第4号

1997 年 06 月 30 日


目次

  1. 安彦一恵 「道徳の理由」傍論−−批評:大庭・永井論争−−

  2. 永井均 コメント

  3. 麻生徹 ナチズムと芸術

  4. 執筆要綱(暫定第二版)

  5. 編集後記


   


「道徳の理由」傍論−−批評:大庭・永井論争−−


安彦一恵

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はじめに

[001] 「なぜ道徳的であるべきか」という、つまり「道徳の理由」を問う問題は、倫理学の最も基本的な問題であり、(西洋においては)古代ギリシア以来、実に多くの回答が試みられている。しかしながら我々の見るところでは、未だ最終的な答えは示されていない。極論するなら、回答の試みがほとんど無限に繰り返されているだけである。「「なぜ道徳的であるべきか」という問いはどのように論じられるべきか」(安彦/大庭/溝口編『道徳の理由』昭和堂,1992。以下「前稿」と略記)において我々は、この事態に即して、そうした<悪無限>を回避するために、回答の仕方に関する限定を提起し、併せて、D.ゴーシエの議論(「道徳と自己利害−−「なぜ道徳的であるべきか」に対するD.ゴーシエの回答」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』第41号,1991 参照)を踏まえて、その限定内で(我々としては唯一可能と考える方向で)一定の回答を提示した。しかし、なお論ずべきことが残っている。

[002] 1993年7月の「第21回全国若手哲学研究者ゼミナール」で上記『道徳の理由』所収の大庭健「なぜ道徳を気にしなければいけないか」(以下、「大庭1」と略記)をめぐって「シンポジウム・道徳の根拠」が行われ、それを受けて『哲学の探求』1993年号に大庭健、永井均がそれぞれ「道徳の求めに従うわけ(理由)」(以下、「大庭2」と略記)「大庭健「なぜ道徳を気にしなければいけないか」の批判」(以下、「永井2」と略記)を掲載している。本稿筆者は「シンポジウム」に参加しておらず、その場での議論は未聞であるので、以下この両稿、および当の「大庭1」、それに、両稿において言及はないが、おそらく前提となっていたであろう『道徳の理由』掲載の永井均「よく生きることヤテ、そりゃナンボのもんや?」(以下、「永井1」と略記)を加えたものから分かる範囲で大庭・永井論争を了解し、(我々の前稿との関連で言えば)「傍論」として、我々としてそれに介入するというかたちで論を進めていってみたい。*

* 本稿は、大庭、永井のこれら四稿を読んでおくことを理解の前提とする。

一 大庭・永井論争

[101] 形式的に言うなら、この論争は、「哲学的にみるなら、大庭の議論は(「道徳の理由[根拠]という)問いがまさに始まるべきところで終っている」という(趣旨の)言(cf.永井2,21)でもって表面的には永井の勝ちで終っている。大庭が、「「哲学性」への固執にも、同様に冷徹なメスをいれていただきたい。」(大庭2,13)というかたちで、永井の<「哲学」への定位>そのものを問題としつつも、そうした<「哲学」への定位>を問う場の設定に失敗しているからである。これは、大庭の論稿(「大庭1」)を検討するというテーマ上なかば不可避のものであったのではあるが、大庭が十分予想された永井の批判戦略、永井の基本志向である道徳主義批判の立場から、「道徳の理由」提示の「哲学」的議論のうちに道徳主義的要素(「教説」)を抉り出してそれを批判するという戦略を無視して、あえて「哲学」と「教説」とを一体化させようとしたからでもある。

[102] 両論稿における大庭の力点は、「道徳の理由」を考えるというよりは、むしろ大庭流「自己」論の展開にある。これはもちろん「道徳の理由」を提示するためになされているのであるが、すでにある大庭固有の「自己」論が「道徳の理由」論にいわば外挿されているという印象が拭えない。そのこともあって「自己」論は、「自己」論そのものとしては鋭い分析であることを認めるとしても、我々も(土屋[上記『道徳の理由』における「大庭1」へのコメンテーター]、永井と同様)「道徳の理由」の提示にはなっていないと考える。我々からすればそれは簡単であって、「自己であること」は「呼応」を前提とするとしても、それは他人の「呼応」(のみ)であって構わないからである。呼応可能性(responsibility)に「自己であること」が依存し、そのresponsibility(呼応可能性=責任)として、道徳の前提の上ではじめて「自己」が可能であるとしても、それは他人の道徳であるからである。そこから、当人(「無道徳主義者」)の道徳を導くことはできない。(また、「自己」成立の要件であるその他人の「呼応」も、大庭の議論からして、必ずしも「道徳的」でなくても構わない。私を無視したり機械的に扱うのではない対応の仕方であれば、私のうちで十分「自己」を形成しうる。例えば、泣いている赤ん坊の私に対して母親が「蹴飛ばす」という対応をするときでも「自己」を形成しうる。もちろん、これを根源的次元で「道徳的」と呼ぶことは可能であろうが、それは「道徳の理由」を問う場合通常了解されている「道徳」の枠を越えているであろう。)

[103] であるから大庭自身、結局当人が道徳的である「理由」は存在しないことを認め、その「理由」の不在をもいいことにして「無道徳的」である者を「他人の真面目さに依存しながら、しかし、それを足蹴にして利用しつくす」(大庭1,28)者として告発するのであり、そして、そうした大庭の「教説」を攻撃して永井は「自己が現に自己であるのは他者のおかげなのだから、他者への恩返しを忘れてはいけない、という程度のものだとすれば、なぜおかげをこうむっている者は恩返しをしなければいけないのか、と反問するだけで話は終わりである。」(永井2,20)と語るのである。我々は、大庭はここでむしろ単純に、「恩返しをしなければいけない。」「理由はないが、そうしなければならない。」と語ってみてはどうだろうか、と思う。「大庭2」の結びの部分は、そう語っているようにも見える。

[104] そう語ることは、単純に道徳的「教説」を展開することになるのであるが、そうした単純な道徳主義に対して永井はどう反応するであろうか。厳密に言うなら、永井が道徳主義として批判しているのは、道徳主義そのものではなく、「哲学」を偽装した道徳主義であるようにもみえるからである。永井の批判は、その意味でイデオロギー批判でもあるようにみえるのである。実際「永井2」23では、大庭は、道徳を説くものとしてではなく、道徳を「理由」をもって説く「見せかけの哲学」として批判されている。しかし永井は他方、道徳主義そのものを批判しているようにもみえる。これは「永井2」では表面に出てこないが、「永井1」では「よく生きるとは、元来、知恵と才覚と勇気によって、価値ある事業を成し遂げることであり、よき人、徳ある人とは、それを為しうる有能な人士を意味した。価値的諸概念は、道徳的・倫理的なそれに局限されてはいなかったのだ。ソクラテスとは、何よりもまず、価値一般を、したがってまた人生の意義を、道徳的なそれへと一元化しようとした人物である。」(80f.)という言い方で示されている。全体として、「永井1」で言うなら(永井1,80f.参照)、道徳主義的言説について、<「概念変造」である>という批判と、<「倒錯的」である>という批判との、本来区別すべき両様の批判が混在しているように思われる。しかし「論争」においては、この点への指摘が欠けている。我々は、両批判の区別から「哲学」のテーマ化も可能になると考える。

[105] 大庭が永井の言に(あえて)逆らって単純に「恩返しをしなければいけない。」と語らないのは、氏が意識しているかどうかは分からないが、一種の社会論に定位しているからでもある。「では、彼ら、永井が主張するような「無道徳的に呼応」する者たちの社会はありうるか?ありうるとするならば、その社会とは、互いに関係しあうが道徳の規範性をなんら認めない、という者たちの関係のアンサンブルでしかない。とすれば、そもそも万人が道徳を気にしないのだから、そこで生起するのは、自己の価値実現にとって実害がなければ、悪びれずに、殺し・奪い・犯すという関係である。」(大庭2,11)と反論するときは、明らかにそうである。この社会論的次元について永井も「永井2」,21f.で論じているように見えるのであるが、それは極めて未展開である。そして未展開のまま、道徳主義批判のメインの議論へと回収されてしまっている。

二 論争の社会論的含意

[201] 大庭の「自己」論は、この社会論的次元においてこそ生産的である。「自己」論として、社会を形成しうるかぎりでの「最小限道徳」が示されているからである。永井は「以上の批判はすべて、大庭風「人−間」の形而上学をかりに認めた上で」(永井2,20)として「人−間」論=社会論的検討は加えていないのであるが、社会論としては一つの検討に値する論が提示されていると言っていいであろう。

[202] 但し、社会論としては妥当である、つまり「人に対して呼応すべきである」という規範(道徳)が社会形成の前提となるという主張は認めるとしても、それは「道徳の理由」の提示(そのもの)としては不十分である。「理由」が提示されているとしても、それは、人々が−−共通に無道徳的であるのではなく−−共通に道徳的であるべきなのはなぜか、という問いに対してでしかないからである。すでにベイヤーに対して、提示される「理由」では"Why should we(people) be moral?"に答えてはいても、"Why should I be moral?"には答ええていないという批判がなされているが、大庭の回答にも同様の批判が可能である。道徳論としてはこう言えるのだが、しかしこれに対して、なぜ社会論に定位してはいけないか(=なぜ"Why should we be moral?"に答えるだけではいけないか)と反論することが可能なのである。そして、社会論に定位する限りで大庭の論が妥当であるとするなら、批判は−−勝負であるなら−−当然、社会論に定位することそのものの妥当性をめぐるものとならなければならないが、大庭・永井論争においては、それが未展開なのである。そこには、社会論的定位そのものを道徳主義として処理しようという永井のスタンスと、そうしたスタンスを「....自分には外部が見えていると自惚れつつ現状を放任・追認するだけに終わりうる」(大庭2,13)と(のみ)批判する大庭の対応が桎梏となっているのかもしれない。

[203] しかし、「永井2」にも社会論が提示されているとみれなくはない。「すべての成員が実は合理的な無道徳主義者であり、法と道徳を(尊重する振りをしつつ)ウマク利用する社会は、十分成立可能であるように思われる(そして、道徳を気にしているという自己意識の下で生きている人を含めて、実はこの社会がそういう社会なのではないか、という疑いを私は今も払拭することができないのだが...)。」と述べられている箇所(21)である。これは、大庭が「かかる社会[無道徳主義者の社会]が可能なのは、アナーキストのユートピアがそうであったように、その成員がみな「己の欲するところを行えども道の矩を超えず」に類した聖人であるとき、そのときに限る。」と言う(大庭2,11)ときの「社会」ではない。しかし、そうでなくて何であるのかということは実は不明である。

[204] 不明であるのは、「すべての成員が....ウマク利用する」ということの意味が不定であるからである。例えばキセルで言うと−−その場合、社会が存続するとは鉄道が存続することを意味する−−、無道徳主義者であれば露見しないときは得なので必ずキセルする。しかし全員がそうするなら鉄道会社はそのままでは倒産してしまう。したがって、運賃の値上げが必至となる。そして(キセルできない区間について)高い運賃を払うことは損である。では無道徳主義者はどうするか。「道徳を守って今度はお互いにキセルをしないでおこう」という趣旨で「キセルは悪だ」というキャンペーンをはることにでもなるであろう。しかし、キャンペーンが効を奏してキセルがなくなって経営が安定する*と、再びチャンスを見てキセルを始めることになる。−−実際は、こういう経過を辿ることはないが、無道徳主義者は頭の中でそういうシュミレーションをして、「キセルは悪だ」と語って他人がなるべくキセルをしないように仕向け、自分の方は適度にキセルをすることになる。......こういうことなのだろうか。

* これは道徳の効用を認めていることを意味するが、「永井1」83ではそれは、「ソクラテスのような主張は事実に反しており、それゆえ誤謬であるのだが、そのような言説を(真理として)世の中に流布させておくことは、結果として多数者の幸福には貢献することにはなる」という言い方で表現されている。

[205] しかしながら、社会論としてはこのイメージは成立しない。社会論は、社会がどのような人々からなることによって(よりよく)成立するかを考えるのであって、(抽象的に)人は皆等しく同じ在り方を採るということを前提とするからである。さて、この場合、抜け駆け的に自分だけがキセルをするということは全員がそうするわけであるから、結局、運賃の値上げを結果する。結局、キセルをしてもしなくても支払額は同一である、あるいはキセル摘発コストの運賃への転嫁を考えるなら支払額が増えることになる、したがってキセルにうまみはなくなる。合理的であるならキセルはしなくなる。ということは、キセルをしないこと=道徳的であることもそう不利なことではないということで、無道徳主義者は、「尊重」はしないが結果として道徳を守っていくことになる。......ということなのか。

[206] そうであるなら、そうした社会(状態)は、人々が(「尊重」して)道徳を守っている社会と外面的には全く同一ということになる。これでもなお異なるというのなら、例えば心の状態(の相違)を重くみているということになる。しかし、それは永井の真意ではないであろう。結局、永井は社会論への定位そのものを拒否しているのである。それは「いずれにせよ、普遍妥当性の原理のごとき道徳原理を前提にしない限り、小さな違反が社会をアノミー化することなどありえない」(永井2,21)という言い方に表われている。永井は結局、この現実の社会=多くの人が内心はどうであれ大体においては道徳を守っている社会を前提として、自分として利益を逃してまでキセルをしないでおくというのは合理的でない、その意味でキセルをしてはならないというのは非合理なことであって、そこに「理由」などはない、と語っているのであろう。そこのところをなお、キセルをしないでおくことの「理由」を求めるのは道徳主義的欺瞞以外の何物でもないのであろう。

[207] 因みに、このキセルの例で言うなら我々の「道徳の理由」の提示は、或る意味で永井と同様に現実の社会を与件として、それでも(「尊重」しなければならない理由はないが)キセルをしないでおくことに「理由」があるというものである。その「理由」とは簡単に言えば−−その証明がむしろ論証のポイントであるのだが−−「その方が得になる」ということである。どうして得になるのかというと、キセルは露見して高額の罰金を取られる可能性もあるからである。但し、それだけでは、「道徳性」と、無賃乗車の得と罰金支払の損とを考え合わせて結局キセルをしないでおくという「利口」とが同じになるので、そういう「利口」と「道徳性」とを区別する必要がある。我々はそれを、(知識=検札情報の)「不確実性」という観点を導入して、あくまで自分で損得計算をする「利口」と、不確実性のもとでは計算誤りの危険が伴うので自分で利益計算することをやめて道徳の命令を方針として採用する「道徳性」というかたちで−−併せて、(神ならぬ人間の)「利口」とは結局「利口」であって、どこかで計算違いから利己的に振舞うことを指摘しつつ−−展開した(前稿,60ff.)。

[208] 大庭・永井論争においては結局、社会論的定位そのものがポイントとなっている。これが論じられていないので、論争は基本的にはすれちがいに終っていると言わざるをえない。(大庭が社会論という土俵の上で勝負を挑んでいるのに対して、永井はその勝負を受けて例えば相手を押出すというのではなく、その土俵に上がることそのものを問題としているとでも言えよう。ただし、印象としては勝負が行なわれているように見えるが、勝負として永井がやっているのは、いわば土俵を壊してしまうという(ウルトラ)技の行使である。)しかし、こうした社会論的定位そのものの論への展開の芽は存在している。永井は社会論的定位を拒否する際、「普遍妥当性の原理のごとき道徳原理」という言い方で、社会論への定位そのものが道徳的であると語っている。この社会論への定位そのものが道徳主義的であるという含意に、おそらく、大庭はいらだちを感じているのであろうが、この社会論的定位(そのもの)が道徳的であるか否かの議論が始められた場合どうなるであろうか。

三 道徳主義批判の含意

[301] 上の問題に対して、永井は簡単に、自分が(所与の現実のなかで)どう生きていくかだけが問題であるというスタンスに対して、自分のことだけでなく人々みんなの生き方を問うという、つまり社会論のスタンスは、それだけで道徳的である、と答えることになるわけであるが、しかしながらその道徳性は、それだけでは単純に道徳的である。永井は、この単純な道徳主義に対しても批判的であるのか。社会論的定位をめぐる議論は、この線では、単純な道徳主義をめぐる議論として展開されていくことになるであろう。

[302] さきに見たように永井は確かに、単純な道徳主義に対しても批判的である。「永井1」81では端的に「真の幸福は道徳的な生き方にあるという倒錯的な人生観」とも語られている。「倒錯的」というのは言うまでもなく否定的評価語であって、だから「道徳的な生き方」の教説が批判されていることになるのだが、永井は同時に、これに−−<そうした人生観が自分は好きではない>というのではなく−−ギリシア語の(ソクラテス以前的な、「本来の意味」での)「エウ・ゼーン」に反した生き方だ(永井1,80)、簡単に言って<人間の自然に反する><不自然だ>という理由づけを行う。

[303] このように道徳主義批判に理由が挙げられているのであるなら、「永井2」23の論述が解明を要することになる。そこでは、「『禁じ、強制できる理由を示す』ことと、『勧め、説得し、嘆願する』ことは・・・二項対立であるとは限らない」という大庭の言に、「はっきりとした二項対立が存在しており、少なくとも私は、実は後者を意図している(のにそれをごまかして前者であるように見せかけたり....する)ような見せかけの哲学を、最も忌まわしいものと感じる」と述べられている。揚足を取って言うなら、永井は、道徳の主張に理由を挙げるときは「みせかけの哲学」であり、理由を挙げても道徳を批判するときはそうでない、としていることになる。

[304] しかし、永井が<不自然だ>と言うとき、それは(それも)言ってみれば「説得」のレトリックなのであろう。そして、それに対して「道徳の理由」の提示の方は「哲学」を装っている、ということなのだろう。しかし、そうであるとすれば、そうした<哲学の装い>をも寛大に「説得」のレトリックとして認めてやってもいいのではなかろうか。そうすると、共にレトリックを駆使した道徳主義と反-道徳主義(厳密に言えば、反道徳・主義ではなく、反・道徳主義・主義である)とがぶつかるわけであるが、そこで、互いにレトリック性を攻撃し合うことではなく、本体の<主義>そのものの攻撃の応酬が期待できることになる。

[305] 永井の道徳主義批判は、ポジティヴな主張として「賢慮(prudence)」主義とでも言えるものを背景にもつ。論稿「規範の基礎」(これは、第一公表稿が日本倫理学会編『規範の基礎』慶応通信,1990 に、第二公表稿が永井『<魂>に対する態度』勁草書房,1991 に収められている。以下、引用は後者に基づく)では、「道徳に関する人間性の発達段階として、論理的に....設定できる」として、1.「快楽主義的段階」、2.「自己利益的段階」、3.「道徳主義的段階」に続く第四の「超脱的段階」として「賢慮」という在り方が次のように記述されている。「この段階は「人は道徳的であるべきだ」という要求が力をもっている....ことを前提とし、それを認めた上に成り立つ段階である。....それ[賢慮]は相反する[道徳的に行為すべきである、自己利益的に行為すべきである、という]二種の要求に関する一種の均衡状態をつくりだすことになるだろう。」(62ff.) すなわち「賢慮」主義として、道徳の要求と自己利益追求との間でバランスをとって生きるという在り方が主張されているのである。

