「人間中心主義vs.-人間中心主義」再論

 

安彦一恵

 

 

キーワード:人間中心主義vs.-人間中心主義、環境プラグマティズム、内在的価値、存在価値、自然、生態学、環境倫理学、効用、真正の利他主義、愛、隣人愛、倫理性

 

 「環境倫理学」において、かつて「人間中心主義か非-人間中心主義か」という論点が最大の論争軸を構成していた。それが現在、いわゆる「環境プラグマティズム」の主張線上で、いわば拡大版人間主義で収斂しつつあるようにも見える。そして、地球温暖化問題の全面化の現状のなかで、この主張線上で、求められているのは「行動」であって、もはや形而上学的論争は不毛であるとされつつ、かつてのこの論争は非-現実的なものとして関心の対象から外された感がないでもない。本稿は、これに対して、特殊「倫理学」として果たしてそれでいいのかという問題意識のもとで、環境プラグマティズムの議論にも関説しながら過去の論争を再構成的に整理しつつ、かつてのものに対しては「再論」として、改めて「人間中心主義vs.-人間中心主義」という論点を問おうとするものである。

 

 

一 過去の論争の総括(一) ― 両主義間対立の出現 ―

 

 「人間中心主義vs.-人間中心主義」論争の出発点を設定するなら、前世紀初頭のアメリカにおけるG・ピンショー(Pinchot)とJ・ミューア(Muir)の論戦[1]にそれを求めることができる。共に自然環境保護に携わっていた両者は、サンフランシスコ郊外の景勝地ヘッチヘッチ渓谷におけるダム建設をめぐって、建設賛成と反対とに基本的に立場を異にするに至った。ピンショーの自然保護の原則は、「開発(既存の資源を現在の世代のために利用する)、浪費の防止および少数のためではなく、多数のための天然資源の開発である」[2]。すなわち、人間の経済的利益の確保のために自然を合理的に管理しようというものである。これに対してミューアは、19世紀のロマン主義的自然観や、神の栄光を示すものであるというキリスト教的世界観の影響のもとで、美的鑑賞の対象としても自然を在るがままの状態に保持しようとする。共に自然の保護を説くのであるが、「保護」について前者の「保全(conservation)」と後者の「保存(preservation)」とに区別される場合も在る。[3]

 両者は、上記のダム建設計画に関して、ミューアは「人間にはパン[水][4]と同じように美が必要だ」、ピンショーは「サンフランシスコの子どもたちを[水不足から]救う方が先だ」として、鋭く対立した。この対立は当時の政治権力のもとでダム建設容認で決着したが、論争としては自然の「保存」か「保全」かという対立が続いていくことになる。

 以後も現実の政策は「保全」の立場で展開されていくが、戦後、単なる情緒的な自然崇拝を超えて、A・レオポルド(Leopold)「土地倫理(land ethic)」や、A・ネス(Naess)「ディープ・エコロジー(deep ecology)」などの「保存」派の非-人間中心主義の思想が改めて展開されていき、「保全派」の自然保護は人間の経済的利益確保だけをもとめる「浅い(shallow)」ものだとして批判されていくことになる。同時に、「倫理」として、「保全」派のものが既存の(人間に定位した)倫理を単に自然に関わる領域にも適用したものだとして、それに対して新たな倫理として「環境倫理」が説かれていくことにもなる。

 今日では、この倫理的配慮の対象を人間を超えて拡大するものだけでなく、環境に関わる人間の行為を人間の間の問題として統制するものを意味するものも「環境倫理」と呼ばれ、そこに「環境倫理」の人間中心主義版と非-人間中心主義版との二ヴァージョンに大別されることも在る。用語法としては本稿筆者(安彦)もこれを採用する。と同時に、この(思想としての)「環境倫理」に対して、規範倫理学的にその体系化・正当化を行う、あるいはメタ倫理学的に関連諸概念の分析・検討を行うというかたちで「環境倫理」が ― 「倫理学」の新しい領域として ― 展開されてくることにもなる。

 その「環境倫理学」の展開のなかで最主要論点となったのは、自然は「内在的価値(intrinsic value)」をもつかという問題であった。「内在的価値」の規定は容易でなく論者によって異なりもするが、「道具的(手段的)(instrumental)」価値との対比において用いられることが多いことに即して、大雑把に自己目的的価値であると了解することができる。[5]

 そしてさらに、この「道具的価値」を人間にとってのそれと了解して、自然にはそれに尽きない「内在的価値」が在るとも非-人間中心主義からは主張された。上のミューアの発言もそう了解可能なのであるが、その場合、多くは、人間にとっての価値はいわゆる経済的価値に限定されていた。実際、人間中心主義は、多く、(限定的に)人間中心的物質主義とでもいったものとして了解され、その物質主義を批判するものとして非-人間中心主義が語られてもいた。(さらに限定して、(経済的)利己主義や(経済的)現世代主義という意味で人間中心主義が了解される場合もあった。上のピンショーの発言は、この後者に相当するとも了解可能であるが、今日では、世代間問題をも射程に入れるかたちで、経済的利益追求に限定するとしても、人類(全体)にとっての経済的利益 ― その最基層を成すのは人類の生存である ― を説くものが一つの基本的立場となっている。地球温暖化が危機として語られる場合、その大半はこの「人類の生存」を原理とするものであろう。)

 しかしながら、これを拡大して、人間にとっての非-経済的価値(ミューアの発言の場合「審美的価値」) ― これを有意化するものは“Cathedral view”(自然を「大聖堂」(のようなもの)と見る見方)とも呼ばれている[6] ― まで射程を広げると、およそ人間にとっての価値を自然に認めるものを全て「人間中心主義」と呼ぶことが可能である。そしてその場合、「非-人間中心主義」は、より限定的に、かつより厳密に、一切の人間的価値を超えたまさしくそれ自身としての価値が「内在的価値」として自然には在ると説くものとなる。

 いわゆる「環境経済学」において、「(環境)倫理学」とは当初は相対的に独立して、「経済学」としていわば当然に人間の経済的活動に即して、自然の価値が考察され、そこに「自然の使用(use)」という観点から「直接的使用」と「間接的使用」との区別が提示されている。森林について言うと、木材としての使用は前者であり、たとえば森林浴の場としての使用は後者である。ミューアのような「美」(一般的には、物質的という意味での経済的なものに対する「精神的」なもの)を有意化するというかたちで「非-人間中心主義」とされてきたものは、これで言って「間接的使用」を有意化するヴァージョンの人間中心主義として(再)定式化可能である。[7] 経済的=物質的という等置は厳密でない。むしろ経済的=市場的のほうがより厳密であろう。この意味では「精神的なもの」も ― たとえば市場価格をもつという意味で ― 十分「市場的」ではある。しかし、ここは、多数派の用法に合わせて経済的=物質的としておく。

 以上の総括を纏めると、「人間中心主義」の用法として次の3レヴェルおよび2系統を相互に区別して取り出すことができる。言うまでもなく同時に、このそれぞれに対して非-人間中心主義の諸ヴァージョンを区別することができる。そして、或るヴァージョンの非-人間中心主義は別のヴァージョンの人間中心主義には包摂されることになる。

 

 経済主義系統:

 (1)経済的利己(自己中心)主義

 (2)経済的現世代中心主義

 (3)経済的(世代非優位化的)人間中心主義

 

-経済主義系統:

 (4)利己(自己中心)主義

 (5)現世代中心主義

 (6)(世代非優位化的)人間中心主義

 

 

二 過去の論争の総括(二) ― 「内在的価値」存在の論証 ―

 

 より厳密な意味で「内在的価値」を説くことは容易でない。以下、 ― 「前稿」同様 ― 主としてO・オニール(O'Neill)の論稿[8]に即して、自然の「内在的価値」性の論証の苦闘の跡を、再構成的にその骨子に焦点を当てて批判的に総括しておく。

 オニールは、フォン・ウリクトの「xの善」の概念を援用して、たとえば同じ‘x is good for greenfly'という文型であっても、xに‘detergent sprays'が入る場合と‘mild winters'が入る場合とでは基本的な相違が在るという。すなわちxは、前者においては、そう判断する評価者、たとえば庭師にとって、彼が庭の花を害虫から守るために善であるのに対して、後者においては、そうした評価者の評価から独立に ― 「xの善」として ― (客観的に)善であると語る。しかし、ここで ― ここは「前稿」とは別様な検討を加えることになるが ― 「評価者」ということに反省を加える必要が在る。いま「評価者」として傍観者的な評価者(たとえば研究者)を了解するなら、二つの文における‘x is good'は基本的に同じである。基本的な相違が生じるのは、評価者がこの庭師のように‘greenfly'に対して利害関係をもつ場合である。

 およそ‘x is good (for……)'という判断は判断者の下すものとして、その意味では主観的である。あるいは判断の源泉を言うなら判断者から出てきたものであって、判断者はおよそ人間であるとするなら、「人間から生じた(anthropogenetic)」ものである。まずこれを「人間(利害)中心的(anthropocentric)」から明確に区別する必要がある。ここでオニールが「客観的」というのは、後者の「人間(利害)中心的」でないという意味であろう。そうであるとするなら、ここで「客観的」と語られている事態は、上に見た「人間にとって道具的に善」であるのではないという意味での「内在的」と同じである。

 フォン・ウリクトは「xの善」が妥当する主体を「生命」と規定したが、その生命(上の事例では‘greenfly')にとって価値が在るものが「内在的価値」をもつということになる。しかしながら次に、それは、およそ例外なく相対的なものであろう。たしかに油虫(greenfly)にとっては‘mild winters'は善であろうが、たとえば白熊にとっては必ずしもそうでない。白熊にとっては‘cold winters'のほうが善であろう。生物種別により汎通的である善も在るであろう。たとえば酸素などはそうかもしれないが、しかし、この酸素も含めてまさしく全生物種にとって、その意味で普遍的な善はおそらく存在しないであろう。であるから、そもそも“good forなのであって、「内在的価値」とは、この“for”なしに善であるもののことこそだとも言いうる。しかしながらまた、それは「内在的価値」を余りに強い意味で了解しているとも言いうる。

 人間(ヒト)も一つの生物種である。この点から見て、人間中心主義は人間という種を優先する種差別主義である ― ただし、たとえば「黒人差別」などと言われる通常の「差別主義」の場合は、「黒人を否定的に差別する」という意味であって、ここで言う「差別主義」はこれとは異なっていわば「肯定的に差別する」ものである ― と言われることも在る。これと同様、(特定的に油虫にとって善である)‘mild winters'の善を ― 「内在的価値」として ― 有意化することも、一種の種差別主義であると言うことが可能である。しかしこれだけであれば、「非-人間中心主義」と言う場合、いわば「-人間中心主義」(いわばnon-centrism”)では在りえていないが、「-人間中心主義」(non-anthropocentrism)では在りえている。

