第6号

1998 年 02 月 12 日


目次

  1. 安彦一恵 「「歴史主体」論争」をめぐって

  2. 藤野寛 「埋め合せ理論」とその批判−−ヨアヒム・リッター学派とフランクフルト学派

  3. 安彦一恵 「補償理論[埋め合せ理論]」とは何か−−コメント、および自己訂正・補完−−

  4. 執筆要綱(暫定第三版)

  5. 編集後記


   


「「歴史主体」論争」をめぐって


安彦一恵

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はじめに

[001]

「従軍慰安婦」問題を軸とする歴史教科書論争とは別に、いま知識人の間で、もう一つの論争が戦われている。取りあえず「歴史主体」論争と名付けよう。

朝日新聞(1997年5月17日)で西島建男氏が「「歴史主体」論争」として取り出した一連の論争は、例の「歴史教科書論争」に比べて論壇においてまだメインの論争とはなっていないが、一つの注目すべき論争である。それは、「歴史教科書論争」を生産的に展開させるためにも無視できぬものである。しかしながら、「論争」はなお未展開である。決定的には、加藤典洋氏が朝日新聞(1997年9月16日夕刊)で
僕は自由主義史観には価値を認めていない。あの戦争は侵略戦争だった。自由主義史観との違いも近いうちに述べたい

と語っているその「違い」と、違うという根拠が明示されるのを待たなければならないであろうが、「論争」は多く、高橋哲哉氏を中心にして加藤氏を「自由主義史観」派であると断定した上で−−したがって、我々からすれば誤解を含んだかたちで−−展開されるに留まっている。単行本『敗戦後論』出版以降はそうでない書評も二、三出てきているが、書評ということもあって断片的な理解に留まっている。「論争」がさらに(実質的に)展開されるためには、高橋陣営と加藤氏との間で、共に「自由主義史観派」とは違うというその「違い」の相違について、その「違い」がどう違うのであって、その「違い」が相互にどう問題であるのかをめぐる議論がなされるべきである。これは、「自由主義史観」の何が問題であるのかをより明確にすることにも当然繋がっていくし、「自由主義史観派」からより限定されたかたちでの反論が引き出しうることにもなる。

[002] 本稿は、この展望をもって、「論争」がそう展開していくことを促すためのものである。したがって、我々(自身)の主張を展開するというのではなく、いわば交通整理的に各論のポイントを−−一部内在的には批判しつつ−−取り出し、それら各ポイントを適切に対置するということが課題となる。論争の現時点での展開がまだ加藤誤解を多く含むというところから、加藤をどう理解すべきかということに重点が置かれる。

一 「死者の弔い」をめぐって−−理解と誤解−−

[101] どこまでを(より適切に)「誤解」とすべきかを確定しつつ、まず誤解を指摘することから始めなければならない。

[102] 上記西島氏は5月までの段階においてであるが、反加藤陣営の中核に高橋哲哉・大越愛子の両氏を置いている。大越氏は

加藤氏にとって「自分が自分になる」ということはどういうことなのだろう。....それは「国民国家の歴史形成主体になる」ということなのだろう。」(「もうひとつ」22) 「今新に歴史的主体に基づいた国民国家を再建することを、彼は密かに願っているにちがいない。(同24)

と語っている。これは端的な批判であって、加藤をいわば確信犯的「自由主義史観派」と断定するものである。これを基準とするなら、ここからは少しづれるかたちで、いわば結果として「自由主義史観派」と同じものとなるという趣旨の批判が可能である。「物語」における対談者である岩崎稔氏と共に高橋は、大越に比べるなら少しこの方に寄っている。これに対して、
国家がなした「悪い戦争」をもそれと引き受けられるような「歴史形成の主体」を作り出そうという言い方で、あらためて「国民」としてのアイデンティティの自覚を呼びかける動きが現われてきている....。国家が悪に重大な関わりを持ったとしても、その責任を受け止めうるのもまた、国家の下に統合された「国民主体」のみだというのである。

を−−「歴史形成の主体」という表現を根拠に−−加藤批判であると見る場合、中野敏男氏は大越に近いところに立っている(「悪」24)。

[103] 「自由主義史観」に近い立場から、加藤の発言を<歓迎>して大越と同じように了解する人たちもいる。この場合も含めてポイントは、まさに加藤がそれを論の出発点においた次の発言の理解である。

悪い戦争にかりだされて死んだ死者を、無意味のまま、深く哀悼するとはどういうことか。/そしてその自国の死者への深い哀悼が、たとえばわたし達を二千万のアジアの死者の前に立たせる。....ここでいわれているのは、一言にいえば、日本の三百万の死者を悼むことを先に置いて、その哀悼をつうじてアジアの二千万人の死者の哀悼、死者への謝罪にいたる道は可能か、ということだ。(「敗戦」286)

これは、ミスリーディングだということもあって、いろいろ説明が加えらてもいるが、氏は単行本『敗戦後論』で
わたしは、先に述べた三百万の自国の死者への哀悼をつうじて二千万の死者への謝罪へといたる道が編み出されなければ、わたし達にこの「ねじれ」から回復する方途はない、と考えられる。(86)

という「初出になかった言葉を書き加えて」(「山城」353)、自らのテーゼを再確認する。

[104] この「死者の弔い」は、単に論の出発点となるだけでなく、国家−−したがって、その国家をめぐる歴史教科書−−に関する論のまさに核心に位置するものである。氏自身−−ただし氏自身は「世界戦争が出現する以前」(語り口186)という限定を付ける−−も説くように、戦死者の弔いはまさしく「国民国家」(形成・維持)の根幹を成すものであるからである。であるがゆえに、自由主義史観に近い人達が(誤解して)加藤の発言を好意的に評価するということにもなるのである。例えば、松原隆一郎氏の

加藤さんの発言で面白いのは、アジアの二千万の人たちに頭を下げるためには、論理的に言っても、靖国の日本の英霊に頭を下げなければならないという話(「読む」114)

という理解がそうである。また、それをコメントして橋爪大三郎氏が
林[健太郎]さんは侵略戦争であることを認め、しかも誇りをもって死者を弔うことができると主張している。加藤典洋さんが....主張している問題と、立場は違うが通じています(「雑誌」)

と述べることにもなっている。

[105] この、松原・橋爪両氏のコメントは高橋も言及しているところであるが(「哀悼」250)、氏は松原の好意的評価は「“誤解”」に基づくとしている。この理解が、(直接の発言は見られないが、死者の弔いの論をこの両氏のように了解しているだろう)大越の端的な立場からの高橋の若干の距離を結果している。しかし高橋は同時に、加藤の発言を、「侵略戦争だったとしても、「国のために生命を捧げるのはつねに崇高な行為」だ」という林と同じものと了解する(同上250)。これが、大越からの距離が「若干」であることを結果している。

[106] 整理するなら「死者の弔い」は、自由主義史観派に近い方から見て、まず、1)正しい戦争において国のために戦った死者を弔う、2)正しいものではなかったが、国のために戦った死者を弔う、という二つの立場を取り出すことができる。(この1)2)は区別すべきものであって、実際相違するから2)の林と典型的な「自由主義史観派」である中村あきら氏との間で論争が成されているのである。)しかしながら、問題は、加藤が1)でないのは明らかだとして、高橋(および橋爪)の言うように2)であるのか、ということである。このことを問うために、3)戦争において死んだ者をただひたすら弔うという立場を設定するが、我々の理解では加藤の立場はむしろ3)である。「無意味のまま」弔うという言い方は、1)2)との区別を明確にするための形容であると見るのが自然である。しかるに大越・高橋はここのところを無視するのである。

[107] 国家のために死んだ者達としての弔いは、事実上、靖国神社において行なわれている。「誤解」はこの弔いの場所について、

もちろん、靖国の死者を哀悼したいというのなら、別段、誰も阻止しようとは−−とりあえず−−しませんから、加藤氏は自分で勝手に....靖国に参拝したらいいでしょう(「すが」39)

というかたちでも表われている。これで言うなら、「無意味のまま」というのは場所的には「靖国神社ではないところで」−−当然また「英霊としてではなく」−−ということを意味している。(あるいは、加藤流にフリッパントに言うなら、靖国神社で弔うとしても、例えば「靖国神社においてキリスト教式に弔う」のなら「無意味のまま」が実行できるかもしれない。しかし、それでは「無意味」は実現できても恐らく「弔い」にはならないであろう。)

[108] しかしまた、加藤の言う所は一応理解したうえで、そうした「弔い」の主張が、論争のもともとの場である政治において適切な主張たりえているかと問う批判も存在する。上記山城の書評はそうである。

自国の無名兵士一人一人に固有名を回復していくことで、英霊という概念の虚偽を破り、その果てにフィリピン人戦死者という他者に出くわした大岡の論理と倫理に[加藤同様]共感することはあっても、これを一般命題化した、自国の三百万の死者への哀悼からアジアの二千万の死者への謝罪へという著者の論理と倫理には、やはり共感を(反感をも)覚えがたい。..../だが、大岡の『レイテ戦記』を読んだ著者の文学的直観と、問題の政治的発言との間の「分裂」はほんとうに克服されているだろうか。(353)

と語られているが、これは山城の論の固有のコンテクストからのものだが、大きく言うなら、発言の政治的含意から批判を行なったものである。

[109] この問題を先に処理しておくが、加藤からするならしかし、−−山城の場合はそうではないが−−逆にストレートに<政治>を語ることは実は、その発想を<国家>(「国民国家」)のそれと共有している、そうした<国家>の論理を打破するためにはまず<私性>から出発するしかない、と反論できるであろう。「靖国」に対して「アジアの二千万の死者を先に弔う」というのは、氏からするなら、むしろ同じくこの<国家>の論理に立ったものであろう*。アーレントの議論を援用して氏が批判する「共同性」とは、この<国家>の論理のことである。

* こう言うことはもちろん乱暴ではある。厳密には、「<国家>の論理の裏側」とでも言うべきであろう。しかし、加藤からすれば、それはいわば国家の論理そのものと同類である。仮に、「二千万の死者を先に」と説く勢力が、それだけで国家を形成した場合、それは同じく「国民国家」となるであろう。「国民国家」とは(人種という意味での)「民族」を核とするものではなく、(複数の民族の者から成ってはいても)その構成員が「国民」として同質であるような国家のことである−−例えば旧ソ連のように−−からである。

[110] しかしながら、氏の意図はそうだと理解するとしても、果たして氏は本当に<国家>を批判しえているか。山城の批判も結局そういうことになる。「「歴史主体」論争」の展開は、この問いのもとで始めて生産的に展開しうると我々は考える。我々としては、全面的に氏の考え方でいいかどうかはなお留保しなければならないが、「国民国家」解体の基本方向としてはそれで妥当だと考えている。しかしここは、禁欲的に<交通整理>に徹して内在的に議論していかなければならない。高橋は先の言及に続いて、

「わたし達がいまここにいることのために死んだ自国の死者への哀悼」が何より先だというなら、「祖国のために死ぬこと」を「崇高」化するこうした[林の]議論とすぐにも「通じて」しまう。そのことの問題点が、見えているのかいないのか・・・・・・。

と述べているが、−−この「通じてしまう」が政治上結果的にそうだと言うのでなければ−−これは完全に誤解である。我々が上に確認した「無意味のまま」ということは、ここでのタームを使うなら「崇高でないものとして」ということになる。そして更に、加藤氏によるなら、「アジアの二千万の死者を弔う」場合であっても、「平和」(という、まさしく崇高な理念)のための犠牲者として−−抽象化して−−弔うならば、同じく「崇高化」することになる。高橋はここで、(いい場合とわるい場合とを区別せずに)「崇高化」(一般)を批判するのなら、この加藤の論に答えておくことが必要であろう。

二 「実感」をめぐって

[201] しかしながら、高橋は「哀悼」では論点を変えるかたちで、「崇高」の議論を未展開に放置して−−したがって「死者の弔い」の議論を加藤への誤解を含むかたちで放置して−−、加藤の論は「実感」に依拠するものだという批判へと展開する。

[202]

加藤さんは、「地上に露出した」「直径二メートルほどの土管」を想像し、この土管の内と外では「日本人」の意味がまったくちがう、と言うんだ。[加藤によるなら、]フーコー流の言説(ディスクール)論に依拠して、「日本人」の概念の虚構性、フィクション性を言い立てる議論は、「日本人」が「われわれ」という「まとまりの感覚」として生れた土管内の出来事に、「いわば土管の外からチョークで印をつけている」にすぎない。歴史性とフィクション性とは、「互いに他を排除する、共約不可能な概念」であり、真の歴史は土管の内側に、外部からでは必然的に「いい間違ってしまう」ような「内在」の領域として存在する。

主として「岬」での議論をここでは手際よくこうまとめ、そして、それを
実感というのは当てにならない。よく最近の思想に触れる人はそういう。でも、その当てにならない実感で何か言うしかない。実感は当てにならないから、どうもこれを言うのはまずいみたいだと自己抑制をして、外から実感とは別の形で、そのときに正しいと思える知識をもってきたら、その実感はずっと抑圧されるだけだ。(「世界戦争」47f.)

という辺りとを結びつけて、「日本人」だという「実感」に権利を与えるかたちで「日本人」として「われわれ」という「主体」の立ち上げを説くものであり、更に、「自由主義史観」に連動するかたちで「日本民族の正常化」(「物語」147)、つまり国民国家・日本を支える主体形成の動きに竿さすものであると批判する。

[203] 高橋によるなら、そうした「実感」なるものは−−加藤自身だけの固有の実感ではなく「われわれ」日本人共有の「実感」であるとされるかぎりで−−実は純粋な「実感」ではなく、それ自身も一つの「実定性」(フーコー)として、それを説くことが「政治的含意」をもったものである。加藤はいわば、そうした「実感」をもつべしと説いているのである。しかしながら、そう了解するとしても、その、いわば当為としての「実感」の内実が、高橋も確認する通り(同147)「私利私欲」−−「戦後の左翼的言説の呪縛からの解放感」をもって「私利私欲」にいわば自足する感覚−−であるのであれば、そうした「実感」の主張がそのまま「国民国家」に繋がるという理解は問題である。高橋も紹介しているが(同143)、加藤は「国のあるなしに関わらず持つ私情あるいは私的感情」として「ナショナリズム」を定義する。これを高橋も「珍しいナショナリズムの定義だ」(同143)としている以上、加藤の「ナショナリズム」の言説そのものが−−通常のナショナリズムと理解されて−−上の批判の根拠になっているのではないであろう。では、何が根拠となっているのか。いまのところ

要するに「国益」中心主義なんですよ[。それゆえ「自由主義史観」と同じなのですよ]。(同145)

と言われているにすぎない。だが加藤の主張としては、そうした「ナショナリズム」とは−−氏自身言うように「デモクラシー」と一体となって−−国民(個々人)の「私利私欲」を、かつ、むしろ<国家利害>といったものとの対抗において原理とするものである。*

* この「私利私欲」への定位については「考え方」「明治」参照。後者では、例えば、(国際)政治的リアリズムでまさしく「国益」を説く北岡伸一氏を批判して、「国民一人一人が、自分の自己利益を国家に認めさせ、ついで、その延長で、国家に国家の自己利益を対外的に主張させる、というベクトルで示される」べきであると説かれている(36)。あくまで「私益」が基準であって、「国益」が仮にそれと対立する場合は「国益」を認めないというものであろう。これは、通常の「国益主義」とははっきり異なったものであり、それとの区別において、正確には「[個人的][倫理的]エゴイズム」とすべきであろう。そして氏からするなら、それは「開明的エゴイズム」であり、その「開明性」が「平和」に関しても第一の担保力となると考えているようである。因みに、これに対して高橋陣営は、そうしたエゴイズムを克服する道徳心が必要であると説くのであると思われるが、加藤はそれを、それが政治の場面で理念として上から説かれるとき、むしろ危険である、と批判しているのだと了解されうる。

[204] 対談相手の岩崎も、

国益中心主義ですか・・・・・・そこまで。それこそ自由主義史観ですね。(同145)

