目次
[001] 「ランドスケープの倫理学(一)」81頁で我々は簡単に「西部邁も、この意味での〈保守主義〉であるのか通常の〈伝統主義〉であるのか明確でない。」と述べたが、本稿では西部邁『思想の英雄たち』(文藝春秋 1996)に即して、このことをテーマ的に確認したい。そして併せて、前稿「ベンヤミン『パサージュ論』の解釈について」への補完として、保守主義との関連で「歴史主義」を位置づけておきたい。しかし眼目は、解釈そのものではなく、〈分析の武器〉として「保守主義」「伝統主義」「歴史主義」のカテゴリーを適切に再構成して提示することにある。
[101] 副題に「保守の源流をたずねて」とあるように、本書における西部の意図は、あるべき保守主義の提示にある。
[102] 西部が(真の)保守主義として提示するところのものは、通常あいまいに「革新」「左翼」に対置される「保守」「右翼」とは異なっている。「保守」については政治的に自民党のイデオロギーとみなされることが普通であるが−−もっとも最近では、西部自身を含めて(cf.18)自民党のイデオロギーはむしろ社会民主主義だと語る論者も増えているが−−、西部は「旧与党である自民党の政策を継承するという理由だけで、つまり現状維持を唯一の根拠として、またその現状たるや大いなる伝統破壊にのめり込んでいるにもかかわらず、保守派を名乗っているのだ」(17f.)として、保守主義をそうした「保守」のイデオロギーから区別する。しかし他方、旧新生党(の一部)のイデオロギーとして語られることもある「新保守主義」からも、自らを区別している(232)。「新保守主義」の基本イデオロギーの一つである「リバータリアニズム」を恐らく念頭に置いて「現代の自由主義(リベラリズム)(正しくは放縦主義(リバティーニズム))」と語っている(205)。また、「近代主義が限界に達したと日本人が感じるたび、より具体的には欧米との国際摩擦が暗礁に乗り上げるごとに、「近代の超克」を日本主義やアジア主義とよばれる集団的感情の激発にゆだね、その揚句、ある種の集団的自殺行為に民衆を駆り立てる」(16)として、いわゆる「右翼」からも自らを区別している。
1 - 1. 自生主義
[111] 「保守の源流」の一人としてハイエクが紹介されている。我々は、ハイエクが(計画主義的)社会主義を念頭に置いて批判した「[設計的]合理主義」「設計主義(constructivism)」が西部においても、最も主要な批判対象であると見る。西部の社会観の基本には、社会は、例えば(極端な)社会契約説がそう見るような人工物ではなく、本来的にはいわば一つの自然として、自生的(spontaneous)に展開するものだという見方がある。この見方は、少しく異なった視角からは、「理念型としてのアメリカニズム、それは歴史不在のところに国家を樹立せんとする社会的実験主義のことにほかならない」(11)という言い方にも現われている。やや生硬な表現になるが、この〈自生主義〉とでも呼べるものが西部の「保守主義」の基本を構成すると見ておく。
[112] 「保守主義」論の古典の一つとしてマンハイムの論稿"Das Konservative Denken;Soziologische Beitraege zum Werden des politisch-historischen Denkens in Deutschland",1927(邦訳:『保守主義』森博訳 誠信書房 1985.)がある。我々は以下(邦訳を用いて)適宜この論稿に言及するが、彼は(彼が言う)「保守主義」と区別して、「普遍的な人間の本性としての伝統主義」(8)という範疇を設定している。これは、「われわれは旧来のものを墨守し、更新にたずさわるのをきらうような人間的な心的素質を一般的にもっている」(8f.)として、その「一般的な心的素質」を指示するために設定されたものである。マンハイムはこれをM.ウェーバーに基づいて「伝統主義」と呼ぶわけだが、我々は、彼も指摘しているH.セシルの言い方の方を採用して「自然的保守主義」(9)と呼んでおきたい。「伝統主義」について我々は独自に考察したいからである。
[113] この「自然的保守主義」は、あくまで現状の変更を嫌うものであって、そこには過去(から伝えられているもの)そのものの尊重ということは含まない。我々の考えでは、これに対して「伝統主義」は、通常の意味では、−−現状に即して語る場合でも、それを現在の(新しい)ものと過去(から)のものとに分別して−−過去を尊重するものである。
[114] さて、この「自然的保守主義」という語を以下用いるとして、特に生活心情等について「保守的」と言われるときは、この「自然的保守主義」に当るものである場合が多い。しかしながら〈自生主義〉は、カテゴリーとしてこの「自然的保守主義」とは基本的に異なるものである。それは、現状の変更を嫌うということを含まない。変化を含む場合であっても、自生的な展開であるときはそれを認める。〈自生主義〉は、社会の展開は、そうした変化をも含んで自生的でなければならないと説くものである。
1 - 2. 秩序主義
[121] しかしながら西部の保守主義は自生主義だけからなるものではない。そこには次に、〈秩序主義〉とでも呼びうる要素がある。ここで言う「秩序」とは、定義的に、行為の安定性を保証するものとでも換言できようが、西部はそうしたものとしての秩序の存在を重視する。実際ハイエクも「自生的秩序」を語っている。社会は、自生的であっても、そこに−−いわば自生的無秩序として−−秩序が欠けているならば、認められないのである。
[122] 西部は、この秩序ということを基点にして、「自生的秩序」を説くハイエクが楽観的であると(内在的に)批判する。「ハイエクが保守主義者になれなかったのは、自生的な(慣習的)秩序がいわば自生的に破壊されることもありうる、という疑念を持ち合わせなかったからである。自生的秩序は、....「設計主義」によらなくとも、崩壊しうる。」(234) ハイエクは、設計主義的介入がむしろ逆に自生的秩序を破壊すると考えたのだが、西部によるなら、そうした介入が無くても自生的秩序は崩壊しうるのである。
[123] 西部によるならしかしこれは、 ハイエクが秩序を重視しなかったからではなく、あくまで見方が甘かったからであるにすぎない。内容的に言うなら、ハイエクが見ていた社会は「あまり大きな変化の起こらないような静態社会あるいは変化の仕方が一定しているような恒常社会に近いものだったから」(240)であるが、しかし現代の「高度技術および高度情報の大衆社会」(235)は動態的であり、そこでは秩序は自生的にのみでは維持されないのである。
[124] 西部が維持を主張する秩序は、普通言われる場合よりは外延の狭いものである。ハイエクを(なお)肯定的に評価して次のようにも語られている。「そうだとするとハイエクは首尾一貫せる保守主義だということになる。彼が保守せんとしたのは、もちろん、既存の秩序そのものではない。既存の設計された秩序の奥底にあって歴史をつらぬいて持続してきた自生的な秩序、彼が保守せんとしたのはそれである。」(242) ハイエクは、「組織[つまり秩序]を設計しようとする」ことによってむしろ逆に秩序が破壊されることになる、秩序は自生的秩序としてこそ本当に保守されると説くのだが、西部も秩序を、そうした表層的な組織的秩序としてではなく、それから見るならその底にあるものとして主張するのである。しかし同時に、西部によるなら、そうした「奥底」にある秩序が自生的にのみでは保守できないのである。
[125] しかし、ハイエクのように人工的な計画的秩序に対して単純に自生的秩序として「奥底」の秩序を言うのでなければ、どのようなものとして「奥底」の秩序を限定することが出来るのか。該当の文脈内ではミスリーディングに提示されているが、西部は「歴史の知恵」(242)に基づく秩序といったものを考えているように思われる。(ミスリーディングだと言うのは、(奥底にある)秩序そのものを問題としながら、「歴史の知恵とでもいうべきものを守らんがためなのだと思われる」と段落を締めくくっているからである。)しかし問題は、この「歴史の知恵」とは何かということである。
1 - 3. 伝統主義
[131] これに対して西部は、「伝統」をもって答える。〈自生主義〉との関連で言うなら、この「伝統」によって導かれる自生的秩序ということを主張するわけである。ここに我々は、西部の「保守主義」の次の要素として〈伝統主義〉を加えることができる。エリオット論においては、〈自生主義〉との関係で実際次のように説かれている。「彼[エリオット]は、社会の各地・各層において長い歴史のなかで自生的に成長してきた人間の生き方の多様性とそれらのあいだの統一性をともに保守するには、個別の古き諸制度のなかに秘められている宗教の規準と伝統の英知とを確認し定着させなければならないといいたかっただけのことなのだ。」(209)
[132] しかし、西部において「伝統」は、形式-語義的に「歴史によって「運ばれてきたもの(トラディクション)」が伝統である」(28)とも語られているが、それであれば伝統主義は、さらに〈今後運ばれていくもの〉をも含める場合、(純粋)自生主義と外延的に同一となるのであって、実際はそれよりは限定されたものとして考えられている。他方また、(一定の)過去そのものを規範として設定して、そうした歴史的実体として伝統が規定されているのでもない。普通の語感では、このように過去そのものを規範とするものが伝統主義と呼ばれるのだが、西部のはそれとは異なる。そうではなくて西部は、エリオットに即して、(悪しき因襲をも含む)過去の伝統のうちの「正統」の部分として「伝統」を考えている。では、そうしたものとして「伝統」はどう規定されているのか。
[133] 西部は「庶民」と「大衆」とを区別し、「祖先の伝え残した歴史の知恵とでもよぶべきものを担っているのが庶民であ」る(124)と語る。というか、歴史の知恵=伝統を担う者を「庶民」と定義する(cf.269)。そこに期待されるのは、伝統をその担い手の側から規定することである。例えば柳田や吉本ならそこに「常民」「大衆」というものを、そしてその「知恵」を提示してくると言えるが、しかし西部はそのやり方を採らない。「現代の人々は伝統破壊者としての大衆の顔相を露骨にし、伝統保持者としての庶民の容貌を希薄にしている」(269)と例えば語りつつ、実体としての庶民の存在を否定する。庶民と大衆という二種類の人々がいるのではなく、現実に存在するのはいわば庶民性と大衆性を共にもつ者だけなのである。
[134] しかし他方、オルテガに共感を示しつつも、ここで大衆の対極に立つものとして「真正の知識人」を実体として提示することも拒否する。そういうものを知識人のなかから取りだそうとしても、現実の知識人はあまりにも「疑似大衆化」(269)してしまっているからである。
[135] 西部は、「真正の知識人」を(も)、「庶民の生活に表現を与える」(269)者と規定する。しかし、そうした規定によって「伝統」を規定しようというのであれば、それは単なるトートロジーにすぎぬ。そこで彼は、いわば認識論的観点から、知識人を「解釈」者(cf.272)、あるいは、オークショットの会話論を援用して(258)庶民(性を含む者)との「会話」者(cf.270)とも規定し、「解釈」や、庶民との「会話」において認識されるものとして伝統を規定しようとする。
[136] 西部は、このうち「解釈」に即して、そうした知の在り方を「経験論」(24)に見てもいる。あるいはまた、「いわば“伝統について意識化するための賢明な方法”が正統とよばれているわけだ」(207f.)として、この認識論的観点からもエリオットの「正統主義」を擁護する。
1 - 4. 平衡主義
[141] しかし西部は結局、認識のいわばよき在り方によって見出されるものとして伝統を規定することを貫徹しない。つまり解釈学的立場や、会話主義そのものを結論としはしないのである。
[142] 西部は他方で、直接「知恵」自身を限定してもいる。伝統に関連づけて次のようにも語られる。「技術、イデオロギー、慣習そして価値のあいだをはじめとして、矛盾や対立を孕みつつ多方向に分岐していく言語の多機能のあいだで平衡をとること、それが文明の成熟ということなのだ。そしてあまりにも明瞭なのは、そうした平衡の感覚および成熟の知恵が....一つの時代だけの、一つの世代だけの、そして一個人だけの努力によって獲得されるわけではないということである。私が伝統とよんできたのは、そうした成熟の知恵への接近法にかんする歴史的な堆積のことである。」(286) 端的には「平衡術の貯蔵庫にほかならぬ伝統」(36)とも語られる。−−この、いわば〈平衡主義〉とでも呼べるものも西部の「保守主義」を構成する。
[143] どの方向へかということは別として進むことが必然であるとするなら、どう進むかが問題となるが、この観点から西部は、〈平衡主義〉の系として「漸進主義(グラデュアリズム)」(31)を主張してもいる。「平衡をとりつづけるためにこそ保守思想は漸進的な歩行を採用するのである。」(31) そしてそこで、同時に〈平衡主義〉の根拠づけとして、人間の不完全性(32)に因る合理主義の不可能性ということを指摘しつつ、「合理に依拠する」急進主義(33)、および、それへの単なる反動(「反合理を標榜する急進主義」(34))を共に退けて、〈漸進主義〉の正当性を主張する。
[144] 〈平衡主義〉は、個人間・集団間の対立という局面では、同様一つの系として〈妥協主義〉というかたちを取る。「平衡と妥協」という節タイトルの下で、「肝心なのは、その制限にして歴史の英知としてつくり出されたものならば、そこに人間および社会に潜む灼熱せる矛盾、葛藤、二律背反を平衡させる精神の政治学、とでもよぶべきものが秘められていると知ることである」(131)と説かれている。
[145] 〈平衡主義〉はまた、その系として〈人格主義〉とでも呼べるものを伴っている。こう言われる。「自分は今のとは別の機能の担い手(あるいは価値の表現者)となりうるのだ、さらには複数の機能(あるいは価値)にもかかわりうるのだと理解したとき、人間はみずからのうちに生じる機能的相克や価値的葛藤にたいして平衡を与えるべく、人格上の総合(インテグリティ)(完成)を求めはじめる。」(265) これは通常のタームで言うと、「卓越主義」とも呼びうるが、さらに限定すると、例えばA.マッキンタイアのものに相当する。ただし西部は、ウェーバーの議論を踏まえて、「専門人・党派人」という人格の断片化に対して、その統合性として主張している(265ff.)。
[146] この〈平衡主義〉は西部において中心的な規定となっている。「正統」ということについてもチェスタトンから「正統はいわば荒れ狂って疾走する馬を御す人の平衡だった」(129)という件を引用しつつ、「正統」を「平衡」から規定しようとしてもいる。しかしこの点で言うなら、西部は、この「平衡」についても、それをそれ自身として規定することを放棄している。チェスタトンについても「正統と目されている思考および行動の類型のなかにこそ、その種の平衡術が宿されていると考えた」(129)として、逆に「正統」から「平衡」を考えようとしている。したがって、西部が言う「保守主義」そのものについても、端的に〈平衡主義〉として規定することはできないのである。
2 - 1. 解釈主義
[211] 西部と同じく真の保守を求める村上泰亮は「世紀末の保守と革新」(『中央公論』1990年1月号)で、(真の)保守の核心として〈解釈(学)主義〉とでも呼べるものを提示している。「進歩主義は、超越論型の反省 transcendental reflection (つまりひたすらに高次の抽象的法則や理念を追求しようとする姿勢)に、/保守主義は、解釈型の反省 hermeneutic reflection (つまり常に具体的な生活世界やその歴史に照合しようとする姿勢)に、/それぞれ深い類縁関係がある。」(104) 西部の保守主義もこの〈解釈主義〉を本質的要素として含む。
[212] 村上はマンハイムの議論への補完としてこのことを述べているが、マンハイム自身も次のような言い方をしている。「保守主義者からみればかれら[ブルジョワ自由主義者・社会主義者]は〈機械的〉であり、器械のように統御でき、合理化しうる生成途上の階層をば歴史のなかにとらえようとする。これに反して、保守主義的思考は〈解釈的〉立場をとり、できるだけすべてのものを理解し、解釈しようと務める。」(58)
[213] 我々はこの〈解釈主義〉が(我々の言う)〈保守主義〉の核心をなすと考える。(というか逆に、〈保守主義〉を〈解釈主義〉を核心とするものとして規定する。)上記拙稿80頁で「イギリス的な、Bramwellの言う意味での、というより、すでにMannheim,K.の古典的規定からしても」と述べたのは、この点を踏まえてのことであった。但し、保守主義のこの規定はマンハイムにおいて必ずしも中心的ではないので、ミスリーディングではあった。
[214] さて、この意味での保守主義は、上に挙げた〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉と親和的である。しかし、〈伝統主義〉との関係は問題である。それは、〈伝統主義〉の含意が曖昧であるからである。[132]で見た形式的意味におけるものである場合は親和的である。しかし、普通言われる場合の伝統主義である場合は、そうではない。では、西部の言うような〈正統主義〉とでも呼べるものの場合はどうであるか。−−実は、これが、西部の保守主義の規定そのものにとっても、最重要の問題点である。
2 - 2. 〈正統主義〉について
[221] [136]で簡単に触れた認識論的観点からの「正統主義」の規定もあるが、それは西部においてメインのものではない。メインはあくまで内容的なものである。しかし、これについて明確なのは、ヨーロッパ、あるいは、そのうちのイギリスをアプリオリに「正統」としている(199f.)ところだけである。エリオット(およびチェスタトン)自身は、(場合によっては*)「キリスト教」を「正統」の核心と考えているが、西部はそれには留保を示す(130)。そして、我々はいかなる意味で「伝統」が語られるのかを求めて「正統」の主張に着目したのだが、その「正統」の規定は結局「伝統」に送り返されている。
* この限定を付したのは、エリオットが言う「正統」はこう簡単には規定し切れぬものを含むからである。例えば、福田和也が、彼が言う「古典主義」としてエリオットを読む場合の「正統」の規定も検討しなければならない。因みに、この福田については、本稿筆者も、ハイデガー=保田與重郎論をテーマとしていずれ論じなければならないと考えている。
[222] しかるに西部は、「だが伝統が何であるかを具体的に述べることなんぞはできない相談である」(203)と語る。そして、この「伝統」を「具体的に述べ」ぬかぎりで、〈伝統主義〉の含意は曖昧なままなのである。そして、どういう意味で〈保守主義〉であるのかが曖昧なままなのである。であるから、再度上記拙稿からの引用を繰り返すが、「西部邁も、この意味での[=〈解釈主義〉を核心とし、〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉と親和的な]〈保守主義〉であるのか〈通常の伝統主義〉であるのか明確でない」のである。
2 - 3. 通常の意味での「伝統主義」
[231] しかしながら西部は実際は他方で、上の言に相違して、「伝統が何であるかを具体的に述べ」ている。それはまず、伝統を「国民国家」の伝統として規定するところに現われている。西部は、「伝統が国民的な性格のものである」(287)として、「伝統」を「国柄(nationhood)」と等置する。端的には、我々の言う〈平衡主義〉に即して、「国柄という平衡棒」(288)とも語られる。そして更に、近代の国家形態である国民国家は、そうした「国柄」に基づくものであり、そういうものとして「歴史上の偶然の産物」ではなく(287)、「人間社会の展開の必然の帰結」(288)であるとして、伝統を「国民国家」の伝統として規定している。
[232] 「伝統」のこの規定について西部は、一つの根拠づけを提示している。「政治のイデオロギーも社会の慣習も文化の価値もみんなそうだが、経済の技術もまた言葉の派生物である。」(286) 「言葉づかいの適否をおおまかにせよ仕分けることを可能にするルールの体系、それが伝統の本質であ」る(287)。なるほど日本等においては、(自然)言語の流通範囲と国民国家の領域とは一致している。そしてアンダーソン、B.を踏まえて言うなら、−−彼自身は言語と国家の範囲はむしろ一致しないとするのだが−−特に近代のまさしく「国民国家」は(その「想像の共同体」の形成において)多くを言語に依拠するものである。その限りでは、いわば自動的に伝統は国民的伝統である。
[233] しかしながら、ここでも、レトリカルな言説の背後にある構造は、再び単なるトートロジーである。伝統をまず国民的伝統と規定するから根拠づけが可能になっているに過ぎない。しかし「伝統」は、国民的伝統として、「国民国家」の枠内でのみ伝えられるのであるか。そうであるとするなら、「正統」も国家の枠内にあることになるが、エリオットのイギリスへの帰化を「正統への亡命」(199)と理解するとき、少なくとも西欧世界(全体)を枠組みとする伝統と、そのなかでの「正統」が前提されている。西部においても、伝統を国柄として規定することは徹底されていないのである。だから、「誇張」であると断られてはいるが、「日本の知識人がヨーロッパの正統的思想を引き継ぐということだってありえない話ではない」(210)とも語られるのである。
[234] 西部はまた、伝統主義の形式的意味から大きく外れるかたちで、伝えられてあるものについて、その是非を峻別しもする。近代を大きく規定するものとして技術(知)と自由を挙げることができるが、西部はこのうち−−自由主義的保守主義として−−大枠としては後者を是とする一方、前者については懐疑的な態度をとる。しかも、「近現代の市場経済は巨大な技術革新のうねりとなって発展しているのであり、それゆえ市場が大いなる不確実性の発生源になっている、ということについて、ハイエクが等閑視している」(243)としてハイエクを批判するかたちで、技術社会の不可避性を認識しつつである。つまり、技術社会を一方では不可避の事柄であると認めつつ、それに対して否定的な判定をするのである。したがって、その不可避性を認めている以上、技術社会を廃棄することは主張しないが、それに制限を加えることが説かれる。例えば「技術体系は権威によって裏づけられていなければならな」い(264)、「技術的合理を歴史的良識によって制限するような社会体制が確立さ」れなけらばならない(282ff.)と語られている。
[235] あるいはまた、(少なくとも形式的には)伝統と言える同じく近代の「物質的な豊かさ」(8,267)についても、全否定するわけではないが、「自分らの精神を頽廃に導く」(268)ことのないかぎりという限定をつけられるし、現状については、そうした「頽廃」に導かれてしまっていると判定する。
[236] つまり、「伝統」といっても、伝えられているものの全てが「伝統」として保持が語られるのではなく、そこには一定の選別がなされているのである。こう言うならば、「伝えられている」といっても一定の時間的持続が必要なのであり、近代起源のものは「伝統」たりうるためにはまだ持続期間が不足であると反論されるかもしれぬ。だが西部は、「自由」については、それが明らかに近代起源のものであっても「伝統」に数え入れる。また逆にこうも言える。「物質的な豊かさ」を求めるという在り方は、それこそ人類の発生からのものであり、そこまで話を広げなくても、例えば日本の戦国期の展開などはまさしく土地=物質的豊かさを求めてのものではなかったか。西部は、逆に近代以前のものであっても自分が言う「伝統」に算入しない場合があるのである。
[237] そのように国民主義的、選択的に「伝統」を語るとき、それは通常の意味での伝統主義である。西部は他方では、〈通常の意味での伝統主義者〉でもあるのである。
2 - 4. 歴史主義
[241] 西部は一方では、(我々の言う)保守主義として、近代の現実のうちに三つの傾向を確認し、その三者間のバランスを説く。「アメリカニズム、それは純粋近代主義(ピュアモダニズム)の別名である。現実の近代という時代は、当のアメリカにおけるものを含めて、前近代主義(プレモダニズム)と後近代主義(ポストモダニズム)とを兼ね備えている。三者のあいだの矛盾と葛藤が、相克と亀裂が、近代という時代に、危機の様相とともに活力の表情を与えもしてきたのである。一言でいえば、純粋近代主義における個人主義と合理主義との爆発を抑制すべく、前近代主義という過去志向的な解釈の力と後近代主義という未来志向的な想像の力とを(互いに関連させつつ)活用するということだ。」(284) しかしその場合でも、明らかに「前近代主義」に重心が置かれている。
[242] それは、いわばメタ的に、そうしたバランス(平衡)の感覚が過去からの伝統のうちにある(cf.284)というからだけではない。この感覚が「歴史感覚」とも換言されている(20)ように、バランスにおいて過去そのものが特別の位置を占めている。したがって、形式的に三つの主義の間のバランスが語られてはいても、「歴史喪失」として「前近代主義」の欠如のみが批判の対象になっている。「アメリカニズム」という批判がなされたり、そうしたアメリカニズムのアメリカと現在の日本とが同質であるというところからなされる「アメリッポン」「ジャメリカ」という言い方に妥当性を認める(282)ところに、それは明らかである。また、過去志向の優位は、「プレモダニズムとしての保守主義」(12)という(つまり、三者間でのバランスの志向ではなく、「前近代主義」そのものが「保守主義」であるという)言い方で示されてもいる。
[243] 我々はこのような現在との関連における過去志向を「歴史主義」と呼ぶ。それは、現在の問題性を過去からの桎梏に原因があるとみて、過去からの解放を現在の重視というかたちで−−ないしは未来を志向するというかたちで−−説く現在主義=モダニズムの対極に位置するものとして、現在の問題性を過去の忘却にあるとして、その忘却されている過去を復権させようというものである。西部には他方で、この「歴史主義」がある。*
* 「歴史主義」の我々の用語法は、「自然主義」(ロータッカーによれば、より適切には「普遍主義」)の対立概念としての標準的用法とは異なるものである。また、ポパーが(Historizismusの表記で)独自に用いるものとも異なる。系統としては、建築史などで用いられるものに属する(例えばマンフレッド・タフーリ『建築のテオリア』朝日出版社 参照。彼は現代建築史の基本軸をアヴァンギャルドと歴史主義の対立に置くが、我々が言う「歴史主義」は、このアヴァンギャルドを典型とする「現在主義」に対して、その対立概念となるものである。彼は、現代においてはアヴァンギャルドが担う傾向を遡ってルネサンス期にも見出し、「15世紀以来の」建築史を歴史主義vs.反-歴史主義の枠組みで捉えるが、これに対しては我々は、歴史主義vs.現在主義を19世紀以降のものとして考えたい。)。ニーチェが「歴史の過剰」(『生に対する歴史の利害』)と批判する立場も、我々が言う「歴史主義」と同系統に属する。
「歴史主義」(全般)についてはこう簡単に処理できぬところがある。本号所収の別稿「歴史主義について」をも参照して頂きたい。
