の思考枠組」内にある。そのような「枠組」を打破していくことが必要である。(20ff.)[テーゼ11]
・「[このような]「国家」中心の視点から個人・人権中心の視点に転換していくことが必要だ」(22)。[テーゼ12]
・従来は「国益という枠組」が前面に出ていたが、それを改めることが必要である(22)。[テーゼ13]

[0207]
・「[ドイツの修正主義者たちは]「物語」を利用し、「自国民」意識と「日常感覚」に訴える。このような手法を打ち破って、どう歴史認識の真実性を保障し、<過去の克服>を国民的に成し遂げていくのか。」−−それが重要である(24)。[テーゼ14]
・そのためには何よりも、「過去の歴史的事実」に忠実であり(18)、かつそれを示し続ける(24)ことが大事である。[テーゼ15]

三 両派において何が論点か(1)−−歴史の「客観性」をめぐって−−

[0301] 「自由主義史観」派−−以下A派と略記。これに合せて坂本氏のテーゼをAテーゼと略記−−と、それに対抗する派−−以下B派と略記。同様、大日方氏のテーゼをBテーゼと略記−−とにおいて何が論点か。以下、両氏の議論を中心に、他の諸論稿等をも参考にして、両派間の論争を(再)構成してみるというかたちで議論を進めたい。

[0302] B派によるA派批判の論点として、「A派は事実を隠蔽している」というものがある。しかし、これについてはBテーゼ2-8を見ても、分節化する必要がある。いま論を単純にするために、「事実」を(単一の)<出来事>と、もろもろの<出来事>間の<連関>とに区別し、<出来事>については純実証的に確定(「復元」)できる−−厳密には、そう簡単に語れないのではあるが−−と仮定する。さて、そうするとして、<連関>の方が一つの問題となる。

[0303] これについて坂本氏の主張は曖昧である。Aテーゼ2の前半とAテーゼ10は明らかに矛盾している。しかしこれは、恐らくテーゼ10の方がミスリーディングであって、テーゼ2の方と整合的に、およそ出来事間の<連関>には−−氏も「いかなる客観的な「歴史」的な研究といえども、その出発点においては、常にひとつの「物語」が介在しているのではないかとも言える」(51)と述べているが−−客観的に(自体的に)真なるものがあるのではない、というのが氏の真意であろう。そしてこれは、「価値性の基準」を言うことによって(テーゼ5,7)大日方氏も認めうるところである。「未来の課題」という非-客観的な基準との適合を説いているからである。

[0304] しかし大日方氏の議論も、「歴史認識の真実性」を(結論として)主張すること(テーゼ15)によって、或る曖昧さを含むことになる。この結論とBテーゼ7とが相互に無矛盾であるためには、「未来の課題」そのものが客観的でなければならないが、B派全体としてはそうは語らないであろう。かつては、例えば歴史の進歩の客観的法則を前提することによって、その法則に即した、したがって客観的な「課題」が唯一真なる「課題」であって、それと適合的であることが「歴史」の真理性の要件であるとされていたこともあるが、こうした超客観主義的な理解はB派ももはや主張しないであろう。氏自身も「正しい答えは一つだという試験「歴史」に規定された発想」(23)という言い方で、そうした超客観主義的理解から距離を取ってもいる。したがって、氏の「歴史認識の真実性」という結論は一つのレトリックであると解しておく。一般的印象として、B派にはこの種のレトッリクが目につくが、論争を生産的にするためにはそれはなるべく回避すべきものであろう。

[0305] 『教育』前掲号所収の佐貫浩氏の論稿は、この点で明瞭である。氏は、「公教育」についてだが、満たすべき「条件」として、「国民の間での合意」と学会での「通説」性という共にいわば間主観性に関わる条件を挙げている。Bテーゼ12も、このレヴェルのものである。すなわち大日方氏も、(客観的な<連関>の発見ではなく)「個人・人権中心の視点」に規定された歴史を説いているのである。これが正非を語れるものであり、氏からするなら、かつ正しいものであるのであろうが、それは「事実」との対応によって確定される真偽の問題ではない。あくまで、間主観性のレヴェルでのみ決着のつけられるものである。もちろん「間主観性」を「客観性」と呼ぶことも可能であるが、事柄としては明確に区別すべきである。因みに、佐貫氏の「なお....区分して論じる。」(37)の段落は、この区別が曖昧であったことの自己批判である。

[0306] さてそうであるなら、<連関>に関しては、「事実を隠蔽している」という批判は、原理的なものとしては成立しないことになる。<隠蔽>とは客観的に(それ自体として)存在するものを隠すということであるが、<連関>は客観的に存在しているものではないからである。このことは、部分的には個々の<出来事>に関しても言いうる。我々は(論の単純化上)<出来事>は純客観的に確定できるとしたが、或る確定された<出来事>がテーマになっているとき、「そんなことは存在しなかった」とすることは確かに<隠蔽>である。しかし他方、その「事実」に言及しないということは<隠蔽>ではない。これは大日方氏の議論からしてもそうである。氏も「歴史」における「選択」の不可避性を語っているが、<或る出来事に言及しないということ>はこの「選択」の事柄である。*

* そうすると、「歴史(学)」の営みとして行なわれているいわゆる「実証」はどうなるのか。これは、それ自身一つのテーマとなりうる重要な科学論的問題だが、ここでは簡単に次の三点だけを述べておく。1)個々の<出来事>に関する言明の「検証」は−−ここでの我々の仮定からしても−−当然有意味である。2)<連関>(学説)について、なるほど単にそのストーリーとしての善し悪しを越えて「事実」との関係で妥当性が論じられている。しかし、この妥当性議論が有意味であるのは、一定の共通の枠組みがあるときである。邪馬台国論争などは共通の枠組みの上でなされていると言っていいと思われるが、例えば、アメリカの南北戦争の原因に関する「陰謀説」「衝突説」「修正派説」間の論争(ドレイ,W.H.『歴史の哲学』培風館,1968参照)は、その妥当性が「事実」との関係で決着が付けられるというものではない。これらは、この順で登場してきたが、それは前のものを「実証的」に批判して登場してきたというより、共通の枠組みの変化を受けて登場してきたものである。(因みに、クローチェの言うように、だから「あらゆる歴史は現代史である」のである。)そして、この枠組みを共有しないというかたちでも「歴史観」論争は生じているのである。3)自然科学(・社会科学)における<連関>は−−実証の対象となる部分に関しては−−本質的に「歴史」における<連関>と別種のものである。前者は現象間の規則性に関するものであって、後者におけるような<因果的連関>ではない。もちろん前者においても「原因」が語られるが、それはしかし、規則性に依存して語られる二次的なものであるにすぎない。ここで仮に、「歴史」から(本来の)因果的判断が削除された場合−−それでも例えば、革命と戦争との間には規則的連関がある(、それゆえxx年にxxで革命が起こったのは戦争の故である)と記述することはできるが−−それではもはや本来の意味では「歴史」でないであろう。

四 両派において何が論点か(2)−−「国家」をめぐって−−

[0401] <連関>はこのように客観的に存在するものではなく、歴史解釈者がそれぞれの「視点」に即してそれぞれ構成するものである。したがって問題は、いかなる「視点」を採用するかということになる。大日方氏が上述のように「個人・人権中心の視点」を採っているとして、その大日方氏の言い方を使うと、坂本氏は恐らく(「個人中心」のではなく)「国家中心の視点」をこそ採用すべきであると説くであろう。いずれの「視点」が正しいのか。

[0402] 「国家中心の視点」と言うなら坂本氏には少し強すぎるかもしれない。しかし、B派がA派の「視点」をそうしたものとして見ていることは間違いない。では、厳密に見て氏の「視点」はいかなるものか。Aテーゼ4の論拠(51-53)を正しく辿ることが必要である。氏は、例えば西部邁氏*のように(よき生のための)いわば一つの超越論的条件として「国家」を語りはしない。「国家の枠組み自体が、完全に無用の物になることは、当分の間はありえない」(逆に、すでにECにその萌芽があるように(53)将来無用になることはありえる)と語るとき、その限りでは氏の「国家」観はプラグマティックなものである。内容的に見ても、氏にとっての国家は、人が、極論するならその(例えば安全といった(cf.51))利益を最もよく貫徹して生きて行くために有効な組織というものであろう。

* 拙稿としては、「保守主義・伝統主義・歴史主義−−批評:西部邁『思想の英雄たち』」(Dialogica,no.3所収)参照。

[0403] では次に、氏にとってなぜ「国家」は「国民意識」−−これの「育成」のために「国民の歴史」が必要になる−−をもった構成員によって支えられるものでなければならないのか。このことは、「x」はその構成員が「x意識」をもっている必要があるというふうに準トートロジカルに言えるものではない。なぜなら氏が「国民意識」というとき、その「意識」は例えば「社員意識」というときのそれとは異なっていると考えられるからである。或る「会社」の一員であるとき社員は当然その会社の一員であるという意識はもっている。その意味では「社員意識」をもっているとは言える。しかし、それは例えば(その会社が機能するために)「愛社心」といったものをもっていなくてもいいものである。これに対して氏の言う「国民意識」とは、単にその国の国籍をもっていることの認知の状態ではなく、明らかに「愛国心」を本質的構成要素として含むものである。氏は実際「愛国心」を語っている(テーゼ16[の前提として])(57)。

[0404] さてそうであるなら、「国家」が「国民意識」によって支えられる必要があるとはアプリオリに言えることではない。内容的に言って「会社」のようなものとして、つまり愛国心の存在しないものとして国家を考えることも可能であるからである。愛国心というものを形式的に定義するなら、自分の利益だけでなく(その国の)他の構成員の利益をも可能にする「枠組」として、ないしはおよそ各構成員の利益を超えたものとして国家を考える精神であると言える。これに対して社員の場合は、それに対応するような「愛社心」は普通もっていないであろう。そして、それでも「会社」が機能しうるのであるから、国家についてもそういう構成員から成る国家というものも十分考えることが可能である。極めてリアリスティックに見るなら、「法治国家」の理念というものは、そういう意味で「愛国心」のない国民を「法」によって統治しようというものである。もちろん、そこでも「順法精神」、しかもその国家の法を遵守しようという精神は必要であろう。しかしそれは、社員の(愛社心をもたない場合でも有する、会社との労働契約に対する)契約遵守の精神に対応するものである。

[0405] しかしこれに対しては、氏は恐らく次のように反論するであろう。国民の場合と社員の場合とは異なる。「国民」とは「フィクション」であって(52)、そういうものとして自然には維持できぬものであって、逆に、その(単に法を守るだけの)「国民」であることを維持するためにも「国民意識」を要する。

[0406] 仮にこのように反論される場合、我々としてもそれを簡単には否定できない。しかしそれは、理論的に例えば心理学的・社会学的に純科学的に真偽を確定すべきものであろう。氏には、その意味で「国民意識」論の更なる展開を期待したいが*、論点として整理するなら、「国民」は「社員」と同じようなものとして−−その場合むしろ「市民」と呼んだ方がいいかもしれない−−可能なのか、そうではなくて「愛国心」を更にもつことによって初めて可能なのか。「国家」の側面から言うなら、それは純機能的組織としてありえるのか、そうではないのか。

* もちろん氏にも一定の見解があるのであるが、残念ながらそれは「理論的」でない。福沢諭吉論・徳富蘇峰論等(『市場・道徳・秩序』創文社,1991 参照)を念頭に置いて言っているのだが、それは、簡単に言って「彼らは国家は....であると語っている」という思想史的議論でしかない。

[0407] この問題に関しては、B派の方も、或る意味で決定的に議論が未展開である。そこには、特定の階級の利益を貫徹するための装置というレーニン主義的国家観が桎梏になっているのかもしれない。そこでは、いわば特定階級の利益に適合的な純機能的組織として国家が把握される。そして「愛国心」は、特定階級が自己の利益を貫徹させるために国民に吹き込んだものという、きわめて操作主義的な把握がされることになる。国民の側から言うなら、国民は、自分の利害と適合しない「虚偽意識」として「愛国心」をもたされているということになり、「愛国」はそういうものとして「イデオロギー」だと規定されることになる。