 だがさらに、にもかかわらずあくまで(特定化的に)‘mild winters'を有意化する場合、端的には「油虫愛好」といったものが根拠となっている場合、そこにそう特定化するの意向が反映されているというかたちで人間中心主義であると言うことも可能である。「環境経済学」起源の「存在価値(existence value)」という概念が在る。これを用いて言うなら、問題になっているのは次のような事態である。経済学は事物を「財」として、そしてそれを、人間の側の支払い意志と相関するものと捉える。通常、市場において、商品を購入(消費)するというかたちで両者はリンク(実現)されるのであるが、人にとって非-市場財という事態も成立している。つまり、購入(消費)されるのではないものに対しても支払う ― たとえば「寄付」というかたちで ― ことができる。「存在価値」とは、そうした財のもつ価値として想定されたものである。これは、「……が存在していると[単に]知る」ことに伴う価値である。問題は、経済学は価値の源泉を「効用」に見るのであるが、「……と知る」(だけ)に効用が在るかどうかということである。Krutilla,J.V.は「存在価値」を「情緒的(sentimental)価値」と当初呼んだが[9]、ここから見るなら、或る(肯定的)情緒の享受という効用が在ると考えられる。[10] “mild winters”は、たとえばそれを、あるいは油虫がそのなかに居るのを見て(体感して)快を得るということがたとえなくても、それが存在していると知ることだけで人のうちに或る情緒が喚起されるのであって、それを根拠にそれに対して「存在価値」が帰属させられうるのである。(油虫を有意化して)“mild winters”に「内在的価値」を付すものは、この「存在価値」を付しているのと同様であり、ここから見ても、それは最広義では人間中心主義であると言いうる。

 

 

三 過去の論争の総括(三) ― 在るべき「自然」をめぐって ―

 

 非-人間中心主義は肯定的に「生命中心主義(biocentrism)」と呼ばれることもある。これは、上の「-人間中心主義」を意味するものであろうが、この場合はさらに、 ― 場合によっては、「人間」も一つの生物種としつつ ― その「生命」の間での種差を非有意化するというニュアンスをももつ。諸生物種を構成要素として含む自然全体を有意化して ― 「全体論(holism)」として ― 自然の(内在的)価値が語られてもいる。この場合、上で見た「種差別」をめぐる問題性は或る意味で解消される。個別的自然存在者(個体および種)は、その場合「道具的価値」をもつだけで、それ自身には「内在的価値」はないという事態と両立可能であるからである。自然全体のなかで見るなら、各個別存在者は相互に道具的連関に立っているとも言いうる。たとえば食物連鎖といった見方では端的にそう言うことになる。

 しかしながらその場合、さらに、その全体という状態の或るかたちに即して価値が語られることにもなる。その場合、最も語られるのは「生物多様性(biodiversity)」であって、生物種が多様であるような全体状態をもつものとして自然には価値が在るとされている。

 ちなみにこの場合、「内在的価値」のムア的な「一定の対象がその内在的特性(intrinsic properties)にのみ依存してもつ価値」という意味に即して、この「多様性」が「内在的特性」として語られることも在る。この線で自然の内在的価値を説くことは(「偽装された人間中心主義」ではないのかという反論が容易でないという意味で)有力な途であるが、果たして「多様性」の「内在的特性」性を ― 価値がそれに「依存する」ものとして ― 指摘するだけで十分であろうか。オニールの再定式化では「内在的特性」とは「非-関係的特性」のことであるが、「多様性」がこれであるとするなら、逆の「一様性」もこれであるであろう。「多様性」をもって自然には価値が在るとすることそのものには ― 人間にとって有用な多様性を説くのでないかぎり ― 人間中心主義の余地はなく、(人間にとって道具的価値であるのではないという意味では)その価値は「内在的価値」であると言うことができる。しかしそれは、そのままでは、「一様性」をもって自然に価値が在るとすることを認めることになる。そうだとするなら、「非-人間中心主義」は、一つの抽象的な論理的立場とでもいったものとして、倫理的な含意をもたないものとなる。

 しかし、自然が一様であることに基づいてその「内在的価値」を通常は語りはしない。「内在的価値」が語られるのは、やはり「多様性」に基づいてである。そうであるなら、先行して、この「特性」レヴェルで「多様性」そのものの有意化が前提となっていることになる。あるいは、「多様性」そのものが「内在的価値」をもつとされているのかもしれない。通常は、(ムアのように技巧的に考えるのではなく)むしろ端的に「多様性」そのものが「内在的価値」として説かれているとも了解できる。しかしながら問題は、果たしてそれは何に根拠をもっているのか、ということである。ここに、一つの論点が成立することになる。

 生物は非-生物的な環境のなかで、あるいは他の生物種の存在も含めた環境のなかで生存している。ここから、非-生物を含めて諸存在者が一つのシステムを成しているとして、そのなかの「生物」に焦点を合わせて「生態系(ecosystem)」ということが語られることも在る。そして、たとえば「健康(health)」として、この「生態系」が/として好ましい状態に在ることに(内在的)価値が在るとされる場合も在る。A・レオポルド(Leopold)の「土地倫理」はその代表事例である。

 しかしながら、全(あるいは一定の閉鎖的領域の)自然について、そこで生態系が成り立っている状態とそうでない状態を、あるいは生態系(であること)を広義で了解して、そのよき(たとえば健康な)状態とそうでない状態をどう区別できるのであろうか。そこで「多様性」を基準とするなら、上に述べたのと同じ問題性が成立することになる。そこで多く語られるのは「安定性(stability)」である。だが、安定的であることをもって「生態系」が成り立っている/よき生態系の状態に在るとして、そもそも「安定」はどのように規定できるのであろうか。あるいは逆に「進化」という点から考えるなら、むしろ自然が非-安定的に動的に変化している状態が好ましいとも言いうる。あるいは、そもそも自然は決して定常なものでなく必然的に変化を含むとも言いうる。この変化を含んで考えるなら、一種メタ的に「メタ安定性」[11]といったものを想定することになるが、それはどのようなものとして規定できるのであろうか。

 特定の生物種に即して見るなら、それに有利な変化と不利な変化、あるいは、進化的に適応できる変化とそうでない変化とが明らかに区別できる。しかしながら、ここで、その「種」として人間(ヒト)を有意化するなら、それは明らかに「人間中心主義」となるし、人間以外の種を有意化するとしても、「なぜその種か」と問うていくなら、上述のようにそこに、それもまた「人間中心主義」なのではないかという嫌疑が掛けられてくる。ここでやはり「多様性」が有意化されるべきだということになるのではなかろうか。

 上では、「内在的価値」の根拠(「内在的特性」)として「多様性」を挙げることの問題性を指摘したが、いま、 ― 上では「論点」が成立とするとのみ述べたが、これを再設定するかたちで ― 「多様性」自身が「内在的価値」をもつとすることが考えられる。実際、非-人間中心主義が「内在的価値」を語るとき、おそらく多くはこの「多様性」に即してであろう。しかしながら、その多様性は、変化ということを前提に言うなら、「生物多様性の保全(保存)」 ― たとえば「保全生態学」と言われる場合の「保全」は、「保存」と対照する意味でのそれではなく、「保全」「保存」を区別するとするならむしろ「保存」と言われるべきものである ― が語られるときのような、或る時点で成り立っている多様性状態が、すなわち多様な生物種がそのまま維持されている状態ということを必ずしも意味しない。単純に種の数だけを有意化するなら、環境の変化によって一定数の種は滅亡するが、それを上回る数の新種が出現するのであるなら、その変化後の事態は変化前の事態よりも当然優位化されることになる。さらに言うなら ― たとえば遺伝子操作を使って ― 人工的に新種が自然界にもたらされる場合であっても、それはより優れた状態の実現ということになる。事実としては人工的新種は人間の利益のために創られているが、仮に人間の利益からは独立して新種が創られて、その結果として種数が増えることは、多様性に定位する場合、非-人間中心主義の立場からも優位化されなければならないことになる。人間にとっての道具的価値を超えるものを「内在的価値」として自然のうちに認める立場として多くは「非-人間中心主義」を説いているが、それ自身は(定義的に)、自然のうちに人工物(種)が存在することを排除してはいないからである。

 論理的には「非-人間中心主義」はこの事態を認めなければならない。しかし他方、人工種の産出が(事実として)多様性にとって不利に働くということは在りえる。それが事実であるなら、人工物の排除を説くことになって「非-人間中心主義」はいわば自然な主張内容をもつことになるのであるが、この事実をまさしく事実だと証示することはおそらく困難であろう。だが我々は、それをアプリオリに排除しはしない。端的には宗教的に神による ― したがって人間が行ってはならない ― 種の創造といった論拠に訴えるかたちでこの“自然化”がなされていることが多いのであるが、そうした「神学的非-人間中心主義」を採らない ― 我々は神学主義は人間中心主義に帰着するのではないかという嫌疑をもっている ― のであるなら、たとえば生態学・進化学等の科学として、この「事実」の証示が求められるところでもある。

 

 

四 過去の論争の総括(四) ― 「道具的価値」をめぐって ―

 

 先に、自然は価値をもつという判断は、およそ判断として主体前提的なものであり、その主体が人間である場合は「人間から生じた(anthropogenetic)」ものであると述べたが、そうではあっても、その判断が客観的判断であるときは、そこから「非-人間中心主義」を説くことが可能かもしれない。ここで言う「客観的」とは換言するなら「事実的」ということであって、したがって、その判断は事実を端的に記述した判断であって、その事実がさらに人間にとって有利な事実であるとしても、つまり道具性をもつとしても、その事実を端的に事実として有意化することは一つの「非-人間中心主義」となるのではなかろうか。

 そもそも「道具的価値」という事態は、或る事態に対してそれを用いるという志向と相関的に成立してくる事態である。そうであっても、「使用」志向が先行して在って、それに応じて「道具性」が浮かび上がってくるというのではなく、「道具的」事態が先行して知覚され、それに応じて或るものを使用するということが成立しているとするなら、その事態は、 ― それが「道具的価値」を(も)もつとしても ― 一つの「内在的価値」性をもつことも可能であるように思える。ムアと同様に「黄色」(性)を例として挙げて言うなら、或る事物が黄色であって、いま或る人が必要が在って黄色い物を求めているとき、その事物は道具的価値をもつと言うことができるが、しかしそのことからはその事物が(そもそも)黄色であることは独立である。これと同様 ― 黄色性と同様 ― 事物がそれ自体として道具的価値性をもつなら、それを有意化することとして非-人間中心主義が成立するのではなかろうか。

 この問題意識のもとに価値実在論を主張することが一つの途として存在するであろう。しかし我々は、価値とはそもそもそうした(黄色のような)性質ではないと考える。我々は必ずしも端的に価値主観説を説くものではないが、この性質(価値)は、上の「使用」という志向性が(先行して)在って初めて、それと相関的に成立してくる性質(有用性)であると考える。

 しかしながら、論理的にはそうであるとしていわば心理的には、判断者にとって価値は一つの事実である。価値は ― 心理的に ― 端的に事実として知覚されているとも言いうる。素朴なレヴェルで自然の内在的価値性が語られるのは、この心理的事実に即してであろう。

 

 

五 環境プラグマティズムをめぐって ― ウェストン・カッツ論争を焦点として ―

 

 「環境倫理学」は、通常もそう了解されているように、最終的には環境問題に定位して、その問題が規範的問題である限りで、その解決法を提示するものである。(ちなみに、同様に環境問題に定位しても、その解決(そのもの)を端的に説くだけでは、「環境倫理」ではあっても、「環境倫理」ではない。一般に学とは事態について論じるものとして一種メタ的な営みである。倫理学は(学として)、一面では体系化・正当化を伴ってみずから教説を説くものであるが、同時に、人々のそうした倫理的主張の、特に複数の主張間の対立の事態に対して、それに対してもメタ的に、その対立の事態についてその解決の方途を提示するものでもある。)ここに強く定位して、上の「心理的事実」に基づく環境主張の、その複数の主張間の対立の事態を問題として、その事態の克服として環境問題解決の方向を定めようという志向も存在する。いわゆる「環境プラグマティズム」はその代表潮流である。