[244] この「歴史主義」は(現在においては)外延的に〈通常の意味の伝統主義〉とほぼ重なるものであるが、それはさらに特殊近代の傾向として、逆説的に言うなら、それ自身一つの近代主義である(我々は、そういうものとして「歴史主義」を限定的に規定したい)。それは、近代において、その近代の問題性に対して、特殊近代的にその問題性の克服を志向するものである。そこから「歴史主義」が出現する問題性とは、端的に言えばアイデンティティの不安定化である。歴史主義は、近代において不安定となるアイデンティティを過去に依拠して安定化しようとするものなのである。そして、そういういわば機能を担っているところから、それは一種のピュアリズムのかたちをとる。歴史も純粋化されることになる。したがってまた、歴史はそうしたものとして一種仮構されたもの(虚構)となる。であるから、「伝統」も選別されたもの−−ホブズボームのタームで言うなら「[過去について近代によって]創り出された伝統」−−となるのである。
[245] 西部は自らの「保守主義」のほとんど別称として「歴史主義」という言い方をする(19)。そしてそれを、例えば別著『貧困なる過剰』(PHP文庫 1991)では、「単なる過去趣味」=「レトロ主義」(181f.)から区別する。しかし、その区別は結局、歴史における「正統」を尊重するということによってなされるものにすぎない。再び〈正統主義〉がポイントとなるのだが、先に見たように〈正統主義〉は曖昧なままである。同書では−−「権威」概念を介して−−〈(人々によって)歴史上正統だとみられているものが正統である〉という(準)トートロジーが語られている(cf.186f.)。ここから見るなら、西部の〈正統主義〉は「曖昧」というより、その意味が空なのである。
[246] 我々の解釈では、この〈空〉が他方では−−同書では「現代人にとって可能なのは非在のレトロなのであろう」(184)と語られつつも、その「非在」ということが深く考察されることなしに、いわば安直に−−埋められており、そこに出てくるものを我々は「歴史主義」と呼んでいるのである。それは、なるほど限定を加えて「浅薄なレトロ主義」(191)と呼ばれるものとは異なったものであるとの印象を与える。しかしそれは、構造としては「浅薄なレトロ主義」と−−例えば「ハイ・キッチュ」がいわゆる「キッチュ」と同様「キッチュ」であるのと同じように−−同じものである*。そして我々の理解では、「浅薄なレトロ主義」と同じものとして、我々の言う意味で〈歴史主義〉なのである。
* 因みに西部は、「こういう浅薄なレトロ主義が馬鹿にできない吸引力をもっていることにも注意しなけらばならない。私の好きな哲学者や思想家たちのうちでも、伝統を思う気持ちが大き過ぎたために、浅薄なレトロに過ぎなかった運動に、後になれば慚愧の念に堪えないようなかたちで引き込まれたものがたくさんいる」として、チェスタトンと共にハイデガーの名前を挙げている(同書 191)。これに対して、上に挙げた福田(『保田與重郎と昭和の御代』等)はハイデガーを、ここの表現で言えば「非在」の事実を見つめた思想家として捉えている。そして、そのなかで「正統主義」を考えている。これは、第一義的には当人同士の問題であるのだが、西部と福田の違いを明らかにすることも、「保守主義」の解明にとって生産的であろう。
3 - 1. 理念的保守主義と現実的保守主義
[311] ここで我々は、いままで「我々の言う保守主義」と呼んできたものを〈理念的保守主義〉と呼ぶことにする。それは、〈解釈主義〉を核として、〈自生主義〉〈秩序主義〉〈平衡主義〉、そして形式的意味における〈伝統主義〉を含意するものである。正確に言うなら、この五つの〈主義〉がそれぞれ意味するところがすべて重なる部分が、〈理念的保守主義〉である。これに対して、前四者に加えて、〈通常の意味における伝統主義〉と〈歴史主義〉を含むものを−−現実の保守主義はこの方が普通であるという点からみて−−〈現実的保守主義〉と呼ぶことにする*。我々が西部に対して求めたいのは、単純に、このどちらを主張したいのかということの明示である。
* この〈現実的〉という呼称は、あくまで〈理念的〉に対する意味でのものである。いわゆる−−例えば「政治的リアリズム」という場合の−−「現実主義」の含意はもたない。因みに言うなら、この「現実主義」には〈理念的保守主義〉の方が近い。「現実主義」の対立概念は「理想主義」であるが、我々の言う〈現実的保守主義〉の方がむしろ理想(あるいは、観念性)を(多く)含んでいる。しかしまた、〈理念的保守主義〉の方も、まったく「現実主義的」かというと、「現実主義」が語感的に含意するところのものから見て、少し違うように思われる。この点については、簡単にであるが[344]註***で引き続いて論じてある。
[312] こう求めるのは、まず〈理念的保守主義〉の主張が、思想のタイプとして本格的に議論の対象にされなければならないと考えているからである。村上の言う「反省の二つの型」の間でこそ生産的な論争が可能であると換言してもかまわない。本稿筆者の専門領域でいうなら、例えば Clarke,S.G./Simpson,E.(eds.),Anti-Theory in Ethics and Moral Conservatism,State University of New York Press,1989. などは、まさしくこの観点から編まれたアンソロジーである。
3 - 2. イギリスの保守主義について
[321] 日本の多くの〈現実的保守主義者〉に比べて西部が異なるところは、ヨーロッパ、特にイギリスに一つの模範を求めていることである。我々は、ヨーロッパ内部においても、イギリスの保守主義が〈理念的保守主義〉に一番近いと考えている。
[322] 「たしかにイギリス人的思想の系譜にふれるとき、何と愚鈍な退屈さだろうと苛立つことが少なくない。ところがそれらには読み終ったあとにずしりと胸に応えるものがある。それのみならず、何十年か経ったあとでも、その読書体験が知らぬまに熟成していて、しっかりと自分の精神の血肉となっているとわからせるのは、やはりイギリス人の著作においてであることが多い。」(24)−−例えばこのように西部は、イギリスに自らの「保守主義」−−そして我々からするなら、それは〈理念的保守主義〉であるのだが−−模範を見る。
[323] この引用に続けて、「それは、疑いもなく、経験論の重みのためなのだと思われる」と語られる。ここに「経験論」と語られ、26頁ではA.スミスと共にその名が挙げられているが、我々はヒュームの思索に、我々の言う〈理念的保守主義〉の典型を見ている。しかし西部はここでは「イギリス経験論の山脈のなかでとりわけ高峰をみせつけている」(24)としてエドモンド・バークに言及する。
[324] 我々はバークにも〈理念的保守主義〉の典型を見ることができる。しかしながら西部は、〈理念的保守主義〉へといわば純化してバークを理解しているであろうか。バークの理解にはさまざまなものがあるが、〈理念的保守主義〉は、山崎時彦編『政治思想史−−保守主義の生成と発展−−』(昭和堂 1983)に即して言うと、マンハイムやハーンション,E.J.C.に対してハンティントン,S.P.の理解に近い。ハンティントンによるならバークの保守主義は、「特定の社会集団の持続的主張や必要を反映するものではな」くて、「集団同士の間にある関係に依存する」「位置のイデオロギー」である(16)。したがってそれは、状況によってその関数として内容を変えるものであって、その意味で、「逆説的に思えるかもしれないが」、「伝統をもたない」し、また「歴史をもたない」(17)。これだけでは近似的でしかないが、筆者(森本哲夫)が要約して「ラディカルな観念論的形態をとらないところに、バークとイギリス保守主義の特色があるともいえる」(21)と述べるとき、それは我々の概念規定に正確に重なってくる。では、西部のバーク理解と、そしてそもそもその「保守主義」はこのようなものであるのか。
[325] 「....はバークの卓見であった。つまり「偏見の擁護」ということである。プレジュディスは先入観であるが、「あらかじめの(プレ)判断(ジャッジメント)」でもある。いかなる判断もそれに先立つ判断がなければ成立しないことをバークは見抜いたのであった。伝統が仮に偏見の体系にみえたとしても、それらの偏見は合理的判断のための拠るべき前提なのかもしれない。」(30)と語られるときは、正しく〈理念的保守主義〉を言い当てている。この(解釈学的な)「偏見の擁護」は、古典で言うとアリストテルスの「エンドクサ」の重視にも通じるが、このタームを用いて言うなら、西部は自らの「保守主義」をエンドクサ主義として純化して語る用意があるのであろうか。
[326] 本稿はベンヤミンに関する拙稿への補完でもあるので、ここで『パサージュ論』に言及したい。S6a,1としてエルネスト・ルナン『道徳と批評に関するエッセー』から次のイギリス論が引用されている。「一つの国が快適さ(コンフォータブル)(フランス的というにはほど遠いある一つの観念を表現するために、この[英語起源の]野蛮な言葉を使わざるをえないのだが)の趣味に関してなし遂げる進歩が可能になるなどということがあり得ない以上、逆説でも何でもなく、次のように言うことがゆるされよう。すなわち、快適さが公衆の関心を惹く主要な興味となった時代や国は、芸術的見地からすれば、もっとも才能にとぼしい・・・・と。便利さは様式を排除する。イギリス製の壷は....のどんな壷よりもそれ本来の用途に適している。これらの壷は芸術品だが、イギリス製の壷は家庭用品以外のなにものでもあり得ない。・・・・歴史において、工業の進歩が芸術の進歩とけっして平行的ではないという、この疑問の余地のない帰結[のみにここではとどめておくことにしよう]。」そして、この前にS6,4として同じ書物からの次の引用がなされている。「私的な快適さというものは、ギリシア人たちのあいだでは、ほとんど知られていないことがらだった。あれらの小都市の市民たちは、自分たちのまわりにすばらしい公共の記念建造物をいくつも建てたにもかかわらず、家のなかでは質実そのものだったのだ。....」ベンヤミンはこの引用に簡単に、「ボードレールの創作に見られる、快適さへのこれとは逆な愛を参照せよ」とコメントしている。
[327] 我々の解釈では、文脈から見てここでボードレールは反歴史主義者として言及されている。そうすると、イギリスは−−例えばフランスに比べて−−反歴史主義的であることが含意されている。さて西部は、そういうものとしてイギリスに加担するのか。我々のみるところでは〈理念的保守主義〉は、ここの表現で言うと、何よりも「快適さ」を求め、安易に観念的に「芸術」を説いたりしないところがある。もちろん、ここでいう「快適さ」は物質主義的なものではない。ここを物質主義と(誤)解するなら、それは自らの歴史主義を裏側から告白していることになる。−−西部が例えばこの箇所にどういうコメントを付けるのか知りたいところである。
3 - 3. 〈現実的保守主義〉について
[331] 西部は、他方では確かに〈現実的保守主義者〉である。しかしながら、そういうものとして「保守主義」を説くのであるなら、氏はなお論を尽くさなければならないと我々は考える。
[332] まず伝統の本質的ナショナリティーについて。西部は上述のように確かに言語−−しかしそれは近代的な「国語」である−−論的な根拠づけを行っている。これについて先には単なるトートロジーであるとしたが、なお検討を行っても構わない。語られていない以上、代わって我々がなされるべき議論の方向を示すことになるが、それは解釈学に関するものとなる。西部も言及する(30)ガーダマーは、なるほど経験の言語性を語っている。経験は、言語の枠組みのなかでなされるのであり、その意味で「先入見」のなかでなされるのである。そしてその「先入見」はガ−ダマーにおいても、「伝統への帰属性」によって制約されている。ここで、この「伝統」を言語的伝統として、言語の範囲と伝統の範囲とを等置しても構わない。しかしガーダマーは他方で、「地平の融合」をも語っている。西部が見るように、伝承されている固定的枠組みとして「先入見」があって、その枠組みのなかで経験がなされるというのではなくて、「地平」としていわばまず「現在」の「先入見」があって、それが「過去」の「地平」との「対話」において絶えず変化する、というふうに見られている。この「地平の融合」を例えばアーペル的に他の地平との融合として更に考えるなら、一つの「国民的伝統」が他の「国民的伝統」との関係において自らを変化させる、ということが可能になる。しかるに西部の〈根拠づけ〉においては、その余地がなくなるのである。あるいは、その方が正しいのかもしれぬが、そうであるとしても西部はここで、単に「解釈学」のイメージに依拠するだけでなく、まさしく解釈学を提示しなければならい。あるいは更に、ガーダマーに即して−−「ただ一つの地平」という考え方などを手がかりにして−−西部的解釈学を根拠づけることも可能と思われる。しかしその場合は、ガーダマーに加えられている解釈学の他の諸コンセプトからの批判に対して反批判を展開しなければならない。そうでなければ、言説は基本的にレトリックに留まり続けるであろう。
[333] しかし我々はここではむしろ、西部における一つの近代主義としての伝統主義(つまり歴史主義)を問題としておきたい。(大体の保守主義がそうであるように)西部もまた、近代(のある局面)に対する反発として、そしてその近代的な(ピュアリズム的な)反応として伝統を語っていると考えられる。例えば18頁で「冷戦構造の解体」について語られる諸言説を批判して、「だが、実際に生じているのは、自民党がこれまで以上に社民色を強め、社民諸党が政権に参画し、そして(立て続く戦争謝罪発言に如実に示されているように)国民の歴史感覚にたいするいっそうの冒涜が行われているという事態である」と語られるときは、明らかにそうであろう。そもそも、ここで言われるような「歴史感覚」は、例えばエリオット論で言われるそれ(「歴史的感覚」(203))とは別物である。
[334] 我々の理解では、こうした「歴史感覚」は簡単に言うなら、自分たちの根=過去が間違いではなかったということを(自己欺瞞的に)確認したい、そうすることによって自己のアイデンティティを安定化したい、というところに出てくるものである*。そしてこの場合は、伝統はいわば〈真理〉として提示されることになる。〈理念的保守主義〉においては過去=歴史の伝統は、それを〈よきもの〉とみる場合であっても、betterなもの、より正確にはless badなものであるに留まるのに対して、ここでは一つの絶対的なものとして説かれるのである。
* 上に挙げたニーチェの著作では、比喩を用いて次のように語られている。「樹木[人々]が自らの根に対してもつ幸福感、つまり自分がまったく恣意的・偶然的であるのではなく、過去から相続人、花そして果実として成長してきており、そのことによって自らの存在において弁明され、さらには正当化されていると知るという幸福。−−これが、人が今、好んで本来的な歴史的感覚と名づけるものである。」(理想者刊『ニーチェ全集』第4巻 121 但し、訳文は一部変更)我々の主張と関連づけるならば、であるから、過去は間違いを含んでいてはならないのである。
因みに確認するなら、この著作についてニーチェは後年、「この論文において、一九世紀が誇りとしている「歴史的感覚」なるものが初めて病気として、典型的な頽落の徴侯として看破せられている」(同上『全集』第14巻 85)と述べて、上の言明が単に記述的な言明ではないことを明示している。
[335] しかし他方、そうした「歴史感覚」もアプリオリには否定できない。この「謝罪発言」云々については、いわば左翼的に一蹴することもできるが、歴史主義は−−例えば風景感覚や様々な生活慣習への感覚など−−普通は「よきもの」と見なされる内容のものをも「歴史感覚」として、かつ構造的には上の場合と同じものとして語っているからである。我々はこれを、アイデンティティ安定化の機能を担うものと見ているのだが、先ず、そうしたかたちでのアイデンティティ安定化が不可欠であるか否かが、換言するなら「虚構」の不可欠性の真偽が確認されなければならない。
[336] 我々から見るならそうであるとして、さて、−−これはおそらく、いま流行の「仮想の現実(ヴァーチャル・リアリティ)」という大騒ぎを、それはなんら新しいものではないと批判する過程で、議論の流れで言わざるをえなくなったものであろうが−−西部も次のように言うことによって「歴史」の虚構性を述べている。「歴史とは国民が自分らの過去について物語ろうとするところに生れる「仮想の現実」のことなのである」(282)。彼によれば依拠すべきことになる歴史とは、実はフィクションであることが認識されているのである。しかるに西部において〈現実的保守主義〉として、この「虚構」の不可欠性が説かれているのである。そうであるなら、−−〈理念的保守主義〉へと純化して論を張るのでなければ−−氏もこの「虚構論」を展開しなければならない。
[337] 例えば、小阪修平との対談「伝統の可能性とニヒリズム」(『ORGAN』第3号)では、「虚構」の不可避性を前提として「良き虚構」を−−伝統として−−語っている。しかし、ここで我々が求めている「虚構論」は、そうした「良き虚構」と「悪しき虚構」−−後者は『思想の英雄たち』では、ル・ボン論において、「群衆」の「行為の動機」となる「イメージ」として捉えられている(107f.)−−との区別ではなく、人間の「生」−−これを西部は、オルテガに近いかたちで「観念」に対置している。例えば、三島由紀夫の自死についても、この観点から批判がなされている−−における「虚構」の位置に関する論である。「生」にとって「良き虚構」が不可欠だとするなら、どういう意味でそうであるのか。
3 - 4. 両保守主義の関係−−あるいは、〈物語主義〉−−
[341] 「歴史」が「虚構」であるとの認識(そのもの)は〈現実的保守主義〉のものではない。西部が「虚構」であると語るとき、それは〈理念的保守主義〉としてのものである。〈現実的保守主義〉においては、(〈理念的保守主義〉からすれば)「虚構」(であるもの)は「実在」である。〈理念的保守主義〉は、「歴史」について〈現実的保守主義〉がまさしく「実在」とみるものを「虚構」だと認めるのである。しかしながら問題は、「生」にとってのそうした「虚構」の不可欠性である。
[342] 西部によるなら(171f.)オルテガがこうした「虚構」の不可欠性を語っている。『危機の本質』から次の件が引用されている。「人間とは存在にたいする憂慮ないし関心である・・・・・・かく存在しようとする憂慮・・・・・・最も固有な自我を実現しようとする憂慮である。生とは、みずからを防御し、難破者となって世界の海原を漕ぎすすんでいかねばならぬこの人間の奇妙な存在のドラマのことである。・・・・・・歴史とは、そのもっとも根源的な原理・・・・・・からして、すでに解釈であり註解であって、これは個々の事実を一つの生、一つの生きた体系のなかに組み入れることを意味する。」我々は、西部も引いている「物語的理性」という表現に即して、このような認識を〈物語主義〉と表現することもできる。
[343] ここで言う〈物語主義〉は一つの規範倫理的主張である。人は((よく)生きるためには)物語らなければならないという実践的教説(いわば〈実践的物語主義〉)であって、人は事実として物語っているという理論的教説(いわば〈理論的物語主義〉)ではない。したがってまたそれは、人は何らかの物語の枠内でのみ認識をもつことができるという解釈学的教説とも別のものである。「歴史とは国民が自分らの過去について物語ろうとするところに生れる」(282)と西部が言うとき、それは実践的教説として説かれている。であるから、そうした物語の努力について「良きもの」と「悪しきもの」との峻別がなされることにもなるのである。これに対して純理論的に見るなら、事実は端的に事実であって、良し悪しをおよそ語ることのできぬものである。
[344] しかしながら、こうした〈実践的物語主義〉はそもそもありうるのだろうか。西部において、〈物語〉=〈虚構〉は、〈観念〉から区別されている。〈物語主義〉は〈観念論〉とは異なっている。オルテガは、そしてオルテガに即して三島を批判するときの西部も、明らかに「観念」を拒否している。しかし、「観念」とは別のものとしての「虚構」とは何であるのか。これについては、オルテガの「生」(および、それを構成する「信念」)と「観念」の概念を検討することが手がかりとして有効であろうが、「虚構」が「観念」とは−−それを意識する者にとって、内容としてではなく、いわば信憑様態として−−別であることが証示されるのでなければならない。〈虚構〉が〈観念〉と結局同じであるのであれば、−−〈歴史は観念にすぎない〉として−−〈理論的物語主義〉は可能であろうが、〈実践的物語主義〉は〈理念的保守主義〉であるかぎりは恐らく不可能となるであろう。しかるに西部は、明確に〈実践的物語主義〉を説いているのである*。** ***
* 西部はニーチェをも「保守の源流」に数え入れているが、〈理論的物語主義〉の主張は、そのニーチェの言い方で〈すべては解釈である〉と換言することもできる。これとの対比で言うなら西部は、「解釈をもたなければならない」と説くものである。そして、そういう実践主義的読みを、このニーチェに対しても内在的に批判するというかたちで行っている(81ff.)。また「保守の哲学的根拠」としてヴィトゲンシュタインが挙げられている(213ff.)が、そこでも同様実践主義的読みが行なわれている。ヴィトゲンシュタインの哲学は、我々の解釈ではその「生活形式」は認識の形式ではなくて実践の形式であるのだが、しかし、そうした実践上の事実を事実として述べた理論的教説である。(倫理的主張だとしても、記述倫理的主張である。)しかるに西部は、例えば「人間の生活形式の少しでも安定した根拠を探求せずにはおれなかった人間」(226f.)とヴィトゲンシュタインを理解しているのである。
この二種の〈物語主義〉については、オルテガの議論の検討も含めて、なお考察の必要があると考えている。ここでは簡単に以下の分析のカテゴリーを挙げるに留めておく。〈理論的物語主義〉:1.「人は無意識的に物語っている」、2.「人は意識して物語っている」。それぞれについて、a.「多くの人は....」とb.「人は不可避的に....」とを区別できる。〈実践的物語主義〉:それぞれについて「(よき物語である場合は)それはよきことである」と語る。これに対して、いわば〈実践的反-物語主義〉として、a.を前提として、「物語るべきではない」と説く立場を措定できる。b.を前提とする場合は、端的に〈反-物語主義〉を説くことはできないが、その場合でも「人(の認識・行為・生)はそうしたものでしかない」と語るものがありえる。
** 「正統主義」の可能性も、この(〈理念的保守主義〉としての)〈実践的物語主義〉の可能性に依存すると見ることができる。
*** 我々も、すべては物語であると説く〈理論的物語主義〉であるなら、〈理念的保守主義〉もそれを本質的構成要素とすると見ることができる。そのような〈理論的物語主義〉的認識は、人間の有限性の認識から出てくるものであって、後者は我々がすでに述べた〈解釈主義〉が含意するところであるからである。[311]への註との関係で言うなら、この〈理論的物語主義〉の点で〈理念的保守主義〉は−−〈理念的保守主義〉的「現実主義」というものも可能ではあろうが−−「現実主義」そのものとは異なるとみることもできる。(例えば国際政治に関して共に「現実主義者」であるモーゲンソー,H.J.とアロン,R.との対比で言うと、前者が人間の行為を合理的なものと見るのに対して後者がそれに懐疑的であるという違いがある。前者の合理主義的人間観は〈理念的保守主義〉とは不整合である。)
[345] かなり前のものであるが、小論「歴史の喪失」(『生まじめな戯れ』筑摩書房 1984)では、我々のタームで言えば歴史主義と物語主義とを関連づけつつ、物語の復権を説いている。大要こう語られている(84f.)。「歴史(ヒストリー)は現在において構成される物語(ストーリー)なのである。」そうした歴史=物語は、人間に固有のものであり、動物は歴史=物語をもたない。その意味でそれは、オルテガの言い方では「客観的には過剰なもの」である。しかしそれは、「良く在る」ためのものである。「とりわけて過剰なのは、「“良く在る”ことのみが人間には必要であり」[オルテガ]....という点である。」−−我々からするなら、歴史主義とは、このような「良く在る」ことを求めて歴史を物語るものである。−−しかし、「第二次大戦後....“歴史喪失の世紀”がはじまった。主観的な物語もしくは芸術としての歴史がファッシズムやスターリニズムの醜悪を生み落とした後となっては、「われわれ自身のなかのヒトラー」(ピカート)に眼をつむりたくなった気持ちもわからぬではない。」そうした歴史=物語のない所で、ニーチェの言うように、「動物じみた、あるいは子供じみた幸福が得られもするのだろう。」* しかし、「私のごとき歴史的動物」は歴史=物語の復権を求めたい。
* ここでは、西部とニーチェの基本的違いが西部においても把握されている。同時に、同じ「生」であっても、ニーチェの「生」とオルテガの「生」とは異なるということが含意されている。この相違は、思想解釈上の一つのテーマとなりうる。
[346] さてそうであるとして、しかしながら「虚構」は「虚構」として意識されるかぎりでは「生」において機能しない。したがって、〈現実的保守主義〉においては「歴史」は「実在」と見られているのだが、「虚構」が不可欠だとするなら、「保守主義」は〈現実的保守主義〉としてのみ機能することになる。そしてそうであるなら、西部も−−自らは〈理念的保守主義者〉でありつつ人々に対しては−−、〈現実的保守主義〉を説いて構わないということになる。西部における〈現実的保守主義〉的言説も、そうしたいわば戦略的言説であるとも解しうる。そしてここに、そうした戦略を行使する者と、行使される者というかたちで、オルテガの「知識人−大衆」という図式がなお作動しているとも解しうる。
[347] しかしそうであるとして問題は、この「生」にとっての「虚構」の不可欠性ということである。これが論証されるのでなければならないのである。再び問うが、「生」にとって「虚構」が不可欠だとするなら、どういう意味でそうなのか。この不可欠性の論証が示されて始めて、「保守主義」をめぐって本当の議論が行いうると我々は考える。
[001] 本号所収の「保守主義・伝統主義・歴史主義−−批評:西部邁『思想の英雄たち』−−」(以下、前稿と略記)において、我々は「歴史主義」についても検討を加えた。しかし、そこではテーマ上、西部の論述に合せて「歴史主義」をかなり限定されたかたちで問題とした。それは、言うとすれば「過去主義」とでも換言できるものである。しかしながら、「歴史主義」は「過去主義」に還元できない。それは、さらに広い含意をもつ。本稿は、この広い意味での「歴史主義」をテーマとして、検討を加えたい。前稿との関連で言うなら、本稿では以下、前稿で「歴史主義」としたものを「過去主義」と表現することになる。
[101] 「歴史主義」という言葉は実にさまざまな意味で用いられている。「歴史[発展]法則主義」とでも訳しうるポパーの用法(ただし彼はこれを"Historizismus"*と表記)は別としても、一つの価値語として肯定・否定両様の正反対の用法があるだけでなく、その価値表現として用いられる場合を含めて一般に、「現実」のさまざまな側面の言表のために用いられている。したがって、同じものが「歴史主義的」「非-/反-歴史主義的」の両方の性格づけを与えられることになったりもする。例えばヘーゲル哲学がそうである。一般にはヘーゲルは歴史主義者とみなされているが、マイネッケはこれに躊躇いを示している。これに対してクローチェは、まさしくヘーゲルを歴史主義の代表者とみなしている。これは、ヘーゲル理解の違いからくるというより、「歴史主義」概念の違いが原因だとみた方が妥当である。