[0408] これに対して坂本氏では「愛国心」は、彼においても「育成」されるものであり、その意味では操作的なものとは言えるが、レーニン主義におけるように、支配階級が自己の利害を図るために意図的に−−したがって、それと認識しつつ−−被支配者階級を操作して育成するというものではない。「操作」というなら、それはいわば特定の者(例えば政治家・教育者)が自らに対しても操作するというところを含んでいる。そしてその際の意識は、一つの理念への自己拘束である。特定の者がいるのではあるが、その者はまさしく国民全員を一つの、その者の意識においては各特殊利害中立的な理念へと拘束するのである。そこには更に、国民の側からの自発的な自己拘束の側面も存在する。(それでもなお「愛国」は「イデオロギー」だと言っても構わないが、マンハイムの用語を使って言うならそれは、「全体的イデオロギー」ではあっても「部分的イデオロギー」ではない。)

[0409] しかしながらこの限りでは、そのようにして育成される「国民意識」は、例えば(平和)憲法の理念に即して育成される意識でもありえる。「愛国心」から言うなら、ハーバマスが考えているような「憲法愛国主義」をも内含しうる。そして、ここまで言うなら、B派も「国民意識」を認めることができるであろう。彼らも「国家の枠組」内で、その「枠組」に込められる内容の点で、A派との違いを語ることができる。しかしながら、B派の対A派戦略は、この「国家の枠組」内での<内容>の違いを主張するのか、「国家の枠組」−−これ自身も曖昧なのであるが−−そのものを批判するのか明確でない。あるいは、それ自身のうちに二様の立場を区別しうるといった方がいいかもしれない。

[0410] しかしながら更に、このあいまい性=二様性はA派のうちにも存在する。B派の(うちの)理想主義的的国家観に対して、現実主義的に利害=「国益」を前面に出す場合(例えば石橋湛山の「リベラリズム」を持上げるときがそうである)、そうした<利害>(だけ)を原理とするいわば市民国家を批判してまさしく国民国家を説く場合とは異なってくる。この側面は、坂本氏の主張から読み取ることも可能である。しかし氏も、単に「国益」だけを言っているのではないようにも理解できる。例えば「誇り」を語るときがそうである。

[0411] ここから言うなら、A派・B派の論争は戦線が未整備である。場合によっては派の組み替えさえ必要であろう。「東京裁判史観、自虐史観だ」「反動的、皇国史観だ」というほとんど評価語だけからなる表層から、「国民国家」か「市民国家」か、「国民国家」を前提とするとして、例えば「日本の伝統」か「平和憲法」か、あるいはまた、そもそも「国家」という枠組みを前提とするのかしないのか、というふうに実体のレヴェルで分節化して論争する必要があるであろう。

五 両派において何が論点か(3)−−「国益」の主張・批判をめぐって−−

[0501] そう分節化するとして、多少込み入った手続きを採らなければならない。A派の見解の方を固定して、まずA派が「国益」(のみ)を主張していると仮定する。その場合でもB派はA派の「視点」を批判するわけだが、その批判に対して、A派は「国益」の観点からB派を反批判していると仮定する。しかしながら、そのようにA派の立場を固定するとしても、そこに出現する戦線はなお錯綜している。

[0502] A派による批判から見るとして、すなわちA派は、B派を(現実主義的に)観念的、道徳主義的、自己欺瞞的だと様々に批判し、B派の方もそのそれぞれに様々に反批判している。これらの諸批判・反批判は相互に別のものである。それらは分別して了解する必要がある。まず「観念的だ」という批判は、現実主義的に、A派の例えば平和的理念では実効性をもたないとするものである。現実において平和的理念では「国益」を損うことになるというのであるが、これに対するB派の対応は二様である。一つは、そうではなくて平和的理念に基づいてこそ真の「国益」が貫徹できる、というものである。もう一つは、端的に「国益」を超えることが必要だ、というものである。しかしながら前者は、それ自身に二つの別の主張を含んでいる。その一つは、「国益」の意味をA派と共有しつつ、現実主義的にはA派の説くように見えるかもしれないが、本当にはそうではないとするものである。いま一つは、A派の言う「国益」は特定の者の利害だけが反映されたものであって、そうした「国益」ならA派の言うようにして貫徹されるかもしれないが、それは大多数の者の利益の貫徹という意味での「国益」には繋がらない、というものである。B派の論者は、このいずれのスタンスを採るのか(それぞれ)明確化する必要があろう。

[0503] しかし坂本氏に関しては、そのB派批判の要点は「道徳主義的だ」というところにある。氏は、「戦争が悪だというのはその通りである。したがってその観点から「先の戦争」を反省することも必要だ」と説きつつ、「歴史」としてはそうした道徳的視点を持ち込むべきではないと説く(テーゼ14・15参照)。なぜなら、「歴史」とは「国民意識」育成のためのものであり、その「歴史」に−−道徳的に是と判定できる場合はまた別であろうが−−非と判定せざるをえないものをも持ち込んでは「国民意識の育成」に支障があるからである。これに対してB派はどう反批判するであろうか。「「国民意識の育成」に支障はない。むしろ逆だ」と反批判するのか、「「国民意識の育成」には支障があるかもしれぬが、そもそも「国民意識」を超えることが必要である」と反批判するのか。

[0504] もっとも氏はここで、その非なるものが「異常」である場合はまた話は別であるとする(テーゼ15)。しかしその場合も、日本が行なった非行は「正常」の範囲内に収まるとして、議論を未展開に留めている。では、氏自身「異常」であったとみるナチズムの過去をもつドイツの場合はどうすればいいのか。氏はドイツの場合について、「異常」であるということからヴァイツゼッカー大統領の「反省」を認めている(54)。しかし、「反省」(「自虐」)は「国民意識の育成」を阻害するという氏の論からは、ドイツでは「国民意識の育成」ができていないということになってしまう。逆に、ここで氏が、ドイツにおいても「国民意識の育成」ができているとするなら、自身が認めた「事実」によって自身の論が反駁されているということになる。そしてB派としては、ここで、「反省」を含んだ「国民意識」育成が可能であると説くことができる。また、ドイツは別種の(「国民意識」をもたない)国家であるとするなら、(氏が言う)「国民意識」を超えた、あるいは欠いた「国家」(市民国家)が現に存在すると説くことができる。

[0505] さらに、次のようにアイロニカルに指摘することもできる。A派は、戦後日本の「歴史」教育を過剰に道徳的な観点を持ち込んだものだと見るのだが、そうした日本において果たして「国民意識」は育成されていないであろうか。少なくとも「国民意識」を「国益」の貫徹に適合的な意識だと規定するなら、戦後日本も十分「国益」を貫徹しえており、したがって「国民意識」が育成されているということになる。これはB派に対する批判ともなる。B派は日本国家の現状を「国益」第一主義的国家と見るわけであるが、それはこうした戦後教育とどう関係しているのか。

[0506] さてこの点は実は大事な点であって、日本が(その「国民」に支えられて)「国益」を貫徹しえているのは、反省的歴史が、生徒の意識において一つの<建て前>事に止まっていて、実は「国民」ないしは「市民」意識の形成には関与していないからだと見ることもできる。このギャップを突いてA派による「自己欺瞞だ」というB派批判が出てくることになるのである。戦後歴史教育は、その「歴史」において日本の罪を反省し、しかしその反省が済んだことをもって他国同様に「国益」を追求できるような(心性を育成する)一種の<みそぎ>装置として機能しているのであって、B派の論者達も、その<言説>において反省しつつ、その<生活>においては十分「国益」(の分け前)を享受している、したがってその<言説>は「自己欺瞞的」だ、と批判することが可能なのである。

[0507] これに対するB派の反論の戦略は基本的には、戦前(戦争期を含む)の日本と戦後の日本とを切り離すというものであった。戦後の日本を、したがってそこに属する自分自身を戦前の日本と切り離し、いわば他人事として戦前の日本を「反省」するというものである。日本国民を特定の者たちが引き起こした戦争のむしろ被害者であると見る見方は、それの一ヴァージョンである。しかし、それでは実は「反省」になっていないと見ることも可能なのであって、論争にいわばはすかいに関わっている加藤典洋氏の議論はここを重くみたものである。

六 加藤典洋の議論をめぐって

[0601] これは、少なくとも倫理学としては重要な論点なので、次に、しばらく加藤氏の議論をたどっておきたい。加藤氏は、〈悪しき〉日本を切り離すかたちでいわば<外部>に立った議論を批判して、挑発的に「日本をそっくり引き受ける」というスタンスを採る(西谷修/加藤典洋「世界戦争のトラウマと「日本人」(『世界』1995年8月号,50。以下「世界戦争」と略記)。挑発的だというのは「日本という「主体」を立ち上げる」とも語っている(49)からであり、その挑発に乗せられて例えば(B派の)大越愛子氏は−−加藤氏の別稿「語り口の問題」(『中央公論』1997年2月号)を正面から批判して−−「日本民族中心主義だ」として加藤氏をA派に分類することになるのだが(「もうひとつの「語り口の問題」」『創文』1997年4月号)、それはそう単純に語れることではなく、加藤氏の議論はB派としては<自己欺瞞>批判にどう答えるのかという観点で受け止めるべきものである。

[0602] ただし氏の議論は単純でない。氏はまず、「日本」という領域に住む者をいわば多数派の「日本人」と「在日者」とに区別する。加藤氏は、少なくとも明示的には「利益」の問題として語ってはいないのであるが、氏の議論の含意を展開するというかたちで、ここで、前者を現在の日本(の国益)から利益を享受している者、後者をそうではない者と規定してみる。そうするとこう言える。後者の場合は、戦前日本の「国益」追求(の結果)を批判しても、現在の「国益」享受からもれているので、<言説>と<生活>とが食い違うことはない、したがってそこに<自己欺瞞>はない。そこのところを、前者が−−例えば四方田犬彦氏のようにポスト・モダン的に自らを「在日日本人」と語りつつ(『越境のレッスン』丸善ライブラリー,1992)−−自分を<言説>において日本から切り離しても、それは<生活>においても切り離していることにはならないので−−加藤氏はそうした在り方を「[日本国発行の]パスポートを手にした[在外の]日本人」とも形容している(加藤典洋/カン・サンジュ「敗戦後論とアイデンティティ」(『情況』1996年1・2月号(以下「敗戦」と略記),15)−−、そこに<自己欺瞞>が伴われざるをえない。ここで言う「在日者[在日朝鮮・韓国人等]」は或る意味で理念的なものであり、そこには「日本人」でありながら「日本国益」を享受していない者も含まれる。女性がそうだというなら、フェミニストでもある大越氏が「女性」の立場から発言しているときは、したがって割り引いて理解する必要があることになる。しかしながら、このような<有利な>立場に依拠するだけでは加藤批判は貫徹できないであろう。加藤氏の議論は(普通の=「男性」である)日本人がどうであるべきかを論じたものであるからである。

[0603] 加藤氏によるなら、厳密に言って「在日者」は別として(普通の)「日本人」である限り、その日本の過去の罪は無関係ではありえないのである。もちろん過去の罪そのものを現在の「日本人」が背負わなければならないというわけではないし、過去の「日本人」であってもすべての者が「日本人」として自動的に罪を背負わなければならないというのでもない。加藤氏によるなら、罪そのものはあくまで個人単位で問われるべきものである。しかしながら、だからといって責任もまたなくなるわけではない。加藤氏は「罪責感」と「責任感」とを区別し(「世界戦争」,50)、「罪責」は(罪を犯した)個々の個人が背負わなければならないものであるが、「日本人」である限りでは「責任」は背負わなければならないとする。それを氏は、「主体」としての「日本人」が「責任」を背負わなければならないとも表現するわけであるが、それは、そうした罪を犯した(者を含む)過去の日本と現在の日本とが、我々の理解を加えて厳密に言って、−−例えば実体として「日本(人)」が持続しているといったことではなく−−「日本」の利益を享受しているかぎりで、その享受者の(まっとうな)責任感覚において連続しているからである。そして、利益を享受しながら、この「責任」からも自らを切り離すことは<自己欺瞞>に陥ることなのである。