 その基本主張は、相互に異なった諸主張について ― そのいずれが妥当なのかと問うのではなく ― 、そこにおいても在りうる共通する部分を有意化して、それに基づいて「行動」すべきであるということである。いずれにしても環境に関する発言は人間が行うものであって、問題の解決は端的には社会的「政策」としてこの人間によってなされるものである。しかるにそれは、有効なものとしては人々の間の合意によってなされるのであって、 ― 主張の妥当性を主張し合うという(純粋)「哲学」的在り方を脱して ― 「行動」のためになによりも「合意」が探られなければならないとされる。

 これは、同様に「行動」に定位した(伝統的)プラグマティズムの志向性に一致するものでもある。であるから「環境プラグマティズム」はそもそも「プラグマティズム」として自己主張するのであるが、しかし同時に、伝統的プラグマティズムは一つの「哲学」説でもある。「哲学」説としてはプラグマティズムは価値を、(人間の)「経験」の質として把握する。(プラグマティズム(たとえばC・I・ルイス(Lewis))が言う“intrinsic”は、この経験として主体の「内部に在る」という意味である。通常の「内在的価値」はこれに対して(道具的に対する)「(自己)目的的」価値という意味であるが、この事態に対しては“inherent value”(小泉仰訳では「内附的価値」)という用語が用いられる場合も在る。たとえばP・W・テイラー(Taylor)がそうであるが、彼は、この事態がさらに外部的事態である場合については“inherent worth”という表記を採っている。)

 そして伝統的プラグマティズムは、この(経験的)価値に定位して、その実現を志向する。外部的事態については、こうした価値を実現するのに手段として有用であることが有意化される。したがって、外部的事態について価値を言う場合、それはすべて道具的(手段的)価値であるということになる。「プラグマティズム」は時に「道具主義」と訳されることも在るが、それはこの点とも整合的である。

 したがって、プラグマティズムを環境あるいは自然について「哲学」的に適用する場合、 ― この経験主体が人間である限りで ― 端的に人間中心主義が帰結することになる。しかし「環境プラグマティズム」は、非-人間中心主義が自然の「内在的価値」であると主張してきたものを(内容的あるいは実質的に)取り込むかたちで、いわば拡大された人間中心主義として自らを提示する。

 この点について「環境プラグマティズム」の代表格であるA・ウェストン(Weston)は次のように述べている。

 

自然の経験は自然への尊敬の念や関心を呼び起こすことができる、と我々は知っている。我々は実際、これらの感情は或る生活への深い、共感的な欲求となることが在ると知っている。我々は、そうした生活の実例を、ミューアやソロー、レオポルド達のうちに目にしている。(Light.A./Katz.e.eds.,Environmental Pragmatism,Routledge,1996,298)

 

そして、「これらの感情が環境的価値のプラグマティックな保護のための本質的な出発点である」(298)とされる。

 しかし、それに引き続いて次のように説かれている。

 

これらの感情は、哲学者達が求めて見つけることのできていない内在的価値の代わりをする「次善の」「弱い」人間中心主義」ではない。それらは、哲学的「基礎づけ」を必要とはしないのである。(298)

 

プラグマティズムにとって自然の価値は理論的には道具的価値であって、その限りでその立場は(一種の)人間中心主義ではあるのだが、ウェストンによるなら、自然の価値に関する哲学的「存在論」 ― 「内在的価値」はそのカテゴリーである ― などは不要なのであって、我々は我々の自然感情に即して ― その「基礎づけ」などなくても ― そのまま自然の保護へと「行動」しうるのである。自然の価値について語ることが必要であるとするなら、それは我々の自然感情の「記述」であって、それは「基礎づけ」(「哲学」)ではなく「一種の描写」である(299)。(言うとするなら、これは「文学」の有意化であろう。[12]

 そしてウェストンによるなら、確かに、たとえば「エネルギー資源」として「搾取」の対象としてしか自然を見ない人間も居るが、そうした者は少数であって、「大方の人間は自然のうちになにがしかの価値」を認めている」。「大方の人間」の間でも確かに意見を異にすることも在るが、自然感情が共有されている限りで、そこで「合意」が可能である。自然感情が共有されている限りで「共通の基礎が残っている」のである。(302)

 

 ここには、自然保護に関する人間への楽観的信頼が在る。これに対してE・カッツ(Katz)は、人間の現状にそう楽観的でない。おそらくはウェストンも言及する「搾取」などの事実に即して、そうしたことをも行う人間の「経験」には大きく依拠することはできないとして、「経験」は人によって異なるものであって、これに依存することは「相対主義という泥沼」(ibid.,315)に陥るだけだとされる。それに従って、「プラグマティズム」が次のように批判されている。

 

[言われるところの]自然のプラグマティックな価値は……変更不可能なかたちで人間の経験に結び付いている。この種の価値は安定した環境倫理の基礎ではありえない。なぜなら、様々な人間は、自然における様々な対象・経験・感情を価値づけることになるからである。プラグマティズムは、価値に関する「粗野な人間中心主義」に依拠してはいないのであろうが、しかし価値の相対主義を結果することになる。全ての者が自然世界の「正しい」環境的経験を価値づけることにはならないであろう。(315)

 

 したがって、「経験」を超えたところに自然の価値が確認されるべきだということになる。しかしながらカッツは、ここで、従来の自然の「内在的価値」性の主張に立ち返るわけではない。ウェストンが退けたところの「内在的価値」説を説くわけではない。カッツは、ウェストンの解釈を退けるかたちで、従来の「環境倫理」も必ずしも「内在的価値」を説いてきたわけではないとして、そうしたものとしての(従来の)ロルストンやキャリッコトの説に ― 彼からするならその真意を取り出しつつ ― 依拠して、むしろ「内在的価値」説の批判を展開している。「内在的価値の概念は、環境倫理の源泉としては、二つの基礎的な理由で失敗している」(311)として、次のように語られる。

 

アルノ・ネスのようなディープ・エコロジストによって展開されている内在的価値の観念 ― すなわち「自己-実現」の理念を批判して、リチャード・シルヴァン[=R.Routley]はこう論じている。自分の最高度の潜在性を展開するという理念は ― 自分が人間であるか動物であるか、あるいは植物であるかにかかわらず ― 、[自然の]価値の観念を、生きている存在者にだけでなく同時に人間存在に似た存在者にも向かわせてしまう。つまり我々人間の哲学者達は、価値の本質的本性は人間の経験の或る側面のうちに在ると見ているように思える。我々は、この種の価値を我々自身の生に内在的なものだと理解することができるのであるが、我々はそのようにして、この種の価値は人間でない存在者にとっても価値在るものだと想定するのである。しかし、内在的価値概念のこうした表現は、偽装された人間中心主義以外の何物でもない。(311)

 

ここには、おそらく「内在的」に関する用語法の不統一性の事実に対する無自覚が在って、したがって少なからぬ混乱を伴いつつ、それに基づいて無理が在ると思えるが、大胆に推測するなら、その真意はこういうものであろう。伝統的に ― 端的にはたとえばカントによって ― 人間の尊厳性が語られてきた。この尊厳性を「内在的価値」と呼ぶことは問題でない。そして、「内在的価値」説(ネス)は、これと同じものを自然にも認めようとしているのだが、しかし、それは人間と同種のものとして自然の価値を語ることである。

 しかし、カッツのメインの批判は、これとは相対的に別のものである。彼は自然について「全体論」を採り、その立場から、「内在的価値」説を「個体主義」だとして批判する。次のように説かれている。

 

内在的価値の探究はまた、環境倫理を歪めて個体主義というパースペクティヴに向かわせる。この観念は全体として、個別的諸個体の独立的な特性に向かっている。しかしながら、環境倫理の(たとえばロルストンやキャリコットの)もっと擁護可能な形態は、本質的に全体論的である。環境倫理がその道徳的関心に焦点を当てさせるのは、 ― それは環境を扱うものであるので ― 生態学的システム全体の相互依存的働きにであって、そのシステムを構成する(概念的に)切り離された諸個体にではない。内在的価値の理念は、全体論的システムにおいてはその意義を失うのである。ロルストンが述べているように、「内在的に関する‘for what it is in itself'という側面は、全体論的織物(web)においては問題含みのものとなる。それは、あまりにも内在的(internal)・要素的である。それは、関係性・外在性を忘れている」。(311)

 

自然は一つの全体であって、その個々の要素(「個体」)は、価値在るとしてもその全体との関係において、したがって、その「内」にではなく「外」に在ると言わざるをえないのである。

 したがってまた、その価値は、当然、「道具的」ということになる。カッツは明瞭にこう述べている。

 

環境倫理にとって第一義の正当化は、道具的である。正当化は、環境保護の背後に在る目的を現示し、この目的が有益であり道徳的である理由を示す試みである。(308)

 

 しかしながら、カッツによるなら、

 

道具的価値のすべてが環境倫理家達に受け入れられる訳ではない。環境倫理の主要な目標は、排他的に人間-中心的な目標は環境政策を正当化することができないということを示すことである。(308)

 

したがって、自然の価値について、人間にとっての価値性とそうではない(自然全体にとっての)価値性 ― 「ロルストンは、原生的自然によって与えられる種類の道具的価値により強く関心をもっている」(309) ― との選別が求められるのであるが、カッツによるなら、「内在的価値」が語られたてきたのはそのため(だけ)である。「正当化のこの企図の内部で、自然的存在者の内在的価値が、適切な道具的価値の範囲を限定ないしは図示するために使用することができる」(308-9)のである。価値は客観的事態としてはすべて「道具的」であり、人間中心的価値を排除するために、語りとしては、そうでない価値に「内在的」という形容が付されるだけなのである。「環境倫理が内在的価値(という語)を用いるのは、単に、適切な道具的価値を明瞭にするためになのである。」(309)

 しかしながらカッツも、(単なる言説を超えて)客観的事態としての自然の「内在的価値」性を全否定するわけではない。註記においてだがこう語られている。

 

自然における内在的価値に関する最良の扱い方の一つとして、アンドリュー・ブレナン(Brennan)は、諸個体とともにシステムに内在的価値を帰属させる可能性を論じている。(318)

 

自然全体には「内在的価値」が認められることの余地をカッツはもっているのである。

 しかしまたカッツによるなら、それは決して「経験」に基づき「文学」がその「感情」を謳い上げるといった類のものではない。それは、「科学」(「生態学的科学」(313))の知見に基づくものである。「科学」は事実を解明するものであって、したがって(そもそも)そこから「価値」が語りうる訳ではないと ― ヒューム的に「事実から価値を導出することはできない」として ― 言われるかもしれないが、ここでカッツは、事実−価値の二分法を否定しつつ、「科学」が明らかにする自然全体(「システム」)の事実が、「(内在的)価値」であるとしてその或る状態を「保護」することを帰結すると主張するのである。したがって同時に、「機能しうる環境倫理は、自然システムの作動に関する詳細な科学的情報を組み入れなければならないのである」(316)

 

 

六 「再論」に向けて

 