* 英語では今日では(historismより)historicismの方が標準の表記であるが、これは通常はポパーの用法を指示するためのものではない。実際OED(第二版)でも、これに対応するドイツ語としてHistorismusが挙げられている。
[102] 「歴史主義」という言葉の登場は比較的新しく、ようやく19世紀になってからのことである(厳密には、19世紀の30年代から90年代にかけてのことである(茅野良男『歴史のみかた』紀伊國屋新書,1964,151。同「歴史主義」『哲学雑誌』743号,1960,21 をも参照))*。そしてそれは、これは少し先行するが18世紀における「歴史哲学」の出現や、19世紀の、特にドイツにおける新たな世界観の抬頭、そして20世紀初頭における「歴史科学の基礎づけ」の試みや、この19世紀ドイツの世界観への反省の試みと平行した現象である。ここからみるなら、我々はまず端的に「歴史主義」の核心として「文化主義」「特殊主義」とでも呼べるものを取り出すことができる。
* 柏原啓一によるなら、Werner,K.の1879年の著書が初出であるということだが(高橋/徳永編『歴史の哲学』北樹社,1980,16)、これは厳密には、「この言葉が最初に非難の意味を含めずに用いられたのは....1879年の....の書....であった」(マイネッケ『歴史主義の成立』上、筑摩書房,1976,4)と言うべきであろう。
[103] 「歴史主義」は、再広義にまず現実を「歴史」としてみることを共通に前提とする。これは当然のことであるが、しかし、「歴史」の意味の確定はそう簡単ではない。"natural history"という言い方もあるが−−これは「自然史」と訳すのは誤訳であって、「自然の研究」ぐらいの意味のものである。一般にhistoryは、語源的には「研究」ということを意味する。古代ギリシア語のhistoriaは「知ること」「探求すること」を意味する。(茅野前掲書,18 参照)−−「歴史」は対象的に人間事象に限定される。人間が関わる現実が「歴史」の対象なのである。過去(および同時代)の人間の出来事の記述が「歴史」なのである。しかしながら、古代ギリシアのヘロドトスやトゥキュディデス、古代中国の司馬遷であるなら、その歴史記述はこう規定するだけで十分なのだが、近代歴史学の性格づけとしては、なお欠ける要素がある。それがすなわち「文化」ということである。
[104] 人間事象であっても、ギリシアや、さらにはヘブライにおいても、また中世においても、基本的には、人間の事柄として完結するものではなく、人間を超えて「運命」や(神の)「摂理」に支配されるものとして了解されていた。広義に言うなら「自然」として了解されていたと言ってもいいであろう。「文化」とは、この人間事象が、「自然」から独立に、まさしく人間の事象+として了解されたものである。18世紀においてヴィコは、「自然の世界」から「人間の世界」を区別して、それを「人間が作った」ものと規定する。そしてヘルダーはこれを、同じく「自然」と区別して「文化」と呼んでいる。「歴史主義」は、広い意味では、このように現実を「文化」として対象とする考え方を意味する。
+ 以下、イタリック and/or ボールド体は、その部分を強調することを意味する。
[105] この「文化」としての把握と同時に、人間事象は単なる出来事としてではなく、そうした出来事の過程として対象化され、その過程そのものが「歴史」と呼ばれることになる。これも同じく18世紀に入ってからのことであり(茅野前掲書,61)、「歴史」という言葉が、「歴史記述」だけでなく、その対象(としての現実過程)をも意味するに至るのも、この18世紀のことである(同,71)。このように現実を一つの過程として把握することも、広い意味での「歴史主義」の特徴の一つである。
[106] 近代の特徴は「信仰」からの「理性」の独立である。人間は近代において理性によって現実の認識をめざすようになる。しかしそれはまずは、自然の認識として始まった。まずは自然の認識だけが理性に基づく「学問scientia」であり、人間事象の認識は、「歴史historia」として、「記憶」に基づくだけの、「学問」の一段下に位置するものでしかなかった。それが体系的になるときは、基本的に古代・中世と同様に信仰によって規定されたものでしかなかった。人間事象について「人間本性」からの説明がなされるときでも、その「本性」による人間事象の展開の説明が結局、「摂理」「運命」等、信仰内容によって根拠づけられている。18世紀ですら、基本的にはそうである(同上,94)。
[107] 但し、18世紀になると、この「人間本性」について「進歩」ということが語られることになる。その限りで、永遠に同一である「自然」に対して、「歴史」は「進歩」によって区別されることにもなる。この歴史の進歩観は、近代固有のものである。ヘブライ起源の一見似た歴史観と同じものではない。ユダヤ−キリスト教的な歴史観では、なるほど歴史は終末に向かって進歩するが、それはいわば神のプログラムによってであって、進歩する人間本性の結果としてではない。そこでは人間本性は同一のままに留まっていると言ってもいい。(因みに、この「進歩」観については、歴史の方が先行する。ダーウィンによって「自然も進歩する」とみられようになるのは19世紀も後半に至ってである。)18世紀において「歴史」の見方、つまり歴史観は進歩史観というかたちをとるのであるが、それは、啓蒙主義やカントもそうであるが、19世紀に入ってヘーゲルの「歴史哲学」において頂点に達する。ここにおいては、表現的にはなおキリスト教的タームが用いられているが、歴史はまさしく「人間本性」(「精神」)の自己展開として、そういう意味で「文化」の展開として体系化されている。
[108] 19世紀に入ると、このような「歴史哲学」の克服として、他方では歴史学の「学問」化が進行する。実証化が進行するが、事柄はそれに留まらない。一方では、例えばコントやミルのような、自然科学をモデルとして歴史現象を把握しようという傾向を結果した(ドイツ歴史学では、世紀末にランプレヒトがこの方向をとる)。しかし他方、歴史現象はやはり人間の現象であって決して自然科学的に純対象化的に把握し切れるものではない。ここに自然科学志向的な歴史学(「自然主義」)に対して、歴史現象固有の認識を求めて(より狭い意味で)「歴史主義」が登場してくることになる。特にドイツにおいては、19世紀の歴史学はこれが主流となっていく。ドイツ歴史学正統派のランケ学派も、歴史主義的である。あるいは、法学や経済学の「歴史学派」を挙げてもいいであろう。
[109] 「歴史主義」登場の要因としては、対象が人間事象、つまり「文化」であるということに加えて、その文化が個別的であるということがある。文化は自然とは異なって普遍的ではなく、諸文化にそれぞれ固有な性格をもつものとして、特殊的である。普遍主義に基づく自然主義ではどうしても文化は捉え切れないという反省のもとに、啓蒙主義に対するロマン主義の批判とも連動して、対象をその個別性において把握すべきであるというかたちで、「特殊主義」という性格をもってより狭い意味で歴史主義が説かれることにもなったのである。しかしながら、これに対しては「相対主義」に陥るという反批判が同時に登場してくることになる。今世紀初頭の「歴史科学の基礎づけ」においては、歴史主義擁護派の立場からは、この相対主義の克服が主要課題となる。トレルチやマイネッケの歴史主義論も、この課題を引き受けたものである。
[110] 「歴史主義」の提唱者・批判者たちはこう見たのであるが、より正確には、人間事象も(あるいはさらに自然事象も)見方によって普遍とも特殊ともみることができる。この点から特に新カント派は、歴史を、研究者の方からの「個性記述的」(ヴィンデルバント)「個別化的」(リッケルト)な方法によって対象となるものと規定する。新カント派は同時に、「文化」は対象的にそれ自体として「文化」として把握されるのではなく、「文化」がそもそも「文化」であるのは一定の「価値」の実現としてそうなのであるが、何が「価値」であるかは研究者の方からの一種の投影であると考える。従って、この<投影>の違いによって、同一の人間事象であっても異なったものとして現れることになる。この点からウェーバーは、(体系としての)「文化科学」の完結性を否定する。人間事象の(体系的)認識は常に新たになされることになるというのである。
[111] このことは同時に、歴史学の強い実践性の自覚をも含意する。歴史は純客観的にではなく、(研究)主体のなんらかの問題意識といったものと相関的に初めて対象となるからである。ここから、自ら歴史に関わる、あるいは関わっていることによって歴史が開示されるという一種弁証法的な関係が指適されることにもなる。ルカーチの『歴史と階級意識』などに、この関係性が先鋭に表われている。一般に今日では、歴史主義はこの一種の実践的主体主義と一体になっている。アイザック・スターンは現代の「歴史感覚」を「新しい歴史感覚」として区別しているが(『歴史哲学と価値の問題』岩波書店,1966,3ff.)、それは我々の言うこの実践的主体主義をメルクマールとしている。
[112] しかし同時にこのことは、対象を客観的に認識するという学問理念からみるなら一つの逸脱でもある。客観性を求めて歴史学においても実証主義は有力な傾向となっている。しかしながら、純実証主義的に歴史を認識しようとするなら、出来事の(単なる)記述に留まらざるをえない。したがって、すでにショーペンハウアーが「歴史の体系は存在しない」と説いているように、それでは歴史記述は単なる年代記でしかなくなる。ここに、客観的記述と体系性とのいわばトレード・オフ関係が問題とならざるをえなくなる。それでもなお客観性を保ったまま体系性をもてるとするなら、それは、自らの「主体(観)性」が無自覚に留まっていることでしかない。19世紀は「歴史学の世紀」であったとも語られるが、それは、この「主体(観)性」の事実を深く反省することなく、いわば幸福に、あるいは反省がなされる場合でも、結局は両者の両立可能性があいまいなままに容認されるかたちで学が構想されていたからでもある。それがまた「近代」という時代でもあったのだが、20世紀の現代は、もはやここに留まることはできなかった。フランスのアナール派や、レヴィ=ストロースの構造主義、フーコーのアルケオロジー等は、いずれも「主体」と(対象としての)「歴史」との裂け目を意識して、それぞれ独自の方法意識をもって新たに現実へのアプローチを行なおうとしている。近年のニュー・ヒストリシズムなども、この場合は、この<裂け目>のうちにむしろ自由を享受しているようにも見えるが、この無自覚性の暴露という側面をもっている。
[201] 「歴史主義」は単に学問の方法に関するものに留まらない。マイネッケは「歴史における個体性と発展に対する感覚」、我々のタームで言うなら、「文化」の特殊性と、その「文化」の進歩「に対する感覚」を「歴史主義」と呼んでいるが、「感覚」という、学的意識に先行するいわば前-学的意識のレヴェルで「歴史主義」をテーマとしている。いわば一般的意識として「歴史意識」という形態が主題化されているのである。我々もむしろ、「歴史主義」はこのレヴェルでこそ問題とされなければならないと考える。しかしながら、マイネッケにおいても結局はそうであると言えるのだが、多くは、この「歴史意識」は自明のものとされている、あるいは「歴史」概念を前提に(単に)<その歴史の意識>くらいの了解がなされるに留まっている。我々が言う「歴史意識」とは、<そもそもそのもとで現実が「歴史」として意識される意識形態>のことである。
[202] 橋川文三は論稿「歴史意識の問題」(『橋川文三著作集4』筑摩書房,1985,5)において、このマイネッケの見解を展開して次のように述べている。「それ[歴史意識]は「歴史感覚というか、あるいは歴史経験というか、直接感じ方の問題として、現象の背後にある歴史的厚みを感じる実感」「その実感があるから、物事の歴史的発展が論理的にとらえられ・・・・・・専門化して歴史学にもなる」(加藤周一)という、そういう性質のものにほかならない。つまりそれは「歴史学」はもとより、「歴史的認識」....等々とよばれるすべてのものの根底にあって、それらと関連しながらも、基本的にはそれらと異なる一種の精神的能力のことである。それは、あたかも感性のアプリオリな諸形式が、人間認識の前提として与えられているのと同じように、意識に内在する、ある基本的な様式として考えられるものであろう。したがって、心理的実質に即していえば、それは「感覚」のある作用とも考えることができる。たとえば、マイネッケが、その著作の一つに Vom Geschichtlichen Sinn und vom Sinn der Geschichte と題した場合などは、そこにいわれる「歴史感覚(ジン)」は「歴史の意味(ジン)」を感覚しうる精神作用のことであり、そのまま「歴史意識」と同じ意味で用いられたものである。」
[203] 橋川のこの記述はしかし、表面的にはよく分かったようでいて実はほとんど何も述べていないに等しい。元になっている加藤の「現象の背後にある[ここは「現象の背後に或る」と読んでおく]歴史的厚みを感じる実感」にしても、その「厚みを感じる」とはいかなることなのかが少しも説明されていない。だから加藤は−−冗語的に−−「歴史的」という形容詞を付すのであろうが、それだけであるなら歴史を歴史によって規定するというトートロジーであるに過ぎぬ。「歴史意識」は「歴史」概念を用いずに規定されるのでなければならない。
[204] なるほど加藤−橋川は、「過去意識」の側面から、単なる(知的な)「時間意識」から区別される「時間感覚」を捉えてはいる。単なる「過去意識」とは区別された「過去感覚」を捉えてはいる。過去が単に知識として意識されるだけの次元を越えて、過去が(「古い」として)感覚される次元を捉えている。これが「歴史意識」だと我々も言ってもいい。しかしながら彼らは、その「過去感覚」について、単に「歴史的」という形容を付して「過去意識」から区別するだけであって、その分析をなんら呈示していないのである。一体「過去」はどのようにして、単なる知識を越えて感覚(実感)されうるのか。
[205] これが、我々が答えなければならない問いであるのだが、前提として、そもそも「過去」とは何であるのかが分析されなければならない。ハイデガーは「博物館に保存されている家具」を例として(『存在と時間』(『世界の名著62』中央公論社)586ff.)、それが現在なお存在しているにもかかわらず「どのような権利でもってわれわれはその存在者を歴史的[つまり過去のもの]と名づけるのか」と問う。そして、まず、それが過去のものであるのは、一定の時間の経過を経ていることに因る「破損」や「虫食」のゆえにでもなく、また、もう使われなくなっているということによるのでもない、とする。つまり、単に古くなったものが過去のものであるのでも、当初の用途に使用されていないものが過去のものであるのでもないのである。確かに、古くなっていることは過去のものであるための要件ではあろう。一定の時間を経過していないものについては過去のものとは言えないであろう。しかし我々は明らかに、他のものについては過去のものと呼べるほどの時間が経過しているものについても過去のものと呼ばないものをいくらでももっている。例えば、私の部屋の隅っこに放置されているタイプライターは(パソコン時代の今ではもう)過去のものであるが、私の家のガレージにある、それよりも前に製造された自転者はまだ過去のものではない。だが、後者は、逆に単にまだ(本来の目的のために)「使用」されているから過去のものでないのであろうか。タイプライターであってもまだ使用されていれば過去のものでなくなるのであるのか。「博物館の家具」であっても、(アンティーク家具として)使用することは可能であって、まだ使用されていれば過去のものでなくなるのであろうか。決してそうではない。「家具」は明らかに過去のものである。では、「家具」のうちの何が過去のものとなってしまったのか。
[206] ハイデガーはこれに対して、「それはほかでもない世界である」と解答する。「家具」自体の何らかの性質のうちに過去性の要因があるのではなく、その家具が属している「世界」のうちに、その家具が過去のものである要因があるのである。つまり、その家具がかつて属していた世界がもはや存在しないから、家具自身は存在していてもそれは過去のものであるのである。事物の過去性は、それが属していた世界の不在化、(世界そのものがなくなるわけではないので)換言して<世界の変化>に基づいているのである。(もちろん、その「家具」を単なる木片として見ているときは事態は異なってくるであろう。その場合、「過去の木片」とみなされたりはしないであろう。その意味で厳密には、「家具」は「家具」として見られていることを前提とする。)
[207] ハイデガーはさらに、ここから「現存在の時間性」へと分析していくのであるが、我々はこれ以上はフォローできない。基本的には、その論に異議を感じているからである。しかしながら、以上の<世界の変化>に至るまでの分析は、卓越した分析として十分受容できる。確かに「過去」とは、一定の時間を経過していることではなく、<変化する以前の世界に帰属していること>なのである。ベルクソンのタームを使って言うなら、我々はなんとなく空間化的に時間の経過を考えていて、一定以上の時間の経過があったものが過去のものであるとしているが、これはしかし、実は首尾一貫してそうであるのではない。我々の例で言うなら、タイプライターを昔のものとする程の時間を経過していても、自転車については昔のものとはしていない。もっと古いものを挙げるなら、いまポケットに昭和30年代の10円玉が入っていたが、通常はこれを過去のものとしたりはしない。端的には自然物がそうである。太陽は出来てから約50億年を経過しているが、決して過去のものとはされていない。
[208] 上にベルクソンの名を挙げたが、彼はこの「空間化された時間」を「流れた時間」とも呼び、それから「流れる時間」を区別する。ベルクソンの場合、そしてフッサールにおいてもそうなのだが、物理的時間に対置される意識の時間は実は、この「流れ」の意識である。事物についても、それを流れにおいて知覚する意識のことである。ハイデガーの「博物館の家具」もこのような流れの意識において知覚することがもちろん可能である。しかし、ハイデガーがこの例で、そして我々がいま問題としているのは、そのような<現在を流れにおいて意識する>という時間意識のことではなく、<事物を過去においてあったものとして意識する>時間意識である。ベルクソン、フッサールにおいてもこれは「記憶」「想起」の意識として分析されてはいるが、その場合は、原初的にその事物を現在として意識しておくことを前提としている。これに対して我々が時間意識として問題としているのは、事物を、最初から過去のものとして知覚する意識のことである。平たく言って、事物について「これは古い」と認知する意識のことである。
[209] さて、世界が変わっていると認知されるから、もはや現在のではない世界に帰属していたものとして「古い」と認知されるのであるが、しかし、加藤−橋川が言っているのは単なる古さの意識ではなくて、さらに古さの感覚である。「博物館の家具」について、例えばパンフレットで17世紀のものであると知り、そしてそこで「世界史」の教科書などで知ったことを動員して、我々の20世紀とは異なった世界のものだと意識することによって古いものだと意識することが可能である。しかし、これではまだ、その世界に属する「家具」の古さの感覚は出てこない。
[210] 「古さ」の感覚であるならば、なるほど「破損」「虫食」によって与えられる。これらをみて我々は「古い」という感覚をもつことができる。しかし逆に、これらは、適当な処理をほどこすことによって新しいものであっても実現することが可能である。我々は、新しものであっても、そうした特殊な処理をほどこされたものについて「古い」と感覚することが可能である。これは、いわば誤った古さの感覚であって、ハイデガーはそうしたものが過去性を構成するわけではないことを分析したのである。しかしながら、この「破損」「虫食」の事態は、古さの感覚が何らかの直観に基づくということを示してくれている。我々は直観なしには古さを感覚できないのであって、過去についていくら知識をもっていても例えば観念上の17世紀の或る事物について−−たとえ写真等のヴィジュアルな観念であっても*−−「古い」という感覚はもつことができない。「家具」も、それが「博物館」に現存していて、我々がそれをまさに直観するから「古い」という感覚をもちえるのである。
* 但し、厳密にはこう簡単には言えぬ。例えばセピア色にプリントした単色写真など特殊なものは、そこに写ったものを「古い」と感じさせる。しかしこれは、−−或る種の絵画の場合にも同様なことが言えるが−−写真家の主観がいわば作品(写真)に投影されているからである。写真家の「古さ」を感じさせてやろうという意図が(成功的に)働いて、その意図の枠組みのなかで対象(写真に写っているもの)を人々が知覚するからである。
[211] 直観(そのもの)が直ちに古さの感覚を含むというのではもちろんない。新しいものは直観の対象であっても普通は少しも「古い」という感覚をもたらさない。これは当然のことである。では、どういう直観の仕方が「古さ」の感覚をもたらすのか。我々は、例えば亡くなった父親からもらった家具であるなら、それを見ることによって古さを感覚することができる。たとえそれが新品同様であってもそうである。それは、生きていた父親との関係におけるその家具の記憶が私のうちに残っていて、それが想起されるからだと考えられる。父親の存在は私にとって大きいものであり、その現在・不在はまさしく<世界の変化>をもたらしている。残された家具が(想起を伴って)「古い」と感覚されるのは、この<世界の変化>が介在しているからである。いくら前のことであってもまだ生きている父親からもらった家具であるなら、「古い」という感覚は伴われないであろう。しかし、過去は些細なことに即しても可能である。私がいまこの辺り(の第一次稿)を書いているのは1月5日だが、本稿を書き始めたのは12月30日であって、年を越えているわけだが、一般に日数的にはわずか前のことであっても(同一年内の場合と比べて)年が改まると、少しだが過去性が感じられてくる。こういう年月というノミナルなものが関与してくる場合であっても世界は変化しているのであって、そこに古さの感覚が出てくるのだと言いうる。そうであるとして、いま眼前の事物がその直観において古さの感覚を伴うのは、その直観単独においてではなく、そこに同時に(変化以前の世界の)想起が重なってくることによってなのである。
[212] しかしながら、私がいま目の前に見ているが、過去に現在性において(つまり眼前に)知覚したことがなく、したがって想起を伴った直観をもちえないものの場合、つまり平たく言って<初めて目にするもの>の場合は、どうなるのか。その場合どのようにして古さの感覚をもちえるのか。ここに「歴史意識」解明の最大の鍵があると我々は考えるのだが、それは恐らく<異>の感覚に基づいてであろう。「博物館の家具」も、単に現在において眼前にあるから「古い」と感じられるのではなく、それが我々が普通使っている家具と異なった様式のものであるから、−−その異なった様式の廻りには異なった世界が存在する−−「古い」と感じられうるのである。しかし、同時代の家具であっても別の文化圏のものは様式上、我々のものと大きく異なっている場合がある。その場合も同様<異>の感覚が与えられる。そして、この場合は通常、古さの感覚が与えられない。これは、(フッサールのタームを借用・転用して言って)いわば(内的)時間化的統握が働いていないからである。<異>の感覚にさらに時間化的統握が働くから、物は「古い」と感覚されるのである。しかし、この時間化的統握は、<異>の感覚から独立に、それと平行して働くのではなく、いわばそれに触発されて働くのだと見た方が妥当である。だから、未開民族のものや、或る種の民芸品の場合は、逆に同時代のものであっても「古い」という感覚が与えられてしまったりするのである。この場合は時間化的統握が錯誤のかたちで働いているのだが、その錯誤が起こるのは<異>の感覚が触発しているからである。
[213] しかしながら、<異>の感覚が必ず(内的)時間化的統握を触発するわけではない。逆に、実際に過去の古いものであるために異なっている場合でも、同時代の(例えば「異人」の)別の文化のものとして、いわば非-時間化的に統握されるケースもある。かつては、むしろこの方が通常であったとも考えられる。我々の考えでは、(内的)時間化的統握は近代の時間意識に固有のものである。アーロン・グレーヴィチは中世の時間概念について「「時」についての空間的概念」と表現しているが(『中世文化のカテゴリー』岩波書店,1992,141)、中世(以前)においては、時間は−−近代的な時間概念と異なって−−空間的であって、過去は(現在における)別の場所といったものとして意識されていた。であるから、ダンテについてグレーヴィチが言うように「人類の全歴史が『神曲』の中では共時的に現存している。時は止まり、そのすべて、現在、過去、未来は同時性の内にある」(同,205)ことが可能になるのである*。そうした時間意識を我々はまるで実感できないであろうが、それは我々が近代人であるからである。しかしグレーヴィチによるなら、「現代の時間・空間のカテゴリーは、他の歴史的時代の人々によって知覚・体験された時間・空間との共通点をほんのわずかしか持っていない」のであって、「これらの人々の意識は世界をその共時的・通時的一体性において把握するがゆえに超時間的なのであ」り(同,44)、「この意識のシステムにおいては、過去、現在、未来はいわば一平面上に並んでいるのであり、ある意味でそれらは同時的である」(45)のである**。これと異なって近代の時間意識は、直線的に前に進むという時間の意識である。こうした時間意識の形成には、要因として知識の増加があるのかもしれぬ。過去に関する近代知の圧倒的な蓄積が時間化的統握を一般化しているのかもしれぬ。しかし、また別の要素もあると考えられる。我々はそこにこそ、近代固有の時間意識としての「歴史意識」の本質があると考える。その要素とは、<同化>ということである。
* だから、これは「地獄」においてなのだが−−しかし、その地獄における時間のイメージは「ダンテの生きている現世の歴史」(同上,205)が影響を与えている−−「古代を代表する主人公たちが地獄で詩人[ダンテ]と同時代の人たちや詩人のすぐ一代前の人たちと対話する」(同,205)ことが可能となるのである。いわば同一空間内のさまざまな場所にそれそれぞれの時間(帯)が位置していて、それぞれの時間のなかに居る人達が場所を移動してくるというかたちで一堂に会しうるのである。これは、例えば浦島太郎の話でも同じであろう。漁村の人達から見て現在である時間帯の所に、そこから見れば過去である時間帯(その場所は龍宮城である)から浦島太郎が帰ってくるのである。浦島太郎の話は、あるいは、時間の流れはそれぞれの慣性系においてそれぞれ(互いに独立して)存在するとみる相対論的な時間イメージの方により近いかもしれない。しかし、いずれにしても近代的な単一・一方向の時間という時間イメージとは異なっている。