[0604] 自らを実際に「在日者」の地位に追い込むこと=「国益」を享受することを拒否することもありえるが、加藤氏はそのスタンスは採らない。倫理学的に言うなら、このスタンスは「日本人」にとっては−−例えば第三世界の人々の水準まで自分の生活レヴェルを引き下げるというかたちで−−一つの「達人倫理」を要求するものであって、要求としてはきつすぎるであろう。B派の主張が特にサラリーマン達によって退けられるのは、そこにこの達人倫理の臭いを感じとっているからでもあろう。

[0605] 大越氏がそう見ているように(cf.24)、加藤氏は現在の日本人たちが「国益」を享受しているという現状を肯定しているとしてみよう。そうすると、加藤氏は、戦前期に関しても、その「国益」の追求そのものについては非難の対象としないことになる。ここに、「[明治において]なされた主体化の作業はナショナル・インタレストの域を出なかった」として(ミスリーディングに)否定的に語りつつも(55)、他方では自身もまた石橋湛山を評価することにもなる(「戦後を渡って明治の中へ」『言語文化研究』(立命館大学)第6巻第3号 参照)。そうすると、その「国益」の追求の帰結として戦前の非行がなされたのであるから、「国益」の肯定はそのまま非行の肯定に繋がるのではないか。氏はやはりA派ではないのか。しかしながら、加藤氏は「国益」の追求と、戦前の非行とを切り離す。石橋のように純粋に国益で考えた場合、植民地政策はむしろ得にならないとして放棄しえたはずであると語る。ここのところは少なからず乱暴であって、批判を受けてもいるのだが、しかし氏にとっては、そのような国益追求と非行とが一体か別かといった議論はおそらく二次的なものである。仮に別だとしても、そして氏は別だと見るのだが、事実として日本は非行を行なったのであり、「責任」を問うているときは、その事実から別の国益追求だけの日本を分離することはできないとするであろう。そしてまた、「国益」追求が悪であるとするなら、それを認めてもいいとするであろう。氏にとって一番問題なのは、場合によってはそうした区別をしつつ、自己を過去から切り離した上でその過去を反省するという在り方である。なぜなら、それは<自己欺瞞>であって、氏にとってはこの<自己欺瞞>こそが問題なのである。

[0606] では、いかなるかたちの「反省」となるのか。それは極論するなら、自己が<悪>をなしたという認識をもちつつ、その<悪>を「反省」するというかたちをとる。しかしそれは偽悪的なものではない。その「反省」のうちにいわば<悪>性の減少への志向を含みうるものである。氏にとっては「反省」はこれでしかないのであって、そこで悪を克服した立場−−これは氏自身のコンテクストでは、「ひめゆりの塔」の前で泣くことのうちにある「自己完結感が嫌だった」(58)というかたちでも語られている−−を想定することは必然的に<自己欺瞞>を含むことになるのである。*

* 「時々−−『アンネ・フランクの日記』をめぐる騒ぎやアイヒマン裁判などの場合に−−われわれにヒステリカルな罪責感の爆発を見せてくれるドイツのあの若い男女たちは、過去の重荷、父親たちの罪のもとによろめいているのではない。むしろ彼らは現在の実際の問題の圧力から安っぽい感傷性へ逃れようとしているのである。」(アーレント『イェルサレムのアイヒマン』みすず書房,1969,194)−−加藤氏は「語り口」(207)でこの箇所をブーバー批判として引用しているが、引用されてない次の部分を読むと氏の主張の趣旨がさらによく分かる。「ブーバー教授はさらに、自分はアイヒマンに対して「全然憐れみを」感じない、なぜなら「その行動が私の心で納得できる人々に対してしか」自分は憐れみを感じ得ないからと言い、そして何年も前に彼自身がドイツで言ったこと−−自分は第三帝国の行動に「参加した人々とはまったく形式的な意味でしか共通の人間性を」持たないということを強調した。このような傲然たる態度は....」(同上)

[0607] 我々としてはここで弁別的に、許容される「国益」追求の範囲というものを限定していく行き方がやはりありうると考えるし、氏が石橋湛山のリベラリズムを肯定的に語るときこの方向性が含意されてもいるのだが、氏は<自己欺瞞>批判を中核に据えるのである。こうした在り方は、見ようによってはA派だと見えるのだが、氏はその在り方を批判することはやはり「第三者」的にしかならない、いわば<きれいごと>の批判にしかならないと見るのである。「日本人」にとって、<きれいごと>でなく「反省」するためには−−達人倫理を実践するのでなければ−−<悪>を背負い続けなければならないのである。氏が言う「扉は内側からしか開かない」(59)とは、倫理的にはこうした含意も有している。<自己欺瞞>のない「反省」は、<悪>であり続けるなかでしかありえないのであって、自己を<悪>であるとみなすことを嫌うことから「外在的」に<善>を語っても、それは、存在としては<悪>である以上、<偽善>でしかありえないのである。或る詩人の詩句「きみは悪から善をつくるべきだ」の引用(「敗戦後論」『群像』1995年1月号,252)は、こうした倫理的含意において理解することも可能である。* **

* この「悪から善をつくる」とは、[0606]での「<悪>性の減少への志向を含むこと」に対応するが、ここを突いて、果たして加藤氏はそうしているかと問い、「そうすべきだ」と語りながら実際は「そうしていない」のであるなら、それもまた<自己欺瞞>だと批判することはできる。ただし、この<自己欺瞞>は、いわば端的に<言行不一致>というかたちのものであって、先の<悪を批判しつつ自らの悪を棚上げにする>というのとは異なる。この点は、まさしく倫理学の問いとして重たいものだが、テーマ的な考察については別稿を期したい。<誠実性>という点から見るなら<言行不一致>の方が許容しやすいが、しかし、自らの<悪>を棚上げにしてはいても<悪>の批判の効果は後者の方が大きく、悪の減少への<実効性>という点ではこちらのほうがベターであるとみれなくもない。筆者の関心に関連づけるなら、これは大庭健vs.永井均論争にも関わることであるが(拙稿「「道徳の理由」傍論−−批評:大庭・永井論争−−」(Dialogica,no.4 所収)参照)、ここでは、こうした難問もあるということだけを指摘しておく。

** もっとも、このように敷衍できるのは、加藤氏の「日本をそっくり引き受ける」ということを認めることを前提とする。そしてそれは、それ自身として問題とすることもできる。それは、やはり(「日本」という)「共同性」を前提としていることになるからである。しかし加藤氏は、八で少し触れるように、「共同性」は、外から解体することは不可能であって、「共同性」の「内から」しか解体できないとする。そしてそこには、氏独自の「主体」観がある。加藤論としては、この「主体」観そのものをテーマとしなけらばならないが、これはまた別稿の課題として残しておきたい。

七 両派において何が論点か(4)−−「愛国心」をめぐって−−

[0701] しかしながら、A派は純化して「国益」だけを説いているわけではない。坂本氏は「愛国心」を−−論の整理のために四では単純化してそうだと見たが−−「国益」貫徹の最適な装置とのみ考えているわけではない。つまり「国家」に「国益」を超えたものをも見ている。それは氏の論において、「愛国心」の導入の仕方に表われている。氏は「愛国心」を親子間の「愛」をモデルとして「情緒的」なものとして規定する(テーゼ17・18参照)。その際の論拠は、或る家族の一員であることが当人の選択の事柄でないのと同様に、或る国の国民であるということもその国民の選択の事柄ではないという点で家族・国家間には同質性がある、というものである(テーゼ16)。しかしこれは、「ナシオーンとは日々繰り返される国民投票である」というE.ルナンの古典的な「国家」定義(「国民とは何か?」『批評空間』no.9 参照)と食い違っている。どの集団の一員であるかは個人にとって所与のものであるという点で同等であるとしても、或る家族の一員であり続けることと、或る国家の一員であり続けることとでは原理的な相違があるのである。坂本氏は、にもかかわらず家族をモデルとして国家(の「愛国心」)を規定しているのであるが、それは−−「「国」といった抽象的なものに「愛」を抱けるはずがない」(57)という異論をかわすために−−「家族愛」(という自然なもの)に依拠して=すり替えて「愛国心」を弁明するためである。

[0702] したがって、論理的には論の飛躍があるのであるが、ここに心理的に<愛国心>を好むという機制が働いていると我々は考える。そうではないというのなら、安易なアナロジーで語るのではなく、<愛国心>をもった国家の方がそうでない国家よりも「国家」としてより有効であるという議論を示す必要がある。しかし氏は、そういう議論をむしろ拒否するであろう。そして一般にA派の多くの論者たちには、<愛国心>を(自明の)前提に置くというところがある。極論するなら、たとえ<有効性>の点でマイナスだとしても「国家」に<愛国心>が含まれることを好むというところがある。

[0703] 「国益」を超えたものへの志向は、坂本氏において、「伝統」を、いわば論全体に対して外挿的に結論としてもってくる(テーゼ21)というところにも表われていると我々は考える。氏は、国際関係における日本という観点から「日本の歴史の伝統のなかに潜む国際性」を強調する。そうした「国際性」は自国固有の(内容的)伝統に囚われることなく外国からの諸々の「伝統」を自由に取り入れるといったものとして、いわばメタ伝統である。しかし氏は、そうしたメタ伝統を結論とすべきであるにもかかわらず、それを「こうした長期の歴史と、そこで様々に織りなされた多様な文化的諸要素の蓄積の過程としての伝統」とパラフレーズすることによって、−−<取り入れる>という「伝統」を、<取り入れられた「伝統」>へと変換するというかたちで−−メタ伝統を内容化(「対象」化)している。メタ伝統であっても<内容>のレヴェルで機能することはあるが、その場合それは(固有の伝統に対しては)逆に反・伝統としてである。この<反・伝統>を氏は<伝統>へと読み変えようとするのである。これは、初めから「伝統」を前提にしているからだとする以外には了解不可能なものである。そして、このように「伝統」を前提とするところにも、「国益」を超えて国家を考えているということが表われているのである。なぜなら、「国益」の観点から見るなら、「伝統」はむしろ阻害要因であって、むしろ<反・伝統>の方が有効であるということもあるからである。

[0704] さて、坂本氏の「国家」観はそうだとして、A派の者はすべてこの「国家」観を共有することができるのか。氏は、先に見たように一面ではプラグマティックな国家観を少なくとも表面的には説いている。A派のなかには、この側面に局限するかたちで純粋に「国益」で(のみ)国家を考える者もいるのではなかろうか。さらに徹底して、過剰な「愛国心」や「伝統」への拘泥が戦前の日本をして<国益>の最適な貫徹から逸脱せしめたと見る論者さえいるのではなかろうか。我々はここでも立場の明確化を期待したい。

[0705] こう言うならA派は、「国益」には自らの「国家」に「誇り」がもてていることを含む、そしてそのために「伝統」とそれに基づく(ような)「愛国心」が必要であると反論することができるであろう。しかしながらそれは、「国益」概念の、不当とまでは言わないが、やはり拡大であって、そのままでは議論に混乱をもたらすだけである。そこに、「B派の国家観は個人の「利益」しか考えないような国家観だ」と批判する者と、「B派は個人の利益追求−−そのために「国益」がまず確保されなければならない−−を余りにも否定的に見ている」と批判する者とが、一つの陣営を構成するという奇妙な事態が生じることにもなる。

[0706] こう極論化せずに、同じ「国家」であるとしても旧枢軸国側と旧連合国側との「国家」の違いを見ることも必要であると考える。よく言われるところであるが、フランス(あるいはアメリカ)に典型的なように、後者では「国民」形成が相対的に純粋に成されたのに対して、ドイツ・イタリア・スペインにおいては、その「国家」形成の後発性もあって「民族国家」であるという側面を強く有していた(cf.仲井たけし「ドイツ史の終焉」『思想』1996年5月号)。そしてこれは戦前の日本にも当てはまる特徴である。ここから見るなら、ドイツや日本が行なった<悪>は、この<民族性>の故であると説明することも可能である。これは、現在の悲惨な民族紛争の事実からも言うことができる。旧・西ドイツの「反省」は、「西側志向」として現実化されていると言われることもあるが、それは原理的には脱民族国家として把握すべきものであろう。* そうであるとして、この二様の「国家」のいずれを志向するのかという問題を上の問題と重ねることも可能である。