と語っている。しかしながら、これであれば、結局、−−日本の現状を国益中心主義として断定し、そして加藤をそのイデオローグだとして批判する以上−−15年戦争期を含む、明治以降、現在までのすべての時期における日本が、単一に批判の対象となっているにすぎない。もちろん、見掛け上の戦争・平和の相違にもかかわらず「戦後」の日本も基本的にそれ以前と同質だというのは、一つの見解でありうる。しかし、そうであるとするなら、この<現在>に関して発言が軽すぎるという印象がどうしても拭えない。両氏も含めて我々「日本国籍所有者」はこの「国益」の享受者であるからである。「国益中心主義」を批判しつつ、かつ自らが「国益」享受者であることにまったく関説しないとき、それは極論するなら、「我々は国益を享受しているのだが、言説としては、そのことをそのまま肯定的に主張する自由主義史観派を批判している」ということにもなりかねない。

[205] この点での議論は前稿(六)で行なったし、少なくとも「「歴史主体」論争」においては前面に出ていないのでこれ以上論じないが*、論を次に繋げていくとして、こうした軽い発言が可能なのは、加藤からすれば、「[言論人として]自らを外部に置いている」からなのである。そしてその限りで、いわば生活人のなかから、そうした外部的発言に対する(極端な)反定立として「自由主義史観」が説かれてくることにもなるのである。

* しかし次のことは(追加的に)指摘しておきたい。高橋が(加藤の同盟者とも見なしうる)西谷修氏を批判して、

国家の責任逃れを批判するという意図は、もちろんよく分かるんだがけれども、これだといわゆる「指導者責任論」に近くなり、兵士や国民の責任が免除されてしまう(「哀悼」254)

と語るとき、自らをこの「国民」から除外して語っている。また、大越がまさしく国益追求擁護論者として加藤を批判しつつ、その加藤の過去を「全共闘」に置いて
全共闘世代は、親世代の自己欺瞞を問題化はしたが、その自己欺瞞の源泉にまで遡って追及することはなかった

と語るとき、「全共闘」がその「親世代」の「自己欺瞞」を批判するという他者批判の(旧・左翼的)欺瞞性を告発しつつ、自らの自己欺瞞への批判(いわゆる「自己批判」)に定位したことを無視するというかたちで、自らの国益享受を棚上げにするという立場取りが示されている。

[206] 高橋に従って加藤の「実感」の内実を「私利私欲」として同定する(だけ)なら、加藤としては、人間の自然としてその不可避の「実感」を、それが戦前のように暴走しないようにすべきだ(そうするしかない)、そこで観念的に「私利私欲」を批判するなら、それは(逆に)「お国のために」といった「私利私欲」の全面否定を結果しかねない、とでも説いていることになるであろう。そしてそれに対して高橋陣営としては逆に、そうした「私利私欲」こそが問題であり、戦前の暴走もこの「私利私欲」の必然である、(自らの「私利私欲」を問わないということを好意的にみて補うなら:「私利私欲」はいわばそれと語らずに求めるものであって、それを一つの<主義>として語ることはその暴走化を加速しかねない)とでも反論していることになる。「実感」をこのように「私利私欲」として同定するなら論理的にはこういうことになると言わざるをえないのであるが、しかしながらこれでは両氏とも本意ではないと言うであろう。では、加藤の言う「実感」とは何であり、何としてそう単純には否定できないものであるのか。

[207] 「単純には否定できない」と言うのは、(高橋陣営内の)大越もまた「実感」に定位してもいるからである。氏は

世界的な女性たち....の連帯は女性たちの身体的実感に基づいていて、決して観念だけの運動ではない(「もうひとつ」25)

と述べている。これは単なる言葉の一致ではなく、氏の「実感」は概念として加藤と同じものである。大越もその「実感」への定位を他所では加藤同様「抽象的立場」への対置として説いているからである。しかし氏の「実感」は「女性」という被害者の「実感」であり、−−被害者の場合はその(被害の)「実感」に基づいて主張することは政治的に正当だとするなら−−正当な「実感」である。これに対して加藤のはそうではないという非対称性が存在する。我々は「前稿」では、この<有利>な条件に依拠するだけでは批判はフェアなものとはならないとしたが、ここになお問題とすべき点が残っていることは確かである。加藤にとってこの「実感」はまた「「鳥肌を立たせ」、違和感を生じさせる」(「語り口」206)という「実感」でもあるが、この感覚に基づく、「共同性の言葉」を正すべきだという主張(同206)は、それ自体は正当性をもたない。政治的には権利をもった主張とはなりえない。加藤はそれを認めるであろう。しかし氏にとって、政治的正当性はいわば第二義的なものである。氏は「文学」に定位しているからである。

[208] これに対して、大越は上述の理由で別だとしても、高橋陣営は全体として「政治」に立脚している。或る観点から見るなら、対立は「文学」と「政治」との対立である。加藤自身強調するように氏の主張の中核は(「文学」的立場からの)イデオロギー批判である。政治的な観念の主張や、そうした観念のストレートな啓蒙(「トップダウン式の考え方」)に対して、「現実から出発するボトムアップ式」を対置することである(「あとがき」316f.)。これに対して高橋陣営は、−−ここに言う「現実」は「実感」の別表現であるが−−端的に言って、そうした「現実」=「実感」の主張は、−−そのものとしては一概に否定できない(し、大越の場合は「実感」が有効に働いている)のだが、「主体」の言説と一体で語られるとき、その政治的含意は極めて危険なものである、と主張するわけであるが、加藤によるなら、そうした主張はまさしく「トップダウン式の考え方」なのである。

[209] しかしながら論争は、純粋に「文学」対「政治」というかたちでは展開していない。加藤が引用する大岡昇平等文学者とは異なって、氏自身はすでに「政治」論を展開している。自身「自分の中の政治と文学の分裂を克服できた」(「あとがき」324)と述べているが、厳密に言って「文学」を「政治」として展開している。高橋陣営も当然、加藤の論をそうした「政治」論として了解して批判を加えている。そうである以上、その「政治的含意には危険なものがある」という批判に対して、我々も加藤の論を「政治」論として評価しなければならない。その場合論点は、まさしく「主体」をめぐるものとなる。

三 「われわれ」という主体

[301] 高橋陣営が加藤批判のメイン・ターゲットにするのは、厳密には実感主義そのものではなく、加藤の「「われわれ」という集合の「まとまりの感覚」」への定位である。これが、実感に即して「日本人」という「主体」に定位しているのであり、その「主体」の「人格分裂」の克服というかたちで国民国家・日本の再構築を狙っているのだと批判されることになるのである。確かに、表面的に読むなら、そのように理解できなくもない。いわゆる「護憲派」と「改憲派」との「対立」が「人格分裂」であるためには、純論理的にも一つの主体、「日本という主体」を措定することを必然とするし、その「分裂」の克服を語る限りで、「日本という主体」の再建を説いていることになる。

[302] しかしながら、「日本という主体」の再建の主張は、「日本」という「国家」再建の主張ではあっても、「国民国家・日本」の再建の主張を直ちに意味するであろうか。明治期に「日本」として形成されたいった「国家」が「国民国家」であるというのはその通りであるが、いわば領土が(ほぼ)同一であるというところからだけでは、その(範囲での)「国家」の再建が「国民国家」の再建であるとは言えないであろう。したがって、高橋陣営がそのようような批判をするときは、加藤が志向している「国家」が、その性格として国民国家であることの論証を行なわなければならない。このためにも、「国益第一主義」国家と「国民国家」との乱暴な同一視は(一旦)放棄して、自らの「国民国家」規定の提示から始めなければならないであろう。我々の理解では、加藤は何らかの「国家」の再建を志向しているとしても、彼の意図としては、それが「国民国家」でないことは明瞭である。彼にとって「国民国家」とは(彼がまさに批判のターゲットとする)「共同性」(各国民の共同性=同質性)を本質とする*ものであるからである。

* 「前稿」で述べたように、この共同性=同質性産出のための最大の装置が(国民共有の)「物語」=「フィクション」であり、また「歴史教科書論争」は歴史という「物語」を巡るものなのである。したがって、我々の理解では、「国民国家」は換言すれば<物語国家>である。

[303] 加藤の一連の戦後日本論は、江藤淳批判をモティーフとする「アメリカの影」(1982年)の延長線上に位置するものである。加藤が「日本」の「人格分裂」の克服として、「日本」という集合主体を措定するのは、ここに規定されたものでもある。江藤の日本論がそうである以上、その批判として、いわば主語が同じく「日本」となるのである。しかしながら、そうした経緯もあって集合主体を措定せざるをえなくなっているのだが、彼は「人格分裂」を「日本」の分裂としてだけでなく、まさしく「[自然]人格」の「分裂」としても考えている。

ここで特に人格的な分裂と断るのは、たとえば米国における民主党と共和党....というような事態を指してわたし達は国論の二分というが、日本における保守と革新の対立を、これと同様に見ることはできないからである。/わたしはその違いを、前者においては、二つの異なる人格間の対立であるものが、後者においては、一つの人格の分裂になっているといっておく。/簡単にいうなら、日本の社会で改憲派と護憲派、保守と革新という対立をささえているのは、いわばジキル氏とハイド氏といったそれぞれ分裂した人格の片われの表現態にほかならないのである。(「敗戦」271)

と説かれているが、加藤はまさしく文字通り一個の「人格」(国民)における「分裂」を、実は問題としているのである。

[304] あるいは我々の敷衍的理解になるかもしれぬが、加藤によるなら、その「分裂」の根はまさしく「共同性」にある。我々が「共同性」という在り方をなおもっているがゆえに、一方では過去の日本をいわば我々の自我の延長部分として肯定的に捉えざるをえず、しかし他方では、その過去の罪のゆえに、過去を引き受けることができずに自らをそこから切り離して、それを外部として否定することになるのである。加藤が後者をそれもまた「共同性」であると批判するとき、そうした外部的否定の一様性を−−イデオロギー批判として−−批判するだけでなく、それが「共同性」という我々の根から由来するものであることをも突いているのである。であるから、加藤は、このそもそもの「共同性」という在り方を、その核心である「死者の弔い」方に即して解体を志向するのである。「無意義なものとして自国の死者を弔う」というのは、この解体の戦略なのである。

[305] 加藤がこの<戦略>の先に想定しているのは、したがってまた厳密には、「国民国家」を担う「主体」ではなく、岩崎の言い方では「健全な主体、健康な主体」(「物語」147)である。加藤陣営は、そうした「健康な主体」(そのもの)をも批判するのであるが、少なくとも加藤の意図としては、それは直ちには国民国家の主体ではなく、批判しえるとしても「私利私欲」の主体に留まる。これを高橋陣営は直ちに国民国家の主体として読み替えるのだが、そこには国民国家のイメージの相違がある。加藤においては、「私利私欲」の主体からなる国家こそが国民国家の対極にあるのに対して、高橋陣営においては、そうした国家こそが国民国家であると捉えられているようである。そして彼らにとっては、国民国家の対極に位置するのは、いわば正義の国家、あるいは国家の廃絶の先に予期されている正義の(倫理的)市民達の関係態である。彼らにとっては、それこそが(アーレントの言う)「公共性」である。

[306] 高橋は死者の弔いの論としては、被害者である二千万のアジアの死者達に向かい合うことこそが、そうした倫理的主体を形成していくことになるとも説いている。「元慰安婦」に立向かうことというコンテクストにおいてだが−−しかしまた、「元慰安婦たちの証言が<死者への関係>を含んでいる」(「汚辱」177)とされている−−、

元慰安婦たち、彼女たち一人一人の顔とまなざしは....「国民国家」の虚偽あるいは自己欺瞞を、最も痛烈に告発する「他者」の顔、「異邦人」ないし「寡婦」のまなざしではないだろうか。この汚辱の記憶、恥ずべき記憶は、「栄光を求めて」捨てられるべきものなどではなく、むしろこの記憶を保持し、それに恥じ入り続けることが、この国とこの市民としてのわたしたちに、決定的に重要なある倫理的可能性を、さらには政治的可能性をも開くのではないか。(同177)

と、レヴィナスを踏まえて説かれている。

[307] しかし、これに対して加藤は、そうした(いわば反定立としての)倫理的主体こそが戦後左翼の自己欺瞞的主体であり、補完的に国民国家を支えるものであると(逆に)告発するのである。したがって、両者において実は共通に国民国家的主体が批判の対象になっているのである。それゆえ生産的な論争はまず、いわば戦略論として、そうした国民国家解体の戦略としていずれが妥当であるのかというかたちでこそ行なわれるべきである。加藤批判としては、その戦略では駄目だという議論として展開されなければならないのである。

[308] 加藤はこの<戦略>の基本を「内から出る」「内から扉を開く」として説いている。「われわれ」日本人という「まとまりの感覚」に定位するというのはいうまでもなくこの戦略的布石である。ここを端的には大越は、そうした「まとまり」として国民国家の主体の形成を狙ったものだと批判するのであるが、加藤は、そうした「感覚」の復権を説いて、いわばそこへ至るべしと説いているのではなくて、そうした「感覚」から出発すべきであると説いているのである。さらに言うなら、加藤は、そうした「感覚」を問題として、いかにしてそれを解体するかを志向しているのであって、そうした「感覚」を無視して、外部から「日本」を(観念的に)問題にするだけでは、本当には「感覚」の解体に繋がらないと説いているのである。再び言うが、したがってポイントは、そのように「日本の解体」を共有するとして、その戦略としていかなるものが妥当であるのかという議論、加藤批判としては、その戦略(「内から扉を開く」)では駄目だという議論として展開されなければならないのである。加藤が高橋陣営を批判するとき、そのメインの主張は、高橋的戦略は無効であるというところにある。(氏の議論をさらに展開するなら、外部から観念的に「日本」を批判することでは、「反-日本」へと看板の取り替えは行なわれるが、その中身は「日本」に留まったままであるとも言える。)ここからしても、高橋陣営はまともに対応して、戦略の有効・無効の観点で反論すべきである。

[309] この議論が展開しうるためには、しかし現時点では決定的な桎梏がある。高橋との対談で(この論争においては高橋の同盟者である)岩崎は次のように語っている。

[加藤によって]高橋さんはある種の共同性の側に、戦後というものに無自覚に取り込まれた存在として描かれてある。それに対して、かれ[加藤]は、「公共性」、「自立的思考」....の側という配置になっている。....[しかし、加藤が言う]この日本人という存在、「内在」というしかないとされるところに成立する主体はどうして共同性ではないのだろうか。それでいながら、どうして加藤さんのほうが共同体の対極に場所を確保して、共同性にはまっているとされる高橋さんを撃つことができるのか、僕にはついに理解できなかった。(「物語」136)

これはまず、岩崎が加藤の「内から」ということを理解してないことを示している。加藤は上に述べたように、いわば戦略論として「内から」を説いているのであって、どちらが「内」、どちらが「外」に(すでに)いるという論ではない−−したがって「加藤が共同体の対極に場所を確保している」わけではない−−。どこにいるというのなら(平均的)日本人はすべて「内」(「共同体」)にいるのであって、−−そこにいるにもかかわらずすでに「外」にいるかのように語る欺瞞を批判しつつ−−そこからどのように「外」へ出るかを加藤は問うているのである。まして「内在せよ」と規範的に主張しているわけでは決してない。むしろ逆であって、その戦略は「国民国家・日本」−−「共同性」とは加藤とって「国民国家」の第一の属性である−−の解体のための戦略であって、決して「日本」の回復のためのものなどではないのである。

[310] 第二に、これは誤解とは言い切れぬ点であるが、左翼側に見られる観念的=外在的な議論を、加藤は「共同性」と見ており、高橋陣営はあるいはそれをそうではない(それこそまさしく「公共性」だ)とみているかもしれない、という点がある。加藤は高橋をそういう「左翼」だとみて「共同性」だと批判するのであるが、これに応じるなら、いわゆる「(旧)左翼」の言説をどうみるのかをまず明らかにする必要があるであろう。私見では、

国民的プライドの回復、「誇りの持てる歴史を」という点でも、左右両派は、国民的アイデンティティを共有しているらしいふしがある

という上野千鶴子の「左翼」批判(「記憶」158)は加藤と同じ論点を含んでいる。また、
日本の若者たちが韓国を訪れ、その訪問行事のなかに、戦時中に強制連行された男性や「慰安婦」にさせられた女性の経験を聞く、という催しがあった。....日本の若者が立ち上がり、とつぜん、「....ゆるしてください」と号泣したのだ。....この若者のナイーヴな反応をめぐる「感動的な挿話」は、国家と自分とをこれほどまでにかんたんに同一化するかれのナイーヴさにおいて、わたしに恐怖を抱かせる(同171)