** ギリシアにおける時間が「循環的」であったとするなら、これと違ってキリスト教中世では、終末に向かう「直線的」な時間が意識されていたのではないか、と恐らく反論されるであろう。しかし再びグレーヴィチによるなら、「キリスト教における「時」がいかに「ベクトル的」[直線的]であったにしても、循環的性格を脱することはできなかった....根本的な変化をこうむったのはその概念だけであった。....地上の歴史も、全体として考えると世界創造とその終末によって作られた枠の中にあり、一回りの循環が成されたことになる(人と世界は造物主のもとに立ち返り、「時」は永遠のもとに戻る)。」(同,156f.)この辺りの記述は難解だが、多分こういうことであろう。中世において時間は、「概念」として知的には直線として観念されえたとしても、実感としては、原初の「永遠」へと立ち戻るプロセスであった。しかもそのプロセスは、いわば何世代をも経て、その積み重ねの果てに初めて終点に至るというものではなく、その人その人において完結するものであった。「永遠」は、それ自身時間的に、地上の時間の終結の後に再来するというものではなく、まさしく永遠として非-時間的に、地上の時間的カテゴリーでいうなら常に存在していて、諸個人はこの<永遠>に繋がっていたからである。これは、「永遠」をも時間として考えるなら矛盾的であり、そこに、人は死後直ちに天国へ行くのか、終末まで待って、その終末時に復活させられて、そこで初めて天国に行くのか、という見方の相違も出てくるのだとも解しえる。しかしそれはあくまで、「永遠」を時間的なものとして考えところから出てくるものである。
[301] 古さの感覚は、<異>の一種の<同化>であると考えられる。少しく形而上学的に言って、古さの感覚は、<異>なるものを時間という一つのものの一様態として、我々もまたその一様態であるところの<一つのもの>の一様態として統握されることの結果であると考えられる。加藤−橋川が「歴史的厚み」と表現しているのも、この一種の連続性の感覚のことである。少しく言葉に拘った言い方になるが、「厚み」は「積み重なり」によって出来てくるものであって、この「積み重なり」は単一の場において初めて可能である。そして、連続性が場の単一性*を保証しているのである**。マイネッケは「動的歴史主義の新しい思考方法」を言い表したものとしてゲーテ『詩と真実』から、「過去と現在とがひとつのものになっているという感じ」という言い回しを取り上げている(『歴史的感覚と歴史の意味』創文社,1972、5)。また、例えばドイツの歴史家ヘルマン・ハインペルは『自伝』で、「彼ははじめて古い紙の魔力を感じとった。古フランクの刻印、赤い印爾をみた。そして古き時代を享受したのである。しかしそれはまさに自分の時代であり、別の時代のなかにおける自分の時代、過去のなかの現在、異質なもののなかでの親しいもの、歴史、時、和解せる時間そのものであった。」(阿部謹也『歴史と叙述』人文書院,1985,56より引用)と語っている。これは、我々の言う<同>である。<異>なるものについて、それを<異>なるものとして意識しつつ、しかし、それを時間化的に(単一時間上の)過去のうちに措定し、そのことによってその過去と現在との連続性を感覚的に意識する意識の在り方が、「歴史意識」なのである。そしてマイネッケは、この「新しい思考方法」を、「歴史的思考での激変」として「疾風怒涛の時代」に始まったものとする(前掲書,5)。すなわち、「歴史意識」は18世紀後半起源のまさしく近代固有の意識なのである。
* これが可能であるためには、比喩的に空間(全体)を二次元平面で表わすとして時間が、いわば横(他所)に広がっていくというのではなく、縦(つまり同一地点上)に広がっていく必要があるが、それは換言すれば時間がまさしく時間的に前に伸びていくということでもある。喜安朗は『近代の深層を旅する』(平凡社,1996,221)で、これを「時間の大きな枠組みは、人間や社会のさまざまな軌跡を累積しつつ、先へ先へと伸延していくものだという観念」として、その(民衆レヴェルでの)成立を19世紀に見ている。
** あるいは、そもそも事物・出来事が過去へと流れ去るという意識が、それ自体ですでに<同>の意識だとも言える。(おそらく)事実であるのは、消滅した事物・終った出来事は端的に無くなったのであり、過去に流れ去ったとする意識はこの<無>をなんとか<有>に繋ぎ止めようとするところに出てくるものだとも考えられる。<無>の<有>化だとするなら、つまり<同化>ということになる。因みに、これに対して近代以前の時間意識においては、<永遠>というものが在って、個体は<生成−消滅>のいわば場にあると同時に<永遠>の場にもあった。([312]で挙げるプーレの表現で言うなら、個体は前者としては「現にいま存在する」こと、後者としては「真に存在している」ことである。)したがって、そもそも<有化>=<同化>の必要は存在しなかった。あるいは、より厳密に言うなら、「この世」における<無化>は小さな出来事であって、それがあっても<有>は直ちに<永遠>に回収され、あえて「この世」におけるその<有化>を想定する必要はなかった。
しかしながら、<過去へと流れ去る>のではなくて<有から無へと転じる>のであるなら、<持続する個体>の説明がつかなくなるのではなかろうか。近代の時間意識では、比喩を使って言うなら、いわば(通常の回転するものではなく)前へ伸びていくベルト・コンヴェアーという時間(流)の上に物が乗っかていて、その伸びていく先端上にある物が<現在>に、先端から置いていかれた物が<過去>に在るとイメージされているが、ここでは自然に、<過去>の物は(先端からみて)後ろへ流れ去るとイメージされる。そして、<持続>は<先端に在り続けること>として、その<長さ>は<先端から流れ去った地点までの距離>としてイメージされる。これに対して、各物体別に時間があるとするのでもなければ、<有から無への転化>では(物体別に長さが異なる)<持続>の説明が不可能となるのではなかろうか。時間が流れ去るのでなければ、<持続>の長さ、それぞれの物体についてそれぞれに在る<持続>の長さが、相互の違いについてイメージできないからである。ここに例えばデカルトのような、<絶えざる創造>という無理な考え方(ここでは、各個体の<持続>はそれぞれの(再)創造の回数として説明されることになる)も出てくるのではなかろうか。−−これに対して我々は、時間をそれ自身<物>として考える−−ニュートンの絶対時間はいわば絶対的物差という端的な物である−−から結局<流れ>としてイメージせざるをえなくなると見ている。時間は、すでにライプニッツがそう見ているように、<関係>と考えればいいのではなかろうか。出来事(端的には各個体の出現と消滅)間の順序関係さえ言えれば、その順序関係として、どれが先に<持続>を開始し、また止めるのかの説明がつく。また、<時計>−−時間ではない−−という物を使うなら、各<持続>間の違いも比較可能である。(但し、このように客観的な時間流を否定するからといって、主観的な時間流をも否定するわけではない。我々も、記憶−想起(および予期)によって主観的な流れが意識されると見ている。)
しかしさらに、これではまだ<寿命>という現象の説明がつかないと反論されるかもしれない。特に生命体にはそれぞれの種に固有の<持続>期間=<寿命>というものがあるが、これは例えば遺伝的プログラムというかたちで長さ(時間)が(情報という一つの<物>として)予めセットされている(したがって、それはノミナルではありえない)と考えなければ説明がつかないとされるかもしれない。しかしながら、遺伝学の最近の知見に基づくなら、時間プログラムのセッティングなしでも<寿命>の説明は可能である。すなわち<寿命>の(相対的)長さは例えば、一定期間存続する細胞のコピー可能性の回数によって、しかも回数も、回数自身のプログラミングでなく、遺伝子の(突然)変異の起こりやすさによって、説明可能である。(各細胞が存在している間をいわば幅をもった現在とするなら、この見方は、デカルト流の<絶えざる創造>説とも整合化可能である。)また「体内時計」「生物時計」といわれているものについても我々は、時間情報といったものなしでも説明可能であると見ている。
[302] この「新しい思考方法」からみるなら、ハイデガーの「博物館の家具」の「破損」「虫食」に感じられる古さの感覚は、そのものとしては、この「歴史意識」における古さの感覚とやはり異なっていることが分かる。前者の場合は、いわば私の時間の流れとの同化が欠如しているのである。そこにおける古さの感覚は例えば、或る(初対面の)人の顔のしわから「この人は老人だ」と知覚されるときの古さであって、それは久しぶりに会った友人の顔をみて「老けたな」と知覚されるときの「老け」=古さとは異なっている。後者では、「私もまた老けた」という私の時間の流れとの同化が伴っている。まさしく実感できる私の時間の流れとの同化において、対象の時間の流れ=古くなったということが実感されるのである。もちろん初対面の人であっても、この<同化>を伴うことができる。むしろ、そうでなければ[212]で分析した初めて見た事物についての古さの感覚も説明できない。しかし論理的には、「破損」「虫食」そのものにおける古さの感覚は、「老人だ」という知覚同様、一つの別のものとして区別されるべきである。端的には私が若い場合、この老人は「老人種」という別の類のものとして(だけ)知覚されるに留まることもありえるからである。
[303] この<同化>は、経験的に「感情移入」だと言っても構わない。(マイネッケも例えば「見知らぬ形成物への魂の移入」という言い方をしている(前掲書,61)。)若い人は老人に感情移入できないから、自分とは異なった「老人種」と知覚することになる、とも説明できる。しかしまた、若い人も知的に推論して、その老人における時間の経過=古くなっていることを理解可能である。そしてそれと同様、まさしく古いもの、例えば「博物館の家具」を、そういう知的推論において「古い」と理解することも可能である。しかしながら、これは(単なる「時間意識」ではあっても)「歴史意識」ではない。ここにおいても一種の時間化的統握がなされているのだが、それは言うとするなら外的時間化的統握である。上で「内的」という限定を付したのは、これと区別するためである。
[304] <同化>の対象は特定の過去に限定されるときもある。近代のヨーロッパで特に好まれたのは「中世」である。18・9世紀を中心にして「中世主義」という流行があった。ネオ・ゴシックの建物が各地で作られたのもこのためであるが、中世の建築物の「保存」という運動もまさにこの世紀において起こってきた。過去のものを「保存」し、まさにそのことによって直観においてより容易に過去を<同化>できるからである。しかし建物はそのままでは崩壊していく。「保存」は何らかの手を加え続けないでは難しい。そこに、どのように手を加えるかということから、19世紀前半には「修復」の考えが主流を占めていく。「修復」とは「改修」に対して、できるだけ原型を保存しようとするものである。(因みに、その際エドワルド・フリーマンは、「中世人は近代人がもつような好古の精神を有したわけではなく、....近代において、中世後期の工人たちが行ったような「破壊的」な増改築の方法は受け入れられない」(藤田治彦『ウィリアム・モリス』鹿島出版会,1996,106より引用)として、歴史意識の近代性を確認している。)しかしながらラスキンは、この「修復」に異を唱えた。『建築の七灯』(岩波文庫,1930)ではこう語られている。「それ[復舊]は建物の蒙り得る極端な全部的破壊....破壊されたる物の虚偽の描写を伴える破壊である。」それは、単に真の復旧(修復)といったものが物理的に不可能であるからではない。「私が嚮にその全体のものゝ生命として主張したところのもの、そが工人の手と眼によってのみ與へられるところの精神は、決して呼び戻すことは出来ない」からである。では、どういうかたちで「保存」するのか。建物についてラスキンが重視するのはその「表面」である。そして「表面」についてこう語られる。「その作品の仕上げ全部はその耗り去った半吋の中にあつたのである。....假にその[表面の]精確な模冩は可能であるとしても....その新作品は舊作品より如何程優るところがあるか?舊作品には、それでも、或る生命があった、それが甞つてあったものゝ、それが失つたものゝ或る不可思議な暗示があつた。雨や太陽の作用せる和らかな線に或る甘美さがあつた。」(以上、276)これは我々が別稿でカテゴライズした<時間性の美学>であるが、<同化>の観点から見るならそれは、(過去の或る特定の時代ではなく)時間そのものとの<同化>である。ジンメルはこれを、「古代の作品を手に取るとき、われわれは、それができあがって以来現在に到るまでの時の隔たりを、精神的に支配下に収める」と表現している。そしてそれは、同じくジンメルが「廃墟−−この、過去を現在化させる形式の高揚と充足の最たるもの」と言うように(以上、『ジンメル著作集7』白水社,1976,146)、これもまた近代の趣味である「廃墟の感傷」において端的に志向されるものである。*
* ここからみるなら、ハイデガーが考察の対象とした「破損・虫食」は、「過去」の現前化とはならないとしても、「時間」の現前化だとは言えるかもしれぬ。そして人々は、過去のものを−−過去のものとしてではなく過去からのものとして−−むしろ「破損・虫食」があるからこそ貴重だとみるのかもしれぬ。なぜなら、それらにおいてこそ時間(という<一つのもの>)そのものとの<同化>が可能であるからである。
[305] しかしながら厳密に言うなら、「歴史意識」は<古くからのもの>に関してだけのものではない。<(現在はもう存在しない)昔のもの>に対しても、さらに<現在の(新しい)もの>に対しても可能である。なるほど、その変化への<同化>の容易さという点で<古くからのもの>は有利な位置をしめている。しかし、<昔のもの><現在のもの>に対しても、かつ、それらが自らのうちに変化を含んでいなくても<同化>は可能であって、したがってそれらに対して「歴史意識」をもつことが可能である*。それら自体には変化が含まれないとしても、それらを含む一つの(変化)過程−−前者に関しては、その<昔>から現在へと続いている過程としての過程**、後者に関しては、<現在>から過去へと遡りうる過程としての過程−−のいわば一こまとして了解することによって、その過程性を私の(変化の)時間の流れと<同化>することが可能であるからである。
* 例えばヤスパースは、現在の出来事に即して、「歴史意識」を「画期的意識(epochales Bewusstsein)」、すなわち或る出来事をエポック・メーキングなもの=歴史の流れを創っていくものとして認知する意識(平たく言って、出来事をメリ・ハリをもって認知する意識)と規定している(『現代の精神的状況』理想社,1971,13ff.)。樺俊雄は『歴史と歴史主義』(理想社,1967,148f.)で、これを敷衍して次のように述べている。「歴史的意識についてまず第一に言われることは、それが何か時期を区劃して、自己の立つ時代を或る特定の時期と明確に意識することと関連するということである。....少なくとも歴史的意識が十分明確に把握されるためには何か時期を区劃して自己をそのなかの或る特定の時期に属すると考えるような意識が必要である。そのような意識をヤスパースに従って劃期的意識と呼ぶことにするならば、歴史的意識というものは劃期的意識のないところには明確には現われぬと言うことができるであろう。」因みにヤスパースは、このような意識の成立をフランス革命に見ている(同上,15ff.)。
** <昔のもの>がそれ自身のうちに、或る(過去の)時点から或る(過去の)時点への<変化>を−−いわば過去完了的に−−含んでいても、その<変化>はおそらく<同化>の対象となりえないであろう。<同化>の対象となりえるのは−−いわば現在完了的に−−現在へと至る<変化>であろう。また逆に、未来への<変化>であっても、それが現在から始まる、あるいは過去から始まって現在を通して未来へと繋がるということによって<同化>の対象となりうるであろう。
[306] しかしまたこのことは、私の方の<変化>を前提とする。私自身が<変化>を伴っていないのであるなら、対象の側が変化していても、それへと<同化>すべき私の側の関係項が欠如しているからである。ここに−−歴史学が「歴史意識」を前提とするものだとして−−、例えばバートランド・ラッセルが「若いときは数学、壮年期には哲学、老年になって歴史学」という趣旨のことを語ったことも対応している。老年という<変化>をより多く含んでいる者の方が「歴史意識」をもちやすいからである。平たくいって、したがって歴史学は、経験を積んだものに相応しい学問だとも言いうるであろう。
[307] 我々の理解では、「歴史意識」の核心は<同化>ということにある。対象を私と<同じ>とみるところにこそ「歴史意識」の本質がある。<異>の感覚を前提に、その<異>を同時に<同>と感覚するところに、私がその<現在>であるところの<一つのもの>(<一つの流れ>)の<過去>として<異>を措定することによって<異>を<同化>するというかたちで「歴史意識」が出てくるのである。論理的には、<異>の<同>の感覚が先であって、「歴史意識」はまさにこの感覚なのである。したがって、厳密にさらに言うなら、単に知的である場合も含めて一つの時間が過去から現在(を経て未来)へと流れているという「時間意識」そのものが、論理的には、<同化>に基づいて生じている。一つの時間の流れという「時間意識」が初めから(人間にアプリオリに)あって、そこに加藤−橋川の言う「歴史的厚み」がさらに感覚されるところに「歴史意識」が生じるというのではなく、一つの時間の流れという(特殊な)「時間意識」そのものが−−他の形態の「時間意識」と異なって−−<同>を含んで「歴史意識」なのであって、単に知的な場合は、そこからの<同>の感覚の捨象という派生形態なのである*。このことは、「その実感があるから、物事の歴史的発展が論理的にとらえられ・・・・・・専門化して歴史学にもなる」という加藤−橋川の言からも、そう見なければならないところである。
* しかしながら、終末へと一方向的に直線的に進む時間というキリスト教的時間も<一つの時間>であったのではなかろうか。その意味で中世にも「歴史」があったのではなかろうか。たしかに中世にも「歴史」はあった。しかし、それは聖なる時間としてであって、その意味では「自然」でもあった。また、聖なる時間と共に俗なる時間もあったが、それは「局地的」(グレーヴィチ前掲書,206)であって、いわば非-歴史であった。因みに、近代の問題としてさらに続けるなら、17(18)世紀以前においては、ニュートンの「絶対的時間」であっても、その基本性格は聖なる時間であった(実際彼は、空間と共に時間をいわば神の属性として説いている。空間についてだけだが『光学』では「神の感覚中枢」と呼ばれている)。ただし、神話的内容は取り除かれ、一方向的に直線的に持続する単一の(=絶対的)時間という性格だけが受け継がれている。この意味で、ニュートンにとって物理学とはいわば聖なる物理学であった。これに加えて俗なる時間もまたそのような直線的時間となるのは18(19)世紀以降である。ここには恐らく、先行していわば実用的時間として成立していた(商業を中心とする)都市的な社会的時間も反映しているであろう。
[308] 歴史主義の基礎づけを行ったディルタイも、その認識論的基礎づけにおいて結局この<同>ということに依拠している。彼は、人間存在を「生」と捉え、その「生」の客観化されたもの−−その全体が「歴史」である−−を「生」が認識できるとしているが、その「生」の「歴史性」として人間の<同>が、厳密に換言して、他者の客観化態と私との<同>が前提されている。もちろん直接には、ディルタイにおける<同>は「生」の(=人々の間の)<同型性>であって、<同化>のことではない。しかし突き詰めてみるなら、ディルタイは<同化>的に<同型性>を想定したのだと解することができる。
[309] ディルタイの言う「生」は、まず第一に、「自然」から区別された人間の現実を意味する(ボルノー『ディルタイ』未来社,1977,97参照)。我々のタームで言うなら「文化」である。同時に、その現実は単なる出来事ではなく、一つの過程としての現実、すなわち「歴史」である。厳密には、端的に言うなら「生」とは、この過程を主体化的に、つまり一つの主体としてこの過程を担うものとして把握したものである。したがってまた、「生」とは(曖昧には)「歴史」と同義である(同上,99参照)。このようなものとして「生」は端的に「存在」の対極に位置するものである(同上,75参照)。
[310] 「生」は第二に、ディルタイにおいては、例えばヘーゲルの場合とは異なって、「多様」なものであった。その客観化態はあくまで「客観的精神」であって、ヘーゲルにおけるようには決して「絶対的精神」ではなかった。この点ではヘーゲルはまだ18世紀的であって、「理性」が普遍的なものとして歴史の全過程をいわば単一的に貫いていた。これに対してディルタイは19世紀のロマン主義的精神の下で、そうした普遍的理性でもって現実を捉え切ることができるとするには余りに現実の「事実性」を感受していた。そうした理性による現実把握は抽象でしかないことを知っていた。彼が言う「歴史性」は(「存在」の)「普遍性」の反対者の含意をももっていた。−−我々はこの意味で、ディルタイの「生」概念のうちに、より狭い意味での「歴史主義」が表明されていると考える。
[311] しかしながら、なぜ<同化>なのか。これは経験的には、いわば人間の自然的素質として、決して意図的なものではない。しかし超越論的にみるなら、「近代」という(特定の)時代の関数でもある。現実に対する近代人固有のいわば<くせ>なのである。我々は別稿で、景観について美的景観(普通の語感でいうなら「風景」)として意識することは特殊近代的な現象であることを確認したが、<同化>したがって「歴史意識」についても、これと同じような事態が背景にあると考えている。例えばマルクヴァルトはこう言っている。別稿でも引用した箇所であるので一部を示すに留めるが、「近代における現実の脱魔術化は、美的なもののもつ代償としての魅惑の特殊近代的な形成によって補償される。....近代における物質化と現実変化のテンポの増加とによる伝統喪失は、歴史感覚の特殊近代的な成立によって....補償される。」(Marquard,O.,Apologie des Zufaelligen, Reclam,1986,27)と語られている。
[312] このマルクヴァルトの論は、残念ながら時間意識の観点からの論にはなっていない。しかし、「補償」という観点は受容すべき観点であると考える。では、時間意識の近代におけるどのような変化が「補償」として歴史意識を生み出したのか。我々はここに、−−時間意識の観点から言って−−個人の固有の時間の成立と、さらに全体の時間からのその疎外といったことを要因として挙げることができる。これは、普通の言葉で言って「孤独」の成立ということである。ジョルジュ・プーレは「17世紀は個人的存在がその孤立を発見した時代である」(『人間的時間の研究』筑摩書房,1969,15)と述べているが、近代において初めて「孤独」という事態が現出するのである。しかし厳密には、プーレはこう言っているが、この「孤立」は(ルネサンス期に人々が味わった)「よろこびの感情」を17世紀はまだもっていた。この「よろこびの感情」が別のものに「席をゆず」って、「現にいま存在するという意識と、真に存在しているということとのあいだに、一つの溝が掘られる」(18)、つまり「孤独」が成立するのは18世紀である。そして「歴史意識」は、この「孤独」の埋め合せとして成立するのである。<同化>とはあくまで<同化>であって、それは「分離」を前提とする。近代においてこの「分離」が現出するから(ある意味で逆に)<同化>が成立するのである*。これに対して中世(以前)においては、人間は初めから全体と一体(<同>)であった。例えば、ミハエル・バフチンの言う「グロテスク的肉体」についてグレーヴィチは、「肉体と世界の間のあらゆる境界の破壊、肉体・世界の間の移行の流動性」の意識、これがそうしたイメージを産出するのであるが、そのような「世界感覚は、人間が自然を自らの《我》の延長としてあつかう態度から生れ、個人と社会的グループとの間に生まれる相似た有機的一体性と切り離しがたく結びついている」と述べているが(前掲書,75f.)、これなども我々の見解の傍証となるであろう。
* 因みに上に挙げた「風景」も、別稿で述べたように、「分離」を前提にしてその「同化」というかたちで成立するものである。この「風景」成立との同型性を考えるなら、次の点も言えよう。近代の時間観念は<一方向的に無限に進む時間>というものであるが、それは、人々が「無限」に耐えうるようになったということを意味する。かつて時間は有限なものであったが、それは人々がいわば無底とも換言できる「無限」を直視することが出来なかったためとも考えられる。それに対して近代においては、人間の方の拡張に従って、その「無限」にも恐怖を感じることなく対面できるようになったのである。(因みにニュートンにおいても「世界の終末」が語られていて、時間の無限性はまだ貫徹されていない(ジェラルド・ウィットロウ『時間 その性質』法政大学出版会,1993,31f.)。また、周知のとおりパスカルはまだ、「無限」に不安を感ぜざるをえなかった。)
[313] では、どういうかたちで<埋め合せ>(「補償」)となるのか。中世においては人は「永遠」(神)と一体であったとして、近代を通じて18世紀へと次第にこの一体性を失っていった。それは、一体性を失ったというより、より適切には「永遠」のリアリティが失われていったと言う方がいいものである。近代は「永遠」の喪失に苦しんだのである。しかし近代は同時に、次第に、この「永遠」の代替物を発明していった。そしてそれが「歴史」なのである。それは言うまでもなく、個人の歴史ではなく、一定の集団(「国民」や、さらに人類全体である場合を含む)の歴史である。人は、そういうものとしての歴史を意識することによって、意識として疑似的「永遠」と<同化>していったのである。であるから、よく言われるように19世紀において「歴史」は「信仰」であったのである(例えばクローチェは歴史を「教養人の最後の宗教」と呼んでいる。レーヴィット『ある反時代的考察』法政大学出版会,1992,273参照)。アイデンティティ論としてここで、そうした<同化>において近代人は自らのアイデンティティの確立を行っていると言ってもいいであろう。19世紀以降に限った場合、「近代」はまさしく「近代国家」(国民国家)の時期と重なるが、それは、この集団−−この場合は「国民」という集団−−との一体化を基盤とするものである。であるから、近代に入って、この一体化を形成するために例えば「記念碑」を建てたり、「歴史的遺産」の保存がなされたりすることが始まるのである。あるいは、歴史学そのものがそのような機能を担っていたと言っていいであろう。例えばユルゲン・コッカが「歴史家の作品に対する世論の関心は増大したのみならず、その力点も変化した。....歴史の別の成果が強調されている。すなわち個人的ならびに集団的なアイデンティティを−−それが少なすぎると言い立てて−−基礎づけるという仕事がそれである。」(『歴史と啓蒙』未来社,1994,26)と語るとき、歴史学とアイデンティティの関係が主題化されている。
[401] さて「歴史主義」とは、このような「歴史意識」に基づいて、最広義には意識のまさしくそのような在り方を主張するものである。しかしこのことは逆に、そのような意識が「意識」でしかない、厳密に換言して、歴史という「現実」をいわば反映したものではなくて、さまざまに意識されうる「現実」の一つの意識であるにすぎない、という見方の存在を前提とする。「歴史意識」は端的には一つの虚偽意識であるという見方に対して、それを批判するかたちで説かれるものである*。しかしながら、そこにはさまざまな形態がある。極論するなら、単一の「歴史主義」など存在しないと言っても構わない。