[306] いま道徳主義的含意を含まないものとして「倫理」という語を使うとして、こうした「賢慮」の立場は人の生き方を説くものとして一つの古典的倫理でもある。(近代の)「道徳」は、そうした「賢慮」を−−それを「処世」と転義しつつ−−反-自己利益に収斂させていったものでもある。さて、そうであるとして、大庭vs.永井は、単純な倫理的主張としては、永井から見れば、この賢慮主義vs.道徳主義であるであろう。このように規範倫理学的に(単)純化された場合、議論はどのように展開していくであろうか。我々はそう見ているのだが、最近の倫理学の展開は、「[倫理的]徳の倫理学」対「規則[つまり規制]の倫理学」を主軸とする(大庭/安彦「倫理学の最近の動向」『理想』652号参照)。永井・賢慮主義vs.大庭・道徳主義は、その一ヴァージョンでもある。その意味で、それは一般性をもった論争である。

[307] 「かかる社会[大庭から見て「無道徳主義者の社会」=賢慮主義者の社会]が可能なのは、アナーキストのユートピアがそうであったように、その成員がみな「己の欲するところを行えども道の矩を越えず」に類した聖人であるとき、そのときに限る」、つまり、賢慮主義では現実の社会が成立しない、可能であるとすればそれは、多くの人々が道徳的であって、そのなかで少数の(永井のような)人々が−−多数者の道徳を当てにして−−「賢慮」的に生きている社会だ(cf.大庭2,11f.)、という批判に対して永井は、大体の者が道徳的に生きているのは現実であって、問いはむしろそれを与件として立てられるべきであるのであって、大庭が認めるように可能なのだから<私として賢慮的に生きる>ということでいいのではなかろうか、と反論するのであるが、しかしこれは、永井によるなら「利己的」ではない。厳密に言うなら「利己的」ともなりうるが、賢慮的であることそのものは決して利己的でない。それは、いわば自然であって、そこから出てくる行為が結果として他人に対して利害阻害的に働くこともあるが、逆に(場合によっては道徳的行為以上に)利害促進的に働くこともある(「永井1」93には「別の利他性」という表現がある)。

[308] 永井は、この自然性を重視し、自然性が高度であるものが(「今日の世界では....道徳主義的世界解釈が神聖にして侵すべからざるものとして君臨して」いて、「そのことを認識するための概念的手段(語彙)すら奪われている」(永井1,93)ために、評価語としてはこれを使わざるをえないが)「道徳的価値が高い」(永井2,24)とさえ語る。したがって、ネガティヴに評価されているのは、その反対=非-自然性である。道徳的行為(利他的行為)そのものは、その意味で批判さるべきものでは少しもない。それが、自然になされたものであるなら、−−その自然性があるかぎりで、その自然性に基づく一定の価値の実現として−−むしろ賞賛さるべきものである。これに対して、(今その人の自然性が利己的であるとして、その利己性の)自然性に反して道徳的行為をすることや、そういう道徳を主張すること(つまり道徳主義)は、批判さるべきものである。

[309] 永井はその際、(理由はないが、とにかく自然を抑圧して道徳的でなければならないと説く)単純な道徳主義−−これも「倒錯」であるとして批判される−−と、道徳の正当化(という道徳主義)−−これは「概念変造」であるとして批判される−−との両方を共に批判する。しかも、両者を連続的に把握することによって一体として批判する。しかしながら、本来この両者は区別すべきではなかろうか。「倒錯」であるという批判は倫理的(道徳的の意味ではなく、例えば上の[306]の意味で)、「概念変造」であるという批判は理論的なものとして純化して了解するなら、両者は明らかに別物とされなければならない。

[310] しかしながら、そのように区別した場合、「倒錯」という批判は、言葉の情動的意味からして批判性は強いのだが、その記述的内容はきわめて少ないのではなかろうか。少なくとも、大庭が「尊厳」を語るときのレヴェルを越えていないのではなかろうか。したがって、このレヴェルでは永井は大庭に勝利しえていないのであって、明らかに押しているという印象は、批判が「概念変造」性の批判−−これは我々からみても卓見であるが−−と連続していて、そこから力を借りてきているのではなかろうか。それを切り離して見た場合、結局「自然性」にすべてを依拠しているのではなかろうか。そうだとするなら、逆の道徳主義擁護の立場からプラトンによって語られる「健康」「調和」の言説とほとんど変らないのではなかろうか。永井はこれについては「魂の健康に上訴するその議論は、しかしその結びつきが結局は経験的なものにすぎないことによって即座に解体する」(永井1,85)とするが、確かに「健康」に比べて「自然」は強いように思われる。だが、その強さは、「自然」の情動的意味が強いところから来ている。そのような情動性に依拠する「自然性」の言説は、あえて乱暴に言うなら、例えばアドルノがハイデガーを批判して指摘した「本来性」の言説とどこが異なるのであろうか。

[311] しかし直ちに言うが、こう批評することは適切でないであろう。おそらく永井は、道徳を直観的にうさんくさいとみなし、その「教説」を「概念変造」としていわば本質把握すると共に、ニーチェ的系譜学として、その歴史を「自然」からの「倒錯」の過程として説明していったのであろう。だが、同様「道徳」を告発したニーチェの場合、その道徳には強いリアリティがあった。それは何よりも自分の内にあったものだし、それゆえ、よく言われるように、その道徳批判は道徳的でもあったのである。永井においてもそうなのか。

[312] しかし「哲学」としては、このような問いはくだらぬものであろう。我々としては、「倒錯」だという批判、つまり単純な道徳主義批判をめぐる議論は、なお未展開であることを確認しておいて、(大庭批判においては)永井にとっても本題である「哲学」の検討に移りたい。

四 「哲学」的含意(1)−−道徳の正当化について、あるいはヴィトゲンシュタインをめぐって−−

[401] 対大庭論争(そのもの)においては永井はもっはら批判的である。「道徳の理由」問題についてポジティヴに語られているのは前記「規範の基礎」等『<魂>に対する態度』第I部に収められた諸論稿においてである。以下、本書についてコメントしていきたい(以下、ページ数のみのものはこの書からの引用である)。しかしこれは、<哲学になっていない>という大庭批判に大きく関わるところである。大庭批判が最終的勝利になりうるためにはこの自らのポジティヴな議論の方が<哲学になっている>のでなければならないからである。(「なぜ道徳的であるべきか」という問いを問題としている我々から見ても、この諸論稿は現在のところ最も重要な検討対象である。したがって、この四において、我々の「傍論」は「再論」(準備)というかたちへと展開することにもなる。)

[402] 検討すべきポイントは、テーゼのかたちで挙げるなら 1.「道徳的であるべき理由などは存在しない。しかし、理由が存在しないからといって岩盤(盲目的規範随順行動の水準)に到達しているわけでもない。」(61)、2.「ことあらためて「人は賢慮的であるべきだ」と言えば、そこでは他の選択肢の存在が前提されていることになり、使用される「べき」にはさらに高次の超絶性が要求されることになる。そういう状況を考えることは難しい。われわれはここで根拠なき実技秩序に....到達しているのだ。もはや「なぜ」の問いが立てられる余地はな[い。]」(64) の二つである。

[403] 第二テーゼから見ていく。我々は「前稿」64で、「本稿では議論の単純化のために、....「真の幸福」については基本的に捨象して考えている。しかしリアルにみてみるなら、人には「幸福」に加えて(「道徳性」によって与えられる)「真の幸福」を何程か求めるというところがある。ここに「エゴイズム」と「道徳性」とのバランスを実現した者としていわば<真の「利口」者>というものを(換言すれば「賢者」として)想定することができる。この状態では「なぜそうであるべきか」という問いはいわば不発になると言えるが、しかしそれは、定義的にそうなのであって、ヴィトゲンシュタインの言う<理由の連鎖の終点>に達しているからではない。この<真の利口>をめぐる問題については、永井、前掲書p.63f.の主張との異同を明らかにすることが生産的であろう。」と述べた。この「異同」の確認から始めたい。

[404] 我々からするなら"Why be moral?"という問いが「適切」であるのは、そのように問う当人のうちで道徳がなにか別のもの(典型的には利己)といわば葛藤のうちにあって、(典型的には)<なぜ利己的であってはならないのであって道徳的でなければならないのか>というかたちをとる場合のみである。上に言う「賢者」の状態、つまり永井の言う「賢慮」の状態−−「者」と表記したが、これはあるいはミスリーディングであったかもしれない。平たく言えばそれは、(「前稿」では捨象して議論を進めていた)「良心」を前提して、「良心の疚さ」がなくなるまで(しかしその範囲内で)利己的であることを控えるという状態であるからである。だから、それは、永井は端的に「通常誰もがそうする」状態と言うが、レヴェルとしては「通常」のものである。但し、その実現はなかなかむずかしく、その意味で実現できれば(なお)賢者と言えるかもしれぬ−−は、この二つの要求がバランス=均衡にある状態である。このバランスはもちろん個々の場合(そのもの)で成立するのではなく−−個々の場合においては、道徳的に行為するか、利己的に行為するかいずれかでしかありえない−−一定の行為の集合に関する<これくらい道徳的、これくらい利己的である>というその割合について、その当人のうちでその割合について<それでいい>と感じられている状態である。<それでいい>と感じられているのであるから、しかも、一方の<利己的であるべし>、他方の<道徳的であるべし>という要求を考慮したうえでの自己感情であるので、そこにはもはや「定義的」に葛藤が不在であり、したがって同様「定義的」に「なぜ賢慮的であるべきか」という問いが不成立なのである。

[405] 永井の「賢慮」は、しかし我々のとは別であろう。「新しい自己利益」(64)と表現されているが、ここを重く見て解釈するならそれは、普通に言う「利己」「利他」(の内容)が−−両者間のバランスを含みつつ−−ともに「利己」となるような、つまり自分を利する内容と、他人を利する内容とが無差別に共に「新しい利己利益」と感じられるような状態のことであるかもしれない。これは、「己の欲するところを行えども道の矩を越えず」という状態とは異なる。後者においては、その「己の欲するところ」の内容がすべて(利他を命ずる)「道徳」(「道」)の要求する内容であるからである。しかしながら我々からみるなら、そういうものとしての「賢慮」についても、「なぜ賢慮的であるべきか」という問いは、この場合「新しい自己利益」というところから、同様「定義的」に不発であると言える。

[406] だから、永井が言うようにこの問いはもはや−−もちろん文として発話することはできるが、それは「不適切」である−−(「適切」には)「言挙げされない」(64)のである。しかし、我々と異なって永井は、それを「われわれはここで根拠なき実技秩序....に到達している」(64)とヴィトゲンシュタイン的に記述する。相違点は、このヴィトゲンシュタインをめぐるものである。

[407] 次の三つの問いを(我々も)設定して議論を進めていく。 a) "why be moral?" b) "why be grammatical?" c) "why be prudential?"  ヴィトゲンシュタインが言う「岩盤」−−そこにおいて「規則」に従うことが「盲目的」であり、彼によればその規則を「なぜ」と問うことが(理性に反するものとして)「狂気」であり、その実践が「根拠なき実技」(永井)であるところの「岩盤」−−の概念を使うなら、永井によればb)とc)は「岩盤」に達している。これに対してa)は−−ヴィトゲンシュタイン主義者の中にはa)もそうであると語る者(例えばSt.Toulminがそうである)もいるが−−そうではない。

[408] しかしながらまず、どういう意味で「根拠なき実技」であるのか。ヴィトゲンシュタインは「理由の連鎖の終点」という言い方、つまり「根拠」の探求が終るところ=最終の根拠という言い方をするが、それはミスリーディングである。この言い方では、「岩盤」そのものが(一般に)論理的なものであるかのような印象を与えるからである。しかし、永井も引いている(57)「終局点は根拠なき前提ではなく、根拠なき行動様式なのである」(『確実性』101節)や、これは「《究極的規範原理》の正当化について」(日本倫理学会編『現代倫理学と分析哲学』理想社,1983)」でも挙げたものだが、「証拠を基礎づけ、正当化する営みはどこかで終る。−−しかし、ある命題が端的に真として直観されることがその終点なのではない。すなわち言語ゲームの根底になっているのはある種の視覚ではなく、われわれの営む行為こそそれなのである。」(『確実性』204節)「わたくしが根拠づけの委細をつくしたのであれば、わたくしは確固たる基盤に達しているのであり、わたくしの鋤はそれかえってしまう。そのときわたくしは『自分はまさにこのように行動するのだ』と言いたくなる。」(『哲学探求』第一部217節)という件を解釈するなら、(ヴィトゲンシュタインにおいても)「岩盤」がそのものとして<論理的なもの>であるのではないことが分かる。

[409] 確かに「文法的であることは」は、<論理的>岩盤と言っても構わないであろう。しかし厳密に言うなら、<論理的>であるのは、「なぜ....か」という「....」の正当化を問うゲームにおける<正当化を行うということ(そのもの)>のような、それについて(否定的である場合)は「なぜ」という問いが「なぜ(=いかなる根拠をもって)正当化を行うのか」というかたちで自己矛盾を含むようなものだけであろう。もちろん、この「正当化ゲーム」の外部に出ることは可能である。しかし、その外部から、この「ゲーム」に対して「なぜ....か」と問うことはできない。その問いは「正当化ゲーム」内部の問いであるからである。これに対して「文法的に語る」というゲームの外部に出て、例えば自動筆記法を説くシュルレアリストのように「なぜ文法的であるべきか」と問うことは−−その発話自身は「文法的」であるが*−−十分可能である(アーペルならこれを拒否するかもしれぬが、そのアーペルを批判してH.アルバートがその可能性を言っている)。ここのところを、そもそも(相手に対して)語るということは間主観的な営みであって、前提として相手に分かるように語ることが必要であり、その意味で「文法的であること」は<論理的>岩盤だと言うなら、アーペル達がそのレヴェルで導出した「相手を自分と同じ者として承認すること」という道徳規範をも<論理的>岩盤として−−永井は19では「認めない」と言っているのだが−−認めなければならないであろう。

* この点で、「なぜ文法的であるべきか」という問いは、次の「相手を認めること」や「真実を語ること」を問う問いとは異なっている。例えば「なぜ語るべきなのか」と同様、問題にしている事柄を自ら遂行せずには発話できない問いである。その意味では(アーペルの言うように)「遂行的自己矛盾」的であると言っても構わない。しかしながら、いわば心中でそう問うこと自身は十分整合的である。これに対して「なぜ正当化すべきなのか」はおよそ整合的でない。「なぜ」という問い自身が「正当化」を求めるものであるからである。

[410] このb)に比べてc)は、そのようなコミュニケーション(成立)の前提条件にも届いていないという意味で、到底<論理的(岩盤上にある)>とは言えない。では、それはなぜ「岩盤」である(とされる)のか。それは、−−我々からすれば−−そこにおいてはそれ自身を問ういわば<心理的>レアリティが存在しないからである。ヴィトゲンシュタインの言う「自分はまさにこのように行動するのだ」ということは、そこには、そう行動することに関する<心理的>レアリティの揺らぎが少しも存在しない−−したがって「なぜそう行動するのか」と問うことに<心理的>レアリティが存在しない−−ことを意味している。ヴィトゲンシュタインの言う「岩盤」は<心理的>なものなのである。「岩盤」は「理性」の「岩盤」であって、だからその外部は「狂気」(理性を越えていること)だと言うなら、その「理性」はいわば(<心理的>リアリティに依拠する)「実践的理性」なのである。そして、(<心理的>リアリティに拘束されない)「理論的理性」から見るなら−−唯一、(例えば「矛盾律を守ること」というような)理論的ゲーム構成的「岩盤」を別として−−「岩盤」はもはや「岩盤」ではないのである。*

* 但しこれは、<外部的>にみた場合の言い方である。<内部的>には、(「岩盤」と言われる)或る事柄は、「自分がまさにこう行動するところ」であり、併せて、さらにその根拠が求められるときは、「理由の連鎖の終点」として「理性」の「岩盤」となる、と説明されることになる。そして、この<内部>においては、「理性」の「実践的」「理論的」の区別は存在しない。

[411] 永井は、ここでハーバマスの「妥当要求Geltungsanspruch」と「威力要求Machtanspruch」の区別に依拠して、<そうあるべきだ>という要求が「妥当要求」を伴う場合と、もっぱら「威力要求」を伴うだけである場合とを区別して、後者に対応するのが「岩盤」であると語るかもしれない(cf.42)。しかしながら、両者の区別は実は論理的区別ではない。R.M.ヘア的に言うなら、(指図的)発話として前者は「道徳判断」、後者は「命令」であるが、発話が「道徳判断」であるか「命令」であるかは発話の形式から(文型として論理的に)区別できるものではなく、話者が自らの発話に理由を挙げる用意があるか否かという、話者の心理の違いによって区別できるものである。平たく言って、「岩盤」であるか否かは、当人(達)が当の事柄を自明と見ているか否かによって決まるのである。そして、この自明視の変更あるいはエポケーによって、岩盤であったものはそうでなくなり、換言するなら、その岩盤の上に営まれていたゲームの外部に立つことができるのである。

[412] ということは逆に、およそ何であっても、それに対する自明性の心理的リアリティに揺らぎがないときは「岩盤」であると言いうる。「永井1」,95で、「....によれば、アリストテレスには「人は自分が好むなら自分の母親を殺してもよいなどと言う人々に対しては議論をしても始まらない。むしろ殴りつけてやるべきだ。」という発言があるとのことであり、....。」と語られているが、こうした「自分の母親を殺してはならない」ということも「岩盤」でありうるのである。因みにこれは「(母親の)殺人の禁止」であるから「岩盤」であるのではない。我々が(少しだけだが)調べたところでは(『徳倫理学の現代的意義』慶応通信,1994,163における安彦の発言参照)、アリストテレスの発言そのものは「すべての問題やすべての立論を吟味すべきではない....。神々をうやまい、両親を愛すべきか、それともそうでなくてよいか当惑するひとたちは懲罰を必要とする....」(村治能就訳)であって、この「両親を愛すること」「神々をうやまうこと」も「岩盤」でありうる。論稿『原因と結果:直観的把握』("Ursache und Wirkung:Intuitives Erfassen",Philosophia Vol.6,Nos.3-4)で挙げられている例を転用して言うなら、ヴィトゲンシュタイン自身も例えば「泣いている子をなだめるのに理由はない」[終始冷淡に観察するという振舞をその母親がするなら、それは「奇妙で、気違いじみて」みえるであろう]と語るであろう(元の議論のコンテクストは異なるが、こう転用してもその議論と整合的である)。