 上のウェストン、カッツの論稿が収められた『環境的プラグマティズム』において、編者の一人であるA・ライト(Light)は、「環境プラグマティズム」の立場から両者の論争をも総括している(ibid.,325-338)。上の紹介との関係でやや強引に纏めるなら[13]、その骨子は以下のようなものであろう。ウェストンは伝統的プラグマティズムの線で「経験」を強調し、カッツがそれを退けるかたちになっているが、実は両者は「一元論」をこそ否定しているのであって、前者は「内在的価値」説に、後者は伝統的プラグマティズムの「経験主義」にそれを見ているのである。しかし、もっと広く人間の知的営みを認めるものとして「プラグマティズム」を了解するなら ― ライトはそれを「メタ哲学的プラグマティズム」と呼ぶ ― 、それは、両者のそれぞれにおいて有意化されている「文学」「科学」をも、それぞれ一つの営みに留まることを認め ― 「一元論」を否定するかぎりで彼ら自身もそう認めることになる ― 、しかし「多元論」としていずれをも認めつつ、それらの諸「立場」の間での「合意」をも目指すものとなる。

 冒頭に記したように、この「環境プラグマティズム」的発想によって、現在、「環境」について求められているのは「行動」であって、「倫理学」に求められるのは、その行動を促すことだけであるという了解が基調となっている。人々の行動志向の間に相違が在ってもいわば「話し合えば一致できる」という楽観論、ないしは、話し合いの事実的展開をそのまま認めるという一種の事実主義が説かれているだけであって、規範論的にその妥当な在り方を検討することは必ずしも強く求められていない。我々は、この事態は好ましいものでないと考える。「合意」はどう形成されるべきなのか。

 この問いに答えるためには、最終的には「倫理学」一般の問題として妥当な合意の在り方を追究しなければならないが[14]特殊「環境倫理学」の場合は、その合意が図られるべき対立する諸見解について、それらが本当には何であるのかの解明が必要である。それが「環境プラグマティズム」においてはなお不十分であるというところが在る。合意が理性的なものであるとするならば、そこで諸見解が ― 対立点・共通点が明示的となって ― 噛み合って討議されることが必要であるのだが、この点がなお不十分である。ここから言うなら、「環境プラグマティズム」は、人々の相互に異なった見解を ― 多元論的に ― 認めて、その上で「合意を」と言うだけであって、当の諸見解が本当のところそれぞれ何であって、どういうかたちで対立しているのかの明確化をおろそかにしている。

 この諸見解間の対立の基本は「人間中心主義vs.-人間中心主義」に在るとされてきた。我々は、これに即して、この事態の解明がなお必要であると説いているのであり、本稿のこれまでの記述も、過去の諸議論について対立を再構成するというかたちでこの作業を行うものであった。しかしながら、議論は現在止まってしまっているようにも見える。そして、それゆえに「環境プラグマティズム」が説かれてきているのでもあるが、逆に、これが議論の展開を妨げているとも言いうる。

 

 

七 「再論」のための論点の(暫定的)提起

 

 この現状に対して我々は、議論を再展開すべく、最後に、(筆者自身の研究の現時点での不十分さも在って詳しくは別稿を期すとして)断片的に、価値をめぐる倫理学一般の議論展開に着目して、それを「環境倫理学」に適用して改めて考える場合、何が論点とな(りう)るのか簡単に示しておきたい。(こう言うならば、筆者が別のコンテクストで現状を批判してきた「応用倫理学」[15]を端的に展開することになると(誤解・)批判されるかもしれないが、これに対して弁明するなら、ここで我々が言う「適用」は、通常の「応用倫理学」が規範(的一般)倫理学の「適用」(「応用」)であるのに対して、それと決定的に異なってメタ倫理学的知見の「適用」である。したがって、「応用倫理学」(としての「環境倫理学」)であるとしても、それは直接的に規範的主張を展開するものではない。あるいは、こうも言えるかもしれない。(いわゆる)「応用倫理学」は、一定の規範的理論に(研究対象的に)コミットしている者が、その理論を「応用」するというかたちを事実的には多く採っている。この点を我々は最も批判的に指摘したのだが、我々がいま提案している「応用」は、「環境」をめぐる論争の議論的状態という問題性について、その問題を解決すべくそれに有効な(限りの)「倫理学」的知見を援用するというかたちであって、いわば方向性が逆である。ちなみに、この「メタ」は、ライトの言う「メタ」とは異なる。後者が単に「一段上位の、より包括的な」といった意味のものであるのに対して、我々が(ここで)言うものは、 ― まさしく通常の「メタ倫理学」の「メタ」と同様に ― 倫理的言明(見解)に対して、「それを「対象」として、それに分析を加える」ということである。)

 

(1) 「非-人間中心主義」を支える「内在的価値」の意味の限定化

 

 「非-人間中心主義」は自然に「内在的価値」が在るという主張として展開されてきた。しかしオニールによるなら、「内在的価値」には、1.「非-道具的価値」、2.「一定の対象がその‘intrinsic properties'にのみ依存してもつ価値」、3.「客観的価値」の三義が在る。このいずれに即して主張するのかの分節化が必要である。

 本稿において我々は、これに留意してこれまでの「内在的価値説」を再構成してきたが、そうしてみると「内在的価値説」はその主張の多くを(自己)撤回するであろうと予想される。まず、2.についてだが、すでに述べた通り、これに即して「多様性」に基づくものとして自然の「内在的価値」性が語られることも多いのだが、これは ― 同時に逆の「一様性」に基づいて自然の「内在的価値」性を語ることといわば同権利であって ― 問題性を含む。また、 ― これは「前稿」で確認したところであるが ― 「原生」性はそもそも「内在的特性」でなく、したがって「この自然は原生性をもつから内在的価値が在る」という主張は無効化されることになる。これらはいずれも、「非-人間中心主義」が内容的に主張しているところ(「生物多様性を「保全」すべきである」「原生を保存すべきである」)と齟齬を来す。

 1.の意味から自然の「内在的価値性」を問おうとするなら、「全体論」を前提するかぎりで、各個別自然存在は「道具的価値」しかもたないことになる。(「全体論」を採用しない場合はその限りでないが、その場合、個別自然存在の「内在的価値」性と自然全体の「内在的価値」性とを同時に主張することはおそらくできないことになるであろう。)「全体論」を採る限り ― モデルとして有機体を想起してみれば容易に分かるところであろうが ― 全体−部分という分節が不可避であり、かつ、おそらく定義的に「部分」は道具性をもつに留まることになる。これらの事態も、「非-人間中心主義者」の認め難いところである。

 我々はすでに「前稿」で、3.の意味での「内在的価値」性は存在しないと説いた。少なくとも、存在の論証は問題を含むことは証示した。「前稿」の後半は、いわば洗練された「価値実在論」としてJ・マクダウエルの主張を検討したものであるが、そこで彼の「客観性」規定は認めるとしても、それは ― 彼自身認めているように ― 価値の「相対性」と事実的に両立的であることを明示した。この「相対性」とは強い意味であって、相互に対立する「価値」の同時存在を意味するものである。すなわち、この意味での(マクダウエルの「客観性」規定に従った)「内在的価値」の主張は、相互に対立する内容をもつことになる。いわば「非-人間中心主義」の主張が内部対立をもつことになるのであって、この事態も認められ難いところであろう。

 (非-人間中心主義を説くために求められている)「内在的価値」について、我々としてその可能性を言うならは、それは、1.の意味を限定して、「人間にとっての道具的価値」を超えた価値としてである。自然におけるこの存在の論証を検討することが課題となるのであるが、最後にその作業を展開してみたい。しかし、それを支えるためにも、まづ先に、(メタ)倫理学的議論の「適用」というかたちで二つの議論を展開しておきたい。

 

(2) 価値論(axiology) vs.態度-理論(attitude theory)

 

 であるから「環境プラグマティズム」のような ― 「内在的価値」説を放棄した ― 自然思想が出てくることにもなるのであるが、倫理学において近年、そもそもの「価値論(axiology)」という枠組みを否定して、それに対して「態度-理論(attitude theory)」とでも呼べる枠組みを前面化する主張が目立ってきている。

 「内在的価値」概念の分析に精力的に取り組んでいるZimmerman,M.J.は、電子版哲学百科事典のStanford Encyclopedia of Philosophy ( http://plato.stanford.edu/ )所収の論稿“Intrinsic vs.Extrinsic Value,2007(第2節)において、「内在的に善」であるものを決定するためのムアの「孤立化テスト」を論じるなかでなされたR・チザム(Chisholm)の或る議論にコメントして次のように述べている。

 

彼は、ムアの孤立化テストに関する存在論的ヴァージョンと呼びうるもの ― 一定の状態の内在的価値を、それが存在する唯一の有価値的(valuable)状態であるなら存在することになるであろう価値、という見地で理解する試み ― から、そのテストの志向的ヴァージョン ― 一定の状態の内在的価値を、その有価値的状態をそのものとして状況あるいは帰結への言及なしに熟視することができるならもつことが適切となるであろう種類の態度、という見地で理解する試み ― へと移行した。この新しい分析は、実際、豊かな歴史をもつ一般的観念を反映している。とりわけてフランツ・ブレンターノ、C・D・ブロード、W・D・ロスおよびA・C・ユーイングは、……内在的善性は態度の相応しさ(worthiness)の見地で分析可能であると主張している。……このように、或るものが内在的に善であることは端的に、それがそれ自身のために(for its own sake)価値づけられる(valued)に相応しいことである、と想定することは非常に自然であるように思われるであろう。……[/]疑いなく魅力的であるがこの分析は、批判されることが可能であり、また批判されてきた。たとえばブランド・ブランシャード(Brand Blanshard)は、この分析は拒否されるべきであると論じている。なぜ或るものはそれ自身のために価値づけられるに相応しいのかと問うなら、その答えは、これが事実であるのはまさしく当の事物が内在的に善であるからである、となる。この回答は、内在的善性の概念の方が価値づけられるに相応しいという概念よりも基底的であることを意味している。……[/]ユーイングやその他の人達は、ブランシャードに反対して、或るものが有価値的であることを根拠づけ説明するのは、それが善であることではなく、それがなんらかの非-価値的特性をもっていて、その特性にその善性が随伴している(supervene)ことである、と主張した。彼らが主張したのは、当の事物が善であり「かつ」有価値的であるのは、この底に在る(underlying)特性の故である、ということである。トーマス・スキャンロンは、有価値性・善性とその底に在る特性との間の関係の説明を、buck-passing accountと呼んでいる。そう呼ばれるのは、その説明が、或るものが価値づけられるに相応しいことの理由の説明を、その善性から、その善性の底に在る或る特性へと「責任を転嫁する(passes the buck)」からである。

 

そして続けて、カントについて

 

イマニュエル・カントは、「無条件に善」である事物は善意志だけである、と語ったことでよく知られている。……[彼によれば、]善意志は「比較を超えて尊重(esteem)されるべきである」。……[彼によればまた、]善意志を欠く者も含めてすべての合理的存在者が「絶対的価値」をもっている。そのような存在者は、「尊厳性(dignity)」あるいは「内在的価値」をもつ「目的自体」である。……カントや、カント以降同じ手法で書いてきた他の哲学者達[30]は、どのような価値を合理的存在者はもっているのかという問いではなく、そのような被造物に対して我々はどのように振舞うべきかというこれとは全く異なった問いに関わっている、と理解するのが最良であるように思える[31]

 

と説いている。

 ここで我々がポイントとして取り出したいのは、「内在的善性」と「価値づけられるに相応しいということ」のいずれがより「基底的」であるのかという論点である。ブランシャードは前者が、ブレンターノ等は後者が「基底的」であるとしているというのであるが、いずれが正しいのか。