* したがって当然、この「歴史主義」も特殊「近代」のイデオロギーだということになる。「近代」を鋭く批判するエリアーデは、このことを明確に述べている。(茅野前掲書,159f.、菅野盾樹「出来事と歴史」(高橋/徳永編前掲書,108ff.)参照)
[402] カール・マンハイムは論稿『保守的思考』において、「自由主義」との対比において「保守主義」の特質を分析している。そしてその際、「主義」の相違を「体験(Erleben)」という基底から問題として、その「体験」のレヴェルで、両主義間の「時間体験(Zeiterlebnis)」の相違を明らかにしている。マンハイムは「もろもろの精神形象は孤立した個々ばらばらのものとして<それ自体>でとらえられるものではなく、より包括的な全体に補充すること(Ergaenzung)によってはじめてよく把握しうるものである」、換言するなら「なんらかのものが意味をもっているとするならば−−一切の精神的事物の<存在>はその有意味性にある−−それが意味するところのものはそれがひとつのある志望する方向の局面、契機として体験されるときにはじめてとらえることができる」(森博訳『保守主義』誠信書房,1958,54)として、その「有意味」化的、「補充」化的体験の相違を「時間体験」の相違として分析している。すなわち「<進歩的>思考にとっては、すべての個別的なものがおおむねその究極的意義をそれの前方に、それを越えて横たわっているものから、将来のユートピアまたは存在を越えて浮動する規範から受け取るのにたいし、保守主義的思考にあっては特殊的なものの意味性がその背後に横たわっているものから、過去または萌芽のかたちで、すでに形成されているものから導き出される」(同,55)として、我々の言い方で言って、現在の「諸精神形象」(=文化事象)を、「自由主義」は「規範」(「理念」)の観点から、その規範の実現が「ユートピア」として想定される未来との関連で、「保守主義」はそれら「形象」をそのまま受け入れるという観点から、それら形象がそこから形成されてきた過去との関連で、全体化的に(つまり歴史の一コマとして)体験する、と分析・区別する。
[403] 『イデオロギーとユートピア』では、対象を拡大して、「再洗礼派の熱狂的至福千年説」「自由主義−人道主義」「保守主義」「社会主義−共産主義」(および「ファシズム」)の四(ないし五)類型の区別がなされ、それらについてそれぞれに固有の「時間体験」が挙げられている。
[404] 「至福千年説」とは元々は「キリストを王とする千年間の輝かしい地上の王国が出現する」(『哲学事典』平凡社,1954,730)という考え方であるが、トマス・ミュンツアー等の近代の再洗礼派のもとでは、「抑圧された階層の行動への意欲」と結合して(高橋/徳永訳『世界の名著 68』中央公論社,1979,328。以下ページ数のみ表記)「熱狂的至福千年説」として、独自の「時間体験」をもつ。それは、或る面で「神秘主義」と似ている。神秘主義は時間(・空間)を超えたところでの神との直接結合の体験を求めるが、「至福千年説」はこの超越体験を時間の内の「絶対的な現在」(332)という「瞬間」に求めるものである。そこでは、出来事の時間的連続=歴史はいわば流れを断ち切られ、「非歴史的」なものとして「現在」だけが「神聖なもの」(354)とされる。マンハイムによるなら、こうした時間体験は新しいものとしてはバクーニン等の「[急進的]アナーキズム」にも示されている(362)。
[405] 『イデオロギーとユートピア』においても「自由主義−人道主義」「保守主義」は引き続いて、それぞれ未来志向、過去志向的に、現在を、前者は過去を引きづる悪しきもの、後者は−−他の諸傾向と対立するときは、過去を保存する良きものと主張しつつ−−「伝統」として過去から受け継がれてきたものとみなしつつ、時間の流れ=歴史を、前者は過去から現在を通って理念の実現態としての未来へと進歩するもの、後者はいわばそれ自身完結したものとして過去から現在へと自然に生成するものと体験する。
[406] 「社会主義−共産主義」はマンハイムによるなら、或る意味では「自由主義−人道主義」「保守主義」を総合したものである。すなわち、未来志向的という点で前者「自由主義−人道主義」と共通であり、後者「保守主義」とは、歴史の「被制約性」の認識を共有している(361)。「社会主義−共産主義」も「理念」の実現態として未来を考えるが、前者が(特にドイツでは「観念論」的に)「精神的に昇華された形で理念を体験」(360)し、現実に対して「理念」は「規制原理」として働くのみであって、内容的に抽象的に留まるのに対して、「社会主義−共産主義」では「理念」は具体的である。それは歴史を「制約されたもの」と見、その「制約」の内部で「理念」を体験するからである。この点で後者と共通なのだが、しかし後者が「過去」による「制約」と見るのに対して、「社会主義−共産主義」は「社会構造」が「制約」をもたらすと考える(361)。そして、この「社会構造」が「発展」を統御すると考える(361)(これに対して「自由主義−人道主義」の場合は、いわば主意主義的に進歩はあくまで規範(「当為」)としての理念の人間による実現として考えられている)。したがって「社会主義−共産主義」においては歴史は、過去(だけ)については保守主義もそうであったが、全過程について「分化」(分節化)されたものとして体験される(364)。
[407] さて歴史との関わりという点から見るなら、上の四者においては「保守主義」「社会主義−共産主義」「自由主義−人道主義」「熱狂的至福千年説」の順でその程度が高い。したがって前のものの方がより「歴史主義」的だということになる。四番目のもについてははっきりと「非歴史主義」だとされる(344)。マンハイムはそして、この「非歴史主義」の徹底されたものとして−−「無歴史主義」(251)−−「ファシズム」を位置づける。そこでは「歴史が現在という瞬間的状況のうちに解消され」(253)、その瞬間における「直観」に基づく(「直観主義」)「行動」のみが価値をもつ(「行動主義」)とされる。彼によるなら、この傾向はまた、サンディカリズムやボルシェヴィズムにも共有されている。
[408] マンハイムのこの類型化は、元々「政治思想」に焦点を合わせたものだが、その「政治思想」のいわば心理的基底を、かつ時間体験という本質的なものに即して明るみに出したものとして、優れたものである。しかしながら、その「政治思想」にしても、ドイツに即した分析ということもあって、特に功利主義系統の位置づけが困難なものとなっている。そして、このこととも原因を共有するのだが、ファシズムの位置づけについては−−イタリアのファシズムを念頭に置いているということを割り引くとしても−−大きく間違っている。それは、歴史主義の把握がまだ不十分であるからである。
[409] マンハイムは、<歴史の認識>ということと<歴史との一体化>ということとを−−厳密に換言するなら、<現実>とその過程性において一体化するところにそもそも<現実>が<歴史>として措定されるのであるから、<現実の認識>ということと<現実との一体化>ということとを−−区別出来ないでいる。この区別によって、<現実との一体化>という点では同じく低度であっても、マンハイムの言う(ドイツ的)自由主義が<現実の認識>の点でも低度であるのに対して、功利主義系の自由主義はその点では高度である、と特徴づけることができる。またファシズムについても、「直観主義」として<現実の認識>の点では低度であるとしても、<現実との一体化>の点では高度である、と我々として正しく特徴づけることができる。
[410] この区別から言うなら、「歴史主義」として我々が最も問題としているのは、<現実との一体化>である。単なる「時間意識」から「歴史意識」を区別する観点からは、この<現実との一体化>によって初めて「歴史」が措定されるからである。「歴史主義」は(現実認識としてではなく)<現実との一体化>としてこそ問題とされなければならないのである。しかしながら、事柄はなお複雑であって、この<現実との一体化>自体がさらに区別されなければならない。その観点として、(1) 現実のどの層への<一体化>か、(2) 現実のどの時間的局面との<一体化>か、(3) 現実とのどういう様態の<一体化>か、という三点がある。観点(1)からは、現実の具体(的個別)層との<一体化>と、抽象(的本質)層との<一体化>とを区別できる。(2)からは、現実の過去、現在、未来にそれぞれ有意点を置くもの、およびその差別をもたないものの間の区別が可能である。そして(3)から、<観想的一体化>−−これは<現実の認識>そのものとは、両立可能ではあるが、カテゴリーとして別である。換言するなら、<現実>を観想的に認識し、その<現実>に感応するというかたちでの<一体化>である−−と、<実践的一体化>−−現実に積極的に関わり、その変化にいわば自らの主体性を賭けて参加し、その現実変化のうちに自らを確認するというかたちでの<一体化>−−とが区別できる。我々は以下、<観想的一体化>を志向するものを<観想的歴史主義>、<実践的一体化>を志向するものを<実践的歴史主義>と呼ぶことにする。*
* 橋川が「むしろ「歴史意識」の根底にあるものは、強い決断と実行の志向であることは、そのエスカトロギッシュな起源に関連して、しばしば説明されるところである。それは「今、此処」における主体的決断の内面に深くかかわりをもつ意識の形態である」(前掲書,6)と述べるとき、それは(<観想的歴史主義>をも含む)「歴史主義」そのものの説明としては妥当性を欠くが、我々が<実践的歴史主義>として下位区分したものをよく言い表している。この箇所を受けて野口武彦は『江戸の歴史家』(ちくま学芸文庫,1993)で、我々の言う<実践的歴史主義>こそが「歴史主義」の核心であるとしている。吉田松陰等、幕末の思想家にその典型がみられている。(但し、19世紀ドイツの歴史主義をもそこに入れており、この点で橋川同様の分析の不徹底を示している。)「あとがき」で紹介されている橋川との「橋川氏はものしずかにいった。きみは何のために安保デモに加わっているの。わたしはたぶん、歴史の現場に居合わせたいとか、それを見きわめたいとか答えたにちがいない。氏いわく、「きみ、それが歴史意識だよ。」」というやりとりも、この「歴史主義」を分かりやすく表わしている。
[411] この三種の区別項の組合わせてとして数多くの類型が設定可能である。しかしここでは、マンハイムの分析を基本として、さらに自由主義をドイツ系の(観念論的)自由主義と功利主義的自由主義とに区別し、ファシズムをも含めて六類型について、上の我々の類型マトリクス内でどういう位置を占めるかをまとめておきたい。まず「保守主義」であるが、これはそのうちに多様な形態を含むが、本流は、過去に有意点を置いて現実の具体層と観想的に<一体化>しようとするものであろう。このタイプの「歴史主義」を我々は端的に「過去主義」と呼びたい。「自由主義」のドイツ的ヴァージョンは、それ自身のうちに、この点では「保守主義」とよく似たかたちで現実の具体層との<観想的一体化>を志向するもの(教養主義・文化主義)や、現実の抽象層との観想的かつ実践的な<一体化>を志向するもの(例えばカント)をも含みうる。これに対して功利主義的「自由主義」はおよそ<一体化>の志向をもたず、端的に「歴史主義」の外部に位置する。「社会主義」は、(例えば社会工学的な「社会民主主義」において)非-歴史主義的ヴァージョンのものも含みうるが、多くは現在・未来に有意点を置いた現実との観想的かつ実践的な<一体化>を本質としてもつであろう。またファシズムは、イタリアに限定するとしても実際には、特に<実践的一体化>を志向するものだと考えられる。「至福千年説」は、そのオリジナルな宗教的ヴァージョンの場合は神による現実支配の歴史をも含めるとして、現実の抽象層との<実践的一体化>の志向を含んでいるとみるべきである。
[412] 次に、我々の前稿との関連であるが、先に述べたように、そこで言った「歴史主義」は「過去主義」を意味する。別稿「ランドスケープの倫理学(一)」「ベンヤミン『パサージュ論』の解釈について」の場合も同様である。そして前稿では、この意味での「歴史主義」に「現在主義」(モダニズム)を対置したが、それは、いま問題としている広い意味での「歴史主義」であるなら、現実との<実践的一体化>を志向するという歴史主義的ヴァージョンのものを含むことができる*。そしてそれは、「ファシズム」と親近的である。端的にはイタリアの「未来派」の場合は、実際にファシズムにコミットした者を含んでいる。
* 現在主義が(そのラディカルなヴァージョンである未来派において)この意味での歴史主義を含むことを、本稿では簡単にマリネッティ『未来派宣言』の次の部分で確認しておく。「われわれは諸世紀の岬に立っている。....時間と空間は昨日死んだ。われわれはすでに遍在する永遠の速度を創造したのだから、われわれはすでに絶対のなかで生きている。」(『ユリイカ』1985年12月号,45)因みにマリネッティも、自らの未来主義の対立物を意味する語として「過去主義」を用いている(同,191)。
ここでマリネッティに即して、「実践的歴史主義」の過去主義批判と、非-「実践的歴史主義」のそれとの相違を直観的にだが示しておきたい。「彼ら[イタリアの未来派]は、ルーブルを燃やせヴェニスの運河を埋め立てよ、という宣言において、最も過激な過去への否認を表明する。その最も熱の入った理論家フィリッポ・マリネッティの1909年2月の宣言の基本は、博物館や図書館を壊し、「古ぼけた教授、考古学者、旧跡案内人、骨董屋のすえた匂いの懐疽」からこの国を解放するための反-懐古主義の企てであった。」(スティーヴン・カーン『時間の文化史』法政大学出版会,1993,82)これは「歴史主義」を伴っているのだが、これに対して、一見似た次の坂口安吾の言は歴史主義を含んでいない。「伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。多くの日本人は、故郷の古い姿が破壊されて、欧米風な建物が出現するたびに、悲しみよりも、むしろ喜びを感じる。新しい交通機関も必要だし、エレベーターも必要だ。伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。なぜなら、我々自体の必要、必要に応じた欲求を失わないからである。」(『日本文化私観』)
[413] ファシズムはしかし、ゲルマン民族を前面に出すナチズムや日本主義を説く日本のファシズムだけでなく、「地中海文明」との連続性を説くに至った限りにおけるイタリアのものを含めて、何らかの「過去主義」を含んでいると考えられる。この点ではファシズムは「保守主義」と親近的である。但し、「保守主義」の「過去主義」がより具体的な層との(観想的)<一体化>であるのに対して、「ファシズム」はより抽象的な層との<一体化>であるという違いがある。因みに我々のタームを用いて言うなら、福田和也が理解するファシズムは、この抽象が極限にまで進んだもの、その意味で<虚>(「非在」)としての歴史との<一体化>を志向するものである。
[414] 本稿で言う「保守主義」はあくまでマンハイムのものである。我々は前稿ではこれと区別して「理念的保守主義」というものを別範疇として立てた。これは、現実の具体層との<観想的一体化>を志向するものとはなお言えるが、それはマンハイムの言う「保守主義」とは違って、かなり薄い程度のものである。現実との間にかなり「距離」を取ったものであった。
[501] 前稿では、「歴史主義」の対極に位置するものとしてニーチェを挙げた。その場合の「歴史主義」は本稿での表現では「過去主義」であって、実際ニーチェ自身「歴史主義」の語をこの「過去主義」の意味で用いている。ニーチェにおいて「歴史主義」という言葉が出てくる箇所は三箇所である。白水社の邦訳全集で言うと、一つは第I期第11巻566ページである。そこではこう語られる。「十九世紀。....歴史を用いて(これは新しいことだ!!!)証明がなされた。文化(民族!!!)と呼ばれる、大きな生産的な複合体に、人々は夢中になった。研究熱と尊敬感覚の巨大な部分が過去に向けられた。....今やその反動が来たのだ! 最終的には歴史は予期されたものとは違うものを証明した。....ダーウィン。他方で、残存影響および残存感情としての、懐疑的歴史主義。....」第二は、「....われわれはもはや彼ら[カントやヘーゲル]のようには道徳を信じはしないし、したがって、道徳の正当化を示すがための哲学を打ち立ててはならない。批判主義も歴史主義もこの点ではわれわれにとって魅力のないものとなった。」と語られる第II期第9巻216ページである。そして最後に、簡単に「衰退としてのペシミズム−−いかなる所に? 柔弱化として、世界市民的な肌ざわりとして、「すべてを理解すること」および歴史主義として。」と述べられる第II期第10巻103ページである。但し、第二のものは原語ではHistoricismusである。ニュアンスとしても、この第二の用法は他のものと異なっており、「過去主義」という意味合いは薄い。
[502] 「歴史主義」という用語は出てこない−−但し、「歴史主義的」とも訳しうる"historisch"という言葉は使われている−−が、最も主題的に「歴史主義」を批判しているのは『反時代的考察』第二篇として纏められた論稿『生に対する歴史の利害』であろう。この論稿は「ここ数十年来ドイツ人のあいだにはっきり認められるあの強力な歴史主義的な時代傾向」(白水社全集第I期第2巻116)−−それは簡単には「近代的教養」「歴史的感覚・歴史的教養」とも呼ばれる−−を「反時代的」に鋭く告発したものである。ここではより具体的に「歴史主義」が記述されている。例えば「歴史的感覚」に即して、「絶えず新しいもの、いっそう新しいものを求め探さざるをえなくなるのを身近に体験する人....。これとは正反対の感覚、つまり樹木が自分の根に抱く満足感、自分の存在はまったくの恣意や偶然のせいではなく、ある過去からそれを受け継ぐものとして花となり実となって成長してくるものと心得、したがって自分の存在の弁明どころか正当化すらできるという幸福感、これこそ現代人がとりわけ好んで本来の歴史感覚と呼んでいるものなのだ。」(同138)、また「教養」に即して、「戦争や外交行動や商業政策について何ひとつ理解しない若者が政治史の手ほどきを受けるにふさわしいとされる。だが、この若者が歴史を駆け抜けるのと同じように、われら近代人は芸術の展覧会場を駆け抜け、いろいろの音楽会に出かける。なるほど、これとあれとは響きが違うな、とか、これとあれとでは与える効果が違うな、くらいは感じる。だが、こうした異和や不審の感じをますます失い、何ものについても度外れの感歎はせず、遂にはどんなものも感受するようになる−−こういうものがおそらく歴史感覚・歴史教養と呼ばれるのだ。」(同174)と語られている。
[503] これらの引用箇所においてニーチェは、我々のタームで言って、過去の現実(の具体層)との<観想的一体化>を志向するものを「歴史主義」と呼び、そうした(静観的)観想主義に対して、まさしく現在主義的な生の実践主義を説く。そしてこれは、再び我々のタームで言って、現実の抽象層との<実践的一体化>を志向するものだと見ることも不可能ではない。これはファシズムと似た時間体験であり、ニーチェも或る意味では「歴史主義」だと解することも可能である。ディルタイを批判してニーチェに就くときのハイデガーも、ディルタイ批判において歴史主義そのものを批判したのではなく、「過去主義」を退けて実はこの<或る意味での歴史主義>(=<実践的歴史主義>)、ファシズムと似た構造の歴史主義を説いたのだと我々はみている。ニーチェに関しては但し、解釈上これは異論が可能であって、ポストモダニズム系のニーチェ解釈はこれとは異なっている。そこではニーチェは<一体化>(現実における自己確認)を志向しないと見られている。
[504] ポストモダニズムとは全く傾向を異にするが例えばワルター・シュルツも、ニーチェは単に「生」の利益にならぬ限りで歴史を否定したのではなく、「歴史一般」を否定したと解する。「根本において、ニーチェの理想は、瞬間に安住する非歴史的な人間の理想であり、−−瞬間のうちにのみ幸福がある、とニーチェは言う−−そしてこの人間は行為するとき、良心がないだけではなく、同時に、そしてとりわけ、無知なのである。」(『変貌した世界の哲学3』二玄社,1979,175)しかしながら我々は、これは我々のタームで言って、<観想的歴史主義>を否定したことを確認しているだけであって、このニーチェ理解には<実践的歴史主義>の否定は少しも含意されていない。であるから、ファシズム的なニーチェ理解の余地があるのである。ニーチェ解釈のポイントは、ニーチェ自身から引用して「もし幸福が、もし幸福をすばやくつかまえることが、なんらかの意味で生きものを生につなぎとめ、たえず生へと駆り立てるものであるとするならば、ことによるとどんな哲学者も、冷笑家のシニズム学派の徒ほどの正しささえ持ちえないかもしれない。というのも、完全なシニズムの徒としての動物の幸福こそ、シニズムの正当さの生きた証明だから。....いつの場合でも幸福をして幸福たらしめるものはただ一つ、それは忘れることができるということ、あるいは....ものごとを非歴史的に感じる能力だ。」(白水社全集第I期第2巻119f.)というかたちで説かれる「幸福」をどう解釈するかに懸かっている。我々のタームで言うと、明らかに(過去の現実との)<観想的一体化>を拒否したところに想定されるこの「動物の幸福」が、さらに<実践的一体化>をも退けているとみるかどうかに懸かっている。
[505] 今この問題はおくとして、[502]の「絶えず新しいもの、いっそう新しいものを求め探さざるをえなくなるのを身近に体験する人」と「これとは正反対の感覚[の人]」との対立として「モダニズム」と「過去主義」との対立を理解することが可能である。前稿でも言及したマンフレッド・タフーリは、歴史主義と反-歴史主義との対立をほぼこの意味で理解している。彼は、建築史上の歴史主義の代表傾向である「折衷主義」と、モダニズムの前衛である「アヴァンギャルド」とについて例えばこう語る。「歴史の探求と建築の探求との無差別的な同一化と歴史の道具化及びその非生産性とに反撃を加えようとして二○世紀の芸術アヴァンギャルドの行ったこととは、新しい歴史を構築するために歴史を遠ざけることであった。」(『建築のテオリア』朝日出版社,1985,77)
[506] しかしながら彼は同時に、アヴァンギャルドのこの新しい歴史性を「タブラ・ラサの上に成り立った歴史性、過去の如何なるしがらみからも自律した歴史性」(同,77)と先鋭化しつつ、我々のタームで言えば<実践的歴史主義>という枠組みのなかで、過去主義を、それを批判的にみるときは<観想的歴史主義>に傾くものとして、モダニズムを、その<観想的歴史主義>を未来志向によって克服しようとするものと理解している。したがって、「折衷主義」が批判されるときは、或る意味で非-歴史主義的なものとして批判されているのである。こうした理解は、「ネオ・リバティ」の傾向−−これは一般的にはポストモダニズムの傾向であるが−−によって試みられた「歴史の回復」=「記憶の価値の回復」について、それは「建築を歴史化するというよりは、むしろ逆にそうした痕跡を絶やす方向にも作用しかねないような記憶をとりこもうとした....。回復されたのは歴史ではなく、情緒であり、ノスタルジー....であった。」(同,128ff.)と語られるとき、より明かとなる。タフーリは、「歴史主義」を<観想的歴史主義>として批判し、<実践的歴史主義>の復権を説いてるのである。この意味で彼は、イタリア未来派の或る側面を引き継いでいるとも言える。
[507] これに対して同じく建築史に即してドナルド・J・オールセンは、いわば「歴史主義」そのものの観点から、したがって、タフーリが退けた<観想的歴史主義>をも含むものとしての「歴史主義」の観点から、「歴史主義」をポジティヴに評価している。「歴史主義」がこう理解される以上、「反-歴史主義」はいかなる歴主義的含意も含まないものとなる。そこで彼が対立軸に置くのは、歴史主義そのものと反-歴史主義そのものとなる。ここから例えば次のように語られることになる。「フランソワーズ・ショエが歴史を、十九世紀の魂を求めて競い合う二つの力のひとつとみなし、他のひとつは、科学と工学ならびにベンサムやフーリエに支配された啓蒙主義の伝統との合成物であるとしたのは正しい。」(『芸術作品としての都市』芸立出版,1992,472)
[508] このようなものとしての「歴史主義の論理に内在している信念」として彼は、次のジョン・ベルチャーの主張を引用している。「建築は、その物語を語らなければならない。....建築は、不明確ではあるが美しい思考と感情からなる散文である。ときにそれは人生における平凡な出来事を語る。さらに高揚すると、家庭の平和と幸福について語る。そのうえもっと威厳のある言葉で、人生のより崇高で偉大な目的を宣言する。建築は過去を物語り、現在を記録し、未来への理想をかかげる。」(同,452)但し、この引用文からも明らかなように、オールセンの「歴史主義」は少なからず<観想的歴史主義>に傾斜している。そこから、タフーリがいわば<実践性>から遠いとして批判した「折衷主義」についても逆に、彼が言う「歴史主義」をまさしく表わすものとして肯定的に評価されることになる。
[509] 少なからず偏向を含むのではあるがオールセンは歴史主義そのものを説いているとみなしうる。この対極に、歴史主義そのものを批判するかたちで例えばヴァレリーが位置する。カール・レーヴィットによるなら、歴史主義を批判する点で、ヴァレリーはニーチェよりさらに過激である。「歴史に注がれるヴァレリーの懐疑的な視線の結果は、きわめて徹底的な、歴史の拒否である。これに比べれば、ニーチェの『人生に対する歴史の利害得失に関する時代はずれの考察』などは無邪気なものである。」(中村志朗訳『ポール・ヴァレリー』未来社,1976,199)しかし我々は、厳密には「さらに過激」というよりは、「過激」というならニーチェは徹底して<観想的歴史主義>を批判し、その意味での歴史主義批判はやはりニーチェが最も「過激」であるのであって、ヴァレリーは歴史主義総体を批判する点でより徹底的であったとみなすべきだと考える。
[510] 「歴史について」として纏められた部分の冒頭においてこう語られている。「『歴史』は知性の化学が作製したもっとも危険な産物である。....この産物は夢想させる。民衆たちを酔わせ、彼らに贋の追憶を生みつけ、彼らの反射作用を過大にし、彼らの古傷を維持し、休息中の彼らに苦患を味わわせ、彼らを繁栄強大の妄執かあるいは迫害の妄執にみちびき、諸国の国民を手厳しい、驕慢な、我慢のならぬ、虚栄心の強いものにする。/『歴史』は、望みのものを正しいものとする。それは厳密には何ごとも教えない。なぜならそれはすべてを含み、すべてについての実例を教えるからだ。」(『全集12』筑摩書房,1968,30)さまざまのモティーフが含まれているが、批判の核心は、歴史が「虚構」であるということである。そして彼によるなら、「世界の現状では、『歴史』の誘惑に身をまかせる危険は、いつにもまして大である」(同,30)。それは、現代が「類例のないほどの規模の変化」(同)の時代であるからだ。人々は「変化」のなかでいわば見取図を失っいるために「歴史」として現実を「虚構」するのである。こうした「歴史主義」の現代にあってヴァレリーは「現在の徹底的な分析」(レーヴィット前掲書,228から引用。以下同様;ページ数のみ記す)を説く。