[413] しかしながらa)については、永井も我々と同じように見ているとも解しうる。永井は「道徳的であるべき理由などは存在しない」(61)とするが、我々からすればそれは、道徳的[道徳が関わる]ゲームの内側にいる当人にとって「道徳」の自明性の揺らぎが存在しないからにすぎない。であるから、理論的には(外部に立って)「道徳」の理由を問えるのであって、したがって永井も、「なぜ道徳的であるべきか」と問える、しかも有意味なものとして問える−−永井は「「なぜ道徳的に行為すべきなのか」という問いは、「なぜ人は文法的に話すべきなのか」等々の問いとは、次元の違う問いである」と語る(59)−−ことを認めるのである。

[414] では、(永井からしても)外部に出て「理由」を問えるのにもかかわらず、なぜ「道徳的であるべき理由などは存在しない」とされるのだろうか。テーゼ2.の前半ははっきりとそう述べている。なぜそうなのか。永井はまず、「べき」を道徳的な「べき」とみるなら、回答は「単なるトートロジー」になると言う(53)。我々の言い方で換言するなら、「べき」を道徳的「べき」と了解するなら、問いは結局「道徳的に道徳を問う」という自己矛盾を犯すことになるか、ないしは単なるトートロジーを語ることになるのである。

[415] 永井はしかし次に、「この「べき」を自己利益的....な合理性(self-interestの"should")の意味にとって、なお人が道徳的である「べき」理由を説明しようとする伝統も、プラトン以来今日まであとをたたない」(53)として、例えばカントで言えば仮言命法中の「べき」として了解することも認める。しかし直ちに、「少なくとも、道徳性が自己利益....に一致しない場合がある(そしてそれが普通である)ということは、「道徳」の本質からしてほぼ分析的にいえることであるとする」(53)。この「伝統」の線(の内の社会契約論的枠組み)のなかで回答を示した我々からするなら、これが最もポイントとなる。我々として、成功的な回答を示したつもりであるが、それを否定するかたちになっている永井のこの言は、意味が不確定である。

[416] それは実は、永井自身揺れているからである。永井は或る箇所(31f.)で、「グラウコンは正義の起源を社会契約説的に説明する」として、その大要を示した後、「グラウコンの言うところは概して真理であるように思われる」と語っている。この「グラウコンの言うところ」とは説明するまでもなく、正義(道徳)の起源は、正義が不在である場合よりも正義が在った方が利益になる、つまり「道徳を守るのは自己利益になる」ということであるにもかかわらず、前段のように語っているのである。ここを−−"Why should I be moral?"と"Why should we be moral?"の違いを問題としているのでないかぎり−−整合的に理解することはほとんど不可能である。グラウコンのように言える場合もあるが、逆に道徳と自己利益とが一致しない場合もある、したがって道徳が常に自己利益になるとは言えない、ということなのだろうか。(これであるなら、「<道徳が自己利益になるから>とは常に言えない」という主張に対して、「一定の前提のもとでは言える」ということを論証した我々の議論と両立可能である。)しかしそうであるなら、この<場合>について論じることこそ本務であろう。それとも、そうした自己利益実現の手段としての道徳は本当の道徳ではなく、したがって、<そうしたものが自己利益になる>と論証しても、それは少しも(本当の)道徳の理由を論証したことにはならない、というのであろうか。しかしそうであるなら、この場合は「道徳」の規定が課題として引き受けられなければならない。永井はまた、自己利益追求に対して「共同体の利益」を追求することが「道徳的」であるという規定の下に、唯一可能な回答があるとすれば、「なぜ共同体の利益のために行為すべきか」に対する「その方が共同体の利益になるから」という「同語反復的なものでしかありえない」(60)とも言うが、これがここでの真意であるなら、それは結局「べき」を道徳的「べき」と解することを前提としている。

[417] いずれにしても永井は、さらに(第三の)「超脱的なべき(detachmentの"should")」を語る(53)。しかし、そうした「べき」の了解の下で「道徳の理由」を語ることをしない。(「べき」の段階論という)論の流れからすれば自然にはそれが予期されるのであるが、永井はこれについてはテーゼ2.を言うことを専らにしている。何故に「理由」を語らないのか。我々から見るならこれは、「賢慮」の永井の規定−−これは我々の言うそれとは異なるのだが−−から(我々が言う意味で)「定義的」にそうなるところである。「賢慮」とは利益について「定義的」に<それでいい>とされている段階であるから、そもそもそこで利益について別の在り方を要求する「道徳」について、その「理由」を肯定的に問われることがないのである。問われるとしたら否定的に「理由などはない」という方向においてのみである。「理由」がそこで問われうる段階であるから、その意味で「道徳を基礎づけてもいる」と語る(62)ことは許されようが、その「基礎づけ」は、問いを−−永井自身言うとおり−−「反語的な修辞疑問」(永井1,79)とのみするものであって、決してベイヤーにおけるような単純な「疑問」を措定しうるものではない。ということは、「基礎」という言葉によって意味される階層性が−−「発達段階」そのものであるなら構わぬが−−そもそも「賢慮」と「道徳」の間には存在しないのであって、両者はいわば<利益に関わるという「岩盤」>の上での二つの(正確には、「快楽主義的」「自己利益的」を含めて四つのうちの二つの)選択肢であって、ただ「賢慮」がすでに決定的に−−ということは、「選択の意識なしに」でもある−−選択されているだけなのである。そして、決定的に選択されているから、「なぜ賢慮的であるべきか」とは問われない*のと同様、通常の疑問として「なぜ道徳的であるべきか」とも問われないのである。** しかしながら、永井がここで「道徳の理由」を語らないのは、おそらくこれとは異なるであろう。では、何故か。

* もし、そこで問われるなら、それはいわば<自己確認的>な「なぜ」としてであろう。それが仮に問われるなら、例えば確信をもって「自分は美しい」と思っている人の「なぜ私は美しいのかしら」といったような<いやらしい>ものとなるであろう。

** 永井の「賢慮」はあるいは、我々が言う「理論的」態度のこと(そのもの)かもしれない。諸利益(特に他者の利益)へと心を傾けさせる(実践的)「力」がエポケーされた、その意味で理論的な境地のことかもしれない。"detachment"という表現は、この解釈を可能としている。そうすると、「なぜ賢慮的であるべきか」は「なぜ理論的であるべきか」と同じことになり、論述という(理論的)行為においてそれが問われないのはきわめて当たり前のこととなる。しかしながら、永井はこの線での解釈をおそらく拒否するであろう。(因みにこの「理論的」態度は、実践的には(=実践的意義の側面からは)「理想的観察者」と構造上同じものである。あるいは、この含意から議論が展開できるかもしれない。その場合、おそらく「動機(づけ)」ということがポイントとなるであろう。)

五 哲学的含意(2)−−「邪悪な真理」とは何か−−

[501] 永井は『態度』38f.で次のように言っている。「総じて、ニーチェも言うように「まさしく論理的に正当化されえないことこそが道徳の美点に属する、−−無意識性なくしては道徳は何の役にも立たない」のであ[る。]」ここから単純にみるなら、論理的には、「「道徳」が有効であるかぎりでは道徳に理由はない」という限定つきで「理由はない」というメタ回答が可能ではある。さらに、「およそ有効でない道徳は道徳ではない」という主張をもって、限定を外すことも可能であろう。(これに対して我々としては、仮にこれを認めるとしても、直接的にはニーチェの上の言に対して「一般に理由を伴うことは有効性を損うか」と反問できるし、そして、いくらでも反例を挙げることができるとは言っておきたい。)

[502] しかし、こうした議論に入り込むことを永井は好まないであろう。永井の関心はあくまで、「道徳」という現象の系譜学的考察であるからである。そして、その現象把握は、あくまで<盲目的力をもって(のみ)我々に(有効に)迫ってくる「道徳」>という把握である。しかしながら、この把握自身もおそらく派生的なものであろう。永井によるなら「どのような生活態度の内部にも、その生活態度を「論証」するかのような言説が不可避的に要求される」のであるが、その道徳的ヴァージョンを説く「徳のイデオローグ」(44)の<うさんくささ>の直観が先行しているのであろう。

[503] そうした直観の「解明」(52)として提示されるのがかの「遮断のレトリック」論なのであろう。結局、「道徳の理由」などはないのであって、「理由」の提示=「道徳哲学」なるものは、本来「理由なき道徳」(「力」としてあるだけの道徳)にいかさまの「理由」を仮構して、道徳の外部へと出る途を「遮断する」レトリック以外のなにものでもない、というのが永井の主張点であるのだが、我々の見るところではそれは、永井の直観の「解明」なのである。この「解明」は永井自身の言葉であって、この言葉は「私の意図はあくまで解明にあり、自分の態度決定を表明したり、他者に特定の態度を推奨したりすることにはない」(51f.)という意味で、いわば(道徳的)「教説」の反対の意味で使われている。こうした「解明」が永井によるなら「哲学」であるのだが、しかしながら我々は、それは例えば(後期)ロールズ的意味における「解明」*でもあって、自らの直観を出発点として、−−その直観を吟味するのではなく、その直観の妥当性を前提として−−それを分節化するものだと理解する。

* 拙稿「道徳的言明の正当化−−ロールズの議論を引き合いにして−−」(関西倫理学会編『現代倫理の課題』晃洋書房,1990,44)参照。

[504] 実はテーゼ1.もこの「解明」のかたちで−−だから、「なぜ....か」と問う問いは、それに引きずらて、いわば素直に<問題>として回答仕切れないということにもなるのである−−論究された結果であると我々は理解している。つまり永井は、人々が(「共同体」の圧力や、「徳のイデオローグ」の洗脳を受けて)「道徳的でなければならない」と感じているという心理のリアリティに(のみ)即して、その「解明」として、「そうした心理のもとでは、道徳的であることは自明であって、だからそこで(さらにその)理由などがあるとは少しも思われないのだ」と分析し、しかし同時にそのことを(一見)論理的なものとして「道徳であるべき理由などは存在しない」とも表現するのである。しかしながら、永井も認めるように、(本源的)利己心から出てくるリアリティも人のうちには同時に存在していて、これが「道徳的であること」のリアリティのいわば一元化、すなわち「岩盤」化を不可能にしているのであって、だから永井も「しかし、理由が存在しないからといって岩盤に到達しているわけでもない」と語らざるを得ないのである。そしてそうであるから、これも永井が認めるように、「なぜ道徳的であるべきか」と問えるのである。しかしながら、永井の基本志向はあくまで道徳の「解明」、しかもそうした道徳を説く「道徳哲学」の<いかがわしさ>の直観に基づく解明−−だから、我々の言う<心理>も主要には、その道徳的教説を内面化した「良心」として問題とされることになる−−である。

[505] しかしながら永井解釈として(できるだけ)忠実に言うなら、外部に出て理論的に「なぜ道徳的であるべきか」と問えるということは、永井からしても当たり前である。永井にとっても「解明」の着目点は、「道徳の場合にはきわめて特殊な事情も存在するのである。道徳規範の場合には、その外在的な視点がいわば内部にも存在する、という点である」(58)と語られる「特殊な事情」の根拠にある、我々のタームでいえば人の心理的リアリティの(実践的)分裂である。「道徳は....自己利益や自己幸福の追求を規制することを主要な機能目的としているのだから、それが機能すべき場面ではすでに自己利益的で非道徳的な選択肢が主題化されていなければならないはずだ」(59)と語られているが、人のうちに「道徳的に行為すべし」という要求のリアリティと、「自己利益になるようにせよ」という要求のリアリティとの(実践的)分裂が存在するのである*。しかし、こうした<分裂>はどこにでも存在するのであって、例えば「人は美しくあるべきだ[、だからダイエットすべきだ]」と「[食べたいものを我慢すべきではない、というのも]美しくあるべきだということはない[からだ]」といったものの間にも存在する。だが永井は、この<分裂>を「道徳」の「特殊な事情」として問題とする。それは、特殊「道徳」の場合についてのみ特殊な(いわば社会構成的な([509]参照))「遮断のレトリック」が働いているから−−そうであるなら、永井も社会論定位的になる−−ではなく、とにかく道徳の「事情」であるからである。そして、その「レトリック」はいうまでもなく「....だから道徳的であるべきである」というかたちで道徳に「理由」を与える内容のものである。永井は、この道徳の理由づけ(徳のイデオロギー)をターゲットにして、それを<いかがわしい>とする自らの直観の「解明」として論を展開するのである。であるから、(ごまかしでない)正しい理由が−−検討してみた結果、存在しない、というのではなく−−存在していてはならないのである。

* 我々も、この点でa)とb)は異なると考える。我々の言い方では、a)はすでに内部的な(利益が問題となるゲームで発せられる)問いであるのに対して、b)は(「文法的であること」の自明性を理論的にエポケーした)外部的な問いである。a)も同様理論的に問うことも出来るのであるが、b)はもっぱら理論的にしか問えぬ問いである。換言するなら、そう問うことに実践的必然性が伴わない問いである。c)もこの点では同様であるが、c)の場合は、さらに「定義的」にそうであるという違いがある。さらに「なぜ正当化か?」という問いは、(純)理論的にも「定義的」に不可能な問いである。なお、我々は「「自然の価値」をめぐって」(科学研究費(代表:佐藤康邦)研究成果報告書『応用倫理学の新たな展開』1996),98f.において「ゲーム」を二種類に区別したが、この区別はa)とb)との違いに対応する。

[506] この「遮断のレトリック」は−−対立があって、対立項の一方にのみ加担しようということがあるところでは−−どこにでも存在するとも言いうる。これは、上記『規範の基礎』にその記録が収められている「シンポジウム」で小池澄夫が「レトリックということ以外に、そうではないものがあるのか。」(167)と問うたところにも関係する。この小池の問いに永井はその場では、「まあそれに関しては、言ってしまえば、それをそういうふうにも言えますけれども、一応ここでは、そういう意味でのレトリックではないものがあるというふうに想定して話したのです。....いわば口うまくして或るものに人を仕立あげたり、或る結果を引き起こすために何かうまいことを言うわけですから。それに対して真実を語るということは、それと別のことだというふうに一応わけて考えることができるだろうと思います。」(168f.)と答えている。この「真実」で言うなら、永井も言及する(v)ニーチェの「邪悪な真理」とまさに関係するのだが、レトリックでない「真理」とは、或る特定のレトリック(道徳的言説)を告発するなかでいわば反定立として措定されたものであり、そしてそれがここでいう「解明」(の結果)なのである。(<「道徳の理由」の不在>を永井は「[邪悪な]真理」として説くのだが(62)、やや揚足取り的に言うなら、これは<道徳の理由は不在だという言説を問うゲーム>に対して構造上は全く同じかたちで「遮断のレトリック」行使であり、また「道徳は倒錯、概念変造だ」という言も同様である。)

[507] であるから抽象的には、そうした「真理」も含めて全てレトリックだとも言いうるのであるが、しかしながらここで「哲学」としてレトリックでないものを探すなら、「内在的批判」ということが考えられる。我々がいくつか行なった「揚足取り」も形式的にはこの「内在的批判」である。しかし「揚足取り」はいわば貧しいものであって、それを越えるような「内在的批判」も可能である。その一つとして、相手の主張を内在的に展開してみることによってその実践上の帰結を引き出してみせるというものがある。これは例えば、ヘアがユダヤ人絶滅を説く「ナチ党員」に対して、「あなたの主張を一貫させるなら、あなたがユダヤ人である場合は、自分の殺害を帰結することになるが、そうした反人間的なことをあなたは引き受ける用意があるのか」として突きつけたものである。ここから大庭の論を再構成してみるなら、「無道徳主義者」に対してこれと同じ議論が展開されているとも了解できる。すなわち、「道徳を気にしないことをあなた[無道徳主義者]は「たかがキセル」位に考えているかもしれぬが、それは実は「他人の真面目さに依拠しながら、しかし、それを足蹴にして利用しつくすこと」なのである。」と説いているとも了解できる。だから大庭は、「キセル」と「足蹴」とのレヴェルの違いを無視して「据え膳を食うこと」と一般化する土屋の言(前掲『道徳の理由』34)に激怒する(同,40)ことにもなるのである。

[508] 永井は同時に、道徳性を自然性に対する「倒錯」としても批判している。この「自然」は語義的に「本性」でもあるが、我々からみるならそれは、事柄としてそうであるのではなく、「解明」において、<いかがわしさ>への反定立として措定されたものである。永井はこのように<道徳のいかがわしさ>という自らの直観に忠実に議論しているのである。因みに我々の「別稿」は、これとの関係で言うなら、この<直観>を共有しつつも、それをエポケーして「なぜ道徳的であるべきか」をいわば純粋に(理論的[知的])問題として論じたものである。したがって、自分の<直観>に忠実であるという点で永井は我々に比べて或る意味で道徳的であ(り、その意味でニーチェ的でもあ)る。これに対して大庭は、この点では永井と同じく<直観>に、しかし逆の<無道徳性のずるさ>とでもいった<直観>に基づいて、その告発として論を展開したとみることも可能である。但し大庭はその際、「道徳的であるべきである」という方向で議論したところから自然にも生じる「教説」性の印象を、あえて引き受けて論を展開した。ここに、永井の「解明」vs.大庭の「教説」という基本スタンスの対立が結果しているのである。

[509] 例えば43で、「どのような妥当要求もどこかに必ず威力(マハト)要求に取って代わられる地点がある。だがもちろん、ここで想定される力(マハト)とは、通常の意味での権力や暴力とは異なり、我々がそれによってはじめて「我々」として、共同体によって承認された一人の個人として成立しうるような、メタフォリカルでメタフィジカルな共同体の「力」なのであり、....」という一見大庭の(社会的)「自己」論を思わせるような議論がなされている。しかしながら、重要な違いがあるのであって、大庭の場合「であるから、道徳的であるべし」と語られるのに対して、永井では「道徳とはこうしたものだ」と語られていると言っていい。「教説」ではなくて「解明」であるからなのである。そして論争における永井の勝ちは、基本的に、永井が大庭の「であるべし」という点を、その「理由」づけの試みにおいて攻撃して一定の成果を挙げているのに対して、永井には攻撃すべき「であるべし」という点が不在であって*そもそも(反)攻撃ができない、というところから来ていると我々は見ている。

* 先に永井を規範倫理学的に「徳の倫理」を説く者ともみたが、厳密には永井の場合は、いわばメタ規範倫理学であって、平たく言って「人は自分のしたいように行為すべし」と説くものである。ここでは「べき」は相手に対する永井自身の「力」の行使を含んでいない。もちろん、同じ「徳の倫理学」であっても、多くの場合そうであるようにここで「己が真に欲するところ」を(内容規定的に)語るならば通常の「べき」となる。例えばアリストテレスによって語られる「賢者」はそうした「真の欲求」をもつ者であって、だから永井の「賢者」はそれとは異なるのである。

[510] 論争にもっぱら永井批判的に介入したのは、別に判官びいきであるからではない。この攻守の非対称性がいわば構造的に永井の勝ちを結果する仕組を作っているのであるが、その仕組をまず解体することが議論の更なる展開を保証していくと考えたからである。そして、その<解体>の突破口は永井の「解明」というスタンスの問題化にあると我々は考えたのである。これは、「「哲学性」への固執にも、同様に冷徹なメスを入れていただきたい」という大庭の永井批判を、永井の「哲学性」とは「解明」性であるのではなかろうかというかたちで展開したものでもある。

version 1.01
1997/04/26


   


コメント


永井均

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[104]哲学を偽装した道徳主義に対する批判と道徳主義そのものに対する批判について:確かに両方の要素があると思う。概念変造と倒錯の混在について:確かにこれはレベルが違う話である。

[206]心の状態(の相違)を重くみているというは永井の真意ではない、という点について:私は心の状態(の相違)を極めて重くみている。私は安彦氏と違って、道徳の心理学(とそれに基づく人間精神の成り立ち)に主要な関心を持つニーチェの徒であるから、外面的な同一性では満足しない。だからこそ、この世界においてみんなが実は不道徳という可能性はあるわけだ。しかしまた、社会論への定位そのものを拒否しているというのも事実。

[207]このような安彦風道徳性を大庭氏は真の道徳と認めるかどうか知りたい。わたしは真の道徳とは認めない。そして、認めないが故に、安彦氏に賛成する。(ひょっとするとこの点に、大庭氏と私の共通土俵と、安彦氏との対立があるかも知れない。大庭氏と私は、ともにキリスト教徒であり、道徳性に対するその感覚を前提したうえで対立しているから。安彦氏の感覚の違いはこの論争の理解そのものに深く響いているかもしれない。)

[303]道徳の主張に理由を挙げるときは見せかけの哲学…という点について:見せかけの哲学であるのは「実は後者を意図している」場合だけ。道徳を批判するときも同じ。これはできるだけ区別していくべきだと思う。

[310]「倒錯」という論点は先ほどの心理学の問題に関係する。そうでなければ記述内容は極めて少ない。これはいわば、つい「尊厳」を語りたくなるような人の琴線にだけ触れるような問題。安彦氏の琴線に触れない?