と語られる上野のその「恐怖」は、加藤の(「共同性」に対する)「違和感」と同質のものである。

[311] しかしながら、論争が生産的に戦略論として展開されていないことには、加藤の側にそれなりの原因がある。それは、加藤が目指すべきものとして想定している「私利私欲」の主体の形成する<社会>が、それこそが真の「公共性」であると主張されるだけであって、いったいどのような<社会>であるかが明示されていないところにある。彼が(『思想の科学』的にプラグマティックに)現実に定位してそれなりの変革を志向するときも、その行方に新たな<社会>が想定されている。だが、同時に「政治論」であると語るなら、すくなくともその骨格が提示されるべきであろう*。そして、再び言うが、高橋陣営としては、加藤の「私利私欲」の主体を直ちに国民国家の主体とみなすのでなく、各国民が自らの「欲」−−こういう言い方は挑発であって、普通の言葉で言えば「幸福」−−を実現するための有効な組織としての国家について、それが国家としても自己利益追求的であるというところから、国家そのものを(国民国家として)否定する、という乱暴な議論を差し控えて、あるべき・許されるべき国家の在り方について、同様政治論として論じるべきであろう。

* ここを『思想の科学』論一般として、川本隆史氏と共に

《情念》と《制度》とを媒介する社会倫理学的アプローチが、鶴見には欠落していると言えないだろうか。....『思想の科学』運動[は]「社会生活の指導原理」すなわち社会倫理の探求を棚上げにしてきた....(「川本」38)

と語ることができる。

[312] 同時に「主体」論としては、加藤の「私利私欲」の主体=「健康な主体」と、倫理的主体=「正義」の主体との対置として、そこに還元して、それ自身をテーマとして論じるべきである。私見では、前者は(道徳の「遮断のイデオロギー」を批判して)こう換言していいが「自然」な主体を説く永井均の「主体」でもある。因みに、永井を批判する大庭健の「主体」は高橋達の倫理的「主体」に近い。したがって、論争は深いところでは、永井−大庭論争にも通底している。加藤の主体が一見反倫理的とも見えるので、我々としてここでバランスをとっておくが、「正義」の主体こそが(かえって、より大きな)悪を生むのではなかろうかという反省も必要である。かの15年戦争も、そして戦争は一般に、スローガンとしては「正義の戦争だ」と叫ばれてもいたのであるから。

四 「責任」の主体

[401] しかし事態はもう少し混み入っている。それは、加藤が責任主体としても「日本」を措定しているからである。しかしこれは、実質上一体として語られているのであるが、「実感」の議論=戦後論とは独立のものとして理解すべきである。

[402] 加藤氏との対談において西谷は戦争責任を問題として、次のように語る。

....だから「われわれ」が謝らなければならない....。そのときにどうしてもこれは個人の問題ではなく、「われわれ」と言わざるをえない。そうすると、いままでは別に日本人でなくてもいいんだ、おれはおれだと言ってきたけれども、そのような責任(リスポンサビリテ)−−これをレヴィナスは他者の呼びかけに答えうる応答可能性(レスポンスする能力)とみなすわけですが−−の主体として、戦後の世代も「われわれ」と言わざるをえない。そして「日本人」であることを引受けざるをえない。(「世界戦争」51)

これは西谷の発言であるが、この後引き続いて「そのことが今要請されていると思うのですが、そこに加藤さんの「日本人論」論があったのです」と語られているところからみても、加藤の主張として了解することも十分可能である。我々は、ここを手がかりにして議論を進めていきたい。加藤のオリジナルの議論の場合、「人格分裂」「ねじれ」の論と、したがってその克服−−これが高橋陣営からは「日本国民」という「主体」の立ち上げ、として理解されることになる−−と一体として論じられているのだが、我々はその部分を(方法的に)むしろ切り離して問題とすべきであると考えるからである。

[403] そうするとして、この点(だけ)に関して高橋は、鵜飼哲氏の議論をも援用しつつ次のように応じている。

鵜飼さんは....「戦争の記憶が世代を超えるとき、それが罪責感以上に羞恥に係わるものになるのは必然ではなかろうか」といっている。人は、たとえ親であっても他人の犯した犯罪に「罪責感」をもち続けるのは困難だけれども、「羞恥」は自分の行為だけでなく、他人の行為についても抱く。たとえば、「日本人として恥かしい」というとき、人は「同時に自分の帰属を肯定しかつ当事者性を否認している」。(「哀悼」248)

そして、「「日本人として恥かしい」というと、「われわれ日本人」という「主体」とどうちがうのか」という疑問を自ら想定して、
ぼくは、日本国家という政治的共同体への帰属で十分だと思う。「従軍慰安婦」問題を考えてみると、あの犯罪が許しがたいと感じるのに日本人である必要はない。しかし、....を考えると、「日本人として恥かしい」と言いたくなっても不思議はない。....日本の戦後責任を引き受けるためには、とりあえず、日本国家への政治的帰属を肯定することが前提だろう。

と続ける(同249)。

[404] 加藤・高橋両氏のこの両論は、「日本人として」謝罪すべきであるという点では同じであると言いうる。であるから高橋は「どうちがうか」という疑問を自ら立ててみているのであるが、しかし、一見して同じであるかに見えて、その内実は大きく異なる。その違いは、「日本人として....」という限りでは、加藤がすっきりしているのに対して高橋に動揺があるというところに表われている。「動揺している」と言うのは、特に戦後世代にみられる「俺たちには責任はない」として、日本のかつての非を言うときは端的には「彼らは....」という言い方をする論者を逆の(それとして、すっきりした)立場に置くとして、この両端の中間に位置しているからである。

[405] 逆の端から見るとして、高橋はなぜ(なお)「日本人として....」と言うのであろうか。「当の私(個人)が日本人として恥かしい」というのは何が「恥かしい」のであろうか。我々が例えば欧米人と話すときと比べてアジアの人たちと話すときは何か別のものを感じる。特に「[お前は日本人であるが]私の親は日本軍に殺された」と言われるとき、何か自分自身が罪を犯したかのように申し訳なく感じてしまう。高橋も恐らくこの体験は有しているであろう。これも「実感」である。戦後世代に属しつつも加藤は、恐らくこの「実感」にも依拠して、

戦争を通過していまわたし達がここにいるという、敗戦者の自覚(「敗戦」276)

をもって自己を、戦争において非行を行なった者たちをもメンバーとして含む或る集団−−「日本を立ち上げる」とは、何よりもこの「集団」を措定することであろう−−の一員として規定する。したがって加藤は、そうした集団の一員として彼自身が「有責」であると規定するのである。そして、そうした者として彼自身が「謝罪」するのである。「手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ」(同278)とは、そういうことであろう。

[406] これに対して高橋は、恐らく上の「実感」は有しているであろうが、言説としてはそれを無化するかたちで、「日本国家への政治的帰属を肯定」(「哀悼」249)しつつも、その「帰属」する「日本国家」を戦後・日本国家へと限定する。であるから、これはあるいは誤植かもしれぬが、自らが引き受ける「責任」を「日本の戦責任」として、具体的には加藤が言う「ツケ」をきちんと返していない(戦後)日本政府を我々が選んでいる/許しているということへと限定するのである。加藤からすれば、高橋が「恥」を「人類として恥かしい」(「物語」141)へとずらしていく*ことの背後にも、過去とのこうした<切り離し>があるのだろう。

* これは、[403]で「しかし、....を考えると」と中略して引用した「....」の部分においても明らかである。すなわち高橋はその部分で、「あの犯罪が当時の日本軍、日本国家によってなされたこと」として加藤=西谷と同じ認識から出発しながら、「しかも、戦後日本はそれを隠蔽し、忘却されるにまかせ、問題が顕在化してからも日本政府は責任をとらず....」として、戦責任へと責任を展開させている。あるいは、戦後において政府が戦争の責任を引き受けるべきであるとしつつ、みずからの責任を、戦争責任から、そうした戦争責任を引き受けない政府を許しているわれわれの戦後責任へと展開している。

[407] 上に言う「責任主体」としての「日本」を立ち上げると加藤が語るときの真意は、しかし、まさにこの<切り離し>の批判である。

戦後の問題は、日本人がこの非難[「日本人がおかしいじゃないか、おまえたちがおかしいじゃないか」という非難]を受けとめる「やった」われわれを用意すらせず、そこから逃げたということでしょう。主体=「日本人」をつくって、それに対してやっぱりおかしいじゃないか、責任をとれ、謝れ、少なくとも声を聞け、という要請に応えようとしたした人間は、残念ながらほとんど、いなかった。(「世界戦争」51)

と語られるときの「逃げ」を加藤は批判しているのである。

[408] しかしながら高橋にとっては、この<切り離し>はむしろそうすべきであるものかもしれない。責任としても日本の過去は、むしろ引き受けるべきでないのかもしれない。過去を引き受けるとは、悪しき日本とのであるが、その日本との一体化を意味するからである。実際、「自由主義史観」に近いところで、−−過去をよきものと欺瞞するのではなく(ここに「自由主義史観派」との一定の距離がある)−−過去を悪しきものとしたうえで、その過去を引き受け、そしてそのうえで日本の連続性を保持しようという行き方も説かれている。悪しき過去を引き受けるとき、その罪の謝罪を認めることになるが、例えば福田和也氏は

日本人の民族性をいま一度認識するためになら謝罪をしてもいい(「読む」114)

というかたちでこのことを説いている。そうであるから高橋はむしろ積極的に<切り離し>を説くのかもしれないのである。「戦責任」への限定も、むしろ意識的になされていることかもしれないのである。

[409] そうであるなら、<切り離し>を徹底して、戦後日本からも切り離すべきではなかろうか。「人類として」と語られるときは、あるいはそうしているのかもしれない。しかしながら、それでは「俺たちには責任がない」というのと同じになるのではなかろうか。そこで語られる「責任」は、他人の「責任」に留まっていて、自分の「責任」性ということがまったくなくなっているのではなかろうか。自分は<善>であって、ただ他者の<悪>を告発するということにしかならないのではなかろうか。「前稿」でも言及したが、アーレントのブーバー批判は、そうした<自己の善良視>を批判したものである。

[410] 加藤が高橋を「第三者として語っている」(「世界戦争」46)と批判するのは、このことを意味していると了解すべきである。ここのところは、高橋が<むしろ第三者として語るべきだ>としてしか対応していないので厳密に辿る必要がある。高橋はここではまったく理解していないということになるのであるが、しかし、その原因は、少なくとも誘因は、加藤の論じ方にもある。加藤は、

さっきのハンナ・アーレントの例でいうと、そのコンテクストはハンナ・アーレントがホロコーストにおけるユダヤ人指導者たちの責任を問題にしたというものです。..../....裁きというものがもし成り立つとしたら、この場合にはユダヤ人であるアーレントがユダヤ人である当時の指導者を糾弾するという形においてでしょう。当事者当事者を裁くというのはいったいどういうことなのか、そのことが十分に、批判している高橋さんにおいて受け止められているとは思えない。高橋さんは、いわば第三者として語っている。

として、アーレントの議論と関連づけて批判を行なっている。しかし、アーレントの議論そのもののコンテクストにおいては、裁くには「第三者」(「注視者spectator」)であることが必要である(『カント』95,112etc.参照)というのが正しい読み方であろう。これがあるから、加藤の高橋批判は「変だ」(「哀悼」241)ということにはなる。ここは明らかに加藤に非がある。他所でもそうだが、氏の議論はミスリーディングである*。しかしながら、批判の真意は我々が上に了解したものであろう。したがってまた、高橋が理解に苦しんで
ぼくが「第三者」的であって「当事者」的でないという批判は、「当事者」性が「同胞意識」が欠けている、という意味でしかありえないだろう(同242)

と理解したところは、「[罪を犯した者のその罪の責任を]同朋[として引き継ぐという]意識」とでも了解すべきであろう。高橋はここで(親切に)真意を汲み取り、かつ、そういう批判に対して−−その意図といったものを探ろうとするのをやめて−−まずはまともに対応すべきであろう。

* そのためであろうかここに関して「語り口」では、

この高橋の指摘にわたしはほぼ賛成である。違いは一点しかない。その第三者性に関し、わたしは批判し、高橋はこれが大事だというが、そこにはすれ違いがある。....[高橋の言うように第三者性が必要であると言っても構わない。しかし、]それ[第三者性]は、たとえ概念としては高橋のいうように要約しうるものだとしても、たんに非当事者が非当事者であることで手にしている第三者性と同じではない。それはほぼ不可能な場所で、にもかかわらず、またそれゆえに掴まれる第三者性である。アーレントにとってはカントがそうであるような注視者の第三者性として措定されなければならないにせよ、それは、そういう始点から公共性のほうに育てられた、パリアの第三者なのである。(195)

という説明を行なっている。しかし、これでもまだ真意は伝わりにくいであろう。

[411] そうであるとして、では逆に、過去の責任を引き受ける加藤のスタンスは、先の自由主義史観に近いかたちでのそれと同じになるのか。私見では、両者の間には相違がある。この相違を高橋は見ていないのであって、そこに、加藤のおそらく「戦争を通過していまわたし達がここにいるという....」(「敗戦」276)という件を「わたし達がいまここにいることのために死んだ自国の死者」(「汚辱」180f.)と、つまり<非行を行なったとしてもいわば歴史の必然のなかで日本のために(と思って)戦って死んだ死者>とでも理解してしまうことが生じたりする。だが我々の理解では、加藤は、「わたし達」が彼らの戦争行為から恩を受けていないとしても*、その彼らの非行を責任として引き受ける、と語っているのである。しかしながら加藤は、例えば高橋が引いているレヴィナスの「わたしがしたのではないことに対する責任」(「哀悼」247)としてではなく、なぜ「われわれ日本人」の責任として過去の非行を引き受けるのか。ここは、やはり、そうした責任の引き受けを通して「戦後」日本の確立を図るためであると理解したくなるのであるが、そうであるとしても、それは、もはや「国民国家」日本の再建のためではなく、−−また、例えば宮崎哲哉氏の、マッキンタイア流の共同体主義で、国家と共同体を切り離して、その共同体の維持を説く行き方(『正義』135ff.,)とも異なって−−、いわば日本列島を自然的範囲とする一つの(諸個人の「私利私欲」実現のための)機能的集団を集団として「健康」に(=欺瞞を含むことなく)確立するためのものであろう。あるいは、悪であるという点で戦前の日本と現在の(われわれの)日本とがなお同質である−−例えば軍事的侵略と経済的侵略というかたちで−−という認識のもとで、過去の非行を、われわれがそれを現在なお犯しつつあるものとして引き受け、そこに生じるまさしくわれわれ自身の責任を問うているのかもしれない。

* 「世界戦争」では

自分が日本人であって、日本にいることで何らかのおかげを蒙っている、僕はそういうことでの貸し借りを無しにしたいんですよ。(51)

と語られているが、この<恩>はあくまで「何らかの」<恩>であって、(祖国のための)戦争行為に<恩>を感じているわけでない。であるから、他方では戦争行為を行なった「死者に鞭打つ」ことが「評価」されることになるのである(同,55)。

[412] この解釈も可能ではあろうが、しかしながら加藤の真意は、おそらく次の箇所にある。

わたし達は....謝罪の主体を用意することを、誰かに要請されているのである。/これは、ある批判者の指摘するようにたしかに国民の共同主体としての「われわれ」の立ち上げ、ということを意味する。しかし、侵略者であろうわたし達は、最低、そのようなことだけはする義務がある。侵略国の国民だとは、このように、無条件に個人だといえない場面をもつことではないだろうか。(「戦後」299)

つまり、
日本人おかしいじゃないか、おまえたちがおかしいじゃないかと言われたときに、その「おまえたち」に合致する「われわれ」というものはもはやいないし、その「おまえたち」を引き受ける人はだれもいない。「敗戦後論」というのは、だったらおれが全部引き受けてやるよ、と書いたものなんですよ。(「世界戦争」50f.)