* しかし(連合国側の、そしてそもそも当初の理念からしても脱民族的な)旧・ソ連の場合はどう説明されるのか。スターリニズムはまた別の悪であるのか。「強制収容」について所属民族を区別しなかったと見るなら、あきらかに異なると言える。あるいは、実はロシアという<民族性>を背後にもっていたと見る場合は同じだとも言える。あるいはまた、「近代国家」以前的な専制的暴力性だと見ることも可能であろう。ここから、ドイツの「修正主義」におけるように、ナチズムの悪はスターリニズムのより大きな悪に対抗するためのものであったという主張も可能になるのだが、ここではスターリニズムの性格づけは措くことにする。

[0707] さて次に、A派が「国益」を超えた「国家」を主張しているとして、B派はこれをどのように批判するであろうか。これについてはまず、[0706]で指摘した「民族性」ということが分節化の試金石になる。B派には、この「民族性」を1)肯定的に捉えるもの、2)否定的に捉えるもの、3)旧植民地や少数民族の「民族性」と旧宗主国や多数派民族とを区別して、前者だけを肯定的に捉えるものとの三様の立場を区別できる。B派においてかつては「民族性」を肯定的に見る立場が優勢であったが、近年では否定的に見る見方の方への一般的転回のなかで2)vs.3)が一つの論戦軸になっている。しかしながら、ここでも論点の再構成が重要なのではあるが、我々はA派・B派の対立の核心はまた別のところにあると見ている。

八 再び加藤氏の議論をめぐって

[0801] 加藤氏の議論は、もう一つの論点をも含んでいる。我々は、ここに<核心>を取り出すための手がかりがあると考える。氏は、先にはその<自己欺瞞性>批判を紹介した<外部>的立場について、前掲「敗戦」において次のようにも語る。「80年代の「亡命者の物語」というような言説。....こういう言説は、「日本人の物語」を否定はするが、壊さない。」(8) 氏はここで、いわばポジティヴに、自らのスタンスの方が「国家」を超えることにおいてより有効であると暗黙に語っている。別稿ではアーレントに依拠して、「国家」におけるまさしく「国民」の在り方を「共同性」と概念化しつつ、それに「公共性」を対置しながら、氏は、B派も「共同性」の思考枠組内にあるのであって(前掲「語り口の問題」(以下「語り口」と略記)206 参照。)、自らはそれを超える、したがって「国家」の本当の解体に繋がる途を志向していると主張している。

[0802] 「共同性」「公共性」の区別について氏は、自国民の「死者の弔い方」(186)に即して、「国家」のために有意義に死んだ者として弔うことと、意義もなく死んだ者として弔うこととして区別する。氏によれば、かつては死者の死を国家のための有意義な死として−−敗戦における死であっても有意義な死でありえた−−弔うことがまさしく「国家」の基礎であったが、第二(あるいは第一)次大戦以降、そのような弔い方は不可能となった。不可能になったにもかかわらず有意義な死として弔おうとするなら、そこに分裂が不可避となる。日本で言えば靖国神社と千鳥ケ淵・広島との分裂である。(旧東西ドイツは、分裂が国家そのものの分裂を結果したとも見ることができる。)氏によるなら、後者の場合も、「平和国家日本のための尊い犠牲の死」の弔いというかたちで「共同性」のものである。

[0803] この死者の弔いの論を氏は、ここでも挑発的に「よその国の二千万の死者への弔いより自国の三百万の死者への弔いを先にすべし」という言い方と合せて主張する。このコンテクストでは、何よりもまず日本によって罪もなく死なざるをえなかった他国の死者をこそ先に弔うべしであるとするであろうB派にとって、これはまさに神経を逆なでするものである。しかし氏によるなら、そのような弔いは、たとえ自国の死者をも合せて(形式的に「国家」の枠組みを超えて)<平和な世界>建設のための尊い犠牲者として弔う場合であっても、やはり「共同性」である。「共同性」を超えるためには、氏自身は「侵略戦争のために無意味に死んだ自国の死者を無意味なままに深く弔う仕方を、わたし達がいまだに見つけられないでいる」(186)と表現しているが、まさに−−例えば、犯罪を犯して死んだ父親を息子が(その死を<意味>に回収することなく)ただ成仏だけを願って弔うときのように−−無意義に死んだものとして弔えと言うのである。ここのところを、悪を犯し尽くした限りのいわば反意義をもった死であり、その反意義性を見ない氏の論は悪を許容することになると大越氏は批判するのだが、それは氏の発言の理解としては誤りである。氏は、意義にせよ反意義にせよいずれにしても−−<反意義>の場合は自分と切り離して−−意義をもったものとして弔うことは「共同性」なのである。(因みに氏も、悪については、死者の犯した悪をまさに見据えつつ、したがって「死者を鞭打つ行為」を評価しさえしている(「世界戦争」54)。)

[0804] 加藤氏のこの論点提起は、「共同性」の中身の違いを議論するという次元を超えてまさに「共同性」という枠組みを問うものとして、まさしく「国家」そのものを問うものである。我々の理解ではそうなるのだが、前述の大越氏はおそらく「二者に分裂した主体が国民として歴史形成の主体たりえない」(「語り口」185)という言い方を捉えて、それを「「国民国家の歴史」を担う主体」の形成を志向するものだと批判する(23)。しかしながら、まず確認しておくが、加藤氏は(「歴史形成の主体」と言っていても(185))「「国民国家の歴史」を担う主体」とは言っていない。「国民国家」という言い方はむしろ「旧改憲派は、三百万の自国の死者を哀悼するため、侵略戦争をそうではない義のある戦争だといいつのり、「国民国家は汚辱を捨て栄光を求めて進む」といった。」という文脈で否定的評価語として用いられている(「語り口」205f.)。

[0805] 大越氏がこう理解するのは、かつて「戦争世代に対する嫌悪を出発点にしていたはずである」が、その「親世代の加害性を徹底的に追及」できずにいて、その結果、例えば福沢諭吉(石橋湛山)を評価しつつ現在を日本の国益の枠内で生きている「全共闘世代の多く」(23)という批判であるなら、間違いでないと言いうる。実際、加藤氏は「国益」の追求を是認しているからである。しかし、そこから、そういう「国益」追求の暴力化、そしてそれを遂行するための「総動員体制」として「国民国家」を理解するのであれば、それは−−加藤氏が「国家」を「国民国家」として問題にしているとして−−加藤氏の「国民国家」理解とは大きく外れている。加藤氏は「日本人の物語」の解体を論の原点に据えている。ここから見るなら、氏にとって「国民国家」は言うとすれば<物語国家>−−一つの「物語」を共有する国民から成る国家−−である。

[0806] しかしながら、氏がそういうものとして「国民国家」を問題としているのなら、その本質が「共同性」として摘出されている限りで−−例えば「ユダヤ民族の民族性、その思想の共同性」として語られるかたちで−−、その「共同性」と等置される<民族性>について再論しておく必要がある。[0706]では我々は、旧連合国に対する旧枢軸国の特質を<民族性>に見る見解に一定の賛意を表したが、氏が言う「民族性」はこれとはかなり異なる。通常<民族性>が<血>を核にした概念として了解されるのに対して、氏が言う「民族性」はむしろ<観念>を核にするものである。この<観念>性からみるなら旧連合国と旧枢軸国は本質的に差異のないもとして把握されることになる。そして、そういうものとして全てまさしく「国民国家」として問題にされることになる。実際、例えば(旧)ドイツで語られた「民族」は実は決して<血>そのものに基づくものでなく、「血」が語られるとしてもそれはいわば<観念としての血>である。ナチズムによって語られた「アーリア民族」といったものを見た場合、それが一体生物学的な人種のどの範囲までを指すのか不明であることから見ても極めて<観念的>であることが了解される。これは、<民族性>がその主体であるとされる「伝統」ということから見ても、その「伝統」を「創造物」だと指摘したホブズボームの論を想起した場合、容易に言えることである。また「言語」から見ても同様に言える。例えばフランスは(「人種」ではなくて)共通の「言語」である「フランス語」を話す人々からなる国家と自己規定されているが、その「フランス語」も、<フランス民族>固有の共通語としてもともと民族共通に語られていたものではなく、「市民革命当時はマジョリティ言語ではなかった」(仲井前掲論文,70)、つまりフランス革命以降の「国民国家」によって人工的に共通言語化されていったものであった。

[0807] このような<物語=観念>(国家)の解体を加藤氏は志向するのであるが、しかしここにおいても、その戦略は「内から出る」(「語り口」183)というものである。「言説」派(蓮實・柄谷氏)のように単純に「外へ出る」こと=「外部性」は氏によれば、同じく−−これは、例えば<外部>という「物語」を描くのではなく、一切の「物語」のまさしく<外部>に出ようというものであるのだが、いわばその様態の点では同様に−−「観念」でしかないからである。「日本人の岬」(『へるめす』1995年7,9月号)では、この志向が−−ミスリーディングではあるが−−、「日本人」を直ちに「フィクション」だと規定することを否定して、そこに「歴史性」という概念を導入することになる(23)。彼は両概念をこう規定している。「あるものがフィクションであるとは、それがそのメタレベルにわたし達を立たせる、ということだが、あるものが歴史的存在であるとは、逆にそれがそのメタレベルにわたし達をけっして立たせない存在であることを、意味している」(25)。この「歴史的存在」としての「日本」は決して<血>に基づく実体ではなく、あくまで「歴史的形成物」であり、存在だというならいわば意識内存在である。しかし、当の意識者にとっては実在なのである。この説明に氏はフッサールの「内在」「超越」の論を援用していて、そのあたりは不適切ではないかと我々は見ているが、氏の言いたいことは了解できる。少なくとも、ここのところを、氏は「フィクション」=「物語」の外部に出ていない、むしろ「国民国家」の「物語」を描いている、としてA派と同一視するなら、それは誤解であろう。

[0808] 因みに、B派の一部でなされている「物語論」批判は、すべてを「物語」に還元してしまう「相対主義」だという、上に言う(野家啓一氏をも射程に置いた)「言説」派批判が主であって(例えば岩崎稔/高橋哲哉「「物語」の廃墟から」『現代思想』1997年7月号,134*)、<物語に囚われていること>への批判は前面に出ていない。この両批判は方向性が或る意味で全く逆である。ここのところを大越氏は「支離滅裂な虚構[物語]を「正史」と命名してはばからない」/「中立を装いつつ歴史というものを様々な解釈[物語]の集積に還元する」という両様(両方向)の批判を単に並置しているだけである(22)。我々はここでも(立場の)分節化を要請したい。

* この対談は、この間の議論の一つの到達点であると言いうる。全面的な検討が必要なものである。

[0809] 加藤氏は論稿「新潟の三角形」(『日本風景論』講談社,1990.所収)では、「物語」批判を「文化」批判として展開している。ここでは、上述の「在日者」と、「文化」に関しては等しく<有利>である地点、すなわち「「タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市」(坂口安吾)に県庁を置く県」(114)に定位して、その新潟県人(「ウラの日本人」)として坂口安吾、北一輝とともに田中角栄を挙げる。そして田中について、坂口の『日本文化私観』中の「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい」という有名な一節を「いかにも田中が言っても似合いそうな言葉に聞こえる」(113)と語る。氏がいわば非-観念的「国益」論者として石橋湛山を評価するとき、この田中をダブらせていることは間違いない。しおツオなおら、ここで田中は自民党員、政党としてA派に近いグル〆プのかつての総裁として同定されてはいない。そうではなくて「戦後歴代宰相のなかで、天皇が....最も嫌っていた」(16)者、言うまでをなくA派にとってその「物語」「文化」の中核を占める天皇に最も遠い存在者として透定されている。

九 両派において何が真の論点か−−「物語」をめぐって−−

[0901] 加藤氏の「国家」批判が−−単純化のためにここでは、その「内から出る」という戦略は無視する。したがってその場合、或る点では「言説派」も共闘者として位置づけ可能になる−−<物語国家>批判であるとして、これを主戦場にした場合、A派・B派の論陣はどうなるであろうか。我々は、七で確認した「愛国心」をめぐる戦線は、このいわば「物語」心を核心とするものだと見ている。「愛国心」とは、個人にとって外的なものとしてあるのではなく、自らの物語的自己認知を構成するものとしてあるのである。