[408]論点と何の関係もないが『確実性』204の訳は誤訳ではないか?

[413][414]「道徳的であるべき理由などは存在しない」という文には二義性がある。自明であるから理由など問えないという意味と、理由などないのだからべきなどとは言えないという意味と。私はこの場合後者の意味で言ったと思う。

[415][416]ここは再び[206][207]のコメントで述べたようなことが響いている。道徳を守ることは自己利益になる、それ故道徳を守るべきだ、という見解は、私にとって(たぶん大庭氏にとっても)正しいが不道徳な見解なのである。そういう意味で、グラウコンの言うことは概して真理であるにもかかわらず、道徳性が自己利益に一致しないことは道徳の本質からほとんど分析的にいえる、ということになる。

[508]ここで述べられているような安彦氏のスタンスから、大庭氏と私の直観のよって来たるゆえんを解明してもらえると面白い。たぶんそれが最も生産的であろう。

「五」全体について:私は、自分がいかに生きるべきかといった問いや、世の中がいかにあるべきかといった問いを、道徳との関係で持ったことはかつて一度もない。私にとって、道徳とは始めからそのいかがわしさの内実が解明されるべき対象であったにすぎない。だから、それが解明し尽くされてしまえば、私にとって道徳の問題はそこで消滅する。

   

ナチズムと芸術

麻生 徹

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はじめに

[001] ナチスは政権掌握以降、強力な芸術統制を推し進めた。ごく簡単に言えば、芸術を「退廃芸術」と「ドイツ的芸術」とに強引に分類し、表現主義やダダイズムといった現代的芸術を「退廃芸術」として弾圧したのである。このようなナチスの芸術統制については様々な研究がなされているが、「退廃芸術」の側からアプローチしたものが多い。しかし、「ドイツ的芸術」の側からポジティヴにアプローチしたものはやや数が少ないように思われる。<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>とを比較しても、研究が進んでいるのは<退廃芸術展>の方である。<退廃芸術展>については戦後に大規模な再現展示会や関連作品の展示会が4回ほど開催されている*のに対し、<大ドイツ芸術展>の大規模な再現展示は1974年にドイツ国内で開催されただけである。このような動きの背景には、ナチスが是としたもの---他の言葉で言えば、ナチス的な価値観を一堂に集めた<大ドイツ芸術展>をタブー視する傾向があることは明らかである。そのために、ナチスの芸術観はきわめて表面的にしか捉えられていない。しかしながら、ナチスによる芸術統制という現象を考察する場合、我々はその背後にある精神性を明らかにする必要があるのではないだろうか。もちろん、1つの方法として「退廃芸術」に焦点を絞ることも重要であろう。しかし、ポジティヴにナチスの精神性を捉えようとするならば、「ドイツ的」とされた芸術にアプローチするという方法も同様に重要なものなのである。

*日本でも1995年から1996年にかけて<芸術の危機---ヒトラーと退廃芸術>と銘打って「退廃」とされた芸術作品の展示をする展覧会が神奈川県立近代美術館をはじめ全国4つの美術館で開催されている。

[002] 本稿では、美術を中心にナチスが行った芸術統制とその思想的背景について論述することとする。まず最初に、ナチスがどのように芸術統制を強めていったのかについて述べ、次に、<退廃芸術展><大ドイツ芸術展>の出品作品を中心に取り上げてナチスに弾圧された芸術とナチスが推奨した芸術の諸傾向を示す。そして、「ドイツ的」とは何かという問題についてナチスの推奨芸術の特徴を取り上げながら検討する。さらに、ナチズムと表現主義との精神的土壌には類似点があるというよく主張される問題点について考察する。そして最後に、ナチスの芸術観の本質について正面から考察したい。

1. 芸術統制の動向

[101] ナチスによる芸術統制が本格化するのは1933年以降であるが、その兆候はそれ以前にも見ることができる。地方議会においては、すでに1933年以前にナチスが多数党となった議会が多かったし、それとともに右翼勢力も発言力を増してきていた。このようにして徐々に台頭しつつあったファシズム勢力は、文化政策の一環と称して芸術の分野に介入するようになる。そのような介入の過程は、例えば、バウハウスに対する攻撃に見ることができる。バウハウスは1919年にワイマルに設立された近代芸術の実践・研究を主とした総合芸術学校であるが、すでに1924年には右翼の攻撃にさらされワイマルからデッサウへの移転を余儀なくされた。また、1927年には後のナチスの主任イデオローグ、アルフレート・ローゼンベルクの設立した「ドイツ文化のための闘争同盟」によって、「ユダヤ・ボルシェヴィズム」の道具であると誹謗された。さらに、1932年にはデッサウ市議会を掌握したナチスによってベルリンに追い出され、1933年には解体することを余儀なくされたのである。

[102] また、いわゆる「絵画嵐」(Bildersturm)*が始まったのも1930年ごろである。1929年、チューリンゲン州議会の多数党になったナチスはヴィルヘルム・フリックを州の国民教育相にすることに成功した。フリックは就任すると直ちにナチスの文化政策を推進するため協力的な部下**を集め、「文化革命」にのりだした。1930年、ワイマルの城内美術館を視察したフリックはオットー・ディクス、カンディンスキー、バルラハ、ココシュカ、オスカー・シュレンマーらの現代美術作品を取り外させる処置を取った。また彼の部下のシェルツェ・ナウムブルクは、オスカー・シュレンマーの描いたフレスコ画を白く塗り潰させたのである。

*Bildersturm(直訳は「絵の嵐」)とはもともと様々な時代、特に16世紀の宗教改革期に起こった聖像破壊運動を意味するが、ここではナチスによる絵画の破壊を意味している。ここで考えられている「破壊」とはもとの絵を塗り潰す、焼却処分するという文字どおりの破壊である場合もあるし、オークションで安く売却するような場合も含まれる。なお、ナチス政権誕生後の「絵画嵐」については美術史家、アンドレアス・ヒューネケ(水沢勉訳)「絵画の嵐、その原因と結果」<『芸術の危機---ヒトラーと退廃美術』(1995年8月より神奈川県立近代美術館において開催された同名展覧会の図録。以下、『芸術の危機』と略記)所収>を参照のこと。

**ハンス・ゼヴェールス・ツィーグラー、シュルツェ・ナウムブルクらである。

[103] ナチス政権誕生後は、いうまでもなくこのような芸術統制が一層顕著になった。ナチスの標的となったのは芸術院や美術館である。1933年にはハインリヒ・マンとケーテ・コルヴィッツが反ナチス政党に肩入れしているのを理由に、文部大臣、ベルンスト・ルストはこの2人を退会させること、さらに反ナチスを標榜する者、ユダヤ人の血が交じっている者を退会させることを芸術院に強要した。このような強制的な芸術院改組は1937年まで続けられる。また、美術館館長への迫害も行われた。これは、表現主義をはじめとする現代芸術擁護を掲げる館長を更迭し、ナチ党員や親ナチスの人物を新館長に就任させるという政策である。以上のような、現代芸術を擁護する人物に対する迫害に並行して、プレ<退廃芸術展>、プレ<大ドイツ芸術展>が企画されていく。このうち、ナチスがより力を入れたのはプレ<退廃芸術展>の方である。主要なものをあげれば、<1918年〜1933年までの政府公許芸術展>(1933年、バーデン)、<文化ボルシェヴィズムの絵画>(1933年、マンハイム)<11月精神、堕落に仕える芸術>*(1933年、シュトゥットガルト)などがプレ<退廃芸術展>と言えるが、この他にも多くの企画があった。一方、プレ<大ドイツ芸術展>は<純粋ドイツ美術巡回展>が1933年、マンハイム、フランクフルト、カールスルーエ、カッセルなど各地をまわっている。1935年にはナチスの発祥の地であるミュンヘンで<血と土>というナチスの主張そのものを掲げた展覧会も開催されている。

*「11月精神」とは、20年代の前衛芸術家たちの集団であった「11月派」の「精神」をさすものと考えられる。1918年11月、軍港キールで艦隊乗組員の反乱が発生した。この事件が「革命的行動」とみなされるようになり、「11月」という言葉は「新時代の精神」という象徴的意味を持つようになった。前衛芸術家たちは「11月派」を名乗ることによって、自らが伝統的表現の一切を拒否するという姿勢を明確に打ち出したのである。なお、「11月派」を標榜するグループはいくつかあったが、そのいずれにも表現主義者やバウハウスの賛同者らが参加している。

2. 2つの展覧会

[201] ここでは<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>について述べることにする。まず、<退廃芸術展>について、次に<大ドイツ芸術展>について展覧会の性質や出品作品の傾向をあげてみたい。

2.1 <退廃芸術展>

[202] <退廃芸術展>は1937年7月19日、ミュンヘンで開会が宣言された。翌年はベルリンにおいて開催され、以降1941年のハレにおける展示に至るまで合計13都市を巡回した。

[203] <退廃芸術展>に出品された作品は、その大半が「現代芸術」であり、かつ抽象的絵画である。これは後述する<大ドイツ芸術展>の出品作品と対照的である。<退廃芸術展>において、ナチスは抽象的という特性を最大限に利用した。一般的に抽象画は写実的絵画(例えば風景画)よりも理解しにくい。当時、これらの抽象画の作家たちは、第1次世界大戦に敗北し最悪の状態にあった世の中を題材として、それをありのままに作品化した。しかし、そうした絵画は単に芸術家という限られたエリートだけのものであって、一般民衆には認められなかった。このような傾向が、右翼勢力による前衛芸術たたきの素地になった。ある場合には経済疲弊の原因と批判され、またある場合には精神病、精神異常の産物と罵倒されることになるのである。

[204] ただし、その「退廃芸術」についてのナチスの規定は非常に曖昧である。ナチスが「退廃芸術」の烙印を押した理由は、「文化ボルシェヴィズム」あるいは「ユダヤ的」という程度のものであった。例えば、表現主義と分類される芸術のどのような点が「退廃」にあたるかということについての明確な規定は、ほとんどなされていないのである。「退廃」という言葉は、単にナチスの主張(特にアーリア人第1主義*)に反するがゆえにつけられたものと考えることもできる。実際に、「退廃芸術」「退廃芸術家」呼ばわりされた作品や芸術家たちは実に多く、広範に及んでいる。美術史において、通常用いられている流派の区分で言えばおおよそ次のようになる。
(1)表現主義**(「橋」派、「青騎士」派など)
(2)ダダイズム***
(3)バウハウス様式****
(4)新即物主義の一部*****
(5)その他(シャガール、ゴーギャン、ゴッホ、ピカソ、ムンクなど)

*アーリア人種こそがあらゆる人種の中でもっとも優れた人種であるとするナチスの主張の1つ。「アーリア人」という概念は、本来は人種的特徴を表わす概念ではなく言語的特徴を表わす概念として規定されたものである。1816年、フランツ・ホップがサンスクリット語の動詞変化とギリシア語、ラテン語、ペルシャ語、ゲルマン語などの動詞変化が密接に関連しあっていて、これらの言葉は同一の祖語---すなわち、アーリア語に帰すことができることを証明した。したがって、「アーリア人」を正しく定義するなら、「アーリア語を話す人々」ということになる。しかし、この言葉はすぐに人種的特徴を示す概念にすりかえられてしまった。すでに1855年には、フランス人のゴビノー伯は、「アーリア人」、とりわけゲルマン人はもっとも高貴な人種であり、将来、絶対的支配権をもつようになると主張し、逆にセム人種を肉体的、精神的劣等者としてこれに対置したのである。このような傾向は、当時国家的政治的な統一を志向していたドイツで特に顕著になった。ヒトラーが「アーリア人第1主義」を唱えたのも、このようなプロパガンダがいかに絶大な効果を発揮するかを知っていたためと考えられる。ナチスの指導的人種学者だったH.F.K.ギュンダーによれば、ナチスの想定していた理想的ドイツ人とは金髪で長身、長顔で鼻が高く、皮膚の色がばら色がかった白人であるという。

**20世紀にドイツで展開した芸術(美術)運動。美術家の内面の表出を最優先し、遠近法や明暗法等の伝統的絵画技法を無視し、線描や輪郭線を強調したり、原色をはじめとする鮮烈な色彩を採用した。

***第1次世界大戦中のヨーロッパで起こった西洋の伝統的価値観に対する反逆的芸術運動。合理主義に基づく社会体制を否定し、全ての理論や美学、社会的制約から芸術を解放しようとする。当初、チューリヒが拠点だったが、後にベルリン、ケルンなどに飛び火する。

****バウハウスは1919年、グロピウスによってワイマルに設立された総合造形学校である(1920年代の右翼勢力やナチスによる攻撃については前述のとおり)。機械と芸術との総合を目指し、実用性を追求した芸術作品を制作した。このように、無駄な装飾を切り捨てたシンプルなデザインが、バウハウス様式の特色である。バウハウスではグロピウスの他、「青騎士」派のカンディンスキーやパウル・クレーらの芸術家たちも教鞭をとっており、近代芸術に与えた影響は大きいとされる。

*****Neue Sachlichkeit 1920年代から30年代にかけてのドイツの芸術運動。表現主義を主観的であると批判し、社会的現実を客観的に再現しようとした。なお、新即物主義の言う「客観性」とは多分に曖昧なものであり、例えば、オットー・ディクスやジョージ・グロスの絵画は社会の現実を「客観的に」捉え告発するという点において「客観性」を持っていた。しかし、その一方で、写実性を重視するという意味での「客観性」も新即物主義の中に存在していた。一口に「新即物主義」と言っても<退廃芸術展>で取り上げられたのは前者の現実を告発するグループであり、後者は逆にナチスに迎合していった。ここで、新即物主義の一部と断ったのは、両者を混同するのは誤りであることを明示するためである。

[205] これらのうち、最も激しく攻撃されたのは表現主義であろう。ヒトラー自身はダダイズムを最も憎んだと言われているが、<退廃芸術展>に出品された数は表現主義の作家による作品が最も多い*。例えば、「橋」派の代表的な作家であるキルヒナーは、油彩画24点、水彩画3点をはじめ合計32点の作品を<退廃芸術展>に出品された。彼はナチスの迫害によって1938年に自殺し、その作品の多くが失われている。また、ノルデは保守的な政治信念をもっていたナチ党員であったにもかかわらず、<退廃芸術展>に48点もの作品を展示された**。

*河合哲夫は、<退廃芸術展>は表現主義、特に「橋」派の摘発に重点がおかれていたと述べている(「ミュンヘン・1937年---政治と文化、《退廃美術展》と《大ドイツ美術展》をめぐって」前掲『芸術の危機』83)。

**ノルデの作品は押収点数が最も多く、合計1052点以上であるとされている(斎藤郁夫 「クレー、ノルデと退廃芸術---内面における結晶と豊饒」前掲『芸術の危機』392)。なお、ノルデがナチ党員であったということについては異論も唱えられているが、彼が素朴な民族主義者であり、「北方人種」の優越性を唱えるナチスの主張に同調していたことは事実である。ノルデとナチスとの関係は我々の考察に多大な示唆を与えてくれるものであるが、これについては第4章において考察するものとする。

[206] <退廃芸術展>はその展示方法も意図的に作られたものであった。絵画を上下二段にならべ、1つの展示室にたくさんの絵を詰め込んで展示するという非常に鑑賞しにくい展示方法がとられた。また、各部屋ごとにその部屋の美術作品を誹謗するテーマがつけられていた(第1室---「神体験の鉄面皮にあざける中央党支配下に」、第2室---「ユダヤ人の人種魂の開示」等)。個々の作品の下には各美術館が作品を購入した際の金額が書かれており、税金がいかに無駄に使われたかが強調されていた。このうち、1923年以前の購入品には第1次世界大戦後のインフレ下における金額が記入されていたため、観客の多くがその高額さに驚嘆したという。

[207] なお、美術ではないが、同様の傾向をもった芸術展として<退廃音楽展>がある。この音楽展は1938年にデュッセルドルフで開会され、以後ワイマル等3都市を巡回した。この音楽展においては表現主義、12音音楽やジャズが非難の対象となった。なぜこれらの音楽が非難されるべきかということについてのナチスの見解は、美術の場合とあまり変わらないと言えよう(文化ボルシェヴィズム、ユダヤ的、精神的腐敗、等)。

2.2 <大ドイツ芸術展>

[208] 第1回<大ドイツ芸術展>は1937年7月18日から10月31日までミュンヘンの『ドイツ芸術の家』で開催された。以後、毎年、1944年まで断続的に開催されている。展示場となった『ドイツ芸術の家』は1933年10月に定礎式がとりおこなわれ、1937年<大ドイツ芸術展>開催の直前に完成した巨大な建物で、ギリシア神殿のように巨大な列柱に支えられた古典的な様式がとられた*。この建造物は本来1931年に焼失した大展示場『グラースパラスト』**の再建という名目で建てられたが、ヒトラーは当初から第3帝国における美術品専門の展示場として構想していた。定礎式の会場での「新生ドイツは自国の芸術のために自らの建物を建設する」というヒトラーの言葉がこれを象徴している。