 Zimmermanは、同時に(「ユーイングやその他の人達」に即して)「価値づけられるに相応しいということ」のその「相応しいということ」を、スキャンロンの「責任転嫁的説明」へと合流させるかたちで、「善性」であることの「理由」を ― 「非-価値的特性」に ― もつことへと結び付けている。ここは議論が錯綜してきてもいるのであるが、我々はこれを端的に、「価値に基づいて価値づけがなされる」のか「価値づけに基づいて価値が措定される」のかという対立として引き取りたい。言及されているカントに即して言うなら、これは ― 同時に「価値づけ」を「態度」のカテゴリーとしつつ ― 「価値が在るから尊重・尊敬する」のか「尊重・尊敬において価値在るものとする」のかという対立である。そして我々は、この両様の方向性をそれぞれ「価値論(axiology)」「態度理論(attitude theory)」としてカテゴライズしているのである。

 第二引用文の最後に付されている註[31]は、Bradley,B.の論稿“Two Concepts of Intrinsic Value,in: Ethical Theory and Moral Practice,9,2006. への参照を求めるものであるが、Bradleyは「内在的価値に関する二つの概念」 ― 言うまでもなく、これは我々の「価値論」「態度理論」に対応する ― を明示する主張として、それぞれムア的・カント的な相互に異なった「内在的価値」概念を示すものとして

 

快(知・徳・正義...)は内在的に有価値的である。我々は、できるかぎり多くの内在的価値を世界にもたらすよう努めるべきである。

 

人間存在者(合理的存在者、感覚能力をもつ存在者...)は内在的に有価値的である。内在的に有価値的な事物は我々の尊敬・考慮に値する。

 

を挙げている(1)。実はこれも、彼の場合は、「世界」(の善さ)を構成するいわば内世界的(内在的)価値と、そうではない価値との区別という論点設定に従って、(存在する)価値の方からの区別となっているのだが、その区別に、同様、「価値が基底的である」のか「価値づけが基底的である」のかという対立が関わらせられている。

 この点は、彼も言及するAnderson,E.においてより明瞭である。(Zimmermanからの引用中の註[30]も、同様Andersonへの参照を求めたものである。)BradleyAnderson,Value in Ethics and Economics,Harvard University Press,1993,p.20 から次の箇所を引用している(5)

 

人にとって、大部分〔の事態〕を価値づけることに意味が在るのは、人が人々・動物・コミュニティー、およびそれらと関わる事物に気を配る(care)ことに意味が在る故にのみである。

 

そして、これを彼自身の言い方で、

 

Andersonは内在的価値を、合理的に価値づけられうるものという見地で定義している。彼女が主張するところでは、我々が何かに内在的価値を帰属させる(ascribe)とき我々が語っているのは、他の何かを価値づけることが合理的であるかどうかからは独立にその何かを価値づけることは合理的である、ということである。(5)

 

と纏めている。

 ここで出てくる「帰属させる(ascribe)」こととして言うなら、我々が言う「価値論」と「態度理論」との対立は、「(内在的)価値」言明は「記述の事柄」なのか「帰属(させること)の事柄」なのかをめぐる対立である。これはP・ギーチが問題提起したところでもある。ギーチは論稿“Good and Evil,in: Analysis,17,1956.で、言葉(形容詞)の種別の問題として次のように語っている。

 

 私の第一の仕事は、二種類の形容詞の間に論理的区別を付けることであるであろう。この区別は、帰属的(attributive)形容詞(たとえば「赤い本」)と述定的(predicative)形容詞(たとえば「この本は赤い」)との間の相違によって示されるものである。私は、この用語を文法から借用するつもりである。私が言いたいのは、「或るAB」というフレーズ(「A」は形容詞、「B」は名詞である)において、「A」が術定的形容詞であるのは、術定「或るABである」が術定(ペア)「或るBである」「或るAである」に論理的に分割されるときである。そうでなければ「A」は(論理的には)帰属的な形容詞であると私は言いたい。……

  ……「大きい」「小さい」は帰属的である。「xは大きい蚤である」は「xは蚤である」「xは大きい」に分割されない。……というのも、もしこの分析[分割]がもっともなものであるなら、単純な論証をもって或る大きな蚤は大きな動物である……と示すことになってしまうであろう。……他方、「或る赤い本」というフレーズにおいて、「赤」は、文法的にはそうでないのであるが、私の意味では術定的形容詞である。というのも、「赤い本である」が論理的に「本である」「赤くある」に分割されるからである。

  ……「善い」「悪い」は常に帰属的であって術定的形容詞ではない。……「赤い車」「善い車」といったフレーズ(ペア)における対照を考察してみなさい。遠くの車について、私がそれが赤いと見ることができ、そして、色盲だが視力のよい友人がそれは車であると見ることができるということを理由として、その遠くの車は赤い車であると私は確信できるであろう。或る物体について、それは善い・それは車であるという独立の[二]情報を一つにすることによって、それは善い車であると確信する可能性は存在しない。この種の事例が示しているのは、「善い」「悪い」は本質的に帰属的形容詞であるということである。(33f.)

 

すなわちギーチによるなら、「xは善い」という判断は、(xに関する)「記述」の事柄なのではなく、(xに対する)「属性帰属(属性を帰属させること)」の事柄なのである。[16]

 我々はここから、「内在的価値」について(も)、それはそもそも「存在(事実)」の事柄なのではなく、一定の事柄に対する(評価的)「態度」の事柄であると見ることができる。カントに即して言うなら、彼は人間の「尊厳性(Würde)」を語っているが、それは、「善意志という点において人間は尊厳である」 ― ここで循環的に「善」が用いられると気になるのであれば、「善意志」に代えて「道徳法則に従おうという意志」を置いても構わない ― ということではなく、「我々は人間を尊厳なものとして尊敬する」(より厳密に言うなら「尊厳なものと見なしつつ尊敬する」)ということなのである。換言するなら「善意志をもつがゆえに尊敬する」のではないのであるが、したがってZimmermanも、「善意志を欠く者も含めてすべての合理的存在者が「絶対的価値」をもっている。そのような存在者は、「尊厳性」あるいは「内在的価値」をもつ「目的自体」である。……カントや、カント以降同じ手法で書いてきた他の哲学者達[30]は、どのような価値を合理的存在者はもっているのかという問いではなく、そのような被造物に対して我々はどのように振舞うべきかというこれとは全く異なった問いに関わっている、と理解するのが最良であるように思える[31]。」と記しているのである。

 これは「(内在的)価値」に関する「価値論」から「態度理論」への転換であると見るこができるのであるが、「自然」「環境」についても、この後者の線で語り直すことが可能である。実際、たとえばP・W・テーラーがRespect for Nature,1986 で実質上この枠組みを採っているとみることができる。こう述べられている。

 

しかしながら、存在者に対して、それはそれ自身の善をもつと理解するという態度あるいは尊敬を選択するなら、合理的行為者は同時に、存在者が内附的尊厳(worth)を所有するとみなすであろう、ということを我々は理解する。(60)[17]

 

 ここで、「尊敬を選択する」と語られている。そうした「尊敬」の「態度」はそれでは何に根拠をもって「選択」されるのであろうか。この「根拠」は、上で引用したところからも確認できるように「その正当化の根拠」として多く問題とされていっているが、我々はそれをむしろ「原因」の意味でとって、「(態度の)選択」がまったく無根拠であるのではなく ― 換言するなら、純粋な決断の事柄ではなく、したがって「決断主義」あるいは(或る意味でカント主義的な)端的な「主意主義」を退けるかたちで ― 一定の原因の帰結であると見たい。そうすると、そこに ― それも「選好」であるとして ― 態度の一定の発動因(態度を引き起こすもの)といったものが想定されてくる。そこに、一定の効用(への志向)という問題が浮び上がってくる。なんらかの効用を実現させるために人は或る態度を採るのではなかろうか。この問題として、我々は最後に我々自身の「内在的価値」論を提示してみたい。

 

(3) 美的価値をめぐって

 

 そうするとして、態度の発動因として効用(志向)が在るとするのであれば、その態度において措定される対象の価値(カントの場合は、「尊敬」の対象としての人間の「尊厳性」)は、それもまた、その「効用」(の実現)を目的とした「道具的価値」であるということになるのであろうか。やはり、すべては道具的連関に在るとする「環境プラグマティズム」の主張は妥当であるということになるのではなかろうか。しかしながら、美的価値の場合は事態は微妙である。最終議論の前に、この問題を ― 詳細は別稿を期すとして、一つの論点を提起するという趣旨で ― 少しく議論しておきたい。

 先程とは別のコンテクストに在るものであるのだがたとえばカントを援用するなら、彼は美(的態度)を「没関心的」なものと規定している。「関心」が在るから、それと相関的に事物・事態が道具的様相において現出するのであって、それに応じて、事物・事態がもつ価値が道具的価値であるということになる。これに対して「美」という事態には「関心」が不在である。その場合、対象の「美」(という価値)はどのようなものであることになるのか。

 たとえば我々は一定の芸術作品に美(的価値)を付しつつ、その鑑賞の快を享受している。そこで、鑑賞の快が目的であって、絵画の美(的価値)はそれを実現させるための「道具」であると言うことも確かに可能である。これは「没関心性」ということとどのような関係に在るのか。美的事態にもやはり「関心」性が在るのであろうか。

 この難問を考察するために、これも上記Zimmerman論稿から、Kagan,S.,Rethinking Intrinsic Value,in: Journal of Ethics,1998.の議論(および、その「含意」を展開したRφnnow-Rasmussen,T.,Instrumental Values - Strong and Weak,in: Ethical Theory and Moral Practice,5,2002.の議論)の要約・紹介部分(第3節)をまず引用したい。「道具的価値」に対して「内在的価値」を対置する通常の用語法を退けて、後者に代えて「最終的(final)価値」概念を提示するC・コースガードの主張を批判するコンテクストにおいて以下のように記されている。

 

コースガードが当初言ったことには反対することになるが、最終的価値を道具的価値と対比させるのは間違いかもしれない。コースガードはこう主張しているのだが、最終的価値が場合によって外的特性に随伴するということが在りうるというのであれば、最終的価値は場合によって、特別に、〈他の目的に対して手段である〉という[形式的]特性に随伴している、ということが在りうるのであろう。実際、コースガードは自身、このことを述べている。それは、彼女が「たとえば贅沢な用具(luxurious instruments)のような一定の種類の物は……有用性という条件のもとで、それ自身のために(for their own sakes)価値づけられる」と語るときである。Kaganも、この考えをとりあえず支持している。この考えが整合的なものであるのなら、我々は原則的に、二種類の道具的価値を区別すべきである。一つは最終的な道具的価値、もう一つは非最終的な道具的価値である。或るものAが他の或るものBに対する手段であり、かつ、この事実のゆえに道具的価値をもつとき、そのような価値は、それが単にBの価値から派生する、あるいはその反射であるものであれば、非最終的である。これに対して、そのような価値が、非派生的であるなら、つまり、Bがそれ[B]自身の権利においてもつ・もたないであろういかなる価値とも関わりなく、Aが(〈それはBに対する手段である〉という事実のゆえに)それ自身の権利においてもつ価値であるなら、それは最終的である。

 

ここは難解かもしれぬが、Zimmerman自身は ― 我々の理解では、これに照応するかたちで ― 論稿の最終部分でこう述べている。

 