[511] ヴァレリーは「虚構」に「科学的・技術的文明」を対置する(208)。それは「再検査の可能な事実に基づいている」からである。しかし直ちにこう語られる。「それにしても問題は、漠然たる観念や虚構に基づかずに、高度に計測可能なかつ検証可能なものに基づく全体的秩序がおよそ存立しうるか、ということである。」そしてさらに「虚構」について、「社会は粗暴から秩序へと向かって発展する。・・・・・・そのためには虚構の力が必要である」(206)として、社会の秩序にとっての「虚構」の不可欠性(205)を言う。ここに成立する「計算された強制的秩序とそれに劣らず耐えがたい無秩序との間、伝承の墨守と伝承を破壊する前進との間のジレンマ」(208)にあってヴァレリーが説くのは、科学と歴史との間の「相対的均衡」(208)である。我々はこれを、前稿で挙げた<理念的保守主義>の一典型とみなすことができる。
[512] ここで前稿に関連させることによって本稿を締めくくりへと向かわせるなら、問題は、そうした「相対的均衡」がアイデンティティとして成立するかということである。成立しないから、アイデンティティ確立を求めて「歴史主義」が説かれるのではなかろうか。レーヴィットの解釈をさらに解釈するなら、ヴァレリーを基底的には一つの言ってみれば−−「私の地中海の経験」(235)の−−感覚の形而上学が支えている(邦訳前掲全集第11巻,257ff.参照)。しかしながら、こうしたものが一般性をもちえるであろうか。
[513] プレスナーは『ドイツロマン主義とナチズム』[邦訳タイトル](講談社学術文庫,1995,156ff.)で、我々のタームで言うこのアイデンティティの問題として19世紀末の「歴史主義」−−それはニーチェが言う「歴史主義」として、内容的には「過去主義」であるが−−を主題としている。プレスナーによれば、歴史主義は、「興隆してきた市民階層」の「間に合わせの歴史主義」である。「十九世紀末の三十年間の建築様式と美術工芸はこの国の市民たちの意識の見事な鏡をなしている。不自然なほど急速に経済が向上したため、不釣合に大きな階層の間でそれぞれの趣味に従って新たに家を整えることが可能になり、彼らの生活と意識がそのまま様式に反映したのである。すべての成金階層が伝統に身を隠そうとするにつれ、間に合わせの歴史趣味が生じた。」しかし、なぜ(没落階層ではなく)上昇階層がそうした「歴史趣味」にのめりこんだのか。それは単純な成金趣味とは少しく異なる。プレスナーはこうも分析している。「人間生活にいかなる安らぎも許さず、そこから人間を追い立ててゆく産業の進展、この進展の持つ革命的生活が人間の心に時のはかなさへの思いを呼びさまし、過ぎ去ったものへの後向きの憧憬を生み、歴史主義をも形成した。」これはさらに、マルクヴァルト同様に「補償」だとも説明されている。
[514] しかしそれには、具体的に「新帝国に欠落していた市民的政治的伝統の補償」という限定が付けられている。プレスナーは、「ビスマルク帝国」が「大ドイツ的な統一思想」に「逆らうかたちで」形成されたこと、そしてその国家が「軍人貴族や官僚貴族」によって排他的に担われたものであることに原因するものとして、それから疎外された「市民階層」の「補償」の必要性を説明している。したがって、この時期の特殊ドイツ的な事態に原因が求められているのであり、そこに同時期のイタリアは異なっているという分析が伴われることになる。しかしながら我々の観点から好意的に一般化するなら、プレスナーはアイデンティティの−−その確立の失敗として「歴史主義」が出てくる−−問題を、市民的公共性の問題として語っていると解釈できる。これは例えばハンナ・アーレントや、近年では「憲法愛国主義」としてハーバマス−−かれの場合は、再びやってきた歴史主義への対抗としてでもある−−が採っている立場でもある。しかしながら、アイデンティティの問題は公共性の問題に局限されるのだろうか。そうではなくて、「公共性」に加えて更に何かが必要なのではなかろうか。あるいは「公共性」なるものはもはや不可能なのであって、そうであるから、ニーチェの言うように「病」であるとしても「歴史主義」が不可避となるのではなかろうか。そして、まだ牧歌的であったともいえる19世紀末と異なって20世紀においては、そうした「過去主義」的歴史主義はもはや不可能であって、そこに過激な歴史主義としてファシズム(そして原理主義)が絶えず待ち構えているのではなかろうか。あるいは事態はそう深刻ではないのであって、ポストモダンのキッチュな「疑似歴史主義」が「真正歴史主義」の毒を解毒してくれるのであろうか。そしてそれは、基本的に人々がもはやアイデンティティの確立なるものを求めていないから可能なのであるが、しかしながら果たしてその通りであるのか。
[001] 子供の頃に体験したことは、心に刻まれ、生涯の思い出になっている。故郷の山、父母の愛、竹馬の友との交わり、喜びと悲しみの体験などを、わたしたちは時々思いだし,懐かしく思う。そうしたものは「心の故郷」となって生き続けているのである。同様に、その風土に生きている人たちにも、祖先たちが体験し、育んだものが世代から世代へ伝えられ,民族の心の故郷となって残っているのであろう。時代は移り変わっても、わたしたちは祖先たちと似たような感じ方、考え方、生き方をしている。先だちの本をひもどいてみると、心の故郷に帰ったような安らぎをおぼえるのである。
[002] いったい祖先たちは、いつ、どのような体験をし、何を感じ、考え、生みだし、どのような生き方をしてきたのであろうか。祖先たちは何を大切にし、何を残してくれているのであろうか。今日、それらの遺産にはどのような価値があるのであろうか。
[003] ここに日本人の心の故郷と思われるものをいくつかとりあげ、わたしの心象風景とも重ねて、「日本人の心の原風景」としてスケッチをしてみたい。
[101] はじめに、日本の自然についてみてみよう。自然は「怖い」というのが、わたしの実感である。がけくずれや山津波による災害の話は、しばしば祖母から聞かされていて、わたしの幼心に恐怖をあたえた。実際、親類の家ががけくずれで埋まり、いとこが亡くなった。中学のときの友人も洪水に流され、あっという間に亡くなった。ときどき襲う台風や地震の被害も大きい。このように、日本の自然は怖いのである。
[102] いっぽう、わたしは子供の頃から、日本は四季の変化に富み、緑の豊かな美しい国であるとか、その気候や水土は稲作に適し、豊かな実りをもたらす「瑞穂の国」であるとか、教えられてきた。じっさい、移ろいゆく四季のさまは年々歳々、日一日と肌身に感じられる。花鳥風月は親しい友となる。
[103] 日本人は、こうした自然の中で生活の仕方を工夫してきた。「文化」は、自然とのかかわり方の所産である。文化(culture)には「栽培」という意味がある。人間は自然に働きかけ、田畑を耕し、米や野菜などを栽培する。人間は 田畑を耕すだけではなく、心をも耕す。自然とかかわり、他の人々とつき合いながら心を養い、みがき、生き方を豊かにするのである。さて、祖先たちは自然とどのようにかかわってきたのであろうか。
[104] ここで、和辻哲郎の『風土−人間学的考察−』に学んでみよう。かれがいう「風土」とは、土地、気候、四季の変化などの自然環境と、そこに住んでいる人々の生き方,考え方,性格などである。かれによれば、日本はモンスーンの影響を受け、夏は暑く湿気が多い。それは、豊かな日光と水を恵み、草木を育て、人間の生を充たしてくれる。だが、暑さと湿気はしばしば大雨、暴風、洪水、干ばつなどをもたらし、生活をおびやかす。ひとは、こうした荒れる自然を受けいれ、耐えなければならない。が、しばらく耐え、待っていれば、やがて自然はおさまり、恵みをもたらしてくれる。こうした自然の中で、日本人は「受容的・忍従的」というあり方を形成したという。
[105] 他の地域ではどうであろうか。砂漠の多い西アジアでは、わずかのオアシスと水と草地を求めて遊牧がおこなわれていた。そこで人々は団結し、自然と戦うというあり方をとるようになった。ヨーロッパでは、湿気は少なく、砂漠もなく、牧草が茂り、自然は人々に従順である。ここでは人々は自然の法則を探求し、合理的な考え方や自然科学を発達させた。これと異なって日本人は、受容的・忍従的というあり方をとるようになったのである。
[106] ところで、「受容」は、自然を受けいれることであり、「忍従」は、苦しみにじっと耐えて従うことである。人間関係についていえば、他のひとの立場を自分の中に受けいれ、ともに喜び悲しみ、辛いことにも耐えていくというあり方である。忍従というあり方は、今はだんだん薄れているように思われるが、やはり、日本人の伝統的なあり方であるのだろう。
[107] しかしながら、日本人は受容的・忍従的であることに甘んじてきたわけではない。受容には「取りこむ」という意味もある。日本人は自然を受けいれながら、上手にみずからの側に取りこんでもいる。米作りもそうである。その他、四季の変化に合わせて生活の仕方を工夫するとか、その季節で一番おいしい野菜や果物を旬のものとして味わうとか、湿気を和らげる木造住宅を建てて住み心地をよくするとかである。生け花や造園にしても、自然の美を上手に取りいれたものである。人間関係においても、日本人は相手の気持ちを受けいれた上で、うまく折り合いをつけながら、信頼関係をつくり、ことを運び、なし遂げていくのである。その知恵はしたたかでさえある。
[201] 人々の性格もまた自然の中で形成される。和辻によれば、四季の変化がリズミカルで鮮やかな日本では、人々は周囲の変化に敏感で気分も移り変わり、そのため疲れることも多い。しかし、その疲れを新しい刺激と気分の転換でいやす。人々の感情はゆたかに流れでて、普段はしめやかに続いているが、時には激しく突発的になる。それはひどく反抗的であるかのようである。だが反抗はしつこくはなく、あきらめるのも早い。日本人は戦いでは生に執着するが、その執着のまっただ中において無欲になり、あっさりと生への執着をたちきる。それは桜の花が華やかに咲きそろうが、しつこく咲き続けるのではなく、恬淡に散り去るのと似ている。和辻はこう考え、日本人の性格を「しめやかな激情」と「戦闘的恬淡」として説明している。
[202] 「しめやかさ」と「激情」、「戦闘的」と「恬淡」は、言葉の意味としては矛盾している。が、たがいに矛盾したものが複合しているのがひとの「性格」というものであり,この点からみると、かれの性格描写の仕方は含蓄をもっている。ただし、あきらめが早いという日本人の性格が桜の花が恬淡に散るのと似ているというのは、「人間学」というよりも、むしろ和辻の審美眼と詩的想像力にいろどられた一つの「美学」というべきであろう。
[203] 恋愛について、かれの想像力はさらにたくましい。日本人の恋愛は、まず激情を内に秘めた「しめやかな情愛」として現れ、男女の間のへだてなき結合がめざされる。しかし、恋愛は手段として肉欲を欠くことはできない。そこで、しめやかな情愛は「激情的」になり、肉体を通じて試みられる。だが、その恋がかなえられないとなれば、突如の「あきらめ」になり、恋愛は恬淡に肉体を否定する。それは「情死」にもっとも具体的に現れ、そこでいっそう高い品位を保っているという。
[204] たしかに、恋愛にはしめやかさも激情もある。そして、実らなければあきらめざるをえない。けれども、突如の「あきらめ」とか「情死」になるというのは、そういう例もあることはあるが、それは特別な「恋の美学」であっても、ちょっと極端な話ではないだろうか。
[205] つづいて和辻は、しめやかな情愛を夫婦、親子、兄弟の「間柄」にみる。それは「家」(うち)の「へだてなき間柄」である。カギをかけず、ふすまと障子で仕切られた家屋の構造は、家族の「へだてなき結合」と相互の「信頼」を表現しているという。
[206] このように和辻は、日本の風土に深い思いをよせている。その風土観は日本への愛着と想像力と直観的なひらめきの所産であり,日本人の心の原風景を見る上での示唆を与えてくれる。ただ日本人の性格分析については、いくつかの疑問が残る。日本人の中には、しめやかな激情、戦闘的恬淡という性格タイプのひともいるであろうし、また、そうした性格の一部分は、多かれ少なかれ、みなが思いあたる点もあるだろう。けれども、それが日本人一般の性格であるとか、日本人に特有なものであるとはいえないのではなかろうか。
[207] また、性格は、決定的・固定的なものではない。ひとは、親や周りに人々の影響を受け、みずから新しい経験をし、学び、たえず心を耕し、性格を形成する。同じように、その風土に生きている人々は、伝統的なものを継承し、新しい経験をしながら、性格を作りかえていくのである。
[301] 自然という言葉は「ジネン」とも読む。それには、「おのずからそうなっているさま」「あるがまま」「おのずからなる生成・展開を惹起させる本具の力としての、ものの性(たち)」という意味がある(岩波『広辞宛』)。ひとは、何かことがあった場合、「そう成っているのだ」「それはことの成りゆきだ」「そういう年に成ったのだ」などという。たとえば、結婚のときには、「今度結婚することに成りました」とか、就職のときには、「今度就職することに成りました」などと挨拶をする。
[302] わたしは昨年退職したが、辞令には「定年により退職と成る」と書いてあった。それまで何度かもらった辞令は「任命する」「命じる」「委嘱する」などであったが、今度はじめて「成る」であった。退職に成った解放感もあってのことであろう、この年齢まで何とか勤められて、おのずから「成ったのだ」と胸をなでおろした。そして、六十の手習いを始めるなど、これからの成りゆきに思いをはせている。
[303] わたしたちは、このような身の上の出来事から、世の中の動きや歴史の栄枯盛衰にいたるまで、おのずから成ったものとして受けとめる。
[304] ところで、ことの成りゆきがよいことであれば、それをあるがままに受けいれ、率直に喜べる。しかし、成りゆきには、不運な出来事、不条理な被害、心の苦しみなどもある。こうした苦しい成りゆきを、受けいれることは難しい。こうしたとき、ひとは苦しみに心を奪われ、悲嘆にくれる。あるいは、苦しみにさからい、苦しみから逃げようと焦る。そうしたところで、成りゆきはよくなるわけではない。むしろ悪くなるのである。
[305] こうした場合には、どのようにしたらよいのであろうか。ここで、心の苦悩への対応の仕方を考えてみよう。心理療法の一つに「森田療法」というのがあるが、創始者の森田正馬は、苦しみに注意を集中し、とらわれ、それを直そうと「はからう」ことから、心身の病が起こるという。苦悩にとらわれれば、苦悩の色はより濃くなる。それを直そうとはからうほど、症状は悪くなる。ひとは、苦しむ心を自分の力でコントロールすることはできない。それは、自分の身体を自分の力で持ち上げることができないのと同じである。では何ができるのか。かれは「事実唯真」という。事実だけが真実であり、ひとは、苦しみや葛藤を、真実の事実として「あるがまま」に受けいれざるを得ないのである。(『神経質の本態と療法』)。
[306] しかし、受けいれるだけでは、まだポジティブとはいえない。そこで森田は「目的本位」のあり方を求める。勉強とか、仕事とか、自分の目的に向かって自分の身を「行動」に移していくのである。苦しければ苦しいままに、あるがままに、そのときその場で、自分に必要なことを、できることを為す。うまくできなくても、少しでもできたことを大切にする。工夫しながら続ける。すると不思議なもので、だんだん上手にできるようになる。おのずから生命の力が活発に成り、ポジティブな生き方に転じる。
[307] こうした「為す」(成す)プロセスをたどって、自然に流れが変わり、新しい成りゆきが生まれる。つまり、心の苦しみを受けいれ、同時に、目的に向かって、何かを為すことによって、おのずから健康な生活のリズムが生まれる。そのリズムに乗って、心は健康に成るのである。
[308] つぎに、歴史上の出来事についてみてみよう。丸山眞男は、日本人の原体験が語り伝えられている日本神話のドラマに注目し、日本人には、歴史はふだんに「つぎつぎになりゆくいきおい」によって成るという意識があると考えた(『歴史意識の<古層>』)。
[309] 『古事記』の冒頭に、つぎのように書かれている。宇宙の初めにあった混沌としたものから、天と地が分かれ、初めにムスヒ(産霊)の神などが成り、また男神のイザナギ、女神のイザナミが万物を生みだす神と成った。やがて二人が結婚して、日本の国土がつぎつぎに生まれた。
[310] このように日本では、出来事はつぎつぎに成りゆくものとみられていた。丸山によれば、歴史の根底にあって働いているものが「ムスヒ」(産霊)の力である。ムスヒの「産」は生むということ、「霊」は歴史に内在している力である。つまり、ムスヒは、歴史を生長・生成させる霊の力である。栄枯盛衰や新しい時代への変革の動きにも、ムスヒはおのずから、しつように現れて働き、歴史を生長・生成させる。だから、つぎつぎに成りゆくことは、「おのずから」成りゆくことである。
[311] 歴史の生長・生成が、丸山のいうようにムスヒの霊の力によるのかどうかは別にして、歴史には、おのずと成ったと思える節もある。歴史には、時の勢いというものもある。例をあげれば、平家の盛衰、維新の変革、戦後の民主化などは、時の勢いによって、成ったように思われる。
[312] 歴史には、予期できないことや人間の力が及ばないことがある。だが、わたしたちは、ある程度は現状をふまえ、未来への展望を考えることはできる。人々は、いつの時代でも、その時代を身に引き受け、新しい時代を切り開く努力を成してきた。とくに変革の時代には、人々はみずから進んで成す営みに参加した。わたしたちは、歴史の「成りゆき」を受けとめ、しっかり考え、同時に、主体的に「為す」(成す)ことによって、歴史の新しい次元を切り開いていくという望みを持つことができるのであろう。
[401] 『古事記』に、次のように語られている。男神のイザナギと女神のイザナミは結婚し、日本の国土をつぎつぎに生んだが、先にイザナミがなくなった。イザナギは妻が恋しくなり、会いたくてよみの国にいき、「現世に帰ってきてほしい」といった。イザナミは「帰りたいのでしばらく待ってほしい、その間、わたしの姿を見てはいけません」といった。しかし、イザナギは待ちきれなくて火をともしてみると、イザナミの体にウジがたかっていた。それで逃げて帰ろうとすると、イザナミは、「わたしに恥をかかせた」といって怒り、よみの国の女に追わせ、自分も追いかけてきた。イザナギはやっと逃げた。
[402] このように死体は汚れる。それが愛する妻であるとはいえ、目をおおいたくなる。それで死体は「ツミ・ケガレ」として忌み嫌われた。だから,ひとが亡くなった時に、家族は一定の日数、忌中として死者のためにつつしむ。死体のほかに、血や病気、汚いもの、醜いもの、むごいもの、生命の生成と高揚を妨げるものは、すべてツミ・ケガレとして忌み嫌らわれた。
[403] その他、田の畦をこわし、水路を埋め、汚いものをまき散らすなど,共同生活のルールを破ることもツミ・ケガレである。また心の持ち方という点では、心に曇りがある「クライ心」、自分の心を隠す「キタナイ心」がツミ・ケガレとされた。そうした心は、他の人々との融合と共同体の和を妨げるがゆえに忌み嫌われた。
[404] しかし、ツミ・ケガレについての罪の意識は、日本では深刻ではなかった。どちらかといえば、日本人は楽天的であった。夫を逃がしたイザナミが、「あなたがこんなことをなさるなら、あなたの国の人々を千人殺す」といったのにたいして、イザナギは、「そうであれば、わたしは一日千五百人生まれるようにしよう」といったが、この話もいかにも楽天的である。ツミ・ケガレも、外部から一時的に身にふりかかり、付着したものにすぎない。だから「みそぎ・はらい」を行えば、ツミ・ケガレは取りのぞけるのである。
[405] よみの国で危険な目にあい、やっとこの世に逃げて帰ったイザナギは、自分はきたない国にいって体がけがれたので、けがれた体をみそいで、清くしようといって、はだかになり、きれいな水で洗った。こうして、ケガレがとれて多くの神々が生まれ、おわりにアマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、スサノオノミコトが生まれた。このように「みそぎ」は川のきれいな水で身を洗い清め,ケガレを水に流すことである。「はらい」は神に祈り、禍を取りのぞく儀式である。こうして、ツミ・ケガレは取りのぞかれ、キタナイ心は清められ、キレイになる。
[406] 『古事記』に「清き明き心」という言葉があり、『万葉集』の歌に「清し」「さやけし」という言葉がでてくる。「清し」とは、川の底までもきれいに見える清流の透明さである。川は、今では排水で汚れているが、以前には清流が流れていたのであろう。山は、聖なる山であり、そこから流れてくる水も清いのである。その清流に身をひたし、心身を清めるのである。「明き」とは、太陽の光が輝くような明るさの感覚である。「さやけし」とは、月の光のような清らかで美しいさまである。
[407] このように、自然も清く明るく、自然の子であるひとの心も清く明るく、きれいである。人々はこう考え、きれいな心で、情けこまやかに交わって生きることを善いこととしていた。
[501] 日本人は心情の純粋さを重んじ、他のひとの立場や気持ちを察して交わる。自分の考えをはっきり語らず、イエス、ノ−もはっきりいわない。「和をもって貴しとなす、さからうことなきを宗とせよ」(聖徳太子)が、古来、モットーとされている。なぜであろうか。
[502] それは「米作り」と関係があるといわれる。米を作るには、田の代かき、田植え、水の確保と管理、収穫、祭りにいたるまで、村人たちの和と協力と、共同体の秩序が不可欠である。和が乱れれば米作りはできない。だから、和を乱す行いは、いろいろな仕方で規制された。そうしたことは、世間への「恥」とされ、世間の非難や嘲笑にさらされた。子供は「恥を知れ」「恥ずかしいことはするな」といって育てられ、世間にたいする恥の意識を身につけてきた。日本の文化は「恥の文化」ともいわれる(ベネデクト『菊と刀』)。
[503] また、村の和を乱すひとは「村八分」にされ、村の異分子としてのけ者にされた。そのようにならないためには、和を大切にし、共同体に順応していかなければならなかった。
[504] 村のリーダーには、私心を離れ、村人たちの心を察し、和を大切にするひとが選ばれた。そうでないと、米作りや村の行事や祭りはスムーズに進められないのである。こうしたことは今日の職場などにもある。仕事のやり手はすぐれたひとではある。でもそれ以上に、人々の気持ちを察し、時には私生活の相談にまでのってくれ、組織の和を大切にしてくれる人物であることがすぐれたリーダーの条件である。
[505] 人間くさい日本の神もまた和を大切にしていた。日本の神は「全知全能の神」でも「唯一神」でもない。日本では「神々」「八百万神」という。神々は、互いに相談をして、ことを運んだり、祭りを行ったりしていた。その後、仏教が伝わったが、人々は仏を神の一つとして受け入れ、神と仏は共存することになった。日本の家庭には仏壇と神棚が共にある。このことは、唯一神への信仰に生きるヨーロッパ人には理解できないらしいが、日本人には違和感はない。
[506] このように日本文化の根には「和の精神」がある。人々は互いに和合し、助け合い、ともに生活していた。こうした伝統のゆえであろう、日本人の感じ方や考え方はよく似ているとか、日本人には集団でまとまって行動する傾向が強いといわれる。ただ、「うち」(家と村)でのまとまりは強さは、「そと」にたいしては閉鎖的・排他的な傾向を助長していた。そとのひとは、「よそ者」であり、「よそ者扱い」にされた。また「旅の恥はかき捨て」というように、そとに出れば、恥ずかしいこともしていたようである。
[507] 今日でも以前の村的なものが、形をかえて他の集団にみられる。たとえば、「うちの学校」「うちの会社」などという言葉は、うちのメンバーには心を開き、うちでまとまる日本人のあり方を示しているといえよう。
[508] わたしは村で生まれ、育まれた。村には、心の絆と共同体の温もりがあったが、古い因習も多く、息苦しいところもあった。だから村を出てほっとした。しかし勝手なもので、今は村の温もりが懐かしくて恋しい。もとの村に帰ることはあり得ないが、わたしは、心の底で村的なものを求めている。
[601] 里や山を歩くのが好きなわたしは、道端などにお地蔵さまや神さまが祭られているのをよくみかける。その場所で事故などがあったのか、何かのいわれがあるのか、時には花や食べ物が供えてある。少し人里はなれた森の中には、その土地の氏神を祭った神社がある。また、各地の神社に参拝し、祈願するひとは多い。車の中などには、事故が起こらないようにという祈りの心をこめてであろう、お守りが掛けてある。
[602] さて、神とは何であろうか。ひとはなぜ祭りや祈りを行うのであろうか。本居宣長によれば、神とは、「天地もろもろの神たち、それをまつる社の霊、人、鳥獣木草のたぐい、海山、その他何であれ、すぐれた力をもつものである。また、悪いもの、あやしいものも神である」(『古事記伝』)。
[603] このように自然万物が神であるが、昔の人々は、災厄や不幸を、神霊のたたりのせいにしていた。そこで、たたりをしずめ、加護を求めて、神々を祭り、お供えをし、祈った。また神の社をたてた。それに応えて神もしずまり、幸せをもたらしてくれると信じていた。
[604] こうした祭りや祈りには、人々の喜び、悲しみ、願いなどの心がこめられているように思われる。以下、いくつかの例をあげてみよう。
[605] 古来、祖先の霊は大切にされている。ひとが亡くなれば、霊は肉体からはなれて、しばらくは周囲にとどまる。ひとの死はケガレであり,それゆえ子孫は供養をし,喪に服し,亡くなったひとの冥福を祈る。そのうちに霊は「あの世」に行くが,時の流れの中で一人の霊の個性は消え、自然の生命の中に溶けこんで他の霊と合一し、神や仏になる。それは森の多い山に住みついて、あるいは海の彼方に行って子孫や土地の人たちを見守っている。そして正月や盆には子孫のところに帰り、子孫と交流する。また祖先の霊は「この世」に再び生まれ変わってくると、人々は信じていた。こうした信仰には今は亡き人への思慕や感謝の念がこめられていたのであろう。
[606] また、正月には、祖先の霊と新しい年の年神(穀物の霊)を迎えて、豊作を祈る。家族そろって新しい年を迎えた喜びを語り、一年の計を考える。盆には祖先の霊を迎えてともに語り,食事をし、霊を慰めて送る。さらに、その年の実りの豊かさを祈る「春の祭り」、虫を追い、稲の病気を防ぐ「夏の祭り」、収穫に感謝する「秋の祭り」、おとろえた土地の霊の力の修復を祈る「冬の祭り」など、祭りがとくに米づくりとかかわって行われているのは、日本の稲作社会を反映している。そこには、実りへの願いがこめられていた。
[607] 正月、盆、祭りなどの日は「ハレ」の日である。普段は日々の仕事と単調な生活の「ケ」の日が延々と続く。そのあとにハレの日がやってきて、楽しみ、そして疲れをいやす。互いに家を訪ねて交流を深める。親たちは貧しくとも、ハレの日だけは子供に肩身のせまい思いをさせないように努めた。食事は普段の日は、アワ・ヒエ・ムギなどを食べていたが、ハレの日にはコメの飯を食べた。また赤飯を作って祝った。普段は少ないおかずも、ハレの日には品数が多い。それで「おかず」というようになったという。
[608] 祭りの場から聞こえてくる鐘や太鼓の音は、ひとの心を高揚させる。人々はともに飲食し、歌い、踊り、喜ぶ。こうして楽しみを分かち合うことで、共同体のメンバーは結束をはかった。