*この建造物は現在は単に『芸術の家』という名称に変わっており、ドイツだけではなく外国の作品も展示している。なお、戦後の案内書によれば、この美術館が完成直後に<大ドイツ芸術展>会場になったことはふれられていない。

**1853〜54年に建造された工業展示会用の建物。1899年以後、美術展示会場としても利用されるようになる。『グラースパラスト』焼失の際には、カスパー・ダヴィード・フリードリヒの絵画をはじめとするドイツ・ロマン主義の絵画が多数被害にあっている。

[209] このナチス建造物で催された<大ドイツ芸術展>は公募形式がとられ、形式上はドイツ人芸術家なら誰でも応募できた。<退廃芸術展>にくらべて準備が早くから始まり運営も組織化されていた。1936年11月には作品公募が報じられ、翌37年1月には美術院総裁のアドルフ・ツィーグラーを審査委員長とする審査委員会が設立された。しかし、審査基準が曖昧だったためヒトラーやゲッペルスら、ナチ党の意向と審査委員会の出した意見が一致せず作品の選抜は難航した。審査委員会のメンバーはもちろん親ナチスの芸術家たちでしめられていたが、彼らはやはり芸術家として一定の作品の傾向に偏ることのない判断を下したのである*。作品の選抜があまりに難航したため、最終的にはヒトラーが直接決断を下すことによって事態が収拾された。このように舞台裏では迷走続きだった<大ドイツ芸術展>であるが、最終審査には895点の絵画、彫刻が展示された。こちらは<退廃芸術展>と異なり、大展示室でゆっくりと絵画が鑑賞できるよう配慮されていたという。

*芸術家とナチスの一政治家としての判断のずれは、彫刻部門の審査委員、アルノ・ブレーカーとゲッペルズの言葉をくらべれば明白になろう。「われわれが審査ではねた作品が(総統の)恩寵を受け、われわれが選抜した作品はただちに地下室に消えた」(アルノ・ブレーカー)。「彫刻はまあまあだったが、絵画の一部はまったくひどいものだった。まさしくぞっとさせられる作品が掛けられていた。芸術家による審査委員会でやれば、こんなものだ」(ゲッペルズ)(関楠雄『ヒトラーと退廃芸術---<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>』(河出書房新社、1992。以下、『ヒトラーと退廃芸術』と略記)100)。

[210] <大ドイツ芸術展>に出展された作品は、一言で言えば写実的である。小都市、田園を題材とした風景画が4割、次に人物画(裸体画)が続く。<退廃芸術展>に出品された抽象画にくらべれば、はるかにわかりやすい作品が多い。

[211] 展示作品の特徴であるが、半分弱をしめる風景画は、前述のようにほとんどが田園、小都市を題材としたものである。大都会の風景や人物を描いた絵は、売春等の道徳的「退廃」と結びつけられ「退廃芸術」として処理されてしまった。その反面、田園風景ならナチスの「血と土」の思想にも合致し、「ドイツ民族」(ナチス流に言えば「アーリア人」)の「血」が他ならぬドイツの「土」に根ざしたものであることを見る者に強く印象づけることができる。人物画にも農村の大家族を題材にしたものが多い。ゲオルグ・ギュンダーの『収穫時の休息』はこの好例である。これらの風景画、人物画について、一点だけ注意しなければならないことは、それがいずれも写実的な風景画、人物画であったという点である。例えば、カンペンドンクの『郊外の農民』は農村風景を抽象的に描いたものであるが、この絵画は「退廃」として片付けられてしまった。ナチスにとって、抽象画はあくまでも「精神異常」の産物として「ユダヤ」と共に排斥すべきものであったのである*。つまり、ナチスによれば、写実的美しい視覚芸術は健康な精神が存在する証拠なのである。

*このように精神異常として排斥された芸術は、<退廃芸術展>の第5展示室に集められた。「病める精神は自然をこう見た」と題され、カンディンスキーやキルヒナー、クレーの表現主義的風景画が陳列されていた。このようなやり方はローゼンベルクの『二十世紀の神話』やナウムブルクの『芸術と人種』において述べられているような芸術と人種を結び付けた理論を実践したものであったと言えよう。

[212] ところで、人物画のうち大半は裸体画(ヌード)であった。ヌードの描き方も実に画一的である。すなわち、男性は筋骨逞しい肉体に、女性は優美で献身的なポーズをとって描かれている。絵画ではアドルフ・ツィーグラーの『4元素』パウル・マーティアス・パードゥアの『レダと白鳥』イヴォー・ザリガーの『パリスの審判』、彫刻ではヨーゼフ・トーラクの『アウトバーン工事記念碑の模型』がこの種の裸体画(像)となるであろう。また戦争で勇ましく戦う男たちもよく取り上げられる。ルドルフ・リプスの『戦士たち』パードゥアの『フランス進攻渡河作戦』アドルフ・フィンステラーの『1525年の農民戦争から』がこのような題材を用いている。一方、女性に対しては『レダと白鳥』『パリスの審判』にみられるような性的側面を強調したとも受けとめられかねない作品もあったが、それとは別に種の起源としての女性画(像)も見られる(ハンス・ブレーカー『母と子』等)。さらに巨大彫刻も出品された(アルノ・ブレーカーの彫刻群)。これは北方的・ゲルマン的超人を追求し「壮大なものを崇高に」表現する、また建造物(『ドイツ芸術の家』)との調和をとる、という意図があったと考えられる。<大ドイツ芸術展>に出品された主な作家をあげれば大体次のようになる。
(1)絵画---アドルフ・ツィーグラー、イヴォー・ザリガー、マルティン・アールバハ、パウル・マーティアス・パードゥア、ルドルフ・リプス、ゼップ・ヒルツ
(2)彫刻---ヨーゼフ・トーラク、ゲオルグ・コルベ、アルノ・ブレーカー

[213] また、先程<退廃音楽展>について若干ふれたので、1939年の<帝国音楽祭>についても一言しておこう。この音楽展についてもナチスの選り好みによって曲目が決められている。選抜された曲は、軍楽隊からオペラにいたるまで全て一緒に演奏された。このときの具体的曲目として、オットー・ベッシュの『オストマルク序曲』、マウリックのオペラ『ジンプリチウス・ジンプリチウス』等がある。また<帝国音楽祭>とは別のものだが、<大ドイツ芸術展>開催を祝してミュンヘンでは仮装行列や舞踏会が連日のように開かれた。1937年7月16日には国立劇場でワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』がヒトラーの意向を取り入れた演出で上演された。また、リヒャルト・シュトラウスの『バラの騎士』やモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』も上演されたという。

3. 「ドイツ的芸術」の本質

[301] 以上で<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>について概観したが、本章ではナチズム芸術の特質について検討する。本稿においては「退廃」概念についても考察するが、冒頭で述べたように、「ドイツ的芸術」の特質を探ることに重点を置きたい。そうすることによって、ナチスの言う「ドイツ的」とは何かという問題についての積極的解明が可能になるし、さらには「ドイツ的芸術」の背後にあるナチスの芸術観を考察する際の大きな手がかりにもなるからである。

3.1 「退廃」の烙印

[302] 本章での我々の課題は「ドイツ的芸術」とは何かについて考察することであるが、「退廃芸術」についても少々述べておこう。当然といえば当然なのであるが、ナチスの芸術観はナチ党の主張と深くかかわっている。否、ナチ党の主張そのものが芸術を選別する際の基準になっているのである。例えば「血と土」、「アーリア人第1主義」、「反ユダヤ主義」といった思想は、そのまま推奨すべき芸術と排斥されるべき芸術との選別に用いられたのであった。このような基準に照らし合わせれば、表現主義やダダイズム、シュルレアリズムは「退廃」であり「文化ボルシェヴィズム」であり「精神異常」である、ということになる。ここではナチスの言う「退廃」に焦点を絞り、この概念の意味についてもう少し突っ込んで考えたい。

[303] M-A・フォン・リュティヒャウによれば、美術の分野において「退廃」という言葉を使ったのはナチスが最初ではない。18世紀のクロップシュトックやFr.シュレーゲルもこの言葉を用いている*。また、1857年にはフランスの精神病学者であるベネディクト・オーギュスタン・モレルが「退廃」概念を医学的に定式化した。モレルによれば、飲酒やアヘンの吸引による中毒、先天性の心身虚弱体質や神経症によって「退廃」のプロセスが始まるのである。彼はなぜこのような現象がおきるのかという理由として、『創世記』に書かれた人間の堕落をあげる。アダムの堕落によって楽園から転落してしまった人間は、もはや堕落以前の「理想的」な人間ではいられなくなったのだというのである。ドイツにおいても、ビスマルク時代のユダヤ人医師マックス・ノルダウがその著書『退廃』において、「退廃」の概念を一般に広めた。彼によれば、いかなる衝動も社会規範に照らし合わせてその善悪が判断されるべきである。ここに至って、「退廃」は善悪を区別するための概念という色合いを帯びた。つまり、「退廃」であることは悪であり異常者であることの証であり、それゆえに社会から排除されなければならないのである。また、ノルダウは芸術にもこの概念を適用した。彼の著作によって、「退廃」が一種の職業病であるとして、一部の芸術家を差別、中傷するという傾向が一般化したのである。ノルダウは印象派を視覚障害と断定し、芸術家には健康診断が必要であるとする。また、文化が政治の統制下におかれるべきであるという考えも示している。このように、「退廃」という概念を芸術作品と結び合わせて考える傾向は、既に19世紀後半には成立していた。

*リュティヒャウ(河合哲夫訳)「狂気の極み---《退廃芸術展》に先立つ近代美術の「病理学化」について」(前掲『芸術の危機』28)

[304] 『我が闘争』におけるヒトラーの「退廃芸術」論もこれらの「理論」を下地として、それをナチ党の党是に合致するように総合したものであった。『我が闘争』において、ヒトラーは「芸術のボルシェヴィズム」と称して、キュビズムやダダイズムを名指しで「精神錯乱的、退廃的人間の病的な奇形」*と誹謗している。ヒトラーによれば、このような「芸術のボルシェヴィズム」は正に人間の「頭脳の退化」であり「文化的崩壊」そのものであって、これらの流派の主催者は精神病院に即時に放り込まれるべきである。そして、これらの精神を錯乱させようとする試みから国民を守るのは、正に国家の役割なのである。

*ヒトラー(平野一郎・将積茂訳)『我が闘争(上)---民族主義的世界観』(角川書店、1973)368.

[305] また、ヒトラー以外にもナウムブルク(彼はヴィルヘルム・フリックのもとでワイマル総合芸術教育施設の長官に任命された)、女流画家ファイステル・ローメーダーが形態と芸術という側面から美術作品を論じている。ナウムブルクによれば、血と大地という2つのエネルギーから人間のあらゆる創造活動が育ってくるのであり、人種とは、同じ身体的、精神的な特徴をもった人々の集団である。こうして、それまでの風景画、人物画と異なったテーマ・技法を用い独特の美学をもった現代芸術は否定され、医学的に病的なものとされ、さらには人種浄化の観点から攻撃されることになる。またローメーダーは反マルクス主義の立場から、世界市民的なボルシェヴィキの兆候を示す作品を追放する必要性を訴えた。この時点で、「精神病的」「文化ボルシェヴィズム」「ユダヤ的」という「退廃芸術」の要件が出揃っている。19世紀後半からの芸術的「退廃」に関する見解を総合し、実践に移した展覧会が<退廃芸術展>であると言えよう。

3.2 「ドイツ的芸術」

[306] 本章のメインテーマである「ドイツ的芸術」の考察に入ることにしよう。ここで、我々はそもそも何か一つの「ドイツ的芸術」なるものが存在するのかという疑問に答えなければならない。ナチズムは内部矛盾に満ちており、「ドイツ的芸術」と一括してすべての作品を扱うことはできない、という指摘は非常に多い。芸術統制に関連したものでは、ナチ・イデオローグの意見の相違---特にゲッペルズとローゼンベルクの対立---や<大ドイツ芸術展>の出品作品の内容が一様でないこと---例えば、『レダと白鳥』や『パリスの審判』といった女性のセクシュアリティを強調したと考えられなくもない作品と『母と子』のような母性を強調した作品とを共に推奨芸術としていること等---を指摘する見解はしばしば見られるものである。なるほど、このような指摘がなされるのはもっともかもしれない。ナチズム内部には幾多の矛盾があったことは確かであるし、2章でも指摘したように<大ドイツ芸術展>の作品選定をめぐって少なからず意見の相違があったことも間違いないところであろう。

[307] では、「ドイツ的芸術」とは何か、また「ドイツ的」という概念とはいかなるものかをタイピカルに定義することは不可能か、そのような定義付けをすることは意味がないことか、と言えば、決してそうではないのである。まず、我々は<大ドイツ芸術展>に出品された作品の根底にあるものを捉える必要がある。個々の作品から読み取ることができる相違や矛盾は、その根底にあるものがどのように現れたかに関する相違や矛盾と言えよう。もちろん、これらを問題にすることは重要である。しかし、その前に「ドイツ的芸術」の根底にある特徴を明らかにしなければならない。このように「ドイツ的」というタイプを想定し、それを明確にして初めて、我々の目指しているナチスの芸術観の解明は達成されると考える。「ドイツ的」という概念をタイピカルなものとして明らかにする作業は、決して無意味なものではないし不要なものでもないのである。

[308] 我々は、この作業を始めるに当たって、まずは「ドイツ的」概念のアウトラインを描いてみよう。ここで、先程あげたナウムブルクの言葉をもう一度引用することにしよう。リュティヒャウによれば、ナウムブルクは「民族の風習と形姿を忠実に反映するのが美術である」*と述べている。ナウムブルクの言葉に従えば、「ドイツ人」という一国民の風習と形姿とを反映したのが「ドイツ的」美術である、ということになるのである。このような「ドイツ的」という概念は、ナチスの政治家によってさらに誇張されることになる。例えば、空軍最高司令官兼国会議長だったゲーリングは、自らが後援者になって設立された「ヘルマン・ゲーリング絵画専門学校」を視察した際のスピーチ(1938年)において、芸術が再び「ドイツ的なもの」にならねばならないと述べた後、「素朴な民衆にわかり理解できるものだけが、ほんとうの芸術である」として次のように述べている。

なにかを美しいと感じるためにまず説明してもらう必要があるとしたら、この芸術作品は目的を達しそこねているのである。……芸術の出身地は民衆であり、芸術は民衆の中に根をおろしているからである。**

このゲーリングの主張には、「ドイツ的」という概念を考察する際に、非常に重要になるポイントが含まれている。それは、よい芸術作品は「説明不要」なほど単純明快でなければならないという見解である。この時点で既に抽象芸術は排除されてしまったことになるが、それはありのままに描かれていない---言わば、リアルでない---からということになる。つまり、見たままのリアリティを保持している作品でなければ、「ドイツ的」の呼称は与えられないのである。<大ドイツ芸術展>出品作品が受け入れられやすかったとすれば、それはこのようなリアリティがあったからである。また、ナチスの「ドイツ的」概念には「民衆」が深く関わっていた。ここでゲーリングの主張を見てみるならば、我々はナチスの言う「ドイツ的」という概念をより理解しやすくなるであろう。ナウムブルクの「ドイツ的」の定義は、単にドイツ人の風習、形姿の完全なる反映というものであった。それに対して、ナチスの芸術政策によって想定された「ドイツ的」という概念は、形の上でのものにとどまらず「民衆」と分かちがたく結びついているのである。つまりドイツの民衆の精神的伝統(これが何をさすかについては、この章の最後で明らかになる)と重なり合う作品こそ「ドイツ的芸術」なのである。また、ゲーリングが「よい」芸術と民衆とが不可分であることを強調した背景には、政治的なものもあると考えるべきである。それは、民衆を「ドイツ的芸術」の味方につけるという意図である。そのためには、見たままに描くという「リアリズム」を取り入れるのがもっとも効果的である。現代芸術における抽象表現が一部の知的エリートのものでしかなかったことは第2章で指摘したが、このような状況において、ゲーリングの主張が容易に民衆の支持を得られたであろうことは想像に難くない。つまり、「ドイツ的」概念をゲーリング流に民衆に根ざした一つの固定的なタイプとして提示することによって、ナチスはナウムブルクのような一部の芸術家やナチ・イデオローグの主張でしかなかったものを権威付けることに成功したのである。

*前掲「狂気の極み---《退廃芸術展》に先立つ近代美術の「病理学化」について」(前掲『芸術の危機』39)

**池田浩士「芸術はどこまで民衆のものになるか」<『講座・20世紀の芸術6 政治と芸術』所収(岩波書店、1989)8>

[309] 以上で、「ドイツ的」概念のアウトラインを描いた。しかし、「ドイツ的芸術」が具体的にどのような点において「ドイツ的」であるのかについては、より細かく検討する必要がある。以下で人物画と風景画という「ドイツ的芸術」の代表的な二つのジャンルについて述べよう。

3.3 人物画

[310] 前章で指摘したように、ナチスがとりわけ好んだ人物画は、その多くが裸体画であった。我々はなぜナチスがこのような傾向の絵画を好んだかについて考察することにしたい。

[311] もちろん、裸体画であるならば何でもよかったかというとそうではない。やはり、「退廃」的な裸体画というものもあるのである。例えば、カンペンドンクの『農場の裸婦』オットー・ディクスの『半裸婦』等は、「退廃」とされることはあっても決して推奨されはしないであろう*。では、どのような裸体画なら推奨するに値するのだろうか。

*ちなみにこれらの作品は<退廃芸術展>にこそ出品されなかったが、冒頭の註で取り上げた神奈川県立美術館での<芸術の危機---ヒトラーと退廃芸術>において展示された作品である。

[312] 前章において、<大ドイツ芸術展>の出品作品について述べた際、写実的な絵画が多いという特徴に触れた。ここで議論することになる裸体画も一見するとあたかもヌード写真と見間違うほどの写実性を持っている。また、裸体画という性質上、ある場合は写実性がポルノ的な性質を作品に付け加えることもある。パードゥアが描いた『レダと白鳥』はこの好例であって、ともすればポルノグラフィーと同一視される可能性もあるきわどいものであった*。また、そこまできわどくなくても、性的興味を呼び起こしそうな裸体画も多数見受けられる。しかし、ナチス推奨の裸体画はポルノグラフィーであるかという問い対しては、はっきりノーと答えるのが適当であろう**。なぜなら、ナチスは公序良俗が乱れることに対しては神経質になっていたからである。もちろん、性風俗の乱れというものも取り締まりの対象であった***。