[0902] A派がこのような意味で〈物語国家〉を主張するとして、B派はそれにどういうスタンスをとるのか。大日方氏に即して言うならポイントは、テーゼ10にある。テーゼ10の「このような「物語」」批判は、「このような「物語」の批判として、「物語」一般を批判したものなのか、「このような「物語」」批判として、特定の「物語」を批判したものなのか。後者である場合、また別の<物語国家>であるなら肯定的に見られる余地を含むことになるが、その場合、それは「誇り」を含むものなのか、そうではないものなのか。氏の記述からはいずれにも解釈可能である。分節化を要請したい。

[0903] なぜこの分節化を求めるかというとそれは、A派の坂本氏の論のまさに根底に−−この点では、(陣営内の個人的経緯はいずれであれ、本質的には)A派のいわば後見役の位置を占める西部邁氏と同様に−−〈物語国家〉論、すなわち「物語」としての「歴史」に支えられた「国家」という国家観があるからである。「根底にある」というのは、「人間は、およそフイクションを抜きにしては生きられない存在であ」る(52)という人間観があるからである。氏のこの人間観は『象徴天皇制度と日本の来歴』(都市出版,1995)第一章「「選択する自己」から「物語る自己」へ」でテーマとして明瞭に語られている。

[0904] 氏は、「そこにおいてアイデンティティを保持する」自己として「物語る自己」を規定しつつ(16)、そうした「自己」観を「リベラリズム」の「そのつど」「選択する自己」(13)という、氏からすれば〈貧困な〉自己観に対置する*。そして第二章では「国家」について、「国家」もそのような「物語」をもつことによって本来の「国家」であると説く。

[0905] 一読するだけでは自然に読めてしまうこ・<物語論>は、しかし注意して読むなら(内在的にも)問題を含むものである。氏はこの<物語性>の正当性の根拠を、「自己」「国家」共通には、他者による「理解」という側面から、<非-物語的在り方>に対して<物語的在り方>の方がよりよく理解されうるというところに置いてごる。「自己」については更に「アイデンティティ保持」という当人の観点からの正当化が同時になされているが、これは「国家」については行なわれていない。さすがに氏も「国家」を実体化することはできず、したがって、「実体」でない以上これはむしろ当然のことである。

[0906] では「国家」は−−単なる理解論的観点では満足できない場合(この観点からでは、<物語性>をもっている方が他からより理解可能であって、それは自国の「国益」の貫徹により有効である、というかたちで「国益」国家論へと収斂することになる)−−<物語国家>であることをどのように正当化できるのか。氏は、「自己」とのアナロジーで「国家」の物語をも語ろうとするが、それは(氏から見ても)実は正確でなく(単なる説明のためのものであって)、そもそもそれでは正当化不可能である。「国家」の<物語性>は、あくまで「自己」(各「国民」)の観点から、その「自己」にとって「国家」が<物語国家>であることの意味として問題とされるのでなければならない。それは氏からしてもそうであって、実際第三章では、日本の戦後国家の(氏から見て間違った)物語の成立が、「国民」(「自己」)における機制から説明されてもいる。

[0907] では氏にとって、「国家」はなぜ<物語国家>でなければならないのか。(氏にとっての)答えはもう明らかであって、「国民」にとって「国家」がそのような<物語国家>であることが自己の「アイデンティティ保持」にとってプラスになるからである。そして我々から見ても、まさに「自己」の在り方に関わるものとして<物語国家>論は論争の真の論点を構成するのである。

[0908] そのようにA派が、「自己」のアイデンティティ確立を保障するものとして<物語国家>を主張しているとして、再度問うがB派はどう対応するのか。ここでも対応は様々に分かれてくる。しかし大別するならそれは次の二つに分かれる。一つは、<物語国家>そのものは(むしろ積極的に)認めて、その「物語」の内容を問い、「日本はよかった」という<物語>がアイデンティティの確立にとって有効でないとするものである。これは坂本氏としても認めうるところであって、戦後の「「回心」の物語」(前掲書,54)について氏自身、その方が日本国民の多くにとってアイデンティティ確立に適合的であったことを認めている(同,56f.参照)。

[0909] しかし氏は、そのような「「回心」の物語」によるアイデンティティ確立を批判する。その論拠は二つあって、一つは「いかなる意味でも文化的・倫理的なレヴェルでの通時的な存在としての人間を根拠づけるようなものではない」(64)という、いわば<真の自己>を前提とした規範的なものである。もう一つは、そうしたアイデンティティ確立の保障物となっている「「回心」の物語」=「平和国家日本」という物語に即して、それでは(湾岸戦争以降においては)もはや国際的に通用しないという政治的なものである。この二つについてB派は容易に反批判できる。第一については、自身に向けられることもある「道徳主義だ」という批判が可能である。第二については、それでは結局「国益」国家論に移行して(立ち戻って)しまうという批判が可能である。しかしながら我々は、近年の「「回心」の物語」批判は、(ここでの)氏のような理屈に依拠して出てきているのではなく、それでは(もはや)アイデンティティ確立に繋がらないというところから出てきたものだと見ている。多くの人たちは、自らのアイデンティティ確立を求めて、逆に「よき日本」という「物語」を志向しているのである。そしてこれは理論として(だけ)ではなく、心理(気持ち・感情)としてそうなのである。

[0910] 他方、依然として「「回心」の物語」を志向する人たちもいる。そしてこの人たちも、まさしく心理のレヴェルで(自らのアイデンティティ確立を求めて)その「物語」を志向しているのである。我々は、こうした<心理>のぶつかり合いとして論争が<熱く>なるのだと見ている。自己のアイデンティティ確立がかかっているから論争が<熱く>なるのである。

[0911] そうであるとして、<物語国家>を志向する限りでは<論争>はA派の勝利を半ば予定している。なぜなら、−−人は本質的に「恥」よりも「誇り」においてより容易にアイデンティティを確立できるとして−−A派の「物語」が(国家に仮託した)「誇り」を保障するのに対して、B派の「物語」ではそれができない構造になっているからである。戦後一定期間、「誇り」の再建よりも(物理的に生きていくという)より緊急な課題があった時期には、事態は異なっていたが、おそらく80年代の世界的「保守化」以降、この<本質>が作動し始めている。ここから、B派においてアイデンティティ確立そのものを批判して、そのための<物語>性そのものを批判するという対応と、アイデンティティ確立は認めるが、そのための手段として「国家」を使うことを批判するという対応とが出てくることにもなる。後者においては、「国家」の物語という<大きな物語>−−これはリオタールの例の概念とは差し当たって無関係である−−を批判して<小さな物語>が説かれることもある。

[0912] これに対して前者においては、「物語」そのものが批判されることにもなる。これは、多くの人には心理的について行きにくい論であろう。しかし、−−これは別の文脈での発言であるが−−例えば「充実した人生を生きない、物語を生きない、というのを選択肢として許容することも必要です」といったことも語られている。宮台真司氏の発言(「「酒鬼薔薇聖斗」をダーティーヒーローにするな」(『週刊アスキー』1997年7月28日)であるが、氏はこのスタンスから「自由主義史観」を念頭において「まさしく「オヤジ尉撫史観」である」、つまり傷つけられたアイデンティティといったものを慰めるものに過ぎないと語ってもいる(『朝日新聞』1997年3月27日夕刊)。我々としても、アイデンティティの確立ということ、したがって「物語」ということは近代に固有の現象であると考えている*。宮台氏も上の発言に先立って「だいたい、現実を充実して生きるなんて現代の発想は、必要あるのかな、と考えるんです。だって、昔の農村にいたヤツは、そんなこと考えもしない。毎日同じように生きるしかないんだもん」と語っている。したがって、<物語国家>をめぐる論争は「近代」という時代をめぐる論争でもあるのである。

* 拙稿としては「ランドスケープの倫理学(一)」「歴史主義をめぐって」参照。

十 「歴史」をめぐって

[1001] <物語国家>そのものを問うとき、それは同時に「歴史」を問うことになる。なぜなら<国家の物語>は<国家の歴史の物語>として語られるからである。しかしながら、「物語」とは何であるのか。何であってどう「歴史」と関わるのか。坂本氏は次のように言う。「フィクションの文芸が、そこに登場する出来事が実在するという意味での真実性を持たないことは言うまでもない。そこで、人々が自らについて語る物語については、フィクションと区別して、来歴という言葉で呼ぶのが適切だと思われる」(前掲書,22)。これは<国家の物語>についても同様に言えることであろう。氏は、「物語」を「フィクション」から区別している。したがって、「物語」に関する「歴史観」論争とは、端的に「フィクション」をめぐるものではない。B派の一部で言われるように、A派によって「歴史」に「フィクション」(例えば「神話」)が持ち込まれるから、「歴史観」論争が現出しているわけではないのである。

[1002] これは、坂本氏が「フィクション」だとする「小説」から、その一ジャンルである「歴史小説」を取り上げて考えてみると分かりやすい。「歴史小説」では(話を面白くするために)実在しなかった人物を登場させることがある。これは「歴史(記述)」の場合は絶対やってはならないことである。この点では、「歴史」と「歴史小説」とははっきりと異なる。<論争>は、実在しなかったものを記述に<入れても構わない/入れてはならない>ということをめぐる論争ではないのである。そうではなくて、実在の<出来事>間の<連関>をめぐる論争なのである。

[1003] そうであるとして次に、<論争>は、その<連関>についての「道徳的評価」に関するものであるのか。我々はそうではないと考える。<論争>は、そうした「道徳的評価」をめぐっても行なわれるが、本質的には、それ以前のレヴェルにおいて、<連関>そのものをめぐって、いかなる<連関づけ>が正しいのかというかたちで行なわれるものである。「歴史観」論争は、「歴史」をいかなるものとして描くのが正しいのかという<論争>なのである。

* しかしながら、<連関>のつけ方がすでに何らかの「道徳」によって規定されているということはある。そういう意味では、<連関>は「道徳的評価」を含んでいると言いうるし、その含まれた「道徳的評価」が<論争>の対象となるということもありうる。しかしそれは、提示された<連関>事象に対する「道徳的評価」とは別レヴェルにある。

[1004] 我々が<連関>と呼ぶものを坂本氏も−−個々の<出来事>と区別しつつ−−「物語」の「筋」と呼んでいる。しかし同時に、「さしあたり」とは断りつつ、「「筋」というものが、厳密な因果分析のようなものとは異なるものであるということに改めて注意しよう。ここにおいて、われわれは、来歴と歴史、より広く物語と歴史とを区別する地点に到達する」と説く(23)。つまり氏は、我々が<連関>と呼ぶものを二種に区別している。これは、Aテーゼ1に重なってくるのであるが、そうだとすると「物語」とは「歴史教科書」にのみ固有のものであるということになるが、その通りか。「歴史観論争」は厳密には「歴史教科書記述論争」ということになるが、今現出している<論争>はこれに局限されるのか。我々はそうではないと考える。氏の言葉をそのまま援用するとまさに「因果分析」そのものをめぐる論争が<歴史観論争>の核心にあるのだと我々は見ている。氏には(氏にも)他方では、「厳密な因果分析」というものを安易に想定するというかたちで客観主義がある。これはむしろB派によって採用されてきた立場であるが、そのB派の多くの論者達によってもすでに放棄されつつあるものである。我々も三で確認したように、そうした客観主義は端的に言って偽である*。<歴史観論争>はまさしく「歴史(記述)」そのものをめぐって生じているのである。そしてそれを我々は、「歴史」における<物語論争>として生じていると見ているのである。

* 換言すれば「厳密な因果分析のようなもの」が存在しないということであるが、これは分析哲学系の歴史論においてすでに論証されているところである。例えばドレイの前掲書参照。

[1005] このように言うなら、B派の人達は、そしてA派の人達も、<論争>はそのような基底的なところでなされているのではなく、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」といった<出来事>(個別「事実」)の<事実性>をめぐってなされているのだと、異論を呈するかもしれない。しかし、「事実」であるなら、なぜ<論争>が果てしなく続くのか。我々は、ここに<物語>が関わっているからだと考える。共に、自分たちに都合の良い/悪い「事実」であるから、果てしなく<論争>を繰り返すのである。もっとも、この事例の場合、(おそらく)B派の言い分の方が真であろう。しかし、そのB派の人達も多くは、例えば<事実に対する知的興味>といったものから<論争>に関わっているのではなく、自らの<物語>形成に関わる「事実」であるから、まさに<熱く>関わっているのであろう。そしてそれは、「歴史」である限り不可避のことでもあるのである*。