[609] あるいは各地には、その土地の氏神を祭った神社と鎮守の森があるが、そこには神が住んでいて、村と村人を守ってくれていると、人々は信じていた。鎮守の森だけでなく、日本では、山々は聖なる山であり、人々は、そには神仏が宿っていると信じ、山を拝み、森林を守ってきた。森林は水を蓄え、浄化し、野鳥を保護し、また、炭酸ガスを吸収し、酸素を供給して、生態系を守ってくれている。森に神が住むとか、聖なる山という考え方は一つの信仰であるが、人々は、こうした信仰で生態系を守ってきたのである。こうしたことは、祖先たちが長い生活経験の中で生みだした知恵である。
[701] 「苦しい時の神だのみ」という。苦しみ、悩みが深ければ、それだけ救いを求める心も切実になる。平安末期から鎌倉初期にかけて、人々は戦乱、飢饉、疫病などで苦しんでいた。そのとき法然は、「ナムアミダブツ」(南無阿弥陀仏)と、ひたすら念仏をとなえるだけで、ひとは区別なく救われると教えた(『一枚起請文』)。
[702] そうであれば、ナムアミダブツとは何であろうか。「ナム」は、帰依、帰命である。「アミダブツ」は、浄土にいて、わたしたちを救ってくださる仏さまである。それは、救いの力、無限の生命、真理、絶対の真実ともいわれる。法然は,こうしたアミダブツに帰依することによって救われるという。
[703] 法然の父は、争いにまきこまれて死んだ。死の前に父は息子に、自分を殺したひとをうらみ、復讐してはいけない、仏の道にはいり、ひとを救うことを考えなさいといって息たえた。法然は比叡山で仏の道を学び、修行し、知恵のすぐれた人物として尊敬されるようになった。でもかれは、悩みを断ち切れず、心は乱れ、どうしたらいいのだろかと悲しんでいた。そのとき、「一心にもっぱらアミダの名を念じよ」という善導の言葉に出合ってさとった。
[704] さて、仏教の教えには、自分の力で知恵を学び、修行にはげみ、戒を守り、善を保つ「聖道門」(自力の道)と、生きとし生けるものを救うアミダの願いに帰命する「浄土門」(他力の道)がある。この二つから、法然は仏のほんとうの道として浄土門を選んだ。次に、浄土門には正行と雑行がある。「正行」は、浄土の教典を読むこと、アミダの姿を心に思うこと、アミダを拝むこと、アミダの名を唱えること、アミダの徳をほめたたえることである。それ以外は「雑行」である。この中で法然は雑行をすてて正行を選び、さらに正行の中でアミダの名を唱える念仏を選び、他はそれを助けるためのものとした。
[705] 法念が、このように念仏だけをえらんだのは、つぎのようなわけがある。当時、恵まれた少数のひとは、救いを求め、寺を建て仏像をつくり、仏の知恵を学び、修行にはげでいた。しかし、多くのひとは貧しく、身分が低く忙しく、そのようなゆとりがなかった。それでは、恵まれたひとだけが救われ、多くのひとに救いの望みがたたれることになる。それは、人々を平等に救わんとするアミダの願いに反する。アミダは、少数の人たちしかできない困難な方法をすて、誰にでもできる容易な行為をとり、仏の願いとしたのである。法然はこう考え、誰にでも、いつ、どこででも唱えられる念仏を選び、すすめたのである(『選択本願念仏集』)。
[706] アミダの名を唱えるだけでほんとうに救われるのか。そうだと法然はいう。なぜなら、念仏には三つの心があるからである。一つは身で仏を礼拝し、口で念仏を唱え、心で仏を思う真実の心である。二つはアミダの願いを深く信じ、罪や悪をおかした身である自分が、仏の願いによって救われると信じる心である。三つは救われることを喜び求める心である(『和語燈録』)。
[707] こうした教えはわかり易く、実行しやすく、多くのひとが法然の教えに帰依した。親鸞はその一人である。
[708] わたしは幼い頃、祖母に手をひかれて、お寺参りにつれていってもらっていた。そこでお坊さんの話を聞き、祖母が唱える念仏も聞いた。家でも祖母は、仏壇の前でナムアミダブツと唱えていた。その真剣な姿と悲しい声の響きは、幼い心に刻みこまれた。祖母は五人の子供のうち、四人に先立たれている。その悲しみをいだいてお寺参りをし、念仏を唱えていたのだと思う。仏とまみえていたときのいちずな姿をかえりみれば、祖母はきっと救われていたのであろう。そして、若くしてなくなった子供たちも救われていたのであろう。
[801] 古代の人たちは、ツミ・ケガレを清流でみそいで水に流し、おはらいをして取りのぞいた。また自然に親しみ、神を祭り、心をきれいにしてきた。古代人の心はまだ純朴で、根が明るかったのであろう。それともまだ心の闇というものを知らなかったのであろうか。心を見つめてみれば、その内側には、闇の部分や汚い部分が一杯ある。それは、みそいでもみそぎきれない、はらってもはらいきれないのである。
[802] 親鸞は心の闇の部分を知った。かれは、わたしの心にはうそ、いつわり、むさぼり、怒り、ねじけ、悪だくみがあり、それはヘビやサソリに似ている,何と悲しいことだろう,自分は欲が深く、名声と利益に迷っている,そういう自分が恥ずかしいといっている(『教行信証』『正像末和讃』)。
[803] このように悲嘆していたとき、親鸞は法然に出会い、善人も悪人も賢いひとも愚かなひとも、誰でもアミダの名を唱えれば区別なく救われるという教えにふれ、心の安らぎをおぼえた。かれは、そのときの感動を、わたしは法然の教えを信じるだけだ、法然にだまされて念仏して地獄に落ちても悔いはないと語っている。
[804] ところで、法然の教えは「他力」であるが、そこには、まだ自分の力で念仏を唱える「他力の中の自力」が残っていた。親鸞もはじめは自分の力で念仏を唱え、救われたいと思っていた。やがてそのことに気づいて、すべてをアミダにまかせる「絶対他力」(他力の中の他力)の境地にいたった。
[805] アミダは、一人でも苦しんでいるひとがいたら自分は仏にならないと願い、その願いをかなえて仏になった。だからアミダは世界のいたるところに、救いの力をまわし向けている。アミダはその願いから、とくに悩み、苦しんでいるひとを憐れみ、救いの力をさしのべている。ひとは、アミダを信じ、アミダの名を唱えさえすれば救われる。念仏もアミダの願いのまわし向けである。このように信じた親鸞は、アミダの恩の深さに思いいたった。それゆえ、念仏は、アミダの恩にたいして「ありがとう」という感謝の気持ちの現れである。
[806] それまで、アミダの住む「浄土」は、西方の極楽や死後の世界にあると考えられていた。人々は、浄土を心に思いえがき、あこがれていた。だが親鸞においては、浄土は現実の世界にある。アミダを信じる心が定まり、信心を喜ぶひとは、生きているいま、浄土に生まれるのである。
[807] このように、アミダへの信心一筋に生きる親鸞には、それ以外のまじないも祈りも祭りもお守りも不要である。罪悪のままで救われるのだから、みそぎもはらいも必要がない。
[901] 親鸞は、「善人でさえ救われる、まして悪人はそれ以上に救われる」といっている(唯円『歎異抄』)。善と悪については、人間の本性は善であるという「性善説」と,悪であるという「性悪説」がある。またわたしたちは、他のひとを善い、悪い、愚かだなどという。けれども親鸞は、善悪についての一般的な考え方を論じてはいない。他のひとの品定めなどをしてはいない。いったい自分はどうなのかが問題である。自分は罪、悪、愚かさからぬけられない。心には欲深い醜い恐ろしい部分がある。ひとは、他のひとを殺せといわれても普通は殺せない。しかしながら、殺したくなくても、ことと次第では、百人、千人も殺すこともある。こうした恐さを親鸞はひとごととしてではなく、自分自身のこととして語っている。
[902] ひとは、自分の罪悪、愚かさ、恐さなどに薄々気づいている。だが、こうした醜い部分にはふたをしておきたい。でも、醜い部分があるとすれば、それをそのまま知るほうがよいだろう。「真」という言葉には、「うそ・ごまかしがないこと」「ありのまま」という意味がある。自分の醜い部分を、あるがままに知ることが、真実の自分を知ることである。
[903] では、真実を知り、どうなるというのか。親鸞は一方では心が痛む、恥ずかしいといっている。だが、他方では、なんと喜ばしいことだろう、アミダのご恩の深いことを思えば、世間のひとにあざけられても、恥じるものではない、アミダの願いにはひとの心をきれいにし、喜びにみたし、ものごとを正しく見る知恵を与えるという不思議な働きがあるという。真実を知り、痛む心は喜びに転じ、醜い部分が洗われ、心はきれいになるのであろう。心の闇を知って、闇の中に光が差しこむのであろう。自分の愚かさを知り、小さい自分をこえたアミダの願いにふれるのだろう。親鸞においては、真実が知らされるのも、アミダの願いのまわし向けである。
[904] 晩年の親鸞は、このようなアミダの願いを「自然」であると考えた。それにたいして人間の心は「はからい」である。ひとは、あれが善くてこれが悪い、好きだ嫌いだと思う。自分の醜さを隠しておこうとはからう。アミダの心にふれても、ぐちをいい、怒り、むさぼり、疑う。そういう自分がイヤになって落ちこむ。にもかかわらず、まだ自分の力でやれるとはからい、無理に力んでいる。人々を救うアミダのちかいには、はからいは一切なくて、「自然」(ジネン)である。つまり、「おのずから」「しからしむ」(そのようにさせる)である。親鸞は、アミダは自然ということの意味を教えているのだとさとった。そして、あれこれとはからわないで、おのずからあるがままに、アミダのちかいに身をゆだねて生きた。
[905] さらに親鸞は、社会の底辺に生きる人々と手をたずさえ、共に語り合った。「一人で苦しんでいるときは二人と思え、二人で苦しんでいるときは三人と思え、その一人は親鸞である」と語ったと伝えられているが、その言葉には、苦しむひとへの共感の深さがある。それとともに、親鸞は、「どんなにいとおしい、ふびんだ、かわいそうだ、気の毒だと思っても、思うように助けてあげることはできない」という。わたしたちには、ひとを助けてあげたくても助けることができない悲しさがある。親鸞は、そのことをよく知っていて、ただ念仏を唱えるだけだとした。そして念仏を唱えながら、世の中が安心して暮らせるように、仏の教えがひろまるようにと願った。
[1001] 親鸞の「やさしさ」、道元の「きびしさ」という。「人間親鸞」、「古仏道元」ともいわれる。親鸞は人間の弱さ、力の限界、苦悩をよく知っていた。それだけに苦悩の中にいる人たちへの共感は深く、かれらと手をたずさえて歩きながら、救いの道を手探りした。
[1002] それと反対に、道元には、人間の強さへの確信があった。自分の力で仏の道を求めることへの自信があった。道元によれば、み仏たちも祖師たちも、元はみな凡夫であった。だからひとは自分は愚かであるからとか、弱いからとかいって卑下してはいけない。この世に生きているうちに仏の道を求めなければならないのである(懐奘『正法眼蔵随聞記』)。
[1003] そうであれば、どのようにして仏の道を求めるのか。道元は「只管打坐」をといた。それは,だだひたすら「座禅」にうちこみ、座禅以外のことにかかわらないことである。まずは、座って身体の姿勢をととのえる。つぎに静かに息長く呼吸をする。だんだんに身も心も落ち着いて楽になり、心の統一がかなえられる。道元は座禅のことを「修証一等」といっている。つまり、座禅という修業とさとりは一つのものである。さとりを求めて、座禅をするのではない。座禅の結果として、さとりが得られるのでもない。座禅は方法であるが、その行いそのものが同時に目的であり、さとりである。その境地が「身心脱落」であり、こうして身体も精神も迷いから解放される。
[1004] 只管打坐が行いそのもであるとすれば、それは、座禅だけではなくて、仕事や勉強や遊びや人づきあいについてもいえる。何事においても、心を集中し、「そのことになり切る」ということである。こうしたことは特別のことではなくて、普通のことを、そのとおりにさとることである。
[1005] 普通のことをさとることを、道元は、「人間はだれしも頭の下に、目は横につき、鼻は縦についているということを知って、ひとにだまされることがなくなった」と語っている。さらに、「世の中のことはすべて無常であり、たえず変化し、過ぎさっていく。生と死の真相をきわめることが大切だ」(無常迅速、生死事大)ともいう。死は足元にある。いつ死ぬか分からない。明日があると思ってはいけない。だから生きている、このいま、一瞬一瞬ひたすら座禅をおこない、仏になれというのである。生きているいま、ひたすら自分の務めを果たしていくことは、座禅の心にあい通じている。
[1006] ところで、座禅にせよ、自分の務めにせよ、ひとは自分の力で努力しなければならない。努力すればある程度のことはやれる。努力してみてはじめて自分の可能性もわかる。この点で自分の力で全力をつくせという、道元の「自力」の教えは正しい。
[1007] いっぽう、努力して失敗もあり、自分の力の限界もわかる。そして、自分の限界をさとったところで、思いもよらぬ力がでたり、助けが得られたりすることもある。生きるということは、多分、大きな力に助けられているということであろう。この点で親鸞の「絶対他力」も正しい。
[1008] 自力を強調した道元も「仏のいのち」といっている。それは別の言葉でいえば「仏の力」である。親鸞は「はからい」を人間の心としたが、道元も「心をもてはかることなかれ」といっている。つづけてかれは、「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」(『正法眼蔵』)とのべている。ここで「仏のかたよりおこなわれて」というのは「他力」とも読める。
[1009] このようにみれば、自力と他力は対立したものではなく、その根には共通のものがある。自力でやっているうちに、いつの間にか自分でやっているということさえ忘れ、思わぬ「他力」の助けが及ぶのである。また他力にまかせきったところに、本来の「自力」も働いてくるのであろう。
[1101] 江戸時代になり、戦国の世が統一され、社会に秩序と平和がもたらされた。対立と争いの社会を統一するためには、強い権力が必要である。だが、権力による強制だけでは、政治の安定は得られない。政治の道には、道理にかなった政治の理念が求められる。そのことを人々が正当であると認めて、秩序と平和は永続する。江戸時代には、こうした要請にこたえて、儒学が栄えた。
[1102] 林羅山は、社会の秩序を重視し、「上下定分の理」をといた。かれにおいては、「理」とは道理であり、宇宙の根本原理である。理にかなうものが「善」であり、そむくものは「悪」である。宇宙に天と地があり、天は尊くて高く、地は卑しくて低い。このように、天地に上下の差別があるように、ひとにも上下の関係があり、上のひとは尊く、下のひとは卑しく、この差別がなければ国はおさまらないという(『春鑑抄』)。
[1103] このような考え方には、わたしたちは違和感をおぼえる。だがこの考えの背景には、秩序と平和を求めていた当時の人々の要求もある。かれの思想は、当時の支配者である武士に受けいれられ、武士の支配と、江戸時代の身分制度を正当化することになった。
[1104] また、羅山は人間に理をきわめ、理にかなったあり方を求めた。そのためには、心に「敬」(つつしみ)をもち、「礼儀」をわきまえ、欲望に負けてはいけない。かれはこう考え、とくに武士に理にかなったあり方を求めた。
[1105] 心に敬をもち、礼儀をわきまえることは、時代や身分にかかわらず、ひとが踏み行うべき道であろう。が、それが上から説かれ、強制されるのであれば、形式的になりかねない。また、人々の自然な心情や自発的な行動は抑えられることにもなる。実際、江戸時代にはそうした傾向もでてきた。そこで、形式よりも内面のあり方を重視する考え方がでてきた。
[1106] 山鹿素行は、その一人である。かれは「武士道」をとき、武士に、農工商の上に立つ指導者として、ふさわしい人物であることを求めた。かれによれば、農・工・商は仕事にいそがしくて、いつも道をつくすわけにはいかない。武士は土を耕さず、商売もしないで、生活している。だから遊民になりかねない。武士が遊民にならないためには、ひたすら心をととのえ、自分の立場を考え、「士の職分」を知らなければならない。
[1107] それまで武士には、主君への忠誠、信義、武術、死の覚悟などが求められいた。素行も、主君への忠をつくし、剣術、弓術、馬術などの外形をととのえることをといている。だが、かれにおいて肝心なことは内面のあり方である。それは、他のひととの交わりにおいて信頼される人物であること、独りを慎むこと、一般の人々の模範となる人物であることなどである。こうした文道を内心において充実し、外形において武備がととのうようになれば、一般の人々は武士を尊敬し、その教えにしたがい、ものごとの順序を知ることができるようになるという(『山鹿語録』)。
[1108] その他、かれは士の職分について子細にのべている。主なものをあげれば、みずからの内を省み、気を養って心を静かにすること。度量をもつこと。内に徳をやしない、自分の力をひけらかしたり、自慢したりしないこと。人々が困っているときには、自分の身が苦しむように思い、米を与え、ひとを救うこと。高貴なものをおそれ、恥じる心をもち、事を処理すること。心を清廉にし、わいろや財産に心をひかれないこと。自分の身を省み、劣っているところを考え、好き嫌いをよく知り、みずからをいましめて努力すること。見ること言うこと行うことを慎むことなどである。
[1109] 儒学は元来、学んで身を修め、仁徳をつみ、世の中を治める「修己治人」の教えである。素行の武士道には、為政者が人格をみがき、その徳によって治めるという考え方がある。かれの思想は、政治に携わるものの「政治倫理」、公務に携わるものの「公務員倫理」という性格をもっている。
[1201] ひととひととの間柄で一番身近なものは、親子の関係である。人間の愛の中で「親の愛」や「親心」は、一番純粋な愛であろう。愛は愛によって育まれるというが、親の親心が子の「子心」を養い育てるのである。中江藤樹は、こうした親子の愛情をもとにして「孝」の道をといた。かれがいう孝の道とは何であろうか。
[1202] 孝の道は、親に孝養をつくすことだけではなくて、宇宙の根源にある道である。孝は、天にあっては天の道となり、地にあっては地の道となり、ひとにあってはひとの道となる。それは「愛敬」ということである。「愛」はねんごろに親しむことであり、「敬」は上のひとをうやまい、下のひとを軽くみてあなどらないことである(『翁問答』)。
[1203] それゆえ愛敬の心は、さまざまな人間関係にあてはまる。具体的には、子が親を愛し敬うこと、下のひとが上のひとに二心なく忠をつくすこと、上のひとが下のひとに礼儀正しくふるまうこと、親が子を愛し育てること、弟が兄を尊敬すること、兄が弟に善いことをすすめること、妻が夫への節操を守ること、夫が妻に義務をはたすこと、友人と偽りのない心で交わることなどである。藤樹は、このような道を、心において守り、社会において実践していけば、人々は、互いに憎んだりせず、仲良くなり、家庭はととのい、社会と国は治まるという。
[1204] ところで、親子の愛情だが、親は、子供を一人前のひとになってほしいと思い、養い教え育てる。子育てについて、かれは、道徳教育を重視している。この場合、口で話して聞かせる導き方があるが、このことで徳が身につくと思うことは間違いである。大切なことは、親が身を立て、道を実践していることである。そうであれば、子供は親の行いをみて、おのずから感化され、変わっていくという。
[1205] つぎに、子の親への孝とは何であろうか。自分の身は親より受けていて、父母の恩は天より高く、海より深いのであり、そのことを忘れれば、欲に目がおおわれ、心は暗くなり、迷いの道にはいる。親の身を自分の身と思い、父母を大切にすれば、心は晴れ、明るくなる。親への孝について、藤樹は、親につくすこととともに、「親を安心させる」ことをあげている。つまり、自分が身を修め、道にかなった生き方をし、周りの人々と和合していくことである。そうすれば親も安心するというのである。
[1206] 藤樹自身は、仕えていた藩を脱藩し、武士の身分を捨て、母のもとに帰り、母に孝養をつくしながら、学問の道にはげんだ。こうして身につけたかれの人柄と教えは、「近江聖人」として慕われ、人々に感化を与えたことでも知られている。
[1207] ところで、親も人間であり、道を誤ることもある。そのときは、子は、親が誤りに気づくように、それとなく親を諌めなければならないと藤樹はいう。それでも親が気づいてくれないときは、その是非を明らかにし、親につくしながら何度も諌め、また親の友人に頼んで諌めてもらうのである。子が親を愛し敬う心をもって、まちがっていますから、おやめくださいといえば、親はそれを受けいれ、親子の間はさらに深い愛敬の絆で結ばれるであろう。
[1208] 伊藤仁斎は、人間の道の根本を孔子の精神に求めた。それは『論語』にのべられている。その言葉はもっとも正しく、後にいたるまで変化せず、世界の果てまで広げてまちがいがない(『論語古義』)。では、仁斎のいう孔子の精神とは何であろうか。
[1209] その根本は「仁」であり、それは、一語でいえば「愛」である。ひととひととの関係は、みな愛からはじまる。愛は心情から生まれる。それゆえ愛からでたものはすべてほんものであり、そうでないものはいつわりである。このように心につねに愛があり、愛が心に満ち、心と愛が完全に一つになっているのが仁である。この仁によって、心や行いが正しくなり、ことが成しとげられるのである。自分がよくひとを愛すれば、ひともまた自分を愛してくれる。愛の心は自然でおだやかで、心が広くゆったりしていて、ひとを包むことができるのである。だから、愛の心があれば、ひとは落ち着いてあわてない。楽しんでも心配がなく、安定している。だから何をしてもうまくいくのである(『童子問』)。
[1210] このように愛と心情を一つにするのは、古来、日本人のあり方である。ということは、仁斎は、孔子の仁を日本的な心情として理解している。こうした心情は、心の内で動いているだけではない。それは具体的には、身近な人々との親しい交わりとしてあらわれる。仁は足元にある。だから仁は遠いところではなく、近くで求めればよい。仁斎はこう考え、これを実現する根本を「忠信」と「誠」に求めた。「忠」はうそいつわりのない純な心であり、「信」はあることはある、ないことはない、できることはできる、できないことはできないとする心である。したがって「忠信」は自分をいつわらず、他のひとに二心なく、心の底からよかれとつくすことである。
[1211] それゆえ忠信の心は「誠」に通じる。しかし忠信は個人の心情であるが、誠はみなが納得できる真理、道理である。自分は純粋な心情でしてあげたつもりでも、それがみなに納得できるとは限らない。だから、仁斎は「誠をつくす」ことはむずかしいという。本当に心が純粋になりきって、しかも道理にかなった誠をつくすことができれば、その心は相手にも通じて、よい人間関係ができて、ことが成し遂げられるのであろう。
[1301] 心は、知情意の三つに分けられる。「知」は知性や理性や道理であり、「意」は意志や意欲であり、「情」は感情である。おおよそ、知性や意志がポジティブに評価されるのにたいして、感情は、感情に走るとか、感情的になるとか、ネガティブに理解されがちである。
[1302] これまでみてきたように、儒学は、理性を重視し、是非善悪の区別を明らかにし、善を実践することをすすめている。こうしたあり方は、表を飾り、堅苦しくなり、自然な気持ちをゆがめがちである。
[1303] 本居宣長によれば、中国の心である儒学は、何ごとにもこせこせと気をつかい、あれこれ議論をして、ひとの心を悪がしこくし、ものごとをこじらせる。古代のわが国には、うるさい教えはなかったが、社会は乱れないで、国は治まっていた。このようにかれは、儒学を批判し、わが国の古来のあり方を評価した(『直昆霊』)。
[1304] また、わが国の道は、ひとが生まれたままの真心に立つ道である。それは、善くても悪くても、生まれたままの本来の心である(『玉勝間』)。
[1305] そうであれば、生まれたままの本来の心とはどういう心であろうか。心にあたる英語の'heart'に は、胸、気持ち、やさしい心、人情、愛情などの意味がある。これに類した言葉には'mind'(心、精神、頭)、'spirit'(精神、心、霊魂)、'soul'(魂、精神、心、生命)などがある。宣長のいう、生まれたままの心には、'heart'が一番 近いであろう。それは、頭というより、胸、気持ち、やさしい心である。つまり心情である。かれによれば、心は情であり、情の動きである。心あるひととは「もののあはれ」を知るひとである。
[1306] それでは、もののあはれとは何であろうか。「あはれ」とは、見るもの聞くもの触れることに心に感じて出る嘆息の声であり、「ああ」「はれ」ということである。たとえば美しい月や花をみて、ああみごとな花だ、はれよい月かなと感心することである。感ずべきこと出合って感ずべき情を知って感ずるのを「もののあはれを知る」といい、感ずることにふれて心が動かず、感ずることがないのを「もののあはれを知らず」といい、また心なき人という(『源氏物語玉の小櫛』)。
[1307] こうした心の動きが、美しい上品な言葉で、ねりあげられて表現され、文芸が生まれる。それは、読むひとの心に深い感動を呼びおこす。宣長によれば、生きとし生きるものにはみな情がある。情があればものにふれて思うことがある。それゆえ、歌がある。あるときは嬉しく、別のときは悲しく、また、はらだたしく、楽しくおもしろく、こいしく、いとおしく動く心がある。そのときどき、心に感じ、情が動くひとが、もののあわれを知るひとである。(『石上私淑言』)。
[1308] よく男は、「男らしくなければいけない」とか、「メソメソしてはいけない」などといわれる。こうした男らしさは、かれによれば、自分をとりつくろい、かっこよくうわべを飾っていることである。戦いで死ぬときには、男も、父母が恋しいし、妻子の顔もみたい。それがひとの情というものである。
[1309] ひとが情を深く感じるのは恋においてである。恋には、辛いこと、悲しいこと、うらめしいこと、はらだたしいこと、おもしろいこと、嬉しいことなど、もののあはれの深い真髄があらわれるという。
[1310] しかしながら、宣長においては、たんに心情的であればよいということではない。かれは、感ずべき情を知って感じるとのべている。「知る」ということは知性の働きである。そこには、感情を知るという知性の働きがあり、自他の感情を一定の距離をおいてみつめるゆとりがある。このようにして、感情は純化され、もののあはれを知る心は豊になる。そうであってこそ、美意識はとぎすまされ、すぐれた文芸が生まれる。ひとの情も知られ、よい人間関係も生まれるのである。
[1311] たとえば、まわりに悲しんでいるひとがいるしよう。この場合、相手とともにたんに悲しむだけでは、ともに感情に走ることにもなる。そうではなくて、もののあはれを知るひとは、悲しんでいるひとの立場や情の動きをよく知り、悲しんでいるひとの心を自分の心に受けいれ、共に悲しむことができるのである。さらには、余裕をもって悲しむ人の話を聞いてあげる。こうした対話のなかで、心の交流が行われ、悲しんでいるひとの心はだんだんに晴れてくるのである。
[1401] 日本人は勤勉であるといわれる。狭くて資源の乏しい国土に生きていくためには、ひたすら働く以外にないのであろうか。
[1402] 二宮尊徳は、日本人の勤勉さの模範とされている。かれは14才で父に、16才で母に死別し、そのうえ田畑が洪水で流され、大変苦労をした。一時期、叔父の家で働いていたが、やがて独立して荒れ地を耕したりして、少しずつお金をたくわえ、土地を買い、家を再建した。それだけではない。当時、希望と勤労意欲を失っていた農民たちをはげまし、村の再建に全力をつくした。