*もともと、「レダと白鳥」という主題は、白鳥に変身したユピテルが首尾よくレダと交わったというギリシア神話の一節から取られたものであった。それゆえに、画家によって相違はあるものの、一般的に『レダと白鳥』という作品には性的な寓意が現われやすいという傾向がある。もっとも、パードゥアの『レダと白鳥』は性交のシーンそのものであり、確かにこのように描かれた「レダと白鳥」は他にはほとんど例がない。そのため、ナチスの裸体画(像)がポルノグラフィーであるという主張においては、ほぼ間違いなくパードゥアの『レダと白鳥』が具体例としてあげられている。

**ときおり、ナチス推奨の裸体画=ポルノグラフィーというような解釈を見かけるが、そのような見解はナチス的裸体画の本質をつかみ損ねている。なるほど、外見上はポルノグラフィカルな作品も多くあり、帝国芸術院総裁のアドルフ・ツィーグラーは「恥毛の巨匠」という有り難くないニックネームをもらっていたほどである。しかしながら、外見的にはポルノグラフィーのように見えても、セクシュアリティはナチス的裸体画から巧妙に剥ぎ取られているのである。程度の差こそあれ、ポルノグラフィーとは性的興味のために描かれるものであろう。しかしながら、ナチス推奨の裸体画は単なる性的興味のために展示されたのではない。例えば、パードゥアの『レダと白鳥』についても、必ずしもポルノグラフィーであるとは決めつけられないのである。確かに、この絵画を出展するに当たってはナチスの内部でもポルノグラフィーと見分けがつかないという異論が出た。しかしながら、最終的にこの絵画が<大ドイツ芸術展>に出展されたことは、ナチスがこの絵画を「ドイツ的芸術」として承認したということを示していると考えるべきである。実際に、この絵画は「女性は立派な子どもを受胎し、産み、育てることがその役割である」というナチスの女性観を現わしたものと見ることも可能なのである。このように考えた場合、『レダと白鳥』以外の問題絵画---例えば『パリスの審判』等---もナチスが望ましいと考えた女性像を現わしていると述べることができる。

***例えば『我が闘争』において、ヒトラーは血と人種に対する罪はこの世の原罪であると述べた上で、そのような罪の温床と化している売春制度を激しく非難している。ヒトラーによれば、健全な肉体にこそ健全な精神が宿るのであり、そのためには青年期に身体を教育によってしっかりと鍛えなければならない。しかし、現代の社会生活は、性的想像と性的刺激に満ち溢れているのであり、このことが青年に多大な害を及ぼしているのである。ヒトラーはこのような悪しき売春制度に立ち向かうためには、その制度の背後にある精神的な前提条件を払拭する必要があると述べ、その浄化剤としての役割を演劇、芸術、新聞、映画に求めようとするのである。

[313] ドイツ出身の歴史家、ジョージ・L・モッセによれば、ナチスはヌード写真を禁止し、政権に就くと即座に裸体主義運動を禁止した*。「裸体主義は女性の自然な恥じらいを鈍らせ、男性が常に女性に対して払うべきとされた敬意を解体した」からである。この節では、我々はモッセの見解を参照しつつ、考察を進めることにしよう。彼の術語を使えば、このような態度は「市民的価値観(リスペクタビリティ)」**に配慮したものと言えよう。モッセは国民社会主義(Nationalsozialismus)***が「市民的価値観(リスペクタビリティ)」と本来的には相容れない部分を持つものでありながら、それに譲歩することによって「市民的価値観(リスペクタビリティ)」との緊張関係を緩和し、逆にそれを維持発展させようとしたことを指摘している。このことは、裸体に対する国民社会主義の反応をよく表わしている。つまり、本当は肉体美に重点を置くのであるが、実際には民衆道徳の協力を得られるように裸体の提示の仕方にこだわったというのである。

*G.L.モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)『ナショナリズムとセクシュアリティ』(柏書房、1996)211.

**モッセは、『ナショナリズムとセクシュアリティ』冒頭において、「市民的価値観(リスペクタビリティ)」を次のように規定している。「市民的価値観(リスペクタビリティ)とは、セクシュアリティに対する適切な態度はもちろんのこと、「礼にかなった正しい」作法と道徳をさす用語である。」(前掲『ナショナリズムとセクシュアリティ』9 )また、訳者の佐藤卓己・佐藤八洲子は「リスペクタビリティ」とは、本来はヴィクトリア朝時代のイギリス市民社会で用いられた概念であって、「市民として他人から尊敬されることを求める中産階級を中心とした理念であり、精神的要素のみならず服装や消費生活など外面的要素も含む価値基準」であるとする(前掲『ナショナリズムとセクシュアリティ』の凡例)。モッセは言わば民衆道徳とも言い換えられるこの言葉をナショナリズムと密接に関連させて用いている。モッセによれば、「市民的価値観(リスペクタビリティ)」はナショナリズムの発展に従って成長してきたのであり、また、ナショナリズムを支えるものにもなったのである。この過程でナショナリズムはセクシュアリティ(性)を管理し、ある場合はセクシュアリティを管理し、それをリスペクタビリティに取り込ませた。このように、民衆道徳とナショナリズムとの共同作業として19世紀以降の現代史を捉えようとするのが『ナショナリズムとセクシュアリティ』におけるモッセのねらいである。

***Nationalsozialismusという語の訳語には、通常「国家社会主義」という訳語が与えられることが多い。しかし、『ナショナリズムとセクシュアリティ』『大衆の国民化』の訳者である佐藤卓己は、このような訳語を充てることによって、大衆民主主義における「国民」の魔性を棚上げされてしまうと述べる。また、大衆がナチズムに合意したという見解をとるモッセの指摘を正しく伝えるためにも「国家社会主義」ではなく、「国民社会主義」でなければならないのである。Nationalismusの訳語についても、「国家主義」は同様に誤りであって、正しくは「国民主義」としなければならないのである。

[314] では、その提示の仕方について見ていこう。まず、男性の裸体についてである。モッセは、ナチスが男性の裸体を提示するにあたって注意した点について、次のように述べている。

運動とスポーツで強く逞しく鍛えられた裸体の写真は、あるべきステレオタイプとして提示された。例えば、ハンス・ズーレンの『ドイツ人の体操』は、第3帝国期に数版を重ねたが、そこではスポーツ中の、あるいは山野を歩きまわる姿として、ほぼ完全なヌードが提示されていた。しかし、男性の肉体が公的に展示されるべきときには、用意周到な配慮がなされねばならなかった。つまり、その肌は体毛がなく、滑らかで日焼けしていなくてはならなかった。*

つまり、ヌードではあっても、「ありのまま」のヌードではいけないのであって、「理想的」に修正されたヌードである必要があった。では、「理想的」な裸体とは具体的にどのような裸体か。それは、ギリシアの彫刻で具体化されているような裸体である。ここで我々は、<大ドイツ芸術展>で推奨されていた芸術に彫刻が数多く含まれていたことを思い出す必要がある。<大ドイツ芸術展>に出品された彫刻において表現された肉体は、明らかに古代ギリシアの彫刻で取り上げられた肉体であった。これらのギリシア風の肉体は一見リアリスティックであるが、実際にはあくまで「理想的」肉体であったということに注意しなければならない。肉体と一口に言っても個々の肉体にはそれぞれ特徴があり、リアリスティックにこれらの肉体を描くのであれば、当然様々な肉体が描かれてもよいし、また様々な描かれ方をしてもよい。しかしながら、ナチス推奨の男性の肉体においては、贅肉がなく筋肉隆々とした肉体しか見られないのである。このようなステレオタイプが想定されるところに、ナチス推奨の「ギリシア的裸体」のわざとらしさがある。ナチスは、こういった「理想的」肉体のステレオタイプを「国民的シンボル」として機能させた。後述するが、ヒトラーも、「記念碑的」芸術を重要視した。このように、ナチスにとって新しいシンボルを「記念碑的」にする---つまり、それらの図像に伝統的なものとしての地位を賦与することは非常に大切なことであった。その点で裸体---特にギリシア的裸体は格好の材料だったのである。古代ギリシア芸術を何にも増して「理想的芸術」とする傾向は、ヴィンケルマンが18世紀に「高貴な簡潔さと静謐な偉大さ」と述べてから1つの常套句のようになり、正当であるとされる「美」の概念を形作った。もちろん、ロマン主義的な反論もあったが、古典的美が美のステレオタイプになり**、さらには人間性の極致として祭り上げられることにもなった。つまり、ナチスが政権に就いた段階では、「古典的」なものが人々のコンセンサスを得るための下地は完成していたのである。

*前掲『ナショナリズムとセクシュアリティ』、211.

**このような傾向はすでに19世紀初頭には完成しつつあった。例えば、フランスの王立アカデミーなどは古典的美の範疇に当てはまらない美術作品、すなわちドラクロワらのロマン主義絵画や印象派の作品などを受け入れることを拒否した。さらにはアングルのような古典主義的作品に対しても、官能性が感じられるなど厳密に古典主義的でないという理由で反対する動きもあったほどである。

[315] 一方、女性の裸体はどう提示されたのだろうか。ここで我々は、Fr.シラーが『優美と尊厳について』の冒頭で、ヴィーナス像について言及した際に用いた「優美」という概念を思い起こすことにしよう。シラーによれば、「優美」は、単なる表面的美(構成美)とは厳密に区別されなければならない。それは可動的な美であり随意的運動に付帯する美である。さらに「優美」には、それを所有するものの精神や人格が表れていなければならない。つまり、「優美」とはただ単に「美しい」だけではなく(もちろん、表面的な美しさも求められるのだが)、道徳的にも優れていなければ体現しえない美の概念なのである。ナチスが女性に対して割り当てた役割は、シラーによって適切に述べられた「優美」という概念の具体化である。モッセはこの点を指して次のように言っている。「「若いお嬢様」や「スポーツ娘」、そしてリュックサックを背負って練り歩く少女たちをナチ党は批判した。その批判によって、近代性への防波堤である古風な美徳の守護者としての女性が強調された。」*まず、女性の裸体は美しく描かれる必要があった。また、男性の裸体同様、これらの裸体画は情欲の対象ではなく、ナチス・ドイツのシンボルでなければならなかった。そこで好まれたのが「レダと白鳥」(この図像が性的興味を呼び起こすものであると言われれば、なるほどそのとおりかもしれないが)や「パリスの審判」といった伝統的な図像だった。これらの裸体画に登場するのは他ならぬギリシア神話に登場する女神であるが、これらの女神は当然ギリシア的美の象徴であり、一種の超越的な存在として提示されたのである。また、ナチスの裸体画や裸体像における1つの特色として「運動」があった。モッセもこのことについて言及しているが、この点は先に述べた「優美」という概念と関連を持っている。「優美」とは随意的運動に現われた美であって、固定的な相貌から生まれるものではないのである。一方、聖母子的図像や種の起源としての女性像も、ナチスの推奨する女性像の1つである。もちろん、これらの非裸体画も「優美」なポーズを取ることを求められた。このような図像が表わしている女性像についても、一種のシンボル化がなされていると考えられる。

*前掲、『ナショナリズムとセクシュアリティ』219.

[316] 農村の大家族の絵画についても同様のことが言える。この手の絵画に描かれた場面は現実にありそうなものであるが、実際は単に望ましいと考えられた農村社会を表わしているものではなかろうか。先に述べたように、「ドイツ的芸術」には見たままのリアリティがあった。しかし、そのリアリティの真偽は問題ではなかったのである。言ってみれば、見たままのリアリティは「偽りのリアリティ」であった。しかし、たとえ「偽りのリアリティ」であってもそれをあるべき姿のシンボルとして提示できれば、ナチズムの意図は達成されることになる。ナチスがこのような「作戦」を取った背景には、民衆の合意を得なければならなかったという事情がある。民衆道徳や民衆感情というものをいかにして味方につけるかということは、ナチスの党勢拡大にとって最大の課題であったといっても過言ではなかろう。もちろん、ナチズムの側ではそれらを利用しようと考えただけなのであるが、そのことを前面に出してしまっては「新しいドイツ」の実現は不可能である。そこで、ナチスは巧妙な「装置」を仕掛けた。その「装置」こそ、文化であり芸術であった。これは何も絵画や音楽といった芸術のジャンルだけではなく、ドラマなど民衆が身近に感じられる分野でも見られることである。例えば、池田浩士は、ナチス政権が第1次世界大戦の戦死者を放送劇において復活させることで、第1次大戦の敗戦、そして戦争を一方的に悪と決め付けるワイマル体制という「受難」からのドイツの「復活」をアピールしたことを指摘している*。これは放送を利用して、「新生ドイツ」の設立を約束するものである。「偽りのリアリティ」は、このようにしてあらゆる文化活動の場で用いられ、第3帝国実現のためにフルに活用された。第1次大戦の敗戦の影響で国際的に強い立場に立てず、発言力もなかったワイマル体制に対する民衆の不満をナチスが代弁していることを示すために、ナチスは「理想の実現」を示さねばならなかったのである。

*「死者たちとともに行進する---ナチズムの文化表現における「新しいもの」と「古いもの」---」<小岸、池田、鵜飼、和田編『ファシズムの想像力---歴史と記憶の比較文化論的研究』(人文書院、1997)所収>。

[317] このような虚構は、巨大彫刻において最もよく見出されるであろう。巨大彫刻は、モッセの言う「男性国家(メナーシュタート)」---すなわち、活力や攻撃的性質を賛美する国家---のシンボルであった。ナチスの芸術政策におけるプロパガンダの1つに「壮大なものを崇高に」というものがあったが、トーラクやブレーカーの作った巨大彫刻は、このようなプロパガンダの実践という性格を持っていた。これらの巨大彫刻も形象としてみた場合、他の推奨芸術と同じくナチスにとっての理想を具体化したものであった。しかしながら、これらの彫像はその巨大性ゆえに他の推奨芸術よりも強力に「記念碑的」印象を与える力を持った。さらに、<大ドイツ芸術展>が開催された『ドイツ芸術の家』のような巨大建築物も、巨大彫刻同様の作用をもったと言える。

[318] 巨大なものによって政治的なものを象徴させ、威圧感を与えるという手法自体は、何もナチスの芸術政策に特有のものではない。マルティン・ヴァルンケの指摘によれば、自然巨像は古代から存在したが、近世になって支配者のシンボルとしての意味が織り込まれるようになったという*。ヴァルンケは、描かれた風景の中の巨人像や山岳巨像をいくつか取り上げ、それらの多くが支配者のシンボルであることを検証しているのだが、このことからもわかるように、巨大彫像には政治的な意味が込められている場合が多い。しかし、ナチスの巨大彫刻は一支配者のシンボルという場合とは少々異なっていると考えられる。具体例をあげて、ナチズム彫刻の象徴するものを抽出しよう。ナチズム彫刻の第一人者であったヨーゼフ・トーラクは、ミュンヘン---ザルツブルク間のアウトバーン工事のモニュメントである『アウトバーン工事記念碑』を手掛けた。このモニュメントは巨大な石の塊を5人の筋骨逞しい男たちが動かそうとしている場面を彫刻化したものであり、その意味では裸体像の一種である。実際に、トーラクは完成したモニュメントの下絵を描いている。そこにはモニュメントだけではなく道路をはじめとする風景も描かれている。その風景において道路の流れは自然に従ってはいるが、前景にこの巨大なモニュメントが立ちはだかっていて画面全体を支配している。この下絵から、我々は風景全体を支配しようとする政治的な威力をはっきりと見て取ることができる。手前に巨大彫刻を配置することによって、風景は前景にある強い力によって制圧されているのである。しかし、ここで言う力とは何か1つの専制的力---例えば、ナチ党やヒトラーを象徴したものではない。専制的力を表すのが目的ならば特定の人物の像を作るのがもっとも効果的であるはずだが、トーラクのモニュメントにおける力は不特定の男たちの肉体を通して現れたものである。つまり、このモニュメントによって現わされた力は、第3帝国の担い手である「理想的ドイツ人」のものと考えられるのである。アウトバーンは、単に高規格道路というのみではなく軍事的な目的も持っており、正に第3帝国の動脈であった。このような重要幹線の建設という偉業は、「理想的ドイツ人」に内在する力によって成し遂げられたということこそ、このモニュメントの言わんとするところだったのである。

*マルティン・ヴァルンケ(福本義憲訳)『政治的風景---自然の美術史』(法政大学出版局、1996)108ff.

[319] このように、ナチズムは「理想的」国民国家の象徴としてこれらの巨大彫像を提示した*。これらの巨大彫像はナチズムの理念をより崇高なものに高めるために役に立ったと考えられる。確かにこれらの巨大彫刻が現わす姿も「偽りのリアリティ」かもしれないが、我々は巨大彫刻の持つシンボリックな作用は実にリアルなものなのであったことを忘れてはならないのである。

*ちなみに、このような巨大彫像の例が現在も見られることに我々は注意すべきである。例えば「自由の女神」はアメリカという国家の象徴として機能している側面も持っている。

3.4 風景画

[320] ナチスが推奨した風景画の特徴は前に述べた。ここで問題としなければならないのは、これらの風景画のどのような点が「ドイツ的」であるのかということである。

[321] ナチスにとって風景画とはどのようなものでなければならなかったか。その1つの答えは、先ほど引用したゲーリングの言葉にある。つまり、「素朴な民衆にでも理解できる」ような単純でわかりやすい風景画こそ「模範的」風景画なのである。したがって、故意に風景を歪めたり、画家が自分の主観を風景に読み込んだりすることは「模範的」ではないということになる。表現主義画家にも風景を描いた者がいたが、彼らは風景をありのままに描かなかったために「精神病」呼ばわりされ、さらには「退廃」とされたのである。

[322] このようにナチスが推奨した風景画の単純性を指摘する見解は多い。しかしながら、「わかりやすい」とは一体どのようなことか。これは簡単なように見えて意外と難しい問題である。「ドイツ的」という概念を解明する際、この問題は避けてとおることはできない。「わかりやすい」という簡潔だが不明瞭なこの言葉は、ナチスが民衆にかけた呪文でもあるからだ。なぜ、このような呪文をかける必要があったのか、また、なぜこのような呪文でなければならなかったか、ということが問題になる。これに関連して、我々は再びモッセの見解に注目しよう。モッセはナチスの風景礼賛について次のように述べている。「こうした風景は見るものに「直接」働きかけるものでなくてはならず、変わることなき美の理想が風景からもたらされねばならなかった。美なるものは「正真正銘のもの」であり、混沌ではあり得なかった。秩序の原理は美しきものの本質的要素であった。」*モッセの指摘で興味深いのは、ナチスの風景礼賛の背後には「美」とは「秩序」の原理であり、かつ「秩序」が「美」の原理であるという考えがあるとする点である。「美」と「秩序」とは対を成すとする見解は一見権力的であるように思える。しかし、このような考え方は必ずしも権力的であるとは限らない。例えば、我々が「抽象芸術は何が美しいのかよくわからない」と言うような場合、大体は「抽象的である」ことに一定の「秩序」を与えられないがゆえに「美である」という価値判断を下せないのである。もちろん、このような判断は到底正確であるとは言えない。「抽象的」であれば「秩序」がないとは限らないし、そもそも抽象芸術は「美」という限られた伝統的価値基準で測ることができるのかという問題に答えなければならないからである。しかし、(美術の専門家ではない)我々がこういった罠に陥りやすいことも確かである。ナチスはこのような使い古された、しかし一般受けしやすい考え方を採用し、大衆を味方につけたのである。人物画の分析をする際にも述べたが、このような考え方が容易に浸透した背景には古典主義的見解の持つ伝統とその伝統に形作られた正当性がある。

*G.L.モッセ(佐藤卓己・佐藤八寿子訳)『大衆の国民化---ナチズムに至る政治シンボルと大衆文化』(柏書房、1994)200.