或る者がモナリザの美を鑑賞しているということは内部(在)的(intrinsic)に善であるであろう、と想定してみなさい。そうすると、我々はおそらく次のように言いたくなるであろう。この事実に照し合わせるなら、その絵画そのものが一つの価値、或る者[ルイス]が“inherent value”(「内附的価値」)と呼んでいる種類の価値をもつ。(“Inherent value”は、ここで用いるのに最適な用語ではないかもしれない。モナリザのもつこの種の価値が外部的(extrinsic)価値の一タイプであるのに対して、この用語がintrinsic value内部的価値)を連想させるかもしれないからである。その絵画に帰属させられる価値は、生じるなら内部的であると想定されるであろう何か他のもの、すなわち、その絵画の美の鑑賞に対する関係のゆえにもつと言われる価値である。)何かを、内部(在)的に善である、あるいはあるであろう他の何かに対する関係のゆえに、善であると呼びたくなるケースにおいて、多くの他の事例をも挙げることができるであろうが、この当の関係は、手段−目的関係ではない。

 

すなわち、モナリザの価値は、その鑑賞の価値のゆえに帰属させられる価値ではあるが、それは(単に)前者の目的に対する手段という(道具的)価値であるのではないのである。形式的に言うなら「道具的価値」であるとも言いうるが、そうであるとしても、それは通常の意のものではない。であるから、「二種類の道具的価値を区別すべきである」のである。Zimmermanは、この別の意味での「道具的価値」として、モナリザに(通常の意味で)「内在的価値」を認めるのである。

 カントとの関連で言うなら、美的態度は「没関心的」であるが、しかしそれも、 ― 実践的態度と同様 ― 一つの「関心」性をもつのであって、厳密には「没実践的関心」と言うべきことなのかもしれない。「関心」の対象として美は道具的価値をもつのであるが、しかし、「関心」が「没実践的関心」であるとき、その道具性は特別のものであって、美は(「内在的価値」と呼んでも差し支えない)特別の道具的価値をもつ、というのであろう。[18]

 しかしながら我々からするなら、これは「美的鑑賞」の効用を特権化するものである。我々は、「美的鑑賞」もやはり効用としてたとえば「食べ物を味わうこと」などと同じものであって、したがって、効用実現という目的との関係に在るかぎりで「美」的価値もあくまで(通常の意味で)「道具的価値」であると考える。逆に言って、 ― 態度において帰属させられるものであるとしても ― 「内在的価値」をもつ対象を措定するのであるなら、この効用性をもたない「態度」に限定すべきであろう。では、それはどのように確保されるのか。その解明を強く念頭において最後の議論に進みたい。

 

 先に言及したGodfrey-Smithは、「原生の価値」について、その「価値」の正当化あるいは論証として、「大聖堂」見方(自然を「聖堂」(のようなもの)と見る見方) ― 上の議論と関連づけるなら、これは「美的態度」と同義である ― を含めて四つの見方を挙げている。最後に、これを使って、「非-人間中心主義」の可能な論証と、その問題性を我々として確認しておきたい。長い引用になるが、こう説かれている。

 

 保全主義者達によって支持されている原生への第一の態度 ― それに対して私は注意を引きたいのだが ― は、私が「大聖堂」見方と呼ぶつもりのものである。これは、原生エリアはスピリチュアルな蘇生・道徳的再生・美的喜びに対して生き生きとした機会を提供する、という見方である。原生の享受(enjoyment)[19]は、しばしば、この点で宗教的ないしは神秘的経験と対比される。壮大な原生エリアの保存は、この見方に賛成する人達にとっては、人間の幸福(well-being)にとって本質的である。原生エリアが破壊されることは、おそらく……パルテノン・タージマハール・ヴェルサイユ宮殿といった人の手になる壮大で感動的な建造物の破壊と対比されうる破壊(vandalism)の行為に似た何かと見なされる。

 「大聖堂」見方が、価値は原生エリアの鑑賞から得られる人の満足からのみ出てくると考えているかぎりで、そうした見方は明らかに道具主義的態度である。しかしながら、そうした見方は、鑑賞されるべく[そもそも]原生エリアが存在しているという事実に重要性が在る ― それは、誰かがこの事実を利用する(takes advantage of)か否かとは関わらない ― という感情が生じているかぎりで、しばしば「内在的価値」態度に近づく。たとえば、或る原生が非常に危ういかたちでバランスを保っていて、人のいかなる干渉あるいは接触も不可避的にその崩壊をもたらす、と想定してみよう。それでもこのエリアが経験され享受されることなく保存されるべきであると主張する人達は、確かに、それに一つの内在的価値を帰属させている。

  ……

  原生の価値の第二の道具的正当化は、我々が「実験室(laboratory)」論証と呼びうるものである。これは、原生エリアは科学的探究のための生き生きとした主題的問題を提供する、そしてこの科学的探究によって我々は、生物学的諸システムの複雑な相互依存性……の理解を与えられる、といった論証である。我々が我々自身の生物学的依存性を理解することができるなら、我々は、違反するなら我々を危険に陥れることになる生物学的諸法則を我々に知らせるために、自然諸システムを一つの規範として必要とすることになる。

  第三の道具主義的正当化は、「貯蔵庫(silo)」論証である。それは、自然環境の理に適った諸エリアをそのまま保存する一つの卓越した理由は、我々はそのことによって遺伝的多様性の備蓄状態を保存するということである、と指摘するものである。単純化された生物学的諸システムのゆえに突然なにかがうまくいかなくなるというケースに備えて、バックアップとしてこの備蓄状態を維持することは確かに賢明なことである。……

  言及されるべきであると私が考える最後の道具的正当化は、「体育館(gymnasium)」論証である。それは、原生の保存を運動やレクレーションにとって重要だとみなすものである。(310-2)

 

第二から第四(「最後」)までは明瞭に「道具(主義)的」なものである。これも先に言及した経済学起源の環境価値論のタームで言うなら、そこで論証されている価値は「使用価値」である。これに対して第一の正当化で論証されている「価値」は、(Godfrey-Smithにとっても)微妙である。

 これら諸価値の追求は相互に「対立」する場合も在ると述べられている。そこに「利害対立」が在るとも述べられている(312)。第一の価値も「使用」価値に含める場合、 ― 彼もこう論じているのだが ― 原理的には経済学的な「費用−便益分析」で解決可能である。しかし彼は、そうすることには我々の「直観」に悖る所が在ると見る(319)。(直観に基づいて)「道徳的に異論の余地をもつ」(312)ものである、とも見る。そこで彼は、経済(学)主義を放棄することを説き、そのことと相関的に第一の正当化における「価値」が「内在的価値」として措定されてくるとする。その際「内在的価値」は、その記述からも窺えるように ― 彼自身はおそらく意識していないであろうが ― 「存在価値」と換言可能である。しかしながら、論証は不十分である。

 ちなみに、「環境プラグマティズム」は内容的にこれらの諸価値を取り込むかたちでいわば拡大された人間中心主義を説いているのだが、それは構造的にこの論証の不十分さをいわば無化するものである。それは、「内在的価値」をいわば内容-実質的には保持しつつ理論的概念としては廃棄するかたちで、上の引用文中で言う「原生エリアの鑑賞から得られる人の満足」で、つまり「道具的価値」であることに自足するからである。これは、「内在的価値」の存在を否定することである。したがって、「非-人間中心主義」が否定されることになるのである。しかし我々はここで、「内在的価値」の可能性をいま少し探ってみたい。それが即ち、いま我々が「不十分だ」と断じた論証を我々として提示してみることである。

 上の引用文中の表現で言うなら、ポイントの一つは、「原生エリアが存在しているという事実の重要性」を論証することである。どのようにしてその「重要性」を語りうるのか。Godfrey-Smithは、ここで結局「……という感情」を語り、「我々が重要だと感じている」ということしか言いえていない。「重要性」の論証は、まさしく事実としての客観的重要性であることを証示するのでなければならない。それはどのようにして可能であろうか。過去の諸議論を参照するならそれは、その「原生」の自然自体にとっての重要性の証示というかたちを取るであろう。たとえば、「原生」の存在によって「自然」がまさしく自然として保持されているといったかたちで。こう言うなら、それは「原生」に一つの(自然にとっての)道具的価値を帰属させることになると批判されることになるかもしれぬが、人間にとっての道具的価値ではないものとして「内在的価値」を設定している我々の議論前提からは、別に問題とはならない。そうした批判はいわば厳密な意味での-道具性を前提としていると言えるが、そうした“厳密性”を逆批判して、「そうした批判はそれ自身「自然」そのものの存在を前提していることになるが、その自然の存在そのものも何かにとって道具性をもつことになるのでは」と問えてきてしまう。いわば「なぜ無よりも有の方がよいのか」(「なぜそもそも自然が存在していた方がよいのか」)といった形而上学的問いに入り込むことにもなりかねない。換言するなら我々は、そうした形而上学的次元よりはもう少し浅いところで議論しているのである。[20]

 しかしながら問題は、そうした浅い次元で「自然」そのものにとっての「原生」の道具的価値性が証示しうるかというところに在る。それはおそらく、自然の自体的な(自然自身にとっての)「健康」「安定」にとっての道具性の証示というかたちを取るであろう。しかしながら、果たして、そうした自体的健康・安定という状態を一意的に確定することができるであろうか。科学(生態学)の現状は、我々の見るところではまだそうした状態の確定に至ってないように思える。自然は常時的に変化しているという事実に定位して考えるなら、そうした「確定」はほとんどアプリオリに不可能であるとも思える。

 前科学的レヴェルで語られている「健康」「安定」は、自然の単なる特定断面に定位したものに過ぎない。そこで、その「特定化」において ― たとえば「私の子供時代の自然状態が好ましい」といった ― 一定の価値判断が前提となっている[21]。もちろん価値判断が前提されていることそのものは(我々の議論構造においては)問題とならないのであるが、そこにその「特定化」を行なわせしめるものとして、一定の効用性(たとえば「懐かしさの感情」の享受)が根拠となっていることも考えうる。ここで「存在価値」をめぐる議論と重ねて言って、(我々の限定のもとにおける)「内在的価値」は我々人間の側の効用性を有意化しないものでなければならない。であるから、「存在価値」は、「鑑賞」といったかたちで効用性をもつことなしに単に「……が存在すると知ること」に基づいて、その「存在」に(その「存在」のためにたとえば寄付行為をすることができるというかたちで)価値を帰属させるところに成立するとされているのである。だが、そもそものその「知る」ことの有意化に、根拠として一定の効用性が前提となっている場合が在りうるのではなかろうか。「……が(単に)存在していることを知って喜ぶために、その存在を有意化する」というかたちで。[22] もしそうした効用性が前提となっているのであれば、自然の健康・安定は「内在的価値」をもたないことになる。

 Godfrey-Smith自身は他方、従来の人間中心主義的倫理をいわば外延的に拡大するかたちで、 ― デカルト主義的な主体−客体の二分法を否定しつつ ― 人間をその一部として含む「自然全体」へ定位して、しかし、従来の倫理と同じく「利益」に即して、いわば全自然の利益に配慮する倫理を説いている[23]。これもポイントとなるところであって、ここから上のとはまた別のかたちで自然の「内在的価値」性を論証する可能性が在る。しかし、ここでも、その議論は未展開である。この倫理の拡大は、同時に、自然をその利益を考慮すべき存在者として人間(主体)と類比的なものとして ― 先の議論と関連づけて言うなら、たとえば「尊敬」の「態度」において ― 措定することである。だが彼は、各個別存在者だけでなく、生物種、さらにはシステムをそうした主体として措定しようとしている。それは果たして可能であろうか。それは ― ラブロックの「ガイア」仮説のような ― 自然全体の擬人化であるのではなかろうか。彼は、表面的にはこれを否定しているが(315f.)、単に「[デカルト的]機械論的パラダイムから生物学的パラダイムへのシフト」(316)を語るだけであって、その自然全体を「生物」と見る[24]、あるいはより厳密に、「生物」的存在者を含むものとして自然全体を見るということがどのようなことであるのかを突き詰めて考察してはいない。そのままでは、やはり一種の擬人主義が在ると言わざるをえない。