[1403] このような生活経験の中で、かれは「天道」と「人道」ということをさとった。天道は自然の世界であり、ひとが耕せば収穫をもたらしてくれるが、手を加えなければ、枯れ、草がはえ、荒れ地になる。人道はひとが力をつくしていくことであり、欲を押さえ、勤めて成すことである。(福住正兄『二宮翁夜話』)。かれにおいては、天道と人道のバランスをとりながら、人道を実践していくことが課題になる。
[1404] では、人道を具体的にどのようにして実践していくのか。尊徳は、「分度」を定めることを根本とするのべている。分度とは自分の収入や力をきちんとつかみ、それに応じて衣食の生活の限度を定め、収益や返済の計画を立てることである。この分度を立て守れば、何の恐れも心配もないといって、かれは農民をはげました。農民たちは、生活のバランスを心がけ、仕事にはげみ、生産が増え、借金を返すことができた。
[1405] もう一つは「推譲」である。これは分度外の余分を譲ることである。つまり利益の幾分かは、次年度のためにたくわえ、子孫のためにゆずり、幾分かは他人を助けるための基金として提供する。尊徳自身も苦労して貯えた財産のすべてを売り払い、それを農村復興の基金として提供している。こうした基金は、自分が助けてもらったことのお礼に他の人たちに使ってもらいたいという無欲のお金である。こうした基金が有効に活かされて、農村が再建された。
[1406] 以上のような尊徳の教えは「報徳教」と呼ばれる。それは、わたしたちに恵みを与えている天地やひとの徳にたいして徳をもって報いる教えである。
[1407] かれにおいて肝心なことは、何のために働くのか、実行可能なプログラムをどのようして作るのか、どのように工夫改善していくのかである。けっきょくは、何のために生きるのかということである。そこには高い倫理性がある。かれは、農民の心理や人間関係にいたるまでよく気くばりをし、農民を信頼し、はげました。そこにかれの成功の秘訣があった。
[1408] 石田梅岩は商人の道をといた。かれは農家に生まれたが、少年の頃から商家に勤め、商売に従事していた。仕事のかたわら、かれは自分の心に深い関心をもち、心をつくして刻苦勉励につとめ、修養にはげんでいた。商家の主人の母親は、かれがすぐれた人物であることを見ぬき、陰ながらはげまし、援助している。かれのめざすところは「心を知る」ということであった。そのため、自分の欲やエゴを自分にきびしく点検し、その果てに純な心、正直な心にたち帰り、心は「天地万物の親」であることをさとった。その学問は「心学」とよばれる。
[1409] ひとの心が天地万物の親であれば、そのことゆえにひとは尊敬にあたいし、平等である。当時、商人は物を生産せず、売買によって利益を得ていたので低い身分とされ、みじめな思いをしていた。それにたいして梅岩は、物を売って利益を得るのが商人の道であり、その利益は武士の俸禄と同じである、商人の仕事は社会に役立っている、利益を欲のせいにするのは理由がない、商業は正しい行為であるとのべ、商人をはげました(『都鄙問答』)。
[1410] あわせて、かれは商人のモラルについて考えた。買うひとがあっての商売である、買うひとの心は自分の心と同じだから、商人は売る品物には念をいれ、大事にして売らなければならない、買う人は品物がよければうれしい、こうして商業の道は金をよい品物に変えることで、人々の心を満足させる、それは天地の道にふさわしいというのである。さらにかれは、倹約と正直をといた。「倹約」とは物を節約して余ったものを社会のために役立てること、物を大切に使って物の効用を活かすことである。物を大切にすることは自分を大切にすることである。物を活かすことは自分を活かす道である。「正直」とは自分の物は自分の物、ひとの物はひとの物として、貸したものは受けとり、借りたものは返すことである。つまり誰の所有なのか、どういう契約なのか、その道筋をきちんとし、それぞれの所有を尊重し、ひとを欺かず、約束を誠実にはたすことである。このことが広く行われれば、社会は和合し、ひとびとは「みな兄弟」のようになるという(『斉家論』)。かれは、自宅に講話の場をもうけ、身分や男女の区別なく受けいれ、無料で、平易な言葉で講話をつづけた。
[1411] 梅岩がといた「心学」は「経済倫理学」でもある。それは、近代の私法と経済活動の原理に通じている。
[1501] 江戸時代、日本が国をとざしてる間に、欧米の勢いが強くなり、日本にもせまってきた。その巨大な力を目の前にして、人々の危機意識も強くなった。まかりまちがえば欧米の植民地になりかねない。このとき、福沢諭吉は世界の情勢を見て、日本の将来を考えた。
[1502] 諭吉は、中津藩の下級武士の子として生まれた。父はすぐれた人物であったが、すべてが家柄によって決まるので、地位に恵まれまなかった。諭吉もたんに下級武士の子としてあつかわれた。父は息子の才能を伸ばすために僧にしたいと思った。後に諭吉は、封建社会でむなしく世を去った父の不幸と、父の自分への愛情を思い、一人で泣いた。かれは「封建制度は親のかたきでござる」とのべている。かれは、兄のすすめもあり、長崎や大阪にでて、オランダの学問を学んだ。大阪で諭吉は人々に話しかけてみた。こちらが強く出ると相手はていねいにこたえる。こちらがていねいにいうと相手は強くでる。これは人々が長い封建制度のもとで服従を強いられた悲しい性(さが)のなせるわざである、人々を教えみちびくことが大切だとかれは考えた。その後、アメリカ、ヨーロッパに行き、欧米の事情を自分の目でみて、学問を学び、新しい文明の日本を築いていく方向を手さぐりした。
[1503] それでは、文明日本を築いていくために、何をなすべきか。まずは、それまでの封建的な因習にしばられていた人々の頭の切りかえを促し、知的レベルを引き上げなければならない。ひとの能力は生まれながらにして平等であり、ひとがどうなるかは、学ぶか、学ばないかによって決まる。学ぶひとは知者となり、貴人となり、富者となる。反対に無学なものは下人となる。諭吉はこうのべて、人々に学問をすすめた(『学問のすすめ』)。
[1504] それでは、何を学べばよいのか。かれのいう学問とはむずかしい字を知り、古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作ることなどではなくて、普通日常の生活に役立つ実学である。産業をおこし、民力、国力を充実させることが当時の課題であった。そのために、かれは東洋に欠けている「有形において数理学」と「無形において独立心」の二つを重視しした。前者は、自然科学や技術であり、産業をおこし、民力、国力を充実させるために不可欠である。後者は人民独立の精神である。独立とは自分で自分の身を支配し、他のひとにたよらないで自ら理非を判断し、自分で働いて生計を立てていくことである。独立心がないひとは、国を思うことも深くなく、外国人に自分の権利も主張できない。またひとに頼り、ひとを恐れ、ひとにへつらい、恥を知らず、言葉も卑しく、ひとのいうとおりにする。それでは国の独立もありえない。ひとりひとりの独立の精神と一身の独立が土台になって国の独立が実現するのだと、かれは考えた。
[1505] 日本の近代化は、ほぼ、かれが考えた方向で進められた。それは一面では成功したのである。しかしながら、他面では急速な近代化の影に、さまざまな矛盾やひずみが生じ、その混迷の相もあらわれてきた。
[1601] 高崎藩の下級武士の子として生まれた内村鑑三は、父から儒教と武士道をさずけられた。16才で札幌農学校に入学した。そのとき、「少年よ、大志をいだけ!」と叫んだクラーク博士は去っていたが、博士が、その叫び声とともに残したキリスト教精神と感化力は、学生たちの心をとらえていた。内村は、はじめは気が進まないままに、「キリストを信じる者の誓い」に署名をし、後に洗礼をうけた。その後結婚したが、しばらくして離婚し、心の痛手を負いながら、再起の希望をもって、アメリカに渡った。
[1602] アメリカで、精神薄弱養護学校看護人のアルバイトをし、ほうきとぞうきんをもち、子供の大小便にいたるまで世話をした。かれは、自分の献身が心をきれいにし、自分を救ってくれると思っていた。子供たちも、内村をしたうようになった。でも、心はきれいにならない。かれは、自分の仕事の動機はエゴイズムであり、それは罪ではないかと思う。でもエゴイズムを払い切れずに、悩み、疲れていた。このとき、「君の内だけを見るからいけない、君の外を見なければならない。なぜ、十字架の上に君の罪をあがなったイエスを仰ぎみないのか」という、アマスト大学総長・シ−リ−の言葉にふれて、神の愛を知り、信仰の喜びを体験した。
[1603] 内村は、アメリカを理想の国としてあがめていた。だが、自分の目で見たアメリカには悪いことも多かった。反対にアメリカから日本を見て、日本の善さや美しさがわかったのである。そこで、愛する日本のために働くのが自分の使命であると決心して帰国した。
[1604] さて、内村は武士道を身につけていたが、それは、主君への忠誠を誓い、主君のために戦うあり方である。いっぽう、神への忠誠を誓い、神のために生きるのがキリスト教のあり方である。神は、一般に、やさしい「愛の神」であると理解されている。だが内村においては、神は「正義の神」でもある。神の愛にたよることは、ひとの精神を弱くする。ひとは神の義のために、悪や不正と戦わなければならない。生きることは戦いである。こうした考え方をもとに、かれは、筋の通らないことや社会悪と戦うというあり方を選んだ。
[1605] 第一高等学校講師の時、内村は教育勅語を礼拝することを拒む。唯一神を信仰しているかれは、同時に天皇を拝むことはできなかったのである。普通のひとなら、そこは適当にやるのだが、純粋で気性のはげしいかれは、自分をいつわれなかった。けっきょく退職になった。
[1606] かれは、つぎに新聞記者になり、足尾銅山鉱毒事件をきびしく批判した。さらに日露戦争に反対した。自分は日露戦争だけではなく、どの戦争にも反対である。なぜなら、戦争は人を殺すことだからである。人を殺すことは罪悪であり、個人のためにも国家のためにもならないと、かれは主張した。
[1607] また内村は、教会のない教会を考え、「無教会主義」をとなえた(『無教会論』)。大切なことは、神をひたすら信仰し、聖書を読み、信仰を語ることである。そうした場はどこでも教会である。こうしたかれの主張の背景には、外国の教会から独立して信仰をつらぬくねらいもあった。
[1608] 内村において愛すべき名は二つのJ's、すなわち'Jesus'(イエス)と'Japan' (日本)である。信仰は国のためであり、国を愛することはキリストのためである(『失望と希望−日本国の先途』)。かれの墓碑には、「われは日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、すべては神のため」と刻まれている。
[1609] このような内村の思想は、「武士道に接ぎ木されたキリスト教」であるといわれている。接ぎ木をし、花を開かせるためには入念な作業が必要である。武士道、キリスト教、日本という国には、共通点もあるだろうが、異質のものもあるだろう。内村の生涯は、それらを接ぎ木して育てることに悪戦苦闘したものであった。そこからかれは、「日本は世界のため」を一つの課題とするようになった。
[1701] 夏目漱石は、偉大な作家として知られ、その作品は、初期の『坊ちゃん』や『猫』から晩年の『明暗』にいたるまで、多くのひとに親しまれている。天才には狂気なところがあるというが、漱石は、神経衰弱に苦しみ、孤独と不安にさいなまれている。心の揺れがはげしく、不機嫌なときには家族にあたりちらし、妻子はその巻きぞえをくうて困惑している。
[1702] こうしたことのゆえであろうか、作品の登場人物は、つまずき、もがき、孤独と不安に悩んでいる。けれども、かれらはあきらめない。懸命に自己が自己になる道をさがし求めている。かれらの感情の起伏、言葉のやりとり、生き方は真に迫り、読むひとの共感を誘うのである。
[1703] さて当時、文明開化の風潮のもとで、一部の人々は西洋かぶれをし、空さわぎをしていた。漱石は、こうした物まね的な文明のあり方を批判した。かれによれば、開花には「外発的開花」と「内発的開花」の二つがある。外発的開花は、外からの影響で一種の形式を取るものであり、日本の開花はそれである。内発的開花は、内から自然に発展して、ちょうど蕾が破れて花がひらくようなものである。ほんとうの開化は、このように内から自然にわきでるものでなければならない(『現代日本の開花』)。
[1704] そうであるためには、どのようにしたらよいのか。漱石によれば、自己を徹底的に見つめ、自己を確立することである。かれはこう考えて、「自己本位」ということを主張した(『わたしの個人主義』)。普通、自己本位といえば、自分中心のエゴイズムであるように思われる。だが、漱石のいう自己本位は、自分というものをよく知り、自分の考えをもち、自分の足で立って生きていくことである。それは、他人の考えをうのみにしたり、他人にしたがったりしないあり方である。漱石は、自己本位を、自分の個性を知り、発展させることという意味で「個人主義」ともよんでいる。それは、自分の個性をのばすとともに、他人の個性や自由も尊重するあり方である。
[1705] このようにみれば、わたしたちはおおよそ、漱石のいうような生き方をしているといえよう。わたしたちは、順調なペ−スで歩いているときもあるが、そうでないときもある。生きる道筋において、心の葛藤に苦しんだり、他のひととの対立を引き起こすこしたりする。
[1706] 『こころ』という作品がある。主人公の先生と友人のKは、ともに同じ下宿のお嬢さんが好きである。Kは、先生に自分の恋心をうち明ける。先生は、Kへの友情と自分の恋心の間で苦しむ。が、自分の心をまげて、お嬢さんへの愛をあきらめることはできない。ついに先生は先に、お嬢さんの母親に、お嬢さんと結婚させてほしいと申し込み、二人は結婚することになった。その後、Kは自殺した。先生は、Kの自殺は自分のエゴのゆえではないかと思い込み、罪の意識に苦しみ、仕事にもつけない。長い間、苦しみながら、やがて先生は自殺したのである。先生は良心的なひとであるだけに、苦しんだのであろう。先生のような苦しみは、自己を追求し、他の人の立場もたて、良心的に生きようとする人たち共通の苦しみでもあるのであろう。
[1707] 先生は自己を追求し、うち立てようとした。しかしながら、自己の底には自分中心のエゴがあり、自分のエゴは他のひとのエゴと対立する。そこに、自他の対立が生じ、ことと次第では、自己は危機に直面する。こうしたときには、どうしたらよいのだろう。『こころ』の先生は自殺した。漱石は、別の作品『行人』の主人公に、「死ぬか、気が狂うか、宗教にはいるか三つしかない、しかし自分は宗教にははいれそうにない、なれば、まあ気違いだなあ‥‥ボクは恐くてたまらない」と語らせている。
[1708] わたしたちは、エゴをこえることはできないのであろか。愛は、われとなんじを結ぶ絆であり、愛によってエゴをこえられるようにも思われる。漱石の作品でも、一貫して愛が追求されている。だが、愛の心や行為の中にもエゴがひそんでいる。漱石の作品の登場人物は、愛ゆえに、苦しみ、悩み、にくみ、自分がイヤになり、自分をのろうのである。
[1709] 『明暗』は晩年の作品である。ここにいたって漱石は、不安と孤独と苦しみの果てに、エゴをすてることをさとったともみられる。エゴをすて、自己をこえて天の英知に従って生きること、いわゆる「則天去私」ということをさとったともいわれている。漱石は、そのようにさとったのであろうか。『明暗』には、夫婦のすれ違いと葛藤が克明に描かれている。ものごとを対象化し、余裕をもってみれるのは、さとっているからであろう。しかしながら、『明暗』の重苦しさは、漱石の苦悩の表現であるともいえる。漱石は「則天去私」の境地にあこがれながらも、死に至るまで苦しんでいたようにも思われる。
[1801] 哲学への関心は、ギリシャでは「驚くこと」から、デカルトにおいては「疑うこと」からはじまった。西田幾太郎 は、「人生への思いと悲哀」から哲学した。かれは高校中退、生家の仕事の破産、父との対立、東大で専科生として味わった差別待遇、子供や妻の死という人生の悲哀をなめている。「しみじみとこの人生をいとひけりけふこの頃の冬のひごと」、「妻も病み子等また病みてわが宿は夏草のみぞ生ひ繁りぬる」と、かれは人生の悲哀を歌っている。このような自己の悩みと人生の問題が西田哲学の背景にある。
[1802] もちろんそれだけではない。西田には、西洋文化を受けいれ、近代化を進めてきた日本の現状と将来についての深い関心があった。日本は、伝統的なものを残しながら、西洋の文化を受けいれていた。でも、両者はちぐはぐな形で混在し、統一に欠けていた。そこに、近代日本の弱さがあった。西田は、こうした現状をみすえて、日本の伝統と西洋哲学を根源において統一する哲学を形成することで、日本の課題に応えようとした。
[1803] 西田は、みずからの悩みの解決を求めて、さらに道を明らかにし、ほんものの知を求めることへの関心から、しばしば座禅をした。「余は人生の研究者とならん、禅は音楽なり、禅は芸術なり、禅は運動なり、このほか心の慰めを求むべきなし、心、子供のごとく清く純一となりえば、天下の至楽これにすぎたるはなし」と、日記に書いている(明治36年1月1日)。かれはひたすら座禅し、純な心にかえり、自己の根源にあるものにふれた。
[1804] では、自己の根源にあるものは何であろうか。デカルトはすべてのものを疑い、そのあげくに、疑うことのできない「考える自己」を発見した。西田は座禅において自己を忘れ、「真の自己」にたどりついた。そこには、デカルト的な考える自己というものはなく、座禅という直接的具体的な経験の事実だけがあった。似たような経験は他にもある。たとえば美しい音楽に心を傾けているときである。そこには、ただ美しい音楽だけがあり、音楽を聞いている自分と聞かれている音楽の区別はない。音が出ているとか、音が何であるかとかの判断もない。あるのは事実そのままの経験だけである(『善の研究』)。
[1805] しかし、西田は、経験したことにとどまってはいない。デカルト的な考える自己を否定してもいない。むしろ深く考えぬいた。座禅の経験をもとに、自己とは何か、真実とは何かについて考えた。
[1806] そこで、かれは何を知ったのであろうか。それまでの哲学では、心(主観・知るわれ・見るもの)と、対象である物(客観・知られるもの・見られるもの)とがあり、どちらかが根本であると考えられていた。すなわち、心が先にあって物が知られるとか、物が先であり、心が後であると考えられていた。それにたいして、西田は、心と物が区別される以前の、両者が一つになっている、そのままの事実に注目した。そこには知るわれと知られるものの対立はない。見る主観もなければ見られる客観もない。知情意の分離もない。ただ、経験そのままの事実だけがある。西田はこれを「純粋経験」とよんだ。
[1807] このような純粋経験には、形も声もない。それは「無」である。だが、西田においては、心は、「形なきものの形」をみ、「声なきものの声」を求めてやまないのである。
[1808] こうした純粋経験は、「あるがまま」「はからいのない心」「さとり」などの伝統的なものにあい通じている。西田はこうしたものを座禅においてみずから追体験し、それを思索し、みずからの哲学を創造したのである。
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[1901] 自分の過ちをかえりみる「さんげ」(懺悔)は、古来、仏道の修行として行われていた。悪人の救いをといた親鸞の思想には、深いさんげの心がある。田辺元は、みずからのさんげの体験をもとにし、親鸞の『教行信証』をよりどころにして、さんげの道を明らかにした(『懺悔道としての哲学』)。
[1902] さんげとは、田辺によれば、自分の過ちや悪を悔いることである。過ちや悪は、心の根にある「根源悪」に由来している。それは、ひとが自分の限界を忘れ、自分の立場をこえて自己を主張することから起こる。ひとは、悪の根を自分の力でたち切ることはできない。しかし、過ちや悪をさんげすることはできるという。
[1903] たしかに、わたしたちは自分をかえりみて、自分が悪かった、二度と過ちをくりかえないようにしようと思う。だが、自分の過ちや悪を表にだしたくはない。表にでれば、そのときは仕方がなかったと言いわけをする。こんなわけであるから、心の底からさんげすることは難しい。
[1904] 田辺においては、まずさんげの道を求めることが出発点である。そうであれば、「絶対無」の助けが得られ、ひとは深いさんげに導かれる。絶対無とは、田辺においては世界の根源にあり、ひとを守っているものである。それは、さんげとの対応においては根源的な「救いの力」と理解してよい。
[1905] さりとて、助けが得られても、さんげすることは楽ではない。というのは、さんげには、自分の過ちについての悔いや責めの苦しみが伴うからである。だがひとは何であれ、よいものを得るには、求める努力をしなければならない。そこには、苦労や苦痛もある。さんげにおいては、自分がうちくだかれる苦痛がある。けれども、さんげし、悪を悔い改めるひとに、救いの力はみずからを愛としてまわし向け、ひとは、その愛に浴して深い喜びを体験し、生まれ変わる。こうして、さんげに伴う苦痛は喜びと感謝に転じる。
[1906] ところで、さんげを行うのは理性の働きである。理性は人間最高の能力であると考えられている。だがまた、田辺においては、さんげは理性そのものの批判でもあり、深いさんげにおいては、理性の能力もくだかれる。けれども、さんげが徹底すれば、いったんくだかれた理性は、根源的な救いの力に支えられてよみがえり、新しい理性を再建する。このようにさんげは、存在全体をよみがえらせるのである。
[1907] しかしながら、ひとは、根源悪を取り除くことはできない。だから、ひとたびよみがえっても、また再び、迷いの道にはいる。では、迷わないためには、どうしたらよいのか。そのため田辺は、普段にくりかえし、さんげすることを求める。普段のさんげの反復に対応し、その都度よみがえり、喜びが約束されるという。
[1908] このような喜びは、そのひと一人の喜びにとどまらない。それは自分をよみがえらせてくれた救いの力への感謝と協力の姿勢に転じ、自分の力を他者の救いにふり向ける実践の道に進む。この実践において、さらに自分の救いもたしかになるのである。
[1909] このことを田辺は、兄と弟との間柄にみる。兄は先に生まれ、先に進んでいる。救いの力は、兄を後から歩いてくる弟にまわし向け、みずからの知恵をさずけて弟を導かせる。父が兄を信じて弟に協力させるのも同じことである。そこで兄は弟に教える。つぎに、弟は教えられたことの恩にこたえて、後に生まれた弟や妹に教える。だが、教えることは教えられることでもある。こうして兄弟が教え、教えられ、助け合う。ここには先に進んでいる兄が弟を導くという秩序があり、同時に、兄弟がともに父母の子供として、教えて且つ教えられるという平等の関係がある。このことを田辺は「兄弟的教化の原理」といい、この原理をわたしたちの努力とさんげの中心にすえている。
[1910] このように「さんげの道」は、一人一人がさんげを行い、それを通じて兄と弟の絆にみられるような「兄弟性社会」の建設に進むという実践的な性格をもっている。
[1911] もう一つ、さんげの道に「内観法」がある。これは、吉本伊信が親鸞の思想をもとに創始したものであり、元来は修行や人格改善の道であったが、今日では心理療法としても用いられている(『内観法−四十年の歩み』)。吉本のいう内観とは、「心の内を観る」こと、つまり、自己をみつめ直すことであり、田辺のさんげに似ている。ただ内観法では、自己を見つめる見つめ方として、つぎのように具体的なテーマが設けられている。
[1912] カウンセラーは、内観を行うひとに、まず母にたいして自分が、(1)「お世話になったこと」、(2)「お返ししたこと」、(3)「ご迷惑かけたこと」を年代順に思いだし、調べることを求める。母のつぎに父,祖父母,兄弟,先生などにたいして同じテーマで調べる。また別に、(4)自分の「嘘と盗み」を調べるテーマが与えられることもある。1〜2時間ごとに、カウンセラーに思いだしたことの一部を報告する。期間は一週間,一日に15時間である。普通、内観の施設で行うが、自宅でメモ形式でもできる。
[1913] このような内観の方法には、どのような特色があるのだろうか。日常、わたしたちは自分を中心に考えている。内観では、自分の対極にある他のひとの側から自分を考える。だからはじめは、なかなか内観になじめない。内観の思考への切りかえができるのは、おおよそ3日目ぐらいからである。こうしたプロセスで、少しずつ他のひとの立場を発見し、相手からみられた自分の姿がみえてくるのである。それにともなって、相手への共感も深くなる。
[1914] たとえば、病気したとき、母が寝ないで看病してくれたことなどを思いだすが,そのときの母の心にまで入りこみ、母の苦労や愛に思いいたる。母にたいして年代順に内観するうちに、母の愛をくりかえし追体験し、このプロセスで心が温まり、身体までも温かくなる。
[1915] このように相手の身になって自分をみつめるあり方と、そこから生じる共感の心は、迷惑と嘘と盗みのテーマに取りくむ道筋で、いっそう深くなる。他のひとへの迷惑,誤り、嘘、盗みなどが浮き彫りにされ、身にせまる。そこで、自分が本当に悪かった,心からすまないと思う。すなわち、深いさんげの中に吸いこまれる。このときに心の転機がおとずれる。自分は、多くの人たちに守られ、助けられていることがわかり、生かされているという実感を強くする。
[1916] このときなぜ、心の転機がおとずれるのか。吉本伊信は、内観を「心の大掃除」とよんでいる。自分を見直す内観のプロセスで,多分、生命の洗濯が行われているのであろう。また、心の中の抑圧、ストレス、しこり、心理的な不安などもとかされるのであろう。心は晴れ晴れとなり,生まれ変わったような体験をし、心は喜びと感謝に充たされる。
[1917] このような内観は、今日、不登校、非行、心理的な悩みのなどの解決に活用されている。また、とくに心理的な悩みをもたないひとも、自分を見つめ直してみるために、内観を行っている。
[2001] これまで見てきたように祖先たちは多くの遺産を残してくれている。一見、古くさいと思われるものも、その時代を生きた人たちが生んだ知恵であり、吟味してみれば捨てがたい魅力がある。
[2002] 今日、科学技術が発達し、物は豊かに出まわり、暮らしは便利になった。次々に新しいものが現れ、古いものは捨てられる。情報化社会といわれ、情報や知識の量はふえ、視野はひろくなった。コンピュ−ターが普及し、やがてマルチ・メデイアの時代がやってくるという。一見、華やかであるが、先行き不安で、危機意識もある。
[2003] こういう時、先人たちが残してくれた「心の原風景」を掘り起こし、見直してみることは、わたしたちのあり方の反省を促し、導きにもなってくれると思うのである。
本号第二論文は、安彦の「ランドスケープ」論と−−後者のテーマである「風景」と共に「歴史」として近代の現実意識の二大特質の一つであるものを解明したものとして−−組になるものでもある。第一論文は、それだけでは不十分ということでpreprintのまましばらく放置していたが、この第二論文が補完となるので、ここで併せて正式公開する。また、大学院一回生の本田さんに、高等学校「倫理」の学習範囲内で日本倫理思想史の流れを少しくエッセイ的に纏めて頂いた。(安彦記)
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1997/03/01 作成