[323] ところで、人物画を分析した際に、我々は「シンボル化された肉体」という側面に注目した。風景画についても同様のことが言える。1938年の<大ドイツ芸術展>に出品されたゲオルグ・ギュンダーの『収穫時の休息』に代表されるような数多く出品された田園風景画や農村の大家族の憩う風景を描いた絵画について取り上げることにしよう。これらの絵画に描かれた田園風景は一種牧歌的な雰囲気を持っている。都会の喧騒とはかけ離れた独特の空間がこれらの絵画を支配しているのである。おそらくこれらの絵画を見た人がまず感じることは、農村労働の楽しさや充実感、農村大家族が醸し出す安心感であろう。ナチス流に言えば、このような感じこそ「健康」なのであろうが、我々は先ほどヌードについて述べたところで示したような疑問を持たざるを得ない。その疑問とは、推奨風景画に描かれた田園風景はシンボリックな風景なのではないかというものである。関楠雄によれば、1933年以降の農村生活は牧歌的どころか、非常に厳しかったという。週75時間の労働時間は戦時中は82時間に増え、収穫時には100時間の労働がノルマとして課せられた。したがって、推奨風景画は現実を映していたのではない。やはり、第3帝国の理想的風景を提示していたものと考えなければならないのである。

[324] 一方、都会の風景は極めて消極的に扱われた。この理由として、大都会(メガロポリス)を扱った画家の多くが「退廃」芸術家であったことをあげるのは完全に正しいとはいえないものの間違ってはいないであろう。しかし、ナチスが都市をあえて無視するような態度を取った主たる理由は他にある。我々はここでヒトラー自身の見解に耳を傾けることにしたい。『我が闘争』において、ヒトラーが絶賛しているのは古代の都市である。ヒトラーは古代の都市には「記念碑的」な建築物があると述べている。彼によれば、古代都市の特色は巨大な公共建築物を持つことにある。これらの「記念碑的」公共建築物は、具体的には古代のアクロポリスや中世のゴシック寺院、各都市の市役所の建物であるが、これらの「記念碑的」建築物は、正に公共の偉大さを示したものに他ならない。そして、これらの建築物が現存し、なおその土地の象徴となっていることが、そのような建築物の永遠性、普遍性を証明するのである。しかしながら、現代都市にはこのような「記念碑的」建築物もなければ、偉大さもない。あるのは無秩序な薄汚い町並みだけである。その町ではデパートやホテルに代表されるような商業主義が幅をきかせ、売春等の「退廃」傾向がはびこっている。もちろん、デパートの建物は巨大であるが、それは単に私的でかつ悪趣味なものにすぎないのである。ここに書かれたことからもわかるように、ヒトラーの美意識は古代賛美に偏向していた*。つまり、現代の大都会(メガロポリス)には、「記念碑的」要素がないのである。農村社会は牧歌的風景によってシンボル化し得たが、都市は風景として積極的にシンボル化できなかった。したがって、都市については風景画というジャンルではなく、建築というジャンルで現実的(リアル)な風景の中にシンボルを置くことになったのである。このようなナチ建築物の代表例は『ドイツ芸術の家』の他、ミュンヘンの『総統館』やベルリンの『新帝国総統館』をあげることができる。これらはみな古代ギリシアの「記念碑的」建築物と同じ様式をもっているが、やはり現代の大都会の中に置かれることによって、「偽りのリアリティ」を実現し、ナチス・ドイツのシンボルとしての役割を担っているのである**。

*このようなヒトラーの好みは<大ドイツ芸術展>が開催された『ドイツ芸術の家』を見ても明らかであろう。1937年に完成したこのモニュメンタルな建築物は、高さ11メートルの石柱が立ち並ぶ古代ギリシア神殿を思わせる作りをしていた。ところで、『ドイツ芸術の家』の成立過程は非常に興味深いのであるが、これについては後述することにしよう。

**本稿はナチズム建築をテーマとした論文ではないので、建築についてはここで簡単にふれるにとどめる。ナチズム建築をめぐっては絵画以上にナチス内部の不統一が問題にされることが多い。また、「ナチズム様式」は定義不能であるとする見解もよく見かける。しかしながら、そのような見解でもナチスの建築群に古典主義的側面があることは否定していないのである。さらに、ヒトラーユーゲント・ハイムやジードルング(住宅)に見られるような三角の屋根を持った建築物はギリシア的建築物とは異なった性質を持つものであるとする見解もある。しかしながら、建築は絵画や音楽といった他の芸術分野と異なって、実用性という「制限」がついてまわる分野であることを忘れてはならない。この制限ゆえに、建築物---特に住居等、日常の生活に深く関わる建築物は、ある程度現実に妥協しなければならないのだ。ヒトラーユーゲント・ハイムやジードルングは正にこのような個人的建築物であり、象徴的であるより実用的である方が都合がよいことは当然である。したがって、従来型の三角屋根様式が採られたのも実用性を考慮してのことと考えられる。しかし、このような民族的な建築物も巨大なギリシア風の建築物も、それが新生ドイツの建築物として提示されたのは間違いがないところである。この点では、両者ともナチズム建築の一様式と考えることができる。

[325] ヒトラーは、「過去の偉大さ」について繰り返し述べ、それを現代においても再現しようとする。もちろん、ヒトラー流の古典主義は多分に懐古的であり後ろ向きなのであるが、およそ古典主義と分類される主張には、このような懐古趣味的側面が何らかの形で現れていることも事実である。このような傾向は18世紀の古典主義以降、ロマン主義の時代を経てさらに高まった。ヒトラーはこの権威ある精神的伝統を壮大化し、それに形態を与えたのである。「ドイツ的芸術」とは正にこの形態化された作品群に他ならない。「ドイツ的」とは、国民の中にあった伝統的な古典主義的価値観をシンボル化した際に与えられた形式の名称なのである。

4. ナチズムと表現主義をめぐる問題

[401] 前章では「ドイツ的」という概念について考察したが、先に予告しておいたように、我々はここでナチズムの内部矛盾に関する少々厄介な問題を取り上げなければならない。それは、表現主義の位置づけに関する問題である。ナチスによって表現主義の芸術が「退廃芸術」として処理されたことは前述のとおりであるが、その表現主義と他ならぬナチスの芸術観との親近性を指摘する見解が非常に多い。このような見解をどう考えるか、という問いに対して、本稿も答えなければならないであろう。

[402] さて、このような指摘は前章まで述べてきた内容と矛盾するかと言えば、決してそうではない。むしろ、この点を踏まえて考察を進めれば、本稿の目的である「ナチスの芸術観」をより厳密に解明することが可能になるのである。まずは表現主義とナチズムとの親近性を指摘する見解を取り上げ、それについて検討してみよう。

4.1 表現主義とナチズムとの共通点

[403] まず、最近目に付いたものから、このような指摘をしている例をいくつか示してみたい。

[404] (1)A.K.ウィードマンは、表現主義とナチスの精神的な共通点を次のように指摘している。

それ<国民社会主義と表現主義とに共通する特徴>は、表現主義的世界観のより神秘的で、特にドイツ的な面に見出だされる。すなわち、その特有の仕方での魂と内面性の強調であり、またその忘我的な生気論とそれに対応する好戦的非合理主義であり、またそのプリミティヴな汎神論と黙示録的観念論であり、そしてまたそれらすべてに増して、その原初的なものへの抗いがたい魅了である。いろいろな形を取りながら、これらの特徴のどれもが、ナチズムにおいて突出した姿となって現れた。*

ウィードマンによると、ナチズムと表現主義との共通点は、プリミティヴィズムを志向するところにある。そして、その根底にはロマン主義が存在する。プリミティヴィズムは人間存在の原初的形態への還帰を目指す傾向であり、時に物質文明に疲弊した人類に彼らが忘れ去ってしまった根源的な人間の在り方を思い出させてくれる。しかし、ネガティヴな言い方をすれば、それは人間の文化的成果の大半を否定することになる。もちろん、表現主義者が積極的にナチスに肩入れしようとしたわけではないし、ナチズムと表現主義がまったく同じ見解を述べているのでもない。表現主義の精神的基礎が結果的にナチズムに利用されただけなのである。

*A.K.ウィードマン(大森敦史訳)『ロマン主義と表現主義---現代芸術の原点を求めて/比較美学の試み』(法政大学出版局 叢書ウニベルシタス469、1994)288. なお、< >は本稿筆者による。

[405] (2)美術評論家の高島直之は建築史家のS・ギーディオンの3つの空間概念を用いて、ナチズム美学とバウハウスの美学との関連について述べている。ギーディオンは『建築、その変遷』で建築における空間の在り方を3つに分類している。「第1の空間概念」は彫刻としての建築であり、ギリシア建築における柱列のように彫刻的表現が建築を規定している。これに対して、「第2の空間概念」は建築物の内部空間をえぐり出し、開口部を作ることに重点が置かれた。18世紀には開口部を広げ、内部空間を光で満たそうとする傾向が見られるが、このような建築を本格化することは20世紀になり技術が進歩するまで無理であった。「第3の空間概念」はガラスや鉄骨を組み合わせる技術を用いて、内部空間を光で充満させることに成功し、まさに18世紀には実現不可能であった空間を現出させたのである。高島によれば、ナチスの美学もバウハウスの美学もそのもとには表現主義があった。表現主義はギーディオンの言う「第2の空間概念」の最終段階であるが、クレーやカンディンスキーら、表現主義者の一部はバウハウス様式へと---つまり、光や物質という「第3の空間概念」へと必然的に移行することになった。一方、ナチスの美学は表現主義という「第2の空間概念」の最終段階から一気に「第1の空間概念」に戻ろうとしたのである。したがって、バウハウスもナチズム美学も進む方向が異なっていただけなのであって、その根底にあるものは表現主義という「第2の空間概念」なのである。

[406] (3)これはよく指摘されるところであるが、ナチスの内部にも表現主義を容認する傾向があった。ゲッペルズがその典型であるが、彼はナチスが政権を握った1933年当時はもちろんのこと、1935年の時点でもはっきりと表現主義を是認している。関楠雄は、1935年3月から同年5月までミュンヘンで開催された《ベルリン美術展》の作品選定にはゲッペルズ自らが関わっており、バルラハ、ノルデ、ペヒシュタインの作品に積極的評価を与えていたことを指摘している*。また、池田浩士は、ゲッペルズ自らが表現主義的精神を持っていたことを、ゲッペルズの小説『ミヒャエル---日記に書き残されたあるドイツ的運命』を引用しつつ述べている**。さらにゲッペルズと対立していたことが指摘されるローゼンベルクであるが、彼も1933年7月にはナチ系新聞においてノルデの風景画を「力強く、勢いがある」と評価している。このような事実から考えても、ナチズムと表現主義との間には精神的な共通点があると言えよう。

*前掲『ヒトラーと退廃芸術』、67ff.

**前掲「死者たちとともに行進する---ナチズムの文化表現における「新しいもの」と「古いもの」---」38f.

[407] 我々は以上のような指摘をいかに考えるべきであろうか。もちろん(そう論証できるなら)、ナチズムと表現主義とはまったく異質なものであると述べることもできる。しかしながら、我々はこれらの指摘を頭ごなしに否定するような見解は取らないでおこう。つまり、ナチズムと表現主義には共通点があることを認め、どのような点に共通性が見られるかを考察しよう。

[408] 上にあげた3つの例は、ともに表現主義とナチズムとはまったく同じではないものの、そこには共通点が見られるとしている。我々はこれらの見解について検討を加えながら、表現主義とナチズムにはどのような共通点があるのか考察を進めることにしたい。まず、ウィードマンの見解についてであるが、この見解は表現主義の根底にロマン主義をおいている。我々は古典主義的価値観の復活という点からナチスの芸術観を捉えてきたが、後期ロマン主義*であるならば、ナチズムとまったく無関係であるとは言えない。後期ロマン主義者はヴィクトル・ユゴーら一部の例外はあるものの、概して「反動的」様相を呈している**。例えば、それは英雄崇拝や国民(民族)主義といったものに見られる。一方、表現主義がこのような「反動的」傾向とまったく無関係であったと断言することもできない。例えば、素朴な民族主義者であったエミール・ノルデは、自伝において北方民族の優越性を記している。表現主義とナチスのイデオロギーが完全に一致すると考えていたノルデは、<退廃芸術展>に自らの作品が出品されているのを知って、ゲッペルズと文部大臣宛に自分に対する中傷をやめるよう抗議している。このノルデの例からわかるように、表現主義者はある種の「反動的」性質を持っていたことがわかる。

*ここで、我々は一般に「ロマン主義」とよばれる精神運動には2つのタイプがあることに注意すべきである。若いFr.シュレーゲルやノヴァーリスらのように「永遠性」という進歩的理想を定めてそれに向かって邁進する、言わば「成長するロマン主義」がある一方、老Fr.シュレーゲル、クライスト、ザヴィニーらのように進歩的理想から後退し、反動的な思想や自死という生に対する絶対的反動へ、つまり明らかな解答を求めて「後退するロマン主義」がある。ウィードマンはロマン主義的世界観について述べる際にこの2つのタイプのロマン主義を区別しないのであるが、これらのロマン主義には内容的な共通点はあっても、その方向性においてまったく対立するものであることを考慮すべきであることを断っておきたい。

**一方、「進歩的」ロマン主義はナチスとは直接的関係はないと考えるべきである。ヒトラーが「記念碑的」と称して第3帝国の理想化をはかったことは初期ロマン主義者における「永遠性」の理想と似ていると感じるかもしれないが、これは「ロマン主義」と「古典主義」とを混同することからくる誤解である。ヒトラーの述べる「記念碑」とは「完全性」の理想であり、完成された静的な美の理想なのである。これに対して、若いFr.シュレーゲルによって典型的に述べられている「永遠性」は、完成することはありえない動的な性質をもつものである。

[409] 近代の自我の分裂に対して何らかの解答を与えようとするという点で、後期ロマン主義とナチズムや表現主義は共通している。ロマン主義は合理性(Fr.シュレーゲルの言い方を借りれば、「水っぽい理性」)や既成の形式や価値に対して(反逆ではなく)疑問を呈し、自ら新しいあり方(別の言い方をすれば、近代的なあり方)を模索しようとする特性を持つ。初期ロマン主義者はこのような新しいあり方を模索しようとして果敢に出発した。しかしながら、Fr.シュレーゲルの「永遠に生成するのがロマン主義文学である」という一言に代表されるように、このような模索には目標はあっても達成はありえない。つまり、ネガティヴに言えば、決して成し遂げられないという挫折感を伴ったものであった。現状を打破しかかったが、行き場所はどこにもないという閉塞状況が自我の分裂である。後期ロマン主義はこのような閉塞状況に対し、あえて明確な「答」を提示しようとする。しかし、かつて古典主義が成し得たような、ギリシア的な理想的調和に立ち戻ることはできなかった。さらに、あくまでロマン主義を標榜する以上、近代の「古典」ともなった合理主義や産業社会に転向することも許されない。このような状況から導き出される解答は、近代的な価値観を告発し、しかも古典的神話に代わる「新たな神話」を創造することである。このようなものを求めようとする点において、表現主義とナチズムは後期ロマン主義という共通の根を持っているのである*。

*ウィードマンは具体的にはプリミティヴィズムを両者共通の特色としてあげている。このような見解は時々見かけるが、まったくの誤りであるとは言えないものの少々疑問を感じる。表現主義には確かにプリミティヴィズム的傾向があるが、ナチズムの場合、北方的な自然を求めたことはあっても、非文明的素朴さに関心を示すという意味におけるプリミティヴィズムは見られない。それどころか、ナチズムにとってはこのような非文明的なもの一切---例えば、黒人や原始的生活を営む人々やジャズ等その民族芸術---は明らかに劣ったものであり、「退廃」に他ならないのである。

[410] 次に高島の見解についてであるが、彼の見解に特徴的なことは、ナチズム美学と表現主義を同列に置かないという点であろう。高島の言葉を借りるならば、「第2の空間概念」の最終段階に相当する表現主義を「第1の空間概念」に強引に引き戻そうとするのがナチズム美学であるということになる。しかし、ここで注意すべきことは、表現主義をストレートに発展させたのがナチズム美学ではないとされている点である。高島によると、表現主義は「第3の空間概念」を具現化したものであるバウハウスをはじめとするアバンギャルディズムへ必然的に移行することになった。一方、ナチズム美学は「第3の空間概念」に進もうとせずに、逆に「第1の空間概念」へ、古典主義的なものへ戻ろうとしたのである。このように、高島はナチズム美学への「スプリングボード」として表現主義を位置づけている。つまり表現主義---アバンギャルドという流れへのアンチテーゼとしてナチズム美学を位置づけているのである。我々は、表現主義とナチズムとの差異をあげながらも、表現主義なしではナチズム美学もありえなかったことを指摘する高島の見解を支持したい。確かにナチスは芸術がアバンギャルディズム的傾向へと進むことは好まなかった。アバンギャルドの芸術は、ロマン主義までの芸術にとっては「タブー」であった様式や形態の解体を実行した最初の芸術と言えよう。具体的な形態をシンボル化しようとするナチズムにとっては、このような試みはそのねらいを阻止ししかねないという点で脅威であった。さらに、様式や形態の解体は、どうしてもそれらに呪縛されざるをえない古典主義的芸術の限界を打破する力をも内包していた。様式や形態という「タブー」を打破した芸術に対して、例えば、ローゼンベルクは「原子化」を推進したという「罪」を宣告するのである。また、アバンギャルディズム的な「第3の空間概念」を可能にするのは近代の産業であり技術であり、商業主義的なものであった。このようなものは、ヒトラーの目指していた「記念碑的なもの」の建設にとって目障りであった。ヒトラーが「第3の空間概念」を容認しなかったことは、『グラースパラスト』と『ドイツ芸術の家』とを見くらべればよくわかる。前章で述べたように、<大ドイツ芸術展>が開催された『ドイツ芸術の家』は典型的なナチス建造物である。この建物が建てられた理由は、やはり大芸術展示場であった『グラースパラスト』が1931年6月に焼失したためであった。『グラースパラスト』は1854年に鉄とガラスを素材にして作られた近代建築物であり、先ほどのギーディオンの区分を使えば、「第3の空間概念」を実現した先駆的な建物である。ヒトラーは『グラースパラスト』焼失後、すでに跡地には新たな芸術の展示場を建設すると決めていたのであるが、その結果できたのは「第1の空間概念」を具現化した『ドイツ芸術の家』であった。関楠雄の指摘によれば、ヒトラーは『ドイツ芸術の家』の建築に際しては、設計者のパウル・ルードヴィヒ・トローストと協議してアバンギャルディズムを排除することで一致したという。このような事例からも、ナチズム美学が表現主義とそれに基づくバウハウス等のアバンギャルドを踏み台にして、しかしながら、それを非難するという形で発展したことがわかる。