と語られているが、加藤は、アジアの人たちが戦後世代の私達個々人に対して(も)「あなたは日本人であるが....」と問うてくることに定位して、それをそのまま(=「日本人」として)引き受きうける、という立場に立っているのである。* **

* しかし、ここの議論は、西谷の場合の「日本人はこういうことをしてきた。われわれは日本人である。だから「われわれ」が謝らなければならない」(同,50)といういわば単純な<三段論法>同様、なお未展開であると考えられる。さらに、高橋の<人類=人間として>というのも同様である。我々としてもなお考えなければならないが、この加藤のスタンスに関しては、アジアの人たちが−−集合的に−−日本人総体を批判するとき、それはそれとして「国民国家」的枠組みで思考しているとも考えられるが、そうした告発に対してはむしろ批判すべきであるか、という問いを立てることができる。さらに次のような問題を挙げることもできる。1)例えば中国の政治家から「指導者」と「人民」とを区別して語られるとき、(いわばそれに甘えて)自分を「人民」として(のみ)規定することは、是か非か。2)(個々の戦争責任者の罪を問うのではなく)−−集合的人格としての−−「国家」の責任を問うことは、それもまた「国家」的発想となるのか。3)戦前の日本国家と戦後のそれとが別だと解しえた場合、戦後の国家が戦前の国家の責任をいかなる根拠をもって引き継ぐのか。(理論的応用問題として:明らかに別の国家となっている場合、例えば「日本人捕虜シベリア抑留」に対する旧ソ連の責任は、ロシアもまた引く継ぐべきなのか。ロシアはそうだとして、例えばウクライナはどうなのか。)−−いくつかは(国際)法的には答えが出ているであろうが、倫理的にはどう考えるべきか。
** ここのところは哲学史的に、あるいはレヴィナス理解の問題として展開可能かもしれない。なぜなら、西谷の場合は、同じくレヴィナスに依拠して「他者の呼びかけに応えうる」「主体」として「日本人」を(、誤解をさけるために再び言うなら、責任が問われる非行をなした「主体」と同じ「主体」を)立てることを語っているからである。

五 「歴史形成の主体」をめぐって−−再び言うが、戦略論を−−

[501] 「責任(引き受け)主体」論としては、これが加藤の結論であるであろうが、高橋陣営はこれを、明確に語られる「国民の共同主体としての「われわれ」の立ち上げ」というところを、かつ「国民国家を担う主体」として読み込んで批判するわけである。

[502] そして高橋は[306]で紹介したように、そうした主体形成に対して、アジアの人たち(「他者」)の声を聞くことによる−−「日本人」という悪しき主体を克服した−−いわば真の主体の形成を説くのであるが、しかしそれは、あえて悪意に理解するなら、例えば「従軍慰安婦」(という「他者」)の声を自らの「主体」形成のために利用することになるのではなかろうか。(その中身は異なっているが)高橋の方が「主体形成」に拘っているのであって、ここで高橋は「責任主体」の問題を別の論へとすり替えているのではなかろうか。

[503] 高橋は、[403]で挙げた鵜飼の主張を更に問題として、次のように展開している。

ただ、問題は、その恥かしいという意識を、加藤さんの言葉を使えば、共同性あるいは同一性の方に回収していくのか、それとももっと公共的な方に開いていくのか。..../彼女[アーレント]はこう言っているんです。「....私は人間であることを恥じると答えようという思いにかられた。....」。....この「恥かしさ」は....実は「人類」の理念というものの可能性につながっている。..../要するにアーレントは、ここで....人間として恥かしいという感情にそうとう大きな「政治的」な意味を見出している。..../「人類」の理念だけがいかなる民族も排除せず、ナチ的な人種主義への「唯一の保証」である。..../....もし「人類」という理念に意味があるとすれば、人間は他民族が犯した犯罪にも責任を背負わなければならない、とアーレントも言っている。記憶し証言する責任はわれわれにもある、と書いた。(「物語」140ff.)

ここには、「責任」論としての展開がある。そしてその結論=「記憶」の継承の責任を、自ら行為として果たしてもいる。しかしながら、果たすべき「戦争責任」とはこの責任であるのか。なるほど「忘却の穴」に対しては有効な対応だとしてもそれは、純論理的に見て「戦争責任」(そのもの)の引き受けであろうか。そこには、自らの「主体」を形成するといういわば「主体」論的偏向があるのであって、「責任」論(そのもの)としては問題を含むのではなかろうか。

[504] しかし他方、こう批判するなら高橋はあるいは、「二度と同じことを繰り返さない(ようにする)ことが本当に責任を果たすことである」という考え方を基に、「責任」を貫徹させるためにも真の「主体」を形成していかなければならない、と語るかもしれない。「責任」論は必然的に「主体」論へと展開していくというのかもしれない。そして、加藤が「歴史形成の主体」を語るとき、彼もまたこの展開を行なっているようにも了解しえる。

[505] しかしならがそうであるとして、加藤はやはり「国民国家を担う主体」の形成を説いているのか。「われわれ」がそういう「国民国家を担う主体」であるとしても、しかし上の引用文では、それは端的には、まさしく戦争責任をその責任が帰属する行為の遂行者と同じ主体としてまず引き受ける(のみの)主体、「戦争責任」(のみ)を担う主体であって、(今後あるべき)国家形成の主体ではない。したがって、加藤が「歴史形成の主体」としてそうした国家形成の主体を説いているとしても、それは論理構成としては「責任」論における主体とは別である。「国民国家を担う主体」を説いていると批判するのであるならば、別の論拠に基づくのでなければならない。

[506] きわめて未消化のかたちで言われる「国益中心主義だ」という批判は、無意識にはこの<論理構成の別>に従ったものでもあるだろう。だが既述のように、そうした批判は「国民国家」批判としてはあまりにおそまつである。加藤の「私利私欲」の論−−高橋陣営も、「国民国家」批判としてこれを突いているだけである−−が<社会論>としてはおそまつであるのと対応しているのだと割り引くとしてもやはりそう言わざるをえない。そしてこれは実は、高橋陣営にとってはいわば本論であるとも言える「主体」形成論の(加藤からみれば)おそまつさをも帰結している。加藤によるなら、それは結局「清さ」を説いているに過ぎないのである。

[507] 「主体」形成論−−加藤においては「歴史形成の主体」論−−としては加藤は、そうした教説を「サロン思想」(「戦後」314)、−−内容的には上のような「他者の思想」(同、314)と表現されるものを加藤は主体の在り方の点でそう呼んでいる−−と軽蔑しつつ、おそらくそれを「子ども」の思想とも等置しつつ、次のように語っている。

いま時代は国民国家のフィクション性が明らかになり、「国家」の枠それ自体が問われるところまできている。そうだとして、もしわたし達が無垢な十歳の子どもであるなら、いま、ここからはじめられるだろう。/しかし、わたし達は十歳の無垢で素朴な児童ではない。歴史を生きている。悪い戦闘を闘い、敗れるという経験がわたし達を大人にしたのである。/国民国家がいつか波打際に指で書かれた文字のように消えていく存在であると知らされて、そうか、それなら、そこから考えはじめられる[という]ような状況には、わたし達はない。....国民国家の消滅を眼で追いながら、しかし手は汚れたまま、これまでのツケを返済しつつ事にあたる。これが、わたし達の姿勢だろうというのがわたしの考えなのである。(「戦後」278)

[508] これは、「内側から扉を開く」という戦略を「主体」の側面から説いたものである。したがって高橋陣営は、「主体」論としても、(正面からは)まさしく戦略論として加藤を批判しなければならないのである。「他者の思想」を批判して自らの立場を「自分がなければ、他者に出会えない、という考え方」(「戦後」314)」として対置する加藤を、単に「自己中心」として退ける(「物語」137)だけでなく、それを「実感」論、「私利私欲」論から−−方法的に−−切り離して、まさしく戦略論として、「主体形成」の在り方の妥当性をめぐって批判しなければならない。「物語」156における高橋の『レイテ戦記』分析は、この方向を示してはいるが、それもエピソード的なものにとどまっている。主体の在り方は他者との関係によって規定されるのだから、その変革は他者に正しく向かい合うことによって始めて可能なのであって、その<正しく向かい合う>というところから始めるべきなのか。そうした関係において在り方を規定されている現にある主体が欺瞞を含んでいるとき、他者に正しく向かい合うためにも、その欺瞞にまず立向かうことが必要であるのか。

おわりに

[601] もう簡単に締めくくりたい。まず高橋氏の方が、その専門(哲学史)領域で発揮されているテクストの正確な読みを加藤の議論に対しても行なって欲しい。「哲学」とは、加藤の言い回しを用いてきつく言うが「清さ」を競うものではなく、何よりも<正確さ>を期待される学問であるからである。

引用文献・略号

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「物語」   :岩崎稔/高橋哲哉「「物語」の廃墟から」『現代思想』1997年7月号
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「あとがき」 :同上書所収「あとがき」
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「すが」   :すが秀美「文学を擁護し、詩を保守する」『現代詩手帖」1997年9月号
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『正義』   :宮崎哲哉『正義の見方』洋泉社,1996
「山城」   :山城むつみ「了解の上と下 加藤典洋『敗戦後論』」『群像』1997年10月号
「前稿」   :安彦一恵「「歴史観」闘争」『DIALOGICA』No.5,1997

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1997/11/06


   


「埋め合わせ理論」とその批判−−ヨアヒム・リッター学派とフランクフルト学派


藤野寛

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           博士論文を書いた後、私はミュンスターに移り、そこに
           三学期とどまった。当時(1956-58)ヨアヒム・リッター
           の周囲のグループは、ドイツでおそらく最も生彩あるグ
           ループだった。基底にある保守的な調子を聞き分けるに
           は、私は政治的にまだあまりにもうぶだった。@
                    (エルンスト・トゥーゲンドハット)

(一)発案者:ヨアヒム・リッター(1903-74)

[1101] ドイツ語文献を情報源として哲学しようとする者にとって、ヨアヒム・リッターへの感謝の気持ちを抱かずにすますことは不可能である。現在九巻まで刊行され全部で十二巻におよぶと予告されている『史的哲学辞典』の編集責任者としてのリッターのような哲学者の存在は、哲学が哲学史研究におちぶれることにどれほど警戒的であろうとも、哲学史研究そのものに対して敬意の念を抱き続けることを可能にしてくれる。

[1102] しかし、それだけではない。リッターは、近代についての理論化であると見なすことのできる「埋め合わせ理論」を彼自身の哲学として提示している。「近代社会における精神科学の課題」(「課題」論文と略記)「景観−−近代社会における美的なものの機能について」(「景観」論文と略記)という二本の論文Aに依って、先ず、この理論の骨格を明らかにすることを試みたい。

[1201] 「課題」論文でのリッターの議論は、大学における教養(部)の存在意義という−−われわれにとっても決して他人事ではない(なかった?)はずの−−問題を起点とする。そのきっかけを彼に与えたのは、同僚となったシェルスキーの就任講演「孤独と自由−−ドイツの大学の社会的理念によせて」だった。シェルスキーの問題提起は、フンボルトの意味での「教養」を今日の大学はなお伝えようとすべきなのか、という論点をめぐるものである。そこでは「職業教育(Berufsausbildung)」と「教養(Bildung)」とが対比の内に置かれている。前者が−−根本的には自然支配を目的とする−−社会的実用の連関に組み込まれているのに対して、後者は社会的要請には拘束されることのない、その意味で「純粋」な「知識の営み(Wissenschaft)」に基礎を置く。この対比には、古代ギリシア以来の「理論(テオリア)」「実践(プラクシス)」の対比が対応している。例えば、次のように言われる。

実践的な学問が、事物を、われわれにとって意のままに使いこなすことができ有用なものとする、という課題を担い、そういう仕方で常に実用上の目的に従属しているのに対して、>理論的<学問の方は、>必ずしも必要とはいえない<、それゆえ>自由な<認識として、自分自身の内に目的を持っている。後者は、実践の連関から抜け出して、存在するものを>存在するもの<として、われわれがそれを使いこなす上でそれが何であるかという観点からではなく、>それ自体において<、また>それ自体として<何であるかという観点から、理解しようとする。(109f.)

[1202] 世界がコスモスとして存在し、究極のところで「われわれにとって」が「それ自体として」から乖離していないと信じられていた限りにおいては、理論と実践も調和の内にあると考えることができたのであろう。実践連関からの自由に基礎を置く教養は、にもかかわらず、社会の内に存在を主張しえたであろう。また、実践の側でも、それ自体として存在する世界の全体の中に有意味に組み込まれえただろう。

[1203] けれども、哲学史の記述の中で教えられるように、近代の学問は、この形而上学的前提から身を解き放つことを通して成立する。自らの存在意味を自己自身の内に根拠づけるようになる。それは、要するに、社会にとっての有用性という観点から自己の存在を正当化しなければならない、ということである。そして、自然科学に代表される近代の学問は首尾よくそれをやってのけた。

近代の学問は、形而上学的な問いの解決に依存しなくてすむことによって、また、観察可能な現象の研究に専念することによって、社会的実践の土台となることができるようになったのである。(114f.)

[1204] だとすれば、社会的実践の土台となるどころか、それに何らの貢献もしないかに見える「理論的」学問が窮地に陥らずにはすまなくなるのは見やすい道理であろう。実際、シェルスキーは、理論的学問およびそれに基礎を置く教養なるものは、形而上学を引きずる過去の遺物、無用の長物にすぎず、もはや時代遅れであるとの立場に立つ。遡っては、シェーラーもまた知識社会学に関する講演の中で同じ見解を表明しているという。言うなれば、シェーラー、シェルスキーは「教養部」解体論者であったわけだ。

[1205] リッターが論駁しようとしたのは、この見解だった。

大学をめぐる論議は、理論としての哲学が社会と対置され、学問の社会的機能が実践的応用と職業教育として理論に対置されるという、そういう呪縛から抜け出さない限り、一歩の前進もありえない。(119)

[1301] リッターは自然科学と精神科学との関係に着目して自らの論旨を展開する。精神科学は、近代の時間の流れの中で、新興の自然科学の勢いを前にして守勢に回り、どんどん押され、片隅に追いやられ、ついにはそこで細々と露命をつなぐ有り様となった−−われわれは、そういうイメージで両者の関係を思い描いていないだろうか。しかし、このイメージは歴史事実に即するものではない。

精神科学は、>理論的な<学問であると規定されるからといって、産業社会以前の世界の遺物であるとか残滓であるとか見なすことのできるものではない。それは、自然科学同様、産業社会の中にその居場所を持つ。産業社会という土壌から生まれ育ってきたものなのだ。(120f.)

[1302] リッターによれば、精神科学がドイツの大学の中に制度的に受け入れられ定着してゆくのは−−自然科学と同じく−−十九世紀になってからのことである。十九世紀になって押され気味となり延命に汲々とし始める、のでは決してないのだ。

一方で、社会そのものの科学化のプロセスの中で学問を自らの実践にとっての実質・土台となした、その同じ社会が、他方では、精神科学という形で、人間の歴史的精神的世界との関係の中で>理論<の課題を引き受け、実践をめざさず実践の目的連関から基礎づけられもしない教養なるものの土台となる、一群の学問を生み出したのである。(125)

[1303] 自然科学が、産業社会の基底をなし欠くことのできない前提に属することは言うまでもない。他方、精神科学が、フンボルトの意味で>自由<にして社会的実践の領域から隔離された学問であり、そのようにして>理論<であり、理論への参与に基づく教養の担い手であることも否定できない。

では、にもかかわらず、古い歴史的生活秩序を変化させ再編成しながら産業社会が確立されてゆく、その歴史上の一時代の中で、精神科学が、ようやく始めて成立し、学問的な力を発揮するに至った、という事実は、一体何を意味するのか。(124)

[1304] 「埋め合わせ」理論は、この問いへの回答として提出される。

[1401] リッターは言う。

歴史についての、人間の歴史的精神的世界についての学問の形成は、ヨーロッパで、今では地球上のいたる所で、近代社会がそれに先立って与えられ歴史的にそこからやって来たところの世界から身を解き放ちつつ構築される、その現実の過程の中に属しているのである。(128f.)