 しかしながら、問題の根底は、仮に全自然を利益主体とすることを認めるとしても、その利益に配慮するということの含意が十分に反省されていないということである。「倫理の拡大」という限りでは、実は自然全体に定位しなくても、各個別自然存在者への定位であっても構わない ― 換言するなら、その各個別自然存在者の「内在的価値」が語りうる ― のであるが、そこから見ても議論は未展開である。ここで我々として論を展開するとして、人間から見て(他の)自然の利益に配慮するということは、伝統的な倫理学用語で言うなら「利他主義」である。彼自身の記述からも窺えるように、我々人間は、その「存在」を知るだけの自然物に対してもその利益に配慮してたとえば寄付行為を行なうことができるのであるが、問題は、 ― 先に簡単に触れたが ― そこに(自己)効用性(自己利益性)が在るか否かである。我々は、そこに効用性が在って、かつ、それが行為の根拠となっている場合は、そこで措定される価値は「内在的価値」ではないと規定している。

 ここで「利他主義」に関する「不純」「純粋(pure)」「真正(genuine)」および「パターナリスティック」という(厚生経済学起源の)分類を援用したい。同じく利他行為を為すとしても、第一は、そこにおける自分の効用(善いことをして自分が喜ぶ[25])が目的であるもの、第二は自分の効用(たとえば、相手が喜ぶのを見て自分も喜ぶ)を目的とするもの、第三はひたすら相手側の効用だけを目的として、自己効用を非有意化するもの、第四は、一種変形態として、自分が価値在りと思う(種類の)効用を相手が享受する事態を有意化するものである。我々は、「内在的価値」が帰属させられるのは、このうち「真正の利他主義」において自然が見られているときのみである、と規定したい。

 そうした利他主義は「愛」とも換言できる。これで言うなら「真正の利他主義」は、たとえばキリスト教の「隣人愛」(あるいは、その含意をもつ「博愛(charity)」)がそれに相当すると我々は考える。「隣人愛」とは ― 言うまでもなく自分の近くに住む者への愛といったものではなく ― 愛の対象が何であるかに無差別であるということである。誰であれ自分と関わってくる者への ― つまり各存在者がもつ各属性に無差別な ― 愛のことである。(ここで「属性」が有意化(差別化)されるなら、その根拠として、その属性を好むといった自分の効用性が出てくることになる。)であるから「隣人愛」は「(普遍的)人類愛」とは異なるとも言われているのだが、「人類」は一つの(「人であること」という種差に基づく)差別的規定である。[26] [27]

たとえばこの「隣人愛」において、その対象に「内在的価値」が帰属させられている ― すなわち、「内在的価値が在るのを見る」ではなく、「内在的価値が在るとする」 ― のだが、しかしそれは他方、いわば偏愛でもありえる。その対象が(端的には聖フランチェスコにおけるように)自然存在者であるとして、それは上で言った「自然全体」との関係では、その愛がこの「全体」に対してはネガティヴであることも引き取るものである。(ここで、たとえ99匹をおいても迷える1匹の子羊を捜す(救う)といったイエスの言[28]を想起してみて欲しい。)それでもこれは、その対象への「内在的価値」の付与であることに影響を与えない。それはちょうど、たとえば親が自分の子供(だけ) ― これは事実として普遍的な事態であろうが、ここは別に「自分の子供(だけ)」でなくても構わない。見知らぬ誰か(だけ)であっても構わない ― を愛するとき、子供が目的的存在者としてそれに「内在的価値」が付与されているのと同じである。しかしながら、そうした(「真正利他主義」の)在り方が倫理的に問題性を含まないかどうか ― たとえば「公平性に欠ける」というかたちで ― は問えてくる[29]。 自然を愛するとして、諸自然存在者に対して「公平」であるということはやはり求められるところではなかろうか。あるいは、「公平」などという観念そのものが人間中心的なものであるのであろうか。

 そうではあるが、倫理性の問題と、真正利他主義=内在的価値性の問題とは、相互に切り離すことも可能であろう。そして、その切り離しの前提の上では、一つのかたちとして自然の内在的価値性を語ることができる、とは言いうるであろう。そして、そこで一つの非-人間中心主義に根拠を与えることができるとも言いうるであろう。だがそれは同時に、倫理性の観点を捨象しない場合は、そもそもの内在的価値(付与)に、したがって非-人間中心主義に批判の余地を与えることでもある。「人間中心主義」は、「非-人間中心主義」批判のコンテクストにおいては、根底的には ― 一種パラドキシカルだという印象を与えるかもしれぬが ― この倫理性に定位するところから出てくるものでもあるのである。

 

〔付記〕本稿は、平成19年度科学研究費補助金による研究の成果の一部である。



[1] たとえば小原秀雄監修『環境思想の系譜 1』東海大学出版会、1995年、113以下参照。

[2] 同上 115.

[3] この二つの立場の対立は、C・マーチャント(団まりな他訳)『自然の死』工作舎、1985年 などを見ると、17世紀(イギリス)における沼沢地の干拓をめぐる賛成・反対の対立にまで遡らせることができるかもしれない。

[4] 引用文中内の[ ]内は本稿筆者のものである。なお、引用文中の強調は、元のものをそのまま表記する場合と、筆者が付記した場合の両方が在る。

[5] 主としてO'Neillの議論の紹介・検討に即して「自然の価値」を論じたものとして、拙稿としては、安彦「自然の価値をめぐって」『応用倫理学の新たな展開』(科学研究費成果報告書(研究代表者:佐藤康邦)、1996年) ― 以下、これを「前稿」と表記する。なお、これは http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/gyouseki/paper/value.html

で電子版を公開している。 ― を参照していただきたい。本稿の議論は、この「前稿」を一定程度前提とする。さらに、本稿全般について、特に「存在価値」概念について、安彦「環境問題解決における「経済」と「倫理」」(1)(2・完)『滋賀大学教育学部紀要 U:人文科学・社会科学』第5253号、2003,2004年(電子版=http://www.edu.shiga-u.ac.jp/~abiko/gyouseki/paper/envetf2.html; envetkf.html)をも参照して頂きたい。

[6] Godfrey-Smith,W.,The Value of Wilderness,in:Environmental Ethics,vol.1,1979.310.

[7] 「非-使用的価値」が語られ、「遺贈価値」「オプション価値」がその具体例として挙げられることも在るが、「遺贈物」は後の世代の者による「使用」を前提とし、「オプション」もいまだ知られていない「使用」という可能的選択肢であって、それらも広義では「使用価値」に含めることができる。厳密な意味で「非-使用価値」の候補となりうるのは、次章で問題とする「存在価値」だけであろう。

[8] Ecology,Policy and Politics: Human Well-being and the Natural World,Routledge,1993.

[9] Krutilla,J.V.,Conservation Reconsidered,in:The American Economic Review,57,1967.

[10] ただし、この「情緒」を有意化しない考え方も在る。その場合、効用を「選好」の対象とするとして、反選好的な「コミットメント」(A・セン)の事柄として「存在価値」を規定することになる。また、文字通り「仮想評価法」に関連づけて、こう述べられることもある。

 

仮想評価アプローチは、決定的に「存在価値」の観念に依拠する。この観念はまた、「受動的使用価値」ないしは「非-使用価値」として言及されることもある。Wesibrod[,B.]によって導入された「存在価値」という用語は、人々は汚染されていない原生といった事物の存在に効用を与えるという命題を体現している。……この想定は、「受動的価値」という用語においてより明示化される。「受動的価値」は、人々が汚染されていない原生の存在に与える効用は、観光・伐採等のために原生エリアの能動的使用から得られる価値と、同種の、あるいは直接に比較可能である、ということを示唆している。これと対照的に「非-使用価値」という用語は、たとえばリクリエーションのために或るエリアを訪れることと結びついた「使用価値」と、人々に自分達が決して訪れることのないエリアの保存のために支払意思を表明させることになる価値との間には明瞭な区別が在る、ということを含意している。仮想評価アプローチの支持者達は、「受動的使用価値」という用語を好む傾向に在る。他方、このアプローチに反対したり懐疑的であったりする人達は、「存在価値」ないしは「非-使用価値」という用語を用いる傾向に在る。(Quiggin.J.,Existence Value and the Contingent Valuation Method,in:Australian Economic Papers,37-3,1998,p.314.

 

環境経済学(等)ではまた「能動的価値」「受動的価値」という用語も用いられているのであるが、 ― 最後の部分はややミスリーディングなのであるが ― 「存在価値」概念の用法に、この後者を有意化してそれに効用(utility)を付すものと、「非-使用価値」を有意化してそれに効用を付さないものとの二系統が在るのである。

[11] これは、物理学等で語られ生態学でも用いられていて「準安定性」が邦訳となっているものとは、関連しはするであろうが、 ― 英語(metastability)では同じになるのだが ― 同じものではない。

[12] 端的に「文学」と語られているわけではないが、ウェストンはワーズワースやソローの自然記述を挙げている。(299)

[13] このライトを含めて、『環境プラグマティズム』所収諸論稿の忠実な紹介・検討としては、白水士郎「環境倫理学はどうすれば使いものになるか ― 「環境プラグマティズム」の挑戦 ― 」(『倫理学サーベイ論文集』京都大学文学研究科倫理学研究室、2000年)の参照をお薦めする。

[14] 先に挙げたウェストンの「共通する基礎」に基づく「合意」はロールズの「重合する合意」を想起させるが、「環境プラグマティズム」が本当に「合意」を説くのであれば、このロールズ等の社会哲学のレヴェルで論を展開する必要が在るであろう。(実際、両編者による「導入」においては、「環境プラグマティズム」が採りうる「形態」の一つとして、「特定の環境的組織化・運動の重合する規範的基礎への理論的研究」が挙げられている(5)。)なお、本誌本号所収の安彦一恵「補遺:景観(紛争)をめぐって ― 吉永明弘氏論稿への応答として ― 」では、別のコンテクストにおいてではあるが、「妥当な合意」について多少詳しく論じてある。

[15] 安彦「応用倫理と応用倫理学、あるいは、応用倫理学は応用倫理にどのように関わるのか」『応用倫理学研究』次号掲載予定 を参照して頂きたい。

[16] 以上は、名前を挙げてはいないが「客観主義者達」としてムア等を批判したものである。しかし彼は続いて、同様「オックスフォードの道徳研究者達」としてアノニマスに(おそらく)ヘア等を批判して、「善」は必ず特定の善であると説きつつ、その特殊性において「善」は対象記述性をもつと述べていく。述語「善」の働きは第一義的には「推奨的(commendatory)」であるとする(36)いわゆる「非-認知説」が批判がされ、紹介した所とは逆に一種の たとえばマクダウエルとも近いかたちで 「認知説」が説かれてもいる。この点は、ギーチは「内在的価値」の実在性は批判したが、それは「価値」一般の実在性を批判するわけではない、と整合化可能であるが、この後者の点については、本稿では紹介・検討しないことにする。ただ、見通しとして、このことと先に挙げた"good for"ということとが、なんらかのかたちで関連していくことになるであろうとは述べておきたい。