* したがって、この事例のように<政治性>が関わってはこない<論争>においても、程度の差はあっても同様の事態が現出する。例えば先に挙げた邪馬台国論争の場合もそうである。この場合、厳密には−−一部の熱狂的な「九州派」「畿内派」のような特殊な場合は除いて−−邪馬台国がどちらにあっても、あるいは二つ(以上)あっても、<物語>に大差は出てこない。しかし、そうした邪馬台国が実はたいした意味をもっていなかったとなるなら、<物語>に大きく関わってくる。邪馬台国はあくまで大きな意味をもって存在していたのでなくてはならないのである。これは、例えば自然事象であるエルニーニョ現象が(日本の夏の)気候に−−したがって、例えば台風を介して多くの人の生き死にに−−実は大きな影響を与えていなかったと分かったとしても、<物語>になんら支障を来たさないであろうということとは異なっている。

[1006] 換言するなら、「歴史(記述)」そのものがアイデンティティ確立と関わっているのである。だから、「歴史」そのもをめぐって人々は<熱く>なっているのである。坂本氏の場合は自身の立論上「歴史」そのものについては<熱く>なることを禁じられているが、A派の人々の諸論稿には各所に「歴史」そのものをめぐって<熱く>なっているところが見受けられる。「物語」そのものへの批判は、換言するなら「歴史」という<熱く>なる場(ディスコース)そのものへの批判である。この場合でも、「出来事の系列としての歴史」と「歴史記述」とを区別することができ、そうする場合は厳密に「歴史記述」というまさしくディスコースと言わなければならないであろうが、そのように分ける場合、前者は単純に「現実」とでも呼んだ方が適切である。「出来事の連鎖としての歴史」が客観的にあって、次にそれを記述するというのは実は間違った言い方であって、分析的には両者を分けうるとしても、そもそも言葉としては「歴史history」という一つのものが両義で使われているというところから見ても、両者は一体なのである。つまり厳密には、「歴史記述」と相関的に「現実」を「歴史」として見るという見方が成立していったのである*。

* 詳しくは、上記拙稿「歴史主義について」参照

[1007] このように見てくるなら、むしろ(逆に)客観主義そのものがアイデンティティ追求と関係していると言うこともできる。<物語>を介してアイデンティティ確立が求められているのであるが、そのためには<物語>はまさに<物語>であるよりは「事実」であった方が好都合であるからである。これは、科学一般における客観主義とはいわばメカニズムが異なるところである。であるがゆえに、A派、B派ともに客観主義的残滓をもっているのである。かつて遠山・亀井論争において遠山茂樹氏は次のように語ったと伝えられている。「「歴史発展は、基本的には、支配者と被支配者の対立・抗争にもとづく」。「現存秩序を維持しようとするものの立場」に立っては、その秩序の全面的把握は不可能である。ゆえに被支配者の立場、変革の立場に歴史家の目をすえることによってはじめて、歴史の客観的内在的批判が可能となる。「歴史認識が客観的であるためには、あれやこれやの立場にふらついてはならず、はっきりした立場に立たなければならない。....一つの立場に確固として立ち、しかもその批判が、いわゆる偏ったものとならない、それは形式的には矛盾のようであるが、原則的には変革の立場、民衆の立場に立つから、客観的でありうることは、前述したとおりである。」」(原信芳「歴史学の期待可能性」『比較法史研究』第5号,1996,376f.)* こうした主張は古典的にはルカーチなどにも見られるものだが、そのルカーチにおいても存在=認識論的なものとして了解するより、(アイデンティティ確立志向という)心理的なものとして了解すべきものである。そしてこれは、B派(のうちの「階級闘争史観」)にのみ見られるものでなく、例えば「国家理性」実現過程の客観性の主張というかたちでA派にも見られるものである。**

* 因みに、「変革の立場、民衆の立場」に立つことそのものが間違いだと言っているわけではない。そういう「立場」の重要性はむしろ今もなくなってはいないと言っておくべきだろう。しかし、その「立場」を、客観主義的に「真」と結びつけようとするのは間違いであり、その<間違い>はアイデンティティ確立を求めるという心理的機制に由来するのだと我々はみているのである。「立場」は−−「真」の問題としてではなく−−いわば「正」の問題として、それ自身として問うべきであろう。

** [808]中の<物語>に関する大越氏の発言も、この、客観主義とアイデンティティ志向との関係に規定されたものだと解釈することができる。氏の発言は、客観的真理を前提とした場合にのみ−−我々からするなら、そうした<客観的真理>は存在しえないのだから、そうした<真理>の主張はアイデンティティ志向からのみ了解可能であるので−−整合的に理解可能であるからである。

[1008] このようなものとしての「歴史」は、しかしながら単に「現実」への諸アプローチの一つというものではない。そのようなものとして他のアプローチから例えば純科学方法論的に並列的に区別されるものではない。それは、「現実」に対する或る特有の<距離>でもある。「歴史」は、他のアプローチに対して、「現実」に対する(心理的)<近さ>によっても特徴づけられる。(そもそもAテーゼ18が可能なのは、「歴史」のこの特質によってでもある。)主体(研究者)による構成物だ、その意味で物語だというなら、およそすべての科学が「物語」だと言いうる。しかし「歴史」の場合は、それに加えて対象との<近さ>という特徴をもつのである。厳密に言って、「歴史記述」とは、対象との<近さ>においてそれを「歴史」として措定しつつ、それを様々に記述(構成)する「物語」なのである。* そしてそれは、そこにアイデンティティというものが関わっているからなのである**。*** それ故に、「歴史」は本性として<熱く>語られるものなのである。**** *****

* したがって「歴史(学)」はむしろ、例えば経済学・政治学・・・・・といった対象に即して区別されたものというより、或る意味で全ての対象別諸部門を横断するかたちで存在する一つのアプローチのことである。因みに(「人文科学」よりは)「精神科学」というカテゴリーが近似的にこのアプローチを指し示すと考えていい。

** 歴史家バターフィールドの次の歴史家論もこのことを示している。「歴史家は、たんなる傍観者ではない。なぜならば、もしかれがたんに観察者に過ぎないとすれば、かれは思想の貧弱な傍観者とでもいうべきものであるから。歴史家は、特殊な感覚で過去に立向かっていく。かれの仕事はたんなる知力の働きではない。それは人格をも賭けたものなのである。..../....歴史家の不偏不党ということが、知性を無関心の状態におき、あらゆる情熱を冷やしておくことであるなら、それは非難されても仕方がない。われわれは、事実を発見するためにだけ過去にたち向かっているのではなく、その意義を見いだすためにも過去にたち向かっているのである。われわれに必要なのは、本能と共感を働かせ、全人間性をぶっつけて過去にたち向かって行くことである。」(『ウィッグ史観批判』未来社,1967,99-101.)

*** 多くの人々によって「歴史」が「宗教」「信仰」だと語られるのは、我々の見解では、この関係が存在するからである。この、「歴史」と「アイデンティティ」とのいわば「内的関係」については、上記拙稿「歴史主義について」で簡単に触れてある。

**** したがってまた、形式的に「歴史学者」である人々のうちで脱歴史化の志向が出てくることにもなる。例えば(旧・西)ドイツでの「社会科学としての歴史」「歴史的社会科学」への志向がそうである。日本でも歴史学者の鹿野政直氏の(日本)史学史がこのことを強く認識している(例えば「自明性の解体のなかで」『日本思想史学』no.28,1996)。

***** <物語>を求めるという点ではA派の方が積極的な人が多いが、それゆえにA派は(メタ的に)「歴史」そのものを擁護するという側面をもつ。「教科」に関して次のような発言が出てくることにもなる。「占領中の教育「改革」以後の歴史教育は、ソーシャル・スタディにすぎないものとなった。そのため、自国の来歴を語ることによって青年のアイデンティティ確立を助けるような力を失った。」(津川威智夫「歴史意識の欠如による高校生のメンタリティー」『現代教育科学』1997年7月号,67) これは、いわばA派、B派の両者がそのうえで対立している<場>の主張であると言える。この<場>の主張の点では両派は(全部ではないが)<共闘>可能なのである。いわゆる「[国民的]文化遺産」は<物語>を<物>として「共示」するものであるが、この「文化遺産」については例えば次のように語られるかたちで<共闘>が成立している。「先程から話が出ていますように、天皇の遺跡だから守りたいという人達とも一緒にやらなきゃいけないというか−−学者の運動としては、たしかにそういう統一戦線ができた。つまり直木先生のとなりに村尾次郎氏が一緒に並んで、東京の「藤原京を守る会」ができる−−。」(「座談会 文化財保存運動の発展」『日本史研究』351号,1991,17)−−このように見るならB派からは恐らく反論があるであろう。この<共闘>は最低限のものであり、いわば人間としての<共闘>であると。しかしこれには、B派からするなら「....京」ではなく、例えば関東大震災時における朝鮮人虐殺の現場−−いわば<負の記憶>−−の方が(これから人がよりよく生きていくためには)重要なのではなかろうか、そうだとするならなぜ「....京」が優先されるのか、虐殺現場はそもそも<物語>になじまないから無視されているのではなかろうか、と反論することが可能である。もっとも「保存運動」が純粋に(いわば人文主義的に)知的関心からなされているときは話は別である。しかし「保存運動」の多くは−−いうまでもなく規模の点からではなく、その様態の点で−−国民的運動であるように思われる。

[1009] 「隠れた史観に基づく日本否定の物語を子供たちに配給するとは、とんでもない税金の無駄使いであろう。いやお金なら取り戻すことも可能である。だが、失われた歴史感覚は二度と戻らない。そしてそれはつまりは亡国を意味する。」「彼ら[従来的知識人]には歴史は無意味なのであり、歴史感覚のない知識人は過去にも未来にも責任意識がないわけであり、今ここの目先と戯れていればよいからである。」−−前者はA派の菊池宏典氏の発言(「「歴史教科書批判への反論」批判」前掲『正論』,85)、後者は先の大越氏の発言(22)である。共に<熱く>語っていることの見本であるが、「歴史」については立場の違いを越えてかくも<熱く>語られるのである。我々はここで<熱く>語ること(そのもの)を批判しているのではなく*、まして<茶化している>わけではない。しかしながら、<熱く>なることが事柄の明晰化の阻害になっているとすれば、メタヒストリカルに<冷たく>「語って」みることも必要であるとは言わなければならない。

* だからと言って批判の余地がないということにはならない。しかし、そのためには、物語=アイデンティティということについて、それ自身テーマ的に論じる必要がある。それは本当に近代固有の特殊な現象であるのか、そうだとして次に、人間として「正常」なことである−−逆にアイデンティティの不確立は「異常」なことである−−のか否か、あるいは、−−<自己の物語>そのものと<国家の物語>とが直ちには同一でないということからみて−−アイデンティティにおける<共同的要素>の位置はいかなるものか、あるいはまた−−「人格の同一性」ということに対応して語られる−−一貫的アイデンティティでなければそもそもアイデンティティでないのか、こうしたことが先行して明らかにされていなければならない。

version 1.60
1997/09/15


   


細見和之『アドルノ − 非同一性の哲学』(講談社 1996年)によせて


藤野 寛

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[001] とりわけ1983年の「アドルノ会議*」以降、ドイツにおけるアドルノ研究はとても充実し、研究書・二次文献にかんしても、おもしろいものを探し出すことよりは、つまらないものを避けてとおることの方に腐心しなければならない状況にある。たとえば、細見さんも36ページ以下で参照しておられるアドルノのモノグラフィー**が出版されたとき、tazという新聞の書評は「 Rolf Wiggershaus の Die Frankfurter Schule***、Adorno****があるにもかかわらずこんな本を出すことには何の意味もない」と断じた。(私はこのシャイブレの本も熟読に値するとても良い本だと思うのだが。)

* Adorno-Konferenz 1983,hrg.v. Ludwig von Friedeburg und Juergen Habermas, Frankfurt am Main 1983.
** Hartmut Scheible: Theodor W. Adorno, Reinbeck bei Hamburg 1989.
*** Rolf Wiggershaus: Die Frankfurter Schule, Muenchen 1988.
**** Rolf Wiggershaus: Theodor W. Adorno, Muenchen 1987.