[1402] ここで「そこからやって来たところ(Herkunft)」というのが、リッターの思索の核をなす概念である。彼は、近代という時代の特質を「そこからやって来たところ(来歴・出自)」との断絶、あるいはその破壊という点に見い出す。身分社会と対比して考えればわかりやすい。近代とは身分制の否定の上に成立した時代である。家柄・素性・出自というものの意味が否定される。人間は、そこからやって来たところを立ち去り、捨て去った(捨象した)存在として受け止められる。それは一種の抽象性であると言えるが、しかし、ただ単に嘆き悲しまれるだけの災難であるわけでは決してない。というのも、この抽象性は、すべての人を対等の個人と見なすことを可能にする抽象性でもあるのだから。たとえ、他に失うものの何もない労働力商品でしかないのだとしても、そこにある平等は、近代の獲得である。

[1403] 総じて、近代について価値評価の視点をもちつつ論じようとする者は、「近代によって獲得されたもの(Modernisierungsgewinn)」と「近代によって失われたもの(Modernisierungsverlust)」あるいは「近代によって損なわれたもの(Modernisierungsschaden)」とを秤りにかける作業をせずにすますことはできない。リッターにとって、近代による損失とは、上述のように、「そこからやって来たところ」との断絶という点にある。人間が単に自然的な存在であるのみならず歴史的な存在でもある、とは、人間が未来に向けて、未知なるもの、新たなるものに向けて、変わることに向けて開かれている、というだけでなく、過去によって規定され、それによって支えられている、ということも意味する。近代の非歴史性とは、この第二の側面の軽視・否定に他ならない。

[1404] リッターは、近代を無条件に賛美・擁護するわけでは決してない。近代がもたらした損失・破損を冷静に直視する。ところが、そこから、近代への批判という帰結を引き出さないのだ。それどころか、彼は近代を肯定する。なぜなら、近代は自らがもたらした損失・破損を自己自身によって埋め合わせているのだから−−これが「埋め合わせ」理論の核をなす考えである。そして、この考えに支えを与えているのが、近代社会そのものが、自らの抽象性・非歴史性の埋め合わせをすることができる機関として、精神科学を生み出した(のであって、近代以前からの遺物としてその存続を大目に見ているのではない)という事実なのである。

[1405] リッター自身は「埋め合わせ(る):Kompensation,kompensieren」という言葉を−−後述のマルクヴァートが呪文のように頻発するのとは違って−−ほとんど使っていない。「課題」論文でこの言葉が最初に登場する箇所では次のように言われる。

精神科学が近代社会に属する事実は、近代社会の本質を構成し破棄不可能なこの抽象性と非歴史性の中にこそ、根拠をもつ。精神科学は近代社会の土壌の上にこそ形成されたのである。というのも、この社会は、自らの非歴史性を埋め合わせ、自らが外部に置かずにはすまない人間の歴史的精神的世界を開き示し現前させる機関を必要とせずにはすまないからである。(131)

[1406] 非歴史性は、具体的には同質性として現れる。なぜなら、人がそこからやって来た世界が多種多彩であることは誰も否定できないだろうが、近代はその「人がそこからやって来たところ」を一刻も早く身を振りほどくべき桎梏、しがらみと見なし、それに替えて、より良い世界としての「来たるべき世界(Zukunft):未来」を目的地として掲げるのだから。共産主義社会であれ、自由民主主義社会であれ、近代は、多種多彩な出自を、一つの、単彩の未来に収束しようとする。viele Herkuenfteはeine Zukunftに置き換えられる。リッターは言う。

近代社会の文明が波及してゆくにつれて、地球上のいたる所に、同じ都市が、同じタイプの仕事や暮らし、コミュニケーションや教養が生まれる。この動向の中に社会のリアルな非歴史性が露呈する。(・・・)この動きは人間に困難な課題を負わせる。一人一人に固有の来歴世界のそなえる道徳的宗教的精神的な連関の内に基礎をおく人格としての存在と、社会によって、またいたるところ同質で非歴史的な文明によって生み出された生存とを、なんとか両立させる、という課題を。(130f.)

[1407] しかし、この課題を首尾よく引き受けているのは、精神科学だけではない。「景観」論文の中でリッターが取り上げるのは、美学である。

[1501] この素晴らしく美しい論文を、リッターは、1335年4月26日、南仏アヴィニョン近くのヴァントー山の登山に出発するペトラルカについて語ることから始める。ブルクハルトを引用しつつリッターが言うところによれば、この登山によって、ペトラルカは、自然景観を初めて多かれ少なかれ美しい何ものかと感じとり享受した近代人の最初の一人になったのだという。これは一体どういうことか。近代以前においては、人間は自然の美を経験したことがなかった、とでもいうのか。

[1502] リッターによれば、古来、人間が自然に向き合う時の姿勢に二種類あった、ということになる。その一方は、実用的関心に基づくものであって、そこでは「森は薪であり、大地は畑であり、水は漁場である。そのように囲われた区域のむこう側にあるものは、疎遠なものであり続ける。>遮る物のない<自然を捜しもとめ、見入りつつそれに身をゆだねるために出かけてゆく理由などありはしない」(147)のだった。

[1503] それに対し、もう一つの姿勢は哲学的観照である。

自然の観察(テオリア)は、哲学的には、その観察の内で、すべてを包括する>全体的<にして>神的<なものに精神が向かい合う、という意味をもった。(144)
天空とは、哲学的理論の伝統にあっては常に、>世界秩序<としてのコスモスが可視化されたものであり、その現れつつある現在であった。(147f.)

[1504] つまり、ここでも、なるほど自然が全体として観察の対象となってはいるけれども、それは宗教的関心に仕えるためであって、自然の美しさが美しさとして知覚・享受されているわけではないのである。自然は、美的経験の対象とはなっていない。その点を裏書きするかのように、ペトラルカ自身、まわりの雄大な自然の光景に見惚れたその瞬間に、それがアウグスティヌスによって「自己の忘却」として非難されている振舞いに他ならないことに思い至り、慌てて自らの内面へと「心の目」を転じたのであったという。

[1505] こうして、自然の全体を自由に観察するという行為は、ギリシアの昔から哲学的概念理解の問題でしかなかった何百年を経て、今、ペトラルカとともに、精神が景観としての自然に向き合うという姿勢において、ようやく、新しい形態をとることになったのだ、とリッターは主張する。その上で、彼は「課題」論文の場合と同型の次のような問いを立てる。

ペトラルカの登山−−それは最後には彼本人にとっても理解不可能なものとなったのだが−−とともに、景観としての自然が、哲学や科学において理解された自然のかたわらに登場する歴史が始まった、ということは、何を意味するのか。何が、精神をして、近代という地盤の上で、>神的<なものとしての自然の>全体<についての理論のための機関を−−しかも、全自然が、概念においてではなく美的感情において、学問においてではなく詩や芸術において、概念の超越においてではなく享受しつつ自然の中へ出てゆくこととしての超越において、景観としてありありと現前化される、そのような機関を−−形成するように強いたのか。(150)

[1506] リッターが与える解答の方向は、すでに「課題」論文を検討したわれわれには、予想のつくものだ。

自然が、その力と素材が、自然科学の>客体<となり、自然科学に基礎をおく技術的利用・搾取の>客体<となる、その歴史時点において、詩と造形芸術が−−これに劣らず普遍的な仕方で−−その同じ自然を、感受する人間との関係において捉え、>美的に<現前化する役割りを引き受ける。(153f.)
自然に対する関係における科学的客体化と美的現前化とのこの同時性は、決して偶然のものではない。(154)

[1507] ここでも、自然との関わり方をめぐって、われわれが容易に描きかねない自然科学と美学との関係のイメージは、歴史の事実に即するものではないことが指摘される。つまり、道具的理性としての近代理性が自然科学という形で自然支配において圧倒的成果をおさめる中で、美的経験としての昔ながらの自然との関わり方は、どんどんその場所と意味を狭められてゆき、社会の片隅で細々と存続を許されるにすぎなくなるというイメージ。そうではない。近代こそが、美学を、美的経験を、欠くことのできない機関として生み出したのだ、という。「社会が世界を客体へと物化せずにはすまないことの結果として社会の外側に放置されずにはすまないものを、人間に返還し取り返してやるために、精神が、社会を地盤として形成する機関」(162)として。

社会とその>客体的<自然が、われわれの周囲に休らう自然から分裂してしまったことが、自由の条件をなしているところでは、自然を景観として美的に取り戻し現前化することが、人間と彼を取り巻く自然との関係を開き示し、その関係に言葉と可視性を与えるという、積極的な機能を担うことになる。(161)

[1508] ここでは、自然との関係に関わって自然科学によってもたらされた近代の損失が、美学、自然との美的関係の発見を通して埋め合わされる、という話になる。

[1601] 「埋め合わせ」という言葉は軽い意味で受け止められてはならない。それは、おまけのように付け足された精神性、「仕事日に対する休日」(134)のようなものではない。近代という一つの全体にとって欠かすことのできない本質的構成成分なのである。「景観」論文をリッターは次のように締めくくる。感動的な箇所なので、長くなるがそのまま引用する。

 社会の客体としての自然と美的に伝えられた景観としての自然が歴史的に一つのまとまりをなしているという事実を通して明らかになるのは、自然の物化によって人間に自由をもたらすその同じ社会と文明が、同時に、精神をして、それなくしては社会がリアリティも表現も与えることができない人間として存在することの豊かさを生き生きと現前化する機関を形成するように強いもするということである。
 ここで一方の側にだけ与することはできることではない。追いつめられた人間が、眼前の現実に対する信頼を今まさに失おうとしつつあり、現実の内に根拠をもつとはいいがたいイデオロギーや世界観に支えを求めようとする時に、哲学は、外目には対立し合っている諸力の統一性と、そのようにしてわれわれの世界そのものに内在する理性を概念理解するという課題を引き受ける。そのようにして、哲学は、足元の定まらない想像や思い込みのいずれよりも力強く豊かであるものの要求を、冷静に、貫き通すのである。(163)

[1602] この箇所が私を感動させるのは、ヘーゲルの精神に触れえたように感じられるからである。「現実的なものは理性的である」というヘーゲルの言葉の意味が初めてわかったように感じられた。それは、単に眼前に広がる現実を、その広がるがままに肯定し、理性的であるとのお墨つきを与えることではないわけだ。現実に深くもぐり込むことを通して現実の「理」性を発掘しようとする、探索の精神であるわけだ。現実の肯定、現実との和解とは、決して、現実に存在する否定面に目をつぶること、美化することではない。ヘーゲルが実在のプロイセン国家と和解したという事実を楯にとって、ヘーゲルの和解の精神そのものまで切って捨てるとすれば、それは短絡的反応の誹りを免れないのではないか。弁証法を救い出すと称して、和解・総合の契機は軽視し、否定の精神だけを強調するというのは、ロマン主義への逃避・後退なのではないか。それは、未来のどこか、あるいはどこにもない地点に、あたかもより肯定的なポジションが存在するかのように仮構し、しかも自らの身をどのようにしてかそこにすべり込ませ、そこからして現在を、現実を、否定・軽蔑・拒否するという、安直の業、無責任の精神なのではないか。

[1603] リッターにおいては、ヘーゲルの弁証法の内の、和解・総合の契機が埋め合わせとして解釈されているのだ、と言えるだろう。そのことに呼応するように、分裂ということが「冷静に」肯定・甘受されている。否定、批判に終始して、あとは成り行きまかせ、という話にならない。メシアニズムなどという怪しげなものに後ろ髪を引かれずにすむ。形而上学との訣別が、きちんと果たされているのだ。

(二)布教者:オド・マルクヴァート(1928- )

[2101] 「肯定の哲学」といえば思い浮かぶのはニーチェだ。マルクヴァートの文章を読んでいてもニーチェの名前が思い浮かぶ。文体が軽いからであり、思わず膝を打ったり笑ったりできるからだ。ニーチェ自身は、その軽やかさの標榜にもかかわらず、複雑・晦渋だし、笑える文章をほとんど残していないのではないか。それに対してマルクヴァートでは、ほとんど「ふざけているのか」と問わずにはいられない様な書きぶりにしばしば出くわす。実際、彼を「お喋り屋」と片づける評価もあるようだ。けれども、私自身は−−単に「気のきいた言い回しの人」にすぎないのではないか、との警戒心を抱きつつも−−彼によって繰り返し新鮮な認識へともたらされるのを感じる。特に、自分の左翼的条件反射に対して的確なジャブを浴びせられていると感じる。(ジャブだからダウンはしないのだが。)

[2102] 以下においては、先ず、マルクヴァートによる「埋め合わせ」理論の解説を−−繰り返しの面が少なくないのだが、彼自身の文体を紹介するという意図もこめて−−要約的に再現し、その上で、彼がこの理論を「多元性の歴史哲学」とでも呼びうるものの方向へ発展させようとしている、その消息を瞥見したい。

[2201] マルクヴァートが描き出す「埋め合わせ」理論の骨子から見ていこう。

[2202] 「未来と出自−−ヨアヒム・リッターの分裂の哲学への註解」と題する論考Bの中で、マルクヴァートはリッター哲学を以下のように要説する。

近代の世界においては、>未来<に意を用いる近代化のプロセスが、合理的な現実を−−その際同時に、出自の現実を締め出すことによって−−確立する。けれども、締め出されたこの現実は、その際同時に、自己がこの近代の現実に属していることを様々な形で主張する。そういうわけで、近代の世界には両方が属している。現実の喪失とその埋め合わせとが。
(1994:20f.)
テーゼa:未来と出自とのこの近代的な分裂は一体をなしているものを分裂させる。
テーゼb:未来と出自とのこの近代的な一体性は、成功するためには、分裂を必要としている。(1994:25)
そういうわけで、近代の>分裂<とは一種の権力分担である。それは>未来<を>出自<の独裁から保護し、>出自<を>未来<の独裁から保護する。そのようにして、両者がそれぞれに独自の仕方で自己を現実化することを可能にし、われわれを、全面的な社会の中に消え去ってしまうことからも、全面的な実体ノスタルジーの中に消え去ってしまうことからも守ってくれる。(1994:26)
適切でないのは、両者が一体をなしているという事実を忌避する態度である。すなわち、進歩に対して復古的にぶつぶつ不平を言う態度、進歩を否定してもっぱら伝統のみを保持したがるのは適切でないが、同様に、伝統に対して超モダンにぶつぶつ不平を言う態度、伝統を否定し進歩のみを欲しがるのも適切ではない。(1994:25)
われわれが生きているこの近代の世界において問題となるのは同一性ではない。われわれはむしろ、出自と未来とのこの分裂を耐えなければならないのだ(より尖鋭化させて言えば、われわれは未来の人間でありかつ出自の人間として、二重生活をすることを学ばなければならないのだ)。そういうわけで、ヨアヒム・リッターの近代世界についての哲学は非同一性の哲学となる。肯定された分裂の哲学となる。>分裂<はこの哲学にとって問題であるが、同時に解答でもある。(1994:26)
近代の−−市民的な−−この世界は、楽園でもなければ地獄でもない。歴史的現実である。それは、地上の楽園でもなければ地上の地獄でもない。地上の大地(現世)である。(1994:27)

[2203] われわれは近代を後にしてすでに新しい時間の中に突入しているのだ、という見解に対しては、そのように常に新しいものを求め、前のめりに変わろうとする姿勢こそが、近代を特徴づけているのであり、そういう見解の持ち主こそは最も模範的な近代主義者なのだ、という反論がなされることがある。つまり、近代以後の視点から近代を否定する者は、そのことで近代主義者としての自らの正体を暴露してしまっているのだ、というわけである。そうすると、世の中には、近代主義者か、復古主義者か、の二つの選択肢しか残されていないかのような印象が生じることになる。(そして−−心ならずも−−近代主義でいくしかないか、という話になる。)

[2204] ところが、マルクヴァートを読んでいると、近代をその分裂と埋め合わせをひっくるめて丸ごと肯定することで−−まさに、否定の精神の不在のゆえにこそ−−逆にアンチ近代であり−−しかも決して復古主義ではないがゆえに−−近代を前に一歩突き抜けているかのように思えてくることがある。モダンを肯定するがゆえのポスト・モダンという逆説。ハーバーマスは、リッター学派と対決する際に、「(新)保守派」のレッテルをはるのを常とするがC、「新」という限定で意図されているものが何であれ、「保守」という特徴づけは事柄を単純化しすぎているように感じられる。ここには−−リッターに関して確認したことが的外れでないとすれば−−ヘーゲル的に徹底して理性の精神に忠実でありつつ、しかも、ポスト・モダンでもある(ポスト・モダン=反理性主義、とは限らない)という注目すべき思考が実践されているのではないか。その点は、後で触れるように、マルクヴァートの多元主義の中によく表現されているように思われる。