[17] ちなみに、ここは「前稿」でも引用したが、そこでは「価値実在論」を批判的に検討するというコンテクストにおいて、「我々の議論のコンテクストで理解するなら、これは実は、自分にとって価値あるものをもつ自然(物)がそのまま我々人間からして(我々の評価とは独立に)客観的に価値あるものとはできないということを認めたものである。それゆえに「自然の尊敬」が語られるのである。」として否定的に言及した。

[18] この、「没実践的」ではあるがなんらかの意味で「関心的」であるというのはどういう事態であるのかは、そのものとしても一つの検討を要する論点である。しかし、これについては別稿を期したい。そうであるとして、現時点では、別の問題関心からのものであるが、拙稿「宗教的美学主義 ハイデガー的発想についての一考察 」『実践哲学研究』第30号、2007 を参照して頂きたい。

[19] Godfrey-Smithは意識していないであろうが、この「享受」は アウグスティヌス以後 西洋思想史においてまさしく「使用(use)」との対比で用いられてもいる。上記拙稿参照。

[20] こう言うなら逆に、我々の議論がすでに“深過ぎる”と批判されるかもしれない。少なくとも「環境プラグマティズム」の陣営からはそう言われるであろう。元々「環境主義」(たとえばミューア、さらに「ディープ・エコロジスト」であっても)は 比較的浅い次元で たかだか「審美的対象」として自然に「内在的価値」を見ていたのであって、それで十分なのではなかろうか。しかし我々は、それは端的に「不十分」だと見て“深い”議論に立ち入ったのである。「美」ということで具体例を挙げるなら、たとえば「原生林」がいいのか「里山林」がいいのか、耕作者を失った「棚田」はなんとしても維持・保全すべきなのか、あるいは開墾以前の自然状態に戻すべきなのかといった問題は、或る意味で非和解的な対立であって、それは到底「美」(一般)を語ることによってケリがつくものではない。後者の例で言うなら、或る者は棚田のまさしく美しさを語る。しかし別の者は、そこに傷つけられた自然を見て痛々しさを感じる ちょうど、皮膚が剥ぎ取られて筋肉組織が剥き出しになっているように見えなくもない かもしれない。ここでやはり、基底的レヴェルでは「人間中心主義」と「非-人間中心主義」 この場合これは、おそらくもはや「美的鑑賞」性を、したがって効用性をもたないものとなるであろう とが(実は)大きく異なる方向をもって相対立する自然感情を結果していると我々は考える。しかし 議論を元に戻すとして 他方、この両主義をめぐって議論をどこまでも“深く”することを我々は退けた。では、どこで議論の“深化”は打ち切りとされるべきなのか。ここに一般論的レヴェルで、議論の“深さ”の適切性を論じる言ってみれば議論深化論が展開されるべきであろう。残念ながら、これは筆者としてまだ十分考察していないところである。本稿では、“深さ”については直観的に語らざるをえない。

[21] 上記拙稿「環境問題解決における「経済」と「倫理」 環境の倫理学として問う  (二・完)」[84]節で、

 

森林(生態)学の平川浩文は20001216日関東生態学会公開シンポジウム講演「歴史的価値としての  生物多様性の保全」で次のように説いている。「「生態学的に正しい」自然の姿など存在しない。/「自然の あるべき姿」に関する主張はすべて人間の価値観によるものである。/生物多様性保全は「自然のあるべき 姿」に関する主張の一つであり、この主張は歴史的価値観に基づいている。」すなわち、(科学的に見た場合)客観的に正しい「自然」の姿といったものは存在せず、人々の歴史的、すなわち歴史的経過のなかでそのときどきに、その意味で偶然的に形成された「価値観」が「正しさ」の基準を与えているに過ぎないのである。

 

平川浩文の主張を(やや)敷衍するかたちで 述べたが、換言すればこれはこういうことである。なお、平川のこの主張は平川浩文/樋口広芳「生物多様性の保全をどう理解するか」『科学』199710月号でも確認することができる。

[22] 本稿のこの辺りを仕上げている時点で「シー・シェパード事件」が話題となっていた。クジラ保護には、確かに「ホウェール・ウォッチング」という美的鑑賞の有意化を(も)超えるものも在るが、この「過激」な行動を見る限り、そこでは「クジラが存在していると(単に)知る」だけで喜び(効用) しかも、その「過激」な行動という高コストに対応する大きな喜び(効用) となっていると推測したくなる。これで言うなら、そうした行動にクジラ愛好が動機となっていないときに初めて「内在的価値」が付与されていることになるということである。しかしこれは、逆に ここで、(シラーによって「厳粛主義だ」と批判されている)カントの道徳論(「道徳法則への服従に好意・同情といったものが動機となっていてはならない」)を想起して欲しいが 一切の好意・同情なしに」ということ その極端な場合は、シラーならこう言いそうであるが「クジラが嫌いであるとき」である を意味するのではない。そうであるなら、クジラあるいは(「クジラを保護すべし」という)道徳法則への一種の物神崇拝というかたちで これをかつて(大庭/安彦/永井編『なぜ悪いことをしてはいけないのか』(ナカニシヤ出版、2000年)所収安彦第一論稿)「価値道徳」として批判したが その崇拝対象あるいは崇拝している(者としての)自己を価値として優位化することになる。これは、それはそれでまた、むしろより強烈な自己効用性をもつものである。上のクジラ保護も 字義通りのクジラ愛好ではなくて 観念的なクジラ崇拝であるのかもしれない。(我々は、 これはシラーのカント批判とは別の趣旨のものであるが カントの道徳論(「尊敬」論)のうちにもこの自己効用性の匂いを感じている。)これと違って、「クジラ愛好が動機となっていない」ということは、厳密には「愛好」ではなくあくまで「好意・同情」であるのだが、それで言うなら「クジラへの好意・同情が動機となっていない」ということは、「クジラへの好意・同情が動機となっていない」ということである。つまり、好意・同情がその対象に関して無差別であるということである。上のクジラ“愛好”も、クジラを含んで全生物種への“愛好”(の用意)が在って、たまたまクジラが目の前に居るのでそのクジラを“愛好”するというのであれば、それはまた大きく異なったものとなる。以下の論述をも参照して頂きたい。

[23] 「……。第三に、そもそも人間と結び付けられていない利益が在る。たとえば野生動物の「権利」がそうである。/……/このような道具主義的正当化への代案、レオポルドが大いなる洞察力と説得力をもって提唱した代案は、動物・植物・土壌、換言して集合的に「土地(the land)」を含めるものにまで道徳的共同体の限界を広げることである。」(313f.)といった記述の展開を参照した。

[24] 我々の現時点での言い方で言うなら、「生物」とは自体的(に存在するものを指示する)カテゴリーではない。我々はあくまで或る存在者を「生物」と見なしているのである。そしてそれは、自己維持(志向的)存在 自己維持が最基底かつ最大の「利益」である と見なすことである。(我々は、「生物」であるということと、「利益」主体であるということとは、いわば内的な関係に在ると見ている。)簡単なものだが、拙稿としては「日常生活と知識」『岩波講座哲学 4:知識/情報の哲学』(近刊予定)の関連部分を参照して頂きたい。

[25] 環境経済学では、これは“warm glow”(「暖かい満足感」)として概念化されてもいる。

[26] つて(同上書所収安彦第一論稿)、「「愛」は欲求を動機とせず 一つの本能であって? ……」と述べたが、「真正の利他主義」としての「愛」は、(自己)効用を前提としてその実現を「動機」とするのではないものとして、「一つの本能である」と断定してもいいと(現在では)思う。次段落で「自分の子供(だけ)」を愛する云々 それだけではミスリーディングとなるので、「見知らぬ誰か(だけ)であっても構わない」と厳密化したが と述べたが、そこで「遺伝子」(による操作)ということが連想されるかもしれない。遺伝子が働いて人をして愛の行動を取らしめるのである、と。「自分の子供」云々は、さらに「利己的遺伝子」を連想させるであろう。これに即して言うなら 拙稿としては「論点のさらなる整理のために」『倫理学年報』2005 をも参照して頂きたいが 、それは自分(と同種・同一の遺伝子)の増殖を目指すがゆえに「利己的」と呼ばれるのだが、そしてその「利己性」が個体レヴェルでは「利他」(行動)をもたらすのであるが、しかし、その働きそのものが 意識的-目的追求的ではなく 盲目的であって、したがって偶然に近くに居るだけの者に対しても 自分の親近者だと見誤って 利他的に行動させることになる。「隣人愛」ということは、文字通り「隣り」=「近く」に居る者への愛とも了解できるのであるが、それは遺伝子のこの振舞いと整合的である。(ちなみに、最後の( )内の「同種・同一」は遺伝子の「同一性」をめぐるいわゆるタイプ・トークン問題という一つの難問に関わるところである。本稿ではそういったものにまで深入りはしない。なお、拙稿としては上記「論点の」を参照して頂きたい。)

[27] 前段落の「パターナリスティックな利他主義」の観点から言うなら、基本的な問題は、「自分が価値在りと思う(種類の)効用」(に限って)「利他的」であるとき、そこに(そのそれ自身に)一種の「自己効用」が在るのかということである。我々はそこにも「自己効用」が在ると見ているのだが、したがって、(「真正の利他主義」の)「(隣人)愛」は(さらに限定して)、相手が求めるものを与えるというものでなければならないであろう。そうでなければ、「(私が有意化した種類の)○○という効用を享受している者」として相手が差別化されるからである。というか、より正確には、我々はこの「差別」化に一種の(自己)効用性を見ているのである。

強く倫理学的に言うなら、したがって「真正の利他主義」とは「相手が求めている効用」を私として知って、それに応じるということになるのであるが、(ストローソン等によって)言われるところの「反応性(responsibility)」の問題を、我々としては、このような観点から問題とすべきであると考えている。

[28] ルカ 15-4 参照:「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(『聖書 新共同訳』日本聖書協会、1998年)

[29] しかしながら、愛が偏愛であるとして、各人の偏愛のその総体が結果として「自然全体」の利益になるということも在りえる。唐突に言及することになるであろうがシジウックが「各人は明らかに、限られた数の人々に、他の者達に対するよりも特定の者により多くサーヴィスを与えることによって、一般的幸福を最善に促進するであろう」と述べている。これと同じ構造が偏愛と「自然全体」の利益との間にはひょっとして在るのではなかろうか。これは我々人間からは分からないところであるが、仮に自然をそういうメカニズム 人間の本能も自然の一部であって、本能のままに振舞う限りでは人間もそのメカニズム作動のいわば歯車である を含むものと見なす(あるいは信じる)のなら、「倫理」として人間の方で(理性的=反・本能的に)何が正しいことなのかを語ることは(傲慢な)越権であるのかもしれない。通常、「人間中心主義」とは人間の利益を「中心」とする考え方のことである。これをたとえば「実践的人間中心主義」と呼ぶとして、それとの区別において(人間の判断を優位化する)「理論的人間中心主義」とでもいったものを想定する場合、この「越権」批判は一種の「(理論的)非-人間中心主義」でもある。こうしたかたちで「非-人間中心主義」を説くことも可能であるであろうが、本稿はこれには立ち入らない。