[411] 最後に取り上げた見解は、以上の2つにくらべてより深刻であるように見える。なぜならば、これらの見解は表現主義からナチズムへ直結するものがあり、さらにこのような流れこそ「ドイツ的」であるとしているからである。しかし、ローゼンベルクはナチ党内部で表現主義の取り扱いをめぐってゲッペルズと対立していた。『二十世紀の神話』において、ローゼンベルクは表現主義を次のように攻撃する。

神話なき時代の悲劇は、それ<印象主義>に続く数十年の間に更に極点に達した。人は最早や理知主義を欲せず、限りなき色の分解を憎みはじめた。彼らは救済を、表現と力を求めた。それは正当な感情であった。しかもその結果は、表現主義なる奇形物であった。すべての者が表現を叫んでしかも表現すべき物を持たず、美を叫んでしかも真の造形力をすべて失ったのである。かくて表現は作為となり、様式を造るべき新しい力を生む代りに、原子化が新たに押し進められたのである。*

ローゼンベルクによれば、表現主義とそれに続く新即物主義は「悲劇の極み」なのであって、「退廃」の最たるものなのである。先にノルデの絵画に対してローゼンベルクが一定の理解を示したことを指摘したが、これは例外的なことと言った方が適当だ。ノルデが例外的に評価されたのは、彼が民族主義者だったことに加え、評価した絵画が北ドイツの海岸を描いた風景画であったという特殊事情を考慮しなければならないであろう。このようなテーマの風景画ならば、「北方的」なものを賞揚するナチスの見解とも合致する。しかし、(実際の資料がないため推測の域を出ないが)ノルデの宗教画や人物画に対しては、ローゼンベルクは明らかに違う反応を見せたに違いない。

*ローゼンベルグ(丸川仁夫訳)『二十世紀の神話』(三笠書房、1938)167f.なお、旧仮名遣いはすべて改めてある。なお、< >は本稿筆者による。

[412] 結局、表現主義とナチズムとの共通点とは、両者とも近代的なものに対しては疑問を持っていたという点に集約できる。一見すると対立的にしか見えない表現主義とナチズムの間に類似性、共通性がある最大の原因は、両者の根底にロマン主義的傾向が存在するという正にそのことである。別の言い方をすれば、ロマン主義の遺産が表現主義であり、かつナチズムであったということになる。もっとも、このことはロマン主義者の関心と表現主義者の関心、あるいはナチのイデオローグの関心が同じであったことを意味しているのではない。3者の関心はみな違うところを向いていた。にもかかわらず、合理性とそれを基盤として発展してきた科学技術という近代を規定する主要な要素を疑問視し、合理的なものに飲み込まれない人間存在を追求し、それを「新たな形態」として具体的に示そうとした点において、3者は共通していた。異なっていたのはその方向である。高島の見解はこの点を的確に言い当てている。表現主義がバウハウスに移行しなければならなかったことは、「新たな形態」の模索という点と切っても切り離すことができない。バウハウスに見られるようなアバンギャルディズム的傾向が表現主義の「新しい形式」の行き着く先であったとするならば、ナチスにとっての「新たな形態」とは古典主義的なものへと向かうことであったと言えよう。このように、表現主義とナチズムの方向性は異なってはいた。しかしながら、その精神的土壌には重なり合う部分があったと考えられるのである。

4.2 表現主義とナチズムとの相違点

[413] 前節で我々は表現主義とナチズムとの類似性を指摘した。しかしながら、前節の最後で確認したように、それはナチズムと表現主義がまったく同一であるということを意味するのではない。もしまったく同一であるなら、なぜ表現主義が「退廃」扱いされなければならなかったか説明がつかないであろう。ナチズムと表現主義との間には、袂を分かつ何かがあったのである。

[414] ここで1つのヒントとなる事柄に注目したい。それは、都会についての表現主義とナチズムとの見解の相違である。2章で述べたように、大都会(メガロポリス)は表現主義画家の題材として取り上げられることはあっても、ナチズム絵画の題材として取り上げられることはない。ここで注意しなければならないのは、このような事実が示すのは、表現主義者は都会生活を肯定していたがナチズムは否定していた、というような単純な図式があるのではないということである。都会の「現実」を嘆きそれを告発したのは、ナチズムよりもむしろ表現主義の方ではないだろうか。もちろん、表現主義者全員が都会の問題に熱心なわけではなかったが、例えば「ブリュッケ(橋)派」のキルヒナーは、都会の「現実」を題材に取ることが多かった。

キルヒナーは(ブリュッケの)仲間のうちで最も理知的な人間であり、大都会のかかえる内部矛盾をえぐる手法において、《ブリュッケ》の他の芸術家たちよりもはるかに先へ進んでいた。建築と人間との錯綜した組み合わせにより、彼は、幻滅を感じる現実を暴露している。それまでのしなやかな曲線的な表現は、しだいに厳しい鋭角的なスタイルに席をゆずって行く。あきらかにこの様式は、都会や工場の建築群の描写に最適であった。*

キルヒナーが都会を題材とした絵画を数多く描いた背景には、都会の「現実」に対する幻滅があった。もし、彼が都会をポジティヴに捉えていたならば、このような幻滅を感じることもなかったであろう。『我が闘争』でヒトラーも述べているように、都会には少なからず商業主義的傾向があり、かつて見られたような「偉大な」公共建築物は商業主義ベースの近代建築物や工場に飲み込まれてしまった。そのような近代的都会においては、当然のごとく人間も都市を支える1つの歯車に成り下がり、没個性的になっていく。表現主義者はこのような「現実」を絵画や版画という手段で鋭く告発したのである。

*ホルスト・イェーナー(土肥美夫・内藤道雄訳)『ドイツ表現派 ブリュッケ』(岩波書店、1994)57. なお、( )内は本稿筆者による。

[415] 表現主義者と同様に、ナチズムも都会をネガティヴなものとして捉えた。しかし、その捉え方は表現主義のそれとは明らかに異なっている。つまり、表現主義はネガティブなものとして都会を告発したのに対し、ナチズムはそうはしなかった。ナチズムは都会という「現実」を覆い隠すことに腐心した。こうして都会にあふれる「退廃」に蓋をしておき、真に「ドイツ的」なものを作り出すことが、ヒトラーの言うところの「記念碑的」の目指すところであり、ナチス流の古典主義の目標であった。つまり、ナチスの掲げる「理想」をできるだけ容易に実現するためには、民衆の「現実」に対する問題意識が深まることは明らかにマイナスの作用しかしなかったのである。民衆が「現実」に盲目であればあるほど、ナチスの掲げる超理想的神話の虚構は見抜かれにくいものになる。近代的な大都会を描写することは、このような施策を阻止する力を持っているがゆえに葬り去られたのである。

[416] 一方、農村に対する両者の態度はどうか。これも、都会の場合と同じことが言える。ここで、我々は再びノルデに注目しよう。表現主義者はその技法や理念等の点においては一致していたが、描き出す対象という点では決して足並みをそろえていたわけではない。北ドイツの農村出身だったノルデは、都会での生活になじめず自然を自らの絵画の対象とすることが多かった。都会を否定し自然を題材とする点では、ノルデもナチズムと共通点をもつ。特に、ノルデは自らの故郷である北シュレースヴィヒを好み、その風景を描くことが多かった。しかし、ノルデの自然表現は北方的風景という「現実」を表出したものなのである。この点はナチス風景画の特徴とまったく異なっている。前章で述べたように、ナチス風景画はありもしない「偽りのリアリティ」をいかにも実際にある風景であるかのように描き出したものであった。このような「偽りのリアリティ」は、やはり民衆の目をナチスの想定した「理想」へと振り向けるための仕掛けと言える。しかし、素朴な民族主義者であったノルデは、ただ故郷の地を愛しその郷土愛を基礎として芸術活動に打ち込んだのであった。ノルデの絵画には、ナチスの仕掛けたような罠は見られないのである。このような相違は、何もノルデの絵画とナチズム風景画との関係にのみ指摘できることではなく、少なからず他の表現主義絵画とナチズム風景画との関係においても指摘できる。例えば、ヘッケルやキルヒナーも北海に面した地方に出かけて行き、その漁村などの「現実」を描き出している。

[417] このように「現実」を描くということ---つまり、実際にある風景と向かい合い、それを自己の内面から表出したものとしたものとして描き出すことは、表現主義者の1つの特色である。ナチスは表現主義の絵画を「病める精神は自然をこう見た」「民衆の内面的生活からの離反」などと誹謗したが、実際は表現主義者がドイツの「現実」に強い関心を持ち、それを熱心に描き出そうとしたことに対して危機感を抱いていたのである。

[418] そして、さらに決定的に重要な相違点がある。それは、古典主義と両者の関係である。前節で、ナチズムと表現主義とはともにロマン主義的傾向を持つことを指摘した。しかし、第3章でも述べたように、ナチズムの基底には明らかに古典主義的傾向が存在する。ナチズム美学の大きな特徴は、古典主義的傾向をベースにして後期ロマン主義がそれに融合したというところにある*。曲がりなりにも古典主義とロマン主義とを「精神的伝統」というジンテーゼにまとめあげたのがナチズム美学なのである。一方、表現主義はロマン主義の落し子ではあったが、古典主義的な「よき趣味」とはむしろ対立するものであった。20世紀の芸術家たちにとって、古典主義的な「美」の概念や古典的なテーマに従って表現することは、もはや魅力のあるものではなくなっていたのである。先にロマン主義における自我の分裂について触れたが、19世紀のロマン主義者たちがこのような分裂に直面して苦悩したのに対し、20世紀の芸術家たちは明らかにこの分裂状況を解決しようとした。表現主義者による解決の方向はナチズムとは異なり、古典主義的な形態を目指すことではなかった。山本尤は表現主義が伝統的芸術理解をラディカルに破壊し、文字どおり「芸術における精神的なもの」を一心に模索したことを指摘して、表現主義が「近代の合理性とその権力要求の中に含まれている破壊の潜在力をいち早く嗅ぎ付けて、新しい美の領域を開拓して、そこに自らを近代の傷跡として表現しようとした」**と述べる。もちろん、古典的テーマがまったく取り上げられなかったわけではない。例えば、キリスト教的図像は様々な作品で顔を出している。しかしながら、表現主義者にとって、古典的テーマについての正確な解釈とその忠実な表現が問題なのではなかった。彼らにとってそれは表現のために用いられる手段にすぎない。それに対してナチズム美学においては、古典的テーマは単に手段ではなく(もちろん、民衆の目を眩ませるための手段ではあったが)、古典的美の実現こそ必要なものなのである。

*例えば、モッセもこのような指摘をしている。前掲『大衆の国民化』199f.を参照のこと。

**山本尤「表現主義と近代」<『岩波講座 現代思想第14巻 近代/反近代』(岩波書店、1994)所収>44.

[419] 以上で検討してきたように、表現主義とナチズムとでは共通点もあるのだが、相違点も多い。我々は共通点も相違点もともに存在したということを認める必要があるであろう。しかしながら、1つだけ注意しなければならないのは、表現主義とナチズム美学とでは向かう方向が決定的に異なっていたということである。表現主義もナチズム美学もともに「新しい美学」を志向した。しかし、表現主義は伝統的な美の概念を破壊することによってその解答を模索しようとしたのに対し、ナチズム美学は表現主義が破壊しようとした伝統的な美の概念そのものを取り入れることによって、それを新たな「ドイツ的」シンボルとして示そうとしたのである。このような決定的相違があることを斟酌すれば、我々は表現主義とナチズム美学の相違点を重視しなければならない。ナチスが<退廃芸術展>と<大ドイツ芸術展>という2つの展覧会を開催した理由も、本節で述べたような相違点に基づいているのである。

おわりに

[501] 以上で行ってきた考察をふまえて、最後にナチスの芸術観の本質について述べることにしよう。

[502] 第3章において、我々はナチズム芸術には古典主義的側面が見られることを指摘した。一般的にナチズム芸術というと「北方的」「ゲルマン的」という形容がなされることが多い。しかし、ナチ・イデオローグが好んで用いたこの概念にあまり振り回されるべきではない。むしろ、「北方的」「ゲルマン的」という曖昧な言葉によって言い表されたものの実体を正しく捉えることが重要である。確かにヒトラーも人種については熱っぽく語っている(というより、純血を保つことの重要性を前面に押し出している)し、第1級のナチ・イデオローグであるローゼンベルクも「北方人種」の優越性について語っている。特に、ローゼンベルクは「北方的」と「ギリシア的」とを熱心に峻別しようとする。彼は『二十世紀の神話』において、「北方的」特質が最終的に人間内部の奥底にまで下り、その総合的な「美的意志」によって全体をまとめようとするのに対し、「ギリシア的」特質はそのような人格でなく、単に外的な形式的美に終始しているにすぎないと述べる。しかしながら、そのローゼンベルクも少なくとも初期のギリシア人は「美的意志」を持っていたことを認めざるを得ないのである。彼は次のように述べている。「かつてギリシア人は内に躍動する意志を蔵していた。死せる石をも血の脈打つ生命に甦らせたという一芸術家の愛、そこにはすべてを形成する美的意志の告白が潜んでいる。また、パルテノン上の粗剛な絵画、ギリシア舞踊、失われたギリシア音楽、すべては今日考えられる以上に、かかる意志の高鳴りを響かせたであろう。」*このように、ナチズムには古典的なものを否定しきれない傾向があった。特に形のない芸術---音楽等---ではワーグナーのごく新しい作品についても「北方的」という形容を与えることができたが、美術や彫刻、建築という形態をもった芸術については現代芸術をことごとく否定してしまっている以上、懐古的にならざるを得ないのである。

*前掲『二十世紀の神話』175. なお、旧仮名遣いはすべて改めてある。

[503] ところで、ナチスの古典主義には多分に純粋でない要素がある。それは、古典的なものを「利用」したからである。「新しいドイツ」を実現するためにどうしても民衆の支持を取り付けなければならなかったナチスは、「よき価値観」を実現している古典的な作品をシンボルとして活用することで、自らの政権基盤の強化を図ったのである。ナチス流古典主義には「政治的配慮」が含まれているということは、どうしても拭い去ることができない。このことは、抽象表現や誇張表現の多い現代芸術を集めた<退廃芸術展>と対置させるような形で古典的作品を<大ドイツ芸術展>に出品したことからも察することができる。しかしながら、<大ドイツ芸術展>で展示された作品の多くが古典主義的であったこと、そしてナチスが古典主義的芸術によって「新しいドイツ」をシンボライズしようとしたことは間違いがないのである。

[504] 一方、第4章で述べたように、ナチスの芸術観にはロマン主義も多大な影響を与えている。特に、ギリシアを「北方的」と峻別しようとするローゼンベルクの姿勢は多分にロマン主義的である。ローゼンベルクの述べる「北方的」という理念は、彼が「魂の表出」や「動的」という言葉を多用することからも伺えるように、むしろ「ロマン的」とでも言い換えたほうが適切かもしれない。何かしらの理想に向かって突き進もうとする点において、ローゼンベルクの示した解答はロマン主義的である。確かに<大ドイツ芸術展>で示された作品の形態は古典主義的であったが、それは現代の状況に対置されるべき「理想」として提示されたものである。このような態度は(それがギリシアであれ、「北方人種」の故郷である北方アトランティスであれ)絶対に戻ることができない「過去」を目標にした後ろ向きのロマン主義であって、ある究極的解答を提示しようとする後期ロマン主義の特徴なのである。近代に死亡宣告を下し、現代という時代に対して解答を与えようとする傾向は、表現主義にも見られるものである。しかし、ナチズムと表現主義では定めた目標がはっきりと異なった方向を取っていた。それが「ドイツ的」と「退廃」との分岐点になったのである。

[505] ナチスの芸術観は、古典主義とロマン主義という大きな精神的支柱を「新しいドイツ」の旗印のもとに総合したものであった。古典主義もロマン主義も伝統というものによって飼い慣らされてしまっていて、民衆の賛同を得るには好都合だった。ローゼンベルクは「北方人種」の始源の地については何も語ってはいない。しかしこの「幻想」は、民衆の中に潜在していた「ドイツ的」価値観を第3帝国の理想として仕立て直すことによって現実味を帯びてきた。2つの展覧会とそれに至るまでの芸術統制の過程は、単に芸術の受難というだけでは語れない。その背後には一見「被害者」であるかのように見える民衆の支持があった。ナチスはその力を利用して第3帝国という「虚像」の実現をはかったのである。

+本稿は、1995年度滋賀大学大学院教育学研究科「倫理学特論」のレポートを加筆・修正したものである。ただし、本稿の骨子を「第4回 '30年代思想フォーラム」で発表し、その際いただいたご意見をもとに若干再修正を行なった。なお、「第4回 '30年代思想フォーラム」参加者の方々からは貴重なご意見をいただいた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。


   


編集後記

 安彦論文は、安彦としては、メイン・テーマの一つである「道徳の理由」の再論準備に当たって気になっていた「大庭・永井論争」にコメントを加えたものである。この「論争」はもうかなり前のもので、ずっと心にかかっていたが、本論稿で宿題を一つ果たしたという感じである。この論稿はコメントの要請を添えて予め両氏に送って読んで頂いたが、永井氏からは、「この問題については、生きていれば今世紀の終わりぐらいに、もう一度論じる予定があります。」という添書きと共に短いコメントを頂いたので、(了解の上)それを併せて掲載させて頂いた。なお、氏はその後、論稿「よく生きることヤテ、そらナンボのもんや?」を含む論文集『ルサンチマンの哲学』を河出書房新社から出版され、その際「最小限の加筆訂正」をされたが、安彦の論文との関係においては問題になるものではないということである。
 また、大学院の麻生君には、レポートとして提出してもらっていたものを大幅に加筆して論文に纏めてもらった。このテーマについてはすでに多くの論考があるが、解釈は実に様々であり、それだけ難しいテーマでもあるということで、麻生君としても決して最終の見解ではないであろう。修士論文のテーマとはかなり異なるものであるが、このテーマについても更に研究を進められていくことを期待している。(安彦記)

1997/06/30



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( E-mail:abiko@sue.shiga-u.ac.jp)

1997/06/30 作成