[2301] リッターが「埋め合わせ」理論を展開するための手掛かりとした精神科学について、マルクヴァートも独立の論考をものしている。その論考「精神科学の避け難さについて」Dは、精神科学にまつわる先入見を打ち消す作業から着手される。

ここで私が打ち消したいと思う先入見は今日なお広く受け入れられているもので、以下のような内容である−−精神科学はわれわれの世界が近代化されるにつれてどんどん時代遅れのものになっている。というのも、近代の世界には、硬質の−−実験する−−科学(代表的には自然科学であり、また計測する人間科学もこれに含まれる)の誕生と拡大ということが含まれており、それが、実験しない、あるいは未だ実験しない科学、つまりは物語る科学、精神科学をどんどん無用の存在にしてゆく。(・・・)けれども、この歴史的推測は誤っている。(・・・)最初に登場したのは自然科学の方だった。それから精神科学が現れたのだ。精神科学の方が自然科学よりも若いのである。(1986:99)
科学の両方のグループが、ともに避け難い仕方でこの近代の世界に属しているのであり、ともにこの近代の世界の本質を刻印しているのである。(・・・)精神科学は近代化の犠牲なのではなく、その帰結なのだ。だから、それ自身、凌駕し難い仕方でモダンなのだ。(1986:101)

[2302] かくして、「近代の世界がモダンになればなるほど、それだけ一層、精神科学は避け難いものとなる」(1986:98)という話になる。

精神科学は、人間が近代化に耐えることができるように、伝統に助けの手を差し延べる。精神科学は、近代化に敵対しない。それどころか−−近代化の損失を埋め合わせるものとして−−近代化をまさに可能ならしめているのである。(1986:105)

[2303] 近代化の損失−−それはマルクヴァートにおいても、歴史が人類の歴史へと一元化される傾向の内に見い出されるものである。

そうなると、人間は(一人一人をみても、みんなをとっても)ただもう一つの歴史を持つことしか許されなくなる。しかし、これは人間的であることに反する−−と私は思う。というのも、この人間なるものは、個として存在するためには、多くの歴史(物語)を(そして、多くの書物と多くの解釈を)必要とするのだから。唯一の歴史に牛耳られてしまうことから保護されて−−その都度異なる歴史を通して−−他であることへと開かれてあるために。その点をこそ−−唯一の歴史へと傾くモダンの危険に抗って−−まさに精神科学は主張するのだ−−それはそれでモダンに。(・・・)精神科学は、ただもう即物的でしかなくなり、ただもう進歩の歴史の場でしかなくなってしまった世界からの亡命を支援する。(1986:109f.)

[2304] 歴史を未来志向で考えることは、過去というものを、未来よりは劣った有り方、改善されるべき有り方、そこから脱却すべき有り方として受け止めることに、避けがたくつながる。しかも、その際、向かうべきゴールが一つに見定められ、世界の歴史がそこへと収斂され、一本化されるということにならずにはすまないのではないか。例えば、世界革命というような発想は、マルクヴァートにとっては、歴史の一元化(Gleichschaltung)につながる恐怖のヴィジョン以外のものではありえないだろう。そうなったら、一体、どこに亡命すればよいというのか。

[2305] 歴史の一元化というこの危険に直面して、わけても哲学にこそ大きな期待がかけられうる、とマルクヴァートは(おそらく、内心で笑いながら)言う。

哲学者の太古以来の専門的悪徳−−つまり合意の慢性的な欠如−−が、高度にモダンな学際的美徳であることが判明しつつある。わけても、議論の混乱を少しもめげることなく乗り切ることができる技量が。(1986:113)

[2306] もう少し具体的な文脈、つまり、リッターの考察にそもそもの出発点を提供していた大学問題をめぐって言えば、次のような光景が現出しているのだという。

目下のところ−−予算について決定を下す人々の間では−−精神科学は、ヨアヒム・リッター、ヘルマン・リュッベ、私などを引き合いに出すことで、称揚されている。と同時に、われわれの批判者たちを引き合いに出すことで、その研究費が削られている。
(1994:23)

[2401] マルクヴァートは、おそらく、昨今のドイツで最も鮮明に多元主義の立場を打ち出している哲学者の一人だろう。そのことは、出自の多様性を唯一の人類史へと収斂させる近代の傾向に対する警戒的な発言からも、すでに予想可能なことである。彼は決して流行の尻馬にのって多元論の旗を振っているわけではない。

[2402] 一般論としては、「埋め合わせ」理論からして、次のように言うことができる。  「普遍化が成功をおさめればおさめるほど、それだけ一層、多元化の必要の度合いが高まる。統一性は多様性によって埋め合わせられねばならず、また、埋め合わせられてもいる。」(1994:30)

[2403] 「統一性と多様性」という論考Eの中でマルクヴァートは次のように問いを立てる。

近代の世界の中で、危機に陥るとすれば、それは、統一性の欠如(つまり、多様性が−−平等化や普遍化への傾向としての−−統一性を圧倒すること)を通してなのか、それとも全く逆に、多様性の欠如(つまり、統一性が−−単純化や画一化として−−多様性に勝利すること)を通してなのか。別の仕方でより手短かに言えば、近代の市民的な世界が危機に陥るのは、そこで統一性が多様性の犠牲になって滅びるからなのか、それとも、多様性が統一性の犠牲になって滅びるからなのか。(1994:33)

[2404] この問いかけは、多元文化論によっても共有されているものだが、マルクヴァートに特徴的なことは、その議論が危機意識によって動かされているものではない、という点にある。ここでも、マルクヴァートは近代に対する、その「理」性、埋め合わせ能力に対する信頼を表明する。

まさに近代の普遍化の増大こそが、近代の多元化の増大を促進し強要もしているのであり、その逆でもある。その結果として言えることは、近代の−−市民的−−世界は統一性と多様性のバランスである、ということである。(・・・)
近代の−−市民的−−世界は、統一化の時代として、同時に、埋め合わせ的多元化の時代でもあるのだ。(・・・)
かつていかなる時代も、近代ほど統一化したことはない。かつていかなる時代も、近代ほど多元化したことはない。両者は一体である。近代の多元化は近代の統一化を埋め合わせているのである。(1994:33ff.)

(三)批判者:ヘルベルト・シュネーデルバッハ(1936- )

[3101] リッター学派に私が取り組むのは、リッターやマルクヴァートの文章がそのものとしておもしろい、という理由からだけではない。フランクフルト学派との共通性と差異への関心に基づいてのことでもある。両学派ともに、ヘーゲル哲学に非常に多くを負っている点、独自の歴史哲学に基づく「近代」の理論を呈示している点、美学において重要な仕事を残している点−−直ちに思い浮かぶだけでも、三つの共通点を指摘することができる。この共通点を背景・地とし、差異を図として浮かび上がらせることができるなら、それは、フランクフルト学派をより良く理解するためにも、とてもやり甲斐のある仕事だと思える。例えば、「埋め合わせ理論」をハーバーマスの「近代の理論」と対比すること。また、あるいは、アドルノの「美学理論」をリッターのそれと比較してみること。そのいずれも、とても大きな仕事なので、今後の課題とせざるをえない。ここでは、文化概念に注目するシュネーデルバッハの「埋め合わせ理論」批判Fを検討するにとどめる。

[3201] 皮肉っぽい口調で、シュネーデルバッハは、「埋め合わせ」理論を次のように総括する。

それは、政治的近代・社会的近代とは、言いかえれば、民主主義的立憲国家、および生活のすべての領域にわたる科学技術上の近代化とは、和平を結んでしまった。(・・・)近代国家の諸制度はすでにとことんまで近代化されつくしたとみなされ、これ以上の民主主義を追求することは、憲法に違反する傾きがあるみなされる。それに対して、科学技術上の近代化は、押しとどめがたいもの、完結することのないもの、いやそれどころか>宿命<として捉えられ、それゆえいかなる抵抗も無意味だということになる。(400)

[3202] 皮肉であるというのは、「埋め合わせ」論者であれば、決して「宿命」という言い方はしないだろうからである。彼らは近代を肯定的に受け入れ、ほとんど歓迎さえするのだから。とはいえ、近代のもたらす喪失や損失をも泰然として甘受するのであるから、その姿勢には、宿命に対するのと共通するものがあるとは言えるかもしれない。

[3203] 「宿命」という言葉は、ある方向に解釈された『啓蒙の弁証法』のホルクハイマー・アドルノを思い出させる。すでに神話も啓蒙であり、その野蛮の極まりとしてのナチズムが退場したからといって事態が根本的に変化したわけではない、とする全面的否定主義の歴史観は、戦後の社会において、自然支配としての科学技術上の近代を、それに対する抵抗はもはやいかなる形でも無意味・不可能であると感じとらせる宿命論を生み出す役割りをはたしかねなかっただろう。この感受性は−−社会主義や第三世界という外部に、どの程度、またどの時点まで希望を託したかがどうであれ−−少なくとも近代市民社会の内部にはいかなる抵抗の余地、いかなる希望の芽も認めないラディカリズムともなりえただろう。

[3204] そして、社会的実践に希望がもてない時、美の領域が差し出される。アドルノも「アウシュヴィッツ以降に詩を欠くことは野蛮だ」と言いつつ、現代音楽や文学の世界に、アウシュヴィッツの延長としての近代を耐えやすくしてくれる慰めを見い出していたのではないか。そのようにして、出口のない全面的罪責連関の中に、それでもなんとか、飛び地のようにして避難所を確保していたのではないか。

[3205] いや、おそらく、そうではない。その点は、「埋め合わせ」論者の文化理解に対してシュネーデルバッハが浴びせる批判を通して明らかになる。

そこでは、二つの世界が向かい合っている。かたや、科学技術によって支配されている領域であり、古いタイプの文化批判であれば>文明<と呼び、近代の疎外の原因をそれのせいにしたものだ。それに対峠するのは、伝統を総括するものとしての文化であり、その中で人は我が家にいるかのように感じることができる。(405)

[3206] しかし、これだけでは「埋め合わせ」理論と呼ぶにはまだ充分ではない、とシュネーデルバッハは言う。

埋め合わせの要素は、さらに次のような想定が付け加わることで、ようやく現れてくる。つまり、科学技術部門は、もはや操縦不可能で不断に加速してゆく革新のダイナミズムによって規定されており、このダイナミズムは、>生活世界における損失<と>近代的損害<を、絶えず生み出しつづける、というテーゼが付け加わることによって。そこではしかし、科学技術上の進歩に対する単なる反応でしかないのではなく、自分から生み出されるものであるところの、文化的な革新の圧力というものは、全く考えに入れられていないのだ。(・・・)避けることのできない科学技術上の革新が社会全体によって耐えうるものであり続けるためには、文化は釣り合いをとる重しの役割を引受けなければならない−−>埋め合わせ<が意味するのはこれ以外のことではない。文化にそれができるのは、文化が自分では革新への圧力を生み出すことを断念し、保守的になることを通してなのだ。かくして、文化における近代化は、危険すぎるものに見えてくる。(405)

[3207] 仮に、「埋め合わせ」論者に保守派のレッテルを貼ることが妥当でないとしても、彼らの文化理解が保守的だ、と言うことは許されるだろう。そして、この点でアドルノは、「埋め合わせ」論者から千里の距離をおくことになる。アドルノは、何にもまして文化における前衛主義者、モダニストだった。彼がジャズを叩かずにはおれなかったのは、ベートーヴェンをジャズよりも高尚だとみなす鼻もちならない文化的貴族主義、その意味での保守主義からでは決してない。ジャズに対する彼の批判は、精神の貴族主義者が見くだしてなす批判というにはあまりにも真剣なものだ。そうではなくて、音楽の歴史的展開、あえて言えば「進歩」との関係において、ジャズは批判されてもいるのである。ストラヴィンスキーと同様に、反動であるから、音楽の革新・進歩の流れを阻害しかねない危険であったからこそ、ジャズは批判されねばならなかったのだ。そこでは、現代音楽が進むべき方向をめぐっての路線闘争が戦われていたのだ、と言って大袈裟ではないだろう。ジャズを批判する彼のエッセイは『無時間的な流行』と題されている。あたかも音楽史の展開を無効化するかのごとき「無時間性=自然の復活」の装いが、批判されるのだ。ジャズにおいて聞き取らるのは、決して、文明化の歴史を通して抑圧されてきた自然の叛乱ではない。例えば、技術と、ジャズはしっかり野合しており、その限りで新しくもある。しかし、本質的な点では新しさは何もないのだという。

ジャズにおいてひょっとして人目をひくかもしれないものなどすべて、ブラームス以来のクラシック音楽は、もう随分以前から、自分自身の中から生み出してきているのであり、しかも決してそこにとどまってはいないのである。G

[3208] アドルノのこの発言は、彼がどういう観点からジャズに批判を加えていたのかを示してあまりある。

[3209] アドルノの教え子として、シュネーデルバッハが強調するのも、文化そのものがはらむ革新の力である。傷ついた心を癒し元気づけるのではなく、安逸をむさぼる心を揺すぶり動かす力。科学技術的近代とは、たしかに、共約不可能かもしれないが、しかし、このものに働きかけ変えることのできる力である。

文化はそのものが埋め合わせなのか。それとも、埋め合わせるものだけが、埋め合わせに属するのか。文化とは常に保守的なものなのか。保存するものだけが文化なのであって、革新的なものは文化ではないのか。(406)

[3210] このように問うた上で、シュネーデルバッハは文化の概念をさらに細かく区別して理解する必要を指摘する。

文化そのものが何かしら埋め合わせと関係している。その点については、オド・マルクヴァートに同意できる。ただし、>文化<の概念をより厳密に用いる必要がある。つまり、一方で、自然−−人間は、人間になる時にそこから出てきたのだ−−との対比における人間的生活世界の総体が、それでもって意味されうる。(これを>文化<と表記しよう。)他方でしかし、文化は、人間的生活世界の、技術や経済や政治システム等と区別されうる一部分領域でもある。そのように見ると、この〔文化〕と表記されうるものは、>文化<というシステムの一部分だということになる。文化に関して保守的な「埋め合わせ」論者に対する私の異論は次のようになる。彼らは〔文化〕を>文化<と短絡させており、まさに、>文化<と関係づけることこそが正当な一般的な埋め合わせの観点の下で、〔文化〕を、理解してしまっている。(・・・)>文化<が、動物にとっての環境世界に対する、人間自身によって産み出された代用の世界であり、その限りで、失われた自然に対する埋め合わせである、という点には異論の余地はない。もっとも、そう言えるのは、純粋に機能的な観点においてのみの話である。その他の点では、>文化<とは、より以上のものである。とりわけ、創造的な力であり、見極め難いものや途方もないものの起源となる場所でもあるのだ。(407f.)

[3211] >文化<を埋め合わせの観点から解釈しうるからといって、〔文化〕のさまざまな部門のすべてを埋め合わせの機能に切り縮めることは許されない、ということだ。例えば、アドルノにとっては、芸術の最勝義の機能は−−埋め合わせではなく−−批判だった。認識機能だった。すなわち、世界の中に不正が、苦しみが存在する事実を受信する働きであり、そんな世界と折り合いをつけることを阻む働きだった。

[3212] 「埋め合わせ」理論は、文化に関して、還元主義に陥る過ちを犯している。シュネーデルバッハは、これに「文化の諸部門の差異分化と自律化としての近代化」というハーバーマス的な観点を対置して、次のように言うのであるが、その点を詳しく展開することは、次の課題とせざるをえない。

近代にとって特徴的なことは、そこでは、埋め合わせの問題が、>文化<の異なる諸部門が差異分化し自律化するという条件のもとで発生してくる、という事実である。中心として全体をコントロールする機関はもはや存在しない。(408f.)