[002] それに比べて日本の業界では、アドルノの名前を持ち出して何やらとても有り難そうな、しかし大抵は理解困難なお話しを繰り広げる、いわば「高踏・無形」なエッセイの類にはこと欠かないが、信頼して参照できる「基礎文献」となると、皆無に等しい。そんな中にあって、細見さんのこの本は立派な「基礎文献」たりえていると思う。(「基礎」という言葉にはいささかの否定的な意味もこめてはいない。)敬意を表したい。

[003] もちろん私は、この本を読みながら、様々に異和感をおぼえずにはいられなかった。しかし、細見さんがアドルノから受け取っておられるものへ違和の正体を突き止めようとする、まさにその作業を通して、私は自分がアドルノから受け取ってきたものは何かを確かめることが少しはできたのではないか、と感じる。以下では、その異和感を示し、その異和感にそくしていくつかの質問をしたい。

(一) 「肯定的なアドルノ」について

[101] 私は長らくキルケゴールを勉強してきたが、ここ最近はもっぱらホルクハイマーやアドルノ、さらにはその周辺を読んでいる。長いキルケゴールとのつきあいの中で歪んでしまったと感じる自分の思考や傾向を矯正したいからだ。つまり、苦悩や分裂や絶望といったテーマにばかり淫するのではなく、幸福や快楽や愛についても自分なりに考えたい、と感じるからだ。こういうテーマについて考えようとすると、キルケゴールは参考にならない。それに対して、アドルノからは、幸福や快楽について何事かを感じ取り読み取ることができる。どれほど気難しい口調で希望のない話しばかりしようとも、アドルノは、幸福を知っていた、それも、たとえ精神的な幸福であろうとも同時にとても肉感的な仕方で知っていたのだ、と感じられる。ちょうど、彼と同じほど、いや彼以上に悲観的なものの見方をするフロイトから、にもかかわらず、快楽や幸福についてたっぷりと学ぶことができるように。あふれ出ようとする力、それも物質的な意味でそうであるもの −− フロイトの「エス」のようなもの −− がアドルノの中ではぐつぐつとたぎっているのではないか。強烈な快楽、深い幸福の体験があればこそ、それを不可能にするものに対する憤怒のように激烈な「批判」もなされえ、その否定性は彫りを深くするのではないか。(キルケゴールやニーチェと比べてみるとき、私には、アドルノの方が、客観的にはよほど幸福な生を送った人に感じられる。市民社会との破綻・亀裂の度合いも、よほど浅かったのではないか、と。「だから駄目だ」という気持ちは毛頭なしに。)

[102] だからアドルノがゲーレンとの対談(喧嘩)の中で「わたしは客観的な幸福についての表象をもっています*」と啖呵を切っているのにぶつかっても、さほどの異和感はない。あるいは『ミニマ・モラリア』の中の「愛されているといえるのは、君が弱さを示しても、相手を挑発してつけ込まれるなどということがない、そういう場合だけである**」といった言葉もキルケゴールからは聞きたくても聞けない種類のものだ。

* Theodor W. Adorno und Arnold Gehlen: "Ist die Soziologie eine Wissenschaft vom Menschen? Ein Streitgespraech", in: Friedemann Grenz: Adornos Philosophie in Grundbegriffen,Frankfurt am Main 1974. S.225ff.
** Theodor W. Adorno: Minima Moralia, in: Gesammelte Schriften, Band 4,Frankfurt am Main 1980, S.216.

[103] 以上のような意味で、私にとっては、アドルノの魅力の少なくとも一面が −− 細見さんの言い方によれば −− 「肯定的な」アドルノにあることは、自明の事柄なのである。ただ、その点を説得的に描き出すことはとても難しいと感じる。その難しい仕事を細見さんは課題として掲げ、また、「どれほど所期の目的を達しているだろうか」(268)と自問してもおられる。私の印象では、けれども、この課題は、本書では、流通するアドルノ・イメージをはみ出すまでには果たされえていない、と思う。

[104] その「失敗」は、一つには、「細見さんのアドルノ」の中で、先にも名をあげたフロイトの演ずる役割りが随分小さいことに起因しているのではないか。実質的な議論の展開の中にフロイトが参加してくるのは、ようやく『美の理論』をめぐる論述の中でのことであり(235-237)、しかもこの一回にとどまる。いや、その前にもう一度、文化産業を論じる箇所(169-171)で、「昇華」にかんするアドルノの魅惑的な言葉を引用した上で、「この「美的な昇華作用の秘密」は同時に、アドルノの美学理論のもっとも奥深いところにある「秘密」でもあるだろう」と評されている。この秘密を秘密として放置せずにその正体に迫ろうとする試みの内で、例えば、「肯定的な」アドルノは、その姿をもう少し明らかに示し出してくるのではなかろうか。

[105] また、それにもまして、「新たな唯物論」というような視角からアドルノの哲学を解釈しようとするのであれば、フロイトには遥かに重要な役割りが帰されてこそしかるべきなのではないか。

(二) 「とりわけアドルノとベンヤミンの関係から」をめぐって

[201] これは「まえがき」の中(1)にでてくる言葉である。細見さんが「とりわけ」この関係に注目されるのは、この関係こそアドルノ理解にとって最も重要だと解釈されるからなのだろうか。それとも、数ある重要な関係の中で、この本では(細見さんが興味深く思われる)ベンヤミンとの関係に焦点をあてるという、選択と断念の表明なのだろうか。もし後者であれば、私は異論はない。けれども、もし、前者だとすれば、大いなる疑問を感じる。例えば、すでに(一)でふれたフロイトの方がはるかに重要な存在ではないのか。それにもましてホルクハイマーこそ、アドルノにとって最も重要な存在だったのではないのか。ホルクハイマーについては、もはや、影響関係という言葉すら不適当だろう。細見さんも、『啓蒙の弁証法』について、「共著」の意味は「きわめて厳密に受けとめられねばならない」(135)と警告しておられる。アドルノ自身、二人の共同作業が中断を余儀なくされた時にこの中断を甘受することを拒否するために書き始められたという『ミニマ・モラリア』の献辞の中で、「これは内なる対話の証言である。それを書き止める時間を見い出した者だけでなくホルクハイマーにも属さないようなモチーフなど、一つとしてその中に見い出されはしない*」と二人の思想上の関係の内密さを告白している。例えば、アドルノ哲学の中心的モチーフだとされる「同一性思考」への批判というものからして、それが元来ホルクイハイマーのもので(も)あったことは、ホルクハイマーの1932年の「ヘーゲルと形而上学の問題」に記録されている通りである**。私はこう問わずにはいられない、「アドルノの哲学にあって、ホルクハイマーに由来するものでない、アドルノ独自のものなど、一体、どれほどあるのか」と。この本にそくして問うならば、『啓蒙の弁証法』を論じる第五章において、「著者たち」を主語としてすすめられる議論が「4 『美の理論』への通路」のあたりから、すーっと主語が「アドルノ」に変わってゆく、そのいつとも知れない移行において起こっているのは、一体、足し算なのか、それとも引き算なのか。また、例えば『否定弁証法』を論じる第六章のなかに、主語をアドルノからホルクハイマーに置き換えられない文章は、どれほどあるというのだろう。

* Adorno: Minima Moralia,S.17.
** Max Horkheimer: Hegel und das Problem der Metaphysik, in: Gesammelte S chriften, Band 2, Frankfurt am Main 1987.

[202] ほとんどこれといえる仕事を残さなかった戦後のホルクハイマーと、極めて生産的にその主著のほとんどすべてを発表していった戦後のアドルノ −− この戦後のパースペクティブに惑わされてはいけないと思う。基本的には、三十年代にホルクハイマーが輪郭を描き出した批判的社会理論の軌道上で戦後のアドルノの仕事もすすめられた、といえば言い過ぎだろうか。逆にいえば、アドルノとは何者かを突き止めるためには、ベンヤミンからの影響関係を跡づける作業(この作業が重要でないというつもりは毛頭ない。特に細見さんも指摘しておられる(138)ように、ホルクハイマー自身もベンヤミンから影響され、彼を高く評価していたのであってみれば)よりも、ホルクハイマーとの、それこそきっととても微妙であるに違いない差異を浮かび上がらせる作業の方が、よほど重要であり、また前途有望なのでもないのか。細見さんも「両者の思想上の差異」(138)について問題にしてはおられる。しかし、それは「両者のこの本(『啓蒙の弁証法』)にたいする関与の度合い」(138)に限っての話しであり、しかも「やはり最低限確認しておく必要がある」(138)のだという。そんなに、小さな問題なのだろうか。細見さんにとっては、両者の差異はそれほどにも明らかで、両者によって共有されているものはそれほどにも小さいのだろうか。(細かいことを言えば、「基本的には社会科学的な文体で綴られたホルクハイマーの文章」(64)とか「ホルクハイマーがむかいがちな堅牢な概念の構築」(140)というような特徴づけには首肯できない。大方の学問的哲学論文の文体と対比すれば、ホルクハイマーの文章は、私にはずいぶん美的・文学的なものに感じられるのだが。)

[203] そして、そう思って考えてみると、この作業をやっているのが他ならぬハーバーマスであること*に気がつく。両者を区別した上でアドルノに対して点数の辛くなるハーバーマスの評価を共有するかどうかは別にしても、少なくとも彼のアプローチそのものは注目・傾聴に値するのではないか。

* Juergen Habermas: Max Horkheimer: "Zur Entwicklungsgeschichte seines Werkes",in:Texte und Kontexte, Frankfurt am Main 1991, S.91ff.

(三) 「繊細・微細・微妙」といった特徴づけについて

[301] アドルノの哲学の、文体のみならず、内容にまでおよんで細見さんが好んで用いられる特徴づけの言葉に「繊細・微細・微妙」といったものがある(例えば、80-81)。それは「ミクロロギーの視点」に由来するものだ、とも言われる。おそらくそうなのだろうとは感じつつも、ここは、私にはよくわからない点である。

[302] 私にとってはアドルノの文章の魅力は、鋭く激しい暴力性という点に殆どつきる。彼の発言なんて暴力的断言の連打ではないのか。曰く「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮だ!」「全体は非真だ!」「思惟とは同一化だ!」

[303] 実証主義に遠慮する業界の平均的哲学文体の横に、アドルノの文章を並べて比べてみるとよい。あげ足を取られることを極端に恐れ、間違っても人の神経を逆撫でするなどという愚行だけは犯すまいと汲々とする文章たちの間に、ほとんど、もっぱら読者の神経を逆撫ですることのみを心がけているような文章が、突如として出現する光景。しかも、一瞬「おや?」と思わせ、立ち止まらせるだけ、ではないのだ。「ナンセンス!」と言って一蹴してしまいたいのは山々なのに、それを耳にし目にした瞬間から、その言葉はもうわれわれを放してくれなくなる...細見さんは「アウシュヴィッツ...」の言葉にたいするエンツェンスベルガーの反応を紹介しておられるが(176)、こういう反発を呼び起こしてアドルノは「してやったり」とほくそ笑んでいたのではないか。

[304] もっとも、細見さんもアドルノの文章の特徴として「断定的命題の並記」(188)という点を指摘しておられる。では、「繊細・微細・微妙」という特性の方は、それにたいして、具体的に、例えば、どういうところに感じ取られるのだろうか。

[305] ちなみに、ある研究者はアドルノの文章を次のように評している。「アドルノの言葉は劇的に先鋭化されている。まるで、最もかすかな思考の動きにすら、破局か救済かが左右されているとでもいわんばかりに。アドルノの言葉を貫く原理は誇張である。*」この言い方は、私には、我が意を得たりと思えるものだ。要するに、アドルノは大層なのだ。それを「繊細さ」とみなすことは可能かもしれない。過敏さという意味で。ちょっとしたことに大騒ぎするアドルノ。もちろん、騒がない方こそ鈍感なのかもしれないけれど...