(註)

@ Tugendhat, Ernst: Philosophische Aufsaetze, Frankfurt am Main 1992, S.9
A Ritter, Joachim: "Die Aufgabe der Geisteswissenschaften in der modernen Gesellschaft"(1963). Ders: "Landschaft.Zur Funktion des Aesthetischen in der modernen Gesellschaft"(1963).
  現在は、ともに次の論文集に収められており、引用もこの論文集によっている。
  Subjektivitaet, Frankfurt am Main 1974
B Marquard, Odo: "Zukunft und Herkunft. Bemerkungen zu Joachim Ritters"
"Philosophie der Entzweiung", in: Skepsis und Zustimmung, Stuttgart 1994 C 以下の著作で展開されている批判は一例にすぎない。
  Habermas, Juergen: Der philosophische Diskurs der Moderne, Frankfurt am Main 1992, S.90ff.
D Marquard: "Ueber die Unvermeidlichkeit der Geisteswissenschaften", in: Apologie des Zufaelligen, Stuttgart 1987
E Ders: "Einheit und Vielheit", in: Skepsis und Zustimmung
F Schnaedelbach, Herbert: "Kritik der Kompensation"(1988), in: Zur Rehabilitierung des animal rationale, Frankfurt am Main 1992
G Adorno, Theodor W.: "Zeitlose Mode. Zum Jazz", in: Gesammelte Schriften 10・1,Frankfurt am Main 1977, S.126



   


「補償理論[埋め合せ理論]」とは何か−−コメント、および自己訂正・補完−−


安彦一恵

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はじめに

[001] 藤野氏の論稿は、Ritter一派の「補償理論[埋め合せ理論]」を少なくとも哲学関係においては日本において最初に本格的に紹介したものである。拙稿「ランドスケープの倫理学(一)」(『滋賀大学教育学部紀要 人文科学・社会科学・教育科学』第45号)において(本稿)筆者も簡単に触れたが、それは非テーマ的であり、かつMarquardに関して解釈上の基本的誤りを含むものであった。したがって氏の論稿は、この拙稿における解釈に対して訂正を迫るものでもある。私としても、その後−−氏からの指摘もあって−−気になっていたところであるので、この機会に訂正しておきたい。しかし同時に、拙稿はいわば<解釈>を後回しにして<評価>を先行させてしまったものでもあるが、ここで藤野氏の正しい紹介を得たとして、その上でなお<評価>しなければならないと我々は考える。


一 自己訂正

[101] 拙稿の問題の箇所は、80頁左側の「......Ritterと或る意味では近代の同じ事態を見つめながら、しかし「補償」という考え方を批判して次のように述べている。」と、それに続く引用文

近代における現実の脱魔術化は、美的なもののもつ代償としての魅惑の特殊近代的な形成によって補償される。あるいはこうも言えようが、近代における世界の人工化は、人の手が加わっていない景観というものの特殊近代的な発見と神格化や、エコロジカルな意識を含む自然感覚の発達によって補償される。またこうも言えようが、近代における物質化と現実変化のテンポの増加とによる伝統喪失は、歴史感覚の特殊近代的な成立によって、したがって例えば博物館と精神諸科学の誕生によって補償される。......哲学的人間学は[このような]新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する。(Apologie des Zufaelligen,Reclam1986,27ff.)
中の筆者補筆部分「[このような]」である。

[102] まず(今回は)正確を期すために、「......補償される。」に続く省略した部分を訳出したい。

これらすべてのこと、そしてこれ以外にも多くのことが在るが、それらは、次のことを示している。すなわち、人間の補償哲学は現在、人間的なものの補償理論において至る所で継続している、ということである。私はこう強調したかったのだが、このことは、哲学的人間学の近代(modern)および現在の形勢は、近代(neuzeitlich)哲学の弁神論的モティーフの一つである補償思想というかたちにおいて代表的に生じている、ということを確証する。/にもかかわらず、補償思想の元来の弁神論的意味は忘れ去られた。しかしそうではあるが、現在の人間学が弁神論的モティーフを受け入れているということは徹底してそうである。人間学は......それ自身として特殊近代の哲学であるというだけではない。
この後「それは同時に、新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する。......」と続くのだが、拙稿は、「それ」を「哲学的人間学」を受けるものとして解釈しつつ、上記の「このような」という補筆を加えて−−かつ、「その本来性において」という意味を込めて−−「哲学的人間学は[このような]新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対する」としたのであるが、それは誤りであって、仮に補筆するとしても正しくは逆に、「このよう*」とすべきである。つまり、「補償」が「反近代へ逃亡する歴史哲学」であるとした拙稿での解釈とは逆に、Marquardは、「補償」の「(哲学的)人間学」の立場で、「新-終末論的に反近代へ逃亡する歴史哲学に反対」しているのである。拙稿では、近代のネガティヴな事態から「補償」というかたちで「反近代に逃亡」するものとして、Marquardは「補償」という考え方を批判していると解釈したのだが、そうではなくて彼は、「補償」を含むものとして近代を把握し、そうした近代からの「逃亡」を批判しているのである。拙稿において我々は、Marquardは−−我々の言う「<極端>な伝統主義者」として−−近代の(通常)ネガティヴ(に見られている)側面との和解を説き、そうした和解が果たせずに「補償」に逃げ込むことを批判していると理解したのだが、Ritterについては「補償」を含むものとして近代と和解したと我々も理解したのだから、MarquardがRitterの弟子であるというところからも、こう(正しく)解釈し直した方がすっきりする。

[103] しかしながら、Marquardは同時に自らを「懐疑家」として自己規定してもいる。「まさに一人の懐疑家−−私−−が弁神論、したがってとりわけて形而上学的な学問領域(Pensum)を指示しているのだ」と述べて、そして「このことは見掛け上逆説的であるにすぎない」と直ちに語って、拙稿ではごく簡単に要約したところを展開する。すなわち、引き続いて次のように説かれる。

形而上学は、最終解決できない問題をもつ認識論的部門である。そして弁神論は......とりわけてそうである。最終解決できない問題をもつということは、学問論的には腹立たしいことである。しかしそれは、人間的には通常のことである。懐疑家は......人間的な通常性に組して、この学問論的な腹立たしさを忘れる人のことである。懐疑家にとって形而上学−−最終解決しないこと−−は、敵ではなく、人間的なものである。......人間の問題のなかには、それを持たないことが反人間的であり、したがって処世術上の欠陥であるが、それを解決することが超人間的であり、したがって処世術上の欠陥であるものも存在する。この術上の誤りを犯さない懐疑家の術が、形而上学なのである。......問題に少しも解答を与えない者は、結局は問題に負けてしまう。それはよくない。問題にただ一つの解答を与える者は、問題を解決したと思って、容易に独断的となる。これもまたよくない。最もよいのは、実際に解決することなしに、多くの解答を与えることである。......
[104] さて拙稿は、ここに言われる「問題」を、敷衍して「近代の問題」、つまり近代がネガティヴなものをもつという問題として理解したのであるが、それが依然として正しい敷衍であるとして、「補償理論」がその問題への「回答」として提示する肯定的なものは、彼にとって、「ただ一つの[唯一の]」ではなくて、「多くの」うちの一つの「回答」であることになる*。拙稿での全体テーマである「風景」(意識)の問題において言うなら、したがって、その「補償理論」がまさしく「補償物」として挙げる「風景」−−Marquardのタームでは「美的なもののもつ代償としての魅惑」−−は、単なる一つの「補償」にすぎないということになる。

* 村上淳一氏は、−−我々の議論のコンテクストに適合的に翻訳して言うなら−−「補償理論」そのものが<単なる一つの回答>であると理解されている(『仮想の近代』(東京大学出版会,1992),169)が、我々はこの解釈は採用しない。

[105] これに対してRitterの場合、「美的感覚」はかつての「理論」に代わるものとして一つの真理といったもの(「全体」「神的なもの」を提示するもの)として説かれている。かつて近代以前においては世界はこの「理論」において「コスモス」として把握されていたが、近代においてはもはや「コスモス」ではなくなり、その代わりに「補償」として「美」が成立したというのがRitterの考えである。そして、ここで、やはり失われたものへのノスタルジーが在るというM.SeelのRitter解釈を援用するなら、Ritterにおいて、そうした「理論」に代わるものとして、或る意味で「美的感覚」もまた一つのコスモスの提示である。したがって、「美」が「補償物」であるとして、それは−−「風景としての自然の」として−−失われたもの(「自然」)の「取り返し」(Subjektivitaet,161)という意味をもつのである。* 我々は、こうした意味での「補償」は、−−Marquardの言う、いわばマイナス分をプラス分によって相殺するという意味での(単なる一つの「解答」でしかない)「補償」とは異なって−−やはり近代への反定立であって、それをMarquardはむしろ否定しているとして解釈したのである。

* Ritterは例えば、「美的感覚が「理論」の課題を引き受け、それなしでは必然的に滑落していく「全き自然」を風景として現在的に保持する」(161f.)と述べている。


二 補完

[201] 拙稿の誤りをそう弁明できるとして、問題は弁明そのものではなく、MarquardはやはりRitterとは違うのではないかということである。「補償物」を有するものとして「近代」を把握しようとし、かつそれでもなお問題として−−補償仕切れず−−残るものがある場合、多く、現実を−−悪とみて−−根本的に変革しようとする(主観的)試みの、その善への志向が結果として生み出したいわば人為的なものであると把握される。いわば、余計なことをするからかえって悪くなるのだという説明である。ハーバマスは「リッターの新保守主義的な弟子たち」は基本的にこのような説明を行うと理解する。そして、それに続けて−−ここからがここでは重要なのだが−−次のように語る。

......。その点では彼らは老ヘーゲルによる批判を繰り返している。......だが、同じ批判を繰り返すといっても、やり方にはイロニーがこもっている。というのも、「現実を批判する連中は主観的にしか考えていない」という批判をしても、それは、「そうした批判者の主観性では、客観性へと形成されているはずの理性を把握できない」というような[(老)ヘーゲル自身の]批判ではもはやないのである。むしろ、現実のあり方を批判する者たちに対して、「そもそも現実は理性的な形態をとりうる」という期待にいまなお出発点を置いていることが間違っているとアイロニカルに非難されるのである。(以上、『近代の哲学的ディスクルス I 』(岩波書店,1990)120)
ハーバマスはこのようなかたちで(老)ヘーゲルと、リッターの弟子(つまりMarquard(達))を区別するわけであるが、この区別を含めて、同じ「補償理論」といってもいくつかの形態が存在すると我々は理解する。

[202] しかしながら、事態はそう単純でない。Ritterは、1)論稿「風景」では、かつての「理論」に代わって「詩や芸術」が自然のうちにまさに「風景」(「美」)として「全体」を提示すると考える。また2)論稿「近代社会における精神諸科学の課題」においては、近代の−−市民社会としての−−非歴史性を「補償」するものとして、「歴史的・精神的世界を開示し、現前させる......機関」として−−近代以前には存在しなかった学問の新たなかたちのものとして−−「精神諸科学」を生み出したと考える。そしてこれらに対して、3)『ヘーゲルとフランス革命』では、主として2)に対するかたちで、近代の非歴史性という事態そのものが、「主観性」成立の条件として、まさしく近代固有の歴史性であると捉えられている。

[203] 3)の「主観性」は、1)と関連させて、そこにおいて「詩や芸術」が成立する場であるとも、2)と関連させて、そこにおいて「精神諸科学」が展開される場であるとも了解することができる。しかしそうではあっても、3)の真意は、まさしく非歴史性の事態、換言するなら「分裂」の事態そのものが、そのまま即「統一」である、その意味で、そうした「現実」が「理性的」であるということであろう。実際、

このようにヘーゲルは、この分裂を近代世界とこの世界の意識との形式であると考えている。このように、主観性の立場からも、悟性と悟性の主張する客観的実在という概念の立場からも、主観的にあくまでも信じられ主張される美および真と、物としての有限性とが、絶対に対立し、相互になんの関係もなく疎外されているわけであるが、ヘーゲルは積極的に近代世界の条件の下で、この両者の分裂を、それらが本来持っている統一が歴史的に保存される形式である、と考えている。(邦訳,57)
と解釈されている。またMarquardも論稿「懐疑と同意」では、「補償理論」は「Joachim Ritterの哲学の最終の決定的な言葉」では「ない」と理解し(24)、そうした「補償理論」を超えた最終の決定的な主張の紹介として次のように語る。
ヘーゲルの哲学は−−Joachim Ritterはこう主張するのだが−−「分裂」の肯定化である(positivert)。(26)/このように近代世界のJoachim Ritterの哲学は非同一性の哲学、つまり肯定化された分裂の哲学となる。「分裂」は彼の哲学にとって、同時に解決である問題である。つまり、「分裂」が近代世界についての最終の言葉なのである。(26f.)*

* ヘーゲル哲学を「分裂」の哲学だとするRitterの議論を紹介した部分をMarquardは次の言葉で結んでいる。「「分裂(Entzweiung)」という表現は数多性を表わす語彙である「二(zwei)」を含んでいる。これは「懐疑(Zweifel)」という表現にも含まれているものである。このことは、懐疑家が−−権力の分割に対する感覚をもって−−肯定化された分裂の哲学の支持者でありうることの根拠を示している。」(27) しかしながらこれは、藤野氏の言い方では「ふざけ」に分類していいところであって、決してRitterの1),2)=MarquardとRitterの3)との相違を解消してしまうものではない。

[204] 3)から見るなら、真理は「補償物」そのもののなかにあるのではなく−−上記引用文中で「主観的にあくまでも信じられ主張される美および真」とは言われているが、それは現実=真理という場合のそれとはいわば次元を異にする−−、そうした「補償物」をまさしく「補償」でしかないものとしてしか含まないという近代の「分裂」のその事態が、そのまま(「分裂」が「主観性」として、その「主観性」の本来の形態である「哲学」の条件であるという意味で、いわば自己言及的にそれを把握する「哲学」において)真理なのである。我々の理解では、ヘーゲル解釈としてはこれが最も妥当なものである。ヘーゲルの場合、近代における「真理」の場(「境位」)はあくまで「哲学」であり、近代において最終的段階に達するその「哲学」において近代の「補償物」として把握される美や精神科学は、決して真理の場ではない。

[205] しかしRitterは同時に、1)2)としては−−2)の場合は(Marquard的に)そうではないとも解しうるが−−、「詩や芸術」「精神諸科学」を真理(の場)として説いており、そしてそのような真理をもってかつて「理論」において把握されていた「真理」に代わるものとしている。このことは、やはり近代に対して−−ここではヘーゲルと異なって−−何分か反定立的なのである。これに対してMarquardは、そうした真理を近代においてはもはや不在であるとし、その真理の不在である近代を、非歴史性という悪しきものを−−真理をもつとしてもいわば減価されたものとしてでしかない−−詩・芸術や精神科学という善きものでもって相殺している一つの世界として肯定するのである。そして彼は、真理を過去にあったとして過去への復帰を説く反動主義(復古主義)と、その真理を未来に展望する進歩主義を、共に批判するのである。

[206] 我々の歴史主義論*を更に展開して言うなら、両者はいわば<大文字の歴史主義>である。そして当のヘーゲルも歴史主義である。彼において真理の担い手は世界であるが、それは−−例えば古代哲学においてとは違って−−歴史としての世界である。但しヘーゲルの場合、−−彼はPantragismusとも言われるが−−我々の解釈では、そうした歴史主義を取りながら、もはや過去のようには、そして啓蒙主義(進歩主義)が言うようには未来にも歴史性として真理が実現されないといういわば諦念のうちに、そうした近代の「現実」を、なおそれとの和解として「真理だ」と語ろうとするものである。これに対して、「補償物」としての「精神科学」等のうちに歴史性の保存を−−減価された真理として−−志向するものは、いわば<小文字の歴史主義>である。我々の理解では、Marquardはこの<小文字の歴史主義>である。

* 「歴史主義について」(DIALOGICA no.3,1997)参照。

[207] <大文字の歴史主義>は換言すれば同一性の哲学である。(Marquardによれば「非同一性の哲学」であるとされるヘーゲルも、「非同一性の哲学」だと言っていいが、そう言うとしてもいわば「非同一性の同一性」の哲学である。)これに対して<小文字の歴史主義>は非同一性の哲学であると言ってもいい。そして、そのかぎりでMarquardは、藤野氏も言うようにポストモダン的であると言ってもいい。しかしそれは、氏の言うように「ヘーゲル的に徹底して理性の精神に忠実でありつつ、しかもポスト・モダンでもある」([2203])のではないと我々は考える。ヘーゲル的であると言えばむしろアドルノの方がそうである。アドルノは、いわば歴史の総体に理性の不在を見、その意味で、この点ではヘーゲルと異なって非-歴史主義であり、その限りで端的に非同一性の立場に立つが、歴史を超えた自然になお大文字の理性を見ている−−その意味で、むしろ-歴史主義と言った方がいいかもしれない−−ように思われる。