* Dieter Birnbacher: "Theodor W. Adorno: Negative Dialektik", in: Hauptwerke der Philosophie. 20.Jahrhundert, Stuttgart 1992, S.337.

(四) ミクロロギーについて

[401] この点にも直接関連して −− アドルノにおけるミクロロギーの意味の強調は、それだけでは一面的の謗りを免れないのではないか。つまり、彼の「全体化傾向」とでも呼ぶべきものを同時に視野におさめていない場合には。「全体は非真である」という言葉だけでなく、たとえば「トータルな罪責連関」だとか「トータルな眩惑連関」だとか、アドルノは、頻繁に「全体」について語っているのだ。それを否定的に捉えているからといって、全体化傾向であるという点そのものは変わらない。何故、また、どの地点から、彼は「全体」について語れるのか。

[402] 200ページの「アドルノは「全体は真ならざるものである」という立場にとどまり、あくまで個別的なものの微視的な探究を重視する」という言い方は誤りだと思う。全体が非真だからという理由で「あくまで個別的なものの微視的な探求」にとどまるというのであれば、それではキルケゴールと何らかわるところがなくなるではないか。それでは、「にもかかわらず逆説としての総合を信じる」とでも言わないかぎり、弁証法の破壊であって、「否定弁証法」とは言えないはずだ。問題は「全体が非真であるにもかかわらず何故、部分に、細部に固執することが真理探求の営みでありうるのか」という点にこそあるのではないのか。つまり、そもそも「否定的弁証法」の問題とは、「全体=非真理」のテーゼと、部分がくまなく媒介されているという認識を前提しつつ、にもかかわらず、なお、希望について語れるのは、積極的な理論の構築ができるのは如何にしてなのか、という問題ではないのか。

[403] それに対する反応としては、まず第一に、全体の「外部」にドロップアウトする可能性が思い浮かぶ。実際、1968年の後に、コミューン運動に走ったりインドに旅したりした人は少なくなかった。しかし、アドルノは「全体的罪責連関」とか「全体的眩惑連関」といった言い方でまさにこの可能性を却下しているのだ。外部に避難所がないからこそ「全体」なのだ。では、第二に、現状体制(非真なる全体)の内部での部分的手直しを積み重ねていく、というのはどうか。しかし、そういう志向をすべて、修正主義あるいは改良主義と断罪して切り捨てる激しさがアドルノにはあり、それが彼の思考の魅力でもあることは否定しがたい。とすると、最後に残るのは、一種の「総替えの論理」とでも呼ぶべきもので、つまり、全面的な否定を肯定に逆転させようとするような「トータルな破局主義」ということになるのではないか。そういう「総替え」が政治的に可能だ、と信じる人は、例えば「内戦(破局)を革命に転化せよ」というようなスローガンを掲げるだろう。しかし、この世の中でのそういう「革命」の可能性を理論的に受け入れることができなくなるとき、人は「メシア主義」へと傾斜するのではないか。

[404] アドルノにそくして問うならば、彼のそういう「トータルな否定主義」とでもいう傾向と細部にこだわるミクロロギーとの関係はどうなっているのか。全体が虚偽であるにもかかわらず、しかも、部分は全体に媒介されているにもかかわらず、どうして部分(細部)に沈潜することが、否定的な現実からの逃避とはならず、希望につながるような何事かでありうるのか。もし、アドルノの「全体について語る人」という側面を軽視し、「細部に繊細に反応する人」という側面のみにスポットライトをあてるなら、彼は、単なる「気のきいた思いつき(洞察)の収集家」でしかなくなってしまうのではないか。さらにまた、アドルノがベンヤミンを「「弁証法」の欠如ないし不徹底」(114)の故に批判した、とされるのも、「否定的全体と部分との媒介関係」というこの論点にかかわってのことだったのではないか。

              −−−−−−−−−−−−

[405] 「細見さんのアドルノ」に対する異和感に発する質問は以上である。あと、アドルノ解釈一般にかかわって、この本を読みながらまたも抱くことになった問いを三点しるして、このコメンタールを終わりにしたい。

(五) 「「アウシュヴィッツ」以降」(113)について

[501] アドルノについては、よく、その思想の生涯にわたる一貫性ということが指摘される。つまり、Wende とか Kehre とかいった経験が確認されない、という意味である。例えば、ヴェルマーは、1931年に「哲学のアクチュアリティー」を書いた28才のアドルノは既に「完成された哲学者」であるかのような印象を与える、と書いている*。つまり、彼の思考の決定的モチーフはすべて既にそこに出そろっている、というのである。細見さんもこの見解を共有しておられるように見受けられる(73)。ということは、アウシュヴィッツの経験ですら、アドルノの思想に対して決定的な断絶をもたらすものではなかった、ということになるのか。「アウシュヴィッツ以降」という、あたかもそこで人類の歴史に亀裂がはいったかのような物言いは、当のアドルノ本人の思想に対してだけは例外的にあてはまらない、という話しになるのか。

* Albrecht Wellmer: "Adorno, Anwalt des Nicht-Identischen", in: Zur Dialektik von Moderne und Postmo, Frankfurt am Main 1985, S.139.

(六) 「肝心なのはこの二つの「理解」が手を結ぶこと」(23)なのか?

[601] ここに「二つの理解」とは「知的理解」と「ミメーシス的理解」を指す。ここから推測されることは、細見さんが

 "Denken(Vernunft) − identifizieren(subsumieren) − Logik(Wissenshaft)
    v.
 Sinnlichkeit − sensibilisieren(differenzieren) − Aesthetik(Kunst)"

という二元的図式を採用し、前者に知的理解、後者にミメーシスを対応させておられるのではないか、ということである。この解釈は一般に受け入れられている通説である、とも言えるだろう。

[602] これに対しては、シュネーデルバッハが、理性と感性の区別にそくしてではなく、理性そのものの内部にさらにノエシス的働きとディアノエシス的働きとを区別し、その区別にそくしてアドルノによる理性批判を解釈する提案をしている*。この区別は、理性の直観的働きと弁証法的働きとの区別、というふうに敷衍されていく。二元論を支える区別の境界線をずらしているにすぎない、とみなされかねないこの解釈をシュネーデルバッハがなすのは、アドルノによる理性批判を、理性に内在するものとみなし、理性の外部(例えば感性)に足場を置く批判から峻別するためである。仮にその意図を共有しないとしても、シュネーデルバッハの解釈の方が、例えば、弁証法をアドルノ哲学の中にうまく位置づけられるのではないか。「否定的な」弁証法を、にもかかわらず決して手離そうとしないアドルノのスタンスを、より整合的に説明できるのではないだろうか。(206ページにおいて細見さんは「アドルノは弁証法を神聖視も絶対視もしていない」という言い方をしておられる。「否定的弁証法」をいうアドルノが弁証法を絶対視していないことはトートロジー的に自明だ、と私には思われるのだが。)

* Herbert Schnaedelbach: "Dialektik als Vernunftkritik. Zur Konstruktion des Rationalen bei Adorno", inAdorno-Konferenz1983, S.66ff.

(七) 最後に

[701] 「ミメーシス的側面を継承する芸術は、発展すればするほど、知的理解を拒む一種秘教的なものへと自らを純化せざるをえない」(24)と言われる。芸術にかんする反知性主義的解釈、と呼べるだろうか。しかし、こういう解釈は、細見さん自身の「そのような「進歩」を「アヴァンギャルド」の精神の名のもとに断固として防衛すること、それはこれ以降のアドルノの音楽批評の基本スタンスをなすことになる」(47)というような解説と、うまく折り合えるものだろうか。つまり、前衛芸術が一般の人間には近づきがたい秘教的な性格をおびている事実は否定できないとして、その秘教性は、芸術の知的理解を拒むミメーシス的側面に由来するものなのだろうか。むしろ全く逆に、それが、あまりに知的になってしまっているからこそ、専門家以外には理解もまた享受も困難な代物になってしまっているのではないのか。実際、戦後の音楽シーンにあって、アドルノこそは、知的な営為としての現代音楽批評を自立したジャンルとして確立した当人なのであり、しかも、内容的にも、最も知的な音楽(ストラヴィンスキーではなく、ジャズではもちろんなく、例えばシェーンベルク)の擁護者でこそ、彼は、一貫してあり続けたのではなかったか。もし、単純に「理性とミメーシス」の二元論にたちその総合(和解)をめざして批評を展開していたのであれば、アドルノは、「進歩」の最前衛に位置しているとは言えない音楽にたいして、もっと寛容であってもよかったのではないか。意地悪く言うならば、ビーアマンならばいざしらず、アドルノは、ジャズを斥けたのと同じように、「ドナドナ」も音楽として認めなかったのではないだろうか。

 この書評は、昨年の現象学社会科学会において(12月7日、龍谷大学)、著者の細見和之氏を招いて行われたシンポジウムで、口頭発表されたものである。

1997/09/15


   


執筆要綱(暫定第三版)

1. 原稿は、原則として、MS-DOS等の純テキストファイル----jisコードのキャラクターだけから成るものを(仮に)テキスト・ファイルと定義する----(ダウン・ロード用*。ファイル名の拡張子はtxtとする)(A)と、それをHTML言語で加工したもの(拡張子はhtmとする)(B)との両方を、3.5インチ720KBフォーマットのフロッピー・ディスクで提出する*こと。(HTML言語の表記法はごく簡単なので、プリント・アウトしたもので表示イメージを指示して頂ければ、(B)は編集担当者の方で作成するので(A)の提出だけでも構わない。)*** なお、ファイルは(当分)圧縮しない。

 * (ソース・ファイルではなく)表示ファイルをダウンした場合、それがどのようにテキスト・ファイルに変換されるかまだ未知の部分があるので、取り敢えずはこれも提出する。
 ** 将来は、電子メール(等)での提出も考える。
 *** 提出したものは必ずオリジナルを保管しておくこと。(何らかの原因で、原稿内容が異なって表示されてしまった場合、オリジナル・ファイルが「正原稿」となる。)

2. ページ(というもの)が存在しないので、(引用の便等を考えて)各段落に通し番号を付すこと。

3. コードは(パソコン標準の)shift-jisを用いること。そうでない場合は編集の段階で変換しますので、用いたコードを申し出ること。

4. イタリック、強調、活字の大小に限っては各ブラウザーで表示できるので使用しても構わない。(B)では必要に応じてHTML言語で記述すること。その場合(A)では、印刷時に変換できるように、そのまま(B)での記号で、あるいは仮の記号で指示すること。(因みに本号所収の論文では、強調の箇所は<b><i>....</i></b>を用いている。)

5. (ロシア語、ギリシア語と違って)ドイツ語、フランス語の特殊文字はshift-jisコードでは表示できない。(B)では、(ISO8859-1の符号を使って)一部ブラウザでは表示可能だが、(日本語文中では)表示不可能のブラウザが多いことを考えて、用いる場合は適宜工夫した表示をすること。(A)では、これも仮の記号等で指示すること。

6. 註のつけかたは特に指定しない。(B)では、論文末にまとめて本文関連箇所とリンクさせる等、適当に工夫しても構わない。

7. 引用・参考文献については、別の(データベース・)ファイルとリンクさせても構わない。

8. 論文執筆日時を明示すること。

9. 著作権(および版権)はDIALOGICA編集委員会に帰属するが、各原稿執筆者は(その旨連絡することは要するが)自由に転載できるものとする。ただし、転載した場合は、そのことを転載稿において明記すること。修正・加筆等がある場合は、それも明記すること。

* 「執筆要綱」に関しても、アドヴァイス等を頂ければ有難く思います。


   


編集後記

 安彦論文は、今年度前期授業「大学院・倫理学演習」で考察したものの一部を基に、version'90の7月研究会での議論に触発されてその後少し考えたことを加えて纏めたものである。安彦としては、昨年から始めた「歴史(主義)論」の一貫でもある。
 藤野氏には、昨年度の「日本現象学社会科学会」で口答発表されたものを若干字句訂正して投稿いただいた。アドルノは氏のテーマの一つでもあるが、今回のものは、書評というかたちで日本で流行の(いわばポストモダニズム的な)アドルノ理解の仕方に異議を呈されたものであろう。(安彦記)

1997/09/19


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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

1997/09/19作成