[208] <小文字の歴史主義>であるとしても、それはなお歴史主義であって、減価されたかたちでは歴史性になお真理を見ている。そして事実として、進歩主義的な<大文字の歴史主義>への対立として、過去(からの「由来」という歴史性)を重視するかぎりで、反動主義と親近性をもつ。(しかし、<小文字の歴史主義>であって、かつ進歩主義な立場も考えられる。ドイツ的な自由主義は、歴史主義という軸で見るなら、おそらくそういうものであろう。)これに対して、歴史性のうちにそもそも真理を見ない立場もある。すなわち、非-歴史主義である。我々の理解では、アドルノがそうであるが、例えば功利主義も非-歴史主義である。Marquardが批判する「モダニズム」とは、この非-歴史主義ないしは反-歴史主義でもあるのであって、決して進歩主義だけではない。換言するなら、「モダニズム」には二つの相互に基本的に異なるヴァージョンがあるのである。但し、アドルノと功利主義とでは、前者が(なお)理性的であるのに対して、後者がいわば悟性的であるという違いがある。*

* 拙稿「ベンサムの(もう一つの)科学主義」(『実践哲学研究』20号,1997)は、ベンサムの功利主義の核心を非-歴史主義として明らかにしたものである。


三 「補償理論[埋め合せ理論]」をどう評価するか−−勝義のコメント−−

[301] 藤野氏の論稿の(一)(二)は、全体としてはそれぞれRitter、Schnaedelbachの「埋め合せ理論」を忠実に要約・紹介するものであるが、一部、あきらかに氏自身のシンパシーを示している。Ritterに関しては[1602][1603]で、「否定の精神」を「ロマン主義への逃避・後退」として、また「安直の業、無責任の精神」として退け、そうした行き方に対して、それこそ現実の哲学である「ヘーゲルの精神」を体現したものとして「埋め合せ理論」を評価する。またMarquardに関しても[2303]-[2305],[2401]-[2404]で、同じく進歩主義を「歴史の一元化」であると断罪するMarquardの批判を受け容れて、「多元主義」を説くものとして「埋め合せ理論」を評価している。そしてこのことは、Ritter一派が何分か「(新)保守主義」であるかぎりで、藤野氏は−−「自分の左翼的条件反射に対して的確なジャブを浴びせられていると感じる」と述べつつ([2101])−−保守に肩入れしている(むしろ「ダウン」してしまってる)と見られることにもなっている*。

* 研究会での口答報告の際には、そのように見られたと氏自身語っていた。

[302] 「多元主義」は藤野氏の元々の立場(の一つ)である*。そうであるから、同じく「多元主義」を説くMarquardを(一部)肯定的に評価することになるのであるが、しかしながら、なぜRitter一派において「多元主義」は「保守主義」−−「保守主義」のタームを別のものを指示するのに使う我々からすれば、むしろ:<過去主義>−−と結びつくのか。それはRitter一派が、近代が、過去から未来への方向において、(世界を社会的世界と精神世界とに分けて厳密に言って、その社会的世界において)一元化−−例えば「世界資本主義」化として、市場のボーダーレス化として−−の傾向をもつのに対して、過去(「出自[来歴]」)が多元的であると見られるからである。「補償理論」は、この(社会における)「一元化」の悪を精神世界における多元性の善によって相殺できることをもって総体として近代を受け容れ、そのかぎりで(社会を含めて)時代総体を過去に戻そうというかたちの復古主義からは区別されるのであるが、しかし、その精神世界の多元性はあきらかに過去的なものである。論理的には、そこに新しい多元性を内容として持ち込むことも可能であるのだが、Ritter一派はそうしない。そこに「保守主義」が出てくるのである。藤野氏としてもここで、「多元主義」の立場で、−−Ritter一派との相違において−−この新しい多元性を説くことも可能であろう。

* 藤野寛「多元文化主義・同化ユダヤ人問題・非同一的なもの」(『現代思想』1996年3月号)参照

[303] しかしまた、Ritter一派が(とくに弟子たちが)保守主義と見られるのは、「保守主義」として、近代が(精神世界において)「補償」をもつことを理由として、一応悪とは見つつも社会の現状を肯定してしまうからでもある。因みに、いわゆる「(経済的)新自由主義」は、社会の現状を−−むしろ善と見て−−(補償の必要など説くことなく)端的に肯定するものだが、この<肯定>そのものの点ではRitter一派はこれと軌を一にしている。そして、ポストモダニストは、この社会の現状のうちにむしろ逆に−−例えば多様な商品と、その多様な消費というかたちの−−多元性を見、そういうものとして社会の現状を肯定するのであるが、見方は異なっていても<肯定>そのものの点では、Ritter一派はこれとも共通している。あるいはさらに、Marquardは社会の現状そのものに多元性を読み取るところまで行っているかもしれない*。

* 論稿「一様性と多様性」では、「技術的一様化」に対して「伝統的、歴史的、美的な多元化による補償」が対置されているが、この他に、「社会的一様化」に対して、「権力分割的、個人主義的多元化による補償」が説かれている。そこでは、まさしくポストモダン的に「他の人たちと別様であること」を保証するものとして近代の社会が肯定的に捉えられている。(Skepsis und Zustimmung,34ff.)

[304] (三)で紹介されているSchnaedelbachの「埋め合せ理論」論は、こうした「(新)保守主義」を批判したものである。Ritter一派に対するSchnaedelbachの批判の、更にポイントだけをおさらいするなら、氏が[3211]でまとめられているように、その核心は−−Schnaedelbachは「文化」というタームを使うのだが−−Ritter一派がもっぱら「補償物」としてしかみない「文化」を「批判」の機関としても捉えるというところにある。Ritter一派が近代の現実に悪の存在を認めつつも、「文化」における「善」でもってそれを埋め合せることによって結局悪を承認してしまうのに対して、Schnaedelbachは「文化」のうちにその悪を批判し、それを改めていく機能をみているのである。

[305] そうであるとして次に、Marquardから見るなら、そうした現実批判こそが−−進歩主義として−−「一元化」であるということになるのであるが、藤野氏はそれをも承認するのか。換言して再び問うが、「多元主義」的な現実批判というのはありえないのか。Marquardは現実批判を、いわば近代がまだ十分一元化されていないとして、その一元化をさらに徹底させよと批判するものとして、そういうものとして「近代主義」であると捉えているように思われる。そして、そういう前進的な現実批判の「近代主義」と、いわば後退的な現実批判の「復古主義」との不毛な選択を超えて、近代を「埋め合せ」をもつものとして肯定するという立場を主張しているように思われる。藤野氏は、この<主張>の前提となっている<選択の不毛性>をも事実認識として承認するのか。

[306] しかしながら、そもそもRitter一派において、なぜ近代は−−「多元」な過去に対する−−「一元」として把握されるのか。例えばポストモダンな−−近代における多様性を肯定する−−「多元主義」の余地がどうして認められていないのであろうか。我々はここで、「一元性」が「非歴史性」と等置されていることに着目したい。本来、一元・多元と歴史性・非歴史性とは別個の範疇であると我々は見ている。そして、ポストモダンが肯定的に評価する近代の多様性とは、いわば「歴史性」の欠如した「多元性」であると見ている。であるからRitter一派は、近代の社会をネガティヴに悪として理解するのである。そこには(多元性はあるが)歴史性が欠けているからである。彼らは実は、歴史性の欠如こそを−−表現としては「多元性」の欠如とも語りつつ−−批判しているのである。

[307] 我々の理解では「歴史」とは、−−時間系列でその出来事が捉えられたかぎりでの−−神的なものとしての、(神学的言い方を避けるなら)全体的なものとしての世界のことである。世界を全体的なものとして把握する学が形而上学であるとすれば、形而上学的に把握された世界のことである。そして歴史主義とは、世界を−−一種「信仰」として−−そうしたものとして把握しようとするものである。近代以前においては世界は端的に「全体」であった。自然(的世界)で言うなら、自然は「聖」なる自然であった。それが近代(人の意識)においては「物」となった。(Ritterは、この「物」という悪を埋め合せるものとして「美」が成立したのであって、それは「聖」とは別の、まさしく「物化」を前提として成立する新たな現象であると説くのである。)この事態を、世界の歴史化(という全体化)によっていわば疑似神学的に克服しようとして成立してくるのが、それ自身特殊近代のイデオロギーとしての歴史主義であって、それは(もはや神の居なくなった)世界に−−自らが専ら世界を作っていることが明らかになってしまった現実において、その自ら=「人間」を疑似的に神化して一種「人間主義」として−−疑似的な神性を与えようとするものなのである*。したがってまた、世界をそのように全体化するものとして歴史主義は、過去的世界の(時間的)展開を全体化する<過去主義>だけでなく、世界の未来(へ)の展開を全体化するヴァージョンをも含むことになる。例えば歴史的進歩法則の存在を仮定するマルクス主義がそうであって、ポパーの場合はむしろこれを−−"Historizismus"として−−歴史主義の核心であるとする。

* <疑似的な神性>を与える(言説)形式が「物語」であることは言うまでもないが、近代における歴史という「物語」はさらに、いわば「人間」を主語とした物語である。

[308] ヘーゲルは、過去を−−近代のこの見方を投影して−−歴史性として把握しつつも、あくまで現在(「近代」)に即して、その歴史性が不在となった近代の非歴史性を、その非歴史性そのものをなお近代固有の歴史性と把握しようとする。このヘーゲルにとっては近代世界の総体が歴史性なのであるが、Ritter一派は、過去の世界にやはり憧れつつ、そうした過去の歴史性が近代においても精神世界において(のみ)保持されているとみなす。これはヘーゲルから見れば後退であって、歴史主義であるとするならいわば<小文字の歴史主義>であるのだが、ヘーゲル以外にも近代は<大文字の歴史主義>の諸形態を有している。すなわち、「反動主義」と「進歩主義」である。特にMarquardには、<小文字の歴史主義>としてこの<大文字の歴史主義>を批判するところが顕著である。

[309] 藤野氏はMarquardの文体は「軽い」と言っているが([2101])、あるいは彼の思想はまさに<軽さ>の思想であって、そこから<大文字の歴史主義>の<重さ>を批判しているのかもしれない。彼の論稿の一つに「負担解除(Entlastung)」というタイトルのものがある。Marquardはこの「反動主義」「進歩主義」の、近代の現実から過剰に欠陥を読み取り、その克服という「負担」を過剰に背負い込もうとする傾向を批判している。彼が言う「懐疑家」の精神は、この「負担」の「解除」の精神でもある。拙稿でも言及した村上淳一氏は、こうした精神を「人文主義」*と捉えている(前掲書,170)。

* ここから言うなら、Marquardはエラスムスに、「反動主義」は(農民戦争以降の)ルター、「急進主義」はT.ミュンツァーに擬えることもできよう。

[310] ここからMarquardはやはり現状肯定主義だと見られることにもなるのだが、<重さ>の批判は同時に−−ポジティヴに評価するなら−−実は「(現実)逃避」の批判でもありえる。<重さ>のイデオロギーは、その機能において実は現実逃避でもあるのである。しかし我々の見方では、そのイデオロギー性は−−いわば(疑似)神学性として−−歴史主義にあるのであって、そうであるから<小文字の歴史主義>も何分か現実逃避である。実際Marquardは、「精神科学は、ただもう即物的でしかなくなり、ただもう進歩の歴史の場でしかなくなってしまった世界からの亡命を支援する」([2303]参照)としてそのことを認めている。しかしまた、<大文字の歴史主義>が−−例えばSchnaedelbachのような?−−「進歩主義」として、ここを突いてRitter一派を現実逃避だとして批判するとき、批判の在り方によっては、その批判は実は自己批判をも含意してしまっているのである。そして、これがやっかいなのは、まさに機能上現実逃避であるところが逆に現実関与として(自己欺瞞的に)意識=錯覚されていることである。* 「[現実]否定の精神」の「強調」が「安直の業、無責任の精神」であるという批判([1602])は、したがって例えば歴史主義的ラディカリズムの非現実性(だけ)ではなく、その<欺瞞性>への批判としても語られるべきであろう。(これに対して、同じくラディカリズムであるアドルノは、私見では反-歴史主義であって、同じく−−美への−−現実逃避だとしても、この<欺瞞性>からは免れている。「モダニストだ」([3206])という正しいアドルノ理解は、さらに(歴史主義的「進歩主義」とは別の)もうひとつのヴァージョンとして理解さるべきであって、彼の「美的批判」を例えばハーバマス流に現実批判に繋げていく場合、それが−−Schnaedelbachのように−−歴史主義に回収されてしまわないことが肝要なのである。因みにベンヤミンもこの<もうひとつのヴァージョン>に属するものであって、彼は明確に歴史主義的進歩主義を退けている。)

* 現実批判が現実逃避であるというのは−−それはあくまで歴史主義的現実批判についてだけ言えることであるが−−理解の困難を伴うかもしれない。現実批判が急進的であって現実性に乏しいというところから、それがいわば<口先>だけに留まると言っているのではない。そうではなくて、むしろ逆に<口先>だけに留まらないときも、まさにその世界への−−疑似神学的−−構えによって、世界を現実とは別のものに仮構(し、その仮構体との一体化という或る種の和解を無意識には志向)するからである。Marquardの「負担解除」の論そのものと関連づけるなら、人間というのは通常それほど「負担」に耐えうる存在ではなく、過剰に負担を背負い込むときそこに−−歴史主義として−−(欺瞞的に)負担解除するメカニズムを伴ってしまう、と言うこともできよう。

[311] この<軽さ>・<重さ>は、政治的な意味での保守・革新とは本来重なるものでない。しかるに、<軽い>ことをもって<保守>だとする批判が多く見られる。(そして、<重い>ことをもって−−実は内容的に<過去主義>的であっても−−<革新>的だと主張されるときさえある。)藤野氏も、<軽さ>の肯定が<保守>だという(誤った)印象を与えているのかもしれない。(<小文字の歴史主義>をも放棄して)<軽さ>の極致を行くポストモダニズムが保守であるか革新であるかよくわからないのも、この両範疇が無関係であることと、にもかかわらず混同されていることに原因する。* **

* 例の「自由主義史観」派のメンバーに「元左翼」が居る−−有名な藤岡信勝氏以外にも居るそうである−−というのは、この<重さ>の思想としては「進歩主義」は「反動主義」と同質であるからでもある。
** 藤野氏が指摘される([2101])ようにニーチェが「軽やかさの標榜にもかかわらず......[である]」というのは、ニーチェにはヘーゲル的なところもあるからである。因みに、ここを強く見ればニーチェは<大文字の歴史主義者>と解釈することも可能であり、「軽さ」を強くみればポストモダニストである。

[312] 藤野氏が自分に対する「ジャブ」だと感じているのは、実は−−保守主義的言説といったものではなく−−この<軽さ>のことではなかろうか。氏の「多元主義」は、(例えばCh.Taylor的な)小数派エスニック・グループの文化の擁護を基本モティーフとする。これは、「進歩主義」の主張の一部である。氏への「ジャブ」は、この多元主義的進歩主義の<重さ>に対する<軽さ>の「ジャブ」で実はあるのではなかろうか。であるならば、多元主義そのものが守るべきものであるなら−−保守性・革新性と本来無関係であるので−−「左翼」性を保持するために「ジャブだからダウンしない」、と言う必要はないのであって、その意味では「ダウン」してしまっていいのではなかろうか。*

* 本稿は基本的にコメント(および自己訂正)であって、自己主張をするものでないが、ここで一点だけ、実質的に「保守・革新」を語りうるためには、<重さ>のヴェールをまず引き剥がしておく必要があるということだけは言っておきたい。

version 1.00
1998/02/12


   


編集後記

 安彦第一論文は、いわれるところの「「歴史主体」論争」について内在的-批判的にコメントを加えたものである。(なおこれは、pre-versionとして昨年11月に公開したものとまったく同じである。)藤野論文は、昨年末の現代倫理学研究会で口答報告されたものをテキスト化して投稿して頂いたものである。旧・西ドイツで展開・批判されている「埋め合せ理論」を日本においておそらく最初に本格的に紹介されたものであろう。その意味で、資料的価値も高いものである。「埋め合せ理論」については安彦としてもかつて簡単に言及していて、かつその後再論の必要を感じていたが、安彦第二論文は、藤野論文へのコメントというかたちで、この機会に纏めたものである。(安彦記)

1998/02/12


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1998/02/12作成